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2021年10月27日
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週末の東響の話を書いた後で、つらつらネットに載ってる意見を眺めてみたのですが、ちょっと気付いたことがあって。言えば私もそうなのですが.....
 10/24のミューザ川崎でのコンサート、その数日前にオペラシティでも同じプログラムをやってたのですね。で、この両日の諸々の評を読んでいると、殆どが「モーツァルト推し」か「デュティユー&リゲティ推し」なんですよね。で、前者の大半、後者も少なからず、指揮者のジョナサン・ノットに否定的なんですよね。まぁ、そこまではともかく。拝見していて、しかし、一つ共通する事があるのです。つまり、このプログラム全体としてどうなの、という評価にならないんですね。

 川崎での公演は「名曲全集」、初台のは「東京オペラシティシリーズ」という名目ですが、まぁ、定期演奏会に近い部分はあると思います。川崎の場合、川崎定期というのがまたあるので、位置付け的にはやはり人気曲をやるという事だとは思うのですが、ただ、オーケストラとしての定期的な活動ではあると思うんですね。
 東響とノットに限らずそうですが、オーケストラの定期演奏会というのは一つの作品だと思います。レストランでのコースメニューに当たると思います。レコードやCDどころか、配信で好きなものを選んで聞く、うっかりするとAIが選んだ「これが好きなんでしょ」というものを聞くのは、いわばアラカルトで好きなものを注文している様なもので、それはそれでありなのだけれど(もっとも自分としてはAIに選んでもらうなんてちゃんちゃらおかしいやと思うのだけれども)、コンサートに於いては、プログラミングには送り手の意思が出ると思うのですね。
 そう考えた時、やはりなんでこうなったのかというのは考えないといけないのかなと。勿論後半ですね。

 ただ、まぁ、率直に言うと、ジョナサン・ノットが何故こういう演奏形態にしたのか、わかりかねるところである、というのが私の本音です。
 この間書かなかったことを少し書くと、実は、この公演では、3, 4回、曲の合間に鐘のようなものを鳴らしていました。音色で言うと、日本で仏具として使うような感じのものでしたが、実際にどういう素性のものなのかはよくわかりません。それを、確かラクリモサの後と、リゲティのルクス・エテルナの前後で鳴らしていました。ただ、これも、何が言いたいのかよくわからなかった。
 そう、正直言うと、私はジョナサン・ノットが何をしたかったのか、本当のところよく分かりませんでした。ただ、おそらく、ジェスマイヤー版のモーツァルトのレクイエムを演奏するだけでは何か足りない、あるいは何かその先にあるものを目指した、ということなのだろうとは思います。でも、それが成功していたのか、と言われると、なんとも。ラクリモサは確かにジェスマイヤー版とは違って、随分賑やかしではあったけれども、じゃぁ、しめやかなラクリモサこそが「正しい」ラクリモサなのか、「正しい」モーツァルトのレクイエムなのか、と言われると、それはなんとも言いようがない気はします。正しいか正しくないかの問題ではないし、第一演奏そのものの問題はあったしね。しかし、それ以上に、リゲティをわざわざ挟みに行ったということ、しかも、その一方で、モーツァルトのレクイエムそれ自体は削りはしなかったということは、ポジティヴに捉えるなら、そこにリゲティが必要であった、と、ノットは考えた、ということになると思います。それを、モーツァルトのレクイエムだけではダメなんだ、と考えた、ということとも言えるかも知れません。私個人は、それを挟むという行為そのものに違和感はなくもないけれど、音楽それ自体はそこに入ることにそこまでの唐突な感じはなかったとは思います。無論、そうは言っても異質の音楽ではあるし、本来の最終曲が色褪せて見えたという面もあったとは思いますし、そう考えれば、確かに否定的な意見が出るのも宜なるかな、というところではありましょう。
 とはいうものの、もし賛同致しかねるとしても、意図的にこういうプログラム、こういう構成の演奏をしたことは何某か - 否定するにしても - 受け止めるべきなのだとは思います。それは、モーツァルトのレクイエムの間にリゲティを挟むとかいうことだけでなくて、そもそもこういった、というのはつまりレクイエムのような、本来であれば特殊な機会むけの宗教音楽を敢えてコンサートで選ぶことなども含めて考えられるべきだと思いますし。別にそういう意図は格別プログラムには書いていないし、ひょっとして東響のサイトとか探せばノットが何か語っているのかも知れないけれど、正直一所懸命調べる気までは起きません。ただ、聞いてる方にとってはただの「泰西の名曲」でしかないのかも知れないけれど、演奏する側は当然意図があってのことである筈だし、そうでなければいけないとは思います。少なくともこういう曲は、なんとなく綺麗だからやってみる、では済まない。しかも、わざわざ「何をやってもいい」定期演奏会的なところに持ち出すのですから。
 でも、やっぱり、意図はよくわからなかったんですけれどね。だから、私も、デュティユーとリゲティを聞いた気になったけれど、モーツァルトのレクイエムはちょっとね、みたいな書き方をしてしまってはいるのですけれども。多分本来はそのこと自体が問題なんだろうなと。

 ただ、この間もちょっと触れましたが、そもそも日本のオーケストラにとって定期演奏会ってなんなんだ、というのはあるとは思います。別に常に進化していなければいけない、なんて本気で言い出すつもりはないのだけれども、ただ、漫然と人気曲をそこそこのレベルで演奏していればいいんです、というものだろうか?というのはあるのだと思います。デュティユーとモーツァルトとリゲティ、というプログラムそれ自体を評価するのか、モーツァルトのレクイエム以外は付け足しで、そんなとこどうでもいいんだ、と考えるのか。それは、東京交響楽団というオーケストラが何の為に存在するのか、という問題でもあると思います。無論、そこにはオーケストラ自体の問題と、ジョナサン・ノット自身の問題 - ここには、ノットという音楽家としての、このコンサートの指揮者としての、そして東響の音楽監督としての、という3つの立場があると思うのですが - とがあって、しかし、それは演奏する側が考えておけばいい、ということでもあるけれど、同時に、受け手の側の問題でもある筈です。
 いや、ただのお客さん、という意味では、好きなものを選べばいいし、実際そういうふうに聞いてると思うんです。でも、音楽というのは受け手があって初めて成立するものだから、たとえば、東京交響楽団というオーケストラは何を目指しているのか、という視点で見た時にどう見えるのか、このコンサート全体がどうしてこういう構成になっているのか、それはこのオーケストラの目指すところの中でどういう位置付けにあるのか、ということは、考えてみていいんだろうなと思うのですね。





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最終更新日  2021年10月27日 21時07分49秒
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