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またまた久しぶりに書きたい。シュタイナーの話は最近まったくできないでいるが、それとは別に、日本人ほど騙されやすい国民性はないと思う。というか日本人という言い方も厳密にいえばおかしく、騙されているのだが、 この日本列島にたどり着いて住む人間という意味で使うのではなく、昔からこの日本列島に住み文化や文明を営んできたような古い歴史をもつ民族のような意味で使われているか、単純馬鹿丸出しに、日本語が流暢に話せる人という意味で使われているようにみえる。 日本人というのがさも単一民族というように錯覚させられているが、ほとんどが黄色人種だから外見から区別できないせいもあるが、容貌や体型の多様性から、他民族であることは明らかなのである。 というのも、庶民という言葉や、日本史というのが非常にインチキで出鱈目で、この国の身分制度の変遷を厳密に解明せずに、なかば古くからの身分制度がいまだに残っていることからもわかるだろう。 身分制度を習わないから、庶民と言うのは、昔は差別語だったこともわからないわけである。 日本史が非常に曖昧だから、その曖昧さ故に騙されやすい国民性をもっている。 日本国憲法では国民主権が唱えられているのに、政治家や官僚をお上といってしまう国民性なのがその証拠でもある。連中は国民の代わりに会議をしているだけで、本来は、国民がお上なはずである。 大東亜共栄圏の名目を掲げ、侵略戦争をして、世界の顰蹙を買って、負けて、日本国憲法を与えられても、いまだ、古くの地盤を受け継いで、成金のような政治家や官僚たちをお上と呼んでしまい、ジミン党に票を入れるように洗脳されているジジババばかりだから、詐欺事件が減らないのもよくわかる。 要するに、愚民化政策が巧くいっている証拠なのだ。今更言っても手遅れなのだがね。 それはそうと、あまりにも歴史家が馬鹿で、騙されやすい国民性を担っているから、その点には問題提起をしておきたいと思ったのである。 資料、史料というが、時の権力者が、自分がやったというような資料や史料を残すわけがないだろう。つい最近のアホバカの桜の会だってそうだろう。残ってたりしたら、それが時の権力者の眼の届かないところだったか、意図的に残したのかのどちらかであろう。 そのような史料を残すのは命懸けで、左遷で済めばいい方なのは、現代でも同じである。 七万の接待など氷山の一角だろう。 大体、昔から、偽物が出回っている常識さえ知らないのか、「史料が残っていない」のを理由にするアホバカ歴史家が多すぎる。歴史というのは、前の出来事が後の出来事を派生させるのだから、史料などよりも、その経緯を明らかにするほうが重要であろう。 物理学でいえば、ファインマンの経路積分のようなものだろう。 何よりも、そのような史料が残っていない方が、むしろ怪しいと思うべきだろう。 例えば、本能寺の変で一番利益を得たのは秀吉である。一番損したのは光秀である。これは事実で、誰もが納得するだろう。なのに、なぜ秀吉が下手人じゃないのか? その史料が残ってない? はぁああ?? 秀吉が史料を葬ったに決まってるだろう。馬鹿でもわかる論理である。自分でないように書き換えさせたか、光秀説を流布させたかは、秀吉が天下をとったらできるはずである。そんなこともわかららないのはアホすぎる。 言論の自由を問われるいまでさえも、自己保身のために忖度を図る国民性をもつ騙すゴミたちである。 なんで中国大返しのような芸当ができたのか? これも偽り臭いが。話を盛っている事がわかる。 事実よりも、時の政権をヨイショし捏造に手を貸し出世する民族性、お笑い芸人の国だよ。 つまり、秀吉に関する記述には、偽書か、秀吉の検閲が通った上に残されていると思うべきだろう。 ソクラテスのように毒杯を飲むのなら、黒を白という国民性なのだよ。この国に科学者はほとんど皆無と思われる。特に歴史家は酷過ぎる。 また例えば、西郷の写真が残ってないのは、西郷が暗殺を恐れ、写真を撮らなかったといわれているが、明治維新に関わった連中のほとんどが、西郷の部下の中村半次郎だって桐野として残っているのにないはずがない。 つまり、西郷の写真のほとんどが葬られたということだろう。残っていると、都合が悪いからである。 日本史のほとんどが嘘塗れなので、そのことがよくわかる話を、ついでに八切史観から紹介する。 ★ ★ ★ 1086 日本意外史 11 水戸黄門の世界 元禄年間以降あらゆる出版物の統制をした徳川家のために、日本の歴史は、寄らしむべし知らしむべからずといった具合になったから、庶民には芝居とか講釈、そして、でろりん祭文の世界だけが覗き穴的に許されたに過ぎない。 それゆえ、まるでそうしたものが、つまり過去の時代を扱ったものすべてが、さながら歴史のごとくにも誤られたので、「稗史、小説」といったいい方もされ、そして、それが、やがて活字によって表現される講談という形になったとき、今でいうサービス精神が庶民に迎えられるような語り口となった。このため、大衆の代弁者としての一心太助を作り、体制のパイプ役に大久保彦左が担ぎあげられたのであろう。 つまり、『水戸黄門漫遊記』といったものも、歴史なら事実ありの儘で良くても、銭をとって読ませる為には面白可笑しくといった要素がいるので、痛快がるようにと加味されたものなのである。 だから、かいつまんで紹介してみると‥‥ 助さん格さんを伴にして田舎親爺然の、梅里先生が諸国を廻って歩き、権力を笠にきて弱い者苛めしている連中を見つけると、「ああ、これ、これ」すぐに声をかけ、「助けてやりなされ」と腕っ節の強い二人をさしむけ、相手をこらしめる。もし向こうが代官とか領主の時には、体制には一応は逆らわずに、 「さあ縛りなされ、手向かいは致しませんぞ」と連れられて行き、さて向こうの親玉が出てきた処で、 「やあやあ、ここに控えておられるを、誰方(どなた)かと心得おるか‥‥恐れ多くも天下の副将軍水戸光圀公にあらせられるぞ」 助さん格さんが、びしっと一発かませる。すると向こうはびっくり仰天。真っ青になって平身低頭。そして、「知らぬ事とはいいながら、平に、平に御容赦の程を‥‥」 泡をくって周章狼狽するまこと痛快な場面となるのである。 ----しかし、この黄門漫遊記は全くの講談で、本当のところは侍臣を使いには出したが、ご老公は茨城の太田から何処へも行かなかったといわれる。 では、何故、そうした物語が、元禄時代を背景に生まれ出たのか。 今日、昭和元禄などと使われているように、元禄時代というのは泰平ムード溢れた暢(のんび)りした世の中で、なにも御老公が嘘にしろ、てくてく諸国を見て廻る必要も、なかったろうにと想われる。 が、こうしたいわゆる常識的な味方と、その時代の本当のところがまだ伝わっていた頃の実際の見聞とでは、どれ位までくい違うものだろうかと気になる。 また元禄時代というのが表面は天下泰平であっても、一皮むけば、それは大変な世だったこともまず判って頂きたいものである。それは今や、昭和元禄とまでよばれ平和そのもののようにみえながら、故三島由紀夫氏らが、「他からは狂気の沙汰にみられようとも、これぞ憂国の至情の致すところ」と割腹し介錯をうけ胴と首を別個にして、自決している反面すらもあるのである。 さて、ターララ、タララララで始まる元禄花見踊という和洋大合奏が賑やかなので、そんな世の中だったのかとも誤られやすいが、あれとても実際は元禄時代に出来たものではない。 「元禄小袖」とよばれる派手な衣裳も、勿論あの時代に関係はなく後世の産である。では、どんな時代だったかというと、徳川時代をそのまま鵜呑みにしている歴史家が説く元禄時代とその実際は、改めて考究してゆくとまるっきり違う。 「雪と炭」といった古い形容詞が当てはまる位に相違するのではなかろうか。 というのは徳川家というのは、もともと前述した平凡社『百科事典』の新田系図にあるごとく、世良田系であり修験者畑である。 (被差別部落出身という意味) だから家康、秀忠の代には、「柴衣事件」で知られるように、仏門への風当たりが極めて強く、坊主に対しては、おもねってくるのには寛大でも、威張っている坊主には、くそみその扱いで遠島処分にさえした。 しかしそれも、家光の代からおかしくなった。 秀忠は、「神君東照宮」として父家康を祀ったのに、「仏式にやりかえい」と家光は、神君を権現さまに変えてしまった。だから家光の子の家綱や、その弟の綱吉の時代になると、ますます仏教傾向がひどくなってきた。 (東照宮というのは、日本古来の神道式) そして綱吉は、「東光の者らをかたづけい」とまでいいだし始める。 東光とよばれるのは、西方極楽浄土を唱える一般の仏教に対し、「東方瑠璃光如来」をもって、東方にこそ光ありとする宗派で、これは「医王仏」とも、また、「薬師寺派」ともいうものである。 この信者は、かつて公家に対する地家、つまり原住系として捕虜収容所の、別所、散所、院地へ入れられていたり、または、北条氏におわれて逃げこんできた源氏の残党。つまり俘囚の裔なのである。 だから俗に武士は俘囚の末だからと、「地家侍」などといわれるのも、この為であるが、彼らは初めは、エビス、ダイコクの七福神や、白山神、土俗八幡の信仰だった。 しかし織田信長が天正十年六月に、本能寺で爆死をとげると世の中が一変し、今も残されている、『天正十一年裁可状』の文面にもある通り、各地の拝み堂から、修験や博士、太夫とよばれていたのがみな追われ、僧籍をもった者が代わりに入ってそれが寺と変わったとき。 いきなり頭ごなしに、西方極楽浄土も受けつけまいと、それらが、いわゆるお薬師派になったので、それまでの原住系のあらかたは、東光の信者になったのである。 『天正日記』とよぶ徳川家康の臣が、刻明につけたものにも、小田原から江戸へ初めて入ってきた家康が、まず東光の御堂を拝み、寄進をした旨をかいているが、この派の信者は関東には多かった。 もちろん何時の時代、何処の場所でも、以前のオキナワにしてもアメリカ人より県民の方が遥かに多いのは常識だが、徳川時代でも、西方極楽浄土の門徒より、東光信者の方が数では圧倒的に多かった。 しかも彼らは、皮はぎという専売業をもっていた。 戦国時代は終り、冑鎧の需要はなくなったが、ビニールも[合成?]レザーもない時代ゆえ、元禄期になっても皮革は高価に取引きされていた。 だから製皮業者を信者にもっている薬師寺派の方は、寄進喜捨が多く、掘立て小屋みたいな拝み堂だったのが、次々と山門つきの立派な普請に変わっていった。昭和の今日でも、「お寺言葉」で、裕福な檀家のことを、「肉の厚い」とか、「皮の良い」というのは、これから来ているのである。 さて、こうなると西方極楽浄土側の方では、「面白くないこと、おびただしいものがある。怪しからん」 と将軍家の生母お玉の方をつつき、しきりと運動をした。 そして考え出された名案というのが、「皮をはいで儲けるな」とは法令が出せぬからして、「生きものを憐れめ」という、生類憐れみの令である。 日本では獣といっても虎やバファローはいない。比較的捕えやすく皮を剥がしやすいのは犬である。 そこで畜類を愛護する為ではなく、製革業者を弾圧する必要上、各地に犬小屋を作って片っ端から収容した。しかし係りの役人の中には、その法令の真の目的までは判っておらぬ者もいたからして、「雀をとってはいかぬ。鳥類も生きとるから、生類の内に入るのである」と、畑で野荒らしの雀をとった子供さえ牢に入れられた。 さて、これが地方へ行くと、ますます役人は融通がきかなくなるものだから、余計に厳しくなってしまい、「なに鼠を、猫が捕えて食したと申すか‥‥それなる猫を召捕って牢へ入れい‥‥うん、猫も生類の内か。それでは捕えた身共の手落ちとなり、責任問題になるやも知れんな。では猫の飼主をつかまえい。人間ならお叱りはあるまい」 といった事態が各地におきた。こうなっては野良へでも、吸いつくひるさえむしり取れない。 そこで、誰か、役人や代官より豪い人が見廻りにきて、「助けてくれぬものか」といった願望が、『水戸黄門漫遊記』となって現れ、庶民の夢と憧れになったのだろう。もちろん講釈になった時期はずれるが、この元禄時代が如何に大変であったかは、孫子の代まで語り伝えられていたので、 「そうか、黄門さんが廻って皆を助けて下されていたのか」 と一般大衆は涙を流して喜んで聞いていたのだろう。 だから『講談水戸黄門』の方も、そこは抜かりなく、「ご老公におかせられては、犬より人間の方が粗末に扱われるとは何事かと、くだんの死んだ犬の皮をはがさせ、血まみれなものを役人に渡してやり、わしは光圀なるぞと仰せられて‥‥」と、そういう挿話までが書き込まれている。 さて、俘囚の裔の原住系の中には武士となっている者が多いから、「暴動、一揆、叛乱」という心配をしたのだろう。それまで知行所に住まうことも、その行ききは自由だったのが、この元禄年間から禁止されてしまったのである。 やがて、この結果名主とか庄屋が、自分の宰領で年貢を出すようになったからして、武士を軽視しだし、天誅組の吉村寅太郎のような庄屋の伜が、「天皇さまの下に大百姓が揃って政務をとり、武士階級をなしにする時代」を夢みて旗あげするようにもなるのだが、これは後の物語である。 虚像大岡越前 たしか『丹下左膳』にも、『大岡政談』というサブタイトルがついていた。そこで大岡越前というのは、自分から聞きこみに、こつこつ歩き廻ったり、危うい目に逢いながらも庶民のために正義の味方となってくれた名奉行、というイメージを今も一般に与えている。 処が、先年なくなった田村栄太郎の著では、 「すべての出版物に弾圧を加えたのは、講談で馴染みの大岡越前であって、一般庶民の歴史常識、知識をまったくゼロにさせ、小説、演劇、講談といった出たらめな作りごとを、さながら史実のようにも誤認させた張本人は彼であって、そうした徳川時代の愚民政策は、施政上都合がよいせいか今も続けられ、まったく噴飯ものである嘘八百の芝居や講談に、歴史の方が折り曲げられ合せられている。バカバカしい話だが有知識人と自負する人でも日本では講談常識の範囲でしかなく、それで頭がこりかたまっている。これも大岡のせいだ」 と前置きがされてから、 「どんな書物であっても作者版元の住所実名を、奥書につけ奉行所へ差し出すこと。これまで通りのことは良いが、新説異説を唱える者は厳罰に処せられること。権現さまや徳川家を扱った場合は、直ちに重き刑にあう。やむをえぬ場合は前もって奉行所に伺い出てその差図を受くべく候」と、事前検閲制までとっていたと説明し、「大岡越前を名奉行扱いしたのは、その後の出版業者が奉行所のミコをよくしようと、中国ものの翻案で大岡政談を作ったせいだ」 としているが、さて、本当はどちらなのかということになってくる。 大岡越前守に対照されるごとく、やはり劇映画やテレビに引張り出される形の、遠山桜の金四郎こと遠山左衛門尉景元とは、彼の有り方はまったく違うのである。 勘定方上りだった遠山は、経済取締りをかねたが、その方針は、やはり司法警察だったろうが、大岡の方は徹底した行政警察なのである。 つまり彼は今でいう警察国家をまだ江戸時代なのに、世界に魁けて創造した卓越した頭脳と技倆の持主ということになる。 「武士は主があるを知って、主に主あるを知らず」とする封建時代にあっては、大岡は徳川家の御為だけを考え治安維持に万全を尽せばそれで良かったのだろう。彼の施政方針によって、日本の歴史が判らなくなったり、それが歪められてしまったとしても、それは関知せざる所であったに違いない。 とはいうものの、町奉行という文字面の観念で、そうした行政方面の辣腕より、もっと庶民的なものをと、今の人は感じたがるらしい。だからして、朱房の十手を腰にさして歩くような大岡の虚像を瞼に描きたいもののようだが、町奉行という職は、町のため住む人の為にと作られたものではなく、江戸時代にあってもそれは取締まるために、おかみが作ったものである。 だから今日のように、「税金で人件費を払っているから公僕」といった考えで、「大岡さまは江戸の町の守り本尊」と、マンガ式にみてはならない。 彼が名(迷)奉行だった一つは、中国でも秦の始皇帝しかやれなかった焚書を、彼は日本でも堂々とやっていること。 そして、まだ十八世紀の初頭の1717年(享保二年)に登用されると、すぐ今日の警察国家の形態を考え出した点であろう。 次に二十世紀に入ってから、万国ジュネーブ協定によって、出版物は奥付に著者名発行者名刊行月日をつけることが、赤化宣伝物横行防止のため、自由諸国間に取り決められ、現に吾々のみる本はみな奥付がついているが、驚くなかれ大岡越前守は既に1725年(享保十年)において、それを実施し法令化し、「前もって奉行所へ訴え出て、その差図こを受け申すべく候」 事前検閲制度まで施行していたのだから、立派なものである。「泥棒、人さらい、掻払い」といった町民のための司法警察は、「主権在民」などといわなかった江戸時代の事ゆえ、放っておかれたので、日本駄右衛門の白浪五人男の台辞のように、「盗みはすれど、非道はせず」と、大岡越前は泥棒などは非道とはみず大目にみて、行政警察にのみ専心。 やがて彼は、「前の奥州梁川三万石城主にして、その兄継友の死後、尾張へ戻って御三家六十二万石第七代目名古屋城主となり、それまでの通春」の名を「徳川宗春」とかえた文学青年を、「不都合のかどこれあり候」と閉門にしてしまうと、すぐさま、室鳩巣序文、堀杏庵作となっている『石ガ瀬戦記』の二冊に、尾張宗春自身の名で出された、『温故知要』まで一括没取し、これを江戸表へ送らせ、ことごとく焼いてしまう弾圧ぶりを見事やってのけた。 何故かというと、これは、徳川の世も七代吉宗と、ようやくおさまり大磐石の安きに落着いてきた処へもってきて、「三河松平元康が家康さまというが、そちらは長顔で、尾張徳川家始祖義直公のため名古屋城が築かれたとき、実地検分にこられた権現さまは丸顔であらせられた」とか、 「三河の家康さま[松平元康のこと]と浜松の家康さまが同一人のわけがない。何故かなれば石ガ瀬と和田山で二度まで対戦しておられる」 「三河の方はプロの兵だから強かったが、権現さまの方は伊勢の薬売り榊原小平太とか、遠州井伊谷の神官くずれや、渥美半島の木こりの大久保党、駿府の修験者酒井らの寄せ集めの者ゆえ、二度ともあっさり権現さま方は負けてしまわれたのである」 といった土地の故老たちの懐旧談を、いやしくも権現さまの玄孫にあたる御三家の当主、宗春の手で版木にされ、「徳川家康は二人だった」では、どうも公安上差支えたからであろう。 そこで御家御安泰のために、その版木は没取され、木はみな灰とし、宗春処分後も、尾張へはそれから代々養子をもって継がせるという、抜本根源策を越前守はたてたのである。 ついで大岡越前守が名奉行ぶりを発揮したのは、アメリカでFBIが創設されるより、百年も前にそれを日本で始めたことによる。 大名領、天領と分かれていたその頃の日本は、法律も各国ごとに違っていた。 それを越前守は、街道という点と点をつなぐ線上において、全国を一つに結びつけ、これに公儀直轄の探索逮捕の網をはることにした。 享保二十年(1735)十一月十六日付で、大岡越前守は、街道筋を遊芸物売りで行商して歩く、昔の原住系で大道商いの、「道の者」とよばれていた連中の主だった者を集め、彼らに、「道中で怪しい者を見つけたら捕え、取調べ方を命ずる」 朱鞘の公刀に十手取縄を渡し、従来の地方警察制の上へ、新しく国家警察を設けたのである。しかし当人らは、十手を腰にさして、「ええ飴だ、飴だよ、金太郎さんの飴だよ」 と太鼓を叩いて廻っても売れはしない。 それに捕物をするのには人手がいるが、飴屋や薬売りでは、その人件費の捻出は不可能である。 だから街道のやし[香具師]はいつしか縄張りをきめ合って定着し、現地の地方都市が競輪競馬のギャンブルで資金を作り、それが地方警察の建物をたてたり給料を払ったりするみたいに、賭場をひらく事にした。その方が儲かるし、子分を賭場では、 「ええ寄ってらっしゃい、お手なぐさみに如何さまで‥‥」 と客引きにつかい、御用の節には鉢巻をさせて、「やいやい神妙にしろ」と、くり出すことができ、一石二鳥にうまくゆくからである。 つまり映画や三文小説では、「二足草鞋の親分」という悪い奴の代名詞みたいにするが、あれは間違いで御用の十手を握るやくざの親分の方こそ、大岡越前守から命ぜられた国家公務員のFBIの子孫なので、いわば正統派なのである。 天保から幕末にかけて物価高と飢饉で浮浪人がふえ、もぐりのやくざが旅から旅へと渡り歩いたが、あれは半可打ちといわれた者で、「仁義」をきらせ、その生国や親分の名を、まっ先にいわせるのも、筋目正しい大岡越前守さま御免許の渡世人の流れか、もぐりかの鑑別をする必要上、うまれたものなのである。 さて、幕末文久二年(1862)になって、それまで朱鞘をさし、御上御用をやりながら賭場をしていたやしの親分が、抜刀が横行しだしたのに手をやき、昔ながらの、「神農さま」をまつる高市(たかまち)稼業一筋に戻ってしまうと、もう半可打ちも本可打ちもなくなり、博徒らは血みどろになって縄張りを守り拡張しようと斬り合いにあけくれするようになった。天保あたりまでまあ波静かにおさまっていたのは、大岡越前守のFBI制で、博徒が御用聞を兼務していた賜物であったから、明治新政府も、「清水の次郎長に十手取縄」といったように初めはその真似をしたものである。 つまり俗に名奉行といわれる遠山桜の金四郎のごとき、町民に媚をうるようなげすとは違い、なんでもかでも権力で押しきってしまい、後年の模範ともなっている彼こそ、「能吏」中の能吏、徳川家にとっては他に比肩をみない名奉行であったといえよう。 うばは乳母でない話 箱根に姥子(うばご)の湯というのがある。 伝承では坂田山の金時が、眼の悪い姥を背負ってゆき、眼病にきくとされる明ばん泉で治すため通ったとされている。また、「姥すて山」が信州の川中島の近くにある。 これは貧しい農民が食べさせてゆけなくなった姥を背負ってゆき、堪えてくれとやむなく置いてくる山だったそうである。 だが、どちらも「ウバ」とあっても、もし乳を呑ませるだけの乳母であるなら、乳離れした時に暇を出されてしまっている。 それでは年寄りになるまで同居して、眼が病むからと冷泉の出る所まで運んでゆく事も事もなかろうと想われるのである。 しかし姥の字は女扁に老とかくから、老女と解釈したいらしく、翁と姥といった組合わせもするが、女の古いのといってもやはり母親には違いなかろう。つまり「うんだばば」がうばと想えるが、それでも現在では、「ウバ」といえば、乳母が常識である。 漢音にしろ呉音にしろ、乳をウ、母をバとよぶ発音はないが、これが罷り通っている。 もちろん戦国ものの確定史料には、そうした言葉はなく、乳人というしかない。 だから乳母も「ちちぼ」でなくては変だが、これの語源とされているものは、橘成季(なりすえ)の『古今著聞集・十五』にあるところの、「幼き日に浅間しく歎きて、うばにうれえ、たいじようしけれども」の一節からだという。 が、(うれえ=訴え)(たいじょう=両手をつき詫びる有様)だからして、うばが奉公人の身分であるならば娘がそこまですることはなかろう。これは著聞集を解釈した人の誤りではなかろうか。 なにしろ「うば」を乳母にしてしまったが為に可笑しくなってしまったのは、なんといっても春日局の存在である。 「竹千代御腹春日局、のち三代将軍家光 国松 御腹御台所 のち駿河大納言忠直」と明記されているものが残っている。 これは幕末まで江戸城の紅葉山文庫に、極秘保管されていた『神君御遺文』の末尾につけられていたもので、明治四十四年に非売品として千部だけ活字本になったものである。 原文は内閣総理府図書館に、今も歴然として残されている。 「御腹」とはいうまでもなく、生母のことである。つまり徳川家では、春日局は徳川家光の母であったことが明白なのに、どうしてこれを匿していたのだろうか? その謎ときは後に廻し、まず従来の乳母説をもう一度考えてみたい。俗説では、京所司代板倉勝重が、徳川秀忠に長子が生まれたので、よき乳人をと公募して彼女を採用し江戸へ送った、----という事になっている。 が、公募というからには、何人もの候補者が選ばれ江戸城へ集ってコンテストを受けるべきである。なのに初めから彼女ひとりだけが東海道五十三次を遥々東下りして江戸へ赴いている。 これでは肝心な秀忠夫妻に面接せぬ先から、もう決まっていた事になって変ではなかろうか。 さて彼女はそのとき既に、正勝、正利の子があった。 つまり乳母として採用されるからには、末子の正利はまだ授乳中でなくては話が合わぬ。処が正勝の子の稲葉正則が本郷湯島麟祥院へ、貞享三年九月十四日に奉納した額によると、彼女が東下りした時、末子は既に三歳であったとある。 すると彼女の乳は止っていた筈である。ではドライミルク罐でも持って行ったのだろうか? 家光の生母なら乳が出て呑ませられたろうが、でないと搾っても出ない事になる。 それに乳母なら、乳離れした時お暇が出るべきなのに、彼女はそのまま居座って家光七歳の時には、死にかけの家康を駿河から引っ張り出してきている。 あれは乳母では強引すぎて、まるで男の責任を問う女のような、そんなやり口である。 だから家光は秀忠の子ではなく家康が彼女に産ませ、母子こみで江戸へ送って置いたもの、とも疑えるのである。 もし竹千代も国松も共に孫なら、わざわざ死ぬ前年の七十四歳の老人が、江戸まで出てくる必要などなかったであろう。 また秀忠にしても吾子なら、家光が二十歳になったからといって、自分がぴんぴんしているのに将軍職を譲ることもなかったろう。どうも変である。 春日局という名は彼女で打ち切りになってしまったが、それは、「征夷大将軍側室にて小御所へ参内、天覧をうける女の官名」と定まり、室町時代にも代々「春日局」は一人ずついて、『毛利家記』にも、足利義昭の春日局の記事が書かれてある。 だから彼女がその名を用いたことは、家康の側室だった事に間違いなかろうと推理される。 なにしろ彼女は前夫の子を十二万石の大名に、自分も神奈川三千石の所領の他に、銀百貫匁ずつ毎年とっており、寛永二十年病気になると、代官町の屋敷へ家光は三度、家綱も二度、御三家はもとより勅使までが詰めきる豪勢さで普通ではない。 なのに彼女が乳母と世間を偽ったのは、五代綱吉から徳川家では、彼女の父斉藤内蔵介がなした信長殺しを、家康の使嗾とせず光秀にかぶせる為の工作で変えたものらしい。 なのに初めは、「三代将軍家光公卿御はら」とあるのが、いつの間にか、乳母となってしまたったから、戦前の修身の本などでは、「春日局は幼い竹千代を大切にした。だから竹千代も成人してから、春日局を大事にして仕えた。乳母とはいえ忠義を尽せば必ず報いがある。隠匿あれば陽報ありなのである」と、よく働け、主人を大切にしろ、といった教訓用にと教材用にされたものである。 しかし、いくら忠義を尽した処で、相州東郡内用吉岡で三千石の領地と、毎年白銀百貫匁ずつの手当となると、手取りだから一万石の大名なみで、他に春日局は江戸代官町に三町四方の敷地を貰って、ここへ親類の蜷川喜左衛門の手で豪壮な邸を建てさせた。 そして寛永二十年九月に発病し、代官町の自邸へ下がると、千代田城から其処まで家光は三回も行列を仕立てて見舞い、家光の子の家綱も二度にわたってその枕許に付き添い、千代姫を始め家光の他の子女が詰めかけ、御三家の尾張、水戸、紀伊も何度も伺っているが、恐れ多くも御所から勅使右衛門佐局までが下向している。これでは、いくら忠義への報酬でもオーバーすぎる。家光の生母だからであり、家綱らには祖母に当たるためだろう。 といっても、「春日局は家光の乳母」と思いこまされている人が多いからして、「そんな事はない」と否定したいだろうが、彼女を葬った前述の湯島天沢山麟祥院に、追悼の額をあげた孫に当たる小田原城主稲葉美濃守正則や、江戸代官町の屋敷を建てた蜷川(この曾祖父蜷川道斎の妹が斉藤内蔵介の母で、春日局の祖母)の自筆書付によれば、 「春日御局が京より東下されしは末子内記が産まれてより三年後の慶長九年なり」とも明白にある。 つまり他人の乳母では、最後の子をうんでから三年もたっていてはとても乳など出まい。 が、御腹ならば自分で家光を産んでいるのならば、これはいくらでも授乳できたというものだろう。 さて、死せる子は眉目よかりき、などというが、どうも故人となった女は、死者への礼でもあろうか誰もがみな美人扱いをされてしまう。 しかし本当の美女はそうざらにはいなかったらしい。が、誰もが依存なく指を屈するのは、やはり於市の方であろう。父の織田信秀は勝幡の小城から、尾張八郡を平定するようになる迄、普通では兵も馬も集まらぬから、 「平手の庄の政秀には年頃の娘がいる」ときけば、その娘に後の三郎信長をうませ、「阿古井の豪族土田久安に妙齢な女子」がと耳にすれば、それに後の四郎信行を作らせるように、一夫一婦の時代でなかったから、その生涯に男子は一郎信常から十一郎長益(織田有楽)まで、女子も於市の他に八人をそれぞれ尾張の豪族の娘にうませている。 そして、それらの親兄弟を味方にして、今でいえば同族会社のようなやり方で、尾張一国を掌握し得たのである。 だから信長と於市は異母兄妹の間柄に当たる。 さて、信長は美少年万見仙千代を奪うため、摂津の荒木村重と戦ったようなホモ型である。もちろん戦国時代ゆえ人的資源の必要上、生駒将監の後家娘に信忠、信雄をうませたり、神戸の板御前とよぶ未亡人に信孝らを作らせているが、それはやむを得ぬことで、きわめて女嫌いで女性にはむごかった。 それが於市御前だけは可愛がり、浅井長政へ嫁入りさせる時も、前にいた女はそっくり追放させ、信長は己れの長の名のりを与え、「長政」とした先方へ当人をとっくり確かめてから縁づけている。 信長が他の異母妹には無頓着で、於市一人だけを溺愛したのは、やはり彼女が美少年型の絶世の美女だったからによるのだろうといえよう。 この於市に三人の娘がうまれた。長女は、「やや」と初めよばれた茶々、後の淀君である。この人を於市の娘ゆえ美女と誤る向きもあるが、秀吉が彼女を近づけたのは二十二歳になったからの話しゆえ、それ迄、放って置かれたという事実は、あまり男の気をそそる容貌ではなかった事になる。 『当代記』や、『大阪御陣記』によれば、「騎馬女三十人ばかりいつも引き連れ、緋威しの大鎧をめされ七寸(ななき)の馬にめされ」と、出ているのをみると母親似ではなく、父浅井長政生き写しの骨太な大女であったろうと、『女人太閤記』に私は推理して書いた程だ。 次女の京極高次夫人になった常高院は、「細身ながら気性烈しく」と残っているが、まあ十人並みであったろう。処が三女の、「ごう」とよばれたのは、これは於市をさえ、しのぐ抜群の美人だったらしい。 「せんだんは双葉より芳し」というが、十二歳の時すでに母方の尾張大野の、佐治与九郎に求められて人形のように嫁ぎ、翌年は連れ戻されて秀吉の養子だった信長の四男於次丸秀勝にめあわされ十六歳になった時、秀吉がその秀勝を殺して、己れの甥の秀次の弟小吉に同名を継がせた際、彼女は左大臣九条道房の許へやられ、やがて取り戻されて徳川秀忠の許へ、「江戸へ与えるのだから、江与と改名せい」と嫁入りさせられる。 まあ、余程の絶世の美女でなくては、こうも、たらい廻しさせられるものではない。 さて、この絶世の美女のなれのはての江与と、春日局を対比させ、これをエリザベス一世とメアリ・スチュワート女王との関係においてみたのが、「八切日本史」の中の『謀殺』[既に当コーナーにアップ済み]なのである。 ★ ★ ★ 日本史が出鱈目なほとんどは江戸時代の出鱈目小説と、明治の伊藤博文による捏造明治神道であるようだ。 ちなみに、有名な秀吉が百姓の出というのは、百姓は農民の意味で使われるのは、江戸時代の出鱈目小説のせいであるらしく、秀吉や家康、信長が、部落民の出で、身分制度の改革者であるのを誤魔化す表現なのである。 家康、信長は百姓ではなく、地侍とされているが、それは部落民にも色々出自があり、家康は、世良田ヒニン系の、源氏で四つと呼ばれた馬渡来系部落民の出で、信長の織田家は、八田氏で、元は八つと呼ばれた平氏(ペルシャのぺー)で、海洋系部落民の出らしい。 とどのつまり、先の大戦で、米国の植民地となったが、その前は、白村江の戦いで、古代中国の唐の植民地で、その傀儡政府が、藤原の朝廷政府だったのである。そして仏教カースト身分制度が敷かれたのである。 秀吉が唐入りしたのも、一種の復讐心だったのかもしれない。つまり、当時の身分制度の底辺の怨みだったのかもしれない。家康の身分制度改革は失敗に終わり、それが明治維新を起こして、看板の挿げ替えになり、中国が米国に代わったと思わばわかりやすい。だから、戦争と呼ばずに事変というのであろう。 つまり米国が英国に反乱を起こすのを、戦争と呼ばずに事変というのと同じである。 この国は古くから、植民地だったので、歴史を記すのがいい加減で、出鱈目で、傀儡政権を、お上といって、忖度し、祟り神として祀る習慣が身に付いた国民性なのである。 生粋の植民地人かもしれない。だから差別発言しているのも自覚できないジジババが多いのである。 歴史というのは、過去ではなく、未来にどうつながるかの法則をみつけることなのだよ! 誤魔化してたら、未来につながる法則は見つからないままなのだよ。差別を無くす法則がみつからないままなんだよ!! 林先生じゃないけど、歴史は過去ではなく、いまつくるものでしょ! いまだからこそ、わかる事実があるのですよ!
2021年02月26日
コメント(22)
犬HKの大河ドラマが話題だが、これまでも、このブログでは、本能寺の変は光秀ではないと、八切史観を紹介してきたが、あまりにも何度も書き写されてきた信長公記を元にした光秀謀反説に飽き飽きするので、また紹介する。 八切史観では、本能寺の変の首謀者は、帰蝶で、帰蝶の名を借りた家康、秀吉、光秀らの共謀ということが明らかになっている。 信長は帰蝶の父斎藤道三の力で天下人になれたが(信長は、道三の構想を受け継いだ帰蝶の指図を実行しただけである)、道三を謀略し殺した事が、後に帰蝶にバレて、お互い犬猿の仲、いまでいう離婚状態にあり、それらを都合よく利用したのが、秀吉ということになる。 だから、信長家はかかあ天下で、全てを帰蝶が仕切っていたようである。天下人の妻と言う立場なのに、その記録が残っていないのは、残っていては拙いから書き換えられるか、破棄されたわけである。記録が破棄されるのは、いまも同じである。 そこで動機というと、秀吉は、毛利攻略が巧くいかずに、信長の許可なく、勝手に和睦してしまったのが、信長にバレると拙い立場にあり、家康は、松平元康を殺して、成り代わったのがバレるのを恐れ、元康の妻築山と子信康を、信長のせいにして殺したのが、信長にバレて、命を狙われる立場にあった。 光秀は、足利幕府のスパイのような立場だったようである。信長は、家康を殺して、その領地を光秀に与える算段だったようであるが、斎藤利三が家康と光秀を仲介して、本能寺の変の実行部隊となったようである。 斎藤利三は、長曾我部に妹を嫁がせているので、信長に四国討伐をやられると、拙い立場にあり、信長に何度も諫言していたが、受け入れられずに、決行したようである。 信長は、四国討伐の後に、マカオを堺のように領地にする野望をもっていたようで、それがイエズス会の海外戦略の障害となることが予想されていた。また、当時吉田神道が、銀を資本にカネ貸しをしていたのを、信長は、金を資本にした新しい金貸し宗教をつくろうとしていたようである。 四国討伐には、当時の金融の大転換が隠されていたようである。 そのような信長の誇大妄想が、周囲の波長と合わなくなってしまったのである。それは、後の秀吉の大陸への唐入りが失敗したことでもわかる。 で、以下に、八切史観を紹介する。 ★ ★ ★1201 信長殺し、光秀ではない 20(最終) 火屋 そして、(そうだ、安土城にいて、焼き殺されたのは女なんだ)と、今更のように納得できてきた。 そういえば、あのとき六月三日に、日野の城主の蒲生賢秀が、二の丸にいた婦女子は一人残らず自分の城へ引取った事になっているが、もし、城へ残留していた者があれば、それは、賢秀やその倅が知悉している筈である。 だからこそ六月十五日に、その蒲生の倅に案内されて織田信雄が兵を進め、誰一人として城から逃れられないように、完全包囲してから放火している。この時代、仏徒の方は、土葬だったから、寺には墓地というものがあって、そこへ亡骸を埋めたが、神信心の方は、火屋(ほや)という小さな家のようなものを作り、その中に入れて火葬にしてしまう習慣があった。 つまり城を枕に討死といって、火をつけて自滅するのは、なにも死んで行くのに城を残していくのは勿体ないからとか、屍体を他人に見せたくないからと放火するのではない。城自体を「火屋」として、自分らの死を完遂する宗教上の慣しでもあった。 だから信雄が火をつけて、安土城もろともに焼いた女人は、それが安土文化の殿堂であったとしても、それを火屋として、あの世へ持って行けるだけの値打ちのあった、身分の尊い高貴な女性という事になる。 そして、その女性を焚殺してくれた事を、当時の秀吉や家康が有難がったという事は、その女性には、彼らとて頭の上がらなかった権力者という事になる。 当時、そんなに豪い女性は一人しかいない。 美濃の斎藤道三入道の娘と生まれ、信長をして、尾張の当主にし、やがては美濃をとらせた、奇蝶御前しかいない。 ----安土城跡の總見寺にも、妙心寺の塔頭にも、信長や信忠の墓は後年、刻まれて建っているものの、この奇蝶の墓だけは、美濃にさえもない。全国、何処にもない。 彼女の死に関係した資料は全部、破却焼失処分をされ、<美濃旧記>にさえ入っていない。 だから歴史家は、彼女の扱いに難渋し、身代わりに、「信長信長正室は生駒将監女」と、信長二十歳、奇蝶十九歳の年に、第一子を孕ませた女をもって正室として、彼女に換えもしている。 しかし現代とは、あの時代は違うのである。子を産んだ女が正妻になるというには、それは今の感覚でしかない。 ペニシリンや消毒薬がなくて、出産は女の大役とされ、産褥熱で死亡率の高かった昔は、「腹は借りもの」といって身分の低い女に産ませ、出産と同時に縁を切らせて、次は、正妻が「乳人」に抱かせて、己が子として育てさせた時代なのである。 生駒将藍というのは尾張の名もない地侍である。そこの女を信長が、どうして正室に迎えるわけがあるだろう。当時の婚姻は、個人の感情、つまり現代のように恋愛ではない。家格と家格の取組みである。 もし歴史家が説くように、のちの中将信忠が、生駒将監をの女の腹中に入った信長二十歳の時に、奇蝶を離縁し、生駒氏を正妻にしているものなら、その三年後の弘治二年に、岡崎から駿河勢が攻めこんできたとき、<村木の取出し攻められ候>の原文、「信長の御舅にて候の斎藤山城道三かたへ、番手の人数を一勢乞いに遣はされ候。道三かたより正月十八日、那古屋留守居として、安東伊賀守(安藤守就)大将にて、人数千ばかり、田宮、平山、安斎、熊沢、物取新五らを相加へ、見及ぶ様体(ようてい)、日々注進候へ(と道三入道が心配して)申しつけ、正月廿日、尾州へ着し越し候へき、陣取り御見舞として信長御出て、安東伊賀に一礼仰せられる。一長(いちおとな=主席家老)林新五郎(林佐渡)其弟美作守ら不足を申したて、あくご(荒子)の前田与十郎城(犬千代の父)へ罷り退き候」 この林佐渡らの美濃への反感が、翌弘治三年の、信長の弟の武蔵守信行の謀叛騒ぎになるのだが、いくら道三入道がお人良しでも、娘の奇蝶の代りに、他の女を正室にされていて、信長から舅よばわりをされ応援を求められ、すぐ派兵して「見及ぶていを日々注進しろ、兵力が不足なら、追加もしよう」と、その家来にいいつけて尾張へよこすのは、つじつまが合わなさすぎると考えられる。 また生駒が正室なら、その一族で、名の残るような立身の者もいるべきなのに、そんな者はいない。 信孝を産んだ板御前の方は、その前夫との子(小島民部)を信長は、荒神山で名高い伊勢神戸城主にしてやっているが、生駒姓など<總見記>にも残っていない。 生駒氏が続けて信長の子を産んでいるのは、奇蝶が、あまり違った女に信長の種つけをさせるのを好まず、専用にさせていたのではあるまいか。つまり女として、奇蝶よりも容色が劣り、詰まらなかった女だったせいらしい。だから信長は、ホモになってしまったのである。 もし、後年伝えられるように、手当たり次第に、よき女人と交われるものなら、どうして中年から、<当代記><總見記><信長記>に、びっしり出てくるように、万見仙千代に血の途をあげて、あんなに徹底したホモになる筈はない。 厳然として、奇蝶が正室として頑張っていて、「勝手気侭な女色は許さじ」と睨みをきかせていたからである。 だが、仙千代は天正六年に死んだ。<天正美少年記・参照> そこで一、二年は生存説もあって待っていたが、その代りとなると美少年も現われてこない。こうなると信長も、子供を産ませるために、後家ばかり用いるのは飽きがきていたらしい。やはり彼も普通の男である。 だから、「荒木摂津守逆心を企て」という<信長記>の一節に、こういう原文がある。「御人質として、御袋様を差し上げられ、別義なく候はば、出仕候へと御諚にて候と雖も、謀叛をかまへ候の間、荒木不参候(まゐらせず)」 つまり、仙千代のとりあいになった時に、信長が、人質として家来の荒木に、御袋をやろうというのである。歴史家の中には、信長の母と誤読している者もいるが、この御袋様というのは、子を産ませた、その子達の御袋様なのである。いかに信長が仙千代にまいっていたかという例証になり、また、子を産ませていた女達が、どんなに詰まらん女達であったかという証拠にもなる。 相当に、奇蝶はうるさくて、眉目よき女など、信長の側へはよせつけなかった模様が、これでもありありとわかる。 その豪い女性の奇蝶こと「おのうの方」の墓が、日本中どこにもない。何故かというと、その真相は、昔から、「‥‥夫殺し」と思われていたからである。 つまり《悪徳の権化》の女性として、どこの寺でも拒んで、寺内へ建てさせなかったのだ。 女性<浅野文書>に収録されている天正十年十月十八日附の秀吉の書状で、その名宛人となっている岡本次郎左衛門というのは、良勝ともいって伊勢神戸時代からの織田信孝の家老。 もう一人の斎藤玄蕃允というのは、この時は、やはり信孝の家老だが天正十年六月一日までは織田信忠の家老。 そして妙な話だが、<戦国戦記・山崎の戦い>によれば、「本能寺の変があった六月二日から、二十二日までは、岐阜城主となって、たとえ二十日間とはいえ、美濃に君臨していた」 という事である。もちろん、二十二日になって秀吉が、織田信孝と共に不破の長松まで押し寄せてくると、彼は降参をしてしまった。 ところが、この玄蕃允は、幼名新五郎といって、斎藤道三が長良川で討死する前日は、その姉の奇蝶の許へ落としてやった男である。 叛乱軍側について、美濃一国を横領していた斎藤玄蕃允だから、秀吉も普通なら首を切るところである。それなのに気兼ねして、「ご縁辺の者にて、美濃の血脈の者ゆえ、何かと御領置の差配にご利便ならん」と、新領主の織田信孝の家老に、また推挙している。本人も昨日まで同じ城で殿様をしていた身が、けろりとして家老になって奉公している。 なにしろ、<当代記>六月二日の条の二条御所にて信忠を守って勇戦奮闘した顔ぶれの中に、小姓頭として出陣していた、この男の跡目の「斎藤新五郎」の名も入っている。 だから忠義者の倅をもった余栄というのか、当時も疑われていないし、今も疑われていない。 しかしである。いくら岐阜は京都に近いといっても、天正十年六月二日に、本能寺の変が勃発した日から、奇蝶の末の弟が、亡父斎藤道三入道の遺領である美濃を回復して、そこに君臨してしまうというのは、こりゃ穏やかではない。 誰がどう考えても「里方の美濃を取り戻して、亡くなった父母の供養をしたい」と願った奇蝶の差し金であることは、これ一目瞭然である。 そして、そうなると、六月二日に、あの事件が起きる事は、奇蝶は前もって知っていたということになる。なにしろ六月二日以降は安土城へ入ってしまって、そこから一歩も出ていないのだから、まだ京都の斎藤屋敷に滞在していた六月一日以前において、美濃の弟へは、あらかじめ司令は出されていたことになる。 そして六月二日の午後、安土への通行口。 そこは<フロイス日本史>によれば、「信長は都から安土への道が楽になるよう琵琶湖の狭くなった激流の瀬田に立派な木橋をかけ、横幅は畳四枚、全長は百八十畳、橋の中央には休憩所まで設けてあった」という瀬田の大橋を、山岡景隆が焼き払ってしまったのも、京から引きあげ安土へ向かった奇蝶の命令によるもと判ってくる。なにしろ彼女は、山岡一族の本家である三井寺に、亡父斎藤道三をまつって大檀那だったからである。(家康の指示もあったろう)<ゼズス会日本年報>の記載によれば、「諸君が、その声でなく、その名を聞いただけでも、縮みあがって戦慄する人」と、ポルトガル人のバードレたちの間でも恐れられた信長。つまり、 自分から「神」であると認め、「天上天下における唯一人の全智全能を誇っていた織田信長」にとって、怖ろしい存在などは、この世にはないように、誰もが想う。 ところが彼も、実体は人間であり、やはりアキレスの腱はあったらしい。つまり、その泣きどころを一掃するために上洛してきたのが、五月二十九日ではあるまいか。 なにしろ信長は、そのものに三十三年にわたって悩まされ、苦しめられていた。なんとか処置は、とりたかったろうが、信長のように別所出身の神徒系には、古来女尊系の「おかど」思想がこりかたまっている。なんとも束縛から身動きができなかったのであろう。「おかど」というのは、今でも野沢スキー場や上州の田舎に残っているが、旧正月に、「おっか」という女の顔と「ど」とよぶ男の顔を入口に立て、この入口を「おかどぐち」つまり「門口」といい、当時は、現在「笑い絵」と或る種の絵のことをいうように、おっかに、どのつくす勤労行為を「わらう」という古い大和言葉でよんでいたから、元日だけは骨休めをさせてもらえるが、二日からは「姫初め」ともいって「笑う」行事をする掟があった。 今日は単純に「いろはかるた」に入れられて、「笑う門には福きたる」となっているが、昔の、結婚後二十年、三十年の夫にとって、それは大変な辛苦なことだったらしい。 (この「おかど」が江戸初期に転化した「お雛様」をみても判るが、女体は「内裏さま」つまり至上を意味し、男体は「親王様」と、身分が遥かに下位になっている) そしてなにしろ当時は、今の「夫婦」が、まだ「女夫(めおと)」と呼ばれていた時代なのである。 信長は天正十年五月一日に自分から「神」になると、この際「ど」のほうもやめてしまおうと、うるさい古女房を一掃するために、二十九日に出洛したのであろう。と書くと経験のない人には判るまいが、なにしろ女性自身でさえ、結婚の条件に「ババァ抜き」というぐらい、女の古手の口やかましいのは、同性でさえ怖れをなすものである。まして男。しかも信長のように押さえつけられてきた人間にとって、彼女を一掃する事は(当時奇蝶は四十八歳であるが、現在の六十八ぐらいに、よい化粧品もない時代だから、ふけていたであろう)これは、多年の懸案でもあったろう。 そこで、つい心浮々として「京へ、一掃にゆく、そして、中国へ向かおう」と、しきりに洩らして吹聴してしまったのであろう。だからこそ、これが広まってしまって、<当代記>にも、「一左右次第中国へ可罷立之旨曰(まかりたつべくのいわく)」とあるし、<信長公記>にも「御一左右次第、罷り立つべきの旨、おふれにて」と、みんな書いてある。 ところが、世の中には幸せな男もいて、「女の恐ろしさ」など知らずにいる者も、割りといるものである。だから、この連中は、まさか、その名を聞くだに身の毛もよだつ怕(こわ)い織田信長が、京にいる古女房の奇蝶を掴まえハムレットみたいに、「尼寺へ行きやれ」と一掃しに来たとは知らないから、互いに脛に傷ある連中は、それぞれ、「‥‥一掃しに来た、われらであろう」と脅えきってしまった。 まず御所では、女嫌いの信長ゆえ(奇蝶に虐められてきたしっぺ返しか、非常に彼は女にはきつくあたっていた)女御が、二十九日に、お里へ緊急避難をされた<言経卿記> 翌六月一日になると、「一掃されるのは、我々宮廷勢力ではないか」というので、関白太政大臣以下、右府、左府、内相、一人残らず、御所を空っぽにして、本能寺へ雨中のデモをかけてきた。玄関払いをしたのに上り込まれて、五時間も六時間も自分の事を各自に喋舌り込まれ、信長はうんざりしただろう。 それまで自分の結婚に懲りて、倅の信忠や信雄には、決まった嫁を持たせなかった信長も、皇女のご降嫁には将来を考えて心が動いたのか、夜になって、信忠の考えを聞こうと、跡目の当人を呼ばせた。 奇蝶は、五月には京にいたから「信長が一掃にくるのは、御所の事ではあるまいか」と公卿どもが心配して、誠仁親王の妹姫を織田家へ降嫁させる話も耳にしたであろう。 それが、義理の子とはいえ信忠と判っていたら、別に暴挙はしなかったろうが、てっきり夫の信長の許へ降嫁と、女だから客観的に考えず、自分本位に判断して周章てたのだろう。 側室の上臈(じょうろう)なら、何人つくられたところで、子作りのためだし差支えはないが、畏きあたりからの御降嫁とあっては、自分が妻の座を放逐されるのは目にみえている。とても、いくら美濃の今は亡き斎藤道三入道の娘であっても、これには太刀打ちできたものではない。 そこで、美濃衆の稲葉一鉄の娘である斎藤内蔵介の妻を呼んだ。そして、「美濃人の手で、美濃を取り戻すため」とでも言ったであろう。 家康は「一掃されるのは自分らではあるまいか」と噂に狼狽し、信長が五月二十九日、京へ近づくと知るや、直ちに、その日、京から脱出。船便のある堺へ、まず避難した。 斎藤内蔵介は、かねてより実力をもってしても、なんとか四国討伐をくい止め、義弟にあたる長曽我部元親の危機を救おうとしていた矢先だから、「三河から援兵をもって、すぐ駆けつけてくる」という家康の申出を、すぐさまのんだ。 奇蝶からの話も、まさか(ものはついででござる)とは言わなかったろうが、すぐさま承知して、光秀が愛宕山へ上っているのを幸いに、丹波亀山へ急行したのであろう。 京都教区長のオルガンチノは、かつて、その<オルガンチノ書簡>に、「日本の重要な祭日に、信長の船の大いなる七隻が海に並んだ。私は、すぐ堺へ行って、それらの艦隊と備砲を調べた」と、マカオへは報告してやっていたが、その後、また倍加された織田艦隊が、大坂の住吉浦に勢揃いしているのを調査し、信長が軽装のまま上洛しているのは、これは乗船するためとにらんだ。そして、「六月四日に四国征伐に出帆」というのを、オルガチーノは、てっきりカモフラージュと思った。 そこで、東インド管区巡察師ヴァリニヤーノが、この二月に少年を引率して日本を去る前に言い残した言葉を想い出し、ヴァリニヤーノに同行してきた者が、書き残していった、<ロレンソーメシア書簡>を再びひろげた。 「‥‥このゼンチョ(異教徒)信長は、すこぶる尊大で、さながら神の如く扱われ、尊貴の念をうけ、まるで世界に彼に肩を並べる者は、よし天上にあっても何もないと信ぜられている。なにしろ長子の信忠も彼にならって尊厳であり、何者でも直接に話などは許されない。しこうして彼らは殺掠を好み残酷である」と、それには信長の残忍さが、いろいろと例をあげて綴られていた。 (あの織田艦隊が南支那海へ向かったら、神の名による都市マカオが危ない。吾々は、今こそ、神のおんために、身を捧げるべきである) と、オルガチーノはすぐさま準備にとりかかった。なにしろ信長がいつも京へ来て泊るのは、いつも最近は、本能寺であるし、そのため、わざと数十メートルと離れていない此処へ三階建をもっている彼らである。 ----オルガチーノは「神の栄光」のために、自分を犠牲にすると誓った。だが、いざとなると部下に後をまかせ、遥か九州の沖の島へ逃げてしまった。事前に秀吉の密使との打合わせがあった模様だが、その詳細は伝わっていない。 だが、激怒されたフェリッペ二世陛下のために、マカオへも戻れなくなった彼を、秀吉は生涯保護し、他の宣教師は追放しても、彼だけは静かに日本で死なせてやった。 「殺られるのは、きっと自分であろう」とばかり、共同謀議はしていないが、結果的にはそうなって、実行兵力は、斎藤内蔵介の指揮する丹波亀山衆。内訳は、丹波船津桑田の細川隊(指揮者は加賀山隼人正)福知山の杉原隊(指揮者は小野木縫殿助)亀山内藤党(指揮者は、木村弥一右衛門)と認定される。 本能寺を包囲したまま三時間も三時間半も待っていたのは、奇蝶の使いが明智光秀を探しに行って「彼を名義人」当時の言葉でいうところの、「名代」にしないことには、斎藤内蔵介としては「家老の私では身分からいっても今後の運営に差支えがござる」と言い出したので、当てもなく、それで待機していたのであろう。 ところが目と鼻の一町もない「ドチリナベルダデイラ(天主教真聖教会)」から秘かに持ち出されたのが轟然と一発。 最新舶来のチリー硝石による新黒色火薬が、ドカンと本能寺へ投げ込まれ、すべての計画が齟齬してしまった。光秀が上洛する前に、一切合財が終ってしまったのである。 かねて情報を前もって握っていた秀吉だからこそ、この知らせが入ると、途端に、備中高松で、「これで、すべて秀吉の殿の思い通りになられましたな」などと黒田官兵衛に言われてしまうのである。 そして天正十年六月十三日。つまり事件後十一日目に、光秀を山崎円明寺川で破ってしまったものの、これは単なる勢力争いのようなものに見られがちで、当時としては、信長の仇討ちという事にはなりそうもなかった。 といって「誰が信長殺し」かを突っつきだしたら、自分も脛に傷があるから、「女天下」である当時の社会情勢において、秀吉は、「信長殺しは、奇蝶である」という結論をうちたてた。そして、その真犯人とされた奇蝶を泪をのんで葬った。 つまり、「親の仇討ち」をするため安土城を焼いた織田信雄をもってして、山崎合戦から十二日目の清洲会議では、これを殊勲甲として二ヵ国の太守にしたのである。そして秀吉は、「だが‥‥どうも不審である」などと当日、怪しむ口吻を洩らした柴田勝家、丹羽長秀、池田勝入斎、織田信孝を一人残らず次々と、みな消していったが、奇蝶を下手人にしておくために、安土城を焼いた信雄だけは、自分の弁護人として、生涯、殺せなかったのである。 家康は「これ一重に斎藤内蔵介の志であった」と、その娘の阿福を、春日局にしたり、「細川の働きも、あだには想えぬ」と五十四万石の褒美をやってもよいと遺言したりした。 国家主権者の暗殺などというものは、白昼公然とパレード中の大統領を狙撃しても、背後関係が政治的にややこしく、二十世紀の今日でも判らぬものなのです。まして十六世紀の信長殺しとなると、お読み下さるのは、数時間でおすみになられたでしょうが、昔の言葉でいえば「苔の一念」で、私は二十二年と五ヵ月かかりました。 つまり、「信長殺しは誰か」というのは、元禄時代までの女権の天下では「奇蝶ことお濃の仕業である」として一般には通用されていたのが、その後の男尊女卑の時代がきて、「男は強く、女は優しいものだ」という封建制が固まってくると、「織田信長を殺したのが女ではおかしい」と、明智光秀にすり換えられて、その侭で俗説が罷り通ってしまったのです。そして、この事件の鍵を握る徳川政権が、徹底的に、この史料を握りつぶしてしまったので、謎のまま三百八十五年も経過してしまったようです。 そして生前、とても偉大であったように、より良き誤解を与えてしまった為に、天正十年六月二日に、各方面から、その「一掃の目的」が自分ではないかと、より悪く誤解され、その連中が、期せずして共同作業の形で「信長殺し」を国際的なスケールで敢行したようです。勿論、徳川家康には、信長を殺したい必然性は確固としてあったのですが、これはまた後日にしましょう。 さて最後に申し上げたいのは、いずれ機会を改めて書きますが、奇蝶こと「おのうの方」を、どうか、気の毒ですから、悪く想わないで下さい。 女にとって、愛というのは血の流れだけに限定されるものです。生涯、子供を産まなかった(現在の経口避妊薬ですか中絶薬ですか‥‥江戸期までは「月ざらえ御くすり」の名で馬琴の本にも広告があるくらい流布していました)彼女にとって、愛する者は、父の斎藤道三だけでした。その父の死が、信長の謀略だったとしたら、彼女が復仇したのも無理からぬ事でしょう。だが、結果的にはプランを立てたくらいで、秀吉とか家康といった、役者が上の男どもに利用されて焚死となれば、これこそ歴史家の諸先生がお書きになる御本のように、「戦国時代の女人は哀れであった」と、いうことになるのでしょうか。偉大なるが故に不幸な女性でした。「竜は、女を怒りて、その裔(すえ)の残れるもの、即ち、神の戒しめを守り、イエスの証しを有(も)てる者に、戦いを挑まんとて出でゆきぬ」<ヨハネ黙示録第十二章第十七節>----というような結末になったのです。(完) ★ ★ ★ というわけである。そういえば、最近も、女の恐ろしさを知らない失言会長が辞任しましたね。女の恐ろしさを知らないと世の中巧くわたっていけません。まだ命があるだけよかったと思いましょう。 信長のように殺されてしまってはおしまいですね。そういえば、秀吉も政所と淀の女の闘争の板挟みになり死にました。天下人といえども、女の恐ろしさにはかないません。女性は天、宇宙なのですから。
2021年02月14日
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忙中見かねて、また書く。この国の政治が、小渕以降明らかに低レベル化しているのがわかるが、それは総理にしてはいけない人物を総理に座らせた報いというべきであろう。 某老害の失言が世界に不快をまき散らし、日本の恥を晒している。 なんのためにこの国は江戸幕府を終わらせて、明治政府をはじめたのだろうか? 勝海舟という人物の書を読めば、おおよそ、その心意気がわかる。 江戸時代の身分制度からくる硬直した社会閉塞感を打破し、何よりも社会を物質豊かにし、生活環境を向上させるためである。有体にいえば、外国の軍事力に度肝を抜かれ、遅れすぎた文明社会生活を変えようと思い立ったからである。 折しも、その様子がいまのこの国と酷似しているから不思議でもある。 ラグビーワールドカップが成功といわれたのは、日本代表が活躍した背景に、とても従来の日本人にはみえない多種多様の民族が、日本代表としてワンチームになって、強豪と呼ばれた諸外国と対等の闘いを演じたからである。 日本開催を招致した老害の力などは、その端くれ以下というべきものだろう。 勝海舟はその書で言っている。大人物というほど、その功績は計り知れないから、自ら語りたがらないという。例えば、水や空気、日光はなくてはならなく、生命を育む、その功績は計り知れないが、目立たない存在でもある。 目立たないほど、その功績は計り知れない、というのは、老子の書にもある如く。 本来、東洋の美学というものは、「語らない」で自然に諭す、感じさせる、というところにある。ましてや差別発言などはもっての外と言わざるを得ない身の程知らずである。 面白ろ可笑しく語るのは、政治ではなく、芸人の生き様である。政治が芸をやっては本末転倒である。政治は人民を食わせる職務がある。芸人は芸を極める職務がある。本分を忘れるなということに尽きる。 それに海舟は言っているが、派閥をつくるのは奉公の精神に反し、私服である。つまり、エゴが生じ、ズルである。子分をつくるのはよくないという。依怙贔屓が生まれるので、子分をつくるなら、全員を平等に愛せ、ということなのだろう。 それに子分をつくると、子分から担がれ、大西郷でも子分のために死ぬことになるから、よくないと海舟は言っている。つまり子分をつくるというのは、公のなかに私党をつくるので、奉公の精神に反するわけである。 公務員の倫理規定にもある如くである。公務員は国民全体の奉仕者なので、派閥をつくるなというのが、東洋哲学の奉公の精神なのである。 しかし、現代では派閥をつくりまくって闘争に明け暮れて、国民の生活向上とは無関係に税金を浪費するわけで、政治が退廃腐敗していく当然の流れになるわけで、このような愚かな失言政治家が、国民を不快にさせることが頻繁に起こるわけである。 このような政治家は、死後、地獄に堕ちても派閥闘争を続けるので、覚悟すべきである。 さて、東洋哲学には、人治を2つのタイプに分けている。王道と覇道である。 端的にいえば、王道とは、道徳によって人民を感化し、人治を統合することである。そして、覇道とは、物質や経済などの勢いで、人治を支配することである。 どちらが優れているか、明らかであろう。 覇道は時代の栄枯盛衰を捉えないと巧くいかない。米国は栄華を極めたが、これから衰退に向かうのは明らかである。覇道で栄華を極めれば、衰退に向かうのは必定である。米国が精神主義に向かうのは、まだまだ先の話である。金銭の魔力から解放されるには、金銭の麻薬を吸い過ぎてしまったからである。 金儲けにならない仕事はやらないというのが、米国の覇道の根底にある。それは大きな間違いである。それに気づくのにはまだまだ時間がかかるだろう。 しかし、現代で、王道を進んでいる国も皆無である。現代では、やはり経済が重要だからである。金銭に関係なく豊かな生活を送れるようになるには、まだまだ人類の道程は果てしなく遠く続くだろう。 そもそも、古代ギリシア時代のオリンピックとは、自由な精神の表明だったのである。健全な肉体には健全な精神が宿る、と言われ、自由な肉体から、自由な精神、そしてその逆の自由な精神から、自由な肉体が表現され、様々な競技へと派生していった。 柔軟な精神から、柔軟な肉体が生まれる、というのは、輪廻転生の確認でもある。今生において、柔軟で自由な肉体を作り上げた行為が、次の転生で、脳となり、頭脳となる。だから、今生で頻繁に筋肉を動かす行為が、来世の脳神経回路を動かす行為になるというのである。 だから、今生で男性に生まれたら、筋肉を頻繁に動かすので、来世では、脳神経回路を頻繁に動かし、感情が細やかになるので、女性に転生しやすい身体となるというのである。 今生で女性でも筋肉を頻繁に動かせば、来世ではまた女性になるかもしれないから、女性を二回続けて転生するのは、偏ってしまう可能性もあるので、そのようなことを嫌う人もいたから、女性に運動は向かないという意味で、オリンピックでは女性参加は推奨されないという当時の考え故の限界が生まれたのかもしれない。 しかし、この考えは、自由でなく、差別的なので、第一輪廻転生に囚われたもので、良くないことが明らかである。 そもそも輪廻転生とは、どのような魂も同じような経験を得るための機会なので、生命の経験の補完というか、偏った見方を無くすために行われる神的配慮なので、人間の精神の向上には、必要不可欠な自由な証なのである。 つまり、神はどんな人も愛し、どんな人も救うために、平等に愛するために、今生とは全く逆の人生を次の来世に送るというのが、輪廻転生の真意なのである。 多種多様の経験を積めば、いずれ差別的な知識は淘汰されていくだろう。これが王道の真意なのである。 本来の王とは天と地をつなげ、養い統合するという意味なのである。そこに上も下もない。上も下も十分に経験した存在なのである。だから地獄を経験しない神はなく、神は地獄を生み出したのである。 だから、地獄から学べ。そして精神を向上させよう!
2021年02月11日
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