仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2006.01.03
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カテゴリ: 仙台



先月だと思うのですがが、東光寺裏の横穴遺跡が仙台市の文化財審議会から指定すべしとの答申があったとの新聞記事がありました(ちょっとあいまいな記憶)。
政宗の仙台開府以前は、現在の仙台市内では岩切が最も栄えた場所だったという。

2年前に青麻神社に初詣した際に、妻の数えの厄年でもあり(30代の方のです。)家族でおはらいをしてもらったのですが、その際に地域の歴史に関する書籍が置いてあったので読みました。宮司さんが何かの委員をされていたのでしょうか。青麻神社も千年以上の歴史があると知りました。関心を持ちながらも、調べもせずにいましたが、先月の新聞記事に促されて、すこし調べました。

青麻神社は、伝によれば852年に穂積保昌が山城国から来たりて、里人に麻の栽培を教え、また一族の尊崇する三光神を清水湧く山峡の岩窟中に奉納したのが創始。中世には義経家臣の清悦仙人が霊験を顕したため祀られている。古来より中風病と海上安全の信仰があり、各地青麻神社の総本山。(青麻神社HPから)

岩切地区の歴史概観(仙台市の関係資料から思い切り圧縮)。
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○平安まで
 岩切周辺は縄文時代から人が住み着き(燕沢遺跡など)、弥生時代後半には豪族が成立(入生沢横穴式古墳、千人塚古墳など)、大和朝廷の確立の頃には開拓が始められ、大化の改新の後に陸奥国は中央政府の支配下に入る。8世紀には多賀城が国府・蝦夷鎮守府として東北の中心都市となるが、岩切周辺の住民も築城の労力として使われたと思われる。
 また、聖武天皇の命で国ごとに国分寺が建立されたが、仙台市木ノ下の国分寺の土台の石が岩切の石とされる(「岩切」という地名の由来についての一説)。
 平安時代になり征夷大将軍坂上田村麻呂は蝦夷を岩手県胆沢まで征服し、蝦夷鎮守府は胆沢に移された。この際、田村麻呂は利府の阿久玉姫の間に千熊丸をもうけた。千熊丸が沢乙の奥を歩き朝日を拝んだとされる「天拝坂」の地名が残る。なお、もともと京の人であった阿久玉が多賀城に旅立つ際に、悪人に逢ったら醜女に、善人に逢ったら美女に見えるよう観音様に祈願した。残り1里のあたりで池の水を鏡にし旅の汚れを落とし化粧をしたという(鏡ヶ池、化粧坂の伝説)。
 また、この時期,「途絶(緒絶)の橋」と「十符の菅」が歌に詠まれている。十符の菅薦は後に松尾芭蕉も触れている。
○鎌倉・室町
 頼朝の鎌倉幕府が開かれ平泉藤原氏が滅亡すると、御家人の伊沢家影を留守職に任命(後に留守と改名)。その後の多賀城一帯は,朝廷への配慮と貧弱のためか、岩切城(高森山)を本拠地とする。
 家影は京の八坂神社を分霊したが(祇園牛頭天王社)、鎮座場所が変遷、これを戦国時代伊達政宗がもともと志波彦神社のあった場所に移したのが現在の八坂神社。志波彦神社は塩釜神社に移され、その社を八坂神社境内に冠川神社として祀っている(冠川は七北田川の別名)。
 仏教も陸奥国まで伝わり、現在に石仏や石碑(板碑)が多数残されている。東光寺比丘尼の板碑。また慈覚大師が夜中に作ったとされる磨崖石仏など。
 南北朝の争乱の影響で、岩切城を舞台に吉良貞家と畠山高国の抗争が繰り広げました。岩切城の前衛である東光寺城(余目城)が吉良に攻撃されると、岩切城の四方の絶壁に残り少ない蕎や米を撒いて富裕を装い敵を欺いたと言う(「蕎米坂」の由来)。
 室町時代には、新田開発など豊かになると冠川(七北田川)流域に市が開かれた。
○戦国以降
 4世紀にわたる守護大名留守氏は水沢に移る。古くは留守の家臣であった兵藤大隅俊信は、今市に移住し、新道開設と新田開墾に励み、町を宿にして献上したいと申し出たところ、伊達政宗が大いに感心し、新町取立免状を下付した。これが岩切新町(今市=新しい市場の意)であり、新田開発に携わった足軽を供養するのが耕田寺である。また支配人頭として尽力した鎌田九郎の墓が東光寺山門にあり、百文も褒美を高くした功績から「百文囲」の地名が残る。
 江戸時代、岩切は塩釜・石巻に通ずる街道筋で茶店や宿で繁栄した。湯豆腐(うどんのような物)、比丘尼坂の甘酒、燕沢のはねこうさぎの民芸品、今市おこし、台ヶ原のてんのこにぎり、などが特産品だったという。
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今日の私は1人で、まず誰もいない東光寺へ。日陰には踏み固められた氷雪が残り、土も黄土色のまま凍っている。気温はマイナス2度か3度くらいだろうが、風はなく朝陽も当たるので、澄み切った冬の朝という感じ。

境内から、幼稚園の遊具や鐘堂のある方の坂を歩いて登っていくと、奥は墓地になっているが、坂の途中に石仏がある。慈覚大師の石仏か。審議会が答申したという横穴群は見えなかったが、本堂の裏手で見えないのだろうか。坂から眺める七北田川の風景は意外と美しかったです。
なお山門の手前の階段のところには、最近建てた石碑があり、芭蕉の「奥の細道」の名の由来として、十符の菅薦に至る道がどうとか書いている、との説明がありました。

その後、八坂神社へ。どこかのおじさんが1人高級な車で参拝しに来ており、ご挨拶しました。私も、参拝。家族の安全を願う。たしかに、勉強したとおり、脇に冠川神社がありました。

江戸時代なら、塩釜さまの参拝の道すがら、岩切で宿泊し大いに遊んだ人も多かったろう。参拝や旅行なんてのは一生一代の大娯楽だったのだろうし。

八坂神社も東光寺も、道路を通行するときに車中から眺めるだけでしたが、地域の歴史をかみしめながら訪れるのも、また良いものだと思います。
ちなみに、この付近では今市橋たもとの和洋菓子「いとうや」が有名ですね。





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最終更新日  2006.01.03 13:17:11
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