仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2016.05.07
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カテゴリ: 仙台
伊達政宗には、伊達家の系図に記載された子として10男4女がある。うち、十男で多田氏側室との間に生まれたのが伊達兵部宗勝(1621-78)である。政宗50代半ばの子ということになり、最初の子である長男秀宗(宇和島藩主、1591-1658)とは30年の年齢差であり、第二代仙台藩主となる次男忠宗(1599-1658)との間も20年以上離れている。

のちに一関藩主となる宗勝だが、その墓は高知市の吸江(きゅうこう)寺にあるという。なぜか。

忠宗死によりその子の3代綱宗が次ぐ(1658年)が、不作法により21歳で隠居(1660年)となり、綱宗嫡男で2歳の綱村が家督を相続。この間、宗勝は領地一関を分知されて立藩し(1660年)、田村宗良(忠宗三男、62年岩沼藩主)とともに後見役にあたっているが、長年の家臣の間の対立を背景として、宗勝の専横を訴え出た場での寛文事件(1671年)が発生。一関藩は改易の処分を受ける。

遊興にふける3代綱宗には厳しく諌言したが聞き入れられず、伊達家と姻戚関係にある大名や幕府老中と相談して隠居に追い込む。しかし、綱村の代になると実権を掌握して、家中を我がままにしようとした、というのが一般的な宗勝の評であろう。

山本周五郎の作では、伊達安芸に斬りかかった原田甲斐は、宗勝一派としての怨恨や評定の不利を理由に行動に出たのではなく、老中酒井雅楽頭と兵部の間で交わされた仙台藩解体の計画から仙台藩を守る忠義の臣であった。伊達の関係者達を死に向けたのは、密約の露呈を恐れた雅楽頭の仕向けである、としている。

いずれにしても、兵部宗勝は権勢欲にかられた悪者と見られているだろう。一関藩のあった当の一関地方としても、藩主といえば、後で入った田村氏が連想されて、一関の町や学問奨励の気風を形作ったとして顕彰されているような気がする。伊達兵部宗勝のことは話題に上らない、いや、悪役の歴史をあえて語ろうとしない風潮があるようにも思われる。

高知市の公式サイト(高知市指定史跡 昭和42年 伊達兵部宗勝墓 高知市五台山)には、このような説明がある。騒動の責任を問われた兵部は土佐藩山内家預かりとなる。延宝7年(1679)に58歳で死去。
(吸江はギュウコウと読むようだ。)

■関連する過去の記事
江戸時代のビッグな御家騒動 (2011年11月6日)(伊達騒動)
天下の三大お家騒動 (2011年11月3日)(伊達騒動)





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最終更新日  2016.05.07 12:14:06
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