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昨日、書き忘れていた事があったので、簡単に。 演出の問題点のもう一つが、終幕の演出処理の問題です。 二度見すれば、気づく部分がある可能性は否定しませんが、最後があまりに唐突。 神様が「イドメネオは退位して息子のイダマンテに譲位しろ。イリアとイダマンテは結婚せよ。それで許してやる。」と言われて、神官達も含め、群集の見守る中、イドメネオは退位。そして、ネプチューンの壷、というか神殿ということでしょうか、にお隠れになります。ここまでは、まぁそれなりに納得出来る。 その後、この新しい王と王妃は、不可解な行動を取ります。不安げな表情のまま、即位の徴であろう衣を決然と脱ぎ落とし、神官らに取り囲まれ圧迫されるままに抱きあって、幕。 .........この非人間的な展開に対し、神官や神の意のままになるまい、と抵抗することの表れ、なんでしょうかねぇ。まぁ、解釈は幾らも出来るでしょうが、とにかくそこに至る伏線が無い。何故そうであるべきか、が説明されない。そこまで、既に書いたように演出過小にしてむしろ書割的で演劇上もあまりに単純な内容であったものが、突然どかどかと意味を詰め込まれ、脈絡も無く取って付けた様な「内容」を持たされる不思議。 何を言ってもいいけど、突然取って付けるのはやっぱり難ありです。もし、劇作上、3時間掛けてやってきた内容に対し、何の脈絡も無いものをポンと突っ込んでしまえば、当然話は混乱します。それは劇作上問題がある。何より、それまでやってきた時間が無意味と言うに等しい。 それでもいいと言えばいいのだけど、それはかなり劇として破壊的な行為です。それまでのを全否定するに近いですからね。 まぁ、ちょっとセンス悪いよな、と思います。 こんなところかな。
2006年10月30日
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新国立劇場 オペラ劇場 14:00~ 3階左手 つい勘違いして遅れてしまいました。1幕は立見で....って、本来の席とそう変わってはいなかったのですが。 一言で言うと、うーん、79点なんだけど、この不完全燃焼感は一体......ってとこでしょうか? 先週、藤原で結構厳しい評を書きましたが、良くも悪くも、東京文化会館というのは日本で最もバランスの良いホールだと思います。とにかく空間が広いので、上階の席だと舞台がとても遠く見えるのですが、その分音が響くだけの空間があるということで、やはり音響的には一番自然に近いと思います。勿論「広い」分、大きく聞こえさせるのは大変でしょうが。 一方、新国立劇場は、相対的に舞台に対し客席が近過ぎる傾向があります。舞台前縁をy軸と看做して、舞台と客席を結ぶ線をx軸と捉えると、x軸方向に寸詰まりなのです。客席が近いので声は大きく聞こえますが、響く空間が決して広くないのです。CD的というか、PAを入れてるんじゃないか?と感じる事もあるような不自然な響きに聞こえたりします。まともな歌手が歌えば、勿論そんなもの要らないホールではあるんですけどね。 オーケストラの音や歌手の声が十分に混ざりきらない内に届いてしまう分が大きい、そんな感じでしょうか。オペラを聞き始めた頃、新国立劇場なんて無かった自分には、やはり日本のホールでは東京文化会館の聞こえ方がレファレンスになっているのだろうな、と時々思います。 で、今度の「イドメネオ」。まず、この違和感が今回先に立っていたのは否めません。それは、公平に言って、出演者の責任ではないのですけどね。ただ、ここでの聞こえ方というのは、私の中ではやはり割り引いて聞かざるを得ないところであります。 ダン・エッティンガー指揮の東フィル。確かにいい演奏です。ただ、不完全燃焼感の少なからぬ部分も実はここにあるのですが。 東フィルそのものは、今回は少々金管に辛い部分もあってか、瑕もありましたが、概ねいい演奏ではあります。ピッチは若干低めだったのかな?古楽器的アプローチの傾向にありましたが、それはそれとして、コントラバス4本、チェロ6本、ここからして1stヴァイオリンは恐らく10乃至12本というところでしょう。これ、それこそ先日の藤原の「ランスへの旅」とそう変わらない編成です。この弦が、結構押し出しのある演奏で。特に低弦が。いわゆる「前へ前へ」という感じのとは違い、自然に全体の中で前に出てくる感じで、好感は持てます。この傾向が、オーケストラが全体をコントロールしているような聞こえ方に繋がっていたのではないかと思います。 ところが、ここで、エッティンガーの音楽の作り方に疑問符が....... 確かにいい演奏だと書きました。それは事実なのです。ただ、時々、演奏の質感がストンと変わってしまう面があるのです。 イドメネオは、アリアや重唱、合唱、器楽単独の部分などがはっきり分かれるオペラです。各部分がそれぞれ切れるのが見えるし、それを繋ぐレティタティーヴォも見えるのですが、今回の演奏、その各部分の変わり目で、演奏の質感が変わるのがはっきり感じられてしまうのです。 それぞれの部分は、決しておかしい演奏ではないと思います。その結果、ある部分と部分の間で、かなりはっきりと演奏上の質感が変わっても、それはそのような音楽なのだから仕方ない、という見方もあるとは思います。 でも、劇進行上、はっきり変わるのが分かるのが自然なケースもあれば、そう前後で変わってしまうのは如何かということもあります。更に言えば、一つのアリアの中で変わってしまうこともあって(今回で言えば、イドメネオの第2幕のアリア)。それはまぁそのように聞こえるから仕方ないのかも知れないけれど、それはちょっとオペラ的ではない。 劇というものは、いわばエピソードのシークエンスであるので、そのシークエンスが途絶えるのはリスクを伴います。そのリスクを犯してまでの必然性があって初めてそれは断ち切られるべきです。その面で、今回の上演では疑問が残ります。それは、オペラとして音楽的であったのか? この、厳しく言えば不用意な断絶感が、不完全燃焼気味であった理由です。乗れないんですよね。 歌手では、イダマンテ役の藤村実穂子が確かに良く聞こえていました。声もいいし、及第点でしょう。でも、この人、私、いまいち苦手なんですよね....... 時々なんだけど、声質がフッと変わるんです。今回も、1幕で1箇所、あともう一箇所くらいあったような。それが、一続きで歌っている中で、突然起きるので、「あれ?」って感じに..... リサイタルで、歌によって変えるとか、或いは高音を出すのにポジションを変えて、とかだったりするのならまだ分かるんですが....... まぁ、確かにこれくらいの声があれば、贅沢は言えないというものでしょうけど。 個人的には、比較して非力ではありましたが、イリア役の中村恵理の方が好みかな。声が綺麗な人はやっぱり好き。ちょっとヴィヴラート掛かってるけど。それと、比較すれば、やはり少々声量が厳しいのは確か。でもまぁ、新国立劇場クラスの劇場なら、これで何とかなるのでは。 後の皆さんは、まぁ、それぞれで....エレットラ役は、結構拍手を貰っていましたが、まぁあんなもんでしょう。 意地悪を言えば、さぁこれで東京文化会館に持って行ったら、みんなどうなってたかな。 演出はちょっとどうかな。 ある意味よく整理された、シンプルな舞台と言えなくはないですが、これはちょっと厳しいのでは。 イドメネオは、特に「オペラ・セリア」と呼ばれるスタイルのオペラです。この種のオペラの特徴の一つは、作品にある種の様式美を持ち込んでいることです。平たく言えば、例えば、劇の進行上、登場人物に感情を吐露させたい時、自由に振舞わせる事が出来ないのです。リゴレットは決してオペラ・セリアには出てこられません。何故なら、あんな激しい感情表現をするには、オペラ・セリアの様式感は強く矯正し過ぎるからです。 言い換えると、19世紀のオペラ、特にヴェルディあたりのようには、劇進行が音楽で一目瞭然、とはいかないのです。 確かに、字幕はあるし、粗筋が書かれているプログラムやパンフレットはあるし、分かるには分かるのでしょうね。でも、状況を把握し、何故今歌っているのか、を理解する助けとするには、ちょっとこの舞台はシンプルすぎる。 その割に、人の動かし方が平版というか紋切り型なのです。特に数少ない群集の出てくる場面が。ああ、民衆が怪物に追い立てられているんですね、とか、ああ、皆、生贄によって神を宥める様求めているんですね、とか、分からなくはないんです。でも、これ、「そういう場面であると知っている」から分かるのであって、劇に対する寄与率が低いというか..... 正直、これなら演奏会形式でもそれほど変わらないような......... 全般に、音楽的にはともかく、演劇としてはしんどいのではないかなと。
2006年10月29日
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間に色々挟まりましたが、舞台の話など。 前にも書いた通り、「ランスへの旅」は、1825年のシャルル10世のフランス王戴冠を祝して制作・上演されたオペラです。で、その中身ですが、要はフランスの保養地に滞在する金持ち男女が、シャルル10世の戴冠式を祝いに行こうとしてどたばたを繰り広げ、最終的にはランスに行けないけれど、パリに行ってお祝い騒ぎに参加しよう、ということになりめでたしめでたし。最後は皆で宴会をやって戴冠を祝ってお仕舞い。まぁ他愛の無い話です。 他愛も無いのは、要はこのオペラが、祝される御当人の臨席を前提に、とにかく皆でお祝いしまーす、という目的で作られているからで、しかも一種のガラ・コンサートとして企画されているからなのでしょう。 このオペラには、とにかく「ドラマ」と言える要素が根本的に欠落しています。ストーリーはあるのですが、プロットが決定的に希薄なのです。恋の鞘当はありますが、それは、いわば歌を歌う状況を作る為に設定されたものでしかなく、極めて単純なものでしかありません。ドラマにはなっていない。このオペラには、物語を推進する力がかなり少ないのですが、そもそも推進するべき物語が欠けている。例えば同じロッシーニでも、セビリヤの理髪師あたりを考えてみれば、それが他愛も無い話であっても、何か事が起きる、それが起きる為には必然的理由がある事になっているわけです。アルジェのイタリア女だって、「パッパターチ」なるけったいな秘密クラブを設定するのにも、荒唐無稽なりの理由があるわけです。 「ランスへの旅」でのプロットの欠落を象徴するのが、コリンナが歌う詩のテーマを決める場面。コリンナは自分でシャルル10世を寿ぐ歌を歌おうと決めるのではなく、様々なテーマのアイディアを皆に出して貰い、その中から抽選した結果、偶然かつ必然的にシャルル10世を寿ぐ詩を歌うことになるのです。神意すら寿ぐシャルル10世! 後年、ロッシーニが、このオペラを称して「祝典カンタータである」と言わしめたのは、むべなるかな。これはオペラと呼ぶにはあまりに物語に乏しい。物語に、歌う必然性が乏しい。 というようなものを上演しているわけです。 今回の演出は、ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルでの上演をベースにしたものですが、舞台はこのペーザロをイメージしたような海岸様の保養地に変わっています。海の家というか、保養地に如何にもありそうな真っ白に塗られた海岸沿いのウッドデッキ上で全てが展開されます。 - 失礼。展開はされてないなぁ。次の歌を歌う為に話が進む? 後半は、万国国自慢のど自慢が開催されます。ドイツ、ポーランド、ロシア、スペイン、イギリス、フランス、チロル、イタリア。ただしイタリアはコリンナがシャルル10世を讃える歌を歌うので、イタリア国自慢はないんですが。コリンナの、シャルル10世を讃える歌に続いて皆が荘重にシャルル賛歌を歌い、最後は大団円。 これを讃えられる御当人の目の前でやってみせるというのも、結構な心臓だなぁ、と現代人は思ったりするのでは。 ちなみに、シャルル10世は即位後結構な反動政治を展開したと言われています。結果、戴冠式の5年後には7月革命を引き起こし、亡命。ここにブルボン朝は終わりを告げます。 この最後の場面に、この演出では、王に扮した子供を舞台の外に登場させます。舞台上の大騒ぎを横目に、サンドイッチ?をコーラで流し込みながら「何やってんのかねぇ」とばかりに肩を竦めて見せる。勿論、舞台上の「王の戴冠を寿ぐ人達」は、このガキキングには目もくれない。ちなみに、本物のシャルル10世は、1757年生まれ。即位の際の年齢は67歳になります。 実のところ、これは元の作品にもしっかり描かれているのだけれど、このオペラの登場人物達は、本当はシャルル10世の戴冠を目出度く思っているわけではなくて、ただ単に騒ぎたいだけなのです。戴冠式というイベントに浮かれているだけ。だから、彼らはランスに行けなくなっても、パリからの「当地もお祝い騒ぎの準備に忙しく、十分"楽しめそう"だぞ」との報せに狂喜し、嬉々としてパリ行きに予定変更するわけです。 結局のところ、このオペラを今上演するにあたり、どうしても客観視する要素を入れなければ、現代人の視線には耐えられまい、という判断だったのではないかなと思うのですけどね。 この祝典騒ぎを客観化せずに、「王様万歳!」ってのは幾らなんでもあんまりだろう?という観点から、この演出へと行き着いたのではないでしょうか。 ちなみに、1989年にウィーン国立歌劇場がアバド指揮でこのオペラを持って来ています。この時私は観ていないのだけれど、観た人の話では、「戴冠式後、王様がランスからパリへの帰途、この"金の百合亭"にも行幸される」というような形だったそうで、何せ来日公演ですから、「日本にも寄る」てなことで、舞台上に飛行するジェット機の映像が出て、王様御来場~♪となったそうです。 まぁ要するに、徹底的にやるか、客観視するか、でもしない限り、舞台としてはもたない、ということなのでしょう。 純粋に舞台技術として見れば、決して悪い処理方法ではなかったと思います。殆ど舞台道具を動かさず、場面は背景の照明等の処理で変化を付けるのみ。それでいながら、前半の保養地の描写と後半の祝祭宴会の描写と、それなりに収まっていたのは、流石と言うべきでしょう。 登場人物の処理も、合唱を省く事で整理されたものとなっていました。 まぁ、そう何度も観たいと思わせる強い要素は少ないですけどね...........確かに。
2006年10月27日
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東京オペラシティ コンサートホール タケミツメモリアル (長いって...) 19:00~ 3階左回廊 普段はとても平日のコンサートなんて行けないのですが、万障繰り合わせてなんとか駆けつけました。10分ほど遅れて到着。1曲目は聞けませんでしたが、まぁ平日だから御の字。 アンジェラ・ヒューイット。今、コンサートで聞きたいピアニストの一人です。今回の来日では今夜が唯一のリサイタルだとか。 それなのに、ああそれなのに、幾ら平日の夜とはいえ、やっと6割ほどの入り。いやまぁ確かにピアニストとしては地味目っていや地味目だけど......B席で4千円ですよ。もうちょっと入ってると思ったに......... ヒューイットの持ち味は、やはり煌く様な綺麗な音にあるのだな、と再確認した一夜でした。 前半一曲目、入れずホールの外で聞いたのは、バッハのフランス組曲第4番。ああ、綺麗な音ですねぇ、やはり。今夜のピアノはイタリアの新進ピアノメーカー・ファツィオーリのもの。確かに繊細さのある、綺麗な音をさせています。スタインウェイなどで時に演奏される重みのあるどっしりとした感じの音は、あまり出てこないんじゃないかな、という感じ。この特性は、ヒューイットの演奏とレパートリーによく合っています。 ところが、今日二曲目、席に着いて聞き始めたのは、ベートーヴェンの「熱情」。 最近、どうやら自分の中ではオーソドックス・クラシックがマイブームのようでして。古典派の楽曲をオーソドックスに演奏してくれるのがいいかなぁ、と思うのですね。 熱情というのはそういう観点では結構難しい曲のようでして、ちょっと気を許すと勝手に曲が走って行ってしまう。終楽章など、ただでさえ前2楽章との比較で早いテンポが求められるものだから、時にはアレグロ・「マ・ノン・トロッポ」、アレグロだけど早過ぎずに!なんて何処へやら。コーダのところはお祭り騒ぎのタランテッラ状態になってしまったり。いやまぁ、それはそれで面白いんですけどね。 でも、このベートーヴェンは、悪くは無いけど、こういう風に仕上げてレッスンに持ってったら、絶対先生にどやされるよね、てな感じ。構成感がどうしても出てこないんですね。時々、本来だったらあまり聞こえない筈の声部がどかーんと前に出てきて、すぐ引っ込んじゃうみたいなところもあったりして。ヒューイットは、この曲を含めたベートーヴェンのソナタのCDを最近録音していて、今後順次全集に仕立てて行くとのことですが、うーん、どうなんだろう? 思うに、ヒューイットは、やはり音で勝負する演奏家なのだと思うのです。構成感のある演奏が出来ないとかいうわけではありません。バッハのような、構成感が優れてないと歯が立たない曲を最大のレパートリーにしているのだし。ただ、この人の演奏は、まず第一に音色、音で、それを如何に生かすか、が優先するんじゃないかと思うのです。だから、熱情みたいな曲は、本当はあまり合っていないんじゃないかなぁ、と。熱情というのは、型破りながら確りと構築されている構成と、ロマンティックな曲想とのせめぎ合いという、大変に文学的(?)な曲なので、音を第一に持ってくる、感覚的なヒューイットの演奏とは合ってないんじゃないかな、と。 後半はラモー。これは良かった。新クラヴサン曲集の第4組曲。ファツィオーリのピアノは、こうしたクラヴサンの曲を演奏するのに合っているんだそうですが、なるほどと思わせる部分があります。 今回、バッハは本当には生音では聞いていないので想像ですが、ヒューイットは、このラモーやクープランと、バッハあたりとでは、別系統の音楽として弾いているんじゃないかな、という気が少しします。アンコールの最後で、バッハの編曲物(M・ハウ編曲「羊は安らかに草を食み」)を演奏してくれましたが、こうした編曲物の演奏と、ラモーなどでのクラヴサン然とした音楽と比べると、明らかにアプローチが違います。ラモーなどを、言わばクラヴサンを意識したスタイルで演奏しているとすれば、バッハの編曲物は明らかに「ピアノ」です。そして、それはバッハ・オリジナル曲の録音にも感じられる傾向でして。いやまぁ聞いた感じに過ぎませんが。 ファツィオーリの音は、このどちらにも確かに対応出来る感じではあります。 最後はシャブリエ。感想としては、この人にとってはショパンよりこっちの方が楽しいんだろうな、というところ。音が多彩で、よく転がる音楽です。こういうの、きっとヒューイットには合っているのでしょう。音の綺麗な人が弾くと楽しそうです。 アンコールは、ショパンのワルツ(第14番)。うーん、シャブリエより古い(笑)続いて、ベートーヴェンの悲愴の第2楽章。これは、熱情と打って変わって大人し過ぎる位の端正な演奏。情に流れ過ぎず。下手にやると、「アンコールピース化した演奏」になってしまうので、避けるところでしょうが、お見事でした。そして、最後にバッハの編曲物。これも良かったです。 というわけで、音色の綺麗なピアニストを堪能したのでした。 ちなみに、今後、録音ではベートーヴェンとシューマンを取り上げて行くそうです。思わず内心で「そっちじゃねーだろ!」と突っ込みを入れつつも、何が出てくるかドキドキものなのであります。 でもまぁ、1989年だったかの初来日の時も、シューマンはトッカータだかを入れていましたし、そういう意味では違和感は無いのでしょう。ちなみに、この時は、うろ覚えですが、確かバッハのパルティータと、ラヴェルの「クープランの墓」を持ってきていましたっけ。クープランの墓が、それはそれは素晴らしくて........ 多分、本人の中でも、あんまり傾向は変わってないんでしょうね。今も昔も音の綺麗なのも変わらないし。
2006年10月25日
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東京文化会館 15:00~ 4階右側 今日は22日の日曜日、比較的ヴェテラン組の方。 手元に、「ランスへの旅」のCDがあります。アバド指揮ヨーロッパ室内管。主役級の登場人物には綺羅星のような面々がアサインされてます。コリンナ役にはチェチリア・ガズディア。1980年代の録音ですから、この人が一番良かった頃でしょうか。 その他、レオ・ヌッチだのルッジェロ・ライモンディだの、ルチア・ヴァレンティーニ・テッラーニだの、フランシスコ・アライサだの、まぁきりが無いほどの豪華スターの競演であります。 「ランスへの旅」は、フランス王シャルル10世の戴冠を祝う、祝典オペラ。初演時は当時の名歌手を取り揃えた、いってみればガラ・コンサートのようなものでありました。勿論内容もそれに見合った、次から次へと歌手達が入れ替わり立ち替わり現れては歌い、というようなものです。 こういうオペラではあるけれど、勿論重唱も沢山ありますし、フィナーレのスタイルもロッシーニらしいもの。 ランスへの旅が蘇演されたのが1984年、ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルでのこと。件のアバド盤はその際に録音されたもの。2001年に、ペーザロで、新しいアプローチが試みられます。それが今回の藤原歌劇団の上演に繋がるものなのですが、これは、若手歌手らに歌わせるもの。ペーザロでも指揮を務めるゼッダの今回の上演で初めて聞いたのですが、要は、綺羅星名歌手総動員でそれぞれの歌手の力量に委ねるのではなく、力量に限界はあろうとも歌手の粒を揃えて、アンサンブルを重視して聞かせるやり方。確かに、ガラ・コンサートなら、いい歌手を揃えなければ意味は無い。アンサンブルで勝負するか、個々の歌手で勝負するか? つまり、土曜日の比較的若手組がアンサンブル重視型で、日曜日(と金曜日)の比較的ヴェテラン組の公演が目指せガラ・コンサート!型であった、というわけだと思います。 で、日曜日の公演は? 結論から言うと、残念ながら、そのアプローチとしてはほぼ全滅です。ただし、正直言って、私がファンであるところの高橋薫子を除いては。 ええとですね、キャスティングは藤原歌劇団のサイトを見て頂くとして、「ガラ・コンサート」と呼ぶにはやはり無理があるんですね。一部を除き概ね声量はあります。でも、個々人の名前は挙げませんが、それはもう歌ってるというより叫んでるだろうお前は、エレクトラじゃあるまいに、と言いたくなるような歌手もあり。それなりに深い声で歌っているつもりだろうけれど、声の限界、浅さが露呈してしまっている低声歌手あり。本当の主役級はそこまで酷くは無いけれど、一概に、一杯一杯の歌唱でした。聞いてる方は落ち着きません。 で、なんでそうなるかというと、要は「頑張っちゃってる」からなので、そういう状況下でアンサンブルの妙を期待出来るかと言うと.........やはり無理。 ヴェテラン勢だからそれなりに「ファン」だか「お弟子さん」だかも付いていて、それなりに賑わってはいましたが、特に前日の公演を聞いている身には、ちょっとねぇ。カーテンコールで佐藤美枝子 - 8年前にチャイコフスキーコンクールで優勝して一躍有名に - に盛んにブラボーが掛かってましたが、あれでは可哀想。出来の悪い演奏を褒めるファンほど性質の悪いものはありません。安定感の無い、大味な歌になってしまったのは、本人も分かっているだろうに..... 全体を一言で言えば、結果的には、とっ散らかった感じの演奏になってしまいました。各人が卓越してるでもなし、よく揃ってるわけでもなし.......... 唯一、と書いた高橋薫子は、他の方には申し訳無いけれど、きちんとした歌を歌っておりました。(ま、私はファンなので、この辺は割り引いて貰うとして。)ヴェテラン、ではないけれど、そろそろ若手というのは失礼なキャリアです。久々の本公演大役。 敢えて土曜日の砂川涼子と比べますが、率直に言って、高音の綺麗さでは、透明感がより強い砂川涼子の方がはっきり分かると思います。高橋薫子の声は、確かに、93年の「ランメルモールのルチア」で代役での歌唱、翌々年の「愛の妙薬」での歌唱などを思い起こせば、当時の透き通るような声色と技巧からはやや変わっていて、そういった面でのインプレッションは落ち着いた感があります。 でも、その代わり、声に深みと厚みが増しました。重くなったというのではありません。昔から高音域の前の、中音域がしっかりした人ではあったけれど、それにまして、中音域が充実して、より歌唱に安定感が出ています。暫く前から宗教曲に興味がある、という話を小耳に挟んでおりましたが、確かにそうした曲で求められるような、技巧的高音域の前段の音域での歌唱が見事です。正直に言って、私はこのコリンナ役だけは、日曜公演の方に軍配を上げます。ソプラノは、高音のコロラトューラだけで勝負するものではないのです。 失礼な物言いですが、こういうのを成熟と呼ぶのでしょう。本当に素晴らしいソプラノになりました。藤原にしても新国立にしても、もっとこの人に歌わせてあげて欲しかったけれど、今はこの「ランスへの旅」で素晴らしい歌唱が聞けたことを良しとしましょう。幕切れ前の、シャルル10世を讃えて歌うハープ伴奏でのアリアというか、ミニ・ソロ・カンタータは、見事なヴォイスコントロールで、東京文化会館の空間に過不足無い見事な歌唱を聞かせてくれました。 歌手陣で他には、テノールのマキシム・ミロノフがもう一つで、少々残念でした。もうちょっと声が欲しかったですね。確かにいい声ではあるし、多少きらめきを見せるところもあったのだけれど、結論的にはもうちょっとかな。東京文化会館は確かに大きいホールですが、それにしても。 オーケストラ。 基本的には昨日とそう大きくは変わりませんでしたが、比べると少々大味加減が増していたような。思うに、土曜日のアンサンブル重視の演奏に対して、日曜日はアンサンブルの締め具合が緩かったのではないかな?結果、ややダルに流れる悪い面が少し出ていたように思います。演奏にそれほどおかしなところがあったわけではなかったけれど、もう少しきりっと締まった演奏でないと、ねぇ。昨年のチェネレントラあたりでの演奏に比べると、歌手陣のとっ散らかった感が伝染しているようで......いい時の東フィル、ではなかったなぁ、残念ながら。 オペラファンとしては、一部の歌唱はよかったけれどねぇ.....という、あまり楽しくない気分で帰ってきたのでした。 演出の話その他はまた続きで。
2006年10月24日
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東京文化会館 15:00~ 4階左側 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:アルベルト・ゼッダ 藤原歌劇団公演・ロッシーニ「ランスへの旅」についてですが、21日(土)・22日(日)の2公演を観て来ました。今日から3回くらいに分けて、そのレポートを。 まずは、21日(土)に聞いての感想を。この日は、ダブル・キャストの内1回しか舞台に乗らない組。比較的若手の多い組です。 まずオーケストラのことから。土曜日、暫く聴いて感じたのですが、オーケストラの重さ。 指揮のアルベルト・ゼッダは、ペーザロのロッシーニ・フェスティバルでこの作品を振っている、いわば第一人者です。内容は決して悪く無い。ただ、こちらの思い込みから外れている、というのが正しいのでしょうが、なんとなく「重く」感じるのですね。でも、鈍重というのとは違う。 オーケストラは、コントラバスが3本、チェロが5本、第1ヴァイオリンは8本か10本というところ。多目に見ても弦五部で30人程度だから、決して多いとは言えません。オーケストラの問題なのか、そのような音楽作りなのか。軽やかに踊っているのだけれど、衣装が重厚な絹織物で出来ている、というような感じでしょうか。音楽的にはとても充実した出来なのだと思います。東フィルは音色もあるし、テンポも決して間違ってはいない。ただ、密度の濃いシックな演奏なので、重く感じるというところでしょうか。 ロッシーニというと、つい軽快な音楽を想定して、音も軽めなものをイメージしてしまうのですが、確かに、オペラである以上、それも東京文化会館のようなホールで誤魔化し無くやるなら、オーケストラの音をいい加減に作ることは出来ない、ということなのでしょう。 一方の歌手陣はどうかというと、少々微妙なところがあります。 若手組、ということもありますが、概して粒の揃った、いいアンサンブルを聞かせてくれました。厭な、聞き苦しい部分あり、というのは、主たる歌手陣の内1,2名ほどだったかと。ただ、少々小粒気味であるかな?というのも正直なところ。それと、やはり経験の問題か、きつい所で声が一本調子になってしまう部分もあったりするのは、まぁ仕方無いんでしょうね。 主役級であるコリンナ役の砂川涼子は只今売り出し中を過ぎて、練れてきたところ。綺麗な高音で大役を務めおおせておりました。この日の面々の中では一番の出来だったのかなと。ただ、ちょっと硬いんですよね、高音が。出てるのは確かなんですが。 後は誰が良かったかなぁ?登場人物多過ぎて覚えてないって(笑) 主役級テノールの二人はなかなか良い出来でした。特に、リーベンスコフ伯爵を歌った五郎部俊朗が、ヴェテラン組として頑張っていい声を聞かせてくれました。妙に浪々と響いておりましたが....... 2部、メリベーア侯爵夫人との2重唱で結構な高音を出しておりました。あれはD?E? バス・バリトンも多くてねぇ..... 取り敢えず一人だけ、シドニー卿を歌った田島達也。声は一部オケに消されちゃう部分もありましたが、こういう声質の人は好きです。 個別に名前は挙げませんでしたが、ともあれ、この日のキャストはそれなりにアンサンブルを揃えて、整った演奏を聞かせてくれました。強いて言えば、ちょっと堅いな、と感じる面もあったかな。 ともあれ、明日はお目当ての高橋薫子も出るし、これは楽しみ~、と思いつつ帰ったのでした。 もっとも、幕間に会った知人に「今日はいい」という意味深の言葉を掛けられても居たのではありますが................と引っ張りつつ、次回に続くのであります。
2006年10月23日
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すみだトリフォニーホール 15:00~ 3階右手 こないだ酷評した割に聞きに行くんかい!という突っ込みにお答えしておきますと、実は新日フィルは今シーズンは定期会員になっているのです。何故かと言うと、ローエングリンがあるのと、ブリュッヘンの客演があるので。個別に買うより定期会員になっておく方が、新日フィルの場合安いものだから。 で、チケットがあればまぁ聞きに行こうか、となるわけで...... シチェドリン:管弦楽の為の協奏曲第1番「お茶目なチャストゥーシュカ」 伊福部 昭:ラウダ・コンチェルタータ ~マリンバとオーケストラの為の <アンコール(マリンバ)> 安倍圭子:祭りの太鼓 バルトーク:弦、打楽器とチェレスタの為の音楽 マリンバ:安倍圭子 ピアノ:木村かをり チェレスタ:白石准 指揮:井上道義 まぁ面白かったです。ただまぁ正直この辺の音楽は私はあまりよく分からないので..... 基本的に、どの曲もフレーズの掴み方が即座に問題になるような曲じゃないし、音色を云々するような曲とも言えない。どうでもいいわけじゃないけど、それ以上に「技術」(この言葉も微妙ですが)が問われる音楽なので、こういうのは日本のオーケストラは強いですね。 まぁ、バルトークはそうでもないかも知れませんが、具体的に「おいおいこれはないだろう」みたいなことはなかったですしね。ただ、全体にどうだったのかなぁ、というもやもや感はあります。もっとも、私はこの辺の曲を凄く好んでいるわけではないので、嗜好の問題もあると思いますから..... 恨みを言えばこのプログラム自体なのかなぁ。 そういえば、この演奏会の曲目解説を書いた御仁は、伊福部昭を御自分の個人的幼少体験に引き付けていたく高く評価しておられますが、そんなもんかねぇ。どうも個人的感情を「主観主義」と称して不躾に押し付ける類ではないかなぁ。 今日の曲もそうなのですが、伊福部昭の音楽は、ミニマルミュージックの元祖みたいな面があります。例のゴジラのテーマにしても、この曲にしても、他の幾つかの曲にしてもそうなのだけど、それがこの作曲家の特徴になってしまっています。全体に同じリズムの繰り返しをトゥッティでフォルテで、早めのテンポで刻み続ける。それに乗ってくる音楽が無いではないのだけど、ともあれこの強迫的な繰り返しがあまりにも印象的で、有体に言えば麻薬的。伊福部昭の魅力を語る人は、大抵この点を念頭に置いています。でも、それってマンネリじゃないですか? いや、それを伊福部昭の責任とすることは気の毒というものなのですが、彼が使った手法は、既に我々は90年代のミニマルミュージックの狂乱を経て、結構飽きてしまってるわけです。もう一つの、不協和音を重ねて不安感を引き出す手法とかは映画やTVで使い古されてしまっているし、その中で使われる旋律がいわゆるヨナ抜き音階で、これまた結構使い古されてしまっているのも事実。 そういう中で、果たして今演奏会で伊福部昭を演奏する意味は何処にあるのか?演奏するなとは言いませんが、この既視感は如何ともし難い。しかもこの既視感は、たとえば「モーツァルトの交響曲なんて聞き飽きた」という種類の既視感とは違って、日常で見慣れてしまった類のものなので、始末が悪い。 そういう客観視的視点を欠いたままの戯言は、読者を前提にした解説の名に値しない。同世代でゴジラの思い出に浸って喜ぶ醜さ。 この曲でのマリンバを演奏した安倍圭子は、この曲のマリンバの初演者でもあります。その妙技は流石に見事。個人的にはこのマリンバの妙技を聴くものと心得ましたが如何に。ただ、正直に言ってアンコールの演奏の方が、技術的に感心させられたのも、音楽的な面白さも、本曲を上回っていたと感じてしまいました。 シチェドリンもなぁ。まぁ面白かったけど、もう一回聞きたいとは思わないし。 そんなに不満があるわけではないんですけどね...............
2006年10月14日
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めぐろパーシモンホール 16:00~ 2階席左手 モーツァルト:ディヴェルティメント第14番変ロ長調KV.270 (ハーゼル編曲) ダンツィ:木管五重奏曲ヘ長調 op.56-3 ヒンデミット:5つの管楽器のための小室内音楽 op.24-2 モーツァルト:「コシ・ファン・トゥッテ」KV.588によるハルモニームジーク (ウルフ=グィド・シェーファー編曲) フランセ:木管五重奏曲第1番 <アンコール> イベール:3つの小品 荒城の月 で、本来のコンサートがこちら。 木管五重奏というのはそれなりに人気のあるフォーマットなんですね。ブラスバンドの流れでか、木管楽器は意外と演奏する人が多いのでしょうか。曲も、近現代フランスとかで作品が多いようで。その辺の垢抜けた感じもあって、人気があるんでしょうか。 チラシには、「まばゆい色彩と、躍動感溢れるベルリン・フィルのヴィルトゥオーゾ達」とありますが、ちょっとそういう雰囲気とは違うような?どうだろ? 一番面白かったのはダンツィ。年代的にはベートーヴェンに近そうな人で、聞いたのは多分初めてですが、溺れない程度に叙情的で、なかなかよいです。 全体的に、構成を持ってしっかりと音楽を構築するスタイルの曲はなくて、まぁその辺が少し喰い足りない風はあるのですが、もともとそういうフォーマットではないし。そういうのが聞きたければ別のもの聞きに行かなきゃ、ってことですから。確かに木管五重奏なんていうと、そういう音楽造りよりももっと面白いことが出来ますからね。 まぁ、そういう意味で言うと、コシ・ファン・トゥッテの編曲物は、元の曲を知っているだけに、ちょっとしんどかったかな。これだったらわざわざ木管五重奏で聞かなくてもいいよ、元のオペラ聞くよ、というような。木管五重奏としては、これはこれで面白いんだと思いますが。そう、こういうコンサートは、木管五重奏というものを如何に楽しむか?という視点で聞かないといけない面はあるんでしょうね。 最後のフランセも、モダン、という言い方がしっくり来る様な音楽で楽しかったです。この人はもうちょっと聞いてみたいですね。アンコールの荒城の月は、まぁ、悪かないけど....(^^; 流石に演奏は素晴らしかった。ホルン(これは金管)、フルート、オーボエ、ファゴット、クラリネットの5種の楽器でありながら、音を受け繋いで行くところでは見事に異なる楽器ながら等質性を感じさせる響きで、とても自然な受け渡し。(そういや、これもマスタークラスで指摘していたことでした) 旋律の歌いまわし、フレーズの取り方なども自然かつお見事。
2006年10月12日
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めぐろパーシモンホール 13:00~ この日聞いたのはベルリンフィルハーモニー5重奏団のコンサートですが、その前に同じホールで、同団員による木管五重奏の公開マスタークラスが行われました。 マスタークラスって、要は学生とかに教えるわけです。普段はあまり行かないんですが、「コンサートのチケットを持っていれば無料で聴けます」ということなので行ってみました。もっとも途中からでしたが。 全部で3組の木管五重奏団が参加。最初の組の終わり頃に入りましたので、後の二組分を丸々聴講しましたが、いや、面白かったです。 2組目はイベールの3つの小品を演奏。確かに悪くない演奏。一応整ってるし。ところが、団員の一人が指導し始めるや、途端に演奏が豹変します。確かに指導前と指導後を較べると、それまで実は平版に演奏されていたのが、活き活きとして聞こえ始めるのがよく分かります。どういうんでしょう。一つ一つのフレーズに生気が吹き込まれて、立体感を持ち始める。それによって、今までただ塗り込められていただけの色彩がより鮮やかに見え始める。ってところでしょうか。 3組目はミヨーの「ルネ王の暖炉」。こちらも同様。本当に指導するや音楽がたちどころに変わっていきます。「その部分毎での"独奏"楽器がその時のリーダーで、リーダーが演奏をリードして行く」。言われてみればその通りですが、そう指導されるだけで変わっていく不思議。 また、「ここから4小節を一つのメロディとして演奏する」という指摘。これもその通りで、今までの音の羅列のような演奏が、音楽として聞こえてきます。 一つ示唆的だったのは、長いフレーズの途中でのブレスの処理について、「ここは一つの長いフレーズとして演奏しなければいけない。ブレスはするのはいいが、そこで、緊張感を切らせてはいけない。続いているように演奏しなければいけないんだ」という指摘。 それが出来ればいいんだけど、出来ないんだよねぇ......
2006年10月11日
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横浜市港南区民文化センター「ひまわりの郷」 18:30~ 2階右手バルコニー 今日は色々収穫の多い一日でした。で、多過ぎるので、今日はこちらだけ日記に書くことに。 実はその前のスケジュールから、絶対間に合わないと分かっていたのですが、どうも今日聞けないと今回の来日は完全に逃しそうだったので、途中から聞く覚悟で行って来ました。その甲斐はありましたですねぇ。 イェルク・デームス。その昔、フリードリッヒ・グルダ、パウル・バドゥラ=スコダと並んで「ウィーン3羽烏」と呼ばれたピアニスト、なんだそうです。でも、私などのイメージでは、グルダに比べるとこの二人はねぇ、という存在でしたが、何故かグルダ亡き後、今年両方とも日本に来るように。録音も割りと目立つようになって。夏前にバドゥラ=スコダが来たので聞きに行ったのですが、これがなかなか良かったのですね。 で、今回、イェルク・デームスであります。本当は前半にブラームスのピアノ小品集op.119とシューマンのクライスレリアーナop.16があったのですが、辿り着いたら既にクライスレリアーナが始まった後。なので、ホールの外でモニターを見ることに。休憩を挟んで後半です。 リスト:巡礼の年報第二曲 ペトラルカのソネット第130番 コンソレーション 第3番 J・デームス:夕べの鐘 ドビュッシー:映像 第1集・第2集 ショパン:バラード 第3番 <アンコール> ショパン:前奏曲か練習曲?から(なんだっけな....) なんだっけな? ドビュッシー:ピアノの為に より 月の光 いやぁ、もう、なんというか、「月の光」がですね、素晴らしかったですね。 リストから既に引き込まれていきましたが、本当に上手いんですね。技巧的にどうこうではないですね。正直、ミスタッチじゃない?と思うところとか、あれ、ここってこうだっけ?みたいなところとか、問題はあるんですが、音が濁るようなことはないんですね。そして、これは流石だな、と思うのは、フレーズの途中では間違えないんです。あれ、と思うのは、主にフレーズからフレーズへの繋がりのところ。あの曲にフレーズなんてあるのか?と思われるかも知れませんが、やはり音楽としての塊り、「ここからここまでの間で妙な間 - ピアノじゃあり得ないけどブレス - は入れないで欲しいよね」というものがしっかりしてるんですね。こう演奏したい、の塊りはきちっと弾かれている。帰り掛けに若い娘さん、多分音大生か何かだと思うけど、「いつ停まるかと思ってどきどきしたけどよかったよねー」と言っていました。安心して下さい。あなた達の演奏よりはよほど心配しなくて済みますから。まず間違いなく。 多少のブレがあっても、音楽は切れない。だから聞いていても許される程度の違和感に収まってしまう。否、それも含めての表現なのでしょう。月の光は本当に良かった。 月の光に限らず、ドビュッシーが大変よございました。これは予想外。というか、「ウィーン3羽烏」のわりに、モーツァルトもベートーヴェンもシューベルトもないねぇ、というところですが、いやいや、こんなドビュッシーが聞けるとは。外連味もないし、気分と感覚で弾いちゃうようなのとは全く違います。はっきりしているけれど、魅力が減殺されるわけではない。ちゃんと見通しが利いて、内容がある。 デームスはギーゼキングにも師事していたそうですが、そういえばギーゼキングの演奏に近いと言えば近いかも知れません。王道を行くような演奏。音の強弱、テンポとリズム、全てこうあって欲しいというところを押えています。こんなにクリアなドビュッシーを聞けるとは。 勝手に「ウィーン何とか」のレッテルに惑わされておりました。申し訳ないってところです。 こうなると惜しいのは前半を聞き逃したこと。特にブラームス!あのドイツロマン派の代表格のくせに、らしからぬ後期ピアノ曲を弾かせたら、そりゃぁよかったんじゃないかなぁと思うのです。 こんな公演を、500人と入らないホールで聞く幸せ。その割に2階はガラガラでしたから、まぁ勿体無い話です。 私はもういろいろ予定が重なって、聞きに行けそうにないんですが、行けるなら行っといて損は無いんじゃないかなと。御歳78歳ですしね。
2006年10月09日
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すみだトリフォニーホール 15:00~ 3階中央 ピアノ:岡田博美 指揮:キンボー・イシイ=エトウ スメタナ:売られた花嫁 序曲 ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲 チャイコフスキー:交響曲第5番 新日本フィルの演奏会は何度か聞いていますが、正直、これはちょっと御勘弁願いたい。 一言で言えば、フレージングというか音楽の掴み方とその表現の仕方の悪さ、これに尽きます。音楽をうまく作れていない。 演奏は派手に鳴らしてますし、響きだけは大きいトリフォニーですから、よく鳴ってるように聞こえるのでしょうが、音楽が不自然。折角のスメタナ一流の旋律が流れていかない。意識の上では流れるようにと思っているのかも知れないけど、実際にはうねる様ではなく、ポコンポコンと山が出来ている様。その間を繋いで行くことも十分には出来ていない。少なくともそのようには聞こえていない。 それでいて演奏だけはとにかく強く、強く演奏する。例によってプレゼンスの強い、派手な演奏ではありますが、それだけでは何とも。ピアノからフォルティッティッシモくらいまではありますが、それが滑らかになんて移行しない。「ハイここはフォルティッティッシモですよー。ハイ次フォルテに移行しました。ここでピアノに入りまーす」というような感じ。ブロックを組んで造形している感じ。 ラフマニノフも同様。影響されてかどうかは知らず、ピアニストも同様。例のとっても美しい変奏は確かに美しかったけれど、それでもまぁ「そのように弾きました」と、取って付けたような。 歌えないのもともかく、音色もないし、せめてもの合奏精度も、まぁそんなものという程度。音の大きいことだけが身上、という感じの演奏。 正直、新日本フィルがそんなに上手いオーケストラだとは思っていないけれど、それにしても今回のはかなり宜しくないですね。 休憩後帰らなかったのは、いやそれでもひょっとしたらチャイコフスキーだけは、と一抹の期待を抱いたが為。 第1楽章終了後に帰らなかったのは、自席が通路際で無かっただけ。 弦が全く美しくない。ヒステリックな音を出すのみ。緊張感のある音、ならいいんですけどね。それで、上記同様まるでぶつ切りのような演奏を展開。パート間の連携も取れておらず、音楽がとても纏まって聞こえない。残ったのを大後悔。 第2楽章以降は多少持ち直しましたが、まぁ前半並み、挽回する能わず。終わるや早々に退散致しました。 とにかく、音楽をあのように捉えているのであれば、あまりにも美的感覚に乏しいし、恐らくはこちらだと思うけれど、自分たちの捉えたように聞かせられる力が無い。仮にあったとしても、それを引き出せていない。そういうことです。 恐ろしいのは、こんな演奏でもブラボーが飛ぶこと。音が大きけりゃそれでいいのか?
2006年10月08日
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トッパンホール 15:00~ 前方左手 ハイドン:弦楽四重奏曲第74番 ト短調 op.74-3 Hob.III-74 "騎手" ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第3番 ヘ長調 op.73 ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第13番 <アンコール> モーツァルト:プロシャ・セット 第3番? 第1楽章 最近、殆ど毎週何か聴きに行ってます。ちょっと行き過ぎだよなぁ.....とも思うのですが、まぁあればつい行っちゃうという、困った生活で。ちょっと自制しようっと。 で、今日は行き過ぎの罰が当たったか、とても眠かったです。まぁなんとか聴いてたけど。 演奏は、良かったです。近年の中堅的存在 - ってそろそろヴェテランの域ですが - の四重奏団の一つで、ドイツ・グラモフォンでの録音も多く、まぁ勢いのあるカルテットですね。現代的というか今っぽい(って変な表現ですが)演奏で、音色もフレーズの処理も綺麗なものでした。 そう、上手というより綺麗なんですね。勿論上手だし、よく整っているし、技術もあるし、でもこのカルテットの特徴を一言で、と言われたら、多分「綺麗」って答えると思うんですね。あのぉ、余談ながら本当にたまたま、今TVでクリスティアン・ツィマーマンのリサイタルを放送してるんですが、私もこの収録とは別の日に聞きましたが、この人、確かにいいピアニストだけど、綺麗というのじゃないんですね。ツィマーマンについてどうこう言う場じゃないのでアレですが、ツィマーマンの演奏は、例えば今モーツァルトを弾いているのだけど、何某か、「普通の演奏」と違ってリズムというかフレージングというか、が揺れるんですね。ルバートというのは確かにあっていいのだし、それもまた味の内ではあるんだけど、ちょっとそれが大き過ぎる風があって。そういうのは、「綺麗な演奏」とは言わないと思うんですね。 演奏須らく綺麗であるべき、とは言わないんですが、そういう意味で、トータル的に、表面的にという意味でなく「ああ、綺麗な演奏だねぇ」というのが、ハーゲン四重奏団に対する感想なんですね。 その「綺麗さ」が最も美質として生きてるかな、と思うのが、ハイドンの演奏。この、少々外連味もあるけれど、本質的には古典派の曲、楽器毎にその時々の役割が結構はっきりしてるので、こういう綺麗な演奏だと明確なものが明確に見えていいかなぁ、と。モーツァルトなどでも高い評価を得ているだけのことはあります。 ただ、それが、ショスタコーヴィチとかになると、いいにはいいんですが、よく分からないんですよね。「私がショスタコーヴィチをよく分かって無い」ということもあるんですが、演奏としていいのは分かるんだけど、そもそもこういう音楽なのか?という。なんとなく、「これでいいの?」という感じがするんですね。冷徹に楽曲解剖に徹するというのでも無いし。楽曲によってあまり差が出てこないんです。何を弾いても同じ、ではないですが。でも、言い様によってはよりザッハリッヒカイトな演奏と言えるかも知れません。それがいいのか悪いのか? 最後のドヴォルザークは、例えばスメタナ四重奏団などが、情感込めて歌い上げるスタイルの、ちょっと乱暴に言えばチェコ色たっぷりの旋律の歌わせ方をするのに較べれば、よほどあっさりとした演奏。土着の音楽、みたいなのとは違う行き方で、それはそれでこのカルテットの特色として得心します。ザルツブルクに出自を持ち、欧米各地の音楽院を出て研鑽を積んだ人達が、ドヴォルザークを土着色強く弾くのも、変と言えば変ですから。 ただ、これが「いい」のか?と言われるとなんとも........態度保留、です。悪くは無いですよ。でも、この人達でハイドンやモーツァルトを聞くのはいいけれど、ドヴォルザークを聞きたいか、と言われると、評価はするし、生でならそりゃ聞いてみるべきだけど......... うーーーーん。
2006年10月01日
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