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秋のサンティアゴ巡礼街道(27)中世の佇まいモリーナセカエル・アセボ(標高1150m)からの山道を下りきったところにある町落ち着いた静かな町モリーナセカ(中世さながらの町・モリーナセカを望む。中央にあるサン・ニコラス教会は11世紀に立てられたロマネスク様式の建物の上にネオクラシック様式で17世紀に建てかえられた教会)町の中央には、11世紀には巡礼者の救護所(Hospital)となっていたサン・ニコラス教会が千余年の風雪に耐えて今も人々の暮らしのなかに息づいている。( 町を流れるマルエロ川にかかる中世の橋。川面に映る橋、教会の尖塔も影をおとす。川面が鏡の役割をなして、美しい景色をかもし出している。フランス人・ギュイおじさん撮影)町を流れるマルエロ川にかかる石造りの中世の橋中世そのままに今も生きている、橋は、空の青に伸びる教会を背にして風雪に耐えたその重厚さを澄んだ川面に映し出しているその町のメインストリート、石畳の続く通りに石造りの民家静まりかえっている昼下がりの町中世さながらのしっとりとして落ち着いた美しい町モリーナセカその石畳の通りのカフェにいた猫客によって来て離れない人なつこい猫そして、その同じ通りの庭でよく熟れた真っ赤なパプリカをどっさり焼いていた(真っ赤なパプリカをガスコンロで焼くおばさん。素材がよく熟し新鮮だからこそ、ダイナミックに焼くだけで美味しいパプリカ。)スペインの夏の太陽をいっぱい浴びてよく熟れたパプリカ肉厚でほんのり甘いパプリカ中世さながらの絵のようなこの町にゆったりと流れる時間がありそこに生きる庶民の息づかいがある静かで美しいこの町モリナーセカ(パプリカ: ナス科トウガラシ属の果実。学名:Capsicum annuum ,英名:Bell pepper果実は赤、黄、緑、オレンジなど色々な色がある。辛みのないものを'sweet pepper'植物学的には、この種は果実(fruits)に属するが、一般的に、料理上では野菜とみなされている。太陽をいっぱい浴びて、よく熟した状態で収穫したパプリカはとても甘味がある。トウガラシ(Capsicum annuum) のタネは、1493年コロンブスによって、新大陸からスペインにもたらされた。最初は、観賞用として、貴族の庭で栽培されていたが、16世紀中葉には、ヨーロッパ全域に広まり、辛味食品として重要な食品となっていった。果実は品種によって異なるが、若いうちは緑、熟すにつれて黄色から赤色又は紫黒色になる、果肉も種子も辛いのが基本的特徴であるが、辛味のない変種もある。辛さによって、辛いトウガラシと甘いトウガラシの大別される。甘いトウガラシの代表がピーマンやシシトウパプリカなどである。
2008.09.12
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秋のサンティアゴ巡礼街道(26)朝、8時半素晴らしい朝焼け標高1150mのエル・アセボからポンフェラーダまで16kmこの日の行程は、標高差600mをひたすら下る道ローマ道(Via publicae)ローマ帝政時代の戦車の轍(わだち)跡が今も残る険しい急斜面の山道をひたすら下りるこの山道のでこぼこした跡はその昔、ローマ軍が戦車で通過した跡だとスペイン人の巡礼者から教わったローマ帝国が地中海沿岸から小アジア地域までその覇権を確立して隆盛をきわめた時代「すべての道はローマに通じる」という言葉通りに、征服と支配がすすむにつれてローマ帝国は全帝国に国道網を張り巡らしたローマ道その時々の軍事目的に奉仕するために建設されたにちがいない道そして、やがては巡礼街道として人々が行き交う道として繁盛した道そして、2千年後の今も続いている道(旅の道ずれフランス人のギュイおじさんが撮影したローマ道) こんな奥深い山に、どうやって道を建設したのか、ローマ帝国の権力の巨大さ、財の大きさや技術の高さその壮大さ時の悠久さには心打たれる大きな石ころがごろごろ転がり、沢歩き同然の道足元を見ながら一歩一歩と下りるふと、見上げると青いイガを鈴なりにつけた大きなクリの木ヨーロッパグリ(英名:Sweet Chestnut / 学名:Castanea sativa)(クリ: ブナ科クリ属の木の総称。落葉高木、20~35m。北半球の温暖、湿潤な地域に広く分布。12種あり、日本、朝鮮半島、中国、西アジアからヨーロッパの地中海沿岸およびアフリカ、アメリカの東部から中部に分布。ニホングリは渋皮が離れにくいが、ヨーロッパグリやチュウゴクグリは渋皮は離れやすい)クリの木もローマ帝国の時代にはもうそこにあった。人々の暮らしのなかで食用となり薬用に利用され人の暮らしを豊かにしていたクリの栽培の歴史は古く中国では紀元前5千年の遺跡にクリの果実が発掘されており、3千年前には陝西(せんせい)でもう栽培されていたという。日本でもその歴史は古く「古事記」にその記録がある。クリの実は食用とされただけではなく、神の木として、村祭り、祝事、正月料理などその地域の行事などと結びつき人々の暮らしの中に深く根をはって、2千年の長きを生きて今にある。クリの木は長寿。樹齢500~1500年ぐらいになるものもあるという。樹齢何百年?、見事なクリの木の下で、ミセス・ダンホセと道ずれの巡礼者フランス人のギュイおじさんとのツウーショット。多分、お二人の合計年齢よりも長生きしてきたクリの大木。ヨーロッパグリも栽培の歴史は古く数千年の歴史がある。古代ローマの初期から、栽培されてきた実は食用として、ジャムやプディグやケーキのなかにあるいは、パンをつくる小麦粉の代用に、あるいは、シリアルの代用にあるいは、コーヒーの代用にさえなった。家畜の餌としても使われた葉やイガは煎じて咳止めの薬となり、木からはタンニンをとり、硬い材は、家や船や家具などを作った。鉄道の枕木となった。ガリシア地方の湿潤な気候はクリの木の生育にぴったり、至るとことに大きなクリの木が茂り、巡礼街道は落下したクリの実でいっぱい。 ガリシア地方は酪農の盛んな農村地域でもあり、ドングリの餌で飼育された豚はセルド・デ・ベジョータ(Cerdo de bellota)というブランドとなっている。 スベインの代名詞のような強い陽射しと赤茶けた大地秋の巡礼街道も、いままでずっと見渡す限りの枯れた赤茶けた大地の平原が続いていたがイラゴ峠を越えた辺りから緑の木々や草の多い景色に変化し始めたスペインでは珍しい温暖で湿潤な気候風土のガリシア地方日本人が慣れ親しんでいる見慣れた緑の茂る景色大きなクリの木がたわわに実をつける農家の庭(クリの食用部は子葉の肥大したもの。ニホングリの成分分析によれば、100g中蛋白質2.7g 脂質0.3g 炭水化物35.5g カロチン47μg ビタミンA;26IUビタミンB1,B2,Cなどのほか鉄、リン、カルシュウムが少量含まれる。甘グリなどは、糖質を含む炭水化物が53グラムに達する。日本では、クリご飯、クリ赤飯、栗きんとん、栗羊羹、栗鹿の子、甘露煮など、懐かしい馴染みふかい料理として、栗は欠かせない。)サリアからポルトマリンの沿道で見かけた鈴なりに実をつけたクリの大木が茂る農家の風景人間の歴史よりも、もっと長い歴史を地球上に刻んできたクリの木、その植物の歴史のいのちの悠久さ秋の巡礼街道はそのいのちを受け止めて次へとバトンタッチする実りの秋の中にある
2008.09.10
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庭園型住宅の原型・グエル公園今回はバルセローナにあるガウディの作品の紹介である当時の人々もその斬新さに驚き物議をかもした集合住宅施主の私邸&高級アパートのカサ・ミラ(ガウディ後期の作品、彼が手がけた最後の私邸。すべて曲面の外壁は、波打つ地中海のよう。同じ窓は一つもなく、位相のずれは、生き物のようなダイナミックさ。各住宅もすべて不規則で同一のものはない。)現在も人が住み生活しているアパート。その集合住宅の屋上はローマ兵を模した煙突群や換気口がある(以前テレビの世界遺産の番組で、カサ・ミラの住人はインタビューに答えて、「この煙突群は、風が吹くととても心地よい音がする」と言っていた。内部も曲線を基調とした住宅であるが、人の生活しやすさ、快適さが貫かれているという)ガウディの建築物の不思議、今も人々の心に深く訴えかけているものその奇抜さ、その装飾性にもかかわらず周囲の景色に溶け込んでいる柔軟性その力強いエネルギーと美しさは何処から来るのか。ガウディが活躍した19世紀末から20世紀初めのカタルーニャは、産業革命による隆盛期。繊維産業が栄えて、財をなした新興のブルジョワジーが競ってその富みに見合った新しい生活スタイルを求めていた。その富が集中し、活気溢れた都市がカタルーニャ地方の首都であるバルセローナ(産業革命で財をなした新興ブルジョワジーたちが競って、目立った建物を建てた新市街地区の通り。モデルニスモの個性を競うアマッリエ邸(写真左)とガウディ作・パトリョ邸(写真右)このパトリョ邸は、建物全体が海の怪物・ドラゴンそのものになっている。上に紹介したカサ・ミラと同じ通り(グラシア通り)にカサ・バトリョはある。建築家ガウディの才能を認めてガウディの多くの建築物の施工主となったエウセビオ・グエルはそのような新興の富裕な若き実業家の一人である。ガウディがそのグエルの依頼を受けて建てたグエル邸グエル邸正面入り口のドラゴンすごい迫力で鎮座しているこれが個人の邸宅なのである グエル邸屋上グエル邸屋上の煙突はまるでおとぎの国のキノコが林立しているようこのような煙突や換気口はカサ・パトリョやカサ・ミラの住宅ではさらに大胆に、迫力ある造形へと発展しているこの実業家グエルが自分の繊維工場の労働者たちのために、快適なコロニー建設をめざして、市場、教会、60棟からなる住宅や公園を計画した。赤茶けた荒地を、快適に過ごせる田園都市にするプランをガウディに依頼した。しかし、折りしも時は、アメリカが自国内の建国を終え、海外に帝国主義的覇権を求め始めた頃米西戦争でスペインはアメリカに敗北、アジアでの覇権を失いスペイン国内の繊維産業は大打撃を受けて国内は大不況に陥った。この田園都市構想は、グエル公園と住宅2棟が完成しただけで頓挫した。未完に終わり、グエル公園だけが今残されているグエル公園の正面にはギリシャ神話にも登場する海の怪物がカタルーニャの紋章から首を突き出している。(破砕タイルの柔らかな曲面と複雑な色彩は、ガウディの作品の特徴の一つである。)その海の怪物の後ろに鎮座するカラフルなドラゴン(ドラゴンの後ろに見えるコリント様式の円柱廊の空間は市場になるはずであった。その上はバルセローナの街を一望できる広場となっている)すごい迫力眺める人の心に何かを深く強く迫ってくるパワー。とても装飾的に見えて、その装飾性を厳しく排して私たちの心に訴えかけるものがあるこれに似たドラゴンは、サンティアゴ巡礼街道のレオンにあるカサ・デ・ボチネスの入り口にもあった。この当時、カタルーニャ地方を圧巻したモデルニスモ(注1)という美術運動は、カタルーニャ民族主義、ナショナリズムと強く結びついていた。カタルーニャは、バルセローナ伯国として、ローマ帝国崩壊後から大航海時代まで、地中海東部の覇権を握ったという歴史があった。当時、産業革命をいち早く終え、成功した経済力を背景にマドリードを中心としたカスティーリャ地方への対抗心から、いわゆる文化の独自性を取り戻そうと、ルネッサンスにも似た文藝復興運動が起きていた。(スペインから独立国家となっていてもいいほどに思っていた、カタルーニャ)その象徴的存在となったのがガウディである。生涯、カタルーニャ語で通したガウディ、生粋のカタルーニャ魂を生きた人ガウディ。そのように考えていくと、ガウディの作品に多用されているトカゲやドラゴンの造形物は、カタルーニャ地方の民話に出てくる「サン・ジョルデのドラゴン退治」(注2)のドラゴンでもあるといえる。カタルーニャ人としてのアイデンティティを満たすためにも、必要不可欠のシンボルであったはず。単なる装飾としてではなく、カタルーニャ地方の人々の暮らしのなかに深く根ざしたドラゴン、こころを通わせ団結するに必要なシンボル。円柱廊の上部にある広場(柱廊の上の広場は、波状のベンチがあり、破砕タイルの幾何学的文様が美しい)破砕タイルのシンプルでモダンな幾何学文様ベンチの座りごこちの良さなどこの広場からは、バルセローナの街も一望できる地中海もはるか彼方に見渡せる。石を積み上げて作られた散歩道ガウディは工事を進めるとき、細部を描かず、工事を進めながら決定していく。グエル公園の場合も自然を活かすやり方で工事は進められた。建築資材は、極力、土地から掘り出されたものを使う。掘り出された石があればそれを、木々があれば、道や構造物がそれをよけて工事を進める階段を予定していた場所にあった木を職人が切り倒そうとしたとき、「この木がここで生長した歳月と、我々が階段を変更するのに要する時間とどちらが長いであろう。」と言って、階段の位置の変更を指示したという。このようにガウディによって、命を与えられた石や岩の散歩道この公園は、60棟の分譲住宅と一体となって街をつくるはずであった。公共の庭園と個人の住宅が一体となって、人々が憩い生活する街職人の技が隅々に息づく街丁寧な手作りの街グエルとガウディが理想としたこの街は建設半ばで挫折したけれど、こんな街こそこれからの社会が実現すべき人の住む街緑豊かな森のなかにこの街が実現していたらきっと、それは、おとぎの国のようなやさしい街奇抜さや装飾とみえる細部は森の木々のなかではごく自然に溶け込んでしまうのではないか。ガウディはゲーテの次のような一節、《生命体の曲線は、最も合理的で美しく、自然界には直線は存在しない。自然界の色彩こそにいのちがある》を、生涯愛して、その思想を彼の作品に結晶させた。又、ガウディは、《形がより完璧であれば、装飾はいらない。彫像による演出は必然的なディーテールの為の浮き彫りであって、装飾ではない》とも、言っている。ガウディはそのモデルを自然のなかに求めその美しさを徹底的に自分の建造物のなかに具現しようとした。そして、ガウディの理想は、100年余りを経た今も建設途上にある聖家族聖堂に受け継がれて、脈打っている(今も建設中のサグラダ・ファミリア)サグラダ・ファミリアの建設のなかで、脈々と受け継がれているその理想の高さ、壮大さなんという悠久(注1):モデルニスモベルギーで19世紀後半に始まった「アール・ヌーボー」は、自然界にモチーフを取り、曲線を多用する美術様式である。この美術運動は、スペインでは、カタルーニャ民族主義と強く結びき、一種、政治的な文明復興の様相を呈した。様式的には、イスラムやゴシック様式をとりこみながら、モデルニスモという独自の様式を創造した。その運動の中心となったのは、バルセローナ。(注2):サン・ジョルディのドラゴン退治 カタルーニャの神話のなかに出てくるお話。4世紀の頃、聖人ジョルディは、パレスチナのリダでお姫さまを助けるためのドラゴンを退治し、303年にニコメディアで殉死とされている。1667年には、カタルーニャ地方の祭日と認められた。現在では、4月2日がその祭日とされ、毎年、女性は男性に本を、男性は女性にバラをプレゼントする習慣となっている。
2008.05.27
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秋の巡礼街道(23)ヒースの群生で薄紫色に染まる巡礼道イラゴ峠超え標高1200mのラバナールの巡礼宿から難所のひとつ標高1505mのイラゴ峠を超えてその日の宿・エル・アセボ村(標高1150m)までの1日絶好の快晴秋の抜けるように何処までも青い天空に真っ直ぐに天に伸びる十字架(中世以来巡礼者たちが小石を積み上げてきた石塚に、天辺に小さな鉄の十字架を掲げた木柱を立てだけの簡素なモニュメント)イラゴ山頂に聳える「鉄の十字架」難渋し、喘ぎ、寂しい山道を登りきったところで、巡礼者たちが出会う「鉄の十字架」中世以来そこに立ち続けてさまざまな人生を見続けて立つ鉄の十字架その盛りあがった石塚は千年あまりの風雪に耐え、今もそこに在る。そして、小さな礼拝堂が中世の時が止まったかのように静かに立っていた祈りだけが静かに閉じ込められているような鄙びた礼拝堂そして、その辺り一帯に朝露にぬれて、陽光に輝いて咲き満つメレンデラの群生。初秋の冷たい朝の冷気にその薄紫色をいっそう深い色にして咲き満つメレンデラ・モンタナ難渋し、登りつめたところ出現した光景その開放感、その明るさ。巡礼者たちの挫けそうなこころに明日へと歩む力をみなぎらせたにちがいないメレンデラの群生何千年もの時空を季節めぐり来るたびに咲き続けて、生きてきたメレンデラ・モンタナ「鉄の十字架」の立つイラゴ峠一帯は、今は、スペインでも最も貧しい農村地帯といわれ、人けのない過疎の村や廃村をしばしば見かける。かっての豊かな自然と人々の暮らしは今はない。中世のまま、時を止めてしまい、朽ち果てそうな世界。そんな巡礼街道にコスモスが初秋の風にやさしく揺れる。峠越えの日に泊まったエル・アセボ村の教会ガリシア地方の名産・黒い天然スレート石で葺かれた屋根魚鱗のような模様のスレート瓦ガリシア地方独特の景観を作っている。信仰が村の暮らしのなかに溶け込み息づいているような村の教会かっての日本の村のお社(やしろ)のように自然景観のひとつなっている懐かしい景色そのイラゴ峠一帯で秋の荒れ野に彩り添えるヒースの群生が今、盛りと咲き満つ(Calluna Vulgaris:カルーナ。英語ではHeather・ヘザーともいう。つつじ科の常緑の低木。痩せた酸性度の強い土壌に育つ。カルーナはエリカともにヒースの植物群落を作るひとつである)荒涼とした、秋の巡礼の道を薄紫色に染めるカルーナの群生枯れ草のなかに群れ咲くカルーナの花々その薄紫色のカルーナの群落に混ざって咲いた黄色の花矮生エニシダ(Dwarf Furze)(Dwarf Furze:学名 Ulex gallii/ マメ科のハリエニシダ属の常緑低木。夏の終わりから秋にかけて、ヒースの群落と共生して、花を咲かせる。地中海沿岸や、イギリスでは秋にこの薄紫と黄色の鮮やかなコントラストの花をさかせた丘が美しい景観をつくる。)春の巡礼街道では、より高木のエニシダ(Ulex europaeus)が、沿道の山一帯をまっ黄色に鮮やかに染めていた。これらのエニシダ群落は、カリーナやエリカなどのヒース群落と共生して、相補いあって、巡礼街道の美しい自然景観を作っている。(矮生エニシダとヒースの群落)矮生のエニシダの黄色とカルーナの薄紫色が見事なコントラストとなって、秋の荒れ野の巡礼街道に見事な景観をつくるヒースの群生目的地のサンテアゴに着くまでこれらのヒースの花々は、沿道を彩り巡礼者の心を慰める道ずれとなった。次回(24)では、「ヒースの群生が人間に教えるているもの」。「人間と植物」について、今まで調べてきたことをもとに、環境問題について書く予定です。
2008.02.15
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秋のサンティアゴ巡礼街道(24)イラゴ峠越え(2)ヒース(Heath)とは何か 薄紫色カルーナ(Calluna)と黄色のハリエニシダ(Ulex gallii)のコントラストが素晴らしい。 前回(23)で、秋の枯れ野の巡礼街道を淡いピンクに染めたヒース植物群落を紹介した。これらのヒースは、あのビーターラビットの活躍するスコットランドの湖水地方の風景やドイツをはじめとして、中央ヨーロッパの田園風景を薄紫に染める美しい景色として皆が賛嘆し、憧れる植物群であり、この田園風景は、イギリス庭園の原型ともなっている。 では、一体、そのヒースって、なにもの? そんな疑問に駆られた私は、この疑問を何とか解いて、すっきりしたいという願望から、あれこれ、調べるうちに、興味ある事実に多々出くわした。(調べるうちに迷路に入り込み出られないで、いつまでもこだわる私の悪癖がまたぞろ顔をだしただけだが)そして、この美しい景観に隠された植物の歴史は、現代の地球が直面している深刻な地球環境の破壊、温暖化と重大な関係があることが分かってきた。それをまとめたものが、以下の記事である。 英語でヒース(Heath)は、古スコットランド語・Haeddreに語源を持っている。フランス語では、Bruyereで、ゴール語・buruco。ドイツ語はハイデ(Heide)である。日本語では、この語を「荒れ野」と訳している。 この語の意味は、痩せた酸性度の土壌に生育する亜低木、亜潅木のこと。又その土地。と辞書にはある。 これらの低潅木が、上の写真にみるような、薄紫色の美しい花を丘陵地一面に咲かせ、人々の暮らしにある時は、安らぎ与え、又、ある時には、家畜の大切な餌となり、その地域に棲む、昆虫の蜜源となり、爬虫類や鳥類などの食物連鎖と棲家の生きる基盤の核となっている。ヒース群落は、そこに棲む多種多様な生物社会の食物連鎖や棲家として、生きる基盤を数百年の歳月の中で、厳しい自然と闘いながら、そこに根付き作り上げてきた。もちろん、人間もその生物社会のひとつとして、暮らしを成立させてきた。 そのヒース群落を作り上げている低木植物は、ツツジ科(Ericaceae)のカルーナ(Calluna vulgaris)とエリカ(Erica)属の植物群である。これらを私たちは、ひっくるめてヒースと呼んでいる。 カルーナ(Calluna vulgaris)ツツジ科(Ericaceae)、カルーナ属(Calluna)に属しているのはCalluna vulgarisのみ。カルーナ(Calluna)は、ギリシャ語:Kalluneに由来。この語は(to clean or brush)を意味し、小枝で箒が作られたことに因るという。(いかにも、よく掃くこと出来る箒が作れそうな枝ぶり、姿をしている)英語では、Heather(ヘザー)、あるいはLing(リング):Lingリングは古スカンディナヴィア語「lig」に由来し、fire(火)を意味する。燃料(fuel)として使われていたことから来ているという。英語のヘザー(heather)を使用した語は、次のようなものがあり、イギリスでは産業革命期の毛織物産業の隆盛は、大規模なヒツジの放牧場の牧草として、ヒース植物の広大な丘が存在したからこそ、あったと言えるのではないかと思った。世界の海を制覇して、隆盛を誇った、産業革命期のイギリスは、このヒースの丘があったからこそともいえる、現代に残る英語からもそれを知ることが出来る。heather ale (ヒースの花で香りをつけたスコットランドの醸造ビール)heather honey (ヒースの花から採ったハチミツ)heather mixture (混ぜ色織り又はその服)heather tweed (混色のツイード・スコッチ織り)bell heather (ヒースの仲間・エリカ・シネレア)語源や単語から見ただけでも、このカルーナという植物が、人々とともに共存してきた長い歴史があるのがよくわかる。巡礼街道を紫色に染めていた「カルーナ」をアップするとこんな感じ。また、カルーナ(Calluna vulgaris)の日本語名は「ギョリュウモドキ」(御楊もどき)。「御楊」とは、こんな植物。photo:(季節の花300)より借用。江東区 仙台堀川公園で撮影「ギョリュウ」又の名「タマリクス」は、(学名:Tamarix Chinensis この学名は、ピレネー地方にある川、Tamarixの流域に多くは自生する植物と同属の中国で自生している樹木ということを意味している。かなりの高木。花期は5月上旬ピンクの花をつける。漢の武帝の宮殿にも栽培されていたという。日本には18世紀半ばに渡来。)「ギョリュウモドキ」とは、よく考え抜かれた日本語訳ですね。巡礼街道の花々を調べる時に、その名前を日本語にどう訳すか困難に感じている私としては、この和名には感心する。と言っても、現代の日本人に「ギョリュウモドキ」と言っても「・・??」ですよね。現代の私たちには、この和名から、「ヒース」を連想することは難しい。ヒースの群生する荒れ野で、同伴して、生育しているEricaceae(ツツジ科)に属するもう一つのヒースは「エリカ」エリカ(Erica)属(サンテイアゴ空港近く、海抜300mの低地に、カルーナの群生に入り混じって咲いていたエリカ。カルーナとは花の付きかた、葉の形が異なるのがわかる)ツツジ科エリカ属には、700余の種類があり、その90%は、南アフリカに原生する。その他の70種が地中海沿岸地方のヨーロッパやアフリカに自生している。ヨーロッパ大陸には40種あまりある。Erica tetralix(左)とErica cinerea(右)、(花のつき方など、同じエリカ属でも種類によって異なるのが分かる)イギリス、フランス、などでは、この2種類のエリカが、生育環境に応じて、カルーナと共存して、繁茂するこが多い。さらに、前回の秋の巡礼街道(23)では、イラゴ峠を越えた辺りから、低木のエニシダが、これらのヒース群落と共演して、黄色と淡い紫色が美しいコントラストとなって、巡礼街道の秋景色に彩りを添えているのを紹介した。そのエニシダの仲間の矮生エニシダ(Ulex gallii)学名:Ulex galii マメ科のハリエニシダ属(Ulex)。常緑低木。背丈は90cmぐらいまでで、さらに背丈の低いものもしばしば見かける。夏の終わりから秋にかけて、黄色の花を咲かせる。南スコットランド、イングランド、ウエールズ、アイルランド、フランス、スペインの北西域に自生。ヒースと同じ土壌・環境に生育する。英語名:Irish Gorse(アイルランドエニシダ)(巡礼街道の黄色の矮生エニシダとヒースの共生)ハリエニシダ科のこの植物は、カルーナやエリカと同様に、火入れ(野焼き)後、簡単に根から再生し、芽を出す。羊やヤギを放牧し、良質の牧草としての役目を、エニシダもヒースとともに担ってきた。又、エニシダは、マメ科植物特有の窒素固定菌の「根瘤バクテリア」をその根に有しており、植物の生育に欠かせない窒素を土壌に与える役目をし、他の植物の成長の養分となり、痩せた土壌の肥やしの役割もある。 痩せた土壌で、酸性度の高いものから低いものまで、湿ったものから乾いたものまで、多様な土壌に適応し、羊やヤギや牛などに何度食べられても、ダメージを受けることなく芽を繰り返して出し、生育する強靭な「ヒース植物群」。管理も「火入れ」、即ち、焼くことで、次の芽を出すという簡単さ。 このようなヒース生い茂る草原は、ではどうやって出来たのか。 かっては、ヨーロッパ大陸は、ほとんどが広葉樹林で覆われていた。しかし、人類文化の発展は、山野の大森林を焼き払って、農耕地として、ヤギ、ヒツジなどの家畜を大量に林内に放牧して、森林を破壊し、原始の大森林を荒涼たる草原にすることで発展してきた。(草や低木が壊滅すると、その上の高木の森も壊滅) ミズナラやシラカバに覆われた豊かな森は、4000年に及ぶ過放牧や岩塩採掘、森林の伐採などで土地がやせ、「エリカ」などの矮生低木やイネ科の植物が繁茂するようになったのだという。 ヨーロッパの国々は、文明の発展が森林を破壊し、人間に深刻な影響を与えていることに気付き、もう100年もまえから、自然保護を国家規模でおこなっている。ヒース茂るイギリスのスコットランドの丘やドイツのリューネブルハイデなど、100年前から自然保護区として、これ以上自然を破壊しないで森を再生させようとしてきた。 とりわけ地中海沿岸地方のフランス、イタリア、スペイン、北アフリカ地域は、植物の活動期に少雨のため、一度失われた森を再生することが困難で、裸にされた土地は、今もそのままである。(この地域に長く君臨したローマ帝国は、この帝国が滅亡した時には、地中海沿岸地域の豊かな森はすべて破壊しつくされていたという。) このように見るとヒースの草原は、人類文明が森を破壊した跡地に必死に適応し、繁茂して、生き延びている植物群落であるといえる。人類が4000千年かかって、破壊してきた森を、現代は、この100年ぐらいの間に、さらに世界的規模で、一気に破壊して壊滅しようとしている。 森を破壊しつくした時、古代文明は滅んだ。 ヒースの群落は、現代の私たちに、生物社会の連鎖のなかで、命を繋いでいくことは、どうあらねばならないかを警告している。
2008.02.12
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秋のサンティアゴ巡礼街道(22) 「イラゴ峠超え」前に 世界の人々と心一つに歌う楽しみ ブルゴスから出発した今回の巡礼の旅延々と続いた平坦な道枯野のカステーリャ大平原を横断する道(アストルガの巡礼宿;数百年の町の歴史とともに、旅人の生きざま見続けてきたアルベルゲ。町の景色のなかにしっくりと溶け込んで、今日も巡礼者の一夜の宿となる。この町で平坦な倦みやすい道ともお別れ。)アストルガから平坦な道とはお別れ標高1500mのイラゴ峠への険しい上り道となる辺りの植物相もがらりと変貌しヒースやエニシダの群生する険しい坂道(アストルガから10km登った所・サンタ・カタリーナ村:喘ぎながら登った険しい坂道。植物相も変わり、ヒースやエニシダの群生となる。)ヒースの群生(ヒースの群生: 淡い紫色のヒースの花が辺り一面に咲き、何処までも続く険しい坂道で難行苦行の巡礼者の心を慰める。)《巡礼宿の楽しみ》海抜1200mのラバナールが今日の巡礼宿ラバナールに近づくほどに坂道は険しい。最後の力を振り絞り遂に到着イギリスの宗教団体が運営する巡礼宿。この宿の庭の片隅には、数本のリンゴの木が実をたわわにつけていた。そして、その実はこんなにも地面に散乱して落下していた。日本のリンゴに比べ小さな実巡礼の旅人にとって、洗濯は大切な日課のひとつ、この巡礼宿の洗濯干し場はこのように洗濯物が満艦飾のごとくにはためく。 その洗濯干し場の前庭にはこんな淡い紫色の花が可憐に咲いていた花の盛りは過ぎてはいるがアップするとこんな花(名前は只今調べ中)このアルベルゲにはギターが置いてあり、思いがけずも「各国のど自慢大会」となり楽しい一夜となった。アイルランドの青年がギターでアイルランド民謡を歌っていた。その歌声に惹かれて、宿泊者が三々五々と集まって来た。イギリス、オーストラリア、ドイツ、フランス、デンマーク、フィンランド、スペイン、ブラジル、南アフリカ、、、こんなにも色々な国々の人々が食後のワインを楽しみながら、次々、お国自慢の歌を披露した。わが日本のDanjoseも、ギターを抱えて、「荒城の月」を朗々と歌いあげました。その歌声は、言葉の壁を飛び越えてさまざまな国の巡礼者の心に染み入り、一同、しんみりと聞き入りました。更に、Danjoseは、スペイン語でラ・パロマ(La Paloma)英語でダニー・ボーイ(Danny Boy)を披露し、皆から拍手喝采を受けました。疲れ、最後の力を振り絞って、たどり着いた宿で、このように賑やかに楽しい一夜に出会うことができるのはこの旅の醍醐味でもある。生活習慣も言葉もさまざまな人々が、一堂に会して、心通わせ、心一つにして楽しむこと出来る歌の力、音楽の力、それを媒介するギターという楽器の力素晴らしいこれも巡礼街道ならではの楽しみである。《ギターは我が人生の友》ここで、ちょっと余談。サンティアゴ巡礼街道を2回も挑戦し、踏破したDanjose の素顔をのぞいてみましょう。Danjoseは、ギターで弾き語り、歌うことを得意とし、ボランティアで、老人ホームを訪問して、童謡や唱歌を一緒に歌う活動をしています。歌の持つエネルギーが人々の心を解放し、生きる力を与えてくれることは誰もが一度は経験済みのこと。Danjoseは今日も何処かで、ギターとともに歌って、人々に生きるエネルギーを与え、自らも貰っている筈です。又、最近、アリコ・ジャパンの「ザッツ・ゴールデンタイム フォト&エッセイ」という企画に応募して、昨年に続き「銀賞」を獲得しました。とりわけ、今回は、可愛らしいお孫さんとギターを楽しんでいる「ギターは我が人生の友」という写真とエッセイが入賞しました。この保険会社企画のその他の入賞者の作品も、なかなか興味深いものあります。興味ある方はどうぞ。(Danjoseのも掲載されています)「ザッツ・ゴールデンタイム フォト&エッセイ」
2008.01.29
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秋のサンティアゴ巡礼街道(21)サンテイアゴ巡礼街道のガウディレオン王国の首都であった古都レオンは中世の歴史的建造物が現代の今も街のなかにしっとりと溶け込んで暮らしの中で息づくあるいは、長い歳月に耐え抜いて今なお心の拠り所となって威風堂々と聳える聖堂しかし、レオンの町には前衛的なモダンな建造物も古風な町並みと共存して調和しているアントニ・ガウディの初期の建造物カサ・デ・ボチネス(Casa de los Botines 1892~1894年建築:Antoni Gaudiのネオゴシック様式の初期作品)現在、この建築物は銀行の建物として使われているカサ・デ・ボチネスの入り口にある聖ホルヘによるドラゴン退治の彫刻ガウディの故郷でもあるカタルニア地方には、お姫さまを襲うドラゴンを聖ホルヘが退治するという民話があるという。この地方の人々の暮らしのなかでドラゴンは親しみのあるお話であり、守護神的なものであったのだろうか。その後のガウディの作品のなかには、ドラゴンをモーチフとする装飾が多用されているという。今は銀行となっているこのカサ・デ・ボチネスの前にはガウディさんがブロンズ像となって鎮座ましますベンチがある。買い物帰りのオバサンが談笑し、ある時には、美しいお嬢さんが憂い顔で休息するベンチガウディさんは町の人々とともに生き続けているのである。(夜の街のカサ・デ・ボチネス)レオンから48km、歩けば2日の行程のところアストルガローマ時代に建設された由緒ある町アストルガ(アストルガのカテドラル:風雪に耐え、石の色が微妙に変化して、歴史の重みがただよう聖堂)この町にもガウディの作品である司教館がある(Museo de los Caminos:撮影厳禁なので内部は撮影できなかった)この建物はアストルガ司教の宮殿として設計されたという。しかし、ネオゴシック風の奇抜なデザインに教会側が難色を示し、途中から別の建築家が引き継いで完成させたという。優美な曲線を基調とする内部はアルヌーボー風のインテリアやステンドグラスが美しい。結局、司教館として長く使われないまま現在は「サンティアゴ巡礼街道博物館」となっている。この博物館では、巡礼路に関する展示を行っている。ローマ時代の城壁とガウディの司教館が秋の黄葉のなかに溶け込んで静かに佇んでいるガウディの斬新で奇抜な建造物は明るいスペインの空気のなかではしっくりと周辺に溶け込んでしまう。そしてその年代、年代の歴史を建物のなかに吸収して今も、生き物のように呼吸して人々の暮らしの中で使われている巡礼街道の多くの建造物は中世や近代や現代を象徴しながらも、調和させて、溶け込み合って、町の美しい景観となって今に生きている
2008.01.13
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秋のサンティアゴ巡礼街道(20)レオン (その3)レオン大聖堂(La cathedrale S.Maria de Regla)(1255年ごろ、フランス人らしきアンリ親方・maitre Henriたちが、建造に着手した。この大聖堂はフランスのゴシック様式の影響を強く受けている。)天に向かって、まっすぐに伸びる尖塔巨大かつ強大な石の塊人の心に恐れや驚嘆を呼び起こすレオン大聖堂しかし、聖堂の内部の広い空間は光あふれる壊れそうに繊細なステンドグラスの聖堂正面の薔薇窓光りの海となって聖堂を天井的雰囲気の神の世界にする石積みの壁が外の光を聖堂内部に取り込むことを困難にして、薄暗いロマネスク様式の教会堂に比べ、建築技術の革新が数々の巨大な教会堂を建造した13世紀の中世ヨーロッパゴシック様式の教会堂レオン大聖堂「石の聖書」であった壁画はステンドグラスに描かれた絵と変化した。そして、何よりも「神は光りであり、命である」 聖書ヨハネ伝「すべてのものは神から出て、神に向かっている」 パウロ神の国をこの世に実現した。ステンドグラスの広い窓を可能にした建築技術革新があやしいまでに神秘的な光りのシンフォニーを可能にした。聖堂内の高いアーチ状の天井門から祭壇まで続く長い廊幾本もの円柱まさに森の中に光り戯れ、天井の神秘的な雰囲気の教会堂内陣を生み出した強大な教会権力中世を支配した人間観が教会の造りに象徴的に現れているゴシック様式の大聖堂力あるものは、その力をその富みを誇示するのにふさわしい建造物あくまで天に向かって昇りつめていく石の尖塔人の心を圧倒する巨大な建造物石の重厚な建造物内部の華麗さ豪華さは文字読めぬ民の心に「キリストの世界」を眼に見える具象として示した(石の聖書:大聖堂の正面扉口の彫刻と中央の「サンタ・マリア像。ロマネスク様式の抽象的な彫刻に比べ、一層、写実的なマリア像」)ロマネスク様式のサンイシドロ聖堂がやわらかに、やさしくレオンの街の暮らしに溶け込んでいるのに比べレオン大聖堂はレオンの街の夜空にくっきりと、深々と溶け込んでレオンの人々の暮らしを威厳に満ちて見下ろしている。レオンの都市が中世の世界さながらの姿で現代の巡礼者の心にも深い畏敬の念を呼び覚ます。過去の歴史記念建造物が現代に生きるとはどうあることか示唆に富んだレオン都市。《巡礼一口メモ》ゴシック美術(建築)中世ヨーロッパ美術史の様式のひとつ。12世紀後半から16世紀初頭までのロマネスクに次ぐ様式。ゴシック様式が花ひらくのは、聖堂建築においてである。ロマネスク様式の教会堂の石積みによる建築様式では、堂内に光りを入れる窓をつくることが困難で、暗く、更に、しだいに高さを増していく石造穹リユウの構築方の解決の為の建築の技術革新が必用であった。そのための数々の技術革新が、巨大で天に伸びていく高い塔をもった聖堂建築を確立した。高い窓を取り付けも可能になり、ステンドグラスの美術が発展した。フランス北部に発生したゴシック様式は、隣接諸国に伝播し、それぞれ、独自の要素を加味して各地域で進展した。スペインには、フランスの建築様式にもっとも強く影響を受けているゴシック様式の聖堂としては、ブルゴス大聖堂・レオン大聖堂がある。巡礼街道の隆盛期にともに建造されたものである。パリのノートル・ダム大聖堂は西正面は、1163~1250ごろ。パリシテ島。初期ゴシックの代用的な聖堂。高さ69mの鐘塔を配し、中央には直径9mの円形薔薇窓を取り付けている。
2007.11.18
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秋のサンティアゴ巡礼街道(19)レオン (その2)旧レオン王国の首都レオンは世界最古の旅行案内書、エメリ・ピコによる「サンティアゴ巡礼案内記」(le Guide du Pelerin d'Aymeri Picaud)によれば「王や宮廷人の居住地で、あらゆる至福に満ちた街」とある。この豊かな都市は、巡礼街道の都市として更に繁栄し、数々の教会堂や修道院など、今も尚、生き続けている幾多の建築物と建造した。夜のレオンの街にやわらかな光りに浮かぶ美しい塔サンイシドロ教会堂の鐘塔ロマネスク建築の一つの典型サンイシドロ教会堂の美しい鐘塔夜の街に溶け込んで千年余の風雪に耐え今も人々の暮らしのなかで静か息づいているサンイシドロ教会堂の西側の玄関口の天井には所狭しと壁画が描かれている受胎告知から始まるキリストの幼年時代から受難に至るキリストの生涯が描かれているこの壁画は、大胆でおおらかに描かれた人物達がそれぞれの役割を演じており、中世の巡礼者たちの心に敬虔な信仰心を呼び起こしていたに違いない。深い祈りの世界へといざなっていたにちがいない。サンイシドロ教会堂の南側口「許しの門」に多くの彫刻が施されている半円形壁面の小さな中に、所狭しと次のような三つのテーマが浮き彫りにされている。即ち、左端に「キリスト昇天」中央に「十字架降下」右端に「三聖女の墓詣で」である。サンイシドロ教会堂の写真が、残念ながら手元にないので、この巡礼の最終の目的地、サンテイアゴ・デ・コンポステラ大聖堂の「栄光の門」に彫られた彫刻群をご覧いただきたい。コンポステラ大聖堂の「栄光の門」の彫刻(1188年彫刻師・マテオ作の「栄光の門」。後期ロマネスク美術の傑作)「栄光のキリスト」のまわりを、アーチ状に黙示録の二十四人の長老が取り巻き、手に手にヴィオルや竪琴を奏で神の栄光を讃えている。ロマネスク時期のモザの教会堂の柱頭に彫られている彫刻(Saint-Pierre de Mozat の外陣の柱頭:魚にまたがるトビアスとライオンの顎をこじあけるサムスン)柱頭の彫刻をアップして見るとこのような図柄もある。限られた空間のなかで、素材は石であるにもかかわらず、このように伸びやかに、デフォルメされた人物や動物像。石造天井やアーチの重圧をはねかえす勢いがあり、人の心に訴えかける迫力ある彫刻。中世世界は権力や富を握る者達が、キリスト教を独占していた。聖職者や一部の富者を除いて、大部分の民衆は文盲であった。そのためにも、「キリストの教え」を説くために必要だった教会堂の絵画や彫刻。その必用性から生まれた、教会の説話的な絵や彫刻。だからこそ、見るもの心に素朴に訴えかけ、宗教心に深くいざなう創造力が躍動している。巡礼街道の隆盛はその街道に数々の大きな教会堂や修道院を造り出した。建造物を建てる石工職人の集団や絵師、彫刻師など膨大な数の職人たちが、この巡礼街道を移動しながら巡礼の心をもって、仕事をしていたと想像できる。どこまでも、足で歩いて移動していた職人集団。そして、その職人達の技能の高さもさることながら、その建造物を競って造った財力を持つ者たちの富の強大さ。まさに、レオンは「これ以上にない富の集積した至福の都市」であり、巡礼者たちが、羨望と神秘的な宗教体験にひたることのできた都会であった。巡礼の最盛期、レオンには17ヶ所の救護院があった。その一つ「サン・マルコス僧院」 中世においては、僧院兼救護院であったこのサン・マルコス僧院は現在、パラドールとなっている。パラドールとは、歴史的建造物を活用して造った国営の高級ホテルである。ロマネスク期の建造物は、このように巡礼街道のあちこちで古色おびた石づくりの姿で、その街や村の景色に溶け込んでやさしく、今も巡礼者を迎えている。(やさしく市民の生活に溶け込むサンイシドロ聖堂:その聖堂前の広場に中世祭りの時、出店が所狭しと並ぶ。写真はカーテン屋さん)〈巡礼街道一口メモ〉ロマネスク美術ヨーロッパ中世の美術様式の一つ。950年ごろから1200年ごろまでのゴシック様式に先行する美術様式。11~12世紀のヨーロッパ各地に、同時多発的に生まれた美術様式で、現在では、西欧美術における創造力豊かな領域のひとつと見られている。又、サンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼街道沿いの多くの教会や修道院に見られる建築や美術の様式を「ロマネスク」と呼び、この巡礼道を「ロマネスク街道」とも言っている。ロマネスクの建築・とりわけ「教会堂」について、写真や動画を駆使して、ロマネスク様式の建築の用語解説・教会堂の図面・動画による教会堂構造の立体化など、素人にも分かりやすいサイトを見つけましたので紹介しておきます。西洋建築史を学んでおられる辻本啓子氏の「ロマネスク建築案内」です。
2007.11.11
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秋のサンティアゴ巡礼街道(18)レオン(Leon) その(1)旅の楽しみのひとつにその土地のお祭りに、思いがけず出会うこと。2003年春の巡礼街道を歩いた時には、ブルゴスでそして、2回目2006年の秋の巡礼街道ではレオンで出合ったお祭り中世祭り(レオンの中世祭り・中世のたたずまいの街は露天商でにぎわう)中世にはレオン王国の首都として繁栄した都市レオン巡礼街道の隆盛をきわめた11世紀~12世紀には巡礼者たちの束の間休息と祈りの場所としてにぎわっていた都市レオンそして、今も巡礼街道沿いにある大都市として中世のたたずまいの中で息づいている。千年余の長き風雪に耐え人々の暮らしのなかで生き続けてきた数々の教会や救護院がお祭りの背景として溶け込んでしまっている。中世祭りは中世さながらの衣装を身にまとった売り子たちが広場や街路に店を構える(ブルゴスの中世祭りのにぎわい) 中世さながらの衣装をまとった売り子たち 出店の準備をしている人々と街並み(ブルゴスの中世まつりの出店準備中の街)中世祭りに街路や広場にひしめく露天の店はお祭りを渡りあるく旅烏たちのものそのなかにはジプシーたちもいるという。(レオンの中世まつりの出店準備中の街・背後には教会の尖塔もみえる。)(レオン・中世市場のパン屋さん:大きな釜で、ただいまパンをやき始めています)(レオン中世市場のパン屋さんのパン)旅人が携帯するに適したパンなのかな。中世の巡礼者たちは、こんなパンを頭陀袋にいれていたのかな?。まずそうだけど、よく噛めば噛むほどに味の出そうなパンなのかも。焼肉屋さん、開店前の準備にいそがしい店主たち中世の衣装の女将さんが大声で指図する声が聞こえて来そう。チーズ屋さんこんな美人の売り子さんもいましたよ。中世市場の洋服屋さん家族づれで商売しています。ほら、こんなに可愛らしい女の子もお店番。一昔前は、幼い子どもが農作業する田んぼや、店で働く家族のなかに混ざって暮らし、大きくなっていったもの。懐かしい職場風景。ハーブとティのお店やさん開店準備中のクレープ屋さん。その背景にある重厚な石づくりの建物が、ごくごく自然にこのクレープ屋さんの絵として溶け込んでいる。といった具合で、中世さながらの売り子たちが、お店を構えてレオンの街を華やいだものにしていました。そして、中世市場のこれらの露天商は古色おびた柔らかな佇まいの教会前の広場で所狭くひしめいて、賑やかに生業をしていたのであります。中世を代表するロマネスク様式の教会サン・イシドロ教会。千年の歴史をその石の壁に刻んで今日も変わることなく、優しくレオンの街の景色となっている。
2007.11.03
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秋のサンティアゴ巡礼街道(17)(この記事は巡礼街道(9)の秋咲きクロッカスとサフランの記事を訂正加筆するもの)イヌサフランに似た花メレンデラ咲く巡礼街道巡礼街道沿いの収穫の終った麦畑のなかにひっそりとたつ小さな教会(Ermita de la Virgen de Perales:ペラーレスの僧院)ペラーレスの聖母チャペル中世には巡礼者の心の拠り所としての僧院であり巡礼者の救護施設を兼ね備えた救護院でもあったエルミータ(僧院)こんな小さな僧院が巡礼街道の沿道には所々にあり、今もなお救護活動をしている僧院もある。中世の佇まいそのままの僧院の周りの原っぱにいかにも似つかわしく点々と咲くうす紫色の花朽ちかけたその廃屋のチャペルを背景に楚々と咲いていた花メレンデライヌサフランに似た花秋咲きクロッカスに似た花メレンデラ・モンタナ(Merendera montana)この花は、ピレネー中部やイベリア半島で秋に咲く、ユリ科コルチカム属の球根草暑い日照りの乾燥した夏の後に秋雨とともに咲き始める秋を告げる花草原や瓦礫の荒れた地面に花茎はほとんど伸びずに地表近くに花びらを広げるそして、この花は標高1500mのクルス・デ・フェロ峠では朝の陽光にきらめいて、高原一面に、群れて咲いていた。 巡礼者の歩き疲れた身体に息を呑む見事さで眼前に広がるメレンデラの群生。メレンデラ・モンタナはスペイン語ではQuitameriendasの名で呼ばれているという。quitarは「取り除く、奪う」、meriendaは「軽食、間食、弁当」の意味。この花は、高原の開けた原っぱで、瓦礫の山道で群生して咲き誇っている姿に旅人は、思わず息を呑み見とれるそんな美しさ、見事さを食べる事も忘れるほどなのでスペインでは、この花を「弁当泥棒」と呼んだのでは?そんな想像をかきたてるスペイン語の呼名、Quitameriendasしかし、そのスペイン語の名の由来を調べてみるとその昔、日の出とともに1日が始まり、日没と共に1日を終えていた時代にこの花は、昼の時間が短くなり始める頃に開花時期を迎えるので日没時間の早まりと共に、夕食時間も早まり「間食」(merienda)を「省いた」(quitar)ことに由来する、ことが分かった。(注1)Quitameriendasは「間食抜き」という意味が適訳。又、この花はQuitasiestas(昼寝抜き)とも呼ばれている。ともに、この呼び名は昼間の日照時間が短くなり、あっという間に暗くなる秋の夕暮れ、人々の暮らしが、お日さまとともに自然のなかに抱かれてあったことを私たちに教えている。メレンデラ・モンタナスペインの人々の暮らしのなかに深くいり込んで生き続けてきた花今日も巡礼街道に、夏の終わりから秋に楚々と輝いて咲き中世からずっとその輝きを失わずに巡礼者のこころの慰めとなっている〈注1〉スペインでは、今でも昼食(Alumuerzo)を午後2時ごろ取るので、夕食は9時以降となる。その間、お腹がすいたら「間食」(Merieda)を取る習慣がある。《花の名一口メモ》(巡礼街道のメレンデラ・モンタナは、日本でイヌサフランと呼んでいるコルチカム・オウタムナルに似た花をさかせる。これらをコルチカム属とし、その代表コルチカムオウタムナルをメモ)コルチカムユリ科コルチカム属の総称。ヨーロッパ、西アジアに60種分布する。現代では交雑により多くの園芸品種が作り出されている。よく知られているのはイヌサフラン(Colchicum autumnale)で(ロンドンの公園に咲いていたイヌサフラン)ヨーロッパ及び北アメリカ原産の球根草。薬用、又は観賞用に栽培される。花は、9~10月、葉が出る前に高さ15cmの花茎を伸ばして、サフランに似た薄紫色の花を咲かせる。葉は翌春に出て、夏に枯れる。球根にはアルカロイドの1種コルヒチンが含まれ、極めて有毒。少量を用いて、通風の薬とされている。コルヒチンは植物の染色体を倍加させる作用があり、種なしスイカなどの育種上で、重要な物質となっている。和名イヌサフラン(Colchicum autumnale)の、英語の俗称はautumn crocus(秋咲きクロッカス)とか、meadow saffron(牧場サフラン)の呼び名があり、秋に咲くアヤメ科クロッカス属のクロッカスとの誤用が多く見られる。秋に咲くアヤメ科クロッカス属のクロッカスを日本では一般にサフランと呼んでいる。イヌサフランはいわゆるサフランとは別の系統(ユリ科、コルチカム)に属するもので、花は似ているが非なるものである。和名イヌサフランは、コルチカムに含まれる強い毒性によって家畜などが食べると死ぬことがあるので、フランス語ではTue-chien(イヌごろし)と呼んでいる。この仏語から和名イヌサフランと名付けられているのではないかと思われる。巡礼街道のメレンデラ・モンタナは、花の姿、花弁のつき方、花の形など、イヌサフラン(コルチカム・オウタムナル)とは、似て非なるものである。属名のコルチカム(Colchicum)はギリシャ語に由来し、黒海東部にあった古代コルキス地方に自生していたので名付けられた。ギリシャのディオスコリデスは、コルチカムを毒キノコと同じく有毒植物に扱ったが、17世紀からは球根が、さらに19世紀からは、種子が薬用にされた。
2007.10.02
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秋のサンテイアゴ巡礼街道((16)巡礼街道の沿道の町々にはプラタナスの街路樹が多い。天に聳えて、何処までも続く巡礼街道のプラタナスの並木は 夏は巡礼者に心地よい木陰となり汗でまみれた疲労した肉体には涼しい風を与えてくれる。巡礼者がほっと一息つき、次へと急ぐエネルギーを与えてくれるプラタナスの並木そのプラタナスは秋にはこんな姿になっていた。(丸坊主に刈り込まれたばかりのプラタナス。後ろには園丁業者の車が見える)ある日の宿泊地、サアグーンの町の広場9月とはいえ、まだ強い陽射しの人っ子ひとりいない町の広場に丸坊主にされて、裸の枝を四方に伸ばしたプラタナスの枝9月の陽光に白銀に輝くプラタナスの枝枝ただ裸木となって佇むばかりしかし、夏には、この強く剪定されたプラタナスは四方八方に広く伸ばした枝枝に 明るい緑色の葉っぱを茂らせて濃い大きな木陰となって巡礼者の休息の場となる。強く剪定されたプラタナスの夏の樹形(初夏の教会前の広場:プラタナスの枝が横に広がり木陰に人々は憩う。)ログローニョ近くのナバレテ教会前の広場・2003年に撮影9月の巡礼街道の沿道の町のプラタナス カリオン・デ・コンデスの小さな市庁舎広場この広場にも、低く、丸く、刈り込まれたプラタナスの街路樹が明るい9月の陽射しを受けて静かに紅葉の季節を待っている。巡礼街道の若いプラタナス の並木(これは、まだ若いプラタナスの木であるが、沿道の町の街路樹や公園樹の強い剪定のプラタナスとは異なり、自然な樹形をつくり大きな木に育っていくはず)巡礼街道のこの若いプラタナス並木は、ぐんぐん伸びて、こんもりとしかし高く伸び、やがて、夏には葉っぱたちは群れてざわめく、風となり、木陰となって、巡礼街道の旅人たちを慰め励ます日々が来るだろう。 《花の名一口メモ》モミジバスズカケ(紅葉鈴懸)スズカケ科の落葉高木、(属名プラタナス)学名:Plutanus × hispanica 英名:London Plane 仏名: Platane commun 和名:モミジバスズカケ(モミジバスズカケの実と黄葉)属名のプラタナス(Plutanus)は、ラテン語plataneから借用されており、ギリシャ語のplatanosのlarge(広い葉)の意味。このプラタナスは、Oriental planeとAmerican planeの雑種である。(スズカケノキ×アメリカスズカケ)高さ20~30mまで達する高木。樹皮は大きく薄片となってはげ、後はは、白色と淡緑色のまだらとなる。球形の集合果は、2~3個ついて、下垂する。日本の街路樹にはこの種類が一番多い。スズカケノキ、アメリカスズカケ、モミジバスズカケを総称してプラタナスと呼んでいる。この雑種は、すでに17世紀に、スペインでは、自然交配種として存在していた記録がある。1670年にはオックスフォードの植物園(Oxford Botanic Gardens)にこの種のプラタナスの記録が残されている。英名:London plane(ロンドンプラタナス)とあるように、ロンドンの街はこの種のプラタナスの街路樹、公園樹が多い。このプラタナスは、大気汚染に強く、根張りも狭い場所に密で、都市空間に適した樹木であり、大木(15~30m)になり、生育年月も長い。都市に端正な樹形で、夏には群葉が明るい木陰を市民に提供する。(London Fieldsのプラタナスの大樹。樹齢200年冬の柔らかな陽光がプラタナスの長い陰を作り、美しい都市景観を作り出している。写真はイギリスのサイトより借用)又、強い剪定に耐える樹木で、剪定によって、まるで異なる樹形となる。(巡礼街道の強い剪定のプラタナスは、初夏にはこんな樹形に。ロンドンの公園のプラタナスとは又異なる歴史の重さを感じさせる風景に溶け込み、重厚だが明るい景観をつくっている。ナバレテ教会のプラタナス。2003年に Danjose撮影巡礼街道の沿道の町のプラタナスも、その一例で、強い陽射しのスベインの夏に、木陰を大きく広くする為に、横に長く枝を張らせている。強い剪定に耐える上に、数百年という年月を生き続ける特徴を活かし、都市の景観を重厚で個性あるものにする。このように、プラタナスは、都会の樹木としての長所を多々備えており、欧米では、独特の美しい都会の景観を作る樹木のひとつになっている。プラタナスの起源は古く、白亜紀にすでに存在が確認されているという。古代アテネには、プラタナスの並木道があり、プラトンなどの哲学者たちが木陰で説き、語ったので、プラタナスの並木は、天才の象徴にされた。ペルシャのクセルクセス1世は、紀元前480年、ギリシャ遠征の途中でダータネルス海峡を渡った際、その木の美しさに魅了されたという。日本には、明治40年ごろ導入され、東京の街路樹に育てられた。
2007.09.25
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秋のサンティアゴ巡礼街道(15)夏のなごり(2)朝もやのなかに頭を垂れて、見渡す限り、果てしなく続く枯れたヒマワリ畑 じりじりと暑かった夏の太陽のエネルギーをすべて飲み込んでその実のなかに蓄え今は、ただ朝もやの中に重く溶け込んで初秋の冷涼な大気を呼吸している 。巡礼街道のヒマワリは真夏には焼けつく日照りに黄金色の花びらを輝かせて夏の風となっていた。何処までも、何処までもただ、ただ、燃える明るい黄となって空の濃紺や、むくむくと湧き立つ白い積乱雲と競い合って大平原を埋め尽くし壮大な絵となって、道行く巡礼者の心を圧倒し、勇気づけたに違いないヒマワリ畑今は、その壮大な命のざわめきを熟れた重い膨大な実となってやわらかな初秋の風となる。そして、しずかな収穫のときを待っている。 《花の名一口メモ》ヒマワリ(向日葵)(夏のヒマワリの群生) 学名:Helianthus annuus L.和名:ヒマワリ 英名:Sunflowerキク科ヒマワリ属。 北アメリカ原産の不耐寒性の1年草。学名:Helianthus はギリシャ語で、「太陽と共に周る花」の意味。その花の向日性から名付けられた。ヒマワリはつぼみの間は、太陽の方向に花首を向け、夜の間に西から東に向きを変える。この運動は花弁が色づくころより鈍り、開花期後は、多くは東を向いたまま動かなくなる。ヒマワリが栽培植物化した歴史は古く、紀元前2000前に現メキシコ州に住んでいた古代インディオにまで遡る説もある。食用作物として、重要な位置を占めていた。インカ王国では、太陽神のシンボルとしてヒマワリを崇めていた。スペインの医師・ニコラス・モナルデスによって、1564年~71年の間に、新大陸からスペイン王立植物園にもたらされヨーロッパに広まった。ヒマワリがスペイン国外に持ち出されるのに、さらに100年を要し、17世紀になって、フランス、次にロシアへと広まった。当時、ロシアの正教会は、四旬節の40日間、復活節の間は厳しく断食を実施し、ほとんどの油脂食品を禁止していた。ヒマワリはそのリストからもれていたので、信者たちは、ヒマワリ種子を法に矛盾することなく、常食とした。それ以後、ロシアは食用ヒマワリ生産世界一の国になっている。タネは煎って、食用とする。又ペットの餌としても利用されている。タネは絞って、ヒマワリ油として利用される。ヨーロッパでは、オリーブ油に比べ安価で良質な油として、生産量も多い。日本には、17世紀の初めに伝わり、「丈菊」の名ですでに見られる。元禄のころには、「ヒマワリ」の名で、流布していたらしい。ヒマワリの頭状花の部分の小花はフェルマーの螺旋(Fermat's spiral)の型で、H. Vogelによって数学の曲線座標(Polar coordinates)のモデルとして提起された。(数式は省略)このモデルは、コンピュターグラフィックを描く時に使われている。
2007.09.23
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秋のサンティアゴ巡礼街道(14)夏のなごり巡礼者たちの朝は早い(スペインは9月はまだ夏時間のため、朝の7時はほの暗い。天体の日の出は1時間マイナス)朝もやに霞む朝の巡礼街道秋分も過ぎ日の出時間も遅くなった巡礼街道。朝の7時は東の空が朝焼けに染まる時間、まだ薄暗い早朝の道を巡礼者たちは今日も急ぐそんな巡礼の道に咲く黄色い花夏の終わりを告げる花キバナイガヤグルマギク(黄花毬矢車菊)(Yellow starthistle) 学名:Centaurea solstitialis キク科ヤグルマキク属の越年草の草本。地中海沿岸地方の荒地に自生。長い針のある苞葉の明るい黄色の頭状花。キバナイガヤグルマギクは学名をCentaurea solstitialis という。solstitialisはラテン語で「夏至の」という意味6月の終わり、夏至のころに咲き始め乾いた暑い夏の日照りのなかで、咲き続ける夏の花乾いた痩せた荒地に強靭に生き続ける雑草キバナイガヤグルマギクCentaurea はラテン語で、ギリシャ語では、Kentaureion、即ち、セントウレアとはギリシャ神話に登場する半人半馬の怪物ケンタウロス族のことケンタウロス族は、ギリシャ東部のテッサリアに住み、そのペリオンの谷は古代ギリシャの最も有名な薬草の産地。ヤグルマギクは古来、強壮、利尿、発汗、眼炎などの薬に使われた。セントウレア(Centaurea)に属する植物はこのように古代からヨーロッパの人々の暮らしのなかで強靭に生き抜いて今日も生き続けている植物。キバナイガヤグルマギクは9月の巡礼街道に鋭いイガを四方に突き出して暑かった夏のなごりをその黄金色の花びらに留めて道行く巡礼者のこころを励まし慰めている。さらに明るい黄色に輝く花セネキオ(サンテアゴ草を初め、セネキオの仲間を2回取り上げましたが、この黄色の花をまだ名を特定できていません。乞う情報) 巡礼街道で出合ったセネキオはいつも枯れた荒地を明るくする単調な道に倦み疲れている心に体に華やいだアクセントとなるその背後には、可愛らしいマツムシソウがその淡い紫色の花をわずかに風にそよがせているそして、巡礼街道の枯れ草や枝には無数の小さなカタツムリが夏の終わりをつげて次の季節の準備をする。秋分の日の頃のサンテイアゴ巡礼街道は夏のなごりをそこここに留めて移ろう季節を静かに呼吸している 《花の名一口メモ》セントウレア(Centaurea)キク科ヤグルマギク属の総称。北アフリカ、北アジア、ヨーロッパ、北アメリカなどに500種分布する。秋の巡礼街道のセントウレアの種はセントウレア・ソルスティティアリス(イガヤグルマギクの花と実)学名:Centaurea solstitialis英名:Yellow starthistle 和名 : イガヤグルマギク地中海沿岸に自生する、セントウレアに属する植物である。学名は「夏至に咲くヤグルマギク」ぐらいの意味か。このC.solstitialisは、アメリカ合衆国に牧草の種にまざって入り込み、1800年代に帰化植物としてアメリカの植物系を破壊するほどに侵入した植物になっている。カリフォルニア西海岸などの地中海性気候と荒れた土壌が合い、原産地、地中海地方では、環境破壊につながらず良き体系を保っていた種が、アメリカに帰化するや一挙に繁茂して、環境破壊する有害植物となっている。セントウレア属の植物は、人類が利用した記録の残る最も古い花の一つである。イラク北部の6万年前の旧石器時代の洞窟遺跡からは、セントウレア属などの花粉が多量に検出された。これは、死者を埋葬する時、多量のセントウレアの花を手向けたと考えられている。エジプトの第18王朝のツタンカーメンの棺にもセントウレアの花が入れられていた。ヤグルマギクはヨーロッパでは、麦畑の雑草で、農民に嫌われていたが17世紀には品種の改良が進み、白、赤、青、紫などの花色があり、現代では園芸品種として、盛んに栽培されている。
2007.09.21
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3ヶ月ほどお休みしていたサンティゴ巡礼街道の再開昨年の九月、ダンホセ夫妻がスペインのサンティアゴ巡礼街道を再び歩きました。2003年に歩いた時、ブルゴスからポンフェラーダまでの区間約200キロは電車で移動したので、その区間と最終目的地サンティアゴ・デ・コンポステラまでを、再び訪れ歩きました。2006年9月21日~10月9日の期間中の15日間に310キロを踏破しました。この道中にダンホセが撮影しました街道の草花を、このブログは、「秋のサンティアゴ巡礼街道」として紹介しています。花々の紹介は、まだ半ばでありますが、季節もちょうどダンホセ夫妻が歩いた秋となり、日本の秋の移ろいと併せて紹介できればと思っております。この街道はロマネスク街道とも呼ばれており、中世の建築物も紹介できればと欲張っていますがさて、、、この街道に咲く草花の名前探しには苦労しています。とりわけ日本語でどう翻訳することが花の特徴をよくお伝えできるか四苦八苦、模索中です。草花を調べるのに参考にしている主なる文献、本、サイトなどをを記しておきます。(参考サイト)Wikipedia の英語・フランス語・(時にはスペイン語)版は最も多く利用しています。Fleurs des champs : http://www.fleurs-des-champs.com/など、フランスの植物を扱ったサイトはいろいろ利用しています。季節の花300http://www.hana300.com/index.html日本の花と対比して考える参考にしています。時々写真をお借りしています。 (文献)Wild flowers of Mediterranean (A&C Black:London)Grand Dictionnaire Encyclopedique Larousse (Librairie Larousse)日本大百科全書(小学館)ポケットガイド 日本の野草:日本の樹木シリーズ(小学館)などなど多数。
2007.09.13
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秋のサンテイアゴ巡礼街道(13)巡礼街道の途上での大都会ブルゴスからレオンまでの道はカスティーヤ大平原を渡る、だらだらと続く平坦な道が200kmも続くアップダウンのあるでこぼこの農道雨の多い秋には、ぬかるむ泥に足を取られ難渋する道秋晴れの道はあくまでも青の空に向かって続く道一面、枯れ色の麦畑が果てしなく広がる道、カミーノ好天続いた日のカミーノ。ポプラ並木の続く道もある。ポプラが天まで聳え、延々と続く道カミーノポプラの幹は秋の陽光に輝いて銀色の光りの列となる。ポプラの葉っぱはわずかな風の揺らぎにもかさかさと音立てて騒ぎ、秋の風となる。単調な道に倦み疲れた巡礼者のこころに爽やかに通り抜ける一陣の風となる。 ウラジロハコヤナギ(白楊) (White Poplar) 木々の葉が風に揺れると、白い花が一面に咲いたかのように、銀色に光り輝いて波打つ、ハクヨウ(白楊)の葉っぱたち。秋の陽光にきらめいて、まぶしい白銀の波打つ森とする。そして、その木々の葉っぱはやがて、黄金色に燃えて、大地へと帰っていく。スペイン、モロッコなど中央ヨーロッパから中央アジアを原産地とするウラジロハコヤナギ、名のごとく葉の裏は白色。樹皮も白い和名・ハクヨウ。英語名・White Poplarこの白ポプラの歴史は古く、古代ギリシャ神話にまで遡る。ヘラクレスが巨人カクス(Cacus)を滅ぼした時、その戦場の山一面を覆っていた木(white Poplar)の小枝を勝利の象徴として、冠にしたという。古代ギリシャでは、ヘラクレスの木と呼ばれていた。その後、戦争での勝利者が、ヘラクレイスに倣って、この木で栄冠としたという。長い時間を生き続けて、今なお巡礼街道で旅人に木陰を与え、涼しい風となって、旅人の頬をなでていくポプラ。古代の人々を慰めた同じ風が吹く。巡礼街道の道しるべ・貝のマークの標識のわきにひっそりと咲くゼニアオイ(アオイ科、ゼニアオイ属の多年草。Po学名:Malva neglecta Walbr. Malva rotundifolia L.)中央ヨーロッパの荒地や道端に4月から9月ごろに薄紅色の小花をつける。草丈も10cm~40cmと小ぶりの越年草その根は薬草として消炎剤、鎮痛剤となるマルバゼニアオイは、先の秋の巡礼街道( 6 )で書いたウスベニアオイ(Malva sylvestris)とともに、夏から秋にかけて、巡礼街道を彩るアオイ科の花々である。荒れた秋の大地に可愛らしくひっそりと今日も変わらず咲いていた《花の名一口メモ》ポプラ(Poplar)ヤナギ科ヤマナラシ属(Populus)属名のPopulusは「人民」「人民の木」などの意味がある。雌雄異株の落葉高木。世界には40種類あり、主に北半球に分布。特にヨーロッパではこの樹木は、ギリシャ神話にみられるように古代から人々の暮らしの中で生き続けてきた。キリストが処刑された木はポプラの木という言い伝えがあり、一部のキリスト教徒たちの間では、聖なる木とされている。又、ポプラの樹皮を坐骨神経痛の飲み薬に使ったり、花序から軟膏の用の油をとったり、古代ローマでは、オリーブの葉とともに遺体を包むのに用いたりなど、ヨーロッパの人々の暮らしと深く関っていき続けてきた樹木である。ヨーロッパに多くみられる種類はWhite Poplar(Populus alba)・和名、ハクヨウ(白楊)Black Poplar(Poplus nigra)・和名、ヨーロッパクロナラシTrembles(Poplus tremula L.)・和名、セイヨウハコヤナギ現在は、これらの交配種も多い。日本でもこれらのポプラは、緑化や風致のため、公園、校庭、街路などに植栽されている。北海道大学のポプラ並木はセイヨウハコヤナギの並木である。和名:ハコヤナギは、箱を作る用材に使われたことに由来。現在、家具の用材、製紙の原料としても使われている。和名:クロナラシなどのナラシは同属のヤマナラシと葉柄のつくりが同じで、葉柄が扁平なため、風で葉が揺れやすく、からからと音が鳴るのでヤマナラシ(山鳴らし)の名がある。英名もTrembles(セイヨウハコヤナギ)とあり、震える、わななくという意味である。
2007.09.13
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秋のサンティアゴ巡礼街道(12)サンティアゴ巡礼草の花咲く、雨のカミーノ、風雨強し。カストロヘリースからフロミスタへこの日の行程は25km余り、その半分以上が激しい雨風にさらされた厳しい巡礼街道となった。朝、一番に標高差100mを一気に登る。登れども登れども峠に着かず、どこまでも、どこまでも、限りなく遠い坂道 峠に着き、ほっと一息。朝まだ早きに冷気が心地よく身に沁みわたる。お椀を伏せたようなカストロヘリースの町と小山がはるか下方に広がっていた。 峠を越えて果てしなく広がる一面、茶褐色の麦畑の野に天に伸びて立つ虹が立つ 虹に向かって歩く、歩く、歩く家一軒なく、木立一本ない枯れ野を歩く。虹は雨をよぶ。激しい風を、冷たい横殴りの雨をよぶ。辺り一面、にわかに掻き曇り、風雨に猛る枯れ野が見渡す限り続くばかりである。雨宿るべき木立も、家もなくただ歩くより術なし。10キロあまりの肩の荷は、一層、重く身体にくい込んで横殴る雨に打たれて歩くばかりである。この激しい雨に打たれて咲いていた一本の花サンティアゴ巡礼草Senecio Jacobaea(雨の日に出合った1本のサンティアゴ草) 明るい黄色がその明るさが、こころに染入る。萎える気持を励まし前に進むエネルギーを与えてくれるサンティアゴ巡礼草中世の巡礼者たちも日照りの夏に渇き餓えて行き倒れそうになった時、冷たい雨に凍えそうになった時、このサンティアゴ草の太陽のような燃える黄色に萎えるこころを奮い立たせて明日へと旅だったのではないだろうか。 雨の日のサンティアゴ草との出会いは世界中に繁茂するありふれたこの花がこのカミーノでは特別の意味を持っていたのを悟る。 晴れた日の巡礼街道のサンティアゴ草に、蜜をもとめて、乱舞する蝶。 (晴れた巡礼街道に咲いていたサンティアゴ草)花の黄色は、陽光に戯れて一層、明るく輝いている。秋の枯れ野に暖かな陽だまりと暖かな彩りを添えている。晴れた日の巡礼街道に群がって咲いていたサンティアゴ草。赤茶けた空間で唯一、華やいでいる。風雨強し、今日のカミーノ。雨はあがったけれど、風強し。厳しかった25kmのこの日のカミーノ。老いてなほ、雨風突いて、前へと進む、一歩、また一歩と進む、明日へと進む巡礼の道風雨強し、巡礼の道。《花の名一口メモ》サンテイアゴ草(Senecio Jacobaea)(英語名:Ragwort)キク科のセネキオ属(senecio)に属する、学名:Senecio jacobaea乾燥した荒地、丘陵地にヨーロッパには普通によく見られる雑草である。とりわけスカンビアナ半島から地中海沿岸地域には多く自生。このシリーズ・秋の巡礼街道(3):再び、スペインのセネキオでも取り上げたが、Senecio jacobaeaはスペインにおける宗教名で、Jacobaeaは聖ヤコブのこと。スペイン語ではヤコブのことをJaime(ハイメ)の別名があり、Hierba de San Jaime(サンティアゴの草)という意味。ここでは、「サンティアゴ巡礼草」と訳してみた。英語名はRagwort(ボログサ)アメリカ、イギリス、オーストラリアなど、この草は繁茂しすぎて有害植物としてされている。特にイギリスは5つの有害植物の一つに指定し、増やさないように法律で指定している。しかし、歴史上では、古代ギリシャ・ローマ時代より薬草として、人々の暮らしのなかで生きてきた植物である。このサンティアゴ巡礼街道では、その強い繁殖力で、どんな悪条件の中でもしぶとく生き続け、巡礼者を励ましてきた信仰の草といっていいのではないだろうか。 日本で、セネキオ属に属するキク科の植物は、ノボロギク(Senecio commun)。道端や田んぼの畦、荒地などどこでも見られ、冬さえ花咲き白い綿毛を飛ばしている。(ノボロギクの綿毛)Senecio(セネキオ)は、ラテン語のsenexに由来し「老人」という意味。この白い冠毛が老人の白髪に似ていることからきている。この仲間の種子は、風にとばされ、動物に付着して移動し旺盛で強靭な繁殖力で、世界中をたくましく旅しているコスモポリタンなのである。
2007.05.26
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秋のサンティアゴ巡礼街道 (11)巡礼街道の秋風にゆれて咲くマツムシソウ春に歩いたカミーノは一面、波打つ青の麦畑と真っ赤なケシの花園が天まで延びていたのに、(春の巡礼街道を鮮やかに彩るケシの花と麦畑) 秋の巡礼街道は一面、赤茶けた荒涼とした世界が続くばかり。その道端の花々もあるものは、赤茶けた実となり、あるものは、綿毛となって、枯れて冬を待つ。 秋のカミーノの枯れたアザミ(写真・左)と2年前に歩いた春のカミーノのアザミと芥子の花(写真・右)こんな秋のカミーノの道端には小さな花々が、枯れ草のなかにひそりと咲く。 (枯れ草の間に、小ぶりな水色とピンクの花が、秋風に揺れてる)その小さな、壊れそうに薄い花びらの上を秋風が通り過ぎてゆく。枯草のなかでひっそりと咲いていたマツムシソウカミーノの道端で、しばしば見かけた可憐な花西洋松虫草・スカビオサ(Scabiosa)(風に揺られて撮影に苦労した、巡礼街道に咲くマツムシソウ)スカビオサ(Scabiosa)は、ラテン語のScabiesに由来し、ラテン語のスカビエスは、《疥癬》という意味。即ち、ダニの寄生によって生ずる伝染性の皮膚病のこと。中世には、この草は皮膚病の薬として使用されスカビオサという名がつけられた。中世のサンティアゴ巡礼街道にも夏から霜の降りる初秋まで長い期間、咲き続けて、巡礼者の皮膚病の治療に活躍していたに違いない草花スカビオサ俳人の黛まどかさんのスペイン「奥の細道」・星の旅人には、まどかさん自身が旅の途中で、ダニによる湿疹で持ち物全部を煮沸消毒し、薬を求めて大騒動した顛末が書いてある。こんな時、中世の旅人達なら、眼前に咲くスカビオサに助けられたに違いない。Danjoseの歩いた2006年の巡礼街道にもスカビオサは秋の風に揺れて道行く巡礼者の足元でひっそりと咲いている。1000余年経て、今も、人々に、その効用は忘れ去られ、枯れ草に埋没して、人の目を引くこともないけれど、スカビオサの花はただ、黙して咲き続けているのである。 《花の名一口メモ》スカビオサ(西洋松虫草)マツムシソウ属(Dipsacaceae)に属する多年草の草本。マツムシソウ科(Scabiosa)科に属するものは80種あまりあり、ヨーロッパには、43種ある。日本には「マツムシソウ」は1種あり、初秋の高原に咲く秋を告げる花として、愛好されている。可憐な花である。(美ヶ原に咲く日本のマツムシソウ)和名:マツムシソウは、松虫の鳴く頃に咲くから、とか松虫の成育する高原に咲くからこの名があると言われている。日本のマツムシソウは、花がヨーロッパのそれと比べて大きい。ヨーロッパのマツムシソウのScabiosa Columbaria (英名:Butterfly blue)ヨーロッパ、とりわけ地中海沿岸の国、フランスなどには「Scabiosa columbaria」という種類が広く分布しており、野原や森などの日当たりのよい丘陵地によく見かける。花期は6月から10月と長く、昆虫とりわけ蝶の密源として重要な花となっている。英語名「Butterfly blue」は、それに由来する。近年は、園芸種としても広く栽培されている、中世では、上記の皮膚病の治療薬として使われた。Scabiosa Columbariaの「Columbaria」は花の色に由来し、(鳩のの胸のように)色の変わる、とか玉虫色のという意味である。薬草として古くから人間に深く関ってきたスカビオサは花の色でも人々の心を捉えてきたことが名前からもしのばれる。
2007.05.24
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秋のサンティアゴ巡礼街道(10)南米生まれの熱帯の花々咲く秋のカミーノブルゴスから歩き始めて2日目、延々と続く平坦な道、倦みやすい平坦な荒涼とした道、カスティーヤ平原の秋の巡礼街道。その平原に、お椀を伏せたような小山、その麓にある町、カストロヘリース。(だらだらと何処までも続く平坦なカミーノの景色に、突然現れた丸い山は何かしらほっと安らぐ)カストロヘリースの 町に入ったところの民家の壁に咲いていた花々。一面、ただ赤茶けた荒野を歩き続けてきた巡礼者にとっては、その花の色彩が、葉っぱの緑が鮮やかでまぶしい。自転車の巡礼者もほっと心なごんで、談笑している。 日本の夏の夜、街灯に照らされて、路地にさりげなく咲いているオシロイバナ(学名:Mirabilis jalapa, 熱帯南米原産;夕方に花開き翌朝にはしぼんで散る。そのため日本では「夕化粧」という別名があり、江戸時代には種子は白粉としても使われた。フランスでは、「夜の麗人」「4時の花」などの呼び名がある。ヨーロッパには16世紀初め、中国には16世紀末、日本には江戸時代にすでにこの花の記録がみられる。ブラジルでは、腹痛や下痢の民間薬として使われた。)ひんやりととした冷気の朝に、紅、黄、白と朝の陽光にその澄んだ色をいっそう輝かせて一夜のいのちを終えて、しぼみ散っていくオシロイバナ日本から遥か離れた、このスペインの秋の巡礼街道で歩き疲れてたどり着いた夕べに出会ったオシロイバナ崩れ落ちた古い民家に咲いていた紅色のオシロイバナ何かしら懐かしくこころ和む。民家の壁に掛かっていたトケイソウ(パッションフローラ)キリスト教の伝道の歴史と深く関り、その中から生まれた名前Passion Flowerキリストの受難を象徴する花 トケイソウの学名:Passifioraは、ラテン語のpassioとflorisに由来し、Passion Flower :(キリストの受難;La Passion du Christ)を意味するという。その名前は、スペインのイエスズ会の宣教師たちによって、名付けられたという。16世紀に原産地に派遣された宣教師たちが、この花をアッシジの聖フランチェスコが夢に見た{十字架上の花」と信じ、キリスト教の布教に利用したという。その花の形が、キリストの受難を象徴しており、花の副冠は、いばらの冠に、5本の葯は、キリストの5つの聖なる傷痕に、花の子房柱は、十字架に、柱頭は3本の磔用の釘に、5枚の花弁とガクは、10人の使徒に、葉柄は最後の晩餐の杯に古い葉は槍になどなど形を似せて宣教に利用したという。いかにもこの巡礼街道にふさわしい花パッションフローラ(とけいそう)その昔、キリスト教徒の巡礼者のこころに信仰の花として、パッションフローラの花は深く熱く生きていた花ではなかっただろうか。まさに《情熱》の花であったにちがいない。中世の巡礼者の旅を、励まし慰めたに違いない花パッションフローラDanjoseの歩いた 2006年の秋にも変わることなくその朽ちかけた民家の壁にかかって、パッションフローラは道行く巡礼者を見守っている。オシロイバナもパッションフローラもともに南米原産の熱帯に咲いていた花々。ヨーロッパの地にやって来て千年あまりの歳月を経てもなお巡礼街道の季節を彩って、旅人のこころを慰めている。《 花の名一口メモ 》トケイソウ(時計草)学名:Passiflora caerulea 和名の「トケイソウ」は、狭義には、このPassiflora caeruleaのことを指している。3つの分裂しためしべを時計の針にみたてて、この名前がある。英語名はBlue Passion FlowerでCommon Passion Flower(キリストの受難)として知られている。トケイソウ属には500種余りの種類があり、さまざまな色、形のトケイソウが存在する。中央アメリカ南アメリカの熱帯・亜熱帯地域が原産のつる植物。現在では世界中に広く栽培されている。日本でも、耐寒性が強く、関東地方以西では、路地で栽培されている。クダモノトケイソウ学名:Passiflora edulis(ざくろのようなトケイソウの熟した果実)(果物の産地:オーストラリア・南アフリカ・ブラジル・フィジー・ハワイ・ペルー・スリランカなど)英語名、Passion fruit(パッションフルーツ) 和名、クダモノトケイソウ、受難果。フランスではfruit de passion スペインではmaracujaの名前で知られている果物のことである。花は、Pasion Flower(キリストの受難)、トケイソウ、として知られているが観賞用として栽培されている。果実は、ビタミンAとビタミンCを豊富に含んでいる。果肉は強い香りあり、収穫後追熟させて、食用に利用する。ジュース、シロップ、シャーベット、サラダなどに使われたり、完熟したものを生食したりもする。植物全体を煎じたり、シロップ、チンキ剤として、ハーブとして利用される。鎮痛・精神安定・血圧の降下・更年期障害など「精神や痛みを鎮める」働きがあるという。植物は、根茎の繁殖力旺盛なつる性であるが、その果実を原産地の特質そのままを維持することは難しい。最低5℃以上の温暖な気候が必用である。
2007.05.20
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秋のサンティアゴ巡礼街道(9)巡礼街道(17)で、この回で扱った「秋咲きクロッカス」について、再度訂正加筆記事を書きました。その後の調べでこの花がユリ科メレンデラ属のメレンデラ・モンタナ(Merendera montana)と判明。(17)と併せてご覧下さい。朝の陽光を浴びていのち輝かす秋に咲くクロッカス(その2)寂しい荒涼とした山道をてくてく、てくてくと果てしなく歩く。黙々と歩く。登りり詰めた所、イラゴ山頂近くクルス・デ・フェロ峠海抜1505mに、天にまっすぐに伸びて立つ鉄の十字架(イラゴ山頂に立つ鉄の十字架)この日は超快晴、木柱のてっぺんに立つ鉄の十字架は抜けるような空の青に溶け込んでしまいそう。眼下には、レンズ雲が白くたなびく。 千年の昔も巡礼者たちは、この峠を鉄の十字架に励まされ、慰められて黙々と山道を歩いて、峠超えをしていたに違いない。木柱の周りに積み重ねられた小石、その小石の一つ一つに巡礼者たちの込められた怨念や願いがある。千年の時を越えてもなお、巡礼者たちはその風化して土になってしまった小石の上に似た思いを重ねて小石を積み続けている。その十字架の側にある小さな教会 教会の周りには薄紫色のクロッカスが点々とまばらに咲いていた。いつも鄙びた教会の周辺に咲いている秋咲きクロッカスこの輝きを見よ。朝の陽光をあびて、群れなして咲くクロッカスの花々を、 鉄の十字架ををはさんで反対側の道端に陽光にいのち輝かせて咲ききるいのち夜明けとともに咲き日没とともにしぼむ花花咲く時期も短い。秋に咲くクロッカスはジリジリと焼けつく夏の強い陽射しと乾いた夏の気候のもとで秋の降雨で土中から目をさまして花を咲かせるこの巡礼街道の夏の焼けつく日照りと乾いた夏の空気の中で何千年ものいのちを紡ぎつづけて巡礼者の心を癒し、巡礼者の病や傷を癒してきた花今日も何千年前と変らずそのいのちを輝かせ巡礼街道の旅人に深い感動を生きるエネルギーを与え続けてている。《花の名一口メモ》サフラン(Saffron)サフランには次の2つの意味がある。 1)植物の名前。学名:Crocus sativus ネパールを産地とするアヤメ科の多年草。クロッカス属。高価な香辛料がとれ、多くの薬効があるハーブ。 2)クロッカス種の花の花柱から採れる、香料(spice)のことをサフランという。 サフランクロッカスの花(長い花柱が、数々の人間とのドラマを作り出してきた) 秋咲きのクロッカス属のなかに学名:Crocus sativusがあり、サフランクロッカス(saffron crocus)と呼ばれる。これが日本で俗にサフランと呼んでいるものである。このサフランクロッカスは東地中海沿岸に自生する秋咲きクロッカス:Crocus cartwrighianus の種子の出来ない3倍体の突然変異体であり、栽培種で自生していない。これがいわゆるサフランと呼んでいるクロッカスのことである。しかし、驚くことに、このサフランの栽培の歴史は、何と3000年以上前に遡るというのである。人類がはじめて野生種類を育てようとした植物であるというのである。クロッカスの3本の長い花柱を求めて、厳しい選別を野生種のなかで繰り返し行なった結果が、サフランの長い栽培の歴史であるという。地中海の地域の古代文明(紀元前1500~1600)の壁画のなかに、すでにサフランが治療薬として使われていたのが描かれているというから驚きである。花柱上部の濃赤褐色の部分だけを集めてサフランと称して、薬、染料に用いる。香辛料として使用されるのは、赤色の雌しべで、手で摘み取り、低温で乾燥させて密封貯蔵する。およそ1万5000個の花から約100グラムしか採れない。(手作業のサフラン工場・フランス)花の摘み取りも、花期は1~2週間と短く、1日花で、朝に開花し夕にはしぼむので、短時間に短期間に大量の収穫をしなければならない。全て手作業の大変な重労働なのである。香辛料のなかでは最も高価なものであるのも肯ける。香味は独特な刺激がある香りと快いほろ苦味がある。水に溶けると延びのよい黄金色となり、料理の着色料として使われる。(ブイヤベース、スペインのパエーリャなど)Saffron(サフラン)の語源はアラビヤ語のzafaranに由来。アラビアの香辛料の名前で黄色を意味する。古代には女性の眉染めやマニュキュアにも使われた。古代ギリシャでは、クロコス(Krokos)と呼び、内服液、練り薬として使われた。クロコスは「紐」の意味で柱頭の状態を指していた。クロッカスはこれからの派生した語。古代ギリシャ、ローマでは衣料の染料としても使われた。高貴な色として、富みや権力の象徴でもある。ギリシャ、没落後はアラビヤ人がヨーロッパと広く交易したために、サフランがクロカッスの名に取って代わり広まった。現代においては、イラン、スペイン、イタリア、南フランスなどがその栽培地として有名である。強い陽射し、乾いた暑い夏、春先の適度な降雨などクロッカスの生育条件は厳しく制限されており、その地域でのみ良質なサフランが採取できる。 人類の歴史と共に、人間の暮らしと深く関って、行き続けてきたクロッカス。巡礼街道のクロッカスも、栽培種のサフランクロッカスではないけれど、サフランの代用として、中世には、巡礼者の病や傷を治す薬草として、人々に大切にされてたのではないだろうか。
2007.03.05
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秋のサンティアゴ巡礼街道(8)クロッカスの花咲く秋のカミーノ(その1)今日も続く平坦な荒涼とした道、だらだらと続く道、カミーノブルゴスからレオンまでおよそ200kmも続くカスティーヤ大平原の巡礼街道はあてどもなくえんえんと続く平らな道。倦み安く、それがしんどい道。平坦な人生にも似て。そんなカミーノに崩れかかって佇む修道院サン・アントン僧院Monasterio y Hospital de San Anton(14世紀にフランスのサン・アントン騎士団が建設したもの。柔らかな秋の青空を背に静かに佇む廃墟となった修道院)だらだらと続く平坦な、焼けつく道を歩き続けてたどり着いた 中世の巡礼者たちにとっても、この僧院は、食べものを供され傷を癒し、病を治療したりした、つかの間の休息場所。明日へと旅立つエネルギーを蓄えたオアシスであったろう。そして、今も、カスティーヤ大平原に延々と続く平坦なカミーノに崩れかかって、廃墟となりその時間の重さをみなぎらせて、静かに、しかし凛として佇んでいる。あたりの荒涼とした世界のなかで、何かしら膨大なエネルギーがそこだけにある。その重さが、その威厳が巡礼者の心を明日へといざなう。その僧院の壁沿いに咲いていた黄色のクロッカス。太陽がジリジリと焼けつく乾いた暑い夏のあとに秋雨とともに眠りから覚めて秋の訪れを告げに来る花クロッカス巡礼街道の秋を可憐に彩る秋に咲くクロッカス 何千年もの時空をクロッカスはいのちを繋ぎつづけて今もこの廃墟となった僧院にひっそりと、可憐に咲ききっている。〈注〉 サン・アントン僧院: サン・アントンは英語では、Saint Anthony(聖アントニウス):聖アントニウス(c.251-356)エジプトの隠修士・修道院制度の創始者。豚飼いの守護聖人。この騎士団は10~11世紀にヨーロッパで大流行した皮膚病「丹毒」を治すことで知られていた。「丹毒」は英語でSt.Anthonys fireという。巡礼街道のこの修道院も、巡礼者の救護院として、中世には活発に活動していた。《花の名一口メモ》クロッカス(Crocus)アヤメ科;クロッカス属の球根植物。およそ80種類あり、その3分の1は秋に花を咲かせる。クロッカスの原種の大部分は地中海沿岸地域の山岳地帯に自生。特にバルカン半島や小アジアの地域に多く自生している。秋咲きのクロッカスは、9月~11月に花を咲かせる。花が咲き終わった頃、葉を出すが、遅咲きの種類は、若い葉っぱの間に花を咲かせる。花の色も変化に富み、ライラック色、藤紫色、黄色、白色など。南仏、スベイン、ポルトガルの地域に咲く「秋咲きクロッカス」としては、以下のような種類があるとされているが、Crocus nudiflorus; C.serotinus; C.clusii; C.salzmannii巡礼街道に咲くクロッカスの名前の特定はさけた。さらに「秋咲きクロッカス」として、Crocus cartwinghtianus(Wild saffron crocus)はギリシャやクレタ島に自生する、いわゆるサフランと呼ばれているもの原種である。Crocus sativus(Saffron Crocus)は品種改良を重ねサフランとして、大規模に栽培されている秋咲きのクロッカスである。次回も巡礼街道に咲くクロッカス(その2)をお届けします。
2007.02.26
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秋のサンティアゴ巡礼街道(7)ニワトコの実が実る秋の巡礼街道ブルゴスを発って2日目、快晴の秋のカミーノ今日も又、何処までも一面の枯野が続くオルニージョスを出ておよそ4キロのところ果てしない大平原に秋の青空に真っ直ぐに伸びる十字架(地元の人が巡礼者の無事を願って立てた十字架と巡礼者の長い影帽子)聖地サンティアゴに向かって西へ、西へと進む道、カミーノ朝日を背に受けて長い、長い影法師が、巡礼者の前を歩く。秋の巡礼街道は草木の実が熟す道でもあった。濃い黒紫色に艶やかに熟して、道端に、たわわに実っていたセイヨウニワトコ(Danewort)学名:Sambucus ebulus 別名;Dwarf Elder又はWalewortスイカスラ科、ニワトコ属の多年草本。花期:夏(7-8月)香りを放ち白い小さい花を房状に咲かせる。原産地:ヨーロッパ、北アフリカ、西アジアセイヨウニワトコはDanewortの名を持っている。その昔、イギリス人とデーン人(9-11世紀にイングランドへ侵入した北欧人)が戦争をした時、デーン人の血からこの植物が生えてきたという逸話からDanewortと呼ばれているという。学名のサンバッカスsambucus(ニワトコ属)は、ラテン語のsambucaに由来し、古代ギリシャの楽器sambukeの名前から借用している。そして、花や実や葉や根はワインやジャムに加工されたり、髪の毛を染めるヘアダイにさえなってきた。葉に含まれる毒性ある成分は、消炎剤、利尿剤、発汗作用を促す薬、去痰薬、下剤などなどその数々の薬効が人々の暮らしに役立ってきた。中世の巡礼者が病で行き倒れになった時、その沿道にある救護院ではこのニワトコの薬草は、多くの人々を救ったのかもしれない。時空を超えて、そんな想像をたくましくさせてくれるニワトコの実が秋晴れの荒野の道端にたわわに実を熟して秋の陽光に光っていた。枯れたアザミもあの春に満々と咲いて、あたりを紫に染めた花々は茶けた種子となって風になって飛ぶのを待っている。巡礼街道の草花たちは、次のいのちをその内に深く秘めて来るべき冬の準備をしている。《花の名一口メモ》Danewort(セイヨウニワトコ)(セイヨウニワトコは夏によい香りを放ちさく花。樹皮や葉は汗臭い悪臭を放つ)学名:Sambucus ebulus、別名Danewort又の呼び名をEuropean Dwarf Elder(ヨーロッパの矮性ニワトコ)ともいう。南、中央ヨーロッパ(イギリスも含む)、西アジア、北アフリカに道端、林縁等に自生しているが、園芸種としても栽培されている。生垣にも至る所でみられる。(Samucus ebulusの実をアップ)日本でエルダーとして紹介されているセイヨウニワトコは、Sambucus nigraのことである。この植物は、他の種類のニワトコと区別してコモンエルダーともいう。コモンエルダーはDanewortに比べ背丈も高く4~6mとなり落葉木である。用途は装飾植物、薬草、染料、木工材など矮性ニワトコとほぼ同じであるが矮性ニワトコの方がより強い毒性があり、薬草としての効果もより強い。煮たり、乾燥させたりすることで毒性を緩和している。実などを過度に生のまま食べる事は危険である。ニワトコ属に属する植物は、世界に広く分布し、およそ25種ほどある。日本にもニワトコ(接骨木)学名: Sambucus sieboldianaがある。 本州から沖縄まで身近な明るい山野にごく普通に生えている。背丈は2~5mの落葉低木で夏に赤い実をつける。(写真:日本のニワトコ夏の葉(左)と初夏に咲く花季節の花300より)この日本の種がセイヨウニワトのコモンエルダーにより似ている。同属の草「ソクズ」別名クサニワトコ学名:Sambucus chinensis本州から九州の林縁や川岸に自生し、花期7~8月で秋に赤い実をつける。背丈1~1.5mで多年草。このクサニワトコがどちらかといえば、ここで紹介したサンテァゴ巡礼街道に生えている小型のニワトコに近い。Danewort をセイヨウクサニワトコと訳した方が分かり易いようにも思うけれど、植物の専門家でないので、その訳語は差し控える。日本ニワトコの「接骨木」は中国名で、枝や幹を乾燥させたものを「接骨木」といい、骨折や打撲傷に、煎じてその汁を湿布として用いたことによる。日本では古くはヤマタヅとかミヤツコギ(造木)と呼ばれ、万葉集(巻2・90)には「君が行き日が長くなりぬやまたづの迎えを往かむ待つには待たじ」とあり、ここにヤマタヅというは、今の「造木」というという注釈がある。日本においても古くから人々の暮らしの中で共に生きてきたニワトコなのである。
2007.02.01
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秋のサンティアゴ巡礼街道(6)ウスベニアオイの花さく巡礼街道の街オルニージョス沿道には木一本なく、道端の草花はすべて枯れ茶褐色一色の寂寞とした大地を歩き、歩き続けて20数キロたどり着いた第一日目の巡礼宿の町オルニージョス 午後三時半、ひっそりと秋の柔らかな光りに包まれてしーんと静まり返って眠っている街オルニージョス。疲労困憊した巡礼の旅人の影法師だけがただ通りを行き交っている街町の人々は、シエスタ(昼寝)の時間でうとうとと柔らかな秋の午後をまどろんでいる。その静けさ、その物憂さ、時間が止まったままである。中世のまま時間が止まっている。今日の宿は、オルニージョス教会の巡礼宿その教会の周囲に咲いていた花ウスベニアオイ(薄紅葵)《アオイ科、ゼニアオイ属。学名:Malva sylvestris;英語名Common Mallow(コモンマロウ) 和名:ウスベニアオイ。未開地、荒地、道端などに自生。ヨーロッパ。地中海沿岸に分布。花期4~9月。ハーブとして人気があり、栽培されている。マロウテーは、レモンを入れるとブルーからピンク色に変り、やがて消えることから夜明けのティーと呼ばれている。花、葉、若い芽は食用になる。薬効もあり、抗炎症、収れん、暖下作用あり、葉をもんで、虫指され傷の手当に使う。タチアオイ(立葵)《アオイ科、タチアオイ属。学名:Althaea rosea,英語名Common Hollyhock(ホリホック)花期:6月~8月。瓦礫地や雑木林に自生。原産国は中国。16世紀にヨーロッパにもたらされた。英名「ホリホック」はホリーホック聖地のことで、かつて十字軍がシリアから持ち帰ったという説があることから。現代では、ハーブとして、庭での栽培も盛ん。花はお茶や染料として用いられ根や葉にはゼニアオイ同様薬効がある。9月の終わりだというのに咲いていたタチアオイとウスベニアオイの花何かしら懐かしいものに出遭ってこころが和んだ。枯れ色の世界から来た巡礼者の心には薄紅の花びらは、まぶしく華やぐ。ぎらぎらと太陽がく輝く日本の夏にタチアオイの花の赤やピンクが鮮やかに競い合って入道雲がムクムクと湧く真っ青な空に向かって何処までも伸びるあのあでやかさ、あの力強さとは違う、野に咲く花の可憐さと薄紅の深い色合いがどこか寂しげな秋の巡礼街道を、趣深いものにしていた。
2007.01.26
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秋のサンティアゴ巡礼街道(番外編)大学センター入試問題(世界史B)に出題されたサンティアゴ巡礼街道1/20~21日の2日間にわたり行われた大学入試センター試験の世界史Bに、このブログで連載中のサンティアゴ巡礼街道に関する問題が次のように出題されていた。世界史B 第1問の問題(原文のまま転載)第1問 聖地や霊場への巡礼は、その地に関する情報の蓄積や交通の発達とともに盛んになった。信仰の地を訪れる旅と、それを引き起こした社会現象について述べた次の文章A~Cを読み、下の問いに答えよ。 A イベリア半島北西部のガリシア地方に位置するサンティアゴ=デ=コンポステラは、(1)キリスト教の重要なな巡礼地の一つである。9世紀に、イエスの使徒の一人ヤコブの墓とされるものが発見され、キリスト教の聖地となり、ヨーロッパ各地から巡礼者が多く訪れるようになった。「サンティアゴの道」と呼ばれる巡礼路が形成され、ヤコブは、(2)巡礼者や旅人の守護聖人として崇拝を集めることになる。その一方で、イベリア半島のおける(3)レコンキスタ(国土回復運動)が盛んになると、異教徒に対して戦うキリスト教徒の守護聖人として位置づけられるようにもなった。 (写真はDanjoseが撮影したもの。これらと同じような写真が問題文にも掲載されていた) サンティアゴ・デ・コンポステラの聖堂にあるヤコブ像 (左が巡礼者としてのヤコブ、右が異教徒と戦うヤコブ)問1 下線部(1)について述べた文として正しいものを、次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。 (1) イスラーム教を批判したイエスの教えをもとに、成立した。 (2) 『新約聖書』を経典とする。 (3) ディオクレティアヌス帝によって国教とされた。 (4) クレルモン教会会議(公会議)において、ウィクリフが異端とされた。問2 下線部(2)に関連して、旅行や航海について述べた文として正しいものを、次の(1)~(4)から選らべ。 (1)コロンブスは、スペインのイサベル女王の後援を受け、カリカットに到達した。 (2)クックは、ポルトガルのジョアン2世の後援を受け、太平洋の島々を探検した。 (3)カブラルがブラジルに漂着し、そこをポルトガル領にした。 (4)リヴィングストンは、アフリカ内陸部を探検し、アクスム王国を訪れた。問3 下線部(3)が行われた時期のイベリア半島について述べた文として正しいものを、次の(1)~(4)のうちから一つ選べ。 (1)アッバース朝から独立した西ゴート王国の王が、カリフを称した。 (2)イベリア半島西部にアラゴン王国が建国された。 (3)イベリア半島に進出したムワッヒド朝は、ムラービト朝に滅ぼされた。 (4)ナスル朝が、グラナダにアルハンブラ宮殿を建てた。以上が世界史Bのセンター試験第一問目の一部で、さらにアンコールワットへの参詣、イスラーム教の巡礼の問題へと計9問設問されている。これらの問題に解答できましたか?私は、サンティアゴ巡礼街道の記事をこのブログに書くために、それなりに中世ヨーロッパについて勉強した。その私は、3問中1問しか正解出来ていない。それ以上に、これらの問題のねらいは何か、受験者のどんな力を試そうとしているのかよく分からない。世界史Bは、必修科目の履修漏れが発覚して、世間が大騒ぎした教科である。なぜ、高校は嘘までついて、履修したことにしたか。「世界史履修漏れ」事件騒動の時に、管理者(校長)のモラルを世間はバッシングすることに急であったが、高校の歴史授業がどう行われているかについては、ほとんど誰も問いかけていなかったといってよい。日本史Bもそうであるが、高校の歴史の授業が、非常に瑣末な膨大な知識、語句の暗記教科になっており、子供たちに歴史ぎらい、歴史への無関心を大量に作り出している。ある一定量の知識の暗記、そのための反復の勉強を私は否定するものではないが、意味もなくただ膨大な量を暗記して、エネルギーを無為にすることは、かえって害ではないか。『サンティアゴ巡礼街道』とこれらの設問にどんな有機的な意味があるのか。ヤコブ像の写真は、問題文や設問にどんな関連づけがあるのか。(ただ、気休めに、安直にその場を飾るために挿入しただけではないか)『サンテイアゴの道』を暗記することが、その子どもの歴史観に何をもたらすと云うのか。問題の出題者にその出題の意図を問いたい。現代社会は、過去のどの時代よりも、世界がボーダレスの状態で日々進行している。子供達が世界史を学ぶ意義は、かってなく重要であるといっていい。過去の人類がどう生き、どんな社会を築いてきたのか。その歴史的認識の学習なしには、現代社会を深くとらえ、人間としてどのような技能や知識を学び身につけていくことが、未来を生きる力になるのかという、広い意味での教養、知性を身につける事は、ほとんど不可能といってよい。瑣末な膨大な知識は、過去の本のなかにあり、膨大な記録された過去の資料のなかにある。その過去の膨大な遺産の中から、何をどう学ばせるのが現代の子供たちには必要か、何を身につけさせることが歴史を学ぶことか、検討し精選しなければいけないのではないか。とりわけ青年期の子供達が、世界を見る目を大きく変えたり、世界を深く考えたりする基盤を作るような基礎学習をするには、どう歴史の教科を編成し、授業を展開していくかが厳しく問われている。このことを欠いたまま、ただ単位の履修もれを「補習」で補っても、根本的な解決にならない。現場は益々混乱するばかりだ。逆にいえば、履修しなくても、将来の勉強には余り関係ない内容だということを暴露しているだけである。特に世界史Bを学ぶレベルの高校は、将来日本の中核を形成するであろう青年達が多く学んでいる。とりわけ理科系に進む生徒に未履修が多い。このコースの国立大学を志望している生徒は、気の毒なくらい多量な科目をこなさなければならない。その量を高い質に転化できないような学習内容にとどまっている限り、未来を担う有能な人材を育てる教育など絵空ごとである。理科系の青年にこそ、将来社会人として起つときの価値基準を形成していく土壌のひとつとして、世界史の教養的意義は重要だ。
2007.01.22
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秋のサンティアゴ巡礼街道(5)農家の石垣に群生して咲くイタドリの花歩けども歩けども枯野が続く一日、優に20kmを超えても枯野ばかりを歩く秋のカミーノ。そんな茶褐色の世界に絶妙な色のハーモニーをかもしだして、農家の石垣に淡いクリーム色に群がって咲くイタドリ(虎杖)の花この白い群生はロンドンでも空港から市内に向かう電車でしばしば見かけたもの。秋の巡礼街道でも、石崖や土手に他の花にまぎれてあちこちに見かける白い群れイタドリの花(トケイソウの花咲く石崖に、イタドリの白い花も紛れ込んで咲く。写真左側の花)イタドリはJapanese Knotweedという呼び名を持っている、日本原産のタデ科の植物。イタドリは、1825年にイギリスに装飾植物として日本から輸入された。その後、次々にオランダに、北米にと広がり土壌の侵食を防いだり、家畜の餌として利用された。しかし、現代では、その旺盛な繁殖力で、瞬く間に野生化して自然の生態系を破壊したり、洪水の原因になるなど厄介ものとなっている。しかし、花の少ないこの時期には、ハチの密源として貴重な花イタドリ。養蜂業者にとっては有用な植物でもある。サンティアゴ巡礼街道にも咲くイタドリは千年余りの時空を超えて、今もなお、いのちを繋ぎ枯れた大地に、旺盛に咲ききっている。《花の名一口メモ》イタドリ(虎杖)(私の散歩道のマンジョンの生垣にまぎれて咲くイタドリの花:by fujiko)雌雄異株でイギリスに輸出されたのは雌株のみにもかかわらず根によって増え、強い繁殖力。Japanese knotweedの別名があるが、次の3つの学名があった。1.Reynoutria japonica オランダの植物学者Houttuynによって命名(1777年)2.Polygonum cuspidatum Siebold(シーボルト)、Zuchhariniによって命名(1845)3.Fallopia japonica: 現在使われているもの。いずれも19世紀前後より、日本とヨーロッパとの深い関りがあったことを示す学名である。日本名「イタドリ」は「痛みを取る」がその名の由来。「虎杖」は漢名。花期は7~10月。春先に伸びてくる中空の茎は、生で食べられるが、シュウ酸を含むので多量に食べるのは害がある。漢方薬としても有名で、根を乾燥させたものを「虎杖根」といい、煎じて服用すると著しい抗菌作用がある。日本でも全国各地の丘陵地の土手や道端草地などに自生。花や果実が赤味を帯びるものをメイゲツソウ(名月草)あるいはベニイタドリといい、しばしば栽培される。19世紀半ばに、ヨーロッパに輸出され、帰化植物となったがその繁殖力が強靭で旺盛なことから、植物の自然体系を破壊し、イギリスではThe Wildelife and Countryside Act 1981によって、不法侵入植物(illegal)に指定されている。その他、欧米では環境を守る協会や組織で、侵入植物として、有害な部分をコントロールする方法が模索されている。参考サイトhttp://www.cabi-bioscience.org/html/japanese_knotweed_alliance.htmhttp://www.ecy.wa.gov/programs/wq/plants/weeds/aqua015.html
2007.01.18
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秋のサンティアゴ巡礼街道(4)セイヨウキヅタの花が群れ咲く秋のカミーノ古都ブルゴスから歩き始めて数時間、どこまでも、どこまでも刈り入れの終った麦畑、枯葉色の荒涼たる平坦な道が続く秋の巡礼街道日本の秋に比べても咲く花の種類は少なく、寂寞とした道が延々と続く秋のサンティアゴ巡礼街道。そんな枯れた秋の平原に可憐に咲く花、巡礼者の心に、ほっとした安堵を何かしら感じさせてくれる花たちがひっそりと咲く。 黄色、青色の可憐な花々が、秋の冷涼な空気に、その深い色合いを一層深くして、枯れ色の世界で、ひっそりと気品さえ満ちて咲いていた。 枯れようとする野原のわずかな茂みにオニノゲシの葉っぱの青みがかった緑色が、花びらの黄色が巡礼者のこころを少しだけ華やいだものにする、 オニノゲシ:(Sonchus asper) ヨーロッパ原産、花期は春から秋と長い。日本には、ノゲシと同じような環境に生育しているがオニノゲシは明治時代に帰化した植物。この冬は暖かいためか、日本では1月の今も道端の陽だまりに咲いている。農家の土手には、ツタが見事に生い茂り秋の柔らかな光りを一杯に浴びて薄黄緑色のヤツデのような花を満々と咲かせていた。Hedera helix:満開の花を咲かせているキヅタの群生荒涼と続く、枯れた大地に、太陽だけが明るく降り注ぎ群がって咲く、淡いクリーム色の花だけがそのいのちの営みの華やぎを告げるサンティアゴへの道は遥か遠く、まだ始まったばかりである。《花の名一口メモ》セイヨウキヅタ(ヘデラの花)ヘデラ(Hedera Helix)崖や壁や木に這い登り、ある時は地面をおおいヨーロッパや西アジアに自生する。Helixは、螺旋を意味する英語、ラテン語のhelikに由来。若い葉っぱは5個の浅い切れ込みがあるが、成長し長じると切れ込みはなく、ハート型の葉になる。日当たりのよい場所で、夏の終わりから晩秋にかけて、繖形花序(ヤツデのような)の花を咲かせ、晩冬には小さい黒い実となる。花は昆虫の大切な蜜となり、実は人間には有毒であるが、鳥たちには冬場の大切な餌である。現代ではヘデラはオーナメント植物(装飾植物)として、多種栽培されている。English Ivyとして知られている北アメリカでは、とりわけ太平洋側においては、帰化植物として、野生化してinvasive speciesとみなされ、生態系を乱している。
2007.01.16
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Danjoseの花歳時記(外国編)-秋のサンティアゴ巡礼街道(3)巡礼街道のマレイン(モウズイカ:毛蕊花)(枯野に咲く、枯れようとしているモウズイカの花)ブルゴスの街を過ぎると、刈り入れの終った麦畑は、辺り一面を赤茶けた荒涼とした大地として、延々と続く。その枯草の荒涼とした畑に、ニョキニョキと天に向かって突っ立ているまさに枯れんとしているマレイン(Mullein)、モウズイカ(毛蕊花)。(巡礼街道の秋のマレイン・Mullein:ゴマノハグサ科、モウズイカ属(Verbascum)種類が多く、種は特定していません)巡礼街道のモウズイカは麦が刈り取られた後にも、枯れた大地にひとり立ち枯野の単調な道中を行く旅人の心をを慰める。そして、モウズイカは、古代からずっと人々の暮らしの中で、薬草としてヨーロッパの人々の暮らしの中で生きてきた。マレインは、古代ヨーロッパには200種にも及ぶ種類があったと言う。そして、今でもヨーロッパだけでも90種あまりあるという。その中で最もよく知られているのがビロードモウズイカ(Verbascum thapsus)その昔、長い花穂に牛脂や樹脂をしみこませたいまつにしたという。魔女のロウソクという呼び名で親しまれもした。黄色の染料などにも使ったという。鎮静や咳や痰を取り除く薬にもされてきた。再び、スペインのセネキオサンティアゴ草前回、巡礼街道(2)で紹介したスペインのセネキオは、更に調べを進める中でサンティアゴのセネキオ(Senecio Jacobaea)という種類もあることが分かりました。Jacobaeaとは、、、この巡礼街道の終着地点、サンティアゴ・デ・コンポステラに眠る聖ヤコブ(キリストの12使徒のひとり)のこと。サンティアゴは、ヤコブのスペイン語読み。二つの呼び名、フランスのセネキオ(Senecio Gallicus)とスペインのセネキオ(Senecio Jacobaea)は、サンティアゴの杖(Verilla de Santiago)とサンティアゴの草(Hierba de San Jaime)というスペインでの宗教上の呼び名を持っていたのです。巡礼の難所の一つピレネーを境にセネキオがこのように変化していくのは興味深い。その昔、中世の巡礼者たちが、「地の果て」サンテイアゴ・デ・コンポステラめざした命がけの旅の途上のとりわけピレネー山中の巡礼街道は旅の途上で行き倒れた巡礼者が多かった道。ありふれた繁殖力の旺盛な野の草世界の荒地を旅する雑草、その可憐な黄色の花々は、巡礼者の心の杖となったのは肯ける。心の支えとなったにちがいない。たくましい花セネキオ。何処にでも何処までも旅人のお供をするセネキオ。心地よい春の日も、焼けつく夏のの日にも、荒涼とした秋にも嵐の日にも野の道にセネキオは黄色の可憐な花を咲かせていた。古くは、胃の病気や、傷の手当にも用いられたというセネキオまさに、「地の果て」を目指した中世の巡礼者には友であったに違いないセネキオそして、千数百年後の今日も巡礼街道にはセネキオは変らず咲いている。 スペインのセネキオ(サンティアゴ草)は次のページでも掲載しています。 (14)夏のなごり・イガヤグルマソウ咲くカミーノ (17)雨風強し、サンティアゴ巡礼街道
2006.12.17
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Danjoseの花歳時記(外国編)-秋のサンティアゴ巡礼街道(2)スベインの野ばら古都ブルゴスの巡礼道は、川の近くで水も豊富、緑もまだ豊かである。歩き始めてすぐに出合った背丈ほどもある濃い緑の潅木。愛らしい赤い実がたわわに垂れて旅立ちを見送ってくれているかのようである。歩いて行く途上で、ずっと見かけた赤い実、スペインの野ばら晩春から初夏、この野ばらの道は、野バラの可憐な花が咲き競いあたり一面はバラのかおり満ち、虫たちが密を求めて飛交うに違いない。そして今、秋は、濃きグリーンの葉っぱを背景に赤い実がこんなにもたわわに実っている。赤の力強さその緑と赤のコントラストの絶妙さ、野の花だけがもつ美しさ。夏の厳しい暑さや、雨風に耐えて自らの旺盛なエネルギーで、生き抜いてきたものの持つ色の深さ、すがすがしさ。野に咲くバラの美しさがそこにはみなぎっている。害虫にも病気にも物ともせずに生きぬく野のバラの力がみなぎっている。スペインのセネキオ(学名:Senecio gallicus ・キク科、Senecio属。フランスでは「フランスのセネキオ」という別名を持って、広く分布。それに倣って、スペインのセネキオと呼んでみた。日本なら野菊か?)まだ青き草むらにディジーのような小さな黄色い花をまさに枯れんとするその一瞬まで、健気に咲ききっているセネキオその旺盛な繁殖力で綿毛を飛ばして荒地でもどこでもすぐに増えていくセネキオ。そして、こんなにも澄んだ明るいブルーの可愛らしい花を咲かせる野の花が咲いている。(この花の名前、科、属はいまだ手がかりがありません)ブルゴスの秋の巡礼道は枯れようとする野の草花が朝晩の冷え込む気温で、その色を一層深い味わいにして、可憐に咲いている。《花の名一口メモ》スペインの野ばらバラは写真だけから名前を特定する事は難しく、この赤い実のなるバラの名前は定かでありませんが、スペインに咲く野バラで、花のつき方、葉の形、その他の特徴などから、よく似た野バラがこんな美しい花を咲かせますので紹介します。学名:Rosa sempervirens 別名(evergreen rose)春の終わりから初夏にかけて、写真のような3~5cm の花を咲かせる。蕾は白で、咲くと淡いピンクとなる。香りもよい。南西ヨーロッパ、地中海沿岸域に自生しているバラの原種。つる性で常緑。野生の状態では、バラは古枝の上に新梢がそれを覆うように伸張し、やがて古枝は枯死するというサイクルを繰り返し、ブッシュを形成する。(バラの花の写真は、University of Cantaniaから借用。Rosa sempervirensは,次のサイトを参照しています。http://www.plantencyclo.com植物の名前には苦労しています。間違いあればどうぞご指摘ください。
2006.12.12
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Danjoseの花歳時記(外国編)-秋のサンティアゴ巡礼街道(1)サンティアゴ巡礼街道は実りの秋(大きな栗の木の下から始まった旅)Mr&Mrs.Danjoseが再びスペインのサンティアゴ巡礼街道の旅をしました。前回(3年前)は、春の巡礼街道でしたが(9回のシリーズで連載しています)、今回は9/22~10/8の17日間、310kmの秋の巡礼街道の旅です。前回同様、今回も徒歩で粗末な巡礼宿(アルベルゲ)に泊まる巡礼者としての旅をしました。前回、途中から列車に乗り、歩かなかったブルゴスからスタート。(ブルゴスの街全景:大聖堂が威容を誇って、天に聳える)ブルゴス(Burgos)は中世にはカスティーヤ・レオン統一王朝の首都として栄えた都市。人口20万弱の都市であるが、小さな町や村の続く巡礼街道沿いにあっては際立った大都市のひとつである。(ゴシック様式の代表的聖堂;ブルゴス大聖堂が天に伸びる)この街を圧して聳えるブルゴス大聖堂は13~14世紀に立てられたゴシック様式の大聖堂。スペイン三大カテドラルのひとつである。この街からいよいよ巡礼の旅のスタート。晴天の心地よい秋の日、ブルゴスの街の公園には、大きなマロニエの木。(地面にもマロニエの実がいっぱい落ちています。写真の女性・ミセス・ダンホセは、6人のお孫さんのグランマとは、とても見えない、若々しく溌剌とした健脚の素敵な旅の道ずれ)セイヨウトチノキの実「セイヨウトチノキ」は「マロニエ」とも呼ばれている。春になると若葉が茂り、街を欝蒼とした緑ににつつむそして、白いマロニエの花が天に向かって咲き乱れかぐわしい香りが地に満ちる。ヨーロッパの街の街路樹や公園にしばしばみかけるマロニエの木。パリのシャンゼリゼ通りのマロニエの並木道は、映画や小説の舞台としてお馴染みである。 夏には、大きな葉を茂らせて、涼しい木陰を、冬には落葉して、冬の柔らかな陽光を街に注ぎ込む。ヨーロッパの人々の日常のなかに深くいりこんで長い歴史を共生してきたマロニエ。「マロニエ」は英語では「Horse-chesnut」(馬栗)そして、イギリスではConker(トチの実遊び)という子どもの遊びがあるという。マロニエの実に糸を通してつるし、二人でぶつけ合って相手の実を割る遊びである。ダンホセの310kmに及ぶブルゴスからコンポステラへの巡礼の旅はかくして、「大きな栗の木の下」から始まりました。秋の巡礼街道の草花や木々は、どんな表情を見せてくれるでしょうか。再びシリーズで掲載していきますのでお楽しみください。 《花の名一口メモ》セイヨウトチノキ(マロニエ)(マロニエの花:4,5月に咲く。マロニエの並木道はこの白い花が天に向かって咲き乱れる) 学名:Aesculus hippocastanum トチノキ科の落葉高木、25m~30mの大木になる。別名「マロニエ」は、フランス語「marronnier]から由来している。実は食べられない。原産地はギリシャ北部、トルコ。バルカン南部、トルコ、ブルガリア、アルバニアでは、ブナや栗などの樹木と共生して森を作っている。1590年代にヨーロッパの温暖な地域に、街路樹や公園の植栽として導入された。 学名のhippocastanumは「馬栗」を意味し、英語名と同様にその実を馬や家畜の飼料に使ったり、ウマの咳をなおす薬に用いたりしたことからこのような名があるという説がある。 又、甘栗と区別するために、大形で野卑なクリという意味を「馬栗」とした説もある。種子からデンプンをとり、それを焙煎してコーヒーの代用としたり、発酵させて、リキュールを造り飲んだり、種子からタンニンやサポニンを除いて粉末にして、小麦粉やライ麦と混ぜて焼いて食べたりした。若芽はビール製造時のホップ代用として使われた。などなど、日本の栃の木にもどこか似ている。薬用としても古くから用いられたいる。ドイツなどでは、痔や子宮の出血のための止血剤として使用された。(マロニエの花の写真は、Champ Yves:Le site aux mille Champignonsからお借りしました)
2006.12.11
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Danjoseの花歳時記ーサンティエゴ巡礼街道(番外編) (厳しい炎天の峠越え) サンティアゴ巡礼街道シリーズを書き終えて。 Danjoseさんの写真で旅したサンティアゴ巡礼街道430キロメートル。Mr.Danjoseの写真に文を添える作業を通して、実際に、この巡礼街道を旅したことのない私自身にも、この巡礼街道はとても愛おしく身近なものとなりました。巡礼街道430キロメートルの田舎道を、文字通りの徒歩で、しかもアルベルゲという粗末な宿泊施設で、連日歩き続けるという旅なのである。(男女共用のトイレとシャワー。2段ベットの大部屋だけというシンプルさ)しかも60歳半ばという年齢である。Danjoseさんのこの旅の道連れは、その生涯の伴走者でもあるMrs.Dajoseである。日常の快適な物質文明の生活に慣れきっている老年期の夫婦が、キリスト教徒でもないお二人が、ごく普通に日常の延長として歩き通されたことが素晴らしい。便利で快適な車やホテルを使って旅することも出来たはずなのに、あえてシンプルで素朴な旅に挑戦された、そのお二人の気力体力には脱帽である。世は今、まさに高齢化社会の到来を喧騒している。高齢者人口が全人口の20%を超え、子どもの人口を追い抜いた。老齢者が病院から追い出され、行き場なく街に溢れようとしている。働かぬ者として、見捨てられ、孤独に死んでいく老人も多い。働かぬ若者も街に溢れているが、これも見捨てられている。人生のの旅路の果てに人は何を見るか。人生の旅路の果てに人はどう生きているか。 高齢者の集団は、今、長い年月生きてきた智恵と技を更に高めて、次世代に役立てることを強く求められているのではないだろうか。社会のあらゆる分野で継承すべきものを老人は更に磨くこと必用ではないか。身近には、子育て、教育の分野、これは高齢者が最も力発揮できる場であるはずだ。家庭や、地域や、職場で、人を育てる分野で老人の智恵がもっとも役立つはずだ。(特に女の老人が多いのだから)老人福祉といえば、介護とか老人施設のことばかり(これも大切であるが)では、ちょっと寂しい。社会の接点をどこかで持ち続け、死ぬ間際まで働く老人がもっともっと多くいてもいいはずだし、きっとこれからは増えてくるだろう。 現在の社会のありようとは異なる価値観、より人間的で豊かな生活スタイルを目指すことが出来るのは高齢者ならではである。そして、そのスローな生活が、社会の大きな流れ、勢力となっていけば、社会全体も変えることが出来るのではないか。ただ、昔を懐かしむ懐古趣味、復古ではない。より革新的な新しいスローで豊かな生活を追及できる最前線にいるのが高齢者集団ではないか。老人パワーが社会を変える力となる。そんな老人であり続けることを今、日本の社会は求めているのでは。死ぬとき、どんな死にざまで死ねるか。生きてきた証としてどのように死んでいけるか。この問いを自らにも厳しく問い続ける日常でありたいと「巡礼街道」を旅して、思いを深くした婆さんである。(注:バンブローナから聖地コンポステラまでの道程は、計700キロメートル、 Mr.& Mrs.Danjoseが歩いたのは、その行程の中の420キロメートル。 途中ブルゴス→レオン→ポンフェラーダは、列車で移動しました。)
2006.08.21
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Danjoseの花歳時記(外国編)-サンティエゴ巡礼街道(8・最終回)旅路の果てサンティエゴ・デ・コンポステラバンブローナから430キロメートル、歩き続けた、20日間。長い厳しい旅路の果てに遂に到着、聖地コンポステラ。9世紀、聖ヤコブの墓が発見されてまもなく、お墓の上に建立された聖堂。その聖堂はいったんイスラム軍によって破壊されたが11~12世紀現在の大聖堂に改築。ガリシア産の切石を積み重ね、過剰なまでの装飾が施された外観はスペイン独特のバロック様式の典型である。その黄金に輝く威容を誇る聖堂は、今日も長い厳しい旅路の果てにたどり着いた巡礼者をなぐさめている。大聖堂の裏門からアーチをくぐると、最終目的地・聖堂前のオブラドロ広場。さまざまな国から、さまざまな思いを抱いて、たどり着いた目的地。その無事の到着に安堵して、三々五々と門をくぐっている。 ロバで到着した巡礼者。サングラスをはずした時、その盲目の目から涙が溢れていた。自転車で到着した巡礼者たち。 中世の巡礼者の衣装を身にまとった巡礼者(左端)と記念撮影。堂内に入った巡礼者は、まず「栄光の門」の柱に手を押して祈りを奉げる。長年にわたるこの儀式のために、大理石の門柱は5本の指の跡がついている。 (栄光の門:写真では見えないが、下部の大理石の柱には指の跡がある)巡礼者のためのミサこのミサの最後の儀式、お香を堂内にダイナミックにまき散らす、壮大な儀式:ボタフメイロである。 (巨大な香炉が宙吊りになっている。この香炉が滑車装置の力で空を切り香をまきちらす) ボタフメイロ(香炉) 高さ90センチもある鉄製の香炉。銀メッキを施した美しいデザインの香炉。この香炉を長さ60メートルもある綱で、聖堂の一番たかいところから滑車装置を使って、巨大な香炉を猛スピードでアーチ状に揺らして、堂内にお香の香りで満ちさせる。とても壮大な巡礼の終りを飾るにすばらしいショーである。中世の汗まみれの巡礼者たちが堂内にたどり着いたとき、カテドラル内に満ちる悪臭を消すために始まったこの儀式。世界でここだけで行われている儀式である。 (写真:香炉をぶらさげた大きな棒。この香炉に木炭と香を注ぎ込み、滑車装置の綱にゆわえて、カテドラルの空間を猛スピードで揺らす。香炉は巨大な飛行物体となって、火花を散らし、香を堂内に充満させていく) 巡礼の終りに、400キロに及ぶ巡礼の旅はかくして終ろうとしている。ガリシア地方は海に面しており、スペイン一の漁業の地でもある。魚介類、とくにタコ料理は美味しい。 (シーフッドのレストラ のショーウィンドウ:豊かな海の幸が並ぶ、ゆでだこの足を逆さまにして飾ってある)シーフッド料理を満喫して、心地よい疲労感が旅を無事に健康に終えた安堵とともに体中を満ち足りたものにした。次への老いに向かって、身も心も健康であることのありがたさその気力のみなぎることのありがたさを静かに、しかし厳しく教えてくれた道。この巡礼の旅路は明日への大きな生きるエネルギーと自信を与えてくれた旅。世界の各地から、さまざまな人生を背負って、人々が歩く道、巡礼街道。豊かさとは何か、それぞれに静かに問いかけている道、それは、明日へと続いている道。それは、道しるべのない道。自分で作り上げて歩んでゆく道。さぁ、また明日から歩き続けよう。
2006.08.15
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Danjoseの花歳時記(外国編)-サンティエゴ巡礼街道(6)湿ったスペイン、緑豊かな、ガリシア地方の入り口、ビリャフランカ峠とセブレイロ峠。中世の巡礼者たちのなかにはこの2つの険しい峠越に、たどり着く前にある者は病に倒れ、ある者は行き倒れとなり、聖地にたどり着けずに頓挫した旅人たちが多数いた。今も巡礼街道を、ヨーロッパの各地から歩き続けてこの峠たどり着くことは、長い時間と、想像を絶する自然との戦いがあり、自己との闘いがあるはずだ。険しい峠越えの前夜に巡礼者たちの心を癒し、つかの間の休息を与える宿、ボランティアの協力で運営し建設している巡礼宿。ハト家の家族が巡礼者のボランティア協力を得て運営している巡礼宿。現代版救護院)細い急な山道。険しい山道。高度が上がるにつれて、ヒースの花、花、その尾根を経て、反対側の山の斜面に、松、栗、樫の木がうっそうと続く、さらに進めば、全山、栗の木でこんもりとおおわれた景色となった。その登りきったとき、広がった栗林の風景峠に立つ時、この眼前に広がった景色の明るさ、大きさが喘いだあの道、あの坂が愛おしくさえ感じられる。峠立つ空はあくまでも高く、広い。限りなく続く道、峠の向こうにある物は何か。ビリャフランカ峠をロバに乗って通り過ぎる巡礼者。威厳に満ちた、頑固そうなおじいさん、彼の人生はどんな道であるのだろうか、人生の重みを感じさせる風貌のおじいさん。この辺りは、サクランボの産地でもある。沿道には街路樹に至るまで、濃赤紫のサクランボがたわわに実っていた。 (レオン市場で売られているサクランボ、とても美味しいく値段も安い) ガリシア地方は酪農が盛んな地。零細な農家が多く、酪農と果樹、酪農と野菜などと組み合わせて農を営んでいる。スペインには珍しく、多雨、湿潤なこの地域。その自然の営みにあわせて、営々と営まれてきた農業。 (朝霧の中に浮かぶオレオ・穀物倉庫)ガリシア地方は多雨で湿潤のため、穀物の貯蔵庫として、下の写真のような「オレオ」というものを、農家は庭に備えている。この構造は、日本の校倉作り(正倉院)のように、通気性のよい壁と、「ねずみ返し」の高い床を備えている。日本の気候風土に似たガリシア地方。紀元前2世紀にローマに征服される前、ケルト系のガラエキ人が居住していた地。ガリシアはこの部族名に由来するという。全体に山がちで耕地に恵まれず、全体として零細な農家。年間降水量も多く、ブナやカシの森林が多い。日本人にとても親しみのもてる地、ガリシア。日本の零細な農業が壊滅的打撃をうけているのに、今尚、このように変らぬ姿のスペインの農。ケルトの面影さえ残す村、この差異の意味するものは何か。文化の豊かさとは何かを、私たちに深く考えさせるガリシアの地。
2006.08.06
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Danjoseの花歳時記(外国編)-サンティエゴ巡礼街道(7)いよいよ聖地ガリシア地方へ歩き始めたバンブローナから遂に260キロメートル。最大の難所、標高1300メートル、セブレイロ峠。険しい山道が続く巡礼街道。だが山を越えれば、スペインでは珍しい多雨、湿潤なガリシア地方。聖地コンポステラにあと一息。あえぎあえぎ、休み休み登った風も冷たいセブレイロ峠。 峠を上りきると、美しい茅葺の屋根の集落が現れた。古代ケルトの面影を今に残す集落。今も尚、変らぬ農を営み暮らしている人々がいる、営々と家を守り、この土地に根を張って生きている人々がいる。気の遠くなるよう時間を繋いで。壊れかけた納屋、ニワトリが土をついばみ、小屋の後ろには小川が流れて、牧草地がある。渓流沿いにある牧草地(プラート)とユーカリの木。強い日差しと乾燥した気候、赤茶けたスペインの大地を、多雨で湿潤なガリシアの気候が木を茂らせ、緑豊かな大地にしている。山の斜面を切り開いた放牧場、山々の木々の緑、多雨であることの恵みをうけて、草を食む牛たち。牛たちは、朝、群れをなして、自分たちだけでも、堂々と歩いて、放牧場にいく。道路は牛の糞、糞、糞…ここには、50年前、100年前と変らぬ、農の営みがある。それは、現代の私たちが失ってしまったもの。中世のままの山村の風景、朽ち果てそうになりながらも、人々が守っているもの。朽ちかけた村の教会。その扉には、剣十字架、ワイングラス、巡礼のシンボルである帆立貝が彫られている。長い年月、風雪に晒され、村人を巡礼者を見守り続けてきた教会、その時間の重さよ。セブレイロ峠超えの険しい道を上り、超えていくとき、人々が出会う村。そこにある日常は、あまりにもおだやかで温かい。生きるとは何を受け継ぎ、さらに豊かにして、次にバトンタッチすべきかを現代に静かに語りかけている。辺境の地さえ、均質な文化に侵略されている現代、この巡礼街道の風景は、私たちが生きる原点に立ち返るよう警告している。セブレイロ峠の道標。ここからCalicia,コンポステラまであと150キロメートル。
2006.08.05
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Danjoseの花歳時記(外国編)ーサンティエゴ巡礼街道(5)中世のたたずまいを今に残して、旅人の心を慰める村標高千メートルのサン・ファン・デ・オルテガに咲くアンゼリカとルビナス暗い松林をてくてくと際限なく歩き続けるとぱっと視界が開け小花の咲き乱れる野。その向こうに古い教会の尖塔が見えた。教会と数件の民家しかない小さな村、サン・ファン・デ・オルテガ中世の面影を今に残し、数百年変らぬまま、巡礼者のこころを癒し、励まし、明日への活力を、にんにくスープでもてなし続けているサンファン教会 (中世のままのたたずまいの村と教会の尖塔)その教会を望む草原に咲くアンゼリカ可愛らしい白い小花がスペインの照りつける夏に涼やかに風に揺れている。 (アンゼリカの花が咲く野)中世ヨーロッパでは、その強い香りから、魔女の霊が宿る草として知られたアンゼリカ。その根や茎や葉や種子は、薬や香料に人々は使った。 (ルピナスとアンゼリカが競い咲く野)白い小花に混じって野に咲く紫の花ルピナス根瘤バクテリアが、土壌を豊かにするという。他の花々と共演して咲き乱れている。行き倒れそうになりながらこの村にたどり着いた巡礼者たちの心を慰め、勇気づけ、千年のながい時間を変ることなく咲き続けてきた花、花。そして、身に染み入る暖かなスープで旅人の疲れを癒し続けてきたサンファン教会。悠久の時間の流れのなかで、今日も静かに変ることなく、旅人に生きることの意味を問い続けている。 (中世そのままのサン・ファン教会。巡礼者たちがほっと一息、広場でおしゃべり。サン・ファン教会を訪れた観光客の車がなければ中世そのままの景色である)花の名一口メモ :アンゼリカセリ科の多年草、ヨーロッパのアルプス地方原産。茎は高さ1~2メートル、上が枝分かれして、夏に緑白色の小花が多数傘のように集まって咲く。干した根や茎や葉、種子は胃腸薬、興奮剤に利用される。又、根から抽出した精油は、リキュール類の香料に使われ、茎や葉柄はケーキの色づけ、香りづけに使われる。乾草葉はハーブティーにも使われる。日本にも別種ではあるが、同じ仲間にシシウド(獅独活)が自生している。(日本い自生しているシシウドの花):季節の花300ルピナスマメ科、北アメリカ、中南米、アフリカ、地中海沿岸に広く分布し、約300百種が知られている。和名は、花のつき方からノボリフジ(登藤)、葉の形からハウチマメ(葉団扇豆)という。根瘤バクテリアの性質から土壌改良の有機肥料としても用いられる。又、ムシよけの成分も含み、防虫効果にも役立っている。
2006.07.22
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Danjoseの花歳時記(外国編)-サンティアゴ巡礼街道(4)海抜千メートル余りの峠越え、高度が少しづつあがるにつれ黄色のエニシダの花が旅人のこころを慰める。 (サリア前:満開のエニシダの大木)北風の吹きつける尾根に列をなす風車。エニシダも厳しい自然の環境に、その姿を合わせて、地面に低く這いつくばり、その花を咲かせる。 (ペルドン峠と山稜の風車・エニシダは低木となって咲いている。スペインの風力発電量はドイツに次いで世界第2位。日本の風力発電量の10倍)エニシダの咲く山道。坦々とどこまで続く山道。 (巡礼の道・旧道と並んで、アスファルトの新道が走るっているのが見える。) エニシダはその昔、ローマ人やカルタゴ人がその繊維からヴェールを織ったという。そして、あの空飛ぶ魔女の乗るホウキはエニシダの枝から作られているという。そして、ナポレオンの大陸封鎖下のフランスでは、ベットのシーツを織る原料になったというエニシダ。地中海の地に生まれ、そのいのちを千年にわたり繋ぎ、人々の暮らしとともに生き延びてきたエニシダ。戦火をくぐり、吹きすさぶ北風に耐え、ある時は人間に寄り添い、いのちを今日につなげて咲くエニシダ。巡礼街道をゆく旅人に今日も咲き誇っている。(ペドラヘ峠に咲く満開のエニシダの大木。巡礼街道を導く標識・貝と↓のマーク。巡礼者はこの標識を頼りに旅を続ける)花の名一口メモ:エニシダ(金雀花)マメ科の落葉低木。5月ごろ黄色の蝶形花が咲く。ヨーロッパ中西部の原産で地中海沿岸に分布しヨーロッパに広く野生化している。70種ぐらいある。日本には、江戸時代初期に渡来したとみられる。緑色の細い枝が竹箒のように伸びて、目も覚めるような黄色の蝶形の花を咲かせる。花の鮮やかさを、高浜虚子は「えにしだの黄色は雨もさまし得ず」と詠んでいる。ヨーロッパにおいては、生活のなかに深く入り込んだ植物であり、伝説や物語のなかにエニシダはしばしば登場する。花や茎には興奮性のアルカロイド・スパルチンが含まれており、イギリスでは、かってはつぼみや鞘を塩漬けにして食べたり、若芽をポップの代用にした。ヨーロッパでは実用的な箒(ほうき)としてエニシダが使われていた。その外まだまだ色々あります…人間との関り方が日本の「竹」に似た植物のように私には思えました。
2006.07.17
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Danjoseの花歳時記(外国編)-サンティアゴ巡礼街道(3)星の道何処までも続く麦畑、スペインの初夏の風に、うねりなびく麦の波その青さの大きさよ、広さよ、その麦の青いうねりの中を何処までも、どこまでも続く細い農道地平線の彼方へと続く(麦畑のなか、どこまでも続く道。夕日をあびて、旅人の影が後ろからついて来る)朝は、自分の長い影と向き合って、行く手を指し示す道。そして、その一本の道の先に、どこまでも青く広い空がある。 (朝日をあびて、長い影がのびる) 夕べは自分の影を後ろに、来た道を確かめる。 (葡萄畑のなかを一筋の道が続く、どこまでも続く)西へ、西へと進む道、サンティゴ巡礼街道。サン・ジャン・ド・ポーから、嶮しいピレネー山脈を越え、朝は、自分の影を踏み、夕べは自分の影を後ろに、そして、夜は、天に横たわる天の川に沿って、西へ西へと古代ケルト人が進んだ道。中世のキリスト教巡礼者たちが、過酷な天候や自然と闘いつつ西へ西へと進んだ道。ある時は病に倒れながらも、嶮しい上り道を、照りつける焼け付く下り道を雷のとどろく嵐の山道をあえぎ、うなだれ、寒さに震え、萎える気力をふりしぼり進んだ道。そして、今も人々は、この中世の巡礼の道を、泥にまみれ、汗にまみれ、ひたすら歩く。 (旅人の足跡)その道の果てるとき、人は何を見たか。その道が終るとき、人は更に歩み続ける道を見つけたか。サンティアゴ巡礼街道一口メモこの巡礼の道はキリスト教徒にとっては3大巡礼路の一つである。ローマの聖ペテロの墓を詣でる第一の道。エルサレムのイエスの墓を詣でる第二の道。聖ヤコブ(スペイン語ではサンティアゴ)の墓を詣でる第三の道サンティアゴ巡礼街道。1960年代に「サンティアゴ巡礼街道友の会」が結成され、巡礼奨励活動と古い巡礼路の復旧、保存、標識の設置、宿泊施設の増設・整備などが行われ、1990年には、フランス側、スペイン側それぞれ約800キロメートルがユネスコの[世界遺産]に登録された。巡礼路は幾つもあるが、フランス側からピレネー山脈を越えて、イベリア半島を横断して、サンティアゴ・デ・コンポステラに至る740キロのコースが幹線ルートである。巡礼路にはロマネスク様式の教会や修道院など中世そのままの風景が今も息づいている。現在では年間10万人の人々が歩いていると言う。中世さながらの細い泥の道、粗末な宿泊施設、およそ現代の快適な文化を拒絶したこの巡礼街道は、日常の自分自分を見つめなおし、新たな生きる道を模索する道として、現代人の心を惹きつけている。黛 まどか著 :「星の旅人」 スペイン奥の細道 (光文社)これは俳人まどかさんがサン・ジャン・ピエ・ド・ポールからピレネー山脈を超え、聖地サンティアゴまで48日間900キロを歩いて旅した紀行文である。詩人としてのまどかさんが、自身の持っておられる詩人としての感性、人柄を通して、世界中のさまざまな旅人と交流し、豊かな人格を旅を通して創り上げていくさまが素晴らしい。日本にもこのような女性が誕生している。新しい女性像として頼もしく感じた。ぜひ若い人々に読んで欲しい1冊である。
2006.07.11
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Danjoseの花歳時記:外国編ーサンティアゴ巡礼街道(2)1日20~30キロを歩く巡礼の野道。その3日目はリオハ。スペインで一番良質なワインができる葡萄の産地。葡萄やオリーブ畑の丘陵地が続きます。 (リオハの葡萄畑)じりじり照りつける炎天の道。ほとんど木立のない麦畑の野道。ただひたすら歩く、歩く野道。巡礼街道。 (リオハの野に咲く花)そんな野道の清涼剤は、菜の花とケシとエニシダの咲き乱れる野。鮮やかな紫のアザミの群生。照りつける炎天で荒々しく野に群れて咲く。(鮮やかな紫、アザミの群生。写真状態が悪く、紫色がきれいに出ていないのが残念!)薊(アザミ)の花は干されて、その昔、布を毛羽たてるのに使われた。「ラシャかきぐさ」の名をもっていたりする。そして又、15世紀の建造物の柱頭の飾りにもなったアザミの葉。スコットランドとイングランドの戦いの時、スコットランドを勝利に導いたという伝説のアザミ。スコットランドの国の花、アザミ。ヨーロッパの昔の人々の暮らしのなかで共に生活し生き続けてきたアザミ、今に、そのいのちをバトンタッチして世界から集まってくる人々の行き交う巡礼街道で、人々の目を奪い、心をなごませて、炎天のスペインの空に咲く。 (炎天に咲くアザミとケシ) 花の名一口メモ : 薊(アザミ)アザミの仲間は、地中海沿岸、北アメリカおよび東アジアなど暖帯から寒帯まで広く分布し、約250種ある。日本には60~70種も日本各地に生育している。初夏に咲くのは「ノアザミ」だけで、大部分は夏から秋にかけて咲く。アザミの名は万葉集には見当たらず、10世紀初頭の「新撰字鏡」に「阿佐弥(あさみ)」と出る。語源には諸説があるが、葉のギサギサの切れ込み「キザ」から「ガサ」がおこり、さらに「アサミ」に転じたもの。「ミ」は実のことであろう。アザミの葉は食用として、塩茹でにして水にさらし和え物や炒め物に、ゴボウのように香りのよい根はキンピラなどに美味しい。生薬として根を水洗いして天日に乾草させたものは、「薊(ケイ)」と呼ばれ、血圧降下作用、利尿、解毒、止血に、強壮剤としては月経不順、子宮筋腫、鼻血、などに用いられている。ヨーロッパの「薊の歴史」はフランスの「Grand Larousse」から引用しました。写真のスペインのアザミもフランスのノアザミ(chardon des champs)と同じではないかと思いますが、特定は避け「アザミ」としておきます。間違いあらばご指摘ください。いずれにしても、鋭いたくさんのトゲが葉や茎にあり、近寄りがたいアザミですが、色々な効用があるのには驚きました。長い歴史のなかをたくましく生き抜いてきたアザミだとわかりちょっと感動。私は生け花の花としてのアザミが好きですが。秋のサンティアゴのアザミは枯れて野に立つ。
2006.06.30
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Danjoseの花の歳時記・外国編ーサンティアゴ巡礼街道(1)キリスト教文明が最も栄え、花ひらいた中世ヨーロッパ。サンティアゴ・デ・コンホステラ(Santiago de Compostela)、スペイン北西部・ガリシア地方にあるこの宗教都市は、11世紀以来ヨーロッパ中の巡礼者の集まる一大巡礼聖地として栄え発展した。千年を経た今も尚、この都市には、ヨーロッパは勿論のこと、世界中から巡礼街道を徒歩で、自転車で、数百キロメートルの道を旅して巡礼者たちが集まってくる。Danjoseの歩いた巡礼街道、パンプローナからコンポステラ420キロメートル。その道々で出あった花々をシリーズで掲載します。先ず1日目、パンプローナから巡礼の旅は始まりました。青々と広がる麦畑、その一画にケシの花が混じりあいはてしなく広い空間に青と赤の絶妙なコントラストとなる。(ウテルガ;麦とケシの続く丘)雨が降ればぬかるみ、風がふけば土埃が舞う野道歩く足にやさしい弾力のある土の道現代の都会が、そして農村さえも失くしてしまった泥の道旅する人がそれぞれの思いを抱いて日照りの道を、嵐の道を、雨降る道を踏みしめて、今日も歩き続ける(リオハの野道:Riojaはスペイン一のぶどう酒の産地、日本のへの輸入もこの産地のものがほとんどである)(リオハの野道:ケシの花咲き乱れる道)(菜の花と芥子)菜の花と芥子が共演して咲き乱れる野、5月の巡礼の道。千年の古の巡礼者たちもこの花々をみていたか。ケシは千年のいのちを今日に受け繋ぎ咲き誇っているのか。花の名一口メモ : ケシ(芥子)芥子(ケシ)の原産地はトルコなど地中海沿岸地方。新石器時代のスイスの湖上住居遺跡から、食用にされたらしいケシの果実と種子が出土している。ギリシャ時代には、すでに果実の催眠性が知られていた。ケシの名は「芥子(かいし)」から由来したが、中国の本来の芥子はカラシナの種子である。日本には平安時代にもたらされ、ケシの種子を焚いてその香りを衣服に移したことが「源氏物語」に載っている。江戸時代には観賞以外に、若菜を野菜として、種子を炒って食用とした。現在日本はその栽培が観賞用としても禁止されており、庭でも勝手に個人が栽培できない。
2006.06.26
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