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巷はイギリスのEU離脱で株価が金儲けがどうのこうので話題だが、そもそも助け合いのための国家が、多国籍企業やそれを操る巨大投資家の資産形成のための利益追求の場と化し、略奪や競争や人間の奴隷化、機械化を生み、増加させ、地獄化させていることに問題がある。 一部の巨大な資産所有者のために、多くの他のもたざる者が犠牲になっている構造の問題である。 つまり、多国籍企業とは、現代の植民地主義を体現したもので、国家の枠を超えて利益を貪る愚かさに、いま人類は直面している。 株価に一喜一憂するのは、自分さえよければよいという人間を地獄におとすエゴの働きでもある。 国家や社会の福祉に利益を還元しない多国籍企業こそ滅ぶべきである。 さて、巷の地獄化の話はとりあえず今回はやめ、前々回の脳と腸の話の紹介を続ける。 シュタイナーが約100年前にその話をしているのを紹介するために、シュタイナーの研究にお薦めのサイトから、脳と腸の話を前置きとして紹介する。 ★ ★ ★ https://r5.quicca.com/~steiner/novalisnova/siso/memoir/memoir23.htm シュタイナー『精神科学(人智学)と医学』は、何度読んでも発見があって、そのなかで気になっているテーマのひとつに脳と腸の関係がある。第4講では、人間は胸部を中心に上の頭部と下の腹部において、陰と陽として自我の働きを開示し、腹部のなかで形成される組織は、常に頭部のなかで形成される組織のいわば平衡を保つ器官であり、自我を中心とする霊魂の活動は、頭部の脳と同時に腹部の腸とも結びついている、ということが述べられている。 その脳と腸の関係についての研究は、最近になって、福土審『内臓感覚/脳と腸の不思議な関係』という本が出たので目を通してみる。 脳からの信号は脳研究の主要領域である。これに対して、末梢からの信号はどちらかというと副次的領域であった。人間の末梢での感覚などはわけのわからないものだ、被験者が随意に申告できるものなど科学的ではない、そう思われてきたふしがある。 ところが最近は、感覚こそ、脳機能の土台ではないか、と風向きが変化してきた。その中でも内臓感覚は依然として大きな謎に包まれている。脳腸相関の研究を契機として、その謎が次第に解き明かされようとしているのだ。 福土審『内臓感覚/脳と腸の不思議な関係』NHKブックス 2007.9.30.発行 P.223-224 動物の進化は腸からはじまり、腸のまわりを神経細胞が取り巻いて制御機構ができ、脊髄ができ、その先端がふくらんで脳ができた、という。 脳が最初にできて、内臓ができたわけではない。あたりまえといえばあたりまえなのだけれど。実際、脳のかたちと腸のかたちはよく似ている。人間は上にも腸をもっていて下にも脳をもっている、ともいえるわけである。 そういう感じで人体をとらえていくと、それまでとはちがったイメージで見えてくる。しかし、あらためて久しぶりに『精神科学(人智学)と医学』の第4講義を拾い読みしてみただけで、いろんな発見があった。『精神科学と医学』の奥はかぎりなく深い。 ★ ★ ★ では続けてシュタイナーの脳と腸の話を紹介する。 ★ ★ ★ 「精神科学と医学」 第四講 1920年 3月24日 ドルナハ (わかりやすく改変)-------------------------------------------------------------------------------- 前回の講義後の議論は、なるほど極めて興味深かったが、今、目にした質問との関連で、既にもう述べたことだが、再度、次のことを強調したい。 「個別の症状から関係する治療薬を見つけるには、この講義のなかでの考察のように、前もって、ある種基礎的な問題を処理してからでないと難しい。」 ということである。 講義で述べる基礎的な問題の処理により、外界から適切な治療薬をみつけるのに、外界との人体の関係性の認識から、その適応範囲を推量できるようになる。とりわけ、人体の様々な器官と個別に関わる治療薬の作用を理解するには、基礎的問題の処理なしには不可能である。 その理由は明白で、薬と器官との関係は単純ではなく、いささか複雑で、これから述べていく基礎的問題を処理しないと、治療の本質的意味を推測できないからである。その後続いて、治療薬、特に治療法と、個別の器官に現れる疾病との具体的な関係を実際に議論する。 今回は、前置きとして述べる知見を、とりあえずは吸収して欲しい。その知見から、ある種の光(叡智)がみえることもあるからで、というのも、これまで述べてきた知見は、現代人には当然のことながら、最初はショックを与えるものなので、これから述べる知見もショッキングな内容であることを先に強調しておきたい。 前回の講義の後に検討された関連性から、物事の陰と陽のような別側面にも配慮してほしい。 治療の特性に関して、これまで非常に啓発される事例を数多く紹介できたことは、非常に満足のいくところだった。 さて、これまで行われてきた試行錯誤的な経験的な治療を、おそらく次第に無価値なものにしていく、至極単純な治療法をはじめに紹介する。 試行錯誤的で経験的な治療法が用いられないようにするために、勿論、場合により、そのような経験的な治療法を用いることも充分に考えられるが、とにかく次の治療法を紹介したい。 この治療法については、勿論、人智学の素養をもつ人智学徒にしか紹介できない。この治療法とは、リッターの治療法を、普遍化した方法である。普遍化に際して、治療の成功を、1人の医師個人(の技能)に帰することを尊重するわけにはいかない。 確かに、個人として、次のようなことを意識している医師もいるかもしれない。つまり、大きな医師集団に対して、自分は1人の医師として、いわば闘っているが、リッターの治療法を大学で広めたら、非常に多くの、全てとはいわないが、病気が癒されるので、途端にその治療法に染まってしまい、もはや、その治療法の反対の立場には誰も立たず、それまでの自分の経験的な治療の成果が、著しく減少するように考える医師もいるかもしれない。 現実の生活においては、以上のような意識をもつ医師も存在する。つまり、現実は通常、想定しえる状況とは異なることが多い。医師個人としては、目の前の1人の患者の治療が最大の関心事であるのは当然だが、現代の唯物論的な医学は、それどころかむしろ、1人の患者の困難な治療に挑戦することに、一種の法的根拠というか、治療法を求めてきた。 (世間一般に不治の病とか難病とか呼ばれている病気の治療に挑戦することに価値があると考えること。) ☆ ☆ ☆ リッターの治療法 「M・リッターの光線力学的治療の実践的応用のための手引き」(ミュンヘン、1913) 及び「神経-力学的治療法―蛍光素材及び発光(ルミネセンス)素材の細胞領域及び神経死に対する作用に関する研究と経験との関連で」(ライプツィヒ、1905) (原文を探すことはできていないが、恐らく、題名から推測すると、発光体を体内に取り込むことで、体内から光をあてて、生体の再生能を促す療法と考えられる。現代の放射線治療の前身のようなものだろう。 放射線ほど、波長の短い電磁波ではないと思われ、また体内から、発光させる点が、放射線治療と異なる。放射性物質を取り込む方法は、現代でもインビボ検査や、舌癌等などに放射性イリジウムを針のように埋め込む治療がある。 放射線治療では、漠然と、腫瘍化した細胞を殺傷することに重点が置かれているが、この光線力学的療法は、光の波長の制御により、人体の再生能を高めるものなのだろう。 リッターが、特に「神経死」を題名に取り上げているように、神経細胞に、ある波長の光をあてると再生するのかもしれない。もしくは、アポトーシスと呼ばれる遺伝子制御由来の細胞死が光の波長と関係があるのかもしれない。 ネット検索すれば、いまでは、このリッターの治療法に類する多くの試みが行なわれているようである。 光線力学的療法 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E7%B7%9A%E5%8A%9B%E5%AD%A6%E7%99%82%E6%B3%95 http://www.m-clinic.jp/pdt.htm http://healthlife.xrea.jp/lungcancer/category3/entry9.html http://team.tokyo-med.ac.jp/nou/gakkai/kenkyu01.html 上記から抜粋。 光線力学的治療(PDT) PDTは、腫瘍組織や新生血管への集積性がある光感受性物質を患者に投与した後、組織にレーザ光を照射することにより光感受性物質に光化学反応を引き起こし、細胞を変性・壊死させる治療法である。この細胞の変性・壊死は、特定の波長のレーザ光と光感受性物質との光化学反応によって産生される一重項酸素(ROS:reactive oxygen species)の強い酸化作用によるものである。 PDTは、光感受性物質が存在し、レーザ光が照射された部位のみに光化学反応を起こさせ、細胞を変性・壊死させる局所的療法である。この作用の主役であるROSの寿命は0.04~4μ秒と短く、更にPDTで使用するレーザは一般的なレーザ治療に用いられる高出力のものとは全く異なり、出力が弱く、手をかざしてもほとんど熱さを感じない程度であり、反応が起こる範囲を光感受性物質が集積した病変部位へとだけにコントロールできることが特徴である。これらのことから、PDTは正常組織への侵襲性が少ない病変部位選択的な治療法として、様々な疾患領域において発展していくことが予想される。 放射線療法 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BE%E5%B0%84%E7%B7%9A%E7%99%82%E6%B3%95 上の場合、問題とする標的のガン細胞などに、光感受の蛋白質等を代謝により吸収させ、外から、比較的波長の長い電磁波を照射して、ガン化を抑制する方法のようである。) ☆ ☆ ☆ 実際、上述の法的根拠は、「そもそも病気は、病気単独では存在せず、病人として存在する」という観点にある。確かに、病気に罹った人を、外見そのままに周囲から切り離された存在としてみるなら、このような法的根拠も正当化される。 しかし実際に病気が生じると、病気に罹った人だけが、特定の病気として、周囲から切り離されるわけではなく、以前、E.博士(?)が言及したように、病気に罹る割合は、かなり広範囲にわたり、ある人を治しても、また別の人に病気をうつしただけかもしれず、決して特定の病気を個人に限定できない。 個々の疾病例を、その病気全体の経過のなかに置かないと、個別的な症状に、はなはだ驚愕させられることにもなりかねない。だから、人類全体の治療ということで、全体から捉えるなら、やはり個別的な治療を、別の角度からも理解しなくてはならない。 以上のことから、一面的に、臨床的な方向づけをするだけでなく、完全な病理学を基にして治療法を引き出してくることが是非とも必要となる。この講義で述べる考察は、通常の経験-統計的な思考に対して、一種の原理[Ratio]をもたらすことを念頭においている。 さて、今回は誰もがよく知る事実から始める。この事実は自然科学や、医学的思考との関連では全く正当に評価されていないが、人間と、外の自然との関係に対する判断の基礎を提供する。 それは、「人間が、3つに大別される人体の機能、すなわち、神経-感覚機能、循環‐律動機能、新陳代謝機能からなり、新陳代謝機能においては、外の自然、例えば植物界のなかで生じる事象に対して、ネガ(陰)の関係をもつ」、という事実である。 更に、次のような事実を描出する。 さしあたり、外界のなかの植物界を観察すると、炭素が「植物」として集積し、炭素を基盤とする傾向が認められる。人間は、植物に囲まれることで、炭素に基づいた生命体に囲まれる。 (シュタイナーは、農業の著書で、「賢者の石」の正体が、炭素であることを明かしている。) 植物の基礎を成す炭素が、人体にも現れていることを思い出して欲しい。人間は、発生の初期の、いわゆる発生期状態[Status nascendi]という段階で、炭素を基にした植物の発生を止揚し、終結させ、代わりに、植物の生成とは反対(逆)の状態を取り入れた。 この初期過程の一端は、人体下部のなかに見つかる。人間は、炭素を沈殿(燃焼分離)させるために、体内で、植物が自らの力で発生しはじめた後、この植物化の抑制(止揚)を、人体上部から誘導しなければならない。 人間は、炭素を燃焼させ、酸素と結合させることで、植物のなかの炭素を止揚し、つまり炭素を炭酸に加工することで、人体内の植物化に対抗する経過を、人体上部から誘導しなければならない。 外の自然とは正反対の経過をもつ人体内の経過に注意してほしい。というのも、自然とは真逆の人体内の生成過程に注意すれば、人体の本性を、次第に根本的に理解できるようになるからである。 「重量を測る」という表現は、物理学に準じた研究に付随する象徴的な表現だが、例えば、体重を計っても、構造は理解できないが、次のような事実を考慮すれば、多少の事実が即座に理解できる。 脳の重量は良く知られているように平均1300グラムだが、その重量で、脳の下の面が圧迫されることはない。もし、脳がもつ重量で、脳の下にある組織が圧迫されたなら、その領域に広がる繊細な血管が全て押しつぶされてしまう。 脳が自らの土台となる下の組織を圧迫する重量はせいぜい20グラムにすぎない。これは、脳水のなかに脳が浮かぶために、良く知られたアルキメデスの水圧の原理に従う浮力を得た結果、脳の重量の大部分が重力として作用せず、浮力により止揚されているからである。 脳水の浮力により、脳の重量が克服され、人体自らがもつ重量ではなく、その重量を破棄するなかの、いわゆる物質の重量とは反対の力のなかに、人間が生きていることは、人体の他の経過でも同様である。 実際、人間は、自然現象[Physis]が作り出す経過そのままに生きるのではなく、自然現象の経過を止揚したなかに生きる。 (自然を陽とするなら、人間は陰となる。) 実際、外の自然のなかの、例えば、植物という生命の最終過程に至る経過を、そっくりそのまま体現するなかに、人間は生きるのでなく、その植物化を止揚(克服)するなかに生きる。 以上は、病気に罹っている人体と植物薬との間に橋を架ける際に、当然、本質的な問題となってくる事実である。 さて、以上のようなことは、いわばちょっとした短編小説風に叙述できる。人間を取り囲む、素晴らしい植物[Flora(フローラ)]の世界に眼差しを向ければ、当然のことながら、とても大きな歓びを感じる。 けれども、羊を解剖し、解剖直後の、羊のなかの植物(腸内細菌)[Flora(フローラ)]を目にするときはそうではない。 羊の体内の植物相は、発生(生成)過程という点では、外界の植物相の発生(生成)過程に類似するが、羊を死後に解剖し、この羊の体内の植物相(腸)から漂ってくる腐敗臭を感じれば、この腸内の植物相[Darmflora]に対して歓びを感じるどころではない。 このような差異に特に注目すべきである。なぜならば、外の自然では、植物を成長の軌道にのせる経過が、人体のなかでは、逆に克服されねばならず、腸内に、植物が発生してはならないのは明白だからである。 外の植物と人体内の植物の違いのなかに、いまだ探求されていない広範な研究領域が拡がるので、比較的若い医学生の学位請求論文のために、この領域から多くを役立てることを勧めたい。 とりわけ、様々な動物から、哺乳動物を経て、人間に至るまでの腸内の形成についての比較研究から、多くの知見が得られるだろう。この研究領域には、重要な知見が未研究なまま数多く残っているので、将来、非常に実り豊かな研究分野となるだろう。 とりわけ、羊を解剖すると、腸内の植物により、酷い腐敗臭が発散されるのに、鳥類の場合、腐肉を食する鳥の場合でも、腐敗臭はなく、解剖しても、比較的心地よいとさえ言える匂いが発せられるのはなぜなのか、一度、その隠れた事情を探究して欲しい。 以上のような事柄の非常に多くが今日(1920年)まで、学問的にほとんど研究されていない。腸の構造の研究については特になされていない。少し考えれば、鳥類と、哺乳類、そして人類の本質的な差異が、腸の差異から示されることがわかる。 鳥類については、例えばパリの医師メチュニコフのような唯物論的な医師たちが、これまで述べてきた事実について、いわば最大の勘違いをしてきたわけだが、鳥類は、膀胱と大腸が、極めて未発達で、走禽類となってようやく、大腸、および膀胱の形態としての、ある種の膨隆[Ausbuchtungen]が見つけられる。 以上の差異から、重要な事実が示される。つまり、生体内に一定期間排泄物を貯蔵し、随意に排出することは、鳥にはなく、食物の摂取と排泄との間に継続的な平衡状態が成立する。 メチュニコフ 原注2 Elias Metschnikoff 1845-1905 オデッサ大学で動物学教授、後にパリのパスツール研究所副所長。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%81%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%95 腸内、そして人体に現れる植物、更には、これから見ていくような微生物のなかに、病因を捉えるなら、それは表面的な見方にすぎない。実際、恐るべきことだが、今日(1920年)の病理学の文献を調べてみると各章ごと新たに、この病気には、この細菌が、あの病気には、あの細菌が発見された云々の記述に遭遇する。 以上のような記述は全て、人体内の、いわゆる腸内植物学、腸内動物学にとっては非常に興味深い事実ではあるが、病気にとっては、せいぜい1つの指標以上の意味を持たない。 つまり、何らかの病気に相応しい状態が、人体の根底にあると、それに相応しい微小動物、もしくは微小植物が発達する機会を提供するが、そもそも微生物の生存環境に適さない場合には感染しない、というような指標でしかない。 (感染した細菌やウイルスに病因があるのではなく、感染の機会を与えた人体内の状態に病因がある。免疫防御が弱いなど。) この微小動物、もしくは植物の生育が、実際の病気に関与する割合は非常に低く、せいぜい間接的に関わるだけである。今日の医学のなかで展開されている論理は、非常に滑稽である。 少し考えてみればよい。良く飼育され、見事な雌牛が沢山いる土地を発見したとき、「この土地に沢山の雌牛がやってきて、感染したから、この土地には見事な雌牛が沢山いる」などと考えるだろうか。 (病因を、細菌やウイルス感染に求めるのは、細菌やウイルスが沢山やってきて、感染したから、病気になった、と考える。) 恐らく、以上のような考えはもたないだろう。このような考えよりも、この土地に、雌牛を飼育する勤勉な人たちがいる理由や、雌牛の飼育に適した土壌が、その土地にある理由を探すだろう。要するに、良く飼育された雌牛が、その土地にいる原因となり得る理由を探し、その根拠とするだろう。 まさか、この土地に見事な雌牛が沢山いるのは、この土地に、良く飼育された雌牛がやってきて、その土地に感染したからである、などとは考えないだろう。 しかし、今日の医学が、病因を、微生物等に求め、展開している論理は、以上のような馬鹿げた考えと少しも変わらない。人体に、微生物が実在するという事実からわかるのは、その場所に肥沃な土壌がある、という以上のものでしかなく、この土壌の観察こそが当然の如く配慮すべき問題なのである。 ただ、例えば、この地方には良く飼育された雌牛がいるので、何頭か譲ってやれば、もっと勤勉になろうと奮起する人もいる、というような間接的な影響が生じる可能性もある。このようなケースは無論、付随して起こる。 感染の準備の行き届いた土壌が、細菌により刺激され、土壌全体が病気の経過に陥ってしまうことも当然起こり得るが、実際のところ、この細菌という生物の観察は、病気の本質的な観察とはほとんど関係がない。 健全な論理の育成に配慮するなら、公認された科学から発せられる思考などにより、健全な思考の荒廃を招くような事態などはそもそも起こり得ないはずである。 すなわち、病因として、考慮すべきことは、これまで述べてきた特徴、つまり、人体の上部と下部のある種の関係が誘因となって、上部と下部との正しい相互関係が成立しない可能性である。 人体の上部と下部の不規則な相互関係の結果、上部の、下部に対する反作用が弱いため、植物化の傾向を阻止する反植物の経過が下部で生じず、植物化を阻止できずに、逆に植物化を促進する可能性が生じる。 人体下部で植物化の傾向が高まると、腸内の植物(細菌)に、夥しく蔓延る機会を与え、すなわち、下腹部が正しい経過で働いていない事実を示す。 下部の正しい活動水準に従って生じるべき上部の活動が下部で生じない場合、その活動が下部で堰き止められ、上部へと押し戻されるような特殊な事態が生じる。つまり、下腹部で正しい特定の経過が生じない場合、下腹部で生じるべき経過が、上部へと押し戻されてしまう。 (ここで述べている「上部」、「下部」とは、心臓を基準として、上半身を上部、下半身を下部と呼んでいる。) 以上のような表現は、いかにも素人臭いようにみえるだろうが、今日通用している病理学に見られる表現よりは少なくとも科学的である。 人体下部において、規定通りに生じるべき経過が、上部へと押し戻されるわけだが、例えば肺や肋膜などでの異常な排出のように、上部の器官での排出に関わる病因は、下腹部の排泄経過との異常な関係性を調べるなどして探求すべきである。 下腹部から上半身にむかって押し戻される人体の経過を、正確に見ていくことは究めて重要である。上半身で生じる病因の多くは、下腹部から押し戻された経過に他ならない。上部と下部との間に正しい関係が成立しないと、上下に本来属する本質的な経過が拒絶され、互いに押し戻される。 さて、以上の事実に加えて、もう1つ注意して欲しいことがある。おそらく、日常の経験から、次のような事実を理解しているだろうが、この事実についても十分に評価されていないので、将来の健全な科学では、この事実についての正しい評価が必須となるだろう。 それは、「人体のある器官について考える瞬間、更に良い表現をするなら、ある器官に付随する思考を抱く瞬間、この器官に、ある種の活動が生じる」という事実である。 この事実についても、将来の学位請求論文になりえる、豊かな研究領域が隠されているが、人間のなかに沸き起こる考えと、唾液の分泌、腸内の粘液分泌、母乳の分泌、尿の分泌、精 液の分泌などとの関係を一度研究するとよい。これら人体の分泌現象と並行して現れる思考が、どのように生じ、どのようなものなのか、を研究して欲しい。 そこで、いま述べている事実の本質とは、一体なにか? という疑問が生じる。 霊魂に、ある考えが生じると、その考えに並行して人体に分泌現象が生じる。この事実とは、一体、何なのか? 人間に生じる思考の素は、丸ごと器官のなかにある。つまり、人間が、ある考えを抱くと、その考えに並行して、何らかの腺分泌が生じるのは、思考の基礎となる活動を、腺を分泌させることで取り出している。 (下等生物の再生力を、人間は、思考として取り出す。分泌活動は、その証といえる。) 腺から再生活動を分離させ、思考として実行し、その後の活動を腺自身の運命に委ねると、腺は自身の本来の活動に没頭して分泌をおこなう。この分泌を妨げることは、つまり妨げなければ、腺から除かれ、思考の土台となった再生力が、腺と結びついたままになる。 以上のように、器官がもつ再生力を思考として取り込んだ事実を、器官に現れてくる分泌現象から、明白に理解できる。 「私が、そのように考えなければ、私の腺は分泌しなかっただろう」と言える。 すなわち、「私は腺から再生力を奪い、この再生力を、私の霊魂に移行させたからこそ、腺は分泌した」となる。 今までの考察からわかる知見の証明を人体のなかに見つけられる。つまり、霊魂の活動の結果生じる体験は、目の前にある自然の成長のために分泌された再生力に他ならない、という証明を、人体内の分泌活動に見つけられる。 (人間の体験は、再生力を器官から取り出すことで生じるという。再生力を奪われた器官は、分泌活動を行い、分泌した汗、涙等を、自然環境に与える。 人間は、眼から再生力という感動を取り出し、眼は代わりに涙を流す。オカルトでは腸が第2の脳といわれるのは、腸から再生力を取り出し、思考しているからといえる。) 人体内の腸内植物に並行して、外の自然の植物の生長力のなかに、人間が、腸内植物から取り出している再生力が潜んでいる。 戸外で、山や草原の植物を眺めるとき、本当は次のように考えるべきである。 この植物のなかには、人間の体験や感情のなかで生き、思考として発展する再生力(エーテル)が潜んでいる。 従って、人体の腸内植物は、外の植物とは異なる。外の植物からは再生力が取り出されていないからで、外の植物のなかにある思考(再生力)は、植物の茎、葉、花のなかに潜んだままである。 以上のことから、花や葉のなかを支配する(再生)力と、人間が腸内植物を抑制する際に、自身のなかに取り出す(再生)力との親密性についての理解が得られる。人間は、腸内植物に再生力を委ねず、腸内植物から再生力を奪いとる。 腸内植物から、再生力(エーテル)を奪い取らなければ、人間は思考できなかった。外の植物が持つ(再生)力を、人間は、自らの腸内植物から奪い取る。 動物においても事情は変わらない。これまで述べてきた事実を霊視できなくては、人体と植物薬との関係に到達できないのと同様に、動物界のなかで様々な動物の形態を与えている力(アストラル)を、人間が、腸内動物から取り出している事実について認識できなければ、血清などを治療に用いるための正しい理解には到達できない。 以上のことからわかるが、人間と環境との関係を真に見据えないことには、治療の原理を理解し、体系化することは不可能である。更にもう1つ、非常に重要なことを指摘したい。 少し前(1920年)、滑稽にも、唾を吐くことが至る所で禁止され、甚だ酷い状態になったが、その酷い体験をした人もいるかもしれないが、この唾吐きの禁止により、結核を撲滅しようとしたことがあった。 さて、この唾吐きの禁止が滑稽なのは、誰もが知るべきことだが、細菌や結核菌などは、至極ありきたりの太陽光の拡散により短時間で殺されてしまうので、適度な時間が経った後に、痰を調べれば、痰のなかの結核菌はすでに死滅しているはずである。 太陽光線は即座に、細菌を殺傷するので、唾吐きの禁止は行き過ぎで非常に滑稽に思える。唾吐きの禁止は、せいぜい、一般的な衛生面では意味もあるだろうが、広義の予防学にとっては全く意味のないことである。 けれども、事実を正しく評価するなら、太陽光線の殺菌力の話は非常に大きな意味を持つ。なぜなら、この話から、結核のような、動物ないし植物に属する、いわゆる細菌は太陽光線の下では自らの生命を維持できないことを示すからである。 細菌は太陽光線下では、自らを維持できない。太陽光線は、病原菌の生存には都合が悪い。 では、細菌が自らを維持できるのはどのような状況だろうか? それは、人体内にいるときである。ではなぜ、人体内でなら自らを維持できるのか? 細菌を、本質的に有害のように見なすのではなく、細菌が体内で活動する状況を探究すべきであり、その際、注意が払われていないものがある。人間は絶えず光に囲まれている。この光は、自然科学での学習では、外界の生物の発育にとって非常に大きな意味を持っている。 とりわけ、光は植物全体の発育にとって非常に大きな意味を持っている。人間は、この光に囲まれているが、人体と外界との境目において、この光、つまり人智学徒が名づける「純粋なエーテル」に、非常に重要なことが生じている。 つまり、光が変化(変容)させられている。 人体内では、光が変化させられる必要がある。人体内で、植物化が阻止され、すなわち、植物化がいわば中断され、炭酸の発生により植物化に抵抗がなされるのと同じように、光のなかの殺傷力も中断される。 従って、人体内の光を探究すれば、外の光とは別の、つまり変容した光がある。 人体の境界を内に向かって超える瞬間、外の光の変容が見つかる。すなわち、人間は、通常、外にみえる自然現象を変化させるだけでなく、不可視の光も、体内で変化させている。 人間は光を別のものに変える。太陽光線の下では直ぐに死んでしまう結核菌が、人体内ではよく生存することは、次のような事実を、正しく評価すれば、端的に証明できる。 その事実とは、人体内に生じる変容光により生じる環境のなかに、結核菌の生存因子(要素)があり、すなわち、結核菌が人体内で増殖するときは、変容光(霊光)になんらかの異常がある、ということである。 更に、体内の変容光から出発し、結核の原因を探れば、結核菌は常在するが、通常は、結核菌を体内に沢山取り込むことはないので、変容光についてなんらかの異常が生じている、という事実が理解できる。 実際、結核菌は常在する。ただ通常は十分な数でないというだけで、人間が結核に屈服すると夥しく増殖する。体内で変容した太陽光に異常がない限り、通常、体内に結核菌が見つかるわけではない。 さて、またも、上述のような人体内の変容光を研究することにより、多数の学位論文等などが書けるが、実際の経験的な事実を、その研究に集約することで、次のような知見を、比較的容易に引き出せるが、いまは、ただその観点を与えるだけにする。 「結核菌の増殖に適した状態とは、太陽光線を体内に十分に取り入れることができないか、もしくは生活習慣のために十分な太陽光線を得ていないため、体内に入ってきた太陽光線と、体内で加工し、変容させた太陽光線との間の均衡が崩れ、体内に備蓄していた変容光から、貯えを引き出さざるを得ない状況にある。」 是非とも考慮すべきことは、人間は、変容光(霊光)を、絶えず自らのうちに貯え持っている、という事実である。 太陽の変容光は、人体にとって必須である。 (キリストが、人間は神の子である、といったのは、太陽の子である、という意味でもある。勿論、父は、太陽である。) 人間と外界の太陽光線との間の相互の経過が正しく実現されないような影響下では、必要な脂肪を、肉体から取り出し、消耗し、痩せていくのと同じように、肉体から、変容光(霊光)が奪われる。 必要以上に、肉体から変容光が奪われる場合、人体上部が病むか、もしくは、上部にとって必要な経過を人体下部から引き出し、つまり下部から変容光を取り出し、下部が病むようなジレンマの前に人間は立たされる。 (外界の太陽光との均衡が巧く図れてない傾向をもつ現代人は、感染症に罹り易くなっている。太陽光線の振幅が強くなっている、という噂もあり、太陽光との均衡が益々図れなくなっている。 恐竜が滅んだ理由も、太陽光線との均衡がとれずに、心筋梗塞等を起こし、滅んだ、という説もある。昨今の地震なども、太陽光線の強さに由来する、という説もある。) 以上の知見からわかるが、人体のために、外から摂取し変化させた目にみえる物質を(食料として)必要とするだけでなく、正しく観察すれば指摘できるが、人体のなかには、変容した形ではあっても、不可視な霊の実質、いわゆるエーテルの実質(霊光)も存在する。 以上の知見から看取して欲しいことは、太陽光線の内外の均衡の原理を通じて、太陽光線の治癒作用を引き出すための正しい見解を打ち立てることである。 例えば、周囲の太陽光線との相互関係において失われている秩序を回復させるために、外界の太陽光線に直接身体を曝すことや、もしくは、内外の均衡が崩れ、蓄積した変容光を取り出す際に生じた人体内の不規則性を調整するように、内から、光線に曝すことで、治療を行うことができる。 (内から光線に曝す治療が、以前、紹介したリッターの治療、いまでいう光線力学的療法である。) また、薬剤などの作用により、人体内の変容光の消耗を抑制することも考えられる。 以上のような知見から、人体内を霊視できる。 以上のような事実から、宇宙全般を観察できる人にとっては、次のような奇妙な感情が生じる。通常ではみられない表現というか、共感も反感も無い客観的な立場から、一見して、反駁可能な、奇妙な感情が生じる。この奇妙な感情とは、顕微鏡での観察、すなわち、微小世界の観察全般に対して、一種の激しい怒りを覚えるような感情である。 なぜなら、顕微鏡での観察は、生命の進化と退化とを、本質的に把握する可能性を導くどころか、逸脱させるものだからである。 というのも、健康、もしくは病気において本質的に関わってくる経過全般は、顕微鏡的な微小世界(ミクロ)というよりもむしろ、巨視世界(マクロ)において、遙かによく研究できるからである。つまり、マクロコスモス(大宇宙)のなかにこそ、生命現象を追求しなければならない。 (重力も、マクロ的視点からでないと理解できない。恐らく、生命も、マクロ的視点からでないと理解できないのだろう。道徳が、人間社会全体からでないと理解できないのと同じなのだろう。) また、鳥類は、膀胱と大腸の発達が不十分なため、摂取と排泄との間に、持続的な平衡状態を絶えず保たねばならない、という事実に注目すべきである。鳥は飛びながら排泄できる。鳥は食物を体内に貯蔵し蓄積することはない。 鳥は、食物を蓄積している暇はない。もし、鳥が食物を体内に蓄積したら、即座に病気になり、体を駄目にするだろう。鳥とは違う人間は、現代的な見解に沿って表現するなら、物質的には、鳥よりも進化したわけだが、より正確な表現を用いるなら、鳥よりも、地上に降下した、といえる。 実際、鳥は腸内植物に対して、激しい闘いを展開する必要もない。高等動物や人間に必要な腸内植物が、鳥の体内には無いからである。しかし、人間の高次な活動というか、例えば以前述べたエーテル(光)を変化させる活動、すなわち、光の変容を導く活動に関しては、人間も鳥と同じ立場にある。 人間は、物質を蓄えられる膀胱や大腸をもつが、この物質的な器官に機能を与えているエーテルについては、鳥と同じで蓄積することはできない。実際、エーテルのような霊の実質は、宇宙のなかでは、地上(物質)的な意味(蓄積する形)では存在しない。エーテル光を受け取ったら、直接加工し、即座に排出しなければいけない。 もし、このエーテル光の平衡状態に支障をきたすと、この支障に対処する器官をもたないため、人間は健康を損なう。 従って、小さな脳を備えた鳥から明確にわかることは、鳥の霊魂はマクロコスモス(大宇宙)そのままの生き写し、ということである。 (人間が健康を損なわないためには鳥に学ぶ必要がある。) 人間は、鳥よりも下降し、地上で粗雑な(物質的)組織に模られた(写し取られた)存在だが、霊の意味から研究するなら、地上よりも上位のマクロコスモス的な鳥の世界で起こる現象を探求しなければならない。 ただ、次のことを述べておきたい。このことは余談として述べるが、鳥類と比較して、人間が物質体において持つ性質(蓄積)を、エーテルでも持つなら、人間の生活は酷く悲しむべき状態になっていただろう。 なぜなら、物質体のようには、エーテルを外界から遮断できないからである。エーテルを外界から遮断し、変容光を蓄積できた場合、人間が、もし変容光を感じとる臭覚をもったなら、人間の共同生活はかなり悲惨な状況に陥っていただろう。 つまり、羊を、死後解剖し、内部の匂いを嗅いだときの経験と同じ状況が生じる。 エーテルに関しては、人間は鳥類と同じ機能をもつので、例えば、腐肉を食する鳥でさえ、解剖時に、腸からの不快な臭いの発散がないので、不快にならないが、勿論、相対的な比較の意味での臭いだが、この鳥の腸と同じ臭いに喩えられるので、人間同士が実際に向き合っても、不快な臭いを感じなくてすむ。 鳥の腸の臭いは、特に、進化上、ようやく反芻動物の素質を持ち始めた、例えば馬(馬は厳密には反芻動物ではないが、反芻動物への素養をもつ)を、解剖する際に発散される腸の臭いと比較して、ほとんど臭わない。 つまり、外の植物と動物に起こる経過と、人体のなかの腸内の動物と植物で起こり、克服すべき経過との対応を調べていくことが重要である。 薬剤と人体の器官との関係を明確にするなら、これまで展開してきた一般的な特質から、次回以降の講義で述べる個別的な特質の理解へと進んでいく必要がある。 つまり、人体内の、植物化に対抗する営みを、循環、もしくは律動過程のなかに発見することで、腸内の動物や植物を克服する過程についての理解へと進む必要があり、またその後、この律動機能による植物化克服の過程から出発し、神経-感覚機能の本質的な理解にも進む必要がある。 この神経-感覚機能は、人間の生活全体にとって、通常考えられているよりも遙かに重要である。科学が抽象化したため、次のような事実を適切な方法で考慮する可能性が全く失われてしまった。 「この神経-感覚機能を通じて、例えば、光や、光に結びついた熱(エネルギー)が入り込んでくるわけで、この神経-感覚機能は、人間の内面(精神)生活と非常に密接に関係する」という事実である。 というのも、光と一緒に入り込んでくる不可視な霊の実質(以下、「霊質」とする)は、人体の様々な器官において変容を要し、また、この不可視な霊質は、可視な物質器官と同じような器官を形作るために、このような霊質を考慮する可能性が全く失われてしまったからである。 霊質からなる神経-感覚機能が人体の組織化にとって特別な意味を持つことが、唯物化し抽象化した科学では全く考慮に入れられていない。 更にまた、身体下部のなかに下降していく場合、腸内植物の生長力領域から、腸内動物の成長力領域へと下降していくことになり、逆に、身体上部へと上昇していく場合には、腸内植物に対する克服(抑制)領域から、鉱物化、いわゆる硬化に対する継続的な克服(抑制)領域へと上昇することになる。 外見的にも、人間の頭部の骨化が、他の組織より顕著であることから見ても、人間は上へ向かって進化するほど、器官組織が鉱物化する傾向が強まる、という事実が洞察できる。 この鉱物化は、人体全体にとっては非常に大きな意味をもつ。これは注意すべきことだが、人間を、頭部、胸部、腹部-四肢の3つに大別するなら、これら3つの組織が、外見のように空間のなかで並列的に境界をもつように考えてはならない。 神経-感覚機能を、質で捉えて区別するなら、当然の如く、頭部に相当する。質でいえば、頭部に神経-感覚機能の主要部があり、頭部から全体へと拡がっている。循環(律動)機能や新陳代謝機能も同様で、それぞれの主要部は、胸部、腹部にあり、常に全体へと拡がっている。 このため当然のことながら、頭部に本質的に存在すべき機能が、全体の組織にも存在するので、この全体に拡がっている鉱物化の傾向を克服(抑制)しなければならない。 現代人が、古代の遺伝として受け継がれた霊能力から導出された著作を読んでも、何も理解できないのは、上述の知見が理解できていないからである。結局、パラケルススの記した「塩過程(鉱物化)」の項を読んでも(パラケルスス「オープス・パラミールム」参照)、その意味を読みとることは、現代人には無理である。 (以下は、非常にオカルト色が強い内容となっている。現代的解釈の典型である。) パラケルススと医学 http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/alcemy/parakerusuigaku.htm ところで、この「塩過程」というのは、ちょうど今特徴を述べている領域(神経‐感覚機能)にあたり、「硫黄過程」が、その前に述べた領域(新陳代謝機能)にあたる。 (塩過程とは、現代風にいうなら、人体内の硬化、あるいは加齢化のことである。硫黄過程とは、現代風にいうなら、肥大化、あるいは脂肪化、肥満-増殖化に近い。つまり、パラケルススは、人体の生命維持の経過を、自然の経過に準えて記述した。 現代人は、単純に、「塩」を物質の塩「NaCl」と、硫黄を、物質の硫黄「S」と捉えて曲解し、古代の医術は出鱈目といっているわけだが、出鱈目なのは、現代人の解釈にある。オカルト研究家の科学的知識のなさが、更に、出鱈目を飛躍させてしまっているので、問題なのだが…。) さて重要なことは、人体は、自らのなかに鉱物化の傾向をもつことである。ちょうど、動物-植物過程の基礎を成す再生力が、独立して起こり得るのと同様に、この鉱物化の傾向も、独立して起こる可能性がある。 (動脈硬化や、血栓などによるエコノミー症候群などである。) では、この鉱物化の傾向に対して、どのように対抗して働きかけるべきなのか? この鉱物化に対抗する働きかけは、この鉱物化の傾向を粉砕し、いわば、そのなかに楔を絶えず打ち込む以外にはない。鉱物化を阻止する治療法を探求するには、血清(動物)療法から、植物療法を経て、鉱物療法へと移行する必要がある。 鉱物療法なしでは、人体の鉱物化の阻止はできない。というのは、人体の鉱物化の傾向や、普遍的な硬化の傾向に対して抵抗するための支援となる治癒原理を獲得するには、外の自然のなかの鉱物の生成過程と、人体内の鉱物化の過程との間にある関係性の理解が必要だからである。 鉱物療法を用いる際、鉱物を、外の自然にある状態のまま、人体内に取り入れる方法では駄目である。人体内で、ホメオパシー(同症療法)の原理が実現するように、なんらかの形で、外の鉱物界の活動的な経過に対置されるような反対(対極)の力を、鉱物界から探し出す必要があり、そのような反対(対極)の力を実現できる鉱物薬を見つける必要がある。 (ここで用いられている「ホメオパシー」という言葉は、「同症療法」というより、陰陽の「中和作用」という意味に近い。) 次の事実はよく指摘されてきたことで、実際正しいが、治癒作用をもつ泉のなかの僅かなミネラル成分に注目すれば、この泉のなかでは、ホメオパシーの原理に従う注目すべき経過が起こっている、のがわかる。 この治癒作用のある泉のなかの、ミネラル成分を生成する過程には、通常みられる外界の様々な力(結晶化など)から、(ミネラルとして)解放する、つまり結合力とは逆の力、つまり、ホメオパシーの原理に従う、結晶化に対抗する力が現れている。 (外界のミネラル生成過程を、生体内で、ホメオパシーの原理に基づいて実現すれば、生体内の硬化を抑制できるようである。ただし、自然界と人間の生体は、ポジとネガの関係なので、陰陽を踏まえないと逆に作用してしまう恐れもあり、充分に注意すべきだろう。) けれど、ホメオパシーの原理については、別の章で述べたい。 いま述べたいことは、次のようなことである。 特に比較的若い人に勧めるが、種別による腸全体の形態変化、言うなれば、魚類から両生類、爬虫類を経て鳥類に至る変化、とりわけ両生類と爬虫類の腸の形態の相違からくる関係性は究めて興味深く、また哺乳類、そして人間にまで至る腸の形態変化について、比較研究するなら、次のような事実に気づくだろう。 「次第に特殊な形態変化が起こり、例えば、盲腸ができてくる。」 人間では、後に盲腸が現れ、下等な哺乳動物や鳥類の組織から、何らかの器官が欠落し、盲腸の原基が現われる。いわば完全な秩序へと向かう進化の上昇を通じて、魚類には全く存在しない大腸(魚には、大腸はない)から、盲腸が複数生じ、人間には盲腸が1つあるが、他の動物には盲腸を複数持つ種類もいる、というように、器官の発生についての進化全体のなかに、独特の相互関係を見つけることができる。 このような比較研究から、本質的な相互関係を厳密に指摘すべきである。単純に外見(物質)的に考えると、実際、次のような疑問が生じる。 「一体何のために、人間は、盲腸のような、外に向かって閉じた(消化)器官をもつのか」という疑問である。 上記のような疑問をよく質問されるが、このような質問は、通常、次のような事実を考慮しない。 実際、人間は二元性(陰陽)[Dualitaet]により自己を開示している、という事実である。 つまり、人体下部で形成される器官は、常に上部で形成される器官と平行器官[das Parallel organ]の関係にあり、下部において平行器官の関係にある器官が発達できなければ、上部の器官も発達できない、という事実を注視しない。 (陰陽の概念が基本である。) 動物の進化系列において、前脳が発達した形態を取るほど、例えば、人間の場合、後に発達させるが、前脳の発達に比例して、腸が食物を蓄積する方向へと形成される。腸の形成と脳の形成の間には密接な関係があり、動物の進化系列において、大腸、盲腸が出現しなかったら、その結果として、物質の原則から、人間は思考できなかっただろう。 なぜなら、人間が、脳という思考器官を持てるのは、全くもって、腸が物質的負担を担う、お陰だからである。腸は脳の忠実な裏面(ネガ;陰)である。つまり、思考のために、脳から物質的活動が免除され、大腸や膀胱を形成することで、代わりに腸に、物質的活動の負担を担わせなければならない。 (この事実から、腸の発達が弱い人は、思考能力に欠けるものと考えられる。現代人は腸の発達がよくないのかもしれない。) 以上のように、物質界に現れている、人間の最高次の霊魂の活動は、完全な脳の形成と結びつくと同時に、腸の形成とも結びついている。この関係は極めて重要であり、自然の創造全体に途方もなく多大な光を投げかける。 腸の不思議な話 http://www.nyu-sankin.net/intestinal/010400.html さて、幾分逆説的に聞こえるにしても、人間には、なぜ盲腸があるのか、という疑問に対しての回答、すなわち、「相応しい形で、人間が思考できるためにある。」と答えることができる。なぜなら、盲腸を形成することで、その平行器官として対置される脳を持てるからである。 一方にあるものは全て、他方にもあり、共に対応している。 (ひふみ神示というのがあるが、そこには、「天にあるもの地にも必ずあるのだぞ、天地合せ鏡と聞かしてあろうがな、天に太陽様ある様に地にも太陽様(おひさま)あるのだぞ」というのがあるが、まさしく、人間の脳と腸の関係にも、通じている。 ニュートンが訳したエメラルドタブレットの内容にも、「上にあるものは下にもある。下にあるものは、上にもある。」とあった。 ) 以上のような事実を、新しい認識方法で再び獲得しなければならない。勿論、遺伝的な霊能力に立脚していた古代の医師たちの治療法を、今日そのまま模倣することはできない。単なる模倣では、当時とは環境が異なり、得るところがほとんどないからである。 それでも、以上のような事実を再び獲得しなくてはならない。このような事実の獲得に際して、最初の障壁になっているのが、このような関係を本質的に探究しない純粋に唯物論的な医学教育である。今日の自然科学と医学にとって、脳は1つの内臓器官で、下腹部にある腸もまた別の1つの内臓器官という意味でしかない。 唯物論的教育では、陽電子と電子は全く同じで、両方とも電子に変わりない、と考えるのと同じ誤謬を犯している事実に、気づいていない。陽電子と(陰)電子の間には、互いに均衡を求める緊張が生じるのと全く同じように、人体のなかでも上部と下部の間に絶えず緊張(均衡)が生じるからこそ、この誤謬に気づくことが重要となる。 (宇宙では、負のエネルギーと正のエネルギーの均衡が働いている。オカルトでいえば、物質の概念で捉えられないから、負のエネルギーとは、精神世界のことで、霊界になる。数学的にいえば、4次元以上の世界。) 医学分野において優先的に探究すべきことは、この緊張(均衡)の本質的な制御にある。今回は、この緊張(均衡)を暗示するだけだが、以後の考察で更に詳しく述べていく松果腺と、粘液腺の2つの器官に集中する作用のなかに、この緊張(均衡)が現れる。 松果腺 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9E%9C%E4%BD%93 粘液腺 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%98%E6%B6%B2%E8%85%BA 松果腺において、上部全体の作用が現れ、下部に影響する粘液腺の作用や、脳下垂体[Hypophysis cerebri]の作用に対して緊張(均衡)関係を成す。この2つの器官のなかに、真の緊張(均衡)関係が成立する。この緊張(均衡)関係に関して、人体の全状態から(包括的に)見解を打ち立てるなら、治療についての非常に良い基本原理が得られる。 この関係については次回から、もう少し述べていく。質問にも立ち入っていくつもりだが、既に述べたように、質問への回答のための基礎を作り上げなければならない。-------------------------------------------------------------------------------- ★ ★ ★ 上にあるものは下にもある。
2016年06月24日
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かつてパックスブリタニカと呼ばれ、7つの海を海賊により支配し、眠らない国といわれた英国が、世界に植民地をつくって多くの人々を奴隷化してきた罪悪がたたったのか、ついに青色吐息の経済的命運が尽きようとしている。 正直、私はイングリッシュの英国人が嫌いである。二枚舌だし、紳士の振りをしながら、中身は野蛮そのものであるからだ。 英国人というよりも、歴代地獄堕ちのロスチャイルドが嫌いなのもある。あのドイツ訛りの偉そうな鼻につく発音も気取っていて虫がすかない。身分階級制度をつくっておいて、その上位に君臨し、紳士も糞もあるだろうか? 有名なMI6の007のモデルがヴィクターロスチャイルドというのは陰謀論では有名だが、この悪人のせいで、この国の住人の多くが大変な目にあったのである。007がミスタービーンなら、世界に戦争も起きなかっただろう。 英国のせいで、この国の住人が沢山犠牲にされたこともある。イングランドは嫌いだが、スコットランドにはなぜか親しみを感じる。ギリシアのスコラ派を思わせるせいなのかもしれない。 個人的好き嫌いはこの際おいておいて、この国の高慢な英国病ともいえるアホバカ総理の命運も同時に尽きようとしているという話を紹介する。こんなのが総理になるから、この国の経済も既に命運が尽きている。人助けよりも企業の利益や内部留保の方が優先されるのだから、地獄堕ちも増えるわけだよね。 ★ ★ ★ 官製相場は付け焼き刃 http://my.shadowcity.jp/ アベノミクス完全終了、おめでとう御座います。ドル100円体制に逆戻りです。しょせん、官製相場は付け焼き刃。長続きはしない。つうか、明治維新からの富国強兵体制は80年保たずに崩壊し、1945年の敗戦を迎えるわけだが、それから70年、アメリカ占領時代に終焉が訪れようとしている。大きな時代の転換点です。一つの体制は80年は保たない。 EU離脱の是非を問う国民投票で、離脱派勝利の可能性が80%まで上昇したとの分析を手掛かりに、一時99円ちょうどまで下落した。100円を若干下回るの水準に置かれていた損失確定の売りオーダー(ストップ)を巻き込んで、下落が加速した。 麻生財務相は、午後1時15分めどに会見を開く予定。 これから激動の10年が始まる。日中戦争から原爆投下、敗戦までの歴史を振り返って見よう。我々はどう動くべきか。そこに回答がある。 日経平均大暴落w あー、嬉しい、嬉しい 日経平均大暴落w あー、嬉しい、嬉しいw 株やってない人にしてみりゃ、ザマーミロだw アベノミクスの化けの皮がどんどん剥がれていくw とうとう14000円台突入ですw 為替も凄い事になってますw 今日一日で、年金何兆溶かしただろうw 溶けて流れてノーエ、流れてユダ金に注ぐw 日本国民がコツコツと貯めて来たカネは、アベシンゾーが溶かしましたw 市場なんざ知ったこっちゃない イギリスのEU離脱決定です。為替も株も乱高下w つうか、世界中の多くのグローバル企業が、EUの統括本部とか、工場をイギリスに置いているんだが、それで済まなくなる。パリとかフランクフルトとか、大陸に引っ越ししなきゃならない。大騒ぎだw イギリスは、大陸からハブられて、凋落間違いなし。仕方ないね、グローバリズムよりアイデンティティを選択したんだから。 ★ ★ ★ 下手すると、中国から、英国へアヘン戦争の仕返しがはじまるのではないか? 臥薪嘗胆という熟語があるように、中国人は執念深いからね。アジア人は英国の嫌がらせに耐えてきたからね。 さて、仕返しをしてしまったら、この世は地獄化するしかなくなる。罪を憎んで人を憎まずでなければいけない。 悔い改めよ、というわけで、英国の身分制度を撤廃するいい機会なんではないだろうか? 大体産まれながらに貴族なんていうのは唯物論の愚にもつかないブラックジョークである。キリストが身分制度を説いたとでもいうのだろうか? キリストは、その逆の、金持ちと権力者は天国にはいけない。地獄に最も近い、と説いたのである。 地獄から這い上がるには、この世に生きているときにキリストのように振る舞わないとダメなんである。 というわけで、警告のために、地獄の紹介を続けてみる。 ★ ★ ★ 後編》二章「残忍地獄」 【I】「憎しみの都市」 俺は闇の中に、じっと目をこらした。何も見えない。どうやら道がありそうだ。俺は手探りでそこへはい上がった。だが、すぐすべって、何やらぬらぬらしたドブの中へ落ちる。はい上がってはすべり、すべってはまたはい上がり。まるでけもののように四つんばいになりながら、俺はその道を何処までも進む。先は真暗で何も見えない。だが、ふしぎな引力が俺を引きずり、俺は無茶苦茶にある方向をさして進む。やがて石ころだらけの荒野に出た。 俺は、なおも前へ前へ進む。つまづいては倒れ、倒れてはまた起き上がり。そのうちに、いつか目が闇に馴れて、ぼんやり辺りが見えてきた。目をこらしてよく見ると、行く手に何やら大きなかたまりのようなものが見える。近づいてみると、城壁である。さいわい、そこにある門から、俺は中に入ってみた。 すると不意に、門番らしい奴が二人、俺にとびかかった。俺は危うくとびのいたが、どうせこんな所で出くわす奴、みんな敵と思えばまちがいない。よし、こいつらと闘ってやろうと、そう思ったとたん、奇妙にキャッと消し飛んで、逃げ出してしまった。 俺は門から町の中へと入ってみた。その頃には、濃い霧を通して、どうやら建物の形が見えるまでになっていた。 俺はこの街に見覚えがある。どうやら古代ローマ街らしい。そういえば凱旋(がいせん)門があり、コロセウムがあり、公衆浴場がある。しかし、そうとばかりいえない。場所によっては、ベニスやミラノや、アッシリアのニネベに似たところもある。 これは後になって分かったことだが、ここは残忍地獄という所であって、かつて、残忍な行為と関係のあった建物は、すべてここへ移され、これらの邪気が凝縮して、地獄の一大都市を建設しているのであった。 さて、俺はかまわず街をどんどん進んだ。街は華やかではあるが極度に汚れきっている。通る男や女も衣服は我々と変わらないが、ただ、酷く汚れて、どれもこれもビリビリに引き裂けている。 街の中は、あっちでもこっちでもけんかが盛んだ。やれ、がんをつけたの、肩がふれたのと、ささいなことですぐけんかを始める。なかには、俺目がけて飛びかかって来る奴もいる。俺がグッとにらみつけると、そいつらは、たちまち消し飛んでしまう。 そこで、俺は悟った、ここでは意志の強さが何よりの武器であると。意志の強さなら、俺は誰にも負けはせぬ。これだけが俺の取柄なのだ。そこで俺は考えた。今では人から攻撃ばかりされていたが、今度はこちらから攻撃して、家来の一人もつくってやろうと。 そこで、俺は不意に一人の男に飛びかかった。そいつは悲鳴をあげて逃げ出したが、俺がウーンと念力を込めて引き戻すと、相手はズルズルズルズルと、面白いように手元に引き寄せられてきた。 俺は威厳を示すために、わざとそいつを投げ飛ばし、地面に何度も顔をこすり付けた上で、道案内をしろと命令を下した。そいつはおろおろして、ぶつぶつ言いながらも、俺の言うなりに案内を始めた。 【II】「皇帝の行列」 俺はあちこち見て歩いた。だが驚いたことには、どこへ行っても、男といわず女といわず、けんかが絶えないのである。 さすがの俺もあきれかえって「いったいどうしたことだ」と聞くと、家来は、 家来「旦那さま、ここは憎悪と残忍の地獄でございます。お互い、あれが何よりの楽しみで、ここにいるわけでございます」 なるほど、そういうものかと俺も納得した。 やがてしばらく行くと、急に街の中が騒がしくなった。見ると何やら行列がやって来る。いや、その騒々しいこと。行列の前後左右で絶え間なく悲鳴が起こる。伴の者同士、伴の者と見物の衆が、絶え間なくののしり合い、けんかをする。中でも人騒がせなのは、行列に従った数匹の猟犬で、これが絶えず見物に飛びかかっては、かみつき食いちぎる。そのたびに、キイキイ、ヒイヒイと悲鳴があがる。 「地獄にも犬がいるのか」と俺が聞くと、 家来「いえ、あれは犬ではございません。皇帝が意志の力で、人間を犬に変えられたのです。旦那さま、あれをご覧ください」 家来が指をさす方を見ると、どうしたことだ、素裸の男や女がたくさんゾロゾロやって来る。 家来「あれも、皇帝のお好みで、あのようにされたのでございます」 「すると、皇帝はよほどの強力な意思の持ち主だな」 家来「さようで、われわれを自由自在に、犬にでも子供にでも変えてしまわれます。旦那さま、来ました来ました、あれが皇帝です」 なるほど、行列の真中に、大威張りでふんぞり返った奴がいる。見ると、罪悪のしわあくまでも深く顔に刻まれ、そのため目鼻だちもはっきりしない。まさに驕慢〔きょうまん〕と残忍の典型である。でも、どこやら生前は、これでも好男子であったかな、と思われるふしがないでもない。 「あいつは何者だ。ローマのネロではないか」 家来「いえ、旦那さま、ネロではございません。ネロなどは皇帝に比べたら、問題になりません。時々、反響をひるがえすことがありますが、そのたびにこっぴどくやられ、ひどい刑罰を受けます。ネロいじめは、皇帝の最大のお楽しみの一つです」 「では、いったい、あいつは誰なのだ」 家来「それが、旦那さま、私はいっこうに存じませんので」 こいつめ嘘を吐くなと、俺はあらゆる残虐な方法でいじめつけたが、知らないものは仕方なく、俺もとうとうあきらめた。 「では、どこぞ面白い所へ案内せい」 そういうことで、われわれは大きな劇場の前にたって来た。これはわりに近代的な建物であるが、ただ、ひどく汚れきって、手入れなどさっぱりしていない。 【III】「劇場」 切符売場ときたら、大へんな雑踏で、押し合いへし合い、つかみ合い、なぐり合い、売り手と買い手は、のべつまくなしにののしり合っている。 これでは、いつまでたってもラチがあかない。そこで、俺は満こうの念力をこめて、雑踏の中を真一文字に劇場の中へ入って行った。家来の奴は大喜びで、俺の後から、そこらの幾人かを突きとばし、殊に、一人の婦人の髪の毛をつかんで、地面に叩きつけた。そばの奴らも、かわいそうなどとは思わず、倒れた身体の上を、わざと踏みにじって歩いて行く。 劇場の中は、どこかしこも、ののしり合い、叩き合いの乱痴気〔らんちき〕騒ぎである。正面の席まで来ると、そこでは男と女が大立廻りを演じている。二人とも、元は上流社会の出らしく、身につけている衣服は中々ぜいだくなものだが、あちこちが引き裂けて汚れきっている。やがて、男の方の意志が強かったとみえて、女を押さえつけると、その上に自分の椅子をすえ、どっかと坐りこんでしまった。女が苦しがって顔を持ち上げると、靴のかかとであごをどんと踏みつける、そして、男は俺たちを手招きして 「構わないから、どうぞ踏んで通って下さい。こんなアマにはそれが一番の功徳ですよ」 そう言って、また、アゴをゴツンと蹴とばした。 俺たちは、言われるままに踏んで通ったが、それは生身の人間を踏むのと、まったく同じ踏み心地で、また踏まれた女も、生きている時と同様にもがき泣き叫ぶのである。 俺たちが席につくと、まもなく芝居が始まった。それとともに、だんだんけんか騒ぎもおさまっていった。だが、芝居の筋書きはどれもこれも、陳腐〔ちんぷ〕な犯罪もので、最後は必ず残忍きわまる殺りくや、拷問(ごうもん)で終わる。 すると、それまでおとなしくしていた家来が、声をひそめてこう言った。 家来「旦那さま、ここらで早く帰りましょう。芝居が終わったら、拷問(ごうもん)係が観客を舞台に引張り出して、ひどい目に合わせますから」 その言葉が終わらないうちに、舞台に拷問係りが出て来て、家来を指しながら叫んだ。 「コラッ、そこの青虫、ここへ出ろ」 家来はみるみるガタガタ震えて立ち上がると、よろよろと舞台の方へ引きずられて行く。俺はこれを見て大いに怒った。いかに虫けら同然とはいえ、俺の家来だ。このままでは主人の面目にかかわる。俺はスックと立ち上がると、舞台に向かって叫んだ。 「オイ、それは俺の家来ではないか。ふざけた真似をすると、承知しないぞ」 すると、突如劇場の中に低い興奮のうめき声がわき起こった。 拷問係はハッタと俺をにらみつけた。 「コラッ、新米なければ、そんな口を聞く奴はいないはずだ。貴様のような奴は、嫌っというほど地獄を思いしらせてやる。ここへ来て俺と勝負しろ!」 「何を! 勝負したけりゃ、貴様の方こそこっちへ来い!」 こうして二人の間に、猛烈な意志と意志の闘いが始まった。俺の長所は、意志があくまでも強固で、絶対に人にひけをとらぬことである。 そこで、俺は念力をこめて、ウームと敵をにらみつけた。しかし、敵もあっぱれな意志の持ち主で、しばし五分と五分の形勢であった。そのうち、観客の間からワッと歓声が起こった。敵が一歩ヨロヨロと、こちらへよろめいたのである。しかし敵もさるもの。ぐっと陣容を立て直すと、今度はアベコベに俺の足元がぐらついた。観客がまた、どっとはやしたてる。 俺も一瞬ひやりとしたが、ここぞと一世一代の念力で、グッグッとにらみつけると、とうとう敵の足元がくらつき出した。 「エイッ」 俺が一声かけるごとに、敵の身体はズルリズルリと、引き寄せられ、最後に 「ギャッ」 というものすごい悲鳴とともに、舞台から転落してしまった。観客はどーっとはやしたてる。こうなると、もうこっちのものだ。敵は機械人形のように、ヨタヨタ俺の方に引き寄せられ、俺の目前に来てひざまずいた。意気地のないことおびただしい。 しばらくして、俺は言った。 「舞台に戻ってよろしい。俺も出る」 こうなると敵はおとなしい。すごすごと舞台に引き上げる。俺もすぐつづいて舞台に飛びあがった。 「こいつを拷問(ごうもん)にかけるのだ!」 俺が配下の獄卒どもに命令をかけると、獄卒どもは仕様ことなしに、今までの親分に向かって、極度の拷問をかけることになった。 いや、観客の喜びようといったらない。手を叩く、足踏みをする、怒鳴る、口笛を吹く。さすがの大劇場もつぶれんばかりであった。 すると観客の間から、期せずして次の大合唱が起こった。 「君は皇位につくべきだ! 直ちに皇帝に反旗をひるがえせ! われわれも力を貸そう!」 俺としても悪い気がせぬでもない。しかし、待てよ、俺は地獄へ来たばかりで、様子が分らない。今、地獄のベテランの皇帝と戦ってはまずい。そこで俺は、 「いやいや、諸君、俺は別に地獄の主権者になる気は毛頭ない。向こうから仕掛けてこぬ限り、皇帝の忠良な臣民である」 すると、あっちでもこっちでも、ゲラゲラ、ケラケラと、俺のことを嘲〔あざ〕けって、中には無遠慮にこう言う奴がいる。 「あいつ臆病者だ、怖がってやがる」 「黙れ、けだもの! 二度とそういうこと言うと、皮をひんむくぞ!」 「バカ言え!」観客の一人がわめいた。 「俺には皇帝がついていらあ。貴様らの手に負えるかっ!」 俺はたちどころに、そいつを舞台に引きずり上げ、獄卒に命じて皮をひんむかせた。皮をはぐと言うと物質くさく聞こえるが、外に適当な言葉がない。とにかく、観客の目には皮をはぐように見え、当人は本当に皮をはがされる痛みを感じる。むろん霊界の者には肉体はないのだが、あってもなくても結果は同一である。 俺はやるだけのことをやって、サッサと劇場を出た。そうして、家来のすすめで、郊外にある有名な人殺しが住んでいる邸宅に乗り込んで、たちまちそ奴を追い出し、そこを乗っ取って住むことにした。どうせこの噂は皇帝の耳に入る。きっと何か言ってくるだろう。 【IV】「皇帝の招待」 案の定、皇帝から招へい状が届いた。それは思ったよりいんぎんなものだった。俺も儀礼上、いやむしろ警護の意味あって、一隊の衛兵を引き連れて登城した。 いや、いつの間にか、俺の元には沢山のナラズ者が集まっていたわけである。まあ、兵士だがな。俺の威力を聞き伝えて、来るわ来るわ、国籍を問わず、野望にもえた地獄のワル共が集まって、今やちょいとした軍団を形成していた。 俺が着くと、謁見(えっけん)室と称する大広間に通された。ローマ風の華麗ではるが、汚れ切っていることは相変わらずである。皇帝はやおら玉座から立ち上がった。そこは一段と高くなっており、その前面には半円形の階段がある。皇帝は満面に笑みを浮かべ、さも親切そうに、俺を歓迎するふりをした。だが、腹の中には、まんまんたる猜疑心があることが一目で分った。 ここが地獄のおかしなところで、お互いに一生懸命だましっくらをする。そのくせ腹の中は、互いに分りすぎるほど分っている。だませないと知りつつ、だましにかかる。いや、こっけいというか、情けないというか、地獄の気のしれないところである。皇帝はおもむろに口を切った。 皇帝「愛する友よ、おんみは地獄へ来て間もないのに、早くもかかる大勢力を築くとは、見上げたものである」 俺はもったいぶって恭〔うや〕しく頭を下げた。 「いかにも陛下の仰せのとおり、この上は一層の勢力を張るつもりでござる」 皇帝「皇位までもと思うであろうがな……おんみのために一言注意しておこう。これは容易ならんことで、永久にそういう機会はあるものではない。それよりも、どうじゃ、二人協力して領土を拡大せんかな。それが得策というもの。余はおんみを大将軍に任じよう。近頃ダントンなる馬鹿者が、大部隊をひきいて地獄に下って来た。当市の隣りに一小国を築きおった。地獄では「革命のパリ」と呼んでおる。どうじゃ、そこを急襲して、まず地歩を築かれては」 俺には皇帝のハラの中は見え見えである。俺がダントンに負ければシメたもの。勝って王位を奪っても、それはダントンと俺が入れ替わっただけ。それに勝っても、俺は交戦でくたびれる。そこが皇帝の目のつけどころである。 そんな計略は見えすいているが、しかし、ここで皇帝と闘わぬが得策と俺は判断した。ダントンに勝つ自信は十分にある。その軍勢を加えた上で、皇帝との決戦に出ればよい。それなら勝つ公算も大きくなる。 とっさに腹を決めると俺は答えた。 「陛下の寛大なるお申し出は早速お引き受けします」 皇帝「おっ、よくぞ承知してくれた。以後おみんは余が股昿(ここう)の大将軍である」 そこで大饗宴が始まった。いやもう、それはぜい美を尽くした山海の珍味で、というところだが、実は食べると中は空っぽの影である。食べれば食べるほど食欲は燃えるようにそそられる。イヤハヤ、地獄のご馳走とは皮肉きわまるものではある。 それでも、陛下のもてなしということだから、さも満足しているように、ナイフとフォークを働かせてみせねばならない。さすがに皇帝も苦笑いを浮かべて見ている。俺とて、そんな茶番の仲間入りはご免こうむって、他の奴らがなすところを見物するにとどめた。 それだけではない。饗宴の間中、音楽隊がたえまなく楽器をひねくりまわす。それが一つも調子が合わない。ただ、ピイピイキイキイと、が鳴りたてるだけだ。それでも、聴衆はさも感心したように、聞き入っていねばならない。 饗宴のあとは、おきまりの剣士の勝負である。剣士といっても、男ばかりではない。女の剣士もどうしてどうして、男も顔負けの獰猛〔どうもう〕な大立ち廻りを演ずる。さてさて、これ以上は言ってもキリがない。要するに、極度の残酷であり、極度の卑わいであったと、そう思ってもらえばそれで結構。 【V】「将軍ダントン征伐」 地獄の戦闘といっても、現界〔地上〕とさして違うものではない。刀で切ったり、銃で撃ったり、その点はまったく同じである。だが一つだけ、大いに違うところがある。それは相手を殺しても、決して死なぬことである。だいたいが、死んでもう肉体はないのだが、霊には形があり、霊は不滅だから、殺してもすぐむっくり起き上がってくる。だから、地獄の戦争の勝つ術というのは、相手を殺すことでなく、痛めるけることである。 痛めつけるといっても、肉体が痛むわけではないが、霊が痛がる点は、肉体の時と全く同じことだ。ところで、近代的な武器が決して強力というわけではない。銃を知らない古代武士に、銃弾をブッ放してもケロリとしておる。その痛さを知らないから、何ともないわけだ。しかし、地上で最大の被害者だった者は、地獄では最強の加害者となる。さんざん痛めつけられた痛みを知っているから、相手に何度でも同じことを繰り返し仕掛ける。地上での加害者にでも会おうものなら、相手は死なないから、何度も繰り返して相手をさいなむことが出来る、死はむしろ救いなのだ。死がないから。地獄の苦痛は終わることがない。 余断はさておき、戦争の話に移ろう。 俺の元には、みるみる大軍団が集まった。俺はこれ見よがしに、奴らを引きつれて街を行進したから、集まるわ集まるわ、二十五万人も集まったというわけだ。だが、こいつらは絶えず反旗をひるがえす。だから、俺の強力な意志で絶えずグッと押さえておかねばならぬ。その苦労たるや一通りのものではない。しかし、この意志力・統制力が大軍団を集める秘けるなのである。 さて、集まったはいいが、イヤハヤ、時代を異にし、民族もまちまち、全くの混成ナラズ者の大集団である。古代武士あり、中世の騎士団あり、支那の海賊、得体のしれなぬ野武士あり山賊あり、はてはトルコ軍やブルガリアの暴れん坊、さまざまである。俺はこいつらを、たとえば中世騎士団とか、古代ローマ軍、海賊軍、トルコ軍というふうに部隊編成し、訓練をした。そこはそれ元陸軍少佐の俺の腕の見せどころ。ここに大した一大軍団が出現した。 敵はと見れば……。その前にまず戦場だが、ここは皇帝領とダントン領の境にある、荒涼たる平原。それは丁度、両国の緩衝(かんしょう)地帯をなしている。俺は皇帝領の側の山に陣どり、敵はダントン領側の山に陣どる。空はあくまでどんよりと、地獄特有の墨を流したよう。空気は霧のように濃厚である。しかし、目は馴れているから、けっこう視界はきく。 さて、ダントン軍というのは、フランス革命で大挙地獄へ移動した者の集団から、武器がふるっている。いちようにギロチン(断頭器)を使う。ところが普通は、そのギロチンに敵の頭を突込ませて、首を切り落とす。これが一番楽な死刑方法だから。しかし、彼等はそこへ足を突込ませ、刺身のように切り刻んで行く。その度に相手は、生きて切られるのと同じ苦痛を感じるのだから、たまらない。 俺は、これに対して、全く敵の意表を突いてだが、馬をたくさん使った。だいたい馬は地獄には来ない。人間のように悪を働く動物なんていないからだ。俺は皇帝の知恵に習って、この馬を、つまり俺の意志で人間どもを馬に変えた。ダントンにはこの知恵がないのか、いや、人を馬に変えるだけの意志力がないのかもしれぬ。だいたい、人間はどんな奴らでも、個性を失うとかいって、馬になるのをひどく嫌がる。嫌がる奴を無理にならせるには、大した意志力が必要なのだ。 しかし、ダントンもサルもの。俺の騎馬大舞台に対して、大鎌をもった密集部隊を繰り出した。これが大砲とか地雷とかいうのなら、へともない。騎士たちはそんなものは知らぬから、痛くもかゆくもないわけだ。しかし、大鎌にはさすがの俺も口閉じた。 だが、軍勢の数からいくと、俺の方が圧倒的に多い。それに、ダントン軍の主力はフランス革命時代の旧式砲兵隊である。そこへいくと、わが軍は近代の大砲隊である。同じ砲を使うのなら、それは威力の大きい方が強いにきまっている。 こうして、戦争は数年に及んだ。及んだといっても、こっちには時間はないから、そう感じるほど、悪戦苦闘したというわけだ。俺はとうとう計略をもって、ダントン軍を挟み射ちにし、ついに山と山の間の低地帯に追い込んだ。 すると、敵軍は内部的に混乱を生じた。というのは、ダントン軍には少なからぬ婦人部隊がいる。女として馬鹿にはできぬ。どう猛さでは男にひけをとるものではない。しかし、これは味方を悩ます。まして低地帯にひきこまれ、軍が動かぬことになると、戦闘はそっちのけにして、乱ちき騒ぎを始めたという次第だ。 わが軍は勝ちに乗じて、けちらしけちらし、ダントン領内に侵入して掠奪(りゃくだつ)の限りをつくした。家という家は一軒たりとも残さず、掠奪しつくし、その後は必ずブチ壊す。一般住民にも見境なく、大虐殺、大凌辱(だいりょうじょく)これぞまことの地獄絵図の限りない展開という次第だ。 しかし、奪っても奪っても一向に満足はない。霊界では物品は何の役にも立たぬからだ。たとえば、酒を奪って飲んでも、ハラワタにはしみず、渇(かわ)きは逆に燃えるばかりだ。金貨や銀貨も、奪ったはしから捨てる。取るのは真似ごとだけで、役に立たぬからすぐあきる。あるのは欲望だけで、快感は少しもなく、地獄にあるのは苦痛だけである。 しかし通り過ぎると、家はニョキニョキ元通りになる。軍が遠ざかると、破壊の意志も、そこから遠のくから、復元するというわけだ。 ともあれ、俺は大勝利をして王位についた。しかし、その後で奇妙なことが起こった。ダントン軍勢の大部分が、こつねんと消滅したことだ。後になって悟ったことだが、ダントンの没落で、彼らの心に無常感が生じ、こんなつまらぬことの繰り返しより、もっとましな生活をしたいという念頭を起こし、そこにしぜんに向上の道が開かれたというわけだ。 【VI】「皇帝の詐略」 王様とはつらいものである。ちょいと気をゆるすと、すぐに謀反が起こる。残酷な仕打ちで謀反をやっつけても、相手は死ぬことがないので手がやける。仕打ちがむごければ、むごいほど反発も増す。イヤハヤ国王とは辛いもの。さすがの俺もいささか手こずっていた。 そこへ、皇帝から祝勝会への招待状が届いた。国をあげれば必ず謀反が起こる。それを承知で、俺の度胸を示すために、俺は威勢よく精鋭をひきつれて乗り込んだ。 さて、凱施式とやらは、例によって例のごとし。極度に仰々しいばかりで、中味は空疎な真似ごとばかり。調子の合わない楽隊のが鳴りたて、施しものはビリビリに引き裂け、頭上からまかれる花は、しおれきって悪臭を放つ、行列の先頭を行く少女達の顔をよく見ると、あくまで残忍と邪淫〔じゃいん〕のシワが深く刻みこまれている。 大饗宴のあとで――それとて、何もかも嘘で固めた虚栄のまねごと、地獄で真実なものといえば、邪悪な分子があるばかりである。皇帝がやおら俺をかえり見てこう言った。 皇帝「いかがじゃ、王位を占むるも、苦労は並大抵ではあるまいが」 「全くでございます。だが、陛下のお膝元にあるよりは気が休まります」 皇帝「そこじゃ。おんみもちと気晴らしの知恵でも出せばいいのじゃ。ナニ、余は時折、地上までブラリと出かける。これはまたとない余の保養でな」 「ハテ、地上へ行けるのですか。もう肉体は失ってこのとおりですが」 皇帝「ハハハハ、おんみは若い。ちと地獄の沙汰など勉強されるがよい。ナニ、地上の人間とそれも魔法使いとな、じっこんになればすむことじゃ。幽体はおろか、ひとときなら肉体さえ出来ぬことはない」 「……………………」 皇帝「ただ、一つだけ注意しておくが、魔法使いに支配されぬことじゃ。彼らの意志は極度に強い。ナニ、おんみや余らの鉄石の意志をもってすれば出来ぬことではない。魔法使いを逆にこっちの召使いにしてしまえば、もうしめたものじゃ」 そう言うと、皇帝はつと見を起こし、 皇帝「いかがかな、今度は芝居見物になど参ろうか」 それきり、皇帝は前のことには一言もふれない。それで俺はハハンと思った。こうして俺を地上へ誘い出し、その留守に反乱が起こって、俺の矢脚を待つ策略だなと。しかし、先ほどの魔法使いと、地上出現の話が強烈に頭にこびりついて放れない。 「不思議なこともあるもんだなぁ、俺も一つ言ってみようか………」 後になって、思い知ったことだが、これは皇帝の落とし穴で、留守中に反乱どころか、このために俺は、最下層まで転落させられるハメに陥ったのである。 《後編》三章「禁じられた快楽」 【I】「魔法使いと結託する」 俺は魔法使いの物色にとりかかった。この残忍地獄のすみずみまで探しまわったが、ホンモノの魔法使いは一人もいない。そういう手合いは、もっと下の地獄へ押しやられているのである。やっとのことで、さる魔道の大家の弟子だったという者を見つけ出した。この者は実地の経験は何もないが、魔道の秘伝だけは師匠から教えられて知っていた。俺はこの秘伝を使って、いよいよ物質界の魔法使いと連絡をとることにした。 秘伝というのは、こちらで一定の呪文を唱える、それが地上で唱える魔法使いの呪文と同調すれば、波長が合って、地上への道が作られるという仕掛けである。やってみれば案外にやさしいものだった。 俺が連絡をとった魔法使いはドイツ人で、プラーグ市の外れに住んでいた。そいつは大した魔術狂で一般に魔法使いは主として妖精を、時にせいぜい幽界のヤクザ霊あたりを、手下にして使うのであるが、こいつはそれにあきたらず、本物の地獄の悪魔を呼びだしにかかっていた。 俺が呪文を唱えると、うまくそいつの呪文に合って……不思議、不思議、俺は無限の空間を地上へ引張られる気がして、こつねんと右のドイツ人の面前に出た。 あたりは真暗で、石壁にかこまれた穴蔵のようなところである。中央に魔法使いが坐って、まだ俺に気がつかないらしく、ぶつぶつ呪文を唱えている。奇怪な図柄が床に描かれており、壁には三体のミイラの箱がたてかけられてある。ふと気付くと、メラメラ香料の煙が舞い上がるそばに、こうこつ状態の女霊媒師がいる。ハハン、この婦人の身体から材料を抜きとって、俺の幽体を作ることになるのかと思った。 俺が意志を魔法使い〔霊能者〕に集中すると、フイに気付いたらしく、俺を見てガタガタ震えだした。やがて覚悟をきめたらしく、キッと身構えて言った。 魔法使い「命令する、もっと近寄れ」 「大きく出やがったな」俺は答えた「俺は誰の命令も受けぬ。頼みたいことがあったら、相応の礼物を出せ」 こういう時には、古来紋切型のセリフがあるらしいが、俺はそんなことにはとんじゃくせぬ。相手もそれにはマゴついたらしいが、やがてちゅうちょしたあとで、 魔法使い「しからば、何を望むのか」 こんな時には「そなたの魂を申し受ける」とでも言うのだろうが、そんな物をもらってもへにもならぬ。そこで、俺の方から切り出した。 「お前なら、何を寄越すか?」 魔法使い「余の魂をつかわす」 「バカ言え!」俺は嘲笑〔あざわら〕った「そんな物もらっても仕方がない。もっと実用向きの品物はないか」 魔法使いはちょっと思案していたが、 魔法使い「しからば、汝に人間の肉体を与えてやろう」 「そんなことが出来るのか。俺は幽体も持っていないのだぞ」 魔法使い「よろしい、幽体を作ってつかわそう。そうすれば、その上に肉体を作って重ねるもよし、または、生身の人間に憑依(ひょうい)するも思いのままだ」 「そいつは豪儀だ、ぜひ一つやってくれ!」 と、まあ、こういう次第で、その魔法使いと俺との交流が始まった。 【II】「憑依の楽しみ」 この魔法使いは、神秘学の研究家と名乗るだけあって、中身なしの幽体だの、エーテル体の妖精だのを、自在に幾つも集める力量をもっていた。それで、俺は、中から恰好の妖精を一匹選びだして、これを俺の元の姿に作り変えた。つまり、俺の幽体はこうして出来上がった。次に、女霊媒に近づき、魔法使いに手伝ってもらって、その身体からエクトプラズムを抜き取り、幽体の周りに凝縮させて、肉体を作りだすのに成功した。 魔法使い「どうかね、人間らしく思えるかね」 「ああ、なかなか立派な風采〔ふうさい〕だ」 有頂天になった俺は、そのまま戸外に飛び出した。 「うあっ! たいへん、たいへん……」 俺の肉体はたちまち融けはじめた。あわてた俺は穴蔵に戻って、物質化のやり直しをする始末。 「こんなヘロヘロとける身体じゃ有難くない。もっとましなのは出来ないのか」 魔法使い「そんなら、生きた人間に憑依(ひょうい)すればよい。うまくやれば、けっこう生身の人間の生活も堪能出来る」 そういうことで、俺の二度目のシャバ〔地上的〕生活が始まったという次第である。 さて、この魔法使いの趣味というのは、一に黄金、二に権力、三が復讐。さりとて色の方も嫌いではない。その証拠に、十余人の女霊媒をいつも身のまわりに飼ってある。 俺はシャバを楽しむ代わりに、時には、魔法使いの手伝いもしてやった。たとえば、金貨を盗み出すなどわけはない。幽体の俺は金庫の扉から中へ透入する。中の金貨をガス体に変える。外に持ち出して元の金貨に復元する。至極単純ってわけさ。 これでは面白味も少ないので、もうちょっとうまい方法を使う。それは睡眠中の人間に近づき、身体の中に入り込んで、夢遊病者にさせる。こいつをおびき出して、うんと金貨を盗み取らせ、都合のよい所まで持って来させる。もちろん、本人は夢中でしたことだから、目が覚めても、何も前夜の記憶は残っていない。 そりゃ、時には失敗する。夢遊病者が追跡されて逮捕されたことも一度や二度やではない。無論、窃盗罪の罪を問われる。だが、魔法使いはのんきなものだ。まして俺の方は痛くもかゆくもない。そいつの身体から抜け出せばよい。その後に、本人の霊魂がノコノコ入り込んで、窃盗の罪を引き受けてくれる。 なにも俺がこんなことで明け暮れていたと思わんでくれ。俺の楽しみは別にあった。これがシャバに生きる者の妙利というか、生身の酒色の享受さ。例の穴蔵には、俺の外に物質化した幽霊どもが十人くらいたたむろしておる。むろん女霊媒たちも十余人いる。これらが飲んで、笑って、歌って、踊って、大声で話したり、人並みのことは何でもやる……酒食などは例の手を使えば、いくらでも手に入る。こんな饗宴は毎晩のことだ、そして、その後は、お決まりの乱知気のコースってわけだ。ナニ、百鬼夜行? これがまことそのものの姿だ。 だが、困ったことが一つだけある。俺の幽体が融け易いことだ。少々憑依(ひょうい)をしたくらいではおっつかぬ。どうも仮の幽体というのはぜい弱にできていて、しょっ中補充しておかねばらない。それに、悪事を重ねるものだから。そのたびに弱り方がはげしい。これには俺もほとほと困りはててしまった。 【III】「殺人の依頼」 そうこうしているうちに、魔法使いから殺人の依頼をうけた。ある男が魔法使いのやっていることに気付いたというのである。 「よろしい、引き受けた」 俺は二つ返事で応じた。こういう場合の俺のやり方は決まっている。午前一時か二時頃、相手の熟睡の時を見計らい、枕元に立って一身不乱に意志をこめる。すると、俺の幽体が赤黒い光りを放ちつつ、もうろうと現れる。更に意志をこららすと、あっちにもこっちもに、さまざまな妖怪変化がニョキニョキ現れる。 「この下郎やっつけろ!」 「こんな奴、八つ裂きにしてやれ!」 勝手な凄文句をならべたてて、とびかかる。これはおどかしで、肉体のない者が、実際に人体を傷つけるなんてことは、容易にはできない。相手はそんなこと知らないから、七転八倒する。 この弱点につけこんで、俺は居文高に叫ぶ。 「おのれ、アンナの怨みを忘れたか。俺はアンナに頼まれて、お前を地獄へつれに来た!」 むろん、俺はアンナに頼まれたわけではない。そんな女が地獄にいるかどうかも知らない。だが相手は気味が悪いに違いない。 狙われた男「助けてくれ!」と悲鳴を上げる。 狙われた男「こんなに年数がたっているのに、まだ怨〔うら〕むなんてひどすぎる……」 こうなると、こっちのもの。調子に乗ってはやしたてる。 「アンナが待っているぞ、早くおいで、お出でよ!」 耳元でささやいたり、かさにかかってとびかかったり、こんなことを毎晩、毎晩くり返す。 「オイ、もういいかげんにクタバレ! どうせ助かりっこないんだ。もしかしたら気が狂うぞ。気を狂わすぞ。そんなことなら死んじまえ、死んだ方がましだ。自殺しろ、 自殺しろ!」 狙われた男「ああ、アンナ、許してくれ!」 この機をねらって一人の幽霊がアンナに化けて、ベッドの裾にニューと現れ、怨みの数々をのべる。こうなると、男はわけが分らなくなり、夢中で鏡台のカミソリを手に取って、喉笛を描き切る。 この大成功に、魔法使いの喜んだこと。そこで、魔法使いはもう一人殺してくれと俺にもちかけた。それは若年の僧だが、魔法使いが悪魔とグルになって悪事を働いているのを見破り、公然と攻撃を仕掛けてきたのだ。これは俺にしても、当然許せぬシロモノなので引き受けた。 ひとまず、例の手を使って僧をおどかした。しかし、相手は道心堅固ときているので、何の校もない。百計つきて、うまい手を思いついた。村一番の器量よしの娘に憑依して、イロ仕掛けでたらしこもうというのだ。その娘にゾッコンほれ込ませ、数週間もあとを追いまわさせ、とうとううまいこと、懺悔(ざんげ)にことよせて、思いの数々を打ち明けさせた。ところが、こいつが全くの堅物(かたぶつ)で、計略はみごとにはずれた。 すると、娘が口惜しまぎれに、僧の悪口をふれてまわった。この機をのがさず、俺たちは毎晩、毎晩増の耳元で、嫌がらせをささやいた。 「おい、ニセ坊主、インチキ宗教家。今にバケの皮がはがれるぞ。赤恥じかく前に死じまえ。死ぬに限る、自殺しろ!」 清廉潔白〔せいれんけっぱく〕の生活を送っている僧だから、サッパリ驚かない。何週間もそうこうしているうちに、相手の方が気がついた。 「ああ読めた! お前らは魔法使いの手先の悪霊どもだな。よろしい。これから私が魔法使いを訪ねて、訓戒めてやる」 僧は手に十字架をとると、敢然と魔法使いの家に向かった。折しも雨がポツポツと降りかかり、雷鳴とどろく、不気味な夜だった。 僧が魔法使いの家に着くと、魔法使いは例の穴蔵に、ほの暗い灯り一つつけて、坐って待ち受けていた。俺達が先まわりして、準備させておいたのだ。着くといきなり、若い僧は居文高になって、魔法使いを面罵〔めんば〕した。魔法使いは一口も言葉を発せず、じっと僧の目を身入っていた。そのうちに、僧の口から出る言葉がしどろもどろになり、ついに一言も発し得なくなった。 魔法使い「このバカ者……何でノコノコここまで来よった。これでお前もとうとう僕亡じゃ!」 そう言うと、魔法使いは呪いの呪文をブツブツ唱えた。俺達悪霊はよってたかって、この哀れな憎しみにむしゃぶりついた。 魔法使いは叫んだ。 魔法使い「いいか、俺の配下に二人の女がいる。お前がここで、その女達と出来合って、ここを密会の場所にしていたことにしてやる。明日はいよいよお前が公衆の面前で、その罪をあばかれることになる。もう逃れる道はないぞ!」 そう言うと、魔法使いは何やら重たい物を、僧にぶっけた。僧は声もなくその場に倒れて気絶した。 「オイ大将、殺すのはまだ早すぎるぜ」俺はそう言った。 魔法使い「ナニ、殺しはせぬ。こいつの持ち物を二つ三つ。そうだ、その錆びのついた時計とか、印形に、髪の毛を二三本とっておこう。これを女達に持たせておけば、ノッピキならぬ証拠になる」 「それよりは」と俺が入れた知恵した、「この坊主と女とを実際にくっつけてやろうぜ」 魔法使い「なるほど、そいつは妙案だ!」 魔法使いはただちに賛成した。――その瞬間である。部屋いちめんに、ものすごい光りがたちこめた。いや、その光の熱いこと、痛いこと、肉をとかし、骨を焦がし、何ものも突き通さずにはおかないという光だ。後で判ったことだが、それはこの若い僧の守護の大天使から発する光りだった。 大天使はいつの間にか近づくと、ラッパに似たリョウリョウたる声でこう言われた。 守護霊「神は、抵抗できぬ人間を、悪魔どもが誘発するのを黙認なされぬ。今まで、お前たちを勝手にさせておいたのは、この僧にとっての試練であったのだ。首尾よくこの者はそれに打ち勝つことが出来た。この者は天使への階段を一段のぼる。されど、お前たちの悪行は今日かぎりだ。魔術師〔霊能者〕、お前は地獄の奥深くへ沈め! 悪霊とも、汝らも地獄へ戻れ、これまでよりも一段低い地獄へおちよ!」 そう述べる間もなく、火焔が俺の身体を焼きに焼いた。魔法使いもひとたまりもなく、死んで倒れた。その霊魂はまたたくまに肉体から分離し、そしてその幽体は烈々たる聖火に一瞬にして融け、赤裸々な霊魂のみが一声の悲鳴を残し、どこともなく飛び去ってしまった。同時に俺も無限の空間を下へ下へと、はかりしれぬ暗闇の中を落ちていった。 最後にやっとどこかにたどり着いたが、そこは元の俺の王国でもなし、残忍の都市でもなしに、おそらくもっともっと下の方、ほとんど地獄の最下層に達していた。 《後編》四章「鬼がいる地獄」 【I】「真の悪魔」 こんど着いた所は、前の所とはだいぶ模様が違う。一望ガランとして人っ子一人いない。闇そのものがジトジトしていて、濃度が強い。全般に一段と品質が劣っている。 少しぶらついてみようとしたら、突然、耳をつんざく何とも言いようのない、絶望のわめきが聞えた。オヤ、と立ち止まると、闇の中から、疾風のように一団の亡者たちが駆けて来た。その後から、シャニムニ笞(むち)を手にした一団の……ああ、これぞホンモノの悪魔だった。 悪魔にはニセモノとホンモノがある。幽界あたりにいる、こうもりの翼だの、裂けた蹄(ひずめ)、角の生えた頭だのの悪魔は、みんな人間の想像がデッチあげた、いわゆる想念体で、悪魔の影法師だ。しかし、ここにいるのは正真正銘の悪魔で、人間の霊とはまるきり違う。全く想像を絶したシロモノで、つまり一種の鬼である。 そういうのが手に手に笞(むち)のようなものを振り上げ、「コラッ、往生したか!」と、打ちのめし、ののしりながら、人間の霊魂の群を追いたてて行く。「本当の神とは俺達のことだ。お前らの言う神は、人間の頭から出たカスだ!」 そんなことを叫びながら、だんだんこっちへ近づいて来る。たちまち鬼の一人が俺の顔をピシャリと殴りやがった。そこはそれ、地獄のやり方には馴れている俺のことだ。さっそく相手にとびかかった。ところが、今度はどういうわけか、さっぱり力が出ない。いくら気張ってみても、めちゃくちゃに殴られるばかりだ。 さすがの俺も往生してしまった。口惜しい胸が張りさけるようだが致し方ない。ぶっ倒れると、今度は誰かが俺の身体を錐(きり)のようなもので突き刺す。いや、その痛さといったらない。俺は悲鳴を上げて飛び起きると、夢中で他の亡者達と一緒に走り出した。あてもない虚空を悲鳴を上げながら、ただ走りに走った。 ここからが本当の恐怖の時代の始まりだった。あるのはただ闇、迫って来る鬼の笞(むち)。その痛さに狂って死んでしまえばいいものを、死がないから、痛さから逃れるためには、ただ走らねばならない。先へ先へと我々は駆り立てられ、ただの一歩もただの一瞬も止まることを許されない。つまづく、倒れる、起きる、走る……しまいには「自我」が身体から叩き出される気がした。 逃げるのに忙しく、お互いに口もきけない。男もおれば女もいる。着物はどうやら着ているが、みんなビリビリに引き千切れ、中には素裸もいる。陰々たる空気を通して、顔くらいは認められるが、国籍も違えば、時代もみんな違う。ただ、どいつもこいつも意志が強固なのか、鉄壁の城で自分の思想を包んでいるようで、今度ばかりは、俺の力をもってしても、誰の気持ちも見抜けない。ただ我々は一団となって、どこともしれぬ闇の中を、無我夢中で走りに走る。 後からは、間断なく鬼たちの凄文句が聞える。 鬼「呵責(かしゃく)は重く、褒美(ほうび)は軽い。走れ、走れ、永久に。お前らの前途に救いはない。あるのは永久の闇と永久の罰。どうだ、これでもか、これでもか」 鬼「お前らは、神を拝まず悪を拝んだ不届き者だ。イヤイヤ、この世に神はいない。あるのは俺達だけだ。悪があるから善がある。悪が根元で善は影。どうだ、これでもか、これでもか」 鬼「地上で俺達はお前らに仕えてやった。今度はお前らが俺達に仕える番だ。死後の生命などお前らにはない方がよかったんだ。もがけ、泣け、あきらめろ」 とうとう、俺は一人の鬼に向かって叫んだ。 「こう追われてばかりいてはたまらない。俺も追いかける方になれんもんかな」 鬼「そんなこと訳ない」 鬼は俺の顔をピシャリと叩きながら叫んだ。 鬼「もう一つ上の境涯に言って100人の霊魂をひきずって来い。そうすりゃ、その功徳でその役になれる。なんと易しいことだ」 「どうすれば上の境涯とやらへ行けるんだろう」 鬼「それなら俺達が案内してやる。だが、俺達の手から逃れられると思うなよ。ただ俺達の下働きをするだけだ」 こうして、俺はとうとう悪魔の弟子入りをすることになった。 【II】「眷族(けんぞく)募集」 道案内に現れた鬼は俺よりかずっと背が高い。闇の中から生まれたらしくドス黒い身体をもっている。そいつは二分間と同じ恰好をしていない。のべつ幕なしに顔も姿も変わる。フワフワした黒い着物を着ていたかにみえたが、みるみる素裸になった、今度は山羊になったと見えたら、たちまち大蛇の姿になった。 オヤ! と見ているうちに、瞬間にまた人間の姿に返った。人間といっても、これほど醜く憎々しくあきれ返った顔付の人間は一人もいない。目は長方形で、蛇の目だ。鼻はワシのくちばしでできていて、大きな口は歯がみんな牙になって突き出ている。悪意と邪淫〔じゃいん〕が顔の隅々にまでみなぎり、指先は骨から爪が生えている。 そうして総身からポタポタと闇のしずくをたらしている。そうするうちに、パッと今度は一本の火柱となった。だが不思議なことに、それからは光線というものが放射しない。 その火柱が「後について来い」と言うので、俺は動く火柱の後からついて歩いた。すると闇の中から、調子はずれの讃美歌〔さんびか〕のようなものが聞えた。近づくと、山腹に洞穴があって、幽霊たちがうようよといる。火柱は半分人間くさいものになると、穴の中に入って行った。 にょうはちやラッパやらがガチャガチャと穴の中で鳴ると、それにまじって物凄い叫喚きやら、調子はずれの讃美歌やらが聞える。やがて前面に玉座が現れ、そばには猛火のかたまりの大釜が、物凄い音を立てて炎々と燃えている。玉座には気味の悪い大怪物が坐っていて、釜の火に投げ込まれる男女の子供達が、ヒイヒイ悲鳴を上げるのを、さも満足に見守っている。 「あいつらはみんな子供の姿をしているが、本当に子供かしら……」 鬼「そんなことあるもんか!」 案内の鬼が答えた。 鬼「みんなあいつらは大人だが、無理に子供に縮小されて、悪魔の犠牲にされるのだ。ホンモノの鬼はしょっ中管内を探し歩いて、つかまえた奴は釜へ投げ込むのだ。本当の子供はこんな所へ一人も来るはずがない。……それそこへ鬼がたくさんやって来た」 たちまち物凄い叫びがあたりに起こった。すると一群の鬼が穴の中に突入して来て、俺をはじめ、そこいらにいる者を全部大釜の中にたたき込んだ。これは燃える火なのか、鬼の念力で火のように熱いのか、とにかく、その時の苦痛といったらない。 ようやく鬼が去ったので、俺達は釜の中からはい出した。他の奴は前のように調子はずれの祈禱(きとう)をはじめたが、俺はごめんをこうむって、案内役の方に近づいた。 彼はとがった歯をむき出して笑った。 鬼「どうだ、この刑罰もラクではなかろう。よほど踏ん張って眷族(けんぞく)を連れて来ないと、こんなお手柔らかなことではすまないぞ」 「つれてくるよ、つれてくるよ」俺はいくらかあわてて、「つれては来るが、何でそんなにたくさんの眷族を欲しがるんだ。どうせつれて来ても、いじめるだけではないか?」 鬼「当たり前だ! 俺達は人間が憎いんだ。俺達の本業は憎むことだ。俺達はしんから人間が嫌いだ!」 そう叫ぶと、全身がたちまち炎々たる火の固まりになった。再び人間の姿に戻ったのは、それからしばらくたってからだった。 鬼「さぁ、これから、いよいよお前の仕事だ!」 突然、鬼は俺をつかまえて、空虚はるかに跳び上がったように感じられたが、ふと気が付くと、そこは俺が以前に住んでいた上の境涯だった。 そこいらは、「けちんぼの国」という所らしく、外から自分の黄金を取りに来はせぬかと、そればかり心配している亡者達がたむろしている所だった。なにせ、早くうんと眷族を集めねばならぬ。俺はうまいこと一つの妙案を思いついた。俺はこう言って集めた。ある者には、悪魔を拝めばいくらでも黄金がもらえるぞ。またある者には、悪魔にすがれば、黄金は一枚もとれずにすむぞと。この計略は図に当り、たちまち予定の人数が集まった。俺は直ちに悪魔供養祭の報行にとりかかった。 はじめは、いくら祈願しても、悪魔の方で受け付けてくれないふうだったが、やがて無形のある力が俺を引張るように感じられ、来たナ! と思うにぐんぐん引張られ、ついに立っている地面が俺達の足の下から、ズルズル下へ向かって急転直下、奈落の奥深くへと沈んで行った……。 呪われた約束の地に着くと、たちまち鬼どもがバラバラ群がり集まった。 鬼「これで、いよいよ褒美にありつけるな」 と、ほくそ笑むと、褒美どころか、あべこべに一人の鬼から引導を渡されてしまった。 鬼「こいつめ、悪魔の役割を横取りしやがって! よく考えてみろ、お前らと俺達とでは権能がまるで違う。俺達は人間をいじめるのが天職だ。お前らはもともと人間の部類で、これをいじめたり憎んだりする機能をもっていない。勝手な利己心から同胞を裏切ったのだ。鬼と人間では天性がまるで違う。人間はいくら鬼の真似をしても鬼にはなれなぬ。バカにするない! さっさと元きた仲間のところにすっ込め!」 俺はほうほうの体で、連れて来た亡者どもの所に戻ったが、それも一瞬で、よくもだましたなということで、寄ってたかって八つ裂きにしようとした。それから起こったことは、夢魔式の連続で目も当てられない。一方では鬼の笞(しもと)で一同前へ前へと追いたてられ、追われながらも仲間の亡者がズタズタに俺を引き裂きにかかる。俺は何度引き裂かれたかしれない。そのくせ死ぬことも出来ず、生きながら死の苦しみが続くばかり。 ようやくのことで、俺はすきをみて、彼等の間から抜け出て死物狂いで逃げた。彼等も死物狂いで追って来た。 どこをどう通ったか、何事をどうやったのか、何の記憶も残っていない。ただ悪夢に襲われた時そっくりに、前へ前へと疾駆〔しっく〕するらしく感じるばかり………。やがてもう一度、急転直下に下方に墜落しはじめた。もうジタバタする気力も失せ、勝手放題に下へ、下へ、下へ、未来永劫とどく見込みのない奈落へと落ちていった。 何年前、何十年間、そうしていたか分からない。とうとうしかし終わりが来た。何やら海線状の物体の中に身体が埋没して、ニッチもサッチも動かなくなった。サリとて地面でもない、泥でもない、こんなものどこにも地球上には存在しない。これが地獄名物の闇のかたまりであった。 音もなく、光もない、一切空。頭の上も、足の下も、腹も背も、あるのは粘着した闇だけ。人間の仲間はずれになり、鬼からも見放された、絶対無縁、絶対の孤独境。淋しいとか、情けないとかいうものではない。これが俺がたどりついた最後の墓であった。ああ、あの時の寂しさ、ものすごさ。 《後編》五章「第1境 地獄のどん底」 【I】「底なし地獄」 ここに落ちた者は、ここに落ちた者でなければ分らない苦しみを、人に伝えることはできない。後悔の念なんてなかった。あったのはただ絶望、そして捨て鉢。すると走馬灯のように、俺の過去の罪障が次々と見えた。どこからともまく俺をあざける声が聞える。 「お前は生涯を悪魔そのままに生きた。もうどんなクズの人間でもお前を捨てた。もう俺たちすらお前の姿を見たくない。呪われた者よ。お前には希望はない。絶望すらあるのが不思議だ!」 (現代の大金持ちや大権力者たち) 絶対の寂滅! そういうものがあれば、それだ。絶望に口を開けば、闇が流れ入って栓をする「彼らの口、塵芥(ちり)もて寒がるべし」どこからともなく、そういう言葉が来て、俺の頭の中にとまる。 こんなことくらいなら、鬼に追われた笞の方が、どんなにましだったか。八つ裂きにされていた方が、まだ張り合いがあった。今となっては、もう高嶺(たかね)の花である。 幾世紀、そう幾十世紀も、俺はそうしていた。そうこうしているうちに、いつの間にか、ダンテのあの言葉が、俺の身体全部をひたしているのが分った。 「ここに入りたる者は、すべからく一切の希望を捨てよ」 それから幾世紀、また幾十世紀かが流れたようだった。 そうしたら、乾いた胸に一つの言葉がコビリ付いていることが分った。 「神よ、神よ、なんじは何故にわれを見捨てたまえるか?」 俺はキリストのした事なんて知らぬ。だが、この言葉には恐ろしい真実が隠されていることが、うすうす分かった。 そうだ、俺は、初めはこれが大事な言葉だなどとは、少しも思わなかった。ただ、何となし、深い意味が隠れている言葉だと、そうだ、永い間そう思っていただけだ。そのうち、こう思うようになれた。神はもしかしたら、俺が地獄におちている苦しみを知っているかもしれん。神が愛ならば、多少の哀れみがあるだろう。 そうだ、きっと神は俺を救いだしてくれる、神があるならば。ああ、俺はバカだった。なぜもっと早くこのことに気付かなかったんだろう。後悔しさえすれば、俺は救われる。 しかし、ここは底なしの地獄だ。永劫(えいごう)の場所ではあるまいか。そう思ったら、また混乱して何も考えられなくなった。しかし、キリストのことを考えていることは楽しいので、そればかり思いつめていた。 そうしたら、無性に俺の過去がバカらしく見えてきた。何と俺はつまらぬ人生を送ったもんだ、畜生! 「イヤ」待てよ、今さら愚痴を言ってもはじまらぬ。「俺は俺の借金だけはキレイに返しておきたい」そう思ったら、ふしぎに俺の過去のわずかな善事――イヤ、それはあきれ返るほど少ないが、それが他の不愉快な光景の合い間に、チラ、チラ、浮かんで、何ともいえぬ清涼剤に思えた。 そうしたら「母は今頃どこにどうしておいでだろう」、幼い時に死に別れたままの母親のことが無性に思われた。 すっかり忘れたままになっていた幼い日々のことが、何もかも思い出されたが、ただ一つ、母から教わったはずの祈禱の文句だけが、どうしても思い出されない。 それを思い出したい、そうして、借金をきれいにしておきたい。その二つのことが、何とも俺の心にひっかかって、俺を放さなくなった。 【II】祈りの力 それから何かが起こったか。俺に説明せよといっても言葉はない。だが、話せば、次のようなことだ。 とにかく、俺は母から教わったはずの祈禱の文句を一心不乱に思い出そうとした。ところが、こいつばかりは何ともならぬ。世間で言う、呪われた者に祈禱はできぬというのは、あれは本当だ。だが、俺はやっぱりそうしていた。そうしたら、全く不意にだが、霊感がひらめいた。 「神にすがれ、神よりほかに汝を救いうるものなし」 いったい、どうしたというのだ。俺は今まで、それと反対のことばかりしてきた。つまり、神から遠ざかる努力ばかりしてきたわけだ。何という奇想天外だ。今度はその反対の方へ走れと言うんだ。勝手違いも甚だしい? そうしたら、次の霊感が来た、「祈禱にかぎる」。俺はヤミクモに、やはり忘れた祈禱の文句を思い浮かべようとした。しかし、そいつはやはり無理なことだった。 しかしだ、大三の霊感が俺をピリリと打った、「おお神よ、われを教え………」。たったそれだけだったが、ああ、こいつはたしかに祈禱の文句だ。母から習ったのがそれだったかはさだかではないが、ああ、こいつは確かに祈禱にちがいない。俺は、何度も、その祈禱の文句を繰り返した。 これから先は、はじめに言ったように、説明する言葉がない。 何が起こったか?……………… 俺が祈禱の文句を繰り返すたびに、妙に心地よい温かさが来る。来るから唱えたら、しまいに、少々熱くなり、とうとう身体に火がついたようで、たまらず少し中止した。 そうしたら、ヒェッ! 何としたことだ、俺は海綿状の闇の海から、妙なぐあいにフワリフワリ上昇していくではないか。思うに、俺の身体の目方が軽くなったのだな。つまり、熱で身体の粗悪な分子が焼きつくされたというわけだ。 上昇つづけて行ったら、真暗な中にも、何やら黒いつるつるした岩が見える。つかもうとしたら、つるりとすべってつかめぬ。イヤ、地獄のどん底というのは、言うなれば、深い闇の湖水と思えばよい。闇の濃度が海綿状の重たい水だ。俺はその中に何十世紀とつかっていた。今そこからわずかに首を突きだした。しかし、湖水はすごい絶壁で囲まれている。目の前につるりとした岩がある。だが、こいつはすべって駄目だ。 俺は、もう一度祈禱をすればよいと思いついた。 「おお、神よ、首尾よくこの闇の中から逃れ出る力をわれにかしたまえ……」 そうしたら、重たい湖水の水がざわざわ揺れだした。あわや、俺はまた水に呑まれるのかと危ぶんだら、反対に、大揺れの波が俺をポイと岩の上に放り投げた。思うに、俺のような者でも、芽を吹いた信仰のおかげで、黒く濁った地獄の水にひたっているには、もう目方が足りなくなったのだな。 【III】「地獄二丁目への脱出」 岩の上は真暗で何も見えない。だが、これまでのような触覚にふれるほどの闇ではない。じっと目をこらして見ていたら、俺はがっかりした。打ち上げられた岩は、千仭(せんじん)の絶壁に、ほんのちょいと突き出たテーブルのような所だった。そこはそれ、例の奥の手を出して祈りに祈った。 すると、目がきいてきて、どうやら片手がかかりそうな左手の上に、穴があいているのが見えた。さんざん足場を探したあげく、よじ上がってのぞいたら、案外に奥の方は広くなっている。とにかくそこを通って出た所は、またもや千仭(せんじん)の谷底だった。 俺はここを先途(せんど)と、そこをよじ登るしかなかった。どうやら崖の上方は、帽子のひさしのように突き出ている感じだ。しかし幸いなことに、崖の中ほどは馬の背のように、岩が崖に沿って延長していた。俺はその上を通ることにした。 少し行くと、すぐそれが尽きて、もうどう仕様もなくなった。ああ、やっぱり失敗か? いったん俺はヘタヘタと地べたに崩れた。どう考えても何の工夫も浮かばない。万策つきて俺はまた祈りを始めた。度々のことなので、格別の希望をつないだわけではない。だが妙に、勇気がわいたので、立ち上がって出口を探そうとした。 その時、豪然たる雷鳴が起こって、崖の壁面から巨大な岩のかたまりが崩れ落ち、谷間をつないで橋のようにかかった。これは祈りのききめんだな、俺は勇気をふるって、そのギザギザ橋を上へと登った。頂点に達したら、その向こうはまた石ころだらけの渓谷で、大変な難所だった。俺は一進一退しながら、歯を食いしばって、何度も岩と岩の隙間に転落しかかりながら、ついに征服した。この時ばかりは、俺の平生の負けず嫌いが役に立った。 が、これが最後の難関だった。抜け出た所は、ずいぶん石ころだらけの荒地だったが、わりあいに平坦なので、俺ははじめてほっとため息をはいた。俺はどうやら地獄のどん底から、第二境へとぬけ出たらしい。 ★ ★ ★ この地獄の世界、どこかの国によく似ているようにみえる。 無神論者にはすがる神はない。悪魔にでもすがるしかなかろう。
2016年06月23日
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脳と腸の関係について、ようやく最近になって、以下のように、唯物科学もとりあげるようになったが、シュタイナーは100年前からその関係について言及していた。 ★ ★ ★ 腸が「第2の脳」と呼ばれる理由は? 目には見えない「脳腸相関」のメカニズム http://healthpress.jp/2015/08/2-10.html 腹が立つ、腹黒い、太っ腹、腹の探り合い、腹に一物あり......。 腹(腸)と心(脳)の機微を表す言葉が実に多い。現代では、脳と腸の類似性や共通性はかなり解明されているが、先人たちは脳と腸がつながっていることを経験的に知っていたのだろうか。 脳と腸はつながっている! 腸は「第2の脳」と呼ばれる。脳と腸は、自律神経、ホルモンやサイトカインなどの情報伝達物質を通して、互いに密接に影響を及ぼし合っている。脳がストレスを感じると、自律神経から腸にストレスの刺激が伝わるので、お腹が痛くなったり、便意をもよおしたりする。腸が病原菌に感染すると、脳は不安を感じる。腸からホルモンが放出されると、脳は食欲を感じる。まさに、腸は「第2の脳」だ。 例を挙げよう。旅行や出張などで見慣れない土地に行ったり、大切な試験の前や重要な会議の前になると、緊張感などで下痢をしたり、便秘になることはよくある。過敏性腸症候群(IBS)の兆候だ。過敏性腸症候群の症状が続くと、うつ症状やさまざまな不定愁訴が現れる。脳がストレスを受け、自律神経のバランスが崩れれば、血行不良、肩こり、頭痛などを伴うことがある。とくに生理不順や月経困難症の女性は、胃腸の働きが低下するので、便秘や頭痛に悩まされる。 このように胃腸がストレスを受け続けると、脳が不快な経験として知覚するため、脳の反応が消化機能を悪化させる悪循環に陥る。 これらの症状が現れるのは、脳が強いストレスを感じて、自律神経の働きが乱れるからに他ならない。活動したり、緊張したり、ストレスを感じている時に働く交感神経の指令が胃腸に伝わり、胃腸の働きが低下する。しかし、脳がリラックすれば、体を回復したり、休息したり、リラックスしている時に働く副交感神経へスイッチが切り替わり、胃腸のコンディションはよくなる。腸と脳の二人三脚は、とても理にかなった生体システムなのだ。 脳腸相関がもたらす恩恵 脳と胃腸は、どのような協同作業を行っているのか? ホルモンは、どのような仕組みで分泌されるのか? 胃腸の運動や食べ物を摂取する量は、どのように調節されるのか? これらの研究が進み、そのヒミツが少しずつ分かってきた。脳と腸は緊密に連携しており、腸内フローラが大脳代謝系に影響を与えていることが解明されてきたのだ。この脳と腸の関係を脳腸相関(のうちょうそうかん)または脳腸軸(のうちょうじく)という。 脳腸相関の仕組みは至ってシンプルだ。胃腸が脳に向かって消化管の状態を知らせるシグナルを抹消神経に伝えると、脳の視床下部は胃腸に向かってシグナルを送り返して応答する。例えば、空腹時に胃から分泌され食欲を増進させるホルモンのグレリンだ。グレリンは、「空腹だから何か食べてよ!」というシグナルを迷走神経から脳の視床下部に伝える。シグナルを受け取った脳の視床下部は、摂食を促すホルモン、ニューロペプチドYを分泌し、「空腹なら何か食べてもいいよ!」と胃腸に食べ物を受け入れるように指令を出す。 このように脳と腸は、自律神経、ホルモンやサイトカインなどの情報伝達物質を媒介にして、双方向の生体ネットワークを形づくっている。少し科学的にいえば、腸内細菌は、脳が関係する腸管刺激因子の刺激を調整したり、制御したりする重要な役割を果たしていることになる。 腸内フローラは、自律神経や内分泌の働きにも深く関わり、体の恒常性(ホメスタシス)の維持に大いに役立っている。目には見えないが、私たちは脳腸相関という以心伝心のタッグチームがもたらす壮大な共存共栄の恩恵に浴している。腸内細菌と仲良く生きよう! 佐藤博(さとう・ひろし) 大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。 ★ ★ ★ 更に腸内フローラとの関係についても、次第に解明されていくだろうが、シュタイナーは100年前に既に述べている。 ★ ★ ★ 絶好「腸」なら医者いらず?腸と健康の深い関係 http://菌活.com/chou-kenkou-kankei 腸は脳より偉い! 腔腸動物など脳を持たない生物は腸の神経細胞ですべての情報を処理しています。そして人の腸にも、大脳に匹敵する神経細胞が存在しているんです。 はるか昔は脳の代わりに働いていた腸ですが今は一部の役割を脳に譲ったというところでしょうか?しかし今でも腸が独自に判断する情報もあります。それが食物の消化・吸収という一番重要な生命活動です。 ★ ★ ★ 巷界隈の唯物論者は、物質的な面で、最新の医学は進んでいる、と自負しているようだが、古代の医術を正しく解釈すれば、実は最も遅れているのが、現代の医学ということがわかるようになるだろう。 以前紹介した、霊界の病院などをみても、地上の現代の病院が外科手術一辺倒や薬剤過剰投与気味で、それとは程遠い現状にあることからもわかる。 とどのつまり、人間の死を唯物論では脳死としてしか捉えようがないのだから、外科学がいかに進もうが、最終的に脳を残して、脳を生存させるに足る器官以外をほとんど切り刻んでも、人が脳だけで生きられないことからも明らかなのである。 脳と腸の関係すらも理解できていない唯物科学では、地上を生きながらえたとしても、地獄行きの人々を増やすばかりで、地上の平和や天国に向かって努力する道からは外れていってしまう。 さて、そういうわけで、脳を生かすには、腸を生かさないといけないという話を紹介する。 ★ ★ ★ 死後、霊界へと幽界を踏み越えた瞬間、人間は即座に悪霊たちの罠に陥りやすくなる。実際、霊界には様々な悪霊たちの罠があり、人間は、小鬼たち(悪霊)から学び、用心する必要がある。 例えば、生前妄想に耽っていた心霊主義者(スピリッチャリスト)たちは用心深くないので、罠に陥りやすく、次のような疑問をもつ。 「悪霊がノームやウンディーネたちのような寄生生物を発生させた、というのなら、一体全体、この寄生生物は何のために存在するのか?」 その答えは、以下である。 もし、悪霊たちがいなければ、人間は、脳をつくりだす力をもてなかっただろう。 従って、この疑問から、極めて重要な真実に到達できる。 いま、この真実を大まかに描いてみる。 人体を、-四肢-腹部の新陳代謝系と、胸部の律動系と、頭部の神経-感覚系との3つに大別して考えれば、胸部の律動系を中心として、胸部から下の新陳代謝系の進行と、胸部から上の神経-感覚系の進行が相対(相反)することを明確に理解すべきである。 胸部の上と下の進行を同じと考えると、日常生活において、本質的に大抵、誤解されている結論に辿りつく。その最たる間違いは、腸や、腎臓を単なる人体外への排泄過程とみなすことである。 大抵、この排泄過程は、単なる不要物の除去が目的と思われている。しかし、この見解は大間違いで馬鹿げている。 排泄過程は、不要物の除去が目的ではなく、(胸部より)上で、脳が物質として出現するのと同じ割合の脳類似物が下では霊的な排泄物として出現する。だから、上で物質化する代わりに下で生じる排泄過程は、物質化とは逆の分解の霊化を辿る。 脳の形成とは逆に、排泄が行われるのは、上での脳の物質化の代わりに、下の脳の対応器官(腸)が霊化するからで、下の排泄過程は、上では脳の形成として完了する。下での霊化が、上では脳の物質化として現れる。 つまり、上では物質化した脳を、下では霊化した脳(腸)を人間は持っている。 もし、下で排泄され霊化した実質を、改めて排泄過程の支配下に置き、逆向きに進めるか、更に霊化を続けていくなら、ホメオパシーの原理で最終的な変容として、人間の脳となるだろう。 人間の脳は、排泄(分解)により変容した最終形成物である。この真実は、例えば医学的な知見においても非常に重要で、16、17世紀の当時の医師たちにはまだ熟知されていた知見であった。 今日では、かつての「排泄物薬局」として軽蔑されて当然の間違った知見もあるとはいえ、非常に軽蔑されている。当時の知見を馬鹿にするのは、排泄物のなかには、いわば「ミイラとなった霊が存在する」という事実が知られていないせいである。 勿論、だからといって、近代に現われた排泄物薬局という誤った見解を崇拝しては駄目で、いま、上述したような脳と腸の深い関係などの多くの真実を指摘しないといけない。 (太古の医者は、排泄物から、人間の特徴を推測できたようである。いまでも動物学者の一部が、動物の排泄物から、その動物の状態を言い当られることからもわかる。太古の医者は、人間の糞から、その人の気質「自我」を読み取り、尿から、その人の感情「アストラル体」を読み取り、汗から、その人の体質「エーテル体」を読み取ったようである。) 脳は、純粋に高次の排泄物の変容体である。従って、脳の病気は腸の病気と関係し、脳の病気の治療は腸の病気の治療と関係している。 ノームとウンディーネが存在することで、ノームとウンディーネが活躍できる世界があり、脳の形成力が存在する。勿論、それらは人間の下腹部にも、寄生生物などを繁殖させるが、同時に、身体上部に、霊的な排泄物を脳に変容させる力を与える。 もし、ノームとウンディーネが存在するように、この世界ができていなかったら、人間は脳を持てなかったであろう。 分解力については、ノームとウンディーネが役割を担っているが、構築力については、シルフと火の精霊(サラマンダー)が役割を担っている。 ★ ★ ★ 人間の脳は悪霊によってつくられたということは、聖書では、蛇のルシファーに唆され、知恵の実を食べたエヴァとアダムとして語られている。
2016年06月21日
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JSMワード著の「死後の世界」によると、地獄は7つの境(領域)にわかれているという。その内訳は以下である。 最下境―1境=他を魔道に引き入れる最大悪漢(悪魔) 2境=悪魔を崇拝する者 3境=憎悪、残忍、高慢の罪を犯す者 4境=邪淫、肉欲に耽る者 5境=徹底的物質主義者 6境=真の(神への)信仰がなく唯形式を守る者 7境=正しい信仰を注入する学校(更生者) このうち、5境が、現代のこの国にそっくりなので、地獄の5境についてはじめに抜粋し紹介する。 その前に、地獄に堕ちる者の特徴を一言でいうと、無神論者である。つまり、霊界は、神への信仰のあるなしで大体4つにわけられるという。 というのも、神への信仰が、光(=霊光)となるからで、信仰がない無神論者は、光(目標)を失い闇へと自然に埋没していくからである。だから闇(=嘘、虚言、妄想など)を好むものは、自ずと地獄へ堕ちていく。 このことから、大金持ちや大権力者なども無神論者で闇を好むから地獄堕ちであることがわかる。 さて、その4つだが、神=天国に近い段階から紹介すると、 1.信仰を実践する者 2.信仰だけにとどまる者 3.信仰が中途にとどまる者 4.無信仰=無神論者 となるという。 地獄は無信仰で、闇なので、自分が地獄にいることを自覚できないばかりか、死後の世界にいることも認識できない。というのも、死後の世界はないと思い込んでいるので、肉体を失った後も意識が続くことを理解できないでいる。 ただ生前なら死んだはずなのに、死なないという不死の感覚しかない。だから生前なら肉体があった故に意味をもった行為が、肉体を失ったために無意味となったのに、その無意味な行為を永遠と続けるしかなくなるという。 例えば、好きな食べ物を食べても、肉体がないので、それを味わえないから、かえって虚しくなり、食欲を満たそうと悪戦苦闘する。だから、死後間もない霊魂は、地上の肉体をもつ霊魂に憑依して間接的に欲望を遂げようとするが、それをすると、魂は益々堕落し、地獄の最下境へと落ちていくというのである。 だから仏教などでは、死後に成仏するために、執着をなくすことを説くわけである。 さて、地獄の5境が、現代の地上のこの国=日本に良く似ているので紹介する。 ★ ★ ★ 第5境 唯物主義者の国 【I】「働く人々の都市」 翌日、守護神に導かれて、インキの(黒い)川にかかっている橋を渡った。濃霧の闇の中をしばらく進んで行ったら、一大都市に出た。ここはまた何と陰うつな街だろう。あるのは煙突と、工場と、見渡すかぎりの倉庫ばかり。工場の内外に職工がゾロゾロいるので、その一人に尋ねてみた。 「君達はここで何をしているのですか」 「工業さ」 「造った品物はどうするのですか」 「もちろん売るのさ。だがおかしなことに、売った品物は全部工場へ戻って来る。倉庫ばかり並んでいるのはそのせいさ。いくら倉庫を建て増しても追っつきゃしない。邪魔になるから一生懸命売りとばすのだが、いつの間にか、一つ残らず戻って来る」 「そんなら、焼却すればいいだろう」 「むろん焼却しているさ。大きな倉庫をいっぺんに十棟も焼いたが、やはり駄目だね。すぐにニョキニョキ元に戻ってるんだ」 「では、なぜ製造を中止しないのかね」 「そりゃできない。不思議な力が働いて、どうしたって働き抜かなきゃならんように出来ている。休日なんてまるでない。バカバカしい話だが、性分だから仕方がない。生きてる時分にも、働きづめに働いて、苦労したあげくの報酬がこのとおりだ。五年も、十年も、百年も、いつまでたっても休みっこなした」 「君達はきっと、生きている時分に物質のことしか頭になかったんだ。それで、こうして地獄におちて、同じ事を繰り返すんだ」 「何だって? 地獄とか天国とかあってたまるかい」 「そんなら、ここをどこだと思う」 「知るもんかそんなこと。また知りたくもねえや。ここにゃ寺院もありゃ僧侶もいる。お前みたいなアホと話をしている暇はねえ。どりゃ仕事にとりかかろう」 街の広場まで来たら、なるほど寺院が三つもある。俺はその一つに入ってみた。説教というのは、面白くも何ともない。ただ他宗の排斥〔はいせき〕と、寄付金募集の話ばかりしている。それをもっともらしく、社会改良とか貧民にこじつけて、長々と話すだけだ。俺はウンザリして早々にとび出した。 売店ばかり並んでいる一区画があるので、のぞいて見たら、ここも工場と少しも変わりがない。人々は買物に来たがるのだが、支払ったお金はすぐに買主に戻り、売った品物は売主に戻って来る。バカバカしいので、俺はとある商店の主人に尋ねてみた。 「もしもし、貴方の売る商品はどこから来るのです? 工場から仕入れるのですか」 「いや、私と一緒にここへ来たのです。私が死ぬ時に店に置いてあった品物ばかりです。どういうわけか、ここから離れたがりません。もう見るのもウンザリしています」 「それなら、商売を止めればいいでしょう」 「冗談いっちゃいけません。商売を止めれば仕事がなくなります。私は子供の時分から、商売ひとすじに生きてきた人間ですからね」 そう言ってプイと横を向いた。そこへ一人の婦人が来て、帽子を買って行った。すると、三分もたたないうちに、その帽子は店に戻っていた。俺はそこから郊外に出てみた。殺風景きわまる荒地で、廃物が山のように積まれ、草などは一本も生えていなかった。 ★ ★ ★ この話から、地上の、この国が地獄化していることがわかる。地獄の5境化というべきか。 次に生前の唯物主義者が死後どうなるかの話を紹介する。唯物主義者は無神論者で、死後の世界などないものと信じ込んでいるので、つまり闇を信じ込んでいるので、次のような半永久の霊魂(意識)の睡眠者になるという。 ★ ★ ★ 【II】「眠り続ける人々」 守護神から導かれるままに、俺(地獄の体験者)は一つの洞穴のところに来た。不思議なことに、洞穴の中には、沢山の眠る人達がいる。呼んでみたが、誰ひとり起きる者がいない。これには少なからず俺は驚いた。地獄に来て、眠る者など一人も見たことがない。肉体がもうないから、睡眠の必要はないのだ。 守護神がこう説明して下さった。もうこの頃には、私と守護神の距離はわりと近くなっていた。 「この者達は、生前、頑固な唯物主義者で、絶対に死後の生命を認めようとしなかった。従って、死後は自己催眠にかかって、生きているのに死んだように眠り続けるのである」と。 「いつになった、目覚めるのでしょうか」と尋ねると、 「地獄のどん底(1層)におちた者よりも、目覚めは遅いだろう。本当は器量は彼らより上なのに、居眠りによって悔い改めることがないので、幾代も幾十代もああしたままだろう。長い長い呪いの力が自然に弱まって、天使達の働きかけが効を奏するまで、目覚める時は来ない」 そこを出て、爪先上がりに道を行き、とうとう断崖絶壁ばかり打ち続く地方に来た。崖に沿うて歩いていたら、突然、一人の男が空中から墜落してきて、目の前でとび起きると、どこともなく闇の中へ消えて行った。守護神が、 「あれは、この上の第六境から、規律違反のかどで追放された者じゃ。第六境の住人達は、世間体や風儀を重んじ、自分自身は紳士ぶっているが、そのくせ、他人の中傷や悪口にばかり明け暮れている。もう、その先に休憩所の灯りが見えてきた」 ツルツルした道から、断崖の上へ、長い長い階段をやっとの思いで登り切ると、強い休憩所の光りが俺を打ち、出迎えてくれた一人の天使の腕の中に、俺は倒れこんた。 ★ ★ ★ 5境は現代の日本に近いが、6境は、明治、大正、昭和の近代の日本に良く似ているので、続けて紹介する ★ ★ ★ 十章「第6境 俗物の国」 【I】「偽善の都市」 休憩所を出ると、相変わらずの霧の闇だった。道を右へ右へととると、守護神がそう進まれるので、一大絶壁が見え、その上に城壁があり、その上に更に幾つもの高い塔があった。昨日、追放者が墜落させられたのは、あの塔からか、など思っている間に、われわれは灰色の一大都市の中へ入って行った。 市街はわりと立派で掃除がしてある。地獄で清潔らしくなるのはここからだ。建物はいちおう近代建築で、ロンドンの郊外のようである。ただ、上品ぶっているのに、何の趣(おもむき)もない。味わいというものがまるでないのだ。劇場があるので、入ってみることにした。 さいわい入口にいた紳士に声をかけたら、鼻の先でジロジロ見ながら、 紳士「まだ、どなたからも紹介されていませんが」 とぬかしやがった。 「べら棒め、こんな所で紹介もへったくれもあるもんか」と言うと、 紳士「乱暴な口を聞くお方だ、それでは紳士の対面を傷つけます」 そう言って取りすましている。仕方がないのでおとなしく謝って、どんな芝居がここではかかるのかと尋ねた。 紳士「不道徳なもの、下品なものでない限り、どんな劇でも音楽でも復興されます。当市では市民の風儀が第一ですからな」 「ヘェー」と俺は呆れて、「地獄でも風儀などもち出すのはここばかりだ」 紳士は苦笑いして 紳士「どうも困ったお方だ。この世に地獄などはありません。あってもここではありません」 「下賤なことを言われるな。このあたりは地獄ばかりさ。立派に地獄に住んでいるくせに、見え透いた体裁のいいこと言ったって通用しない。こう見えても俺は地獄の玄人(くろうと)さ」 紳士はけげんな顔をして、 「貴方はどこからいらした?」 そこで、俺は地獄のどん底から浮かび上がって来た、一部終始の話をした。紳士は後ずさりして、 紳士「貴方は大ボラ吹きか、さもなくば悪漢です。ここは地獄ではありません。たぶん私達は地上の何処かに居るのでしょう。私にならともかく、他の人達にそんなたわごとは話さぬことです。さもないと城壁の塔から下界へ投げ込まれますぞ!」 紳士はプイとして立ち去った。 劇場の中ではミュージカルをやっていた。いや、その下らなさといったらない。音楽は俗曲中の最劣等。すじ書きは中味はからっぽで、もったいぶった素振りとせりふだけの代物(しろもの)、見物人も弱り切って尻をすえている。俺は一幕見てウンザリして外へ出た。 画の展覧会をやっているのでこれも見たが、これなども全くの同様だ。子供の落書きに毛の生えた作品を、気取った建物に、仰々しく陳列してあるだけだ。街の中央部には、これ見よがしの、ゴシックまがいの寺院があった。今しも、でっぷり太った牧師の祈禱の最中だ。いかにも偽善者ぶった声で紋切型の祈りの文句を、機械的に繰り返すだけだ。 その教説もふるっている。参拝に来ない婦人があったら、これは必ず不倫の疑いがある。当市の紳士淑女〔しゅくじょ〕の名誉のために必ずあばくべきだ。同情する振りをして自白させ、その夫にはこっそりと警告し、牧師の私には直ちに密告せよ。これが当市の悪徳を減らし、公共の美徳を高める神に仕える道であると。 その後で、明日は大宴会を催すこと、その際、寺院改良の資金調達をすること、信徒の皆様は公共のためにぜひ出席願いたいと、しめくくった。とんだ説教もあるもんだ。俺が寺院を出かかると、聴衆が密かにこんなやりとりをしている。 「牧師さんは、いつも寺院改良のために資金募集をするが、あのお金はいったいどうなるんでしょう」 「ありゃ、むろん、ポケットの中へねじ込むんでしょうよ」 「そういえば、あの牧師さんには、奥さんのほかに囲い者がいますものね」 「二重生活だもん、うんとお金がかかるんですよ」 あきれはてて物も言えない。が、明日はその大宴会とやらに出席してみようと決心した。 予定より早く出かけたのに、大宴会はもうぎっしり埋まっている。取り巻きの婦人連が牧師のそばにいて、牧師が一言いうたびに、先を争って調子を合わせ、その合間には誰彼の悪口を言っている。中には聞くに耐えないひどいことも言う。 俺はようやくのことで、チャンスをみて、牧師に話しかけた。 「あなたはキリストを信じますか、それとも、キリスト物語は単なるたとえ話しと思われますか」 牧師はもったいぶって言を左右にそらしていたが、「要するに、市民達のより高い徳義こそ、神の愛の現れです。当教会はその神の愛の源泉です」と、もっともらしく言う。 「それでは市民達が道徳を守っていれば、神はなくてもいいのですか」 牧師「そうは申しません。しかし、たしかに一部の市民達には、道徳を守らせる上で、神が必要です。ただ私ほどになると、それはなくてもよいがな」と、つい本音をもらした。 「それから」牧師はそこで胸をそらして、「当市では、不道徳者はきびしく処罰されますから――もっとも、それは私がそうさせるのだが――わざわざ神の御手をわずらわずとも良いのです」 「それでも、神があるから天国と地獄があり、それで罪のつぐないがあるのではありませんか」 牧師「いいえ、あなたは他言をはばかりますが、死後の生活などは存在しません」 「しかし、現実に貴方は地獄にいるじゃありませんか」 牧師「とんでもない。私は夢を見たのです。重病で悪い夢にうなされて、次に気がついたら、ここに来ていたのです。もっとも妻が一緒にいないのは、変には思いましたが。それに、ここでは誰も死なないのも妙です。儀式の必要が一切ない。ただ、ここの教区の前任者はプイといなくなりましたがね」 「それは、きっともう一段上の地獄へ行ったのですよ」 そう言って私はここが地獄の一部であることを、私の苦い経験から語りはじめた。牧師あわてて手を振って、 「私の立場上、貴方にハッキリ申し渡しておく。私は貴方の話を一切信用しない。貴方は大うそつきか、さもなくば悪魔の手先だ。早々に当市を立ち去りなさい」 そう言うと牧師はプイと横を向き、そこへ近づいた二人の主婦に、私のことをペラペラと説明しはじめた。 【II】「俗物の学術協会」 地獄の第六境の街をぶらついていたら、学術協会らしい建物があった。中をのぞいたら、何やらしきりに討論が行われていた。討論のテーマは「死後の生活の有無」というものだった。一人の学者ぶった人物が、こう論じていた。 「皆さん、人間が死後も生きているということについては、何の証拠もありません。ある人はこう申します。われわれは一度死んだ、しかし今生きているから、人間は死後も生存するのであると。これは全くの間違いです。 われわれは今生きているから、初めから死んでいないのです。つまり、私達は重病にかかった。病気が治ったら、あたりはどんより曇った世界に一変していた。ただそれだけのことです」 「それだから」と別の一人の学者が口をはさんだ、「われわれは地獄にいるに違いない」 「いや、その議論は全くの見当違いです。その証拠に、私たちは病気の前とさほど変わらず、ここで気持ちよく暮らしているではありませんか。地獄などはありません。あってもここではありません。 牧師達はこう説くではありませんか。地獄とは永久の呵責(かしゃく)の場所で、虫さえも死なず、火も消えることがないと。そんな気配はここに一切ありませんな。 もちろん、ここの生活は退屈ではあります。つまり天国のようではありません。また逆に地獄のようでもありません。地獄も天国もないということは、死後の世界ではないということです」 すると、二、三人が口をそろえて、われわれは一度死んだ、それじゃ今煉獄〔れんごく〕にいるんだろうと言った。これに清教徒達が大反対で煉獄などとはカトリック教のたわごとだ、そんな筈はないと、議場は大混乱におちいった。 やがて、一人の科学者らしい人物が立ち上がって、名論? をはいた。 「私は、自分が死んだことを確かに知っております。但し、現在ここにこうしていることは、一場の夢であります。 つまり、人間は死んでも、ほんの暫時(ざんじ)ですが、頭脳の活動は残ります。その間に夢を見るのであります。夢は、ご承知のように、その中で数日、数週間を過ごしたと思っても、覚めてみればほんの五分間のうたた寝であります。 夢ですからやがて消えます。一切が終わります。ですから、死後生存などとは、死につつある頭脳のつくる一場の夢にすぎません。 ああ、私はこんなこと言ってみても、自分の夢に向かって説法しているようなものです。つまらないことおびただしい」 (まるで、現代の無神論の脳科学者の発言そっくり) そう言って、陰気〔いんき〕な顔をして席についた。一同はこれにどっと笑いころげた。 そこで、俺がとび出して叫んだ。 「皆さん、私はこの地を通過する旅人にすぎません。だが、皆さんが私を信じて下さるなら、死後の生命が存在し、ここが地獄の一部であることを証明してみせます。ここより下に行けば、実際に地獄の呵責を受けている人々がいます。いかがです皆さん、私が死んでからここに至るまでの地獄の話を聞いてもらえませんか」 みんなまで言わせず満場総立ちとなり、怒鳴りだし、俺を城壁の塔から突き落とすとおどかした。仕方がないので、あきらめて外へ出た。 すると、一人の男が俺を追って来た。 「いま、あなたが言われたことは筋が通っています。きっと貴方はあちこち地獄を通って脱出する方に違いありません。私をどうか同行させては貰えませんか?」 その時、私の答えるより早く、その人の守護霊が姿を現した」 「わが子よ、私が汝を導いて行こう。今までなんじの胸に救いを求める心が宿るまでじっとそばで待っていた。今こそ汝を光明の世界へと導こう」 その人と守護霊はつれだって、どこともなく立ち去った。 ★ ★ ★ 神を信じる者は神により救われる。
2016年06月18日
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前回は天国と地獄が存在するという話を紹介し、地獄にいくような、この世での行為が、大金持ちと大権力者に代表されるという話を紹介した。 先日、「モーガンフリーマンの時空を超えて、の時間について」の番組をみたが、唯物論を抜け出ていないので、時間についての解釈が、せいぜい平行宇宙論でとどまってしまっている。 人智学で「時間」を解き明かすと、記録という意味では、下部神界にある「アカシャ年代記」のことを指す。 「時間」の流れという意味では、物質界での過去から未来の流れと、アストラル界での未来から過去の流れが重なり合って現在が生じる。 物理学では、時間の流れをエントロピー増大の法則で示すが、これは物質界の崩壊の法則を意味するが、物質界を形作る霊界、つまり物質界とは全くあべこべのアストラル界では、エントロピーが減少していることを想定していない。 だから、物理学では、時間をせいぜいエネルギーの流れとしか捉えられないのである。 人智学は霊界を想定し、カルマの法則をみつけているから、「時間」を流れや運動から考えると、過去の失敗を償うように、時間は流れ、運動することがわかる。 カルマとは、「行為」という意味をもつ。 「失敗は成功の素」というかのエジソンが言ったかのような格言があるが、これはカルマの法則を意味した言葉といえる。 人間誰しも失敗するが、カルマの法則により、失敗を償うように時間は流れるので、これは「撒いた種は自分で刈り取る」という意味でもあり、必ず成功へと、つまり、地獄に堕ちても、自分で地獄から天国にむかって歩みを進めるように、時間は流れていくのである。 これがカルマが回転、輪廻転生、車(くるま)とも呼ばれる理由でもある。 さて、あまり地獄に堕ちると警告ばかり言っているのも、正直ネガティヴ感がぬぐえないので、前回紹介したケペル先生の超科学講座に載っていたJSMワード著の「死後の世界」という本から、地上の世界が理想とする霊界の大学と、病院を以下に紹介する。 ★ ★ ★ 大学の組織 ワードは、霊界の叔父さんに再び霊界を案内される。 今日は、大学の話をしたい。霊界の大学は沢山の学科にわかれ、色々な学会がある。学問は大きく4つにわけられる。 第1は霊性の発達の研究。第2は不幸な者の救済法の研究。第3は地上生活中に興味をもった問題についての新発見の成就。第4は霊界で発見した新事実を地上の人間に伝える研究である。 霊性の発達の研究とは、私(ワードの叔父)がやっていることなので後回しにして、不幸の者の救済法の研究を説明すると、地獄に堕ちている霊魂の救済法の研究と、地上の人類を正しい道(天国)に導くことの研究の2つにわかれる。 第3の新発見の研究のなかに属するのは、美術、建築、医療、音楽その他についての科学的法則を究める色々の学会である。私(ワードの叔父)は、文芸復興期の建築学会に入っているが、この学会は、文芸復興期の精神を尊重しながら、これに新思想を取り入れんとする団体なのである。 第4の新事実を人間に伝える研究は、第3の新発見の研究にともなう必然の仕事で、立派な発明が霊界でできあがると何人もそれを人間に普及してやりたくなる。もっともなかにはすっかりこの仕事に懲りてしまっていっこう冷淡な連中もいないではない。 霊界の方でも人間の指導に関して随分苦い経験をなめさせられている。いかに優れた思想でも人間に伝えてみると、すっかり変わったものになり、うっかりすると虚像化、唯物化してしまうことが少なくない。更に呆れるのは、立派な発明が、有効に使われずに、まるっきりとんでもないことに悪用されることである。 美術に関する新発明が大抵前者の運命を辿るのが多く、科学的、機械的な新発明は人類にはかなり印象深いかわりに悪用される恐れがある。 このような次第で、霊界には、新発明を絶対に人類にもらすまいとする霊魂がいる。だから第3の新発見の研究に属する学会ではこんな規則がもうけられている。 「本会の会員はその発明を人類もしくは第4の新事実を人間に伝える研究に属する学会にもらすことを禁ず。」 しかし、全ての学会がそうではない。少しはそこに例外ももうけてある。がとにかく人類との交渉は第4の新事実を人間に伝える研究に属する学会の仕事に属し、いろいろな医学会なども、この第4の分類に多い。 では、これから少し、私(ワードの叔父)の入っている大学のことを話そう。幹部は学長が一人、学長の下に次長が一人、別に評議会があってそれを助ける。 さて、学生であるが、三学年にわかれる。一学年が済むと二学年に上り、二学年が済むと三学年に進級する。すべて霊能の優劣によりきめられる。 評議会はこの三学年から選抜した者で組織される。更にいろいろな役員が、評議会員のなかから学長により選抜される。 ここで、ワードは、叔父に、地上のフリーメーソンの組織に似ていると指摘するが、叔父は、そうかもしれないが、そのような組織も霊界からでたものだろうが、これらの組織は極めて自然な体系(システム)で、地上の大学でも、第1年、第2年、第3年とわかれ、別に研究生をおいているではないか、と応える。 ワードは、試験はあるかと聞くと、叔父は、次のように応えた。 試験はありません。受け持ちの教授が認めると、上級に進級させてくれる。進級するときにいくらか儀式めいたものがある。学年の区別と、霊界の他の区別とは別問である。三学年に進んでも、信仰半ばの者は依然としてそのままにある。 ★ ★ ★ このようにワードは、霊界の大学を、フリーメーソンの親方、職人、徒弟の三段階の徒弟制度に譬えて理解しているようである。 シュタイナーは秘教学院について、「昔のあらゆる秘教学院には、最高の認識に達するために三つの学問がありました。第一は秘儀参入学、第二は霊視学、第三が魔術学でした。秘儀参入者・霊視者・魔術師の三つは、互いに根本的に異なった存在でした。」と述べている。 つまり、この地上での学院は、霊界での大学の学問と比較すると、地上の学院の秘儀参入学が、霊界の霊性の発達の研究に相当し、霊視学が、不幸な者の救済法の研究に相応し、魔術学が、新発見に相応することがわかる。 霊界の大学の第4分野の地上への伝達は、地上には不要なので、地上の学院にはないわけである。 さて続いて霊界の病院について紹介する。 ★ ★ ★ 霊界の病院 ワードの疑問からはじまる。 私(ワード)は霊界では病苦に悩む者はいないと思っていましたが、病院があるのですか? 病苦に悩むということはないが、精神の曇っている患者が霊界にもいる。そのような患者が治療を必要とする。つまり、霊界の病人は地上での精神病患者の類と思えばよい。 病院に私(ワードの叔父)を色々案内してくれたのは、地上にいたときには精神病学の有名な某博士だった。 病院は大変美しい環境にあり、一歩その境内に入るといかにも平和で、のんびりした空気が漂っていた。私(ワードの叔父)がそのことを、同行のその博士に述べると、博士は次のようにいった。 全くそうです。閑静な、人の心を和ませる環境は、患者を治療するのに不可欠な第一条件です。 病院を囲む庭園には、いくつもの広い芝生がつくられ、所々に森ができていて、どこにいってもさらさらと流れる水の音がかすかに聞こえ、木々の隙間からいつも消えざる夕陽の光に染められた水面がちょいちょいのぞく。 沢山の患者たちは森をくぐったり、芝生をあるいたり、又湖面にボートを浮かべて遊んだりしている。 しばらく見事な並木道を進んでいくと、病院の建物がみえてきた。それは文芸復興期の建物で、正面にはベランダが設けてあり、周囲は悉くビロードのような芝生と花壇とで囲まれ、芝生には沢山の噴水やら様々な彫刻やらがあった。 ふと気が付くと、そこには一人の婦人が低い椅子に腰をおろして竪琴をひいていた。男女の患者たちはこの周囲に寝椅子をもってきて、そこに横たわりながら熱心に耳を傾けていた。 やがて私たちは建物の内部に歩み入った。そこには学校のような教育設備があって、患者の大部分は、教育に参加せねばならない規定になっている。他には音楽堂、劇場、各宗派附属の礼拝堂、美術展覧会場がある。 同行の博士は色々説明してくれた。 この病院の主な目的の一つは、できるだけ患者の精神を、他者に向けるように転換する(思いやりをもてるようにする)ことである。 患者のほとんどは、非常に利己的で、少なくとも自己中の連中ばかりで、大抵、信仰上の教義や過度の悲しみなどから偏った意識になっています。 患者たちの性質の陰鬱な部分を解消するのには、人の心を和ませる性質の娯楽が一番なのです。 また治療は主として、エーテル磁気術(催眠術)とアストラル磁気術(心理術)とを用います。ではその実地をご覧ください。 私たちはそれから治療室のようなところに入っていったが、そこでは二人の医師が一人の婦人患者に向かって熱心にアストラル磁気療法(光線力学的療法)を施していた。患者は灰白色の衣服を着、腰を一条の帯でくくっていたが、それがこの病院の患者たちの正装なのである。 患者が寝台の上に横たわっていると、医者の1人はその背後にたって片手を軽く前額にあて、他の医師の1人は患者の脚元にたって、手を触れずにいる。どちらもじっと患者の額をみつめて全精神をこめているらしく、わたしたちが入って行っても脇目さえふらなかった。 きをつけてみると、二人の医師の体から微かな一種の光線が迸り出て、それが患者の頭に集中しているのだった。 そこを出て他の一室に入ってみると、そこでは煩悶のためにしきりにのたうちまわっている一人の男性患者を一人の女子がヴァイオリンの音で癒していた。 霊界の病院のほうが私たち地上(1914年のことらしい)よりも男女の交際が自由のようにみえますが 実際はそうでもありません。霊界では、男と女との間にはほとんど交際などはありませんが、ただ治療上、双方から助け合うことが必要なのです。特にアストラル磁気(心理)療法を行うのには、施術者と被術者とが異性であるほうが効果があることが確かめられているのです。 更に第3室に入ってみると、1人のエーテル磁気療法(催眠術)者が治療をやっている最中で、1人の男性患者にむかってしきりに按手法を施しているところだった。 術者は私たちをみるとすぐに挨拶した。そして治療中の患者の病状を説明してくれたが、その患者は生前酷い怪我をした記憶が容易に解消しない、ということであった。 そこをでて、今度は、割合小さな室に入って行ったが、なかには1人の婦人患者が寝椅子に横たわっていた。同行の博士が説明した。 これは実に不思議な患者で、死後いつまでも生前の記憶が強く残っているのには驚き入ります。彼女は生前、かたわで、歩行ができないものと固く思い込んでいたので、機能的にはなんの損傷もないのに、右の機能の錯覚が強まると同時に現在みるような、びっこになりました。 もし彼女の病気が肉体のものなら、肉体を失うと同時に病気も消失したはずでしょうが、精神的なものだったので、死んでからも依然と、びっこのままなのです。 大体、彼女は生来一種の変わった心理のもち主で、かたわの人をみると妙に快感を覚えたといいます。そのくせそのほかの点では別段に変わったところもなく、性質が凶悪というようなところもありません。地獄に行ったら多分、この種の患者が多いことと思います。 この患者にはどのような治療を施すのですか? 主としてアストラル磁気療法と自己暗示(自我)療法の2つです。 私たちは勿論、肉体の障害が、霊魂に移るものでないことを極力説明してやります。大抵の霊魂は理解しますが、ただこの婦人の精神が非常に曇っているので容易に理解できないのです。しかしいかに頑固な思い込みによる疾患でも霊界の治療を受ければやがて治癒します。 むしろ、治療よりも、そのあとで受けなければならない教育のほうが遥かに時間を要するように見受けられます。 私たちはそれからいくつもの室々を巡覧し、教授たちの講義なども傍聴した。最後に同行した博士にきいてみた。 地上の病院でみるような外科手術をみかけないのですが。 外科手術の必要はありません。霊界ではもはやあのような不器用な真似は致しません。 もちろん、地上では多少その必要があります。肉体というものの性質上それは致し方ありません。ただどうも必要以上に外科手術を濫用する傾向があります。 霊魂となると、よほど微妙な不可視な治療法を必要とするので、矢鱈に切開したり、切断したりしてもダメです。地上の外科手術室に幾分類似したものは地獄に行くとみられます。 病院の説明はこの辺でやめておく。詳しく述べると、大変時間がかかる。とにかく霊界の病院では宗教的な精神療法がなかなか大切な役目を担っていることを最後につけくわえておく。 ★ ★ ★ 以上をみると、地上でのリッターの光線力学的療法と、音楽療法、東洋の気功やヨガなどに相応することがわかる。 霊界では、地上の物質体はもたないので、外科学は存在しない。ただし、地獄界には絶えず苦痛を与えるという意味で存在する。 この地獄界の病院という名の拷問組織や、地獄の代表の戦争などは機会をみて紹介するが、非常に恐ろしいものである。原爆開発や投下に携わった者が行った地獄や、現代の医療という名のカネ儲けや権力の獲得のための、虐待や殺人行為を行った者が行く地獄などである。
2016年06月12日
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主にシュタイナーの本などを紹介してきた当ブログがもっとも入門書として相応しいと思われる本をみつけたので、紹介したい。 その前に、人を人とも思わない獣のような魂が腐敗した恐ろしい地獄行きの連中の愚劣さをお馴染みのサイトから紹介する。 ★ ★ ★ 死ねよペテン師 http://my.shadowcity.jp/2016/06/post-9520.html 竹中平蔵の持論なんだが、「正社員も5年でクビ切れるにしろ」というんだが、そんな事ばかり言ってるから景気が悪くなる。実質賃金が低下し、身分の保証がない、雇用の流動性もない、クビ切られたら、今の収入も待遇も得られない。そんな状況で、高い車や家を買う人はいないです。 たとえばこの20年間、銀行に勤めている人は、いうなれば不良債権を増やしてきた人たちです。その人たちにフィンテックは出来ないでしょう。 だから、若い人に大きな権限を与えて、自由に取り組んでもらえば良いのです。 昨年のダボス会議では大学改革について話し合ったのですが、中国のビジネススクールでは、学長から教授、准教授に至るまで、すべて5年契約だそうです。 5年も経つと、ビジネスの世界は様変わりするので、ビジネススクールもそれに合わせて、新陳代謝を進めているわけです。 日本でフィンテックを盛り上げるには、雇用制度そのものを大きく変える必要があります たとえばこの20年間、自民党にいる政治家たちは、いうなれば不良債権を増やしてきた人たち、そんな連中が景気回復なんて出来るわけがない。世の中を変えたいというなら、まずは自分も含めて、自民党の政治家全員引退してからだw ★ ★ ★ この白豚といわれる地獄行きの輩は、非常に悲しいことだが、自分の発言が多くの人々を傷つけることに想像が及ばないような低能になってしまったようである。 このような悪魔の下僕に警告として紹介したい本なのである。 ★ ★ ★ トンデモ話は奥で繋がる 「第196夜」(改変) http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-1293.html さて、当ブログの主たる目的は『霊界』の真相についての様々な説を、出来る限り公平に紹介し、その上で小生なりの解釈をお示しすることです。 そのため後半は、現時点では最も深くアプローチしていると思われるシュタイナーの説を、出来るだけ現世の感覚で捉え直した説明を加えようと悪戦苦闘して来ました。 しかし、まさに最終的なまとめに入ったこの時期に、シュタイナー的解釈への入門書としては、最もわかりやすい道案内をしている本に出会いました。 三橋一夫氏が、20年以上も前に書いた『ケペル先生の超科学講座』です。たまたま古本屋で105円で手に入れたのですが、その10倍以上の内容のある良書です。 氏の主たる肩書きは、音楽評論家となっており、中島みゆきの音楽論等の著書もありますが、他に古代史や古神道の研究、はたまた怪奇小説等、多彩な文才の持ち主です。 既に1995年に亡くなっていますが、同書は1990年に書かれており、タイトル通り主として精神世界に関する、幾多の超科学の解釈について書かれています。 本書は、案内役としての『ケペル先生』が、5時限に渡って講義をする形で、臨死状態で地獄の世界を見た人の話を1時限目とし、以後くだけた調子での講義が続いてゆきます。 しかし、内容的には非常に濃く、古代エジプトの死者の書の話から、スウェーデンポルグの霊界日記、エドガーケイシーのリーディングと、霊的世界の探究が順に繰り広げられます。 そして、輪廻転生とカルマの法則に至って、人間の4つの体と指導霊、アカシャ年代記から読み取られたアトランティス人の見霊能力等々、シュタイナーの人智学的な説明へと進みます。 全編に渡って、我々の通常の生活感覚に置き換えた、平易なたとえ話と、素朴な疑問への回答がちりばめられ、とても読みやすく、コンパクトにまとまっています。 まさに、小生が目指していた内容の書物を、20年以上も前に、小生なんかより数段わかりやすい形で、眼前にすんなりと提示された感があります。 しかし、これ程優れた入門書でありながら、ネット上でその書評をしている人はほとんど無いようです。まさに秘本的な一冊で、今回も、シンクロニシティ的出会い感を禁じ得ません。 恐らく一般の書店では手に入らないでしょうが、ネット上では古本等が少数出回っているようですので、小生のつたない解説では、いまいち理解できなかった方は、是非ご一読ください。 ★ ★ ★ この本がはじめに教えることは、「天国も地獄も存在する」ことである。特に地獄の記述が少し書かれているのだが、それは身の毛もよだつ壮絶な世界である。よく睡眠中に悪夢に魘されるが、まさしくその世界を超える悍ましさなのである。 地獄の話ではないが、地獄に堕ちる人はどういう人かというのを、そこで、少し抜き書きしてみる。 ★ ★ ★ 不幸、不幸というと、病気はもちろんのこと、貧乏も不幸の代表格と思われている。人間の魂が堕落する環境の代表的なものは、極貧である。「衣食足りて礼節を知る」というのは中国の古い諺だ。極貧、飢餓にあえいでいる人には、いくら神様がいるから信じなさいと説教しても何の役にもたたない。 まして、「お前がド貧乏なのは、前世の報いなのだ」と説く宗教家がいたら、坊さんだろうと、牧師さんだろうと、地獄行きじゃ。 (死者に鞭打つ行為だから) 人を責める、非難するというのは、およそ宗教の心に反した行いだ。まして、脅かしておいて、自分の宗教に入れてしまうなどというのは、どう割引しても宗教とはいえない。 (弱者を保護すべきである。) 人間の魂が堕落する環境は、もう一つ。 大金持ちと大権力者である。 この環境に身を置いて、魂を保つというのは並々ならぬことだ。極貧、飢餓というのは、ある程度、生きる糧を与えられれば、魂を正常に戻すことはできるが、大金持ちや大権力者という病状におちいると、魂を正常に保つことが困難を極める。 ★ ★ ★ 間違った教えを説く者、自分さえよければいいと考え、貧困や飢餓を生じさせている金持ちや権力者などが、地獄の最下層に行くらしい。層といっても空間ではなく、魂の状態らしい。 心も含めて、人を傷つける人が地獄にいくようである。いじめなどはもってのほかでいじめられた人の何倍もの苦しみ、地獄の苦しみを味わうようである。 汚職都知事や汚職政治家たちは改心する機会を失うと本当に地獄に堕ちますよ。権力者が私腹を肥やすと弱者が虐げられるのです。それは人類全体を不幸に誘導することなのです。 また特に人事を取り扱う者、裁判に関わる者、人を傷つけやすい仕事に関わる人は十分に注意しないと取り返しのつかない苦しみを味わうことになる。逆に弱者や人を助ければ、その喜びに満ち溢れることになる。 ブラック企業や組織はそのまま全体で地獄に行くことになる。勇気をもって環境を改善していかないと益々地獄化し、魂が腐敗していくからである。 金持ちや権力者が、社会において不足しているものを補わないと多くの人々を不幸に貶めるのです。 金や権力は皆で分かち合うものである。 続けて機会があれば、この本から抜き書きして紹介していきたい。
2016年06月10日
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人間は愛を深めるために、この世に生まれてきて、実際に自分が思い描いた愛がホンモノかどうか、経験を積むという話を前回紹介した。 人は愛を深めるためにこの世に生まれ、その目的に相応しいパートナーと出会うように、過去世の経験を基に、カルマによって導かれる。 簡単な例を挙げれば、過去世で殴ってしまった人と、今生では殴ってしまった過去の過ちを償うために、その人と再び出会うなどである。愛の不足故に自分がしでかした失敗に対して、天使たちの支援を得て、今生では愛を十分に貯え、不足を補い償うようにカルマによって導かれる。償いによって愛は深められる。 シュタイナーによると、地球は償いの星と呼ばれるという。 悪魔は錯誤を生み、人間を失敗や憎悪に追い込むが、善の天使たちが、カルマによって、人間にその償いをさせるので、失敗や憎悪は、成功や愛にかわるように導かれる。 そもそも悪魔の利己も突き詰めてみれば、自己愛にすぎない。自=他とバランスがとれた愛ならば申し分ないのだが、悪魔のは自>他の愛で、歪な愛ともいえる。ちなみに自<他の愛は、自我をもたない動物などである。自己犠牲の愛として有名だが、不自由で、バランスがとれてないので、歪な愛である。 シュタイナーの人智学が説くのは、人間は何度も生まれ変わって、愛を学び、深める、ということである。前世と比べて、今生の愛が不足しているのなら、その不足分がそのまま本人を地獄に誘導することになる。 キリストが、愛が欲しくば与えよ、と言ったように、与えなければ、愛は返ってこない。 どれだけ愛を与えられるかの能力が人智学では、霊我=マナスと呼ばれ、地球紀で人類が獲得すべき能力とされている。この霊我を獲得すると、人生の目的を明確に知り得るようになるという。 霊我獲得には程遠い汚職都知事や汚職政治家ばかりが巷を賑わせているが、このような輩は地獄に堕ちることを肝に銘じるべきである。 他を欺き、自惚れているときには恥じて、初心に返るべきである。自惚れすぎると地獄に真っ逆さまに堕ちるだけである。 悪魔の話や善の天使の進化の導きの話の紹介が一通り終わったので、初心に返る意味で、シュタイナーの代名詞ともいえる「いかにして前世を認識するか」を紹介する。 ★ ★ ★ いかにして前世を認識するか http://roseandcross.kakurezato.com/ クリスティアン・ローゼンクロイツの警告の声(改変) いま、ある人が森を散歩している、としてみましょう。考えに没頭しているため、もう少しで崖に落ちそうになるのに気づきません。あと二、三歩で、崖から落ちてしまいます。前に進むと、崖に転落して、その人の人生は終わってしまいます。 危機一髪のところで、アタマのなかで、「止まれ!」という叫び声を聞きます。 その声によって我にかえったような感じになります。誰かが、崖から落ちないように、自分を抱きとめたような感じをうけます。もし、その声をきかなかったら、崖におちて、死んでいたでしょう。ハッとして辺りを見まわしますが、だれもいません。 真剣に自我を認識する訓練をすれば、現代人は、以上のような体験をじつに頻繁にもつことができます。実に多くの現代人が、人生でそのような体験をするのです。 そのような体験をしたことがないのではなく、自我の声に十分に注意を払っていないので、見落としているのです。上述のように、はっきりした声ではないので、不注意な人は、そのような体験を見落とすのです。 本当の自我を考察し、熟考した後、上述したような体験に気づきます。そして、そのような体験に対して本当に敬虔な気持ちを持つと、特別な感情にいたります。その日から人生を贈られた、という感情で、その日以来、人生を霊的に生きよう、という感情です。 「私はカルマでしか救いようのない危機的状況にあった。警告を無視していたら、私の人生は終わっていた」と感じたなら、よい感情であり、過去世の記憶と似た作用をします。 このような敬虔な感情のなかに参入すると、なにか新しい世界が現れてきます。「これは、今生の人生でしばしば体験してきた記憶にはない。この感情は、今生とは無関係の全く特別のもの」と思います。 近代の偉大な秘儀参入者が、自分の同志に相応しいと思った人々を霊界から吟味しているのです。霊界を垣間見させる声は、物質界の周囲で生じる霊現象を正しく認識することから、発せられるからです。 敬虔な人に聞こえる、そのような声を錯覚と思うべきではありません。そのような声をとおして、群衆のなかから自分の同志となりうる者として選んだ人々に、クリスティアン・ローゼンクロイツという導師が語りかけるのです。 13世紀に特別な活動をしたこのような人物から、呼び声が発せられるのです。その呼び声を体験した人は、その声の認識をとおして、霊界のなかに参入できるのです。 ほとんどの人は、そのような呼び声に気づかないかもしれません。しかし、いまはその呼び声に気づかないとしても、後に気づくようになるために、人智学は活動しているのです。 そのような声を体験する人について、今日、次のようにいえます。秘儀参入者クリスティアン・ローゼンクロイツは、自分の同志となりえる人々に出会います。その出会いは、地上の人生ではなく、地上の死から次の転生=再受肉の霊界にいる間におこなわれます。 このことから、死から転生=再受肉の間に、地上に生まれてから死ぬまでの人生よりも重要なことが生じるのがわかります。 クリスティアン・ローゼンクロイツの同志となる人々は、既に前世で定められている場合もあります。しかし、大抵の場合、そのような決定は前世での死から現世への転生=再受肉の間に霊界にいるときにおこなわれたものです。 現在、多くの人が上述した体験を持ちながら、呼び声に気づいていません。そのような体験がなかったからではなく、十分に声に注意を向けていないので、気づかないのです。(P48-P53) (悪魔に洗脳され、悪魔の方向に向くように奴隷化されている。) ★ ★ ★ 人は、愛され幸せになるために、この世に生まれてくるのだが、そのためには愛すること、この世で、与えることを学ばないといけない。しかし、現代のこの国には与えることを知らず、奪うことしか考えない獣のような連中が跋扈している。差別をうけている日本人の親切さに付け入り、モンスターのような金融資本家や守銭奴が傍若無人の振る舞いに及んでいる。 少し前、限度をしらない欲深の資本家(詐欺師)たちを中心に、会社とは誰のものかという議論が話題になった。いまだに株式会社は株主のものという所有欲むき出しの洗脳がまかりとっているが、株主だけで会社が存在するというのなら、株主だけで会社を営めばよかろう。 実際に労働している人達の労働を資本家に都合よく法律をつくり略奪しているのである。 そもそも所有論を言い出したらきりがない。権力を使って全部俺のモノと言い出すバカが出てくるだけである。 例えば、所有欲を振り翳せば、子どもは、親が産んだのだから、親のものと同じ理屈である。稼ぎのない子は、勘当してよいとなってしまう。では地球は一体誰のものだろう。人類は一体誰のものだろう。株主は一体誰のものなのか? そんな思いやりの欠片もない、略奪するしか頭にないのはもはや人間とはいえず、人間の進化から外れるだけである。皆が幸せな方向に進むために、法律をつくり、公正に適応すべきである。 そこで愛のない獣たちの話を警告として紹介する。 ★ ★ ★ 「冥土の飛脚」というか冥土行きのマラソンに日本は励む。 http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%90%91%E3%81%91/%E3%80%8C%E5%86%A5%E5%9C%9F%E3%81%AE%E9%A3%9B%E8%84%9A%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%8B%E5%86%A5%E5%9C%9F%E8%A1%8C%E3%81%8D%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%81%AB%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AF%E5%8A%B1%E3%82%80%E3%80%82 ネットゲリラ より 上記文抜粋 ・・・・・・・・ 低賃金で内部留保330兆円 コンビニのパートが集まらないので、外国人、というんだが、そういうのいい加減にして貰わないと、景気が回復しない。外国人労働者が、賃金の「アンカー」になって、上昇を妨げているわけです。つうか、そもそも彼らは外国人ではあっても、「労働者」ではない。肩書は「留学生」だったり、「研修生」だったり。マトモな労働者ですらないから、安く使える。 小売り、外国人パート・アルバイト確保に熱 小売り各社が外国人のパート・アルバイト採用に力を入れる。ローソンは6月中に、日本へ留学予定の学生がコンビニエンスストアの業務などを学ぶ研修所をベトナムに開く。西友は外国人のパート従業員を対象とした英語での昇格試験を始めた。小売業はパート・アルバイトへの依存度が高い。人手不足は深刻で、日本人だけでなく外国人の人材確保を巡っても競合が激しくなりそうだ 厚生労働省によると、4月の有効求人倍率(季節調整値)は1.34倍と24年5カ月ぶりの高水準で、幅広い業種で人手不足が深刻になっている。なかでもパート・アルバイトを中心に求人数が多い小売業は厳しい環境が続いており、人材確保に向けた新たな取り組みも増えていきそうだ。 銭儲けのためには法律もへったくれも無視無視で、カネカネカネと、世の中から「品格」というモノがなくなっている。言葉の通じないヤツからモノを買うんだったら、東南アジアでもウロついてる方がマシだw ・・・・・中略・・・・・ 企業「低賃金アルバイトの求人を出しても日本人は誰も応募してこない。もはや移民受け入れしかない」、というわけで、例によって2ちゃんねるでは無責任なネットすずめたちがピーチク騒いでおります。ニュース速報板からです。----------------------- 雇用が改善されてきてるのに低賃金のバイトに押し寄せるわけないじゃん----------------------- コンビニバイトって言うと高校生とか大学生とかって感じだけど 最近の高校はバイト禁止にしてる所多いからな----------------------- 円安と日本人客の傲慢対応で外国人もお断りだろう。 フィリピン人介護士の件を忘れたか?----------------------- 何かと理由つけて移民ジャブジャブ受け入れるのは規定路線になってるだろうな----------------------- 都心部のコンビニは、本当に外人ばっかりだからな しかもなぜかラテン系が多い謎----------------------- そこはコストかけてでもちゃんと日本人雇って最低限の接客レベルを維持しろよ。 レジでカタコトの日本語で応対とかナメてるのかと思う。----------------------- 糞安い時給で過剰な仕事にDQNみたいな客の対応、挙句に売れ残りを買わされたりを押し付けられたり中国人ですらこんなのやらねーよ----------------------- 夜勤コンビニバイトは殆どが外国人の時代だからな 貧乏学生が金稼いでた時とは大違いだ----------------------- 絶対に賃金を上げない!と言う強い意気込みのようなものを感じました。 株主として嬉しい限りです。----------------------- コンビニはやっぱりベトナムとかタイとかインドとかの人には難しいみたいね。 習慣とか漢字が読めない意味がわからないってのが本当に大きく響くみたい 韓国中国人ならあまり問題ないんだけどねぇ----------------------- ↑今の韓国人で漢字がまともに読める奴なんて1万分の1もいないと思う 中国人は簡体字しか読めないし、同じ漢字でも日本とは意味が違うものが少なくない 香港人や台湾人のほうが良い 尤も、香港人や台湾人が日本の低賃金労働をやりたがるとは思えないが ベトナムは昔は漢字使ってたんだからまた習わせたほうがいいんだがな----------------------- ア ベ ノ ミ ク ス と は な ん だ っ た の か----------------------- 移民が低賃金の仕事で納得すると思うか?----------------------- そのうち移民者も低賃金のバイト嫌がるよ んで文句を言う 最後に国が荒れる----------------------- 以前バイトしたコンビニ弁当工場のトイレ トイレの出入り口から出る時に アルコール噴射機に手を入れないとドアが開かない仕組みだった 外国人雇うのって雇う方にも覚悟が必要だよ----------------------- ローソンって若手正社員の給料上げる余裕あるならバイトの給料上げろよ よく行く駅のローソン外国人ばかりで意思疎通ができないぞ----------------------- まじめに働いても生活できない<低賃金>が問題。 日本の賃金は、今やスペインや姦国にも抜かれてしまっている。 タックスヘイブンを使って節税氏、豪邸に住む経営者達.......。----------------------- 移民にこれるフットワークや能力一芸ある奴だったら ジャップランドになんかこないし 低賃金でこき使ったら確実に出てくだろ 昭和脳だから日本が後進国の憧れの的で 働かせたら涙して喜ぶて思い込んでんのかな----------------------- ↑ほんとに一芸あるやつは日本なんてスルーでアメリカ行くわな 待遇が全然違う----------------------- コンビニバイトとか割に合わなさすぎて中国人もすぐ辞めていくからな。----------------------- 田舎は知らないけど、都内はほんと賃金と家賃のバランスが悪過ぎる 今の時給でフルタイム働いてもまともな部屋を借りられない コンビニ時給で1500円が妥当----------------------- 企業はグローバル化してるんだから、日本で商売できなけりゃ出て行くんだろ? 移民とか言ってないで小売りも外食も派遣もさっさと日本から出て商売すればいいのに・・・----------------------- 介護やらせろ 月20万も出せばあっちから来る----------------------- ↑台湾で25、北欧なら35程度と聞いた。----------------------- 外国人も日本で暮らすんだから外国人だから給料安くてもいいって話にはならない----------------------- それがグローバル化デス! 何でもかんでもグローバル! 労賃もグローバル、中国人も韓国人もフィリピン人も片言の日本語ができれば同一賃金! 素晴らしきかなw ゆくゆくはアフリカ人も日本人と同じ給料をもらえるんだよw 日本人の給料がアフリカ人並みとも言うがなwww オマイラ、これでも富裕層が支配する資本主義を続けるの?----------------------- ↑地方と東京の時給にものすごい差があるのに、企業はず~っとグローバルグローバルって言ってるw 低賃金でこき使うための方便でしょ... このまま何もしなければ解決しそうだけどねw 移民は来ず、低賃金で働いてる再雇用老人は死ぬ。企業はしぶしぶ賃金を上げる。----------------------- うちでは先代から居る老害達が数人居座っていて 現オーナー経営者の俺より賃金高く、労働分配率が酷い時で80%超える そいつら何とかしないと若手の給料上げてやれないし人材の補強も無理 老害は問答無用で賃下げor首切りしていい制度が欲しい----------------------- 自業自得----------------------- 高級スーパーでも中で惣菜作るのはインドやアジア系だからなw メーカー食品工場も同じwww 何が高級なんや----------------------- 自分の国すら愛せない馬鹿が異国の、しかも世界トップクラスのブラック国家の業務に耐えれるわけねぇw----------------------- 外国人はビザがないと働けない なので就労ビザならその職業だけだし学生のビザならカスみたいなバイトしか許可されていない そもそも前にインドネシアから奴隷導入しようとして日本の労働環境はクソだと言われみんな帰ったしこの国の奴隷制は外国人も来ないよ----------------------- あいつらの名言 日本人は時間を全然守らない 一般的な奴隷日本人はいや守るだろと言うだろう しかし考えて見てくれ 残業が常態化している仕事場のどこが時間を守っていると言うのだ 始まりの時間はうるさいくせに終わりの時間はまもらない世界でもクソみたいな国が日本って言ってインドネシアのエリートは国に帰っていった----------------------- 日本人の意識が劣化してるから仕方無い で、何が原因かと言うと虚業ばかりが目立つからなんだよね 例えば、株の投資 IT関連でも何でも新興企業でちょっと伸びるとソッチばかりだ そうなるとコツコツとやるのが馬鹿らしくなる 1日8時間汗水垂らして働く<短時間でトレード 馬鹿らしいだろ?----------------------- 都内だと、時給1000円は出さないと、 日本人アルバイトは来ない。 だから外国人バイトばっか増えてくんだよね。----------------------- 北京や上海の人間だったら、日本に出稼ぎには来ない。本国のほうが稼げる。日本に来たがるのは、都会に出られない満州あたりの田舎者です。----------------------- そもそも小売り業自体が飽和してるから店員足りないなら店潰せよ----------------------- 俺、コンビニの面接に行って受かった事ないんだけど。 親曰く、「あんたがコンビニのレジに立ってたら客が引くでしょう」 (´・ω・`)----------------------- つーかマックとかにいた 女子高生バイトはどこにいったの? みんな売春?----------------------- ↑スタバが人気らしいよ----------------------- 小売りは過剰サービスすぎるんだよな。 無駄に年中無休や24時間営業をしている上に競争で値上もできないから時間あたりの収益が低い。----------------------- ↑確かに海外に比べて日本はきめ細かいわ ひどい国だと暇なら携帯弄ってるところあるぞ----------------------- ↑米国に5年駐在してたけど、そんな感じで良いと思うけどね 日本の小売店は店員が可哀想 つーか移民だって働かねぇよ 近所のセブンだって中国人が殆どいなくなって国籍の判らない人達しかいない いずれ彼らも逃げ出すだろうね----------------------- 俺「いらっしゃっせーあざしたー」 外人「イラッシャイマセ!アリガトウゴザイマシタ!」 どっちを取るかわかってるだろ----------------------- 試用期間 時給800円 給料貰ったら金額が合わない まさかの735円地域低賃金 舐めてるよ ----------------------- 治安悪くなって身内殺されて好きなだけ後悔すればいいよ、経団連どもw----------------------- 移民ももう来ないだろ 円の価値はアベノミクスで暴落してる----------------------- 近所のコンビニやスーパー、日本人入ってもすぐ辞める、外人粘る、の状態が続いて 外人だらけになってしまった。----------------------- 外国人店員ばかりのコンビニや飲食店は自然と足が遠退く 日本人でもダメ店員は多いが外国人はほぼ100%ダメ----------------------- 生き生き働いてる外国人もいるけど、 ローソンのベトナム人店員は目が死んでる割合高いな。----------------------- 俺、生粋の日本人だけどコンビニの面接行って受かった事ないし。 (´・ω・`)----------------------- ↑仕事しなさそうなオーラ前開だから仕方なす----------------------- もう賃金上げないで人手不足とか言ってる所は行くとこまで行って欲しいねww 残念なことと言えば日本の企業はほとんどそれだから最後までいたら一斉に終わるって事だけど仕方ないよね----------------------- そもそも人が集まらない会社は素直に解散していいんだよ 経営者より労働者として生きたらいいよ ブラック企業なんて別に潰れたって構いやしないさ----------------------- 低賃金のアルバイトに日本人の応募が無いというのは企業側が応募者の年齢を若年者に絞ってるからだろ。 年金が減って生活苦の老人は働きたくても仕事がないから募集年齢を高齢者まで広げたら労働力確保は可能。 しかも低賃金でも働いてくれる。----------------------- 10代の可愛い娘だけ移民を受け入れよう。 もちろん黒人は禁止。----------------------- 先進国でトップの低賃金にも関わらずサービスは一流を求める 労働者側に負担がかかってるだけのシステム やるわけない----------------------- いとこ夫婦が誑かされて酒屋からコンビニにしたけどそもそも本部から店舗への要求と搾取が奴隷以上だからな かなり立地に恵まれた場所でさえ適正人数雇う余裕は最低賃金でさえなかなか難しいって言ってた 利益は限界以上に吸い上げてリスクとロスは全部押し付けてくるって本当に後悔してたぞ店に出ずっぱりでピリピリしててほんわかゆるめだった家庭環境も崩壊一歩手前まで悪化してるし コンビニだけは絶対にやめておけって何度も言われたw----------------------- ↑うちも同じ個人の酒屋だけど、コンビニのオファーは丁重に断ってるよ だってあんなもん現代の小作人制度だもの、地主がわざわざ小作人に落ちる理由もないしな----------------------- 外人なら安い給料でも耐えてくれるってなんの根拠があってそんなこと思ってるんだろうな 今や中国人だってコンビニバイトのまずさに気づいて逃げ出す時代だぞ----------------------- 事業拡大したがり経営者が多いんだよ。 チェーンの外食店やコンビニは人手不足が分かってるのに この期に及んで不必要なまでに店舗を作ろうとしてるでしょ。 塾なんかも子供減ってるのに教室増やそうとする経営者が多いよ。----------------------- ↑いつまでも高度経済成長期の夢から覚めない経営者は多いよ。 前に、工場勤務をしていたが、その年滅茶苦茶忙しく、結構な利益が出たと社長が年頭に従業員にしゃべっていた。 それはいいのだが 「昨年は、会社始まって以来の利益でした。本年はそれの30%増しの利益を目標として・・」 って時はあきれた、これだけ経済が縮小する中で、本年は30%来年も30%再来年も30%と永遠に成長できるわけがないじゃない。 とりあえず、経営規模を拡張せずになんとか会社がつぶれない方法を模索する時代なんだよね----------------------- お前らはS級バックラーがどうこうふざけたことばかりしてるので どこも雇いません----------------------- 日本人が安くて嫌って仕事は外人もヤダよ。「どうせ生活水準が土人なんだから」って言ってるのと同じだろうが。 移民賛成の企業見てると吐き気がする。 移民はありだと思うよ、でもこいつら本当の意味で人種差別っつうか特にアジア人を劣等民族と決めて掛かってて、利用してやろうと思ってるわ。----------------------- もう自民のせいで税も保険も上がりすぎて 低賃金じゃ払えなくなってるからな。 その国に合ってない企業は撤退すればいい----------------------- ローソンが、日本人が集まらないからって、 日本語学校でまだたどたどしい日本語しか話せない留学生を採用して 上手く断れないのをいいことにシフト入れまくって奴隷のように使ってるって聞いたが。 農業研修生制度といい、人の足元みたえげつない事すんなよ。----------------------- 移民で対応します♪。すべての3K職種で、聖域なくリアル川上村化を実現致します。 ブローカー及びバイヤーの皆々様...、移民の脱出や逃亡には充分注意し、牧場小屋の監守を強化したほうがよいでしょう。逃亡=狂暴な熊を、街に解き放つことと同じですから...♪。 牛や馬や羊のように、簡単にはいかないですよ...。なにせ海外の熊は、野生化して狂暴で命懸けで暴れますから...。 しっかり鎖につないでおかないと、トンでもないことになります!♪。 (笑)----------------------- すき家のバイト騒動は収まったんだろうか?----------------------- ナマポ受給者に働かせろ 無理なら殺してしまえ----------------------- 移民は来ないよ、タイやインドネシアの方が給料も高いし言葉も通じるからストレスがない 移民政策は無理なんだよ----------------------- この手の人たちって、人手が足りないなら少し時給あげて募集しようとか、生産性を向上させて対応しようとか そういう発想がないんだよね ひたすら奴隷をかき集めてこき使って暴利を得ようって考えしかない こんな連中が日本を滅ぼすんだよ----------------------- みんなシャープと同じ 最期はトップに食いつぶされる----------------------- 低賃金で内部留保330兆円----------------------- 日本は人口が減って衰退して行くんだから、事業は縮小して行くべき。 実は、拡大するより縮小する方がカネは儲かるんだよね。 世の中には「リストラ屋」みたいなヤツがいるんだが、色んな意味で儲かるんです、アレはw 無駄なモノは捨てて、儲かる部門だけを残す。 整理すればするほど収益体質は強化される。ただし、売上は下がる。社会が若くて発展して行くんだったら拡大も悪くないが、社会が衰退して行くのに自分だけ事業を広げようというのは欲が深すぎるw・・・・・・・・・・・・・・・ 抜粋終わり いまさら日本の企業や、もっというと日本の富裕層・権力・霞が関に、マトモな思考力を期待するのが、「木に魚を求める」ようなものだろう。 冥土行きのマラソンを爆走中の日本帝国。 お読みくださりありがとうございます。 ★ ★ ★ 日本列島地獄化沈没の様相を呈してきた。
2016年06月06日
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天災と戦争は悪魔によるもので、神々は悪魔がもたらす不幸を、人類が乗り越え、自らで幸福を実現し、進化するために、人間に能力を与え、手助けすることを前回紹介した。 不幸があるからこそ、揺るぎの無い幸福になれる。 そのようなホンモノの幸福を、「戦争を越えた愛」として、アンビリーバブルという番組でみたので、紹介する。 ★ ★ ★ 奇跡の愛が残した生きる道★運命に翻弄された壮絶人生 http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/160602_2.html 一枚の写真がある。 祭壇には遺影が飾られ、喪服に身を包む人々。 だが、この写真の裏には壮絶な愛のストーリーが隠されていた。 それは携帯もメールもない時代。 運命の悪戯に引き裂かれそうになっても、男と女が貫いた純粋な愛の軌跡である。 今から96年前の大正9年、7人兄妹の次女として神戸で生まれ育った、渡辺信子さん。将来の夢は看護師、「人の命を救う仕事がしたい」という思いを抱く、純粋な少女だった。 夢を追い、女学校卒業後、試験に挑むが…結果は不合格。失意の底で家事手伝いをしながら暮らしていた彼女にある出会いが訪れる。 故郷の大分を出て、神戸高等商船学校に入学した梅木靖之さん。彼の姉が渡辺家へ嫁いでいたため、親戚にあたる人物だった。神戸で寮生活を送るにあたり、渡辺家に挨拶にやって来たのだ。 当時、商船学校は「エリート校」で若者たちの憧れの的。信子は彼に好意を持った。 そして、出会いから1ヶ月が過ぎた頃。靖之から手紙が届いた。 『信子さんにお目にかかれてとても嬉しかった。また信子さんにお会いできることを楽しみにしています。』 靖之もまた、信子に好意を持ってくれていたのだ。 文通から交際が始まった。しかし…商船学校は上下関係がとても厳しいことで知られ、女性との交際などもってのほか。常に上級生の目が光っていたため、2人で会うのはいつも人目につかない場所だった。 2人が出会ってから1年が経っても、手を繋いだこともなかったという。 交際を続けるうちに、互いの家族も認める仲となった。どちらからともなく、結婚という話が持ち上がり…靖之が卒業したら、故郷の大分で式を挙げようと話し合っていた。 しかし…出会いから3年、太平洋戦争勃発。靖之も卒業と同時に軍人になることが決まった。2人に訪れたしばしの別れ。 だが出征後まもない頃は、手紙のやりとりができた。『父に具体的な結婚の話をしてみました。父は結婚に賛成し、入籍も希望とあらば、いつでも入籍してくれるとのことでした。』 戦争が終わるのを待たず、結婚しようというのだ。夫婦となるためには、両家の許可だけでなく、海軍の許可も必要だった。 さらに手紙には、こう書かれていた。『日本の軍人として立派にご奉公して、武運あれば生きてお目にかかれましょうが、還り来ぬ身として征く小生の唯一の贈り物です。』 招集から9ヶ月。 激しさを増す戦況の中、靖之は激戦地である南方海域へ向かうこととなった。すると信子の父は、戦争が終わる前に結婚することに反対した。もし靖之が戦死したら、信子は未亡人となってしまう。娘を思ってのことだった。 だが、戦争は終わる気配を見せず、靖之からの手紙も徐々に減り… 招集から1年半が経つ頃に届いたハガキを最後に、2ヶ月以上も便りが途絶えた。これほど長く便りが来ないことは初めてだった。 そして…靖之の家族から電話がかかってきた。靖之が乗っていた戦艦は、沖縄の海を航海中、魚雷を受け撃沈。靖之は帰らぬ人となっていた。 靖之の戦死から2ヶ月後。 信子はトランクに喪服を入れると、葬儀が行われる靖之の実家、大分へと旅立った。 靖之の実家に到着すると…信子はある決意を身にまとった。右の写真がその時の実際の写真である。 葬式のようにも見えるが、そうではない。 信子が着ているのは花嫁衣装。 死亡すると戸籍から除かれるため、普通は入籍できない。しかし、戦時中ということもあり、特例として役所の許可を得ることができた。 そう、信子は遺影と結婚式を挙げたのだ。 当時の心境を綴った彼女の著書がある。 『彼は私の欠点、長所すべてを理解し、励まし、力づけてくれました。生まれて初めて人に愛される喜びを知ったのです。』 戦地に赴いたあとも、靖之は信子を励まし続けた。 靖之が戦死する3ヶ月前、信子はこんな手紙を送っている。 『貴方の上にも今夜この美しいお月様は輝いていらっしゃるでしょうか。』『一つ一つの星が色んな話をしてくれているようです。あの人の居所をしっていますよ。貴女の方へ航海していますよ。』『星の話を信じてよいのでしょうか。お逢いできますよう祈るのみ。お許しいただけるなら、ご一緒にゆきます。』 ひたむきな靖之への想いに、やがて父も梅木家へ嫁ぐことを認めたのだ。だが、晴れ姿を見せても、夫は何も語りかけてはくれない。 誰1人、声を立てない静寂な結婚式だったという。 入籍を済ませた信子は、海軍から意外な事実を知らされた。海軍軍人の遺族には、医学校への入学金及び学費免除という、恩典が与えられるという。 人の命を救いたい。そんな信子の夢を叶えてあげたい。そこで…靖之は明日の命をも知れない身にもかかわらず、入籍を急ぐため結婚許可願いを申請。海軍内だけで10部署以上もまわるなど、奔走した。 靖之の尽力の甲斐あって、信子は戦死者の妻として正式に認められ、看護師と同じ人の命を救う「医者」という道を手に入れたのだ。そう…これこそが手紙に書かれていた、靖之からのお贈り物だったのだ。 靖之の思いに答えるべく、猛勉強を重ねた信子。 医学校卒業後、晴れて医師となった。 それから65年…神戸の病院に信子さんの姿があった。96歳になった今も、現役医師として働いているのだ! 信子さんは再婚することなく過ごすこと70年。夫が命に換えて残してくれた生きる道。靖之さんの愛に支えられ、信子さんは今日も人の命を救い続ける。 信子さんはこの日、ある場所を訪れた。 上級生の目を避け、逢瀬を重ねた思い出の地「淡路島」。 今、信子さんは何を思うのか…? 「神様が与えてくださったお相手だって言ってたのね。生まれ変わったら、もちろんまた一緒になります。そんなことないけどね。」 ★ ★ ★ 現実をみると、あまりに出来過ぎた話のようにもみえるが、靖之氏は、まさしく信子さんの天使にみえる。信子さんの救済愛に応えるために、天使が、靖之氏に受肉し、その役割を終え、霊界に帰っていったかのようである。 戦争がなくても、この二人は愛し合う夫婦となっていたかもしれないが、信子さんが医者になって、自分の救済愛を実現した可能性は低かっただろう。 つまり逆説的にいえば、戦争という経験をしたからこそ、相手が死者となっても、それだけ愛の絆が深まり、信子さんの救済愛も現実化したのである。恐らくこの二人は、次の転生でも更に愛を深めるために、なんらかのパートナーとなるだろう。 このような話を聞くと、人生の偉大さを感じざるを得ない。死者と生者の愛は永遠に不滅なんである。 さて、天災は忘れた頃にやってくる、という語呂合わせで、話をかえて、天才について考えてみる。 「天才」といえば、湯川秀樹氏の「天才の世界」という対談みたいな本を昔読んだのを思い出すくらいだが、結局のところ、唯物論や脳科学では、天才と秀才の違いはわからない。この世の物質界では、天才と秀才の区別はできない。 というのも、人智学では、天才とは、高次霊が憑依し、能力が向上している状態を意味するからである。つまり天才とは、高次霊(神々)の閃きを感じとれる人なのである。だから人知を超えた能力をもつ。 天才と秀才の違いは、高次霊の閃きに対して、聞く耳を開いているか、閉ざしているかによる。 また天才とは、宗教的にいえば、預言者ということになる。 先ほど紹介した話では、死者の愛を汲み取れるか、どうかである。天才は一人生を超えた能力で、秀才は人生を超えることはない。 ではどうして天才は生まれるかという話を紹介する。 ★ ★ ★ トンデモ話は奥で繋がる 「第188夜」 -弟子のクッテネルがお送りします。 http://kumaneru.blog100.fc2.com/blog-entry-1190.html ≪人類進化を指導する神々(2)≫ ★人類を必要とする神々 ここで再度、高橋氏の『イエスを語る』へ戻り、第12講の冒頭をみてみます。 「人智学から、人類の進化を段階を追って考察してゆくと、『人類が時代ごとに繰り返し生まれ変わり、それぞれの惑星紀に相応しい目標に到達するために、自らの能力を開発しより高次の能力を獲得する』ことが、正しい進化の過程である、と思わざるを得ません。 ですから、『人間が進化を、自分が天使となる目標にしている』ということがわかりますが、しかしまた、 『人間に先んじて進化を遂げた神々達の助けが無ければ、人間が天使になるという目標に到達することは決してできない』のです。 その時代の時々に、『宇宙の神々』が他の高次の領域から、人類の『地球紀』の進化に関わり、人間を相応しい進化の高みへと到達できるように、人間の運命に介入するため、自らを結びつけるのです。」 『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』 pp294-295《筑摩書房(高橋巌 訳)》より抜粋転載 抜粋内容を見るとおわかりのように、当該の内容については、以前に第169夜でお話しした内容です。 以下、第169夜でお話しした内容を、かいつまんで振り返ってみましょう。 古来の信仰の多くが、『太陽霊』と結びついており、私達人類の魂の根底には、その『神々』を待ちわびる気持ちがあります。 その理由こそ、シュタイナーが『神智学概論』の中で最も力を入れて講義した内容なのですが、西平氏が掲載をためらったように、最もオカルト色の強いものでした。 以後187夜では、小生のつたない理解力で、人類、地球、ルシファーとアーリマン及び人類を進化に導く神々との関係をお話ししてきたわけです。 それらの話の核心となるのは、西平氏が特に重要と感じたように、進化の各紀を通じて『人類が地球と一緒に進化する』という点でした。 そして同時に、ルシファーとアーリマン及び我々を導く神々自身も、人間の進化と結びつくことによって、『人類と一緒に進化』できると、シュタイナーは言うのです。 つまり、私達『人間』は、ルシファーとアーリマンも含めた全ての神々にとっても、自らの進化のために必要ということです。 (宇宙の存在は全て、愛について語り合っている。悪魔は利己的な愛を語りがちだが、善の神々は、それらを上回る救済のバランスがとれた愛を語る。) ★神々の希望と失望 「人類とともに神々が進化してきた事実は、これまでの惑星紀についても同様です。 『土星紀』に、トローネ(座天使)達が、自らの体を人間に捧げることによって人体の最初の萌芽(肉体=体温)がつくられたのです。 この事実は一例に過ぎません。人類よりも先に進化を遂げた霊達が、人類の進化段階にまで降りてきて、人間の進化と結びつき、時には人間の肉体に宿り、人間の姿をとって現れています。 若しくは人間の魂に憑依して、人間の魂の能力となっているのです。 ……………………………………………………………… 「そのようにして神々の力を魂の中に浸透させた人は、他の人達よりも、人類の進化のためにより多くの業績を挙げて来たのです。 物質的にみて、人間は皆同じ、と考える現代の唯物論では、霊魂の能力の違いについては全く無関心です。 (…中略…) 高次の霊界から降りてきた霊に浸透され、その霊が憑依された人に語りかける現象を信じなさいと言われたら、現代人はアタマがおかしい人に『酷い迷信』を押し付けられたと思うでしょう。 …しかし、少なくとも、人類は、このような観点の残像を、現代という唯物論の時代に到るまで持ち続けてきました。 しかも、その残像を無意識に受け入れた人のなかでは、まるで救世主信仰のようにも現れています。すなわち、現代の人々は、天才的な人物の出現を信じているのです。 …『天才達の魂の中には、一般人の魂とは違った能力が現れている』と、そのような人々は語ります。 唯物論全盛の現代でも、『天才達』の能力は認められているのです。 一方で、唯物論に染まった人々は、天才など信じようとしないどころか、天才を追放してしまおうとし、そのような集団がいたるところにいます。 …実際、宗教の信条などに盲目的に追従し洗脳されなければ、人類の進化のために、天才達が一般人とは異なる能力で働いていることは明らかなのです。 このような天才達の正体を知るには、…霊の力が降りてきて、人間の内面を拠点にしているのがわからなくてはいけません。 人間は神のような進化の高みへ向かって努力しますが、他方で神霊が人体の中や人間の魂の中に降りてくるのです。 人類の進化の中に、何か或る重要な課題が達成されるべき時、或る神が、或る人間の魂と結びつき、その魂に浸透するのです。 そうすることで、人類の進化は神々により導かれて来たのですし、これからも導かれていくのです。」 『シュタイナーコレクション5(イエスを語る)』pp294-296《筑摩書房(高橋巌 訳)》より抜粋転載 人類を進化に導くことを通じて、自らも更なる進化の高みを目指そうとする神々は、その目的の達成のために、しばしば人間の魂に憑依します。 このようにして、神の力を魂の中に浸透させた特定の個人は、当時の一般人とはかけ離れた言動(預言)を示し、人類を進化させるべく、周囲の人々に『神々を信じなさい』と呼びかけ、自らでその言動を実現するために行動します。 しかし、それらの神々の導きに対して、人類は往々にして、神々の期待とは異なった洗脳された習慣的な反応を示してしまうのです。 ある集団は、現代科学に代表される唯物論的な観念に照らし、特定の個人の呼びかけた内容を酷い迷信の押し付けとして退けます。 また他の集団は、特定の個人を『天才』として神格化してしまい、神々の意図とは一致せずに、その言動に妄信的に従ってしまいます。 この2つの誤った習慣的な反応でいる限り、人類は、人類とともに進化しようとする神々が、願っている進化の期待に応えることはできません。 やがて失望した神々は、特定の個人への憑依を解きます。すると、その後の個人の言動は、もはや神々の意図を伝えなくなってしまいます。 唯物論的集団は、その後の『天才』の凋落ぶりを見て『それ見たことか』と、よりバッシッングの度合いを強め、そもそも『神』などいないと無神論を説き、息巻きます。 一方で、妄信的集団は、『一般人』と化したことを認めようとせず、その後の個人の言動にも従い続け、神々の意図とは全く別の方向へと迷走してゆくことになります。 以上が、私達が真の『救世主』とその教えに対し、繰り返し犯して来た習慣的な過ちとなる態度なのです。それ故、人類の進化の速度は次第に遅れ、地上が地獄化し、悪魔の支配するままとなっています それでも僅かながら神々の真意を受け継いだ集団も存在し、『救世主』についての幾つかの文献や言葉の伝承を残し、後世に伝え続けているのです。 ★ ★ ★ 人を救いたいと心底願えば、誰もが救世主となれる。それは戦争を越えた愛からもわかるように、この世に生き残るからといって救われることにはならない。より深い愛、より固い絆を生むことだからである。死者だからといって愛せない理由はない。愛は永遠不滅で、愛は愛によって深まっていくからである。
2016年06月02日
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