仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2016.03.11
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カテゴリ: 雑感
今日は東日本大震災から5周年。自分の脳が記憶を消そうと動いているのを感じていたから、先週から当時の記録本を読み込んでいた。事実や報道を、思い出すと同時に、自分は何ができたのだろうか、という反省や自責が沸き起こる。これが当時を思い出したくないという自動的な脳内の機制なのだろうが。

震災に関しては、実にさまざまなことを論じたいが、ここでは一つだけ。2月24日(火)の朝日新聞の声の欄にあったもの。どうも今でも頭に残っている。

「どう思いますか」のコーナーで、1月19日付の茨城県の読者の投稿「指定廃棄物は福島県内で管理を」について、4人の読者の意見が掲載されている。

その1人目の方の意見だ。

「地元は原発を受け入れ、 潤沢な 交付金を受けてきました。 受け入れの恩恵 は享受するが、原発から出た汚染廃棄物は管理しないというのは無責任ではないでしょうか。原発の廃炉に伴って出るものも含め、廃棄物については立地自治体が引き受けるのは、やむを得ないと思います。国の政策の結果として原発を受け入れたとはいえ、 立地自治体としての責任を免れるわけではない からです。」という記述(文中の赤字は当ジャーナルで施した)。これに続いて、1月19日付けの投稿のような意見をこれまで議論して来なかった政治やマスコミの怠慢を指摘している。角を立てるのを避けるのではなく、あえてこうした問題提起をする趣旨だと結んでいる。

これは、大変驚いた。端的に言えば、福島原発事故の影響を地域の住民が受けている現状は、電源交付金などの恩恵を受けてきたのだから仕方ないという論旨だ。いくら、多角的な意見を広く紹介するという趣旨だとしても、大新聞がこんなおかしな意見を載せるのか、という率直な感想だ。

この人の論理は、全く誤っている。論理的に反駁する気も起きないほど悲しい意見だと反射的に感じてしまい、忘れようとしたのだが、逆に頭に残ってしまっているので、いま、多少論理的に考えてみよう。

まず、論評の対象とされた1月19日の投稿。指定廃棄物の管理は宮城を含め各県で問題となっており、環境省は各県ごとの処理を進める方針だ。私は、指定廃棄物の管理や処分の場所をどうするかは、政策選択の問題だと思っている。投稿者のように福島で管理するのも結論としては一案だ。福島は大変なのだからこれ以上不都合を押しつけるな、という論調も非常に強いが、他県でも不都合を押しつけられている状況は同様であって、そこに、福島の被災者や被災地をことさら優先するかのような「情の先行」があるとすれば、そうではなくてより客観的で合理的な解決策として論議されても良いとは思う。その意味で、1人目の意見が、あえて角を立てようと論陣を張ることはわからないではない。

問題は、その立論のあまりにひどい内容。とんでもない「情」の暴露だ。

まず、原発立地地域はカネもらったのだから何かあったときの不利益を甘受していいというのは、全く筋が違う。立地地域の意識としても、カネを受けて原発立地を許容したのは、雇用が生じる、学校教育施設が向上するなどの地域活性化を期待したからだろう。

そういえば「最後は金目(カネメ)でしょ」と発言した閣僚がいたが、まあたしかに最後はカネだとして、そのカネは危険性を引き受けますからという対価ではないのだ。国策として原子力を推進するため、科学的に検討して選んだ(はずの)特定の地域に対しての折衝を進める上での解決金とでもいうべきものであって、地域側から主体的にアプローチできたものでもない。

百歩も千歩も譲って、電源交付金を配った側の東電や国に、何らかの地域に対する「免責」がある(地域からすれば何らかの不利益を引き受けた)としても、それは、例えば避難訓練の手間や近くに異質なプラントを置くことの抽象的な不安感などを、少し和らげるためという程度というべきでないか。原発運転上の具体的な過誤まで免責するものであるはずがない。被害は極めて広汎で甚大で長期間に過ぎて、この投稿者はたっぷり配ったというかもしれないが、電源交付金の比では全くない。

住んでいた地域に戻れない、コミュニティも分断された、先が見通せない。投書した人は明日に被災地に足を運んで見てほしい。明後日には、離れた場所でまだ何年も暮らさねばならないお年寄りの話でも聞いてほしい。時間が止まったとよく言うが、人間の年齢は進んでいく。

そもそも、この意見はおそらく、まずは(非論理的レベルで)福島事故は人災だ、原発は悪だ、原子力ムラの閉鎖体質が根源、立地地域をカネで黙らせる、などの方式の原子力悪者論が先にあって、そこから後付け的な理屈で、立地地域はカネでこんな悪いことだらけの原発を受け入れたのだ、と一方的に決めつける。カネで受け入れたというだけならまだ良いのだが、それを地域住民が悪の原発コンプレックスの一味だと単純に位置づける。非常に困った見方だ。

たぶん、従来から原発銀座はカネで潤っているとラベルを貼っている人なのだろう。汗流して働く生活を放棄したとでも見ているのか。美しい野山を放射能汚染に晒しても構わないと判断したとでも思っているのだろうか。

そうかも知れないというより、そうなのだろう。悲しいことだ。電源交付金くらいで、その住民と茨城や東京都民とで何がどう違うというのか。

ちなみに、合計で4人の読者の意見があるが、2人目の方は、好きこのんで福島の立地地域が受け入れた訳ではない、豊かな都民が不利益をいやがって地域に押しつけする論理に過ぎない、とする。これは冷静で適切な見解。もちろん私としては、福島で管理すべきかどうかの結論はどちらでもいいのであって、好きこのんで立地地域が原発を受け入れたのではないという見方について、正しいと言いたい。

3人目の方は宮城県の人。事故の影響を受けている福島は負担が大きいことを重視。1人目の投稿者からすれば、それこそ情に流された見解と評されるだろう。

同じく宮城県の4人目の方は、情に流されがちな中で勇気を持った投稿だと敬意を示している。立地自治体も安全神話を信じて国策に協力した自分たちを責めているのではないか、とまで述べている。電力自由化になるので、消費者は事故などにも想像力を働かせて電力会社を選ぶべき、という全くトンチンカンな意見で結ばれている。

被災地域は災害直後の対応や復興に際して、これまでさまざまな局面で反省や後悔はあるだろう。震災前に原発立地を受け入れた判断についても当然さまざまな評価があろう。しかし、原発立地自治体が原発の安全性に関して自責の念をもっているはずなどという論評はまったく当てはまらない。そもそも安全性を担保する立場ではないし、従って(いくらカネをもらったとしても)事故について帰責されるいわれがない。

これも1人目と通底したラベリングだ。

朝日新聞によると、(単純化して言えば)国民の半分はこのような極めて硬直な思考方式で、福島原発立地地域は自治体も住民も悪だと見ていることになる、のか。

私自身は、こう考える。たしかに被災者優先論のような情に流れる風潮があるかも知れない。これと表裏をなして、相当なやっかみ意識が一部国民にあることも事実だろう。具体的には、医療費、学費、生活環境などで国民全般の負担のもとに過度の恩恵を受けているなどとする見方だ。そんな反作用的な「情」の流れがほとばしって、原発事故被災地も過去に恩恵を受けていたなどと決めつけるのだろう。東京など原発立地地域ではない大多数の国民は、もっぱら原発事故を被害者の立場でしか考えないだろうことが、このような流れを増幅させる。

だが、この反作用的な流れは、大変危険だ。メディアには、こんな「情」の善し悪し論議ごっこよりも、せめて率直に被災の実態を読者に報じることに注力してほしい。





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最終更新日  2016.03.13 19:37:59
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