全13件 (13件中 1-13件目)
1
所沢市民文化センター ミューズ アークホール 15:00~ 1階席中央 ピアノ:ジュリアス・ドレイク イアン・ボストリッジの来日公演のトリを飾るのは、シューベルトの「美しき水車屋の娘」であります。所沢まではるばる行って来ましたが、結構な客の入り。ま、お金の問題もありますが、普段平日に聞きに行くのは無理、少なくとも予定してチケット抑える気にはなれない、という生活をしていると、反動で土日はついつい何を聞きに行くか、と考える生活になってしまうのですが、やはりそういう人多いんでしょうね。 愚痴はともかく、2週間ぶりのボストリッジです。 ボストリッジの水車屋は6年ほど前に聞いた事がありますが、その時はさながら職人の青年になり切ったような歌唱でありました。全身で振り絞るが如し。それはそれは見事な熱演で、まぁ、言えばそれは邪道なのかも知れませんが、邪道を極めるならばそれはそれでよし、という、まぁそんな感じの強烈な説得力のある演奏でした。 今回の歌唱は、当時と相通ずるものもあれば、そうでない部分もあり。身悶えする様に全身を使って歌う様は相変わらずです。だから、彼の発声は、決して教科書通りの褒められた姿勢では無いと思うんですけどね。ただ、以前聞いたのよりはよほど大きいこのホールで、ということもあるのでしょうが、没入度が低くなっているように思います。「そこに職人がいる」というようなのとは違った、「水車屋」という歌曲集を歌う、という、演奏家としての切り分けが出来てきたのかな、というように感じられなくもない。 私は、それは、演奏家としての彼の成長を示すものだと思います。そういうのを「何かが失われた」というように言う人も居るだろうけど、本来演奏家に限らず芸術家というのは、その充実度、完成度が高まって行くほど、そうした客観性というのを兼ね備えて行くものだと思います。その上で没入するかのように表現するものであると。「水車屋」は決して職人という役を演ずるオペラではなくて、職人を巡る世界、そこでの彼の主観を描いた「歌」を歌うものなのだから。 演奏それ自体は大変楽しめました。 2週間前に感じた発声・発音の問題は殆ど感じず。思うに、彼自身、水車屋を長年歌い込んでいて、それ故に自家薬籠中のものにしているのではないかな。加えて、来日後そう日の経っていない前回と、2週間以上滞在して後の今回とでは、体調や集中力の面でも有利だったのでは。 前半での職人の若々しさを感じさせる歌唱も良かったですが、この曲集でのクライマックスとも言える、しぼめる花。自分が埋葬されて後、恋した水車屋の娘がいつの日か「あの人は私を想ってくれた」と思い出してくれたなら、その時こそ花達よ開いておくれ、冬が去り、春がやってきたのだから、と歌う。この最後の一節、 "Dann Bluemlein alle, Heraus, Heraus! Der Mai ist kommen, Der Winter ist aus."青年の万感の想いが吐露されるこの一節に向けて、全てが組み立てられ、表現されていく。そのHeraus, Heraus!のなんと印象的なことか。素晴らしかったです。 ボストリッジは何度も聞いているし、やはり英語詞の歌曲をもっと聞きたいと思ったりもするのですが、そうは言ってもやはりこの人のシューベルトは捨て難い。
2006年11月27日
コメント(0)
日生劇場 14:00~ 2階左手 ヤナーチェクのオペラの中でも比較的知られたものの一つですが、如何せん題材が独特な為、日本ではあまり上演される機会が無いオペラです。去年だったか、ブルノ歌劇場あたりが持ってきて、1回だけ平日に上演していったと思います。勿体無い。 今回は日本語上演でしたが、このオペラを観る機会は正直少ないので、ともあれ行ってみました。 まず、日本語上演、というところから考えたいと思いますが、二つお断りしておくべきと思います。 一つは、私は日本語上演や日本語オペラというのに全般的に懐疑的である、という事。だから、多分にバイアスの掛かった見方をしていると思います。 もう一つは、この公演が、青少年のための「日生劇場オペラ教室」での公演を前提にしているということ。つまり、少なくともこのオペラに関する限り、日本語上演でやることに、オペラ教室での上演を前提にして判断された面があるかも知れないということ。 で、結論的なことを言ってしまうと、やはり日本語上演には無理があるんだよなぁ、ということになると思います。今回の公演は、ほぼ全て日本語で上演されていたのですが、実は日本語字幕が用意されていました。確か、10年以上前にこの劇場で、やはり日本語での「魔弾の射手」をやった時は、字幕は無かったと思います。 そもそも、日本人にとって外国語、今回であればチェコ語で書かれたオペラに、日本語の訳詞を当てて、その訳詞を歌って上演することの意義は何かと言えば、「何を歌っているのかその場で分からせること」にあると思います。ただし、これと、常にトレードオフとは言いませんが、発生するリスクとして、「元々の音楽が持っている言葉と一体となった意味合い・表現が損なわれる危険性」というのがあります。また、これと隣接した問題として「元々外国語を前提に作曲されているが故に日本語の歌として無理が出る可能性」というのもあります。 正直に言えば、これまでの多くの日本語上演のオペラは、このバランスを取る事が大変大きな課題になってきたわけです。で、今回は、結局字幕を出した、つまり「聞けば分かる」メリットに限界があることを自ら認めてしまった。 公平に言って、歌われる歌詞と字幕の完全一致というのは、確かにそう悪くは無いです。少なくとも「今何を歌っているか」はほぼ完全に理解出来る。加えて、元々日本語というのは文字ベースで考えないと意味がよく分からないことがある言語ですから、字幕で理解するというのは確かに悪くない。加えて今回の訳詞は、日本語として相応に不自然ではあるけれど、出鱈目でもない。決して悪くは無い。 でも、じゃぁ、その理解の上で、満足の行く結果かと言うと、どうも。 これはあくまで素人考えですが、元々日本語というのは「子音+母音」で出来上がってる音の連なりで、概ね日本語としての「1発音」が一つの「音」になるのが据わりがいい。それに対し、外国語では必ずしもそうなっていないことがある、というのがあるのじゃないかと思います。例えば、これはドイツ語ですが、シューベルトのリートなど見ると、「ich」(私)という単語が一つの音符にアサインされているケースが多い。「ich」は「イッヒ」ですから、日本語で見れば2音なのだけれど、感覚的には1音で考えられてる言葉です。(実際シューベルトに限らず、ロマン派までのリートでichに2音をアサインするケースはあまり無いと思います)そして、例えば「ich」を1音とする音価単位の感覚がその曲の中では崩れていかない。そこに日本語の訳詞を当て込もうとすると、当然多大な困難が伴うわけです。しかも、それぞれの音はそれぞれの言葉に対し当てられるから、例えば「ich」のところは無声・母音無しの発音を前提に書かれるのだけど、そんな日本語の発音は無いですから、音楽的不自然は避けられない。 多くの場合、言語の意味に対し「歌われる」日本語訳詞が内容的に薄いものになりがちなのは、こうした困難を前提に、「安全運転出来る」詞を当てようとするからでしょう。 というようなことだと思うわけです。私はチェコ語は分からないし、大きなことはホントは言えないんですが、そういう意味での不自然さはやはり感じました。どうしても日本語で歌おうとするから、安定しないんですね。元々の音楽的な問題もそうですが、加えて日本の歌手の殆どは、「きちんと日本語でオペラを歌う練習」というのをしていない、少なくとも重視していないと思います。日本の音楽大学で、オペラを勉強する場合、普通は原語で歌うことを前提に勉強し、練習する筈です。日本語の歌を日本語で歌う練習はしても、それは通常歌曲であって、日本語のオペラをする練習には限度がある筈。まして、訳詞上演を練習するケースは如何ほどか。結果、日本語なのになんだか日本語に感じられないばかりか、日本語として十分聞き取れない、という状況が生まれる。その上、声量など歌い方も安定しなくなる。言葉によって息の使い方が変わってしまう。今回の上演でも、「え?なんでここで急に声量がこんなに変わるの?」という出演者がいました。 それでも日本語上演に踏み切った理由には、考えられるのは二つあって、一つは要するに歌手の対応力の問題。「チェコ語で歌え」ってことになりますから、その負担を減らすという判断はありうると思います。まぁ、個人的には褒められた話ではないとは思いますが。 もう一つは、結局、そうは言っても「自分の知ってる言葉で歌っている(らしい)」という安心感というのは観客の側にもあるのだと思います。それが、「青少年」であれば尚のこと。今回、会場にはそう沢山では無いにせよ、子供も、中高生くらいの生徒も居たようです。彼らにとっては、確かにそういう安心感は有意義だったかも知れません。本当は、これまた個人的には、そうした違和感を抜きにしてまで、子供にオペラ見せるべきなんですか?とは思いますけどね。 というようなこと全体として、結論的には責めるのは酷だろうな、というところです。その点を割り引けば、出鱈目っていうわけじゃないんだし。ただ、これが「女狐」だから通してるんでありまして............................. オーケストラは新日フィル。指揮は広上淳一。まぁ、相変わらずのプレゼンスの強い新日フィル、日生劇場のサイズ並みにプレゼンスが強かったですが、その割に若干緩かったのかな? 演出は高島勲。概ねよく整理された、シンプルだけどまぁ不足は無い舞台でした。 ただ、これは演奏、演出ともになんですが、最後の場面はちょっと分かり辛いのではないかな。ヤナーチェクの意図は、自然界の生命力、個々の生命体ははかないものでもあるけれど、次の世代へ、その次の世代へと紡がれていく、そうしたことの表現であった筈だと思うのです。音楽も、その前の場での人間のやり切れなさとの対比で、生き生きとした、でも全体を包み込むようなものとして作られていたと思うのです。が、演奏、演出共に、そこまでのものは感じられなかった。特に、こういう音楽表現をもっとも得手としていそうな新日フィルだったのに...... 演出も、確かに全ての生き物を登場させて、ということはやっていたのだけれど、背景といい、まるで儀式に借り出されてきた生き物達の様。人間も含まれていたので、恐らくは象徴的なシーンとして描いたのでしょうが、それは少し違うし、たとえそうするのだとしても、これではまるで標本のよう。それが、結果として、「お前はいつぞやのかえるだろう?」と声を掛ける森番に、「それは僕じゃないよ、おじいさんだよ。僕はその話をおじいさんから聞いたよ」というエピソードが、ただのエピソードに終わってしまう。かえるのケロケロ言ってるユーモラスな日本語詞と相俟って、笑いこそ引き起こしていたものの、いやそれだからこそ、十分に観客に伝わらなかったのではないかなという気がします。
2006年11月26日
コメント(0)
東京オペラシティ・コンサートホール 19:00~ 3階右手 ピアノ:ジュリアス・ドレイク もう1週間前の話ですが、今週末まで公演して回ってますしね。 平日ですから行けたのが不思議という話。 当初は前半がブリテンの「冬の言葉」、後半が「冬の旅」の前半12曲、という予定でアナウンスされてましたが、当日は前後半の曲目が入れ替えられておりました。お約束で遅れて行ったので、実際にホールで聞けたのは「冬の旅」の9曲目、鬼火から。 これが今回初の公演ですが、まだ身体が慣れていないのか、そう悪くは無いけれど少々ぎこちない感じ。幕間に会った知人は、ドイツ語の発音が「ドイツ語に聞こえない」と評しておりました。私はそれほどドイツ語がよく分かるわけではないのでなんともですが。 自分としては、発声の方が少々気になったか。元々、見た目ほどにすっと声が出てくる人ではありませんで、ちょっとしんどそうな感じのある発声なのですが、この日のシューベルトはそれが少し感じられました。表現は見事なんですけどね。 後半はブリテン。こちらの方が確かに自然だったかな。独特の、現代とも20世紀ともロマン派とも言い難い歌ですが、水を得た魚のような歌唱。彼自身、英語詩の歌曲をよく歌っていますが、いろんな意味で合っているのかも知れませんね。 アンコールに3曲、シューベルトの「月に寄す」「野ばら」「夕べに」の3曲を歌ったのですが、面白いと言うか何と言うか、1曲目と3曲目がシューベルトに聞こえないんですね。まるでブリテンか誰かの歌のように。つまり、確かに、ドイツ語らしくないんです。まぁ、「野ばら」はねぇ、流石に間違えようも無いんだけど......... やはり、言葉の壁というのはあるのかも知れません。確かにいい歌手ではあるけれど、必ずしも万全ではなかったからかも知れませんが、そういうものはこのくらいの人にして尚、やはりあるのかな。
2006年11月21日
コメント(0)
NHKホール 18:00~ 3階最後方 楽天のblogってのはメンテ時間中にアップされたデータは完全消去するのね。アフィリなんて下らない機能持たせてる分、そういうのはどうでもいいんだろな。どっかに移動するかな。 二度同じこと書くのも馬鹿馬鹿しいので手短に。 ネッロ・サンティの指揮はお見事。 N響ってのはどうして指揮者によって音をころころ変えるのか。要は自分達の固有の音が無いって事で、演奏は良かったけれど、やはり情けない話。こういうオケで音楽監督をやる人は大変だと思う。それを考えずに音楽監督の悪口ばっかり言うのも如何なものか。まぁ、他の国内オケよりいいのは確かなんだが。 ソプラノのアドリアーナ・マルフィージは及第点。だだっ広いNHKホールでちゃんと届くだけで立派。コシのフィオルデリージのアリアは厳しかったが、フィガロの伯爵夫人3幕のアリアとドン・ジョバンニのエルヴィーラの2幕のアリアは立派。特に伯爵夫人か。アンコールに「恋とはどんなものかしら」。メゾソプラノの軽い小唄のようなアリアを持ってくるあたり、まぁこのへんが一杯一杯なのかも。とはいえNHKホールなので、無理は言えません。 N響は、前半のモーツァルトは、序曲の演奏も含めていい演奏。サンティのややテンポ遅めの演奏は、コンサートということを考えると納得。いいアプローチ。 後半のチャイコフスキー5番は、演奏はよかったと思うが、正直、面白くなかった。多分曲が。そうでなければ、NHKホールの3階で聞くのが多分間違い。音楽の奔流を作って、そこに無理繰り巻き込んでしまうのがこの曲の正しいアプローチやも。
2006年11月18日
コメント(0)
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンのメールマガジンで、東京国際フォーラムでの年末のイベント情報が入ってきました。 曰く、「のだめ」の世界観(なんじゃそりゃ....変態の世界観?(爆))を満喫出来る展示(^^;、2007年のラ・フォル・ジュルネへの出場権を争うコンテスト「のだめカンタービレ杯」(何のどんな出場権なんだろ........アマチュア演奏ならいいけど........)、年越しカウントダウンコンサート(ゲストに山下洋輔!!)、と、なかなか盛り沢山であります。 でも、まだ細かい情報が入って来ないんですよね。近日発表だとか。って、もう11月も半ば過ぎだというのに、暢気な(笑)
2006年11月17日
コメント(0)
NHKホール 15:00~ 3階最後方 ヴァイオリン:庄司紗矢香 指揮:サー・ロジャー・ノリントン うーわんわん。 というわけで、負け犬の遠吠えはこのへんにして、コンサートの話をしましょう。 懲りもせずノリントン卿なのです(笑) 全般に、先週のモーツァルト・エルガー・プロに較べて、ホールに見合った演奏が聞けた様に思います。考えてみればノリントン卿はN響もNHKホールも今回が初めて。前回のプロは、ほぼ同じ構成のプログラムをサントリーホールでやってるんですね。そして初めてのNHKホール、ということで、上手くバランスを取れなかったのではなかったかな?そんな風に思います。 言い換えると、今回は過不足無いなかなかいい演奏になっていました。 前半はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、後半がヴォーン=ウィリアムズの交響曲第5番というプログラム。どちらかと言うと、後者のヴォーン=ウィリアムズの方が興味深かったですね。 ベートーヴェンの演奏もそう悪くは無かったのだけど、もう一つ中途半端。クラシカルな演奏というのとは違うし、さりとてロマンティックかと言われると、それにしては控え目、というより歌が足りない。中道路線こそ王道、という話もあるので、一概にはどうとも言えませんが。 独奏は堂々たるもの。カデンツァも悪くなかった。 いい演奏ではありました。ただ、もう一つ、何かガツンと来るものというか、スパイスというか、毒というか.......... アンコールで、バッハの無伴奏ソナタ(だったかな?)の第1番第1楽章を弾きましたが、これ、良かったなぁ。バッハの「毒」がほどよく出ていて。そういう感じの何かがあってもよかったかな、と。 ノリントン卿の音楽、という感じだったのは、後半のヴォーン=ウィリアムズ。まず、あの広いNHKホールで、1stヴァイオリンはせいぜい16本。コントラバスがやっと8本。20世紀のオーケストラ音楽には決して大きい編成ではないのですが、これが何故か素晴らしい。よく響くのです。 これだけ広いNHKホールですが、実は、上手くはまればむしろ素性のいい響き方をする、というのはあります。ただ大きすぎるだけ。この演奏では(その点はベートーヴェンでも同様だったのだけど)、その「大きすぎ」という点をあまり感じさせないいい響き。決して無理して鳴らしているわけではないのに、「ああ、ロマン派ってこういう感じの鳴り方だねェ」とばかりに楽しませてくれました。 「ロマン派」? そう、この第5交響曲に関する限り、ヴォーン=ウィリアムズはロマン派であります。前半のベートーヴェンとの間に殆ど時代の差を感じさせない。そんな響きをたっぷりと感じさせてくれる演奏でありました。 ノリントン卿は好んで「ノン・ヴィヴラート奏法」を採用する指揮者ですが、この演奏会では、確かに、ヴォーン=ウィリアムズについては、この奏法が奏功していた感はあります。ところが、思うに、ベートーヴェンでは、独奏とのバランス上、却って弦セクションの存在感が控え目に出てしまったきらいはあったのではないかな、と。他にも解決策はあるんですけど、ある種のあざとさを弦セクションに醸し出させるには......ではないかな。と。 まぁ、全体としては、演奏会としては面白いと思いますよ。特に、NHKホールとN響をこれほど上手く使いこなす演奏になるとは思わなかった。 実は前夜、同じプログラムの中継の後半を少しだけ聞いたのですが、ラジオという制約はあるにせよ、随分気持ちの湧き立たない、色気も無い、そそらないヴォーン=ウィリアムズだなぁ、と思ったのですが、いやいや実演は全然違うのか、それとも2日目となってよりこなれたのか?その印象とはかなり違う、Livelyな、つまりは快活な演奏でありました。 ノリントン卿。面白いですねぇ。
2006年11月15日
コメント(0)
というのを、訊かれました。 えーとね。アマチュアである限りに於いては、別になんだっていいんですよ。 問題は、プロフェッショナルの顔をしているのにアマチュアであったり、アマチュアである筈なのにプロフェッショナルとの区別がつかなくなってたりすることなんです。後者は、まぁやってる方はアマチュアのつもりだからいいんでしょうけど、でも、結局そういうだらしない曖昧さというのが一番いけないと思うわけです。これは(言われたんだけどさ)「いい音楽にプロもアマも無い」なんていうのとはちょっと違うんですよ。 端的に言うとですね、日本の音楽関係者の中には、音楽というのは「文化」であり「何某かの価値があるもの」であるとア・プリオリに思い込んでいる人が少なからず居るわけです。というか信じているというか。これ、口ではそんな風に言ってない人でも潜在的にそう思ってる人は居ます。 彼等は、だから、自分達のやってる音楽が「文化」であるし、社会的に何某かの価値を持っていると思っている。問題は、それ故にそれは支えられるべきである、と思ってるんですね。維持するのが大変であればそれを支援するのが社会の側の責務である、と。まぁそこまではいかないだろうけど、例えば興行を打って赤字だったりするのは、本来あるべき姿ではないと考え、自分達が手弁当でやらなきゃいけないのは不幸だと思っている。 だけど、世界中の誰一人として、「あなた」に音楽をやってくれ、と頼んだ覚えはない。それは彼らが勝手にやっていることなんです。そして、自分達がやってることが「文化」であり、社会にとって本来必要なものである、と思っているけれど、それは大きな間違い。実は、オペラだってオーケストラだって別に固有名詞としての「あなた」は必要としていないし、それが「文化」であるかどうかも怪しい。 何故なら、文化というのは、本来特定の社会に根ざしたものでなければならないのだけれど、クラシック音楽というのは、固有名詞としての「わたし」の表現手段ではあり得ても、日本の社会にとって不可欠な表現手段足り得てはいないからです。クラシック音楽聞いて感動した、という人は沢山居ます。でも、それは、あくまで消費対象としてに過ぎない。そこから、支える主体である日本社会にとって何か新しい創作があるか、というと、実は無い。 だから、やることそれ自体に意義なんか無いのです。消費対象として、消費する側が受け入れて初めてそこには「他者に対する」意義が出てくる。いや、そのこと自体は本当は結構立派なことなんですよ。 ただ、ここでプロフェッショナルとアマチュアの差が出てくるのですが、つまり、アマチュアというのはここで「他者に対する」という定義がなくなってしまうわけです。自分達にとって意義深ければそれでいい、と考える。 ぶっちゃけた話、これはつまり近所の公民館でやってる「○○ピアノ教室発表会」と本質的になんにも変わらないわけです。 実際、日本の音楽関係者の多くは、あの「○○ピアノ教室」の延長線上でやってるんですよね。日本でトップクラスのステージに出るような人達は、大抵、「先生」を何らかの形でやっていて、お弟子さんが付く。本番の舞台よりも先生業の方が実入りがいいし、そういう関係の方が大事。自分達が出る公演も、普通には完売しないので、そういうお弟子さんに買わせたりする。かくして、「他人に見せる」前にまず「身内に見せる」、成果発表会に成り下がるわけです。どんなに高度であっても。この辺のプロフェッショナルとしての意識がいい加減でだらしないから、おかしなことになる。 先生としてプロであっても、演奏家としてはプロとしての意識が希薄。まぁこのへんは言わせれば鶏が先か卵が先かになるんですが、彼等は多分プロとしての意識を持ち過ぎると「そもそもその程度のチケット代しか一般からは取れないのがあなた達への一般社会の評価ではないですか?」という問い掛けと対決せざるを得なくなるから、目を背けざるを得ないのではないかな。 と、そこまで言うのは過酷なんだけど、少なくとも「発表会」では、所詮やる側の「文化」、やる側の「意義」しかないわけです。それを支えるバックボーンとしての音楽教育産業というのがあるからそれで成立しているわけですが、それに付き合わされるのはかなわないでしょ? 「○○ピアノ教室発表会」なぞに誰が好き好んで行くものか。まかり間違って入ってしまったら、こりゃ失礼しましたとそそくさと出てくるのが筋。ましてや、「あの○番目の花子ちゃんの演奏はパッションが足りない」なんて言うわけないでしょ?こっちだって。 てなことは前から分かっていたけど、ああ、ここまで病理進行か、と思うわけです。
2006年11月14日
コメント(0)
誠に残念ですが、これを以って以後二期会についてはこのblogでは言及しないことにしました。理由は、私の主義として、プロフェッショナルと認められるもの以外は扱わないことにしているから。アマチュアの公演は、書いてもしょうがないし、書かれることを求めてもいないだろうから。 つまり、二期会はアマチュアである、ということです。 そうは言っても、私は、例えばぴあなどのプレイガイドで売られるもの、明らかに不特定多数に向けた公開の演奏会として宣伝されるものは、プロフェッショナルのものである、と擬制して聞きに行っています。だから、そこで「よくまぁこんな酷い演奏を」と思っても、それはその通りに書くし、その代わり決してアマチュア扱いしようとは思いません。 では、プロフェッショナルとアマチュアとの違いは何か? これは、音楽のことに限りませんが、平たく言えば「対価を払わせることを前提としてものを考えていること」の有無がその違いになります。 正直、一般のサラリーマンなんかは、そんなにシビアな考え方はしていないかも知れませんね。でも、ある仕事がアサインされれば、それに対し誠実に対応し、嘘をつかない、これが最低限プロフェッショナルとしてあるべき姿です。如何に評価されようが、つまりはその仕事の出来を批判されても、それはあくまでプロフェッショナルである限りに於いてのことであるわけです。これは報酬の多寡の問題ではありません。いわば職業人としての倫理であるわけです。 仕事に対して誠実であること、嘘をつかないこと、というのは、それが、客商売であれば、お客に対してそうであれ、ということであります。 ラーメン屋なら、化学調味料を使わないと言ったなら、使ってはいけないのです。ネットでラーメンランキングなんかを募っているなら、組織票を依頼して投票してはいけない。知り合いに食べに来させて、「これは旨い!」などと騒がせてはいけない。それは、嘘を吐くのと同じ事だから。そういうことに対し、如何なる言い訳も認められないのが、プロフェッショナルというものです。もし、プロフェッショナルとして対価が十分に得られなくても、持ち出しであったとしても、その点は厳しくなくてはいけない。そこでだらしなくなってしまえば、もうプロフェッショナルとはいえない。 平たく言えば、そういうことをしているわけですよ。二期会は。弟子に来させて、だみ声でブラボーを叫ばせて、「××先生~」みたいな事をしている。身内に来させてはいけない。それが酷だとしても、そうしたことを言わないように釘を刺すべきである。何故なら、公開の舞台というのはお客との真剣勝負の場であるから。ただの贔屓筋ならまだしも、弟子にそんなことをさせるのは倫理がないということです。 おかしいじゃないか、と偉い人に言ってみました。彼等は、それでいいと思っているそうです。 であるならば、二期会は、所詮は巨大なアマチュア集団に過ぎません。よって、以後、ここでは二期会の公演に関しては、歌手については言及の外とします。彼らが彼らの為に公演をするのであれば、それをプロフェッショナル扱いするのは失礼と言うものでしょう。 オーケストラと指揮者と演出家は、プロフェッショナルの仕事をしていました。以上。
2006年11月12日
コメント(0)
NHKホール 16:00~ 3階左手 チェロ:石坂団十郎 NHK交響楽団 指揮:サー・ロジャー・ノリントン 私はピリオド演奏には少なからず斜に構えて見ているところがありますが、それはそれとして聞く機会があるなら聞いてみようと思うので、折角の日曜日の公演だし、安いところを抑えておきました。 プログラムは、モーツァルトの「後宮からの逃走」序曲、エルガーのチェロ協奏曲、休憩を挟んでノリントンによる古楽奏法についてのレクチャーを置いてからモーツァルトの交響曲39番、という構成。 エルガーは、うーん、何故このプログラムに入ってくるのかよく分からない(苦笑)有料プログラムは買ってないので、そちらには何か意図が書いてあったのかも知れませんが...... この曲、第1楽章最初の方で、有名といってもいい煽情的ともいえるドラマチックなフレーズがあるのですが、その印象で行くと竜頭蛇尾という感じの、なんというか、えー、あー、ブリティッシュなダメダメ感が溢れてていいやねぇ(笑)という曲です。で、思うに、この曲をコンサートでやって成功するには、いい独奏者は勿論なんだけど、この第1楽章での煽り立て - 特に弦!! - が肝心かなと思うのですね。後でダレない為には、ここでしっかりお客を世界に引き込んでおくのがいいかな、と思うのですが......弦が弱い~ 弱いというより、お下品さがもうひとつだなぁ。これがノリントン卿のやり方だったのかしら?独奏の石坂団十郎はお見事でした。アンコールでの近代曲(レスピーギか誰かだったかな?)もお見事でした。 後宮からの逃走は、序曲最後の方で、通常の行き方とは違い、調を変えて低い音域で終わりました。これが研究の成果?ふむ。 後半はレクチャーを挟んでの交響曲。このレクチャー、思いの外ベーシックな内容で、まぁそれはそれでいいんですが、なるほど、確かに考え方は一応分かりました。その上での交響曲の演奏も確かに面白い。踊り出したくなるような音楽としてのモーツァルト。これはノリントン卿の主張通り。 恐らくは相当事前にリハーサルで入念に仕込みをした上での演奏だと思いますが、全体の統一感があり、やりたい事が手に取るように分かるような演奏です。それ自体は、現代楽器の現代オーケストラで、3千人入るホールに見合うような演奏でありながら、事前に言ったような躍動感が感じられる。第3楽章と第4楽章の対比は見事です。メヌエット楽章の第3楽章・アレグレットをより速く、ダンサブルに演奏しきっておいて、最終楽章はアレグロながらかなり悠然とした調子で、纏め上げるように。なるほど緩急の差が見事。これがノリントン卿の「39番」ということなのでしょう。 でも、素直に「そうか、そうなんだ~」とはやっぱり思えないのですね。悪くは無いんだけど。 私は「人間は理由の無いことはしない」と思ってます。少なくとも、感覚なり、知なりに働く行動に於いては、何の認識も伴わずに何か活動を行うことはあり得ないだろう、と考えてます。 ノリントン卿は「現代オーケストラの弦部はビブラートの掛かった "ワワワワワワ~"みたいな音を出す。でも、それは、20世紀以降の習慣で、以前はビブラートの掛からない"pure"な音を出していた。」と言います。それはその通りなのでしょう。でも、私が聞きたいのは、「何故ビブラートを掛けたのか」であり、「何故それが支持されたのか」であり、「何故あなたはビブラートを掛けないという選択をするのか」であり、「何故あなたはビブラートを掛けない音を"pure"と呼び、掛けた音を明らかに揶揄し、つまりはそのような価値選択を行ったのか?」ということなのです。 (本当はそれを無批判に諸手を挙げて受け入れてしまう - 音楽を受け入れるついでにその主張を無条件で"だって音楽がいいんだもん"という思考プロセスゼロの理由で!! - 聴衆の方が遥かに気色悪く感じているのですがね。) 音楽はね、面白いですよ。でも、それは単に「ああ、これも面白いね」という以上の意味ではありません。言えば、まぁそういうことになる。 私はやはり「何故そうなの?」ということを問わずにはいられないので、これからもこういう主張に接すれば、どうしてもこんな風に考えて行くんでしょうけどね。言い換えれば、面白いけれど、無条件に「まぁ細かいことはともかくこれは面白い!素晴らしい!」とまではいかなかった、ということでしょうか。 何故そうなのか。それは結局私の趣味なり何なりが関係するのだろうけど............. 敢えて言えば、確かにダンサブルな、魅力ある演奏ではあったけれど、やはりそういう曲ではない、と思うのでしょうね。エルガーで「あの旋律をこそ頑張って欲しいのに!」と思ったように。 モーツァルトに限らず、エルガーのそれも「素晴らしい!」と思って帰った人は居たと思います。でも、私は、パーツ毎に取り出してみれば光る面もあったかも知れないけど、あのエルガーでは、やはり全体としてはノリ切れないな、と思う。同じように、あのモーツァルトも、悪くは無いけど、でも、もっと歌って欲しい、とか、そんな風に感じるのですね。何もピリオドアプローチが歌わない、と全体論で言っているわけではありません。でも、今回の演奏が、歌うよりも踊ることを主眼に置いたとすれば、やはり私はもっと歌って欲しいと思うし、その意味では面白いとはいえそんなとこまで犠牲にしちゃいけないんじゃないのかな、そう思った、というところでしょうか。
2006年11月07日
コメント(0)
のだめカンタービレ、実はもう2年位前から、いやそれ以前から?タワーレコードあたりではクラシックの書籍コーナーには置かれてました。なんじゃこれは?てな感じでしたが、その頃から読んでる人は読んでたんでしょう。女性誌掲載だから、私なんてずっとチェックが遅い筈で。 ドラマは10月からですが、7月くらいにはもう「ドラマ化」なんて話は流れてたし、認知度は前から高かったと思うわけです。 流行り物は確かに流行り物なんですよ。でも、そもそもこのクラシック音楽業界というやつほど言ってる事と裏腹に流行り物が好きな業界も無い。深遠にして久遠の芸術みたいな顔をしておいて、たかだか25年で「至高の巨匠」(K.B.ね)を、聞く者も聞かぬ者も寄って集って「最近からすれば時代遅れ」にしてしまうのがこの世界。孤高にして至上の芸術主義者も没後15年もすれば one of them。本人はコカコーラと録音を毛嫌いしてる筈だったのに崇拝者は争って非正規録音に殺到し、挙句の果てに遺族が了承したとのお墨付きで「エディション」発売。末期にはご当人と同じくらいの大きさで某夭折のチェリストの名前がクレジットされる始末。挙句に安売り箱の準常連。古楽器ブームだって同じ。流行だから支持されてるけど、1970年代のERATOの古楽シリーズを同時代で狂喜乱舞した人はどれだけいたか。「空想の音楽会」シリーズは10年ほど前に復刻されたけど、それに付いて行ったファンはどれだけ居たか。いないんですよ、あまり。今の up to dateな古楽じゃないから。 別に私はこの演奏家達を悪く言うつもりは毛頭無くて、それにまつわる「ファン」なるものは皮肉るつもりはあるけれど、その行動自体を全否定するつもりもそれほどなくて。ただ、所詮クラシック音楽だって流行の産物である、と言ってるだけなんですけどね。今だって足許「モーツァルトイヤー」なんつって受けに回りまくってるじゃないですか。 そしたらさ。のだめカンタービレにだって乗っかりまくって商売して何がいけない?何故やらない。腰が重すぎます。 いや、確かにお前それ聞きたいか?なんて言われたら引きますよ。確かに。でも、それでクラシック音楽に興味を持ち始めてる人がいる。聞いてくれそうな人がいる。そしたら、そういう人を上手く片足の爪先だけでも引っ張り込むにはどうすりゃいいか、考えたらどうなんでしょう?ドラマはどうせ1クールで終わっちゃうんでしょうけど、ほっとく手は無いじゃない。そしたら、ここは一つ一発勝負で何でもいいから客を寄せてみちゃどうですか? ラ・フォル・ジュルネあたりだって、上手いこと便乗しちゃえばいいんですよ。例のR☆Sオーケストラだっけ?まぁドラマで出てくるオケ、出しちゃえばいいんですよ、特別参加でも。ドヴォルザーク、今回のストライクゾーンなんだし。 流行って大事なんですよ。ユーミンだって小田和正だって、バブルの頃ぶいぶい言わせて、それがあるから今だってお客が付くんです。音楽は、聞いて貰わなきゃ存在しないのと同義なんです。まず聞いてもらうこと。聞いてくれる人を増やすこと。迎合する必要は無いんです。読めば分かるけど、あの漫画だってちっとも迎合はしてないでしょ?(その割に音楽が聞こえてこない漫画ではあるけど......) あの漫画を読んだ人なら聞いてみようかと思ってくれそうな演目にすりゃいいんです。ブラームスの第1番なんですよ、タイアップCDが。「親しみやすい音楽を」なんてもんじゃない。ブラームスの第1番とドヴォルザークの第8番なんて演目でも、入るかも知れないっていう話ですよ。この演目で妥協と言うなら呼べば呼べ。それに見合うだけの演奏してからね。それでお客が入るかも知れない状況をこそ考えましょう。
2006年11月05日
コメント(0)
日生劇場 17:00~ 2階最後方 行ける予定じゃなかったのですが、いろんな予定の都合の結果、行ってきました。実はもう一回行く予定なんですよね。でも、遅刻したので例によって最初は1階で.... やはりまずは宮本亜門の演出から、でしょうか。 まず、なんだかんだ言っても、やはりこの人演出家としてエンターテイナーなんだなぁ、と思わされるのは、演出が「分かりやすい」ということ。 まず、ドン・ジョヴァンニのような刺激的な読み替えはありません。この点は少々残念。オーソドックス路線で、幕切れでの「予想外」の展開も無く、オリジナル通りに関係は蓋締めされておしまい。これは、そもそも「予想外の読み替え」を必要としない、と演出家が考えたのだと見ていいでしょう。 話の展開もオリジナル通り。オペラの演出としては動かしすぎ、という御意見はあるかも知れません。確かにこれだけ動かされると雑音は入るし、歌手も大変。この「動かし過ぎ」は、確かにありますね。 でも、コシ・ファン・トゥッテのようなオペラなら、これくらいの動きはあってもおかしくないし、よく見ると凄く動かしているように見えても、皆が満遍無く動いているので、それだけの意味があるなら許容すべきかなと。 その上で、宮本亜門の演出は「分かりやすい」のです。親切、と言ってもいいかも知れない。 まず、登場人物各人の動きが大変はっきりしている。オーバーアクションと言ってもいいくらいなのですが、これはオペラという、劇形式の舞台の中でも一際言語的情報がはっきり伝わらないメディアにあっては、スマートに処理される限りに於いては、かなり有効です。 その上、それぞれにこめられているメッセージというか意味合いが分かりやすい。例えば第1幕、フィオルデリージとドラベッラ姉妹が、彼女らの恋人達が戦地に赴かねばならないと聞かされ、悲嘆に暮れている所に、当の恋人達がやってくる。彼らは抱擁を恋人達と交わそうとするのだけれど、オーバーアクションで悲嘆に暮れる姉妹は、駆け寄る二人と全速力(笑)ですれ違ってあっちの壁に向かって泣き崩れる。歌う想い、語る心は同じなのに、すれ違う恋人達。視覚的に、端的に、この恋人達の関係を描いてみせる。歌いながらこんなに走らせるのは、という意見はあるでしょう。が、こういう表現をする為のことであれば、それはトータルではプラスに働いているのではないかな。むしろ、日頃二期会が大口を叩いている以上、しかも日生劇場のような狭い舞台なれば、出来て当然でしょう。 この場面は、幕切れの恋人達の自然に寄り添う(ように見えたぞ少なくとも)姿とのコントラストを自然に感じさせます。まさにこのオペラが「恋人達の学校」であることを思い起こさせます。 その他はまぁ色々ありますが、あまり書き出しても仕方ないし、割愛。ただ、上記の1例を取ってみても、宮本亜門の演出が才気に溢れながらもよく練られたものであることは分かると思います。 あと、日生劇場という小さい劇場故でもあるけれど、例によって「舞台外」の使い方が上手い。舞台外を使うのは、本当に博打なのです。それは、舞台と客席との関係それ自体に影響されていくので、下手に使うと舞台上の世界が壊れてしまったりするのですが、非常にスマートに思い切りよく使っている。 宮本亜門のアイディアとしては、劇の途中で「第○章 ○○とはこうしたもの」というような章立てがスクリーンに映し出されます。これが、結構自然に見えるのですね。 舞台は、そう大きくない日生劇場で、舞台中の舞台のようなものを作り、その狭い空間の中で物語が展開されて行く。その周りに、ドン・アルフォンソとその手下?がいて、狂言回しをしたり、或いは登場人物達が折りに触れてある時は傍観者としてそこにいたり、ある時は「舞台」からはみ出してきたりする。こう書くと、何やらごちゃごちゃしてそうですが、それがそうでもないから面白い。 まぁ、結論は、とにかく見て御覧なさい、ってとこでしょうか。 パスカル・ヴェロ指揮の東フィル。かなり絞り込んだ編成で、コントラバスで3本?2本?あまりよく見えなかったのですがせいぜいそれくらいか。それに、フォルテピアノ。小さめの日生劇場では十分な大きさで、そこにこれだけのオケで、必要以上に音量を上げず、でも決して不足することも無い。弦のコントロールが大変お見事でした。音色、フレージング、アーティキュレーション...........歯切れのいい演奏ですね。鮮度が高い、とでもいうのかな?気分良く聞けますよ~ この辺は、次回のもうちょっと練れてきたところでもう一回聞くので、更に楽しみです。 歌手陣は、まぁまぁ。でも、この劇場だからいいけど一体どうすんの?と言いたくなる人もあり.... 良かった、と取り敢えず言っていいのは、フィオルデリージの林正子でしょうか。これは確かにこの劇場でのこの役としては、過不足無い歌い方でした。あえて言えば、男声陣、特に若い役二人は、ちょっと力不足?日生劇場クラスだったら、最後までミス無く安定感を持たせて通せないと。 ま、行って損は無いと思います。 #今朝読み返したら、宮「本」が「元」になってやんの.....修正しました
2006年11月04日
コメント(0)
かつしかシンフォニーヒルズ 19:00~ 1階席後ろの方 忙しいのに、たまたま城東地区に行ったら、あれやこれやでぽっかり時間が空いたので、急遽参戦。例によって前半は殆ど聞けませんでした。まぁ、行けるだけ有難い。 イェルク・デームスは、この間もリサイタルに行ってきました。これも遅れていったけど、この時はno Mozartなプログラム。本日は打って変わって、オール・モーツァルト・プログラム。デームス氏所有のルイ・ドゥルケン製フォルテピアノ、ホール備えのベーゼンドルファー、スタインウェイを弾き較べて、モーツァルトのピアノ曲を紹介しましょうというもの。デームス氏のMCというかレクチャーがちょっと入ります。 結論は、遅れて行ったのであまり聞けなかったドゥルケンの演奏がもっと聞きたかった、というもの。「スタインウェイはフルオーケストラを表現する為の楽器」というコメントは、確かに時々似たようなコメントは目にするけれど、実際の演奏を含めて聞かされると説得力があります。 ベーゼンドルファーも今更ながらやはりいい。 デームスの演奏は、前回同様、確かに危なっかしいようなテンポ設定もあるけれど、総体的にはやはりいいですね。モーツァルトでは、より端正な構成の音楽なのもあって、時々そのテンポの揺れのようなものが気になりましたが、全体的にはOK。むしろ、楽章単位で見ると、よほどパッセージの早い楽章をバリバリと弾きこなしつつ、というところなので、そうしたテンポの揺れ自体が計算された表現の結果なのかも知れません。 だとすると、あんまり好みではないんだけど.................. まぁでも、全体にとてもしっくりくる演奏だったので、よしとしましょう。 ちなみに、このホール、多分千人足らずの収容人員のホールに、数えたらやっと100人いるかどうかの入り。幾らなんでももうちょっと.....(苦笑)
2006年11月03日
コメント(0)
先々週の週末から、東京のオペラの森のオペラ公演のチケットが発売になりました。運良く休日の公演を、まぁなんとか..... この音楽祭も、始まった当初は随分いろんなことを言われてたりしました。何せ、急に立ち上げるや東京文化会館を抑えて、小澤征爾を冠に、都知事も支援を表明するわ、一方都響の支援縮小を打ち出した直後だけに、いろんな批判が相次いでいて、それは今でも変わらないようです。やれ小澤征爾の練習の為の音楽祭だ、とか、やれまともな歌手が呼べない、だとか、まぁいろいろ。 でもねぇ、今にして思えば、ら・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンだって、ボロクソだったんですよ、当初の下馬評は。国際フォーラムのホールAなんてクラシックをやるところじゃない(これは真っ当な評価ですが)、そんなところでやる音楽祭なんてまともであるわけない、長続きするもんかねぇ、てなもんでね。 でも、東京のオペラの森、正直高すぎるから、私はせいぜい毎年1公演くらいしか見てないですが、コストパフォーマンスいいとは思わないけど、同じ二時間を過ごすなら、どんなに安くても都響聞くよりよほど楽しいと思いますよ。別に都響を聞くなとは、まぁホントは声を大にしたいのをぐっとこらえといてやるとして、言わないけど(?)、たとえそれが小澤征爾の練習公演だとしても、それで十分楽しいなら、いいと思うんですけどね。つまらなければつまらないと言えばいい。それにしても、小澤の棒で、超一流とは言えない歌手陣に寄せ集めのオーケストラだとして、エレクトラだタンホイザーだと聞く機会があるのは、それ自体は決して悪いとは思わないですよ。コストパフォーマンスいいとは思わないにせよ。 生の音楽というのは、やってナンボ、聞きに行ってナンボです。だから、聞きに行かないとしょうがない部分もあるし、そこではお金だけでなく時間も投じているわけで、それだけに、お客が投じてる程度の緊張感を意識して演奏もやって欲しいし。 ハズれて「ふざけんな金返せー」と思うとしても、演奏者に最低限のプロとしての緊張感がある限り、許容せざるを得ないと思います。それがないようなオケとかはまさに金返せーですけどね。コンサート通いは博打だと思うので、場が立たなきゃどうしようもない。 そしてまた、そうした場というのは、結局聴衆が育てるものでもあります。外来のオペラハウスでS席6万5千円!とか言われると、それなら行っちゃった方がいいやぁ、と思う昨今の私でも、東京のオペラの森はつい買ってしまうのは、ぎりぎりのコスト許容範囲であるのもありますが、敢えてそれを支持してみてもいいんでないか?と思う気持ちが若干ながらもあるからであります。 どんな音楽祭だって、最初は歴史なんてないんだからね。
2006年11月01日
コメント(2)
全13件 (13件中 1-13件目)
1