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近くに住む旧友松田氏から「あんたならこの本に興味あるじゃろう。著者の南さん知ってるやろ?あげるから読んでみて」「南さん、知ってるどころか、仕事で随分お世話になった方じゃが。実篤も若い頃かなり傾倒していたことあるし、読み終えたら返すから貸して」最近就寝時読書は、家内からの「明るいと眠られない」との苦情が厳しくて中断している関係から新聞以外活字を絶っていた。で、読むのは、朝しかない。睡眠時間は毎日ほぼ5時間なので、1時半に寝れば6時半に目覚めて1時間半読書ができる。ところが面白くないとすぐに眠たくなり二度寝することになる。最初の100ページを読むのに随分ひまどり、最後の100ページは3日くらいで読んだ。「君は君 我は我也 されど仲よき」を、何故か「人は人、我は我、されど仲良き」とインプットして、自らの座右の銘にしていた小生。実篤の小説は何冊か読んだ程度、傾倒したのは絵画と讃が主で展覧会には高校生のころから幾度となく足を運んだ。「日向新しき村」については、地元紙「日向日日新聞、宮崎日日新聞」にかなりしばしば報道されていたので杉山夫妻のことは一応存じ上げていた。その程度の記憶しか残っていない。表紙の眺望写真、自分も石河内へ行くたびに眺めた景色なのだが、川を渡って村を訪ねたことは一度もなかった。従って、杉山夫妻との面識&接点は全くない。南さんのこの本を読み、あれだけ県内をうろうろしていたのに、新しき村だけ素通り、が不思議でならない。読後感として、次に出かけるのは「新しき村」にしよう、だった。松田さんいい本貸してくれてありがとう。南さんお元気そうなのでお電話したいと思います。機会があればお会いして取材秘話などお聞きしたいですね。
Apr 19, 2019
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現在読んでいるのは専ら「月刊文春12月号」。就寝から寝つくまでと、早く目覚めたときの時間つぶしに読むのでこま切れ読書となり殆ど身につかない。昨日か一昨日かなんとなく読んだノーベル賞受賞者へのロングインタビュー記事。ニューウトリノ振動の発見により質量があることを突き止めた東大の梶田さんかな。先生については生きておられれば一緒に受賞できたと言われる戸塚先生のことが記憶に残った。医学・生理学賞の大村智(さとし)さんへのロングインタビュー 「東大へ行かなくてよかった」(聞き手)科学ジャーナリスト馬場錬成さん。記事ではその考え方のユニークさと真っ当さに感銘を受けた。タイトルの「東大へ行かなくてよかった」には違和感があった。しかし発言の趣旨は「私みたいに自由に動き回る研究者は、はじき出されていたでしょう」ということで東大の研究者にならなくてよかった、ということ。ちなみに大村さんは山梨大学から都立隅田工業高校夜間部の理科教師になった。何故夜間部かというと、昼間に研究ができるから。そこで、働きながら学ぶ子供たちに触発されて東京理科大学の修士課程に入学し研究者と教育者を両立させていた。理科大卒後山梨大学の助手、2年後北里研究所入所、入所6年後(71年)に1年半アメリカ留学。帰国後アメリカの製薬大手メルク社と産学連携の契約締結。この契約がアフリカの風土病「オンコセルカ症(河川盲目症)などの特効薬となる抗寄生虫薬「イベルメクチン」の元となる微生物の発見につながった。えらいのは、己の研究成果をちゃんとビジネスにつなげるルートをわずか一年半のアメリカ留学時代に見つけて帰ったこと。メルク社だからできたことで武田とかでは無理だったかもしれない。これまで微生物などから450種類を超える化合物を発見し、内25種類余りが医薬品や農薬そして研究試薬として実用化されている。ロイヤリティーは総額で250億円くらいになる。これにより研究所の再建や病院建設がすすめられ、個人としても美術館を寄贈したり、人材育成のための「山梨科学アカデミー」を設立することができた。これから先が大村さんのサイエンス哲学である。お金をどう使うのか。大村さんは言う。「研究所を作ったり、病院を作ったということは自慢にならないんです。そのお金でサイエンスををやって見せないといけない、とずっと思ってやってきました。私が誇れるとしたらそれが実現できたことなのです」「たとえば、放線菌のゲノム解析です。我々が9億円をかけて解析したんです」『いま「地方創生」という言葉が盛んに言われています。しかし、すぐに公共施設を地方に作ります、というような話になってしまう。私が非常に不満なのは地方を再生するために「教育」という言葉がでてこないことです。事を動かすためには、教育から始めなくてはいけないのです』『何かをやろうと思ったらまず教育なのです』「小中高にいい先生を集めるためにお金を使って欲しいと思うのです』『科学は日々進歩していいるにもかかわらず教科書に書いてあることだけ教えるわけです。これでは生徒たちが興味を持つわけありません。大学を卒業した後でも科学の最新事情を先生が学ぶ仕組みが必要なのではないでしょうか』「教師たる資格は、自分自身が進歩していることである」。これは教師をしておられた母上が日誌の表表紙書かれていた言葉でいつも大村さんの頭の中にある言葉でもある。(以上、月刊文春のインタビュー記事からの抜粋)大村先生80歳で僕より二つ上だけどものすごく幅の広い人物像。農家で育ち、高校時代はスキー部卓球部の主将、スキー国体出場、山梨大学学芸学部卒。遂に徳島大学に続いて、地方大学の学芸学部からノーベル賞受賞者が出る時代が来たか、である。宮崎大学農学部出身でアメリカ在住の研究者もノーベル賞候補者だと聞いたことがある。中国とか韓国とかが日本バッシングでおだ撒いているけれどサイエンス部門でのノーベル賞受賞者はいるのかな。大村さんも仰る通り「物事の始まりは教育に有り」であるね。
Dec 2, 2015
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1時GB、8時20分GU,今朝も結構寒かったが最低気温はは推定2℃で屋根に霜が降りていた。目覚めたのは7時前だったので、読みかけの文庫本、豊久の女の最終第5巻を[読了した。時代考証がしっかりしていた(と思った)ので素晴らしく面白かった。豊久が関ヶ原で、大将島津維新(義弘)を落ち延びさせる殿戦で戦死したから後のフィクションであろう現地妻の木曽駒傭兵「緋馬里」と身ごもった彼女を豊久の忍び「六破}は陰ながら助けて生き延びさせる。結果的のは豊久と緋馬里の孫が薩摩日置永吉の佐土原衆の殿として返り咲くという波乱万丈の荒筋。佐土原と伊東勢と確執、佐土原藩跡目相続をめぐる本宗家内の勢力争いなど歴史的な流れは非常に分かりやすいので、佐土原の人々も面白く読める、なかなかの傑作だと思う。著者は松本市在住の「涼・麦穂(本名小俣知美さん)」帯書きによれば元々はブログで公開され歴史小とのこと。ブログは完結しているが、関連情報はURL、http://toyome.sblo.jp/で取得できる。通販サイトは、http://toyome.sblo.jp/article/96923237.html#more作家「麦穂さんのブログ」http://culchop.sblo.jp/index-2.html 南九州紀行がふんだんでおもろい。
Feb 13, 2015
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サブタイトルかな、リード文章に「円安、インフレで景気は回復しない。幻想(イリュージョン)に惑わされるな」とある。読むと、なるほど正論だと思うし、アベノミクスによる株高はバブル」だとも思う。結論は『2%インフレを起し、円安にすれば、という経済政策は、かつて日本人が共有していた「新しい価値創造を目指し、日々努力しよう」という志とは対極にある。「小手先でラクに景気をよく見せよう」という甘えた幻想に他ならない』厳しいが的を得ている。神谷秀樹(みたに・ひでき)在ニューヨーク投資銀行家。ロバ-ツ・ミタニ・LLC創業者。日本人個人として初めて米国証券取引委員会に登録した投資銀行「ミタニ&カンパニー・インク」を創業。その後改名して「ロバーツ・ミタニ・LLC」に。 ライフサイエンス、産業用バイオ、高級ブランド・ビジネスなどの育成に従事。金融機関は、国民から集めたゼロ金利に近い預貯金で大量に国債を買えば放っておいても儲かる仕組みになっている。そのつけはすべて国家の借金として積み上げられていく。危険を冒して民間に貸し出すことは考えない。正道は、短期金利を上げて預金者に金利を払い、銀行は国債を買っても逆ザヤとなるからどうにかして投資先、貸出先を探さないといけなくなる。これだ初めてお金が動き始める。ゼロ金利ではお金は回らない。「投資」と「投機」は違う。良くわかるがこれまでに積み上げた当期損失を回復するチャンスだから放っておく手はない。ミニミニ投機家ドン・グリコウは考える。下げのチャンスを狙おう。
Oct 3, 2013
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先ず読むのは巻頭随筆、阿川弘之氏に代わって立花隆さんが「日本再生」のタイトルで連載している。これが毎回素晴らしい。阿川さんの良さとはまた違う知的な香りが好ましい。この号では「日本再生・二十五」有機合成新時代のタイトルで有史以来植物にしかできなかった光合成を人工的にできるようになれば人類は画期的な進化を遂げ従属栄養生物から植物と同じ独立栄養生物へと転換ができる。水と炭酸ガスと太陽エネルギーで食物、エネルギーのみならずあらゆる有機化合物を人工でで作りだせるようになる。とにかく立花隆さんの「博覧強記」ぶりは東大出とは思えない凄味がある(褒め言葉である)中央公論社「立花隆の書棚」20万冊の蔵書を全公開 定価3,150円の広告が載っている。安岡正太郎さんの娘、安岡春子(ロシア文学者)さんの「父の思い出」他の随筆も中々。黒田日銀総裁、デフレファイターの苦難、小池真理子「父の遺品」、服部克久「ヒット曲からメロディーが消えた」、寺野典子「長谷部誠:国を愛するということ」キャップ長谷部が最近の試合ではあまりいいところがなかった。実戦位に起用されなくなっていたのが原因であった。監督が代わると日本人を公平に扱わない人がいるので選手は大変。香川が新監督から何やら忌避されていて出場機会が少なくなっていて日本にとってはピンチ。大型特集16人の医師だけが知っている「医療と健康の常識を疑え」これは必読かも?まだまだ読みたい記事が満載なのでネハン読書のペースではいつ読み終えるか見当もつかない。
Sep 23, 2013
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1時半就寝、5時半目覚めでそのまま8時過ぎまで文春10月号の2編を読んで朝飯前菜園作業はスキップ。はじめの原発事故私の最終報告書2「炉心溶融吉田所長の失敗」1977年6月に当時の原子力委員会が決めた原発の基本的な安全指針である「発電用軽水型原子炉施設に関する安全設計審査指針」の中の「指針9 電源喪失に対する設計上の考慮」に「長期間にわたる電源喪失は、送電系統の復旧または非常用ディーゼル発電機の修復が期待できるので考慮する必要はない」と記述されていて、政府も電力会社も今回のような外的要因である「津波による全電源喪失については全くの無策で対応訓練も一切されていなかった。で地震後の停電には非常用電源が働いて吉田所長は危機を脱したと安堵。ここまでは想定内。ところが、地震発生後41分過ぎた15時27分頃津波第1波が防波堤を打ち砕き押し寄せた。これから先は文字どおり想定外、訓練外の事態であり、全電源を喪失し暗闇の中で殆どなすすべがないままに時が過ぎてゆく。非常用の冷却水を送る復水器の開閉に関する思い違い等もあり電源喪失後2時間後には炉心溶融が始まっていたのである。これから先は愚利公の読後感、私見である。結果的には官・産・学三位一体の組織的な無知無能による前代未聞の大失態を招いた我が国の原子力発電政策、これはどう考えても、長期政権に胡坐をかいていた自民党政権の責任だと思う。東電は要するに儲かればいいわけだから、政治がちゃんとタガを締めておかなければいつ来るか不明の大津波対策などやるはずがない。一方、科学者の責任もものすごく大きい。地震学者は、原子力平和利用関係の学者たちは、いったい何をしていたのであろう。今になって活断層云々なんか言っているけどザマないネ。次に読んだ1編は現代の家系10「美智子さま母から受け継いだ改革精神」正田家の血脈に「肥前多久の旧々領主龍造寺家家臣の末裔副島氏」との記述があり「へー」。皇后陛下の母親が副島氏で上海のイギリス租界で生まれ14歳まで過ごしている。日清製粉社長の正田英三郎と結婚、その翌年の昭和5年夫とともにヨーロッパの製粉事業視察へ。その途上、ベルリンで長男を出産、そのまま1年ほど滞在、偶然にドイツ流育児法を学んだ。美智子皇后はこうして育てられた。蛇足ながら正田家は館林の醤油業から製粉業で成功、皇后の祖父の代からのクリスチャン。皇后陛下もキリスト教系の聖心学院出身であるが洗礼は受けていなかった。クリスチャンであれば皇太子妃候補にはならなかったとか。運命だろうか。表題の「改革精神」は、皇室の伝統の2、3歳で親兄弟から離されて育てる「乳人・傅育官制度」を取りやめ、子供3人を夫妻で育てたこと。これから先は独り言。子育て、母親との文通などで多々バッシングがあったらしい。歴史は繰り返すというが、民間人二人目の雅子妃も同じ苦しみを味わっていることを考えると、皇族内のトラブルと言うより、小姑的宮内庁関係者とか旧華族会あたりがうるさいのではないだろうか。
Nov 7, 2012
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0時就寝、6時目覚めて読書。文春11月号「田中角栄の恋文」「想定内の津波だった」田中角栄から佐藤昭・敦子に宛てた書簡を遺児敦子さんが立花隆に託して公開したもの。2人とも故人であり立花さんは貴重な「歴史資料として」解説付きで公開した。岩手県内の津波の到達域は、行政がハザードマップに示していたものとほぼ同じであった。なのに、多くの人が逃げ遅れたのは何故か?徹底していなかっただけでは済まされない人間的な思い込みと過去の風化があった。降り出したのは今朝の明け方から、10時現在の累加雨量6ミリ、気温9℃、寒々しい。
Feb 22, 2012
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0時半就寝、7時前に目覚めて「文春読書」歴史的トピックス2編。はじめに、69日の短命に終わった「宇野宗祐」内閣を倒した元神楽坂芸妓の話し。スクープしたのはサンデー毎日、編集長が鳥越俊太郎だった。買春だから書いたとか。宇野さん、女性問題以外では才人、文人で通り汚点は無い。名誉市民、県民葬でおくられている。もう1編は「巨人は(パ最下位の)ロッテより弱い」発言で日本シリーズをふいにした近鉄加藤哲郎の話。著者の二宮さんは、「らしいことは言ったかもしれないが、ロッテより弱い」とは言っていない。負けた原因は仰木監督の投手起用と継投策の失敗だった、というのが結論?加藤自身は「言っていないことだが、お陰で今でも加藤の名前が球史に残っているからいい」両事件が起きた年が1989年(平成元年)のこと。昭和天皇崩御とあわせて三大事件?
Feb 21, 2012
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旧皇族出の久邇晃子さんは東大医学部卒の精神科医。原発建設を推進した戦後の日本と負け戦に突入した戦前の日本。心理学的には全く同じ。「安全でないものをしゃにむに遂行するのは、一種の病的な脅迫行為に見える。下手をすると破滅することになるかもしれないような綱渡りに乗り出し、硬直化してやめることができない。これは、集団自殺願望か?と疑いたくなる。愚かで、痛ましいわが祖国。美しい日本の野山を見ると、じっと耐えている東北の人々の姿を見ると、涙が止まりません。」直下型地震に襲われて「絶対安全」などと言い切れるはずが無い。隕石が直撃することだってゼロではないだろう。やっぱり原発は廃止したほうがいい。今朝読んだもう1本は、林真理子×愛新覚羅?生さんの対談禄「流転の王妃」?生(こせい)さんは、清朝最後の皇帝「愛新覚羅溥儀」の弟「溥傑・浩」夫妻の娘。?生産の姉の慧生(えいせい)さんは学習院大生のときに天城山心中と報道された女性。「別の場所で打たれた他殺で、殺された後運ばれた」無理心中の被害者だったとのこと。真相は良く分からないが、遺書(嵯峨家で償却)があったことから大勢は情死のよう。しかし、ここで語られているのは父溥傑と母浩(嵯峨公爵家出)の仲睦まじかった思い出。加えて、敗戦後の満州から帰国までの流転人生など歴史上の事件として興味深かった。
Feb 20, 2012
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0時就寝、3時に一度目覚め、6時に目覚めた。外はかなりの雨のようである。6時~7時20分まで、文春8月号の吉村昭さんの講演録(1988年東北築館)と津村節子VS瀬戸内寂聴対談をもう一度読み返した。初読で気がつかなかったことが色々と腑に落ちてきて対談のところで何度も涙が出てきた。特に、津村節子さんの思い出話はよかった。プロポーズの話し、売れなかった頃、北海道まで夫婦で行商した苦労話も良かった。そして、文春6月号所載の吉村昭「半身大震災歴史は繰り返す」を再度読見返した。吉村昭は「関東大震災」も書いているし、「三陸海岸大津波」も書いている。この2作は徹底した聞き取り調査に基づいて書いたドキュメント作品で価値が高いとのこと。ドキュメント歴史小説は好むところで、小島直紀、吉村昭は中年以降随分読んだ。記憶に残る吉村作品は、高熱隧道、戦艦武蔵、ポーツマスの旗、深海の使者、長英逃亡、ふぉんしいほるとの娘など。小説を2度読むことは先ず無いが、評論、講演禄、対談などは読み込むことで筆者、論者の意図するところ、言わんとするところが分かってくることを感じた次第。しかし、活字文化より前に手っ取り早く情報が入る視聴メディアに満ち溢れている日本、中々2度3度と読み込む努力は出来そうにないのも現実である。
Oct 30, 2011
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1時40分就寝、家内がかけたアラームで6時に目が覚めた。外は真っ暗、起き出す気にはなれない。涅槃読書に入った。起床は8時ジャスト。雨で何もできないので、最近読んだ本、読み始めた本、読みかけの本を3冊紹介。「小説日本銀行」面白くないこともないが人物の設定にややむりがあり重苦しい。戦後すぐの日銀の内幕を描いているけれど、別世界のことなので「ほんと?」という感じ。「胡蝶の夢」は「この国のかたち2のポンペの 神社」に触発されて2度目の読書。 91.1.4購入、1月9日読了、AAAの評価メモが残っている。周防三田尻の「荒瀬幾造」、蘭医ポンペの門人で帰郷して医者になった後、自宅に恩師を祀る神社を造り毎日礼拝を欠かさなかったという話しを司馬遼太郎さんがお孫さんから聞いたこと事から「胡蝶の夢」を書いたとしている。タイトルの「胡蝶の夢」は中国の故事からとったものだそうで、荘子が見た夢だとか。意味は、秀吉辞世の「浪速のことは 夢のまた夢」に近いかな。人生は儚い夢のようなもの?
Dec 2, 2010
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時系列的に言えば、ブログが後先になった。0時半就寝、ほんの暫く「随筆新平家」を読む。消灯せずに眠りに落ちて目覚めたのが1時半。消灯しすぐに再眠。6時半に目覚めたが扇風機の所為か体がだるく起き上がる気になれない。横になったまま「随筆新平家」夜半に読んだ部分から改めて読み始める。週刊誌連載中、月の初号に書いた梗概でタイトルは「新平家落穂集-筆間茶話」。内容は平家伝説の跡をたどる取材旅行したときのこぼれ話的なもので小説よりも面白い。今回は昭和29年に書かれたもので主役は木曽義仲と巴御前など。初めて知ったことばかりで興味は尽きないが、芭蕉と義仲、時代は違うが不思議なつながり。義仲の墓所は滋賀県大津市(近江の粟津}の義仲寺で、すぐ隣りに芭蕉晩年の庵があった。『粟津の義仲寺(ぎちゅうじ)は、すぐ隣りに、俳人芭蕉が幻住庵を結んだことやら、また、木曽殿と背なか合わせの寒さかなという句なので有名である。この句は叉玄(ゆうげん)の句を誤り伝えたものという。』芭蕉は、誰でも知っている「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」と詠んで大阪で亡くなった。遺骸は、遺言により義仲墓所の右隣に埋葬されたそうである。芭蕉、暴れん坊で京の人々に嫌われた義仲のどこに魅かれて墓所まで一緒にしたのであろう?次に登場する義仲を滅ぼした義理の弟?「源九郎義経」についての余話は次回に。
Jul 16, 2010
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間断なく読書はしているが、最近はまとまった読書はしていない。したがって、ブログで紹介することもなかったが、今回埋蔵本の中からいい本を見つけたので。吉川英治なんて作家、今では全く忘れられた存在となったがかつては超売れっ子だった。講談社 吉川英治文庫 随筆新平家 文庫本で384頁の読み応えのある作品。まあ、一言で述べれば「平家物語取材旅行記」である。随行者が奥さんほか数人いる。巻頭にに収載されている新平家落穂集―筆間茶話―を60頁読んだだけだけれど実に面白い。吉川英治といえば子どもの頃「神州天馬侠」という少年小説?を読んだくらいである。新平家物語(全16巻)も週刊誌に連載中にところどころ読んだだけ。他に、私本太平記(全8巻)、宮本武蔵(全8巻)、新書太閤記(全11巻)の大作があるがいずれも読んでいない。この年になって小説は気が進まない。随筆とかノンフィクションとかなら読む。で、何気なく本棚から抜いた「随筆新平家」を読み始めた。僕の癖に「あとがき」「解説」から読むというのがある。今回も、はしがきを読み、しょっぱなを何十頁か読んだ後「解説」を読んだ。巻末には、晴海鎮男記、「新平家吟行余話」-解説にかえて、が載っていた。晴海鎮男ちゃあ何者よ。週間朝日の編集者かな、と思いネットで検索。結局探せなかった。それよか、そこの描かれている吉川英治の人となりと俳句。俳句を詠む文人は多いが彼の作品、何よりもユーモアがあってとてもいい。『伊那乙女ひとり貰うて帰りたや取材先の旅館で村長さんたちがもてなしとして、自分の孫や近所の小学生による正調伊那節おどりを用意してくれた。このかわいいおどりは、何よりも吉川さんの胸を打った。おどりが終わってから、珍しくも、自分から催促した色紙に、一枚一枚この句を書いてかわいい少女たちの好意にむくいたのであった。』そのほかに紹介している。『せうへんのさきをまけるよはるのかせ即菩提即煩悩之月夜哉 若葉千本青葉千本吉野山吉野山は「新平家」の最後の舞台。最初の単行本の第24巻「吉野雛の巻」を納本に行ったとき、その1冊をとって、とびらのところに、稿を終わりて 七年の反古より出でて蝶と化す 著者「実感デス、実感デス」と何度も確かめるようにうなづきながら、書きしるされた1本を、いただく僕は、しばらく言葉も出なかった。』せうへんのさきをまけるよはるのかせこれについては、漢字交じりで濁点をつけると川柳になってしまい、臭気さへ伴ってくる。ひらがな、濁点抜きだと文人句の最高位だと晴海さんは書いている。実際は「小便の先を曲げるよ春の風」だったのである。
Jul 14, 2010
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是故君子先慎乎徳。有徳此有人、有人此有土、有土此有財、有財此有用。徳者本也。財者末也。 外本内末、爭民施奪。 是故財聚則民散。財散則民聚。是故言悖而出者、亦悖而入、貨悖而入者、亦悖而出。 このゆえに君子はまず徳を慎む。徳あればこれ人あり。人あればこれ土(ど)あり。土あればこれ財あり。財あればこれ用あり。徳は本なり。財は末なり。 本を外(ほか)にし末を内にすれば、民を争わせ奪うを施す。 この故に財聚(あつま)れば則ち民散(さん)じ、財散ずれば則ち民聚(あつま)る。 この故に言(こと)悖(もと)って出ずる者は、また悖って入る。貨悖って入る者は、また悖って出ず。(前段最終節では、「天命を保ち君子として生きることは容易なことではない」と説いた)これゆえに、為政者は先ず徳を積むことに務める。徳を積めば人は支持して集まってくる。人が集まってくれば領土を確保することができる。領土が広がれば税収があがり財政も豊かになる。財政が豊かになればこれを用いて民の暮らしも豊かになる。このように、政治の根本は為政者の徳で、財は末なのである。為政者が徳を疎かにして蓄財をはかるのは、民に財の争奪を奨励するようなものである。それ故、為政者の下にだけ財物が集まるような政治では民衆は困窮して離散してしまう。反対に、政治の本を徳に置き、集まった財物を民衆のために流通させれば人は集まってくる。道理に反した発言をすれば、道理に外れた言葉が返ってくるように、道に背いて集めた財貨は、道に反したやり方によって出て行くことになる。
Mar 23, 2010
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詩云、樂只君子、民之父母。民之所好好之、民之所惡惡之。此之謂民之父母。詩云、節彼南山、維石巖巖。赫赫師尹、民具爾瞻。有國者不可以不慎。辟則爲天下戮矣。詩云、殷之未喪師、克配上帝。儀監於殷、峻命不易。道得衆則得國、失衆則失國。詩に云く、楽しき君子は民の父母。民の好む所はこれを好み、民の悪む所はこれを悪む。これをこれ民の父母と謂う。詩に云く、節たる彼の南山、惟れ石巌々(がんがん)たり。赫々(かくかく)たる師尹(しいん)、民具(とも)ともに爾(なんじ)を瞻(み)ると。国を有(たも)つ者はもって慎まざる可からず。辟すればすなわち天下の戮(りく)となる。詩に云く、殷(いん)のいまだ師(もろもろ)を喪わざるとき、克(よ)く上帝に配す。儀(よろ)しく殷に監(かんが)みるべし、峻命(しゅんめい)易(やす)からずと。衆を得(う)れば則ち国を得(え)、衆を失えば則ち国を失うを道(い)う。「詩経」小雅の南山雄台篇に、楽しき君子は民の父母とある。民が好むところを好み、民が憎むところは憎む。これを民の父母というのである。(このように民衆の気持ちを推し量って政治ができる為政者を民の父母というのである)「詩経」小雅の節南山篇に、「切り立ち聳える彼の南山、巌がんとして頼もしい。権勢盛んな政治家の尹(いん)氏よ、民は皆あなたをあがめている」とうたわれている。国を治めるものは慎重でなければならない。独断専行すれば国は乱れ、ついには国を滅ぼし身を滅ぼし天下に恥をさらすことになる。さらに詩経の大雅文王の編には、「殷がまだ民衆の支持を失わなかった頃は、天の心に適っていた。(しかし、殷も天に見放されて滅びてしまう)よろしく殷の滅亡を手本とすべきである。大いなる天命を維持するのは容易なことではない」とある。これは、民衆の支持を得れば国を得、失えば国を失う、くっきの道について述べたものである。[愚利公感懐]昨日の「龍馬伝」で松蔭の言葉として「草莽の崛起=民衆よ決起せよ」があった。久坂玄瑞が武市半平太に宛て坂本龍馬に託した有名な書簡にもこの言葉が記されていた。この言葉に龍馬が啓発されたのか、土佐の龍馬から日本の龍馬に飛躍する。君子は「くっき=民衆を思いやる」し、幕末、草莽の志士は「崛起」したのである。訓は同じでも意味は違うようであるが、相通じるものがある。(天命に殉じる)四書五経に精通していた松蔭、「草莽の志士たちよ、汝ら天命を知り立ち上げれ」と檄を飛ばした。
Mar 22, 2010
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所惡於上、毋以使下。所惡於下、毋以事上。所惡於前、毋以先後。所惡於後、毋以從前。所惡於右、毋以交於左。所惡於左、毋以交於右。此之謂繋矩之道。(前段からのつづき)「君子には、自分の真心を基準として他を思いやる「繋矩(けっく)の道があるとは? 」 上(かみ)に悪(にく)む所、もって下(しも)を使う母(なか)れ。下に悪む所、もって上に事(つか)うる母れ。 前に悪(にく)む所、もって後ろに先だつ母れ。後ろに悪むところ、もって前に従う母れ。 右に悪む所、もって左に交わる母れ。左に悪む所、もって、右に交わる母れ。これをこれ繋矩(けっく)の道と謂う。上の人に無礼なところがあっても、下の者を使うにあたり、同じことをしてはならない。下の者に不忠なところがあっても、上の人に仕えるにあたり、同じことをしてはならない。前の人が善からぬことをしても、後ろの人に同じことをしてはならない。後ろの人が善からぬことをしても、前の人に同じことをしてはならない。右の人が善からぬことをしても、左の人に同じことをしてはならない。 左の人が善からぬことをしても、右の人に同じことをしてはならない。これを自分の真心を基準として他を思いやる心、「繋矩(けっく)の道という。[愚利公感懐]自分が感じた痛みに思いをいたして、上司、部下、前人、後人、左右の人に対し、思いやりの心で、自らの行動を律することが「治国平天下」への道である。現代へ置き換えれば、リーダーのとるべき道の大きな要件の一つではあると思う。
Mar 12, 2010
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所謂平天下在治其國者、上老老而民興孝、上長長而民興弟、上恤孤而民不倍。是以君子有*矩之道也。 所謂天下を平らかにするはその国を治むるに在りとは、上(かみ)老を老として民孝に興(おこ)り、上長を長として民弟(てい)に興り、上孤(こ)を恤(あわれ)みて民倍(そむ)かず。 ここをもって君子*矩(けっく)の道あるなり。○上(かみ)=為政者、君主。 ○孤=父親のない子ども。○*矩(けっく)の道=「けつ」は契の大が糸で、麻の縄。矩は曲尺。自分の真心を基準として、他を思いやること。恕の徳と同じ意。所謂「世界を平和にすると国を治めるにある」とはどんなことか。君主が老人を老人として敬えば、民もそれに倣い奮い立って親に孝行となり、同じく、年長者を年長者として敬えば、民もそれを見倣い従順になり、また、親のない子を憐れみ助ければ、民もそれを見倣って背くこともなくなるからである。このように君子には繋矩の道(自分の真心を基準にして他を思いやる道)があるのである。それでは、繋矩の道とはどんな道であるか。(治国平天下-2へつづく)
Mar 12, 2010
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詩云、桃之夭夭、其葉蓁蓁。之子于歸、宜其家人。宜其家人、而后可以教國人。詩云、宜兄宜弟。宜兄宜弟、而后可以教國人。詩云、其儀不*正是四國。其爲父子兄弟足法、而后民法之也。 此謂治國在齊其家。右傳之九章、釋齊家治國。 詩に云く、桃の夭夭(ようよう)たる、その葉蓁蓁(しんしん)たり。この子于(ここ)に帰(とつ)ぐ、その家人(かじん)に宜(よろ)しと。 その家人に宜しくして、而して后にもって国人を教うべし。 詩に云く、兄(けい)に宜(よろ)しく弟(てい)に宜しと。 兄に宜(よろ)しく弟に宜(よろ)しくして、而して后にもって国人に教うべし。 詩に云く、その儀(のり)*(たが)わず、この四国を正すと。 その父子・兄弟(けいてい)たる法(のり)とるに足りて、而して后に民これに法りとる。 これを国を治むるはその家を斉うるに在りと謂う。 右伝の九章。家を斉え国を治むることを釈す。 「詩経」周南の「桃夭」篇には、桃の木は若々しく花開き、葉は緑深く茂っている。この桃の木のような娘が嫁げばその家の人々と仲睦ましく暮らすだろう、とある。このように君主も家人と仲睦ましくして、はじめて国民を教え導くことができるのである。「詩経」小雅の「蓼蕭(しょうがしょうしょう)」篇には、兄、弟仲良く、そうあってのち、国民を教え導くことができる、とある。「詩経」曹風の「*鳩(しきゅう)篇には、君子は自らが、のり(儀・法)を踏み外さないことで、四方の国を正している、とある。家に於いては、父、子、兄、弟、皆がその務めを果たして後、民もこれを見習うのである。国を治めるには先ず家をととのえるにある、とはこのことを言っているのである。以上、伝の9章は「斉家治国」について解説したものである。
Mar 11, 2010
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堯舜帥天下以仁、而民從之。桀紂帥天下以暴、而民從之。其所令反其所好、而民不從。 是故君子有諸己、而后求諸人。無諸己、而后非諸人。所藏乎身不恕、而能喩諸人者、未之有也。 故治國、在齊其家。 堯・舜天下を帥(ひき)いるに仁をもってして、民これに従う。 桀・紂(けっちゅう)天下を帥(ひき)いるに暴をもってして、民これに従う。 その令(れい)する所その好む所に反しては、民従わず。 この故に君子は諸(これ)を己に有して后に諸を人に求む。 諸を己に無くして、而して后諸を人に非(そし)る。 身に蔵する所恕ならずして、能く諸を人に喩す者は、未だこれ有らざるなり。故に国を治むるは、その家を斉(ととの)うるに在り。[宇野字義]○堯・舜=中国古代の聖君、唐尭と虞舜のこと ○ 桀・紂=同暴君の夏傑と殷紂のこと○諸を己に有す=仁譲の徳のある ○諸を己に無す=貪欲の心がないこと○恕す=己を推して人に及ぼすこと ○喩=さとす尭と舜は、仁の心で天下をひきいたので万民もこれに倣って睦みあった。桀・紂は、暴虐をもって天下をひきいたので、万民もこれに倣って暴虐を行った。しかし、君主の命令が君主の本当の好みに反すれば、命令には従わず君主の好みに従う。(ここで言おうとしているのは、暴虐の王が、仁徳を説いても誰も従わないということ)だから、君主は仁譲の徳で身を修めてのち、万民にも仁譲の徳を求め得るのである。さらに、己が貪欲の心をなくしてのち、初めて万民にも貪欲を非とすることができる。このように己自身のなかに思いやりの心がなければ到底人を諭すことなんか出来ない。故に、国を治めるには、先ずその家をととのえなくてはならないのである。(この一節は恕をもって人を教え導くことを説いたものである)
Mar 10, 2010
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康誥曰、如保赤子。心誠求之、雖不中不遠矣。未有學養子而后嫁者也。一家仁、一國興仁、一家讓、一國興讓、一人貪戻、一國作亂。其機如此。此謂一言*事、一人定國。康誥(こうこう)に曰く、赤子を保つが如しと。心誠にこれを求むれば、中(あた)らずといえども遠からず。 未だ子を養うことを学びてしかるのちに嫁ぐ者あらざるなり。 一家仁なれば一国仁に興り、一家譲なれば一国譲に興り、一人貪戻(たんれい)なれば一国乱を作(な)す。その機かくのごとし。 これを一言(いちげん)事(こと)を*(やぶ)り、一人(いちにん)国を定むという。○*(やぶり)=憤の篇が人偏で敗れるの意 ○貪戻(たんれい)=貪欲 ○機=はずみ○一家=君主の一家 ○一人=君主書経「康誥」篇に「君主は赤子を慈しむように民に接しなければならない」とある。赤子は何が欲しいか、母親が真心で接すれば中らずとも遠からず、大抵は察することができる。子育てを学んだ後に嫁ぐ娘など一人もいないのにである。(真心で接することの効果である)君主の家が仁であれば、一国皆これに倣って仁となる。君主の家が謙譲であれば、一国皆これに倣って謙譲となる。君主が貪欲であれば、一国皆これに倣って貪り合い騒乱を起こす。そのはずみ(機)はひとえに君主の一身、一家の貪欲にある。これを「一言の失は事を敗るに足り、一人の正は国を定むるに足る」という所以である。[愚利公感懐]ここに来て、斉家の意味(対象)が君主の家(一族郎党)であることがはっきりした。大学を読む対象はやはり選ばれし者「エリート」、帝王学だったのは当然ではあるが....。個々人の家を王国と見れば、親父は君主であり、統治に利用された儒学でもあった。洋の東西を問わず、宗教と政治が結びついて大衆を統治したのは歴史的な事実でもある。それでも統治者が聖人君子であれば民は救われる。然しながら儒家の意に反して、単なる統治の手段として利用されたことも多かったかと思う。
Mar 9, 2010
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所謂治國必先齊其家者、其家不可教、而能教人者無之。故君子不出家、而成教於國。孝者所以事君也。弟者所以事長也。慈者所以使衆也。所謂国を治むるには必ず先ずその家を斉(ととの)うとは、その家教うべからずして、能く人を教うる者はこれ無し。 故に君子は家を出(い)でずして、教えを国に成す。 孝は君に事(つか)うる所以なり。弟(てい)は長に事うる所以なり。慈は衆を使う所以なり。いわゆる「国を治めるには、必ず先ずその家をととのえる(和合する)」とはどういうことか?わが家を教化できないのに、世の人々を教え導くことができる人間などいるはずがない。ところが君子は、家に止まっていても世の人々を教え導くことができるのである。(家を和合するのと国を治めるのとはその理は同じなのである)親への孝は、君に仕えることが出来るよりどころである。兄への従順は、長者に仕えることが出来るよりどころである。子弟への慈愛は民衆を使うよりどころである。(孝・弟・慈の三徳は君子が身を修めて家を教え、教えを国に成すゆえんである)[愚利公感懐]伝9章は結構長文なのでこれだけでは何のことやら、何を言わんとするのか良くわからない。
Mar 8, 2010
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所謂齊其家在脩其身者、人之其所親愛而辟焉。之其所賤惡而辟焉。之其所畏敬而辟焉。之其所哀矜而辟焉。之其所敖惰而辟焉。故好而知其惡、惡而知其美者、天下鮮矣。故諺有之曰、人莫知其子之惡、莫知其苗之碩。此謂身不脩、不可以齊其家。右傳之八章、釋脩身齊家。所謂その家を斉うるはその身を修むるに在りとは、人はその親愛する所に之(ゆ)いて辟(へき)す。 その賤悪(せんお)する所に之て辟す。その畏敬する所に之て辟す。 その哀矜(あいきょう)する所に之て辟す。その敖惰(ごうだ)する所に之て辟す。 故に好みてしかもその悪を知り、悪(にく)みてその美を知る者は天下に鮮(すくな)し。 故に諺にこれ有り、曰く、人はその子の悪を知るなく、その苗の碩(おお)いなるを知る莫しと。 これを身修まらざればもってその家を斉(ととの)うべからずという。 右は伝の八章。身を修め家を斉うることを釈す。 [宇野字義]○之=適なり「ゆく」と訓す。 ○辟(へき)=偏(かたよ)る。所謂その家を斎える(和合)ということはその身を修めることだとは、どういうことなのか?人は家族や親族に対しては、その愛情に溺れて偏った判断をする。人は身分の低い者にたいしては、賤しみ蔑みの感情にとらわれて偏った判断をする。人は身分の高い者に対しては畏敬の念に惑わされて偏った判断をする。人は困窮している者に対しては憐憫の情にほだされて偏った判断をする。人は疎遠の者に対しては無視して偏った判断をする。したがって、好ましい人にも欠点があり、嫌いな人にも美点があることを知る人は少ない。諺にも言う、「親ばかはわが子の悪を知らず。欲張りはわが家の苗の価値に気づかず」と。このように、わが身が修まらなければ家をととのえることはできないのである。以上は、伝の8章 修身斎家についての解説である。[愚利公感懐]ここで言おうとしていることは、およそ人は、その感情に任せ、好悪が偏りがちとなるから、正しく身を修めないと一家を和合させることはできない、ということ。
Mar 6, 2010
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所謂脩身在正其心者、身有所忿*、則不得其正。有所恐懼、則不得其正。有所好樂、則不得其正。有所憂患、則不得其正。心不在焉、視而不見、聽而不聞、食而不知其味。此謂脩身在正其心。右傳之七章。釋正心脩身。所謂(いわゆる)身を修むるはその心を正すに在りとは、身(こころ)に忿*(ふんち)する所あれば、則ちその正を得ず。恐懼(きょうく)する所あれば、則ちその正を得ず。 好楽(こうぎょう=好みなことをねがう)する所あれば、則ちその正を得ず。 憂患(ゆうかん)する所あれば、則ちその正を得ず。心ここに在らざれば、視れども見えず、聴けども、聞こえず、食えどもその味わいを知らず。 これを、身を修むるはその心を正すに在りという。 右は伝の七章。心を正しくし身を修むるを釈(しゃく)す。 いわゆる身を修むるはその心を正すにありとは、心(身)に怒りや、恐れや、楽しみへの期待や、心配事があれば、正しい状態には保てない。心ここにあらずの状態では、見ても見えず、聞いても聞こえず、食べても味がわからない。これを、身を修むるはその心を正すにありというのである。 以上は伝の七章。心を正しくし身を修むるを解説したものである。[愚利公感懐]一般的には「何かがあって考え事をしているとき」は「心ここにあらず」となる。特に「目は口ほどにものを言う」ので、恋人や奥方の前では「考え事」は禁物。常に心を正して身を修めていれば心広やかに、身ものびのびとなりますかねえ?
Mar 5, 2010
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曾子曰、十目所視、十手所指、其嚴乎。 富潤屋、徳潤身。心廣體胖。故君子必誠其意。右傳之六章。釋誠意。 曾子曰く、十目の視るところ、十手(じっしゅ)の指(ゆびさ)すところ、それ厳なるかなと。 富は屋を潤し、徳は身を潤す。心広く、体胖(ゆた)かなりと。 故に君子は必ずその意を誠にす。 右は伝の六章、誠意を釈す。 曾子はこう云っている。人の行動は十の目、十の手で指さすように厳しく監視されている。であるから、独り身を慎むことは厳しく行わなければならない。富が家を豊かにするように、徳を積めば心身が潤い、心は広く体は豊かで伸びやかになる。ゆえに、君子は必ず意を誠にするのである。以上、伝6章は誠意を解説したものである。
Mar 4, 2010
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小人間居爲不善、無所不至。見君子而后厭然、*其不善、而著其善。人之視己、如見其肺肝然。則何益矣。此謂誠於中形於外。故君子必慎其獨也。小人(しょうじん) 間居(かんきょ)して不善を為す、至らざる所なし。 君子を見て后(のち)厭然(えんぜん)として、その不善を*(おお)いてその善を著す。 人の己を視ること、その肺肝を見るがごとく然り。則ち何の益かあらん。 これを中(うち)に誠あれば外に形(あらわ)るという。 故に君子は必ずその独りを慎むなり。[宇野字義]○厭然(えんぜん)=蔽いかくすこと ○肺肝を見るがごとく然り=真相を看破するにたとう。不徳の凡人は、閑居して人から見られないところでは、どんな不善でもやってのける。そして君子を見ると、蔽いをかけるようにその不善をかくして、善であるかのように見せかける。しかし、人の目は肺肝を見通すほどに厳しいから、隠そうとしても何の役にも立たない。これを、心の中の誠(真相)はおのずから外にあらわれると言う。ゆえに、君子は独りいるときでも必ず厳しく身を慎むのである。(人はいつも衆人環視の中にいる。独りでいるときでさえ身を慎んで生きなければいけない)[愚利公感懐] 不善を重ねて70年、誠にもって然りだが軌道修正はままならないなあ。
Mar 3, 2010
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所謂誠其意者、毋自欺也。如惡惡臭、如好好色。此之謂自謙。故君子必慎其獨也。所謂、その意を誠にすとは、みずから欺く母(な)きなり。 悪臭を悪(にく)むがごとく、好色を好むがごとし。 これをこれみずから謙(こころよ)くすと謂う。 ゆえに君子は必ずその独りを慎むなり。[宇野字義]○謙(こころよ)くす=自ら満足に思うの意 ○独り=人が知らないところ、己独り知るところいわゆる、「その意を誠にす」とは、自らを欺かないことである。悪を見たら悪臭を憎むように憎み、善を見たら美しい色を好むよう好む。このように善をなして悪から去れば自ら満ち足りた気持ちになる。ゆえに、君子は人が知ろうと知るまいと己独りが知るところ慎むのである。意を誠にす、誠意についての説明である。
Mar 2, 2010
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所謂致知在格物者、言欲致吾之知、在即物而窮其理也。蓋人心之靈、莫不有知、而天下之物、莫不有理。惟於理有未窮、故其知有不盡也。 是以大學始教、必使學者既凡天下之物、莫不因其已知之理、而益窮之、以求至乎其極。至於用力之久、而一旦豁然貫通焉、則衆物之表裏精粗、無不到、而吾心之全體大用、無不明矣。此謂物格、此謂知之至也。 所謂知を致すは物に格(いた)るに在りとは、吾の知を致さんと欲せば、物に即(つ)いてその理(り)を窮(きわ)むるにあるを言うなり。 蓋し、人心の霊、知あらざる莫(な)し。而して天下の物、理あらざる莫し。 唯だ理において未だ窮めざるあり、故にその知尽(つ)くさざるあるなり。 是(ここ)をもって大学の始教は、必ず学者をして凡そ天下の物に即きて、その既に知るの理によって益々これを窮め、もってその極に至らんことを求めざるなからしむ。 力を用うること久しくして、一旦豁然として貫通するに至れば、すなわち衆物の表裏精粗到らざるなく、わが心の全体大用(たいよう)も明らかならざるなし。 これを物格(いた)るといい、これを知の至りというなり。所謂、知を致すは物に格(いた)るに在りとは、自分の知を極めようと欲するならば、自らが接する物ごとについて、内在するその道理を窮めなければならないということである。思うに、人の心は神秘的なもので、誰にでもそれなりの知が備わっている。 そして、万物に道理がないものはないのである。ただ、物事の道理を未だに窮めつくしていないので、人知もまだ尽くされていないのである。そこで、大学の教育では、まず学ぶ者をしておよそ天下の事物について、既に知られた道理を手がかりにますますこれを窮め、その窮極に到達させようとするものである。このように努力を久しく積み重ねて、いったん豁然と貫通するに至れば(心に悟りを開いたさま)、即ち、あらゆる物ごとの表裏、精粗まで窮めつくし、さらには吾が心の全体、働きまでもが明らかにになる。これを物事の道理が窮めつくされる「物が格る」といい、知識が窮極まで至った、「知の至り」というのである。
Feb 27, 2010
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此謂知本。此謂知之至也。右傳之五章、蓋釋格物致知之義。而今亡矣。間嘗竊取程子之意、以補之曰、 これを本を知るという。これを知の至りという。 右は伝の五章、けだし格物(かくぶつ)致知(ちち)の義(ぎ)を釈(しゃく)す。しかして今亡(ほろ)ぶ。 間(このごろ)嘗(こころ)みに窃(ひそか)かに程子の意を取って、もってこれを補って曰く<守屋字句注釈>○伝の五章 朱子によれば、この章はもともと「格物致知」の意義を解説した部分であるが、今は失われてしまったとして、みずから本文を補った。朱子の「格物補伝」と知られてきた章である。○此謂知本。此謂知之至也。 この字句はもともと「経一章」の末尾にあったものだが、朱子はこれを失われた「伝五章」のなかで、わずかに残った字句だとしてここに移した。ただし、「此謂知本」は必要のない字句がまぎれこんだ衍文(えんぶん)だとした。これを、本を知る、知に至るというのである。(本文は欠けている)以上、伝五章は、思うに「格物致知」の意義を解説したものである。しかし、本文の方は今は失われてしまった。そこで私は、試みにひそかに程先生の意見を参考にして、失われた本文を補ってみた。
Feb 26, 2010
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子曰、聽訟吾猶人也。必也使無訟乎。無情者、不得盡其辭、大畏民志。此謂知本。右傳之四章、釋本末。[宇野字義]○情=まことと訓ず。感情の意にあらず。 ○畏(おそ)れ=畏敬の意。子曰く、訟(うった)えを聴くは、吾猶人のごときなり。必ずや訟えなからしめんかと。 情(まこと)なき者はその辞を尽くすことを得ず。 大いに民志(みんし)を畏(おそ)れしむ。これを本(もと)を知ると謂う。 右は伝の四章、本末を釈(しゃく)す。 孔子は言われた。訴えを聴いて裁く能力は、私もほかの人と違わない。私は、それよりも訴えを無くすように(政治を)したいと思う、と。誠のない訴えをしてきた者には、その言を最後まで通すことはできないことを悟らせ、こちらの明徳でもって民の心を畏敬させるのである。これを本(明徳が本で訴えがないのが末)を知るというのである。以上、伝の四章はものの本末について解説したものである。
Feb 25, 2010
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詩云、於戲前王不忘。君子賢其賢、而親其親、小人樂其樂、而利其利。此以沒世不忘也。右傳之三章。釋止於至善。詩に云く、於戯(ああ)前王(ぜんのう)忘れられずと。 君子はその賢を賢としてその親(しん)を親(しん)とし、小人はその楽しみを楽しみてその利を利とす。ここをもって世を没して忘れられざるなり。 右伝(みぎでん)の三章。至善に止まるを釈(しゃく)す。(前段に続く伝三章「至善に止まる」の詩経を引いての説明である)[宇野字義]○詩に云く=詩経周頌、烈文の篇 ○於戯(ああ)=歎美の辞 ○前王=周の文王・武王○君子小人(くんし、しょうじん)=君子は在位の人、小人は下万民をいう。詩経、周頌の烈文篇には、ああ、前の王様(文王・武王)のことは忘れられないとある。その遺風を継いだ王(君子)は賢者を賢者として、親族を親族として遇してきた。また人民(小人)は、(前王の時代からの)楽しみを楽しみ、利を利として暮らすことができた。だから、世を去ってからも(文王・武王)忘れられることがないのである。以上の「伝三章」は「至善に止まる」について解説したものである。
Feb 24, 2010
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詩云、瞻彼淇澳*竹猗猗。有斐君子、如切如磋、如琢如磨。瑟兮*兮、赫兮喧兮。有斐君子、終不可諠兮。*竹(りょくちく)のリョクは草冠に緑のつくりで読みは「りょく」で緑のこと。*兮(かんたり)のカンは人偏に門構えの中に月で「カン」、威厳がある、いさましいの意。詩に云く、彼の淇澳(きいく)を瞻(み)れば*竹(りょくちく)猗猗(いい)たり。斐(ひ)たる君子あり、切するがごとく磋するがごとく、琢するがごとく磨するがごとし。瑟(ひつ)たり*(かん)たり、赫(かく)たり喧(けん)たり。斐たる君子あり、ついに諠(わす)るべからずと。[宇野字義] ○詩に云く、彼の淇澳(きいく)を瞻(み)れば=詩経の衛風淇澳篇、衛の武公を美する詩で、淇は河の名。澳は隈(くま=入り込んだ水際)○りょく;=緑に同じ ○猗猗=美盛のかたち○斐=文章あるかたち ○瑟たり=厳密のかたち ○*(かん)たり=武毅のかたち○赫たり喧たり=宣著盛大のかたち ○諠(わす)る=忘る詩経、衛風の淇澳(きいく)篇には、淇河の畔(ほとり)には緑の竹が美しく茂っている。あや(斐)のある君子も切磋琢磨の修養積み、緑竹と同じように威儀を備えて光り輝いている。このようにあやのある君子に一度会いまみえれば、民はその徳を生涯忘れることができない。如切如磋者、道學也。如琢如磨者、自脩也。瑟兮*兮者、恂慄也。赫兮喧兮者、威儀也。有斐君子、終不可諠兮者、道盛徳至善、民之不能忘也。切するがごとく磋するがごとしとは、学を道(い)うなり。琢するがごとく磨するがごとしとは、みずから修むるなり。瑟(ひつ)たり*(かん)たりとは、恂慄(しゅんりつ)なり。赫(かく)たり喧(けん)たりとは威儀 なり。斐たる君子あり、終に諠(わす)る可からずとは、盛徳至善にして、民の忘るる能わざるを道(い)うなり。[宇野字義]○切磋琢磨=骨は切るといい、象は磋すといい、玉は琢(うつ)といい、石は磨くという。○恂慄(しゅんりつ)=戦(おののき)き懼(おそ)るるなり。○威儀=畏るべく則るべきをいう。切磋とは学問を深めること、琢磨とは自らを修めて徳を深めることである。厳かで威厳があるとは、自らが謹厳で畏れ慎むということである。その風采が光り輝くとは威儀を正しているからである。斐たる君子としていつまでも忘れられないのは、盛徳至善により民は忘れられないのである。
Feb 24, 2010
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朱子編纂の「大学章句」を読む途中で理解困難な箇所が出て立ち往生とまではいかぬが足踏み中。何とか理解できないかとネットで検索して古本3冊を注文し、本日3冊目を荷受した。単行本2冊は致知出版、文庫本は岩波で金屋治著。古本と言っても新品とあまり変らない。送料を入れても千円位は安い。いま引っかかっているところだけを拾い読みした感じでは、守屋洋さんが一番分かり易い?これで、再スタートできるかなあ、と思う。
Feb 22, 2010
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子曰、温故而知新、可以爲師矣。 子曰く、故きを温めて新しきを知る、以て師為(た)るべし。 先生の教え。古い書物をよく読んで学び、そこから現代に通じる新しいことを知る。そんな人こそが人の師となれるのだ。故きを尋ねて新しきを知る、と読んでいたような気がするが意味には大差はない。歴史に学ぶ、も同じような意味。バラマキの経済効果は過去に失敗している。消費税を上げるなら、総選挙で勝ったところですばやくやればすぐに忘れる。3年後に上げるなんて言えば、負けるに決まっている。
Oct 31, 2008
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0時就寝、3時まで読書、7時目覚め8時まで読書、白州次郎を読み終えた。400P、1,800円、第14回山本七平賞受賞作。著者は法学部卒の銀行マンで、三田市の郷土史家。三田市が白州次郎の出身地。妻の正子さんの方が著名。昔、日経新聞で芸術家の支援者としての白州夫妻の記事は読んだ記憶がある。白州次郎が何故これまでマスコミにも殆ど取り上げられなかったのか不思議である。全編素晴らしく面白いが、白州次郎の快男児振りだけが際立っていて「ほんと?」の気が残る。本日、10時くらいから雨となって底冷えがする一日だった。最高気温は15.2℃。午後から仕事に行ったが、外の寒いこと。平年が22度くらいなので7度も低く真冬並み。
Oct 31, 2008
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特に有名な文章なのであまり気が進まないが書き込むのは2度目なのでまあいいか。子曰、子曰く、先生が仰られた。吾十有五而志于學。吾十有五にして学に志す。[志学]三十而立。三十にして立つ。[而立=独りで立つ]四十而不惑。四十にして惑わず。[不惑=自信が揺るがず惑うことがない]五十而知天命。五十にして天命を知る。[知命=天が与えた使命を知る]六十而耳順。六十にして耳順(したが)う。[耳順=人の言葉を素直に聞く」七十而從心所欲不踰矩。七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず。[従心]従心所欲不踰矩=自分の心の求めるままにふるまっても規範を踏み外すことがなくなった。「耳順」と言えば電力の鬼「松永安左エ門」の雅号がこれから取った「耳庵」だった?経営哲学に論語を取り入れていたのではないだろうか。1972.6.16、松永安左エ門96歳で死去。叙勲を断り、葬儀も行われず、法名もない。昔も今も経営哲学として論語を学ぶ経営者は多い。明治の大実業家澁澤栄一は特に有名で古典的な論語講義の名著があるが自分は読んでいない。 澁澤栄一著;『論語講義』〈講談社学術文庫、全七巻〉(講談社、1977年)
Oct 24, 2008
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わが町「佐土原」の藩史を検索していたら偶然発見したのが「佐土原藩論語」勧学堂論語普及会所在地:大津市南志賀1-11-24(オフィス・コシイシ内)佐土原藩は二万七千石の小藩でしたが、学問が盛で、この論語を講じていました。親藩の薩摩島津家でもほぼ同じ論語を用いていたと思われます。明治三十三年大阪偉業館復刻版。勧学堂論語普及会篇の「論語」はこの書を元に、書き下し文・現代語訳・音声解説をつけたものです。勧学堂論語普及会のURL http://www.ofko.jp/rongo/kangakudou.html無料ダウンロード版、有料DVD、CD、1000円の簡易版もある。などの説明があった。佐土原発の論語が滋賀県で全国発信されてるとは思いもよらなかった。
Oct 18, 2008
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子曰、君子食無求飽、居無求安。敏於事、而愼於言、就有道而正焉。可謂好學也已。 子曰く、君子は食に飽くるを求むること無く、居(おる)に安きを求むること無し。事に敏に、言に慎み、有道に就きて正す。学を好むと謂う可きのみ。 先生の教え。君子は飽食(腹いっぱいの美食)を求めたり、住むのに安楽な家(豪邸)を求めることもない。仕事は敏速、言葉を慎み、何か意見があれば人格者(有道の人)について正してもらう。こういう人こそ、学を好む人(好学の士)だと言えよう。美食や豪邸は求めたとて所詮は夢。せめて「言を慎む」くらいは気をつけておきたい。有道者なんて身近には求めようもない。せいぜい論語をひも解くぐらい。
Oct 16, 2008
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溥博淵泉、而時出之。溥博如天、淵泉如淵。見而民莫不敬、言而民莫不信、行而民莫夫説。溥博淵泉にして時にこれを出す。溥博は天の如く、淵泉は淵の如し。見(あらわれ)て民敬せざるはなく、言って民信ぜざるはなく、行って民説(よろこ)ばざるはなし。溥博(ふはく)=溥は普、博は広遠なこと。偏りなく広遠、周偏にして広濶なこと。聖人の胸中は、測りしれず広く深い泉のようなもので知仁勇礼義の五徳が充積し、時に臨んでこれが外に発現するのである。その、広濶なことは天のようであり、その淵泉なことは淵の水が流れても尽きないようなもの。現れると民みな尊敬しない者はなく、その言葉を信じない者はなく、行いをよろこばない者はない。すなわち聖人は、天下の則(のり)となり、天下の法となる。まあ、要するに孔子(聖人)の偉大さをたたえる文章である。しかし、現実に会ったことがなければ、尊敬しようも信じようにも悦びようもない。宗教を信じる人にはバイブル(経典、法典を含めて)の文字と説教だけで信じられる。幸せだと思う。
Aug 7, 2008
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唯天下至聖、爲能聰明叡智、足以有臨也。寛裕温柔、足以有容也。發強剛毅、足以有執也。齊荘中正、足以有敬也。文理密察、足以有別也。唯天下の至聖、能く聰明叡智にしてもって臨むあるに足り。寛裕温柔にしてもって容るるありに足り、發強剛毅、もって執るあるに足り、齊荘中正、もって敬するあり足り、文理密察、もって別つあるに足る。ただ天下の至聖なる者のみがよくその聡明叡智(知徳)でもって国民に君臨するに足る。寛裕温柔(仁徳)あって民を容れるに足り、發強剛毅(勇徳)あって執り守るに足り、齊荘中正(礼徳)あって敬するに足り、文理密察(義徳)あって事の宜しきを弁別するに足る。もうひとつ意味がよく理解できない文章である。
Aug 2, 2008
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孔子(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』孔子(こうし、紀元前551年‐紀元前479年)は、春秋時代の中国の思想家。儒家の始祖。世界三聖に数えられる。姓は子、氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称(子は先生という意味)。ということで、中庸第30章は孔子の偉大さを讃える記述となっている。仲尼祖述堯舜、憲章文武。上律天時、下襲水土。辟如天地之無不持載、無不覆*、辟如四時之錯行、如日月之代明。萬物並育而不相害。道並行而不相悖。小徳川流、大徳敦化、此天地之所以大也。仲尼(ちゅうじ)堯舜(ぎょうしゅん)を祖述し、文武を憲章す。上天の時に律(のっと)り、下水土に襲(よ)る。辟(たと)えば天地の持載さざるなく、覆*(ふくとう)せざる無きが如し。辟(たと)えば四時の錯行するが如く、日月の代明するが如し。万物並び育して相害せず。道並び行われて相悖らず。小徳は川流し、大徳は敦化す。これ天地の大たる所以なり。仲尼(孔子の字)は、堯舜の道を祖として尊び、これを敷衍し、文王武王の法を憲(のり)とした。上は天に則り、下は地に依る。(すなわち、仲尼は天地の道を尊奉しているのであり、その偉大なることは、)たとえば、地のものを載せざるなく、天のものを覆わざる無きが如く、たとえば、春夏秋冬の四時が交わる交わる運行するが如く、たとえば、日月が代わる代わる昼夜を照らすが如くである。このように万物は並び育し相害わず、道は並び行われて互いに相悖らない。(その相害わず、相悖らず、並び育して並び行われる故は、)小徳は燦然として川の流れのように各流脈が分明となるが如く、大徳は渾然として化育が遺憾なく行われるためである。これは天地が大なる所以であり、すなわち仲尼の偉大なる所以である。仲尼すなわち孔子は、天道に同じ偉大な存在だと述べている。孔子は神格化され、その教えは「儒教」と呼ばれるようになったのだろう。小徳は川流し、大徳は敦化す。この意味がよく分からないところ、解説によると小徳は礼儀三百、威儀三千を指し、大徳は万物を発育、峻天を極むこれ大徳の敦化する所以、とある。人智と天智を指しているのかと思う。
Jul 29, 2008
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是故君子、動而世、爲天下道、行而世、爲天下法、言而世、爲天下則。遠之則有望、近之則不厭。詩日、在彼無悪、在此無射、庶幾夙夜、以永終譽。君子未有不如此、而蚤有譽於天下者也。この故に君子動いて世々天下の道と為り、行って世々天下の法と為り、言って世々天下の則と為る。これに遠ければ則ち望むあり。これに近ければ則ち厭わず。詩に曰く、彼に在って悪(にく)むなく、此れに在って射(い)とうなし。庶幾(こいねが)わくば夙(しゅく)夜、もって永く譽れを終えんと、君子未だかくの如くならずして、蚤(はや)く天下に譽れある者あらざるなり。この故に在位の君子動いて(言行によって)世々天下の道となり、その行いは世々天下の法となり、その言は世々天下の則(のり)となる。もしこれに(君子に)遠ければ民はこれを望んで思慕すること深く、近ければ厭うことがない。詩に曰く、「彼方の遠くに在っては悪(にく)むことなく思慕し、此方に在っては厭うことなし、こい願わくば夙(つと)に夜に勤めて怠らず、もって永く名誉を保って終わらん」と。君子は未だかくのごとく思慕愛着されることなくして、早く誉れを天下に博するものはないのである。この章はリーダーのあるべき姿、人道のあるべき姿を述べたもの。
Jul 28, 2008
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故君子之道、本諸身、徴諸庶民、考諸三王而不繆、建諸天地而不悖、質諸鬼神而無疑、百世以俟聖人而不惑。君子の道は、諸(これ)を身に本(もと)づけ、これを庶民に徴し、諸を三王に考えて繆(あやま)らず、諸を天地に建てて悖らず、緒を鬼神に質して疑いなく、百世をもって聖人を俟って惑わず。故に天下の王としての君子の道は、前節にあらわしたように「位、徳、時」を身につけ、これを庶民に徴し(施策を行い、結果で誤りのないことを確認する?)、三王の昔を考えても謬りはなく、これを天地の間に建てても天地の道に悖ることはなく、これを鬼神に質しても疑いはなく、百世、聖人の出現を俟って惑うことがない。(いわゆる、聖人また起こるとも必ず我が言を易(か)えざるものである。=通解。)百世後に新たに聖人が現れてもわたしの考えを易えることはないので惑いはない、かな?質諸鬼神而無疑、知天也。百世以俟聖人而不惑、知人也。緒を鬼神に質して疑いなきは、天を知るなり。百世をもって聖人を俟って惑わざるは、人を知るなり。天下の王たるものは、天地に悖らず、鬼神に疑いなく、三王に謬たず、後聖に易えざる三重を身につけておかなければいけない。
Jul 24, 2008
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中庸は倫理の書であるといい、33章にまとめられている。現在第29章の第2節?に差しかかったところで難渋している。訳注を読んだだけでは簡単に理解できない。完全に現代訳だとは言いきれないところがあり、[字義][通解]に使用されている日本語自体が非常に難しく俄には理解できない。何回も何回も読んでようやく「そういうことか」などと半端な理解しかできないのである。で、なかなか次節の理解が進まず、従ってブログへの書き込み自体ができないでいる。
Jul 23, 2008
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第28章の2、3節は天子とか礼についてなのでスキップした。[第9章の1] 王天下、有三重焉、其寡過乎。上焉者、雖善無徴。無徴不信。不信民弗従。下焉者、雖善不尊。不尊不信。不信民弗従。天下に王たる三重(ちょう)あり。それ過ち寡(すくな)からんか。上(かみ)なる者は善なりと雖も徴なし。徴なければ信ぜず。信ぜざれば民従わず。下(しも)なる者は善なりと雖も尊(たっと)からず。尊からざれば信ぜず。信ぜざれば民従わず。三重(ちょう)=徳位時、善尊徴、徳位徴など諸説がある。天下の王として重んずべき三つのもの、それは、位(くらい)と徳と時である。聖人の大宝を位という。王が重んじる第一は位であり、徳は王が重んじなければならない一である。さらに、王者の礼を制して民に臨むには、その時の宜しきに適わねばならぬ。時も王者の重。この三つを重んじたならば天下の王として過ちが寡ないであろう。上(夏殷)の礼は、善は善であるが文献に徴するに足るものがない。既に徴証がなければ民は疑ってこれを信じない、信じなければ民はこれに従わない。すなわち、昔のものでは間に合わないのである。時を重んずべきことがこれで分かる。下である者、すなわち聖徳あって下位にある者は、その徳が善であってもその位が尊くない。位が低く尊いと思わなければ、民は軽く思いこれを信じない。信じなければ民はこれに従わない。位が重要であることがこれで分かるであろう。徳、位、時の三重は相まって効用をなすものである。位(くらい)は、現在では一般的には「社会的な地位」だといえる。ヒガシコクバルさん、ハシモトさん、知事という椅子(位)を得たので、後は徳と時ですかね。2500年後の現在でもレッテル信奉者は意外に多い。これが大分県教育委員会の管理職採用汚職などを引き起こす。
Jul 18, 2008
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子日、愚而好自用、賎而好自専、生乎今之世、反古之道。如此者、*及其身者也。子曰く、愚にして自ら用うるを好み、賎にして自ら専らにするを好み、今の世に生れて古の道に反(かえ)る。かくの如きものは、*(わざわい)その身に及ぶ者なり。この文章に手を焼いている。14日に取り付いてもう3日目になる。宇野先生の通解を読んでもよく分からない部分が何か所もある。「愚而好自用=愚かにして自ら用うるを好み」の「用うる」の意味。宇野訳では単に「自ら用うるを好み」とそのままに標記してあるだけ。自分がこだわっているのは「おれがおれが」と自分を用いるのか?または愚かなくせに「お前がやれ、君がやりなさい」と他人を用いるのか?そこはいつか分かると思いそのままやり過ごすしかない。先生(孔子)が云われた。「愚かで徳がないのに聡明ぶって自ら用うるを好み、賎しくて位が無いのに権力を盗んで自ら専にすることを好めば、必ず人の道に背くことになる。今の世に生まれながら、(今の時勢に従わなければならないのに)、強いて昔の道に復そうとする。(そんなことすれば昔の習俗に戻り仁道はすたれてしまう)このようなことを一つでもする者は、必ず禍を身に受けることになる。どうも、もう一つすっきりとこないがまあいいいか。
Jul 17, 2008
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是故居上不驕、爲下不倍。國有道、其言足以興、國無道。其黙足以容。詩曰、既明且哲、以保其身、其此之謂與。この故に上(かみ)に居て驕らず、下(しも)と為って倍(そむ)かず。国 道あれば、その言もって興るに足り、国 道なければ、その黙もって容れられるに足る。詩に曰く、既に明且つ哲、もってその身を保つと。それこれをこれ謂うか。(君子は世に居て智は明らかで、徳は熟しているるので何を行っても不可はないのである)この故に君子は、上位に居ても下に対して驕ることもなく、下になっても背くことがない。国に道があるときには進んで国家の大計を論じてその言を聴かれ、その謀を用いられて興って位に上るであろう。国に道がないときには、その才徳をつつんで黙って語らないから身に害を受けることがない。『詩』の大雅烝民篇に、既に理に明らかにして且つ事に察(あきら)かであるので、その身を保全して危害に及ばないというのは、それこれをいうのであろうか。君子は高明にして中庸であるので、その場その場で適切にことを処すことができる。だから、国の政治が道にかなっているときには大いに活躍でき、そうでないときには黙って居るのでわが身に害が及ぶこともない。君子は危うきに近寄らないということであろう。
Jul 14, 2008
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故君子尊徳性而道問學、致廣大而盡精微、極高明而道中庸、温故而知新、敦厚以崇禮。故に君子、徳性を尊んで問學に道(よ)り、広大を致して精微を尽くし、高明を極めて中庸に道り、故を温ねて新らしきを知り、厚を敦うしてもって礼を尊ぶ。 徳性=天が与えてくれた本性、至誠の美徳。至徳でなければ至道は成らぬので、君子が徳を修め道を成す方法としては、天性の徳を尊んでこれを、失わないようにすると共に、学問によって広大でしかも精微を尽くし、高明を極めて心を万物に対し超然たらしめると同時に、日常の処理には中庸により過不及のないようにし、故人の知恵を学ぶと共に、新しい知識の習熟にも努めて、自らの資質をますます厚くし、一方においては礼を尊び、もって学問と礼、決して一方に偏せず、両々相まって修養するのである。
Jul 13, 2008
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大哉聖人之道。洋々乎、発育萬物、峻極于天、優優大哉、禮儀三百、威儀三千。待其人而行。故日、苟不至徳、至道不凝焉。大なるか聖人の道。洋々乎(ようようこ)として万物を発育し、峻天を極む。優々として大なるかな、礼儀三百、威儀三千。その人を待って行われる。故に曰く、苟(いやしく)も至徳ならざれば、至道凝(しどう、な)らず。洋々=流動して充満すること。 峻=高大なこと。 優々=充足して余りあること。礼儀=礼の大綱。 威儀=礼の節目。 凝(な)る=成る。 その人=至徳の人。至道=万物を発育し峻天を極むること、ここでは礼儀三百、威儀三千を指す。聖人の道は如何に大であることだろうか。洋々と流動して充満し万物を発育させ、その高大であることは天を極める。優々と充足して余りあり、礼儀三百、威儀三千はみなこの道でないものはなく、その人、すなわち至徳の人を待ってのち行われるものである。故に、いやしくも至徳の人でなければ、至道、即ち万物を発育し峻天を極めることはできない。聖人の道は大。それは、万物をを発育し、その高大なことは天を極めるほど、この道は必ずその人を待って行われる。いやしくも至徳の人でなければ至道は成らない。だから、徳を修め道を成すを望むこと切なるものがある、として次節では、徳を修め道を成す法を、換言すれば、修養の方法を説くとする。(訳注要約)
Jul 11, 2008
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序文の作者「宇野精一」氏は東大名誉教授で、今読んでいる講談社学術文庫「中庸」の著者である宇野哲人(うの・てつと)さんのご子息の由。父上は哲学者でやはり東大名誉教授だった。で、「学術文庫への序文」として中庸について平明な解説が成されているので復習してみる。 中庸を得ている、とか、中庸が大切だ、とか言われる。その場合の中庸とは足して二で割ったような、一種の平均的なことを意味することが多いようだ。 その中庸という言葉がの出典がこの本である。ただし、この本でいう中庸とは、一般に考えられているのとは少し違って、その場、その時に、最も適切妥当なことである。だから本当の意味での中庸は、生易しいことではなく、常に中庸を得ることができるのは聖人だ、と言われる。けれども一面、中庸の庸は、普通のこと、当たり前のこと、と言う意味もあって、平凡な、当たり前のことの中にこそ、中庸はあると考えられているから、どんな人でも中庸を得ることができると言っている。序文は非常に分かりやすいがいざ本文を読むと大正年代の出版された文語体の文章であり、訳註は微細に過ぎ、かえって大意が掴み難い。自分レベルの国語力ではかなり難解である。
Jul 9, 2008
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天地之道、可一言而盡也。其爲物不貳、則其生物不測。天地之道、博也、厚也、高也、明也、悠也、久也。天地の道は一言にして尽くす可きなり。その物たる弐ならざれば、測ちその物を生ずる測られず。天地の道は、博なり厚なり高なり明なり悠なり久なり。(これより以下は、天地をもって至誠息むなきの効用を明かしたものである)天地の道は一言で言い尽くすことができる。すなわち誠である。その誠は二つとないものであるから、万物を生じさせるその多さを測り知ることはできない。かくのごとく、天地の道は誠の一字、二つは無いが故に、博厚、高明、悠遠、長久なのである。天地に存在する万物は、天地の道「誠」が創りあげたもの、てなことを言っておられるのかな?物理学の世界が哲学てきに語られている感じである。「誠」と「創造主」と「神」、思想的には同じものだろう。中庸は非常に宗教的臭を感じる。殆どちんぷんかんぷんの態であるが乗りかかった船、岸には着かないが何とかこぎ続けてみよう。
Jul 8, 2008
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