仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2011.10.28
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カテゴリ: 仙台
澱橋は元禄7年四代綱村の代に架けられ、澱町が割り出された。旧澱町の西が角五郎一丁目だ。

昔観音渕附近に川内亀岡に渡る舟場があって、角五郎という人気のあった渡守がおったので、角五郎舟場と称し、町名になったと言われる。享保17年(1732)製作の「仙臺城下絵図」には角五郎御木場と記載されており、木場(材木貯蔵所)が置かれていた。幕末には河原に調兵所がおかれ、明治からは陸軍の講武所錬兵場となった。
■木村孝文『青葉の散歩手帖』宝文堂、2002年 から

名取川の南岸中田は、江戸時代は宿場町で昭和16年までは名取郡中田村だった。中田村は、柳生、前田、袋原、四郎丸の4村が合併して成立。四郎丸は袋原の南東にあって、田んぼを隔てて東は名取市閖上、南は名取市下余田である。

名取川と広瀬川が落ち合う地点、四郎丸字落合に観音堂がある。やや上流の袋原にあったのを寛永3年(1626)藩祖政宗が落合に移し堂宇を立て、無畏山落合寺と名付けた。昭和26年名取川堤防工事のため、やや南の現在地に移転。

落合観音堂から南1kmに善徳寺があり、その一帯は中世に四郎丸館があったところである。館は、善徳寺を中心に東西300m南北400mの平城で、水濠と土塁に囲まれた要害であったというが、遺構はみられない。館は、藤原秀衡の家臣、名取四郎の居城だったので、四郎丸(丸は城郭の意)が地名になったといわれる。

室町末期に、伊達家家臣で名取四郎の子孫と伝える菅井和泉守実国が四郎丸四十町を知行して住んだという。天文元年菅井常国が名取四郎を討伐した功で、四郎丸に所領を与えられたともいう。
■木村孝文『青葉の散歩手帖』宝文堂、2002年 から

ところで、仙台に住んだ頃は、角五郎は読めなかったし、四郎丸はなにやら歴史くさい地名の印象とバスの終点のイメージ。いずれも楽しい人名地名だ。

こんどは人名地名を集めてみたい。

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最終更新日  2011.10.29 00:28:52
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