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昨日も夜に恒例のお勉強会。昨日のテーマは前回、前々回と同じ。繰り返し同じテーマで、同じビデオを見て勉強するが、自分としての作業は一歩一歩深まっていく。同じビデオを見ても、一回目、二回目、三回目、とそれぞれ印象が違い、学ぶ内容も違う。たぶん、それはその時の「問題意識」の差なんだろう。ひとつ疑問が片付くと、次の疑問が湧き、それが片付くと、また次の疑問がわく。その「疑問」を以って、同じビデオを見ると、やはり何も考えずに見る場合とでは、見方が変わる。そして、その学びを元に、自分の作業を進める。何の作業か、というと、自分自身の探索である。自分というのは本当にわからない。 下手をすると、長所や短所なども、人の方がよく見えたりする。もっと深い領域に入ると、自分で自分がそうなっているなんて考えなかったようなことが出てくる。さて、その先にあるのはなんだろう?まだまだ表面をなでているだけのような気がする。このまま、より深く掘り下げていったときに、どんな「自分」と出会う事になるのだろう?
2011.06.30
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最近、また知人からDVDを大量に借りてきて見ている。初めに「コンタクト」を見た後、昨日は「スタートレック」の最新版を観ました。「最新版」と言っても、物語の年代としてはあのスタートレックシリーズの初めのシリーズで、USSエンタープライズの船長を務めたジム・カークの生い立ちから始まる、いわばスタートレックの「原点」みたいな作品です。「原点」とはいいながらも最新作なんで、昔のカーク船長のシリーズに比べると特撮技術などは長足の進歩を遂げているので、下手をすると、もっと未来の話じゃないか、と思えるぐらいの出来でした。このスタートレック、知る人ぞ知る長編のSF大作で、そのシリーズはいくつもありますが、私はその全てをDVDで観たので、この「続編」であって「原点」である作品は楽しめました。まあ、SFの常として、その時々の科学の「最先端」を取り入れていることが逆に撮影年代の古さを露呈してしまう結果になるので、今この映画を観て感心したものが、数年経つと色あせてしまうんでしょうが、今の時点では結構楽しめます。昔,SFでしかなかったものが現実に生活の中に使われるようになっているものも数知れないので、このスタートレックに出てくるようなものが実際の私たちの生活に使われるようになることもありえます。何が実現したら楽しいだろう、というようなことを考えながら観るのも面白いかもしれません。しかし、この過去30年の変化は、PCやネットの普及を始めとして、当時では考えられなかった変化を、科学技術はもたらしました。科学技術の発達状況を考えると、ますます加速することは明らかなので、今後の30年は、それ以上に想像を超えるものになるでしょう。今私たちが考えるべきことは、それが本当に「人間」のコントロールできるものであり続けるかどうか、でしょうか。
2011.06.29
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前に少し日記でも書いたように、昨年末より、近くのゴルフクラブから会員にならないか、という誘いがメールでちょくちょく来る。会員になる入会金は何千ドルもするのだが、今は400ドルだけ、だとか200ドルだけだ、とか言ってきていたのが、今はとうとう無料! それに月一回のプレー費も無料になり、おまけに夏の間は、夕方5時半以降のラウンドはカートフィーを含めて、18ホールで9ドル(700円!!)だという。それに、アトランタ近郊だけで約30箇所のコースがある。そのどこでも会員としてプレーできる。ここまで来ると、かなり心が揺れる(笑)そこで、ここできちんとその経済性やそのほかのメリット・デメリットを比較しておこう、と思い立った。まず経済性。入会金は無料だが、月会費は$150、つまり1万2千円ほど。年間だと$1800で、15万円弱。対して、非会員の場合の週末のプレー費は$60ドル、会員は$10、つまり一回に付き、$50安くプレーできる。これで上記の元を取ろうとしたら、$1800/$50で、36回プレーしなくてはならない。毎月、一回はプレー費無料だから、本当は、($1800-$120)/$50=33.6だから、正確には34回になるのだが、五十歩百歩。これは年間52週だから、一月に3回はプレーする、ということだ。これは冬も含めての話なので、春から秋にかけてはほぼ毎週プレーする、ということだろう。家族会員権なので、家族の誰でも会員としてプレーできるので、家族で二人ゴルフをやるのであれば、これは月に一、二回、ということだからすぐ行きそうだが、残念ながら今は私一人。そこまでゴルフをするか?という疑問もあるが、会員には会員なりのメリットが当然ある。1.いつでも、自分で予約できる。非会員では、会員の同伴がなければプレーできない。2.年間$180、1万5千円で、家族全員、無料で、いつでも打ちっぱなしを使える。3.先に書いたように、シーズンによって会員には特別料金でプレーできる場合がある。4.家族会員なので、息子や娘がプレーしても、会員扱いで出来る。5.根がケチなので、会費を払っているから、という理由でゴルフに出かける回数が増える。たぶん、非会員ではめったに行かないだろう。6.将来、日本に帰ったらとてもこんな金額ではプレーも打ちっ放しもできない。アメリカに居る間ぐらい、そのメリットを使ってもいいんじゃないか。この5番目の理由が一番大きくて、とにかく先日久しぶりにやったら体中痛い。ということは普段、いかに体を使っていないか、ということだ。またゴルフを再開するのなら早い方がいい、というのもある。まだ60歳前だから、今だったらまだやれる気がする。嫌になったら、どうせ入会金を払っているわけではないので、いつでも止めればいい。今のところ、息子はあまりゴルフに興味がないようだが、打ちっぱなしには時々連れて行け、という。 上記2の家族全員、打ちっぱなしはいつでも打ち放題、というのもプラスαの魅力だ。「健康」を第一優先に、この「会員資格」を、ゴルフをやるための動機付けにする、というのがやはり良さそうな気がするが、さてどうするか・・・・。
2011.06.28
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昨日、40万アクセス、ということで書いた日記の中で、最近は3日か4日に一度ぐらいしか書いていない、ということと、もしかしたらまた毎日書くようになるかもしれないし、そうでないかもしれない、というようなことを書きました。この「書いていない」理由なんですが、別に書くことがない、ということではなくて、逆に書くことはたくさんあるんですが、どうも書きたくなるような内容が「重い」ため、書き出すと相当時間をとられそうで、躊躇しちゃう、という感じです。頭では、さらっと、軽く書いても日記は日記、とは思ってはいても、どうも性格上、書き出すといろいろ浮かんできて、ずらずら書くことになっちゃうことが多く、そこまでの覚悟が出来ない、というわけです。昨日も40万アクセスなんて、軽く書けるからその表題にしただけで、本当は書きたかったことは別にありました。今日も、教会へ行き、牧師さんの話を小一時間聴いただけで、考えることが結構出てきて、またいつものようにメモも取ってきているんですが、その一つ一つがまた思い・・・そうかと思えば、ひょんなことから覗いたネット上の情報で、「なぜ結婚するのか?」なんて、面白そうな特集を読んでしまったので、自分だったら何とかくだろうか?なんて考えてしまったら、これまたちょっと書いておきたくなったりして・・・まあ、人間生きている限り、一日中なにかしら考えているわけだから、その一つ一つを書き留めることなんて到底できない話ですが、それでも、こんな形でも、その時々考えた事を書いておくと後で読んでも面白いんじゃないか、と。ああ、またこれも、しょうも無いことで長々と書いてしまった・・・・。これがいけないんだな・・・・・
2011.06.27
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今日は、一年ぶりか一年半ぶりぐらいのゴルフで、朝から舞い上がっており(笑)、午前中にこのブログをチェックせずに出かけてきました。帰ってきて、夜になって開いてみると、なんと40万アクセスを超え、もう40万100になっており、どなたが40万アクセスのキリ番を踏んだのか分かりません。でも、こんなブログにこれだけのアクセスがあったことに、一種の感慨を覚えます。その時々で、キリ番のたびにいろいろな感想を持ってきましたし、その時々で、生活も考え方も変わってきているのと同様に、このブログへの関わり方も変わってきました。今は、時々、3,4日に一度ぐらいしか日記を書いていませんが、またそのうち突然毎日書き始めるかもしれないし、そうならないかも知れない・・・・全て自然体で行きたいと思っています。このブログなくしては、退職後の私の生活は全然違ったものになっていたでしょう。もちろん、それは、いい方向へ私を導いてくれた、ということです。今まで訪問してくれた方、コメントをくれた方、全ての皆様にあらためて感謝いたします。今後とも、よろしくお願いいたします。
2011.06.26
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最近、「事実」と「現実」の違いについて考える事が多い。「事実」とは、この場合、起こった事象の客観的内容のことを言い、「現実」とは、その人にとっての世界がどのように映っているか、ということを指している。つまり、同じ「事実」「事件」に対して、「現実」というのは人それぞれで、百人居れば百通りの「現実」がある、ということだ。例えば、会社である人に「お早うございます!」と挨拶したが、その相手の人はそれを無視して無言で歩み去ってしまった、とする。この時、挨拶した側の人にとっての現実は、例えば「この人は、人が挨拶をしているのに、無視した・・・。なんという人だ!」と怒る場合。「この人は、私を嫌いなのかもしれない。私は嫌われたのか?」という場合。「この人は、挨拶したのに返しもしない。どういう育てられ方をしたんだ?」と思う場合。この「挨拶をしたのに、お返しがなかった」ということをどう受け止めるか、によって、この人にとっての「現実」はいろいろな色を帯びる。しかし、もしかしたら「事実」は、この相手の人は何かを必至に考えていて、あなたが挨拶をしたのを全く気づかなかったか、もしくは気づいたけれども、考えに夢中で、「たまたま」挨拶を返す、という余裕がなかっただけかもしれない。けっして、あなたを嫌ってもいないし、ましてや意識的に「無視」したわけでもなかったかもしれない。しかし、あなたにとっての現実は「無視された」「嫌われた」という、あなた自身の受け止め方を軸に組み立てられてしまう・・・・世間一般で言う、ちょっとした「すれ違い」というものも、この一種だろう。ところが、これは日常的におきる全てのことで、同じことが起こっている。その「現実」の積み重ねが、その人にとっての「今の世の中」「今の学校」「今の会社」「今の家庭」という世界になっていくが、それと「事実」とは何の関係もない。人によっては、その「現実」によって、不幸になっていく人も居れば、同じ「事実」を違う「現実」として受け止めた人は幸福になっていくことだって有りうる。つまりは、世界は人が感じ、思ったような世界にしかならない、ということだ。同じ事件について、自分はどんな「現実」を作るのか。それは、どんな「現実」を作りたいのか、という質問に置き換えてみると、前を向いて生活をしていけるだろう。
2011.06.24
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明日は恒例の勉強会。一週間に一度だと、これは言い訳に過ぎないが、前回の延長で、という風にはすんなり行かない。しかし、前回は・・・・・そろそろ自分の弱さと、真正面から向き合わなくてはいけないかな、というところまで来た。しかし、その向き合わないこと、そのものが自分の弱さなのだから、これはチト面倒だ。これからどう取り組むか、今はまだ白紙。毎回、毎回、ほとんど白紙のままに臨む。 そして、その場で集中する。そうやって、毎回なんらかの気付きがある。今回もそれっきゃないか・・・・
2011.06.21
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これは今日の教会でのメモ書き、その(2)ーーーーーーーーーーーーー「放蕩息子の例え」聖書の中のいろいろな逸話や、またイエスがたとえ話を多用したことから、そういったたとえ話にはいろいろ有名な話が多い。今日の説教のテーマになった「放蕩息子のたとえ」もその一つ。大筋は、二人の息子を持つ父親が、それぞれに財産を分け与える。下の息子は、その財産を売り払って現金にし、それを持って遠くの町へ行き、そこで遊蕩三昧して過ごし、そのうち全てのお金を使い果たしてしまう。そして食うに食えず、豚(当時も今も、もっとも穢れた動物とされる)の世話をするのだが、ある日、そんな生活に耐えられず、自分の非を悔いて神に謝罪し、故郷に戻る。故郷では、この放蕩息子を見つけた父が、その非を責めるでもなく、案じていた息子が帰ってきたのを見て大いに喜び、祝いの宴を設ける。この息子は、神に謝罪したと同様に父にも自分の非を謝罪する。しかし、これを見た長男の方は、この父の態度に対して文句を言う。なぜ父に従ってずっと働いてきた自分にはそんな宴を一度もしてくれたことがないのに、この放蕩の限りを尽くし、財産をすってきたこの弟にこんな盛大な宴を設けるのか、と。この逸話、たとえ話は、何を言おうとしているのか。正当な、あるいはまっとうな解釈(そんなものがあれば、の話だが)というのは、この父の息子に対する態度を父なる神の愛になぞらえるものだろう。人間は罪を犯す。いや罪の中に生まれる。しかし、その罪を悔い改めて、神の愛に信頼すれば、父なる神は全ての人、それが罪人だとしても許したもう、というわけだ。もう一つは、この息子が実の父に謝る前に「神」に謝罪をした、という点を重視する話もある。私は、それはそれとしてわかるが、個人的には、この長男の方の心情を考えてしまった。人間として、こつこつ努力したのに、遊んでばかりいた別の人間が評価されたり、ましてや自分より「神に愛された」りしたら、どういう気持ちを抱くか、という点だ。神の愛は、全ての罪を赦す、と言う。しかし、それでも過去の罪は罪として消えないし、そんな罪を犯さずにまじめに生きてきた(と思っている)人間にとって、このような事態が実際に起こったら、その不公平さに文句を言いたくなるに違いない。しかし、見るからに、読むからに、そのような長男の態度、考えは逆に「非」とされる。なぜか?ここに、人間、「幸せでいる」ということのキーがあると思う。
2011.06.20
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日曜に教会へ行くと、いろいろ考える事が出てきて、そのためにメモをとっていたが、メモぐらいだと、いったいその時に何を考えていたのか、よく思い出せない。ということで、今日は終わるとすぐにノートを取った。これはそのうちのひとつ。「神の声」は旧約聖書の時代だけの話か? それとも・・・・ーーーーーーーーーーー今日の教会学校での「聖書の学び」のテーマは「アブラハムの旅立ち」。創世記12章にある話であるが、詳細は省いてポイントを述べると、アブラハムは75歳になって、神から「私が示す土地」へ行け、との言葉を聴く。慣れ親しんだ友人・知人・親戚のいる住み慣れた土地から神の指示するどことも知らない土地へ、この75歳という高齢で旅立つのである。この勇気と決断はどこから来るか、というと、神への絶対的信頼だけである、というのがここのポイント。これは旧約聖書にある話だが、現代においてはこのようなことがあるはずがない、と普通は思う。普通に生活していた人が、ある日「神の啓示」と思われるものを聞く。それは、まったく行ったことがない、実も知らぬ土地へ行きなさい、と告げる。この人はその言葉に従うだろうか?特に、自分一人ではなく、家族やましてや子供がいる場合、このような「啓示」に従うことは困難だろう。いや、困難というより、そのようなことに従うのは「馬鹿げた」ことだとして一蹴し、そのままの生活を続けるのが普通だろう。しかし、この現代においても、同じようなことをした人もいるのだ。たぶん何人もの人がいるだろうけれど、有名な人としてはキャサリーンが居る。この人は、子供がいてアメリカで普通の生活を送っていた。しかし、ある日突然、啓示を受けるのである。その啓示は、スコットランドの「フィンドホーン」というところに行きなさい、というものであった。彼女にとって、そこは聞いたことも考えたこともない土地であり、そこに何があるのか、どうしてそこへ行かなければいけないのか、まったく分からなかった。しかし、彼女はこの言葉に従うのである。その後のことは「フィンドホーンの花」とか、「フィンドホーンの奇跡」と言った本に詳しく書かれているが、そこはまさに現代の奇跡の土地であった。いや、その地にいったキャサリーンの見たもの、それは荒れはて、なんの恵みもないような荒野だったのである。しかし、そこは「奇跡の土地」であった。心の中に浮かぶ啓示を毎日のように書き留め、その言葉にしたがってキャサリーンは夫と友人の助けを借りてその土地で暮らしていく。そして、そこは、普通では考えられないような豊かな実りをもたらす土地となってゆく。この過程を通して、このことは「フィンドホーンの奇跡」として知られるようになり、今も毎年のようにここを訪れる多くの人が、共に「体験」する奇跡の場所になっている。今も継続するこのフィンドホーン生活共同体は、そこに生きる人間と神、人間と自然との一体の生活を静かに続けている。そこには、理屈や理論を越えた「現代の奇跡」が確実に存在する。神の啓示と奇跡は、何も「旧約聖書」の時代だけの話ではないのだ。
2011.06.20
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最近、ふとしてきっかけで日本のTVドラマをいくつか観た。いくつか観たが、ちょっと気になることが・・・・まあ、娯楽だと割り切って、硬いことは抜きにすればいい話なのだが・・・観たTVドラマのうち、三つが、内容こそ違え、「金持ち」vs.「貧乏人」という図式。そして、そろいも揃って、「金持ち」の方が、お金が全て、権力が全て、みたいな奴らで、対して「貧乏人」は、貧しいが人の心がわかる、暖かさと「愛」の大切さを持っている、というステレオタイプ。最後に、この「貧乏人」の心に影響されて、「金持ち」のいやな奴がだんだん人間らしくなり、この「貧乏人」と「金持ちが」最後に結ばれてハッピーエンド、みたいな・・・確かに、昔から「水戸黄門」や「遠山の金さん」のように、勧善懲悪のドラマを人々は愛してきて、金持ち、時代劇では、悪代官だったり、横暴な地主だったり、時にはその地域のバカ殿様だったりするが、それに対して「庶民」が清く正しく、正義が最後には「庶民」の味方をする、というドラマに拍手喝采を送る・・・・たぶん、それは現実にはそんなことがないから鬱憤をはらす形での「拍手喝采」になるのだろうけれど、現実にはそんなことがない、という意味で言えば、「金持ち」は悪で、「貧乏人」「庶民」は善、ということそのものも現実にはありえない。思うに、こういったドラマを作る側が想定している視聴者がどんな層なのか、それがどういう見方をするのか、を考えてこういった筋書きを作っているとしたら、あまりにも人間観察が表面的だと言わざるをえない。それよりも何よりも、こういった「金持ち」=「悪」、「貧乏人」=「善」という考え方そのものが、実は富の格差を生み出している、という構造そのものを、完全に無視している。人間、お金が欲しい、と思うのは別に悪い事ではない。裕福になりたい、という欲自体も当然だし悪い事でもない。それを杓子定規に「悪」と決め付けてしまうほうがよっぽど「悪影響」が大きい。なぜならば、「お金を儲けることは悪」と思い込もうとしながら、一方で裕福になりたい、という本心があって、その行動をとっている、という自己矛盾に陥るからだ。最近観たいくつかのTVドラマは、こういった図式をステレオタイプ的に繰り返す中で、こういった自己矛盾を意図せずに醸成してしまっている。本当に、製作者がそう思って作っていたなら、それこそ皮相的、と言わざるを得ないが、たぶん、そうではなく「娯楽」と割り切って、ちょうど「勧善懲悪」の時代劇と同じ感覚で作っているのだろう。だとすれば、「庶民」、ここでは「視聴者」だが、まったく舐められたものだ。
2011.06.18
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しばらく前から、ATTから光に変えろ、としつこく勧誘を受け、とうとうDSLから光ファイバーに変えた。結果的に、今までのダウンロード5Mbps、アップロード300kbpsぐらいが、一挙に、ダウンロード11Mbps, アップロードが約1Mbpsにアップ。これは「公称」じゃなく、実測値なので、まあまあかな、と。まあ、前の5Mでも十分なのだが、家の中には5台も6台もネットに繋がる機器があるので、皆で一斉に使うとちょっと心もとない。それになによりも、月額使用料が安い! 速くなって安くなる!! これで使わない手はないでしょう、ということで。(笑)ところが、二つ問題が。家の中に新しく引き込みを入れたのだが、それが家の片側。反対側にある息子の部屋のPCで、電波強度が弱くて、スピードが上がらない、という問題がひとつ。もうひとつは、かみさんが使っている東〇のラップトップだけが、なぜかインターネットにアクセス出来ない。家庭内のワイヤレスネットワークには繋がっているので、ワイヤレスそのものの問題ではないし、他のPCは問題なく繋がるので、ルーターの問題でもない。じゃなんで?となって、今、もともとPCに内臓されているワイヤレスアダプターのドライバーのアップデートバージョンを、ネットからダウンロードしてやったところ、なんと動いた!これでかみさんの方は解決!さて、あとは息子のPCの方だけ。 まあ、勝手にやって!という感じ。さあ、頑張れよ、息子!(笑)
2011.06.17
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今日は久しぶりの雨、それも雷雨で豪雨。日本から帰ってきて初めての雨です。それくらい雨が降らない。今年も水道の使用制限必至だろう、という感じだったので、一日とは言え、本当に恵みの雨です。しかし、この雷雨。いつものことですが、激しすぎ。4,5秒置きにピカピカ、ゴロゴロと、時には光ってから1秒前後でドッカーンと音が。これって、3,400mの距離、ってことでしょう。家中がビリビリ震えるぐらいですから、犬がおびえるのも無理はない。で、遊び心を起こして、ビデオに撮ってみました。一番激しい時ではありませんでしたが、こんな感じで、3時間以上経った今も、まだ続いています。 ⇒ アトランタの雷だいたいの雰囲気がわかると思います。家には落ちるなよ~・・・・
2011.06.16
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先日の日曜日は、「精霊降臨祭」、ペンテコステという、キリスト教では、クリスマス(イエスの誕生)、イースター(復活祭、イエスの復活)にならぶ祝日だった。と言っても、教会へ行くまで、クリスマスは当然知っていたし、イースターも名前だけは知っていたが、このペンテコステというのは全然知らなかった。他の二つの祝日が、イエス本人の誕生や復活を記念したものなのに対して、このペンテコステ、日本語の名前のとおり「精霊」が降臨したのを祝うもの、というのだから、ちょっと意味が分からない人も多いと思う。なせ、この「精霊降臨」がキリスト教では重要なのか、ということを理解しないと、この日が祝日になった理由もわからない、というわけだ。ここで、その詳細を書く余裕はないけれど、ただ一つだけ言えるのは、キリスト教というのは、父なる「神」とその子「イエス」そして「精霊」という三つを合わせて「神」としているものだ、と言うこと。クリスチャンがお祈りするときに、必ず「父と子と精霊の名によって」と付け加えるのが常であり、それを「三位一体」とするのが「正統」なキリスト教だ。この「三位一体」、神学的には非常に複雑で、かつまた論議を呼ぶ内容でもあり、イスラム教などは、これを完全に否定している。根本的には「無限」なる「神」と有限存在としての「人間」、その橋渡しをする「人間として降った」イエスと「人間の中に降りる」精霊というのを、いろいろと説明をつけて、この三位一体を「神」として位置づけているわけだが、数学的な「無限論」の立場からすると無理も多い。まあ、その辺は置いておいて、精霊とはなにか、精霊が降臨する、というのはどういうことか、ということが聖書には出てくる。この箇所を読むと、イエスの昇天後、弟子達に「精霊が降臨」し、いろいろな国の言葉で神の言葉を話し始めた、ということになっている。これは「異言」だろう、と思うが、この「異言」にしても、人により、また立場により、その定義が違うのでひとくくりには出来ないが、それが「精霊」の証し、とされることには、またそれとは違った異論も出ている。いずれにしても、この「精霊」、実際にクリスチャンの方に聞くと、「本当に自分の中に降りてくる」という人が多いので、それが「精霊」かどうかはとにかく、実際の体験として、なにかしらあるのだろう。当然、こんなことをごちゃごちゃ書いている私には、そんな経験は全く無いが、考えるに、悩んで悩んで、悩みぬいた末にふと「腑に落ちる」経験と通じるものがあるのではないか、と思う。つまり「祈りが通じて」ふと神の言葉、あるいは「神の意思」(と思われるもの)がすっと心に入ってくる、という経験だ。たぶん、こういった経験だったら、「精霊」によるもの、とは言わないけれども、他の宗教にも見られる共通体験だ。もしかしたら、それは「宗教」とはまったく関係ない機構で働くものであるかもしれない。
2011.06.15
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健康食品に、よく「〇〇に効く」という効用をうたっている物がある。いや、物がある、どころではなく、ほとんど全てそうだろう。それと同様に、例えば、喫煙の害や、食べ物や飲み物の害を説明するときに、よく出てくるのが「統計データによる研究結果」だ。たとえば、普段の運動量で、「週に3回以上運動する」「週に一、二回運動する」「月に三回以下しか運動しない」という三つのグループにわけて追跡調査をしたところ、初めの運動するグループと最後の運動しないグループでは、乳がんの発生率において統計上有意な差(つまり偶然ではありえない差)が見られたという。この結果を元に「運動する人は、乳がんになりにくい」という結論がだせるか?ということ。データで統計的に有意な差が出たのだから、やはりそうなのだろう、と大方の人は思う。しかし、本当にそうか?別な例で、例えば、「ピアノがうまく弾ける生徒」「ピアノを少し弾ける生徒」「ピアノは全然弾けない生徒」という三つのグループで、成績の調査を行ったとする。すると、ピアノをよく弾ける生徒のグループは、ピアノを全然弾けない生徒のグループに対して、統計上有意な差が認められる、という。つまり、前者の方が平均的に成績がいいのだ。では、これを以って、「ピアノを弾くことは頭を良くする」と結論できるか、ということだ。これらの二つの例に共通するのは、「生活習慣」あるいは「生活の仕方」という観点、あるいは「意思の強さ」や「意識の持ち方」という観点が欠けているという点だ。たとえば、運動を定期的にする人、というのは健康意識が強いだろう。たぶん、それは運動だけに限らず、生活全般に及び、食べ物についても健康意識が他のグループより強い、ということは十分に考えられる。ピアノを習う子供の生活と、ピアノを習ったことがない子供の生活を見てみたら、「平均的に」言えば、ピアノを習う子供の生活の方が規則正しいか、親が教育熱心だ、と言えはしないだろうか?つまり「意識の持ち方」が違う、ということはないだろうか?言いたいのはこういうことだ。統計的に有意な差があった、と言っても、その統計データをまとめる上でのくくり方の違い、上の例で言えば「運動の頻度」や「ピアノのレベル」というものが、他の要因と独立したものではありえない、ということだ。もし、運動量の有無で乳がんの発生率が違う、と言えるためには、本当は「運動量」以外の要素、食べ物、飲み物は言うの及ばず睡眠時間、ストレス度、喫煙習慣、などなど、癌に影響すると思われる他の因子が全て同じでなければならない。もし、それらの因子が異なるなら、もしかしたら「運動量」異常に、乳がんの発生率に影響してやはり「統計上有意な差」が出る「因子」があるかもしれないし、もしかしたら、その「因子」と「運動量」は密接な関係があるのかもしれない。結論。こういった統計上のデータから来るxxへの効能、とか影響、というのは、単にその一面でしかなく、必ずしも、それが主因と断定するわけにはいかない、ということだろう。
2011.06.12
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ここアトランタに、日系のコミュニティー誌がある。個人で発行しているので、内容的には偏っているかもしれないが、どこから拾ってくるのか、時々面白い記事がある。今月のものに載っていた、子供の逮捕の増加、という記事。日本では、子供が警察に逮捕されたらニュースになるでしょう。こちらではあまりこの手のニュースはありません。でも事件がなくてニュースにならないのではなく、逆に多すぎてニュースにならない・・・それが、傷害事件や発砲事件などなら、良くはないが、まだわかる。この記事で言っている「異常性」というのは、逆になんでもないことで逮捕される小学生、中学生が激増している、という点だ。たとえば、極端な例だろうけれども、「机にいたずら書きして逮捕された」小学生。xxが大好き、と書いただけで、学校が呼んだ警察官に校内で手錠をかけられて逮捕された。普段問題児でもなんでもない、普通の子。いじめに会い続け、とうとう爆発して「これ以上、いじめを続けたら撃ち殺すぞ!」と反撃に出た(言葉だけ。銃などは持っていない)子が、学校側が警察を呼び、校内で逮捕された。いじめに対して、両親は何度も学校側に対処を求めたが、警察も学校も先生もなにも手を打っていないという。なのに、この子は「恐喝罪」で逮捕されたのだと。一瞬、人種差別か?と思ったが、なんとこの子の写真が載っていて、彼は白人だった。「〇やXを机にいたずら書きして逮捕された高校生」これも、上と同じ、問題児でもなんでもない子だが、やはり校内で皆の前で手錠をかけられて逮捕される。理由は規則違反。普段から少し問題のある子供で、暴れることがよくある小学生。この3ヶ月で5回、警察に逮捕されたらしい。何かあるごとに学校が警察に通報し、そのたびに逮捕。しかし、カウンセリングなどはまったくされていない。「かんしゃくを起こして、周囲に当り散らした5歳の女の子」手を焼いた学校がやはり警察を呼び、この5歳の女の子(園児)も手錠をかけられて逮捕!!全国的な統計はないそうだが、あるフロリダ州のカウンティー(郡:人口13万人)では、過去二年間で400件以上、生徒が学校内で警察に逮捕された、という。もう唖然とするしかない。この記事でも筆者が書いていたが、「そこには、子供への愛情も、教育とは何か、という問いかけも存在しない」。手がかかったら、あるいは「規則を破ったら」警察を呼んで、生徒を逮捕させる・・・・。これを「異常」と呼ばずして何と呼ぼう・・・・
2011.06.12
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歳とともに肉体的な衰えを痛感するようになってからかなり経つ。時々思い立っていろいろと筋トレなどをしていたが長続きした試しがない。今回もあるきっかけで、よし!と今週から水泳を開始しています。連日、30度を越す猛暑なんで、これは気持ちがいいのでこの夏一杯ぐらいは続けたいと思っていますが、どうなりますか。昼間は、夏休み中ということもあって子供たちで芋の子を洗うような状態なのと、昼間はいかんせん太陽が強すぎる、ということもあって、行くのは夜9時過ぎ。 大して泳がないけれども、ゆっくりと何度も往復もしていると、結構な有酸素運動になる。こんなものでも、ひと夏続ければ、多少は体力回復に役立つんじゃないか、と期待しているんですが・・・
2011.06.11
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昨日、いつもの勉強会をするお宅へ行き、勉強会が終了後、これもまたいつもの「お茶会」。そこで、日米の物価というか生活費についての話が出てきた。一般的に言って、衣食住のうち、「衣」と「食」はアメリカが断然安い。たとえば、野菜、果物、ジュース、ビールなどなど、こちらで皆が買うものはかなり安い。先日はプリンスメロンが一個90セント、¥70円であった。ビールはバドワイザーの350ml缶が30缶入りで$19、約¥1600だから一缶当たり¥50ちょっと。ビール好きには天国だ。まあ、これも日本食(あるいは日本からの輸入品)をあえて求めなければ、という但し書きが付くが。「住」にしても、家の値段は、まあ場所にもよるが、同じ敷地面積、建坪で見たらやはりアメリカが圧倒的に安い。我が家にしても、中流の下から中くらいの若夫婦の多い団地の中の家なのだが、敷地は400坪、建坪は200平米ぐらいの家で3000万円しない。交通の便は車なのであまり関係ないが、ダウンタウンまで40分、空港まで50分、近くには多くのショッピングセンターがあり、日常生活には非常に便利な立地でこの値段である。ということで、最低限の「衣食住」に関してはアメリカの方が安い、ということでは全員意見が一致した。ところが、こと実際の「生活費」ということで考えると、話はそう単純ではない。その原因はなんだろう、と皆で話したが、どうも1.医療費 あるいは 医療保険:これはもう世界の常識。これがために保険に入れない人がアメリカにはたくさん居る。2.車関連支出;(車そのものが一家に数台必要。ガス代、保険、メンテナンスなど) ガソリン代は日本の半分以下。だけれども走行距離は倍ではきかない。加えて、子供が大きくなると、一人一台の車が「普通」になるので、保険もバカにならない。ちなみに我が家も4台あり、軽自動車ではなく、すべて排気量2.5L 以上の車。軽自動車は維持費は安いかもしれないが、走行速度が半端じゃないので、安全性を考えたら乗る気にならない。(一般道の平均スピードが100km/h近い)3.エネルギー費 つまり電気・ガス代;単価はガソリンと同様日本に比べて高いわけではなく、むしろ安いのだが、家が集中冷暖房になっていて、これが無茶苦茶金食い虫なのだ。4.不動産税:これは日本の税金と比べて2倍ぐらいか?我が家の場合、2500万円もしない家の税金が、年に40万円以上。それに保険金も高い。というようなものが主な原因だが、各項目の出費が結構大きいので、食費や衣料費が多少安いくらいでは追いつかない。結果として、生活費は結構高いものになる。こうやってみると、アメリカで1.バスや鉄道(これらは安い)の駅・路線の近くで、買い物も出来るような所に住んで、車を持たない。2.小さな借家に住んで、税金・保険を払わず、冷暖房を最低限にする3.医療保険に入らず、そのお金を予防医学・健康維持のために使う。4.出来るだけ自炊し、日本食も手作りで輸入品は買わない。という生活をしたら結構安く上がるはずだ。3.については、ついでに、日本へ帰国した時に、日本で健康診断を受ける、というのも手だ。日本の国民健康保険に入っていなくとも、アメリカの医療費よりも安い。これも大病を予防する、あるいは病気になる前に手をうつ、という一環だ。しかし、上記の案で一つ欠点があるのは、1のような場所、つまり交通の便がいいところは、日本と反対で低所得者層が集まるので、治安がよくない、という点。結局のところ、生命の安全あっての生活だから、どうしても「安全なところ」に住みたくなるし、そういうところは公共交通機関が全くない。従って車が要る、ということになって、上の目論見からは外れてしまう、ということになる。自転車で移動なんてのは、危険この上なく論外なので、やはり「車社会」であるアメリカでは無理なプランなのかな、と。しかし、皆が皆、こんな形で生活しているわけだから、アメリカが国民一人当たりの資源の浪費国の筆頭になるのも当然と言えば当然だなあと改めて考えさせられる。
2011.06.09
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別に小難しい事を書こうとして日記を書くわけではないんですが、個人的なメモ書き、ということでご容赦を。先ほど夜11時ごろ、「勉強会」から帰宅しました。今日のテーマは「感情」。しかし、感情って、だいたいのケース悪者にされますよね。「感情的」になるな、「感情」に流されるな、「感情」のままに行動するな、などなど。しかし、「感情」って、「悪い」ものでしょうか?私にはそうとは思えません。もちろん、感情の中には、喜怒哀楽のほかにも妬み、恨み、悲しみ、苦しみ、いろいろと「負」の感情があることは否定しません。否定はしませんが、「感情」自体はよくも悪くもなく、言って見れば「自然」であり、無いほうが逆に「異常」だと思います。ではなぜ「悪者」にされるのか・・・・多分、それは、上に挙げた「負」の感情を持った場合に、例に挙げたとおりそれに「流され」たり、「感情」だけで動いたり、話たり、そういった「その後の態度・行動」によるものと思っています。怒りを感じる。自然です。それを無理に抑えては体に悪い。しかし、その怒りに任せて、何かの行動に出る。これが問題になる場合が多い。恨む。時として避けられない感情です。これを考えて考えて、ますます恨みが高じる、ということがよくあります。これが良くない。怒りだったら、その怒りの本当の理由を立ち止まって考えてみる。恨みだったら、やはりその恨む理由をとくと考えてみる。だいたいのケース、その根拠や理由は、自分の勝手である場合が多いものです。自分の勝手ではなくとも、果たしてそれが抱くに値する「感情」なのか、よく考えてみる必要があります。なぜなら、「感情」は自分を表すからです。そんな人間ですか?自分は・・・と問いかけてみることです。と、まあ、こんな風に、今日の「勉強会」では感じたんですが、言うは易き、行うは難し、ですね。でも少しずつ・・・
2011.06.08
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先日も書いたが、普段はほとんどTVを見ない私が、先日「仁」の2009年版を見終わり、今は現在進行中の「仁」を見ている。見ている、とは言っても、もちろんこちらでは放映されていないので、インターネットで、である。いくつも有料のインターネットTVがあるが、TV自体を滅多に見ない私はもちろん、どれにも加入していない。しかし、上の「仁」を見たことをきっかけとして、あれからいくつか日本のTVドラマを時折見ている。日本のTVドラマを見るのは、いくつかある無料のチャンネル。まあYouTubeみたいな物だが、TVの番組ばかりを扱っているところもある。日本のサイトではないけれど、日本のTV番組が過去に遡ってみる事ができる。ただし、そこはインターネットだし、そして無料サイトだし、ということもあって、多少のストレスがあるが、そこは我慢しなければならない。また、中国語やらのコマーシャルが流れるので、意味不明ではあるが、中国語圏でも、こういったコマーシャルが流れているんだな、と知る事が出来るのも興味深い。とにかく、ファストフードだったり、減量茶だったり、男性用化粧品だったり・・・。こんなのを見ていると、インターネットが普及した今日、確かに情報に扉は立てられないし、こんな番組が中国でも見られていると思うと、いったいあの国で見ている人は、どういう気持ちでこんな日本語TV番組を見ているのだろう、と思ってしまう。その昔、アメリカのホームドラマを見て感心していた日本人みたいな心境なのだろうか?それと、もう一つ感じる事。過去に遡って、何百という番組が見られるのだが、中にろくな番組がない、ということ。ちょっと見て、あ、だめだ、と言って途中で打ち切ることが多い。しばらく見て、やっぱりつまらない、というかアホらしい、と感じて打ち切ることもある。最後まで見たい、と思う番組は本当に少ない。これだったら、今放映中のものも含めて、やっぱり有料の会員になってまでTVを見たい、という気にはならない。もう少し、見ごたえのあるドラマなり番組を作って欲しいものだが・・・・。まあ、無料で見ているのだから、文句も言えませんが・・・・
2011.06.07
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このごろは物忘れがひどくて困る。昨日考えていたことどころではなく、今朝考えていた事までいつの間にかどこへやら・・・ということで、またまたメモ書きです。「バベルの塔」: テーマは人間の思い上がりなのかと思っていたが、どうもそうではないらしい。人間が「散り、広まる」ことと人間が「ひとつになりたがる」こと、の対象らしい。かといって、言語や民俗まで「散らし」て、なんの「恵み」を意味しているのか、いまひとつ不明。「子供」あるいは「親と子」: 確かに、子供を望む、ということの中には、どんな子供であっても許容する覚悟があってしかるべきだろう。自分の子供として、最後の最後まで親と言うのは自分に責任があるものだ。「助言者」: もう、なんでこれがキーワードとして書かれたのか忘れてしまった。やっぱり、「言葉」だけでなく、一言コメントを書かないとだめだなあ。「欲」: なんでこれが今日のキーワードとして浮かんできたのかはわからない。しかし、全ての「不幸」に「欲」が絡んでいる、というか、「欲」が「不幸」を生んでいる場合が大半だろう。だとすると、「神の愛」とか「悟り」とか、もっと直接的に言えば「幸せになりたい」というのも一つの「欲」ではないか? この「欲」は不幸を呼ぶか?「愛から発するもの」: この言葉も、半日経ってもう意味不明。なんで、あるいはどんなことを考えてこれをキーワードにしたのだろう?「哲学」すること: これは多分、今読んでいる「哲学の教科書」に関連している。いわば、こどもの心に戻る、ということ。ある意味、哲学する、というのは苦しむことではないか、と思える。発端は「死」を見つめることに有るとすれば、その「死」をどうしようもなく恐れ、悩み、考え抜く事なしに「哲学」は生まれない。だとしたら、それを望むか望まないか・・・多分、「哲学者」という人間は、それを望むとか望まないなどと考える前に悩んでしまう人間なんだろう。「時間」: これも永遠のテーマ。時間軸のないものは哲学的足りえない。それも永遠の時間軸。もし宇宙が「永遠」であるとすると、人間の一生は無に等しい。それを考えることなくして、「今」の一瞬を捉えることができるのだろうか。あ、やっぱりメモ書きだとだめですね。書いているそばから訳がわからなくなる。そこまで記憶がついてこない。その場でコメントを残す以外にないのかな?一つだけ感想を言えば、子供の目で物事を見て、すべてを疑う、あるいはすべてに疑問を持つ事が「哲学」の出発点だとすれば、この歳になって子供帰りをしている気がする。「聖書」勉強会なぞに参加しているが、一節一節、一語一語に???が付いて回って、全然前に進まない。よく皆、こんな分厚い聖書を何べんも読むことができるものだ。何べんも読むと、心の中に「腑に落ちる」という時が来る、という人も居るし、それを指して「精霊が降る」と称する人もいる。驚きだ。
2011.06.06
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今でこそ週休2日が大多数の人にとって「普通」になっているが、この週二日間も休みがある、と言うこと自体、そんなに歴史がある現象ではない。たしか、私がもと勤めていた会社が日本の会社の中でもいち早く土曜日も休日というのを打ち出したのが1980年代だし、学校は2002年だったろうか? とにかく、すぐ当たり前みたいになってしまった感があるが、日本で言えば昔は日曜なんてのはなくて年がら年中働きどおし、その後日曜日が休日になることが浸透し、最後にこの週休2日制になってきたわけだから、人間の歴史、日本の歴史の中ではごくごく最近のことなのだ。しかし一度、週に二日休むというパターンに慣れてしまうと、週に一日しか休めないと休んだ気がしないようになってしまうものだ。まだ会社によっては週休一日だったり隔週だったりするところもあるだろうから、あまり一般論としては言えないにしても、公務員や学校が週休二日制になった時点で、右へ倣えの日本社会は、大部分が週休二日制に突入した、と言ってもいいのではないだろうか。ところがところが、自分のことを考えてみると、最近は、完全に休み、というのは土曜日ぐらいになってきている。自営業の人にとっては公休もなにもないので24時間、365日、という人も多いと思うが、そこまでは行かないにしても日曜日に仕事をすることが多い。まあ不動産屋、という職業柄仕方がない面があるが、一日中ではないにしても、ちょっと仕事をする、ということになる。サラリーマンとか公務員と違うところは、こういった休日あるいは日曜日に仕事が入る、ということが嫌ではなく、逆にうれしい、という点かな?休日にまで働く事がある、それはすなわち、それだけ仕事がある、ということだ。これは自営業者の人なら賛同してもらえるだろう、と思う。仕事があって、「ありがたい」という感覚である。いやいややる、あるいはやらされる休日出勤、休日勤務ではないのがいい。すべては自分の選択で決められるのだから。
2011.06.06
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平家物語の時代から「盛者必衰」と言われ、塩野七生さんの「ローマ人の物語」のように、歴史的にも、ある時代栄えた大国は必ずいつかは没落する、というのが定石です。今の「大国」と言えばやはりアメリカですが、このアメリカもやはり「唯一の超大国」と呼ばれた時代は過ぎつつある、ということでは誰も異論はないでしょう。ソビエトなきあとの世界で、その「唯一の超大国」としての存在感を示してきたし、今もなお、衰えつつある、と言われて久しいにも関わらず、その影響力は他国の及ぶところではない。歴史的な大国の盛衰を考えると、やはり「経済」と「文化」という両面での翳りから、その後の長期低落傾向が始まっているように思えますが、このアメリカの場合はどうなんでしょう。一つは、「経済」。基軸通貨の「ドル」が今後どうなっていくか、ということ。これだけ世界中にばら撒かれたドルですし、日本にしても中国にしても、未だにこのドルを大量に抱えていることから考えると、いかに中国やその他の国が台頭し、アメリカの経済的な位置づけが相対的に低下していったとしても、このドル中心の世界経済はそうそう変わりそうにありません。またもう一つの「文化」。アメリカの文化、というと「?」的なところもあるのでしょうが、圧倒的に世界の中でアメリカが優位に立っているのが「言語」と「情報」。今、世界中で英語を話す人口は急激に増加している。国連の公用語は「英語・フランス語・ロシア語・中国語・スペイン語・アラビア語」の六ヶ国語だが、いかに中国が経済的に発展しても、それが世界言語になる可能性はないし、いかにスパニッシュが増えたところで、こちらも世界言語になる可能性はない。その最たる理由はたぶん「インターネット」の普及という「情報」流通に密接に関係していて、そのほとんど全ての技術=古くはインターネットそのものやPC、携帯、そして今でもブログ、ツイッター、アマゾンなどのE-コンマース、アップル、GoogleやFaceBookの発展などなど=がアメリカ発であり、英語で開発・利用されているのが大半だ、ということにある。Googleがある「技術」の開発を放棄した、という記事が今日載っていたが、それは、個人情報の収集・蓄積という面で、悪用されたら大変なことになる、という理由だと言う。今でさえ、Googleの情報収集能力は、下手をすると国などの公共機関を凌駕しており、一企業にそれだけの情報が集約されることに対する危機意識も芽生え始めている。ことほど左様に、「情報」というくくりの中では、アメリカではないけれども「アメリカ発」の企業が圧倒的な存在感を誇っているのが現状だろう。こういう「経済」「文化」という両面から見たときに、歴史的な「大国の盛衰」という定石はそのまま適用できるのだろうか、と思わざるを得ない。つまり、今のアメリカの大国たるゆえんは「国」そのものによるものというより、アメリカ発の企業とその技術のグローバル化にこそ求められるような気がしている。であれば、このような企業・技術の優位度が続く限り、アメリカという国が赤字になろうが、どうしようが、世界の中でのアメリカの存在感はそうそう縮小しないのではないだろうか。しかし、こういったテクノロジーの先端が、次々とアメリカで開発され展開される、というプロセスは、「人材」という資源の結果だろう、と推定され、その「人材」においてアメリカが今後も今と同様な位置を保ち続けることができるのか否か、なんとなくその辺に、この予想を決定する鍵があるような気がしている。
2011.06.03
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今日、会社についてかばんを開けたら、あらら・・・PCが入っていない^^;仕方なく家に取って返してPCを持ってくる羽目に。しかし、なんですね、今日日、PCがないと全く仕事になりませんね。逆にPCさえあれば、世界中どこでもほぼ同じように仕事が出来る・・あえて言えば、会社に出る必要も本当のところはあまりない。会社で他の人間と打ち合わせをする必要がある場合も、メールで済む事も多い。ただ、使っているメールソフトがアウトルックなので、全てのメールを自分のPCに取り込んでしまうので、Webメールと違って、このPCがないと内容がわからない。逆に言えば、オフラインでも仕事が出来る、というメリットもありながら、ネットに接続せずに仕事をすることは実際上ほとんどないので、その意味ではメリットよりもデメリットの方が多い気がする。つまり、PCを忘れて、代わりに会社のパソコンで、というわけには行かず、やっぱり自分のPCがないと仕事にならないのだ。こうなると、あまりにもひとつのハードとしてのPCに仕事が依存しすぎている気がして、ある意味では非常に危険だ。最低の防御として、バックアップでも逐一とっていればまだしも、それもやっていないので、もしこのPCが壊れたりすると、とたんに全ての仕事がストップしてしまう。道具としてのパソコンなのだが、あまりにも道具に依存しすぎるのも考え物かもしれない。そして、それは仕事だけに限らず、プライベートも含めた生活全般にも及んでいることを思うとなおさらかな。いまクラウドがはやっているが、これからのPCの活用はやっぱりクラウドサービス主体で発展してゆくのかも。そうなれば、データの保存・セキュリティーも含めて、それこそ、いつでもどこでもアクセスできる端末さえあれば別に特定のPCに依存することもなくなる。しかし、それはそれで、ネットワークというものに過大に依存する、というリスクもあるが。そうなると、ベストの状態というのは、ネットワークと端末側の二重性を保ちながら、ということになるのだろうか。そこまで行くと、クラウドのメリットがあまりなくなってしまうが・・・・
2011.06.02
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今、夜の12時少し前。 先ほどいつもの「勉強会」から帰宅して、ビールをちびりちびりとやっています。(本当は、就寝前2時間は飲み食いなし、というのが鉄則なんでしょうが・・・)今日もいろいろ考えさせられました。東日本大震災で、その救助、支援に動き回る人の姿・・・翻って、自分は何をしているか、するべきか、何ができるのか・・・・。この勉強会は「心」の勉強会です。被災地で、自宅をなくされた方が、「今回の試練が、本当に私のすべきことを教えてくれました」的な言葉を言っていたのが印象的。その姿は、災害に押しつぶされるどころか、目が輝いていました。それもこれも、心の持ちよう一つ、ということを分かってはいても、なかなか出来ることではありません。現実は自分の心が作り出すもの。それが本当に分かったときに、「生きる」ということの意味がわかるんでしょう。
2011.06.01
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少し前は、宇宙と言うのはビッグバンで始まって、今なお膨張し続けているとか、中にはブラックホールというものがあって、重力によって光さえも出られない、というものがあるとか・・・。わかるわけではないが、なんとなく分かった気になるような「宇宙」でした。でも、それは単に「こうに違いない」という「宇宙」だったので、「そうではない」とか「それでは説明がつかない」ということがあると修正を余儀なくされます。そして「宇宙」にはまだ「説明がつかないこと」が一杯あります。最近の「宇宙論」は、この「従来の考え方では説明できないこと」を何とか説明しようという試みに他なりません。しかし・・・・。 上に書いたような、ちょっと前の宇宙論はなんとなくわかったような気になれるものでしたが、最近の宇宙論は、なんとなく、も分からない、難解なものになってきています。それを理解しようとすると、現代数学理論を理解しないと、本当には理解できないのではないか、という感じがします。う~ん、宇宙というものにロマンを感じてきた私にとっては、そのロマンを感じるところまで理解できなくなりつつというのが、なんとなくさびしい。10次元のひもの宇宙って、なんなんだ?
2011.06.01
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