仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル

2022.08.21
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カテゴリ: 仙台
我が国の精神医学の草創期に残る人物に、仙台出身の石田昇がいる。

■参考 秦郁彦『病気の日本近代史 幕末からコロナ禍まで』小学館、2021年

1 石田昇について

東京大学で最初の西欧医学の精神病を講じたのは、ベルツ博士(1879年)とされる。ドイツに留学した榊俶が初代の精神科担当教授となり(1886年)、その一番弟子の呉秀三が1897年引き継ぐ。呉は多くのすぐれた弟子を育てた。三宅鉱一、森田正馬、斎藤玉男、下田光造、斎藤茂吉、内村祐之などだが、出色の一人が石田昇(1875-1940)である。

石田は、仙台藩御典医の家系に生まれ、旧制二高を経て明治37年に東大医学部を卒業、呉教室の助手と巣鴨病院医員を兼ね、多彩な才能を開花させた。

まだ医学生の時代に、セルバンテス『ドン・キホーテ』の翻訳出版、小説(雄島浜太郎の名)などを発表していたが、31歳で大著『新撰精神病学』を刊行して注目された。好評で版を重ね、石田は最新の研究成果で増補改訂を加えた。特に難治とされた早発的痴呆の研究に取り組み、また、第6版(1915年)で最初に分裂病の訳語を採用して定着させた。(なお、精神分裂病は2003年から統合失調症と改称。)

治療の実践面でも、明治40年に長崎医学専門学校精神科教授として赴任すると、開放病棟、作業療法を試行するなど実績を上げた。

そして、大正6年(1917)末、呉教室で7年後輩の斎藤茂吉を後任に迎えて、アメリカ留学に向かった。

後述の事件のあとは、大正14年(1925)12月日本に送還、松沢病院に入院し、回復せずに昭和15年5月死亡する。

医学者の間で半ばタブー視された石田を、精神医学の先駆者として再評価したのは、呉の後任の三宅鉱一、内村祐之に続く第五代の秋元波留夫教授(在任1958-66)であり、その定年退官を控えた最終講義の場だった。その後、長崎医大の中根允文教授が石田について明暗両面の業績を著書にした。

2 石田の起こした事件

1917年単身渡米、ボルチモアのジョンズ・ホプキンス大学に籍を置き、近在のプラット病院精神科に通っていた。1918年11月に、同じ下宿からニューヨークに移った小酒井光次(衛生学者、また不木の名で推理作家)に宛てて、同じ病院の医員が自分を妬んで排斥しようとしていると絵ハガキを出している。その一か月後のことである。石田は、同僚のドイツ系米国人医師ウォルフをピストルで射殺した。

1919年3月の最終評決は、犯行の30分前でさえ正気でない兆候は全くないという病院長の証言を採用して、有罪、第一級殺人罪で終身刑。石田は裁判官から抗弁を問われ、気が付くと拘置所にいた、夢を見ているようだった、と落ち着いた口調で陳述した。

秋元は、この陳述ぶりから、犯行直後に自身の異常を自覚するまでに回復し、正気に戻ったと推定するが、長くは続かなかった。獄中手記では、医師を撃ったのは自分でなく計略に与した多数の米国人だ、などの記述がみられ、中根は典型的な妄想型統合失調症の病像と結論する。

後日の松沢病院の日誌(本人からの聞き取りか)には、看護婦長が自己に恋着す、しかるにドイツ系米人が右看護婦長に執心し、日米間を離間せんとすと考え(なお当時は日独は交戦中)、ついに恋敵、国敵たると思惟する同人を短銃にて射殺、とある。

石田は州立刑務所に収監され、その後州立精神病院に移される。大正14年(1925)12月、5年間の獄中生活を続けていた石田は、松沢病院で呉博士の治療を受けるため、出獄を許され、郵船横浜丸で帰国する。当時の新聞記事には、夫人は郷里仙台で病気静養中で、弟某氏その他ニ三のさびしい出迎え、とある。

出迎えた弟とは、13歳下で東京地裁席検事(現在でいう特捜部長)の石田基のことだろう。鬼検事として知られたが、陸軍機密費事件を捜査中の1926年怪死(松本清張の著作がある)をとげる。

1935年から松沢病院に勤務し石田の主治医となった秋元は、医学生の頃石田の主著を読んだのがきっかけで精神科医に進んだのだった。その頃、病室で重い病状の石田をみるたび、偉才を迷妄なる一肉塊に変えてしまう分裂病とは何者か、との思いにとらわれたという。

松沢病院に移された石田には、恩師の呉秀三などが面会していたが、ジャーナリズムが石田を伝えることはなく、1940年、肺結核でひっそりと死亡。

3 (若干)日本の精神医療の歴史

1に記載のようにベルツ博士に始まる東大の精神科で先駆者たちが育てられた。東大の教授は、精神科専門の東京府立巣鴨病院の医長や院長を兼ねる慣例となった。巣鴨病院の前身は、宮内省下賜金を基に開院した府立癲狂(てんきょう)院(明治12-22年)だが、他にも、江戸期以来の座敷牢や、不備な民間経営の私立癲狂院で療養する場合が多かった。

この時期に耳目を集めたものとして、旧相馬中村藩主の子爵相馬誠胤(ともたね)が狂人として軟禁された座敷牢を、錦織剛清が救出しようと訴訟合戦になった(相馬事件)。明治16年から10年紛争が続き、病死した相馬が毒殺でないことが判明して決着。

この時期は、欧米でも精神病学は未発達で病名や分類も確立していなかった。病院の呼称も、癲狂院から、明治20年代に精神病院に。脳病院と名乗るのが流行した時期もある。明治36年に斎藤紀一が創設、養子の茂吉(歌人)が継承した私立青山脳病院は昭和20年空襲焼失までこの名で通した。

我が国の近代精神医学のパイオニアは、東大精神科と巣鴨病院を30数年主宰した呉秀三だろう。病者の人権、福祉向上も重視し、収容施設の整備増設を政府に献言した。最大の課題は患者収容力の拡大と効果的治療法の開発だったが、約15万人の患者に対して精神病床は官公立1千、私立4千に過ぎず(大正7年呉論文)、大多数は私的監置(座敷牢)と民間療法に頼っている。昭和15年に2万5千床に増えたが、終戦時一気に4千床に転落。松沢病院(1919年に巣鴨から移転)では患者の半数が栄養失調で死亡した。





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最終更新日  2022.08.21 21:12:43
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