仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2013.03.09
XML
カテゴリ: 東北
慶長8年(1603)5月8日常陸54万石を預かる佐竹義宣は出羽国20万石への転封減領の使者を受ける。

犬猿の間柄の最上義光の密告により西軍加担とされた出羽20万石の安東実季は、弁明もかなわず常陸宍戸(友部)5万石への転落。義宣は関東にあって徳川を牽制する立場ではないかと疑われた。しかし、一兵も動かさぬおれがそんなに恐ろしいか、弁明などせぬと義宣は呟いた。徳川の態度に反骨と侮蔑を覚えたのだが、寄って来たる深いものを義宣は見つめていた。

昨慶長7年2月、朝廷は家康に征夷大将軍に補する内意を伝えてきた。しかし家康は今暫くと辞退した。何故か。義宣は家康の腹が読めるような気がした。関ヶ原で敵対した島津の始末が終わっていないのだ。戦後直ちに征討軍をおこす一方、外交による降伏を求めた。真意を疑った島津は長い間ためらった。家康は懐柔のため起請文を送り本領安堵とともに合戦の責めを免ずる旨伝え、12月28日島津問題にけりをつける。こうして明けた慶長8年1月21日に征夷大将軍となり、直後に佐竹氏と安東氏の処分に踏み切った。もしこれが前後していたなら、戦争に加わらない者まであれだけ、と疑念を深めて合戦は免れなかったであろう。

腰抜けめ。義宣は捨てぜりふを残して秋田に移っていった。

義宣はひとまず湊城にはいる。しかし要害に適せずとして、矢留の森、また神明山と呼ばれる地に縄張りし新城を構築。当時この地方の貧困もさることながら常に一戦を考え石垣を積む暇なく、それを五重の堀をめぐらすことで補い、掘り上げた土を盛って土塁とした。また沼地を天然の要害に利用した。城の建造物も土塀と板塀による一階建ての簡素なものである。時に義宣34歳。当時の久保田郷の名から城名を久保田城、別名矢留城とも呼ばれた。

佐竹氏は城下町に深く構想を用いた。町筋いたる所に迷路や袋小路をつくるほかその外側に寺町を設けて一戦におよぶ時の拠点とした。土崎港を久保田の外港に配し、南には雄物川の舟運を利用するとともに、北に能代港を確保することにおいて、産業の上から久保田城を中心とした。

佐竹氏12代270年の基はこうしてでき上がる。

義宣は、実戦の時は国境まで討って出る体制を常に考えていたらしい。久保田城は石垣を用いない城として有名だが、絶えず徳川氏の第2陣が迫ることを考えて、いつたりとも応戦できる体制をとっていた。父義重が敵が御所野まで来たときはどうするかと尋ねると、愚かなこと、南の国境杉峠を越えたる時城に火を放って切腹、と答え領内に敵を入れないことを述べたと伝えられる。

■原典 山と渓谷社編(能坂利雄文)『カラー続城と城下町』(山と渓谷社、1974年)から

■関連する過去の記事
秋田藩佐竹義和の改革 (2007年12月21日)
秋田藩佐竹義宣の改革を考える (2007年12月19日)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2013.03.09 16:52:16
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

コメント新着

おだずまジャーナル @ Re:仙台「6時ジャスコ前」の今むかし(11/14) 仙台フォーラスは来月3月から長期休業。再…
クルック@ Re:黒石寺蘇民祭を考える(02/18) ん~とても担い手不足には見えませんけどネ…
おだずまジャーナル @ Re:小僧街道踏切(大崎市岩出山)(12/11) 1月15日のOH!バンデスで、不動水神社の小…

プロフィール

おだずまジャーナル

おだずまジャーナル

サイド自由欄

071001ずっぱり特派員証

画像をクリックして下さい (ずっぱり岩手にリンク!)。

© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: