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神秘学では、古代ギリシア密儀神殿の「汝自身を知れ」という言葉は、「高次の自己を認識するように」という促しであるという。 では、この高次の自己はどこに存在するのか? ゲーテは、「目は光によって、光のために形成された」と言ったという、これは、「目は自分を忘れて、自分をつくった光を認識すればするほど、よく目的を達成する」という意味だという。 人間が目の内部をみることができれば、目の使命はもっとよく果たされていたかもしれないが、この内部を忘れて、この内部をつくった「目の高次の自己」である光を認識するのが目の課題、目の使命だという。 人間の通常の自己もこれと同様の関係にあるという。この自己が自らを忘れて、「外界にも霊光があり、その霊光が私たちの霊眼をつくったのであり、いまも霊眼をつくりつつある」と気づけば気づくほど、自己認識は高まっていくという。 だから、自己認識は自己発展を意味するという。 つまり、霊光が霊眼をつくり、霊眼が自己をつくるので、自己は自己を忘れて、霊眼を認識し、霊光を認識することが、自己認識の使命であり課題で、自己発展であるというわけなのだろう。 唯物論者には、あまりに、空想的で、ファンタジーすぎるように思えるだろうから、私は以下のように言い換えたい。 生命(いのち)は、愛によって、愛のためにつくられた と、生命は生命の内部を忘れ、この生命の内部をつくった愛を認識することで、生命の目的はよく果たされ、それが課題であり、使命であるというわけだろう。 生命(いのち)の課題、使命は、愛を認識することなのだ! 愛を意識し、感じる生命の発展こそが、汝自身を知れ!ということに置き換えられるのだろう。キリストは、みえるかたちで、人類に愛を与えた。それは実物の目にみえる光となった愛である。我々は、愛を認識できるはずなのである。 愛がないとはいえない。愛がないのではなく、愛を認識できていないのである。しかしこれはおかしい。生命は愛からなるのであるから、愛を認識できないはずはない。 愛を認識できないのは、生命(いのち)を失うにたる不感症になってしまったからであろう。あまりに物質主義になり、生命たる資格を失ってしまったのであろう。 誰もが尊い生命であるがゆえに、愛を感じることができるはずなのである。愛を感じなくなったとき、それは自分のなかに生命の力が乏しい証拠であろう。 人間は物質ではない。生命体である。なぜなら、愛から生まれたからである。とりあえず、以下のことは信じたい。 生命は愛から生まれたのだから、生命の内部がどうあれ、愛を認識することが使命であり、課題なのだ! 愛を信じよう。それこそ生命を形作るものなのであるのだから。 次回は、輪廻転生について触れたいように思える。生命を形作る愛がどこからくるのか? それを知るには、誕生から死までの人生では理解できない。死んでからまた生まれてくるまでのあの世の世界を知る必要があるからなのである。 生命が愛からつくられるように、人間は生まれたときにすでに生命体であるように、それをつくった愛をあの世から、すでに生命体として、運んできているのである。 生命は愛からなるがゆえ、愛を感じよ! 汝に生命があるのは、愛があるからであり、それは隣人を愛し、敵を愛すためのものである とキリストはいうのだろう…。愛こそ全て、生命のなる樹なのだろう。
2006年01月31日
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今日の夢は、またまた高校時代の夢だった。それというのも、高校時代の友人が、久しぶりに昨日、電話をかけてきたからだ! いままで、3年ぐらい音沙汰がなかった奴が、いきなしかけてきたので面食らったぞ! まぁ、友人も、いろいろあるみたいで、世の中辛いよねという話で終わった感じ…。最近は早寝早起きを心掛けてたので、土日にゆっくし話そうということで、こちらから、またと催促して切ったのだった。 相変わらず、巷はライブドアの株問題で議論奮闘で、東証のシステムがどうこうとイチャモンつけられているが、大体、株分割方式なんてこと考えるのが、禁じ手だと思うぞ! あれじゃ、随分昔に、流行ったネズミ算方式みたいなもんだよ。システムがパンクして当然だと思うな! 物質を無限大に分割していったとしても、終いには素粒子になるわけで、金持ちしか株を出来ないから、社会的秩序やステイタスが保たれてんだろうよ! そこらへんの庶民や未成年が、株なんかやらせたら、何をするかわからないだろうよ。消費者金融やらで身を滅ぼすのが関の山だろうよ。 なんでも分割すりゃいいてんじゃないんだよ。これを仏教では分別知ともいうな! 実体を分けて知るわけだが、そもそも実体を分けた時点で、その本質性が失われるわけだろう。百歩譲って分析したとしても、それをまた再構成してシュミレートしないと、シナジーという相乗効果はわかってこないんだよねぇ。 シナジーっていう言葉は、バックミンスターフラーという哲学者が、遥か昔、19世紀から20世紀初頭あたりにつくった造語だと思ったが、フラーは他に、プリセッションとか、シントロピーとか色々な造語をつくった哲人だよ。天才とはまさしくフラーのことをいうのだろう。 フラーは将来、環境破壊が進み、地球が無くなってしまうと考えていたので、早めに手を打つために、宇宙船地球号というシュミレーションを行って、地球の環境破壊を救うために、クリティカルパスという手法を考案した。簡単にいうと、対立する概念を中和して、相乗的な道筋を探るようなもので、哲学に興味がある人は、是非、フラーの思想を学ぶべし。 プラトンのイデアとアリストテレスの中庸を足して2で割ったようなもんが、フラーのクリティカルパスだと、勝手に解釈している。 思想としては多種多様十人十色で絵画をみるようだが、哲学者の生き方としては、犬のディオゲネスが好きな私であった。なにしろ、犬のディオゲネスは、かのアレキサンダー大王がわざわざ来て、贅沢な住居を与えようといっても、そしらぬ態度で、犬の生活を続けたという。なんだかそんな解脱し悟ったところがとてつもなく魅力的で好きなのだ! アレキサンダーがお釈迦さまやキリストさまだとしても、ディオゲネスは犬だったような気がする。 いくら善いからといって、昨今の何々信者的な受動態度は、自ら生み出し判断したものではなく、ただ言うなりなのは、どうも納得いかないぞ! 細木和子がいくら良い事いうからって、お前は細木のなんなのさぁ? ♪どどどっとどどどっど、あんた、あの婆の何なのさ、細木の和子かずかずかずら~ああby宇崎竜童(自分でも書きながら懐かしさを覚える)。。。もっと日本のオナゴはしっかりせんといかんぜよ、日本男児は、わがままヤンキー米野郎に恐喝されて、身も心もボロボロなんだからさぁあ…。 ディオゲネスの犬はいいが、ブッシュの犬はもういい加減お断りだ!
2006年01月31日
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神秘学によると、人体は以下の4つの体からなる。 1.肉体(リズム;男女で異なるが約1年) 2.エーテル体(リズム;約1ヶ月) 3.アストラル体(リズム;約1週間) 4.自我(リズム;1日) 病苦の多くが、アストラル体に起因するとされる。アストラル体の不規則、損傷が、エーテル体に働きかけ、その損傷が肉体までに影響し、肉体の損傷となり、病となるという。 生体はその損傷に対して、防御を行うが、この損傷への反抗が、熱であり、熱は、人間のなかの治癒力の呼び声なのだという。損傷をなおすために、人体が、力を呼び集めているのが、熱として現れるという。損傷を受けた個々の部分は、自ら治癒できず、他の側から力を得るために、熱を呼ぶという。 例えば、肺炎のときに、この熱が現れることを考えてみる。肺炎の場合、原因は、常にアストラル体にあり、アストラル体が損傷を受け、その損傷がエーテル体をとおして、肉体に移行するという。 このときアストラル体のリズムを考える。肺炎が現れた日に、アストラル体が、肉体に作用すると、熱を通して人体が反抗しはじめる。七日後、アストラル体のリズムは、7日=1週間で、元に戻るので、再び、肺炎が現れた日と同じ位置関係にあり、エーテル体と出会うのだが、エーテル体のリズムは、7日×4=1ヶ月で、元に戻るので、アストラル体は、エーテル体とは、違う位置関係(エーテル体のリズムが7日後の次ステージの7日のはじめ)で、出会うことになる。 つまり、アストラル体のリズムは、エーテル体のリズムの4分の1なので、アストラル体がはじめエーテル体と出合った位置関係(肺炎発症)は、4週待たないと出会えない。だから、アストラル体が、肺炎発症時に、出合ったエーテル体に、熱を上げろと命令したものが、7日たつと、もはや、エーテル体の次の部分に出会い、今度は、逆の方法で影響を受け、熱を下げる方向へと、命令するものになるという。この逆方向の身体リズムが、熱を再び下げるという。 人体が存在する理由は、健康であるためであり、そこにリズムの目的があるという。健康人の場合は、熱の上昇と下降が交互に現れるのだが、病気になると、熱が抑えられるときに、生命が危険にさらされるという。 つまり、最初の七日間に、何らかの作用が、アストラル体に入り込んだら、次の七日間に、その作用が離れ落ちないといけないのだが、健康人の場合、熱の上昇プロセスが、アストラル体が一巡すると、逆転するのだが、病人の場合、熱の上昇プロセスが続くべきであるのに、激しい上昇が、激しい下降を引き起こしてしまうという。これが肺炎における七日目の危機だという。 このようなことを加味すると、人体を健常に保つには、とくにアストラル体が、熱を上げるような過度の命令の反作用である、7日目の熱を下げる命令を、抑えるか、アストラル体の7日目の、熱を抑える命令に負けないように、人体に熱を供給することが挙げられるだろう。 かって、人間はアストラル体のリズムにより、全く異なった気分を体験したという。外界の事物が人間に大きな印象を与えるときと、人間の内面を体験するときと、リズムによりわかれていたが、現代では、もはや、外界の事物とリズムが一致していないので、人間が外界に喜びを感じているときにも、内的体験は存続しているし、その逆にもなっているという。それらは互いに混じりあい、補い合っているという。 しかし、アストラル体に依存した生き方をしている人の、気分のなかに、そのような揺れがあり、心理病あるいは精神病に際して、このアストラル体のリズムの多様な状態が証明されるという。 動物にも、アストラル体やエーテル体がみられるが、動物の属を、肉体である外的な姿形によって分類するだけでなく、アストラル体やエーテル体のリズムにより分類できるという。それらは、動物と土地の関係について何らかの規則が示されている暦にみられるという。例えば、干支などはその名残りであるという。干支の十二支などはそのリズムを表すものだというわけである。 干支は易経からきており、易経は、最近知ったカタカムナという文字で表されるというが、このカタカムナは、どうやら、太陽と月と地球の自転と公転の関係を、文字化したもののようで、人間の4つの人体のリズムとも関係しているように思える。 カタカムナの発音声が、人間の4つの人体リズムと関係しているかもしれず、その研究は奥深いものに思われるが、その真意はいまだ不明というとこだろう。
2006年01月30日
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今日の夢は、前にみた高校時代の高校生活のものだった。それにしても、高校生活がよく出てくるのはどういうわけなんだろうか? 内容は忘れてしまった。ということで例のごとく、寝る前のことを書くことにしたいが、とくに、それも、めぼしいものではないが、前にみたTBSの世界遺産の「奈良」を、プロジェクターで、再度みながら、寝てしまった感じである。 最近、仏教に凝っている。仏教といっても、宗教的な意味ではなく、原始仏教である。もともと、お釈迦様が出る前にも、仏教らしきものはあり、その多くは、神秘学でいう、古インド哲学に属するものである。お釈迦様は、それらを集大成にして、完結させた人物という感じだろうか? ともかくもそれを最初に、実践した人物ではあるだろう。 仏教を非宗教的面からみると、現代では、いかに曲解されているかがわかる。そういう面からいえば、仏教を、盲信するのではなく、科学的に捉えることは大切だと思われる。昨今は、怪しい新興宗教の分派や、教祖が沢山出てきているが、そういう自分が偉いとか、神の名、仏の名を語る輩は、皆、怪しいので、徹底的に、なぜ?、どうして?と、幼児が大人に問うように、質問を加えていけばよいと思う。 こちらの問いに、しっかりと答えられない教祖は、まず、偽者と見てよいだろう。 偽者たちに、いいたいことは、神様、仏様を信じるならば、神や仏の名において、ウソをつくことこそ、大罪であることに注意すべきだということである。真に神や仏を信じるならば、ウソなどつけようはずがないだろう。ましてや、自己の利益に、神仏を用いるなどもっての他であるだろう。 ただただ、自らが黙して信仰すればよい。それを他者に奨めるべきでもない。そういうわけで、私は誰にも神仏を信仰せよということはないし、金輪際、いわないつもりである。信仰は人間の自由意志に任されるものであるからである。 話が脱線してしまったが、仏教の非宗教なところをみるにつれて、カタカムナというカタカナ文字の原型のようなもので、易経の経典に類似のものを、最近、知るに至った。 このカタカムナは、大きな円と十字と、小さな円が位置する内側の小円の八つの位置からなる記号のようなものである。以下を参照のこと http://www.tanmai.co.jp/ktkmn/kt1_1.html この文字をみると、どうやら、人間の4つの体のリズムと、太陽と月と地球の自転と公転の関係を、文字化したように、漠然とみえる。 太古から、日本には、言霊という言葉に魂が宿るという思想があるが、このカタカムナと、仏教の曼荼羅、更にはカタカムナの発音と、真言のマントラには、密接な関係があるような気がしてならないのである。 このカタカムナを通して考察すると、太古の古インドの哲学にいきつくようである。 神秘学では、アトランティス期が大破局で終わった後に、神々と交信できた秘儀参入者であったノア(通称マニ)が、弟子7人を引き連れて、太古インドに潜伏したとされる。ノアが、マニと呼ばれるのは、マナス(霊我)の使い手という意味をもつのだという。太古では、名前はその人の霊的性質を、そのまま命名したという。 そこから、弟子7人が、マニ教を引き継ぎ、そこから、ゾロアスターが出で、ヘルメス、モーセと秘儀参入法が伝承されたという。 恐らく、マニの古インドの教えは、西方には、以上の流れで伝わり、東方には、お釈迦さまが出て、教化され、伝わったものと思われる。 そして、中国ですが、中国は、遥か昔、ルシフェルという悪魔の化身が現れ、アトランティスの教えを強化したと、神秘学では捉えられている。なので、中国は龍であり、発展的で、進歩的な思想は生まれないといわれる。なぜなら、常に、全体主義で、イデオロギー的な、権威主義を好む古く悪しき伝統が残っているからとされているのである。 中国の人には悪いのですが、どうやらそういう国家の宿命にあるようです。宿命はかえることができるので、中国の人が自由思想に目覚めればいいのですが、何分、伝統主義、民族主義を、捨てることは、傍からみてもできない感じがします。なにしろ、家族中心主義からして血縁がモノをいう世界なようで…。
2006年01月30日
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前回は、神秘学でいう、以下の人体の4つの体のリズムについて述べた。 1.肉体(男女で違うが、約1年) 2.エーテル体(約1ヶ月) 3.アストラル体(1週間) 4.自我(1日) これらのリズムがどうして生じたのかというと、神秘学では、それらは、地球の進化とともに、神々から、人間に付与されてきたという。 肉体のリズムは、地球が太古、土星期と呼ばれる熱の状態であったときに、第1位階の天使たちである神々に、付与されたという。エーテル体のリズムは、次の太陽期に、第2位階の天使たち(太陽神)に、付与されたという。アストラル体のリズムは、その次の月期に、第3位階の天使たちである神々に、付与されたという。 神秘学では、全宇宙に秩序を与えている神々は、外的な動きに相応しつつ、諸存在の内的な状態を形成しなくてはならず、物質的なものは全て、これらの神々の表現だとされる。地球が1年で、太陽をまわっているのは、地球が土星期に、人間の肉体に植えつけられたリズムに由来するという。 月の循環は、人間のエーテル体の循環、7日×4に相応し、このリズムが月の動きに表現され、月が太陽に、さまざまに照らされることにより生じる4つの弦が、アストラル体のさまざまなリズムに相応するという。そして、地球の毎日の自転は、自我のリズムに相応するという。 太陽と月の関係が、エーテル体のリズム=アストラル体のリズム×4に表現されている。つまり、 エーテル体のリズム=アストラル体のリズム×(太陽と月の関係の4つの弦=4) である。 そして、驚くべきことに、神秘学では、太古には、地球は地軸を中心に回転してはいなかったという。 地球の軸回転は、時間の経過のなかで発生したのだという。 神秘学では、地球の自転は、人間が回転するようになって生じたのだという。 だから、最初に回転しはじめたのは地球ではなく、人間だったという。 人間が仕える神々によって、自我が回転するように刺激されたのだという。 人間の自我は、地球を道連れにし、地球を自転させたという。 だから、地球の自転は、人間の自我のリズムの結果であるという。 神々が、人間へ自我を与え、自我へと形成された人間の精神的な部分が、自転の衝動を得たのだという。そして、人間の精神的な部分は、地球を道連れにしていったという。 のちにその状態が変化し、人間は地上で自由になり、状況は変化し、人間は周囲の宇宙的な力から自由になった。 人間のなかに、時間遺伝子なるものがあるのは、太古の上記の物語の、その名残りであるように思われる。
2006年01月29日
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勝海舟は、物事の背後には、絶妙の呼吸があると、氷川清話で述べている。山岡鉄舟は、3年間、富士山まで通い以下の詩を残している。 晴れてよし、曇ってよし、富士の山、もとの姿は変わりなりけり 昔の日本人は、物事の背後に、何かを感じていたことが、伺えるだろう。 物質の背後に、それを成り立たせている呼吸、リズムがあるということに気がつくだろう。例えば、言葉は、一種の呼吸、リズムである。それは空気を震わし、情報(感情)を運ぶ。これと同様に、自然には、自然の言葉があると解釈できるだろう。 神秘学では、人体は以下の4つのものからなるとされる。 1.肉体 2.エーテル体 3.アストラル体 4.自我 それぞれのリズムは、以前述べたが、以下である。 1.肉体(男女で違うが、約1年) 2.エーテル体(約1ヶ月) 3.アストラル体(1週間) 4.自我(1日) アトランティス時代上半期以前の太古の人間は、これらのリズムの、太陽と月と地球の天体運動に、一致して活動していたという。しかし、アトランティス時代の中期以降、人間は自然から、独立し自由になり、それらのリズムからズレを生じてきたという。 神秘学では、睡眠中、自我とアストラル体は、人体から出て行き、代わりに宇宙自我(神的自我)と宇宙アストラル(神的アストラル体)が、睡眠中のエーテル体と肉体の活動を補充しているという。睡眠中に、エーテル体と肉体の機能が回復するのは、そのせいだという。 実は、起きているときも、これら宇宙自我、宇宙アストラル体に浸透されているのだけど、自らの自我とアストラル体の活動が、それら高次の存在たちの活動を、無に帰してしまうという。 つまり、睡眠中、自らの自我とアストラル体が、人体の外に出るので、高次の自我とアストラル体が活動でき、疲労が取り除かれるという。宇宙自我、アストラル体を、大我の自我、アストラル体と、自らの自我、アストラル体を、小我の自我、アストラル体と捉えると、わかりやすい。 小我の自我は、日中(約16時間)、大きな自我の円を描くという。そして、夜間(約8時間)は、大我の自我のなかに沈潜するという。このように、人間(小我)の自我は24時間、絶えず変化しているという。 人間(小我)のアストラル体も、絶えず変化している。太古の人間は、小我のアストラル体の変化、とくに睡眠中、宇宙(大我)のアストラル体に、沈潜することを、意識しており、あるときは自分の周囲の外界をいきいきと感じ、別のときは、自分独自の内面を感じたという。 アストラル体は、24時間×7(1週間)で、一つの回転、リズムを行うとされる。睡眠中の7日間、アストラル体は、宇宙アストラル体に沈み込み、内的な感情と感受を変化させるという。 エーテル体も、7日×4で、自転しているという。エーテル体は異性で異なり、男性の肉体には女性的なエーテル体が、女性の肉体には、男性的なエーテル体が、組み合わさっているとされる。そのリズムは若干異なるのだが、大体、7日×4=28日(約1ヶ月)であるとされる。 肉体も、リズムがあり、女性は、7日×4×十で、男性は、7日×4×十二で、大体、約1年で経過するという。 これは、人間が、太陽にいつも顔を向けているとしたなら、1年で、自分のまわりを1度、同時に太陽のまわりを1度、回る事を意味するという。 長くなったので、次回に譲る。
2006年01月28日
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今日の夢はやはり忘れてしまった。夢メモでも、起きたときにつけるべきだろうが、面倒なのでそれもやらない。と言うことで今日も書けないので、違う話をしたい。 どうも最近、世の中が非常に胡散臭く感じる。つまりあまりに錯誤が飛び交っているので、ここいらで、ホリエモンも捕まったし、その錯誤を見破って生きたいと思う。虚言や虚勢はもういい。 虚言、虚勢は、とどのつまりウソであり、自分を大きくみせたいという張ったりであり、エゴである。虚勢の中に、弱い自分がある。 弱い自分があるから、外にウソが現れる。 戦争をする国がしばしば国内に問題を抱えていることはこの類であろう。 つまり、全ては自己の弱さ、エゴ、ウソから始まる。 ということで、真実とは何かということを考えてみる。 よく、我々、現代人は、真実というのは、わかりやすくなければいけないという、幻想に囚われている。その理由は、誰もが理解できなければならないから、わかりやすいという論理なのであるが、その論理は、「例外のない法則はない」という格言そのものをいっているかのような、錯覚にとらわれているように、思える。 そもそも、例外のある法則は法則とはいわないし、そこに普遍性は見い出せないだろう。だから、「例外のない法則はない」という法則はないといったほうが、まだマシだろう。 論理というのはこのように自己矛盾を生むものなのである。 真実はわかりにくいものであり、そもそも伝えられないものであると言った方がよいだろう。究極的には、それは自ら体験するしかないだろうが、気がついてみると、至極当たり前のことなのであろう。 真実とはあまりに当たり前すぎて気がつかないものなのである。 論理は土台からなるが、論理はその土台を構築することはできない。 人間は考えるが、そのものを自ら考えることはできない。 真実は語るべきではなく、自ら語る。 真実を語る人こそ、実はウソつきであることがわかるだろう。 だから、真実は、そのものの性質から、わかりやすいはずはないのである。 今の時代ほど、真実に満ち溢れている時代はないであろう。つまり、嘘吐き合戦の世の中だ!
2006年01月28日
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今日の夢も残念ながら忘れてしまった! 昨日の寝る前のことも忘れてしまった。確か、「江原啓之への質問状」を読んでそのまま寝てしまった感じだったような。ともかく、風邪をひいて非常に辛いのは確かだ! 最近、あるブログから、非常に刺激をうけて、経済や経営を、神秘学的に考えることを行ってみた。 神秘学では、現代は、地を這うミミズ、モグラの文明といわれるくらい、精神的に退廃したものだが、この多くは、人間の肉食に原因がある。だからといって、菜食を進めるつもりは毛頭ない。 人間は、肉食を行うと、例えば、動物性蛋白質をそのまま利用し、植物性蛋白質のように、解体して、人間性の蛋白質につくりかえる労力が余る。だから、自ら、食物を解体し、再生する、手間が省け、その分のエネルギーを他にまわすことができるようになる。 そのかわり、解体作業や、自らつくりかえる、人間のなかの精神的部分である、アストラル体が、堕落してしまい。精神性を失ってしまうのである。だから、肉食は、怠惰な精神を生み、その代わり、人間の外にむかって、自由な、いわば欲望に忠実な行動をとるようになると、神秘学では、いわれている。 だから、肉食を行う民族は戦闘的であり、外なる野心に忠実なのである。これは、植民地政策をおこなった国の多くが肉食であることで、理解できるだろう。 そのことはどうあれ、私がいいたいことは、国もこの一個の人間と同じであるということなのである。 あまりに、会社や国家自体が、自ら創造することなく、他からとってきて加工したもので、利潤を上げ過ぎると、国内のみで、循環を閉じることができずに、自由な外に向かって、活動を広げる傾向にあるということなのである。 古代の国家は、現代とは逆で、いわば鎖国状態であったといえる。それは、当時の人間自体が、内面にのみ集中力を養い、高度な精神性を向上するのに、重点をおいたように、国内だけで、精神性を高め、独特の文化を築きあげるために、いわゆる神殿に類する建物、文化遺産を建築していったのである。 唯物的歴史書には、多くの民族移動が記されているが、神秘学では、それは現代の米国に移住する人口よりは、遥かに少ない移動だったというのである。それはほとんど移動する民族がいなかったからこそ、目だって記述されたということであるようだ。アレキサンダー大王の遠征でさえも、現代の移動よりは少ないようである。 古代は、自らの土地を土台に、自らの土地から、いかに、精神的なものを引き出すかに重点をおいたわけだ。自らの土地を決して破壊することはしなかったのである。破壊することはなしに、その奥にある霊力を、用いたのである。だから、風水のような概念ができあがるのである。 古代人は、旅をしたが、それは、その土地、その土地の霊力を探るためであり、破壊したり、所有したりするものではなかったのである。 つまり、古代人は、その土地が何からできているのかの霊的設計図を知り、そこから、その自然の設計図に応じて、創造していったのである。だから、少しずつ少しずつ、一歩一歩、ゆっくりと建造していったのである。 現代は、これとは逆に、何でも物質のままに、いわば、奪うという形で、所有しようとする傾向にあるだろう。そして、挙句の果てには、乗っ取り屋のようなものが現れたわけだ! そこにあるのは、見栄であり、中身のない外見だけであり、所有欲であり、エゴである。とどのつまり、借りてきた分、楽をした分、自分のなかでエネルギーが余り、それを外に向けているだけなのである。 小人閑居して、罪(不善)をなす 古代人にはこのような考えはない。その土地をよく知るものがその土地に住むべきであるというのがその認識の根底にあるからである。 それに古代人は、基本的に、この世のどんなものであれ、同じものはないと認識していたので、同じものを交換するという認識はなかったのである。ただ精神のみのやりとりがあるだけである。そのモノの精神をよく理解できたものが、そのものを取り扱うというだけなのである。 どの命も同じものではなく、どの命とて、尊いものなのだから、それを失い、奪うことは、赦されないのである。 だから、外に向かうよりも、まずは、内のなかに神殿をつくれということなのである。 国家は、外に向かうのではなく、内なる文化を築きあげるべきなのだ! 企業は、利潤を上げるのではなく、物質的創造を通して、内なる精神性、社会通念、モラルを構築するべきなのである。 それは、武士階級が、武士道をつくったように、ホンダが、ホンダ精神、松下が、松下精神というようなものをつくるのが、社会における企業の本分なのであると信じる。 一時のモノを創造するのではなく、永遠なる精神を創造することこそ、宇宙の理念に相応しいのであろう。 それは、ギリシャ哲学が、ローマ帝国をつくり、ローマが崩壊して、キリスト教精神が、残されたことに見い出されるだろう。 荒地の悪魔が、キリストに囁く、「石をパンにかえてみろ」と、これは、この世では、金銭によって、食物を得る必要があることを意味する。地の悪魔の世界では、食物を得るには金銭を必要とするのである。 つまり、人間からなる会社や国家は、日々、生きるために、金銭、利潤を必要とするということも意味する。人間は、地で生きるために、「石をパンにかえなければならない」 これが聖書でいう、人間の物質界に堕ちた原罪の意味である。地を這うミミズとなる現代文明を表している。 それに対して、キリストは、「人はパンのみに生きるにあらず」と答える。人間はいずれ地で死に、天にかえる太陽の子である。 しかし、地で人間が、わずかばかりの時間、生きるには、パンが必要とされる。 地にも天の働きが必要である。そのために、キリストは、地に死に、天に上る最初の神の子となった。そして、地において、天の働きを行う神となったのである。 キリストは、地において、人類の精神のパンになったのである。 日々の糧のなかに、精神を体験せよ! 精神のパンをつくりあげろ。 そのとき、人はパンに生きるにあらずとなるだろう。 そして、国境はなくなるだろう。
2006年01月27日
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前回までに、自由な思考から発し、心臓から頭へ、自主的な意志を伴い、頭から心臓へと再還流し、そこに平静さを加え、手足や頭へと流し、明鏡止水のこころの姿勢を整えることができ、肯定的態度で、望み、周囲の空間に、自分を広げることを、可能にする訓練を述べた。 で、今回は、5つ目のこころの修行である。それは以下である。 5.先入観を捨てる 勿体ぶったわりには、なんのことはないとお感じだろうが、これこそ、最も大切なことで、でき難いことではなかろうか。 つまり、5ヶ月目には、新しい経験に対して、この先入観にとらわれず立ち向かうことであるという。 これは、いかなる瞬間にも、全く新しい経験を受け入れる用意ができていないといけないことだという。 人間は体験を通して、なんらかの知識を身につけるが、その知識が、束縛を生じてはならず。神秘学は、理にかなっていると認識したもの、ありうべきことと思われるもの、それ自体が、新しい真実を受け入れるときの障害になってはならないと説く。 5ヶ月目にそのようなこころの持ち方を心掛けると、空間の中で、何かが生命を得て活動するかのような感情が生じるという。この微妙な震えを、注意深く周囲に把握することがよいという。それを五感、特に目、耳、そして熱感覚を含む皮膚を通して流れ込ませるようにするとよいという。 そして、6ヶ月目に、これら5つの訓練すべてを組織的、規則的に交互に繰り返して行うと、こころの美しい均衡が形成されていくという。特に世界の現象と存在に対してもっていた不満が消え去って、無頓着にならず、実際に世界を改善し、前進させるための活動が可能なこころが、諸所の体験を融和する気分を通して出てくるという。 かってはこころから閉め出されていた、事物に対する静かな理解が可能になるという。 仏教でいう、こころでみることを「心眼」というが、神秘学では、この事物に対する静かな理解をいっているようだ。 唯物論でいう、「みる」とは、肉体の目のなかの神経が、目を通して、脳で、像をつくりみているとしているが、これは大きな間違え、錯覚であるという。それではモノの真実はみえてこないと、神秘学は説くのである。 神秘学でいう「みる」とは、端的にいえば、みている対象に、こころを合一させて、そこから感じとる(目に情報をおくる)ことをいっているのである。いわば、目は、モノを掴んだりする手の役割であり、そのときの触感が、視覚を類似するという。これを行うのが、人体のなかのアストラル体である。これは東洋哲学では、「こころ」と表現されるものである。 つまり、「心眼」とは、そっくりそのまま、真に「みる」ということを意味しているのである。太古、人類は霊視ができたので、この心眼をみることだと知っていたのであり、唯物的に、現代の肉体で「みる」とは、幻想、幻覚だとしていたのである。 だから、現在の外見をみることは、幻想であり、真の「みる」ことではないとしていたのである。外見は、いわば、生命が死んだ状態であり、それをみても、展望は開けず、後追いの論理の構成となるから、要するに、結果論でしかない。真のみるとは、未来を、予見し、創造することであるから、後追いでは、人間はいつも後手にまわらざるを得ない。つまり、主導権を握れない。周囲や環境に振り回されるだけである。 環境を制御し主導権をとり、自主的に創造活動を行うには、確実に、真に「みる」ことができなくてはならない。つまり、躍動する、生命的にみる。心眼が必要だと気づかされるだろう。過ぎ去った幻想をみても執着心を生むだけであり、今そこからめばえ、躍動しようとしている、まさに生命を、未来にみなければ、真に「みる」とはいえないのである。 赤子のようにみることが、真の「見る」なのだ! これは老子にあるだろう。 禅問答で、しばしば、達磨には髭があるとか、ないとか、正反対のことがでてくるが、それはこの心眼でみているかどうかということなのである。 ギリシャ時代では、あらゆるものの背後に神々の働き、叡智があるとされていたので、この背後の神々の働き、叡智をみることを、いわば心眼といったのである。これは仏教で言う、仏性と同じであろう。 だから、心眼でみない、ただ、肉体でみることを、「勿体無い」というのだろう。「勿体無いことをするな!」とは、「ただ見るな」、「心眼でみろ」と言うことなのだ! そこから、「自分の立場からみるな!」、まず、無我の境地を切り開いて、はじめて、他者と合一し、みることができるわけだろう。 つまり、端的にいえば、相手の立場、対象と合一してから、「みろ」ということだ! これは、陽明学の「知行合一」の理念にも通じるものであろう。 知識偏重を拒絶し、そのものと一体となって、そのものに語らせるのである。そこに愛の交流がある。 真実を語るなかれ、真実自らが語る。
2006年01月26日
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今日の夢は、また忘れてしまった! で、例の如く、昨日の寝る前のことについて述べたいと思うのだが、昨日寝る前に、オーラの泉をみた。スピリチャルカウンセラーの江原啓之さんの存在は、1年前から、著書等で知った。 私は神秘学を独学している身で、霊能者ではないので、江原さんがおっしゃっていることを、霊視で確認することはできないが、学んでいる神秘学でいわれているところとは、考えがほぼ一致しているように思える。 神秘学でいう、江原さんの霊能は、月領域のものと推察される感じがする。江原さんもおっしゃっているように、霊界の上に神界があり、それには、月領域を超えて、金星、水星、太陽まで進む必要があると、神秘学ではいわれている。 そこまでいかなくとも、江原さんの月領域の霊能で、人類は充分、学びを受けることができるだろうし、現に精神的学びを、カウンセルによりうけている人がいるわけだろう。 番組もさながら、いま、「江原啓之への質問状」という本も買って読んでいる。それを読むと、江原さんの忍耐強さに感心させられる。質問者の下らない質問によく応えているように思えた。ああいう下らない質問に、マトモに応えていると、自分も下らなくなるような感じがして、普通なら嫌になるものだろう。 とにかく、現代の物質主義的価値観には、ほとほと、呆れてしまうばかりである。これは19世紀のイタリアの唯物論からはじまっていて、知識先行知性至上主義に発展し、現代の物質主義、外的価値観に至っている。 もう、毎日、気の利かない、しゃべるだけストレスのたまる、思ったことそのままのエゴイスト的発言で、世の中が満ちているのがその証拠だろう。世の中、評論家ばかりである。そんなに評論したいのなら、実際、自分でやってみれば一目瞭然だろう。 評論する輩にいいたい。なぜ、その人がその経緯に至ったのかという視点を加味せよと! 岡目八目、打つ手がわかる 他人をあれこれ批判することなど幼稚園児でもできることだ! あなただって、その立場に立たされたら、そうしていたのではないか?と、立場にも立たずして、分かったことをいうな!と。 批評家先生にはいいたい。 勝海舟はだから、学者は使えないと、平然といってのけた! モノの道理の奥には呼吸というものがあると言っているからである。これは何より体験してみなけりゃ、わからないことである。だから机上の空論ばかし、学者は述べ、社会は混乱する。 そこには、外見と中身は全く違うという視点すら欠けている。 現経済大臣は学者だが、経済混迷しているだろう。米国も学者ばかりで、もはや世界の嫌われ者ナンバーワンである。米国の場合は、まだ学者同士で牽制のし合いがあり、理性がある程度ブレーキをかけていたが、ブッシュが出てきて、一気に弾けた感がある。 人間、その立場に立たされてみなければわからないことが多々あるだろう。それを加味せずに大上段から他を否定する。 つまり、世の中、思いやりのない言葉に溢れている。 今日、職場で、風邪引いて帰ってきたら、いきなし、妹に、「うつすな」といわれた。「おいおい、俺だって、うつりたくてうつったわけじゃないんだよ」といったが、うつったお前が悪いという。 確かに、風邪にうつるのには、油断があったかもしれないが、それを今更、非難してもはじまらないだろうと思ったが、そんなことはいえるはずもない。 日本人には、気遣いというか、相手の気持ちを推し量る精神性を、失った感じがした。これも偏差値教育の弊害のように思えてならない。 だから、私は、この際、人間性の再教育を、提言したい。そして、昨日、書店で買った、私の尊敬する東洋哲学者の安岡正篤先生の「王陽明」という本の一読、多読を、お勧めしたい。 そこにはこう書かれている。 「モノが栄えて、こころが滅ぶ」と、 だから、私はいいたい。 「多言多くは、有行無し」と、 まず、行為してみろ!と、その人の立場と合一してみろ!! それをもせずして、人間を知るなんて、人間は、モノではないんだぞ! 私には、魂の悲鳴が聞こえてならない。 キリストは、姦淫を行った女性が、前に出され、石をぶつけるべきかと、問われたとき、「これまで罪を犯したことのないものだけが、石を投げよ」といった。これまで同じ人間として生きてきて、なんの罪も行わなかったもののみが、はじめて、他者を裁くことができるのだ。 つまり、他を裁くなかれ、他の罪により自らの法の精神を問え! 法の精神こそが、法に優先するものなのだ! 他の罪は、自らの赦しのなかにある。そこに罪への理解があるといえるのではないだろうか? 思いやりのない学者よりも、思いやりのある賢者になるべきであろう。 知恵でとどまるのではなく、愛へと発展させるべきなのではないか? 人間が人間であるのは、神々の知恵を、愛へと発展させることができるからではないだろうか? そのために生きる舞台が用意されているのではないのか?
2006年01月26日
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前回まで、善を行うための5つの心の修行の1~3までの、自由な思考の訓練からはじまり、自主的な意志の訓練、そして、平静を保つ訓練を述べ、こころに、明鏡止水をもたらす準備ができた。誰でも真剣に行えば、3ヶ月間で、実行できるというわけだ。 勝海舟も、剣術師匠の島田虎之助にいわれ、真夜中に、自然のなかで座禅を組むことにより、この明鏡止水のこころの準備を会得したと、氷川清話に語っているところだ。 では、4つめを以下に述べる。 4.批判の放棄と肯定的態度 神秘学では、4ヶ月目には、「肯定的な態度」の練習を始めるべきだと説く。あらゆる経験、存在、事物に対して、それらの善いところ、優れたところ、美しいところを探し出す練習が必要だという。 キリストのペルシャ伝説がその有名なものだという。 キリストが弟子たちとともに歩いていると、道端に腐敗した犬の死体を見た。弟子たちは皆、嫌な光景から目を背けた。ただキリストだけが立ち止まって、感慨深く、その犬をみつめ、「なんて美しい歯だろう」と言ったという。他の者が皆、醜いもの、嫌なものをみたのに対し、キリストは美しいものを探したのだという。 このように、あらゆる存在のなかに肯定的なものを探そうと努めなくてはならないという。そうすると、醜い覆いの下に美しいものが隠されていたり、罪悪の覆いの下に善が隠されていたり、狂気の覆いの下に神秘の心魂が隠されているのを、認めるようになるという。 これらは、批判の放棄と関係しているという。 しかし、白いものを黒いといい、黒いものを白いと言うかのように理解してはいけないという。このように単に個人から発するものではなくて、愛情をもって、見知らぬ現象や存在のなかに、自己移入してみることをいう。 虎穴に入らずんば虎子を得ず。 そして、「この人は、どのようにしてこうなったのか。どのようにして、こうするにいたったのか」と思ってみることだという。 このような見方をすると、不完全なものを単に非難したり批判したりするよりも、その人を助けようと努めるようになるという。 生活状況に対して異議を唱えたり、人々を非難して裁くことを、この練習中はやめる必要があるという。そのような状態にあると、こころの進歩は望めないので、早急に要求してはならないという。進歩は一定の状況下でのみ可能なので、あくまでも忍耐が肝要だという。 1ヶ月間、あらゆる経験に際して、肯定的な側面に意識的に目を向けるようにする必要があるという。そうすると、自分の表皮が透明になって、以前には全く注意しなかった、秘密の精妙な経過にこころが開かれるような感情が生じるという。 精妙な事柄に対する不注意を克服することが大事で、そのような感情が「浄福」のごとくこころのなかで作用するのに気づいたら、思考のなかで、この感情を心臓に導き、そこから両目に流れさせ、自分の前及び周囲の空間に流そうとするとよいという。 3の明鏡止水の心の準備が、手足や頭にむかっているのを、肯定的態度を加え、再び心臓に呼び戻し、心臓から両目、周囲の空間へと、自分の肯定的態度を広げていくことを意味する。 そうすることによって、空間と内密な関係を得ることができるという。自分が自分を超えて、成長するかのようだという。自分の周囲の一部を自分自身に属するもののように考察できるという。 この練習には高度の集中力が必要だという。何よりもこころのなかに情念や激情、荒れ狂ったものがあると、明鏡止水の準備は愚か、肯定的態度は破壊されてしまうからであるという。勿論、この4ヶ月目の間にも1から3の訓練を継続しながら行うことが必要だという。 太古や、ギリシャ時代は、人は霊がみれたので、このような、自分の肯定的態度から、周囲の空間との調和、協調を生じるこのこころの現象を、4つの自然霊(妖精)を用いて解釈した。 4つの自然霊は、アリストテレスにより4大元素霊と名づけられたもので、土、水、風、火の4つの妖精のことでもある。妖精は、出自は天使より生まれているが、非常に個性、多様性に富んで自然を形成しているといわれる。勿論、人間よりも高度な知識をもち、非常に賢いといわれている。とくに、土の精などは、人間をある意味馬鹿にしているという。人間が何も知らないまるで幼児のようだと嘲っているぐらいだという。 自然霊はあまりに賢いので、人間をとるに足らない存在だと思う節があるので、自分の本分に応じた仕事である、自然を形成することを放棄して、なかには悪霊になり、人間にちょっかいを出すものもいるという。そのような分をわきまえない妖精が、他にちょっかいを出して、ウイルスや寄生虫や毒をつくり出しているという。 霊の世界は、現世よりも、物凄く多様であるという。河童のような生き物もいるという。しばしば、現世でよくないことをし、死ぬと、他からみると、その人がこのような生き物に囲まれているという。本人の魂が、いわば、懺悔のように、自らがその生き物を呼び込むのだという。ここら辺は、私も勉強不足なので、実際のところよくは知らない。ともかくも、悪いことをすれば必ずその報いを受けるのは真実のようである。 いわば、4の肯定的態度は、周囲に肯定的なこれらの妖精を呼ぶことを意味するようだ。生物は、自らの適した生育環境を求め、そこに定住することを好むようだ。 類は友を呼ぶということだろう。 だからして、明鏡止水の肯定的な態度をもつ人物には、それを慕って、自然霊もお手伝いしに、やってくるのである。その方がその霊たちも仕事をし甲斐があるからであろう。仕事そのものが存在そのものを、肯定的になさしめているので、やればやるほど、居心地がよくなり、相乗効果を生むわけだろう。 神様の働きは皆このような自主的犠牲の精神であるようだ! 妖精たちは、いわば天使(神さまの一番下の階級)の下に使える存在なので、神様を慕っているわけなのである。 あまりくだくだと述べると、ファンタジーで、非現実的でとてもついていけないといわれるのでここらへんでやめておく。しかし、陰陽師もそうだが、日本の古くの時代から、これら妖精使いの話は伝説となっている。 要するに、修行とは、なんのことはなく、精神を高めること。邪心をなくすこと。当たり前のことだが、それゆえになかなか怠惰なこころがもたげ、真剣にやり難いことなのである。 取るに足らないことほど、やる気が起こらないものはなく、欲望や衝動ほど、抑えがたいものはないといえるだろう。 無心こそ最も成り難し ローマは一日にしてならずや 最後の5つ目は勿体ぶって次回に譲りたい。
2006年01月25日
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今日の夢は、地獄巡りだった。その地獄とは、江戸時代のどこかの街道だった感じで、妖怪がうようよしていて、役人風の取締りの妖怪がくると、皆が、歩くのではなく、ピョンピョン跳ねるようにして歩かないと、その役人に捕まり、拷問にかけられるというようなものだった。 運良く、私は、ピョンピョン跳ねて難を逃れた風だった。それしか覚えていない。それにしてもそこが地獄だというのは起きてからの印象だ。予知夢だと嫌だな。職場で、気の利いた癒しでも期待して、早速そのことをいったら、「それ予知夢じゃないの」と、期待ハズレの嫌な事を言われ、言わなきゃよかったと非常に後悔した! しまった、世の中、期待しちゃいけないよ!。 期待していつも損しているギャンブルの経験を生かしていないなと、更に、落ち込んだ今日一日だった! 渡る世間は鬼ばかしの世の中だ! ひょっとして、この世が地獄で、夢の中が極楽だったのかも? 今年の冬は極寒の厳しさだ! 身に染み入るね、こりゃ。
2006年01月25日
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ブッシュ米国大統領は、日本に牛肉のよさを知らしめるといっているという。 それなら、我々日本人は、「キリストが、人はパンのみに生きるにあらず」といった意味を教えたいと思う。 どうやら、ブッシュの頭は、牛肉だけしか詰まっていないようだ! 米国人の人命を大量殺戮するばかりか、牛の命をも大量殺戮する気らしい。 肉食の意味をいま教えてあげよう。 それは我儘でエゴイストなブッシュ大統領そのものだということを!
2006年01月24日
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前回は、善を行うための5つの心の修行の1の自由な思考の訓練を述べた。では、2つ目にいきたい。 2.自発的な意志の訓練 約1ヶ月、1の自由な思考の訓練を行ったら、通常の生活では決して行わないような行為を、考え出し、その行為を毎日行うように訓練するのがよいという。毎日、可能な限り長い時間をかけて遂行される行為を選ぶとよいという。 つまり、無意味な行為を、自分の義務として試みることだという。 例えば、一日の決まった時間に、買ってきた花に水をやり、しばらくたったら、その行為に、第2の行為、第3の行為と順に付け加え、実行可能なだけ、義務を付け加えていき、この練習を1ヶ月続けるのがよいという。 この意志の訓練を行いながら、同時に、1の自由な思考の訓練も続けるべきだという。 このような意志の訓練を通して、自発的な行為を行っていると、内的な活動衝動という感情が、こころのなかで自覚され、この感情が、自分の体にも注がれ、頭から心臓へと流れていくという。 1の、自由な思考から、安定と確実さが心臓から頭にもたらされ、今度はそれに、自発的な意志が加わり、頭から再び心臓に流れる循環を生み出すという。 つまり、こころの修行とは、こころにより、身体の循環をコントロールすることにあるようだ! 心の修行の3つ目は、以下であるという。 3.内的な安らぎ、平静さの訓練 3ヶ月目は、楽しみと苦悩、喜びと苦痛に直面して生じる動揺に対して、平静でいるという訓練だという。 「天に昇るような歓喜と死ぬほどの憂愁」に代わって、冷静な気分を保つべきであるという。 どんな状況でも、取り乱さないようにする。これは、仏教の奥義にもあるようだ。不動心と呼ばれているものだろう。 神秘学では、この訓練により、浄化された心魂の特性が現れるという。何よりも、繊細な注意力によって、身体のなかに内的な安らぎを感じるという。 その安らぎを、心臓から、両手、両足、そして頭に輝かせるようにするのがよいという。毎日、少なくとも一度は、この内的安らぎをこころに呼び出して、その安らぎを心臓から流し出してみるとよいという。 1で自由な思想から、安定と確実さが心臓から頭にいき、2で、自主的な意志が加わり、頭から心臓にいき、3で、平静さが加わり、心臓から、手足、頭に再び巡らせるようにするということだろう。 1から3までの修練で、東洋哲学でいう「明鏡止水」のこころの状態ができあがることをいうのだろう。 「明鏡止水」とは、読んで字の如く、水がまるで止まっているかのように澄んでいて、鏡のように明るさをうつしだしている様のことである。明るい鏡は、まるで止まった水のようでもあるとも読める。 神秘学では、人体は、神をうつす鏡であるとされる。ここでいう神とは、神からいただいた自我、「わたし」と認識するものであるとされる。つまり、我々は、神様から、「わたし」という概念を戴き、我々人間が、それを元にして、人体を通して行為することにより、そっくりそのまま、鏡として、それをうつし返すのである。 もっと要約して、簡単に述べると、あまり例えがよくないが、「わたし」という元金を、神様からいただいて、それに何か善なる行為を、付け加え、「わたし」から派生する利子をつけて、神様に、その鏡として、返すということを表している。善なる行為は、金には換算できない。金の輝きのオーラを表す。 この考えは、古インドのヴィーダ哲学にあるもので、そこでは、アートマを、人間は、神から戴き、人間がアートマを元に、何かをなして、ブラフマンとして、返すという。その際に、アートマとブラフマンがなるべく同じであることが望ましいとされる。つまり、上の例えでいうと、利子がゼロであることが、最も神様の意志に沿うということである。 だから、多くの宗教では、利子をとってはいけないことになっている。もともと、神様からいただいたものだから、そっくりそのまま返すのが、筋だというわけなのである。 イスラム教はこれに最も忠実であるし、キリストも、神々の神殿で、商売をしてはならないと、利子のみならず、そもそも金貸し業を禁じたのである。キリストも一文無しだったし、お釈迦さまも、乞食同様に無一文になった。 我々は、神様からいただいた人体を、そっくりそのまま、浪費せずに、うまれたときそのままの形で返却しなければならない。勿論、肉体のことではない。それは生まれたときは、肉体として与えられるが、その肉体を克服して、魂に、その肉体をそっくりそのままうつしとれということを言っている。 これは、カルマを成就せよといっているのである。 汝が克服すべきことは、肉に書かれている。それを、肉からうつしとって、血を克服しろ! 汝とは何かを知れ! ヘビが古い皮を脱ぐように、脱皮しろというのである。 魂はこのようなカルマの輪廻転生を続けながら、実際、脱皮するのであるという。 トカゲは、一生のうちに、尻尾を再生するが、人間は、次の転生で克服されるのである。 蝶の一生のうちの変態は、人間の魂の何年かの輪廻転生を表すという。 だから、ヘビや蝶は、古代では、輪廻転生の象徴だったという。 またまた、4と5は次回に譲りたい。
2006年01月24日
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今日の夢は、スマップと一緒になんかしている夢だった。ホリエモンが世間を賑わせているなか、なんでスマップなんだろ?という思いがある。内容は、忘れてしまった。 連日、ホリエモンの逮捕報道が巷を賑わせている。タレント以上の注目度満開である。で、本業は乗っ取り屋だから、世の中、不思議である。 恐らく、他人の不幸は、わが身の幸福というような庶民が多いのだろうね? 対岸の火事でいられるのは、恐らく、日本人が、国なんかよりも、自分のことで、精一杯なんだろうね。とにかく、自分だけよければいい。自分だけ儲ければいい。みんな、自分の殻に暮らすエゴイストばかりだ! ニートのことを非難できないよ。 人間が優れているのは、自分を乗り越えて、他を認識できることにあると思う。 キリストは、隣人愛を説いた! 汝の隣人を愛せ! 汝の敵を愛せ! 一方の頬を打たれたら、他方を差し出せ! 他を認識することで、自らを認識できるからだ! 他に愛を捧ぐことで、自らの愛に気がつくのだ! ホリエモンはまだまだ若い。世の中、カネじゃないってことが身に染みたはずだろう。所詮、カネの力など、タカが知れているのだ! ホリエモンは、言っていることが、全てウソであったことを、世間的に示してくれた反面教師だったということだろう。 自分のエゴをカネの力で通そうとしても、自分に返ってくるだけなのだ! 少し、理性のある苦難を乗り越えた体験者ならば、いくら優良企業の社長で、カリスマ性があろうと、あの若者の言った言葉が、ウソで塗り固められたものだとわかっていたはずだろう。同じくそれを担ぎ上げたこの国の政治家たちも、同罪だろう。 人生をカネで解決できるなんて、浅はかな考えは葬った方がいい。 人間にはこころがある。精神がある。理性がある。そして、神の言葉がある。 人生の目的は、自分のエゴをいかに無くすかにあるのだろうね。戦う相手は自分の中にあるのだ!
2006年01月24日
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神秘学では、普通の道徳を良心的に満たすだけでは不十分であり、また、よい人だと思われたいから、善良であろうとするなら、それは利己主義であると教える。神秘学の善への志向は、以下のようにはっきりしたものであるという。 善が進化を導き、悪が進化の妨げとなることを認識するので、善い事を行おうとするものである。つまり、善が人類を進化に導くことを信じるものである。 進化の善に対する、悪の外的な妨害や内的な妨害があるので、それを取り除かないといけないと教える。しかも、外から、人に善の力を与えることはできず、その人のなかにすでに存在しているものを発展させることのみが善の力となりえるという。 そのための5つのこころの修行があるという。 1.自由な思考のための、思考の訓練 完全に明瞭な思考を身に着けるために、外的な状況、職業、伝統、社会状況、民族性、業務などが、思考に影響を与え、思考内容の揺らぎを与えることから、離れる必要があるという。 そのために、1日5分間でも、全く自由な意志によって、通常の日常的な思考内容を、こころから取り除き、自分の発意により、思考内容を自分のこころの中心にすえ、思考の主導権を握ることが大切だという。 はじめは、なるべく無意味な思考内容を選ぶのがよいという。例えば、ナポレオンよりも、一本のピンがよく、そこから自分自身の発意によって、その思考内容と結びつくものを、事実に即して並べていく、思考の訓練をするとよいという。この練習を毎日、少なくとも一ヶ月間やり、新しい思考内容に取り組んでもいいし、一つの思考内容を何日も取り組むのもよいという。 この訓練の終わりに、自らのこころに注意をむけ、そこに見出される安定と確実さの感情を、意識化し、脳と脊髄に思いをむけ、安定と確実さをそこに注ぎこむのがよいという。 つまり、自由な意志(全身)からなる自由な思考(頭)から、こころ(心臓)のなかに、安定と確実さの感情を見出し、意識化して、それを脳と脊髄に、注ぎ込むのである。その行為によって、脳や脊髄が、自由な意志からなる自由な思考を行うことにより、心臓に生じる安定と確かさの、恩恵を受け、ますます、脳や脊髄が、自由な思考を行うように発展させられるようになる。そうすると、心臓はますます安定し確実性を増し、脳の神経系と心臓の律動系が、連動して、切磋琢磨し、自由と安定を発展的に獲得していくようになる。 神経系が自由な思想を身に着けると、その背後の神経をつくる魂から、より輝く内的な光を、神経は受け取るようになる。神秘学では、思考は神々のものであり、宇宙の至るところにあり、神々の思考は完全なものだと考えている。人間が思考できるのは、神々が思考を宇宙につくっておいたからであるとされる。つまり、人間は、神々の思考を鏡のように、部分的に映しているにすぎないとするのである。 長くなったので、2つ目の心の修行は次回に譲りたい。
2006年01月23日
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今日の夢は、やっぱし、忘れてしまった! どうも、最近、夢の覚えがよくない。で、例のごとく、寝る前のことを書こうと思ったが、とくにきわだったことがなかったので、それもやめて、確か2,3日前にみたTV、まぐろの一本釣りの漁師のドキュメント番組の感想を書くことにしたいぞ! なんだか、久しぶりに物凄く、感動する番組だった。漁師にも色々なドラマがあることが実感されるものだった。あのような過酷な環境で、マグロを釣りあげていることを知ると、一本釣りのマグロを食べるときには、海の男たちの生活をかけた熱い思いが詰まっていると思って、大切に食せねばいけないと、思わせるものだった。 どうせ、一本釣りのような高級まぐろは、私のような、貧乏サラリーマンには、縁がないだろうが、せいぜい、養殖もん、もしくは外国輸入もんしか食ってないだろうが… というようなことをいってしまっては、おしまいなので、言わなかったことにして続ける。 そのドキュメントには、3人の海のオットコたちが出ていた。1人目は、近代的で高性能なソナーをつけた船で、夫婦で、連携して、マグロをどんどんつりあげていく好調な漁師の物語。 2人目は、昔は、夫婦でやっていたが、妻ががんで亡くなり、自らも心臓病に罹りながら、それでも男の意地で、亡き妻のマフラーをしながら、ソナーの魚影を追うが、さすがに、高齢で身体が衰え、船の操作で、まぐろの群れに、ついていけず、それでも、ひたすら、まぐろをしとめることに全力をふりしぼる、執念の海の男のドラマ。 3人目は、離婚し、男手一人で、朝早く起きて、息子の弁当をつくりながら、漁に出て、ここ3年、ソナーをつけなかったので、まぐろを釣ることができずにいたが、ついに決心をして、親名義で借金をし、退路を断って、一発逆転勝負に出、再生をかける海の男の熱き勝負。 まぐろの一本釣りにあれほどの執念をかける海の男たちが、まさしく、まぶしく輝いてみえた。あんなに寒い、下手すると、船ごと命をも失ってしまうような、かくも過酷な自然のなか、ただ、ただ、マグロの群れを追い、しとめることを夢見、人間の何倍もの力を秘めた荒波と戦う。 2人目の男が、心臓病の通院で、餌のイカが確保できずに、疑似餌を使った、なんとかマグロを釣り上げたときは、過酷な自然が、ときたまみせるやさしさを感じさせ、涙が出た。そして、2人目の男は、3人目の親友であり、早速、友情からマグロをもって、叱咤激励にいく、3人目が、クライマックスで、マグロをしとめたときは、なんとも言葉に出せないような、表現できない感動に襲われた。 他にもいろいろなこころの交流があったのだが、巧く説明できない。とにかく、海には、神々がすんでいる。絶対、神様は存在するのだ!と実感させるクライマックスだった。フィクションよりもやはりノンフィクションの方が奥深いと感じさせる番組だった!
2006年01月23日
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神秘学によると、テラピスト(セラピスト)という名称は、アフリカのテラペウタイを彷彿とさせるという。それは、キリスト教が発生した地方では、エッセネ派教団と呼ばれていたという。 エッセネ派教団は、精神的な手段により、物質的な科学と結びついたかたちで、人々を治療したという。神秘学によると、それは次のゲーテの言葉に秘密があるという。 (何を)と考えるよりも、(いかに)と考えよ 神秘学では、知恵は単なる科学ではなく、知恵のなかに、科学を含んでいなければならないと教える。精神が本質であり、物質はその表れであると考えるのである。 単に法則を知っているのが科学者、いつでも知識から何かを成し遂げることができるのが賢者である。だから、上述のゲーテの言葉は以下のようになる。 科学者になるよりも、賢者になれ 法則を参照するのではなく、法則と一体化せよ ゲーテは、個々の植物を正確に考察して、「原植物」という理念、イメージをつくりだしたという。この原植物から、人間は、まだ存在していない無数の植物を発明できるという。 このように、賢者のなかでは、法則は個々のものから解放されて、永遠のなかに生きるようになるという。 このような理念、精神的イメ-ジは、人間を健康にするという。この生命と色彩と音響を有する精神的イメージは、知恵と呼ばれ、人生の薬となるという。最初は間違っていても、我々を導く聖霊により、訂正されていくという。 パラケルススは、このような精神的イメージ、いわゆる知恵を身につけたという。パラケルススは、植物のなかにある生命の法則を知るのではなく、植物の生命と一体化したので、植物が自らを、パラケルススに語ったという。植物は知恵とは何かを、語ったという。 神秘学では、動物は、人間より賢者であり、本能のなかに、知恵を有しているとされる。それは動物が、集合体で、自我を有する、いわゆる集合魂の存在で、その集合魂、霊は、霊界にあるとされる。動物は、物質界の背後にある霊界に、その集合体の自我を有するので、人間よりも、本能のなかに、知恵を有しているわけなのである。動物の天災予知能力は、これを意味している。 人間もかって、このような動物と同じ集合魂の存在だったが、神々から独立し、原罪のため、自由になるために、物質界に、自我が下降し、個人々のなかに、自我を有するようになった。そのために、霊界に確固とした基盤を失い、物質界のなかで、不確かさ、試み、選択、探求、手探りの連続の生活を送るようになった。間違いを犯すというのは、自由でいられることでもある。 動物は、霊界に自我を有しているために、何が自分にとって治療的かを、本能的な直観で、知っているという。パラケルススは、似たような方法で、植物から、その治癒力を認識した。 知恵がイマジネーションになるとき、植物自らが、何の病気に効くのかを語るという。 植物の生命生育プロセスは、人間のそのプロセスと逆であるからである。植物と合一することにより明らかになる。 神秘学では、人間は自我、アストラル体、エーテル体、肉体の4つの体からなるとされる。知恵は自我から発する。通常の知識は自我からアストラル体までしか浸透しないが、知恵が、イマジネーションになるとき、エーテル体にまで作用するという。 これはしばしば、プラセボ(擬似体験)のような効果で確かめられることであるという。催眠術もこの効果であるという。 昔、ある療養所で、普通のパンを丸めてつくった丸薬を、睡眠薬と称し、売っていたという。ある婦人が、毎晩この丸薬を飲んでいて、この丸薬を飲むとすぐに眠ったという。ある晩、彼女は自殺しようとして、その丸薬を大量に飲んだという。驚くことに、彼女はその丸薬で、瀕死の容体に陥ったという。 我々のつくるイメージは、エーテル体に刻印されるという。 これが、キリストがいった「信じるものは救われる」という意味であろう。 神々を信じるものは、そのイメージが、エーテル体に刻印されるのであろう。 プラトンは、「すべての背後には、永遠のイデアが存在する」といったが、それは上記のような、知恵のイメージ化であり、霊である。 この知恵は、愛の種であり、そのような知恵を有する賢者には、愛の力を手足に流すという。 キリストは最高の知恵者であり、治療家でもあった。 誰かが、脚を折って道端に倒れているとき、愛情に満ちた人々がその周囲に立っていても、その人を助けることはできない。しかし、骨折の治療法を知っている医者がやってきて、知恵によって、同情を行為へと移すことができると、骨を折った人は助けられる。 物事を認識し、何かをできる能力を持った賢者であることが、人を助けるために必要だという。 知恵は愛の母である。かって賢明な存在者たちが、知恵を注ぎ出したので、世界には常に知恵が存在するという。知恵は頂点に至ると、全てを包括する愛となるという。 神秘学では、キリストという愛は、治療する霊である聖霊から生まれたとされるという。 知識を語るのではなく、知恵と一体化し、愛を身につけよ! 真実を語るなかれ、真実は自らが語る。 信じるものは救われる。
2006年01月22日
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今日の夢は、忘れてしまった! 最近、忘れがちな夢だが、あるときにふっと思い出すことがある。昨日も、ふとTVをみていたら、お笑いのアンガールズが出ていたのをみて、以前みた夢を思い出した! その夢は、アンガールズの山根に似ている友人と、なぜか、喫茶店というかファーストフードというかそのようなところで、バイトを一緒にする夢だったのである。その夢をみている自分は、友人だか、アンガールズの山根だか、どちらか判別できなかったようであった。なんか日常の会話をしていたような気がする。そんなことしか覚えていない。 最近、あまりに下らない報道ばかりなので、とくにTVの報道番組はみないことにしていたが、ホリエモン騒動で、ついうっかり、今日、みてしまった! 相変わらず、下らない議論をしている。例の如く、「大変だ! 大変だ!!」のオンパレードだった。 サンプロと呼ばれる田原の番組は、相変わらず低俗だった! この番組をみていて、「ていへんだ! ていへんだ!! 親分」と銭型平次に事件を知らせにくる岡引きのハチを思い出した! せいぜい、騒ぐがいいさ、もう日本はなくなっているんだからね。 大体、「男たちの大和」とか、昨今、日本の昔を懐かしむものばかりが、やられているが、それは日本がすでになくなりつつあるということを、事実上示していることでもあると思う。 ここ10年を振り返れば、総理大臣の小渕が亡くなってから、日本は一気に悪化したといえるだろう。その前のバブル期で、日本精神は完全にイカレてしまった。儲かればなんでもいい。バブルの典型は、地上げ屋の存在だった! 開発という名の下に、慣れ親しんだ土地は奪われ、高値で売られ、土地がモノとして売られた。土地相場を煽り、高値で売って、カネを手に入れる。そのカネで、海外の土地を、投機的に買い捲った! それが、海外の怒りを買い。日本人はエコノミックアニマルと罵られ、それでも、日本人は、欧米人(WASP)と同じことをしているだけだ!と開き直った。確かに、欧米人と同じことをしているのだが、日本人は欧米人ではないのである。日本人の差別発言が世を賑わしたのもこの頃である。それが不評を買い。日本は米国から睨まれた! そして、日本潰しのバッシングが起こり、日本のバブルは崩壊した!! 第2の敗戦である。 第1の敗戦は、西洋帝国植民地主義の導入にあった。帝国植民地主義は、モノの強奪にある。自分たちだけが、鉱物から、モノをつくれる技能を有するという名目で、土地に埋まった鉱物を、採掘し、土地を奪ったのである。 そして、今度は、第3の敗戦を迎えているといえるだろう。ホリエモンは、現代の地上げ屋である。やり口は、土地が株に変わっただけである。 つまりは、これらの、人間を、モノとして取り扱う、唯物論的な思想は、19世紀からはじまったのである。ただ、それが、時間と場所を変えて、起こっているにすぎない。 人間は何度も同じ間違いを犯す。これは人間に反省する態度が欠けていることを示すものだろう。 もう、いい加減に気づいて、自らやめてほしいものだ! そして、日本人は、伝統あるべき元の精神的な和の調和、平和な社会を根本から作り直すべきであると思う。ただし、民族主義に走ることなしに! 人間はその土地の風土からなるのであり、その風土をなくして、人間はない。日本列島から日本人が生まれる。日本人は日本列島の自然を守ればよいだけなのだ! でしゃばって、世界に出る必要などない。日本人は日本人らしく生きる。このことが一番大切なことだと思う。日本人らしさが、WASP追随なのは、どう考えてもおかしいだろう。外国かぶれもいい加減にしてほしい。
2006年01月22日
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唯物論で考えると、人間は肉体のみからなるものとされるので、「人間は、食べたものからできている」と考えることができる。そうすると、健康は、食物から、いかに人体の構築への配分を、効率よくするかというメカニズムの機械的なお話になる。 神秘学では、人間は4つの体の、肉体、エーテル体、アストラル体、自我からなるとされるので、上述した考え方をとらない。上述のような唯物論的な考え方だと、物質的な生を味わい尽くすような戦闘的で、攻撃的な人間だけが存在するようになるだろう。 神秘学では、人体は、肉体とエーテル体の構築と、アストラル体と自我の解体からなるとされる。エーテル体は、植物も有しており、エーテル体は、植物の生育からわかるように、水の作用をうけ、いわば光から育成される。植物と人間は、植物が炭酸を吸って酸素を吐き、人間が酸素を吸って、炭酸を吐き出すように、その相反する呼吸からわかるように、逆の生命的な立場にあるとされる。 神秘学では、光は単なる物質ではなく、光のなかに霊的な光があるという。物質的な光を、外的な光とし、霊的な光を、内的な光としているのである。そして、内的な光は不可視のものである。アストラル体は、そのような内的な光を含んだものだとされる。 外的な(物質的な)光は、エーテル体に作用し、有機体を構築するが、内的な(非物質的;霊的)光は、アストラル体に作用し、有機体を解体するといえるという。 アストラル体は、動物も有しているが、動物は、集団(種)で、自我を有していて、人間は個人で自我を有しているところが異なり、自我とアストラル体のその関係から、人間一個人のアストラル体は、動物種全般のアストラル体をあわせ、調和し、ほどよく節度をもった形で表れたものといえるという。 逆説的にいえば、特定の動物種は、人間一個人の特定部分のみが、表出したものであるといえる。 つまり、「動物界は人間の諸特性が拡散した絵図である」という。 人体は、構築と解体からなるが、神秘学では、エーテル体が構築したものを、アストラル体が、解体するときに、人間内部で、意識が生じるとしている。これは、人間が体験を、消化し、分解(解体)し、統合し、知識として象徴(意識)させることで、わかるだろう。 アストラル体の解体により、意識活動が生じるが、その背景には、内的な熱が生じ、内的な光が生じるという。血液等に浸透する内的な熱は、蛋白質の分解により生じ、神経のなかに生起する内的な光は、人体内の経過、脂肪、炭水化物、澱粉、ブドウ糖などにより引き起こされるという。 つまり、このアストラル体の、正しい解体、エーテル体への正しい作用が、健康をつくり、正しい栄養がとれることを意味するものだという。このアストラル体の、エーテル体の正しい解体は、逆の方向で、植物の生育プロセスを継続するものであるという。 植物の最後のプロセスである花が、人間のはじまり(生殖器)にあたり、植物の根が、人間の頭部の脳にあたるという。だから、神秘学では、人間は、植物が逆さまになったものだとされるのである。 ここから菜食の意味が見出せるという。人間は菜食にすると、内的に活動しなければならず、その活動は、アストラル体によるものなので、アストラル体が正しい解体をするように、自我を努力する方向に導くようにするという。 肉食にすると、植物の生育プロセスの逆である、その解体作業が、省かれ、動物性脂肪と、動物のアストラル体を、同時に摂取するので、それを利用するような方向に進み、人体は、自らで作り出す労力を節約し、怠惰で依存的な自我を生み出す要因となってしまうという。 つまり、肉食は、自ら内的に活動する機会を失い、動物のアストラル体を招き入れるので、自我がアストラル体よりも、優位に立つことができなくなるという。つまり、軟弱な堕落した自我、エゴの強いものになるといえる。 ここから、性格が内面的で、瞑想を重んじる民族が、菜食中心であることがわかるだろう。逆に、物質的に生を謳歌しようとする戦闘的な民族が、肉食であることもわかるだろう。 菜食か肉食かによって相対する性格がつくられることがわかる。 仏教が、菜食中心なのは、アストラル体をより発展させて、瞑想し、マナス(霊我)を手に入れんとするためであるだろう。人間の中の内的な光が輝けば輝くほど、いわゆる霊光が増すので、神秘学でいう、アストラル体の正しい解体を促進するように、調整した食事をとることが肝要であることがわかるだろう。 その他、神秘学では、アルコールは、自我の分身を体内に、生じさせ、自我を怠惰にさせてしまうので、よくないとされる。それは、自我が、直接引き起こす行為を、アルコールが代わりに行ってしまうので、そのアルコール代替プロセスが続くと、アルコール依存症になってしまい、自我がその行為から切り離され、怠惰になるのである(肉食のアストラル体への作用と類似)。 コーヒー(のカフェイン)は、人間から、本来の内的活動を奪い、代わりにコーヒーが、代替するようになり、論理的関連、一つの思考への集中力を、コーヒーに委ねることになるという。コーヒーを飲みながら、世間話をすると、何かを完全にこき下ろすまで、一つの対象に思考がとどまるという。それは機知ではなくコーヒーの作用だという。 コーヒー愛好家に、批評家や、唯物論者が多いのは、このせいであろうか?(個人的感想では、コーヒー愛好家は、頭がカタく自説を決して譲らない人が多かったような気がする。調査してみるといいだろう)。コーヒーは、文学を書く小説家には、よいものをもたらすといわれる。 紅茶は、コーヒーとは逆の作用をするという。紅茶の強い作用は、機知ある思考、まばゆい思考を輝かせるが、思考の個々の部分は軽々しいという。紅茶は、思考をバラバラにするので、外交的な飲み物として好まれるという(個人的感想では、女性が外交上手なのは、紅茶のような作用に近いものが、女性のなかにあるのかもしれない)。 ミルクは、アストラル体にはあまり関与しないので、非常に優れた食料だという。肉食をやめ、虚弱なアストラル体に力を与えるのに、ミルクは、有用だという。ときに、ミルクは、人体にとって治癒力をもたらすという。 自分が食べたものの奴隷にならないように、正しい食べ方、つまり、自らの内的意識活動を高める、アストラル体の解体の正しい力を得るべきであり、それが得られないと、人間は、容易に、食べたものからできている存在になるといえる。 人間は、正しく食べないと、食べ物の奴隷となるといえる。 人間は正しく食べないと、地球を破壊する寄生虫となるのだろう。 人間は太陽の子であり、地球の子ではない。 地球の子であるなら、環境破壊など起こらないであろう。 だから、環境破壊を守るためには、人間は正しく食べなければならない。 環境問題は、食糧問題であり、食糧というより食質、つまり、食質問題となり、その解決は、人間が正しく食べることにあるのである。
2006年01月21日
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土日は競馬をするので、競馬のことで頭一杯なのだが、今日の夢は、競馬の夢だった。それは、全く走らないビリッケツばかしの、わが愛(出資)馬が、急に走り出したという夢だった! その夢のありえなさそうな出来事のせいかはわからないが、今日は大雪だ! あましありえないことが起こると、雪が降るという言い伝えのようなもんがあるが、本来の意味は何処から来ているのだろうか? 雪が何故白いのか?と、誰かセットで教えてくれませんか? 夢の話はここまでにして、例のごとく昨日の寝る前の話にするが、昨日は、今年初カラオケしにいった。一時勢いのカラオケブームも、このところは、低迷気味の感がなきにしもあらずだが、少人数カラオケ熱唱組のわらしには、あまし関係ないことでもあるし、空いてていいが、店員も人件費削減なのか、サービスがおち、機械がしょっちゅうトラブルのには、参った。 ちなみに昨日の熱唱レパートリーは以下である 平井堅~ミスチル~トト~ヴァンヘイレン~ストーンズ~クラプトン~シカゴ~REOスピ-ドワゴン~尾崎豊~桑田圭祐~ルパン三世~ワンズ~B'Z~ジプシーキングス オゾンの恋のマイアヒも歌ってみたが、モルドバ語?だったか、何語だったか?は忘れたが、やはり難しく、英語というかローマ字読み発音になってしまった。今考えると、これが何でヒットしたのかわからない。日本語になった2ちゃんねるの猫のプロモがウケたのか? カラオケの目標は、女性歌手の曲で熱唱したいのだが、どうも無理のようだ! 声が続かないぞ…。
2006年01月21日
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今日の夢は、合宿にいったものだった。その内容は忘れてしまった! なので、夢は書けない。例のごとく、寝る前のことを書こうと思うのだが、それも忘れてしまった! うぅ、そういうわけで、今日は書けないぞ!
2006年01月20日
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神秘学によると、人間が服を着る理由は以下の2つにあるとされる。 1.身を守るため 2.装飾するため 人間は、本来太陽の子であり、地球から身を守るために、服を着るという。だから北方の民族は、主に身を守るために服を着たという。 動物は毛が生えているが、それは、動物に太陽の力が作用している証拠であるという。では、なぜ、人間には全身に毛が生えていないのかというと、神秘学では、実は、人間も胎児のときに動物のように毛が生えているのだが、母体に外から作用する太陽の作用が、胎児が成長するにつれ、毛をなくしていくという。 人間は、飼いならされる(母体になじむ)ことによって、毛を失う。 現代人(とくに文明人)が毛が薄いのは、地球に飼いならされた証でもあるという。 南方の民族では、身を守るというよりも、装飾するために、服を着るという。だから、南方の民族は、服を着ることに、人間の精神的意味がこめられているという。 太古の人間は、超感覚的意識を有していたので、神秘学でいう4つの身体のうち、肉体の他の3つの体である、エーテル体、アストラル体、自我(ただし、自我は紀元元年あたりから)を感じることができたという。 ギリシャ人が、裸で生活していたのに、その像の多くに、トーガと呼ばれる布状の衣服を着ているように、また、兜をかぶっているように、表現されたのは、アストラル体と、エーテル体を、鉱物で、表現したものに他ならないという。 だから、ギリシャ人の服は、アストラル体であり、兜は、エーテル体を意味し、表現したものであったという。だから生活は裸のままである。 だんだん、超感覚的感覚、いわば霊視を失うにつれ、人間は、服で誤魔化し、擬態することで、アストラル体、エーテル体を、物質的に模していったという。 古代人の衣装の色彩が豊かなのは、アストラル体の色彩を表現したものだという。つまり、古代人の服は、オーラを模したものなのだ! 古代人は、現代人のように(個人的な)自我を有しておらず、集団で、いわば民族霊のようにして、いわば集団自我を有していたので、それを、兜として表現したという。 つまり、兜はエーテル体であり、集団自我の象徴なのであったという。 集団自我には、鷲様風、獅子様風、雄牛様風、人間様風というものが挙げられたという。兜にはだからこれらの装飾が掲げられているという。 つまり、兜は、自分がどの民族霊の手足となっているのかの、目印を指し示すものだったという。そして、そこから、旗ができたという。旗は、集団で行進するときの、先頭に掲げるものであるという。 つまり、集団そのものが、一つの集合魂の自我である、民族霊という精神的統一性をもって、行進、行動していることを示す役割が、旗なのであるという。例えば、祭壇に向かうときに、このように旗を先頭にして行進し、祭壇に跪いたという。祭壇には、旗に代わる絵が描かれるようになったという。 ここから、騎士団ができあがったという。騎士団は、民族霊を掲げ、それが次第に祖先、先祖優遇に変わり、のちに、騎士たちの城に、先祖の絵を飾る習慣になっていったという。 ペンダントは、古代人が、太陽と心臓の、重要な関係を、示すために、つくったものだという。つまり、金の太陽型のペンダントをつけることで、胸部の心臓と、太陽が重要な関係をもつという意味の装飾なのであるという。勲章は、この名残りだという。また、イギリスのガーター勲章は、膝が思考と重要な関係があるということを示すものの名残りだという。 ベルトも、人間が上下、中央で分かれるという意味を示すために、しめ始められたという。 入れ墨も、このような人体の秘密を示すために入れられたという。入れ墨の場合は、人間が眠っているときに、人体に作用するように、描かれたという。それは実際、眠っているときに心魂の思考に作用するという。 だから、人間が服を着るのは、人間が太陽の子であり、精神を有するもので、それを表現し、装飾するためのものだという。 我々、現代人は燕尾服を着るが、それは、我々現代人が、もはやこのような超感覚的認識力を有していないことを示しているという。精神的に堕落した灰色、いわば黒に近い文明であり、唯物的表現、肉体そのものだけの身体しか認識できない存在であることを、服によって示しているといえるという。 古代人や、ギリシャ人が、現代人をみたら、さぞ、驚くことだろう。 例えば、教会に燕尾服やスーツでくることは、教会を侮辱することになるのだから。現代はアベコベであるといわざるをえないだろう。 色彩のない衣服を着ることは、エーテル体や、アストラル体、自我の存在を否定し、その人間が、もはや精神的でないことを意味するのだから。 つまり、現代の機能性を重視した服装は、人間とはいえない、いわば機械化した、無人間の象徴であるといえるだろう。 例えば、日本の奈良時代、聖徳大使が導入した冠位十二階制度は、下から、黒、白、黄、赤、青、紫と、天上に近づくにつれ、色彩が鮮やかになっていくが、これはオーラの色を髣髴とさせるものであろう。黒は天上人のなかでは下層であり、いわば、現代の政治(庶民)指導者の意味であろう。現代には(神々と交信できる)天上人は存在せず、黒の世界となったことが、服装に表れているといえるのだろう。
2006年01月19日
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最近、スカパーフジチャンネルで、三谷幸喜脚本の田村正和主演の「総理と呼ばないで」というドラマをやっていた。それは、ちょうど、ヒューザーの証人喚問と、タイムリーな最終回の主人公総理の裏金証人喚問とが、ときを同じくして、同じ日に行われた。 ドラマでの総理は、本当は何も知らなかったにも関わらず、部下の責任をとるために、あえて、ウソをついてまでも、自分がワイロを指示し、全ては自分のせいであると潔く、身を退いた。 対して、現実の政治は、責任の所在は不透明、他に責任をなすりつける始末で、挙句の果ては、知らぬ存ぜぬの一点張りで、全く好対照的であった。 ドラマには英雄が存在するが、現実は、英雄よりも悪人だらけといったところだろうか? つまり、ドラマは性善説、世の中は、性悪説といったところなのだろう。 性悪だから、法をつくって統治しようということで、法治国家となったのだが、肝心の素直に、正直に証言を述べると言うことができない人間ばかりなのである。これは「仏をつくって魂入れず」というやつだろう。 ドラマの主人公の総理は、はじめは、我儘で、器量が小さく、下らないダメ人間だが、最後に、誰もが真似できないことをやってのけた。終いよければ全てよしなのであろう。 この逆を、晩節を汚すと言う。 楊貴妃に熱をあげた玄宗皇帝は、前半は、非常になかなかよい皇帝として、評価されたのだが、晩年が、欲望に溺れ、政治をかえりみなくなり、後世では、ダメ皇帝のレッテルとして挙げられる。 徳川慶喜は、将軍となった当初は、連戦負け続けで、あまり評価されないが、大政奉還をして、徳川幕府の時代に終止符をうったことは、近代日本にとっては、非常に重要なものとなった。この大政奉還で、外国の植民地化をともかくも免れ、まがりなりにも独立国家となったからである。 しかし、昭和期になって晩節を汚す指導者が沢山輩出し、それも無意味となった! どんなにダメな指導者でも、唯一つ、退くタイミングを知っていれば、時代の流れが変わり、よい方向に進むといえるのであろう。 能力のないダメな指導者でも、退くことが的確であることにより、国家は救われるのである。能力がないからこそ、退くことにより、流れをかえることができるともいえる。有能な人物にはできない芸当である。これは非常に重要な徳目であることに気がつく。 ダメな指導者はいわば、川の流れの障害物となっていて、川を堰き止め、小さなダムのようなものをつくるのだが、タイミングよく退くことにより、そのダムが川に流れ、その流れが川に勢いを加え、川の流れをかえることができるようなものである。しかし、このタイミングを逸すると、ダムは氾濫し、汚水のように、周囲の土地を蝕むだろう。 だから、ダメな総理でも最後に国を救うことができる。それは退くタイミングを的確にすることなのであろう。 この時期に、このようなドラマがやられたことは非常に意味があるように思えた!
2006年01月19日
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今日の夢は、全く見ず知らずの誰かの葬式と結婚式を同時に開催したところに、招待客としていった変な夢だった。だから、着る衣装に困ったが、葬式風の黒ネクタイと黒スーツで、結婚式にいく変なものだったのである。 最近、ちょっと神経質な出来事があったので、ナーバスになっていた反映かもしれない。このような件があると、親身になってくれる友人が誰だか、よくわかる。やはり、親友あっての自分だとわかる。人生において、かけがえのない、宝といえるものは、良き友人のことだと心底思う今日この頃である。 そういった、自分の中の葬式のような出来事と、真の親友との改めての結婚というような気持ちが、夢の形をとって現れたものだ思われる。 人生なかなか捨てたもんじゃない。
2006年01月19日
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神秘学によると、軽度の物忘れは、生活のなかに不愉快なものをもたらし、この物忘れが、健康に害をもたらすという。 そこで、この物忘れを改善するために、以下のことを提案している。 物忘れで多いのは、物を何処かに置き忘れてしまうことだろう。このような場合は、必ず意識的に物を置く習慣を身に着けることであるという。 例えば、「私はペンをここにおく。その周囲の様子や形や色をイメージして覚えておくことにしよう。」といったものであるという。 自我を自分の行いと結びつけ、しっかりと考え、イメージし、自分の行いのイメージ表像をつくりあげ、自分の行為を、自らの自我から、意志として行ったことを意識することが、記憶力を確かなものにするという。 ものを置くときにこのように思考する習慣が身につくと、それだけで、神秘学のいう、人間の4つの体のうちの、エーテル体の力が呼び起こされるという。エーテル体は、記憶の担い手でもあり、人体の構築に関わるので、このことが、しっかりとした人体を形作ることにつながるという。 神経質の症状を示している人に、このことを試みると、神経質が克服されてくるという。 以上のように、心身を癒す1つめの方法は、以下である。 1.物忘れをなくすために、しっかりとした記憶をもち、何事も意識的に行うことである。 逆に、ウソをついたり、無意識に行為をなすことは、そっくりそのまま身体の構築の虚偽を行うことになる。つまり、神秘学では、ウソをついたり、無意識に行為することは、病を誘発するものとなるとしている。これは、道徳の一つの徳目であろう。 エーテル体の強化のために、自らの書き癖(書体)をかえて、書いてみるのがよいという。筆記の癖は、いわば一筆ごとの痙攣につながるものだという。それは、肉体がエーテル体より優位になり、エーテル体が、肉体を完全に支配できなくなるので、一種の痙攣状態だという。無意識に、書くこと。つまり自動筆記は、エーテル体を弱め、人体の構築を弱めることになり、人体に癖というべき、一種の痙攣を生じるようになるという。 従って、心身を癒す2つ目の方法は、以下であろう。 2.身体上の癖をなくすということになる。 思考のなかで、事物について、通常の経過の順ではなく、逆向きに辿ってみるのも、エーテル体の強化につながるという。例えば、出来事の年代順を、新しい事件から古い事件へと、逆進行に学ぶとよいという。 従って、心身を癒す3つ目の方法は以下である 3.因果を逆向きに思考すること。 4つ目は、自分が行うことを同時に眺めてみることであるという。自分が行うことを、場合によっては別様にも行えるのは、人間に達成可能な、最も大事なことのひとつだという。このことは、エーテル体に対するアストラル体の支配を強め、人体の構築に対する適度な解体を生じ、健康体にさせるといえる。 4.自分の行為を観察し、多様性、自由度をもたせる。 神秘学によると、意志を強める簡単な方法があるという。それは望みを抑えて、実行しないことだという。勿論、望みを実行しないことが害をもたらさない場合である。 望みを満足させれば喜びがもたらされますが、望みが満たされないままでも、とてもよいことがあるという。 「この望みは、いま満たされるべきではない」と言えるものを見い出して、その望みを抑制すると、意志の強化、アストラル体に対する自我の支配の強化につながるという。 これはエゴの抑制につながり、仏教でいう無我の境地に達する道だともいえる。人類の次の進化のステージの霊我(マナス)の獲得は、このアストラル体に対する自我の強化の延長にあるという。そこに自己犠牲行為がみられるからである。 大人が何かを断念するのを、子供が気づくようにし、そのことをはっきりと分かるように断念すると、子供はそれが価値があることだと感じて、無意識に模倣するという。このことが青年教育には必要だと、神秘学は説く。 神秘学では、水は、神々の断念から生まれるものだとされる。水の他を清め、救う力は、この断念にあるという。水はあくまでも謙り、下に流れる。これは、神々が断念した証である。神々の断念による高貴な水が生じる。 5.無我の境地は望みを自主的に断念することにある。 神秘学では、「完全に賛成」、「完全に反対」といえるものは一つもないとされ、全ての事柄に関して、「賛成かつ反対」が成り立つという。つまり、多面的な見方ができるからこそ、「賛成かつ反対」の見方ができるといえ、「完全な賛成」、「完全な反対」は、一面的な見方でしかない証拠でもあるという。 この命題が、人間に求めるものは、「人間が何を思いとどまれるか」であるということなのであるという。つまりは、忍耐する価値を、自らに強いることで、自我が強化され、そのことに意味があるという。 人間は自分が思っているほどよい人間ではない。だから、人生という修行の場を与えられているともいえる。だからこそ、あらゆる人生の場で、過酷な判断をその都度求められ、何を思いとどまれるかで、自我が強化される。 お釈迦さまは、これを苦と説き、人生苦あれば楽あり、いわば苦から無が生まれ、涅槃寂静に至ると説いた。 神秘学では、判断するものは愚か者であるとされる。判断せずに、事象と合一し、事象が語ることに耳を傾けよと説く。 判断するものは物事の一面のみを見ていることに注意せよということなのである。 また、他者に判断を任せるのもただ責任転嫁しているだけでよくないとされる。問題は、判断そのものにあるのではなく、自らの意志の強化、自我のアストラル体に対する強化にあるという。 だから、いくら善いとされていることでも、他者から強制されるのはよくないのである。ましてや感情に左右されたり、好き嫌いで判断するのは、アストラル体への自我の弱さを生じる。このような意志薄弱者は、責任転嫁であり、自然を含む破壊行為に至るとされる。 東洋哲学の人物鑑定法に、困らせてみて、その人が何をしないかを知る方法がある。 現代人は意志薄弱者が多いので、自然破壊が進んでいるといえよう。人生は一度きりではないと仏教は説いている。キリスト教密教でも説いている。従って、以下である。 6.賛成及び反対の両面を捉える。 例えば、これは、ディベートという討論形式のゲームが挙げられるだろう。 7.私たちが下す判断の9割は思いとどまれる。 人を判断することにおいて、自分を度外視して行うことが、自我強化につながり、無我に達する。 判断の9割が思いとどまれるというのは、反感の感情を抑えることにあるという。反感の感情が抑えられれば、親しみを覚え、愛情をあらわすことになり、赦しを与え、許容量が増え、自我の強化につながるという。 罪を憎んで人を憎まずとはこのことであろう。 憎い人がいるのは、その人の憎いと思わせる背景を理解し、その人を理解することにあるといえる。 その憎い人は、あなたの虚弱な自我を強化させるために、天から派遣されたのであるというわけなのだ。今生で、理解できなければ、来世でも、またその人との出会いは続くだろう。それはあなたの無理解を救うために、形をかえた、天からなされる救いの作用なのである。 怨みに報いるに徳をもってす そう考えると、憎い人も自我を強化するチャンスであるということになる。人生はカルマの連続なので、必ず憎いと思う人と出会うようにできているとされる。 つまり、逆説的にいえば、愛情をどれだけ注げたかが、その人の人生の価値なのである。 そして、病気にならない最もいい方法は、生活全体を整えることにあるという。病気というのは生活改善の指標であり、愛を学ぶ機会であり、自我を強化するよい機会なのである。 愛情を自ら生み出せる人は幸いである。 天は自ら助けるものを助ける。 病の治癒も、やはり聖書に行き着くだろう。 人はパンのみに生きるにあらず。
2006年01月18日
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昨日の夢はわずかながら覚えていた。それはプチ馬主の愛(出資)馬の夢だった。自分のいままでに出資した馬に、愛情をどれだけ注いでいるのかというようなものだったように思われる。 考えてみると、当初は、はじめて買った馬券が当たり、競馬というなかば金銭勘定のギャンブル感覚、非日常的な刺激みたいな感覚の延長からのものと、周囲の人の影響で、プチ馬主にいきついたのだが、10年もたってみると、それなりに感慨深いものがある。 成績はとやかくも、当然、大幅の大赤字なのであるが、わずかながらでも競走馬の命を、自分の金で永らえていたと思えば、それなりに、その罪滅ぼしにでもなったと、思えれば、気持ちも安らぐ。 競走馬の多大な命の犠牲の元に、人間のライフスタイルに、競馬という自由な豊かさ、多様性が、得られている。勿論、競走馬育成に関わる人たちの苦労もそこにあるだろう。 馬券を買うときは、自分が勝利者になることを夢見、ただオッズや自分の買い目が当たることにしか、目がいかないが、その背景には、あらゆる多面的事実が隠されているのである。馬の命の他に、馬関係者の人生や生活も関わっている。 長く経験すると、その事実の一端が垣間見えたような気がする。 ただ一時の、僅かながらの勝利者を夢見、レース後、その殆どが敗者で埋め尽くされているギャンブルの世界にも、その敗者の存在が、競走馬の命を支えていると思えば、競馬の世界にもモラルがあることに気がつかされる。 成績いかんに関わらず、どれだけ、自分の出資馬に愛情を注げたか?それが問題であるような気がした。 どれだけ愛情を注いでますか? そんな夢だった!
2006年01月18日
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血液型性格判断は科学的根拠に乏しいといわれる。確かに、性格全てを血液型に負わせるのにも無理があるだろうし、それは遺伝子にも、同時にいえることで、性格全て、精神的な部分を含む、遺伝形態を負わせるのも、同等に無理があるといえよう。 とどのつまり、全て、唯物論で成るのならば、精神はどこから来て、人間は死んだらどうなるか?、生きる意味さえも、暗黙の糧、想像にお任せするしかないだろう。しかし、今度は、その想像を行う部分、唯物論では、脳とされるが、その脳は、あらかじめそのような想像を意図し、構築されているのか?というべき、次なる問題が、次々と止め処なく表出するであろう。 結局のところ、唯物的解釈は、論理に置き換えただけで、その論理の堂々巡りにいきつくでしかないのである。挙句の果てに、その論理は以下のような論法に陥り、事実と矛盾を含むものとなり、論理を駆使するものは、精神衰弱に陥るだろう。 1.犬は動物である。人間も動物である。だから犬は人間である。 2.ある男が、娘連れのバツイチと結婚したが、その女は結婚後、子供を生んで亡くなった。その男は、亡くなった母親の娘と再婚し、子供を生んだが、はじめの子と、今度生まれた子は、どういう関係になるか?を論理的に考えてみる。 これらは、ある事象を、一面的な特徴をもって、記号に置き換えた弊害からくるのである。同じようなことは、量子力学の不確定性関係にもみられる。 位置と速度は独立しているものとして、座標空間を構成する。しかし、量子力学の世界においては、量子の位置が特定できても、今度は速度が特定できず、いわば確率によって予測できるにすぎない。量子自体の大きさをもって、確率分布として広がるのである。今度は、はじめに速度を特定すると、位置が確率分布の量子幅をもって特定できないのである。 これは位置と速度が独立しているにも関わらず、観測依存関係にある。つまり量子そのものを、広がりのない質点(点)で考えるから矛盾なのである。独立座標のなかでは、物体は質点で表記されるが、量子自体が、揺らぎをもった波長の波なのであるから、質点として表記するのには、無理があるのである。 この問題は、座標空間を一種の量子を生むエネルギー演算子空間として、いわば決められたエネルギーをもつ量子の格子(無限直線座標ではなく、階段状直線座標)座標空間として解釈することで、現象論的な対応モデルを作成している。だからして、いまだ根本解決には至っていないし、第一、エネルギーがどこからくるのかもわかっていない。ただ、そのような量子を生む、真空のエネルギーがあるとして、数式化されるにすぎない。 話がかなり逸れ、脱線してしまったが、要するに、唯物論で、記号を用いて、論理を駆使してみても、一般原理は得られずに、特定解しかみつからないのであろうという意味であり、結局のところ、確率的にいったからといって、事象を予測したことにはならないし、ましてや真実を言い表しているわけでもない。 ただ、真実の断片的な、物質的一面を捉えたにすぎないのである。 それで、話を元に戻すと、真実の一面にすぎないという意味において、血液型性格診断と、同じことなのである。なんらかの確率的、統計的予測ができるということなのである。しかし、結局は90%当たっていると予測しても、事象は10%の確からしさで起こることもあるから、さも、確からしさをいったようで、何も言っていない、ただこれまでの経緯を振り返ってみて、90%の確率というのは、その事象が多かったということなのであり、未来に関しては、その行為を果てしなく続けると、事象の全体は1になるといっているにすぎない。 これはつまり、1という神から、部分は出て、また、1という神にかえっていくといっている神学論とも同等であろう。 だから、あながち血液型診断を馬鹿にできるものではないのである。精神的な直観がそこに働くからである。あの人は何々だという体験がそれを正当化している。騙されたら、誰だっていい気持ちはしない。例外で、いい気持ちがする人もいるかもしれないが、だからといって、その人のその嫌な気持ちが、体験から消えることはない。体験は現に存在して、感情となっているのだから。これこそ、唯物論が土台とする観測論であり、正当基盤なのである。 つまり科学が、論理的に証明するからといって、精神を否定することはできないのである。精神は感じるか感じないかが問題とされる。 では、ギリシャ時代の血液型性格判断法なるものを紐解いていきたい。 長たらしい前置きを書き、血液型性格判断法としたが、実は血液型を元にしたものではないことをただし書きする。こういう風に書いたのは、あくまで、現代的な関心を装うためである。なので、現代型の赤血球の抗原型による唯物論的な分類ではないことを断っておく。 神秘学では、何度も書いたが人体は4つの体からなるとしている。 1.肉体 2.エーテル体 3.アストラル体 4.自我 ギリシャ時代の分類法は、このうち、どれかが、他の3つよりも、より支配的に現れていることから、くる4分類の性格、気質のことをいう。 1.肉体が支配的な場合-憂鬱質 土体質 2.エーテル体が支配的な場合-粘液質 水体質 3.アストラル体が支配的な場合-多血質 風体質 4.自我が支配的な場合-胆汁質 火体質である。 憂鬱質は、暗く青色のような性格で、引き算を好むとされる。肉体そのものが外的に主導で、精神部分が肉体を支配できずに、陰鬱な雰囲気をもち、頭を前に垂れて、ひきずるように歩く傾向にある。ちょっとした注意は、暗い気分にあることで、大きく注意すべきところは、狂気に至る危険があるという。考え込む癖があるので、思考を刺激する根菜類を採り過ぎないようにすべきという。 粘液質は、ゆったりした緑色のような性格で足し算を好むとされる。腺組織が主導的で、食べ過ぎに注意すべきという。自分の内面、自分自身だけに関わり、他のことはなるがままに任せ、動きのない、無関心な人相、豊満な身体、特に脂肪に現れ、だらだら、ぷらぷら、ゆらゆら歩く傾向にある。ちょっとした注意は、外界に対する無関心、大きな注意は、愚鈍になることだという。 多血質は、気がかわりやすく、黄色のような性格で掛け算を好むとされる。神経系統が主導的で、うつり気であり、むら気が表れる。糖分を控えた方がよい。飛び跳ねるようにして歩く傾向にある。小さな注意は、気まぐれになることで、大きな注意は、感性の波におされ、狂気になることだという。 胆汁質は、激しい赤色の性格で、割り算を好むとされる。血液系統が支配的で、どんなことがあっても、自分の自我を押し通そうとする。攻撃性で、意志が強く、表舞台に出たがる。糖分を控えた方がよい。足を地面のなかにめりこませるかのように歩く傾向にあるという。青年期に自分を抑制できずに、怒り狂って、自分の自我を刻み付けるという危険があるという。大きな注意は、自分の自我から何か1つの目的を追求しようとする愚行だという。 あくまでこれは基本型であり、人生においてこの基本型が純粋に現れることはなく、例えば、ナポレオンは、胆汁質を基調として、かたわらに粘液質を多分に有したという。 現代の唯物論的血液型性格診断とは、関連していないようにみえる。あえて、現代の血液型でいわれている性格と、強いて適合させようとすると、憂鬱質は、土質で、A型か? 粘液質は、水質で、B型(あるいはO型か)? 多血質は、風質で、AB型か? 胆汁質は、火質で、O型(あるいはB型か)というとこか? 俗にB型に胃がんが多いといわれるが、B型というよりは、水質の粘液質、粘液質は腺組織主導で、エーテル体が支配的、エーテル体が強いと、人体の構築が強い傾向にあり(アストラル体は解体)、がん発生気質ではあるといえる。神秘学では、腫瘍は人体の過大な構築がなされた結果だとされる。 つまり、B型というよりは、粘液質は、自分に固執し、外界に無関心になると、神経を構成するアストラル体が正常でなくなり、人体の器官にアストラル体が、適度に浸透せず、正常な人体の適度の解体が行われずに、脂肪性に富み、腫瘍をつくるようになるといえる。 「病は気から」というように、上記の気質による生活規律を整え、精神的ゆとり、安定性を確保することが、なにより、健康生活を育む知恵であるといえるだろう。
2006年01月17日
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どうやら、人間を「モノ」として扱う文化というか、習慣は、19世紀の唯物論からはじまったような気がする。その結果が、20世紀初頭の大戦争である。その悪しき思考の習慣は、いまだ、経済という御旗のもとに邁進し続ける。 いまや人間は、その稼ぐ能力の金で、扱われる。なんでも数字に換算し、日々株価の如くめまぐるしく移り変わる。これは、まるで、「人材」という名を変えただけの人身売買のようである。人身売買株式市場であろう。資本家という乗っ取り屋にすぎない連中は、自分たちの贅沢な生活だけに血眼になる。それは自分だけがいればいい。他の人はいらないといっている幼児な精神性そのものであろう。 確かに、金がなければ会社は潰れるだろう。しかし、金を儲け、金があるといっても、社会破壊行為や、モラルハザードを招くようなことをして、いわゆる、インチキをしてまでして、会社を存続させる意味があるのであろうか? いわゆる、無理をして金を稼ぐ行為ほど、その会社の社会における存在理由をみつけることは困難で、皆無に近いことを意味するものだろう。社会で有用であれば、金など稼ぐ必要はないからである。 金が稼げないと存在しないというのは、要は金がなくては要らないものともいえる。それこそ唯物思考の賜物であろう。 これは人類文明の汚点であり、自然破壊遺産ではないのだろうか? その稼いだ金の使い道の方が、その社会にとって意味あるものであろう。税金で社会に還元するとはいえ、それが個人の収入になるのだから、詐欺に近い。欧米にはそれでも階級制度があり、寄付文化があるからまだしも、日本の場合、殆どが個人所有とされ、ブランドのような贅沢品を買うことに費やされる。これが国家破壊行為でなくて何なのだろうか? 人間として社会で生活していくには、赤字になっても存続させる必要があるわけだろう。そのために税金があるわけだ! しかし、ただ闇雲に赤字を増やすのではなく、赤字が無闇矢鱈に増える背景には、社会精神の歪みがみられる。社会精神を健全化させることにより、赤字をできるだけ削減するのである。そのためには、国民による自主的社会奉仕が望まれる。税金はいわば、人々が幸せになる教育の為の社会勉強費だと思えばよいだろう。 赤字を支払うのは国民の税金である。そのためには国民に喜んで税金を払ってくれるような国家にしないといけない。だから、公務員は、なにより人格者でなければならない。古来日本ではそのために武士階級が存在したのである。今更、武士階級制度をつくるわけにはいかないので、それに似た現代版の武士階級、創造立国の指導層を国家プロジェクトとして、育成しないといけないだろう。 これは、かって幕末の江戸幕府が、きたるべき開国日本の海防のために開いた神戸操練所の現代版である。文明交流に際しての文化(発明)防備と呼ぶべきものである。 そのためには、現代ではなにより現状をみるにおいて、知性が先行しなければならないだろう。知性といっても知識自慢の雑学ではなくて、創造する学問、現状表現では陳腐だが、いわゆる発明の奨励であろう。いち早く世界に先駆け、創造のモデルをつくり、これを社会資本として防衛していく。そして、その底流には健全な社会精神、しっかりした哲学を根本に求めるべきであろう。 いわゆる、創造育成の発明創育学校を、かっての帝国大学のように、地域文化に根ざし、再建させるべきであろう。或いは、国際的文化交流の場に、東西文化融合大学をつくるとか、学術的な神殿つくりを興すのが、将来の創造立国日本の再生の道ではないだろうか? 早い話、ニートに予算をあて、何かしらの学校で学ばさせることが、若者に自主性を喚起するものと信じたい。
2006年01月17日
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最近、夢の内容よりも、寝る前の様子を綴る日記になってしまっているが、今日も、覚えていないので、その寝る前日記を書く。そして、例の如く「総理と呼ばないで」というドラマの話になる。 少しづつだが、流石に三谷幸喜と思わせるように、下らない話の展開から、昨日の7、8話目あたりから、徐々に、面白さが増してきた。世の中の何事もそうだが、長い目で付き合うことが大切だという気持ちにさせる。 得てして、人格が出来ていない人間ほど、経験の足りなさからくる、早急な判断や解決を求める傾向にあるといえるだろう。確かに、このドラマの主人公、田村正和演じる総理大臣は、どうしょもない人格であるが、そのどうしょもない人格を支える周囲の人が、非常に素晴らしいといえるのである。 これは、ある意味、どうしょもない総理がいるからこそ、周囲が素晴らしいともいえるわけで、総理のどうしょもない性格ゆえの反面教師効果ともいえよう。とくに、素人官房長官は、かなり際立ち、あの青臭さがかえって、ドラマの見所を与える。官房長官の素人さに、本来の政治の有るべき姿を、垣間見るような気がする。 どんなに技巧や手連手管、腹芸、話芸、騙し芸を使おうが、結局は、人と人の人柄、人物性、一期一会なのであろう。口の巧い奴は信用するな。お調子者は軽薄者と呼ばれるように。話さずとも、風格や人柄というのは、人間共通の言語なのであろう。 長年仕え支えてきた有能な秘書を、ダメ総理は、党という俗物組織のために、切り捨てるのかが、今日の夜の見所である。組織のためと、金科玉条をかざし、印籠をみせて、都合よく、実は自分たちの自己保身であるしかないワルを行う弱さをみせるのか、そしたら、最後までダメ総理で終わるだろうが…。堂々と、自分の身体を張って男として挑むのか? そこがこのドラマの最大の見せ場なのであろう。 人間は都合の悪いことや、自己保身の為に、権威を振りかざす。このことで、自らの弱点を曝け出し、魂の禍根を残す。悪魔との勝負に勝つか、それとも悪魔に魂を売るのかは、その人の忍耐強さ、踏ん張りにかかっている。 それにしても、ドラマの素人官房長官の態度は潔かった。ドラマであるが由縁といわれてしまえばそれまでだが…。
2006年01月17日
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神秘学によると、人体は、以下の4つの体からなるが、それを用いて、「てんかん」と「ヒステリー」を解説できる。 1.肉体(物質的身体;からだ)-肉 2.生命体(エーテル体;いのち)-気 3.感受体(アストラル体;こころ)-念 4.自我(わたし)-我 「てんかん」も「ヒステリー」も共に、人体のなかの肉体とエーテル体と、アストラル体と自我の、適度な浸透が阻害、障害されたものであるとされる。ちなみに、健常状態は、この4体が、調和を保って存在することをいう。 「てんかん(癲癇)」の場合は、肉体とエーテル体のなかに、アストラル体や自我が閉じ込められて、過度に鬱積してしまい、外にでていけない状態を表すという。なので、痙攣が起こるという。 神秘学では、痙攣は、意識器官であるアストラル体や自我が、過度にあるにも関わらす、それらを意識できないことで起こるという。なので、痙攣後に、意識障害が起こるとしている。 このような意識障害ではなく、意識とは関係のない、意識を抑制する器官が、鬱積すると、「痛み」が生じるとしている。だから「痛み」とは、本来、意識する器官ではない意識の抑制器官が、意識を過度に高めることで起こるとされる。「痛み」は高められた意識であるとされる。 逆に「ヒステリー」は、肉体とエーテル体のなかに、アストラル体と自我が、少しもとどまることができずに、すぐに出て行ってしまう状態を意味するという。 癲癇の場合、外界をあまりに弱く、あるいは強く捉えすぎたりするが、ヒステリーの場合は、外界の環境に、自らの自我とアストラル体を委ねてしまい、あまりの集中力で捉えてしまうので、まるで、傷ついた手で、物を触るような強烈な痛みを感じるという。 どちらも、いわば、魂のなかの平衡感覚を失った状態であり、外界との活動関係を通して、自らの精神内に、モラル(調和関係)を再び、再構築させることが、重要だとされる。 なので、意識を営むアストラル体と自我は、適度に抑制されるために、エーテル体と肉体と、適度な調和関係をもつべきであり、自我とアストラル体は、ある範囲内でしか、外界と触れ合うべきではないと考えられている。 では、どうして、このような自我とアストラル体、エーテル体と肉体の不調和が生じるのかというと、魂の受肉の仕方に誤りがくることから起こるという。 神秘学では、人間は、寝ると、自我とアストラル体は、人体(肉体とエーテル体)の外に出、朝、起きるときに、戻ってくるとされる。これは、生まれるときも同じで、死ぬときもほぼ同じであるとされる。日常の場合は、すでに、日常で身体を操作し、ある程度馴れているので、特徴を掴んでいるわけだろうから、しやすいが、誕生や死に際しては、知識しかないので、困難といえるだろう。 つまり、4つの体の異常な不調和な状態は、この受肉の失敗に起源があるという。人生において少しつづ克服することで、身体を通して、知識が得られ、次の転生では、この知識が生かされ、修正されることはいうまでもないだろう。 それを、端的に、魂の受肉と呼んでいる。魂は、スムーズに受肉するために、人体を知らなければならない。ここで、前世の行いからくるカルマも加味されて、肉体を知ることになる。それは、いわば、生きていたときの信念あるいは理念により、なんらかの受肉傾向がみられるという。肉体を通して、生きた経験そのものが、その受肉の知識のエキスとなるわけなのである。 更には、人生を通して、宇宙に新しいものをもたらさないといけないので、輪廻転生は、大体、地球の環境がすっかり変わった時期になされるという。それは、全く、新しい体験が必要だからだという。 神秘学では、アストラル体は、人間の故郷に独特の方法で依存するという。人間は地上のある地点を故郷とし、例えば、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアに生まれたかで、大きく異なるという。例えば、俗にホームシックと呼ばれる慣れない土地での病気の徴候は、このアストラル体の地域依存性にあるという。 これは、人間がますます自由になることによって、高次の進化を通して、この土地に縛られる思いを解消していくという。しかし、包括的に考察すると、自分のいる場所が、太陽とどういう位置関係にあるのかによって、人間のあり方が異なることがわかり、地上のどの場所も日光の射す角度が異なるので、自分の住んでいる場所に、本能的行為が、依存することがわかるようになるという。 エーテル体の活動は、季節の交替に影響をうけるという。エーテル体をもつ植物が、1年の季節に応じてその生命力を交替させるように、その力は、春の喜びの気分、夏への憧れ、秋への哀愁、冬の荒涼のなかに表現され、その規則正しい交替が、人間のエーテル体の制御力へともたらされるという。その季節感を通して、太陽がいかに地球への関係を通して、人間に働きかけるかを認識できるという。 物質的身体、いわゆる肉体は、人間の生活状態が、昼と夜の交替に似た経過の下にないといけないという。眠らないと、周囲について有用な思考を展開できないことがその証だという。昼と夜の交替に相当する、眠りと目覚めの規則的な交替が、肉体を制御することにおいて必須とされるという。 まとめると、以下のようになるだろう。 1.アストラル体-日光の射す角度(地球での位置) 2.エーテル体-太陽と地球の関係、地球の呼吸(季節) 3.肉体-昼と夜の眠りと目覚めの関係(受肉) これらはいわば、自我が他の3つの体と、調和を保つ関係を学ぶ体験であり、地球での以上のその体験により、試行錯誤しながら、いわば、モラル(道徳)と呼ばれる関係を身につけていくとされる。 1の地球でのあらゆる日光の射す角度を、体験することによって、自我はアストラル体を制御できる感受魂を発展させ、マナス(霊我)を手に入れることができるといわれる。 2の地球の呼吸と呼ばれる季節感、太陽と地球の関係をはっきりと意識して、自我はエーテル体を制御できる悟性魂を発展させ、ブッディ(生命霊)を手にいれることができるといわれる。 3の昼と夜の受肉の正しい関係を学び、身につけることで、肉体を制御できる意識魂を発展させ、アートマ(霊人)を手に入れることができるといわれる。 そのとき、人間は、宇宙での自らの正しい関係、位置を知り、第4位階の天使へと、再び、かえり咲くという。人間が天使になるとき、それは人間が神となるときであり、人間進化が完了し、自由と愛の霊となるときだとされている。しかし、まだまだ先の話である。とりあえず、現段階では、まずは霊我を手に入れることであろう。 それには故郷によらない自由なもの、本能によらないことを克服しないといけない。まずは、脱民族主義で、拘りを捨てることなのである。俗に、無我の境地を達成しないといけないといわれる。
2006年01月16日
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神秘学では、眼は身体から独立した器官だとされている。眼は胎児の発達過程で、外から組み込まれるとされる。人間は、眼のなかで、外界からくる印象(情報)を、物質的に構築し、その眼のなかに、人間の身体の精神部分(アストラル体、自我)が浸透することで、それが、意識化されるという。 人体全体も、この眼と同じように考察できるという。逆に、眼のように、人体の精神部分(アストラル体、自我)が、浸透しないと、意識化されないという。 この間、TVで、視覚力という講義をやっていたが、この視覚力というのを簡単にいうと、眼で意識的に現象をとらえることで、事象を認識できるというものだが、上記の、神秘学でいう精神作用を証明しているともいえるだろう。また、眼は、免疫学でも、人体の自己認識とは、独立した免疫システムを有するとされる。 何度も書くが、神秘学では、人体は4つの体からなる。 1.肉体(物質的身体;からだ)-肉 2.生命体(エーテル体;いのち)-気 3.感受体(アストラル体;こころ)-念 4.自我(わたし)-我 である。 肉体は、いわば、エーテル体が固定化したものと考えられている。肉体とエーテル体は、人体の構築を担い、アストラル体と自我は、人体の精神の部分を意味し、人体の解体を担うとされる。 人間が健康に生きるのは、上の構築と解体の恒常性が、うまくなされることに、よっているとされる。人体のあらゆる器官(肉体)の背後には、エーテル体があり、かつ、アストラル体と自我が、適度に浸透することで、意識化され、調整的、調和的に、保たれているとされる。 人体を解体するアストラル体と自我の、調整力や調和力は、人間が睡眠中に、精神の部分であるアストラル体と自我が、肉体とエーテル体をおいて、その人体の外に出て、宇宙に向かい、宇宙の力を吸収することで得られるとされる。その際、宇宙の力を得るには、昼の覚醒している活動のときに、道徳的行為を為すことに依存されるという。 だから、昼、起きているときに道徳行為をすることで、夜、寝ているときに、宇宙から人体内の調整力、調和力を得ることができるわけで、逆に、起きているときに、非道徳的行為をすると、夜、寝ているときに、宇宙から、この調整力が得られなくて、朝、起きたときに、身体上の問題を抱えることになり、次第に人体のなかに不調和を生じ、虚弱になり、病気になっていくというわけである。 道徳的に善い事をすれば長生きできるとはその通りなのである。 人間が、昼活動できるのは太陽の御蔭であり、太陽光があらゆる物質に浸透しているからだとされる。人間が昼、物体を知覚できるのは、物体のなかに、太陽光が浸透しているからに他ならない。太陽光が、影(月光)により織り成され(加工されて)、物質となるとされる。現代科学でいう、光の量子化に酷似する過程でもある(光子(フォトン)が質量をもつウィークボゾンになる)。 しかし、科学と違うのは、人間の精神部分も、また太陽霊からきたものだとされる点である。昼、人間が知性をもって、覚醒活動ができるのは、太陽霊からくる自我と、太陽光からなる、物質の太陽的な部分の呼応、共鳴が成されるから意識化できるとされる。 例えば、眼において、外界の太陽光からなる形態(物質性)が、写しとられ、それを、太陽霊からなる叡智である(自我(アストラル体を含む)という精神部分)、いわば精神体が、眼に浸透し、読み取る(認識される)ことで、意識されるというわけなのだ! だから、眼は正確な宇宙の鏡でなければならないとされる。 神秘学では、眼のなかで、認識され、認識されたあとの不要物が、眼の神経から脳へ流れるとされる。だから、脳は魂の(意識後の)汚物であるとされる。 ちなみに、眼を完全に閉じて、外界を閉ざすと、人間のなかにある、内界(宇宙をうつしとった人体構成)をみることができる。これを発展させたのが、ヨーガという呼吸法であるという。結跏趺座して、視線を鼻先に集中するというのは、眼を外界から閉ざす方法のことをいう。眼に外界からの光を入れないことをいう。例えば、白目にすれば白は光を反射するので、このことが可能となるだろう。 そうすると、呼吸が変わり、肺が外空気から得るものを、脳に送るようになるという。太陽光を、目でみるのではなく、空気で捉えることになるという。空気のなかに浸透する光とは、エーテル体のことに他ならない。その呼吸法、いわゆるヨーガの呼吸法によって、エーテル体、東洋でいう気の認識に達するという。エーテル体は、物質体よりも繊細なもので、物質体をつくりあげるいわば生命設計図であるから、ヨーガにより、人体の不調和な部分を読み取ることができるようになる。 読み取っているのは、魂であり、精神部分の自我とアストラル体なので、そのヨーガ行為(瞑想)が、そっくりそのまま、自我とアストラル体を促し、エーテル体の治癒へと目覚めさせるわけである。つまり、エーテル体の不調和な部分を、自ら認識させることで、調和を促す方向に、自ら精神的に目覚めさせ、治癒させることなのである。一石二鳥の行為なのである。 また、自らの人体のみでなく、人間の内面は、このエーテル体を通して、月光にまでつながり、それは月のリズム(28日)と相似しているので、地球が、かって月期といわれる、過去の月を含んだ地球の古代期の記憶を呼び起こすともいわれている。霊学では、月は前世であり、霊界なので、霊界とも交信できるようになるという。前世を知ることは、その人のカルマを知ることもできうる。 人間の内面が、月のリズムに類似しているのは、例えば、創造的思考の周期が、14日であることでわかるという。詩人や芸術家は、14日周期で、創造活動を行い、前半14日は、気が乗り、創造的に好調なのと、後半14日は気が乗らず、不調なのは、これが満月と新月と比較できるという。 神秘学では、形態を形成する力は、月光によるものとされているので、地球の潮汐力(潮の満ち引き)は、地球が、かって、月を含んだときの名残りであるとしていて、月の引力とは、直接関係ないものとしている。 科学では、星々を物体と考え、なんでも重力で解釈するので、神秘学の形態を形成する月の力は、重力と誤って捉えられている。だとすると、重力によって、生命はつくられると錯誤してしまうだろう。植物を見る限り、それは重力に抗して生命力を発展させているのがわかる。重力によるものならば、植物は地中のなかに花を咲かせるべきだろう。神秘学では、植物の力は太陽の力であるとされる。 神秘学では、生命力は、太陽光からくるもので、形態形成力は、月光からくるものであるとされる。 人間の未来の生をつくる力は太陽による。 人間の過去からくる死を与える力は月による。 生命力は、人間の急激な進化を、そして生を司る。 形態力は、人間の急激な進化に、緩やかな死をもたらし、生と死の狭間である現在を与える。 日光と月光があることにより、人間は現在を生きることができる。 起きているとき、人間は未来を考える。 寝ているとき、人間は過去を振り返る。 地球とは太陽と月との関係でなる現在である。 人間は地球上で、未来と過去を考え、現在を生きることができる。
2006年01月16日
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今日の夢はいろんなものをみて、整理がつかなかった。競馬や旅やなんだか、ゴチャゴチャになっていて、覚えていない。そんなわけで、夢の話は、書けましぇんので、あしからず。 で、例の如く、昨日の寝る前のことを書きたい。昨日は、「世界遺産」という番組で、奈良の大仏さんをやっていた。奈良の大仏は、仏像のなかでは、その大きさは世界一だという。あのような大きなものを、奈良時代の人たちはよくつくったものだろう。だが、現在の奈良の大仏は江戸時代に作り変えられた、いわば再構築したものらしい。 奈良の大仏をみていると、まるで、エジプトのピラミッドを、彷彿とさせる思いが込み上げた。エジプトのピラミッドは、わが自説では、いわば神殿で、神々との交流の場だと思うので、奈良の大仏が、神々、仏様との交流の場であるような気がしたのだ! 奈良の大仏さんをみていると、決してしゃべらないが、いかにも、こころに語りかけてくるような気がする。「迷いや悩みを断て!」と…。 広く大きなものをみると、日常の些細な細々としたことが、どうでもよくなってくる。本来、どうでもいいものなのだが、人間自体(物質的)は、小さいので、どうでもよくない現実に囚われてしまう。 奈良の大仏さんをみていると、西遊記の孫悟空と御釈迦様のやり取りが思い浮かぶ。せめて、こころだけでも、大仏のように広く大きくありたい。その願いが、数千年を超えて、奈良の大仏さんという形で、受け継がれているのだろう。
2006年01月16日
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宇宙の存在そのものを表現しているのが、道徳であるといわれる。宇宙を、神々とすれば、道徳からなっているともいえるだろう。何事も道にはじまり道に終わる。東洋哲学では、道は、宇宙普遍の法則とされ、徳は、その宇宙普遍の法則が、人間に現れた様をいう。人間の徳性は、宇宙の道によるといわれる由縁であろう。 そのことは、以下の老子の出典からもわかるだろう。 力に頼る者はろくな死に方はできない この上なく柔らかいものは、このうえなく堅いものを、意のままに動かすことができる では、これらの意味を、神秘学から、できるだけ解説してみたい。 「道」とは宇宙の普遍法則なので、いうなれば、宇宙に、道がひかれているわけである。神々により、人間の進化たるべき神への道はひかれているのである。だから、日本の宗教は、神への道、つまり神道というのであろう。 神々が、その神性から、愛を込めて道をひいているのに、その道を歩くことなくして、容易に進化へと続く道に辿り付けるのだろうか? 勿論、人間の自由をも認めるために、道を自ら切り開く力も、人間にお与えになったわけだろう。 「道」という字は、人が首を掲げて歩くことの象徴像からきたという。 神秘学では、首から上、つまり頭部は、人体をつくる素であるとされる。頭部は丸い。丸いのは、あらゆる方向からの宇宙が作用している証であり、宇宙のなかの丸い地球の存在をも、模したものであるとされる。 つまり、道は、天と地の作用からつくられ、人間が歩くところとしているものである。 神秘学では、天の作用は、23の精神世界、つまり、黄道十二宮、七惑星、太陽、月、地球、人間の関係であり、地の作用は、物質世界のことを意味する。人間は、精神世界から、物質世界に送られ、頭部から人体をつくり、地に活動し、精神を開拓していく生命体であるといえる。 これをコンピュータの世界で、例えて考えるとわかりやすい。 何度も書くが、神秘学では、人間を次の4つの体からなるとしている。 1.肉体(からだ)、2.エーテル体(いのち)、3.アストラル体(こころ)、4.自我(わたし) これを、コンピュータで大まかに例えると 1.ハード、2.ソフト、3.電力(エネルギー)、4.作業者(思考) のような感じであろう。ちなみに、東洋哲学用語では、1.肉、2.気、3.念、4.我 だろう。 1と2は、コンピュータの部分で、3と4は、コンピュータの外の部分といえる。 人間も、覚醒時は、肉体、エーテル体のなかで、アストラル体、自我が活動しているが、睡眠時は、肉体とエーテル体を残し、アストラル体、自我は宇宙空間へと、出て行くとされる。 コンピュータで例えた場合、ニューラルネットワークは、人類全体の人生を意味し、個々のニューロンを模した起点は、個人の人生と模すことができる。その際の、情報のフィードバックによる起点の重み付けが、輪廻転生によるカルマにあたるだろう。 つまり、外部情報が、神々の知識にあたり、外部情報を、より効率的にレスポンスし、その知識と系自体が、よりシステム化され、融合されることにより、人類全体が、神々へと進化していく構図になるのである。 しかし、このニューラルネットと、人間の大きな違いは、自動で行われるか、自動ではない、意志によるものの違いである。つまり、ニューラルネット自体は、コンピュータ内の虚構であり、その現実は、コンピュータの外にある実体の鏡である。 恐らく、人間の魂は、各自の脳にこのような構図を形成させ、ニューラルネットは、この脳の構図を模した由来からくる、相似構造になっているのだろう。いわば、人間の魂が、脳にそのフラクタル(階層)構造をつくり、脳が、ニューラルネットというフラクタル構造をつくっているともいえる。 神秘学によると、人体の肉体の、堅い部分は、柔らかい部分から動かされ、肉体は、より精妙なエーテル体から、動かされ、エーテル体は、より実体の精妙なアストラル体に動かされ、アストラル体は、より精妙な自我により動かされるという。 物質は、力から構成される。現代物理学では、4つの力を根源としている。力は、ポテンシャル、エネルギーによるとされるが、エネルギーは何によるかは、わかっていない。ただ、エネルギー保存則があり、宇宙のなかに、エネルギーが満ちているとしているだけである。だから、数学的記述による負のエネルギーの概念が、物理学により規定されている。負の概念を使えば、打ち出の小槌のように、いくらでも正のエネルギーを取り出すことができるからである。現代物理学では、このような負のエネルギーからなる負の世界(ダークマター)が、我々の正のエネルギー世界よりも大きいとしている。 ここにきて、科学こそがファンタジーではないのか?と思うだろう。無限にエネルギーが取り出せるのなら、エネルギー問題に困るはずはないだろうからである。そもそも、有限だからこそ、我々の物質世界が成り立つのだから。負のエネルギーなどは禁じ手ではないのだろうか? 科学は厳密だというが、ただ目をつぶっているにすぎないのではないか? 科学こそ、矛盾を含むものはない。科学は、実験結果を論理的土台にしているから、いくらでも飛躍できうる。 生命なきものから生命を生み出しうると考えている。それはただ、事象の生命的部分に関して、目につぶっているだけではないのか? 科学を真剣に考えればこそ、矛盾に至ることはよくある。論理的矛盾にいきつくと、精神衰弱に陥るので、どこかで個別な実験結果を、統計的加工手法により抽象化して、持ち出して、さも一般的に当てはまるかのように擬態しているにすぎない。 結局、科学は科学の世界でしか成り立たない。つまり物質的世界での話なのである。生物に当てはめる代物ではない。それも、事象が生じた後の物質的分析、考察にすぎないのである。それはしばしば、それを行う個人の体験にだけ、意味をもつ、個人体験の法則なのである。科学の法則が、誰か発見者の個別的体験から生じたものであり、その体験を共有できない限り、普遍的真実ではありえない。 だから、科学は科学的態度、他の労働者と等しく、科学者が、その体験を積み重ねることに意味がある。魚が水の世界でのみ、生きれるようなものである。科学を否定しているのではなく、より厳密に科学的条件を限定してるだけのことだ。適用限界を明確にし、より科学を肯定しているのである。自由な思想を限定しているのではなく、より道徳的にしているだけのことだ。科学の法則は、科学の言語空間にのみ生きることができる。 日常の生活空間にそれを用いることは、あまりに寂しい体験を生じうるものだろう。科学では、知識は教科書からくるというだろう。だったら、教科書は宇宙より大きいものでなければ、あまりに貧弱だろうし、寂しすぎるだろう。第一、多様性や個性が感じられない。 知識はどこからくるのかといえば、事象からくるのである。事象そのものが知識集合体であろう。それは、言葉で表すことはできないのが真実だろう。人間は感激したときに、言葉を失うことが、これを示しているだろう。 神秘学でいえば、神々からくるものが知識であるだろう。それは人間を介した時点で、誤りを含むものとなるからである。 ギリシャ時代、あらゆる事象は神々の顕現だと考えられていた。 神秘学では、エネルギーは神々の叡智であるとされる。いわゆる道徳である。道徳は、いわば宇宙のエネルギー保存則を満たすものであるだろう。 力に頼るもの。人間の知識力に頼るものは、ろくな死に方はできない。 何かに頼るものは、死んだとき、そのものを失うからである。 土台を失ったとき、土台に構築されたものは一瞬にして解消される。 唯物論で生きるものは、死んだときに、本当に死んでしまうだろう。 なぜなら、物質がなくなるからである。物質が解体されていくに従い、消えていくのである。 そして、遺伝に頼るものは、それが故に間違いを犯すのである。 人生のなかで道徳を学びとるものは、よりよく死に、生きることができる。
2006年01月13日
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今日の夢は、昨日ほど、はっきりとしていない。ぼんやり、薄ら薄ら覚えているにすぎない。職場の夢だったようで、職場の夢は、なんだかいつも、忘れてしまう(暗黙糧に、結構、ブログに書くと差し障りがあるのではないか?という認識があるのかも…)。だから、今日の夢は忘れてしまった。 というわけで、例の如く、昨日の寝る前の話を書くことにする。というわけで、やっぱり、三谷幸喜の「総理と呼ばないで」というドラマの感想を、書いてしまうのであった。 この「総理と呼ばないで」をみると、恐ろしくなるほどにまで、某現総理を表現している。まるで、亡国総理のシュミレーションをみるがごとくの予言ドラマさながらなのである。 田村正和演じる総理は、ルックスばかりで、中身空っぽで、全く無能で、至上最悪の人物なのであるが、素人起用の官房長官に、少し救われているところが、このドラマ全体の、あまりの下らなさ加減のなかの、唯一の救いである。 あまりの下らなさに、とことん付き合ってみる自分もアホだが、言い訳をいわせてもらえば、そのあまりの下らなさのなかに、少しでも希望を見い出したいという期待感を生じ、だらだらと、見てしまう寝る前のひとときなのでもある。 これはやはり三谷幸喜の名声からくるものだろうと思う。この下らなさ、このやりきれなさ、最後になんかどんでん返しがあるのではないか?と、勝手に解釈してしまうのである。ここは最後まで我慢してみようと…。 それにしても、この下らなさが、あまりに現実と一致しているのには、正直、あきれてしまう。某現総理と違う大きな点は、このドラマの総理が、自分を三流の政治家で、総理に相応しくない人物だと自覚しているところである。 総理になる有力政治家は、皆汚職で失脚し、まるで、日の目のないだけ、いわば無能政治家のレッテルが貼られた日陰の人物が、クリーンさを求める国民の勢いに乗って、総理になってしまうという皮肉さ。そういう、皮肉さというか、無神経さ、優柔不断さが、反面教師として、このドラマの下らなさから、警告を発している。 やっぱり、総理大臣は、しっかりした人を選ぼうよ! という警告なのだ! 指導者が喜劇の対象となり、馬鹿にされたとき、国の権威は失墜し、他国の信用を失い。亡国の道へと堕落していく。 日本は明治維新までよかったが、その後は、もはや国家という呈をなしていなかったといえるだろう。だからこそ、幕末の志士たちは、いまでは、考えられないほどの、精神的な危機感、喪失感におそわれたのであろう。 西郷は晩年、明治政府なんかつくるべきでなかったと愚痴り、勝海舟は、江戸幕府の方が、まだマシだったとボヤいた。大久保は、自ら蒔いた種を一身に背負い、殺された。 江戸期と現代とは比較はできないが、いまでも、日本人というと、侍は尊敬される対象にもなるが、現代人はエコノミックアニマルという蔑称をも受け、外国の好きなように、外交で、愚弄されるのは、どういうことなのであろうか? 人間は、精神性において、一致をみる生命体なのであって、物質的利害では、対立、相対するものなのである。精神性がなければ、もはや人間とはいえない。まして、国の代表者において、その精神性が低俗であれば、モノを扱うように、愚弄されて当然なのである。 せめて、サラリーマンの精神でも後世に語り継ぐしかないのだろうか? あまりに低俗でもあるが? はっきりいって、国民に選ばせるから低俗な指導者を生んでいるように思えてならない。国より自分たちの利益が大切な、大半の国民に、真剣に考え、立派な人物を選べるのだろうか? 政治がどんどん悪くなるにつれ、まだ、官僚に選ばせる方がマシだったような気がする。そんな考えさせるドラマだ。
2006年01月13日
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神秘学によると、人生の目的や意義は、遺伝を克服し、乗り超えることにあるという。そして、人類の目的は、宇宙の創造活動に参画し、天使と呼ばれる神々になることだという。神秘学では、人類の初歩的で究極的、つまりはじめであり、おわりである最終目的の到達段階は、第4位階の天使であるとされる。 人類は、愛と自由を学び、人生において、遺伝を克服し、乗り超え、無からの創造を学び、多種多様で、全てである人生を、あらゆる失敗を通して、全て学び終え、宇宙の創造の一役を担う天使、愛と自由の霊になることだというのである。 そのために、この世という、愛と自由の道場に、魂の輪廻転生の機会が与えられるという。宇宙の創造活動を行う、魂にとって、足りない部分を補うために、足りない部分は、「自分(わたし)という自我」となって、この世に、足りない自分を見つける旅に出るのだという。 この世は、共に足りない部分を探しあい、補いあう、人間という「自分」たちの世界なのでもある。それはとどのつまり、そっくりそのまま、愛と自由の創造舞台となる。ここに、神々の叡智の思慮深さに畏敬を覚え、驚きを感じざるをえないだろう。 だから、個人の人生としては足りない部分を、他の人生がそれを支え、補い合って、人類の人生全体として、愛に満ちた人生となりえるといえる。それは、1つの家庭を築くことにおいても、異性という元々、相反する偏向した性質を、お互いの差異、足りない部分を支えあって、愛という家庭人生を築く必要があることでわかるだろう。人間が1人で生きられないのは、つまり、宇宙の神々から、愛を探す自由を与えられているともいえるだろう。 人生を、唯物的にモノに例えて歴史化することこそ、無意味なことはないだろう。例えば、モノには長所と短所がある。これは遺伝によっている。しかし、それは表面的なことでしかない。「馬鹿とハサミは使いよう」というように、それをどう生かし、愛と自由を生み、生命を学んだかが問題なのである。生命とは、短所を長所で補うことであり、「災い転じて福となす」ことなのであるだろう。 どんな人生にも、愛や自由があることにおいて、平等なのである。なぜなら、それは全体で1つとなるように出来ているからである。欠点は同時に長所であり、長所は同時に欠点でもある。補い合い、支えることに意味がある。ここに中庸の意味が成り立つ。 生命は、宇宙の創造活動からくる。空間が独立した座標からつくられるように、生命は、独立した星々、神々の営みからつくられる。人間は、宇宙からつくられるのである。 神秘学では、人間は、生まれる前から、親の遺伝的要素を、みているという。現代科学でいう遺伝子解析以上の知識を必要とするという。そして、自分の魂を磨く為に、足りない部分を学べる可能性のある、親の遺伝性を探るのである。足りない部分の多くは、前世での失敗や先送りした問題等を、カルマにして織り上げ、携えたものであるという。だから、生まれた時点で、親に感謝しないといけないわけなのだ。 いわば、それは、この世の、愛と自由の学校の入学試験合格なのである。 また、誕生、あるいは、生後幼い命で亡くなるのは、子になる魂の、親の遺伝性を見誤った場合等だという。だから、誕生後の遺伝性は、魂の知識力不足からくるという。なので、遺伝性は、魂の無理解、無知識的な部分からくるとされる。だからこそ、無理解、無知を克服すべきように、遺伝性という課題を背負って、人間は生まれてくるのだという。 親は自らの遺伝性から、子供に身体(肉体及びエーテル体)を与える。子になる魂は、7歳までに、それを自分の身体のモデルとして、この世に活動しながら、学び、再構築するという。7歳頃で、乳歯が入れ替わるのは、その再構築活動が修了したことを意味するという。 この7歳までの、両親から遺伝されたモデルをみて、魂が、再構築する活動において、前世から携えてきた能力が発揮されるという。遺伝モデルを、忠実に真似れば、後の遺伝性を表すものとなるが、あるいは、魂の創造性を発揮し、遺伝性を克服し、自分なりに構築すれば、遺伝とは違ったものになる。 7歳以降は、魂がもつカルマに応じた、本来の個性が発揮されて、7年ごとに、人体は再構築されていくという。 つまり、魂の人体の再構築そのもの、遺伝のなかから善きものを継承し、克服し、学び、将来の生じるであろう問題を予測し、自由意志性をもって柔軟に、対応するための独創性を発揮し、構築していくことは、そっくりそのまま、自らの生活を行う手法、模範、いわゆるモラルとして、生かされるのである。 だから、魂のなかにあるモラルから、人体は、再構築され、それが生活へと拡大し、やがて、人生においての成功や失敗経験として、実際に体験されるのである。人体の再構築が粗雑だと、病や虚弱なものとなる。それを人生において克服することで、人体の再構築法は洗練化されていく。 「3つ子の魂百まで」という諺は、この7歳までの人体再構築法が、人生そのものに投影されることを意味しているのであろう。 そして、人間は、死ぬときに人生を振り返り、改めて、人生を通して、人体再構築法の結果を知り、魂のなかにある、人体構築法の元になるモラルを、改善するのである。 それはまた、魂のなかの完全なモラルを形成するために、次の転生へと繰り返されるのであろう。 人体は、代々、宇宙の発展とともに、宇宙から、人間を通して、つくられてきたが、魂はその人体の完璧な構築法を学ぶことにより、そこに宇宙が投影されている人体のなかの神秘を知る。人体を構築することは、すなわち宇宙を構築することにつながる。魂は完全な創造を行うために、学びの旅を続ける。魂は、いつか人体をつくり、学ぶ必要がなくなると、宇宙の星となるといわれる。ギリシャ時代、宇宙の星々は、神々、霊と呼ばれた。
2006年01月12日
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今日の夢は、文化祭の準備だったように思える。高校のときのような気がするが、男子校だったので、女子がいたのは変でもあったので、高校ではないかもしれないが、高校の友人がいたので、高校ともいえる。そこら辺が、夢であるが故の混乱であるといえる。 高校3年間に、1回だけ、文化祭で出し物をやったが、それはお化け屋敷だったが、夢では、お化け屋敷ではなく、新作独創チャーハンみたいなものをつくって、売るようなもんだった。なんでだろう? 独創チャーハンをどうやってつくろうかと、去年は、惣菜屋で買ってきたのを売ったよねとか、話し合っている間に、起きたのだった。 実際の高校時文化祭のお化け屋敷は、非常にウケて面白かった。私は、小道具役だったが、1度、お化け役をやったところ、人を怖がらせたり、驚かすのが、物凄く快感であり、お化け役は、一度やるとハマるということがわかったが、お化け屋敷にくる、ほとんどが、女の子だった(男子校に男がくるほど怪しいものはないが?)ので、エンエン泣いて、エスコート役の友人に抱きつくので、なんだか馬鹿らしくもあり、小道具役に戻った記憶がある。 それはともかくも、男子校の文化祭というと、発情期盛りの男たちは、血眼になって、彼女をみつけに走る、あのあからさまな雰囲気が、自分は嫌で、出し物をしなかった2年間は、適当に時間をつぶしていたように思う。彼女のいるやつは、1クラス50人も野郎がいたにも関わらず、大体、多くて5人にも満たなかったように思う(ちなみに、ホモも学年で2~3人いたようだ)。 彼女がいれば、大体が、すぐ話題になるし、自ら自慢するので、正確な数字だと思われる。だから、文化祭が終わった後は、表現が悪いが、撃沈組が沢山出て、うまくいった奴を妬むような雰囲気もあったし、日頃の友情が、彼女欲しさに一遍することも多々あった。そんな日常だったので、何かと硬派、軟派という言葉が流行った。あいつは軟派だとか、硬派だとか、まぁ、ほとんどが妬みみたいなもんだと思うが、男子校は、異常な雰囲気ではあった。 そんな一種異様な雰囲気に馴れているので、逆に、塾や予備校にいくと、大体、女性がいるので、とくにカップルなんかがいると、過剰に意識してしまったりして、冷静さを失う傾向にあるようだ。 今考えると、男子校の存在意義というのか、なんで、男子校があるのか不思議でもある。
2006年01月12日
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地球を水の循環による生命体と捉えると、宇宙との地球の関係が、地球上の生命体に反映していることに気がつかされる。死海にはなぜ生物が棲まないのかも、わかるだろう。塩分により、感覚器官と生殖器官が形成困難となっているからである。 神秘学は、キリスト教の密教からきているので、キリスト教の行事に、宇宙との地球の関係が、表現されている。神秘学では、それを地球の呼吸と表現している。 この地球の呼吸は、植物の繁殖のなかに働く力(易経)に注目すれば、イメージできる。易経は、この生命力を記号に略したものである。春に大地から植物を萌え出させる力、秋に植物をふたたび大地のなかに引き込む力、緑の植物を枯れさせる力の、この植物の生長力のことである。 冬至は、十二月下旬である。この時期の地球は、いわば、人間が空気を吸い込み、空気を自分のなかに摂取するときのような状態にあるという。地球の呼吸は、ある部分が吸っているときは、反対側は吐いていることをイメージする。 キリスト教では、この地球の呼吸を、宇宙の心魂を吸い込む時期とし、クリスマス、つまりキリストの誕生日においている。キリストは、地球が、宇宙から心魂を吸い込んだときに、地球という地において、誕生した救世主だからである。 かって紀元前の古代人は、現代人の昼の活動(覚醒)期がわずかで、ほとんどが、月光による活動(現代人の睡眠)期だったので、日光を、月に反射された月光として、捉え、月光と星々の関係から、宇宙の関係を捉えたという。そして、そのころの秘儀参入者だけが、秘儀参入において、月の開示から、きたるべき太陽の開示に、精神的な人類の活動が移行することを知っていたという。 月から太陽への移行に必要なものが、地球に入り込まなければならない。 これが、いわゆる地球という生命体の、宇宙による受胎であると認識したのだという。そして、それが、ゴルゴダの秘儀の真相だという。太陽からの使者が、地球に誕生する時期、太陽の光を身籠った時期が、クリスマスという冬至なのだという。 春分は、三月末である。このときは、地球は息を吐いている。身籠った太陽の光、宇宙の心魂が、徐々に、地球の外へと表出される。その地球に受胎した太陽の光は地球を照らし、地球から霊的宇宙空間へと浸透すると、宇宙からくる、父なる太陽の光と出合う。地球から発する太陽の光と、宇宙からくる太陽の光が、照応するのが春分であるという。それは、キリストの復活のとき、いわゆる復活祭であるという。 復活祭のこのような理由で、月光ではなく、受胎した太陽の光に関連させる意味で、復活祭は、春分後の満月のあとの日曜となっているという。キリストが地に下るまでは、月光を元に、祭を、月光と星々の空間的配位から、定めていたので、復活祭は、春分ののちの満月とされていたという。それが、キリストが下ったことにより、空間から、時間的な、季節の循環における、土、日、月、火、水、木、金の日曜日に移り変わったという。ちなみに、この7週の経過は、神秘学でいうエーテル体(いのち)のリズムの推移を表す。 つまり、祭の期日設定を、月から太陽に移行したことで、行事が、空間的なものから、時間的なものに定められたのである。これは、人間の生活において、いままでの宇宙空間の月光の推移からくる精神的生活から、直接な、太陽光による時間的経過を元にしたものにし、人間の精神性の宇宙空間からの独立を意味したという。 地球の呼吸が更に進み、息を吐き出していくと、6月に、第3の状態となるという。地球は全く心魂を吐き出し、心魂は、太陽の力、星々の力に浸り、結びつく。人間は、宇宙的に生きるために、地球を離れて、この時期に、宇宙のなかにある太陽の力、星々の力と結びつかないといけない。人間は、地球から吐き出される心魂の息に乗り、太陽の力と、星々の力と結びつき、それを、地上の植物、生物のなかに反射させないといけないのだという。それらは、実に多様な色彩で、大地から芽ばえ、生長し、芸術の如く、宇宙に向かって、地から表出される。この期が夏至の祭だとする。ヨハネの祭である。 宇宙の力と地球の力の結合、霊界と物質界の結びつき、ここから、ジューンブライド(6月の結婚)がきたものと思われる。天と地の結婚期なのであろう。 やがて、秋、9月末期には、吐き出した力が、再び戻りはじめる。夏に、地球の呼吸は、宇宙へと心魂を吐き続け、全て吐き出してしまうと、そこに、地に闇が生まれるという。この闇に、アーリマンという唯物的な悪魔が棲息するという。地は、太陽光を吐き出してしまったので、地には、精神的なものがなくなり、物質的な闇だけが跋扈することになる。 人間が、再び、地球に戻るには、アーリマンという悪魔と戦い、勝たないと戻れないという。その不安で恐怖な人間の心魂に、ミカエルという天使が、精神界から助けに現れるという。地球が、再び吐き出した息を吸い、人間が地球に戻るときに、ミカエルが来て、アーリマンという龍の悪魔と戦うという。これが、ミカエルの日であるという。 これらをまとめると以下になる。 12月冬至-クリスマス 3月春分-復活祭 6月夏至-ヨハネ祭 9月秋分-ミカエルの日 これらをみると、人間の生活(生命)は、ほぼ、3ヶ月ごとに、地球の呼吸(生命)に因っているのであり、そこには、エーテル体(生命体:いのち)のリズムが、表現されている。3ヶ月といえば、大体、エーテル体のリズムの3倍である(恐らく、太陽、月、地球の3体の関係からくるのであろう?)。エーテル体は、アストラル体(こころ)に関係している。神秘学では、心魂は、自我が、アストラル体を制御する部分を指すようで、その心魂のなかの悟性魂が、エーテル体制御に関わる部分だとされる。 残念ながら、現代人では、その悟性魂が未発達なので、エーテル体を、心魂が、意識的に、自由に、制御できないようである。将来、人類が発展し、この悟性魂を、ブッテイ(生命霊)に発展させえたならば、制御できるようになるという。その一段階前に、人類は、自我を元に、アストラル内の感受魂を、マナス(霊我)にむかって発展させねばならないという。 感受魂を発展させるには、エーテル体をみる感覚器(蓮華:チャクラ)を、エーテル体内に開発しないといけないという。そのまず、手始めが、人間が、この地球という生命体の呼吸を感じることであるらしい。神秘学による人生の目的や輪廻転生の目的は次回に譲りたい。
2006年01月11日
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神秘学によると、人間の身体の左右非対称性は、エーテル体(いのち)からくるとされる。 人間は左半身、右半身で大きく異なっている。左利きの人は少なく、多くの人は右手で書く。そして、言語に関する神経は、左脳に位置している。左利きの人は、逆に、右脳にあるという。 他にも、心臓は左、胃は左、肝臓は右にずれている。肺葉は、左に2つ、右に3つ。このように内臓は左右非対称である。 どうして、左右非対称なのか? 神秘学では、エーテル体(いのち)は右側に、主に形成される傾向をもつとされる。左側は、肉(物質)体(からだ)が主に形成される傾向をもつという。肺葉が、右に3つあるのは、肉体よりも、活動的なエーテル体(いのち)のより多くの生命(呼吸)を支えるためであるという。 脳のなかの栄養は、右利きの場合は、左側により必要となる。左側が地球の力(食物から栄養を摂る)を含み、右側が、エーテル的な天の力を含むように、人間は組織されているという。 つまり、人間は、左側が物質的、地球的で、右側が天上的、宇宙的であるという。 度を超えて、左右を同じに使えるように教育すると、半分気が狂った人間を育てることになるという。 地球と宇宙がどのように関係しているのかを、神秘学は説いている。 地球の水は、いわば血液であるという。水が、地球にとって、血液循環の役目をしているという。だから、血液が循環しない人間が生きられないように、水が循環していないと、地球は生きられないという。 水は出発点と、海に注ぎ込む河口では全く異なっている。川の流れを追っていくと、河川の水が塩辛くなく、甘いことがわかるという。 水は地上では甘く、塩分なしに循環しはじめる。海に至ると、塩を含んだ状態になる。 水が、水源から海に流れる間に、その地下で、逆流するものが、地中に塩をもたらすという。河口から水源に至る塩の流れがあるという。地中に塩が堆積していないと、地中で植物の根は生長できないとされる。植物の根は、地中の塩を栄養として得ることで生長し、植物は、上に向かうに従って、塩分が少なくなり、花には、わずかしか塩分がないという。 人間の血液が、心臓から血管を通っていき、静脈を通って青い血が心臓にかえってくるように、大地の水の循環は、地上で水が流れ、地下では塩が戻ってくるという。 人間の胃が、外界とあまり関係せず、食物を通してのみ関係するのと同じく、塩の多い海水は、宇宙とあまり関係せず、海の内部は天空とわずかしか関係しないという。対して、川の流れる地球の陸地は、天空と深い関係を持っているという。山中の水源の泉には、純粋な水があり、いわば地球の目であるという。 海は、地球の胃であり、泉は、地球の目であるという。 泉のある陸地で、地球は宇宙を見上げるという。そこが地球の感覚器官であるという。 地球の内臓は、海にあり、地球の感覚器官は、陸地にあるという。 人間と動物の生殖は、天空と結びついているという。卵子が丸いのは、そこに天空の全宇宙力が働きかけているからだという。宇宙の動きは円環状なので、卵子は宇宙の模像だという。生殖が行われるとき、天が地に作用しているという。 宇宙が働きかけるものは球体だという。目も球で、宇宙から形成されたものだという。脾臓は球ではないので、地球、地上の力、地球の内臓の力によって形成されているとされる。脾臓は、規則的に食物を食べれないときに、その調整を行うという。いわば、内臓のリズムの調整器であるという。 鮭という魚をみると、宇宙と地球の関係が感じられるという。魚は、感覚器官を形成するのが困難であり、特に生殖器官が困難だという。それらを形成するのは宇宙空間の力であり、だから、魚は宇宙から、海に入ってくるわずかな光と熱を丹念に使って生殖し、感覚器官を形成するという。 例えば、金魚は、皮膚全体を用いて、光の影響を受け、卵を、光の射す、あらゆるところに生みつけ、外からの作用により、卵をかえすという。淡水魚は、甘い宇宙に通じた水に棲むので、海水魚よりは困難ではない。 鮭は例外で、強い筋肉を得るために、塩辛い海水が必要とされ、海に生き、繁殖するために、宇宙と通じる淡水に戻るのである。鮭は、川に上ると、淡水が筋肉形成に寄与しないので、細くなり、その代わり、感覚器官と生殖器官を巨大に形成するようになる。 このように地球の水の循環が、鮭の習性に生きているのである。 地球が塩を含んでいるところでは、地球の力が作用し、地球から形成された器官が作用を受ける。地球の重力の中で生きるとき、筋肉が地球からつくられ、地球は筋肉に作用し、骨に作用する。 地球は、人間に塩を与え、人間は、強い骨と強い筋肉を得る。しかし、地球の塩の力では、生殖器官と感覚器官は、形成できない。それは天空の力の影響下にあるからである。 人間は、左右非対称である。左人間は、地球の力、強い筋肉と強い骨を形成する塩を摂取し、栄養を物質的に保管し、とどめる。右人間は、天の力である、生殖力と精神力、賢さを受け取り、発展させる。 人間の半分である、左人間は、いわば地球の海であり、塩の堆積があり、栄養分を筋肉と骨に有し、右人間の淡水部分と、均衡をとっている。人間は塩が多すぎると、骨は脆くなり、筋肉は鈍重、不器用になる。塩分が少ないと、クル病になるという。 人間を植物と比較すれば、淡水部分に光を必要とし、海水部分に塩を必要とすることがわかる。人間のなかに生きているこの均衡法則は、地球が宇宙に生きている均衡法則に一致する。 つまり、人間が生きているのは、地球が生きているからでもある。 この塩と重力の、海水の地球力に対する貯蔵概念と、光の、淡水の天空力に対する活動概念が、恐らく、風水の概念を生んだのだろう? 神秘学では、光と水によるエーテル体(いのち)操作のことであろう。 エーテル体は天空力を表現し、東洋哲学では気のことである。エーテル体は、天空の円環力を基本としているので、気の循環、円通を基本とするのだろう。また、エーテル体は、水と光の作用を受ける。エーテル体は光により成長するものである。 だから、風水では、水まわりと風の方向が問題とされる。エーテル体(いのち)、いわゆる気を循環させるために、純水と光(主に日照)の配置を工夫するものであろう。人間の右側である身体の精神的な部分を、発展させるために、光の方向を拝むように、神仏棚を置いたり、精神を穢すが、現世を生きるために必要な、左側である身体の肉体的な部分に、金銭的な貯蔵や、穢れた汚水などを排出し、左側から右側へと、水を浄化させるために、土地に植物を植える等などの工夫が、考えられる。 また、日本人の昔からある、嫌な人に塩をまいたり、葬式後に、塩をかけるのは、この地での精神的関わりを絶つことを意味するのだろう。この世に未練を断ち切って、精神的に浄化させることを願う意味と、現世において、もはや関わりを持ちたくない精神に、塩を置くというのだろうが、それは、この海水の原則からきた名残りだと思われる。 未浄化霊にも塩がまかれるように、塩は感覚器官や生殖器官を阻害する海水作用に通じている。霊学では未浄化霊は執着心があり、地に固執する自縛霊のことである。恐らく、この世での塩はあの世での生命の水に相当するものなのだろう。 また、俗物的人間に塩を与えると、塩過多で、骨を脆くし、筋肉を鈍重にする意味もあるのだろう。いずれも、唯物質的で、反精神的な行為に、塩が送られる。「敵に塩を送る」という、戦国時代の武田信玄への上杉謙信の行為も、謙信の信仰深さからいえば、あながち、信玄への援助と考えるより、精神的部分の意味が大きいように思える。あるいは、「もっと塩を食べて、強い筋肉、強い骨をつくり、戦場で相見えよう」という信玄の兵をなじったものかもしれない。結局、後世への謙信の潔さ、精神性を評価させる結果となった。 風水は古代中国からきたものだが、太古の日本人の風習が、地球が生きていることの証であるように思えてならないし、日本人は、地球が、自分たちと同じ、生命体であることを知っていたのである。 ちなみに、神秘学では、古代中国のこのような太古の学問は、アトランティス時代の名残りであるとされている。
2006年01月11日
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今日の夢は、忘れてしまった。どうやら、いつも、同じ夢をみているようで、平凡な毎日の差異がなかなか掴めないように、刺激的な印象に残る夢をみていない気もする。それでも、起きたときは、今日はこういう夢をみたぞと、思いながらも、書く段階になると、忘れてしまうのだ! 要は記憶力が乏しくなっている証拠である。 夢のことは書けないので、昨日の寝る前を書く。昨日は、スカパーで、昨今話題の三谷幸喜の「総理と呼ばないで」という田村正和が総理大臣役をやるドラマをみた。 このドラマは、三谷自身がかって、かなり不評だったと語っているように、喜劇としては面白いのだが、政治を題材にしたところがよくない。それでも、三谷ファンとしては、どことなく、「古畑任三郎」と、「王様のレストラン」の雰囲気が混じっていて、それなりに楽しめるだろう。 なにより、驚くのは、某総理大臣が、まるで、この総理そっくりであることだと思われる。三谷自身も、このドラマが、現政治の予告版みたいな自負心を含ませる発言を、かってのインタビューでちらつかせていた。 しかし、このような喜劇が現実として、成り立ってしまう現状はまるで、国家自体が、お笑いに乗っ取られたようなものである。そのドラマの政府と唯一異なるところは、支持率である。 これは三谷自身も、予測できなかったようで、あのような私利私欲の固まりの総理大臣に、高い支持率を与える理性という常識を、いかに喜劇王でも、捨て切れなかったことがわかる。つまり、国民はそのような理性を持ち合わせているという前提、その理性ありき故の喜劇なのである。支持率が限りなく低い故の、あの手この手の喜劇的な右往左往の混迷ぶりが、そのドラマの背骨である。支持率が高ければ、この喜劇は生まれないのである。 喜劇の根底にも、モラルがある。しかし、現実は喜劇ではない。 大衆は限りなく馬鹿に近い。だから学問を興して、教育していかねばならない。それが真実である。大衆は私利私欲で生きる。だから、公共機関が必要で、奉仕の精神の模範を示し、大衆のこころをつなげていく必要がある。ときを超えて、その統合調整の精神を、未来永劫、人類としてつなげていくために、国家がある。公的精神のなかの最も尊い公的自己犠牲精神である。それを愛と呼ぶ。 現代では、大衆は無闇矢鱈に愛を語れど、その精神を示した者は皆無である。世も末とはこのことなのであろう。国家が一私人の遊び道具に、堕落してしまった。分裂し、消滅するのは時間の問題だろう。
2006年01月11日
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神秘学では、20世紀の大戦争は、人類の腎臓病からくるものと結論づけてもいる。前回、述べたように、人体の健康は、正常な構築と解体、主に、アストラル体(こころ)による解体が重要であると書いた。アストラル体は、別名、こころと呼ばれる如く、自我とともに、精神を構成する本体である。精神は、眠っているときに、精神世界に帰り充電しないと、干からびてしまうとされている。 神秘学によると、19世紀からはじまった唯物論を基盤とする文明は、いわゆる「ミミズ」の文明として例えられている。それは、頭部と胸部を失った、腹部と四肢だけの即席な文明であるからで、混迷なる大衆文明ともいえる。このままいけば、自由の元に、人々は分裂し、消えていくだけである。その大きな特徴は、人体のいわば、腎臓による思考の特徴である。これは、現代が経済至上主義の生存競争制度に基づいていることで、わかるだろう。 だから、資本主義は、腎臓が考えるインスタントな錯誤思考主義なのである。本来のイデオロギーとはこの画一的腎臓病のことであろう。 神秘学では、人体において、思考しているのは脳だけではない。肺も、腎臓も思考している。ただ、その思考が、精神によっているかどうかの特質によるのである。 頭の思考に比べて、腹部の思考は、安易で、せっかちで、それはリズム(呼吸)に現れるという。人間の肺による呼吸は、1回約4秒だが、頭の呼吸は、これより物凄く遅く、1回を約1日であろうとする。そのために、本来、1日、肺でする呼吸25920回の呼吸が、頭の1日1回の呼吸の遅さ故に、人間の25920日(約72年)の寿命に、伸びるという。 頭のこの呼吸は、宇宙の1日1回のリズム(呼吸)と呼応するのである。 だから、人間は頭の呼吸により、宇宙の精神(リズム)を取り入れることができ、儚い命を、より長い命へと飛躍、進化させることができるのである。 現代人の特徴を、古代人との比較において、端的に述べるとしたなら、せわしなくせっかちで、無知蒙昧で、精神的な思考を忘れた、矢鱈におしゃべりであるといえる。これは腎臓の思考である。腎臓の安易で安直な表面的唯物的な結果を、志向趣向するものであると予測できるのである。その傾向は、現代人が、寝ることを惜しみ、しばしば不規則な生活ゆえの不眠症に悩むことに表されているともいえる。 そして、現代人の特徴は、一言でいえば、物質的差別による分別知、知りたがりや、という傾向にあり、それが唯物論と密接に関わっていることがわかる。真の精神的叡智に求めるのではなく、この世の現世の魅力的な知識を所有することへの渇望、情熱からくる、経済的物質的豊富さへの競争葛藤的な解決なのである。 神秘学では、これはルシフェルという悪魔に誘惑され、アーリマンという悪魔に魂を売ることを意味する。要するに、地上での闇屋、悪徳商人になろうという衝動の下に生きることに他ならない。 この元に、現代人は、益々高血圧になっているという。高血圧になると、前回述べたように、熱をもち、血液は速くなり、腎臓が老化するのがはやくなる。現代人は恐ろしく(精神的に)老化人間となったといわれる。ここでいう老化人間とは、進化の意味で、遅れていることを意味する。老化というより、消費、消耗人間であるというのが相応しいだろう。 神秘学では、唯物論が浸透する前の18世紀までは、肺による頭部の思考だったといわれる。肺による頭部の思考とは、肺からの呼吸により、頭部に、空気を入れ、頭部に、外宇宙からくる空気のなかの情報を、反映させ、知識を読み取ることをいう。 だから、呼吸の仕方で、頭部への、知識を含んだ空気の読みとり法を駆使したのである。それはこの世界のいかなるものにも、神々の叡智が宿るという認識を元にした認識法なのであった。ヨーガはその代表的なものであったという。だから、古代人は知識を、呼吸法により、その場で取り出したので、記録する必要がなかった。 だから、古代人は現代人を見て言うだろう。いちいち、知識を記すなぞ、なんと、不便で、無益なことであろう。知識はその場その場のその空気に記されているではないか? もし、そのような印がなければ、現代人は知識を得ることができないではないか? 知識そのものよりも、知識を取り入れる認識を得るべきだ! というだろう。現代人も遅らせばながらも、巨大な記録を前に検索システムの改良に勤しんでいるが…。 しかし、現代人は、精神的で、創造的な知識もなく、もはやアストラル体という精神の行き届かない、腎臓を中心に思考しているので、記録などみるだけ無駄な作業であろうが? 死ぬまで競争に勤しみ、勝った負けたとその場の感情に左右される人生に明け暮れるだけであろう。物質的生存競争は、次世代に、差別分断主義、隔離主義、破壊主義を生じるだけであろう。 致命的なその無間地獄に陥る前に、かってあった精神世界を取り戻すことこそ懸命なのである。 それにはまず、いのちというエーテル体を知るべきであろう。神秘学では、人体の左右非対称性は、このエーテル体からくるとされる。
2006年01月10日
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私が嫌いな蟹ミソという食べ物がある。どうやら蟹の脳ミソらしいが、他人にはじめて、この蟹ミソは一体、蟹のどの器官なのか?と聞いたときの、その答えは、蟹の糞だというものであった。そのときは、蟹の糞なんか食って大丈夫なんだろか?という不安もあったので、蟹ミソはいまでも食べない。 神秘学では、実は、人間の脳も糞そのものではないが、糞のようなもの、魂の排出物、分泌物であるとされている。脳は、腸が糞を排出するように、魂が排出したものであるというのである。人間は生きているから、分泌物を出しているわけでもある。 神秘学では、生とは、構築と解体であるという。古代の医学は、この構築と解体の営みを、分泌物をみることで、解釈したという。 古代書には、頻繁にミイラという言葉が出てくるという。神秘学では、ミイラとは、人体の分泌物から再構築によりイメージされる人体のことをいう。いわば、分泌物データにより再構築される仮想人体のことであろう。現代科学でいう、非線形力学における逆散乱という計算方法の一種といえる。だから、ミイラの本来の意味は、包帯を巻いた死体のミイラではない。 だから、神秘学では、ミイラを、霊的人間のことをいう。太古では、人間は精神的なものと認識されていたので、ミイラが、人間の最大の関心事だったわけなのである。 そして、おそらく、魂の分泌物全般をミイラの元といったのだろう。死体も魂の抜け殻なので、死体から構築される人体を、ミイラと呼んだわけなのだろう。だから、死体を解体しないように、再構築できるような保存法のことを、ミイラの重要点においたわけだろう。 古代の医学では、汗、尿、糞の3つの主要な分泌物をみて、ミイラを判断していた。 古代人は、現代人のように唯物論が浸透していなかったので、物質的なものから、精神をみることができた。これは、現代人でも、修行法により、みることは可能である。例えば、同じ行為(仕事)を長く続けていたら、その行為(仕事)のなかに呼吸というかリズムを読み取ることができる。長年のカン、俗に、ネンキが入ってきたというのが、その精神の読み解き方の初歩のようである。 だから一朝一夕、即席、いわゆるインスタントで物事を成すと、精神的に盲目にならざらなくを得なくなっていく。感覚に囚われると、それ故に、精神が育たなくなってくる。それが魂の堕落につながり、精神が未熟のままに留まる要因となるのである。かっての日本人は、物事全てに神性、仏性が宿り、物事の根底を、根気よく見ようとした姿勢が、大和魂という精神を生んだように、何事も、徐々に一歩一歩確実に着実に行った。だから、正直ものの愚者が尊ばれたのである。 現代はこれとは逆に、欧米のように、進取気質で、才気任せて、急速に進めるが、いずれも、その栄光が、ローマ帝国のように長くに渡ったことはなく、ローマでさえも、何もその精神を後世にとどめなかった。精神性がない故に滅んだともいえる。精神があれば、何度も再構築できるのである。それが永遠の魂、ミイラの意味でもあるだろう。 神秘学では、人体は4つの体、肉体(からだ)、エーテル体(いのち)、アストラル体(こころ)、自我(わたし)からなるとされていて、肉体以外は、非物質的なもの、いわゆるミイラと考えられるので、汗をみれば、エーテル体がイメージでき、尿をみれば、アストラル体がイメージでき、糞をみれば自我がイメージできたのである。 神秘学によると、古代の医学は18世紀まで続き、イタリアで唯物論により改革されたという。それ以来、古代医学は蔑視されてきたという。確かに、人間が、もはや、古代人のような精神的感覚器を失った時点で、それは無用の長物と化し、猫に小判になったのも頷けるところであろう。 しかし、神秘学によると、輪廻転生により、古代人が過去の前世の認識のままに、現代に転生するようになれば、現代人のなかから、しだいに前世を知るような人物が現れ、いわゆる古代人のように、霊視できる人間が増えていけば、古代の医学もまた再編されるであろうとされる。現代は、まさにその境界の転換期ともいえる。では、古代人はミイラをどのようにみたのかを簡単に述べる。 汗はエーテル体から分泌されるという。エーテル体は肉体とともに、人体の構築に関わり、構築が強すぎると、無気力になる傾向になるという。エーテル体は、人体を、宇宙のなかの惑星のような円運動に引き込みたいとする傾向にあるという。 古代人は、汗を再度、薬として、人体に与えることにより、物憂いエーテル体が、規則正しい活動にもたらされたりすることがあることを知っていたという。現代では、スポーツ飲料が、この汗と同じ成分を化学合成することで、これを代替して行っているといえる。しかし、古代人は汗を、ミイラの分泌物、個別的なものとみていたので、そっくりそのまま出した人に、汗を用いたわけである。 日本の風習、貴人が入ったお風呂の水を飲むという習慣も、このエーテル体の反応を想定しての、古代医学の名残りなのであろうか? 例えば、弘法大師の入ったお風呂の水等が有名であろう。弘法大師は密教の秘儀参入者なので、エーテル体に、霊視感覚器(チャクラ:蓮華)を有していたと思われるので、その水を飲んで、自らのエーテル体の霊視力を開発させようという魂胆なのであろうが…。現世御利益的で、どれほど効果があるか不明だ! ちなみに、爪も分泌物とされたので、爪の垢を煎じて飲むという諺も、ここから来ているのだろう? あまりに唯物的で、現世御利益的な愚者には、こういうような言い回しが使われたのであろう。 このようなものを糞薬局と呼ぶが、エーテル体は、水に反応するので、このようなことができるという(アストラル体は、エーテル体の作用を通して、反応することもある)。例えば、炭酸水なども、エーテル体に作用するという。 汗とエーテル体の類似作用から、尿や糞を、薬として考えるだろうが、それは無理のようだ。尿や糞を、いくら人体に戻しても、アストラル体、自我を強化することにはならないし、かえって、尿毒症につながり、非衛生的で害であろう。古代人は、尿と糞は、あくまで診断に用いたのである(尿に関しては、霊的な治療法があったとされるが、秘術らしく、定かではない)。 神秘学では、人体は構築と解体からなっているので、肉体とエーテル体の構築ばかりで、解体がないと、人間は絶えず気絶しているような、植物と同じ、意識が眠った状態になるという。なので、アストラル体と自我の解体が適度になされないと病気になるとされる。 アストラル体は、人体の主要な精神の営みであり、健康体と病気の役割の中心をなすとされる。神秘学では、睡眠中、自我とアストラル体は、肉体とエーテル体を残して、人体から出て行き、精神界に、旅をするとされている。 例えば、朝、目覚めるときに、人体のなかに、アストラル体が戻るとき、肉体の血圧が正常な場合は、あらゆる肉体器官に浸透でき、心地よい目覚めとなるが、低血圧だと、アストラル体は、あまり肉体に浸透できずに、小さな失神を感じるという。その結果、虚弱になり、器官が正しく形成されないという。 逆に、高血圧だと、肉体に深く入りすぎ、器官が老化し、早く退化するという。とくに腎臓が敏感なので、腎臓病におかされるという。つまり、アストラル体の人体への浸透度合いにより、病気か健康体かが作用されるという。アストラル体は、主に精神の反映、心魂なので、昔からよくいわれる、「病は気から」といわれる諺は、このことを表しているようである。 更に、詳しく言うと、アストラル体の浸透具合により、エーテル体の構築が、調整的に、うまく解体されずに、病気になってしまうという恒常性のことであろう。 アストラル体が、内臓器官を正しい形態に有するようにするという。アストラル体が、内臓器官の外にあると、解体がなされずに、内臓に脂肪がつくという。アストラル体が、構築するエーテル体を、適度に刺激し、解体することで、器官は正常な健康で、正しい形態をもつとされる。そのために、血圧が正常でないといけない。器官は7年ごとに新たに形成されねばならないとされるという。 アストラル体の活動は、その分泌物の尿に現れるという。例えば、熱が出るのは、アストラル体の活動過多で、自我が鞭打たれる感覚になることだという。活動過多のアストラル体は、肉体に深く入り込もうとして、もがいて熱をつくりだすという。その結果、熱が出て、血液の循環が速くなるという。血液は、器官を形成する余裕がなくなり、変化せず、心臓から腎臓に行き、尿に出るという。こうして尿の色が濃くなるという。 逆に、アストラル体の活動が、物憂く、正規ではない場合は、血液がゆっくり活動し、ほとんど脈が感じられず、血液が、身体のなかに全て詰め込まれ、いたるところが痛み出すという。尿は淡黄色、もしくは白となるという。 血液は、器官から排出されるものを、絶えず補充し、そのために血液は固くなる傾向にあるという。血液があまりに速く流れると、器官に提供することができずに、血液は固くなり、それが尿として腎臓から出ると、尿は薄片状になり、逆に、アストラル体が不活発で、物憂いと、脈が弱く、血液は器官に提供しすぎて、水のような尿になるという。更に尿の濁り具合や澄み具合などから、古代人は、ミイラをみて、多くの人体の病気を推測したという。 人体のなかの構築が強すぎると、、無気力になり、構築ばかりだと、腫れ物ができるという。例えば、脳に腫れ物ができると、構築ばかりなので、無気力、放心状態になるという。脳のなかで、正常な解体が行われないと、腫れ物ができるという。 逆に、解体が強すぎると、血液が強く入りすぎ、炎症が発生するという。尿の色が濃いと、炎症の傾向、尿の色が薄いと、腫瘍の傾向があるという。これはほんの一例なので、心魂がその発達により個別的傾向を帯びるように、その分泌物も、個別的であるという。だから、何より、霊的人間、いわゆるミイラをみないといけないわけなのである。 古代人は、分泌物よりミイラを形成することに長けていたといえる。そういえば、現代人は、これら分泌物を、唯物的に食糧にする傾向があるが、なんらかの動物の脳を食ったことから、ウイルスや寄生病が発生したことが、近年あった記憶がある。狂牛病で有名になった、プリオンのような病原性蛋白質は、神秘学では、古くから指摘されていたことでもある。 それは草食動物に、肉を食わせることから、発生が危惧されることとされていた。草食動物は、食用の草を解体して、植物性蛋白質から、動物性蛋白質を、構築する力が、基本で、そのためのエネルギーを有しているので、それを、動物性にしてしまうと、消費エネルギーが余ってしまうので、その余ったエネルギーが、余分な分泌物となって、動物体内を巡り、強いては脳を構築するのに向かい、脳が解体されなくなるわけで、脳が無気力になり、放心してしまう。脳は腫れ物ができて、狂牛病のような症状になるものと思われるわけである。 草食動物にとって、草食とは深い意味を持っているのである。草食動物は、腸で消化し、考えているのである。腸で充分考えないと、腸の分泌は悪くなり、余分な分泌物が脳へと向かうわけだ! このことからも、生命の神秘とは奥深い理念であることがわかるだろう。
2006年01月10日
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今日の夢は、あまり覚えていない。例の草野球チームとの御馴染み合宿だったように思える。そんなわけで、夢日記は1行でやめて、最近のスポーツ主義について、一言苦言を呈したい。 神秘学によると、スポーツは、人間の天性の宇宙のつながりを阻み、地に固執する運動を生み、なにより、肉体を強化させるので、精神的なつながりを失う恐れがあるという。 スポーツの重力に従わせる垂直な動きがよくないようである。対して、重力に従わない、天の動きにあわせた円運度のダンスは、よいという。重力を感じない浮力的な動きだという。 昔から文武両道といわれてきたが、それは、人間の精神的バランスをとることでもあるようだ! スポーツをあまりにやりすぎると、地に固執し、考えも機能的で、自動的になり、唯物的思考が蔓延し、破壊的になるという。スポーツは強靭な肉体を維持するために、地のモノ(食糧)を多く摂り過ぎ、搾取へと向かい。やはり、自然破壊へとつながるようだ。 昨今のスポーツ選手へのあまりに過大な報酬は、従来の社会体系の破壊、並びに自然破壊と関係しているように思える。強大な自然破壊的オリンピックに関わった某企業が滅んだのも自然の摂理といえるかもしれない。 かってのローマ帝国は、スポーツにより滅んだと私は思っている。ギリシャ時代、オリンピックは哲学の場だった。それは哲学を身体で表現した、いまでいうダンス、あるいは太極拳のようなものだったのである。スポーツはそれが唯物的に堕落したものだという。スポーツは貴族が贅沢な生活から生み出したものだからである。かって、GHQが日本に課したスポーツ、スクリーン、セックスという3S政策もそれを彷彿とさせている。 私はスポーツは好きだし、アンチスポーツを唱えるわけではなく、何事もほどほどにという中庸を守るべきだということである。過ぎたるはおよばざるがごとくである。昨今は、あまりにスポーツに一辺倒なのが問題であるといっているだけなのである。 だから、スポーツ選手には、文である教養を身につけてほしいと思う。 あまりにスポーツが流行ると、地球は自然破壊的に進み、なんでも、スポーツ選手は、精神素養が足りない、欲望に正直な傾向にあるので、輪廻転生においても、死んでから生まれてくる年数が少ないという。平均して50~100年だという。精神修養者は1000年単位だという。それは、地にあまりに執着してしまうからであるという。 そして、現代の戦争ほど、かってないほど、破壊的だということである。古代史においても、現代の戦争ほど破壊的で酷いものは、なかったという。古代の戦争は、いまのように破壊的ではなかったというのである。なぜなら、いまのように物質的に満ち溢れていなかったからであるという。 考えてみれば、中世の戦国時代だって、大掛かりなケンカ、ある意味、祭りのようなものであり、殺傷を目的としたものではなく、あくまで、地域地域の融合の一段階であるといえる。基本的に志願しない農民は参加しなかった。なにより戦死者の数が、現代戦争では、桁違いに多いわけであるのが、それを物語っている。 カネに飽かせた商業主義をやめ、そろそろ、健全な人間としてのルールを考えるべきときではないかとも思える。
2006年01月10日
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四柱推命は、人間の運命を、生誕の時刻で占うものである。生誕の時刻は、年、月、日、時の4つの柱から構成されるとするので、その4つの時刻を4柱として、いわば神々の4つの生命エネルギーの意味で、占う対象の人間の運命にどれだけ、顕現しているかを探求する学問であるといえる。 神秘学では、人間を、前回書いたように、4つの体からなるとしている。 1.肉体(からだ) 2.生命体(いのち) 3.感受体(こころ) 4.自我(わたし) これらのリズム(周期)は、前回書いたように、1のからだは、男女で差異があるが、約1年、2のいのちは、約1月、3のこころは、約1週、4のわたしは、約1日である。 つまり、人間の生誕の、年、月、日、時を元に占うことは、人間の、からだ、いのち、こころ、わたしの4つの体の観相、いわば、リズム(周期)をもとに、位相を、見ていることになる。 力学を方程式で表記するにおいて、初期値が前提になることは、唯物論でも定説とされる。 あえて、唯物的に、人間方程式を記述するとするなら 匚命(めい)=匚(からだ)+匚(いのち)+匚(こころ)+匚(わたし) ただし、匚は、精神全般である体の全周期のなかから、特定的に、物質化(現実化)した周期のみを抽出し、和をとったものである。この記述は、量子力学の量子化につかわれる数式手法で表記できる。 例えば、ファイマンの経路積分で記述すれば、以下のように類似表記にでもなるだろうが、あくまで抽象論でしかない。 〆(経路積分記号)e(iφ)d(x,it) 数学は抽象論なので、なんでも数的演算が成立する環といわれる数的仮想空間ができれば、表記できるので、そのことはどうでもよく、あえて問題とはしない。実際、量子論が確率論から構成される限り、サイコロを振ってみるまでは、結果がわからず、予測論とはなりえないのである。 数学が予測論となりえない限りにおいて、実学ではなく、虚学であり、いかなるとんでも論であっても、それと同等かそれ以下の存在でしかないので、この虚学をもって、トンデモ論を破棄することはできない。だから虚学はシルシ(実証)をもとめ、実験と称し、サイコロを振り、体験論に委ねる。体験論は、その土台に依存するので、普遍的というよりは、多様的である。そこで、多様性のなかから普遍性を求め、更に対称性という抽象論に陥る。論理の堂々巡りにすぎない。数学が抽象論である悪しき性質を、数学という抽象性に求めるのは、論理矛盾であり、それはゲーデルの不完全性定理をも彷彿とさせる。所詮、唯物論は、論理的に、自己矛盾に常に陥る危険を孕んでいる。唯物論を極めると自己矛盾に至るので、それを行う人間は、精神衰弱に陥る。 なぜに、精神衰弱に陥るかといえば、そこには、精神の意志がないからである。 人間は意志によって活動する。モノには意志がないとするなら、それは唯物論で表記できうる。しかし、少なくとも生命体には、意志が存在するので、唯物論では決定できない。単純な話なのである。 つまり、唯物論で、なんらかの意志ある生命体を記述することはできない。ある類似した構造体、いわゆる静的な幾何学モデルを作成できるにすぎない。しかし、それはあくまで静的なものであり、動的なものではない。動的なものが、記述できないのは、数学が3体問題を厳密に解けないことに依存することが推測される。 とりあえず、抽象議論はここまでにしたい。唯物論は光の精神に影をつくるものなのだ! それはエッシャーの騙し絵のようなものだろう。 では、精神世界、神秘学で改めて考察する。 人間が、人間の運命を、考察し得るのは、同じ意志からなる体験を共有しえるからであろう。それはお互いの人間の内面にある意志に作用、影響を与えることができるからである。確かに、人間は、モノを意志なきものとして考察するが、モノを、人間として体験はできないであろう。 体験論に帰するには、土台が共有できること、共に共鳴、実感できることが前提となるであろう。そしてその共有空間を照らすもの、それが周期からなる波動であり、光であると考えられるのである。 光は宇宙構造を反映した波動である。 光といっても、電磁波である光は、神秘学でいう光の一部分、一形態でしかない。波動を生じるそのものの性質を、光と呼んでいるのである。だから、光というよりは、太古では宇宙言語、いまでいう創造を生じる言語のことだろう。無から有を生じうる精神のこと。それを言語というのだろう。それは、聖書の記述するところである。 論点をはじめに戻すと、人間のなかの、4つの体は、それぞれ、その言葉に置き換えられるのである。 めい=からだ+いのち+こころ+わたし という言葉をとるとしよう。四柱推命では、この4つの言葉を、4柱の神々として占う。そして4身1体として、命を知る。 人間は、4つの神々の意志が統合されて、一体の人間の意志となる。 ということを、上記の方程式は、物体ぶって、大雑把に書いただけである。 しかし、太古の人間は、集団のなかに、「わたし」があったので、上記の方程式は、 めい-わたし=からだ+いのち+こころ となる。だから神々と民族長の意志が同じであれば、左辺はゼロとなる。 つまり、右辺の現実的な意味において、物質体ではなくなるということになる。左辺の神々の意志と、民族長の意志の隔たりがあるにつれて、右辺の物質的現象が顕になるわけである。その分、人間の自由が生まれた。右辺の自由項「わたし」が付け加わった。 だから、左辺の「めい-わたし」のゼロで無い部分は、悪魔の取り分に置き換わり、右辺に移項される。 空(無)から有(物質)が生まれる。 めい=からだ+いのち+こころ+わたし という、再び、現代人の方程式になる。人間の進化の目標は、この方程式でいうならば、以下のようになる。 めい=わたし つまり、 からだ+いのち+こころ=0 という、かっての方程式を組み入れることなのである。 太古人は、宇宙の構造のまま、その神々の命のままに、生きたので、宇宙と一体化して、方程式の右辺はゼロだった。 「からだ」の周期は、約1年だから、太陽のまわりをまわる地球の周期、つまり太陽に依存したそのものが、「からだ」だったし、「いのち」は、月に依存したそのものが「いのち」で、「こころ」は、7つの惑星、つまり週に依存して生きた。つまり、 太陽(黄道十二宮)+月+7つの惑星=0 のバランス、いわば精神のゆとりのもとに生きた。このバランスの愛のもとに生きた。 しかし、そこには、自由がない。人間の方程式に、自由を組み入れなければならない。そうすると、再び現代人の方程式が得られる。 めい=からだ+いのち+こころ+わたし 「わたし」は、地球の自転に依存する。 地球の自転=太陽神+月神 すると、命「めい」は、7柱の神々の命令であり、宇宙構造であり、 7柱の神々(宇宙構造)=太陽(黄道十二宮)+月+7つの惑星+地球の自転(人間の自由意志) となる。実際、神秘学では、「わたし」は、生誕の時刻のときの宇宙構造を伴って、地球上に誕生するといわれる。 人間が上記の 太陽(黄道十二宮)+月+7つの惑星=0 の精神バランスを取り戻すと、 7柱の神々(宇宙構造)=地球の自転(人間の自由意志) となる。そのとき、 地球の自転=太陽神+月神 なので、 地球の自転(人間の自由意志)=太陽神+月神 つまり、人間の1日の自由意志いかんにより、地球の自転は変わりえる。 その人間の自由意志は、神々から離れ、悪魔につき、独立することで、生まれた。 易経を学べば、人間の人生の方程式は、以下のように記されることに気がつく。 運命=宿命+立命 これを、現代人の人間方程式と比べると以下のようになることがわかる。 めい=(からだ+いのち+こころ)+わたし となり、 宿命=からだ+いのち+こころ 立命=わたし だから、わたしという立命により、からだ+いのち+こころからなる宿命を克服していかねば、真の人生とはならないだろう。 宿命とは、いわゆる神々から離れた命であり、光の影であり、物的な錯誤であり、遺伝とされるものである。遺伝は悪魔である。 宿命=遺伝=からだ+いのち+こころ 「からだ」の遺伝は、遺伝子に刻まれた記録、いわゆる肉体に顕れた物質的容姿や外見等、「いのち」の遺伝は、苦痛や病気、寿命等、「こころ」の遺伝は、執着、血縁関係、地位や名誉欲の欲求全般等。 遺伝を、「わたし」の立命により、克服すること。宿命を超えること。 これが人生の本来の目的であり、宿命は、上記した、いわゆるカルマの方程式で表される。 宇宙構造から成る人間のなかの生誕の初期値から、自由になり、「わたし」から、立命することで、初期値からなる線形の方程式を、超えることができる。生命は非線形的なのである。命には自由度が必須なのである。 その自由は、「わたし」から、宿命を超えることで、新たな「わたし」である立命をつくり、進化の法則、非線形の軌跡を描くことができる。 そうすると、遺伝=宿命=0となる。精神のバランスである太陽系の調和が、人間のなかに、もたらされる。 「わたし」という立命は、地球の自転をも変えることができる。 太陽神+月神-地球の自転(人間の自由意志)=0 太陽神と月神の教えを、1日に成すことができればである。 「1日1善」とはこのことであろう。 中世、人間は第4位階の天使と呼ばれた。それは地球の運行を司る天使という意味である。 つまり、人間の自由意志による善なる道徳行為により、愛により、地球の自転は変わり、地球は、太陽と月の関係から独立し、プトレマイオスの天動説のように、地球中心に、太陽系を運行することができるようになるという。 方程式を超えろ、抽象概念を超えろ。人間の「わたし」の可能性は、遺伝などによらなく、本来、無限大なのである。 「わたし」の自由項が、無限大になれば、発散し、方程式など無に帰する。人間は神々に帰する無限大の存在なのである。 現在の四柱推命は、堕落した現世御利益主義のものだが、本来は、太古の占星術、神々と交信する学問だったのである。 もし、真の意味で占いではない、四柱推命で、占ったとして、その命が、当たらなかったとしたら、それはあなたが、宿命を超えて、自由な存在となったこと。自我が強化されたことを、意味することになるだろう。 だから、占っても、自由意志により、占いに頼らず、自らの意志で、進むことが大切なのである。本来の四柱推命は、太古の学問だが、占いではないのである。それはその人の与えられた克服すべき人生の課題なのである。 真の学問は、普遍的で抽象的なものではなく、1人1人個人の人生における主題であり、命題なのである。それを活学という。だから現在の学校で習う学問は、残念ながら、真の学問ではない。 知的な抽象記号を表出することではなく、生命を育み、自然を受け継ぐことなのである。なにより、具体的で個別的なものである。 真の学問の実践場は、個人個人の自分のなかにあり、その成果は体験となって結実するのだ! それはやがて、個人の死を超えて、理念となり、宇宙に輝く星々、生命体となるだろう。誰もが、自分のなかの「わたし」という学問の探求者なのである。 いま、学問は死んでいる。 といわねばならないだろう。死んでいるのなら、自らの「わたし」のなかで、生き返らせることが必要とされるだろう。
2006年01月06日
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今日の夢は、なんとも怪しげな官能的なものだった。それは、温泉というか、そのような大層なものというよりも、単なる小さな風呂に、数人で入るものだった。 あやしげで官能的と書いたのは、その風呂が男女混浴で、かつ、水着も着ない、素っ裸で入るものだったからである。その風呂に入っていると、男1人、女2人の男女3人の集団が入ってきた。 男は見知らぬ人で、女のうち1人は、職場での知人だったが、仕事を共にする仲ではなかった。その人選は思いもよらないものだった。女性の裸をみるのは、好きな方(ホモでない男なら普通だろ)だが、その女性の裸をみたいという気が全くなかったからでもある。 だから、とくに視線に困るというわけでもなかったのだが、女性群が、裸で恥ずかしくないのかの方が気になった。そのうちの男と、女の人たちは、裸で恥ずかしくないのかという疑問をぶつけるうちに、女性たちも、意識して、胸と股間を隠すようになっていった。 そのうちに、風呂をあがって出た。なんとも不思議な夢だった! 昨日は、一昨日に続けて、古畑任三郎ファイナルを見た。大爆笑だった! 古畑の部下の西園寺だったかの名の小柄な刑事が、古畑をモデルとしたブルガリ刑事のドラマに、なんで自分が登場しないのかの、不服を、古畑にぶつけたシーンと、今泉が、自分がモデルのダメ刑事に、自分はあんなにヘボじゃないと言ったシーンが最高に笑えた! 双子という設定自体で、犯人は、姉であることは、番組の序盤でわかったが、古畑トリオが、それを、夫々の個性から、どう演出していくかが見モノであるといえた。今回は、今泉もさながら、西園寺が最高にうまく演出されていたように思えた。 西園寺役は、「アリとキリギリス」という漫才コンビのアリの方だと記憶していたので、これじゃ、キリギリスは消えてくだろうな?という印象をもった。いや、キリギリスには、HGのように、一発があるかもしれない。ただし、あっても、一発だが…。 かっては、ボケとツッコミという集団芸が日本の風土だったが、アメリカナイズされてきて、お笑いも1人芸時代に突入したのだろう。というよりも、1人の方が収入も分割せずにすむという、合理的で、冷酷な資本経済システムの到来といった方がいいのだろうか? グループで売り込み、そのなかで売れたものだけとって、余分は予算だけ、もっていくというような下手な鉄砲数打ちゃ当たる戦略なのか? 芸能の世界も、資本システム自動化装置が導入されて、寂しい気もする。
2006年01月06日
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神秘学では、人間は4つの人体からなるとされる。肉体、生命体(エーテル体)、感受体(アストラル体)、自我である。 それらのリズムは以下のようであるとされる。 1.肉体:男性が336日(28日×12回)、女性が280日(28日×10回) 2.生命体(エーテル体):28日(7日×4回) 3.感受体(アストラル体):7日 4.自我:24時間 太古カルディア時代では、28日を1ヶ月として、月を元に暦を決めていたというので、肉体は、男性が1ヶ月×12回、女性が1ヶ月×10回で、生命体(エーテル体)は、1ヶ月と要約されることになる。 ここに太陰暦の利点に気がつかされるだろう。 また更に、ここで干支との関係にも気がつかされる。干支とは10干と12支からなる。つまり、肉体は、男性が1ヶ月を支とし、女性が1ヶ月を干とすれば、肉体のリズムをさらに分類できるだろう。 元々、干支は古代中国の易経からきており、易経は、植物の成長を元に、生命を記号化分類したものとされるので、神秘学でいう生命体(エーテル体)そのものの生命形態を表しているともいえる。 これは、生命体(エーテル体)のリズムが、28日(1ヶ月)なので、肉体のリズムを、生命体(エーテル体)のリズムで、以下のように表せることになる。 女性:陰の肉体=生命体(エーテル体)×干(10種類) 男性:陽の肉体=生命体(エーテル体)×支(12種類) つまり、干支は、生命体(エーテル体)のリズム(波長)を解析する学問なのであろう。現代科学でいうフーリエ解析やフーリエ変換である。 更に、呼吸を加味すると神秘性を感じざるを得ないだろう。 呼吸は大人の場合、平均1回約4秒で、1分間に平均18回とされる。脈拍は呼吸の約4倍で、72回で、これは4分の1拍子なっているとされ、乳児では、2分の1拍子、児童では、3分の1拍子だという。 すると、人間は1日に、18回×60分×24時間=平均25920回呼吸することになり、神秘学では、これは太陽の春分点が黄道を1周する年月の25920年に類似するという。 例えば、1日1呼吸とすると、これは、25920日に相当し、71年8ヶ月あまりに相当する。神秘学では、これは普通に生きた人間の寿命だとされるという。これは、また太古の族長の寿命だったという。 実はこの1日1呼吸という条件は、地球の太陽光の呼吸、昼と夜の回数を意味する。この地球の光の呼吸は、上記の自我のリズムの24時間でもあるだろう。 自我の光呼吸は、7日で、感受体(アストラル体)のリズム、つまり1週間になり、感受体(アストラル体)の4倍の、1ヶ月(28日)で、生命体(エーテル体)のリズムと一致するわけだ。 神秘学では、自我は、神々の火であり光、神々から人間に与えられた、いわば、自己改革、革新の元の担い手であるとされる。太古では、自我を神々の叡智とも呼んでいたという。聖書にある、人間を神々に似せてつくったというのは、自我のことを指すようだ! その自我の光呼吸が、1日(24時間)のリズムを刻むということは、重要な意味をもつ。聖書の創世記では、世界は7日でつくられたとあるが、この日は、現在では、24時間、つまり地球が自転する時間である。地球の自転とは、昼と夜を1回経験する事象のこと、太陽光と月光に1回あたることでもある。それが地球の光呼吸であるわけだ! 神秘学では、太陽光をプレロマという6柱の神、月光をヤハウエ神(エホバ神)と考えているので、それらの神々と1回出会う、交流することが、1日という単位になる。 なので、太古では、日は神々と出会うことを意味し、ギリシャ時代、日はデウスと呼ばれ、神を表したのである。なので、聖書の7日で世界をつくったというのは、7柱の神々の出会いから、世界が生まれたということをいっているのである。だから、7日=1週間で世界がつくられたという時間的な意味ではないのである。それは、現代の主な視点である唯物的な解釈の錯誤が生み出したものである。 1日の日の出とともに、自我は太陽神と出会い、日の入りとともに、自我は月神と出会う。それが自我の本来のリズムを刻む。現代人にとっては、それが地球の自転である24時間に相当しているというのが真相なのであろう。 自我のリズムが、1週間を刻むと、感受体(アストラル体)のリズムと重なる。1週間はなぜ7日かというと、太陽の7柱の神々を、太陽系の7つの惑星である土星、太陽、月、火星、水星、木星、金星に割り振ったようである。また地球の進化自体も、土星期からはじまり、太陽期、月期、地球期(前期:火星、後期:水星)、木星期、金星期と進化していくことが、7柱の神々のもとに想定されている。 つまり、神々から頂いた神々の叡智である自我を、この7つの地球の進化期、いわゆるカリュキュラムに沿って発展させることが想定され、1週間が7日となっているようである。だからして、自我のリズムが、7日で感受体(アストラル体)のリズムと一致するということは、自我の1日である太陽神と月神の教えを生かせば、7日で、自我が感受体(アストラル体)を完全に発展させ、克服し、神秘学でいう霊我(マナス)となりうる可能性を示唆しているのだろう。 前回書いたように、感受体(アストラル体)は、3つのトーンである心魂の太陽部分、月部分、地球部分からなるが、そこに現在の孤立した自我(擬人論という人間の内面だけの精神のトーン)が、どれだけ、浸透し、孤立したものから、周囲へとつながりをもち、周囲にひろがった、いわゆるネットワークになりえるかで、三位一体の太陽-月-地球の関係を再び回復できることを意味している。 キリスト教にある聖マリアがキリストを抱く像は、その三位一体の象徴像なのでもある。 自我キリストを、聖マリアが育み、処女ソフィアに回復した、感受体(アストラル体)の星のように輝く姿が描かれている。太陽と地球と月の関係がみられる。それが三位一体を表す。星の輝きは、この三位一体からなるとされる。神秘学では、光の輝きは霊の輝きなのである。 1週間で、自我のリズムが感受体(アストラル体)のリズムに一致し、自我のなかの太陽神と月神の出会いとその教えが、感受体(アストラル体)に共鳴することで、感受体(アストラル体)を変革し、改革することができる。 太陽神と月神の教えは、自由と愛の調和の精神なので、それが自我から、感受体(アストラル体)に浸透し、感受体の生命体(エーテル体)制御力が高められるのである。 感受体(アストラル体)のリズムは、一週間を4回続けることで、生命体(エーテル体)のリズムに一致する。そして、それは月の周期、1ヶ月に相当する。 なぜ、それらのリズムの一致をみるのに、1週間が4回必要なのかという秘密は、呼吸と脈拍の間の関係に見い出せる。 1呼吸につき4回心臓が鼓動する。 外から空気を取り入れる呼吸、いわゆる肺呼吸を、感受体(アストラル体)のリズム(呼吸)とすると、4回心臓が鼓動する脈呼吸、血液呼吸ともいうべき、心臓の鼓動は、生命体(エーテル体)のリズム(呼吸)と、連想して捉えることができる。 大まかに言って、感受体(アストラル体)は、宇宙の中の創造力、造型力という、いわゆる外からの形成力をもたらすのに対し、生命体(エーテル体)は、生物のなかにある、光への憧れとでもいうべき、成長力、発展力、いわゆる内からの形成力をもたらすようである。 生命体(エーテル体)が柔らかな生を織り上げ、感受体(アストラル体)が硬い死をもたらす。 中世、人間は第4位階の天使と呼ばれた。神秘学では4は創造の数とされる。人間は、いま第4の世界といわれる鉱物界にいて、創造の活動に従事している。人間における創造とは、呼吸から心臓を鼓動させる生命力に集約されるように思える。これは感受体(アストラル体)と生命体(エーテル体)の関係であり、月の周期(太陽光による新月から満月の変化)でもある。 神秘学の精神世界でいえば、自我である擬人論のトーンが、感受体(アストラル体)のなかの3つのトーンである魂の太陽部分、月部分、地球部分を調整していく段階の数であるといえるだろう。 感受体のなかの3つのトーンは夫々、感覚魂、悟性魂、意識魂ともいわれている。 自我が浸透した感受体(アストラル体)の調整過程は、まず、内なる自我人間から外なる自我人間として、自我を開くことで、1週を送り、それを太陽部分(有神論)まで広げることで、2週を送り、月部分(直観主義)まで広げることで、3週を送り、最後に地球部分(自然主義)に広げることで、4週となり、感受体(アストラル体)と生命体(エーテル体)のリズムが共鳴する。 これらを太古の表現で示すなら、生命体(エーテル体)内の、感受体(アストラル体)の反映である、太古の4つの集合魂の象徴、人、獅子、雄牛、鷲であらわせられる。 太古の人間には個人個人に自我がなく、現在の動物のように、民族の集合魂のみに自我があり、それは感受体(アストラル体)の生命体(エーテル体)の制御支配、調整の反映に現れる。 自我は、それらかっての4つの集合魂を調整していくことで、感受体(アストラル体)は、生命体(エーテル体)を掌握していくわけであろう。 そこに、呼吸から心臓の鼓動につながる生命の秘密のプロセスがみられる。リズムの鼓動と共鳴がみられる。 生命体(エーテル体)のリズムから肉体のリズムへの反映は、易経に譲りたい。易経は非物質から物質を生じる原則が描かれているのだろう。
2006年01月05日
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昨日、夕刊紙を読んでいたら、「デモ」の意味が問われていた記事に、目がいった。「デモ」とは「民衆」の意味であり、いわゆる、「虚偽」という意味で使う「デモ」情報とは違ういかんの論議であった。 筆者の言いたいことは、非常によくわかったので、筆者の批判する某国首相に、問題があるように思える。言葉は使い方や、喋り方、振る舞い、そのときの行動、TPOによって、同じ言葉であっても、多面的な意味を有するだろうが、本来、言葉を使う意味は、意志伝達が目的なのであり、言葉が有する価値観をとやかく言うことではないだろう。それならば、言語学の学者にでもなればいいだろう。 要するに、独りよがりの言葉では、言葉の本来の意味、情報伝達をなさない。言葉を発しても、それでは、誤解を生むだけのことなのだ! それでは、言葉を発すること自体が問われてくることになるだろう。 言葉を正しく用いる利点は、それにより、情報の共有が意図され、相互理解が、最終目的となるからだろう。 仏陀が説いた八正道の正語であろう。 なんらかの情報伝達を意図しない言葉、こころのやりとりの創意工夫のない言葉は死んだ言葉であって、そのような言葉を発する人間を、近代のドイツでは発酵人間と呼んだという。 発酵人間は、アルコールにより、自我制御が脳や身体に行き届かなくなった酔っ払いのごとく、何を言っても意味がない代物のことを指す。そういう人を老人ならば、「発酵じじい」と呼んだという。 犬なら、まだしも飼い主が注意するだろうが、発酵人間はいわば酔っ払いなので、何をするかわからない。神秘学では、魂の死んだ人間だ!。 自らの欲求やエゴを始末せず、野放しにし、制御統御できない我儘人間にこのような傾向がみられる。だから、言葉に責任を押し付ける。そして、言葉が乱れて、勝手に一人歩きする。 主題が逸れたので、改めて「デモ」について述べたい。 デモは確かに、本来、「民衆」の意味であろう。「デモ」が、虚偽を意味する言葉に使われるようになったのには、恐らく、以下のようなギリシャ哲学が秘められているように思える。 太古、エジプトでは、国家は、非常に明確だった。それはエジプトの古代遺跡に見られるとおりである。 国家は人間であり、人間は宇宙からつくられる。 似たような言葉に、武田信玄の「人は生垣」という言葉がある。 つまり、神々の宇宙から人間がつくられたように、国家は、神々の宇宙を模したものであるというわけである。 これではあまりに漠然としすぎているので、人間を、次の主要な3つの体に表す。頭部、胸部、腹部並びに四肢。この三体で一体となすことを、三位一体という。 これを国家に当てはめると、国家理念、民衆の指導層、民衆層であろう。日本の場合は、国家の理念は憲法並びに天皇制、日本政府、国民であろう。太古エジプトの古代遺跡では、ピラミッド、スフィンクス、太古エジプト人を意味するものだろう。 エジプトでは、ピラミッドにより、秘儀参入者は神々と交信し、国家の理念=民族の将来を決定し、スフィンクスにおいて、太古エジプト人に啓示し、命令したのだろう。スフィンクスは、いまでいう国民を指導する政府と国民の仲介調整役であろう。 太古と現代で異なるのは、秘儀参入者がいなくなり、神々から人間が独立したことである。つまり、人間は神々から自由になった。 だから、ピラミッドは形骸化し、化石となり、観光の対象物となった。代わりにスフィンクスは、議会場、議事場となる。自由な討論の場となった。本来、思想の自由なので、自由な討論が望まれたが、自由というのは人間には重すぎた。自由というのは、反面、無秩序でもある。だから、有識者を選んで、自由な代表の討論形式となったわけだろう。しかし、そこに旧来からの血縁を、持ち出したのである。 本来自由な討論の場が、堕落して、スフィンクスは、遺伝の悪しき血によって、穢され、死んでいくのである。ギリシャ時代は、そこは自由な哲学場であった。哲学をし、理念を語り、都市国家を築いた。神々に伺いをたてるときには、ギリシャ人は神殿に向かった。 だから、ピラミッドもスフィンクスも死んで、形骸化した将来の警告の遺跡、いわゆる人間の墓場である遺体となったのである。 これを人体に例えると、頭部や胸部のない、腹部と四肢だけの存在となるであろう。現代国家は、腹部と四肢しかないのである。消化と消費しかない。つまり、経済一辺倒の文化的に、「ミミズ」になったわけであろう。 だから、「デモ」は、「錯誤」という意味になるのであろう。 頭部や胸部のない人間は、人間とはいえない代物であろう。ゾンビであり、それを操っているのは、錯誤の王、悪魔であろう。 人間は再び、国家に頭部と胸部をもたらさないといけない。 このままいくと、ミミズは各器官の思惑やエゴにより分断、分裂し、解消するのみである。その分断をリストラと称し、統合したが、ただ、異端な部分を切り落としただけなので、小型化し、軽量化しただけで、つまり、小人間になっただけで、将来の抵抗力を失った。切り落とされた部分は、多量な糞となり、ウイルスを生じ、肥やすものとなり、その防疫に、新たにまた、税金が投入され、更に縮小化していくだけで、財政赤字は更に増え、ついに国家はなくなるだろう。無政府国家到来か? 財政削減しても、赤字が増えるのは、以上のことである。根本解決をしないで、ただ捨ててるだけなので、ゴミが増えただけなのだ!。ゴミを再利用しないかぎり、ゴミはどんどん増えるだけ、そして、ウイルスも増殖するだろう。ニートはその表れである。 本来の自由、博愛、平等の概念は、頭部(思想、教育及び立法)の自由、胸部(法及び司法)の平等、腹部及び四肢(行政及び経済)の博愛に帰されるのであろう。 まずは、血液(金融)の欲望を抑え、博愛による胸部の心臓をつくらないといけない。これは金持ちから金融をとりあげ、慈愛に満ちた慈善政府をつくらないとダメ。血が溜まれば溜まるほど欲望のドロドロ血になり、経済的疾患が生まれる。だから、サラサラ血でないとダメ。慈善政府とその慈善流通機関を再生させないとダメ。 司法は、悪徳経済を徹底的に抑え、金銭の代わりに平等に名誉を与え、胸部をつくる。頭部が最も肝心だが、あまりに画一的な理念、故に、民衆と分離している。もはや戦争は時代遅れなのであり、軍事費は無用の長物なのである。画一的な価値観をもてばもつほど、頭部は硬直化し、脳死に近づく。いわゆる軍事費ばかりが突出する。 戦をするよりは、戦に至らないようにすることがなにより先決なのである。大事は小事のときに解決すべきなのである。そのためには、一見、無用なもの、無駄なものでも、利用する価値を見い出すことなのである。 無駄なものを創意工夫をして、創造を生むこと。これが無からの創造という。無からの創造が宇宙の法則なのである。既成のモノや財産などはもたないに超した事はない。日本の戦後の発展は、この無からの創造が生んだのである。何もないからこそ、創意工夫が生まれた。だから、ある意味、米国に感謝しないといけない。 怨みに報いるに徳をもってしたのが戦後の日本の発展を生んだ。 だからこそ思想の自由が生まれ、頭部の柔軟性が育まれる。理念というのは将来を生む種を蒔くことであろう。 なにより、国家の将来を考えた理念でならなければいけないだろう。だから国家は100年の大計からなるといわれる。太古エジプト人は、未来永劫を願いピラミッドをつくったのであろう。古代人は無駄なものなどつくらなかった。無駄なものだとしたなら、宇宙がつくった意味がないであろう。 宇宙にあるものは全て意味をもつのである。 だから、意味のない言葉を発するその根本こそ、改めるべきで、慎むべきであろう。恥の上塗りはやめて貰いたい。厚化粧が崩れたものこそ醜いものはないだろう。
2006年01月05日
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神秘学では、以下のように、黄道十二宮と思想の関係があるとされる。 1.雄羊座-宇宙を取り囲む、振り返る-観念論 2.雄牛座-宇宙なかを眺める、動きを取り込む-合理主義 3.双子座-自分自身を経験、手探りする-数理論 4.蟹座-自分を包み込む-唯物論 5.獅子座-満たすもの-感覚論 6.乙女座-成熟-現象論 7.天秤座-無機界への適応、均衡の探求-実在論 8.蠍座-毒の刺-力本論 9.射手座-狩人-単子論 10.山羊座-畜産家-唯霊論 11.水瓶座-農夫-神霊主義 12.魚座-商人-心魂論 また、七つの惑星と思想の関係も以下のように表されるという。 1.土星-太陽系の過去の記憶-グノーシス(キリスト教神秘主義) 2.木星-太陽系の思想家、叡智-論理主義 3.火星-太陽系の雄弁家、言語-主意主義 4.太陽-運命と自由の調和-経験論 5.水星(太古は金星)-夢みる詩人、地球の恋人-神秘主義 6.金星(太古は水星)-結合、推理する思考-先験論 7.月-遺伝-オカルト主義 更に、3つのトーンが、これに加わるという。 1.有神論-人間の魂の太陽部分 2.直観主義-人間の魂の月部分 3.自然主義-人間の魂の地球部分 そして、最後に1つのトーンがある。 1.擬人論-人間の魂の他の星々と切り離した地球単独部分 合計(12+7+3+1)=23の世界観があるという。 これらを、物質宇宙(黄道十二宮、太陽系、太陽、月、地球)に対応する、精神宇宙(12の星座に対応した思想、7の惑星に対応した思想、3つの太陽-月-地球の関係に対応した思想、1つの地球上に生きる人間の思想)とされる。 そして、12の星座は、人間の肉体を構成する12の物質的組織器官をつくる。 1.雄羊座-頭部-W 2.雄牛座-喉頭部-R 3.双子座-腕-H 4.蟹座-胸郭-F 5.獅子座-心臓-T 6.乙女座-下腹部-B 7.天秤座-腰-C 8.蠍座-生殖器-S 9.射手座-大腿-G 10.山羊座-膝-L 11.水瓶座-下腿-M 12.魚座-足-N また、7つの惑星は、人間の生命体(エーテル体)を司る、7つの生命の指標(エネルギー;熱)の制御(いわゆる気)をつくる。 1.土星-脾臓-U 2.木星-肝臓-O 3.火星-胆嚢-E 4.太陽-心臓-AU 5.水(金)星-腎臓-A 6.金(水)星-肺-I 7.月-脳-EI なお、上記の右側の文字は、人間の存在を宇宙言語と模した場合、12の肉体部分が子音を、7つの生命体部分が母音を表現するとされる。 これら、生命体(エーテル体)の構成要素の治癒には、太古では、その相性のよい金属が用いられた。 例えば、太陽から金が生まれ、また太陽は、人間の生命体(エーテル体)の心臓部分を生み出したので、心臓(エーテル体)制御に、金が投与されたという。 また、3つの太陽-月-地球の関係は、人間の感受体(アストラル体)を司る、魂の精神を形作る。 1.魂の太陽部分→霊我(マナス) 2.魂の月部分→生命霊(ブッディ) 3.魂の地球部分→霊人(アートマ) これらは、人間の精神の進化により、矢印の右側にある神秘学の用語でいう人間の進化形態に発展するという。 そして、最後の1つの地球上に生きる人間は、人間の自我をつくる。 1.地球上に生きる人間の自我-擬人論 つまり、外なる宇宙にあるものを、自らの内なる宇宙に照応させることによって、擬人論は、どんどん発展していき、最後は、宇宙が人間と同一視できるというわけなのだろう。 自我は、神により与えられた「わたし」という認識の火である。 仏教の曼荼羅も、神秘学でいう、この精神世界を表現したようである。ただし、仏教は23よりも十二宮が、月のオカルト主義により、多少増えて、28の世界になっているようだ。
2006年01月05日
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今日の夢は、忘れてしまった! 昨日、イチロー出演の古畑任三郎をみたあと、色々とDVDレコーダーの整理をしていたら、夜遅くなってしまったので、寝なきゃと思って寝たのだが、慌しいなか、夢のことは忘れてしまったという次第だ! イチローの役は、兄弟愛の内容は少々クサいものを感じさせたが、役柄としては、よかったと思う。私は、古畑の推理よりも、今泉のオトボケファンなので、今泉のカラミが増えてよかったと思うからだ。とくに、元同僚の向島への今泉の妬みが、いかにも今泉らしくてよかった。 古畑のようなドラマは推理サスペンスモノなのか?、コメディなのか?、意見が分かれるところだろうが、私は、コメディとみている。 三谷幸喜モノで、一番のお薦めは、「竜馬と妻とその愛人」である。三谷モノは、必ず、1回はどこかで大笑いをさせてくれ、期待を裏切らないと思う。笑いのツボを掴んでいるのだろうか? コメディは、結構みているのだが、最近のお薦めは、「ジョニーイングリッシュ」という洋画である。ミスタービーンの、名前は確かローワンアトキンスだったか? の俳優主演の007のパロディモノである。これが最高に笑わせてくれるのだ! 必見!! あと、邦題の「悪いことしましょう」という洋画も、結構、笑わせてくれる。これはストーリーが聖書めいていて、結構、深い意味をもっている。いままで、洋画にでる悪魔というと、怖いイメージの典型なのだが、悪魔が非常に魅力的に感じてしまうのが、この作品のオチだろう。 洋画といっても、多くはイギリスとアメリカのもので、そのコメディも、文化からくる笑いのツボの違いがみられる。 イギリスのコメディは、キャラクターの風変わりな個性に、笑いをもとめるとこがある。それも、少し尋常でない非日常的な異質性を追求しているようにみえる。ブラックユーモアのお国柄が伺える。背景に、階級制度を笑うとこがある。 対して、アメリカのコメディは、キャラのとにかく陽気で、明るいお馬鹿性もさながらというか、エピソードに笑いをもとめる感じが、前面に出ている。やはり、背景に、人種差別を笑うとこがある。 両者を比較してわかりやすい喩えを探すと、イギリスの場合は、王室、現皇太子を、コメディにして、階級制度を笑い飛ばすようなとこがあり、アメリカは、おのぼりさんや、単純馬鹿でお調子者、例えば、現大統領ブッシュ(かなりハマっているが)等の、エピソードをコメディにして、人種差別を笑い飛ばすようなところがみられる。 どちらも、似たようなものがあるが、イギリスの場合は、蔭でこそこそ、シニカルに、顔に出さずに笑い(そうでないと、抹殺されてしまうような雰囲気があり)、アメリカの場合は、表で大袈裟に笑うというような差異があるような気がする。 これは音楽の傾向にもみられる。ハードロックなんかは、英国はどこか暗く陰湿で、米国はとにかく明るいというように、とくに顕著だ! ともかくも、米英のコメディをみて、比較されるのが一番よいだろう。最後に、わが日本のコメディというと、少し民族性を感じさせるものがある。日本のコメディが、米英にウケないのは(他国にウケる必要もないが)、やはり、日本の笑いが、その場の雰囲気、空気に大いに依存しているようにみえる。日本人のキャラは、米英に比べて、薄いのである。簡単にいえば、笑いのアピールに乏しい。だから、中途半端に感じさせる。 日本人と米英の笑いのタイミングは、言語の発音が違うように、異なるようにみえる。それでも、最近は文化が米国化してきているので、米国の笑いに近づいているように思える。日本には日本独特の文化があるので、そもそも、他に笑いをあわせる必要がないだろう。日本の笑いの多くは、ボケや日常の失敗についてであると思う。 米英ともに、自分たちの国民性を笑うとこがある。米国人はとにかく先頭に立ちたがり、目立とうとする気質、なんでも一番でないと我慢できない性質等。英国人はとにかくプライドが高く、貴族で、自分たちは、ジェントルマンだと認識している性質等。日本人は、自らの国民性があまりわかっていないものと思える。メガネをかけ、写真機を片手に、出っ歯という日本人イメージが流行ったぐらいだろう。 考えてみれば、日本人が出てくる洋画での、日本人の描かれ方はどれもコメディそのものである。多くは侍、武士が多いが、日本人のイメージとは大幅に異なる。笑いは、驚異や、恐怖を和らげる効果があるので、日本人を驚異、恐怖の対象に感じた裏返しだろう。 それにしても、現代日本人ではなく、侍、武士といった過去の日本人が、日本人の国民的イメージというのもお粗末この上ない。 日本人は、日本人ならではのコメディを世界にアピールすべきではないか?とも思う。 人間は深刻な状況ほど、笑いが必要とされるので、日本人のなかに、それほど、深刻な状況がなかったか、切腹というような、笑って回避するよりも、犠牲を尊ぶ自殺を選択する、民族性があったせいなのかもしれない。ならば、あるいは、日本人の切腹に走る猪突猛進性を、コメディにしてもいいのではないだろうか? 昨今は、お笑いブームなので、その深刻性が増しているのだろうか? 日本人らしさをコメディにした、三谷幸喜作品に期待したい!
2006年01月05日
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スフィンクスの謎々とは、「朝は4本足、昼は2本足、晩は3本足で歩く者は何か?」と、スフィンクスが、謎かけをして、それに「それは人間である」と、答えるものであるが、神秘学によると、それは太古の謎々であったというが、これは少し趣が異なる。 「若いときは、人間は四本足で歩く。中年には、二本足で歩く。年を取ると、三本足で歩く」というようなもので、人間は老いるということが、その答えだったという。そして、そのときの人間の認識は、人間は足から老いていくというもので、頭に関しては、常に、前世の成果に留まるということだったようだ。 つまり、頭は一生のあいだ、子供のままにとどまるので、子供の頭の教師が、子供の頭の生徒をどのように扱えばよいか? この問いこそ、真の謎々だったという。 人間の頭は、残りの身体、胸部や四肢に運ばれる旅人に他ならないという見解なのである。 胸部は、頭を世話する養育者、世話人であり、四肢は、労働者であり、奴隷である。 神秘学によると、肉体の原型は、土星期に、黄道十二宮にからつくられたとされる。前回、その簡単で大まかな解説を書いた。 そこでは、前世を形成する4つの精神である、雄羊宮、雄牛宮、双子宮、巨蟹宮が頭をつくり、地球と均衡をとるにおいて、4つの精神である獅子宮、処女宮、天秤宮、天蠍宮から、現世を形つくる胸部をつくり、そして、四肢の活動である4つの精神の、人馬宮、磨羯宮、宝瓶宮、双魚宮が、次の来世を形つくるものとされている。 太古の人類は、精神から人間がつくられることを理解していたとされるのである。 神秘学では、太陽の春分点が、黄道十二宮のどれを通るかで、その時代の精神的象徴が得られるとしたので、現代は魚座にあるとされるという。太古の魚座(双魚宮)の時代では、人間は分解、解消の危機に、具体的にさらされたので、現代の魚座の時代ではいわば抽象的に、機械的に自動に、この分裂、解消が行われるというものであるようで、実際、抽象的な分別知から、闘争や戦争、そして世代間ギャップが生じて、先進国では、人口が減っているだろう。次の水瓶座(宝瓶宮)では、この解消が更に発展するので、精神的なつながりを見い出さないと、人間の精神は、物質的、抽象的世界に、解消されてしまう危険にあるといわれている。 神秘学では、アトランティスの大破局後の地球の文明を、ポストアトランティス期として分類しているが、第1期は古インド期で、それはノア(マヌ、マニ)が、アトランティス期の7つの神託所から7人の弟子を連れてきて、古インドに7聖仙(リシ)として、文化を形成した時代を指し、第2文化期は、ゾロアスターの活躍したカルディア期で、第3文化期は、ゾロアスターの弟子のヘルメスとモーセの活躍した時期とし、第4文化期は、ギリシャ文化期としている。そして、現在は第5文化期といわれる。 カルディア期からエジプト期には、人類は太陽に目を向けていたので、神秘学では、「両生類」の時代とも呼んでいる。それは日光を浴びて、土の湿っぽさから解放されるのを喜んだという意味で呼ばれる。アトランティス期のときは、人類は多量な水を含む空気のなかに生きた生物だったので、水生だったのである。いわば「魚類」だった。 現代の第5文明期では、土(物質)のなかにこもっている文化なので、「モグラ」とはいえない「ミミズ」状態と呼ばれるという。太古においては、具体的な精神的象徴として記述された。 そして、最初に述べたスフィンクスの謎々は、次のエジプトの神、イシスの碑文によって明らかにされるという。 「私は全てである。私は過去であり、現在であり、未来である。私のヴェールを、死すべき者全てが取り去るべきである」 そして、遺伝の問題は、上述した碑文と、以下の碑文の相違により帰されるという。 「私は全てである。私は過去であり、現在であり、未来である。私のヴェールを、死すべき者が、取り去ったことはない」 つまり、死すべき者が、私という普遍性を有する真実のヴェールを取り去ることができるかどうかで、遺伝が生じるわけである。逆にいうと、遺伝を克服したときに、真実のヴェールが取り去られ、永遠の私のなかに、生きることができるというのである。 私のなかの普遍的真実とは不死なる魂のことであろう。 それは遺伝には因らないものである。この世に生まれるからこそ死すべきものであり、遺伝を有するものなのである。 遺伝とは血であり、穢れたものに堕落したものである。精神は、それを乗り越えることができる。なぜならば、精神性は、宇宙の構造、黄道十二宮と7つの惑星の関係から生まれるものであるからであるという。 ちなみに、スフィンクスの物質的形は、おそらく、4つの精神である獅子宮、処女宮、天秤宮、天蠍宮を象徴的にかたどったものであろう。 ピラミッドは人間の頭部を成し、スフィンクスは胸部、そして当時のエジプト人が四肢を表していたのだろう。ピラミッドは、おそらく、雄羊宮、雄牛宮、双子宮、巨蟹宮を表現したもので、当時のエジプト人は、狩人、畜産家、農民、商人に4つに分類される。 人間は宇宙において、もともと、それらを調和した関係において、精神的に結びついていたのである。精神は、宇宙構造、黄道十二宮と7つの惑星により生まれたのであるのだから。 それをエジプト人は知っていたのである。 人間のなかの23の思想とのこれら宇宙構造の関係は、神秘学により表現されうるが、その解説は次回に譲りたい。 そして、エディプス王による複雑な血縁の系図、遺伝とも象徴的に思わせる解答は、遺伝的な問題は、抽象的な論理では、解答できない謎であることを意味している。だから、現世の精神の象徴であるスフィンクスは死んだのである。 とどのつまり、遺伝の問題は、論理ではなく、血を超えた精神性でこそ解決すべき課題であると、人類に警告しているのであろう。血が闘争を生み、抽象論で解決するものではなく。胸部の象徴、調和、調整能力である金の作用こそ相応しいと説くものなのであろう。 同時に、スフィンクスは、人類の自ら1人1人に、天から下ったイシスである自我の象徴をも表すのである。 我々がイシスを生かすかどうかにより、現世である胸部は生きることができる。イシスをスフィンクスにし、蘇らせることが未来への人類の課題と、エジプト人は警告するための意味でも、古代遺跡をつくったのだろう。
2006年01月04日
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