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2009年05月10日
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カテゴリ: オペラ
 新国立劇場  14:00~
 4階左手


 結局、プレミエと千秋楽を観るという珍しいパターンになりました。
 今日は昼間だったし、暑かったし、「そうだ!休憩時間に久々にアイス食べよう!」と決心(んな大袈裟な)したのだけれど、バーカウンターが長蛇の列で諦めました.....(/_;) こういうオペラなのによく入ってますねぇ。というか、こういうオペラ観ながらアイス食べようと思う自分はどうなんだ.....

 ところで。今回、観てもいまいち分からなかったというのもあって、ネットでどんなことを書かれてるかちょっと見て回ったのですが、「この話を観てどう思うか?」という視点でのコメントが殆ど見当たりませんでした。音楽の良し悪しとか、演出がどうの(演出を云々する以上話は理解されているということだろうとは思うのですが)といった話は沢山あるのに.......ううむ、そんなに分かり易くかつ皆知ってる話なの?

 で、少し考えてみました。いや、よくわからないもんで.....
 「何故カテリーナは死んだのか?」「それも、ソニェートカを道連れにしたか?」。
 「いや、セルゲイを奪われ、コケにされた腹いせだろう?」と言ってしまえばそれまでなんですよね。実際、私も、粗筋からなんとなくそのようにイメージしていたのですが、改めて今回の演出で観ていると、そう単純な話ではないように思うのです。

 このオペラでのカテリーナの動機は、恐らくは、手垢の付いた言葉で言うと「自己実現」という奴にあります。「不倫が自己実現?」でも、恐らくそうなのです。冒頭で無聊を嘆くカテリーナは、家庭に於いて役立たずとされていた自分を解放する為に舅を殺め、夫を殺めていきます。否、セルゲイとことに及んだ時点で、家庭という軛を打ち捨てたということでしょう。この時点で、セルゲイはカテリーナを「必要としてくれるもの」となったわけです。言い換えれば、カテリーナは「誰かに必要とされる」何者かになれた。けれど、セルゲイは「商家の嫁」という立場の女を首尾よく手に入れただけで、カテリーナという人に興味は無かった。
 言ってしまえば、カテリーナ以外の全ての人物には、居場所があり、自分自身で既に幸不幸を背負って生きている。だから、カテリーナに較べれば誰もが生き生きとしているのです。無名の、何者でもないその他大勢の一人でさえも。

 最終幕で、カテリーナはセルゲイに固執しますが、もはやセルゲイは相手にしません。俺の人生を台無しにしやがって!とカテリーナを非難します。それ自体理不尽なのですが、にも拘らず、この境遇でもセルゲイは己の欲望に忠実に、能動的に行動します。流刑の途上という状況下でも生き生きとしているセルゲイ。それはソニェートカも同じ事です。この二人とカテリーナとは極めて対照的です。そして、その他大勢も、むしろセルゲイやソニェートカの側に居ます。だから、セルゲイに騙されて靴下を奪われるカテリーナに対し、その他大勢は冷たく、むしろ牙を剥くのです。
 戻って来たソニェートカは、カテリーナを挑発しますが、何の反応も示さず、最後の最後に決然とソニェートカを連れて入水します。

 もし、カテリーナにとって、自ら言うようにセルゲイが本当に全てで、死に際してセルゲイを我がものにしようと思うなら、やはりセルゲイを道連れにするでしょう。もしセルゲイを憎むなら、セルゲイを殺すのがまずは自然でしょう。
 では、やはり、ソニェートカを憎んだのか?そうかも知れませんが、もう一つの解釈があると思います。ソニェートカに代表される、自分とは違う生き方を強要しようとする社会に抗う為ではないかと。
 この演出で、ソニェートカは執拗にカテリーナを挑発します。最初観た時、私はそれをやり過ぎではないかと思ったのですが、そう考えると、動こうとしないカテリーナに対し某か反応させようとするソニェートカの挑発も分からないでもないし、ソニェートカをこそ道連れにする理由も分かるような気がするのです。
 もはやセルゲイはどうでもいい。ただ、あるがままを受け入れてその中で生きようとする社会、そこから疎外されるカテリーナにとって、最後に抗うべき相手は、多分、その社会を代表して挑発してくるソニェートカだった、ということなのかな、と。

 いや、違うかも知れないですけどね。単に老囚人に「おばさん、早くしろよ」と言われて堪忍袋の緒が切れただけかも知れないですけど。


 今回も、音楽面ではほぼ同様。オーケストラは若干緊張が解けた分だけ、力技が目立たなかったかな、という気はします。歌唱陣はほぼ同様。
 演出に関して言えば、他で指摘されていたけれど、確かに服装等から、時代が冒頭の1950年代から進んでいるようでした。ただ、それ自体はそれほど意味は無いかな。
 最後の入水については、確かになんだか分かりにくくて、劇的緊張がない、という意見は分からないでもないけれど、個人的には、よりビジュアルに、動的に入水させるより、ばたばたしない分だけ悲劇性が増したのではないかな、という気がします。様式美みたいなもんで。







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最終更新日  2009年05月10日 22時11分28秒
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