仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2008.01.25
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カテゴリ: 東北
ストーンサークルを見てみたい、と言ったらある人は、あんなのタダの石だぞ、見るもんじゃねえ、つまんねぞ、と。たぶんこの人も見に行ったのだ。なおさら行きたくなった。

■参考サイト
大湯ストーンサークル館
 思い立ったら北東北の ページ

昨春に弘前から秋田八幡平方面へ南下する際に、小坂の康楽館や大湯環状列石に立ち寄ろうとも思ったのだが、夕刻も近づており素通りした。名前だけ聞いて想像するしかなかった名所を、実際に足で踏んで見てみるということが、私は好きなのだが、だいたいこういうパターンでは妻がそんなのつまんないでしょ、ただ見るだけだったら写真でいいだろ、と反対することになる。私自身も、その名所や旧跡そのものに特別深い思い入れや興味があるというよりは、子供の頃から聞いた名前だ、折角近くを通っているからその場に居合わせてみたいという思いが強いのだろう。いつまた来ると知れない好機、今行かないと後悔しないか、地図がオレを呼んでいる、と何か期待感と義務感とが混ぜ合わさったような思いだ。

子供の頃、石にまつわる話としては、他に殺生石、北投石などに興味を持って、何々県にあるんだな、と思いを馳せていた。彼の地を訪れる夢が実現したのは最近のことで、那須の殺生石は5年くらい前、玉川温泉の北投石はやっと昨春だ。

あとは大湯のストーンサークルだ。未だ見ぬ遺跡。今は学ぶことしかできない。

大湯の環状列石は、我が国にストーンサークルという言葉を広く知らしめた国指定特別遺跡だ。
(以下の参考:伊藤孝博『東北ふしぎ探訪』無明舎出版、2007年 978-4-89544-466-8)

1 発見

 昭和7年12月大湯町風張台地の耕地整理工事で、野中堂地区から群石が出現。
 付近は謎めいた伝説を擁する地だ。昔から野中堂地区と隣接の万座地区には、「開墾すれば禍が起きる」との伝承があり、さらに群石の北東2kmには三角の黒又山がある。地元では黒万太(くろまんた)と通称し、草木地区の長だった黒沢万太を祀ったとの古伝がある。加えて草木地区は八郎太郎伝説のふるさとだ。
 野中堂の名は、野原に浅間神社が建っていたからとされるが、富士山信仰に関わる浅間神社がなぜここに勧請されたかは謎だそうだ。

2 調査

 前例のない遺跡発掘で専門家の視察が相次いだが、遺跡の正体を解明はできる者はなかった。日中戦争激化のため、地元に結成された大湯郷土研究会がいったん遺構を埋め戻す。昭和17年に東京の神代文化研究所が大規模な発掘調査を行う。これにより、野中堂と万座の巨大な環状列石の全貌が明らかになる。
 戦後昭和21年には朝日新聞のキャンペーンで紹介され、同社の後援で秋田県教委も発掘調査を行う。
 さまざまな説が出された。日時計状組石に着目したある学者は、従来の縄文時代観に見直しを迫る可能性を示した。太陽運行が関心対象となるのは農耕文化段階だからだ。また、これほどの規模の石組建造物を築く定住集団と政治権力が想定される。遺跡の年代は縄文後期前葉(約4000~3500年前)とされる。
 環状列石の説明はいまなお定説がないが、天文施設説、祭祀施設説、集団墓地説などが昭和20年代に出揃った。そして、昭和26年には文部省の文化財保護委員会と秋田県教委を主体に、国の第一次発掘調査がスタート、遺構は大湯町環状列石の名で国史跡に指定。27年には第2次発掘調査。昭和31年に国指定特別史跡。
 昭和40年代以降は本体の2遺跡の周辺の調査に力点が移され、周辺エリアとの関係で遺跡の意味を説き明かそうという地道な努力が続けられた。昭和48年から51年までの周辺遺跡分布調査に基づき、昭和59年から63年及び平成元年から13年まで18次の発掘調査が、文化庁の指導で鹿角市教委が中心となり行われた。関連遺跡として7カ所以上の配石遺構が確認された。

3 環状列石の説明

 祭りと祈りの場とする説が、現段階では最有力。
 1万2千年ほど前温暖化による海面上昇で現在の列島の原型ができる。海面上昇がピークとなる縄文前期(6000年~5000年前)には列島の内陸深くまで入り江ができて豊富な魚介類資源をもたらした。陸上でも広大な落葉広葉樹の森林が出現し豊かな木の実や動物をはぐくんだ。大湯縄文人も豊かなムラ社会を形成し、自然を畏敬し死者を悼む心を育てていった。縄文後期前葉(4000年前)になると再び寒冷化。大規模集団生活を支える食糧確保が困難になり、小集落に分散。その時、祭りと祈りの場は、各村の繋がりを保ち季節の折々に再確認する拠り所という新たな意味を帯びた。
 そのための舞台が環状列石だった。各集落の位置などから大湯川と草木川にはさまれた台地を適地とした。
 遺跡の本体をなす2つの環状列石とそれぞれに付随する日時計状組石の配置は明らかに太陽の運行観測にかかわるから、大湯縄文人の四季の確認と年間作業段取りに活かしていたことは十分に考えられる。さらに、誕生や死などの人生の節目も環状列石で祭りを行ったことも考えられる。
 しかし問題なのは、環状列石の周囲に墓域があっても、野中堂と万座の環状列石本体は墓坑を伴わないこと。二重の環帯を更正する配石の下には土坑があるが、副葬品や脂肪痕は確認されない。このおびただしい配石群が、墓でないとすれば何なのか。太陽の運行のみならず月や星の運行も観測しており、配石には個々に固有の意味があるのだろうか。

4 他との関連

 日本では大湯以外にも類似遺跡が多く見つかり、大規模なものでも40カ所以上ある。環状列石は29カ所。いずれも縄文後期のもので、やはり祭祀や集会の場あるいは集団墓地と考えられるという。
 興味深いのは類似遺跡の分布で、29カ所全てが北海道、東北、関東周辺であり、しかも明らかに一群のブロックを形成していること。関東周辺は富士山を中心とした一群の分布とも見える。同様に東北北部は十和田湖を中心に分布、北海道は洞爺湖や有珠山・樽前山あたりを中心にしているようにも見える。これら3つのブロックに、石と円環と天体に強く関心を持つ大湯縄文人の仲間が集中していることは、大きな謎だ。





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最終更新日  2008.01.25 06:05:01
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