全67件 (67件中 1-50件目)
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな 右近しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで 平兼盛恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか 壬生忠見38番右近、40番平兼盛、41番壬生忠見の歌。右近は醍醐天皇(885-930)の中宮 藤原穏子に仕えた女房。平兼盛(?-991)は貴族。壬生忠見は歌人。この三人は960年、天徳4年に内裏清涼殿で村上天皇によって行われた「天徳内裏歌合」に参加している。“ゆかりの地”は「平安宮内裏清涼殿跡」にした。上京区の新出水通を浄福寺通との交差点から西のほうへ。右側には『弘徽殿 南邸』という町家1棟貸しの宿泊施設がある。そこに石碑がある。「平安宮内裏弘徽殿跡」弘徽殿は帝の日常の住まいである清涼殿から最も近い、後宮で最も格の高い殿舎。『弘徽殿 南邸』に泊まったら、弘徽殿の女御さまになった気分になれるかもしれない。そのすぐ前、新出水通の南側に「平安宮内裏清涼殿跡」の案内板がある。ここが帝の生活の場所となっていたのは宇多天皇から後朱雀天皇のころまで。清涼殿跡から100mほど西には千本通があって、そこに、こんな案内板があって、じっくりと見てしまった。「采女町跡」の案内板采女町は、天皇の食膳の給仕に携わる女官(采女)の宿舎・詰所。采女には諸国から容姿端麗な良家の子女が選ばれていたそうだ。当時の面影はないけれど、平安の昔に脳内でタイムスリップして旅することができる楽しい場所だ。
2024.04.26
コメント(0)
朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木 権中納言定頼64番 藤原定頼の歌。藤原定頼(995-1045)は藤原公任の長男。宇治川の情景を詠った歌なので、“ゆかりの地”は「宇治川」にした。宇治川に架かる宇治橋。いつも宇治川は意外に流れが速いと感じる。宇治橋上から上流側を眺める。川を遡ると、ここから天ヶ瀬ダムを経て、石山寺のあたりでは「瀬田川」という名で、瀬田の唐橋を過ぎればすぐに源の琵琶湖に行きつく。宇治川の中州はゆっくりとそぞろ歩きができる公園になっていて、ここを歩くと宇治川を身近に感じられる。「俺様はえらいんだ!」ポーズをしている鳥がいた。カワウかな。宇治川に架かる鉄橋を走っているのはJR奈良線。大阪に住んでいると奈良線ってあまりご縁がない路線。平安貴族の別荘が多くあった宇治は当時のリゾート地。そう思って宇治川を眺めると優美な雰囲気が感じられる。宇治橋のひとつ上流側の朝霧橋より。朝霧橋、朝ぼらけ 宇治の川霧、、、 この歌から名付けられたのかもしれない。
2024.04.21
コメント(0)
君がため 惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな 藤原義孝百人一首50番、藤原義孝の歌。藤原義孝(954-974)は平安時代の公家で、父は45番「あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな」の作者、摂政・太政大臣の謙徳公こと藤原伊尹だ。父は摂政・太政大臣だが自身がそれほど出世していないのは、20歳という若さで病気により早逝しているからだろう。義孝の子どもはかなりの有名人の藤原行成(972-1028)。義孝が亡くなる2年前に誕生した長男の行成は、三蹟と称される書の達人で書道世尊寺流の祖だ。世尊寺とは藤原行成が邸宅をかまえていたところ。もともとは清和天皇の第六皇子の貞純親王(桃園親王)の邸宅があったところで、時を経てその邸宅は藤原伊尹に引き継がれ、孫の行成も住み、そこに世尊寺を建立した。義孝の父と子が住んだ場所ということで、世尊寺跡を“ゆかりの地”とした。京都市埋蔵文化財研究所の「考古資料館周辺散策」の記述によると、世尊寺跡は大宮通と五辻通の交差点の北西部分とあったので、そこへ行ってみた。大宮通を北から南へ。前方の横断歩道のあたりが五辻通との交差点なので、この写真の右側あたりが世尊寺跡になる。1軒のお宅の入口横の壁面に「世尊寺跡」の金色のプレートがあったが、個人のお宅かもしれない入口壁面にカメラは向けられず撮らなかった。門前の石碑なら撮れるんだけど。すぐ近くには京都市立西陣中央小学校がある。この辺りは西陣。歩いていると西陣らしい、染め物屋さんや「帯」と書かれた看板を見かけた。これもそういう関連だろう。古くからの地名は親王さんの名前にもなっている「桃薗」。当時は桃の花が多く咲いていたのかな。もう少し歩いてみた。今出川通まで出ると、フランス感たっぷりのブーランジュリーがある。あっ! 「キンサンです!」の子や。(関西限定のCM)わたし、あのCMはお米屋さんのCMだとずっと勘違いしてた。 笑大宮通に戻って散策を終えた。
2024.03.29
コメント(0)
天津風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ 僧正遍照百人一首12番、僧正遍照の歌。六歌仙の一人の僧正遍照(816-890)は、桓武天皇の孫で、出家前は蔵人頭として仁明天皇(810-850)に仕えていた。今の雲林院がある紫野一帯は、平安時代には狩猟が行われる荒野で、仁明天皇の先代の淳和天皇が離宮を造営し、その後引き継がれ、869年に僧正遍照が招かれて「雲林院」という官寺になった。この歌の“ゆかりの地”は北区紫野にある「雲林院」にした。〈大徳寺前〉の交差点から大徳寺通を南に下ったすぐのところにある。かつては広大な敷地を持つ寺院だったが衰退し、鎌倉時代にはその敷地に大徳寺が建てられ、1324年に大徳寺塔頭として再興した。現在の雲林院はこじんまりとしている。1707年に再建された観音堂がある。門前にはお寺の紹介とは別に、「源氏物語ゆかりの地」のプレートがある。第十帖「賢木」に、光源氏が出家しようと雲林院に籠るというエピソードがある。雲林院京都市北区紫野雲林院町23
2024.03.24
コメント(0)
わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり 喜撰法師8番 喜撰法師の歌。喜撰法師は六歌仙のひとりだが、詳しいことはわからない人物。都の南東のほう、宇治の山中の庵に隠棲し、最後は仙人となって雲にのって去っていったという伝説があるほど謎の人だ。宇治山にいたというので、歌碑がある宇治神社を“ゆかりの地”とした。京阪〈宇治駅〉から宇治川沿いの道を500mほど上流へ歩くと、宇治神社の一の鳥居がある。ご祭神は菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)。学業成就の神さまだそうだ。境内の一角に歌碑がある。喜撰法師のこの歌が記されている。一の鳥居のすぐ前には、源氏物語宇治十帖の像がある。浮舟と匂宮が小舟で宇治川に漕ぎ出す場面。一の鳥居前の赤い欄干の橋は朝霧橋。朝霧橋の上から宇治川の上流側を見た。宇治川の中州を経由して宇治橋のたもとへ。紫式部さんにご挨拶して 笑宇治橋へ。宇治橋の上から、宇治の山々を眺めた。ここからは見えてないだろうが、そう遠くないところに喜撰山という名の山がある。宇治神社 京都府宇治市宇治山田1
2024.03.13
コメント(0)
滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ 大納言公任百人一首55番、大納言公任の歌。大納言公任とは藤原公任(966-1041)のこと。関白太政大臣の息子というセレブで、和歌、漢詩、管弦に秀でた育ちのいい博学な人物だった。今年の大河ドラマ「光る君へ」では町田啓太さんが演じていて、博学な上に見目麗しく、向かうところ敵なし!みたいな感じだけれど、出世競争ではお父さんの地位まで昇ることができなかった。旧嵯峨御所の大覚寺。1200年近くの歴史があるお寺さんだ。時代劇のロケ地として人気の場所。元御所なので雅な雰囲気が漂い美しい。嵯峨野もこのあたりまで来るとぐっと観光客も少なくなる。この日はお寺は軽めにして池をじっくりと見学した。「日本最古の庭池」という大沢池。池のまわりには、1967年(昭和42年)建立の心経宝塔や、古いものでは平安時代後期のものと伝えられる石仏がある。白木の橋は、この2月6日に渡り初め式が行われたばかりの『名古曽橋』。鎌倉時代の絵図にあった橋を架けたのだという。真新しいひのきの橋の上から大沢池と菊ヶ島を眺める。橋を渡りもう少し奥へ歩くと、公任の歌にある「滝」の跡がある。名古曽の滝跡公任が「嵯峨大覚寺にまかりて、これかれ歌よみ侍りけるによみ侍ける」とこの歌を詠んだ頃には、既に「滝の音は絶えて」いたのだろう。池の造営から170年後くらい。水が枯れてしまったのだろう。池を一周ぐるっとすることにした。前を仲良く歩く2羽がいる。驚かしちゃいけないので間をつめられない。笑参拝料は お堂エリア 500円 大沢池エリア 300円旧嵯峨御所 大覚寺京都市右京区嵯峨大沢町4
2024.03.01
コメント(0)
住の江の 岸による波 よるさへや 夢のかよひ路 人目よくらむ 藤原敏行朝臣やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて 傾くまでの 月を見しかな 赤染衛門思ひわび さても命は あるものを 憂きに堪へぬは 涙なりけり 道因法師18番 藤原敏行朝臣、59番 赤染衛門、82番 道因法師の歌。18番の藤原敏行は平安時代前期の貴族。書に長けていて、小野道風が空海と並ぶほどの能書家と言ったほど。「住の江」とは現在の大阪市住吉区あたりの海岸。住之江区という地名があるが、住之江区はほとんどが埋め立て地で、昔の海岸線は現在の住吉大社付近だったらしい。その住吉大社。地元の人間は「すみよっさん」と親しみをこめて呼ぶ。すみよっさんといえばこれがシンボル。紅い反橋(太鼓橋)だ。近くには川端康成の小説「反橋」の碑もある。 反橋は、上るよりもおりる方が、こはいものです。 私は母に抱かれておりました。 川端康成「反橋」より本殿は第一本宮から第四本宮の4棟からなっており、現在の建物は1810年(文化7年)の建造で、いずれも国宝の指定をうけている。建築様式は「住吉造」。住吉大社のHPによると住吉大神の御鎮座から1800年。年表の700年代以降はともかく、古代期に関してはちょっと「?」だが、歴史が古いことには間違いはなく、昔から多くの人がお参りに訪れていた。59番の赤染衛門は平安時代中期の歌人で、藤原道長の正室 源倫子とその娘 中宮彰子に仕えている。息子の挙周は、道長と倫子の力で和泉守に任ぜられ、赤染衛門は息子に同行したそうだ。ということは、赤染衛門さんはJR和泉府中駅の近くにいらっしゃったということね。親しみを感じるわ。その息子の病気平癒を願って住吉大社に、「代はらむと 祈る命は をしからで さてもわかれむ ことぞ悲しき」という歌を奉納し、その甲斐あってか息子は快癒したそうだ。82番道因法師は平安時代後期の貴族で出家前の名は藤原敦頼という。1172年80歳の頃に出家し道因と名乗った。よい歌を詠ませてほしいと、毎月住吉大社に参詣していたそうだ。昔は反橋のあたりまで波がきていたようで、航海安全の神として遣唐使派遣の際にも重要な役割があったようだ。その為か4つの本殿は全て大阪湾側を向いている。海に関するものは多く、敷地内にある摂社にもそれはあらわれている。 左 大海神社(重要文化財)右 船玉神社船玉神社は船や飛行機の安全を守る神様として、海外渡航前の人がお参りすることが多い。 左 石舞台(重要文化財)右 御田 (6月14日に行われる御田植神事は重要無形民俗文化財)鳥居の前の道には阪堺電車が走っている。1928年(昭和3年)から活躍しているモ161と石燈籠。すみよっさんには石灯籠がたくさんある。約600あまりの大小の石灯籠があり、当時は海上守護の祈願をこめて寄進したものが多く、広告塔の意味合いもあった。この参道の松並木に、往年の波打ち際の景色の面影を見たように感じた。住吉大社大阪市住吉区住吉2丁目9−89
2024.02.16
コメント(0)
契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは 清原元輔百人一首42番、清原元輔の歌。清原元輔(908‐990)は清少納言の父で三十六歌仙のひとり。「末の松山」は平安の頃から歌枕として詠まれた地。1000年に一度といわれた東日本大震災の1142年前に起こった貞観地震(869年)の時、大津波で仙台の平野部は水に覆われたが、ここ多賀城の「末の松山」は無事だったという。その事から「末の松山」は歌枕に詠まれることになった。2011年の東日本大震災でも「末の松山」は無事だったそうだ。君をおきて あだし心を わが持たば すゑの松山 浪もこえなむ石碑にあるのは古今和歌集の歌。「末の松山」のすぐ近くにあるのが「興井 (沖の石 、沖の井とも)」こちらも歌枕になっている。わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし92番二条院讃岐の歌に「沖の石」がある。92番のゆかりの地は押小路東洞院第にしたが、ここもゆかりの地だった。仙台藩は地元の有力者を「奥井守」に任命して、ここを手厚く保護させた。松尾芭蕉は「おくの細道」の旅で、「末の松山」と「沖の石」を訪れている。末の松山宮城県多賀城市八幡2丁目8‐28近く(100m)に見学者のための無料駐車場がある
2023.12.22
コメント(2)
かささぎの 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける 中納言家持風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ 砕けてものを 思ふころかな 源重之かくとだに えはや伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを 藤原実方朝臣6番 大伴家持、48番 源重之、51番 藤原実方 の歌。大伴家持(718頃‐785)は奈良時代の公卿で、「万葉集」編纂のメンバーだったことで名高い。お役人としての経歴は波乱万丈で、謀反に巻き込まれ地方左遷の憂き目にあうことが一度ではない。そのため各地に家持の足跡がある。越中、因幡、薩摩、大宰府、陸奥など。最期の地は陸奥国の国府があった多賀城であったという。(平城京で亡くなったという説もある。)源重之(?‐1003頃)は清和天皇の曾孫にあたる人物で三十六歌仙のひとり。地方で官職につき、最後は陸奥国で任官中に亡くなったという。藤原実方(?‐998年頃)は平安時代中期の貴族。陸奥守として赴任中に当地で亡くなっている。ということで、この三首の“ゆかりの地”を陸奥国の国府があった多賀城跡とした。約900m四方の広大な敷地なので、まず一番高台の城跡北側から行ってみた。多賀城は724年に大野東人によって創建されて、陸奥国府と鎮守府が置かれた。高台で仙台平野と仙台湾を一望できる場所なので、行政の中枢を設置するにはむいていたのだろう。11世紀中頃にはその役目を終えたが、古代期300年余りの間、東北の行政・文化の中心だった場所だ。南側の駐車場に車を停めなおして城跡の南側を散策した。多賀城跡で一番有名な史跡であろう多賀城碑(重要文化財)別名「壺碑」。日本三古碑のひとつ。大野東人によって724年に多賀城が創建されたこと、奈良の都からの距離などが記されている。年号は天平宝字6年、西暦762年だ。多賀城跡南端ではただ今絶賛工事中南門復元工事が進行している。復元される南門は8世紀中頃のものとのこと。来年2024年は多賀城創建1300年の記念の年なので多賀城市さんは張り切っているようだ。想像以上に広く、これだけ広大に保存されていることにとても驚き素晴らしいと感じた。当時の建物があるわけはなく、残されているものは平面的なものが多い。何か大きなアイコンが欲しくなるのは当然で、それが復元南門なのだろう。創建1300年のアニバーサリーイヤーがいい年になるといいね。恥ずかしながら、これまで多賀城市の名前は聞いたことがあったが、歴史的背景がこれほど濃い場所だとは全く知らなかった。百人一首に興味を持たなかったら一生来ることはなかったかもしれない。多賀城跡宮城県多賀城市市川
2023.12.17
コメント(0)
逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし 中納言朝忠心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな 三条院44番中納言朝忠と68番三条院の歌。中納言朝忠、藤原朝忠(910-967)は土御門中納言と呼ばれていた。それは土御門大路沿いに邸宅があったためで、後にその場所には朝忠の孫娘を正室にした藤原道長が住んでいる。三条天皇(976-1017)は、藤原道長の次女 藤原妍子を中宮としている。義父である道長との確執は深く、跡取りの問題もあって、道長に強く譲位を迫られたそうだ。内裏の火災という災難があり、その時は土御門第に住むこともあった。ということで、この二首のゆかりの地は「土御門第跡(藤原道長邸宅跡)」とした。清和院御門から京都御苑に入って、大宮御所の北側の通りを歩く。その北側に、土御門第跡(藤原道長邸宅跡)がある。今は当然のことながら邸宅の面影はない。この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へばと詠んだ時の権力者の藤原道長。御上といえ、眼病のこともありその権力の前ではいかんともし難い三条天皇が、道長の圧力によって譲位する時に詠んだとされるのがこの、心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かなだ。現在の土御門第すぐ南の京都御苑の通り。地元ピープルの自転車道の一本筋が通っている。この日、外国人観光客のレンタサイクル利用者がこの一本筋を通らず転倒したのを見た。幸いにも大事には至らなかったが、異国でのアクシデントは出来る限り避けなければいけないとこっそり思った。もうね、こけたりしたら大事に至りそうな年頃だからさ。来年の大河ドラマでは、道長や三条天皇が登場する。煌びやかな平安絵巻が描かれそうで楽しみにしている。京都御苑京都府京都市上京区京都御苑3
2023.11.26
コメント(0)
見せばやな 雄島のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色はかはらず 殷富門院大輔百人一首90番、 殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)の歌。殷富門院大輔は、後白河天皇の第一皇女、亮子内親王(後の 殷富門院)に仕えた女性。沢山の歌を詠み作品が多いことで有名で、「千首大輔」とも言われたという。家集(個人の歌集)の「殷富門院大輔集」には、殷富門院大輔が南都(奈良)の古寺を巡った際の歌が12首と詞書が載っている。そこには、 元興寺ことのほかに荒れて、煙のたぐひにはなくて、うてなの露しげきに似たり飛ぶ鳥や 飛鳥の仏 あはれびの そのはぐくみに 漏らし給ふな これに智光が曼荼羅おわしますとあったので、殷富門院大輔が訪れたことがある南都の元興寺を「ゆかりの地」とした。興福寺の南、近頃は観光客がそぞろ歩いている「ならまち」にある、「古都奈良の文化財」として世界文化遺産に登録されている寺院。あぁ~ もう一週間早く来れば見事な萩を見られたかも。ちょっと遅かったね。(10月中旬撮影)彼岸花の花手水もいいね。6世紀末に飛鳥に建立された法興寺(飛鳥寺)が平城京遷都の際に新築移転されたのが元興寺の始まり。1300年の歴史がある。1300年の間には何度かの荒廃の歴史を経ている不死鳥のようなお寺さん。殷富門院大輔が訪れた時も荒れ果てていたようで、それは平家による南都焼討の後のことだったのかもしれない。見えている屋根瓦は飛鳥時代のもので、1300年以上現役で屋根を飾っている瓦だ。瓦も不死鳥なのね。いつ来ても美しく整えられた境内でお花が楽しめる。京都のお寺のような計算されつくした究極さはないけれど、伸びやかで清々しい境内だ。私の好きなお寺ベスト3に入るお寺さんだ。元興寺奈良県奈良市中院町11
2023.11.14
コメント(0)
山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり 春道列樹百人一首32番、春道列樹の歌。春道列樹(はるみちのつらき)は平安時代前期の人物。詳しいことはわかっていないが、壱岐守着任前に亡くなったそうだ。この歌の古今集での詞書に「志賀の山越えにて詠める」とある。「志賀の山越え」とは京から近江の大津への山道で、今の北白川から比叡山ドライブウェイ料金所前を通って大津へ行く「山中越」とルートが重なると考え、この歌のゆかりの地を「山中越」にした。京都駅前から京阪バス「比叡山山頂行き」に乗る。四条河原町、三条京阪、銀閣寺道を過ぎ、〈北白川別当〉交差点を右折すると、比叡山への山道「山中越」に入る。できれば一番前の席に座りたいと早めに京都駅に来てバス停に行くと、前がカップルで列の2番目に並べた。カップルなら2人席に座るだろうから最前列に座れると思っていたら、そのカップルさんはそれぞれ左右に分かれて1番前の席に座ったので目論見失敗。まぁそういうこともあるわな、と思いながらも四条河原町ぐらいまで落ち込んでいた。(笑)バスは「山中越」の山道を上っていく。いつもはマイカーで下っている道をバスで行くのも新鮮な気分。ここは慣れている速い車が多いので、上りはともかく下りは必死に運転していて周りの景色を見る余裕がないところ。同じような景色が続く山道だけど、ゆったり眺めてられるのは楽しい。もう少しして紅葉を楽しめる頃なら、「流れもあえぬ 紅葉なりけり」の情景を楽しめただろう。そろそろ料金所〈北白川別当〉交差点から約15分で比叡山ドライブウェイ料金所に着いた。山中越の京都側からの上りはここで終わり。この先、大津への下りがあるが、そこはバスがないので京都からの上りのみにした。比叡山ドライブウェイに入ってからの写真手前下に見える森の中を山中越は通っている。
2023.10.28
コメント(0)
わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ 元良親王山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば 源宗于朝臣有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし 壬生忠岑百人一首20番 元良親王、28番 源宗于、30番 壬生忠岑の歌。20番の元良親王(890-943)は陽成天皇の第一皇子。陽成天皇は7歳で即位し15歳で光孝天皇に譲位しているので、元良親王が生まれたのは陽成天皇が上皇となってから。それ故、元良親王は皇位には縁遠い存在だった。元良親王は、美しい女性には片っ端から文を書いて和歌を贈る、いわゆる「色好み」な男。父帝の譲位のタイミングが違えば天皇になれたかもしれないのに臣下のままでいなければいけない運命が、彼を恋愛道へと突き進む要因になったのかもしれない。しかし「色好み」が過ぎると、本気になっちゃいけない相手とも恋愛してしまう。父帝の2代あとの宇多天皇の寵愛を受けている藤原褒子(京極御息所)と恋仲になってしまった。藤原褒子がその頃住んでいたのが、宇多法皇の住まいであった享子院(ていじのいん)。その享子院跡が京都駅近くの下京区南不動堂町あたりになる。町名由来の不動堂明王院。ここが享子院跡だ。ここに住んでいる 褒子ちゃんの所へ元良くんは忍んで通っていたということになるのね。法皇さんも近くにいるってことよね。この歌はその不適切な関係が露見し、愛しい人に会えなくなってしまった嘆きを詠んでいる、かなり生々しい歌だ。今は、「不倫」と聞くと当事者でもないのにピーチクパーチク正義感を振りかざす人が多くって、いい加減ウンザリすることが多い。「不倫は文化だ」とまでは言わないが、“許されざる恋”が文学の一角を担っていることは否定できない。身を焼き尽くすような恋が実際できないから、そういう恋に憧れる。憧れているとわかっているから、他人様の不道徳とされる行いにとやかく言う気にはなれない。元良親王は後世の私に、趣深く雅で情念のこもった歌を残してくれたのだから、不道徳でもええやん!と思いながらこの一角を歩いた。28番の源宗于は光孝天皇(830-887)の孫。父の是忠親王は光孝天皇の次代の宇多天皇(867-931)の同母兄。なのに、出世に関しては不遇で、右京大夫が最終ポストだった。「享字院女郎花歌合」に参加しているとあったのでここを“ゆかりの地”とした。30番壬生忠岑は平安時代前期の歌人で「古今和歌集」の撰者として名高いが、出没年も不詳で詳しいことはわからない人物だ。この時代の歌合には多く出詠していて、宇多法皇が開いた「亭字院歌合」にも参加していたというので、ここを“ゆかりの地”とした。不動堂明王院の提灯に「まぼろしの屯所」とある。屯所だから新撰組関連かな?と帰ってから調べると、新撰組の屯所が短期間ながらあった場所だそうだ。元良親王よりは新撰組のほうが興味を持つ人は多そうね。享子院は応仁の乱で焼失し、今ある不動院明王院は江戸時代1764年建立のものだそうだ。享子院跡から京都駅への帰り道。不動院明王院の南隣はアパホテル。(右側)アパホテルから東に入ると、オムロンの本社がある。血圧計や体温計でお世話になっている。病院内の見えない所ではもっとお世話になっているかもね。自転車が多くあるサイクルスペース。国土交通省近畿地整京都国道事務所前を通って、ビックカメラ前を過ぎると京都駅。不動堂明王院から京都駅までは徒歩5分だ。不動堂明王院京都市下京区南不動堂町7
2023.09.24
コメント(0)
花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは 我が身なりけり 入道前太政大臣百人一首96番の歌。入道前太政大臣とは西園寺公経(1171-1244)のこと。西園寺公経の妻は源頼朝の姪ということもあって鎌倉幕府と関係が深く、孫の九条頼経は鎌倉幕府第四代将軍になるという、幕府と結びつきが強い人物だった。後鳥羽上皇が鎌倉幕府と争った承久の変の際は、幕府方に情報を漏らしたそうだ。朝廷方から見れば、まさにスパイ。承久の変は北条政子の名演説もあってか幕府方が勝利するので、その後の西園寺公経は朝廷の実権を握り皇位継承のキーマンになるほど出世した。鎌倉前期の“勝ち組公卿”だ。出世したので入ってくるものも多くなり、豪華で優雅な生活を送ったという。晩年は出家し、北山に西園寺を建てて暮らした。そこは後年、足利義満が譲り受けて北山山荘とした場所で、今の鹿苑寺(金閣寺)。この歌の“ゆかりの地”は鹿苑寺(金閣寺)にした。800年前、西園寺さんはここにどのような山荘を築いたのだろう。もちろん、その頃にはまっキンキンの舎利殿はなかったけれど。勝ち組の公経さんなので、出家したとはいえ、立派な山荘だったと想像できる。北山の自然を活かした空間だっただろう。金閣寺といえば義満だけど、それ以前から山荘とされていた場所だったのね。平安時代の内裏からは4㎞ほどの距離。ちょっと郊外の自然多き場所に、自分好みの住処をこしらえたのだろう。馬酔木の花が咲いていた。奈良時代には既に栽培されていたという馬酔木。公経さんもこの花を見たかしら。久しぶりの金閣寺。違った角度から見られて、楽しい訪問になった。鹿苑寺(金閣寺)京都市北区金閣寺町1
2023.08.02
コメント(0)
もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし 前大僧正行尊百人一首66番、前大僧正行尊の歌。前大僧正行尊(1055-1135)は、天台宗の僧侶で、天台座主になるけれど数日で辞任した後、園城寺の復興に尽力した人だ。ということで、ゆかりの地は「園城寺」とした。園城寺の大門(重要文化財)正式名称は「園城寺(おんじょうじ)」だけど、「三井寺(みいでら)」のほうが一般的。境内には多数の幟がはためいている。園城寺関連の文書がユネスコの「世界の記憶」に登録されたというニュースを聞いたのは5月末。園城寺さん、張り切ってますえ。国宝の金堂のサイドにも『祝 ユネスコ「世界の記憶」登録』とある。ユネスコに登録されて有り難いなんて思わなくても、、という意見もあるが、登録されたということで初めて知って興味を持つというのも事実。#世界遺産 #記憶遺産で検索されて、訪れるキッカケになることも多いだろう。金堂(国宝)1599年、慶長年間に豊臣秀吉正室北政所によって再建された金堂。金堂前の広場の一角に「三井の晩鐘」がある。近江八景のひとつ「三井晩鐘」。お伽噺というか伝説が語り継がれている鐘だ。金堂の北西に閼伽井屋(あかいや)がある。この中には井戸があり、顔を近づけるとボコボコと音が聞こえ、今も水が湧き出ているのがわかる。天智・天武・持統の三天皇が産湯に使ったという謂れから、三に井戸の井、「三井寺」の名の由来になっている。でも、天智天皇が大津京に遷都したのは41歳の時だから、産湯はないよな~と思ってしまう。深く考えないで先に進もう。こちらも伝説系「弁慶の引き摺り鐘」比叡山の僧だった弁慶が、敵方の園城寺の鐘を奪い引きずって比叡山へ持って行ってしまい、ついてみた鐘の音に腹を立てて、山から麓の園城寺に向かって投げ捨てたので、鐘は戻って来たよ、めでたしめでたし、という伝説。弁慶の話はともかく、延暦寺と園城寺の仲の悪さには気合が入っていたのは事実。10世紀後半から始まった延暦寺(山門)と園城寺(寺門)の「山門寺門の争い」は、教義解釈の違いから分裂し、そこに時の権力者が絡んで政争の一部にもなって、焼き討ちなどの激しい抗争を繰り広げた。今は、延暦寺・園城寺・西教寺を巡る共通巡拝チケットがあるぐらいのマイルドな関係になっている。三重塔(重要文化財)元は奈良・吉野の比蘇寺(今の世尊寺)にあった塔で、秀吉が伏見城に移築し、1601年に家康が園城寺に寄進したという流転の塔。世尊寺は2017年に彼岸花を見に行ったことがあるので懐かしい名前だった。園城寺は映画やテレビドラマのロケが多く、朝ドラ「おちょやん」、映画「るろうに剣心」のロケ地だそうだ。文化財収蔵庫に入ると、ユネスコ「世界の記憶」に登録された『智証大師円珍関係文書典籍』の一部を見ることができ、「世界最古のパスポート」と言われる唐の通行許可証が見られたのは嬉しかった。(園城寺文化財収蔵庫での『智証大師円珍関係文書典籍』(一部)特別公開は7月2日まで)収蔵庫を出たら観音堂へ。こういうところに園城寺さんの新しさを感じる。前に来た時は、西国三十三所巡りだったので観音堂が目的地だった。観音堂前からは、琵琶湖と大津の街を望むことができる。園城寺(三井寺)滋賀県大津市園城寺町246(入山料600円 収蔵庫入場料300円 入山+収蔵庫のセット券800円 駐車料500円)
2023.06.06
コメント(0)
吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ 文屋康秀百人一首22番、文屋康秀の歌。文屋康秀は平安時代前期の歌人・官人で、六歌仙のひとり。官人としては877年に山城国の大掾(だいじょう)になったとある。山城国の国府は861年に嵯峨天皇の河陽離宮跡地に移転したとあるので、山崎駅近くの離宮八幡宮付近を“ゆかりの地”とした。東海道本線〈山崎駅〉山崎駅だからヤマザキなのか、駅すぐ横にはデイリーヤマザキがある。駅前から南に歩いてすぐ、駅前通りと西国街道が交差する。西国街道は、京の東寺口から高槻など淀川右岸通って大坂に入ることなく西宮、その先の下関に通ずる道。江戸時代の大幹線道路だ。その角に離宮八幡宮がある。嵯峨天皇(786-842)の離宮、「河陽離宮」があった場所で、嵯峨天皇亡き後、山城国の国府が置かれた。境内に碑がある。「本邦製油發祥地」とある。平安時代貞観年間にここの神官によって荏胡麻油の製造が始まり、戦国時代に織田信長が台頭するまでは、荏胡麻油の製造権を独占し栄えたという。離宮八幡宮前の西国街道ここは京都府と大阪府の境。そして「天下分け目の戦い」の現場でもある。西国街道沿い、西の方にはサントリー山崎蒸留所が見える。離宮八幡宮京都府乙訓郡大山崎町大山崎西谷21−1
2023.06.03
コメント(0)
むらさめの つゆもまだひぬ 槇の葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ 寂蓮法師百人一首87番、寂連法師の歌。寂連法師は平安時代末から鎌倉時代初期にかけての人物だ。京都市北区紫野にある今宮神社では、4月に「やすらい祭」という祭事がある。「やすらい祭」は「花鎮めの祭り」とも呼ばれ、桜の散る時期に流行るとされる疫病を鎮めるため、♪やすらい花や~ と歌い踊りながら疫神を花傘に追い込んで、今宮神社に送り鎮めるというものだ。その時に歌われる「やすらい花や」と繰り返される歌の作者が寂連法師だと伝わるので、“ゆかりの地”を今宮神社にした。東門から境内へ。この日は門前のあぶり餅屋さんが2軒とも臨時休業。あぶり餅を食べるのを楽しみにしていたので残念だった。今宮通に面している楼門干支の絵馬1694年に造営された拝殿古くから疫病鎮めと縁深いお宮さんで、1001年に疫神を船岡山から紫野の地に遷し執り行われた紫野御霊会が始まりになる。だから今の時期には真剣にお参りしたくなる。綱吉の生母の桂昌院さん繋がりで、「玉の輿」がキーワードになるお宮さんだが、もう玉の輿に乗る機会はありそうにないので「疫病鎮め」オンリーでいい。以前来た時よりも境内が美しく洗練されたような気がした。今宮神社京都市北区紫野今宮町21
2023.05.26
コメント(0)
わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまのつり舟 参議篁百人一首11番、小野篁(802‐853)の歌。嵯峨天皇の頃には優秀な官人となっていて、遣唐副使に任命されている。渡唐は2度失敗し、3度目は1艘の沈没からのゴタゴタで遣唐使拒否を表明し、その後に遣唐使について風刺する漢詩を作って、その事が嵯峨上皇の逆鱗に触れて隠岐へ流罪になってしまう。「こんな政策おかしーじゃん!」と御上にたてついたのだから、上皇さんかて怒りはるわ。この歌は、隠岐へ流される時のことを詠んでいる。流される時の歌で百人一首にランクイン。篁さんって、ただものではない。流罪生活は2年で、再び中央政権に復帰。出世階段を昇って公卿にまでなっている。しかし、どん底から這い上がった優秀な篁さんには、後世に妙な逸話がついてまわることになる。お昼は宮廷で働き、夜になると冥界で閻魔大王の補佐するダブルワーク説京の町には、篁さんが冥界と現世を行き来した井戸まである。「井戸入って閻魔さんとこ行くなんて誰が見たねん!」とツッコミいれたくなるが、そういう話が流布される素地が篁さんにはあったということだろう。“ゆかりの地”としては、流された隠岐、冥界への入口の井戸がある六道珍皇寺などがあるが、小野篁が開基とされている「千本ゑんま堂」に決めた。平安京の朱雀大路だった千本通沿い。南から来ると、〈千本寺之内〉交差点を過ぎてすぐ左側に千本ゑんま堂がある。車は境内に停めることができる。正式名称は引接寺(いんじょうじ)、高野山真言宗の寺院だ。朱雀大路の北のこの地に、小野篁が自ら閻魔法王の姿を刻み祠を建てたのが始まりと伝わる。盂蘭盆会の迎え鐘・送り鐘の梵鐘がある。1379年製作の銘がある鐘だ。京の人々は今も、お精霊さんを迎え送るという行事を大事にしていて、その行事の中心が、小野篁ゆかりの六道珍皇寺であり、千本ゑんま堂になる。あんな所に閻魔さん!篁さんにとっては迷惑以外の何ものでもないだろうが、1200年の時を経ても、「小野篁」の名が京の風習の中に生き残っているのは凄いことなんだと思う。インタビューしてみたいなぁ、「ところで篁さん、閻魔さんに逢いはったん?」 と。千本ゑんま堂 引接寺京都市上京区千本通蘆山寺上ル 閻魔前町34番地
2023.05.02
コメント(0)
みかき守 衛士の焚く火の 夜は燃え 昼は消えつつ ものをこそ思へ 大中臣能宜朝臣百人一首49番、大中臣能宜朝臣(921‐991)の歌。大中臣能宜朝臣は「梨壺の五人」と称され、三十六歌仙のひとりでもある。「みかき守(御垣守)」とは宮中の門を警護する人のことなので、平安京の朱雀門跡を“ゆかりの地”とした。JR二条駅から、駅東口前を南北に通る千本通を北へ歩く。300mほど歩いた右側に石碑がある。「此附近平安京大内裏朱雀門址」とある。朱雀門は、大内裏(平安宮)の南面大垣中央にある門で、朱雀大路に面する正門として最も規模の大きな門だった。朱雀大路は現在の千本通にあたる。大中臣能宜朝臣の孫は伊勢大輔で、「いにしへの 奈良の都の 八重櫻 けふ九重に 匂ひぬるかな」と詠み、百人一首61番に入っている。朱雀門跡京都市中京区西ノ京小堀町2-3
2023.04.25
コメント(0)
歎きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る 右大将道綱母百人一首53番、藤原道綱母の歌。藤原道綱母というと「蜻蛉日記」の作者としても有名だ。堀川通から東へ、一條戻橋を渡ってすぐの所に『藤原道綱母子 一条邸跡』の石碑がある。ここを53番の歌の“ゆかりの地”とした。この石碑には、『藤原道綱母子 一条邸跡』、『聚楽城加藤清正邸跡伝承地』、『応仁の乱 洛中合戦勃発地』とあって、ここは平安・室町・安土桃山の3つの時代に重要な場所となっている。石碑の前の一条通石碑のすぐ西にある一條戻橋の横には早咲きの河津桜そこには桜を熱心に撮っているインバウンド様がいた。メジャー観光地でない場所にもいらっしゃるインバウンド様。日本人以上に日本を知ろうとしていることに感心してしまう。戻橋の由来は、918年、三善清行が亡くなり紀州熊野にいた息子の浄蔵が急ぎ戻り、この橋を通っていた亡き父の葬列に出会い柩にすがって神仏に祈願すると、父が一時蘇生したということから。お父さんが戻ってきはったんで戻橋。「戻る」ということから花嫁さんには嫌われる橋。婚礼道具の車は避ける橋だったそうだ。婚礼道具のトラックを見なくなってどれくらい経つか。もう30年以上は見てないな。一條戻橋京都市上京区主計町
2023.03.15
コメント(0)
たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとしきかば 今帰り来む 中納言行平百人一首16番、在原行平(818-893)の歌。在原行平は平安時代前期の公卿。平城天皇の孫、桓武天皇の曾孫になる人物だ。在原行平は881年に在原氏一門の学問所として奨学院を創設したので、“ゆかりの地”は「奨学院跡」にした。JR二条駅の近くの千本通と三条通との交差点にファミリーマート千本三条店がある。ファミリーマートの千本通側に石碑がある。埋もれてしまっているが、「奨學」の文字が見える。ここが奨学院跡。千本通は平安京の朱雀門から伸びる朱雀大路にあたる。奨学院は朱雀門のすぐ近くにあった。朱雀大路、今の千本通をここから北へ歩いてみた。ファミリーマートの向いの赤レンガ風の建物には“R”の文字がある。立命館大学の朱雀キャンパス。立命館といえば龍安寺近くの衣笠キャンパスしかイメージになかったが、今は滋賀の草津、千本通のここ、大阪の茨木にもキャンパスがある。少子化の今、大学も経営力が物を言うものね。moxyがある。通りから見える1階の雰囲気だけでもオシャレなホテルだとわかる。JR山陰本線〈二条駅〉。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆この歌は「おまじない」に使うことがある。失くした物が出てきて欲しい時、「まつとしきかば 今帰り来む」と短冊に書くという風習がある。祖母は書かないまでも、「『まつとしきかば今帰り来む』と唱えたらええねん」と言っていた。そういう風習は今はどれくらい残っているか。探し物をしょっちゅうしている私は、その都度行平さんの歌を唱えることにしている。奨学院跡京都市中京区西ノ京南聖町18
2023.03.04
コメント(0)
寂しさに 宿を立ち出でて ながむれば いづくもおなじ 秋の夕暮れ 良暹法師百人一首70番の歌。作者の良暹法師(りょうぜんほうし)(生没年不詳)は平安中期の比叡山の僧侶で、晩年は大原に隠棲したと伝わる。“ゆかりの地”は比叡山延暦寺にした。大講堂(国重要文化財)文殊楼文殊楼の近くに慈円の歌碑がある。おほけなく うき世の民に おほふかな 我たつ杣に 墨染の袖百人一首95番の歌。95番の“ゆかりの地”も比叡山延暦寺にしている。慈円の歌碑はあるけれど良暹法師のはないのはちょっと残念だが、慈円は天台座主の大物で、良暹法師は生没年を含めてはっきりしない人なので致し方ない。慈円の歌は、「我たつ杣」と比叡山そのものを詠んでいるし。延暦寺会館へ昼食を食べに行った。一隅を照らす運動キャラクター「しょうぐうさん」。延暦寺会館2階のレストラン「望湖」で比叡御膳(2200円税込)をいただいた。お椀は延暦寺の寺紋入り。精進料理の御膳だ。窓からは琵琶湖を眺めることができる。古の比叡山の僧兵たちは湖上の往来を監視していたのだろう。延暦寺会館の2階から見た大書院の紅葉比叡山延暦寺滋賀県大津市坂本本町4220
2023.02.12
コメント(0)
浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき 参議等百人一首39番、参議等の歌。参議等とは源等(880-951)のことで、若い頃から地方に任官している人物だ。源等は後撰和歌集に、東路の 佐野の舟橋 かけてのみ 思ひわたるを 知る人ぞなきという歌が入っている。同じ作者が詠んだ歌ということで、その「佐野の舟橋」に行ってみた。東国で「佐野」というと、↑彼が活躍している栃木県佐野市を思い浮かべるが、この「佐野の舟橋」は群馬県高崎市にある烏川にかかる橋のこと。万葉集に「佐野の舟橋」が詠まれている歌があり、かみつけの 佐野の舟橋 とりはなし 親はさくれど わはさかるがへ万葉集巻十四、東歌(あづまうた)の一首だ。万葉集の時代から歌の題材となる場所なので、源等も現地に行ったかどうかはわからないが、「佐野の舟橋」を詠んだのかもしれない。地方に任官されていた人なので、上毛にも行ったのかもしれないけれどね。「佐野の舟橋跡」は、高崎市上佐野町の上越新幹線の高架下から100mほど歩いた烏川上にある。舟橋とは、舟を浮かべて上に板を張って橋にしたもの。当時は舟が浮かんでいたのだろう。この日は見晴らしのいい日で、浅間山が見え、ギザギザの山、上毛三山のひとつ妙義山も見えた。烏川の下流を眺める。烏川はこの先、神流川と合流した後、埼玉県本庄市付近で利根川に合流する。中山道歩きで神流川の柳瀬橋を渡ったのを思い出した。上流側に見えている鉄橋は上信電鉄のもの。時刻表をチェックせずに来たので、鉄橋を列車が通る時に合わせたら良かったと思っていたら、遠くで列車の走行音が聞こえてきた。もしかして、、、来た??来たわ!!佐野の舟橋跡群馬県高崎市上佐野町188
2023.02.04
コメント(0)
八重むぐら しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋はきにけり 恵慶法師百人一首47番。多くの雑草が生い茂って荒れ果てた、人の気配がないこんな寂しいところにも、季節はめぐり秋はやってくるのだな、という内容の歌。この歌の詞書(ことばがき)に、「河原院にて、荒れたる宿に秋来るといふ心を、人々詠み侍りけるに」とあるので、河原院跡へ行ってみた。鴨川に架かる五条大橋。五条大橋の西詰から木屋町通を南に下ってすぐのところに大きなエノキがある。そのエノキの下に「源融河原院址」の石碑がある。源氏物語の光源氏のモデルともいわれる源融は、嵯峨天皇(786-842)の第十二皇子で、このあたりに河原院という大邸宅を建てた。百人一首14番、陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくにの作者、河原左大臣は源融のことだ。源融の頃には殿上人が行き交う華やかな場所だったが、恵慶法師がこの歌を詠んだ頃には荒れ果てて寂しいところになっていたようだ。恵慶法師は生没年がはっきりとしないが、両者の活動時期の差は100年少しのようだ。エノキの横には高瀬川が流れている。五条大橋に戻って鴨川下流を眺める。五条大橋を上から眺められるカフェに入ってみた。創業元禄二年の京麩の老舗「半兵衛麩」さんのカフェ「Cafeふふふあん」のカウンター席から見た五条大橋。麩がたくさん入った「Fufuパフェ」をいただきながら、恵慶法師がこの歌を詠んだ頃の寂しさとはどんなものだったのだろう、と考えてみたが、車の往来が激しくて想像することができなかった。Cafeふふふあん京都市東山区問屋町通五条下る上人町433半兵衛麸五条ビル3F
2023.01.29
コメント(0)
明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき あさぼらけかな 藤原道信朝臣ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明の 月ぞ残れる 後徳大寺左大臣百人一首52番、81番の歌。52番の藤原道信朝臣(972‐994)の父は太政大臣の藤原為光。母は45番の作者、摂政・太政大臣の藤原伊尹の娘。絶大なる権力があった家柄の出だが、本人はあまり高い地位につかなかったのは、22歳という若さで世を去ったからだろう。父の藤原為光は989年に法住寺を建立している。81番の後徳大寺左大臣は藤原実定(1139-1192)で、徳大寺実定ともいう。平清盛、後白河法皇が活躍していた頃の人物で、後白河院の御所があった法住寺北殿での「建春門院北面歌合」の中心となっていた。ということで、法住寺をこの2つの歌の“ゆかりの地”とした。京都駅から市バスに乗り、〈博物館三十三間堂前〉バス停で下車。下りた人のほとんどは三十三間堂へ行った。三十三間堂の道を挟んで東側に法住寺はある。竜宮門の横に、「法住寺殿蹟」の石碑がある。後白河院はこのあたりに法住寺殿という御所をおいた。時は平家と源氏の争いが激化した治承・寿永の乱の真っただ中。法住寺殿は1183年(寿永3年)に木曽義仲によって焼き討ちされてしまった。ご本尊は「身代わりさん」と呼ばれる不動明王像。義仲に襲撃されて命を落とした天台座主の明雲僧正について後白河院が、「不動明王が明雲となって身代わりになってくれた」と涙したことから「身代わりさん」と呼ばれるようになったとある。「建春門院北面歌合」の建春門院は後白河院の女御。平清盛の正室である時子の異母妹の建春門院(平滋子)は、類まれなる美貌と教養の持ち主で、後白河院の寵愛を受けた女性として知られている。竜宮門横にはもうひとつ石碑がある。あそびをせんとや うまれけん後白河院によって編まれた「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」の有名な一節。後白河院が関係する地なので、歴史を思い返すと、雅さの中に人間臭さのある場所に感じた。法住寺竜宮門越しに見る三十三間堂あっちは人の気配でザワザワしてるよ 法住寺京都市東山区三十三間堂廻り655
2023.01.22
コメント(0)
月みれば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど 大江千里百人一首23番。作者は平安時代前期の歌人、大江千里。生没年は不詳ながら、宇多天皇、醍醐天皇の頃に活躍したと史実にある。官僚を育成する機関であった大學寮で学んだとあるので、二条城近くにある大學寮跡を“ゆかりの地”とした。京都市営地下鉄東西線〈二条城前駅〉で下車し、二条城の南のお濠沿いを西へ向かって歩く。500mほど歩くと、二条城の西南隅の櫓がある。その櫓の交差点はさんで筋向いに祠がある。その祠の脇に石碑があり、読みにくいが「大學寮跡」とある。官僚育成の機関としての大学寮は、大宝律令完成(701年)の頃に制度が確立したと考えられている。大学寮の全盛期は、菅原氏・大江氏に代表される平安時代前期だった。石碑前から見た二条城西南隅の櫓大學寮跡京都市中京区西ノ京北聖町
2023.01.15
コメント(0)
秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ 左京大夫顕輔難波江の 葦のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき 皇嘉門院別当79番 左京大夫顕輔と88番 皇嘉門院別当の歌。左京大夫顕輔とは、正三位左京大夫にまでなった藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)のこと。この歌は崇徳天皇に捧げられた歌だ。 皇嘉門院別当は崇徳天皇の中宮、皇嘉門院聖子(藤原聖子)に仕えた女性で、保元の乱のころまで中宮と共にいたらしい。二人とも崇徳天皇とつながりがあるということで、崇徳天皇ゆかりの田中殿を“ゆかりの地”とした。名神高速〈京都南IC〉にほど近い「田中殿跡」は、崇徳天皇が上皇になってから住まいとした地。とても素敵な歌を詠まれる崇徳さん。その崇徳上皇から勅撰集を撰ぶ命を受けた藤原顕輔は、1151年に『詞花和歌集』を完成させた。田中殿之跡京都市伏見区竹田西内畑町146
2023.01.08
コメント(0)
逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり 権中納言敦忠今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな 左京大夫道雅43番の藤原敦忠と、63番の藤原道雅の歌。この2つの歌の“ゆかりの地”として、お伊勢さんから近い、三重県明和町にある「斎宮跡」へ行った。公卿であった43番の藤原敦忠(906-943)はなかなかにイケてる男だったらしく、いくつかのロマンスがある。そのひとつに、醍醐天皇(885-930)の皇女である雅子内親王との恋愛エピソードがある。雅子内親王は22歳の時に伊勢斎宮となる。それ以前に藤原敦忠と恋仲であったようで、二人の間には数々の贈答歌が残されている。しかし内親王の伊勢下向でその恋は実ることはなかった。63番の藤原道雅(992-1054)も公卿。伊勢斎宮から帰京した三条天皇の皇女の当子内親王と恋仲になり、内親王の父である三条天皇の逆鱗に触れる。今はただ 思ひ絶えなむ、、、 この歌は愛しい当子内親王に贈った歌だ。43番と63番の作者の恋愛相手は伊勢斎宮だったということで「伊勢斎宮跡」を“ゆかりの地”とした。近鉄特急に乗って伊勢方面に向かうと、松阪・伊勢市駅間で「斎宮跡」についての車内アナウンスがある。私は伊勢市駅近くのタイムズカーシェアを利用して斎宮跡に向かった。伊勢市駅から車で30分ほどで斎宮跡に着いた。とても広い。斎王は内親王、女王が務めた。伊勢神宮に奉仕する斎王の住まいなのでお伊勢さんに近いかと思うが、外宮まで13kmほどある。こにには1/10スケールの斎宮寮の復元模型がある。御上から遣わされた斎王の住まいなので大きい。ここで働いていた人の数もかなりだっただろう。都から離れた伊勢に住まうという寂しさはあっただろうが、これだけの規模で側近が多くいたのだから、それほど苦になるものでなかったのでないかと感じたけれど、それは冷たいかな。ここでボランティアガイドのマダムに声をかけられた。どちらから? 大阪でーす! わざわざお越しいただいて。何に興味を持たれてお越しいただけましたか? 百人一首でーす!マダムによると、あちらに見えている森に斎王さんがいらっしゃったとずっと地元の方は信じてらっしゃったが、発掘調査によって、伊勢街道沿いの竹神社のあたりが斎王さんの住まいであったと考えられているとのこと。また斎宮は掘立柱の工法で建設されるので、長い年月に耐えられるものではなく、時代を経て移動しているということも教えていただいた。斎宮跡に来る時、運転しながら気になった竹神社。帰りに寄らないと。マダム、ありがとうございます。マダムに勧められたので、全体的な歴史を学ぶため三重県立斎宮歴史博物館へ。(入館料 大人340円)わかりやすい展示で為になった。映像展示は遠足・修学旅行生を意識したであろうアニメ多用だったのは、アニメに疎い私には合わなかったけれど、それは私が時代に取り残されているからね。伊勢街道沿いの竹神社へ。駐車場はお宮さんすぐ横にある。神宮遙拝所ここまで来ると伊勢神宮はもうすぐそこだけど、遙拝所があるのね。なんだか神秘的な雰囲気がある。でもね、手水はとても華やか。地元の人たちの関りも感じる花手水。このあたりが都との違いを感じる。洗練はされていないけれど、温かさを感じる花手水だ。竹神社のすぐ横には近鉄電車の踏切がある。その向こうは先に行った斎宮跡。斎宮跡からは近鉄の列車をよく見ることができる。近鉄自慢の特急車両がよく来る。斎宮歴史博物館三重県多気郡明和町竹川503
2022.12.16
コメント(0)
きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む 後京極摂政前太政大臣百人一首91番。作者の 後京極摂政前太政大臣とは、土御門天皇の摂政だった九条良経のこと。九条良経の歌碑が鴨川沿いの川端公園にある。百人一首の「きりぎりす、、、」ではなく、霜うづむ かものかはらに なく千鳥 氷にやどる 月やさむけき鴨川の冬を詠んだ歌だ。そこには良経だけではなく、他の歌碑もある。誰だかよくわからない兵衛さんは、鴨川べりの藤を詠んでいる。あとの二人は超有名人。秋を詠んだ後鳥羽院と、春を詠んだ実朝。教科書に出てくる超メジャーなお二人さんなので、良経の歌碑を見に来たのに、良経の影が薄くなってしまったよ。ごめんね、良経さん。鴨川の春夏秋冬を詠んだこの歌碑は、疏水と鴨川の合流地点の橋の上にある。川端通が疏水を跨ぐ田辺小橋の上だ。このあたりは散歩にいい場所。疏水沿いの春の桜は見事だから、岡崎のほうから桜を愛でながら歩いてきて、鴨川に着いたら実朝のこの歌をつぶやけば、文芸的なお花見になるかもしれない。川端公園は、京阪〈神宮丸太町駅〉から川端通を100mほど南に下ったところにある。川端公園京都市左京区川端北堤町94-7
2022.12.14
コメント(0)
玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする 式子内親王89番、式子内親王の歌。式子内親王は後白河天皇の第三皇女で、満10歳から10年ほど賀茂斎院を務めた。「賀茂斎院」とは賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)に奉仕する皇女のこと。式子内親王が祭祀を行ったであろう賀茂御祖神社(下鴨神社)に行った。長い歴史のある下鴨神社。斎院の始まりは平安時代初期で、承久の乱の頃まで約400年間続いた。式子内親王が斎院だったのは賀茂斎院制度の終盤にあたる。実の兄は平氏に対して挙兵した以仁王。平家と源氏が争う激動の時代を生きた内親王だ。下鴨神社の境内にある御手洗池。毎年5月に行われる葵祭の主役の斎王代が「御禊の儀」で手を清める場所だ。大炊殿を拝観できるので、御手洗池横の入口から入る。(大人500円)本殿後ろ側にある、大炊殿に向かう通路。御手洗池は人で賑わっていたが、ここは誰もいなくてとても静か。鴨の氷室下鴨神社の宮司さんのブログによると、氷室は古代から1944年(昭和19年)頃まであったが、戦時中に重要な文書等を避難させるに適した場所だと考えられ氷室は防空壕になった。ただ、氷室は元々湧き水を冬の間に凍らせるシステムの場所だったこともあって湿気がひどく、避難させた文書等はほとんどがダメになってしまったという。第34回式年遷宮事業(平成20年代)の一環として復元されたのが、この氷室だ。氷室からが大炊殿エリア。神様のお供え物を調理していた大炊殿(おおいどの)。おくどさんと調理場。大炊殿の建物は重要文化財。元あったものは応仁の乱で焼失し、今あるのは江戸初期、1628年頃のものだ。調理には欠かせない井戸もある。大炊殿の奥には、唐車が展示されている。何ともはんなりとした雅な世界。ここには下鴨神社の御神紋にもなっている「双葉葵」が自生していて、「葵の庭」とも呼ばれている。葵で唐車とくると、源氏物語の「車争い」よね。「車争い」は賀茂祭の日の出来事だったな、と思い出すと、はんなり一辺倒ではないアグレッシブさも感じた。大炊殿のある場所は、「賀茂斎院御所旧跡」でもある。賀茂御祖神社(下鴨神社)京都市左京区下鴨泉川町59
2022.11.20
コメント(0)
高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 たたずもあらなむ 権中納言匡房73番の歌。作者は大江匡房(1041-1111)。大江氏は学者の家系で、匡房も神童と呼ばれるくらい優秀だったいう。後三条天皇(1034-1073)の側近として頭角を現し、白河上皇の時代には出世街道を邁進して公卿にまで昇りつめた。最後の官職は大蔵卿だったので、今で言うなら財務大臣にまでなった人物だ。80年ほど一族から公卿になった者がいないのに、そこまで昇りつめることができたのは、余程の切れ者だったということだろう。出世のきっかけは、まだ親王だった頃の後三条天皇の信頼を得たことということで、後三条天皇が崩御した地である「大炊御門万里小路殿跡」を“ゆかりの地”とした。御所のすぐ南、富小路通り夷川通北上る大炊町にある「大炊御門万里小路殿跡」。富有自治会館前に石碑がある。石碑のある富小路通り。石碑から250m北へ行けば京都御苑の富小路口だ。この辺りを歩いてみよう。すぐ南は、♪まる たけ えびすに おしおいけ~ の夷川通。通り沿いにはジャポネ~な箪笥や座敷机がある家具店がある。他にも家具店がある夷川通。夷川通は家具の街だった。富小路通りの3本東は寺町通で、有名店があって楽しい通り。老舗漆器店の象彦やお茶の一保堂。予約しないと手に入れられないクッキー缶で有名な村上開新堂菓舗。クッキー缶じゃなくてロシアケーキなら予約なしで買える。奈良が本店の墨で有名な古梅園の京都支店。その店先に、「藤原定家京極屋敷址」の碑がある。ここ寺町通は百人一首97番の“ゆかりの地”なのね。(私は97番の“ゆかりの地”は淡路島にした)歩いていて楽しい御所の南。大江匡房の生きていた平安時代後期はどうだったのだろう。その時、日本で一番賑わっていた場所には違いない。大江匡房は大江匡衡と赤染衛門の夫婦のひ孫で、ひいばあちゃんの赤染衛門の歌も百人一首に入っている。(59番)大炊御門万里小路殿跡京都市中京区大炊町351
2022.11.09
コメント(0)
世の中は 常にもがもな 渚漕ぐ 海人の小舟の 綱手かなしも 鎌倉右大臣93番の歌。鎌倉右大臣は、鎌倉殿。三代将軍源実朝だ。「優しさと切なさと儚なさ」を感じさせる将軍実朝。12歳で鎌倉幕府将軍になり28歳で暗殺されてしまう運命は、歴史上の人物の中で一二を争う儚さがある。義時たち北条家の支配の影になって、存在意義を生涯問うたであろう実朝くん。自身も北条家の血をひいているのに利用されるだけって、理不尽に感じただろう。「実朝のゆかりの地」ということで、鶴岡八幡宮に行った。太鼓橋があるが通行できない。この太鼓橋は「赤橋」といい、かつては朱塗の橋だったそうだ。この赤橋の近くに屋敷をかまえたのが北条氏系の赤橋家。赤橋といえば足利尊氏正室の赤橋登子。鎌倉幕府最後の執権、赤橋守時の妹が登子で、夫が兄がトップだった幕府を倒すという、今の常識ではかなり波乱万丈な一生をたどる女性だ。花手水実朝を暗殺する公暁が隠れていたという大銀杏は2010年の強風で倒れてしまった。その銀杏の影に公暁が隠れていたというのは伝承だが、長年鎌倉を見つめてきた大銀杏が倒れてしまったのはとても残念なこと。今は次の世代に繋がる銀杏を鋭意育成中のようだ。石段上って、鳩二羽の「八」を見る。参拝後、海のほうを見た。八幡宮から参道の若宮大路、その先には由比ヶ浜があるが霞んで見えない。実朝は宋に渡りたいと船を造らせ由比ヶ浜に進水させるが、船は浮かばなかった。実朝の落胆ぶりはいかばかりか。何とも切ない。八幡宮境内にある白旗神社。こちらは源頼朝と実朝が祀られている神社で、必勝や学業成就で信仰されているとか。そうだねぇ、実朝くんが祀られているなら、お参りすると情緒豊かな文系人間になれそうな気がする。由比ヶ浜実朝くんはここから渚漕ぎ出でて行きたかったのだろう。鶴岡八幡宮神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31
2022.10.26
コメント(0)
永らへば またこの頃や しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき 藤原清輔朝臣わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし 二条院讃岐84番の藤原清輔朝臣(1104-1177)は、79番の作者・藤原顕輔の息子。父との関係は良好ではなく、勅撰集の仕事上でも父に嫌がらせを受け、昇進も遅くなってしまった。しかし二条天皇には歌人として重用されたとある。92番の二条院讃岐は名前のとおり二条天皇に仕えた女性。ということで、この2首は二条天皇(1143-1165)の内裏を“ゆかりの地”とした。二条天皇の里内裏は「押小路東洞院第」。ここだ!という石碑などを事前に探し出せなかったので、このあたりかなぁ~と、押小路通りと東洞院通の交差点へ行った。右側のセブンイレブンは東洞院押小路店。東洞院通の南側からみた交差点。交差点すぐ横にある東洞院押小路郵便局。二条天皇は後白河天皇の長男。クセの強い父の後白河法皇との関係は最悪で、宮中を二分する対立となる。対立抗争の登場人物には美福門院や平清盛などスター級が揃っている。なんといってもラスボスの後白河との政争で日々心が安まる暇はなかっただろう。二条天皇は父に先立つこと27年、齢23で押小路東洞院第にて崩御した。
2022.10.22
コメント(0)
あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな 謙徳公忘れじの 行く末までは 難ければ 今日を限りの 命ともがな 儀同三司母恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ 相模百人一首45番、54番、65番の“ゆかりの地”に選んだのは、京都市上京区にある「一条院内裏跡」。中立売通と大宮通りの交差点を少し北に入ったところ。西陣地区の南にあたる場所にある。「一条院内裏跡」とは、一条天皇(980-1011)の住まいがあった場所。元は45番の作者、謙徳公こと藤原伊尹(924‐972)の邸宅で、伊尹の没後に、伊尹の弟を経て一条天皇の母となった詮子の所有となった。その後、一条天皇の里内裏になった所だ。54番の作者の儀同三司母は、儀同三司の官職にあった藤原伊周の母。名は高階貴子といい、時の摂政関白 藤原道隆の妻という超上流階級の女性で、子供のひとりが、一条天皇の中宮である定子。清少納言の主君として有名な中宮定子だ。夫の道隆が存命中はセレブ生活だったが、道隆亡き後に息子の伊周が藤原道長との権力闘争に敗れ、息子が左遷されてからは淋しい生活になったという。一条天皇と中宮定子の間に生まれた脩子内親王に仕えたのが、65番の作者の相模。謙徳公の邸宅、儀同三司母と相模は一条天皇ゆかりの人物ということで、ここを“ゆかりの地”とした。「一条院内裏跡」の前の大宮通り。このあたりは静かで車の往来は激しくない。一条院跡としては、「源氏物語ゆかりの地」の説明板がすみっこにあるのみ。一条天皇のもうひとりの中宮、藤原道長の娘の中宮彰子に仕えていた紫式部が日記に書いている内裏は一条院内裏のことなので、ここは「源氏物語ゆかりの地」なのだ。それよりも目立つのは、「名和長年公遺蹟」の文字。名和長年、、、どこかで聞いたような気がするな~ と考えていたら、2年前に再放送していた大河ドラマ「太平記」で小松方正さんが演じていた武将だと思い出した。隠岐に流された後醍醐天皇が島を脱出する際に活躍した武将で、後醍醐天皇に重用され、後に足利尊氏に討たれ、討たれたと場所はこの辺りと伝わっている。今は児童公園になっている。鳥居の横には萩の花が咲いていた。少しこの周辺を歩いてみた。大宮通りの1本東側の旧大宮通り。一条院内裏跡のすぐ南の中立売通。御所の中立売御門に突き当たるこの通りの向こうに、如意ヶ嶽の「大」の字が真正面に見える。ちょっと遠いけれど、8月の送り火では鑑賞ポイントになる場所ね。中立売通と大宮通りの交差点には石碑がある。「聚楽第址」「此付近大内裏及聚楽第東濠跡」とある。秀吉が建築した聚楽第のあった場所で、この辺りで金箔の瓦が多数出土している。ここは京都らしい歴史的に濃い場所のようだ。一条院内裏跡(名和長年公遺蹟)京都市上京区梨木町192
2022.10.12
コメント(0)
誰をかも しる人にせむ 高砂の 松もむかしの 友ならなくに 藤原興風百人一首三十四番 藤原興風の歌。三十六歌仙のひとりの藤原興風は、平安時代前期の歌人だ。相模国、上野国に任官した官人でもある。「高砂の松」の高砂は、今の兵庫県高砂市になる。加古川河口右岸の高砂海浜公園に行った。加古川河口向こう岸は加古川市。神戸製鋼加古川製鉄所がある。こちらの高砂側は、三菱重工や神戸製鋼高砂製作所がある。ここは播磨臨海工業地帯に位置する。その真ん中のオアシス的な場所が高砂海浜公園だ。白砂の小さな海岸がある。高い煙突は仕方ないが、植栽でうまく周りの景色を隠している。ここだけ見ると、重化学工業地帯のど真ん中とは思えないわね。「高砂の松」なので松がいっぱい。播磨灘へと漕ぎ出していく船。望遠で寄ってしまうと船の細部が見えて興醒めかも。遠くから見てるのがいい。高砂や この浦舟に 帆を上げて、、、「高砂」も「松」も、おめでたいワードだ。百人一首にこだわらないと、きっと一生来ることはなかった場所。自己満足だけど、何かにこだわるのも楽しいし面白いと感じた。見える島影は家島諸島。県立高砂海浜公園兵庫県高砂市高砂町向島町1710
2022.09.28
コメント(0)
奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき 猿丸大夫百人一首五番、猿丸大夫の歌。猿丸大夫は三十六歌仙の一人ながら謎の人物。「古今和歌集」の序文にその名があるが、いつの生まれか、存在すらはっきりしない人物だ。はっきりしない人なので各地に伝説があり、その中のひとつの猿丸神社〈京都府宇治田原町〉へ行ってみた。京滋バイパス〈笠取IC〉から南へ車で12分ほどの山あいにある。江戸時代初期にはこの地にあったお宮さんで、主祭神は猿丸大夫。ここは京都府綴喜郡だが滋賀県との県境付近で、滋賀県側の大津市大石曾束町に猿丸太夫の墓があったという伝承がある。猿丸神社から大石曾束町までは1㎞も離れていない。静かな山あいにひっそりとあるお宮さんだが、一組二組と参拝客が訪れている。こちらは「瘤(こぶ)取りの神 猿丸さん」として有名で、“がん封じ”で参拝される方が多いとのこと。2人にひとりがなる病とはいえ、なったらダメージ大きいもの。神頼みしたくなるのは痛いほどよくわかる。狛猿さんがいる。境内にある願掛けの絵馬には、きっと真剣な願いが綴られているのだろう。秋の紅葉は素晴らしいだろうなと想像できる。奥山に紅葉踏み分け、、の歌のままの錦秋の秋を堪能できそうな場所だ。猿丸神社京都府綴喜郡宇治田原町禅定寺粽谷44
2022.07.13
コメント(0)
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる 皇太后宮大夫俊成百人一首83番、藤原俊成の歌。愛知県蒲郡市の竹島海岸に藤原俊成の像がある。藤原定家の父である藤原俊成(1114-1204)は、藤原道長の玄孫になる人物。大変長命な人で91歳まで生きたそうだ。(900年前に91歳って 凄!) 百人一首の歌の他に、岩間もる 玉かげの井の すずしきに 千歳の秋を 松風のふくという歌が像の横に刻まれていた。蒲郡市のホームページによると、藤原俊成は1145年から1149年まで三河国の国司を務めていて、「竹谷荘」「蒲形荘」を開発し、蒲郡の礎を築いた人物とのこと。蒲郡にとても縁が深いのね。愛知県蒲郡市竹島町2
2021.11.25
コメント(0)
心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花 凡河内躬恒百人一首29番。9世紀末から10世紀初頭に生きた平安時代前期の歌人・凡河内躬恒(おおこうちのみつね)の歌。凡河内躬恒は三十六歌仙の一人に数えられる名高い宮廷歌人。役人としては、甲斐、和泉、淡路などの地方務めをしたそうだ。ということで、和泉国の国府跡を〈ゆかりの地〉とした。JR阪和線〈和泉府中駅〉から東へ徒歩12分程のところにある御館山公園に、『和泉国府跡』の碑がある。公園内にあった石碑によると、この地に行政府が置かれたのは奈良時代初期の716年。757年には正式に国司が配置され、国の名が「和泉国」となった。とある。御館山公園すぐ横には、白河上皇や後鳥羽上皇が熊野詣りで通った小栗街道(熊野街道)がある。小栗街道歩きで、このあたりは2009年に歩いた。(その時の街道記)当時の大幹線道路だった小栗街道に沿って国府があったということで、上皇や法皇がここを通られる時は、歴代の和泉守は「えらいこっちゃ~」と大騒ぎしながらお出迎えをしていたことだろう。小栗街道の向こうに泉井上神社の鳥居が見える。こちらのお宮さんが、「和泉国」の名前の由来になった“泉が湧き出た”という伝承がある場所。小栗街道沿いの鳥居ではなく、和泉府中駅前に出る道路沿いにあるこちらの鳥居が正面のようだ。一夜にして甘露な味の清水が湧いたのは仲哀天皇9年、神功皇后が行啓なされた時と伝えられている。その伝承が本当かどうかは別にして、大昔に泉が湧いたことはあったのかもしれない。地名って、その地の歴史を表すものだものね。泉井上神社の本殿は国指定重要文化財に指定されている。現在の本殿は、1605年(慶長10年)に、豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建したと伝えられるもの。泉州をうろうろしていると、片桐且元って忙しかったんだろうなぁ~と思ってしまう。土木・建築工事の差配に大忙しだった人物みたいね。国府跡の碑がある公園には、赤染衛門の歌も記されていた。人よりも わきて嬉しき いづみかな 雪げの水の まさるなるべし和泉国府跡 (御館山公園) 大阪府和泉市府中町4丁目6−16
2021.07.31
コメント(2)
嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな 西行法師百人一首86番、西行法師(1118-1190)の歌。平清盛と同い年で鳥羽上皇を護衛する北面の武士では同僚だった西行は、23歳で出家し、「漂泊の歌人」といわれるほど陸奥、四国など諸国を巡る。奈良の吉野、京都円山公園近くの西行庵、大原野の勝持寺など、ゆかりの地が多くある西行だけど、「終焉の地」の弘川寺に行ったので、「生誕の地」を選んだ。西行の生誕地には和歌山説と京都説の2つがある。和歌山説のほうに行くことにした。和歌山県紀の川市竹房、紀の川の竹房橋の北500mに西行像がある。台座には、「嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな」と百人一首の歌が刻まれている。西行の出家前の俗名は“佐藤義清(さとうのりきよ)”という。祖父の代から佐藤氏が支配していたのが、ここ紀の川市竹房のあたり。西行像の横には桃直売店がある。行った時は閉まっていたけれど、そろそろ桃が並んでいるのではないかな。像の前には可憐な桃の花が咲いていた。紀の川市は桃の一大生産地。ちょうど桃の花がいたるところに咲いている季節だったので、西行像から3㎞ほど紀の川を下った紀の川市桃山町へ行ってみた。「桃源郷」として、関西の桃の花の名所として有名な場所だ。県道128号近くの紀の川堤防から見た桃源郷。紀の川市の旧桃山町地域は桃栽培が盛んなところ。「あら川の桃」は関西のブランド桃として有名だ。西行がこのあたりで生まれたのかは定かではないが、出家後に高野山に長くいたこともあるので、高野山からさほど離れていない祖父の代から縁のあるこの紀の川市あたりを訪れたであろうことは想像できる。桃源郷は見てなくても、紀の川堤防に咲く野草は見たんじゃないかな。(野草が外来品種だったら見てないな)桃の歴史は古いそうで。弥生時代の遺跡から桃の種が見つかっていて、食用として普及するのは明治以後だが、観賞用の花木としての歴史は長いようだ。桃といえば中国だから、悠久の歴史があるな。飲茶に桃饅頭があるくらいだし西行像の横には数台の駐車スペース(無料)がある。桃源郷は、桃の花季節限定で紀の川河川敷に無料臨時駐車場がある。堤防より紀の川上流を眺める。西行法師像和歌山県紀の川市窪144桃源郷臨時駐車場和歌山県紀の川市桃山町段
2021.06.24
コメント(0)
難波潟 みじかき芦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや 伊勢百人一首第19番、伊勢の歌。宇多天皇(867‐931)の中宮温子に女房として仕えた伊勢。生没年については定かではないようだが、だいたい870年代生まれで930年代没のようだ。平安時代にありがちな恋多き女性で、数々の公卿との恋愛があり、宇多天皇の寵愛も受け天皇の皇子を授かる。その後は、宇多天皇の別の皇子と結ばれて女の子が生まれる。その女の子は歌人の中務。家系図がぐちゃぐちゃになりそうなくらいの平安LOVE模様だ伊勢が晩年に隠棲したところが大阪府高槻市の伊勢寺の場所と伝わっている。曹洞宗のお寺さん。門を入ってすぐのところに伊勢の歌碑があった。本堂でお参りする。ここはもう一人の百人一首の作者のゆかりの地でもある。嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 龍田の川の 錦なりけり百人一首69番のこの歌の作者、能因法師は伊勢を慕ってこの地で隠棲した。伊勢の次の世代の人物だから、伊勢の歌に恋したのだろう。伊勢櫻と名付けられた桜があった。お寺への入口横に、15台以上停められる無料駐車場がある。参拝料は無料。伊勢寺大阪府高槻市奥天神町1丁目1−19
2021.03.13
コメント(2)
人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は 後鳥羽院百人一首第99番、後鳥羽天皇(1180-1239)の歌。大阪府三島郡島本町の水無瀬は、後鳥羽天皇の水無瀬の離宮があった場所。源平合戦さなかに生まれた後鳥羽天皇は、壇ノ浦に沈んだ安徳天皇の異母弟だ。かなり波乱万丈系のお方で、鎌倉幕府執権・北条義時に追討の院宣を出してケンカを始めたが、有名な北条政子の演説(代読説もあり)で結束力が増した鎌倉幕府軍にあえなく敗退。(承久の乱)後鳥羽上皇は隠岐に流され、そこで生涯を終える。来年の大河ドラマは北条義時が主役だから、後鳥羽院も登場するかもしれない。後鳥羽院は隠岐で亡くなる直前に、自身の弔いのことなどを記した置文を公卿の水無瀬信成に託し、院崩御の翌年1240年、信成がここにお堂を建て弔ったのが水無瀬神宮の始まりだ。後鳥羽院は隠岐で19年の月日を過ごした。この日の水無瀬は寒かったが、それには比べようもないくらい当時の隠岐は寒かっただろう。水無瀬神宮の御祭神は、後鳥羽天皇 土御門天皇 順徳天皇。父である後鳥羽天皇と行動を共にし、佐渡に流された順徳天皇。計画にのっていないのに自ら土佐に流された土御門天皇。(自らって何で?)御祭神は、配流されたお父さんと息子二人だ。和歌の名手で、「新古今和歌集」の編纂に力を注ぎ、刀剣造りにも長けていた後鳥羽院。菊の花を好み、刀剣には菊の紋を彫った。1月初旬には、手水舎は『菊水』になっている。もうちょっとじっくりと『菊水』を撮りたかったが、横に行列が出来ているので写真は1枚だけ。行列は、名水百選の『離宮の水』を汲む人々の列だった。人気の水のようだ。後鳥羽院からは離れるが、水無瀬神宮は将棋に縁のある場所でもある。安土桃山時代の13代目宮司の水無瀬兼成は書の名手で、多くの将棋駒を作った。一昨年、山形の天童でダンナ依頼の将棋駒を買う時、将棋駒の字体には「錦旗」「水無瀬」「菱湖」などがあると聞いたが、「水無瀬」はここ水無瀬神宮の宮司さんが確立した字体だったと今回知った。将棋駒 斧折 特上彫 水無瀬書 ※駒箱付き水無瀬神宮へは、JR京都線〈島本駅〉、阪急京都線〈水無瀬駅〉からいずれも徒歩12分ほど。広めの無料駐車場が鳥居横にある。水無瀬神宮大阪府三島郡島本町広瀬3丁目10-24
2021.01.25
コメント(0)
君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ 光孝天皇百人一首15番。情景が目に浮かぶ優美な歌で、百人一首の中で最も好きな歌だ。仁和寺は、この歌を詠んだ光孝天皇(830‐887)の勅願で886年(仁和二年)から建築が始まり、2年後に創建している。しかし、「仁和の帝」とも称された光孝天皇は寺の完成を見ることなく、建築開始翌年に亡くなってしまった。ほんの1年ほどの関係だが、仁和寺は光孝天皇が勅願したということで、「百人一首のゆかりの地」とした。“きぬかけの路”に面している立派な二王門(重要文化財)道路沿いに堂々たる門があるので、前を通り過ぎるだけでも印象に残っていた。門前は何度も通っているが、境内に入るのはいつ以来か。40年以上ぶりになるので記憶が曖昧。ほぼ初訪問のようなものだ。二王門をくぐるとすぐ左側に御殿があるが、そこは後にして、参道をまっすぐ奥に向かう。御殿への勅使門(登録有形文化財)大正時代建築の勅使門の美しさに目をうばわれた。レースのような透かし彫りが素晴らしい。中門を過ぎると、左側に有名な御室桜がある。御室桜は背が低く遅咲きなのが特徴で、京都に花見に来ると「御室桜はまだ」ということがほとんど。「背丈が低い満開の桜林の向こうに五重塔」というポスターによくある“春の仁和寺の風景”に出会うには、御室桜だけを狙った時期に来ないと難しい。江戸時代、寛永年間建立の五重塔(重要文化財)室町時代の応仁の乱でほとんど焼失し仁和寺は荒れてしまうが、江戸時代の三代将軍家光の頃、寛永年間に再興の機会を得た。この五重塔もその時の建築だ。国宝の金堂江戸初期建築の京都御所の紫宸殿を寛永年間に移築したもので、現存する最古の紫宸殿。金堂の屋根瓦の上に孔子みたいな人がいる!帰ってきてから調べると、孔子みたいなのは黄安仙人という仙人で、仙人が踏んづけているのは亀さん。亀が出てくるのは長寿の象徴なんだろうね。このあたりも美しい。中門(重要文化財)越しに二王門を見る。御室桜が咲いていない季節は、金堂やこの辺りは拝観料がいらない。では御殿へ。御殿へは拝観料500円がいる。御殿自体は明治期に焼失した後に建てられたものや、明治期に建てられたものなので、それほど古いものではないが、光孝天皇の皇子である宇多天皇(867-931)が出家し法皇となってから住職としてこの辺りを住まいとしたので「御室御所」と呼ばれ、「仁和寺御所跡」として史跡に指定されている。宇多天皇は初めて「法皇」の称号を使った天皇だ。仁和寺というと真っ先に思い出すのが、仁和寺にある法師、年寄るまで、石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、、、の「徒然草」。先達(案内人)をつけずに石清水八幡宮へ行き、肝心の山上のお宮さんに参らず帰ってきてしまう、ちょっと残念な法師が、仁和寺にある法師。この寺に来ると、その法師を思い浮かべている人は多いだろう。仁和寺は真言宗御室派の総本山で、世界遺産に登録されている。真言宗御室派総本山 仁和寺京都市右京区御室大内33
2021.01.19
コメント(0)
このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに 菅家 百人一首24番、菅原道真の歌だ。宇多上皇の吉野宮滝御幸の時に詠まれた歌で、「手向山(たむけやま)」がどこなのかはっきりとはしないそうだが、京の都から吉野への途中なので、奈良のこの「手向山」でもいいのではないだろうか。お水取りで有名な東大寺二月堂のすぐ南にある手向山八幡宮749年(天平勝宝元年)、大仏建立にあたって東大寺守護神として大分の宇佐八幡宮から迎えられ祀られたのが始まり。大仏の開眼供養は752年なので、その3年前に創建されたということね。時節柄、七五三のお参りのご家族が何組かいた。皆さん、お子様のベストショットを撮ろうと必死だけど、お子様はどこ吹く風。お子様は紅葉なんかどうでもいいわよね~(笑)でも、美しい紅葉を背景にした写真はいい記念になると思うよ。紅葉の錦 神のまにまに良い紅葉狩りができた。手向山八幡宮 奈良市雑司町434
2018.11.28
コメント(6)
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ白峯神宮(京都市上京区)の句碑百人一首77番、崇徳院(1119-1164)の歌。5歳で天皇に即位し、20代で上皇に。父親である鳥羽法皇との確執は深く、物言える立場になるのをことごとく邪魔され、実の弟の後白河天皇との権力闘争に破れて讃岐に流罪となり、二度と都に帰ることは叶わずその地で亡くなる。人生波瀾万丈の天皇だ。そんな悲劇的な人生なのに、亡くなってからも怨霊だ祟りだなんて言われ、化け物みたいな姿を描かれてしまう。あまりにも悪いほうに盛られてしまっている。こんな素敵な歌を詠まはる天皇さんやのに、何とも気の毒なこと名神高速京都南インターチェンジのすぐ近くにある『鳥羽離宮 田中殿之跡』。崇徳天皇が上皇となってから住まいとしていたのが田中殿で、ここから白河北殿に入って二週間後に崇徳院は讃岐に流される。この二週間ほどのゴタゴタが保元の乱。どのようなルートで讃岐まで行ったのか。鳥羽から船で下ったとあるので、淀川を大阪まで来たのだろう。尼崎市に「崇徳院」という地名がある。最寄り駅は阪神電鉄の尼崎センタープール駅。讃岐に配流される崇徳院がこの辺りで休息したという伝説があるそうだ。バス停のある道意線を北へ、古くからの阪神ファンにはおなじみの浜田球場を過ぎ、2号線を越してしばらくのところにある松原神社。この神社は崇徳院を相殿神としている。崇徳院が讃岐に配流される途中、大風雨を避けてこの地で休息し、村民がもてなしたという伝承があるそうだ。讃岐へのルートとしては、あながちあり得ない事ではないのかもしれない。尼崎より西へ移動し、瀬戸内の海を渡ったのだろう。今の香川県坂出市が崇徳院の終の住処となった。崇徳院が崩御してから約700年後、明治天皇が讃岐にある崇徳院の陵墓へ勅使を遣わし、崇徳院の御霊を京都に戻して創建したのが、堀川今出川にある白峯神宮だ。「崇徳院をお祀りしている」という事だけしか知らなかった私は、勝手に寂しい雰囲気のお宮さんを想像していたら、想像とは全然違う賑やかなお宮さんで、修学旅行の若人が大勢いる。次から次へとタクシーに乗った制服姿の小グループがやってくるのだ。何で?? 崇徳院と中高生って結びつかないのよねぇ。舞殿の横には左近の桜(撫子桜)が美しく咲いていた。(4月中旬撮影)舞殿の中央に、「戦いが始まる」と書かれたサムライブルーの選手たちのフラッグがある。こんなものもがあった。この場所は蹴鞠の宗家である飛鳥井家の邸宅があったところで、蹴鞠の守護神もお祀りしていることから、球技全般の上達祈願をするお宮さんとして人気があるのだった。だから有名選手が参拝に訪れることもあるとか。ボールが奉納されていた。サッカー、野球など各球技ごとのお守りがあって、部活している子たちに人気があるみたい。崇徳院と球技には直接つながりはないけれど、生きている間は戻る事が許されなかった都で、若い人たちの声が響く賑やかな場所で祀られているのは、少し救いがあるようにも感じた。今は丸いものをテーマにたくさんの歌を詠んでそうもうひとつ崇徳院をお祀りしているところが祇園にある。祇園甲部歌舞練場の裏側にあるのが、「崇徳天皇御廟」で、崇徳院の寵愛を受けた阿波内侍が、院の遺髪を請い受け弔ったという伝承がある場所だ。阿波内侍は出家後、大原の寂光院に入寺している。
2017.06.16
コメント(4)
田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ 山部赤人作者の山部赤人は、奈良時代の聖武天皇に仕えた歌人で、三十六歌仙のひとり。歌に詠まれている「田子の浦」は、現在の田子の浦より西、JR由比駅から蒲原駅あたりだったという記述を読んだことがあったので、新蒲原駅近くの歩道橋の上から富士山を見た。ベストポジションは、東名高速の由比パーキングエリアだろう。そこからなら駿河湾越しの富士山を眺められるが、富士山はいつでも見えるものでもないので、とりあえず角度が一緒だろうと、ここからで納得することにした。紀尾井町のホテルから美しい富士山の姿を見て、予定していなかったのに蒲原までやって来た。朝は晴れていても、時間が経つと雲がでてきてしまう。もう少し早めに行動すれば良かったと後悔したが後の祭り。富士の高嶺に雪がある景色を見られたので「よし」としよう。新蒲原駅は旧東海道蒲原宿の最寄り駅。蒲原宿といえば、静岡県の海沿いで、こんなに豪雪になるものかしら! と驚くほど雪まみれな、広重『蒲原 夜之雪』の舞台となった宿場町。宿場町を歩いてみよう。
2016.12.21
コメント(2)
つくばねの 峰より落つる みなの川 こひぞつもりて 淵となりぬる 陽成院茨城県の筑波山。〈百人一首ゆかりの地〉というより、♪筑波山麓男声合唱団〜 のほうがピンとくる。作者の陽成院(869−949)は平安時代の天皇。清和源氏で有名な清和天皇の皇子で、9歳で即位、15歳で譲位して上皇となっている。80歳と長命で、上皇期間65年は最長記録だ。平安時代の80歳って、今でいうとどれくらい?100歳以上かもね。歌の意味は、「初めは淡い恋心だったが、今では深く愛するようになったよ」というラブな歌。陽成院が筑波山に行ったとは考えにくいので、想像しながら詠んだ歌なのだろう。筑波山は男体山と女体山の2つの峰からなる山で、歌垣の山として有名だった。「歌垣」とは、男女が集まって歌舞飲食して豊作を願い祈り、求愛の歌を掛け合い、カップルが成立すると恋愛に発展するというもの。今でいう合コンに、“祭りの夜”的要素をプラスして、思いっきり開放的にしたものかな。集団お見合い、即フォールインラブ的な。陽成院が「つくばね」と詠んだのは、筑波山が「愛の山」だったからだろう。私はカエルのイメージしかなかったんだけど関東平野を代表する山で、江戸のいたるところから眺めることができたのだろう。歌川広重 名所江戸百景〈千住の大はし〉歌川広重の名所江戸百景でも多く描かれている。
2016.02.10
コメント(6)
契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり 藤原基俊美しき言葉が並んでいるので、耳に入ってくる音は心地いいけれど、解説を読むと爆笑ものの一首。「うちの息子にさあ、いい役をつけたってと頼んでたのに、今年もアカンかったってどないなってんねん! 約束ちゃうやん、忠通さんよぉ」意訳すると、こんなふうかな。現代のモンスターペアレンツの皆さんも、これぐらいの風流さを心得たクレームをつければ、クレームも芸術の域に昇華されますことよ。舞台はこちら興福寺。アットホーム感漂う般若寺の次に訪れると、威厳にノックアウトされそうになりますわ。いい仕事する規模は小さい東大阪の町工場に行った後に、淀屋橋の大会社へ営業に行ったような気分。(営業したことないけどさ)藤原基俊が、息子である僧都光覚が興福寺の維摩会(ゆいまえ)に講師として招かれることを、講師決定権のある一族のボスの藤原忠通にいつもお願いしているのに、今年もまた選からもれた。息子の出世がうまく運ばなかったことを嘆いているお父ちゃんの歌。私の持っている解説本には、「子を思う親の悲しみ」と表現されていて、そう言えば聞こえはいいけれど、「親ばかちゃんりん」系の歌に思えてしまう。1000年の時を経ても、人間って変わんないな〜と感じるのが、歌の面白いところ。興福寺横の駐車場に料金1000円払って停めたので、少しゆっくりと境内を見ようと南円堂へ行ってみると、南円堂周辺が何やら騒がしい。奈良・京都へは、あまり下調べしないでふらっと行くので、全然知らなかったけれど、この日は特別な日だった。一年に一度、南円堂が開扉される日。まさにスペシャルデー!ちょうど1時に南円堂前にいたので、「大般若経転読法要」を見学した。全600巻の大般若波蜜多経が50巻ずつ12箱に納められ、1箱をひとりの僧侶が受け持つ。まともに読んでいると50巻で丸2日かかるので、「転読」という方法を用いる。「転読」とは、折本経典を空中に投げ広げて経典を読んだことにすることで、奈良時代から用いられている方法だ。パッと経典を空中に乱舞させるさまは激しく、僧侶たちの張りのある声とあいまって、豪快な法要だった。法要を終えて戻られる僧侶たちを見送ったら、南円堂の中へ入った。法要直後の混雑の中、観音さまを拝んで清々しい気持ちに。南円堂に入るには300円の参拝料がいるが、シューズバッグとして売店で220円で売っている小型トートバッグがもれなくつく。 一年に一度の日に偶然当たりラッキーだった。ここに来たら、阿修羅くんにご挨拶しないと!国宝館(入館料600円)へ入った。阿修羅くんはもちろん、まん中の白鳳時代の仏頭もキリッとしてていいわ。10月24日からは正倉院展が始まるので、奈良の一番賑やかな季節がもうすぐやってくる♪ ♪ ♪ ♪父の西国三十三カ所紀行文の興福寺の分を下書きして、4年以上そのままにしていた
2014.10.21
コメント(6)
これやこの 行くも帰るも わかれては 知るも知らぬも 逢坂の関 蝉丸リズムが良く、憶えやすいこの歌は、第10番。作者の蝉丸はどういった人物だったかはわからず、生没年も不詳。ざっくり平安時代前期の人物ということだ。坊主めくり専門だった私は、「頭は坊主じゃないが、蝉丸は坊主なんだ!!」ということで蝉丸をおぼえ、車の運転をし始めてからは、名神高速の蝉丸トンネルを通る時は、「これやこの〜」とつい歌を詠んでしまう。百人一首中一番親近感のある作者で、どういう訳か、蝉丸の札を見ると妙にウケてしまう。歌に詠まれている「逢坂の関」は、山城と近江の国境、蝉丸トンネル付近がその場所だ。国道1号線の京都/滋賀県境、逢坂山周辺には「蝉丸神社」の名の神社が三社ある。JR大津駅から近い「関蝉丸神社」の下社へ行った。大津駅から徒歩10分かからない。踏切は、京阪京津線。昔は都ホテル前の三条蹴上付近をのったりと走っていたが、現在そのあたりは地下鉄東西線で、山科区の御陵から東が京阪区間になっている。浜大津付近では昔ながらの路面電車状態になっているが、チンチン電車なんて生易しいものではなく、ごぉーーっと電車が道路を走って来るので、運転中はできれば道路上ではお会いしたくない物体だ。踏切を渡るとすぐに境内。もうちょっとお手入れしてもいいような雰囲気。蝉丸の歌碑周辺はうらぶれてしまっている。人手が足りない感がありあり。お宮さんのある場所の地名は大津市逢坂。神社前のこの道は旧東海道で、写真の方向に進んで山を越えると山城の国へ入り、京三条大橋まではあと10kmほどだ。恋の歌が多い百人一首。恋といえば、逢瀬がつきもの。『逢坂』は「逢う」の掛詞になっているので、あと二首に『逢坂』が出てくる。第25番 名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られで 知るよしもがな 三条右大臣第62番 夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ 清少納言超わかりやすい蝉丸のと違って、どうにもわかりにくく憶えにくかった清少納言の歌。訳を読んでも、いきなり「函谷関の番人はだませても」とかあって、どこにも書いていない「函谷関」って何よ〜何なのよ〜! と吠えるだけで、疑問を解決する気はさらさらなかった高校時代が思い出される(遠い目)清少納言女史と、女史と対等に話ができる藤原行成氏の、知識階級のウイットに富んだやりとりを聞かされても、凡人JKにはわかんなかったっすよ。
2014.10.10
コメント(2)
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ 天智天皇百人一首の一番。万葉集にある天智天皇の作と伝わる歌が一番になっている。天智天皇といえば「大化の改新むりしごと」。645年に中臣鎌足と組んで蘇我入鹿を暗殺し、政治の表舞台に出て、667年にそれまで飛鳥にあった都を近江大津に遷都し、翌年そこで即位した。どうして大津に遷都したのだろう? 663年の白村江の戦いで唐・高句麗の連合軍に大敗を喫してしまったことが原因と言われているが、大津は防衛するのにいい土地だったのだろうか。その近江大津宮の跡とされているのが、大津市錦織2丁目のこちら。住宅地の真ん中にある、遊具のない児童公園のような所が、『史跡近江大津宮錦織遺跡』。大津宮跡については諸説あったそうだが、発掘の結果、ここが跡地であるということになった。大型の柱穴が発掘されたことが決め手になったそうだ。このような住宅街の何の変哲もない通りに、ポツポツとある史跡で、知らずに歩いていると空き地にしか見えない地味〜なものだ。史跡は地味だが、マンホールは派手。琵琶湖大橋、花火、遊覧船にヨット、琵琶湖周航の歌のボート、今は亡き観覧車、湖の上を飛ぶ鳥、その他もろもろ。いやあ〜 盛りに盛りまくった図柄(笑)書き込み過ぎで、訳わかんない部分もある。左下は何なん??『史跡近江大津宮錦織遺跡』から北へ200mほど行ったところに、近江神宮がある。こちらのお宮さんの御祭神は天智天皇。創祀は昭和15年と新しい。登録有形文化財に登録されている。ここを有名にしているのは、『かるた名人位・クイーン位決定戦』で、あの格闘技のようなかるた合戦が行われるのは、ここ近江神宮だ。競技かるたを題材にしたマンガとのタイアップ商品もある。さすが『百人一首 一番札』ゆかりの地、あっちを見ても、こっちを見ても、かるたがいっぱい。天智天皇は、漏刻(水時計)を日本で初めて設置した人物としても知られているので、境内にはかるたと並び、『時』にまつわるものも多い。「時計館宝物館」(入館料300円)があり、漏刻の仕組みが説明されていた。その一角に時計工房があり、依頼すると時計修理をしてくれる。近江神宮は、敷地内で、「近江時計眼鏡宝飾専門学校」を経営して、技術者育成をしている。『時計館宝物館』の2階片隅に、淋しそうにいたこの子は、大津市観光振興課所属、大津光ルくん。 良い歌が浮かばないかと、思案中。光ルくんのプロフィールによると、 特技はローラースケートと和歌を詠むこと。 趣味は草花観賞とかるた。わずか5年の短い間とはいえ、都があった場所のキャラは、やはり雅系の佇まいになるのね近江大津宮は天智天皇亡き後、壬申の乱で天智天皇の息子の大友皇子が天武天皇(天智天皇の弟、大海人皇子)に敗れ、たった5年で廃都となる。
2014.10.09
コメント(2)
朝ぼらけ 有明の月と みるまでに 吉野の里に ふれる白雪 坂上是則 み吉野の 山の秋風 さよふけて ふるさと寒く ころもうつなり 参議雅経百人一首には、吉野が舞台になっている歌が二首ある。吉野の代名詞「桜』が題材ではなく、秋と冬が詠まれている。桜が植えられたのは平安時代からとあるので、作者である坂上是則(?〜930)、藤原雅経(1170〜1221)の頃は、まだ今ほど全山ピンクに色づくような〈桜の山〉ではなく、深山奥深き寂しい場所、寒々しい所という捉え方だったのかもしれない。源義経、後醍醐天皇と、中央政権から外れてしまった人が隠れ棲む場所。侘しいという言葉が似合うのだろう。しかし、侘しい寒々しいというだけなら、別に吉野でなくてもかまわない。霊場への参詣道の入口という吉野の土地としての役割が、歴史上名のある人々の隠遁の場として選ばれた理由だろう。吉野の山の向こうには、大峯山、熊野三山がある。吉水神社参道から金峯山寺蔵王堂が見えた。山岳信仰とは切っても切れない役行者。謎多き役行者さんは修験道の開祖といわれ、金峯山寺の創立者と伝えられる。金峯山寺は「きんぷせんじ」と読むのね。「かねみねさんでら」だと今まで思ってた(恥)大峯山が「おおみねさん」だから、思いこんでた。小学校5年の林間学校は天川村の洞川だった。男子は大峯山山上ヶ岳、女子は稲村ヶ岳登山で、男子は絶壁から身体を突き出される「西の覗き」という行がセッティングされていて、誰それは絶叫泣きしたとかどうとか、ぎゃんぎゃん喚いていた記憶がある。女子は女子で、山上ヶ岳より稲村ヶ岳のほうが高いやん、とブーブー文句を言ってたっけ。高いといっても何メートルかの差で、低いほうの山上ヶ岳に女子は登ることはできない。女人禁制のお山だ。林間学校での〈なぁ〜んちゃって行〉だったが、修験道が脈々と生きている山々なのだ。そんな山々への入口が吉野山。吉野を詠んだ歌をもう一首 よき人の よしとよく見て よしと言いし 吉野よく見よ よき人よく見 天武天皇この早口言葉のような歌を詠んだ天武天皇(大海人皇子)は、壬申の乱直前に、家族と一緒に吉野で隠遁生活をしたことがある。天武天皇は吉野に逃げた後、一発逆転、中央政権の場に躍り出て、権力の中枢に上り詰めた。一緒に逃げた奥さんは後の持統天皇。義経、後醍醐天皇は、そんな天武天皇の吉野からの逆転人生に憧れたのかしら。
2014.04.14
コメント(2)
全67件 (67件中 1-50件目)