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NHKホール 19:00〜 3階右手 シューベルト:交響曲第7(8)番ロ短調 D.759 「未完成」 交響曲第8(9)番ハ長調 D.944 「ザ・グレート」 NHK交響楽団 指揮:ヘルベルト・ブロムシュテット 10月のN響はブロムシュテット月間......なのですが、今年は定期演奏会A, B, Cの計6公演以外は振らないそうで。97歳だそうですよ。いやはや。ここ数年突然チケットの売れ行きが良くなって、数週間前には売り切れというのは、やはり年寄り=巨匠、聞かなきゃ、という意識のお客が多いのでしょうね。まぁ、人のことは言えないけれど、サヴァリッシュやホルスト・シュタインやネッロ・サンティに比べると....と思うのは..........サヴァリッシュが振ってた頃にギリギリ間に合った身としては、その頃はブロムシュテットには皆.......とか思ったりしなくはなくもなく。ま、重ね重ね人のことは言えない。 サントリーのBプロはともかく、いろいろあって先週のAプロは行けずじまい、今回はこれが唯一来られた公演。先週のブラームスの4番も気になったけれど、シューベルト・プロが聞けるのでまぁよしとします。 完売だそうで、確かに人が多い。満席です。やはり中年ダンシ率高し。くどいようだが人のこた言えない。 前半は未完成。どうでもいいんですけどね、あの、シューベルトの交響曲の番号振り直すの、しゃらくさいからやめやがれ、と思うのは、まぁ、私だけなんでしょうね。 だってさぁ、あの番号、シューベルトが付けた訳じゃないんだからさ。勝手に後付けしてるだけですよ。そりゃまぁ「これが正しいんです」って言うんだろうけど、なんだそれっていうね。だって、そのくせ、なんの根拠もない「未完成」だの「ザ・グレート」だのは残すんですからね。馬鹿にしてるだろ、くらいには思いますよね。そもそもドイッチュ番号があるんだから、ドイッチュ番号で統一すりゃいいじゃん。あの番号もいろいろあるけど、あれが一番スッキリしますよ。この番号くらい覚えとけ、みたいなね。 さて、毒吐きはこのくらいにして...... オケが入ってくるけれど、1stVnは誰も入って来ず。そして、ブロムシュテットがコンサートマスターの肩に掴まりながら、ゆっくりヨボヨボと登場。場内は万雷の拍手。そして、指揮台の横まで来て、客席に改めて向き直ると、更にその拍手が、もう物理的に膨張する。そういう大きくなり方。まぁ、気持ちはわかる。 未完成。D.759。まずもっていい具合に力の抜けた弦五部がとてもいい。力みがない。編成は14-12-10-8-6なので、まぁ、この曲をNHKホールでやるにしては程良いところかと思いますが、力不足ということもなく、無理に力を入れたりすることもなく。ちなみに対抗配置でしたが、まぁそれは多分どうでもいい。 全体的に、ちょっとアレな言い方ですが、とても普通の演奏です。ごく普通のアプローチ。奇を衒う事なく、妙に表現をいじったりもせず。言い換えれば王道。極めて王道的と言っていいのかも。 そうなんですよね。交響曲とかではあまり感じないし、最近は減ったけれど、シューベルトをやたらと「表情」を付けて、「表現」をしようとする演奏ってあるのですが、そもそもシューベルトは演奏家がガチャガチャ弄らずとも、きちんと演奏すればそれだけでちゃんと歌になり表現になっている。そういうところはあると思います。交響曲でもそうだったか、と改めて思う事しきり。 まぁ、私はいい加減に聞いてる人ですから、そう思うんでしょうけれど、本当に特筆すべきことはないんですよ、演奏としては。普通に、きちんとやってるだけ。ただ、その演奏が、まるで録音かのように整っていて、しかもここというところをきちんと押さえて、素晴らしい。普通にとても素晴らしい。わかる人に言わせればいろいろあるんでしょうけれど。 後半はD.944。 これも奇を衒う事なくいい演奏なのだけれど、まず感じたのは「若々しい」ということ。爽やかで、若々しい。音も、響きも、フレーズも、まず若々しいと感じる。 確かにこれはそういう曲なんです。若々しい音楽。だけれど、改めてこんな風に演奏するのを聞いたのは、初めてかも知れません。大抵はもっと重々しく、仰々しい感じが漂うのです。シューベルト晩年の曲、最後の交響曲、大交響曲、そんなイメージでアプローチしてしまうのかも知れない。けれども、ブロムシュテットの演奏は、あくまで若々しさに満ちたもの。でも、よく考えれば、これを書いていた頃のシューベルトはまだ20代の筈。そもそも亡くなったのは31歳ですからね。確かに死の影に怯えていたのかも知れないけれど、加えて後期の作品群、とりわけD.956から960に至る一連の作品はもうとんでもないもので、そんなものを書いた作曲家を深刻な深淵を感じさせる大巨匠扱いしたくなるのは分からなくもないけれど、でも、所詮若者なのですよね。D.944という番号に惑わされるけれど、実は若々しさに満ちた曲でもある。シューベルト自身はどう思っていたか分からないけれど、最終楽章などはベートーヴェンの7番を思い起こさせるようなリズム先行でドライブしていく楽曲。それを、椅子に座って、粛々と上半身だけで腕の振りも最小限ながら、見事にドライブしていく97歳の指揮者。それが斯くも溌剌とした演奏で結実するとは。 ブロムシュテットは、確かにシューベルト好きなんだと思います。前にもシューベルト・プロ、やりましたしね。あの時は5番と2番だったか、あれもいい演奏だったけれど、やっぱりシューベルト好きなんだろうなと。ブロムシュテットを俄かに巨匠扱いして....みたいなことを書きましたが、確かに、言えば巨匠なんでしょうけれど、でも、やっぱりこの人まずシューベルト好きなんだろうな、そういうのが先に来るんだろうな、と思うのです。勿論「シューベルトが好きな巨匠」でいいじゃないか、何がいけない、とか思う向きもあるのかも知れませんが、それならそれで私は「じゃ、"巨匠"抜きで"シューベルト好き"でいいんじゃないの?」とも思うのです。まぁ、いいんだけどね。
2024年10月26日
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まだ夏の演奏会で書いてないのがあるんですけどね.....流石にもう書かないかなー あと書いてないのは全部フェスタサマーミューザの公演。7/29に小曽根真、8/3オルガンでバッハ、8/4沼尻竜典指揮N響、と、こんなところなんですが、まぁ、もう書かないかな〜 小曽根さんは面白かったですよ。若手と一緒にやってて。オルガンでバッハ、は、まぁ、まんま読んだ通り。N響は、前半のブラームスのVn協が良かったかな。(Vn戸田弥生)ま、そんなところで。 で、本題です。 東フィルから定期演奏会の継続案内が届きました。東フィルは1月〜12月がシーズンなので、ちょっと遅いくらいです。 全8公演。チョン・ミュンフンが2回、バッティストーニが2回。あとは各一回で、尾高忠明、プレトニョフ、ズーカーマン、チョン・ミン。 ......プレトニョフは行かないな。ロシアで公職に就ていた事と、その後の対応を見ても、幾ら何言ってみてももう生理的に嫌かな。プレトニョフはショパンのピアノ協奏曲とチャイコフスキーの眠れる森の美女らしいけど、そのどちらもプレトニョフ編、とあります。こういうの見ると作品料欲しさだろ、とつい思ってしまいます。基本的に人間的に信用しないかな。 チョン・ミンも、いらないなぁ。拒絶はしないけど。 あとはまぁいいんですが、しかし、まず、今年は、歌物が皆無。それが楽しみだったのに....今年金使い過ぎたんですかね。チョン・ミュンフンのマクベスに、バッティストーニのカルミナ・ブラーナがありましたからね。でも、バッティストー二でオペラ聴きたい.... その代わりじゃないでしょうが、最近少なかった協奏曲が多い。バッティストーニだけ独奏者がいないんですが、他は全公演協奏曲がある。チョン・ミュンフンはシーズンの最初と最後に登壇しますが、最初の2月はベートーヴェンの三重協奏曲。ピアノは弾き振りだそうです。弾き振りはピンカス・ズーカーマンも。ズーカーマンは6月にハイドンのVn協奏曲をやるそうです。後半にはジュピターというプログラム。そしてシーズン最後、と言っても10月ですが、チョン・ミュンフンが再登壇してラプソディー・イン・ブルー。独奏は小曽根真。 メインのプロは、という言い方が合っているのかわかりませんが、列挙すると、ベートーヴェンの英雄、エルガーの交響曲、ジュピター、チャイコフスキーの悲愴、R.シュトラウスのアルプス交響曲、プロコフィエフのロメオとジュリエット、と、まぁ、こんな感じ。 うーん。 悪くないけど、王道過ぎと言えば王道過ぎるかな。いいと思うけど、ちょっと寂しい。というか歌物ひとつもないのはやっぱり寂しい。 まぁ、継続しますけどね。ただ、これは楽しみ!というのが、パッと見無いかなぁ。細かいところはあるんですけどね。バッティストーニのペトルーシュカにヒンデミット。ズーカーマン。尾高忠明のエルガーに舘野泉とのラヴェルの左手、あとは勿論小曽根真がチョン・ミュンフン相手に何処までやるかな、とか。楽しみだけどね.....
2024年10月20日
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新国立劇場 13:00〜 3階正面 前々日に続いて、2度目です。付き合いで、一昨日よりいい席で見てきました。うーん、ブルジョワジー(謎) いや、実際、3階席ってB席ですからね。前はよく抽選申し込んで買ってたりしたのですが、最近はC,D席ばっかりかなぁ。正直、これは是非B席で見たい!って公演があまり無いし....今シーズンも、見返せば、この夢遊病の女とウィリアム・テルくらいかなと。でも結局安いとこで済ましてますし。経済事情が無いとは言わないんですけどね。でも、それ以上に、そこまで突っ込むほどのことがないかなぁ...... それはともかく。 率直に言うと今回の方が良かったと思います。特に歌唱陣。よくなったというよりは、楽日だしリミッター外してきた感じでしょうか。まぁ、席も4階と3階、水平方向的にはほぼ差は無いので、3階と4階の違いはありますが、それほどじゃないと思いますし。 とはいえ、まぁ、ムスキオは、やっぱり、「グルベローヴァで聞いておきたかったなぁ...」と思わせる感じですかね。悪くはないですよ。今望める中ではいい方なんでしょう。でも、それはそれなのですよ。それに、そう言っちゃなんですが、前回も書いた通り二回りくらい小粒。一回り違うのはバイアス掛かってんでしょ、って言われても仕方ないかも知れないけれど、二回りだと、いや、あのね、って言いたくなるですよ。 昔藤原歌劇団で出していて...という話を書いたのだけれど、調べたら藤原では1991年と2012年に出してました。その前も1979年とか出したらしいですが。で、1991年のはアミーナがルチア・アリベルティ。懐かしい名前です。これは見てたかも知れないけれど、私が覚えてるのは2012年の方で、これは高橋薫子。そういえば今年もヤマザキパンのクリスマスケーキのCMで流れるのかしら。そろそろそういう季節ですかね。またエアコンは除湿モードなのに....いやそれはいいとして、高橋薫子、正直言えば、今回のムスキオよりはよりクセのない歌で、ドラマティックではなかったと思うけれども、でも、その時に「グルベローヴァじゃない」とは思わなかったですよ。贔屓目もありますけどね。でも、正直言って、こう見えて「誰それじゃない」って思うことはあまりないのです。その意味では高橋薫子はグルベローヴァには一回り以上及ばなかったかも知れないけれど、それに当時はグルベローヴァは存命中だったから、というのはあるにせよ、でも、高橋薫子として良かったと思うんですよね。今当時の記事を読み返してみても、やっぱりグルベローヴァのグの字も出てこない。ま、それが普通なんだけれども。 ムスキオは、しかし、まだ20代じゃないの?これからでしょう?という話を連れがしていて、まぁ、言われれば確かにそうかも知れないですかね。ただ、小粒なのは否めない。ここから一皮二皮剥けてなんぼでしょうか。 シラグーザも、今回の方が良かったかなと。まぁ、往年の抜けるような声ではなくなりましたが、2幕あたりはキメに来てました。これは良かったと思う。 合唱はやっぱり何歌ってるかよく分からなかったですね。 演出。 前回書いた通り、前回のバックステージツアーに参加して、いろいろ演出に関する話を聞いてしまったのですが、まぁ、これって表に明示していない内容なので、はて、書いていいのかどうか。ただ、この話通りだとすると、この演出の意図も問題点もわかりにくいと思うので。ちょっとズルなんですけどね。 このオペラの舞台は「スイスの小さな村」ということになっていて、書かれたのは1831年。ということは自然に考えれば同時期かそれ以前、ということになる時代でしょう。ところで、今回の演出では、「スイスの小さな村」とはややズレたイメージが展開されています。わかりやすいのは2幕1場。元は「森の中」という設定なのだけれど、この場面はエルヴィーノが働く製材所という態なのだそうです。で、この製材所にはボイラーがあって、ボイラーの横には同じくらい大きな製材用の機械がある。ボイラーはその動力源。ワット式の蒸気機関が出て来たのは1770年代なので、1830年頃にスイスで蒸気機関があるのはおかしくないと言えばおかしくないけれど... この演出の舞台は、確かに小さな村だけれど、工業化された村、というイメージなのだそうです。でも未だ小さい村らしく閉鎖的。イメージとしてはオリジナルの想定より少しあと、ということらしいです。何十年か後ですかね。既に製材所が稼働して随分経つのでしょう。なので、1幕の広場は切り株だらけ。もう木はきられていて、禿山状態。舞台に立つ一本の木は村のいわば象徴として残されているようなものらしい。 で、この、殺伐とした雰囲気の漂う閉鎖的な村で、アミーナは夢遊病を発症する。この演出は「そもそもなんでアミーナは夢遊病なのか?」を主眼に置いて考えられたそうです。そう考えるとアミーナにはアイデンティティの危機がある。元々孤児だったらしく、今の母親はあくまで養母である。なので出自がよく分からない。この状況で、アミーナは基本的には余所者として見られている、という設定らしいです。そこに、閉鎖的というか非社会的な村人に囲まれている。実はこの村人=合唱、何歌っているのか分からないのは別として、表情が薄い。これは演出家の指示で喜怒哀楽を出さないように、ということだったのだとか。 こういう環境下でアミーナは夢遊病を発症する。で、問題は周りがそれに対して基本無理解であって、それ故にアミーナには救いがない。エルヴィーノですら彼女を信じなかった、という状況下で、突然幕切れ前に意識を取り戻すと、皆が無表情に「おめでと〜」と言い、あんなに酷く罵っていたエルヴィーノが結婚しようという。ここには救いがない。この演出、最後の最後、ハッピーエンドでありながら、アミーナは会堂(教会、ではないのです。オリジナルの水車小屋とも違う。会堂。)の庇から飛び出すようなそぶりも見せて、幕。楽日はそこまではっきりではなかったですけれど。演出家の意図は「アミーナは自死する」という方向性で、但し結論ははっきりさせず見る者の解釈に委ねたような形らしいです。なんかその方向性が音楽とあまりにアンマッチなので、指揮者とも論議になったらしいですけれども。 なので、あの五月蝿いバレエ、アミーナにやたらと付きまとうアレは、いわばアミーナを苛む孤独とか不安とかいうような、彼女を夢遊病に追い立てるもの、なのでしょう。 私としては、着想はいいけれど、失敗してるなとは思います。まず結局解説されないと読み切れないという時点で、失敗でしょう。私は読み替えは読み替えでありだと思うし、なんで夢遊病なんだ?と、前提を問うことは間違ってないアプローチだとは思います。ただ、それ故にそれに従った結果読替えのようになってしまっているし、しかも、なんとなく方向性は分かるけれども、明確に意図が伝わるわけではない、という時点で、上手くいっていないと思います。 中途半端、なのでしょうね。そこまでやるともっと反発があるだろうけれど、なんならもっとアミーナを絶望させてもいいのではないのか。この解釈で行くと、アミーナの自死はこの閉鎖的な世界から自由になるための手段になってしまいますね。それはよくある話だけれど、むしろ表面的に受け入れられることによるアミーナの絶望をこそ描くべきじゃないかと思います。その方がより現代的なテーマとしてはリアルだと思う。自由への逃走としての死、なんて、今じゃ映画とかでいくらでも出て来ますよ。テルマ&ルイーズとか。着想はいいと思うんですけどね。「何故夢遊病なの?」というのは。 正直、個人的には、観てた時点での評価からは幾分上がってます。ただ、いかにも中途半端。 こういう演出の是非、というのは、つまりいわゆる「ゲンダイエンシュツ問題」というのはまたあるとは思いますけれどもね。それはまた別の機会に。
2024年10月17日
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新国立劇場 14:00〜 4階正面 ヴィンツェンツォ・ベッリーニ:夢遊病の女 ロドルフォ伯爵:妻屋秀和 テレーザ:谷口睦美 アミーナ:クラウディオ・ムスキオ エルヴィーノ:アントニーノ・シラグーザ リーザ:伊藤晴 アレッシオ:近藤圭 公証人:渡辺正親 新国立劇場合唱団 東京フィルハーモニー交響楽団 指揮:マウリツィオ・ベニーニ 演出:バルバラ・リュック 新国立劇場新シーズンの幕開けは夢遊病の女。初めてじゃないかな?ただ、日本での上演は、以前藤原歌劇団が出したことがあった筈。 実は最終日にもう一度見ます。なので、今回はあまり多くは書かずに後に譲ろうと思うのですが、一言で言うと、「グルベローヴァで一度観ておきたかったなぁ.....」というところ。いや、期せずしての本音なのです。 アミーナ役のムスキオは、シュトゥットガルトの座付だそうで。シュトゥットガルトね........現代演出で名を挙げはしたけれど、どうかしらね。私が行ったのはもう20年以上前ですが、演出の現代主義の奇抜さに比して歌手は........と言った感じでした。今はどうなんだろう。あまり抜きん出てるイメージはないのだけれど。 で、実際どうだったかというと、まぁ、確かに立派ではありますよ。一応歌えてる。でも、グルベローヴァならこうくるよね、というところが、まぁ、二回りくらい小粒。歌が伸びない。来ない。いや、普通にいいんだと思いますよ。でも、そうじゃないんだよなぁ..... エルヴィーノはシラグーザ。うーん。実は聞いてる間気づかなかったのですが、そうか、シラグーザだったのか......声自体は若々しいですが、知らずに聞くとちょっと力不足かなぁ、といった感じ。歌は確かに上手かったですけどね。 あとはまぁ。合唱は例によって何歌ってるかよくわからない感じ。オケは悪くないけれど.... 演出は、問題あり。今回の演出はテアトルレアル、リセウ劇場、パレルモ・マッシモ劇場との共同制作だそうですが、演出家のライナーノート以上にかなり問題のあるもの。実はこの日バックステージツアーに当選しまして、その際に演出の話をいろいろ聞いたのですが、プログラムに書いてある以上の意図があるようで。それは後で書こうと思いますが、かなり神経症的なものであることは確かなようです。まぁ、確かに、夢遊病の話なんだから、おかしくないと言えばおかしくないのだけれども.......ただ、個人的には、だからってこの演出なの?というのはあります。一つ言えば、バレエが五月蝿い、というのはなんともしても言っておきたいことではあります。 あとはまた改めてゆっくりかな。
2024年10月14日
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かつしかシンフォニーヒルズ 14:00〜 1階右方 モーツァルト:交響曲第32番ト長調 K.318 ピアノ協奏曲第27番変ロ長調 K.595 <独奏アンコール> シューベルト:即興曲 D.899-3 J.ハイドン:交響曲第101番ニ長調 「時計」 <アンコール> モーツァルト:セレナード第7番ニ長調 K.250 ピアノ:小山実稚恵 NHK交響楽団 指揮:広上淳一 2週間ぶりくらいに聞きに行ったわけです。2週前は新日。なんていうかね、こちらの都合もあるんだけれど、なんかオケ以外に聞くもんがあんまなくてですね。 だからってN響なの、って話なんですが、まぁ、安いチケットが出たので。そういう選び方もどうよって話ではありますが。今月はブロムシュテットが来るのですが、いろいろ予定が重なってて、あんまり行けないんですよね。今回はオーチャード定期にも出てくれないし。そんな中、月初めに広上淳一と組んで幾つかコンサートをやると。いや、独奏が小山実稚恵。そういや最近はオーチャードでのリサイタルシリーズも終わってしまって、あまり聞く機会もないし、久々に聞こうかなと。安かったし。 かつしかシンフォニーヒルズも久々です。改めて見ると、バブリーな感じが漂いますよね、このホール。出来たのは1992年らしく、つまり、丁度バブル末期にブイブイ言いながら建ててたホールの一つってところでしょう。中のシャンデリアもそうだし、ホールの内装は他とも一脈通ずるような感じ。既視感があります。例えばティアラこうとうなんかもこういう系統だったなと。フィリアホールもそうかな。浜離宮もか。雰囲気似てるんですよね。ただ、このホール、なにしろ葛飾区青砥駅から10分くらいの住宅街の真ん中に突然現れるという不思議な立地。元は葛飾区役所の場所だったらしいです。まぁ、葛飾区ってのもちょっと領域がイメージしにくいところですが。世田谷区もあれで実はイメージしにくくて、区役所は上町にあるんですよね。知らん人はどこそれ?ってなるでしょうけど。三軒茶屋でもなく、二子玉川でもなく、成城学園前でもなく、つまり田園都市線でも小田急線でもついでに言うと京王線でもない。上町。世田谷線沿線。ま、そんなことはどうでもいい。1500人も入らない、むしろ1000人級のイメージに近いホールでしょうか。 主催はまぁホール側ということのようで、タイトルは「N響ベストクラシック」ってなってますが、まぁ、あくまでかつしかシンフォニーヒルズの公演。それかあらぬか、かなりお客が少ない。なにしろ1階にいたので上は分かりませんが、1階はいいとこ5割の入り、多分それ以下。前の方はそこそこ入ってましたが、後ろの方はガラガラな感じ。ただ、なんか客が少なくてなぁ.....という悲壮感は無くて。のんびりした感じですかね。こういうのも悪くない。というかただでさえ小さいホールなので、なんというか、贅沢ですね。その割にバブル期のホールなので、それほど窮屈でもないし。あまり音響は、こう、素晴らしいというわけではない、ってところですかね。ちょっと定在波出てる感じはありますが、まぁ、それ言ったら国際フォーラムのホールCだって盛大に出てますからね。目くじら立てるもんじゃないかな。 前半はモーツァルト。32番って、単一楽章の、交響曲というよりはシンフォニア、つまり序曲の類に近いような曲。まぁ、幕開けには丁度いい感じ。 そうねぇ.................まぁ、良かったんじゃないかとは思います。ただ、なんというか、音が硬い。これはこの後の協奏曲でも感じたのですが、オケの音が硬い。編成は一所懸命見てないけど、第1ヴァイオリンが5プルト10本はあって、コントラバスが4本くらいだったので、このホールの大きさを考えると、そんなに頑張らなくてもいい筈。実際、よくある力入れて突っ張らかってるような演奏ではなかったと思います。ただ、硬い。むしろ本来の意味では固い、の方か。コンサートマスターは篠崎史紀。正直、私はこの人はあまり好きではないのだけれど、ただ、そういうことではないのだと思います。なんだろうな、この固さは。 続いては、小山実稚恵の独奏でモーツァルト最後の協奏曲、なのですが.........うん、やっぱりオケの音が固いなぁ。ピアノは良かったですけどね。アンコールにシューベルトの即興曲だったのですが、演奏はまぁいいんだけど、途中で盛大にミスをやらかして迷子に........まぁ、時々ですけど、あるんですよね、小山実稚恵。ミスタッチなんていうものではなくてフレーズが違ってるとか、違う和声進行しちゃってなんか知らないとこ通って本来の経路に戻る、みたいな。凄いなと思うのは、間違え方がそういう意味で良くも悪くも音楽的というか..........まぁ、御愛嬌。 で、後半はハイドンの「時計」。そういや、この間も新日でハイドン聞いたのですが...... うーん....................なんというか、ハイドンって、難しいよね.......... 曲自体は聞けば「あ、あれか」と思うような曲ではあるんですけどね。ただ、なんというか、「これはハイドンじゃないなぁ」と思ってしまったのでした。じゃぁ、ハイドンってどんななの、と言われると困ってしまうのではあるけれど。 これ、私が正しいかどうか、もうさっぱりわからないんですけどね。この日のハイドンは、なんというか、ベートーヴェンみたいに響いたのですよ。確かに、ザロモン・セットの時代というのは、もうベートーヴェンが世に出つつある頃なので、時代的にベートーヴェンみたいに響いてもおかしくない、という考え方はひょっとするとあるのかも知れない。でも、やっぱりハイドンとベートーヴェンの間には大きな隔たりがあると思うんですよね。それは、ハイドンが古くてベートーヴェンが新しい、というよりは、様式感の違いみたいなものだと思うのです。やっぱり様式的には、ハイドンはモーツァルトなんかと同じ、後付けで言えば「古典派」と呼ばれる類のスタイルで、構成と同様に響き方も楽器の使い方や語法も「古典派」なのだろうなと。 この間佐渡裕で新日聞いてた時は思い出さなかったのですが、ブリュッヘンが以前新日でハイドンを集中的に振るという企画をやったことがあって、その時の演奏は最近一部はCDにもなって出たのですが、正直新日は兎も角として、ブリュッヘンのアプローチはなるほどと思わせるものでした。なるほど、ハイドンってこういうものか、という感じで。演奏は、まぁ、新日なんだけどね。ただ、時期的にはアルミンク時代なので、今の新日よりはずっと...........ゲフンゲフン で、ブリュッヘンは同時期にベートーヴェンも新日でやって、これも録音が残ってるわけですが、同じブリュッヘンで聞いてもはっきり違うんですよね。近くにいるし、何処かで繋がっているけど、違う。 で、この日の広上指揮のN響のハイドンは、何処かベートーヴェンに寄ってる気がするんです。フレーズの取り方とか、管楽器の扱いとか。そう、例えば、ハイドンって、やっぱり弦五部がオーケストラの主力なんですよ。時にはコントラバスを通奏低音的に扱ったりするのだけれど、ただ、管楽器は彩りであって、主題を支える役ではない、といった。ベートーヴェンは、でも、管楽器をもっと主題に使ったりする。いや、使う使わないならどっちも使うけれど、弦五部と対等くらいの勢いだったりする。そういうところが、微妙にバグってる感じなんですよね。 そういう意味では、うっかりすると、モーツァルトの方がハイドンよりもベートーヴェンに近かったりするのかも知れません。別にハイドンは古い、とかいうことではなくて。ただ、この日聞いていて思ったのは、やっぱりハイドンは難しいのだな、少なくとも日本のオケには、ということ。いや、実際、アンコールのモーツァルトのセレナードを聞いて、特にそう思ったのですね。 前半のモーツァルトも、音が固いなとは思ったけれど、モーツァルトじゃない、というわけではなかったと思うんですね。これはちゃんとモーツァルトだよな、と。それが、ハイドンだと、なんか違う.....となってしまう。難しいんだろうな。別に楽譜として格別難しいというわけではないと思うんですけどね。でも、ちょっとしたバランスが崩れるだけで、違和感を感じさせてしまう。モーツァルトはよほどアホやっても一応モーツァルトでありえると思うんですが。
2024年10月11日
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