仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2011.04.05
XML
カテゴリ: 国政・経済・法律
国民主権は政治の普遍的大前提。そして、選挙はもっとも重要な主権の行使、ということが、細かい議論はさておくとしても、概ね現代人の意識だろう。

浦安市では、東日本大震災で埋立地が液状化現象を起こすなどして、県議会選挙などできないとして選挙事務を拒んでいると報じられている。松崎市長と長野選管委員長が4月1日に記者会見した。選挙したくても安全性を確保できる状況にないというのが市長の説明だ。早速、2日から始めるべき期日前投票が行われない違法状態が生じている。

市長の説明は、ライフライン最終復旧が優先で、市職員が投票所の安全点検にまで手が回らないということのようだ。これに対して、森田知事は、市民が選挙権が行使できないと民主主義の根幹を揺るがすことになる、と首をかしげているという(読売)。このまま投開票ができない状態になると、50日以内の再選挙実施となるとか。

市民の安全性の面でも、民主政の根幹たる選挙を行わない(参政権行使を拒絶する)と自治体が宣言する点も、どちらも重大な事態である。もっとも、浦安の場合について言えば、投票所を変更して安全なスペースで選挙を行う選択肢は少なくないだろうし、市職員以外に「手」を増やす策はいくらでもあるから、私としても首をかしげたくなる。

さて、浦安の問題が報じられるより暫く前のことだが、震災直後の慌ただしさの中で私がこりゃ異常事だと感じていたのは、被災都道府県における統一地方選挙の延期の話だ。

被災が激しい沿岸部市町村を中心に、統一選挙を延期するのは、まったく正しい判断だと思う。市町村の職員は施設復旧や避難者の世話に文字通り不眠不休で対応しているはずだし、所によっては職員数そのものが激減している。選挙をしている場合ではないというのが、市民感覚に沿っている。

ただ、極めて異常事態と感じたというのは、民主政治の根幹たる選挙が自然現象や社会的事情で左右されてしまったことの実感だ。そもそも、国や自治体の政治のありかたは、国民主権原理に基づいて国民や住民(有権者との異同の議論は省略)が決定する。教科書的に考えれば、その重要な具体的場面であり、参政権の行使でもある選挙こそ、何者にも優先して行われるべきではないか。選挙を通じて国民住民が政治を形づくる。ならば、世の中がある限りどんな時も選挙は最優先でないか。国民が主権者で、政治を決める選挙が先。主権者の意思表示を、自然的ないし社会的な事情で先送りするなど言語道断だ、と。

しかし、できないものは、できない。自然の脅威を思い知らされた。当たり前のことなのだが、これだけ明々白々にされると、話を大きくし過ぎるかも知れないが、国民主権あるいは憲法じたいの脆弱性に思い至る。そのことが、私が重大事と思ったゆえんなのだ。

一昔前まで、現行憲法は素晴らしい宝、極端に言えば、国が滅びても憲法守るべし、とでも評すべき憲法礼賛論があった。これら論者の思想基盤には、「普遍的原理」に基づきつつ、全能の国民が主権をふるって国を決めるのだ、なる発想があるように思われた。少しの期間とはいえ、国民住民の信任を得ないまま首長や議員が継続することは、まさしく非常事態で、国民主権を基本原理とする憲法に対する冒涜だ、と厳しく非難するのではないか。勝手にそう思ったが、そういう意見も出ていない。

もともと、憲法ないし政治とはそういうものだろう。教科書的に国民主権で選挙で決めよとの枠組で決められるなら、それは理想だが、その枠組自体が崩れたり歪んだりしたのなら仕方がない。それを憲法が予想していたとすればその対処も合憲的だが、憲法自体が予想していないとすれば、非常事態の対処は憲法の外にある。すなわち革命だ。この辺は、憲法制定権力なる概念を持ちだして合憲と考えるなど、法哲学的にはいろいろな議論があるだろう。

このへん、今回の統一選挙延期とは随分かけ離れた議論になった。選挙の延期は、何も違法や違憲の議論を起こすわけではない。あくまでも風呂敷を広げた私の妄想的な議論だ。改めて断って、論を続ける。

憲法礼賛論には、自然的社会的条件がいかになろうとも憲法という根本は変わってはいけないという思想があるように思う。だが、世界では民族紛争や宗教戦争に巻き込まれながらの国や政体の変遷が少なくない。単一民族単一国家でやってきた日本人には考えにくいのだろうが、憲法が想定している枠組みの外にある要因によってconstitutionは脆弱にも歪められがちなものなのだ。しょせん政治体制とはそういうものだ。

津波で町ごと消失した地域もある。人も減ってしまった。ライフラインも途絶えた。そんなときに、通常のケースを想定した法体系の粛々とした執行を墨守しようとするのは、まさしく本末転倒だ。選挙の多少の延期も構わないだろう。海外なら大統領の任期や再選制限を改正することもあった。

憲法も道具だ。自己目的ではない。世界の歴史はそれを示している。憲法も政体も揺れ動くものだ。国民が主体的に選び取ったり、あるいは外から無理矢理変革させられたり、していた。我が国は平和だった。永遠不変の憲法が常に先にある、という思想もあったほどだから。

こんなことを考えていた。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2011.04.05 06:55:21
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

コメント新着

おだずまジャーナル @ Re:仙台「6時ジャスコ前」の今むかし(11/14) 仙台フォーラスは来月3月から長期休業。再…
クルック@ Re:黒石寺蘇民祭を考える(02/18) ん~とても担い手不足には見えませんけどネ…
おだずまジャーナル @ Re:小僧街道踏切(大崎市岩出山)(12/11) 1月15日のOH!バンデスで、不動水神社の小…

プロフィール

おだずまジャーナル

おだずまジャーナル

サイド自由欄

071001ずっぱり特派員証

画像をクリックして下さい (ずっぱり岩手にリンク!)。

© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: