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ジョージ・ミラー「マッドマックス フュリオサ」109ハットno44 なんか、パーッと面白い映画! を見たいなと思って、2カ月ぶりにやって来た109ハットです。見たのはジョージ・ミラー監督の「マッドマックス」の最新版「フュリオサ」でした。原題が「Furiosa A Mad Max Saga」となっていて、こっちの方が、初めて、まあ、メル・ギブソンのマッドマックスは、はるか昔に見たことがあるような気はしますが、ほぼ、初めてこのシリーズを見るボクには、映画の外枠というかがわかりやすいと思いましたが、まあ、こだわるほどのことではありませんね(笑)。 で、見終えてですが、ナルホド、人気が出るはずやなあ! と、ズット引っ張り続けるかの展開には納得したものの、少々草臥れました。 多分、これまでのシリーズで、すでに登場しているのであろうフュリオサという女性の、少女の頃に人さらいにあった始まりからの成長譚だったわけですが、とどのつまりのディメンタスとの対決と最終決着のあたりは、ちょっとめんどくさかったですネ(笑)。 でも、フュリオサという、この主人公は、なかなかよかったわい! とか思いだしながら帰り道に、劇場前のポスターを見ると、上の写真ですが、なんだか猿の惑星みたいな様子で映っていて、えっ?こんな顔やったか? と驚いてしまいました(笑)。 1980年代くらいだったと思いますが、はじめの頃の、このシリーズを見た記憶では、まあ、確たる根拠があるわけではありませんが、オーストラリア映画! という印象が強かったのですが、今回も似たような印象を受けました。まあ、この映画が、実際のオーストラリアの風景を撮っているのかどうか、定かではありませんが、要するに、背景の自然がいいんですよね。砂漠とか荒野の感じが、アメリカ大陸の感じでもないし、中国の砂漠とかでもない感じでよかったですね(笑)。 とか、何とかいってますが、前作の「怒りのデス・ロード」とか、どこかでやっていたら、ちょっと見てみたいなと思ったわけで、やっぱり、初体験、面白かったんでしょうね(笑)。 なにはともあれ、フュリオサ役のアニヤ・テイラー=ジョイ、アリーラ・ブラウン(少女フュリオサ)に拍手!でした。監督 ジョージ・ミラー製作 ジョージ・ミラー ダグ・ミッチェル脚本 ジョージ・ミラー ニック・ラザウリス撮影 サイモン・ダガン美術 コリン・ギブソン衣装 ジェニー・ビーバン編集 エリオット・ナップマン マーガレット・シクセル音楽 トム・ホルケンボルフ視覚効果監修 アンドリュー・ジャクソンキャストアニヤ・テイラー=ジョイ(フュリオサ)アリーラ・ブラウン(少女フュリオサ)クリス・ヘムズワース(ディメンタス)トム・バーク(警護隊長ジャック)チャーリー・フレイザー(メリー・ジャバサ)ラッキー・ヒューム(リズデール・ペル/イモータン・ジョー)ジョン・ハワード(人食い男爵)リー・ペリー(武器将軍))アンガス・サンプソン(オーガニック・メカニック)2024年・148分・PG12・アメリカ原題「Furiosa A Mad Max Saga」2024・06・08・no076・109ハットno44追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.08
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「( ̄∇ ̄;)ハッハッハ、古稀だそうです!」 ベランダだより 2024年6月5日(水) 6月5日は、徘徊老人の誕生日でした。70歳、古稀なのだそうです。 年明け早々、半年後の運転免許の書き換えに対して、「高齢者講習」とかが必要だという通知はがきを受け取って、「そういう年齢か?!」 と、なんとなくな覚悟のようなものの必要を突き付けられたのですが、気持ちの上ではガキ化! とでもいうべき、ここのところ得意の退行が進行するばかりで、集まりで交わされるあたりまえの発言に我慢がならないとでもいう、わけのわらない憤激のまま、40代からお付き合いさせていただいていた本を読む会を挨拶一つせず脱会したりで、永年仲良くしていただいたメンバーの皆さん、世間の皆さんに対して無礼千万、意味不明の行動を、あちらこちらで繰り返す醜態の半年で、なにはともあれ、勝手、気まま、まことに申し訳ありませんでした。 と、お詫び申し上げます。 ようやく、年齢相応の反省の気分ですが、まあ、後の祭りですね。 で、とどのつまりは、トラキチ君にいわれましたが、今更! の虫垂炎手術で、人生初の病気入院、全身麻酔体験でしたが軽い病状にホッとしたものの、まあ、何事でもそうなのですが、初めてというのはなかなかな体験でしたが、まあ、そういう次第で60代を終えました。 で、誕生日、当日の6月5日ですが、朝から宅配のピンポンが鳴って、まず届いたのが愛媛の石鎚酒造の銘酒「石鎚」のセットでした。ゆかいな仲間、サカナクン、贔屓の酒屋さんですね。おいしいんですよね、これ。 しばらくして、また、ピンポンで、箱一杯のビールセットでした。世界中のビールの箱詰めです。トラキチクンからのプレゼントです。テーブルに広げて大喜びです。イヤハヤ、ありがとうの一言ですが、とても、封を切る勇気はありません(笑)。 夕食をチッチキ夫人と二人でとりながら、ためらっていると、「どうして、飲まないの?」「だって、飲んだらなくなるし、勿体ないじゃん。」「今日は、焼き肉よ。飲みなさいよ。」「うん、じゃあ、一つだけ。」 ドイツのビールだそうです。ピルスナー、どうのこうのと書いてあります。まあ、どっちにしてもグラスに氷をいっぱいにしてオンザ・ロックで飲むビール ですから、味も何にもあったもんじゃないわけですが、しみる味でしたね(笑)。 で、チッチキ夫人がとり出したのが、最初の写真の徘徊用の帽子です。頭に逢う大きさを探すのに苦労したと思いますが、ありがとう!でした。 フェイスブックとかで、沢山のお祝いの言葉をいただき、ちょっと感激でした。本当にありがとうございます。 まあ、これからは、あんまり人さまに迷惑をかけないことを肝に銘じて、ヨタヨタ徘徊暮らしを続けようと思っています。このブログも、ほとんど生きがいのようになっていて、恥ずかしいのですが、1000冊の読書案内、1000本の映画鑑賞を目標にして毎日更新していくつもりです。どうぞ、よろしくね(笑)にほんブログ村追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)とらきち
2024.06.07
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黒川創「鴎外と漱石のあいだで」(河出書房新社) 不思議な出会いということがありますね。黒川創という人の仕事について、ここのところ読み継いでいるのは、彼の「鶴見俊輔伝」にたどり着く前の下調べ気分でした。サッサと読めばいいだろうということなのですが、肝心の「鶴見俊輔伝」が手に入っていないのです。そんなこんなしていますと、2019年の年明けですね、そのころ偶然、読んでいた佐伯一麦の「麦の日記帳」のおしまいのほうで、こんな記事に出会ったのでした。 一月某日 評論家で小説家でもある黒川創さんが、奥さんで編集者の滝口夕美さん、娘さんのたみちゃん(二歳)妹さんの画家の北沢街子さんと、その旦那さんで地球物理学者の片桐修一郎さんとともに来訪する。さながら黒川組といった面々。 二年前の六月に小樽で授賞式があった最後の伊藤整文学賞を、私は「渡良瀬」で小説部門、黒川氏は「国境 完全版」で評論部門の受賞者となった縁で、付き合いが生まれた。北沢街子さんは現在仙台に住んでおり、二月にご主人の勤務先が変わり、福岡県に引っ越してしまうので、その前に一度妹がすむ街を訪れたい、ということだったらしい。 実は、ここで佐伯一麦と同時に受賞したと紹介されている評論「国境 完全版」(河出書房新社)は、ぼくが「黒川創の仕事」と勝手に題をつけてシリーズで案内しようとしている作品群の中で、今のところトリをとる予定の著書です。今回は「鴎外と漱石のあいだで」(河出書房新社)という、おそらく「国境」という仕事から生まれた一冊を「案内」しようと書きあぐねていたのですが、そこに佐伯のこの記事がやってきたというわけです。 この夏から関心をもって読み継いできた小説家の佐伯一麦と評論家の黒川創の二人が、偶然、伊藤整文学賞でつながっていたということ知って、「あわわ…」という感じで意表を突かれたのですが、一方で、「えっ、やっぱり、つながってるんじゃないか」と腑に落ちた面もありました。 佐伯一麦の「渡良瀬」(クリックしてみてください)という作品を案内しましたが、する中で、なぜ「渡良瀬」という題名なのだろうという疑問が上手く解けないという感じがありました。そこで、こう書きました。「日々のうたかたのような人の暮らしを描く小説の最後に、この風景を描くことで、人の命や生活を越えた時間が小説世界に流れ込んでくると作家は考えたに違いない。」 「渡良瀬」という、この小説作品を読み終えたときの、自分自身の感動の根にある表現に対する、精いっぱいの推測でした。 ところが、ここで案内している「鴎外と漱石のあいだで」のなかに、大正時代、中原淳一の挿絵とセットで一世を風靡した「少女小説」の作家、吉屋信子が父を語ったこんなエピソードが紹介されてがいたのです。 小学生の吉屋信子は、梅雨空の夕暮れどき、自宅のからたちの垣の前に立っていた。こちらに入ってくる人がいて、蓑を着て菅笠をかぶっていた。当時、それらはすでに古風な農村の雨具だったが、強い印象を受けたのは、この客人の顔だちだった。 老顔に白いひげが下がった。ぎろっとした目のこわいおじさんだった。あわてて逃げ出そうとすると、いきなり、おかっぱの頭をなでられた。節くれだった太い指の手で、なでるというより、つかまれた感触だった。 母親は、蓑笠姿のおじさんを平伏して迎えた。役所から帰っていた父親も、奥から現れた。母はお酒の支度をした。客の好物の青トウガラシをあぶるために、女中は八百屋へ走らされた。こうやって大騒ぎでもてなした客が、田中正造という天下の義人とされている人だった。 けれど、円満解決はえられなかった。やがて年を経て、谷中村を水底に沈めるために強制的に土地を買収、村民立退きの執行官吏として、父がその村に出張したまま一か月も帰宅できずにいる留守に、幼い弟は疫痢にかかって危篤状態に陥った。 弟が亡骸となってから、父はやっと帰宅した。夏で、白ズボン、脚絆、わらじ履きの土足のまま座敷に駆け込み、死児を抱き上げて、うろうろと畳の上を歩きまわった。それも束の間、小さな蒲団にわが子のの遺体を戻すと、待たせていた人力車に乗り込み、再び谷中村へと引き返してゆく。 夫を見送ると、母はその場で気を失い、しばらく動かなかった。父が急いで村にまた戻ったのは、強制立ち退きに最後まで応じない農家十三戸を、家屋を破壊しても追い立てる、残酷な仕事が残っていたからだった。やがて、さらなる父の転任で一家がその土地を去ったのち、一九一三年(大正二)、田中正造翁の逝去が伝えられた。 仏壇に線香をあげて、母は言った。 「人のために働いた偉い人だったねえ…」 その人の好物。トウガラシが色づく初秋だった。》 足尾銅山から流れ出した鉱毒が渡良瀬川流域を汚染した対策として、鉱毒沈殿のために広大な遊水地が作られました。その過程で、全村水没の悲劇に抵抗した谷中村の戦いを支えたのが田中正造であり、政府から派遣された郡長として計画を実行したのが、吉屋の父、吉屋雄一だったというのです。 二人の出会いを、吉屋の娘、信子の著書から引いてくる、この手つきが黒川創の方法なのです。大文字で語られてきた歴史的事件のなかに、人の背丈をした人間を配置することで、歴史の姿が変化することを彼はよく知っていると思います。 佐伯の小説が時代の下流に立つ人間を描いているとするなら、ちょうど、それと反対の方角から、やはり人間の姿に迫ろうとする方法といっていいと思うのですが、同じ、渡良瀬の遊水地の話題で、今という時代を生きている二人の作家が別々の仕事の現場で、ほぼ同じ時期に遭遇していることは、ほんとうに、単なる偶然なのでしょうか。 ところで、ようやく肝心の案内ということになるのですが、これが難しい。話題が多岐にわたっていて、まとまりがつかないのです。 黒川創は「国境完全版」のあとがきでこんなふうに書いています。 夏目漱石という作家は、二〇世紀初頭のたった一〇年間を、創作に心血を注いでいき、そして死んでしまった。彼は時代への参加者でありながら、優れた傍観者でもあった。私には、その人柄が、ほほえましく感じられる。森鴎外という人が、支配体制の枠組みの中に辛抱してとどまりながら、つい、時々は、崖っぷちのぎりぎりまで覗きに行って、また戻ってくる、そうした態度を示すことについても、また。「鴎外と漱石のあいだで」は1894年、日清戦争後の台湾軍事統治の現場にいる軍医、森鴎外の姿から書きはじめられています。鴎外は大日本帝国の東アジア進出の当事者としてそこにいるわけです。 面白いのは、50年の後1945年、鴎外の長男、森於菟は台北帝大医学部の解剖学の教授であり、箱詰めにされた鴎外の遺稿や資料のほとんどがこの大学の倉庫に眠っていたそうです。 森於菟は、なさぬ仲の義母、森しげとの確執からか、父、鴎外の遺品をすべて赴任地に持って行ったのだそうです。その結果、東京にあった森家の旧居が、空襲にによって、すべて灰燼に帰したにもかかわらず、現在の「森鴎外全集」(岩波書店)の資料はすべて無事だという奇跡が起こりました。資料の帰国事業を担ったのは台湾の「日本語文学者」だったそうです。 一方、1903年、英国留学から帰国した漱石を待っていたのは、現実の日本という社会でした。 1904年 日露戦争 1905年 ポーツマス条約 1907年 足尾鉱毒事件 1909年 伊藤博文暗殺 1910年 大逆事件・韓国併合 1911年 辛亥革命 日本のみならず、東アジアの近代史を揺るがす大事件が立て続けに世間を騒がせ続ける中にあって、洋行帰りの夏目金之助は1907年朝日新聞社に入社し、小説という新しい表現の「創作に心血を注ぎ」始めるのです。 「それから」・「門」という作品の中で大逆事件が、なにげなく話題になっていることは知られていることかもしれませんね。しかし、入社第二作「坑夫」が足尾鉱毒事件のさなかに書かれ、足尾銅山の坑夫の話だということに、ぼくは初めて気づいきました。前述した吉屋信子のエピソードは、漱石のみならず、近代の日本文学の社会とのかかわりをあざやかに示唆しているのではないでしょうか。 もう一つエピソードを上げるとすれば、第一作「虞美人草」の女主人公「藤尾」のモデルが平塚雷鳥というのは有名なはなしなのですが、入社の前年に書かれた「草枕」の女性「那美」のモデルは前田卓(つな)といい、辛亥革命の立役者、黄興、章炳麟、孫文が亡命地日本で集った「民報社」で働く女性であったということも、本書によって知りました。 1911年、鴎外、森林太郎が「大日本帝国」を代表する推薦人として名を連ねた文学博士号授与を、あくまで拒否する漱石、夏目金之助の立っていた場所。漱石は社会に対してタダの傍観者ではなかったにちがいないし、鴎外は文学者としては、想像を超えた崖っぷちに立っていたのかもしれない。そういう思いが、次々と湧いてくる一冊でした。 黒川創が描こうとしている「日本語の文学」の成立という大きな構図の背景に身の丈で立っている森林太郎、夏目金之助という二人の姿から見えてきます。そういうふうに配置して見せた黒川さんの手つき、ぼくにはそこがエラク面白かった。(S)追記2019・11・24「鶴見俊輔伝」はこちらからどうぞ。ボタン押してね!にほんブログ村にほんブログ村
2019.05.06
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レイモンド・ブリッグス「風が吹くとき」あすなろ書房「エセルとアーネスト」というアニメーション映画に感動して、知ってはいたのですが読んではいなかったレイモンド・ブリッグスの絵本を順番に読んでいます。今日は「風が吹くとき」です。こういう時に図書館は便利ですね。 彼の絵本は「絵」の雰囲気とか、マンガ的なコマ割りで描かれいる小さなシーンの連続の面白さが独特だと思うのですが、ボクのような老眼鏡の人には少々つらいかもしれませんね。 仕事を定年で退職したジムと妻のヒルダという老夫婦のお話しで、彼らは数十年間真面目に過ごしてきた日々の生活を今日も暮らしています。「ただいま」「おかえりなさい」「町はいかがでした?」「まあまあだな。この年になりゃ、毎日がまあまあだよ。」「退職したあとはそんなもんですよ」 こんな調子で、物語は始まります。妻ヒルダのこの一言のあと、無言で窓から外を眺めながらたたずむ夫ジムの姿が描かれています。 小さなコマの中の小さな絵です。で、ぼくはハマりました。当然ですよね、このシーンは、ぼく自身の毎日の生活そのものだからです。このシーンには「普通」に暮らしてきた男の万感がこもっていると読むのは思い入れしすぎでしょうか。 「核戦争」が勃発した今日も、二人はいつものように暮らし続けています。そして・・・。という設定で評判にになった絵本なのですが、読みどころは「普通の人々」の描き方だとぼくは思いました。 例えば妻の名前ヒルダは、読んでいてもなかなか出てきません。彼女は夫に「ジム」と呼びかけますが、ジムは「あなた」と呼ぶんです、英語ならYOUなんでしょうね、妻のことを。そのあたりのうまさは絶品ですね。 物語の展開と結末はお読みいただくほかはないのですが、最後のページはこうなっています。これだけご覧になってもネタバレにはならないでしょう。 「その夜」、二人はなかよく寝床にもぐりこみます。そして、たどたどしくお祈りします。イギリスのワーキング・クラスの老夫婦のリアリティですね。ユーモアに哀しさが込められた台詞のやり取りです。「お祈りしましょうか」「お祈り?」「ええ」「だれに祈るんだ?」「そりゃあ・・・神様よ」「そうか・・・まあ・・・それが正しいことだと思うんならな…」「べつに害はないでしょう」「よし、じゃあ始めるぞ…」「拝啓 いやちがった」「はじめはどうだっけ?」「ああ…神様」「いにしえにわれらを助けたまいし」「そうそう!つづけて」「全能にして慈悲深い父にして…えーと」「そうよ」「万人に愛されたもう…」「われらは・・・えーっと」「主のみもとに集い」「われは災いをおそれじ、なんじの笞(しもと)、なんじの杖。われをなぐさむえーっとわれを緑の野に伏せさせ給え」「これ以上思い出せないな」「よかったわよ。緑の野にっていうとこ、すてきだったわ」 「エセルとアーネスト」でレイモンド・ブリッグスが描いていたのは、彼の両親の「何でもない人生」だったのですが、ここにも「何でもない」一組の夫婦の人生が描かれていて、今日はいつもにもまして、まじめに神への祈りを唱えています。 明日、朝が来るのかどうか、しかし、この夜も「普通」の生活は続きます。 ここがこの絵本の、「エセルとアーネスト」に共通する「凄さ」だと思います。この「凄さ」を描くのは至難の業ではないでしょうか。自分たちの生活の外から吹いてくる「風」に滅ぼされる「普通の生活」が、かなり悲惨な様子で描かれています。しかし、この絵本には「風」に立ち向かう、穏やかで、揺るがない闘志が漲っているのです。 この絵本はブラック・コメディでも絶望の書でもありません。人間が人間として生きていくための真っ当な「生活」の美しさを希望の書として描いているとぼくは思いました。 今まさに、私たちの「普通」の生活に対して「風」が吹き荒れ始めています。「風」はウィルスの姿をしているようですが、「人間の生活」に吹き付ける「風」を起しているのは「人間」自身なのではないでしょうか。ブリッグスはこの絵本で「核戦争」という「風」を吹かせているのですが、「人間」自身の仕業に対する厳しい目によって描かれています。今のような世相の中であろうがなかろうが、大人たちにこそ、読まれるべき絵本だと思いました。追記2020・04・10 「エセルとアーネスト」の感想はこちらから。追記2022・05・17 2年前にこの絵本を読んだ時には「新型インフルエンザ」の蔓延が、普通の生活をしている人々にふきるける「風」だと案内しました。世間知らずということだったのかもしれませんが、今や、絵本が描いている「核戦争」の「風」が、現実味を帯びて吹き始めているようです。 「戦争をしない」ことを憲法に謳っていることは、戦争を仕掛けられないということではないというのが「核武装」を煽り始めた人々の言い草のようですが、「核兵器」を持つ事で何をしようというのか、ぼくにはよくわかりません。「戦争をしない」ことを武器にした外交関係を探る以外に、「戦争をしない」人の普通の暮らしは成り立たないのではないでしょうか。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)ボタン押してね!ボタン押してね!【国内盤DVD】【ネコポス送料無料】エセルとアーネスト ふたりの物語【D2020/5/8発売】
2020.04.11
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ペマ・ツェテン「オールド・ドッグ」元町映画館 映画.com 「老人と犬」の話でした。犬はチベタン・マスティフという希少種だそうで、映画の彼(?)は、なかなか愛嬌のある大型犬でした。老人は草原で犬とともに生涯遊牧で暮らしてきた頑固者です。映画は「オールド・ドッグ」。監督は最近「羊飼いと風船」という作品を見たペマ・ツェテンです。 「犬が売れる」というのが、雄大なチベット高原に、ふもとから吹き上げてきた「現代社会」の風でした。老人に言わせると「バカ息子」である青年がオートバイに乗り、綱で引いた老人の愛犬を町の業者に売りに行くところから映画は始まりました。 1000元が2000元に、親戚の警官があいだに入ると3000元になりました。1元が10円から15円くらいでしょうから、1万円から5万円くらいでしょうか。 放牧暮らしの老父の愛犬を小遣い稼ぎに売り払おうという目論見ですが、事情知った老人が馬に乗って犬をとり返しに行きます。 で、この乗馬姿が「かっこいいのなんのって」と感心していると、今度はイヌ泥棒はやって来るわ、別口でやって来た新しい買い手は1万元、2万元と桁違いの値段を吹っかけてくるわ、老人の老犬をめぐって大わらわなのですが、さて老人はどうしたのか? まず、老犬を山に逃がそうとします。山といってもただの山ではありません。チベット高原の背後にそびえる山岳です。ところが、逃がしたはずの愛犬は犬泥棒の手に落ちます。老人は、またしても、馬に乗ってとり返しに出かけます。 今度は大金をちらつかせて、買い取りたいという男があらわれます。金額の桁が違います。しかし、老人は、有無を言わせず拒絶します。 このところ老人が気にかけているのは息子夫婦の間に子供ができないことです。息子の妻が病院から帰宅し、自分には問題がないらしいことを老人に告げます。そんなやりとりががあった天気の良い昼下がりのシーンです。 映画.com 草原に老人と老犬の姿があります。この一人と一匹のあいだにどんな会話がかわされたのか、それはわかりません。 おもむろに立ち上がった老人は、犬の首につけた綱を手にとり歩き始めます。老犬は素直に従います。やがて、老人は放牧地の柵の柱に綱をかけ、力いっぱい引き絞っていきます。老犬は一声も上げずぐったりとなったようです。 映画はそこで終わったと思いますが、よく覚えていません。もう一度チベット高原の遠景が映し出されたかもしれません。 老人が愛犬とチベットの自然の中で暮らしてきた「誇り高き」生涯が、見ているぼくの胸に「ドーン」と投げ込まれたようなズッシリしたものを感じました。 頑固一徹な老人(ロチ)と愛嬌のあるチベット犬に拍手!監督 ペマ・ツェテン製作 サンジェ・ジャンツォ脚本 ペマ・ツェテンてんきのよい撮影 ソンタルジャ音楽 ドゥッカル・ツェランキャストロチ(老父)ドルマキャプ(息子)タムディンツォ(息子の妻)2011年・88分・中国原題「老狗Old Dog」no962021・11・02・no103・元町映画館no96
2021.12.14
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ワン・ルイ「大地と白い雲」シネ・リーブル神戸 もう二十年ほども前のことですが、内モンゴル自治区の省都フフホトに、もちろんボランティアですが、臨時の日本語教員として数日間滞在したことが、何度かあります。ぼくの唯一の外国体験ですが、その時教室で出会った19歳の少女に出身地をたずねたところ、教室の後ろの壁に貼ってあった世界地図を指さして、笑顔で答えてくれました。「家族は、夏の今頃はこのあたりにいるはずです。フルンボイル草原です。知っていますか?満州里からバスに乗って半日くらいです。」「あなたは、この学校で日本語を勉強してどうしたいと考えているの?」「日本語検定をとって、日本に留学します。」 この映画の主人公を演じているタナという女優さんを見ていて、名前も忘れてしまった、その少女のことを思い出しました。どことなく似ているのです。 映画にはフルンボイル草原の大地と空が、始めから終わりまで、ずっと映っていました。草原を出ていきたい夫とここで暮らすという妻という若い夫婦の「生きていく場所」をめぐる争いというか、葛藤というか、が、「現代の出来事」として描かれていました。 面白いのは、草原のパオの中にスマホのためのWi-Fiを取り付け、互いに、顔を映しあうトランシーバーごっこするシーンでした。地の果ての草原にも「現代」が押し寄せているのです。 それにしても、馬が走り羊が群れている草原のシーン「速さ」や「勢い」、空や草原や湖の遠景の「広さ」が、人間の営みの「小ささ」を映し続けているのが印象的でした。これが「自然」なんです。 ぼく自身、もっと南の草原で、あの「遠さ」や「広さ」、「自然」の中に立ったことがあります。この映画が映し出す風景は、その記憶を超える「遠さ」、「広さ」だと思いましたが、果たして、暮らしていく場所として「そこ」にとどまり続けることができるのかどうか、考えさせられました。 「近さ」を人工的な道具に頼ることで作り出している現代社会の果てにある「そこ」にとどまるには、生半可ではない「意志」がいることを若い妻サロールの姿に感じながら、あの少女のことを思い出しました。 「日本に留学します」と、あの時、明るく笑ったあの少女は故郷に帰ったのでしょうか。監督 ワン・ルイ脚本 チェン・ピンキャストジリムトゥ(チョクト・夫)タナ(サロール・妻)ゲリルナスンイリチチナリトゥチナリトゥハスチチゲハスチチゲ2019年・111分・G・中国原題「白雲之下」 英題「Chaogtu with Sarula(チョクトとサロール)」2021・09・27‐no87シネ・リーブル神戸no121
2021.09.30
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100days100bookcovers no80(80日目)宮本常一「辺境を歩いた人々」(河出書房新社) 2022年になりました。今年もどうぞよろしくお願いいたします。 Simakumaさんからバトンを受けて1月以上過ぎてしまいました。スミマセン!!その間にSimakumaさんはご自身のブログに幸田文の「おとうと」に続き、「みそっかす」・「父・こんなこと」と次々と紹介されました。「視点の高さ」を持つ幸田文の文学から何につなげるといいのか、困っていたのですが、今回も勝手な着地をします。お許しください。 79日目がアップされたのは12月11日。その直前私は青森に1泊2日の旅に出ました。「宿題」の合間の息抜きに、手ごろなひとり旅を楽しむのですが、この度の行先は「青森」でした。ずーっと以前に青春18切符で東北本線をのんびり北上し、夜行で札幌に到着し、静内を尋ねました。青森県はほぼ素通りで、八戸と青森の駅周辺で乗り換え時間を過ごしただけでした。岩手県では花巻の宮沢賢治記念館、岩手県立花巻農業高等学校など、遠野では1泊してカッパ淵などにも足を伸ばしました。北海道では静内でアイヌ、さらにホームで道連れになった方と浦川の「べてるの家」まで見学した贅沢な旅でした。青森の印象は「陸奥(みちのく)」そのものでした。 そもそも「陸奥」とは、古代の蝦夷地で、大化改新後白河以北全域を道奥(みちのおく)国としたと言われます。もちろん中央権力からの視点でしょう。それは近代化とともにさらに定着し、私の概念にもこびりついてしまっていたのです。今回、それを払拭された経緯について、お話させてください。 青森を訪れる前に観光情報をリサーチしました。訪れたいところはたくさんありましたが、時間と交通手段の関係でJR青森駅周辺しか動けませんでした。しかし、旅の後気持ちが高揚し、青森にハマりました。特に「縄文」!。昨年7月27日、北海道・北東北の縄文遺跡群は世界文化遺産に登録されましたが、私はもっぱら南の沖縄に関心が向き、恥ずかしながらあまり感知できていませんでした。 Degutiさんの方が縄文に詳しいのですが、私はこのたびようやく学び始めました。今からおよそ1万5千年前~2千4百年前までの1万年あまりというとてつもなく長い期間、縄文時代の人々の生活と精神文化が続きました。「自然が厳しく貧しい」という私の青森に対するイメージは、全くの誤りでした。むしろブナ林を中心とする広葉樹の森林や豊かな漁場という恵まれた環境の中で、世界的にも稀な定住生活が可能になったことや、また高い精神性がうかがえる死後の埋葬や祭祀、環状列石(ストーン・サークル)など、驚くことばかり!特に縄文土器の洗練された美しさやユニークな土偶のデザイン…。本当に、脳天を打たれた思いと言えばあまりに大袈裟ですが、私自身の思考の枠組みの脆さを思い知らされました。 青森旅行からしばらくたって図書館で借りた『おとうと』を読み終えたのは30日。雪景色が恋しくなって青春切符で福井に向かった電車の中でした。意志や努力だけでは思うようにならない人生や病、人間関係、世間の風当たりなどを見事に描写していました。篠田一士が「心の中に眠っているあの感覚」と評したものが、縄文と重なるかなんて、私の勝手な見方ですが、通じるものを感じたのです。 その後図書館の本棚で目に留まったのが『辺境を歩いた人々』という書名と宮本常一という名前。前から気になっていた民俗学者です。『忘れられた日本人』や『塩の道』などの方が有名なのでしょうが、今の私には「青森」の衝撃があり、「辺境」を探ってみたくなりました。手に取って目次に目を通し、松浦武四郎以外の3人の名前は知らなかったのでいったんは棚に戻したのですが、やはり気になってまた手に取り、序文を読みました。 日本のひらけていない地方をあるいてみると、きまったようにその地方のことをくわしくしらべた書物のあることに気づきます。しかもその書物を書いた人たちは、その土地の人よりも、旅人のほうが多いのです。そのうえ、かれらはかわったところを見るためにやってきて書いたのではなく、「どこだっておなじ日本の国の中ではないか、その国の中のすみのほうにあるからといって、わすれさってしまってはいけない。その土地のことをおたがいにもっと知りあって、よくするように努力しなければいけない。」というように考えて、あるいているのです。… 冒頭の一段落を紹介しましたが、ひらがな表記が多いですね。宮本常一自身が半世紀にわたって日本の国土を歩き続け、膨大な記録を残したのですが、同じように日本の、それもへんぴな地方―僻地―をあるくことに情熱をおぼえ、危険をおかし、困難な旅行をしてそれを後世に伝えた4人を、その記録を元に紹介していました。 八丈島に流され、罪をゆるされた後またもどり、島民とこころをとけあったという近藤富蔵。松浦武四郎は未開の大陸北海道の内陸までくまなくあるきました。当時松前藩に搾取されていたアイヌの人々との交流もありました。明治維新後北海道の道名、国名、郡名をきめる仕事にあたった時は、「えぞはもともと地名ではない」ことをいい、「アイヌがみずからその国をよぶのに加伊(カイ)という。」ところから、「北加伊道」という名前が採用され、のちに「北海道」と漢字を改めます。今も札幌をはじめ、地名の多くはアイヌ語が由来ですが、もしかしたらそれも松浦武四郎の影響が大きいのかもしれません。とまる宿代や食事代は得意の篆刻の報酬でまかなったり、四書、唐詩の話をしてかせいだりした文人であり、人間愛にあふれ、公正無私なヒューマニストであったわけです。自分だけ暴利をむさぼる現代の政治家や事業家と大きな違いです。菅江真澄という人は、おもに秋田、青森などの雪やあられの中での生活や移動、ききんの想像を絶する状況をこまやかに記しています。幸田文の『おとうと』の中で姉が弟を看病するあたりと通じるものがありました。そして、また私の理解が全く事実に届いていなかったと思い知らされたのです。私の未熟な想像や知識を恥ずかしく思い、同時に新しい世界が広がっていくようにも感じました。最後のひとりは笹森儀助です。北は千島、南は琉球、台湾までつぶさにあるき、多くの記録を残した探検家で、第2代青森市長に就任もしました。当初「貧旅行」と自ら命名したのは、できるだけひろくあるき、多くの人にあって地方の実際のことを知ろうとしたからだそうです。 今のように便利な交通手段も情報を得る手段もなかった時代辺境をあるいて記録した4人の人生は、過酷であったかもしれませんが、未知の世界と出会う喜びにあふれていたことでしょう。 Simakumaさんのバトンをいつも変な方につなげてしまうので大変恐縮です。無視してSodeokaさん、軌道修正なさってください。どうぞよろしくお願いいたします。2022・01・12・N・YAMAMOTO追記2024・05・04 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。
2022.08.23
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フリーヌル・パルマソン「ゴッドランド GODLAND」シネリーブル神戸 見終えて、1カ月ほどたちました。覚えているのは「氷原」、「溶岩の流れ出す火口」、「馬」、「十字架」、「人々の無表情な顔」、そして「カメラ機材を担ぐ牧師」です。 舞台がアイスランドということで関心が湧きました。文字通り、地の果て、海の果ての世界です。サーガという言葉がありますが、北欧神話に出てくる女神の島です。なんとなく、そういう所を期待して見ましたが、ハズレのような、アタリのような印象を持ちました。 映画が始まって、まず、勘違いしていたことをなんとなく感じました。18世紀、カメラが実用化され始めた時代に、おそらく北欧カトリックだったこの島に、新しいプロテスタントの信仰を広めようとカメラを担いで渡って来た牧師 の話に神話なんてありえないということです。 カメラを担いだ若者が撮りたかったのはエキゾチックな風景と支配に従う人々のポートレイトでした。要するに能天気なのです。 彼には新たなる信仰の伝道とでもいうのでしょうか、敬虔な信仰があるとはとても見えません。宗主国の使いという、そこで暮らす人間には、エラそうなだけの存在であることには気づくことのできない、ただのカメラ小僧の好奇心があるだけのように見えました。 映画を見ていて、彼が、辺境の海岸から十字架を馬に担がせ、自らはカメラを担いで旅をして目的地の集落に到着したあたりで、実は島の中心地の目的地近くに港があることがわかります。 で、彼は、にもかかわらず、この「試練の旅」の旅程を選んでいたとわかったあたりから、おそらく、世界の辺境の地で、たとえば、極東の島国にオランダのプロテスタントがやって来たのは15世紀ころだったわけですが、そのころから幾度も繰り返されたにちがいない宗教的伝道者たちの試練の旅をなぞろうとしている人物なのではないかと予感のような思いが浮かびました。だから、カメラなのです。 18世紀末、カメラにうながされるように始まった、どうもインチキ臭い試練の旅の記録が数葉の古びた写真で残されていて。それを見た21世紀の映画監督は、おそらく、世界最初のカメラ小僧の一人だった、この若い牧師が「行って、見て、帰ってくる」はずの旅の中で、被写体に対する、ただの好奇心で撮って、偶然、残されたにすぎない数葉の写真の足跡を追えばが、本人が気付いていたかどうかはともかくも、サーガの地の「神話的世界」とそこでを生きる人間が浮かび上がってくる、そんなモチーフだったのではないでしょうか。 この映画の面白さは、多分そこからでした。カメラのレンズに神の威信を託した愚かな若い牧師は、哀しいことに現像液の消費とともに神の威力を失い、野ざらしの白骨となって朽ちて消えてゆきます。残された数葉写真が語る出来事はアイスランドの自然、あるいは「神話的世界」の歴史の小さなエピソードとして21世紀のカメラ小僧であるフリーヌル・パルマソン監督によって復元されますが、彼が映し出したのは開拓者として渡って来た人間たちや、彼らが持ち込んだ新来の宗教を越えたアイスランドそのもの! だったのではないでしょうか。 主人公の若い牧師が、おろかな現代人にしか見えなかったというのが、この作品の印象でした。新奇な科学技術や思想や宗教を寄せ付けない厳然たる世界がある! ということを感じた作品でした。監督・脚本 フリーヌル・パルマソン撮影 マリア・フォン・ハウスボルフ美術 フロスティ・フリズリクソン衣装 ニーナ・グロンランド編集 ユリウス・クレブス・ダムスボ音楽 アレックス・チャン・ハンタイキャストエリオット・クロセット・ホーブ(ルーカス)イングバール・E・シーグルズソン(ラグナル)ビクトリア・カルメン・ゾンネ(アンナ)ヤコブ・ローマン(カール)イーダ・メッキン・フリンスドッティル(イーダ)ワーゲ・サンド(ヴィンセント)ヒルマル・グズヨウンソン(通訳)2022年・143分・G・デンマーク・アイスランド・フランス・スウェーデン合作原題「Vanskabte Land」2024・04・15・no059・シネリーブル神戸no238・SCCno21追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.23
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週刊 読書案内 石原吉郎「石原吉郎詩文集」(講談社文芸文庫) 映画が早く終わって、さあ、帰ろうと思いながら、さしたる目的もなく、ただ歩いているだけの日があって、そういえば「歩きながら考える」詩人が、貧血で倒れて、そのまま入院したとかいう話を、ずーっと昔に読んだことがあったことを思い出しました。 詩人の名前は石原吉郎です。1915年、大正4年生まれで、東京外語のドイツ語学科を出て1939年に出征し、1945年の敗戦を満州のハルビンで迎えるのですが、その年の暮れにソビエト軍に逮捕され、捕虜となります。 1949年、25年の重労働の刑を言い渡されます。反ソ・スパイ行為の罪だったそうですが、1945年以前の、彼の職掌に基づいた行為が断罪されたらしいです。結果、シベリアのラーゲリに収容され、1953年、スターリンの死によってようやく解放され、翌1954年に帰国するという「体験(?)」を経て、詩を発表し、戦後詩を代表する詩人の一人と評価された人でした。 戦争体験を背景にした詩人としての作品が60年代から70年代の若いひとの心をつかみました。かく言うぼくもその一人ですが、詩人がアルコール依存症に苦しみ1977年、62歳で世を去ったとき、「自ら命を絶ったのでは」と、一人で、ぼんやり考え込んだことを覚えています。「さびしいと いま」 さびしいと いまいったろう ひげだらけのその土塀にぴったりおしつけたその背のその すぐうしろでさびしいと いまいったろうそこだけが けものの腹のようにあたたかく手ばなしの影ばかりがせつなくおりかさなっているあたりで背なかあわせの 奇妙なにくしみのあいだでたしかに さびしいといったやつがいてたしかに それを聞いたやつがいるのだいった口と聞いた耳のあいだでおもいもかけぬ蓋がもちあがり冗談のように あつい湯がふきこぼれるあわててとびのくのは土塀や おれの勝手だがたしかに さびしいといったやつがいてたしかにそれを聞いたやつがいる以上あのしいの木もとちの木も日ぐれもみずうみもそっくりおれのものだ(詩集「サンチョ・パンサの帰郷」より) こんな詩を繰り返し読んでいたぼくは1974年に二十歳になった青年でした。で、そのころのぼくは、たとえば「石原吉郎の詩」のことなんかを誰かと語り合うことが、最初から禁じられているような思いこみで、文字通り「無為」な学生生活を送っていました。詩がわかっていたわけではありません。しかし何かが刻み込まれていくような印象だけは残りました。 あれから半世紀の時が経ちました。先日、思い出したついでに手にとった「石原吉郎詩文集」(講談社文芸文庫)をパラパラしていて、ワラワラと湧いてくる得体のしれないものに往生しましたが、中にこんな詩を見つけて、少し笑いました。「世界がほろびる日に」世界がほろびる日にかぜをひくなビールスに気をつけろベランダにふとんを干しておけガスの元栓を忘れるな電気釜は八時に掛けておけ (詩集「禮節」より) 50年たったからといって、詩人の作品がよくわかるようになったわけではありません。詩人の死の年齢をとうに過ぎて、二十歳の青年が「歩く」よりほかに行動する意欲を失った老人になっただけです。この50年のあいだ、その半ばには、住んでいた神戸では大きな地震があり、その後、世紀末だというひと騒ぎもありました。それから10年たって、想像を絶する津波と原子力発電所の崩壊までも目にしました。にもかからわず、世界は陽気に存続しつづけています。 「ああ、これがほろびの始まりかも」 このところの「コロナ騒動」を、半ば当事者として、半ばは傍観者として眺めながら、そう思ったのですが、なかなかどうして、しぶとく「ほろび」をまぬがれそうです。本当は、もう「ほろんでいる」のを知らず、毎日、電気釜をセットしているのかもしれませんが、世はこともなげに選挙で騒いでいたりして、イソジンが効くとかいった人が人気者だったりします。 「あるく」しか能のない老人は、うるさく騒いで人を集めている宣伝カーをなんとか避けながら、裏通りにまわり、ブツブツつぶやきます。 「かぜをひくな ビールスに気をつけろ」 なかなかいい感じです。寒くなります。皆様も風邪などお引きになりませんように(笑)。
2021.11.09
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村上春樹「騎士団長殺し」(新潮社) まだ、高校生と教室で出逢っていたころの「読書案内」です。還暦を迎えようかという老人が15歳に語る機会があったころの語りですが、捨てるのも残念なので、少々直して載せます(笑)。 さて、まさに、もっともきらめいている同時代の現役作家、村上春樹の新作の案内です。「騎士団長殺し(1部・2部)」(新潮社)という作品です。「きらめいている作家」、「現役の作家」・「同時代の作家」、そんなふうにいうと高校生諸君は、はてな?という感じになるのではないでしょうか。皆さん、村上春樹とか、読みますか? もう古いことになるのですが、ぼく自身が高校生だったころでも、「現役の作家」・「同時代の作家」なんていう感覚はありませんでした。 ぼくが高校一年生だった、その秋、市谷の自衛隊駐屯地でクーデタを呼びかけて、割腹自殺をして果てるという、とんでもない事件を起こし、新聞紙面をにぎわせた三島由紀夫という作家がいたのですが、事件の当日ニュースを見るまで、ボク自身、彼の名前さえ知りませんでした。もっとも、ぼくは面白くもなんともない3年間の高校生活のせいで、すっかり文学少年化(?)してしまって、2年後の秋の放課後の教室で神戸から転校してきた同級生が「みずから我が涙をぬぐいたまう日」(現在は講談社文芸文庫)という小説を手にしてこれを知っとおか、天皇陛下のことが書いてあんねん。 といってぼくに手渡そうとしたのことがあったのですが、いや、これは三島とは正反対の主張をしとお大江健三郎というやつの、天皇制パロディ小説やと思うけど、お前、読んだんか? と返答すると、すっかり鼻白んだ彼は本を投げ出して教室から消えてしまいました。彼は三島由紀夫を崇拝する右翼少年になりたかったようなのですが、少々筋を間違えていたらしいのです。ああ、そういう少年がいた時代です(笑)。まあ、彼をちゃかした説明も当たっているかどうか、今となっては怪しいわけですが、当時の田舎の高校生の政治や文学に対する理解はその程度であったということで、彼がその場に残していった大江健三郎のその小説は今でもぼくの書棚のどこかにあると思います。 もっとも、文学少年などと思い込んでいた自意識過剰の高校生だったぼくが三島や大江に熱中するのはその翌年、京都での予備校通いの下宿での一人暮らしの時からです。その時、「現役作家」・「同時代作家」というべきものに出会うことになりました。 実は三島由紀夫と大江健三郎と村上春樹には共通点があります。何かおわかりでしょうか。答えはノーベル賞です。 三島は1960年代の後半ぐらいのことですがノーベル賞に一番近い日本人作家と騒がれていたし、大江はその後、実際にノーベル文学賞を受賞しました。村上春樹もここ数年、受賞予想の常連ですね。ノーベル賞が意味することはいろいろあるかもしれませんが、何よりも世界文学として、その作品が取り扱われているということではないでしょうか。 世界文学としてというのは、その作品が書かれたオリジナルな言語の文化や社会の枠を超えてということですね。日本語で書かれた小説なんて、「世界」に出てゆけば翻訳でしか読まれないし、日本文化の固有性とか言いたがる人がいますが、世界中の文化が、本来、それぞれ固有だという普遍性において固有なだけですからね。 というわけで、「騎士団長殺し」という今回の作品も数か国語に翻訳され、世界同時発売という、日本人の作家としては、信じられないようなグローバルな扱いを受けています。それが世界文学としての側面の一つということですが、だからといって新作が優れているといえないところが、残念といえば残念ですね。 ただ、ぼくもそうなのですけど、ある作家の作品があるとすると、評判が悪かろうとよかろうと、それを読んでいればうれしいという感受性はあると思うのです。 理由はいろいろあると思いますが、同時代を生きている作家が世界を描き上げていく感受性は、その作家の作品を読み続けている同時代の読者の感受性を育てる ことになる場合があるのではないでしょうか。 ぼくにとって村上春樹はそういう作家のひとりだということだと思うのです。村上の作品を読んだことがない人のために言うと、村上春樹という作家はある時期から小説の中で使う装置というか、設定というかがずっと共通しています。それは、小説の中に、まあ、壁で仕切られているか、地下の何階かに降りていくか、階段を上がったり下りたりするか、あれこれ方法は工夫していますが、「あっちの世界とこっちの世界」 があるということだと思うのです。 一般的に、まあ、あたり前のことですが、小説が描いている世界があって、その世界は、読者が作品を読んでいる「今・ここ」の世界とは必ずしも一致しません。小説が描いている今とは、こことは、いつで、どこなんだという場合に、幾通りかの世界があるという前提が納得できなければ、小説なんて、ばかばかしくて読めませんね。 村上の場合のそれは、いわゆるSF的な設定だったり、登場人物の意識の世界の多重性だったりするわけではありません。「ここ」と「あそこ」という次元の違う世界 が設定されているのです。もっとも、村上は、この多重構造を、小説を読む人間に対して謎として差し出していて、たとえば太宰治の「トカトントン」の音が聞こえてくる世界の設定とは違いますね。太宰の音の発信源は別世界ではない、主人公がいて読み手がいるこっちの世界と地続きだと思うのですね。 「暴力の世界と愛の世界」とか、「死の世界と生の世界」とかに、小説が世界を分割するという設定が、そもそも現実とは違います。現実の世界はそういうふうに複数の世界として割り切ることはできません。現実の世界に足場を置く限り、それは、くっついているわけですから、太宰のような描き方になるというのが一つの方法ですね。ああ、みなさんには「走れメロス」の太宰治ですが、「トカトントン」、新潮文庫で読めますからね。主人公に、どっかから音が聞こえてくる小説です。 村上は重層化されている小説世界という虚構世界を、現実世界と、微妙にズレている構造を明かさないまま書き始めます。そこから、「人間」のドラマが展開するから、自分と同じ現実のこととして読者は読み始めます。はたして、彼の小説世界が、私たち読者の世界と地続きかと言えば、そこが怪しいところなのかもしれません。そもそも、彼の小説が描き出す「あっちの世界」は当然ですが、「こっちの世界」もまた物語的虚構の世界であって、そこから読まなければ、読み損じるのかもしれません。 しかし、まあ、そこが肝なのでしょうが、結局、人間のことが描かれていて、読み終われば悲しくなります。何気なく悲しい世界に生きてることを実感します。なんか「騎士団長殺し」という作品について、まったく要領得ない案内ですが、それが彼の文学だと、ボクは思うのですよね。一度、お読みになって見ませんか。同時代の作家と出会えるかもしれませんよ(笑)。(S)2017・12・20 こんな、今、自分で読み返しても論旨が分からないような作文を高校生に向かって書いていたことがあることが懐かしくて載せました(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.20
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岡田暁生「音楽の聴き方」(中公新書) 今回の案内は音楽学者、岡田暁生の「音楽の聴き方」(中公新書)です。下に目次を貼りましたが、この本自体は、ボクのような、まあ、ただ、ただ、ボンヤリ聴いてきて、演奏者の名前もすぐ忘れるし、演奏形式や楽器についても関心が深まるわけではなくて、「好き」とか「イイネ」とかで過ごしてきたタイプの人をわかった気にさせてくれる入門書 ですね(笑)。 スラスラ読めて、ちょっと賢くなった気がして楽しい本です。もっとも、彼が「フルトヴェングラー指揮、ウィーン・フィルのブルックナーの第八交響曲」が「本当に素晴らしかった。」とおわりにで書いていらっしゃることが、本当にわかったかどうか、まあ、怪しいのですけどね。 で、なぜ「案内」か? というと、最近、映画を見るとか、まあ、小説を読むとかでもそうなのですが、自分が、なにをおもしろがっているのかよくわからないことがよくあって、にもかかわらず、他の人に「おもしろかったですか?」とか、「何処がいいですか」とか問われると、困惑というか、自己嫌悪というかに落ち込む経験を繰り返していて、ちょっと、イラついた日々を過ごしていたのですが、偶然手に取ったこの本のこういう所に、「うん、そうだよな」 という感じで、ちょっと落ち着いたので「案内」という次第です。 芸術の嗜好についての議論において、本来それは「蓼食う虫も好き好き」の「たかだか芸術談義」でしかないはずなのに、なぜ私たちはしばしばかくも憤激したり傷ついたりするのかを、パイヤール(フランスの文学理論家)は次のように説明する。「われわれが何年もかけて築き上げてきた、われわれの大切な書物を秘蔵する〈内なる図書館〉は、会話の各瞬間において、他人の〈内なる図書館〉と関係をもつ。そしてこの関係は摩擦と衝突の危険を孕んでいる。というのも、われわれはたんに〈内なる図書館〉を内部に宿しているだけではないからである。(中略)われわれの〈内なる図書館〉の本を中傷するような発言は、われわれを最も深い部分において傷つけるのである」(「読んでいない本について堂々と語る方法」(筑摩書房)P96) まあ、ボクの気を鎮めてくれたのは、この一節なので、ここまででいいのですが、これを著者がも一度まとめていますから、それも引用します。 これまでどういう本(音楽)に囲まれてきたか。どのような価値観をそこから 植えつけられてきたか。それについて、どういう人々から、どういうことを吹き込まれてきたか。一見生得的とも見える「相性」は、実は人の「内なる図書館」の履歴によって規定されている。それはいまや自分の身体生理の一部となっているところの、私たちがその中で育ってきた環境そのものなのだ。だからこそ芸術談義における相性の問題は、時として互いの皮膚を傷つけるような摩擦を引き起こしもするし、反対にそれがぴったり合った時は、あんなにも嬉のだろう。での人たかが相性、されど相性。「相性の良し悪し」は、私たち一人一人のこれまでの人生そのものにかかわってくる問題だとも言えよう。芸術鑑賞の下部構造はこういうものによって規定されている。「どんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人であるかを言いあててみせよう。」とはブリア・サラヴァン「美味礼賛」の中の有名な一節だが、音楽についても同じことが当てはまるはずである。」(P13~14 ) 第1章のこのあたりで、芸術鑑賞における、「すきずきの」の固有性 とでもいうことについて書いていらっしゃるのですが、まあ、いってしまえばありきたりな一般論です。なのですが、スラスラ読める文章作法というか、ちょっとおもしろい逸話や、個人的体験の挿入がお上手で、あきずに読めていいです(笑)。 そもそもは10年前の本で、ボクもそのころ読んだんですけどね。 ああ、岡田暁生という人は1960年生まれで、京大の人文研の先生ですね。「オペラの運命(中公新書・サントリー学芸賞)、「ピアニストになりたい!」(春秋社・芸術選奨文部科学大臣新人賞)、最近では、ちくまプリマ―新書の よみがえる天才シリーズで「モーツァルト」とか、素人向けにいい人みたいですね(笑)。 目次、あげておきますね。目次はじめに第1章 音楽と共鳴するとき―「内なる図書館」を作る第2章 音楽を語る言葉を探す―神学修辞から「わざ言語」へ第3章 音楽を読む―言語としての音楽第4章 音楽はポータブルか?―複文化の中で音楽を聴く第5章 アマチュアの権利―してみなければ分からないおわりに文献ガイド まあ、お暇な方、いかが?ですね(笑) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.28
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100days100bookcovers no82(82日目)伊集院静「ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石」(講談社文庫) 遅くなりました。前回のSODEOMAさんのご紹介、フィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』も、皆さんのリアクションを読むと、結構有名な作品みたいだが、私には初耳だった。 幼い頃は、本を1冊読了すること自体があまりなくて、たぶん最初に読み切ったと記憶しているのは、親から買い与えられた「ギリシャ神話」の連作集みたいなのだと思う。その後トール・ハイエルダール(という作家の名前は全然覚えていなかった)の『コンチキ号漂流記』、映画を観た後で読んだんじゃないかと思う(ほんとに読んだかはちょっと怪しい)ジュール・ベルヌの『海底二万哩』、さらにメルヴィルの『白鯨』を読んだのは小学生のいつ頃だったか、という程度。だからたぶんいわゆる絵本とか児童文学とかにはほとんど親しんでこなかった。 今回は次の作品として思い浮かべられるものが何もなかった。なかったので、その時点で読書中で、もうすぐ読み終える予定の小説とつなげられないかと安易に考える。思いつくところをネットで検索してみると「庭」でどうやらつながりそうだということで、『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』(上下巻) 伊集院静 講談社文庫 を取り上げる。 上巻が本編260ページに、二人の関連年表付き(これは便利だった)。下巻が本編276ページに清水良典の解説が付く。2013年に出た親本は1巻だったようで、この2016年の文庫化の際に2巻に分かれた。ちなみに、2014年度第18回司馬遼太郎賞、受賞作。 小説はその後、予定通り読了。 伊集院静を読んだのは初めてだ。といってもこの作家に特に関心があったわけではない。子規と漱石の関係に多少興味があったのだ。 でも、漱石の小説はさすがにいくつか読んでいるが、子規は俳句も歌も、さして知っているわけではない。「文学史」に出てくる二人の交友に何となく興味をもっていたという程度で、二人の交友というテーマで検索したらこれがヒットした。 サブタイトルにあるようにあくまで「小説」だから作家の想像によるところもあるにしても、当然資料に基づいているだろうから、細部は別にして大まかにはこういうことなんだろうなと理解できる。作品は、タイトルからも想像できるようにあくまで正岡子規を描くというのが本線。そこに途中から夏目漱石が色濃く関わってくる。 作品は、二人の生い立ちや「仕事」の経緯等をほとんど知らなかったせいもあって、また、子規や、漱石を含めたその周辺が生き生きと描かれていて、とてもおもしろかった。 また、小説の地の文章は、必ずしも一般的なそれというわけではなく、ところどころに、子規を初めとする登場人物の評伝めいた説明が含まれる。これは私のような、この時代あるいは子規周辺について疎い読者には、親切でわかりやすかった。文体は特に癖もなく読みやすい。 初めは全体の流れにおもしろいエピソードを添えていけばいいかと思って書き始めたのだが、メモを取ってみたら、時間もかかったがそれ以上に分量が許容範囲を優に超えてしまったので、いくぶん方針を転換。それでも、小説自体が長く、特に下巻では次から次へといろんなことが起きるとういう事情もあって、この紹介文自体が当初考えていたものより随分長くなってしまった。面倒だったら適当に読み飛ばしていただきたい。 まずは基本情報から。 タイトルになっている「ノボさん」は、子規の幼名「升」(のぼる)に由来する愛称。本名は常規(つねのり)、最初の幼名は処之助(ところのすけ)、後に升と改名。 小説は、明治20年9月、東京銀座、路面鉄道を歩く正岡常規(以降は「子規」とする)が「ユニフォーム」を身に着けて「べーすぼーる」の試合に向かうところから始まる。 後の正岡子規、21歳の秋(小説ではそうなっているが、巻末の年表によると子規の生年は西暦では1867年[慶応3年]で、明治20年は西暦1887年、満年齢でいうと20歳)である。なかなかに映画的な冒頭シーンだ。 当時子規は、東京大学予備門から改名した第一高等中学校(後の第一高等学校)予科に在籍(その後に「本科」2年があり、さらに帝国大学へということになる)していた。 同期には、夏目金之助、南方熊楠、山田美妙、菊池謙二郎、というからすごい。この当時、子規は「べーすぼーる」に熱中している。そして、すでに俳句を作り始めている。 上巻は、ここから明治22年、子規が松山に帰省するまでを描く。「病」と「漱石」を中心にざっと紹介を。 上巻が終わるまでの期間に、子規は何度か喀血している。 明治21年8月、友人と鎌倉見物に出かけた際に、二度喀血。これが今後子規にとって宿痾となる「肺結核」の症状の始まりだった。 子規が漱石と出会ったのは、明治22年、第一高等中学校本科に上がった翌年。「落語」を評価する点で子規は漱石と意気投合する。子規は漱石に、ただの秀才ではない「本物」を見る。 同年、5月、子規は寄宿舎の自室で大量の血を吐いた。翌朝、医者が呼ばれる。医者は肺を患っていると言った。そして静養することが一番だと言って引き上げる。当時は、喀血に対する手当は、静養と栄養をつけさせることしかなかった。 おそらく「結核」だったのだろうが、作中この箇所で「結核」という言葉は使われていない。しかしWikiを確認すると「医師に肺結核と診断される」とある。ただ結核は感染症だから、本来なら「隔離」が必須のはず。当時はそのあたりが異なっていたのか、小説中ではそういう記述も見当たらない。 そんな子規を漱石が見舞いに訪れる。そこで子規が漱石に披露したのが「卯の花をめがけてきたか時鳥(ほととぎす)」「卯の花の散るまで鳴くか子規(ほととぎす)」 だった。そしてこれからは「子規」と名乗ると宣言する。 口の中が赤いホトトギスゆえに「鳴いて血を吐くホトトギス」と言われたのは、私でも聞いたことのあるが、それが中国の故事に由来するというのは、今回調べて初めて知った。「卯の花」は「時鳥」「子規」とともに夏の季語だが、それだけで選ばれたのかどうかは不明。 子規は「子規」以外にも、松山時代から百ほども雅号をこしらえている。「野球」と書いて「のぼーる」と読ませるものなどの中に「漱石」もある。「漱石」は中国の『晋書』が出典の「漱石枕流」に由来するのは著名だが、「漱石」について、ここでは 子規は「筆まかせ」の中で、"漱石"という名前は今、友人の仮に名前になっていると記している。 とある。 漱石は、子規を見舞った際に「七草集」を受け取り、その評を頼まれていたのだが、次に子規を会った際にその評を手渡す。その評の中で初めて「漱石」を使っている。 この他にも二人はこの時期に何度か手紙を交わし、友情は堅固なものになっていく。 病状もいくらか落ち着いたその夏、子規は松山に帰郷する。しかし移動の疲れが出たのか、帰省中、子規はまた喀血する。母・八重と妹・律は子規の血を吐く姿を目の当たりにして愕然とする。 病状を考えて、叔父の大原恒徳は、子規に、廃学、休学、まで提案している。しかし子規は、この時、到底できないと拒む。休学して仮に五年、十年長生きしても、決して満たされることはない、と。子規はこの頃から、自身が長く生きられなことをすでに覚悟していた。ここまでが上巻。 下巻は、明治25年年頭から始まる。 子規は、明治以前の俳諧を系統立ててまとめてみようと考えていた。その理由のうちの一つが、東京でも子規の世話人の一人である陸羯南(くがかつなん)の発行する新聞「日本」から執筆依頼がきていたことで、俳句・短歌の欄を作ることも考えていた。 子規は俳諧の歴史、俳人の洗い出し、さらに俳人の系統を系譜としてまとめようとした。これを全部一人でやろうとしたのである。 子規はもう大学の学業に励むことに興味と関心をすっかり失っていた。 漱石はそんな子規を心配し、あれやこれやと世話を焼くが、子規は耳を傾けなかった。 結局、子規は帝国大学を退学する決心をする。 世話人である陸羯南はじめ、何人かに子規は「退学」の決意を伝え、反対する相手を説得した。彼らが最終的に了承せざるをえなかったのは 子規の口から、自分の将来の時間はさして長くないので、今、自分がやりたいことをしておきたい、と言われたからである。 子規は大学を辞めて、陸羯南が主宰する新聞「日本」で働くことになった。そして郷里から母・八重と妹・律を呼び寄せる。 明治27年、終生の地となる根岸の家に転居する。いわゆる「子規庵」である。 同年、日清戦争が勃発。子規は「俳句分類」をやり遂げたいと考えながら、一方で、早く海を渡って従軍記者として仕事をしたいとも思う。こんな病状にもかかわらず。陸羯南が子規の従軍への懇願に容易に首を縦に振らなかったのは当然のことだ。激しい喀血はなかったが、疲労によって寝込んでしまいことが度々あり、従軍は常識的には無理な話だった。ただ子規はいったん言い出せばきかない。子規はとうとう戦場で死んでも本望だとさえ言い出す。 結局子規に押し切られる形で陸羯南は子規が戦地に赴くことを認める。戦況が落ち着いていたということもある。 子規は明治28年4月、遼東半島に渡るが、その2日後には日清講話条約が結ばれる。砲撃の音などどこからも聞こえない。結局子規の渡航は、物見遊山の旅となる。しかし、この地で子規は、第二兵站(へいたん)軍医部長に着任していた森鷗外に会う。鷗外はすでに訳詩集「於母影」や小説「舞姫」を発表していた。子規は鷗外と清国を離れるまで毎日のように会い、俳句について語り合い、創作もした。 5月、子規は帰途につく。しかし帰りの船でまたしても喀血。喀血はなかなか止まらなかった。ようやく神戸に着いたが、また喀血が始まる。記者仲間に助けられてようやく入院。 碧梧桐を通じて知り合い、数年前から文通をしていた高浜虚子も京都から見舞いに来た。当初病状は悪かったが、徐々に回復に向かう。母・八重も到着する。 漱石は同じ頃、愛媛県尋常中学校教諭に就任。 子規は8月退院。漱石の家で50日あまりを過ごす。松山から東京に帰る途中、子規は一度、神戸に寄り、医師の診察を受ける。汽車旅行に差障りなしと言われる。その後、大阪へ。しかし腰の骨が痛み始め、歩くこともかなわぬようになり大阪で数日休む。さらに奈良へ。宿は、小説では「角定」(かくさだ)とあるが、一般的には「對山楼」(たいざんろう)として知られていたようだ。一流の宿とのこと。旅費は漱石から借りた十円。しかも後に子規は漱石への手紙の中で、その金を初日にすべて使い果たしたと書いている。 そしてこの宿に4泊した際に、あの 柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺 秋暮るゝ 奈良の旅籠や 柿の味 等を詠む。そのことから、現在、宿の跡地にできた日本料理店「太平倶楽部」と、子規の親戚で、造園家で樹木医でもある正岡明が2006年に作庭したのが「子規の庭」と呼ばれるということらしい。まぁ「庭」に関しては、こじつけもいいところではあるが、どうかご容赦を。 東京に戻った子規だが、喀血はおさまっていたが、腰の痛みは悪化していた。リュウマチの疑いがあるとして医者を呼んだが、医者の診断はリュウマチではなかった。 医者は専門ではないから断定はできないが、結核菌が広がって進行するカリエスではないかと言う。カリエスは結核性脊椎炎のこと。子規の場合は腰椎に症状が出た。進行すると椎体内が壊死し膿の巣ができる。すぐに専門医が呼ばれ、手術が決まる。しかし手術を終えて一週間後、また腰や背中が痛み始めた。膿も出始める。それは以降死ぬまで続くその処理は律がするようになった。 明治29年、松山の柳原極堂が子規に句誌について相談の手紙を寄越していた。名前は「ホトゝギス」。相談を重ねるうちに、句誌は子規の主宰という形になっていった。明けて明治30年「ホトゝギス」刊行。 明治29年に熊本の高校に移った漱石は同年、鏡子と結婚。しかし流産を経て、31年鏡子は入水自殺を図る。しかし翌年に夫婦は女児を授かる。 明治30年、熊本の漱石から、教師を辞めて文学に向かいたいと手紙が来る。七月、漱石、帰京。小説の構想を練り始めていた。 松山で「ホトゝギス」がなかなか売れないことから、柳原極堂が一人ではもうできない、廃刊したいと子規に泣きつく。子規は虚子に手紙を書く。二人で建て直したいと頼む。虚子はこれを承諾。 明治31年、松山版を引き継ぐ形で東京版「ホトゝギス」刊行。 明治31年新聞「日本」で子規は「歌よみに与ふる書」と題する批評文を掲載。紀貫之や『古今和歌集』を「下手な歌よみ」「くだらぬ集」と論じた。反論が押し寄せ、再反論等のための批評が十回も続く。子規は自身の創作も掲載し、開かれた場になる。「歌よみに与ふる書」は多くの支持を得た。これを機に伊藤左千夫や長塚節が子規の元に集い、やがて「アララギ派」が誕生する。 子規の『俳諧大要』が明治32年1月「ホトゝギス」の発行所から刊行。「ホトゝギス」は売れ始めたが、虚子は多忙になり、やがて病に倒れる。急性大腸カタル。子規は碧梧桐を中心に発行を継続するように頼む。 子規はこんな病状でも多忙だ。「ホトゝギス」の原稿のため短歌会、句会が数日置きに催される。すべての中心に子規は座し、時に「輪読会」もやる。何人かは子規庵に泊まる。短歌会、句会の間の来客も多い。「日本派」「歌よみに与ふる書」等の影響もあり全国から人が来る。漱石の紹介で寺田寅彦も来た。"蕪村忌"には子規庵二十一畳半に46人が入った。 明治33年、漱石のイギリス留学が決まり、7月、熊本から上京、子規庵を訪問する。8月、子規は喀血。清国からの帰途での喀血以来の量だった。 漱石が留学の前に再度子規を訪れる。留学の期間は2年だが、準備等を入れると2年半はかかる。子規も漱石もこれが最後だとわかっていた。ぎこちない表情が二人に浮かぶ。子規は 独り悲しく相成申候 と「ホトゝギス」に書いた。 子規の容態は次第に悪くなる。激しい喀血はないが、発熱があると起き上がれないようになり、句会、歌会も中止になることが多くなった。それにつれて子規は「我儘」も強くなる。身内だと思わている碧梧桐や虚子、さらに母八重や妹律には殊に。 この年の"蕪村忌"は、子規は容態が悪く皆と連座できず、恒例の記念撮影も子規以外で行われた。翌日、子規一人だけで写真を撮ることになった。少し趣向を凝らしたいという写真屋の申し出に応じて横顔で撮影された。このときの写真が教科書等でおなじみのあの子規の写真である。 子規の病状が進み、膿をぬぐう時の痛みに耐えかね子規は大声を出したり、救いを求めたりする。世話をする律はそれを聞きながら世話をし続けた。子規が錯乱状態に陥るときは、母妹の手に負えず、隣家の陸羯南を呼んでくる。それでようやく子規の錯乱はおさまるということもあった。 明治34年、子規は漱石に 僕ハモーダメニナッテシマッタ という書き出しの手紙を書く。この手紙が漱石の元へ届いたのは40日後。漱石は子規に返事を書く。この手紙の交換が、二人の手紙での交わりの最後だった。漱石はロンドンで、しかし、疲れ果て、不愉快になり、孤独になっていった。 翌明治35年、強い麻痺剤で何とか抑えていた痛みは、何度も服用が必要にになっていった。 新聞「日本」で「墨汁一滴」「病牀六尺」を書き継ぎ、私的には「仰臥漫録」も残す。 夏は何とか越せた。9月、子規の足の甲がひどくふくらんでいることに律が気づく。水腫だった。医師は血液の循環が悪くなっているためだと言った。激痛もともなう。モルヒネも効かない。子規は容態がこれまでとは違うことに気がついていた。 9月18日、医師が呼ばれ、陸羯南も来て、碧梧桐も呼ばれる。「高浜も呼びにおやりや」 子規が言う。子規自身が何か感じている。 糸瓜咲て痰のつまりし仏かな 痰一斗糸瓜の水も間にあはず をとゝひのへちまの水も取らざりき 最後の句が辞世の句になった。へちまの水は旧暦の八月十五日に取るのをならいとする。それができなかった無念を句に詠んだのだった。子規は昏睡に入る。その後2度目ざめ、「だれだれが来ておいでるのぞな」 と律に訊いた。それが最後の言葉になった。 翌9月19日未明、時折うなり声を上げていた子規が静かになり八重が手を取ると、手はもう冷たく、呼びかけても反応はなかった。 様々な人が訪れ子規と「対面」していった。 ふと訪れた静寂の中で、八重は、息子の両肩を握りしめ顔を上げるようにし、両肩を抱くようにして言った。「さあ、もういっぺん痛いと言うておみ」 それは月明かりの中で「透きとおるような声で響き渡った。」「八重の目には、それまで客たちが一度として見たことのない涙があふれ、娘の律でさえ母を見ることができなかった。」 9月21日、葬儀。150余名の会葬者の中で行われた。田端の大龍寺で土葬が執り行われた。戒名は「子規居士」。子規の死を報告した「ホトゝギス」を送り、続いて碧梧桐と虚子が、子規の死を知らせる手紙をロンドンの漱石に書き送ったのが10月3日。漱石がこの手紙を受け取ったのが11月下旬だった。 漱石は句を作る。筒袖や秋の柩にしたがはず手向くべき線香もなくて暮の秋きりぎりすの昔を忍び帰るべし これらを虚子宛の手紙に書いて送った。 漱石は、翌明治36年に帰国。東京帝国大学、明治大学の講師を務めながら、38年に「ホトゝギス」に最初の小説「吾輩は猫である」を発表。 漱石のこれ以降は皆さん、ご存知の通りである。 松山でも東京でも、子規は人に慕われ人を慕った。人の誘いを断れない性格もあって子規の周りにはいつも子規を慕う人の輪ができていた。子規が残した最大のものは「人」だったのだろう。 さらに作家は、明治という時代が、子規のような「自分の信じたもの、認めたものにむかって一見無謀に思える行為を平然となす」人物を生んだのではないかという。 子規の人となり、性格については、無類の大食漢であるとか、金銭に無頓着で、子規が大学を辞めて八重と律を東京に呼び寄せる際の「旅行」に、57円40銭という、松山なら親子3人が半年以上暮らせる額を平気で費やして呆れられても、金銭への無頓着さは生涯変わらず、漱石に対しても同様だったが漱石はそれを許容していたとか、子規の淡い恋愛感情とか、おもしろいエピソードはたくさん出てくる。どこまで「脚色」されているかは別にして。 彼ら二人には、一度心に決めると「一直線に突進する」という似たところがあった。が一方でその振る舞い方は随分違っていた。 子規は、言ってみれば、死ぬまで、やりたいことを、やるべきことを追究し続けた。病を得てそれに一層拍車がかかった面もあるだろうが、いずれにしろそういう意味では「子ども」でいることを選び、最後までそれを貫いた。衝動と直観に従った生き方と言える。だからこそあれだけの仕事ができた。 一方、漱石は、周囲の「期待」を飲み込んで「合理的」に行動し、許容できる限り許容した上で、最終的に「文学」に向かい、小説を書いた。漱石は、子規より少なからず「屈折」し、だからこそ「小説」で評価されたということかもしれない。 作家は、この違いは、二人の生い立ちも関係していると書いている。「周囲の期待を一身に背負って育てられてもなお自由に自分の道を探し続ける子規と、生まれてすぐに里子に出され、その後も養子にやられ、大人たちのゴタゴタの中でも自分を探し続けようとした金之助はまったく相反する環境で育った。」 そしてそんなふうにお互いが随分違うからこそ、二人は惹かれ合った。それはもしかしたら奇跡的なことかもしれない。子規がいなければ、もしかしたら漱石もいなかった。ということで、随分長くなってしまいました。 では次回、DEGUTIさん、よろしくお願いいたします。2022・03・05・T・KOBAYASI追記2024・05・11 投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目)(51日目~60日目)(61日目~70日目)(71日目~80日目) (81日目~90日目) というかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。
2022.09.15
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南伸坊「おじいさんになったね」(海竜社) 部屋でごろごろしていて、「無聊をかこつ」という古いいい方がありますが、こういうのを言うのでしょうかね。 チッチキ夫人もお出かけで、外のお天気はやたらによくて、でも、動く気がしない。パジャマから服だけは着替えてはみたのだけれど、畳の上に寝転んでしまって・・・、ふと棚を見ると、高野文子の「ドミートリ―ともきんす」(中央公論社)というマンガがはみ出ていて「ちょっと読んでみません?」と声をかけるので、引っ張り出してパラパラやっていると、なんだか偉い人がいっぱい出てきて、ちょっと、本格的に座り直そうかと姿勢を変えると、そこに、隣にあった本が落ちてきて、開いてみると、こっちが字ばっかりなのに、なんだか引き込まれてしまった次第で、こうして「案内」しています。 落ちてきた本が南伸坊の「おじいさんになったね」(海竜社)でした。装丁もイラストも文章も、みんな伸坊さんの仕事です。で、こんな「はじめに」から始まっています。「ゲンぺーさん、おじいさんになったネ」とクマさんは言った。「え?」と赤瀬川さんはケゲンな顔だ。そうかな、赤瀬川さんは、年齢(トシ)より若く見える方だけど・・・・・と私も思って聞いていたのだ。クマさんの言い方は、なんだか「日本昔ばなし」みたいな、のんびりした様子なのだが、正直な感想がふと洩れたという感じだ。この時、赤瀬川(原平)さんは六十二歳。ゲージツ家のクマ(篠原勝之)さんは五十七歳、私は五十二歳だった。 先程、最初に手に取った「ドミートリ―ともきんす」というマンガには、湯川秀樹、朝永振一郎、牧野富太郎、中谷宇吉郎というビッグネームが登場するのですが、「おじいさんになったね」に登場するビッグネーム(?)は、「老人力」の赤瀬川原平、通称「クマさん」の篠原勝之です。マア、南伸坊も加えて三人ですね。 「うん?!こっちの方が面白そう。」 この気分は、本当は変ですね。両方とも、ただ並んでいたわけじゃなくて、一度は読んだことがあるはずなんですから。 で、まあ、そんなことは忘れていて、初めて読む気分でパラパラと読み始めて、笑うに笑えないことなのですが、なぜか笑ってしまったのがこの話です「メガネに注文がある」 老眼になったので、デザインをするのに必ず、メガネが必要である。ものさじの目盛がよく見えないうえに、目印に打った点がどこにいったかわからなくなる。まァ、しょうがないかと思っていたら今度は文庫本のルビが読めなくなった。そうこうするうちに週刊誌のルビも読めないばかりか、そろそろ文庫本の大きい字が、落ちついて読めない。 なんだか、字がそわそわしているのだ。小便でもしたいのだろうか。〈中略〉 仕事場で使っているメガネはつるが黒いので、こないだは、ソファ(黒)の上に置いたらどこかへ行ってしまった。 メガネがどこかへ行ったって、独自に何ができるというものでもあるまいに、一体どういうつもりかと思うけれども、しばらくすると元へ戻っているのである。 戻っているなら、私が「あれ?メガネどこ行ったかな」 とか言ったときに、「ここにおります」 と日本語で言えとまでは言わないが、「ココ、ココ」くらいのことは言えるだろう。 ちかごろ、機械のたぐいが頼みもしないのにやけに何かを言いたがるのだ。家にある電子レンジが、意味もなく「ピピ、ピピ」と言うので、ツマが、「なに、なんなのアナタ」と叱ったりしている。 コードを抜いておいても「ピッ」というそうだ。「やだね、付喪神にでもなったかね」と言っていたら、こないだから、ウンともスンともピッと言わなくなっただけでなく、何にもしなくなったそうだ。 話がズレたが、メガネは「ココ」「ココ、ココ」くらい言ってもいいと私は思う。 この辺りで、「案内」のまとめにすすもうかと思っていたのですが、ここまでお読みいただいて、あとは本をお探しくださいでは、ちょっとなあ、というわけで、とりあえず最後まで引用しますね。〈引用つづき〉 ところで、ホームドラマなんかで、ハゲ頭のオヤジが、「おーい、メガネどうしたかなあ?メガネ・・・・」 とか騒いでいて「いやですねおとうさん、ヒタイ、ヒタイにかけてますよ」 というギャグにもなってないようなシーンがあるけれども、私はこないだ、こういうわざとらしいつまんないギャグみたいなことを、実際にしてしまって忸怩たる思いだ。 カバンというのは、さがしているものが即座に出てきたためしがないけれども、私はそのカバンの中にあるメガネをさがしていたのである。さがしてもさがしても出てこない。駅で、ちょっと本が読みたくなったのでベンチにカバンを置いてメガネをさがしていたのだが、出てこないのだ。 夜店の万年筆屋みたいに、カバンの中のものを、すっかり出してベンチにならべてみたのにそこにメガネがない。 あきらめて、しかたがない裸眼で、無理やり読んでしまえ、と思って読むと、案に相違してスラスラ読める。 私はメガネをどうしたわけか、すでにかけていたのであった。 これは、おじいさんがぼけて、何度も朝飯を要求する、という定番の事態よりも、さらにひどくはないか?「よしこさん、朝ごはんまだですかねえ」「いやですねえ、おじいさん、いま食べてるじゃありませんか」というような、状況である。「さっき」食べたばっかりなのだったら、忘れたとかわかるけれども、むしゃむしゃ「朝めし」を食べながら「朝めしはまだですか」と言っているとというのでは、まるで不条理劇である。おそるべきことである。(「月刊日本橋」2013・12月) 2015年に出版された、このエッセイ集は「月刊日本橋」という雑誌に「日々是好日」と題して、2021年の今も連載が続いているエッセイをまとめた本です。 南伸坊さんは当時67歳、今のぼくと同い年で、エッセイで話題になっている「メガネの逃亡譚」はリアルな実感で理解できます。「おそるべき不条理」の世界も、笑いごとではありません。 そういえば、最近、後期高齢者の仲間入りをした知人が「毎日、新しいことばかりで、楽しいよ!」とおっしゃっているのを聞いて、「勇気づけられ(笑)」ましたが、まあ、「うれしい」ような、「かなしい」ような、恐るべき不条理の「大冒険」が、待っているのかもしれませんね。 残念ながら「はじめに」で登場した「クマさん」と「ゲンぺーさん」のエッセイ中での出番はありません。特に赤瀬川原平さん、別名、芥川賞作家尾辻克彦さんは、この本が出される前年、2014年に亡くなっておられて、まあ、残念ですが、思い出以外では登場しようがないということなのですね。 というわけで、このエッセイ集は「南伸坊とその家族」の「日常」の物語です。無聊をかこっていらっしゃる前期高齢者の方に最適かと思うのですが、いかがでしょう? こちらが「ドミトリ―ともきんす」です。お暇ならどうぞ。
2021.04.29
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川上弘美「水声」(文春文庫) 久しぶりに川上弘美を読みました。「水声」(文春文庫)です。Suiseiと表紙にルビがあります。「すいせい」と読めばいいようです。2015年の読売文学賞受賞作です。 ページを繰って最初に目に入るのは目次です。1969年/1996年ねえやたちママの死パパとママ/奈穂子家 ― 現在夢女たち父たち1986年前後1986年2013年/2014年 こんな感じです。 書き出しはこんなふうです。夏の夜には鳥が鳴いた。短く、太く、鳴く鳥だった。雨戸はたてず、網戸だけひいて横たわれば、そのうちに体は冷えてくるはずだったのに、その夏はいつまでも体が熱を持ったままだった。 「その夏」のことが語りだされているのですが、その夏とはいったい、いつの夏なのでしょう、という謎でこの小説は始まります。作中の語り手は「都」という女性で、語っているのは2014年、この作品が発表されたのは2013年から2014年の「文学界」という文芸雑誌ですから、作家が書き始めたのは2013年、ないしは2012年の暮れあたりかもしれませんが、作中人物でもある「都」が語るのは2014年でないと、結末との辻褄が合いません。 小説って、面白いですね。そういうこともできるわけです。 「都」は1969年に11歳の少女だった女性で、2014年に存命ですから、この冒頭を書いたとき(語った時(?))には55歳か56歳です。 ちなみに川上弘美は1958年生まれですから、「都」と同じ年、その事実が「作品」が描いていること、まあ、たとえば自伝小説であるというふうに関係があるかといえば、この作品では、それはありません。ただ、作家と同じ時代を生きてる登場人物という意味ではかなり大切な要素素だと、ぼくは思いました。 「その夏」という謎でページを繰り始めると、すぐ次のページにこんな描写があります。 匂いは記憶を呼びます。 アスファルトを平らにならす熱いにおいをかぐといつも、セブンアップをやたらに飲んだ1969年の夏を思い出す。 あの夏私は十一歳で、陵は十歳だった。 この引用部に出てくる「あの夏」と冒頭の「その夏」は違うようです。小説が、いや、55歳だかの作中人物「都」が、今、語っているのは「その夏」であって「あの夏」ではないからです。 ついでですから、補足すれば、「陵」というのは「都」の弟です。この小説の登場人物は目次にある「ねえや」、「ママ」、「パパ」、ママの幼なじみの娘で二人にとっても幼なじみである「奈穂子」、と、この「姉弟」で、ほぼ、すべてです。 もう一つ、ついでですが、この引用部の「匂いは記憶を呼びます。」というような描写は、「これが川上弘美です!」とでもいうテイストですね。彼女の作品は、ストーリー云々にこだわるよりも、こういう「感覚的」表現を面白がる方がスリリングかもしれませんよ。 ともあれ、「都」が語り始めた「その夏」とはいつの夏のことで、「その夏」、語るべき、何があったのか、それがこの作品の「愛と人生の謎(裏表紙の宣伝文句)」というわけでした。 そのあたりは、まあ、ご自分で読んでいただくほかないわけですが、実はこの作品にはもう一つ「謎」があると、ぼくは思いました。 それは題名です。「水声」って何だということです。申し訳ありませんが、ここで禁じ手を使います。 ふいに、水の音が聞こえた。遠い世界の涯(はて)にある、こころもとなくて、ささやかな流れの。 わたしと陵はまだその涯まで行っていない。誰もそこに行きつくことはできないのかもしれない。ママも、パパも、そこに行きたいと願ったのだろうか。 水鳥が、一羽だけ、暗い水の面にうかんでいたの。奈穂子は言っていた。一羽だけなんだけれど、ちっともさみしくなさそうだった。雪にうずもれるようにして、静かにうかんでいた。あなたたちのママは、あの水鳥みたいだったわね。 東京に戻ると、もう家はきれいに壊され、ただ平らな土地だけがあった。思っていたよりもすっと狭かった。ママが好きだったゆすらうめも、あじさいもなくなっていた。 また夏が来る。鳥は、太く、短く鳴くことだろう。陵の部屋を、今日はわたしから訪ねようと思う。 ご自分でお読みくださいなどと言いながら、小説の結末を引用するとは何事だというわけで、ちょっと反則なのは承知です。しかし、この最後の描写は小説の謎を、相変わらず暗示はしていますが、解いているわけではありません。 むしろ、「また夏が来る。」という最後の一文が冒頭の「夏の夜には鳥が鳴いた。」という一文と呼応して、語りの一貫性を、同じ人物の同一の語りであること示していると考えられる結末です。 マア、そのあたりを理由にご容赦願いたいのですが、注目していただきたいのは、ここにきて、がぜん浮かび上がってきた「水」についてです。 「水」と「廃墟」をめぐる「都」の身辺の出来事に、重ねられている奈穂子のことばが、この小説全体の読み直しを求めているように、ぼくには感じられたのです。 「時間」の往還の中で浮かび上がる「昭和」から「平成」という時代の記憶。「身体」として感受する「他者」と「孤独」。「都」と「陵」という姉弟の「出生と愛の秘密」。 読みどころは満載ですが、もう一つ、2011の震災の「災後小説」という視点から読み解くことを、物語の終わりに暗示しているのを見落とすわけにはいかないのではないでしょうか。 小説の底に流れている「水」の声に耳を澄ませることで浮かんでくる世界があるのではないか、そして、その世界が川上弘美という作家の「現在」を暗示するのではないか、そんなふうに思うのですが、なかなかピントがあいませんね。 どうですか、一度「水の声」に目を凝らしてみませんか?
2021.04.30
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川上未映子「黄色い家」(中央公論新社) 第1章 再会 このさき、自分がどこで生きることになっても、何歳になっても、どうなっても、彼女のことを忘れることはないだろうと思っていた。 けれど今さっき、偶然に辿りついた小さなネット記事で彼女の名前を見るまで、そんなふうに思ったことはもちろん、彼女の名前も、存在も、一緒に過ごした時間も、そしてそこで自分たちがしたことも、なにもかも忘れていたこと気づかなかった。 吉川黄美子。 同姓同名かもしれないという考えが一瞬よぎったけれど、この記事に書かれているのがあの黄美子さんだということを、わたしは直感した。(P7) 読売新聞紙上に2021年7月24日から2022年10月20日まで連載された「黄色い家」(中央公論新社)という川上未映子の最新作の書き出しです。 語り手は伊藤花という40代の、独身の女性です。語り手の時間はコロナの蔓延する「現代」ですが、語られている出来事は、1990年代の終わり、所謂、20世紀の世紀末、東京の郊外の町で住所不定、無職だった、語り手である彼女の10代の終わりの生活です。 バーというのでしょうか、クラブというのでしょうか、ともかく、飲み屋の雇われホステスであるシングルマザーの母と小さなアパートで暮らす中学生だった伊藤花が、母の友人だった吉川黄美子という、当時40代だった女性と暮らし始めるところから物語は始まります。 「黄色い家」という題名は、その黄美子が自分の色として、まあ、縁起を担いでいた色を、黄実子にこころをつかまれ、一緒に暮らすようになった10代の伊藤花が引き継ぎ、部屋の調度から壁まで黄色く塗ったアパート、そこで二人が暮らし、やがて、加藤蘭、玉森桃子という同世代の女性たちとの共同生活の場になった住居からとられています。 世紀末から2000年という時代の中で、人が生きていくことを支えるのは「お金」であるという「現実」に「洗脳」されていく10代の、預金通帳さえ作ることができない境遇の少女の姿をテンポよく描き出した佳作だと思いました。 カードやネットによるお金の流通が当たり前になっている現代社会において、住所不定、保護者不在の未成年の女性が、いかにして犯罪者への道を歩むのかという、いかにも現代社会の最底辺の実態を描いたドキュメント・ノワールという趣で、読み始めると、やめられない、とまらない「かっぱえびせん本」でした。 他の、知らない作家であれば、これで終わりですが、「乳と卵」(文春文庫)、「先端で、さすわ さされるわ そらええわ」(ちくま文庫)の川上未映子の仕事ということになると、もう一言ですね。 あくまでも、ボクにとってですが、川上未映子の面白さは「わかりにくさ」というところにあると思っていました。「なに?これ?」 まあ、そういう感じが浮かんでくることに対する期待ですね。残念ながら、そういうニュアンスは、この作品にはありません。たとえば吉川黄美子という、いかにも、川上的興味をそそられる登場人物がいます。「なに?この人?」 そういうイメージを、登場とともに抱かせる人なのですが、何故か、その人物について描かないというのが、この作品の特徴なのですね。伊藤花による「吉川黄美子」像だけでは、あまりにあやふやじゃないでしょうか。 「ヘヴン」(講談社文庫)あたりで、人気作家になったと思いますが、あのあたりからですかね。わからなさは影をひそめてしまったのは。 まあ、読みますけど、残念ですね(笑)。
2023.08.01
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「これが教育勅語の象徴だそうです。」 徘徊日記 2021年 大倉山公園 「教育勅語」ってご存知でしょうか。詳しくは知りませんが、正式には「教育ニ関スル勅語」というそうです。明治23年、1890年に「下賜」された、勅語ですから「天皇」の「言葉」いや「命令」というべきでしょうか。一言ではありませんから「言葉集」ですね で、この「塔」というか、「石碑」は、その30年後に立てられたもののようで、なんと、今からちょうど100年前です。大正9年のことですね。 「形がなんだかなあ」とちょっと呆れますが、中央に浮き彫りされている文字は「克忠克孝」です。勅語の中からの引用で「克(よく)忠(ちゅうに)克(よく)孝(こうに)」と読むようです。 意味は「忠、孝に励め」ということでしょうか。ちなみに「忠」は、君臣関係における、「孝」は親子関係における、まあ、儒教の徳目で、それぞれ、臣から君へ、子から親への「真心」ということです。 後ろに回るとこんな感じです。 とりあえず、この形を思いついた時代というか、社会というか、そのあたりの人びとというかに「よくもまあ恥ずかしげもなく」という印象なのですが、最近、「こういうものが必要だ」と、いけしゃあしゃあと口にする人がいるようですが、どうなっているんでしょうね。 まあ、とは言うものの、最近、女子大生さんと「論語」を読んでいたりしているのですが、「親孝行をちゃんとしたい」とか、こっちがうろたえるようなことをおっしゃるのを聞くこともあって、まあ、そのあたりに「いけしゃあしゃあ」が跋扈する理由もあるのかもしれません。 公園の公孫樹並木も、いよいよ秋です。 お年寄りのカップルが絵をかいていらっしゃいました。さすがにそれを撮るのははばかられて、黄葉した公孫樹を撮りました。ちょっと覗かせていただいた「絵」のほうがずっと良かったですよ。 さて、元町からたどり着いたのですが、今日はちょっと北の方へ歩いてみようと思っています。まあ、まだ早いので、JR兵庫駅あたりに、夕方につければいいのです。
2021.10.22
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「100days100bookcovers no52」(52日目)樋口一葉『たけくらべ』川上未映子訳(「日本文学全集13」 河出書房新社) DEGUTIさん紹介の『世界はもっと美しくなる』(奈良少年刑務所詩集 詩・受刑者 編・寮美千子)、Simakumaさん紹介の山下洋輔の傑作ジャズ小説『ドバラダ門』(新潮社)と来ました。 山下洋輔の祖父・山下啓次郎氏が担当した「明治の五大監獄」(千葉、長崎、鹿児島、奈良、金沢)の画像を見て、赤煉瓦の西洋風の外観に魅せられるとともに、懸命に西洋化近代化を果たそうとした当時の日本を感じたりもしました。 さて、監獄と言えば、ハンセン病の療養所も監獄だな…と、10年以上前に岡山県瀬戸市邑久町にある長島愛生園に、在日朝鮮人ハンセン病回復者でらい予防法国賠請求訴訟原告となられた金泰九(キムテグ)さんを訪問したことを思い出しました。また、日頃お世話になっている黄光男(ファングァンナム)さんはハンセン病家族訴訟原告団副団長です。世界の医学の流れに大きく後れを取り、この国の非科学的で人権を無視した政策と私たちの無知無関心による誤った偏見は、根拠なくハンセン病患者やその家族を監獄のような収容所(収容所だけでなく、社会も含む)に閉じ込めます。新型コロナウイルス感染者に対する不当な差別や攻撃も同じで、学習能力のないこの国の情けないこと(涙) そんな監獄つながりでハンセン病回復者の文学を最初は考えていたのですが(たまたま19日は金泰九さんの命日、20日は長島愛生園開園から90年でした)、昨日の午後、ふと思い立って姫路文学館の特別展「樋口一葉 その文学と生涯 貧しく、切なく、いじらしく」に行きました。今月23日までなので、3連休は来館者が多いかな、その前の平日に行かなくちゃ、と思ったわけです。樋口一葉は文学史で説明できる程度で、その文学と生涯を十分知っていません。井上ひさしの演劇「頭痛肩こり樋口一葉」は面白そうだな…でも観ていないという、その程度でした。 今回印象的だったのは、なにより女性として日本ではじめて職業作家を志したこと。比較的裕福であったころ、主席という優れた成績にもかかわらず、母の意見で学校高等科の進級をせず退学し、兄や父が亡くなり、実家が破産する中で家督相続人となり、裁縫や洗い張り、果ては荒物・駄菓子の店を開きながら小説家として生計を立てます。24才の若さで肺結核のため亡くなった…。 ああ、明治の時代の転換期の過酷な運命は、さながら監獄のように彼女を苦しめただろうと思ったのです。経済的にもう少しでも余裕があったならば、病で早く亡くなることもなかっただろうに…と。 特別展は見応えがあり、多くの作品、自筆原稿や書簡、日記などもありましたが、ここでは川上未映子訳『たけくらべ』を挙げます。一葉の『たけくらべ』が雑誌に連載されて120年という2015年に、川上未映子が現代語訳を出したことは頭の片隅にあったけれど、その本を実際に手に取ったのは初めて。姫路文学館に並べてある川上本は、川上未映子自身をイメージさせる素敵な装丁で、買いたかったけれど、お金の遣り繰りをしながら生活している私には勇気が出なかったのです。帰りに寄った図書館で、なんと「池澤夏樹個人編集日本文学全集13」に、夏目漱石、森鴎外とともに樋口一葉の『たけくらべ』を川上未映子訳で収録してあったのです! さすが、池澤夏樹!!と、ちくま日本文学全集「樋口一葉」とともに借りました。 『たけくらべ』の中の美登利は心惹かれる真如に想いを伝えられません。雨の降る日の、真如の下駄の鼻緒を切った場面や、美登利が突然不機嫌になる場面、真如が修行のために家を出る場面など、文章だけでなく映像がうかぶほど親しまれている作品ですが、今回は美登利の嘆きの箇所を比較してみます。「厭、大人になるのは厭なこと、どうして、どうして大人になるの。どうしてみんな大人になるの。七ヶ月、十ヶ月、一年、ちがう、もっとまえ、わたしはもっとまえにかえりたい。」(川上訳)「ええ厭や厭や、大人になるのは厭なこと、なぜこのように年をば取る、もう七月八月、一年も以前(もと)へ帰りたいにと老人(としより)じみた考えをして、…」(一葉) 直接話法、間接話法、その他すべてを無視して一葉の文語を口語文にするという方法で、一葉のほとばしる作品をリズミカルな川上小説にしています。(ちなみに松浦理英子も現代語訳をしているんですね!知らなかった。) このたび樋口一葉の『たけくらべ』(ちくま日本文学全集)とその年譜も読み、一葉が援助の交換条件に妾となることを求められて拒否したこと、借金を申し込んで断られたことなども知りました。また川上未映子も歌手や文学上の華やかな経歴が良く知られていますが、今回注目して調べたところ、「高校卒業後は弟を大学に入れるため、昼間は本屋でアルバイト、夜は北新地のクラブでホステスとして働いた。」 というたくましい経歴を知りました。樋口一葉は、社会の底辺を生きる遊女から上級官僚の妻までの女性たちの姿を描きましたが、川上未映子も同様に「地べた」(byブレイディみかこ)からの視点が定まっているということで、一層樋口作品川上訳の値打ちを感じました。 世の中はますます格差も分断も進んでいます。その象徴が感染者数の増加とGo Toなんとかの矛盾です。あまり報じられませんが困窮している弱者は多く、また自殺者に女性が多いなど心痛むばかりです。明治からずいぶん時は経つけれど、「見えない監獄」はあらゆるところに巧妙に生き残っているのでしょう。 明治の樋口一葉、そして現代の川上未映子の作品と生涯に触れる機会を得ることができ、しみじみとしています。ではSODEOKAさん、よろしくお願いします。(N・YMAMOTO・2020・11・21)追記2024・03・17 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.05.01
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村上春樹「村上春樹 翻訳 ほとんど全仕事」(中央公論新社) 今日は、2017年に出された「村上春樹翻訳ほとんど全仕事」(中央公論新社)の案内です。目次まえがき翻訳作品クロニクル一九八一 - 二〇一七対談 村上春樹×柴田元幸 翻訳について語るとき僕たちが語ること〈前編〉サヴォイでストンプ オーティス・ファーガソン 村上春樹訳 翻訳について語るとき僕たちが語ること〈後編〉寄稿 都甲幸治 教養主義の終わりとハルキムラカミ・ワンダーランド 村上春樹の翻訳 作家村上春樹の翻訳に関する、まあ、彼自身が語っている著書は、柴田元幸と語り合っている本はもちろんのことですがたくさんあります。 で、この本でも、柴田との対談がメインディッシュなわけですが、その前に、村上春樹の翻訳した仕事がすべて、多分、二〇一七年の時点で、お仕事を振り返ってというコンセプトなのでしょうね、その本の写真に村上自身のエッセイが添えられているところがミソで、結構、楽しめます。 たとえば、彼が訳したサリンジャーの「キャッチャー」とオブライエンの「世界のすべての7月」のページはこんな感じです。 キャッチャーの思い出の中で、「僕としては正直な話、表現はあまりよくないかもしれないが、猫さんの首に鈴をかけるネズミくんのような心境だった。そして予想どおりというか、あるいは予想を超えてというか、最初のうちは厳しいことをいろいろ言われた。」 と振り返っていたりするのが、興味を引きますね。 今でも、村上訳の「キャッチャー」が、サリンジャーの原作の、あるいは野崎孝の初訳の「ライ麦畑」という翻訳の、小説家村上春樹による歪曲のような言われ方を耳にすることがありますが、まあ、そのあたりについて村上自身の耳に何が聞こえてきて、彼がどう考えたのかあたりは、20年前の「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」(文春新書)あたりでしゃべっているかもしれませんが、ボクは、彼の翻訳態度というのは、作家としても真摯だ というふうに感じていて、翻訳作業において、原作のハルキ化、いってしまえば歪曲が起こっているというふうには考えたことがないので、まあ、なんともいえませんね。 で、柴田元幸との対談はというと、今までに書籍化されているものに比べて、10年以上も新しいというところがポイントですね。お二人とも、以前のお二人では、もうないのです。まあ、「翻訳夜話1・2」(文春新書)あたりで、耳にした話が繰り返されているわけですから、語り口のどこかしらに、時間が過ぎたことを、ボクは感じました。 もう一つ、本書で、おもしろかったのは都甲幸治の「ハルキ論」ともいうべき、教養主義の終わりとハルキムラカミ・ワンダーランドという短いエッセイでしたね。 彼(村上)の語る国家の論理との戦いは、翻訳する作品を選定するうえでも大きな役割を果たしている。なぜなら、その多くで戦争が扱われているからだ。国家は必要とあらば個人をたやすく殺し得る。その極限の形が戦争だ。オブライエン「本当の戦争の話をしよう」所収の「レイニー川」の青年は、ベトナム戦争は間違っているとわかっていながら兵役を拒否できない。フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」の主人公は第一次大戦帰りで、ときどき人を殺したことがありそうな目をする。「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を書いたサリンジャーは第二次大戦で数々の激戦に参加した。そして彼らの作品と、国家や宗教教団について考える村上春樹は地続きだ。(P195~196)都甲幸治 そうか、そういう経路で考えるのか、と、まあ、そういう感じでしたが、村上春樹という作家の不幸は、加藤典洋亡き後、彼を正面から論じる批評家がいないことだとボクは思っていますが、ないものねだりなのでしょうかね(笑)。 掲載されている翻訳の書籍がカラー写真だということもあって、オシャレな本ですが、なかなか読みでもありましたよ(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.25
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吉本隆明「廃人の歌」(「吉本隆明全詩集」思潮社) 病院のベッドで、まあ、眠れない夜を過ごしながら思いだしたのは吉本隆明の詩でした。で、帰宅して、こんな本があることを思い出して、久しぶりに開きました。 「吉本隆明全詩集」(思潮社)です。箱装で、写真は箱の表紙です。2003年の出版で、その時に購入した詩集です。全部で1811ページ、価格は25000円です。1冊の本としては、ボクの購入した最高値です。なんで、そんな高い本を買ったのか。 まあ、そう問われてもうまく答えることができません。ただ、2003年にまだ存命だった詩人が「現在集められる限りの詩作品を一冊にまとめて全詩集とした。」 と、この詩集のあとがきで述べていますが、彼の書いた詩を一生のうちにすべて読み切りたい。 という、人にいってもわからないないだろうと思い込んでいる願望のようなものが40代の終わりのボクにはあったということですね。「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ」 という詩句と十代の終わりに出逢ったことで始まった、この詩人に対する信頼と憧れがその願望を培ってきたことは紛れもない事実ですね。 病室の天井を眺めながら、この詩人の詩句を思い浮かべている自分に気付いたときに「えっ?」 という驚きを感じたのですが、スマホの画面で、いくつかの詩を読み返していくにしたがって、50年、溜まりに溜まった、なんだかわけのわからない妄想にも似た、忘れていたはずの記憶が、次々と湧いてきて、まだ、やり残していることの一つが見つかったような気がしたのでした。 というわけで、今回は1953年の「転位のための十篇」に収められている「廃人の歌」です。 廃人の歌 吉本隆明ぼくのこころは板のうへで晩餐をとるのがむつかしい 夕ぐれ時の街で ぼくの考へてゐることが何であるかを知るために 全世界は休止せよ ぼくの休暇はもう数刻でおはる ぼくはそれを考えてゐる 明日は不眠のまま労働にでかける ぼくはぼくのこころがゐないあひだに世界のほうぼうで起ることがゆるせないのだ だから夜はほとんど眠らない 眠るものは赦すものたちだ 神はそんな者たちを愛撫する そして愛撫するものはひよつとすると神ばかりではない きみの女も雇主も 破局をこのまないものは 神経にいくらかの慈悲を垂れるにちがひない 幸せはそんなところにころがつている たれがじぶんを無惨と思はないで生きえたか ぼくはいまもごうまんな廃人であるから ぼくの眼はぼくのこころのなかにおちこみ そこで不眠をうつたえる 生活は苦しくなるばかりだが ぼくはまだとく名の背信者である ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだろうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ おうこの夕ぐれ時の街の風景は 無数の休暇でたてこんでゐる 街は喧噪と無関心によつてぼくの友である 苦悩の広場はぼくがひとりで地ならしをして ちようどぼくがはいるにふさはしいビルデイングを建てよう 大工と大工の子の神話はいらない 不毛の国の花々 ぼくの愛した女たち お訣れだぼくの足どりはたしかで 銀行のうら路 よごれた運河のほとりを散策する ぼくは秩序の密室をしつてゐるのに 沈黙をまもつてゐるのがゆいいつのとりえである患者だそうだ ようするにぼくをおそれるものは ぼくから去るがいい 生れてきたことが刑罰であるぼくの仲間でぼくの好きな奴は三人はゐる 刑罰は重いが どうやら不可抗の控訴をすすめるための 休暇はかせげる 「転位のための十篇」(1953)(「全詩集」P75~P76) 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.01
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佐藤真「まひるのほし」シネリーブル神戸 前日、同じ佐藤真監督のサイードを見たのですが、病み上がりの徘徊老人、いてもたってもいられなくて、今日もシネリーブル神戸にやって来ました。今日は付き添いなしで一人です。 見たのは、もちろん、「暮らしの思想 佐藤真 RETOROSPECTIVE」の2本め、佐藤真監督、1999年の作品、「まひるのほし」です。 この写真が西宮のすずかけ作業所に通いながらゴシゴシ絵を描くシュウちゃん。 彼の、夢中になってクレパスとかを使っている顔に、フッと浮かぶあどけなさが見ているボクの心を揺さぶるように、激しくうちます。 最初のチラシの正面写真が、神奈川の絵(かい)という工房にやって来る「ボクは女の人が好きだ 。女性が好きだ。 女子高生。 女子学生。 女子短大生。 女子大生が好きだ。シゲちゃんと呼んでほしい。」 と叫び、延々とカードを書き続けるのがシゲちゃんです。 写真はありませんが、結構、お年のおじさんで、「なさけない、ああ、なさけない、いや、ありがとう。なさけない。」 と呟き続けながら信楽で穴だらけの焼き物を焼いていたのがヨシヒコさん。 他にも、個性あふれる筆遣いの人たちは出てくるのですが、名前で記憶できた、この三人の方のインパクトは格別でした。 上のチラシの写真ですが、江の島の海岸の水際で、ここでもやっぱり「シゲちゃんとよんで!」 と、沖のウインド・サーファーの女性たちに向かって叫んでいるシゲちゃんの後ろ姿を捉えるカメラの、まあ、視線に深いとか浅いとかあるのかどうかはともかく、深い、心のこもった視線に、監督佐藤真の「愛」が込められていると強く感じたたラストですが、そこに流れて来た井上陽水の歌がこんなにも哀切だったことに気付かされたのもオドロキの大発見でした。 スクリーンの映し出されるすべての人に拍手! そんな、思いで見終えました。映画から25年、映画を撮った佐藤真はすでにこの世の人でありませんが、きにかかるのは、映画に出てこられた、みなさん、お元気にしていらしゃるのでしょうか? ということで、この作品は、そういう映画だったと思いました。 芸術表現人の根底に迫るとチラシは謳っていますが、普通の人間が普通に生きている姿を、人間をそのまま撮りたい監督やカメラマンが、深く、あたたかい眼差しで、静かに見つめ続けている。 そういう映画だと思いました。まさに、ドキュメンタリーの傑作ですね。拍手!監督 佐藤真製作 山上徹二郎 庄幸司郎撮影監督 田島征三撮影 大津幸四郎録音 久保田幸雄録音応援 菊池信之助監督 飯塚聡挿入歌 井上陽水キャスト舛次崇(しゅうじたかし:しゅうちゃん)西尾繁(にししげる:しげちゃん)伊藤喜彦(いとうよしひこ:よしひこさん)竹村幸恵富塚純光川村紀子松本孝夫1999年・93分・日本2024・06・02・no074・シネリーブル神戸no247追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.05
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石塚真一「BlueGiantExplorer 2」(小学館) 石塚真一の「BlueGiantExplorer」(小学館)、第2巻が「ゆかいな仲間」ヤサイクンの3月のマンガ便で届きました。 「BlueGiantExplorer」は宮本大君のジャズ修業アメリカ編ですが、第1巻でシアトルに上陸した宮本大君が、第2巻では、ホンダの中古車を手入れ、大陸横断の旅をスタートします。 オハイオ州ポートランドがアメリカ編の二つ目の舞台です。下の場面は、シアトルを出発した宮本大君が、ヒッチハイカーのジェイソン君を載せてポートランドに到着したシーンです。 ここまで、石塚真一の「BlueGiant」を読んできましたが、何となく気づいたことがあります。 このマンガは確かにジャズ・ミュージシャンとして、世界の頂点に立ちたいという少年の夢を描く、実に素朴な「ビルドゥングス・ロマン」なのですが、ここまで読者であるぼくを引っ張り続けてきたのは、宮本大自身のキャラクターや、音楽演奏の感動的な描き方も大切な要素なのですが、どうも、このマンガのいちばんの肝は、宮本大君が出会う脇役たちの描き方なのではないかということに思い当たったのです。 少年マンガには、ある意味、常道ですが、主人公を成長させていく、他者として登場するライヴァルたちがいます。たとえば、「初めの一歩」にしろ、「あしたのジョー」にしろ、ボクシング・マンガがおもしろいのは戦う「相手」がいるからだということはすぐにわかるわけです。しかし、ミュージシャンの演奏の成長に「敵」はいるのでしょうか。 かつて、石塚真一が描いた「岳」では、山が相手でした。技術的な成長以上に、山という「自然の厳しさ」が、ライヴァルとして立ちはだかり、それに向き合う主人公の「内面」の描き方がマンガを支えていたと思います。 「BlueGiant」でも、ここまで、「最高の音楽性」という高みを目指す主人公の描き方を「岳」とよく似ています。 しかし、音楽の「高み」は物差しで測ることが出来る「山」ではありません。新しく創り出し、新しく生まれるものです。人それぞれの「好き好き」を超えた「高み」はどうすれば描けるのでしょうか。 で、石塚は「人」を描くことにしたのだというのが、ぼくが、ふと、気付いたことでした。そう思って読み進めると、音楽関係者ではない、印象的な登場人物が何人か登場します。 上のシーンで登場したジェイソン君もその一人です。彼はスケート・ボードを楽しみ長旅を続ける、アメリカ文学でいう「ホーボー」と呼ぶべき流れ者ですが、彼との偶然の出会いは、宮本大に音楽の「外の世界」の広さを教えます。 この巻に出てくる、もう一人の、印象的な脇役は、ひょっとしたらヒロインになったかもと思わせるコーヒーショップの女性シェリル・ハントです。 毎朝一杯のコーヒーを飲むために立ち寄ったお店で出会った女性ですが、彼女の最後の言葉が素晴らしいのです。「私とアナタは、凄く違うんだね。」 シェリルがいった言葉ですが、人と人の遠さを、互いの存在に対する敬意として描いた石塚真一をぼくは信用します。 表紙の宮本大の眼差しも、厳しさを加えつつありますね。彼が、どこまで「少年」であり続けられるのか、ますます楽しみですね。追記2022・03・31第3巻・第4巻・第5巻の感想書きました。よろしけれは覗いてみてください。
2021.03.19
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吉本隆明「ちひさな群への挨拶」「吉本隆明代表詩選」(思潮社)より 三泊した病室で天井をボンヤリ見ながら、周りから聞こえてくるうめき声やしわぶき、ときどき響き渡るモニターの発信音を聞きながら、何故か、50年ほど昔の下宿暮らしの頃に、天井に貼っていた詩の文句が浮かんできて、スマホを取り出してググってみると、結構、出てくるもので、しばらく、自分が今いる境遇を忘れて読みふけっていると時間もいつの間にかたっていて、少しうとうとできるという体験をしました。 自宅に帰ってきて、もう一度、今度はそれぞれの詩集とかで読み直しながら、2024年の5月の月末の備忘録のような気持ちで、思い出した詩を写しておくことにします。 とりあえず、一つ目は吉本隆明の「ちひさな群への挨拶」です。 ちひさな群への挨拶 吉本隆明あたたかい風とあたたかい家とはたいせつだ冬は背中からぼくをこごえさせるから冬の真むかうへでてゆくためにぼくはちひさな微温をたちきるをはりのない鎖 そのなかのひとつひとつの貌をわすれるぼくが街路へほうりだされたために地球の脳髄は弛緩してしまふぼくの苦しみぬいたことを繁殖させないために冬は女たちを遠ざけるぼくは何処までゆかうとも第四級の風てん病院をでられないちひさなやさしい群よ昨日までかなしかつた昨日までうれしかつたひとびとよ冬はふたつの極からぼくたちを緊めあげるそうしてまだ生れないぼくたちの子供をけつして生れないやうにするこわれやすい神経をもつたぼくの仲間よフロストの皮膜のしたで睡れそのあひだにぼくは立去ろうぼくたちの味方は破れ戦火が乾いた風にのつてやつてきさうだからちひさなやさしい群よ苛酷なゆめとやさしいゆめが断ちきれるときぼくは何をしたらうぼくの脳髄はおもたく ぼくの肩は疲れてゐるから記憶という記憶はうつちやらなくてはいけないみんなのやさしさといっしょにぼくはでてゆく冬の圧力の真むかうへひとりつきりで耐えられないからたくさんのひとと手をつなぐといふのは嘘だからひとりつきりで抗争できないからたくさんのひとと手をつなぐといふのは卑怯だからぼくはでてゆくすべての時刻がむかうかわに加担してもぼくたちがしはらつたものをずつと以前のぶんまでとりかへすためにすでにいらなくなつたものはそれを思いしらせるためにちひさなやさしい群よみんなは思い出のひとつひとつだぼくはでてゆく嫌悪のひとつひとつに出遇ふためにぼくはでてゆく無数の敵のどまん中へぼくは疲れてゐるがぼくの瞋りは無尽蔵だぼくの孤独はほとんど極限(リミット)に耐えられるぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられるぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれるもたれあうことをきらった反抗がたふれるぼくがたふれたら同胞はぼくの屍体を湿つた忍従の穴へ埋めるにきまつてゐるぼくがたふれたら収奪者は勢いをもりかえすだから ちひさなやさしい群よみんなのひとつひとつの貌よさやうなら 今回、書き写すために参照したのは思潮社の「吉本隆明代表詩選」というアンソロジー詩集ですが、その中に、10年ほど前に亡くなった詩人、辻井喬さん、実業家としての名は堤清二で、西武百貨店の重役だった人ですが、彼のこんな言葉がのっています。 吉本隆明の作品を考える場合、「詩」という言葉でどこまで含めたらいいかという問題にぶつかります。というのは、たとえば「マチウ書試論」は感性に訴える思想の運動を記した詩作品だと思うからです。しかし、不本意ながら慣習に従うなら「転位のための十篇」のなかの「ちひさな群への挨拶」でしょう。辻井喬 ボクが記憶していたのはひとりつきりで耐えられないからたくさんのひとと手をつなぐといふのは嘘だから という2行でしたが、1974年に二十歳だった青年は何を考えていたのでしょうね。でも、まあ、そういう時代が50年前にあったことは事実で、そういう感受性というのは、どこかに眠っているのかもしれませんね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.02
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黒川創「鶴見俊輔伝」(新潮社) 今回の案内は黒川創による「鶴見俊輔伝」(新潮社)という伝記です。この本は五百ページを超える分厚い本なのですが、三百ページを超えたあたりにこんな文章が引用されています。 今でも昨日のことのように思い出しますが、真っ白に雪の降り積もった二月の朝、陣地の後ろの雑木林に四十人の捕虜が長く一列に並ばされました。その前に三メートルほどの距離をおいて私達初年兵が四十名、剣付き銃を身構えて小隊長の『突け』の号令が下るのを待っていたのです。 昨晩私は寝床の中で一晩考えました。どう考えても殺人はかないません。小隊長の命令でもこれだけはできないと思いました。しかし命令に従わなかったらどんなひどい目に会うかは誰でも知っています。自分ばかりでなく同じ班の連中までひどい目にあわすことが日本軍隊の制裁法です。け病を使って殺人の現場にでないことを考えてみました。気の弱い兵隊がちょいちょいやる逃亡という言葉も頭をかすめました。しかし最後に私の達した結論は「殺人現場に出る、しかし殺さない」ということでした。『突け』の号令がとうとう下された。しかし流石に飛び出していく兵隊はありません。小隊長が顔を真っ赤にしてもう一度『突け』と怒鳴りました。五、六人が飛び出してゆきました。捕虜の悲鳴と絶叫と鮮血が一瞬のうちに雪の野原をせいさんな修羅場に変えました。 尻込みしていた連中も血に狂った猛牛のように獲物に向かって突進してゆきました。 私はじっと立っていました。小隊長近づいてきました。「続木!!行かんか」と雪をけちらして怒鳴りました。私はそれでもじっと立っていました。小隊長は真っ赤な顔を一層赤くして「いくじなし」というが早いか私の腰を力任せに蹴り上げました。そして私の手から銃剣をもぎ取ると、銃床で私を突き飛ばしました。 小隊長の号令に従わなかった男は私以外にもう一人だけいました。丹波の篠山から来た大雲義幸という禅坊主の兵隊で、二人はその晩軍靴を口にくわえ、くんくん鼻をならしながらよつばいになって、雪の中を這いまわることを命ぜられました。これは「お前たちは犬にも劣る」ということだそうです。 しかし大雲も私も「犬にも劣るのはお前たちのほうだ」と心の中で思っていましたから、予想外に軽い処罰を喜んだくらいでした。これを機会に二匹の犬は無二の親友になりました。 個人の戦争体験の記録として、今読んでも、実に印象的なこの文章は、京都の駸々堂というパン屋の社内報に、経営者の一族で専務であった続木満那(まな)という男性が「私の二等兵物語」という物語として連載していたらしいのですが、その1961年新年号の記事です。 本書はここまで、鶴見俊輔の出生からの家族関係、少年時代のアメリカ体験、軍属としての従軍、戦後の「思想の科学」という雑誌の発行、1960年の安保闘争との関わり、というふうに、時間を追って丁寧に記述されています。 特に、晩年の鶴見俊輔が、繰り返し語った、少年時代の母との関係や、アメリカ暮らしにおける「一番病」といった、人格形成におけるトラウマのような部分について、実に客観的で公平な視点で書き進めている点で、ぼくのような鶴見フリークの偏った理解をただしていく、冷静な好著として読み進めてきました。 ただ、著者が「何故この伝記を書こうとしたのか」という、執筆のモチベーションに対して、かすかながら疑問は感じていました。ひょっとして、よくいえば冷静だが、悪くすると平板なまま終わるのではないか。そういう感じです。 そこに、この引用でした。この伝記を通読すれば理解していただけると思いますが、この文章が、この伝記のちょうど峠を越したあたりで引用されているのには、結果的に二つの大きな意味があると、ぼくには思えました。 一つは鶴見自身を苦しめてきたアイデンティティ ― 自分とは何者か ― の問題を解くカギになる、生い立ちとは別のポイントを著者黒川創は示しそうとしているのではないかということです。 鶴見俊輔には戦地で体験した「人が人を殺すことを強いる国家」に対して、もしも、あの時、命令が自分に下っていれば、自分は引用文の続木二等兵のような抵抗の勇気を持つことができなかったのではないかという形で現れる自己否定的な疑いが終生あったと思います。 この疑いが、日米安保条約という軍事同盟・再軍備に抵抗する中で「死んでもいい」と考えるような極端な思い込み。例の樺美智子の死に対して、国立大学教員を辞職して抗議するという果敢な行動。少年時代の自己や家族に対してくりかえされる自嘲的発言。ひいては、再三苦しんできたうつ病の引き金を引いてきたという、鶴見俊輔の自意識の実像を、黒川創が、ここで再確認しようとしているという印象を強く持つ引用なのです。 若き日の鶴見が学んだ論理実証主義の哲学によれば、「もしも」の仮想に捉われて悩むのは妄想というべきことにすぎません。しかし、この「どうしようもない」妄想の中にこそ人間の真実が潜んでいると考える中から、「もう一度生き直す」という積極的な契機をつかむことを見出していく哲学者のターニングポイントとしてこの挿話があるというのが、本書に対するぼくなりの実感です。 続木二等兵の回想は、妄想に苦しんでいる哲学者にとって「救いの光」だったのではないでしょうか。その光は、マッカシーの赤狩りに抵抗した、リリアン・ヘルマンについて鶴見俊輔自身が、別の著書の中で、こんなふうに語っています。 リリアン・ヘルマンは、マッカーシー上院議員の攻撃にさらされた結果、米国知識人であると否とを問わず、何人もの人たちと彼女が分かちもっている彼女自身のまともさの感覚に寄りかかるようになりました。彼女は、いま私がここで述べたと同じような直観を持っていたのかもしれません。 生き方のスタイルを通してお互いに伝えられるまともさの感覚は、知識人によって使いこなされるイデオロギーの道具よりも大切な精神上の意味を持っています。 (「ふりかえって」1979年12月6日の講義) 「まともさの感覚(the sense of denncecy)」という、70年代に学生生活を送ったぼくにとって、吉本隆明の「大衆の原像」とともに心に刻み込んだ鶴見俊輔のキーワードが、この時点で実体を獲得し、「ベ平連」以後の彼の行動を支えていくという、この伝記の展開には、瞠目というような似合わない言葉を、思わず使いたくなるものがあります。 ここから、いわば、「後期鶴見俊輔」の始まりが予告されているのではないでしょうか。 さて、この引用の二つ目の重要なポイントは、この挿話の載っている冊子を鶴見俊輔の許にもたらした北沢恒彦という人物の登場です。 北沢恒彦は大学を出て駸々堂に勤めはじめたばかりで結婚し、1961年6月15日、樺美智子の一周忌の当日に、長男、北沢恒が生まれます。 その後、同志社大学で教え始めた鶴見俊輔とともに京都で活動し、やがて「思想の科学」に寄稿する評論活動へ進み、鶴見の晩年の著作を出版することになる「編集グループSURE」を始めた人らしいのですが、1999年に亡くなっています。「なぜ、この人物についてだけこんなに詳しく書くのだろう」と不思議に思って読み進めていると、なぞは解けます。 実は、61年に生まれた北沢恒こそが、のちに「鶴見俊輔伝」の著者となる黒川創、その人なのです。伝記にはここから、著者である黒川創自身と鶴見俊輔とのかかわりという、ここまでとは、すこし色合いの違う一本の横糸が張られます。 ここから、読者であるぼくは、この評伝の最後も読みどころとして、この少年が老哲学者の伝記を書くに至る動機に目を凝らすことになるのです。 やがて、最終章、残すは十数ページという所まで読み進んだところに、こんなエピソードが記されています。 心臓などに持病のある横山貞子は、自身も加齢する中、鶴見俊輔への介護を続けながらの暮らしに、体力の限界、そして不安を感じるようになっていた。そこで、夫婦揃って老人施設に入所しないかと鶴見に提案し、彼も同意する。だが、翌日、鶴見は同意を撤回、やはり自宅で暮らしたいと話した。「私はどうなってもいいの?」と、横山は夫に尋ねた。「すまないが」と、鶴見は答えたという。 これを書き付けた黒川創の真意を知ることは、もちろん、できません。しかし、ここに、筆者のモチーフが凝縮して表れているのではないかというのが、ここまで読み進めてきた、ぼくの感じたことでした。 このシーンは、生涯で初めて、老鶴見俊輔が他者に心をひらき、「もうろく」に身を任せ、甘えを口にしたシーンだったのではなかったでしょうか。 「まともである」ことの緊張し続けてきた自意識から解放され、意識的に自分を律しつづけることから、初めて自らを許した瞬間だということもできるかもしれません。 ぼく自身は、このシーンを読みなおしながら涙が止まらなくなりました。鶴見俊輔の書はぼくにとっては「青春の書」であり、その生き方は指標でした。その人物の「老い」を目の当たりにしたような感動でした。こういう読書体験はそうあることではありません。 おそらく、書き手黒川創は、書き手自身が備えている「まともな」目によって、「すまないが」という言葉の、鶴見俊輔にとっての重さを正確にとらえていて、この場面を書き残すことこそが、ここまで書き継いできた鶴見俊輔の生涯に、一人の「ただの人間」としての眸(ひとみ)を書き加えることだと考えたのではないでしょうか。 少年時代から見上げ続けてきた哲学者を「ただの人間」として描くことによって、90年間にわたる「一番病」の苦しみから彼を救うことができるのではないか。この「救い」こそが、書くべきこととしてある。黒川はそう考えたに違いないというのが、ぼくに浮かんだ思いでした。 黒川創が、鶴見俊輔という哲学者の苦闘の人生を冷静に描くことを目指しながら、「ただの人間として生きたかった男」を見事に描いた傑作評伝でした。(S)追記2020・02・09 「まともさ」などかけらもない人間が、大手を振って歩きまわる社会が始まっています。吉本隆明や鶴見俊輔を読み直す、あるいは、若い人が読み始めればいいればいいのになあとつくづく思います。名著だと思ます。 時々集まる、本を読む会の、次回の課題になってうれしいのですが、でも、鶴見俊輔の「ことば」に出会うのがつらくて読みなおし始めることができていません。まあ、ぼくは、そういうやつだということですね。追記2024・01・07 鶴見俊輔を読み直そうかと。まず、手始めは「身ぶりとしての抵抗」(河出文庫)です。にほんブログ村にほんブログ村考える人・鶴見俊輔 (FUKUOKA Uブックレット) [ 黒川創 ]すぐ読めます。【新品】【本】日米交換船 鶴見俊輔/著 加藤典洋/著 黒川創/著図書館でどうぞ。
2019.06.25
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佐藤真「エドワード・サイード OUT OF PLACE」シネリーブル神戸 2024年の5月の下旬から、ちょっとした病院通いと入院があって、月末に何とかして病院からのトンズラを考えたときには、さすがに、「これを見るのは、やっぱり無理やろうな・・・」 とか思っていたのですが、出てきて映画館のスケジュールを見て、「行くしかない!」 と、まあ、大げさですが決心して出かけた映画です。「多分、これは、見て、ソンはないと思うよ!」 そんなふうに声をかけると、まあ、安静を指示された同居人が、退院早々、三宮くんだりまで映画を見に行こうとしてることに対する心配もあったのでしょう、本当なら、ここのところ哀れな結末が続いているだめトラ(笑)の応援でテレビにかじりつくつもりだったのを変更してのお付き合いで、同伴鑑賞と相成りました。 見たのは「暮らしの思想 佐藤真 RETOROSPECTIVE」の1本、「エドワード・サイード OUT OF PLACE」でした。 久しぶりに見てよかった! あれこれ、いうのが気が引けるほど堪能しました(笑)。「どう、よかった?」「うん、よかった。サイードいう人、当たり前のこというてた人やて、ようわかった。」「本人、写真と子供の時のビデオでしか出てけえへんのにな。」「エンド・ロールに重信メイいう名前があった。」「うん、レバノンに居ってんやろ。」「サイードって、平凡社ライブラリーの『オリエンタリズム』の人やんな。」「うん。元々は比較文学。2003年に亡くなったんやけど、白血病、そのころにはパレスチナについての発言がいっぱいや。みすずから出てたやろ。最後は『晩年のスタイル』、大江がマネして、自分の小説に題もろたやつ。それ以外にも何冊か、帰ったらあるはずやで。映画でわかるけど、生き方がエエねんな。」「本はむずい?」「うん、どれもこれも読みかけみたいな感じやな。やっぱり読み直さなあかんなっておもた。」「また、読まなあかん本ばっかり増えるねえ。」「バレンボイム、よかったな。最後に出てきて、静かなシューベルトやったなあ。なんか、聴いてて涙がとまらへんかった。」「ピアノの横の誰も座ってない赤いイスとか、コロンビア大学の空っぽの部屋の机とかよかったなあ。」「パレスチナって、きれいなとこやったなあ。」「結局、サイードいう人もそうやけど、帰って行かれへん人ばっかり出てて、その人らの様子が、怒る人も、哀しむ人も、ヨーロッパのどこかからパレスチナに来て笑って暮らしてる人も、何で、こうなったのかわらへんいうてはったパレスチナから追い出された人も、他の宗教の人らとも仲よう暮らしてたのにいうてはった人も、みんな、どっか哀しい。」「うん、佐藤真いう人の考え方いうか、人柄いうか。賢い監督やなあって思ったなあ。」 エドワード・サイード、彼の家族、ダニエル・バレンボイム、出てきた人みんな、そして佐藤真と、撮影スタッフ、みなさんに拍手!でした。 帰ってきて、この作品を撮った監督の佐藤真が、この映画の2年後に自ら命を絶っていることを知って、言葉を失いました。彼も、もう、帰ってこれない場所に行ってしまっていたのですね。 ここ、二日、チッチキ夫人はバレンボイムのモーツァルトのCDをラジカセで聴いているようです。ボクは、部屋のどこにあるかわからないサイードの著作を探して、大わらわです。監督 佐藤真企画・制作 山上徹二郎撮影 大津幸四郎 栗原朗 佐藤真編集 秦岳志助監督 ナジーブ・エルカシュ 屋山久美子 石田優子ナレーション 宝亀克寿テキスト朗読 山川建夫キャストマリアム・サイードナジュラ・サイードワディー・サイードノーム・チョムスキーダニエル・バレンボイム2005年・137分・日本2024・06・01・no073・シネリーブル神戸no246追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.03
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アリーチェ・ロルバケル「幸福なラザロ」シネ・リーブル神戸 朝から雨が降っている金曜日。 「出かけるの?」 「うん、雨が降ってるから。家にいると、ホントに何もしないから。」 「どこに行くの?」 「三宮。お昼に着くように高速バスに乗る。」 「何観るの?」 「ピーチ姫がいうてたやつ。幸福のなんとか。」 昼前のバスはすいていたのに、なぜか、隣に妙に派手なおばさんが座って、熱心にスマホをいじっていると思っていると寝てしまった。 三宮に着くと、さきほどの女性が階段をよろけながら、駆け降りるようにして、市民トイレに直行している後姿を見ていると、意味もなくため息が出た。 映画館は500人のホールで客は7人。振り向いて数えた。席について、またしても近所に知らない人がやってくるのではないかと心配していたが、今日は大丈夫。ホッとして、朝昼兼用のサンドイッチをかじっていると始まった。 暗い画面には建物があって、声がしている。 「ラザロー、ラザロ―」 村の風景、貧しい村人の生活、農作業、子どもたち、電球を取り合う夜、月が出ている。繰り返し「ラザロ」という呼び声が聞こえてくる。名前を呼ばれたらしい朴訥な青年が、頼まれたことを次々とこなしている。 イタリアなのだろうか、山岳地帯で、畑では煙草の葉の収穫をしているようだ。この感じをぼくは知っている。50年前の話だが、伯父がたばこ農家だった。 「あの、大きな葉を一枚づつ干すんや。」 そんなことを考えながら画面を見ていた。煙草畑の中でも、繰り返し「ラザロー、ラザロー、」と聞こえてくる。繰り返し聞こえてくる名前を聞きながら、思い浮かんできた。「ひょっとして、あの、ラザロか?」 画面に、貴族の息子である青年タンクレディが登場し携帯電話をいじり始める。「これは1980年代かな。」 暗い夜、村人がオオカミを見張り、裸電球を奪い合うように暮らしている山あいのこの村から遠くに電波塔の蜃気楼が見える。「あっちには文明があるいうことか。」 母親に反抗する貴族の青年タンクレディと、あらゆる依頼を断らない朴訥な青年ラザロは狼の遠吠えを真似合うことで「兄弟」であることを確かめ合っているようだ。二人の遠吠えの声を村の人々は彼方に聞いている。 しかし、「あの、ラザロ」であるならと考えていると、案の定というか、やっぱりそう来るんですねとばかりに雨に打たれ、高熱を発したラザロが、翌日「兄弟」を探して山中をさまよい崖の上から、あっけなく落下する。とても生きていられそうにはない。「やっぱり!それでどうなるんや。」 一頭の狼が、倒れているラザロのそばにやってくる。人間の遠吠えに答えた、あの狼たちの一頭であるに間違いないようだ。やがて、ラザロが目覚める。 目覚めたラザロは村に帰ってくる。村には誰もいない。街まで歩き続けたラザロは、盗みと詐欺でホームレス暮らしをしている女、少女だったはずのアントニアや、少年だった男たち、彼らが養っている村の老人、財産を失った「兄弟」タンクレディと再会する。いつの間にか30年の年月が流れている。 落ちぶれた「兄弟」を救おうと、いかにも現代的な、銀行の窓口にラザロはやってくる。「兄弟」が失ったものをすべて返してほしいと穏やかに訴えるラザロは、その場にいた群衆に踏みつぶされるようにして殺される。 一頭の狼が、自動車が行き交う道路を山に向かって走っていく。映画は狼の後ろ姿を追いながら、突如終わる。 映画を見ながら思い当たったのは、「新約聖書」の中にある、イエス以外で復活したラザロという名だったのだが、キリスト教圏の人たちならチラシを見ただけで思い浮かぶエピソードに違いない。 しかし、この映画は「ラザロの復活」という宗教的、神話的エピソードを描いたわけではなかった。ぼくの中に残ったのは、30年なのか、2000年なのか「元に戻してくれませんか」と問いかける勇気のようなものだった。 多分、ぼくが今考えていることにつながっている。もちろん時間を戻すことはできない。「が、しかし・・・」という感じを残した映画だった。 延々と連なるイタリアの山岳風景。その向うに見えてくる現代都市。「ラザロ」という呼び声や狼の遠吠えの声の重なりと響き。教会を追い出された貧しい村人に恩寵として聞こえてくる音楽。そして、「愚か者」と呼ぶしかないラザロ。こういう愚直で、まっすぐな映画を作った監督が、アリーチェ・ロルバケルという女性であったことも、ちょっと嬉しかった。 劇場を出ると雨は上がっていた。歩くと汗ばむ季節になってしまった。 「さあ、神戸駅まで歩こう」 監督 アリーチェ・ロルバケル Alice Rohrwacher 製作 カルロ・クレスト=ディナ ティツィアーナ・ソウダーニ アレクサンドラ・エノクシベール グレゴリー・ガヨス キャスト アドリアーノ・タルディオーロ(ラザロ) アニェーゼ・グラツィアーニ(アントニア) アルバ・ロルバケル(成長したアントニア) ルカ・チコバーニ(タンクレディ) トンマーゾ・ラーニョ(成長したタンクレディ ) 原題 「Lazzaro felice」 2018年 イタリア 127分 2019・06・07・シネリーブル神戸(no10)ボタン押してネ!にほんブログ村シューベルト:ラザロ(復活の祭典)~独唱、合唱とオーケストラのための (Schubert, Franz: Lazarus)【中古】◆◆映画芸術 / 2019年5月号
2019.06.07
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高木仁三郎・片山健「ぼくからみると」(のら書房)高木仁三郎さんが「ぶん」を書き、彼のアイデアを片山健さんが「絵」にした絵本があります。「ぼくからみると」(のら書房)ですね。「かがくのとも」という福音館の子供向け科学雑誌の80年代の一冊がリニューアルされて、一冊の絵本になったのが、今から5年ほど前だそうです。夏休みのある昼下がり。ひょうたん池で釣りをしているよしくん。向うから、自転車に乗ってやってくるしゃうちゃん。池の向こうを泳いでいるカイツブリの家族。池の中の鯉。竿の先にとまったトンボ。空から舞い降りてくるのはトンビ。日陰を作ってくれている立木の枝にとまっているのはモズ?こっそりバケツの獲物をうかがうノラ猫。アザミの花に群がる蜜蜂。花から花へ飛び交うのはアオスジアゲハ。池之端に座り込むアマガエル。しょうちゃんが隣にすわって、青空を見上げている。夏の午後だ。「入道雲が出てきた。あれは何になるところなんだろう。」 絵本をみている「ぼくからみると」そんな感じ。 池の周りの、いろんな生き物が、一匹、一匹「ぼくからみている」。 それが世界だなのですね。 一ページ、一ページが、見開きで一つの世界です。 池の鯉の視点、トンビやモズの目、みんな素晴らしい。なかなか豪華な絵本です。 高木仁三郎さんが2000年に亡くなって、20年近くの年月が経とうとしています。彼が反対し続けた原子力発電所は、大きな地震があって、彼の予言通りの事故を起こしました。彼が主張したのは、それぞれの立場の人間が、ともに生きる人間に対する責任を自覚した、科学的な客観主義、相対主義だったと思います。 様々な視点を子供たちにも呼びかけた彼が生きていたら、責任も、客観的正当性もないでたらめな社会が、実際に出現したのをを見てなんといったのでしょう。新しい時代を生きる子供たちに読んでほしい一冊です。追記2021・08・07 人間をはじめとした生き物の「いのち」をないがしろにすることが平気な時代が始まっているような気がする今日この頃です。 「空」から見おろしたり、「草むら」から覗いたり、「池の中」から見上げたり、いろんなところから世界を見る面白さと大切さを大事にしたいと思います。 子供たちは夏休みですね。いろんなところに行って、いろんな風景と出会ってほしいですね。追記2022・05・18 ベランダに蝶がやってきて卵をおいていくようになりました。トンボが飛び始めるのももうすぐです。トンボから見たり、葉っぱの上をはっている青虫から見たりする世界を思い浮かべるのは楽しいですね。 おっと、ヒヨドリがベランダの手すりにとまりました。アブナイ、アブナイ。ボタン押してネ!にほんブログ村【中古】 市民科学者として生きる 岩波新書/高木仁三郎(著者) 【中古】afb名著!原発事故ー日本では? (岩波ブックレット) [ 高木仁三郎 ]完全に予言していた彼は偉い。宮澤賢治をめぐる冒険新装版 水や光や風のエコロジー [ 高木仁三郎 ]宮沢賢治が好きだったんですよ。高木さんは。市民の科学 (講談社学術文庫) [ 高木 仁三郎 ]科学者であろうが、法律家であろうが、ただの市民。忘れてはいけない原則。
2019.06.09
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リドリー・スコット「テルマ&ルイーズ」パルシネマしんこうえん 遠くに赤ハゲの山があって、青空に雲が浮いています。タイトルとかが映し出されますが、背景はストップしているようにみえます。 画面が切り替わって、朝のコーヒー・ショップなのでしょうか、ウエートレスの女性たちが忙しく働いていて、一息ついた女性がどこかに電話します。電話に出た女性が「テルマ」と呼びかけられていて、かけ直すと返事をして電話を切ります。テルマは台所から隣の部屋に向かって急ぐように怒鳴り、出てきた男にコーヒーを差しだします。不機嫌な顔でコーヒーを断った男は「朝から怒鳴るな。」とテルマに文句を言います。 映画が始まりました。今日は金曜日です。見ているのはリドリー・スコットの「テルマ&ルイーズ」です。 独り者のウエートレスがルイーズ。テルマと呼ばれた女性が専業主婦です。二人はこの週末、釣りができる山小屋でバカンスの計画を立てているようです。テルマは夫のことをあれこれ気には掛けているようですが、結局、放ったらかしにして、ルイーズの乗ってきた青い車に、乱雑に荷物を積み込んで出発します。車の車種は、ぼくでも知っています。フォード・サンダーバード、バカでかいオープン・カーです。でも、この車じゃないと駄目だったんですよね、この映画は。 二人の「女」の旅が始まりました。ロード・ムービーですね。ぼくのなかでロード・ムービーというと「イージー・ライダー」とか「真夜中のカウ・ボーイ」、「スケアクロウ」なんかが思い浮かんでしまうのですが、男同士でしたよね。「俺たちに明日はない」や「明日に向かって撃て」だって、ある種、ロード・ムービーだったと思いますが、それぞれ男と女、男二人と女、でした。女性の二人連れは初めてです。まあ、それにしても、思い浮かべる映画が、みんな70年代の映画ですね。 さて、映画ですが、ここから二泊三日(この辺りは、あやふやです)の行程で、二人の女性は一級殺人、強盗、警官に対する暴行、監禁、器物破損、公務執行妨害、スピード違反と、まあ、あれこれ、もう捕まるしかないという身の上に変貌します。 最初のタイトルの山の見える平原をサンダー・バードが走っています。二人の顔がクローズ・アップされて、その美しさが記憶に刻み込まれます。このシーンを見ただけでも、ぼくは満足です。FBIから地元の警察まで総動員の「男たち」に追い詰められていく二人は見ているのが痛々しいほどなのですが、あくまでも爽快で美しいその横顔と、あっと驚く痛快でドキドキの展開から目を離すことができません。 いよいよ、ラストです。予想通り、二人の「女」が乗ったサンダー・バードは、その名にふさわしく、グランド・キャニオンの絶壁からフル・アクセルで空に飛び出しました。 ストップ・モーションで「旅」は終わりました。 見終わって、それにしても何故か「なつかしい」味わいを噛みしめながら、劇場の入り口に立っていらっしゃた支配人のおニーさんに尋ねました。「これって、古い?」「はい、80年代の終わりの、リドリー・スコットですね。」 湊川公園から山手幹線、上沢通にそった歩道を西に歩きながら得心したことが二つありました。 映画の中で、強盗のやり方と生涯最高のセックスを、おバカのテルマに教えて、その代金のように6000ドルの有り金をネコババした、ムショ帰りの男J.D.はブラッド・ピットだったのですが、道理で若いはずでした。見ながら、ひょっとしてとは思っていたのですが、納得です。若き日のブラピ、なかなか見ものですよ。 それに加えてルイーズ役の女優さんスーザン・サランドンに、どこかで見たことがある感じがしていたのですが「ロッキー・ホラー・ショウ」か「イーストウィックの魔女たち」ですね、きっと。 納得の二つ目は、何ともいえないほどキッパリと「破滅」という「自由」に向かってアクセルを踏んだ女性の描き方です。これは、今の映画の描き方ではないと感じて観ていたのですが、やはり80年代の描き方でした。それも「エイリアン」のリドリー・スコットだというのですから、なるほど、「こう描くだろうな」という感じです。 映画が撮られてから30年以上の年月が経っていたのです。こうして歩いている山手幹線沿いから、少し北側に、当時通っていた職場が、今もあります。1995年の震災で町も職場の建物も姿を変えました。それでも、懐かしさは変わりません。 それにしても、空高く飛び出したテルマとルイーズは、あれからどこかに着地したのでしょうか?監督・製作 リドリー・スコット製作 ミミ・ポーク脚本 カーリー・クーリ撮影 エイドリアン・ビドル音楽 ハンス・ジマー主題歌 グレン・フライ「Part Of Me, Part Of You」キャスト スーザン・サランドン(ルイーズ) ジーナ・デイヴィス(テルマ) ハーヴェイ・カイテル(ハル:刑事) マイケル・マドセン(ジミー:ルイーズの恋人) クリストファー・マクドナルド(ダリル:テルマの夫) ブラッド・ピット(J.D.:ヒッチハイカー・強盗)1991年128分アメリカ 原題「Thelma & Louise」2020・02・17パルシネマno23追記2020・02・19「エイリアン」について、フェミニズム映画として解説しているのは内田樹の「映画の構造分析」(文春文庫)です。1980年代のアメリカ映画の分析として、とても面白いのですが、ぼくはこの映画を見て詩人石垣りんの「崖」という詩を思い浮かべました。 何だか見当違いなことを言っているようですが、テルマとルイーズを追いかけて、追い詰めていたのは、すべて「男」でした。「理解者」である刑事もいるにはいたのですが、断固としてアクセルを踏み込むルイーズを追い立てたものは、何だったんでしょう。 この詩を読んでいただければ、ぼくが言いたいことも、わかっていただけるかもしれませんね。 崖 石垣りん戦争の終り、サイパン島の崖の上から次々に身を投げた女たち。美徳やら義理やら体裁やら何やら。火だの男だのに追いつめられて。とばなければならないからとびこんだ。ゆき場のないゆき場所。(崖はいつも女をまっさかさまにする)それがねえまだ一人も海にとどかないのだ。十五年もたつというのにどうしたんだろう。あの、女。 二人は今頃、どのあたりを飛んでいるのでしょうね。 ところで、チッチキ夫人はこの映画を見に行くのでしょうか?観に行くことを勧めていますが、70年ころのロード・ムービーの結末の辛さに出会うのではないかと疑っている彼女は、逡巡しているようです。ぼくは、彼女の感想を楽しみにしていますが・・・。ボタン押してね!映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想 (文春文庫) [ 内田樹 ]
2020.02.20
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長田悠幸・町田一八「シオリエクスペリエンス 15」(BG COMICS)「ゆかいな仲間」ヤサイクンの、8月のマンガ便に入っていました「シオリエクスペリエンス(15巻)」(BGコミックス)です。 2020年、8月25に発売の最新号ですね。出たてのホヤホヤで、表紙のプリンスくん こと八王子 茂くん、えらい出世ですね。 14巻では、海の向こうアメリカで「Bridge To Legend」、通称BTLの一次予選を勝ち抜いた二人、「ニルヴァーナ」のカート・コバーンとジャニス・リン・ジョプリンがジャック・インするバンド「The27Club」の話が出てきて、さては、お次はイギリスの二人、「ローリング・ストーンズ」のブライアン・ジョーンズと「ドアーズ」のジム・モリソンの話では、と見当をつけていたのですが、ヤッパリそうでした。 出てきちゃいましたよ、4人とも。 日本では「タピオカズ」との全国ツアーで盛り上がる「SHIORI EXPERIENCEシオリエクスペリエンス」なのですが、最後の見せ場は、いよいよ、本田紫織さんにジャック・インしているジミ・ヘンドリックスの登場です。 ああ、どうするんでしょうね、ここから。上の二つの絵がうれしいぼくは65歳を越えているのですが、読者の方の平均年齢はいかほどなのか、そこが知りたいですね。 ともあれ、どうも、はなしがおおきくなりすぎていますが、どうやって収集するのでしょうね、楽しみと不安と、半分半分ってところでしょうか。 またしても、次号が楽しみですが、次は2021年の正月ぐらいでしょうね。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.08.30
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「三日で出所(笑)!」 徘徊日記 2024年5月30日(木)舞子あたり 虫垂炎の除去手術で、入院でしたが、実に物分かりのいい主治医さんで、「どうせ寝ているだけなら帰りたい!」 というと「じゃあ、帰りますか。ホントに寝てるんですよ!」 というわけで、三泊四日で出所! 病院前のバス停で黄色い花が咲いていてしみじみのぞき込みました。 出て来たばっかりの建物を振り返りながら、なにをしてるんだ?! ですが、肺活量、94歳程度! と診断されてドキドキしたことを、もう忘れていますね。 四日目の朝、5月30日の明石大橋。やっぱり絶景でしたが、さようなら(笑)ですね。通院はしばらく続くようですが、無事退院の報告でした。 皆さん、色々心配していただいてありがとうございました。追記 2024・06・02 上の黄色い花の名前ですが、同居人に尋ねると「金糸梅(きんしばい)」、ブログを読んでくれた年上のおばさんは「ビヨウヤナギ」、年下なのにボクを弟扱いして50年来のオネ~さんは「弟切草(オトギリソウ)」、みんな違うことをおっしゃるので調べたら、みなさん正解!(笑) みなさん、よくご存知ですね(笑)。にほんブログ村
2024.05.31
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養老孟司×名越康文「二ホンという病」(日刊現代・講談社) 市民図書館の新刊の棚にありました。養老孟司と名越康文、元解剖学者と精神科医、まあ、お二人ともお医者さんですね、だから、まあ、「二ホンという病」ということになったんだろうと思います(笑)。名越という方の文章を読むのは、初めてですが、養老孟司は「バカの壁」(新潮新書)でバカ受けする、はるか以前からのファンです。 ボクにとっては、おしゃることが、まあ、最近、そういう方は減ってしまいましたが、その数少ない、信用できる方のお一人ですね。 というわけで、借り出してきて、なんだか、すらすら読み終えて、やっぱり、ありましたね。養老 僕はなんだか、日本の原題を象徴しているのが、凶弾に倒れた中村哲さんという人をどう評価するかってことだと思う。まったくないんですよ。沈黙になってしまっている。 中村さんは戦後の日本の模範みたいな人でしょ。それなのに「医者が個人でアフガニスタンで勝手なことをしていた」というのが日本社会、政治の感覚じゃないですか。中村さんが、そんなことをボソッとこぼしてましたね。 中略名越 そうか、叙勲も何もないんだ。異様ですね。養老 そんなことより、戦後の日本はあの人をどう評価するんですか。 中略 別にほめなくてもいいけど、どう位置付けるかでしょうね。個人の自立って話だけど、中村さんなんかは典型的にそうですけど、今度はそれをどう評価するかっていう問題があって、何の物差しも持っていないですよ。ポカンっていう感じですよね。 まあ、二ホンという社会の「病」の話ですから、ここからは、いや、ここまでも、思想抜きのアホ政治、いつの頃からの流行か忘れましたが「リアル・ポリティクス」とかいう言葉が作り出した「現実」の「病」の指摘ですね。問題は思想抜きってどういうこと? ですが、そこは、この対談だけ読んでも、多分すぐにはわかりませんね。要するに普遍的に判断する基本がないってことですが、そこを考え始める本かもですね。 日刊ゲンダイという夕刊紙の連載対談ということもあって、コロナとかウクライナとか、話題は多岐に広がっていますが、こういう発言がポロリと出てくるとホッとしますね。 で、もう1か所、最後のコラムでこんなことをおっしゃっていて、笑いました。 日本の喫煙所はね、絶対にたばこを吸わない人考えたんですよ。あんな閉鎖的なところで吸ってもちっともおいしくない。東京に出ているときにね、たばこのことを考えるとすぐに家に帰りたくなりますよ。家では好きな時に吸えますからね。そう言えば、「丸」が生きていた時、あいつの前で吸っていても大目に見てくれていましたね(笑)。(「コラム②タバコと価値観」P204 ) 世の中に、ちょっと、イラっとすることがあるけど、まあ、木から落ちてくる虫や、道端の花の世界に取り合っている方がいいや! とか、どうせ、おれは喫煙者だし・・・ というタイプの人向けの本ですね。でも、考え始める気があるなら、ヒントは山盛りです。さすがですね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.06.04
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吉本隆明 「17歳」 「吉本隆明 代表詩選」(思潮社) 十七歳 吉本隆明 きょう 言葉がとめどなく溢れた そんなはずはない この生涯にわが歩行は吃りつづけ 思いはとどこおって溜まりはじめ とうとう胸のあたりまで水位があがってしまった きょう 言葉がとめどなく溢れた 十七歳のぼくが ぼくに会いにやってきて 矢のように胸の堰を壊しはじめた 六十歳を越えた一人の男のもとに、十七歳だった時のその男が会いにやってくる。夢の中のことか、現実か。少年の姿を前にして、溢れてくる言葉。六十数年の生涯、上手に言葉にすることは出来なかった、しかし、ずっと言いたい本当のことがあったのだ。男の口を閉ざさせていたものは、仕事か、生活か、常識か。ともあれ、大人になるということが口を閉ざすことであるような、自らの中の少年を押し殺すことであるような倫理観は誰にも共通することだろう。 「堰を切る」という言葉がある。十七歳の少年だった自分が六十数歳の男の、溜まりに溜まった思いの堰を切ったのだ。よみがえった少年の日のまっすぐなまなざしに揺さぶられる、黙り続けてきた人生の意味。 およそ五十年にわたる社会生活から引退を余儀なくされ、老人と呼ばれるようになる。いつの時代であれ、誰もが通りかかるに違いない人の一生の曲がり角で、ふと、どこかへ帰っていこうとする「こころ」の行方を見据えた作品。まず、そんなふうにこの詩を読むことは可能だろう。 ここで、作者吉本隆明をめぐる年表に目を通してみよう。 詩人は1924年生まれ。十七歳は1941年。昭和十六年、12月に「この国」がアメリカに対する帝国海軍の奇襲(?)で始めた太平洋戦争勃発の年。彼は東京府立化学工業学校応用化学科五年生。現在でいえば工業高校の三年生だった。 この詩が書かれたのは1990年。平成二年。詩人は六十六歳。前年の1989年、太平洋戦争を統帥した天皇ヒロヒトが寿命を終え、昭和天皇と諡号で呼ばれるようになり、翌年の1991年、自衛隊というこの国の軍隊が、1941年の、あの日から五十年の歳月を経て、アメリカが始めた戦争に参戦するために海外派兵を始めることになる。 こう見てみると、「十七歳のぼく」が「ぼくに会いにやってきた」のにはそれなりの理由があったのではないかと感じないだろうか。そこから、もっと積極的なこの詩の読み方ができないか。 作家の高橋源一郎は「吉本隆明代表詩選」(思潮社)の編者あとがきにこう書いている。 ずっと以前からそう思っていたが、いまもそう思う。きっと、これからもずっとそう思うことになるだろう。つまり、吉本隆明の詩を読まなければ、ぼくは小説家にはならなかっただろう、ということだ。 吉本隆明の詩を読まなくても、詩や小説や批評に興味を持ったかもしれない。それから、書いてみようとさえ思い、書きはじめたかもしれない。だが、仮に、書きはじめたにせよ、ぼくはもうそれをやめているか、暇な時の楽しみにしているか、そのいずれかだったに違いない。つまり、詩や小説や批評は、たいへん好ましく、面白く、刺激的ではあっても、さらに、自分が書いていたとしても、それにもかかわらず「他人事」にすぎなかったにちがいない。しかし、ぼくは、結局、吉本隆明の詩を読んでしまったのだ。 吉本隆明の詩をひとことでいうなら「倫理的」であるということだ。しかし、それは、誰の(あるいは何の)、何に(あるいは誰に)たいする倫理なのか。 その詩は、言葉に関して「倫理的」であるようにも、言葉以外の一切に関して「倫理的」であるようにも、また、詩的表現に関して「倫理的」であるようにも、詩的表現が成立する根拠に対して「倫理的」であるようにも見える。つまり、全世界に対して「倫理的」であるように見える。だが、不思議なのは、その詩が「倫理的」であるが故に「美的」であることだ。古来、「倫理的」であることと「美的」であることは深く対立するものではなかったか。その謎を解くことは、いまもぼくにはできないのである。 この詩を支えている「倫理」にたどり着ければ、詩が直接的に表している「老い」の叙情に、もっと深く広がりのある風貌を与えることができるのではないだろうか。 戦後最大の思想家と呼ばれながら、どこかに切ない「倫理」を感じさせる「抒情」を詩として書き残した詩人であった吉本隆明も、2012年に去った。 ちなみに「共同幻想論」とか「言語にとって美とは何か」(角川文庫)とか、1970年代の大学生には、読み超えるべき壁のような書物であったが、今の学生さんたちには見向きもされないだろうし、たとえ手にとっても歯が立つまい。ははは。 しかし、「詩」から読み始めることは可能かもしれない。そう思う。(S)初出2006・09・27 改稿2019・06・30にほんブログ村にほんブログ村【中古】 共同幻想論 角川ソフィア文庫/吉本隆明(著者) 【中古】afbこれですね。悪人正機 (新潮文庫) [ 吉本隆明 ]読みやすい。
2019.06.30
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小林まこと・惠本裕子「JJM女子柔道部物語(08)」(講談社・EVEING KC小林まこと「女子柔道部物語」第8巻です。 神楽えもちゃんも、柔道を始めて1年、高校二年生の夏の合同合宿を乗り切り、秋の新人戦です。北海道大会の旭川支部大会が開幕します。「カムイ南高校」の面々も、あいかわらずの大活躍。お調子者のえもちゃん危機一髪をどう乗り切るのか。 今回は登場人物紹介のページですね。 お母さんの神楽由紀さんは美容師さんですが、何故か、妙に色っぽいのです。小林まことさんの好みなんでしょうかね、こういう女性は。 今回は地区大会が始まったばかりなので、キャラクターが少ないで載せてみました。これが、このマンガの基本登場人物です。 おバカ高校生は、鏡相手に熱中していますね。この人がやがて世界チャンピョンとかになるわけですね。オリンピックとかにお行くわけです。 小林まことのこういう感じがぼくは好きなんでしょうね。あほらしくていいでしょ。 女子柔道部物語(1巻~6巻)(1巻~6巻)・(7巻)の感想はここをクリックしてね。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.05.11
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テンギズ・アブラゼ 「懺悔」元町映画館二階 黒の小部屋 「3月20日午後5時30分、元町映画館二階・黒い小部屋。カナラズコラレタシ。」という謎のメールを受け取った、徘徊老人シマクマ君。そのままどこかに連れ去られて・・・てなことは、もちろん起こらない。 ロシア映画を定期的の集まってごらんになっているグループの定期上映会に、お誘いいただいて、昨年見損ねた、テンギズ・アブラゼ「懺悔」を見ることができた。 下調べしたところによれば、ソビエト連邦崩壊直前に、グルジアで作られた反スタ映画として評判になった作品らしいのだが、そういう関心、反スタ映画だからみようかというような、は、今まで、ぼくにはあまりなかった。 少し小さめのスクリーンで映画は始まった。 中年の女性が、クリームでバラの花を作って、ケーキを飾っている。大きなケーキには、教会と思しき建物の飾り付けがのっかっていて、隣のテーブルで髭の男がケーキにかぶりついて「うまいうまい」といっていたと思うと、新聞に載っている写真を見て、大げさに「立派な人を亡くした。」とか何とか、わざとらしい誉め言葉を大声でがなり立てはじめている。ケーキを作っていた女性が、なぜか冷ややかな表情で、その男を見ている。 市長が死んだらしい。 葬儀があって、埋葬がある。葬儀を済ませた息子夫婦がベッドに入る。幼児と母親のようなみだらな場面がと、期待し始めたところに、庭から犬の奇妙な鳴き声が聞こえてくる。裸の妻が庭を見下ろし悲鳴を上げる。 埋葬したはずの市長の遺骸が庭に帰ってきている。 誰かが墓を掘り起こしている ケーキを作っていた女性の仕業だったことが明らかになり裁判が始まる。冷笑を捨て、戦うことを決意した意志の化身のような表情で女性が宣言する。 「眠らせない。」 ここから、映像は、たえず「滑稽」な印象をまといながら、過去の物語を語り始める。シャボン玉で遊んでいた少女と窓を閉めた父親。そこからすべてが始まっていた。 流刑地から流れつく大木に刻印された無実の父の名前。独裁者の前にひれ伏す美しい母。少女が広場に向かって飛ばしたシャボン玉の未来がはじけてゆく。 風船のように膨らんでゆく全体主義の中で、民衆はやがて「歓喜の歌」の大合唱へと昇華してゆく。ベートーヴェンが「悪」のサタイヤとして響き渡る不気味。独裁者を称える「歓喜」が美しく響き渡る空虚。 回想と現在、現実と幻想、二種類の映像が重ね合わされ、「父と子」の葛藤が映像の主題として描かれ始める。独裁者とその息子は同じ顔をしている。独裁者は戯画化され、歴史は愚かしく繰り返されていく。 「眠らせない!」「美しく偽られた父と子の醜悪な神話」を暴く叫びは少女の記憶からほとばしり、怯むことを拒否した女性の眼差しこそが美しい。 甘い砂糖菓子の教会が飾られたケーキを作っている女性の窓の下を老婆が通りかかる。 「教会への道は?」 教会への道は、失われた教会とともに失われている。しかし、道はある。ゆるく登ってゆく坂道を老婆が歩いてゆく。 「老婆はどこへ行くのだろう。」 告発者の女性を英雄視しなかったこと。独裁者自身の懺悔とともに民衆の懺悔の不可能性を神の不在という視点で描いたこと。歩み去る老婆を描いたこと。 「いったい誰が、何を、誰に『懺悔』することができるのか。」 映画が終わって、部屋が明るくなった。集まった人たちの感想を聞いて街へ出た。 印象に残るシーンは多いけれど、裁判所で自分に撃ち込まれた銃弾の行く方を尋ねたシーンは何だったんだろう。亀山郁夫の「大審問官スターリン」(小学館)で、なんか読んだ気がする。レーニン暗殺未遂の銃弾。関係ないか?「鉄の男」スターリン、ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ。信じられない狡猾さで権力を手に入れ、神のように君臨し、死んだあとは張りぼてのように捨てられた。グルジアは、故郷であったにかかわらず、権力への階段を上り始めた男が手を血で染めた、最初の虐殺の地。それ故にだったか?偶像として聳え立つ権力の偽りを、最初に暴く場所でもあった。「やったんちゃったかなあ?」記憶の中に、さ迷い歩くように浮遊する、あやふやな記憶といい加減な知識。「それにしても、グルジアか?」「うーん、あやふややなあ。もう一回読んでみようかな?もういいかなあ?」 神戸駅まで、いつもより遅い道を歩きながら、ふと、そんなことを考えていた。 監督 テンギズ・アブラゼ Tengiz Abuladze 脚本 ナナ・ジャネリゼ テンギズ・アブラゼ レバズ・クベセラワ 撮影 ミヘイル・アグラノビチ 美術 ギオルギ・ミケラゼ 音楽 ナナ・ジャネリゼ キャスト アフタンディル・マハラゼ:(一人二役) (ヴェルラム・アラヴィゼ・独裁者) (アベル・アラヴィゼ・その息子 ) イア・ニニゼ(グリコ・アベルの妻?) メラーブ・ニニッゼ(トルニケ・独裁者の孫) ゼイナブ・ボツバゼ(ケテヴァン・バラテリ) ケテバン・アブラゼ(ニノ・バラテリ) エディシェル・ギオルゴビアニ(サンドロ・バラテリ) ナノ・オチガバ(ケテヴァンの子供時代 ) ダト・ケムハゼ(アベル・アラヴィゼの子供時代) ベリコ・アンジャパリゼ(老女) 原題 「Monanieba」 1984年 ソ連 153分 2019・03・20・元町映画館no7ボタン押してネ!にほんブログ村【中古】 大審問官スターリン /亀山郁夫(著者) 【中古】afb価格:2090円(税込、送料別) (2019/5/20時点)
2019.05.20
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「批評家加藤典洋の死」 文芸批評家の加藤典洋さんが亡くなりました。訃報を作家の高橋源一郎さんのツイッターで知ったぼくが「加藤典洋が死んじゃったよ。」と口にすると、同居人のチッチキ夫人が「これ、ほら。」と言って数冊の「図書」の「大きな文字で書くこと」というコラムのページを開いて渡してくれました。 2019年2月号から「私のこと」と題して子供の頃の思い出が書きはじめられている記事を4月号まで読んで、涙が止まらなくなりました。 周囲の人やブログを読んでくれている人に、どうしても読んでほしい。そう思う気持ちが抑えられないので、ここに引用します。「私のこと その3 勇気について」 新庄でしばらくすると、引っ込み思案同士の友達ができたが、やがてもう一人を加えたやはり転校組の三人が、二、三人の手下を従えたいじめっ子に、執拗にいじめられることになった。 イジメは一年半から二年くらい続いただろうか。 ある時、私が建物の裏で、そのいじめっ子になぶられているのを見た兄が、家で、そのことを話した。しかし私は、そのことを何でもないことだといって否定した。 私はこのときのことがあり、長い間、自分には勇気がないのだと考えてきた。今もそう思っている。 ここで相手を殴り返そうと、思う。夢にまで見る。しかしそれができないまま、ある日、雨が降っているとき、それは私たち転校組が、また、転校していなくなる少し前のことだったが、私より少しだけ早く、同じいじめられっ子仲間のO君がかさを投げ出しかと思うと、グイっと、いじめっ子の襟首をつかみ、相手をなぎ倒した。 それで、イジメは終わった。 この同じ新庄という場所で、もうだいぶ経ってから、一九九三年、転校してきた子が、集団でイジメに遭い、死亡するという「山形マット死」事件が起きた。いじめっ子らは、罪を認めたが、その後、七人中六人までが申し合わせたように供述を翻し、彼らの家族もこれを後押しし、人権派弁護士たちが自白偏重を批判するなどして、介入した。そのため、この新庄氏のイジメ致死事件は、死亡した子の両親を原告に、刑事裁判に続き、民事裁判を争われることになった。二〇〇五年、最高裁で元生徒七人全員の関与が認められたが、今も全員の損害賠償金の支払いは、なされていない。 事件の翌年、私は、山形県教育センターの雑誌「山型教育」に寄稿を頼まれた際、この事件が、似た経験をしたものとしてかなり悪質な出来事であると思えると書いたが、この原稿は、裁判係争中を理由に、掲載されなかった。勤務していた大学に雑誌の関係者が二人菓子折りをもってやってきて、この原稿を取り下げてもらいたいと言ってきた。没にするなら、自分で没にされたという事実とともに別の媒体に発表すると、返答し、私はそうした。 自分には勇気がないと、私は心から思っている。勇気のある人間になりたい。それが今も変わらぬ私の願いなのだ。(「図書」岩波書店2019年4月号所収) ぼくにとっての加藤典洋という人は、その著書と出会っただけの人であって、本人を知っているわけではありません。 しかし、彼は上記のような文章を「図書」とかに書いていて、「ふと」出会う人であり、一方で「アメリカの影」(講談社文芸文庫)、「日本という身体」(河出文庫)以来つぶさに読み続けてきた人でした。 例えば村上春樹の作品ついて、ぼく自身、もういいかなと思った頃があったのですが、彼の作品をまっとうに評価した批評で、引き戻してくれたのは彼と内田樹の村上春樹論でした。 加藤典洋といえば「敗戦後論」(ちくま学芸文庫)が話題に上がるのですが、ぼくには「さようなら、ゴジラたち―戦後から遠く離れて」(岩波書店)、「3.11死に神に突き飛ばされる」(岩波書店)も忘れられない本でした。彼は、ぼくにとっては、あくまでも現代文学を論じる文芸批評家でした。ただ、文学を論じる根底に社会があることを、横着することなく考え続けた人だったと思うのです。 大江健三郎の「取り換え子」(講談社文庫)に始まる「おかしな二人組三部作」にかみついて、執筆中の作家を逆上させたという「勇気」も印象深い思い出なのですが、その後の作品「水死」、「晩年様式集」(講談社文庫)に対して「きれいはきたない」という短い書評(「世界をわからないものに育てること」岩波書店所収)で、「晩年のスタイルは、いま自分のありかを発見したところである。えもいわれぬ肯定感はそこからくる。」 と言い切って称えているのを読んで、さすが加藤典洋!と納得したりしていたのです。しかし、その言葉が、今となっては、大江健三郎の作品に対する、彼の最後のことばになってしまったのだと思うと、何の関係もないのですが、なんだか感無量になってしまうのです。 話は少しずれますが、この時期以降、大江健三郎の作品群に対して、加藤典洋のほかに、誰がまともに論じているのでしょう。近代文学の終焉とかいう、流行りの言葉をもてあそぶ人をよく見かけますが、今ここで書いている作家に対して、今を生きている批評家が論じるのは、また別のことだと思うのですが、近代文学批評もまた終焉のようですから、まあ、仕方がないのかもしれません。しかし、そこには、加藤典洋の死によって、ポッカリ空いた穴のような喪失感が漂っていると感じるのはぼくだけでしょうか。 橋本治といい、加藤典洋といい、今の時代をまともに見据えていた大切な人を立続けに失っってしまいました。「今日」のこの出来事に彼らがなんと言っているのか さがしても見つけることは、もう、できないのです。 いずれ、遺品整理のように語りたい二人の文章はたくさんあるのですが、今日はこれまでとしようと思います。(S)追記2019・05・24 加藤典洋の上記の記事の後、「図書」五月号に同じ連載コラムが掲載されているのを、チッチキ夫人が探し出してきてくれました。 題は「私のこと その4 事故に遭う」。彼は警察官の息子だったのですが、子供のころ、道路に飛び出して軽トラックにはねられるという事故に遭います。事故を知った母親が狂ったように走ってくる様子と、寝ている少年に「警官の息子が」と苦い顔をした父親の様子の二つが「正直な感想だろうが、横たわる私には、母に愛されていることの幸福感と、父に対する齟齬の感覚が残った。」というのが結語でした。最後に、ご両親のことを書かれていることに「あっ!」と思いました。あらためて加藤典洋のご冥福を祈りたいと思います。追記2019・06・18「図書」6月号には、加藤さんの初恋の思い出がつづられています。こういう原稿は、どこまで先行して書かれているのかということが、加藤さんの死を知ってしまっている、ぼくのような読者には、もう笑い事ではありません。 他者の死を悼むということの大切さから、社会を考えることを主張した加藤さんの最後の原稿を、まだまだ続くことを心待ちにしながら、湧き上がってくるやるせなさをかみしめています。追記2019・09・13今日は、13日の金曜日ですが、ブログのカテゴリーの整理をし始めました。亡くなった加藤典洋さんと、活躍を続けていらっしゃる内田樹さんをセットでカテゴライズします。お二人とも、ぼくにとっては大切な人です。追記2020・05・15 加藤典洋、橋本治がなくなって一年が過ぎたのですが、コロナウィルス騒ぎの世相は一気に「不穏な社会」へと転げ落ちそうな空気にみちています。予感が実感へ変わっりそうな「愚劣」な「空気」が一気に噴き出し、いやなにおいをまき散らし始めています。 彼ら二人が生きていれば何といっただろうと、ふと考えますが、ないものねだりですね。追記2021・09・01 ブログのカテゴリーの「加藤典洋と内田樹」に、作家の高橋源一郎さんを加えて「加藤典洋・内田樹・高橋源一郎」とします。加藤典洋は1948年生、内田樹は1950年生、高橋源一郎は1951年生、共通しているのは68-69体験だというのがぼくの見立てです。敗戦後論 (ちくま学芸文庫) [ 加藤典洋 ]価格:1296円(税込、送料無料) (2019/5/22時点)言わずと知れた。3.11死に神に突き飛ばされる [ 加藤典洋 ]価格:1296円(税込、送料無料) (2019/5/22時点)東北大震災の後、原発について、彼のきっぱりとした発言。言葉の降る日 [ 加藤典洋 ]価格:2160円(税込、送料無料) (2019/5/22時点)死を巡って、鶴見俊輔、吉本隆明に対する追悼文他どんなことが起こってもこれだけは本当だ、ということ。 幕末・戦後・現在 (岩波ブックレット) [ 加藤典洋 ]価格:626円(税込、送料無料) (2019/5/22時点)彼自身による、彼自身の歴史観の要約ボタン押してね!ボタン押してね!
2019.05.22
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芥川龍之介「地獄変、その他」(芥川龍之介全集 ・ちくま文庫) 高校一年生の国語の教科書に『絵仏師良秀』(宇治拾遺物語)という説話が出てきます。 自分の家が燃えるのを目の当たりにして「あはれしつるせうとこかな」、つまり「ああ、もうけ(所得)たものだ」と嘯(うそぶ)いた絵描きの話ですね。「こいつ、ちょっと、大丈夫かいな。」と言いたいところなのですが、「宇治拾遺物語」(新潮古典集成ほか)の中では、「そののちにや、良秀がよぢり不動とて、今に人々愛で合へり」 と、まあ、かなり好意的なニュアンスの結論になっています。 お不動さんの絵を上手に書けることが、何より優先する価値だと信じているこの絵描きのことを、当時の語り手はそんなに悪くは言っていません。 そこの所は現在の「人間観」と比べてどうでしょうね。「宇治拾遺物語」の編者の世界観にもかかわるのでしょうか、ぼくには面白いのですが。 ところで、今から千年ほども昔の世間で語り伝えられていたらしいこの人物に興味を持って、小説まで書いている作家がいます。御存知、芥川龍之介ですね。 彼は「地獄変」(ちくま文庫・芥川龍之介全集)という短編小説で、実に「人間的」な良秀を描いています。「その後の良秀」とでもいうべき物語ですね。 リアルな現実の直視こそが「芸術の肥やし」と信じたこの「絵描き=芸術家」は地獄を描くためにこの世の地獄を見る事を願うのです。 結果、誰もが驚嘆する屏風絵「地獄変」を描きあげた絵仏師=芸術家は・・・・・。 その結末が実に「人間的」なのですね。つまり、鎌倉時代の、今昔物語の編集者なのか、語った誰かなのかの「良秀像」とは違うのです。まあ、そこに近代人である芥川龍之介がいるのだと思いますが、あとは読んでのお楽しみということにしますね。 ところで、教科書に出てくるといえば、彼の「羅生門」という小説は高校現代文の定番教材ですね。 お話は皆さんよくご存じだと思いますが、同名の映画もあることはご存知でしょうか。 名画の誉れ高い作品で、黒沢明が監督し、三船敏郎が主演しています。おそらく見たことのない皆さんに、こんな言い草もなんですが、この頃の三船敏郎はホントによかったなあ、と思いますね(長いこと見てないけど)。高校の授業とかで、小説「羅生門」をお読みになった若い皆さんにも、是非ご覧になっていただきたい作品です。 こう紹介すると、小説に登場する「下人」と「老婆」の醜悪な対決のシーンとかを思い浮かべる方がいらっしゃるかもしれませんね。「老婆」は誰がやっているのかとかね。 申し訳ありません。じつはこの映画「羅生門」のストーリーは、小説「羅生門」とは違うんです。同じ芥川の「藪の中」という別の小説を原作にした映画でした。事件の犯人は調べれば調べるほど「藪の中」という、これまた芥川龍之介の好きそうなお話しで、「下人」の行方の話ではありません。 そういえば、この映画では、殺された旅の武士が出てくるのですが、その武士を演じた森雅之という俳優は、ひょっとしたら、みなさんが教科書で出会っているかもしれない「生まれいづる悩み」や「小さき者へ」の作家、有島武郎の息子ですね。 有島武郎と芥川龍之介といえば、ともに、自ら命を絶った作家ということで有名ですが、なぜか教科書は自殺したり、病気で早死にした文学者が好きですね。太宰治しかり、梶井基次郎、中島敦しかり。まあ、梶井や中島敦は病死ですが。 話がどうも変なほうに行っていますが、「死」をめぐる感じ方というのは、その昔と明治時代以後の社会とでは異なっている面があるようです。 それは裏返して言えば、「生きる」という事をめぐる考え方も時代や社会によって異なっているということではないでしょうか。 自我や自意識について執拗に問いかけることを作品群のテーマの一つとして小説を書き、若死にした作家がいます。 人が存在することや、他者との関係についてこだわりつづける軌跡を小説として残した芥川龍之介や有島武郎のことです。 彼らは大正から昭和の前半、今から100年前に生きた作家ですが、彼らが、「生きること」よりも「死ぬこと」と親しかったように見えるのはなぜでしょうね。ぼくにはそこがわからないところです。 生き続けることが、上手だったとはいえなかった彼らの作品が、「人間について」真摯に問い掛けているスタンダードとして教科書には載っていて、高校生になって初めて出会う近代ブンガクとして君臨しています。別にいやみを言いたいわけではありませんが、いかがなものでしょうね。 たとえば「羅生門」という作品について、物語の歴史的背景、平安時代の風俗や門の形に拘泥してしまいがちな作品解釈が教室の普通の風景だと思います。 しかし、有島武郎の場合はほぼ定説ですが、「生真面目」一方に見える芥川にしても姦通罪を恐れて命を絶った可能性を否定しきれません。 そういう時代の、そういう作家の作品であるというコトも頭の片隅に置いておく事は、教室での仕事を目指すみなさんには無意味ではないかもしれませんね。なんか偉そうですみませんね。追記2020・07・05 この文章は、国語の教員を目指している大学生の皆さんに向けて書きました。今年も同じような出会いをしています。 「良秀」についてなら、「芸術至上主義!」、「羅生門」の「下人」については、それぞれの経験とてらしあわせてでしょうか、「理解できない境遇」と言い切る若い人が増えました。 学校の「国語」も「近代小説」も危機ですね。追記2022・05・13 本当に、もう、安全なのか?、感染の蔓延は収まったのか?、何か釈然としないまま、ゴールデン・ウィークの人出におびえ、インチキ臭い政治家の「マスクはいらない」とかいう、公衆衛生上、なんの根拠もないだろう発言がネット上に踊っているのに唖然とする2022年5月です。 久しぶりに出かけた学校の教室では、相変わらず、友だち会話の感染の危険性が話題です。どうなっているのでしょう。 国語の先生を目指す女子大生の皆さんへ、励ましの言葉を追記するつもりが、老人の愚痴になってしまいました。ここからが伝えたいことです。たとえば、「羅生門」なんていう作品は、100年前に1000年前のことを書いたような、まあ、古い作品なのですが、できれば作家が生きた時代と、作品が描いた時代と、そして皆さんが生きている「今」という時代の、それぞれの社会を考えながら読んでみてはいかがでしょうかということです。 今の感覚だけで判断したり、鑑賞しても、なかなかたどり着けない「面白さ」もあるかもしれませんよ。まあ、ぼく自身、あんまり好きな作品じゃないのですが(笑) にほんブログ村にほんブログ村教科書で読む名作 羅生門・蜜柑ほか (ちくま文庫) [ 芥川 龍之介 ]年末の一日・浅草公園 他十七篇 (岩波文庫) [ 芥川龍之介 ]小さき者へ/生れ出ずる悩み改版 (岩波文庫) [ 有島武郎 ]羅生門 デジタル完全版【Blu-ray】 [ 三船敏郎 ]いつでも、自宅で観られるんですね。
2019.07.03
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四方田犬彦「詩の約束」(作品社) 「詩の約束」(作品社)は、ぼくにとっては最新の四方田犬彦。詩をめぐって、テーマを決めて書き継いできた連載をまとめた一冊。四十年前に、怠惰な学生だったぼくが、「映像の召還」に驚いて以来、読み続けてきた四方田犬彦。 「朗誦する」に始まって、「記憶する」、「呪う」、最後は「呼びかける」、「断片にする」、「詩の大きな時間」。 その間、記述に「召喚」された詩人はハーフィズ(ペルシャ)、ボードレール(フランス)、谷川俊太郎、西条八十、西脇順三郎、パゾリーニ(イタリア、映画)、ポール・ボウルズ(アメリカ・作曲家・小説家)、谷川雁、寺山修司、三島由紀夫、萩原恭次郎、ドゥニ・ロッシュ(フランス)、入澤康夫、中上健次、永山則夫、チラナン・ピットプリーチャー(タイ)、T.S.エリオット(イギリス)、エズラ・パウンド(アメリカ)、蒲原有明、鮎川信夫、吉岡実、北村太郎、夏宇(台湾)、九鬼周造、吉本隆明、高橋睦郎、高貝弘也、ブレイク(イギリス)、アドニス(シリア)という具合で、名前も知らなかった詩人や、難しくて挫折した人がたくさんいる。 そのなかで、「注釈する」、「発語する」の二つの章には登場する中上健次をめぐって、彼の「歌のわかれ」とも言うべき「芸ごとの詩はいくら書いても仕方がない」という発言が書きつけてあったのは印象に残った。 ぼくにとっては、中上健次も、あのころ「ああ、すごい才能がある」と、心底、仰ぎ見た作家だった。「ああ、そうだったのか。」と納得したエピソードはほかにもあるが、中でも面白かった話が二つある。二つとも「引用する」の章で記された話で、一つ目は北村太郎の「冬へ」という作品の「徒然草」からの引用の話。 もう一つは田村隆一の「枯葉」という詩について。 枯葉 そして かれらは死んだ 緑の 血もながさずに 土にかえるまえに かれらは土の色に 一つの死を死んだ沈黙の 色にかわる どうしてなにもかも 透けてみえるのか 日と夜の 境界を 枯葉のなかを われらはどこまでも歩いたが 星の きまっているものは ふりむかない 一読して気付いた人は戦後詩がかなりお好きな人だと思うが、この詩には、別の戦後詩を代表する詩人が書いた有名な一行が引用されている。 橋上の人 (第6連 部分) あなたは愛をもたなかった、 あなたは真理をもたなかった、 あなたは持たざる一切を求めて、 持てる一切のものを失った。 橋上の人よ、 霧は濃く、影は淡く、 迷いはいかに深いとしても、 星のきまっている者はふりむこうとしない。 北村太郎、田村隆一とともに、同人詩誌「荒地」に集い、戦後詩を代表する詩人、鮎川信夫の「橋上の人」の一節だが、本書を読みながら、ぼくを驚かせたのは、ここに記した、この部分こそ、40年前の怠惰な青年の部屋の天井に張り付けられていた、詩句の一つだったからだ。 四方田によれば、田村隆一の詩は、鮎川信夫の詩句を引用することによって、鮎川に対する友情のあかしと、同じ元日本軍兵士としての、戦死した兵士たちへの決意表明でもあったことが言及されている。しかし、何よりも驚いたことは、これがレオナルド・ダ・ヴィンチの「星の定まれる者は右顧左眄しない。」という言葉の、借用だという指摘だった。 40年前の青年がどういうつもりで書き抜いていたのかはもう忘れてしまったが、今の、今まで、四方田によって指摘された一連の事情がこの詩句をめぐってあったことなど知らなかったのだから、いい気なものだが、こういう発見が、随所に出てくる読書は時を忘れるというものだ。 まあ、いろいろ言われている面もあるようだけれど、「四方田」読みはつづきそうだ。ボタン押してね!にほんブログ村ひと皿の記憶 食神、世界をめぐる (ちくま文庫) [ 四方田犬彦 ]白土三平論 (ちくま文庫) [ 四方田犬彦 ]
2019.07.18
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「動くな、死ね、甦れ!(1989) ZAMRI, UMRI, VOSKRESNI!」 2019年、最初の映画です。もちろん、カネフスキー監督なんて知りません。だいたい、この題名の過激さはなんなんだという及び腰です。でも、まあ、どんな映画でも構わない、正月早々風邪をひいて、徘徊はおろか、映画どころではなかったんだからと慰めて、やれやれ、ようやく元町映画館のあったかい座席に座ることができて、今年も一安心です。 白黒の映像が舞台で動き始めました。スーチャンという炭鉱町が舞台であるらしいですね。いじめられている少年がいます。名前はワレンカのようです。つり下げられている大鍋(?)、ブランコなんでしょうか。それに閉じこめられぐるぐる回りさせられて目を回しています。ちょうど、そんな遊びが面白くってやめられない年頃ですよ。小学校の中ごろかなあ。 アパートには、いろんな人が住んでいるようですが、気が狂ったように大声でわめきながら、男が廊下を行き来しています。真っ黒に汚れた顔や頭を湯で洗っている男たちもいます。炭坑労働者のスラムでしょうか。イヤイヤ、これが、炭鉱労働者の「まともな棲家」のようです。 学校の生徒たちがスターリンの写真を掲げて行進しています。ぐるぐるぐるぐる、狭いグランドをぐるぐるぐるぐる行進しています。大声で号令をかけ、叱咤激励している権力の走狗のような、まじめくさった男がいます。グランドで生徒が行進し始めると、必ずこういうやつが出てくるのが学校です。これが「教員」っていうやつなのかもしれません。なんだか、だんだん、胸糞が悪くなりそうです。 便所があふれています。学校の便所です。生徒たちは汚水と悪臭のグランドを、ぐるぐる歩きつづけています。 おや、クソ壺にイースト菌を掘り込んだガキがいるらしいですよ。クソがどんどん増殖してあふれています。下を向くことを許されていない生徒たちは前を向いて、足をクソまみれにして歩き続けています。教員は号令をかけつづけています。 突如、画面と何のかかわりもなく「よさこい節」が聞こえてきました。ロシア語の画面に、すこし抑揚が変な日本語の歌が流れはじめます。 抑留された日本人捕虜でしょうか、兵隊の格好をした日本人と思われる男が働いています。西から送られてきたのでしょうか、流刑らしき人々も働いています。ぼんやり見ているぼくには、ここで起こっていることのすべてについて、何が起こっているのかわかりません。ただの無秩序のように見えます。 盗みを働いた子供は袋叩きにあって、殺されそうになっています。本当に袋叩きです。少年は広場で「お茶」を売っていました。そこで手に入れた金でスケートを買う算段の様です。母親が金の出所を疑い、少年を折檻しています。もちろん父親なんていません。母親には男はいるようですが、父親ではなさそうです。 ああ、折角、苦労して手に入れたスケートを、他のガキどもに盗まれてしまいました。 全くもって、苦闘の毎日なのですが、少年にへこたれた様子は全くありません。見ているぼくはへこたれていますが、、気持ちは彼の応援団です。 同じアパートに暮らす少女が、無鉄砲な少年を見守っていました。名前はガリーヤです。お茶を売ることを少年に教えた少女です。この辺りから、映画は「少年と少女の物語」を語り始めるかのようです。 二人で一緒にスケートを盗み返しに行きます。教室で叱られている少年を、少女が言い訳を作って救い出しに来ます。機関車を脱線させてひっくり返してしまうとんでもない、少年のいたずらを少女は叱りも怯えもせず見ています。 またしても 炭坑節が聞こえてきます。日本人捕虜が一人死にました。 便所にイースト菌を掘り込んだ少年のいたずらがバレてしまいました。母親は絶叫し、少年は追い出されてしまいます。のんびり動く貨車に飛び乗って少年は町を出て行ってしまいました。 どこまで行くのか、何処にたどり着いたのか、見ていてもそこがウラジオストックだなんてことはわかりません。今までより大きな町だということがわかるだけです。 やって来た町でも、少年はへこたれません。素っ裸になって強盗の片棒を担いぎ、返り血で血まみれになりながらへこたれません。 少女が、小さな炭鉱町からいなくなった少年を探しにやってきます。少年と少女は再会し、二人で強盗一味から逃げ出して、貨車に乗ってスーチャンの町を目指します。 二発の銃声が鳴り響きました。 全裸の狂った女性が画面の上をさまよっています。少女の母親だった女性です。画面にはその女性がうつり続けています。 それからは、もう、少年も少女も画面には戻って来ませんでした。 正月早々見るには、あまりにも切なくあっけない映画でした。映画でしか表しようのない世界の姿が、何の脈絡もつけることのできない記憶の断片のように粗末なフィルムに焼き付けられていたかのようでした。 この絶望的な、涙も出ない、クソのような世界を生きた少年と少女の表情を忘れることはできそうもないでしょうね。 「動くな、死ね、甦れ!」というのはロシアの子供の遊びの名前だそうです。「クソのような世界」としてスターリン統治下のソビエト・ロシアを描いたカネフスキーという監督の名前といっしょに忘れられない映画になりそうです。 とにかく、恐れ知らずの、恐るべき子供たちに拍手!でした。監督 ビターリー・カネフスキー 脚本 ビターリー・カネフスキー 撮影 ウラジミール・ブリリャコフ キャスト パーベル・ナザーロフ :ワレンカ(少年) ディナーラ・ドルカーロワ :ガリーヤ(少女) エレーナ・ポポワ (少年の母) 原題「Zamri, umri, voskresni!」 1989年 ソ連 105分 2019/01/12元町映画館no12追記2023・03・07 最近「コンパートメントno6」というフィンランドの監督の作品を観ました。感想はまだ書けないのですが、主人公の若い女性をもてあそぶ中年の女性教授の役で、この映画でガリーナという少女を演じていたディナーラ・ドルカーロワが出ていました。この作品から30年、俳優も年を取るのですね。美しく。小ズルイおばさんになっていました(笑)。ボタン押してね!動くな、死ね、甦れ!【Blu-ray】 [ パーヴェル・ナザーロフ 」こういうので見ることができるんですね。
2019.07.23
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和合亮一「春に」 春に 和合亮一 きみに 贈りたい風景がある ある建物の 階段の踊り場に 大きな窓があって 青い空に 雲が浮かんでいてよく晴れ渡っていて そこに立って いつも見とれるんだ でも この春の 窓の光景を じゃあ ないんだ しばらくして 忘れた頃に ゆっくりと 心に浮かんでくる 空 その はるか かなた その 先を きみに この詩は、福島で教員をしている詩人、和合亮一のツイート詩集(?)「詩の礫 起承転転」のおしまいの方にあった。和合亮一という人が、高校の国語の教員をしている人で、高校入試の合否判定中に、所謂、東日本大震災に被災したということを、何となく知っていた。 ぼくは、当日、その時刻、勤務していた高校の校長室にいた。トラブルを抱えた生徒たちについての進級要件について意見を具申していたさなか、事務室から声がかかって、校長がテレビをつけた。テレビの画面が揺れていた。神戸の地震を知っているぼくには他人ごととは思えなかったが、ただテレビの画面にくぎ付けにされるより他になすすべがなかったことを覚えている。 彼がこの詩をいつ書いたのかは知らない。この詩があることに気付いたのも、この詩集を読み返したつい最近のことだ。現場にいる頃に読んでいたら、毎年作られる卒業文集に、きっと引用していたと思う。三年間の出会いの後、必ず別れてしまう生徒たちに感じる、教員の寂しさを、ぼくはこの詩に感じた。 たぶん、詩はもっと遠くへ行ってしまった人に向けて書かれているとは思うのだが。追記2022・02・16 まだ冬の最中ですが、明るい日差しがベランダに差し込んでくる朝に、思わず青空を見上げました。 「今年も『春』がやってくる。」 季節が巡るのを感じるたびに、過去が湧きあがってくるのは年齢のせいでしょうか。ボタン押してね!にほんブログ村
2019.08.11
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流政之『神戸海援隊』 徘徊 2018年11月11日 メリケンパークあたり 「この前、案内した『独特老人』に登場した、彫刻家流政之いう人の石像がメリケンパークにあったはずやな。」 元町商店街の四丁目と三丁目の境の交差点を海に向かって、つまり南に歩くと、正面にポート・タワー、左手にホテル・オークラで、ヨタヨタ歩き続けるとメリケンパークです。 「おっ、あったあった。あれやあれや。」 公園の一番海側の広場に「神戸海援隊」と名付けられている五人の石像が立っていました。 「えっ?これ、どっちが前やろ?海見てるんとちゃうんか?海に尻向けとんねやな。神戸の街か?いや、六甲山か?今日は、あっこに泊まろか?ってホテル・オークラ見てんのかいな?」「あっ、ぼく、さっきからそこぐるぐるしとるけど、何周めや。その石のおっさんら、海援隊いうねんで、知っとるか?」「ああ、ちょうどええわ、ぼくがおるから、サイズがようわかるやん。なんか、かわいいやっちゃ、いう感じがええな。保育園のお友だちがならんでるみたいやなあ、ぼく。まだおむつしてるのもおるみたいやで。まあ、こんなデカい子はおらんやろけど。」「これ、どこまでが顔なんやろ?前向きに突き出てんのは、あごかな?エライ、しゃくれやなあ。ウッドペッカーやな。いや、ウッドペッカーはくちばしかあ?前からは影になってて、表情がようわからんな。まあ、どこが顔かもわからんけど。」「夕日があたって、後ろ姿のほうが明るいな。うん、やっぱり、こっちが後ろやろな。脚は短いけど、これがお尻やろ。」「そこに立ち続けてんのも、まあ、大変やなあ。そこそろ帰るわな。また、冬になったら来るわ。」「それにしても、エエ天気になったな。向こうのポートタワーもホテルも置きもんみたいやな。」 東の方には雲もあるけれど、港の上空は秋晴れの青空。西日が、明るくさしていて、気分がいい。 もうちょっとしたら冷たい風も吹き始める。寒風の中の立ち姿も面白いかもしれない。 2018/11/11ボタン押してね!
2019.08.19
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法隆寺 西の伽藍 大講堂 2019年 法隆寺徘徊 その4 五重塔と金堂の奥、たぶん、北になるのでしょう。大講堂が見えます。中には薬師如来さんとか、大勢いてはりましたが、こっちから西の伽藍を見ればこんな感じですね。 左が金堂、右が五重塔です。大きな灯篭がありますね。夜になって、この灯篭に灯が入る様子で、この伽藍を思い浮かべると、それはそれで、壮観ですね。ちょっと見てみたいですね、昔のまんまの光で見れば、1000年が浮かび上がるんじゃないでしょうか。 向う側に西の回廊が見えています。柱をよく見てください。あんまり見えませんね、近くで撮るのを忘れたんです、写真。東の回廊はこんな感じ。 大講堂から東に出てきたところの回廊の柱です。中学校の教科書で習いましたね、「エンタシス」ですね。ちょっと見には、どこがそうなのかぼくにはわかりませんでしたが、ああ、「エンタシス」というのは、ギリシャの神殿の柱とおんなじ「中ぶくれ」のことです、柱の。向うの柱は石ですが、こっちの柱は木製ですけどね。 鐘撞き堂ですね、中に梵鐘が下がっていますね。だから、まあ、鐘楼というべきなんでしょうが。でも、これをみると、これは、もう、あれですね、誰も知ってるあれ。 「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」 子規 「ここらで柿を食うと鳴るんですね、あの鐘が、きっと。」 「そんなわけないか?!」 ところで、この写真傾いていますね。たぶん、同居人もそういうのですが、写真の撮り手が傾いているのだとは思うのですが、まさか、鐘撞き堂が傾いているわけではありませんよね。その上、子規の句碑も、そこの池之端にあったらしいんですが、気付きませんでしたが、振り向いてもう一度五重塔をパチリでした。 最初の写真と、ちょうどマ反対の方角からとりました。青空がいいですね。浮かんでいるのは秋の雲ですかね。写真の腕を磨きたくなる被写体ですね。まあ、afのデジカメ男のぼくには無理ですがね。 ここらでちょっと休憩。喫煙所がありましたよ。続きは「法隆寺徘徊(その5)」でどうぞ。にほんブログ村ボタン押してね!
2019.09.19
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佐古忠彦「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」 沖縄の政治家、瀬長亀次郎さんの記録です。元町映画館で見ました。昔、筑紫哲也の報道解説番組で見かけたアナウンサー、佐古忠彦さんが資料を集めて作ったドキュメンタリーでした。「映画」という感覚で見ると、少し失望する感じでしたが、テレビの特集番組としてみるなら、問題ありません。観たのは「米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー」です。 何よりも、瀬長亀次郎を、丁寧に、忠実に描こうとしている気持ちが伝わってくる映画でした。 歴史を書き換えたり、出来事がなかったことにする風潮が蔓延している世相に対して、「ほんとうのこと」を言い続けた政治家がいたこと。今となってみれば「瀬長君とは立場が違う」などと紳士的な口調で言いながら、「核兵器配備の密約」のシラを切り続け、いけシャアシャアとノーベル平和賞まで手にした政治家がいたこと。沖縄に米軍基地があることを、「日本」という国家にとって「当然」視する風潮を無反省に煽り続けている政治家がいたし、今もいること。 どの政治家が「まともなこと」を言っているのか、立場によって変わる問題ではないということを、なんとか伝えようと映画を作った人たちがいる。その「努力」と「誠意」が伝わる映画だった。 「基地はいらない」と言い続けた瀬長亀次郎の「まともさ」は決して古びない。時代や国を越えた「まともさ」だとぼくは感じました。 何を学ぶとか、知るとかいうことを越えて、辺野古に新しい基地はいらない。単純なことだ。基地は戦争の道具なんだから。帰り道で、そんなふうに思いました。(画像はチラシの写真です。)監督 佐古忠彦プロデューサー 藤井和史 刀根鉄太 撮影 福田安美 音声 町田英史 編集 後藤亮太 音楽 坂本龍一 兼松衆 中村巴奈重 中野香梨 櫻井美希 テーマ音楽 坂本龍一 語り 山根基世 役所広司キャスト 瀬長亀次郎2019年128分日本2019・09・18元町映画館no178ボタン押してね!にほんブログ村
2019.10.01
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早良朋「へんなものみっけ!(第4巻)」(小学館ビッグスピリッツコミック) 「生き物の不思議」に挑む博物館マンガ!、「へんなものみっけ!」最新号、第4巻です。 今回は、「お願い…」の清棲あかり先生と薄井透くんの、淡々しい恋の物語は、全く展開しません。だから、あんまり笑えません。 今回の美しきヒロインは、この方です。奏山動物園飼育係三上育さんですね。失恋の痛手に苦しむ彼女に恋する男が出てきますが、薄井君ではありません。ネタバレで申し訳ありませんが、まあ、三上さんの失恋の相手がこちらのイケメンの方だったというのがオチですね。 今回、初登場のもう一人のヒロインはこの方ですね。ホント、ヒロイン好きですね。 「釧路湿原猛禽保護センター」の夏目貴子所長です。獣医師でボーイッシュな美人です。なんか、スルドイ感漂わせまくりですが、まあ、ありきたりなキャラ立てと言われてしまいそうなところは目をつむりましょう。 舞台が、釧路湿原というのが、なんといっても魅力的ですね。話題が北海道に跳んだだけでも、うれしいのは、ぼくだけではないでしょう。そもそも、このマンガを紹介してくださったのが、北海道は十勝地方の「博物好き」の女性ということから、縁も感じる展開ですね。 オジロワシ 当然のことながら、今回の登場動物はオジロワシ。前にも言いましたが、ぼくにとっては「絵」が下手とか、「話の筋」が無理筋というか、ご都合主義というかは、小さなことですね。あるのは、次は何を出してくるのかという素朴な興味と関心ですね。 第3巻では「南極」が話題になりましたが、もう、世界のあちらこちら、何処にでも、無理やり行っていただきたい。猛禽やゴリラの絵だって、まあ、とても上手とは言えないにしても、この作者、好きが高じて漫画家になったんだな、そいう「ほのぼの感」がぼくは嫌いじゃありません。 ただ今のところ、この第4巻が最新なわけで、「ありきたり感」とか「マンネリ」とか、壁はいっぱいあると思いますが、ガンバレ早良‼っていう感じで、ヒマな徘徊老人は次号を待っております。 ああ、言い忘れるところでした。トカゲ迄はいいのですが、🐍は堪忍して戴きたい。それだけが注文ですね。まあ、無理なら仕方がありませんが。追記2019・11・22「へんなものみっけ!」 第1巻はこちらをクリックしてください。にほんブログ村にほんブログ村
2019.11.22
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フレデリック・ワイズマン 「パナマ運河地帯」元町映画館 元町映画館で見始めたワイズマン特集二日目です。。1977年に撮った映画だからほぼ40年前の作品です。撮影はウィリアム・ブレインというカメラマンで、モノクロです。 双眼鏡で海上の船を確認し、何か運行上の支持を無線で伝えています。船長が明るい声で返答して、船が動き始めました。そんなシーンで映画は始まりました。運河に船が入っていって閘門が閉まります。水面が上昇し始めて船が浮き上がっていくのです。パナマ運河の構造がナレーションされて、ニュース映画のノリで画面に見入っているボクがいます。「これで、3時間持つのかな?」 それが、最初の感想でした。なにしろ、ドキュメンタリーなんだから、そういう実況中継だってありなわけで、その映像が、何にも知らないボクにはそこそこ面白いのですが、それにしても、と思っていると、映像は次第に、ボクが知っているというか、そういう映画の人だと思っているワイズマンになっていきました。映像に映っている人々がしゃべりはじめるのです。そうか、やっぱり、この映画は「運河」の構造を解説する科学ドキュメンタリーなんかじゃないんだ。 そういう納得がわいてきて眠気が消えました。 運河の運営会社の社長が誰かを相手にしゃべりはじめます。無線士が、遠くの誰かとやりとりしています。戦没者の慰霊祭のスピーチが映されます。映像は次々と語る人を映し出し始めました。それぞれの会話が「パナマ運河地帯」を、ひいては「アメリカ」を語っているかのようです。で、そこに、「運河」を航行する巨大な船のシーが挿入されます。トヨタの自動車を運ぶ貨物船が出てきて、ワイズマンの映画に「日本」が出てきたことにでしょうかか?微妙に嬉しい自分にあきれながら見入っています。 ともあれ、映画は「運河地帯」、「Canal Zone」と題された通り、そこに暮らしていたり、働いていたりする人間たち、とりわけ「アメリカ人」の姿を撮ったドキュメンタリーでした。 学生だった頃、アメリカの大統領だったカーターが、なんとなく好きだったのですが、事実上の植民地であり、軍事的にも商業的にも、昨今流行りの言葉を使えば、所謂、地政学的な要衝というべき「パナマ運河」をパナマに返還するという決断を下していたことは知らなかったし、今日にいたるまで「パナマ運河」をめぐる政治状況なんて、全く何の関心もありませんでした。 しかし、今、映像が映し出している植民地の「アメリカ人」たちの、いかにも「アメリカ人」であること、そして、それを執拗に映し出している映画そのものに、あるいは、ワイズマンという映画監督に唸りました。 今では、89歳になっているはずの監督が、なぜ「ニューヨーク公共図書館」のような(表題をクリックしてください)、ビビッドな映画を撮ることができるのか、それが、ぼくにとって謎でした。しかし、その謎の解答の一つが、1977年に撮られたこの映画にあるように感じました。人間、とりわけ「アメリカ人」に対するあくなき関心、きっと、それが答えなのです。 歴史的な構造物や施設、場所があります。で、そこで生きる人間は、多かれ少なかれ、その歴史性や政治性の影響から逃れられません。しかし、だからこそ、生身の「人間」が露出するはずなのです。その人間に対する、あくなき関心がワイズマンを支えているに違いありません。なるほど、いくら長くても飽きないはずだ、そんなふうに感じた作品でした。「さあ、次は『ボクシング・ジム』やな!?」 監督 フレデリック・ワイズマン 製作 フレデリック・ワイズマン 脚本 フレデリック・ワイズマン 撮影 ウィリアム・ブレイン 編集 フレデリック・ワイズマン 録音 ステファニー・テッパー 原題「Canal Zone」 1977年 アメリカ 174分 2019・12・04元町映画館no30にほんブログ村にほんブログ村
2019.12.07
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中村哲・澤地久枝「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」(岩波書店) 「九条の会」の発起人に名を連ねる澤地久枝さんが、空爆下のアフガニスタンで井戸を掘り、水路を作り続けていた、医師中村哲さんをインタビューした本があります。「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る」と題されています。題名が、大仰だとお思いの方も、騙されたと思ってお読みになってください。 映画「花と竜」で、その名を知られた玉井金五郎の孫であり、「土と兵隊」、「麦と兵隊」で知らている作家火野葦平の甥っ子で、昆虫好きで、赤面恐怖症であった少年時代の中村哲君の回想から、1980年代の初頭、全くの自腹でアフガニスタンに渡り、診療所を開き、歴史的な大干ばつの飢餓の危機と、アメリカ軍による空爆の中、ペシャワール会のスタッフを率いて命がけの人助けを続けた2010年に至る、人間「中村哲」の「ホンネのすがた」を聞きだしたインタビューです。 澤地さんは、この本の巻頭にこんな文章を引用しています。堅苦しいと思われるかもしれませんが、是非お読みください。ここに中村さんの活動の、公式的な要約と、彼の考え方が凝縮して表現されています。 2001年10月13日、衆議院「テロ対策特別措置法案」審議の場に参考人として出席した中村哲さんのこんな発言です。「私はタリバンの回し者ではなく、イスラム教徒でもない。ペシャワール会は1983年にでき、十八年間間現地で医療活動をつづけてきた。ペシャワールを拠点に一病院と十カ所の診療所があり、年間二十万名前後の診療を行っている。現地職員二百二十名、日本人ワーカー七名、七十床のPMS(ペシャワール会医療サービス)病院を基地に、パキスタン北部山岳地帯に二つ、アフガン国内に八つの診療所を運営。国境を超えた活動を行っている。 私たちが目指すのは、山村部無医地区の診療モデルの確立、ハンセン病根絶を柱に、貧民層を対象の診療。 今回の干ばつ対策の一環として、今春から無医地区となった首都カブールに五カ所の診療所を継続している。 アフガニスタンは一九七九年の旧ソ連軍侵攻以後、二十二年間、内戦の要因を引きずってきた。内戦による戦闘員の死者七十五万名。民間人を入れると推定二百万名で、多くは女、子供、お年寄り、と戦闘に関係ない人々である。 六百万名の難民が出て、加えて今度の大干ばつ、さらに報復爆撃という中で、痛めに痛めつけられて現在に至っている。 アフガンを襲った世紀の大干ばつは、危機的な状況で、私たちの活動もこれで終るかもしれない。アフガンの半分は砂漠化し、壊滅するかもしれないと、昨年から必死の思いで取り組んできた。 広域の大干ばつについて、WHOや国連機関は昨年春から警告し続けてきたが、国際的に大きな関心は引かなかった。アフガニスタンが一番ひどく、被災者千二百万人、四百万人が飢餓線上にあり、百万人が餓死するであろうといわれてきた。 実際に目の当たりにすると、食料だけでなく飲料水が欠乏し、廃村が拡がってゆく事態で、下痢や簡単な病気でおもに子どもたちが次々と命を落としていった。 私たちは組織を挙げて対策に取り組み、「病気はあとで治せる、まず生きておれ」と、水源確保事業に取り組んでいる。今年一月、国連制裁があり、外国の救援団体が次々に撤退し、アフガニスタンの孤立化は深まった。 水源の目標数を今年以内に一千カ所、カブール診療所を年内に十カ所にする準備の最中に、九月十一日の同時多発テロになり、私たちの事業は一時的にストップした。今、爆撃下に勇敢なスタッフたちの協力により、事業を継続している。 私たちが恐れているのは、飢餓である。現地は乾期に入り、市民は越冬段階をむかえる。今支援しなければ、この冬、一割の市民が餓死するであろうと思われる。 難民援助に関し、こういう現実を踏まえて議論が進んでいるのか、一日本国民として危惧を抱く。テロという暴力手段防止には、力で抑え込むことが自明の理のように議論されているが、現地にあって、日本に対する信頼は絶大なものがあった。それが、軍事行為、報復への参加によってだめになる可能性がある。 自衛隊の派遣が取りざたされているようだが、当地の事情を考えると有害無益である。」 「私たちが必死で、笑っている方もおられますけれども、私たちが必死でとどめておる数十万の人々、これを本当に守ってくれるのは誰か。私たちが十数年かけて営々と気付いてきた日本に対する信頼感が、現実を基盤にしないディスカッションによって、軍事的プレゼンスによって一挙に崩れ去るということはあり得るわけでございます。」 「アフガニスタンに関する十分な情報が伝わっておらないという土俵の設定がそもそも観念的な論議の、密室の中で進行しておるというのは失礼ですけれども。偽らざる感想でございます。」 この発言に澤地さんは怒りをこめてこんなふうに付記しています。 「議事録では笑った議員を特定できない。しかし語られている重い内容を理解できず、理解する気もなく笑った国会議員がいたのだ。」「命がけで医療と水源確保を行ってきた中村哲の十数年間へ、「日本」が出した結論を心に留めたい。」 ここからが、インタビューの本番になります。 澤地「先生はもう60歳を越えられましたね」中村「ハイ。1946年の九月十五日生まれですから、もう超えています。」澤地「あまりごじしんのことかたりたくないとおかんがえですか。」中村「どちらかというと、自分をさらけ出すのはあまり好きではないです。でも、必要であれば話はしますので。」 どうも、何でも、ペラペラしゃべるタイプではなさそうです。ともあれ、こうして、会話が始まりました。最初は、あのトレードマークのような「髭と帽子」の話でした。 何時間かけて、インタビューされたのか、詳らかにはしません。読みでのあるインタビューだと思いますが、さすがに澤地久枝さんですね、最後の最後に、中村さんの性根の根っこに触れるような、こんな会話になったのです。「このお子さんたち二人が生まれたのは、92年ですか。」「92年です。」「何月生まれですか。」「十二月。」「そして、2002年の十二月。」「十二月に生まれて、十二月に亡くなったんですか。」「だったと思います。ちょうど十歳でした。」「小学四年生ですか。」「ごめんなさい。四月一日生まれです。」「先生の、今までの人生の中に生涯忘れられないクリスマスというのがありますよね。これは患者さんの苦しみの問題だけれども、そのほかに、「あれは自分にとって厳しかったな」というのは、この坊ちゃんが亡くなったことですか。」「そうです。」 まるで、尋問のような問い詰め方なのですが、愛児の発病と死について、ここまで、悲しみを越えて、聞きただしてきた緊張にみちた態度が、そのまま伝わってくる口調なのです。 ここまで読んで、読者であるぼくは、冒頭での国会での発言は、ご子息の不治の病の発病を知った最中の出来事であり、彼の発言を笑った国会議員に対する澤地さんの怒りの、もう一つの理由にも気づくことになるのでした。「アフガニスタンが直面する餓死については、自民党だとか共産党だとか社民党だとか、そういうことであはなくて、一人の父親、一人の母親としてお考えになって、私たちの仕事に個々人の資格で参加していただきたい。」 2001年、中村医師の国会証言の中のことばを、澤地さんは「訴える一人の父親の心中には、不治の病床の愛息の姿があったはずである。」 と、この会話の記述の途中に記しています。 死んでしまった中村哲の「真心」が2001年の証言の中に残されているのではないでしょうか。「医者、井戸を掘る」・「空爆と復興」は表題をクリックしてください。追記2023・12・21 池澤夏樹の「いつだって読むのは目の前の一冊なのだ」(作品社)をパラパラやっていて、2010年の3月25日の日記に出ているのを見つけて、ちょっと嬉しかった。 かなり長い日記の最後に彼はこう書いています。 中村哲のような偉人をどうあつかえばいいのか? 彼個人を崇拝することに意味はない。自分には決してできないことをする人物への思いは容易に妬みや悪意に変わり得る。イラク人質事件の際の大衆のグロテスクな反応を思い出せばわかることだ。 彼だけではなく、彼が指さす先を見る。アフガニスタンを見る。アメリカのやりかたに徹底的に反抗する。それを是とする議員を次の選挙で落とす。そして、言うまでもなく、中村哲とペシャワール会を支援する。 そういう当然の結論に至るためにこの本はあるのだろう。(P284) 彼をして、ここまで叫ばせる状況が2010年にはあったわけですが、2019年に、その中村哲が、まさに、凶弾に倒れ、コロナ騒ぎで明け暮れ、アフガン空爆などなかったかのように、新しい戦争が次々と始まっている現在があります。 中村哲が指さした向うを、もう一度見据えるための覚悟が求められていることを、一人で痛感する今日この頃ですね。ボタン押してね!にほんブログ村
2019.12.14
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羽海野チカ「3月のライオン(15巻)」(白泉社) 14巻まで読んで、待つこと二ケ月、羽海野チカ「3月のライオン(15巻)」(白泉社)12月に発売されましたよ。 これが最新刊の最初のページです。少女マンガですねえ。ホント。それで、最後のページがこれです。 月島でもんじゃ焼きを食べて、みんなで歩いて帰る様子です。おそらく墨田川にそった遊歩道で、向こうに見えるタワーマンションなんかは、東京の人にはわかる風景なんでしょうね。 ぼくには2019年夏の、東京お出かけ徘徊で「歩いたことがある」ような気がする風景なのがうれしいシーンでした。 このマンガが出た頃、12月の末に「ハッピーアワー」という映画を観ましたが、あれは「神戸」が舞台で、六甲山、三宮、東灘の山沿い、ポート・アイランド、多分、芦屋川、ああ、それから有馬温泉、暮らして、馴染んでいる町の実景がスクリーンの上に物語の場所として映し出されるのは、馬鹿みたいに思われるかもしれませんが、ちょっと違った感じがしますね。 地下道を歩いていて、外に出ると、いつもの場所なのに、ちがったところに出てきたような感じがすることがありますが、あんな印象でした。 このマンガも、将棋の世界を描いているのですが、主人公の「零くん」や、お人形さんのような絵で描かれていますが高校生になった「ヒナちゃん」の淡々しい心のさまを読者の印象に刻み込みながら、彼らが住んでいる町が、ふと、東京のどこかにあると感じさせるところが肝なんじゃないかと思います。 それにしても、うーん、ヤッパリ少女マンガですね。 映画「ハッピーアワー」の感想はここをクリックしてください。ボタン押してね!にほんブログ村
2020.01.05
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友部正人「誰もぼくの絵を描けないだろう」(SONYレコード) 「誰もぼくの絵を描けないだろう」 友部正人誰もぼくの絵を描けないだろうあの娘はついにやっては来ないだろうぼくの失敗は ぼくのひき出しの中にしかないこの砂のような夜を君に見せてあげたいんだだからもう5時間もこの丸テーブルの前に座り込んでる心臓をかすめて通るはビルディングの直線直線の嵐の中で人は気が狂うだろう女のスカートに男が丸呑みされるのを見たんだ女は最後まで男を愛せないだろうぼくは死ぬまで道路になれないだろうぼくは北国からやって来た南国育ちの君のからだに歯形を付けるために長い長い旅暮らし夜には寝袋に潜り込みボーッボーッて寂しい息をするうんとうんと 重たい靴をはくんだ歩いているのが ぼくにもよくわかるように一度始まれば もう終わりはない地球の胸板に 顔を埋めゆうべ ロバになった夢を見た…扉を開けばそこは北国 ぼくの吹雪の中を彷徨うのは誰だまたいつか君のところへ 帰って行く日が来たらぼくが渡った川や もぎとった取った季節の名前を地図のように広げて 君に見せてあげるよ大きな飛行機に乗っている夢でも見てるのかな記憶と酒を取り替えたまま地下街でまたひとり労務者が死んだ法律よりも死の方が慈悲深いこの国で死んで殺人者たちと愉快な船旅に出る西灘の岸地通りにあった六畳一間のアパートに住んでいたことがあります。鍵なんてかけたこともない暮らしでしたが、部屋に帰ると、灯もつけない部屋で、勝手に上がり込んで、いつもこのLPを聞いていたK君という友達がいました。今でも彼の姿が浮かぶと聞くのがこの曲です。 作家の諏訪哲史の「紋章と時間」(国書刊行会)という評論集を読んでいて、懐かしいこの歌を「詩」として評価するこんな文章を見つけました。 世に「歌詞」と呼ばれているもの、それは音楽の付属物ではなく、音楽そのものだと僕は思います。詞、そしてすべての言語芸術は、一面、文字という空間的要素を持つものの、その本質は、折口の言語情調論を引くまでもなく、節や拍子の連なりから成る「持続」、つまり時間芸術であって、言葉を用いたあらゆる芸術は、極端な話、ドローイングや書道をも含め、まずは音楽に等しいものだと僕は考えます。 すべての言葉が音楽であるからには、そうした音楽らしい音楽を破壊する音楽もまた音楽で、とすれば、言葉もを毀す言葉もまた言葉であり、僕はこうした自壊と内破の力を孕んだ「言葉の正統から避けられた鬼子としての言葉」の中に、言葉の「美」もまたあるように思います。今回取り上げた言葉、本来リリカルな旋律を伴った詞であるこの作品は、ぼくにとってその意味で、まさに美しい日本語です。 この作家の言葉は、K君のように、この曲を繰り返し聴いた人の言葉だと思いました。そして、ぼくより十幾つか若いはずの作家が、そんなふうに、この曲を聞いていたということに、何だかドキドキするものを感じました。うんとうんと重たい靴をはくんだ歩いているのが ぼくにもよくわかるように K君が神戸を去って40年たちます。ぼくは相変わらず神戸の街を歩いています。 友部正人の「詩」は単独の詩集もありますが、現代詩文庫(思潮社)に「友部正人詩集」としてまとめられています。ボタン押してね!にほんブログ村友部正人詩集 (現代詩文庫) [ 友部正人 ]
2020.01.09
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ナディーン・ラバキ―「存在のない子供たち」パルシネマ 2019年の秋にシネリーブルで公開されていた映画でした。予告編も繰り返し見ました。「見よう」という決心の踏ん切りがつきませんでした。2020年になって、パルシネマが「風をつかまえた少年」との二本立てで公開しました。二本ともが、封切りで躊躇した映画でした。「そりゃあ、見とかんとあかんわよ。私は見ないけど。予告編で無理。」「そうですね、じゃあ、見てきて喋らしてもらおか。」「ハイハイ。聞いたげるよ。」 というわけで、月曜日のパルシネマでした。二本目の「風をつかまえた少年」から着席しました。「あの、子役の子、すごい目えしとったねえ。どうやって見つけたんやろ。」「ほんまやなあ。人買いって、まだあるんやねえ。」 今見た映画に浸ってはるおばちゃんたちが元気にしゃべっていらっしゃいましたが、意に介さず。とりあえずコーヒーを一杯飲んで、来る途中で見つけた100円のカレーパンで腹ごしらえです。一本観終わって、外に出て一服。さあいよいよ「存在のない子供たち」です。 男の子が医者の診察を受けています。医者が驚いた様子で叫びます。「乳歯がない。」 裁判のシーンが映し出され少年が両親を訴えています。「ぼくをこの世に産み落とした罪で。」 次のシーンでカメラは空から街を映します。スラム街です。屋根が飛ばないようにタイヤが置かれているようで、それが上から見下ろした街の不思議な模様に見えます。動くものがが映し出されて、子供が銃撃戦ごっこをしているようです。ひとりの少年が木で作った自動小銃のおもちゃをもって路地を走っています。この映画の主人公、ゼイン君でした。裁判所で両親を訴えていた少年です。映画が始まりました。 彼は初潮の出血を経験したばかりの11歳の妹を、無理やり妻として娶り、妊娠させて「殺した」家主の男を刺した罪で少年刑務所に服役中です。 映画は路地を走っていた少年が裁判所で両親を訴えるまでの数か月の生活を映し出した作品でした。 ゼイン君は、初潮と同時に娘を売り払って口減らしをした両親と争い、家を飛び出しバスに乗ります。観覧車がまわる遊園地のある大きな町で身分証を持たない、エチオピアからの不法移民の黒人女性ラウルとその子供ヨナス君と出合います。ゼイン君が歩き始めたばかりのヨナス君の世話をして、母親のラウルが働きに行く、極貧ながら、ちょっと平和な生活が始まったと思ったのもつかの間でした。 不法就労でラウルが捕まってしまいます。何日も行方が分からないラウルを待ちながら、二人の生活は極まっていきます。「ここ」に居続けることに絶望したゼイン君は金を稼いで「ここ」から出て行こうと決心します。 カツアゲしたスケート・ボードに大鍋を乗せ、ヨナス君を座らせてロープで引っ張る「子連れ少年」の出来上がりです。回りに吊るしている小鍋はもちろん売り物です。 映画は全体的な構成の意図をはっきり感じさせる以外はドキュメンタリータッチで撮られています。二人の姿を追いかけて、後ろから青空を背景に映し出したところからゼイン君がヨナス君を捨てようとするシーンまで、「哀切」極まりない少年とやっと歩き始めた小さな子供の交歓は、演技のかけらも感じさせないドキュメンタリー、現実そのもの、生きている人間をそのまま映し出している素晴らしいシーンの連続です。 しかし、やがて、大家によって住まいから締め出され、隠していた脱出資金までも失ったゼイン君は万策尽きてしまいます。ついに彼はヨナス君を「人買い」に差し出し、「ここ」から出ていく金を手にします。これで出国に必要なのは「身分証明書」だけです。 しかし、「身分証明書」を求めて、久しぶりに帰宅したゼイン君が知るのは「出生証明書」さえない自分の境遇と妹の死でした。目の前の包丁を握り締め、階段を駆け下りていく少年を止める事が出来る「人」はいるのでしょうか? 映画の中でゼイン君は一度だけ笑います。モチロン、カメラマンに指示された作り笑いですが、その笑顔と引き換えに彼は「存在」の証明書を手に入れるはずです。 この映画の原題は「Capharnaum」、「混沌」とか「修羅場」という意味だそうです。邦題は「存在のない子供たち」でした。中々、センスがいい邦題だとも言えるかもしれません。見ている人は、ぼくも含めて最後のシーンに「オチ」を感じて納得するように題されているからです。でも、それは少し違うのではないでしょうか。 監督はキャスティングから、映画と同じ境遇の人たちから選んだそうです。映画に登場する人たちは、主人公も、ヨナス君も、ラウルさんも、ゼイン君の家族たちも、皆さん「存在のない」人たちばかりでした。 ひょっとしたら、彼らは実生活でもそうなのかもしれません。映像も徹底的なドキュメンタリー・タッチを貫いています。子役たちは表情の演技なんかしていたのでしょうか。「人買い」がどこかの金持ちのために横行している現実で子供たちは生きているのではないでしょうか。 「存在証明書」を手に入れる少年の笑顔に、ホッとして涙をこらえる事が出来ませんでした。しかし、本当に忘れてはいけないことはゼイン君もヨナス君も確かに「存在」しているということだったのです。「どうやった?」「うん、ヤッパリ、いつか見た方がええと思う。あんな、周りの人、子役がすごいとか感心してはってん。おカーちゃんのおっぱい探す子が、演技なんかするかいな。あれ見たら、アンタ確実に怒り狂って泣き出すと思うわ。「家族を想うとき」どころちやうで。」「やろ。そやから見いひんねんて。」監督・脚本・出演:ナディーン・ラバキ―Nadine Labaki製作 ミヒェル・メルクト ハーレド・ムザンナル 脚本 ナディーン・ラバキー ジハード・ホジェイリ ミシェル・ケサルワニ ジョルジュ・ハッバス ハーレド・ムザンナル撮影 クリストファー・アウン 編集 コンスタンティン・ボック 音楽 ハーレド・ムザンナルキャスト ゼイン・アル・ラフィーア(ゼイン:存在のない子供その1) ラヒル ヨルダノス・シフェラウ(ラヒル:存在のない大人その1) ボルワティフ・トレジャー・バンコレ(ヨナス:存在のない子供その2・ラヒルの子供) カウサル・アル・ハッダード(スアード:存在のない大人その2・ゼインの母) ファーディー・カーメル・ユーセフ(セリーム:存在のない大人その3・ゼインの父) シドラ・イザーム(サハル:存在のない子供その3・ゼインの妹) アラーア・シュシュニーヤ(アスプロ:存在を作る男) ナディーン・ラバキー(ナディーン:弁護士)2018年125分レバノン原題「Capharnaum」アラビア語でナフーム村。フランス語では新約聖書のエピソードから転じて、混沌・修羅場の意味合いで使われる。2020・02・03パルシネマ新公園ボタン押してね!
2020.02.07
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野田サトル「ゴールデン・カムイ(4)」(集英社) さて、第4巻です。表紙の人物は「大日本帝国陸軍・第七師団」所属する情報将校、鶴見篤四郎(つるみ とくしろう)陸軍中尉です。 容貌魁偉というのはこういうのでしょうかね。仮面のような額当てをしていますが、日露戦争の戦場で頭を吹き飛ばされても生き残った男で、今でも目の周囲の皮膚は剥がれていますし、吹き飛ばされた頭蓋骨にホーロー製のカバーを当てているのですが、時々脳漿のがにじみ出てくるという、恐るべき状態なのです。とはいいながら、その活躍ぶりは、なかなか、どうして、半病人などではありません。 土方歳三の刀のことを言いましたので、彼が手にしている拳銃についてちょっと。この銃はボーチャード・ピストルというそうです。ドイツで開発された、最初の軍用自動ピストルです。戦争映画などでナチスの将校が手にしている軍用拳銃ルガーP08というピストルの原型だそうです。 さて、この男が、アイヌの埋蔵金を狙う「三つ巴」の一角を担う、いわば、副主人公なのです。そして、彼の周りには狙撃の名手・尾形上等兵、マタギの末裔・谷垣一等兵、死神鶴見中尉の右腕・月島軍曹といった、後々、大活躍の人物が勢揃いしているのですが、それぞれの人物がクローズアップされる「巻」が待っています。紹介はその「巻」で、ということで。いやー先は長いんですよ、話の展開も一筋縄ではいかないようですし。 というわけで、「きょうの料理・アイヌ編 第4巻」ですね。 「鹿肉の鍋」です。「ユㇰオハウ」というそうです。プクサキナ(ニリンソウ)とプクサ(行者ニンニク)が入っているそうですが、なんと、アシリパちゃんが「味噌」をねだるようになっています。 「鮭のルイペ」。生肉や魚を立木にぶら下げて凍らせたものを「ルイペ」というそうで、とけた食べ物という意味だそうです。「鮭」は「カムイチェプ」というそうです。 さて、今回のカンドーは「大鷲」です。「カパチㇼカムイ」と呼ぶのだそうです。 見開き2ページを使った姿です。翼を広げると2メートルを超えるそうです。羽が矢羽根に使われます。モチロン肉は煮て食べます(笑)。 脚を齧っています。残念ながら「鍋」のシーンはありません。この後、おバカの白石くんは鷲の羽根を売りに行って、事件に巻き込まれます。 そのあたりは読んでいただくとして、次号では「クジラ」と、北海道といえば「ニシン」が出てきそうです。お楽しみに。追記2020・02・11「ゴールデンカムイ」(一巻)・(二巻)・(三巻)・(五巻)の感想はこちらをクリックしてみてください。先は長いですね。にほんブログ村にほんブログ村ゴールデンカムイ 杉元が持っている 食べていい オソマ (味噌) 140g(株)北都 企画販売 ダイアモンドヘッド
2020.02.12
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石牟礼道子追悼文集「残夢童女」(平凡社) 石牟礼道子が亡くなって二年たちました。平凡社から追悼文集が「残夢童女」と題されて、2019年の夏に出版されました。 それぞれ「傍にて」、「渚の人の面影」、「石牟礼道子論」と題され三章の構成で、石牟礼道子のすぐ傍らで生活していた人から、思想的な論者まで、三十数人の追悼文が載せられています。 どなたの文章がどうのというよう主旨の本ではないことは重々承知のうえでいうのですが、御子息の石牟礼道生氏と詩人の伊藤比呂美さんの文章が心に残りました。 母に連れられて水俣の町を歩いて家に帰ろうとしていた。小学校に上がる前の冬だった。途中の道端で商店街の飾りであったクリスマスツリーから役目を終えて落ちていた飾りのベルを拾った。銀紙で被われて上手に出来ていた。幼いころ、工作が好きだった私は大事に両手で隠すように拾い上げた。ところがその光景を見ていた母がいきなり血相を変えて声を上げた。「すぐに手を離しなさい。捨てなさい」と叱った。もうじき警察署があると脅した。 おもちゃも三輪車も欲しかったが祖父亀太郎が作ってくれた竹馬で我慢していた頃だった。買ってやれないが拾ったものを欲しがるなどとは卑しい精神であると教えたかったのか不憫と思ったのかは今となっては判らない。幼い頃、普段は溺愛されていたのでこのように凄まじく怒られたこのことだけは今でも鮮明に覚えている。意にそぐわぬことには激しい反応を示す母だった。その時の母の迫力に圧倒されて銀色のベルを足もとの側道に丁寧に置いた。(石牟礼道生「多くの皆様に助太刀されて母は生きてまいりました」) 石牟礼道子などという、「とんでもない」女性の息子として育った石牟礼道生氏とぼく自身の生育には何の共通点もありません。しかし、母親がほぼ同世代、おそらく、石牟礼道生氏も昭和三十年代に幼少期を過ごしたぼくと同世代の方だと思います。 ぼくは、この文章に同じ時代に子どもだった実感をそこはかとなく感じさせる「におい」のようなものを感じたのです。母からの初めての叱責について、よく似た記憶が、ぼくにもあります。 母と子という関係において、子は母のことを一つ一つのエピソードの経験で、だんだん理解していったりするのではないと思います。事あるたびに、最初の記憶と照らし合わせながら、何となくな納得、「アッ、おカーちゃんや。」という思いを「母」に重ね合わせていくことを繰り返すのではないでしょうか。 少なくとも、母親が忙しくて貧しかった、あの時代に育った子供たちはそうだったように思います。 世間や社会に対して凄まじい怒りをあらわにする母の姿に、幼い日の「銀色のベル」の記憶を重ねて「納得」しようとした息子がいたことを、そして、その母の死に際して、もう一度、その「思い」を繰り返している息子の姿にうたれました。 石牟礼道子の「文学性」や「思想」というようなこととは関係のない、子から見た「母」のほんとうの姿が、息子である道生氏の記憶のその場所に在るのではないでしょうか。 もう一つ、思わず膝を打つような思いをしたのが、詩人の伊藤比呂美さんの文章でした。 わたしは石牟礼さんの文学に対して、尊敬も思慕も大いに持っているのだが、だからこそ石牟礼文学について語り合う石牟礼大学というものを熊本の仲間とともにやったりしているわけだが、それは既に読んで好きなものを思慕しているだけで、なんだかいつも、なんだか少し、反発する気持ちも持っていることが、いつも少しばかり後ろめたかった。 わたしは東京の裏通りの生まれ育ちで、そこの人々がどんなに他人に酷薄か見てきた。自分の親もふくめて、そうだった。石牟礼さんの文学に出でてくる、弱い者を大切にする善良なコミュニティや、互いに手を合わせ合うような人の情は、居心地が悪かった。石牟礼さんその人だって、そういうコミュニティから蹴りだされた人なんじゃないか。そう口の中でもごもご思っていた。(伊藤比呂美「詩的代理母のような人」) 石牟礼道子の作品との出会い方や作品の価値というのが人それぞれに違うのは当然です。世の中に絶対化できる作家や作品があるわけではありません。 ぼく自身は、石牟礼道子の作品と二十代に出会って以来、手放しては読み、手放しては読みということを繰り返してきました。なぜ、読みつづけられなかったのか。読みながら感じる微妙な居心地の悪さはの正体は何なのか。全集が出たのを見ながら、思わず遠慮してしまう気分になったのは何故なのか。その答えが伊藤さんのこの文章にある、そう思って、なんだかホッとしました。 伊藤さんの石牟礼道子への思いが、ぼくなどとは比較にならない、生半可なものではないことは、これに続く文章をお読みいただければすぐにわかっていただけると思います。 でもこの頃、一つ、また一つ、読み始め、読み通して発見する。そして感動する。 その鏡を何枚もたてた真ん中で、時間軸と空間軸がずれているような、その石牟礼さんらしさを味わう。そういう作品が少しずつ増えてきた(伊藤比呂美「詩的代理母のような人」)。 伊藤比呂美さんは、ぼくより一つお若い詩人なのですが、彼女の文章を読みながら、65歳を越えた今から、もう一度、石牟礼道子の作品を手に取り直し、今度は投げ出さずに読み始め、読み続けることへのる励ましの声が聞こえてくるように、ぼくには思えたのでした。 この本に載せられている追悼文は、心もこもったものばかりです。石牟礼道子が残した作品を、もう一度読み直し、あるいは、初めて読み始める、たくさんの道筋が示されていると思います。一度手に取られてはいかがでしょうか。ボタン押してね!ボタン押してね!椿の海の記 (河出文庫) [ 石牟礼道子 ]
2020.04.22
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四方田犬彦『七人の侍』と現代――黒澤明 再考 (岩波新書) 四方田犬彦の登場は眩しかった。1980年代の初めころ「構造と力」(勁草書房)「チベットのモーツアルト」(せりか書房)の中沢新一、「映像の召還」(青土社)の四方田犬彦というふうに、ニューアカ御三家の一人として登場した。年が一つ上なだけの青年の文章に愕然とした。要するに、繰り返し読んでもわからなかったのだ。 あれから、なんと半世紀近くの時が経ち、久しぶりに彼の映画解説を読んだ。「『七人の侍』と現代」(岩波新書)という、いわば、初心者向けの入門・解説本だった。 50年前に、同世代を蹴散らした記述は鳴りを潜め、懇切で丁寧な語り口に笑いそうになった。四方田犬彦の上にも時は流れただということを実感した。 一章は黒澤の死をめぐっての個人的な感想ではじめている。そこから「映画ジャンルと化した七人の侍」と章立てして二章に入り、1960年にハリウッドのジョン・スタージェスによって、「荒野の七人」(原題Magnificennt Sevenn:気高き七人)としてリメイクされたところから話を始めて、あまたのアジアの映画から果てはアニメ映画「美女戦士セーラームーン」に至るまで、影響関係を解説・紹介したうえで、「七人の侍」という映画が成立した1954年という時代背景にたちもどるという展開だった。 1954年とは、平和国家を標榜する一方で自衛隊がつくられ、第五福竜丸の被爆が「死の灰」という言葉を生み、本多猪四郎が「ゴジラ」を撮った年であることに言及したうえで、黒澤の「構想」と苦難の「制作」過程を解説し、革命的「時代劇」として大ヒットするまで。いわば「七人の侍」成立の「映画製作史」を論じたのが五章「時代劇映画と黒澤明」でした。ここまでが、いわば本書の前半です。 後半では戦後社会の新しい観客を前に超大作として登場した作品の内容が俎上にあげられる。 六章、七章では「侍」、「百姓」、「野伏せ」という階層・階級の戦後映画論的な意味を指摘したうえで、まず、個々の「侍」たちの背景を暗示し、個性を強調した演出の卓抜さが論じられる。 続けて、戦乱の中で「百姓」から、浮浪児となったに違いない、「菊千代」が母親を殺されて泣き叫ぶ幼子を抱きしめて「こ、こいつは…俺だ!俺も‥‥この通りだったのだ!」と叫ぶ姿が、1950年代の観客に呼び起こしたにちがいないリアリティーと親近感のありか、「農民」の敵として登場する「山岳ゲリラ」、すなわち「野伏せ」たちの描き方に宿る日本映画のイデオロギーに対する批判と、それに縛られていた黒澤の孤独について、それぞれ論じられている。 映画の細部についての言及は、筆者の博覧強記そのままに、さまざまな映画や、歴史資料を参照しながら繰り広げられて、興味深い。さすがは四方田犬彦だというのが、ぼくの率直な感想だった。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.05.20
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