全14件 (14件中 1-14件目)
1
おととい非番^^だったので、私が夕食を作った。ざおりんさんに「クックパッド」なるサイトを教えてもらったので、検索してみた。何を作ろうかな…ためしにそうめん…と、。。。。。おお!こんなにあるぞ… 1396品かい!! …そうだなあ、たくさん食べたいし、これでいいや。と、作ってみたのがこれ。 はっきりいってオヤジご飯なので飾りっ気ゼロ。( ̄皿 ̄色気もへったくれもないけどそーめんビーフンできました。しかも8束使ったのでものすごい量。お野菜はピーマン、もやし、にんにくの芽を使いました。にんにくの芽は炒める前に軽くゆがきました。ひき肉も調理前ににんにくとたまねぎで甘辛く味付けしたものをあえました。調味料は砂糖、塩、胡椒、オイスターソース、醤油、鳥がらスープ、ごま油こんなとこかな。コツはなにもありません。親父の力仕事です。 ( ̄ー ̄(飛び散るひき肉に帰った妻アヤベー悲鳴^^;)左のイカはコチュジャンとごま油を使った、なんちゃって韓国風サラダ。withオニオンスライス、レタス。あくまでも辛さは控えめです。上のお豆腐は冷ややっこ。しその葉と、かつおぶしと、生姜をすりました。ベトナム風、韓国風、日本の3カ国料理です。きれいな盛りつけじゃないのでクックパッドには遠く及びません。笑この次はざおりんさんちのサラダに挑戦してみようかな。
May 31, 2007
コメント(16)
こ~んなにいい陽気の中、 こ~んなに気味の悪いもの見てきました。 お食事あとの皆さまごめんなさい。 「人体の不思議展」。都合で行けなくなったスタッフSちゃんの代わりに、Sちゃんの長女cocoro(小2)につきあって付添い人ジジ(私)全開です。人間のからだの様々な分野を輪切りやら、まっぷたつやら、ぶつ切りにされて展示されています。その数、男女あわせて数十体。しかもぜ~んぶ本物。医学の知識はまったくないヤンパなので詳しいことはわかりませんが、フツーのオッサンやオバハンにこれを見てもらって何かいいことあるのでしょうか?主催者には申し訳ありませんがほとんど見世物です。というのもこの物言わぬ人々はすべて、あの人権もへったくれもない国、中国で献体された人々だと聞いていたからです。献体というと聞こえはいいものの、ひょっとすると刑死あるいは獄死した人たちを勝手に標本にした可能性もあるわけです。臓器移植なんかもよく話題にのぼりますが、あの国では裁判=即刻死刑…という順序でトラックに罪人を山盛りにのせて刑場へ運び、せいの!で銃殺。体の重要な部分ははずして撃つので、そのまま臓器を取り出すためのマイクロバスに運び、新鮮なものを体内から取り出したりします。私は以前、報道特集で中国の臓器売買のようすを見ました。こう考えると今回の「人体の不思議展」も、それでも非難されない「中国の不思議展」に思えてしまいます。小2のcocoroにはなんの罪もありませんが、おぼろげに中空を見るガラス球の入った中国人たちを見てると、何か言いたそうだなあ、「俺も死んでまで素っ裸にされて日本のこんな田舎に送られて、しげしげ面白がられるとは思わなかったよ」とつぶやいているようでした。映画だったらどんなものでも喜んで観る私ですが、これはちょっといただけませんでした。
May 29, 2007
コメント(12)
ニッポン人はいったいどっから来たのか?な~んてむずかしいお勉強をゴーマンにも石原都知事に教えてあげよう…と思う。と言ってもヤンパはドアホなので、先生様の本から拝借した。 なんでも中国雲南省あたりにいた「倭族」とやらが漢族に追われる形で南と東に逃げたのがはじまりなようだ。南に移動したグループはやがてミャンマー、ラオス、ベトナムやタイにたどりつく。東に逃げたグループは朝鮮半島や日本列島に移住した。いずれも高床式住居での生活をし、水稲耕作の人々だった。 そしてこの人たちの特徴は? ↑ちょっとごちゃごちゃしちゃったけど 入れ墨(文身)の習慣を持ち、しめ縄を村のどこかしこに飾る、稲作の人々だということがわかる。朝鮮半島の人々がガタイがいいのは大陸(ツングースやモンゴル、中国との混血が高句麗から南下してきた)からの影響が大きいからだと思える。男優シン・ヒョンジュンなんか最初見たとき、どこぞのイスラームの人かなと思ったぐらいだしね。上のイラストマップはかなりテキトーだけど、高句麗が北方や中国の影響下で弱体した時代に新羅が武力をもって拡大していく前のものだ。当時対等と思われていた日本と朝鮮半島の文化比較は、おおざっぱにいっても100年ぐらい差があった。 それでも百済は日本のバックアップなしでは新羅に対抗できないと考えていた。新羅に攻められていた加羅(のちに任那が置かれる)は当時としては海洋文化圏の一環として民族の混在した地域だったのではないかなあ。百済・日本の連合軍が新羅・唐の連合軍に白村江で破れてから、はじめて日本列島と朝鮮半島とが別の文化圏になってそれぞれの道を歩み始める。つまり単一民族のはじまりなんてそんなものなんだよ石ちゃん。 もとはごっちゃ混ぜのビビンバなんだから。ところで我が家のサイババ(母)は月イチの文化講座なんかに通っている。先月聴講して帰ったときにこんなことを言った。 「あんた!柿本人麻呂は朝鮮人らしいよ…」モチロン悪い意味ではない人麻呂が生きた時代は7世紀。唄を歌って村々を回る、たとえていうなら吟遊詩人。あるいは世の中を歌って知らしめるシンガーソングライター。映画「王の男」のチャンセンさながらの旅芸人に近かった存在かもしれない。もともと生没年がはっきりしない謎の人物だけに、日本の研究者の想像も海を越えるのだろう。少なくとも百済を追われた半島の人々の生活環境や民俗芸能のDNAを受け継いだ男が、カキノモトノヒトマロという人物になった可能性は大だ。さて、上のイラストでははっきりしないが、済州島は当時「耽羅国」というひとつの小さな国だった。たんな、と読む。耽羅国はその意志がないまま百済に朝貢していた。百済は見下していたわけだ。実は百済が滅びる前年に、耽羅国は新羅に朝貢し、来たるべき時代に備えている。(日本、唐にも使者を送ってその帰趨を判断した)戦わずして勝利を収めたのだ。あの小さな島は当時、唐にも国として扱われたというわけだ。えらいやっちゃ耽羅国。^^新羅にはソンドク王の建造と思われる瞻星台=チョンソンデ(アジアで初めての天文台と想像されている)がある。耽羅国は新羅に朝貢してこの天文学を学んだ。風、岩、女、しかない済州島では天体知識は欠くことができない重要な財産だったからだ。日本は現在、改憲論議がさかんだ。おそらく10年、20年の短いスパンで、中国が大きく変貌あるいは変節し、アジアの地図が少し変わるかもしれないと見込んでのことと思われる。台湾の危機も、北朝鮮の崩壊も、その改憲の範疇に盛り込まれているかもしれない。いま現在の済州島の韓国軍基地誘致の問題も、あながち日本の動きと連動していないとは言えないだろう。「いやならばこの国から出ていけ」と言った石ちゃんが首長になった東京都民は、彼の思う単一民族の誇りがどんなにか薄っぺらいものか思い知る必要があるだろう。少なくとも僕の子どもたちには「美しい国・日本」のために「美しく死ぬ」ことなんてありえな~いとは伝えたい。いま私たちが耽羅国になることはできないが、歴史に学ぶことはいつだってできる。私たちはもともと稲作の民なのだから。
May 26, 2007
コメント(14)
きょうは奥様だよりです。^^ まず大きな釜で朝からじっくり豆を煮ます。豆は田舎の地物(スタッフSちゃんちの親戚の畑作)で、甘味の濃い大豆を使います。今回は25キロご用意いたしました。 じっくり煮てからさらに蒸らす。これがないとだめです。さてこの手↑はヤンパ家サイババ( ̄Д ̄のものですが、こんどは豆をつぶしていきます。(ヤンパ家から今回は3人、Sちゃん家からは4人参加しました) 機械の下からこのように粘土状の豆が出てきます。蒸してあるとつぶれやすいのですよ奥様。 さてぜんぶつぶしたら、麹(造り酒屋に注文)を豆と1:1でかけて、塩を混ぜて、 こねこね、こねこね、一生懸命混ぜ合わせましょう。ちょっと固いなと思ったら豆の煮汁を加えながら、そして味見などしながら混ぜていきます。 今回は3つの大きな桶を用意しました。各桶ごとにみそ玉を作っていきます。ぺたんこぺたんこ。 たとえばみそ玉が桶ひとつにつき24個できたら、8個づつ他の桶と交換して、みその味が均一になるようにします。そしてさらにみそ玉をつきくずし、またこねこね、こねこね。こんなことを何回か繰り返し、最終的にまたみそ玉にします。 Sちゃんちは酒屋なので夏でも涼しい蔵があります。できあがったみそ玉はその蔵の中の樽に頭の上からたたきつけるように、どすーん、どすーんと1個ずつ漬け込んでいきます。 最後にぎゅっぎゅっと押し付けて塩をまいて、みその間の空気を抜いてつけるのです。どうです。おいしそうでしょう?こうして我が家では毎日おいしい味噌汁を飲めるわけなのです。作るのは私ですが。。。 ( ̄~ ̄おとなり韓国ではみそ玉をメジュといいますね。吊るして乾燥(発酵)させてから再度つけるのでしたっけ?いま写真を探しましたがみつかりませんでした。日本でもしばって吊るす方法は地方によってあると聞きます。こうして昨年入院騒ぎでみそ作りに参加できなかったあほんだらな私は、きのう、その恨みを払拭するようにこねこねを繰り返して汗をかきました。恒例のSちゃんち実家でいただいた、韓国人もびっくり!( ̄皿 ̄の馬肉うどん もうまかったです。これはSちゃんちの もえぞー(役にたたず…)
May 21, 2007
コメント(18)
先日ある方のブログのコメントに私(ヤンパ)は「とうへんぼく」ですから。。。。。。と、書いたら「ヤンパさん、とうへんぼくの意味がわかりません^^」と返事をいただいた。その方は韓国在住の方なので(エエイまどろっこしい!エルマチャイさん^^です)韓国語の ヘンボク=しあわせ の造語とでも思ったのだろうか?実際は“唐変木”(とうへんぼく)で、日本語でちょっと変わった人、ものわかりの悪い人、気の利かない人などをののしっていう時に使う言葉だ。私の母はよく「この唐変人が!!」などと私をののしるけど( ̄ε ̄;、 唐 変 人 というとあきらかに差別語になるからなのか、ネットの辞書の検索にもひっかからない。さっきスタジオに来るときクルマの中で五月の言葉についてDJ同士がクイズを出し合っていた。みなさんはわかりますか?コレ。 五月蝿い読めます??私はパー@_@;ですが^^これは読めました。五月はほかに定番の五月晴れもあります。さらに五月雨なんてものもございますなあ。(落語家風^^)漢字を遊ぶ日本語って面白いですね~。話し戻って、私もスタッフSちゃんもかなりな唐変木です。音楽や映画や本もちょっとかたよったものが好きです。きのうSちゃんは午後早退しました。何をやってたのかというと、私のメールにこんなものを送信してきました。 ( ̄皿 ̄西原りえぞー!!!! み~んな唐変木です。
May 19, 2007
コメント(8)
ココパクサンミン、イヒョリ、オクジュヒョン、キムジョングック、キムボムス、セブン、ヒィソン、神話など40人を越える韓国の歌手が歌っています。半世紀以上、国や民族を唄にしたことのない日本人にも、この歌のメロディーは響いて染み込みます。イデオロギーや政治の世界は置いておいて、ハングルをわかる方は歌ってみましょう。私も朝から大声で歌ってしまいました。^^ 韓国語らしい表現です。美しい歌詞と、訳はいささんのブログへ。
May 16, 2007
コメント(12)
さて、きのうの続き。私の当初の目的だった美術館へ。没後30年という田中一村の作品展に行ってきました。一村さんの名前が知られるようになったのは、彼が69歳で奄美のあばら家で誰に看取られることもなく亡くなってから数年ののち、あるNHKのディレクターが奄美大島のダイバーの家に貼ってあった1枚の魚のデッサンに出会うことからはじまります。彼はその熱帯の魚の素描に強く惹かれ、それを描いた田中一村という男の軌跡を追うことになります。それがやがてNHK日曜美術館「黒潮の画譜」…田中一村として全国に紹介され、そのダイナミックで繊細な日本画を思わせる作風に人々が魅了されていったのです。私は確か雑誌「サライ」でみかけて、なんとスタイリッシュな“イラストレーション”なんだろう。いつか実際に見てみたいものだと思ってきました。しかし鹿児島奄美パーク・田中一村記念館は果てしなく遠い。それがきのうの日記で書いた、温泉地で有名な県下の美術館に来ていると知って、いさんで行ってきたのです。私はデザイナーなのでスタイリッシュなんて書いてしまいましたが、一村さんが生きておられたら藁ぞうりで頭をひっぱたかれていたことでしょう。一村さんは孤高の画家でした。詳しい経歴ははぶきますが、ぎりぎりに切り詰めた奄美の生活の中で絵の具代を捻出し、同期だった東山魁夷たちいわゆる中央画壇と袂を別った数十年を取り戻そうと、奄美の自然を描きつづけました。なにしろ奄美に渡ったとき一村はすでに五十を越えていたのです。なんとも不思議な人です。一部だけ紹介します。 アダンの木 絹本 昭和48年頃 奄美の杜(1) 絹本 昭和40年代 ダチュラと赤翡翠(アカショウビン) 絹本 昭和42年~或知人はゑかきはパトロンがなければ絶対にだめだと決めて居ます。東京で地位を獲得して居る画家は皆資産家の師弟か優れた外交手腕の所有者です。絵の実力だけでは決して世間の地位は得られません。学閥と金と外交手腕です。私にはその何れもありません。絵の実力だけです。昭和34年3月頃の友人へ宛てた手紙に一村は書いている。のちに東山魁夷はインタビューで、同期生だった田中一村のことを聞かれて「そんな人は知りません」と答えている。権威優先の画壇とはそんなものなのだろう。染色工の職で日給四百五十円。パンツ一枚の生活。奄美流萬 二階に娼婦 下に吾恋文の代筆果たす 吾五十二いまであったら、一村さんの絵はトヨタプリウスの年間イメージのデザインとしてメディアに流れ、あるいはソフトバンクのオリエンタルデザインとしてケータイのパッケージに使用されていたかもしれません。彼が最も嫌う方法での高収入につながったことでしょう。私自身はそれでもよかったのではないかと思うのです。それだけ田中一村の仕事は世界に誇れる日本の財産だと思うのです。ゑかきの一村さん、いかがですか?
May 15, 2007
コメント(6)
きのうは母の日。さぞかし日本全国の孝行息子や娘がお母さんに花束など送ったことでしょう。バイトするラブホの、日系ブラジル人のイシイさんご夫妻にも千葉の息子から素敵な花束が届いていました。ブラジル人もお花が大好きなようです。我がヤンパ家は私がどーしても見ておきたい美術展があったので、長い県下を高速を飛ばして南下し、いまNHK「風林火山」で話題の温泉地へと向かいました。サイババ^^こと私の母と妻アヤベーも同行したので、はからずも母の日のプレゼントと勝手に解釈して都合のいい息子なのでした。そこは昔、製糸工業の中心地で莫大な利益をあげたミニ財閥がいて、温泉を利用した娯楽施設などをすでに昭和3年に建設しています。その跡地がいま公開されているわけです。さてサイババのうしろの建物はいったい何でしょう? 中に入るとこんな風景。 二階はしぶ~い休憩室と食堂があります。 階段、踊り場。初夏を思わせる日差しとひんやりした空間。 答えは? 銭湯。( ̄~ ̄千と湯ばあばが喧嘩していそうな、むかし懐かしい空間です。 ↑これはパンフレットから取りました。千人風呂と呼ばれていますが100人入れると書いてあります。。。一節にはこの財閥が数多い「女工」たちを一度に入浴させるために作ったとか言われており、この温泉はプールのような深い浴槽を持っています。つまり立って入ります。といっても女工を立って風呂に入れる…という表現はあまりにマイナスイメージがあるせいか、パンフレットにはもちろん触れられていません。あくまでも偉人の業績なのです。( ̄∧ ̄#)こういう表現はまあ日本全国どこでも似たようなものでしょう。底には玉砂利が敷きつめられていて、群馬県にある法師温泉のようです。私たちはそんな歴史に関係なく5月の爽やかな日差しを窓辺に受けながら温泉特有の香りを楽しんだのでした。美術展報告はまた明日にでも。
May 14, 2007
コメント(10)
Papicoさんちにうかがった。2泊3日の予定なので忙しい。韓国の地方都市めぐりが好きなので、今回はお言葉に甘えた。マンナソ パンガッpスムニダ私のあいさつにご主人も「おおこの日本人はウリマルがうまいね~」と優しく迎えてくれた。町の広場ではちょうど集団の健康診断が行われているようで、民族衣装のベトナムのミャオ族、タイのリス族なども混じって、なかなか賑やかな風景が広がっている。これは写真に撮っておかなくちゃとバッグを見ると、しまった!Papicoさんちにカメラの入ったバッグを置き忘れていることに気がついた。バス停でバスを待っているPapicoさんのところまでダッシュで走り、Papicoさんちの方角を聞くと、「ヤンパさん、反対側よ。あの丘の上!」と指差す。わかりましたと小走りに坂を降りて反対側の丘をのぼる。いやPapicoさん、この坂はハンパじゃないよ。苦しすぎ。ひ~ひ~。やっとのおもいで登りきり、家へ急いだ。昨晩おそく着いたのでPapico家の輪郭がわからない。どうやら巨大な集合住宅になっている。ここだったかな?あれ?ここかな?と探すうちに迷路にはまりこんだ。扉を開けるとまた扉。そのまた扉を開けるとまた扉。おいおい玉ねぎかよ。(ヤンパの呪い)と開けつづけると、風呂場に入った。おお!モギョクタンかあ。木のバスタブが壁から飛び出して反対側の壁にすとんと納まった。へ~、この中に水を入れてひしゃくで浴びるんだ、楽しそう。次の部屋を開けると朝鮮時代からのマニアックな古美術が飾られた町の博物館があった。よ~く見ると壺の絵なのに、最近の若者も描かれていてかなりキッチュな品もある。まわりは誰もいない。青いプラスティックの象の置物に目がくらみ、一瞬犯罪者になりたくなってしまった。いやPapico家に迷惑がかかるといけない。あきらめよう。Papicoさんちをようやく探し当て、カメラを探そうとバッグをさぐるが、出てくるのは手袋、セーターなどの冬物ばかり。あれ?なんで夏物を持ってこなかったんだろう。弱ったな~、とジタバタしているとPapicoさんのご主人が困ったような顔で現れ、 「ヤンパさん、もう出かけますよ間に合いませんよ」と言う。何に間に合わないんだろう。ああ、それよりも写真も撮れないし、明日の朝、天安のはんらさんに、よしくんのTシャツを届けるのは無理かなあ。フライトが午前だものなあ。ど~しよう、オットッケぇ。というところで目がさめて、妻アヤベーに。 「あんた鼻の頭が真っ赤だよ」( ゜□ ̄#)と言われた。鼻の頭が赤くなるくらい、いったい何に興奮していたのだろうか。明け方の夢。
May 12, 2007
コメント(12)
クニャンとかいいながら、すっかり韓国ネタから遠ざかっている私。きのうは夜のオツトメがオフだったので、先月庭に植えたサンチュをもぎとってきてサムギョプサルにしてみた。サンチュはホームセンターで48円だったかな?苗が売られていたので、ふたつ買ってきて植えてあったのだ。妻アヤベーがお肉屋さんに三枚肉を頼んでくれていたのだが、やつら韓国を知らないのでご覧のように豚肉が薄くて小さい。 だいなし。それと皆さん!これ、サンチュに見えます???私、サニーレタスかと思っちゃいました。ついでといってはなんですが、妻の誕生日が10日。 私がラブホアジョッシの日先月結婚記念日を忘れていたので罪ほろぼしにワインなど買ってみた。さらについでに近くにあった花束から色がきれいだったので花も買ってみた。 菊じゃんかー!!!アヤベーに怒られた。
May 9, 2007
コメント(18)
気は短いけど意気地なし。歳をとっても私の性格は変わらない。街中で声を荒らげたり、物に当り散らすこともできない私がちょっとキレてしまった。 このキレルという表現も好きではないのだけれど。。。先日スーパーに息子チャリの弁当のおかずを物色に立ち寄ったときのこと。 チチオヤノ ワタシガ デス。^^連休最終日のせいか、かなり人とクルマで混雑していた。スーパーの駐車場の歩道がわを、人々もせわしなく行き来していた。私もそのなかのひとり。ふと大型の高級車(クラウンかセルシオか、私にはわからない)がスーっと近づいてくる。スーっとと書いたがイメージとしては人々の流れを阻止するように、あるいは「どけ!」とでもいうように割り込んできた。私も足早に行こうとしたがクルマは無視して進入してきた。そして私の左手にクルマのサイドミラーが当たった。 かっちーん。 「おんどれなにけつからしてんねんボケ!!!さっさと降りてこんかいコラっ!!!」こういう言葉を一度は使ってみたいが、私はやすしではないし訓練が足りなさすぎる。そこで…その大馬鹿の高級車のリアウィンドウを思いっきり素手でひっぱたいた。 「バッチーン!」 ( ̄皿 ̄う~んいい音。ではない。周りの人間も一瞬ひきつってこちらを見る。運転手が思いっきりドアを開けて出てきた。65歳~後半ぐらいのジジイかな。 「危ないだろう!!!」声はでかいが優しいヤンパ。("#-_-)ジジイこちらをにらんでいるが言葉がない。そりゃそうだ。こちらに落ち度はない。しかし世の中なにが起こるかわからない。逆恨みしたジジイがスーパーでレタスなんか買ってるオッサン(私)を背後からドライバーでぶすり。なんてこともないとはいえない。 GWいらいら殺人。スーパー駐車場でもめ、男刺される。やじうまワイドのお世話にはなりたくない。オッサン(私)、実はドキドキ。買い物はテキトーに済ませ足早にスーパーを去った。泣)しかしいつも思うことがある。50、60代のジジイ(あっしも範疇でございます^^)は何故にこうも無礼きわまりないやからが多いのか。いったい何様のつもりなのか。こと、クルマの運転に限っても若年ドライバーの年齢による無謀さとは明らかに違う、大柄で威圧しまくるジジイには本当にむかっ腹が立つ。会社内や家庭内における地位と、社会における他者の目を混同しまくっている。自分基準が社会と大きくずれていることにまったく気づいていない。ハードルが低すぎるんだよジジイ。会社では重役級で、大きな家を持ち、高級車を繰り、孫に目がないような奴(すんません、私の見方もかなり偏ってます)が、公共の場では同じように説教調の態度でふんぞりかえっている。つける薬もないから「美しい国日本」でも読んでクソして寝ろ。そう吐き捨てたくなる。むかし東京時代、路上で喧嘩してる人をときどき見かけた。見ているとあれはあれでけっこうみっともないものだ。スーパー駐車場で乱闘にならなくてよかったよ。と、気が弱いので結論はこんなとこ。
May 8, 2007
コメント(16)
写真日記です。 2泊だけの佐渡でしたが海に山に遊びました。すでに田植えがはじまっています。背の低い山々にはわらび、山ウド、タラの芽が出て、私もお義母さんに朝5時に起こされ芝刈り^^に行ってきました。 佐渡ではいつもゲンジュウロウ^^商店(いかつり漁師の家)の10羽400~500円のこぶりのスルメを大量に買いますが、いかは6月にならないと捕れないよ、いま干してあるのはノシイカ用だよ、とゲンジュウロウさんに言われ、6月に送ってもらうことにしました。 おかひじきはてんぷらなどでも食べられます。海岸沿いや砂浜に出ています。いちおう^^木造校舎マニアなので、こんな廃校もパチリ。 素敵なプライベートビーチ(左下)を発見し、夏はここで遊ぼうかなと思う図。すぐ横にはかわいらしいお寺もあり、恐ろしく静かな環境です。 しかし佐渡は春の花が咲き乱れていました。これはアスパラ。^^近所のおばさんが裏庭から大きな筍をとってきて、帰っていただきました。写真はそのおばちゃんが作ったちまき。とても器用です。 妻を残してかもめに送られながら一足さきに帰ってきました。めばる、かれい、するめ、塩辛、わらび、山うど、筍、新潟の銘酒、佐渡のコシヒカリ などおみやげ満載の軽自動車でした。^^みなさんのGWはいかがでしたか。
May 6, 2007
コメント(10)
あたたかでした。悪くない気分です。 うぐいすと、かえると、さざなみの三重奏でした。
May 5, 2007
コメント(6)
映画「バベル」はアメリカ、メキシコ、モロッコ、日本を舞台にしたそれぞれの場所でのできごとが複雑にからむ物語です。時間がびみょうにずれながら愛と憎しみと悲しみが交錯して静かなラストへとつながっていきます。こういう作り方はこのアレハンドロ監督がすでに初監督作「アモーレ・ぺロス」でみせた映画作りで特に斬新な構成ではありません。「アモーレ~」があまりに強烈だったので、世界を舞台にした「バベル」の方が影が薄いくらいです。公式サイトやパンフレットでは主人公ブラッド・ピット、ケイト・ブランシェットやことしの春、アカデミー賞の助演女優賞を獲得するかも?と期待された菊池凛子が話題をさらっています。きのうこの映画を観て、私が強くこころを揺さぶられたのは実はモロッコの羊飼いの親子の物語でした。やはりこの監督はマイノリティに照準を合わすと力を発揮するように思います。この羊飼いの兄弟の悪ふざけがやがて大きな悲劇を生み、そのことがきっかけで世界各地の人間が愛をつむいでいくことにつながるのですが、兄アフメットと弟ユセフのあまりにも切ない関係は、さらにその前日にDVDで観た日本映画「ゆれる」の兄弟、みのるとたけるを彷彿とさせました。みのる(香川照之)とたける(オダギリジョー)もまた、奪われるものと奪うものの、しかし愛してやまない関係を描いています。蛇足ですが韓国でも上映されますね。「バベル」のモロッコ編のアフメットとユセフの愛憎は、命をつなぎとめるにはあまりに幼すぎて細い関係でした。それが切なく観ている私たちの心を打ち砕きます。ネットを手に入れた世代にとって、世界なんて瞬時に理解できる小さな箱庭です。メキシコだろうがモロッコだろうが新宿歌舞伎町の路地裏にあるクラブだろうが、知りたいものにとって対象はもう遠い世界のことではありません。しかし人は言葉にならない言葉を発し、触れ、認め合い、互いを理解しあいたいというのが本来の姿です。ただそんな面倒なことにかかわりたくもないというのも、現代人の姿なのかもしれません。映画「バベル」はその塔の突端から神の啓示を受けることなどなにもない、ただ泥にまみれてこけつまろびつ涙で道がかすんでも進んでいくしかない人間そのものを描いています。監督の意図するところとは違うかもしれませんが、「バベル」は、ではお前はいったい何ができるのか?!と、つきつけているようでもあり、人間はまだまだ可能性があるんだよと諭しているような映画でもありました。うまくまとまりませんが、未見の方はぜひ「アモーレぺロス」をご覧ください。「バベル」の菊地凛子がクラブで踊るシーンは、今朝のニュースで言われているように、吐き気がする人(妻のことです^^)も続出してるようなので、注意が必要かもしれません。
May 1, 2007
コメント(4)
全14件 (14件中 1-14件目)
1