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毎回、教会に行くとその日のプログラムを印刷してある紙を渡されるんですが、その冒頭に、牧師さんより、「今日の一言」みたいな話が載せてあります。今日の「今日の一言」は、教会について。なんでもヨーロッパ、特にドイツなど、キリスト教を国教とする国で、教会に来る人が激減しているらしい。その人たちはだいたいにおいて「神は信じるけれども(信仰は持っているけれども)、教会は信じない」ということだそうです。で、この牧師さんの「一言」では、教会という場の重要性、そこできちんとした聖書解釈を教わらない事の危険性、もっと言えば、正しい精霊の言葉と、悪霊もしくは悪魔の言葉との間を区別する上で、教会へ来ることは欠かせない、という風に書いている。一般に、教会の役割というのは、「学び合い、教え合う」「奉仕」「献金」そして「伝道」だとされている。この点で、上記の「教会へは来なくなった信仰者」というのは、たぶん「学びあい、教え合う」「奉仕」を、教会とは別なところで出来るし、「献金」もしかり、そして「伝道」に関しては、自分の考えや信仰は人に押し付けるものではない、という意識でいるのではないだろうか。だとすると、この牧師さんが書かれているような「教会へ来て、『正しい教えを正しく学ぶ』というのが唯一の『正しい』信仰のあり方だ」ということ、そのものに反発している結果として「教会は信じない」と言っているのではないか、と思う。であれば、教会に来る事こそ「正しい在り方・信仰の形」と言うのは火に油を注ぐ事であり、ますます教会離れを助長するだけではないだろうか、と思えてしまうのだがどうだろうか。
2011.07.31
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7月23日の日記で、このブルグミュラーの練習曲のことを「弾いてみようかな」と書き、続く26日の日記で、YouTubeで模範演奏(?)を聞いて、とにかく取り掛かって早や5日。使用しているのは全音の楽譜なので、最初にこの「ブルグミュラーの練習曲」についての解説と、それぞれの曲の弾き方のポイントが書かれているのをまず読む。それによると、この練習曲集、バイエルが終わったぐらいのレベルらしい。え? ということは・・・・。 小学校一年の時にいやいや習わされ、案の定すぐに放り出したのがバイエルに入る前だった。この1月から始めたこのピアノ、もう自分が小学校一年の時のレベルは超えているのかな?(笑)ともあれ、先生が居ないので、この本にある解説が唯一の「弾き方のアドバイス」。で、それを頭に置きながら、譜面を読んで、なんとか音を拾ってゆく。そして、拾った音を、今度は繋げてゆく。 ここが難しい・・・・。この「素直な心」という曲、ゆっくり目の曲なのだが、全編レガート、つまり「なめらかに弾く」のが課題みたいな曲。たとえば、最初のところからして、なかなか繋がらない。 ここは、どうも個々の小節が終わる時に、次の小節の頭の音をすでに準備していなければならないようだ。これがなかなか出来ない。でも、これが出来ないと「レガート」にならない。また、適当に弾くと音の大きさが揃わないのだが、そこはわざわざ「最初の音だけ強くならないように」との注意がされているし、楽譜どおりに弾くと非常に弾きにくいところに限って、そこが「きちんと弾くように」と書かれている(笑) まあ、これを忠実にやって、やっと練習曲になるんでしょうね。すでに一応弾けるようにはなりましたが、こういった一つ一つの練習テーマに関してはまだまだ。 あと、この楽譜、ペダルの指示が全く書かれていない。でも、YouTubeで演奏を見てみるとペダルを踏んでいる・・・・・この辺は、自分の感覚でいいのかなあ?と思うが、そこが先生の居ない悲しさ、耳で聴いて、踏んだほうが良さそうだ、と思ったら踏む、ということでお茶を濁す(笑) さて、どこまで行ったら「仕上がった」と言う事にしようかな。一応、「レガート」がある程度でき、一曲通してつながり(間違えたり、止まったりしないで)、書かれている指示がある程度守れたら、というところかな、と思っていますが。 今の段階で、それ以上追っても基本がまだ出来ていないんで、多分時間がかかるだけでしょうから。
2011.07.30
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円高が止まりません。震災直後の市場最高値である1ドル¥76.25に近づいています。こうなると、本当は輸入品はどんどんこの円高を反映して安くなっても良さそうなのですが、たぶん、なかなか下がらないんでしょう。 昨日、サプリメントのことを書いたら、オオシマ親分からフィッシュオイルを勧められた。なんでも、DHAとEPAが豊富に含まれている、というし、肌にもいい、ということでご存知の方も多いと思います。日本にもいろいろ商品が出ていますが、輸入物として、その代表的なものにOMEGA3という商品があります。ご存知の方も居るかも知れません。で、最初にこれを見つけたのは日本のネット通販のサイトで、価格を見ると、100錠入りで定価4250円のところを、2980円とある。さらに、総額12000円以上の注文で送料無料!となっている。でも、これって輸入物だよな、ということで、こちらでいくらで手に入るのか早速調べてみた。そうしたら、なんと!!・・・・・・・・・・・・・・・・・いくらだと思います?なんと$7.99、今の為替レートで計算したら、650円! それも250錠入り!!送料も、$30以上の注文で無料となっている。これって、上記の日本の通販、一錠あたり30円なのに対して、こちらは一錠あたり2.6円!!なんと10倍以上の開きがある!!一日、2カプセルを摂る、ということになっているから、一日あたり50円以上の差が出て来る。一ヶ月で1500円、一年で18000円以上の差になるからバカに出来ない。もちろん、こんな輸入物をわざわざ買わなくとも、日本製でもっと安いものもあるだろうけれど、それでも上記の半額ぐらい。もともとアメリカはサプリメントは日本に比べて安い。時々友人に、帰国するときに買ってきてくれ、と頼まれることがあるが、だいたい日本の半額から三分の一。しかし、このOMEGA3、10倍以上の開き! この代理店がぼろ儲けしているのか、それとも、もともと日本向けのものが高く設定されているのか、はたまた輸入関税が高いのか、それは知らないが、こんなに違うんだったら、ネットだからアメリカに注文しても、配達料込みでも安いんではないか、と思う。問題は、ネット通販の場合、クレジットカードで注文するのが普通だが、日本のクレジットカードが通用するのかどうか。これはわからない。結構、日本のカードではダメな場合もある。その場合には、こちらで立て替える事もできる。これだけ違うと、へたをすると、個人輸入で関税を支払っても、ビジネスになるかもしれない、などと思ってしまった。今の仕事、くびになったら、この手の商売を始めようかな?サプリメント類だったら、絶対にアメリカから取り寄せたほうが安いだろうから・・・。
2011.07.30
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スポーツの効用につづいて、サプリメントの効用です(笑) 元来、ビタミン剤とかその他のサプリメントというのは好きではない。そんなもの、ちゃんとした食事をして摂取すべきだろう?バランスの取れた食事を出来ない人がそんなもんに頼るんだろうけれど、それは邪道だ!みたいな・・・・・・しかし若い時にはそれでも良かったのかも知れないが、最近は、いくら食事をきちんととっても不足する栄養素やミネラルがどうしても出てくるんじゃないか、と感じるようになってきた。若い人は、多少そういった不足があってもあまり表面化しないのかもしれないが、年齢が行くに従って、だんだんとあちこちに支障が出てくるようになる。たとえば、私の場合は、足がつりやすい、とか、時々、あちらこちらの関節、例えば肩だとか足首だとか、が痛くなり、それが一週間も二週間も続くことがある。また、今は自覚症状はないけれども、骨そのものも弱くなっていく、ということも有りうるし、ひどくなると骨粗しょう症などにもなりかねない。つまり、年齢と共に、そういったことを意識して対策を採らなければいけないのでは、と思うようになった。サプリメントは嫌いだが、背に腹は、というわけだ。今は、カルシウムとマグネシウムのコンビネーション、そして亜鉛などのミネラル類を主に、特に関節の痛みを和らげ、関節そのものを強くするサプリメントを飲んでいます。と言っても、飲み始めてから一ヶ月も経っていないので、まだ効果のほどはわかりませんが、自覚できるものとしては(1)足がつることがなくなった。(2)関節が痛い、という症状が、ここ2週間ぐらいない。というぐらいでしょうか。カルシウム+マグネシウムは骨の強化が第一目的なんで、それほど自覚できる効果はないんでしょうが。
2011.07.30
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歳をとると、体力の衰えを痛感することが多くなります。その体力の衰えを防ぐために、エクササイズをする人も多いことでしょう。でも、何かエクササイズのためのエクササイズ、という感じがしないでもありません。私自身はぐうたらで、ずぼらな性格なので、どうも強いモチベーションがないとなかなか続きません。この歳になってのエクササイズ、というのは身体を鍛えるとか筋肉を付ける、というよりも、どちらかというと体力維持とか体力の低下防止など、これ以上の衰えをストップするためにやる意味合いが強くなっていると思います。でも、それだけではモチベーションとして弱い。すぐさぼっちゃう・・・。面倒くさくなる・・・・。その点、スポーツはちょっと違います。でもスポーツと言っても昔よくやったスポーツは、その「往年の」記憶だけは残っているんで、だいたいそこまでは絶対に行けない、ただただ「下手になるのを防ぐ」程度です。私の場合はゴルフがそれ。スコアはみるみる悪くなっていて、もう80台で回る、なんてこの先ないんじゃないか、と思っちゃいます。そこへ行くと、「やったことがないこと」。 これは、私の場合、今回取り組んでいる水泳なんですが、これはいい。なにしろ「泳げなかった」のが「泳げるようになる」だけでも、すごい進歩!一回行って泳ぐだけで、前回とは確実に違う・・・・。そしてそれが嬉しい。これが「モチベーション」につながり、また次は、もう少し、と思えるようになる。つまり、スポーツというのは、単なるエクササイズと違って「スキル」が入る。その「スキル」の向上が実感できると、楽しみになる。楽しみになると、また行く。また行くと、楽しんでいながら、体力の維持ができる、ということ。これが「スポーツ」のいいところなのかな、と最近は思う。
2011.07.29
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今は夜の12時を少し回ったところ。 先日、「予習と復習」で書いた勉強会が今日行なわれ、さきほど帰宅。ワインを飲みながら、今日の「復習」という次第です(笑)今日の勉強会は、内容はともかく、ちょっと不思議なめぐり合わせでした。もともと、この勉強会に参加したのは昨年の7月。日本に行ったときにブックオフで購入した一冊の本で興味を持ち、アメリカでも勉強会が開かれているか聞いたところ、なんとすぐ近くで行なわれていたのを知り、参加。それも、その本のある章について、自分では納得できなかったので、それをもう少し詳しく知りたい、というのが、そもそも参加した動機でした。そして、今日は奇しくも、2年目の第一日目。この本のどこを今日やるのか、と思ったら、私が「納得できないな」と思った、その章でした。つまり、「偶然」に、一年前に参加したきっかけとなった本のその章が、一年後の今日の勉強のテーマだった、ということです。これも、スピリチュアル風に言えば、「偶然はない。すべては必然」、あるいは「シンクロニシティー」(意味のある偶然)とでも言うのでしょうか。とにかく、2年目のスタートを切るには最適なテーマでした。
2011.07.27
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世の中がいくら便利になったとは言え、人間の営みというのは基本的なところではそう変わるものではない。何百年、いや下手をすると数千年の昔から、人間の「悩み」「苦悩」ということに関しては、その対象こそ違え、内容的には変わっていないんだろう。温故知新 -古きをたずね、新しきを知る、という言葉。故き(ふるき)を温ね(たずね)て、新しいことに対処する、という言葉だが、温ね(たずね)て、を「あたためて」と読む人も居るらしいが、その名のとおり、じっくりと学ぶ、という意味だろう。今の人が抱えるほとんどの問題は、質的に、はるか昔にほとんど出尽くしていて、それらの問題に対して本当に多くの人が悩み、考え、対処方法を考えてきている。その代表がイエス・キリストや仏陀などの宗教の創始者だろうけれど、宗教に限らず、生きる哲学を考え抜いた人、人の苦しみや悲しみを正面から見つめた人は枚挙にいとまがない。そして、その多くが失われた、とは言え、現代の私たちは、こうした先人の悩んだ軌跡、解決に至る道程を書物を通してある程度知ることが出来る。「ある程度」ではあるけれど、その中には、今の人が抱える、ありとあらゆる種類の問題の根が含まれている、と言っても過言ではない。つまり、一人で悩んで袋小路に入ってしまった場合でも、ひとたび「古きをたずね」れば、それに対する答えはあらゆるところにある、ということだ。「質的に」同じ、と書いたが、もちろん、思想、経済、テクノロジーなどなど私たちを取り巻く環境は昔とはまったく違っている。 しかし、人間の営みの本質、という面では何も変わっていない。表面上の違いを理由に、「そんなことは今では通用しない」とか「このような状況は、今ではありえないから」と言って、先人の貴重な思索の賜物を捨て去るのは、本当にもったいない。パソコンで悩もうと、会社の仕事で悩もうと、悩みの本質は一緒、ということだ。答えは、どこにでも転がっている。 あとは、それを探すかどうか、だけにかかっている。
2011.07.26
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先日の日記で、ブルグミューラーの練習曲の事をちらっと書いたら、ある方から「リンロンさんの実力なら無理じゃない!」というヨイショをいただき、じゃあ、とその気になったんですが・・・・・(笑)先生について習っている人なら、先生に手取り足取り教わるか、模範演奏みたいなものを聴く事ができるんでしょうが、独学だと、その点がまず不利。曲のイメージを、楽譜を見て掴む、なんて芸当はまだまだ出来ない。 で、昔だったら模範演奏のCD付きの楽譜などを買って、それで勉強したんでしょうね、独学の人は。でも今は、YouTubeみないな便利なものがあるお陰で、ほとんど全ての有名は曲は誰かがアップしている。 早速、このブルグミューラーの25の練習曲を探してみると、PTNA(the National Piano Teachers' Association of Japan:日本ピアノ教師連盟?)から、この練習曲の全25曲がアップされていました。 例えば、ブルグミューラーの練習曲一番「アラベスク」便利な時代になったものです。で、この25曲を一通り聴いてみましたが、いやいや、「無理じゃない」どころじゃないですねえ(笑)驚いたのは、25曲中、17,8曲は知っていました。というか、聞いたことがある曲でした。ああ、この曲って、この練習曲だったんだあ、という感じ。昔、姉が弾いていたり、息子や娘が練習で弾いていたんでしょう、なんとなく頭に残っている・・・しかし、しか~し、これってちょっと難しそう。特に20番以降なんて、あんなに早く指が動くはずがない!スケール練習でもきっちりやっていないと到底無理!だからと言って、ゆっくり目の曲も数曲あるんですが、これはこれで、音の強弱、タッチ、左右の手のバランス、ペダル、テンポの強弱、レガートやクレッセンド、デクレッセンドなどなど、さすがに「練習曲」、課題はてんこ盛りで、ゆっくりだから簡単、というわけではない。でも、早い曲は、テクニック的に絶対無理だけど、ゆっくりの曲だったら、この辺の「うまく弾く」という部分を、それなりのレベルで弾くだけだから、やって出来ない事はないかもしれないなあ、などと思いながら聴いていた。一ヶ月に一曲ぐらいのペースだと、全25曲をやるのに2年がかり。2年も経てば、それまでピアノをちゃんとやっていればの話ですが、これぐらいの曲が弾けるようになるんだろうか・・・・弾けるようになってたら、メチャ嬉しいんですが、どうかなあ・・・・・・・・・・・・未来の自分に期待!!(笑)
2011.07.26
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円高が加速していますね。 前にも「円高は日本復興への追い風?」という日記を書きましたが、実際どうなんでしょう。個人的には、例によって、月末に日本から多少の現金をアメリカに送っている私には、非常に助かるんですが・・・・。ほんの4年ほど前の2007年ぐらいまでは、1ドル120円ぐらいだったので、5万円を送ってもたった$400ぐらいにしかならなかったものが、このところの円高で、5万円を送ると$600以上になる!昨年の家計簿を見ても、6月ごろまでは1ドル90円ぐらいだったので、それと比べても12~13%は増えている計算。日本での収入は実質何も変わっていないのに(いやむしろ減ってきているかな?)、為替が変わるだけで、こちらでドルベースで受け取ると50%も増えている!!本当に有り難いんですが、ちょっとこの円高、日本の輸出企業には厳しいですね。その一方で、輸入品はどんどん安くなってもいいんですが、どうなんでしょう・・・。2年前に比べて、30%、40%は安くなってもいいものがたくさんあるはずなんですが・・・・しかし、企業が苦しいと、賃金や雇用も厳しいんで、物価が多少下がっても痛し痒しですね。
2011.07.26
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予習だとか、復習だとか、社会人になっている人には、もう遠くの昔のことになっているかもしれません。しかし、生涯学習とまで言わなくとも、なにかしら勉強していて、それが定期的な学習会などを含む場合は、この予習とか復習とか言う言葉もあながち捨てたものではないと思っています。毎週火曜日に私が参加している勉強会があるのですが、その勉強会の場合は、何をやるのかあらかじめ分からないので、この「予習」というのは別にしない。その場で、「今日のビデオ」というのを観て、それについて皆で勉強する、というスタイルなので、ぶっつけ本番である。ただし、「復習」の方はやろうと思えばやれる。私の場合、復習というよりは、その時々の印象を、この日記やらブログの方に書き留めておく、という方法を取っている。特に、知識を詰め込む類の勉強会ではなく、「考える力」あるいは「考えるためのヒント」を学ぶ勉強なので、その時に感じたことを思い返すことがそのまま「復習」になる。しかし、明日の火曜日の勉強会は、珍しくそこで勉強する時に使用する本を指定された。たまたま私はその本を持っているので、それを読んでいこうと思い、昨日も半日、その読書に費やしていた。その本のどこが実際の勉強会で使われるかわからないので、一応、全体に目を通しておく事にする。これが今回の「予習」。 役に立つかはわからないが・・・・。
2011.07.25
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ピアノを始めて早や6ヶ月と三週間。一度、半年の時点で総集編をやったが、それから今に至るまで、たった一曲。こんな(?)曲で3週間も!確かに、一曲ずつ、何かしら新しいことをやっているんで、少しは「上達」しているとは言えるんでしょうが、なにしろ、上達速度が遅い!3ヶ月半でイマジンを弾き、6ヶ月で、別のある曲を弾こう、とひそかに狙っていた、というか目標にしていた曲があるのですが、まだまだ・・・・この調子で行くと、年末まで一年かかっても、その二つ目の目標に到達できそうもない。。。やっぱり、進むに従って、基本が出来ていないことがだんだんと曲の完成度を左右するようになってきたみたい。また練習曲に戻ろうかな、と考えている今日この頃。でもチェルニーやらバイエルは面白くないんで、ブルグミューラー(xxに言わせると、バーグミューラーだそうですが。^^;)の25の練習曲でもやろうかな? ブルグミューラー 25の練習曲の中から 「なぐさめ」ちょっとハードル高いかな?
2011.07.23
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あ、本の紹介を期待している方にはすみません。特定の本を紹介するわけではありませんので^^;人にはそれぞれ「自分の人生を変えた出会い」というものがあるでしょう。私にもあります。同様に、「私の人生を変えたこの一冊!」みたいな本もあるのではないでしょうか?私にもあります。そんな一冊。ただ、ここでそれがなんの、どういう本か、という紹介をするつもりはありません。なぜか、と言うと、人にはそれぞれ「時」があると思うからです。もしかすると「時」だけではないかもしれませんが、とにかく、人によって感銘を受ける、感動する、衝撃を受ける、という類の本は、それぞれ異なる、と思うからです。人はそれぞれ、生まれも育ちも違い、生まれ付いての感性・才能も違い、そして出会う人も違えば経験することも皆違います。 この当たり前のことが、その時々の「その人」の中身や心の状態を決定するので、二人として同じ人は居ません。なので、ある人が感動したり、人生を変えるほどの衝撃を受けた本が、別の人にもそうであるとは限らないからです。実際に、自分が読んで感動したり、影響を受けた、と思っている本を、アマゾンなどのネット書店で見ると、そこにいろいろな方が読後感をつづり、評価をしています。それを見ると、自分が例えば5つ☆をつけて、こんな本があったんだ!と感激した本であっても、平均の星の数はたったの三つ、ということもあります。つまり人には、自分の状態が「準備された」時に、そういった本に出会う、ということで、そんな準備がないままに万一「出会った」としても、何気に通り過ぎてしまう、ということでしょう。その意味では、昔読んであまり感銘を受けなかった本を、今になって読み直してみたら、全く違った印象を持つ事もあります。よくなる場合もありますが、中には「なんでこんな本に感動したんだ?」と評価が下がる場合もあります。いずれにしても、人生の節目節目で、そういった本に出合える、ということは少なくとも幸福なことでしょう。これを読んでいなかったら、自分はこうはならなかったに違いない、という感謝ができる出会いです。人との出会いも同じように、あとから感謝できる類の出会いを重ねたいものです。
2011.07.21
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先日、娘が友人を連れてきたときに、昔の写真のアルバムを出してきて、いちいちケラケラ笑っている。その大部分は、自分や兄の小さい頃の写真で、それを観ながら、こんなだったんだあ、という感じの「笑」でしたが、特に気に入った写真があると、それをわざわざ携帯で写真に撮っていました。たぶん、フェース・ブックにでも載せるんでしょう。子供たちの間では、評価が下がったとは言え、まだまだフェースブックは一つの一大コミュニケーションツールになっていますから・・で、ふと見ると、こちらを指差して何か言いながら友達と笑っているではないですか!「失礼な!」ということでもないですが、「なんだよ」と行ってみると、私の10数年前の写真。「このどこがおかしいんだ?」と聞くと、なんと写真で着ているポロシャツと、その時私がきていたのが同じ・・・つまり、10数年前、確か1994年ごろの写真だから、もう17年前と今と同じポロシャツを着ている、ということで笑ったようだ。よく言えば、「物持ちがいい」し、「体型も変わっていない」、悪く言えば、全然着る物には無頓着、というか、おしゃれ、などとは縁遠い。しかし、しか~し、ですよ。まったく古さを感じるような代物ではないし(なにせ、ただのポロシャツ、それもナイキの奴)、どこがほころびているわけでもない、つまり、まだまだ着るのになんの支障もない。そのどこがいけないのか?と思うのは私だけでしょうか?着ているのは私で、私がなんともなければ構わないんじゃないか、と思うが、特に女性というのはそうでもないらしい。一緒に歩いていて私がそんな「時代物」を着ていると恥ずかしい、のだそうだ。しかし、いつから「物持ちがいい」ということが「美徳」ではなくなったんだろう?江戸時代の日本は、世界でも「超」の付くほどのリサイクル社会だった。しかし、戦後の日本は、高度成長と資本主義の発展で、「消費は美徳」の文化が浸透していった。たしかに、資本主義社会では、消費者の購買力が経済を左右する、という側面はある。今回の東日本大震災のあと、日本の経済を立て直すためにも、購買自粛もほどほどに、という声も聞こえる。しかし、それでもなお、使えるもの、不要になったわけでもないものまで「流行」の名の下に、捨てて新しいものを買う、というのはちょっと違うのではないだろうか。節電も結構、車の省エネも結構。 しかし、物の、省「消費」ということと、必要なものへの「消費拡大」を両立させることこそ、重要なのでは、と思うのだが。
2011.07.21
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先般から続いている、「過去のTVドラマ集中観賞」の一貫ですのでお許しをwさて、観月ありさ主演のこのドラマ、まともに感想を書く気は毛頭ありません。というか、天邪鬼の私は、たぶん、このドラマを観た誰もそんな感想は持たないだろうな、という感想を・・・^^;それは、「人間の、人間としての成熟度」ということ。観た方はご存知だと思いますが、主人公は33歳の学校教師で独身、つまり「おひとりさま」。そして、その恋の相手は、新米の臨時教員で23歳、という設定。もともとのテーマはしりませんが、たぶん「逆・歳の差婚」みたいなところでしょうか?しかし、私が観ている途中から考えたのは、上に書いたように、『人間の成熟度』というものはどう計れるのだろうか?ということ。主人公が、ドラマの中で「教えられていたのは私でした」と言うセリフを言っていた。その通り。 年齢から来る経験の差は歴然としていて、「社会人としての常識」も、仕事(この場合は教師という職業)の経験・知識も、だんぜんこの観月演ずるヒロインの方が上。しかし、何を「上」というのだろう?特に、人間として、と考えた場合、何を基準に上とか下とかを判断したらよいのだろう?このドラマの中では、明らかに、その意味では年齢とは逆転した点に、その答えを暗示していたのだろう。それは何か?そして、その類の「人間としての成熟度」という観点に立ったとき、世の中の大多数の「大人」は、子供を真の意味で教育するレベルにあるのだろうか、と。私にしても、結婚したのは、けっして早くはないし、むしろ遅いと言ってもいいのだが、それでも、結婚、子育て、子供の教育、という点では、自分のそれまでの経験や知識というものが全く役に立たないどころか、見方によっては、子供を「常識」の枠内に押し込める愚を冒しているのではないか、と思ってしまうこともたびたびあった。その「常識」さえ、十分でなく、ましてや「人間としての成熟度」という観点で見たときに、本当に子供を生み、育て、そして教育するに足るものを持っている大人など、どれだけ居るのだろう?今日では、アダルトチルドレンやらモンスターペアレントなど、未成熟な大人が増えているらしい。育てる親が、責任を全て学校に押し付けて、それで子供がまっとうに育つはずもない。しかし、現実はその方向にどんどん行っているように思えてならない。この「おひとりさま」というドラマ。 観ていて、単に「恋愛に歳の差なんて関係ない」ぐらいの浅いところで留まるのではなく、人間として生きていく上で、何が一番大切なのか、というところが、もしかしたら、一番大きなテーマなのかな、と感じた次第。あれ、これって、誰もが考えるような感想かな?(笑)
2011.07.20
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本当は、今日の教会の説教に内容について感じた事を書きたかったのですが、長くなりそうだし、考えもまとまっていないので、それは延期(笑)その代わり、その時に、ぜんぜん関連がなさそうなのに、ふと思った「本を読める」ということの幸せについて。 宗教の中でも、一神教であるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教などは、旧約聖書を共通に持ちながら、トーラーや新約聖書やコーランなど、それぞれの「教典」がある。仏教に至っては、仏陀その人は何も書いたものを残さなかったが、その話をまとめた大勢の弟子達、そしてそれを発展させていった(と思われる)後代の経典が、何千巻とある。しかし、こういった本、あるいは教典、経典のたぐいを読める人は、その時代時代ではごく限られたエリートだけであった。日本では比較的早く民衆の間での識字率が高くなり、江戸時代にはいろいろな瓦版や草子の類が庶民の間で読まれたようだ。しかし、それにしても、例えば明治になっても、大正になっても、下手をすると昭和になっても、小説でベストセラーになった、といっても数千冊も印刷されれば大ヒットであったらしい。ヨーロッパでも、中世に印刷が中国から伝わり、本というのが作られたのは、ちょうどマルティンルターによる宗教改革の時期と重なる。つまり、彼の宗教改革は、それまで聖職者しか持たなかった、あるいは読めなかった「聖書」というものを、発明された印刷術で、大衆に広めた、その結果としておきた改革ということもできる。それでも、聖書以外では、小説や、哲学、思想、などなどの本は、なかなか識字率が上がらない中で、やはりごく一部の人のものであり続けた。つまり、有名な作家で、評判もよく、皆に読まれた、と言われる本であっても、その「皆」というのは、ごく限られた人たちであった、ということだ。その点、今のように、欲しい本、読みたい本が、いつでも、どこでも、お金を出せば買える、あるいは図書館で借りられる、そんな状況になったのは、本当に最近のことであり、人類の長い歴史の中でも初めてのことであろう。それも、自国の本だけではなく、英語であれ、フランス語であれ、ドイツ語であれ(ちょっと西洋に偏っているきらいがあるが・・・)、評判のよい本はすぐに翻訳され、我々が手にとることができる・・・・これは、考えてみればなんという幸福なのだろう、と思う。そして、今は、この情報の流通が、本にさえ頼らず、インターネットという媒体で世界中に瞬く間に広がる、そんな時代になっている。本を読める幸せ、イコール、多彩な情報に接することができる幸せ、とするなら、本は本で電子化され、本という体裁をとらない生の情報さえ、簡単に交換できるようになっている今の幸福を、あらためて感じている。
2011.07.18
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今日も、前に読んで気に入った本を再度読み直していた。この本に関しては、大分前にも書いたことがある。「人類は宗教に勝てるか」なんとも過激な表題ではある。が、しかし、先般から書いている私の体験や思考錯誤(誤字ではありません。笑)と、本当に似ている。副題は「一神教文明の終焉」となっているが、確かに「一神教」に対する疑問から出発していはいても、あるいは「一神教」に根本的に現れる問題を主題にしていても、だからと言って従来の多神教や特定のアニミズム的な宗教を推しているわけでもない。言って見れば「無神教的コスモロジー」と著者が呼ぶ、宗教の超克である。私のように、週に一回、教会へ通い、その時々の感想を書いているのとはわけば違って、筆者は比較宗教学の教授である。非常に変わった生い立ちの人で、小学生の時にクリスチャン、中学に入ってからお寺に住み込み、30代半ばまで寺で過ごして僧侶としての日常を送り、その後、ふとしたきっかけでアメリカのハーバードでキリスト教神学を学び、プリンストン大学などで教授を務めたあと、シンガポールや日本の大学の教授をやられている方。そして、その大学での勉強や、クリスチャンやイスラム教徒の人たちとの日常の接触を通して、多くの疑問を持つが、それらは私がここで書いてきた疑問とかなりの部分重なっている。特に、聖書を読んで、あるいはクリスチャンの方の日常に関する疑問、そして、それに対するクリスチャンの方の解釈や考え方に満足できない点などは本当にそっくり同じ部分も多い。しかし、違うのはここからで、さすがに「職業」として宗教を研究しているわけだから、その読書量も思索量も、私など足元にも及ばない。そこから導かれる現在の「宗教」に関する考え方、宗教以外の人類の道、という点では非常に共通する部分が多い。共通部分が多いにしても、私ではこういったものは、考えていても「書こう」と思ってもなかな書けるるものではないし、書いているそばから論旨がぶれてしまったり、書こうと思っている内容の何分の一も書けないのが普通だが、そういった部分を明快に文章にしてくれている。私が漠然と感じ、漠然とこうではないか、と考えていたようなことも、豊富な資料とご自身の体験から、その思索を進めていく、その過程を書いてくれている。この人にしても、自分のそういった思想遍歴、宗教遍歴のひとつの区切りとしてまとめとして書いた、と書かれているので、単なるまとめにすぎず、本当はもっともっと書きたいことはあるのだろうけれども、少なくとも要旨は書き留めているはず。このような「書くことが難しい」内容を、他の人の書で形を与えられる、という経験はそうそう何度もあるものではないが、それだけに、そういう本に出合えると何か嬉しくなってしまう。こういったことを考えていたのは自分ひとりではなく、ここにも、同じような疑問から出発して、同じような考えを持っている人がいるんだ、という感慨が湧いてくる。そのような著者というか、本と言うのを、私の場合、3、4人持っている。自分が考えている事、疑問に思っていることを、より明確な形にする上で、こういった本たちは本当に参考になる。ふと、参考文献を観てみると、やはり、私が読んできた本と共通するものが何冊もある。問題意識が同じだと、読む本も似てくるのだろう。
2011.07.17
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今日、ぶらぶらとYouTubeでピアノの演奏をいろいろ聞いていた。すると、YouTubeを見たことが有る人ならわかると思うが、右側に同じジャンルの他のアップロードされたものがいろいろ表示される。その中に、たまたま 「作曲 飯田史彦」と書かれたピアノ曲のアップがあった。あれ、この「飯田史彦」って、あの「飯田史彦」? あの「飯田史彦」というのは、合計200万部近く売った「生きがいシリーズ」の著者であり、福島大学で経営学の教授をされている方だ。いや、教授をされていた方だ、といった方が正しい。自分は知らなかったが、とうとう大学の職を辞して、自分で「研究所」を立ち上げたらしい。それも、大学までの専門分野である「経営学」ではなく、いや、経営学も包含しているのかもしれないが、その対象は「スピリチュアル」である。この方が作曲?と思ったのだが、調べてみたら確かに同一人物。この飯田氏、音楽療法家としても知られているらしい。 これは知らなかった。そして、その関連の書籍を調べていたら、その内容紹介に、20歳の頃に受けた超常体験をもとに・・・と書かれていた。「え!」という驚きと、「やはり」という気持ちが相半ばしているが、どちらかというと「やっぱり」の方が強い。それに、大学を辞して「スピリチュアル」の研究所を作ったのも、「やっぱり」という気持ちに近い。あれだけの著作を表した著者、本分とする経営学で到底果たしえない影響力を、こと経営者の人に対してだけでなく、広く一般の読者にまで広げていたのだから、この転進は、いわば必然であったのだろう。初期の本(というより、最近の著作は読んでいないのでわからないがだけだが)では、ご自身のそういったスピリチュアルな体験についてはほとんど触れていない。これは、やはり大学教授として「スピリチュアル」に関する本を書く、ということに対する、至極当然の態度であったと思う。氏は、あくまで論理的に、できるだけ客観性を失わないように、そしてあくまでも独りよがりな「断定」を避けながら、今まで数々の本を書いてきている。たぶん、そこから最近の著書では一歩踏み込んでいるのだろう。大学を辞めたのも、たぶん、その「もう一歩」踏み込むための選択ではなかったか、と私は思っている。早速、この関連の著書を自分の本棚の「読みたい」本リストに追加した。こうなると、少しでも早く読んでみたいものだ。
2011.07.16
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昨日、厚生労働省より平成22年度の国民年金納付率に関する発表がなされ、それに基づいて報道各社が一斉にニュースを流した。しかし、そのニュースを見ると、1.国民年金納付率、初の60%割れ!とか2.国民年金納付利率 5年連続で低下、初の60%割れ!といった見出しばかり。対して、厚生労働省の納付率改善対策には、納付者の属性別の取り組みがずらずらと並んでいるが、こういったマスコミの報道姿勢への取り組みは見当たらない。こんな記事を読んだ人は、(1)あれ、国民の40%以上、若い世代では50%以上の人が国民年金を支払っていないんだ。(2)これが年々低下するんだったら、国民年金は安全だ、なんていう政府広報の話は信用できない! 遅かれ速かれ年金制度は破綻するんじゃないか!! (3)だったら、苦しい家計の中で、敢えて払わなくたって、どうせ破綻するんじゃ、同じじゃないか!!(4)万一破綻しなくとも、若い世代では、納入額よりも支給額が減ってしまうんじゃないか!!払うだけ損だ!!という負のループで、ますます納入率が下がってしまう・・・しかし、これは誤解です。 特に上記の(1)は全く実態にあっていない。なぜか、というと、この納付率は年金制度の中の、単に第1号被保険者に関して言っているのであって、国民全体のことを言っているわけではない。国民の年金加入状況全体から見たら、この第1号被保険者というのはどのくらいの割合か、というと1.全公的年金対象者 6836万人2.第1号被保険者 1938万人 (28.3%)3.第2号被保険者 3884万人 (56.8%)4.第3号被保険者 1005万人 (14.7%)となっており、上のマスコミの記事は、この2.の第1号被保険者に関してだけの納付率を言っているだけである。しかも、その上に、この第1号被保険者の中には、あらかじめ550万人の学生や免除者が居るので、この部分だけでも3割近い。つまり、あらかじめ納めなくとも良い、あるいは正式に納付猶予を認定されている人たちが含まれていて、本当に納めるべきなのに納めていない人は 5.未納入者 320万人である。この純未納入者の割合は、第1号被保険者の中でも16.5%だし、全公的年金加入者の中では、たったの4.7%なのである。でも、こういった注釈や、断り書き、あるいは説明はほとんどかかれて居ない。だいたい、この未納割合が、第1号被保険者の中の割合だ、ということすら書かれていない。国民年金加入者=第1号被保険者なので、単に「国民年金加入者」と書いてあれば間違いではないが、大いに誤解を与えやすい。一方では、10年ちょっと前にこういった公的年金制度に加入してさえ居なかった「未加入者」は100万人以上居たのだが、それが近年は10万人を切っており、その意味では、公的年金制度加入者は増えているのだが、その報道は一切ない。もちろん、厚生労働省の発表そのものを見ればそれは一目瞭然なのだが、大半の人はそんなものを見もせず、これらの報道だけから、国民年金、いや公的年金制度全体への誤った印象を持つに違いない。 思うに、この「年金を払っている人はどんどん少なくなっているぞ!」「払うだけ損だぞ!」「年金制度は、崩壊寸前だぞ!!」というような「過激」な、そして「刺激的」な方がニュース性があるとして、分かっていながら、こういった報道をしているのではないか、と勘ぐってしまう。厚生労働省が本気で、納付率の低下を防ぐ気なら、こういった報道姿勢に対してこそ、もう少し毅然とした態度で臨んでもらいたいものなのだが・・・・これは、正直に、素直に国民年金を払っている人(つまり第1号被保険者)、そして、国民年金ではなく、厚生年金や共済組合年金を払っている大多数の人(つまり第2号被保険者)やその妻(第3号被保険者)に対する義務だと思うのだが、どうだろうか。
2011.07.14
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3月より続けてきたカイロプラクター、今日が最終日でした。いろいろな体の不調が全て治った、というわけではなく、単に保険が事故から4ヶ月しかカバーしてくれない、という理由で、明日でその4ヶ月が終了するためです。つまり、金の切れ目が縁の切れ目ならぬ、保険の切れ目が治療の切れ目、というわけです(笑)で、この4ヶ月どうだったか・・・・なにせカイロプラクターというのに行ったのが初めての経験だし、他のところと比べて、ということは出来ません。日本の整体というような代替医療の経験もないので、ここの施術・治療が的確なものなのかどうかわからないのですが、いろいろと今まで意識したことがなかったことを教えてもらい、日常的に意識するようになった、ということは言えます。それは端的に言えば、体のバランス、ということと、「正しい」姿勢、というものです。「正しい姿勢」の中には、「正しい立ち方」「正しい座り方」「正しい歩き方」というものも含まれ、「体のバランス」という面では、やはり左右の均等性ということを、いろいろな場面で意識するようになりました。治療の効果、という面では、初めに事故のためか、と思われためまいが、どうも事故のためではなかったようなので、これは少しずつ回復していますすが、この治療の成果といえるかどうかは疑問です。また腰痛が、この4ヶ月の間に3度ほど起きたのですが、それは一応治っているものの、過去にも腰痛は繰り返してきて、そのたびになんとなく治っているので、これまたこの治療によって治った、とは断言できません。その代わり、上記のように、「長い目」で見たときに、今後どのような点に気をつけていったら良いか、日常的な運動として、どんなことをしていったら、体のバランスや正しい姿勢の維持に役に立つか、ということをいろいろ学ばせてもらいました。これだけでも通った価値はあったかな、と。一、二ヶ月後に、また行って事後チェックをすることになっていますが、チェックポイントは決まっているので、それが、今後の自分のエクササイズや姿勢の意識化の結果として好転するか悪化するかが決まるわけです。こういうガイドラインがあると、日ごろのモチベーションになります。もしかしたら、これが一番のカイロプラクティスの効果かも^^;
2011.07.13
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というのが、今日Yahooで紹介されていた。Yahooのメールを使われている方は知っていると思いますが、 これです ⇒ 「貴方の年収診断」自分の年収は正確には把握していないのですが(すみません)、適当に年齢とか年収とか、その他のデータを入力すると、診断結果が出ます。これがなかなか面白い。今日のYahooに出たばかりなので、これを見てやってみる私のようなヒマな人が大勢いると、このデータもますますサンプル数が多くなって、自分の位置づけがより正確に見えるようになる、ということらしい。なので、ここで紹介して、10人でも20人でも試しにやってもらう、ということでこの日記を書いています(笑)さて、あなたの診断結果はいかがでしたか?
2011.07.12
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しかし、今日もドコーンと落ちました・・・・ダウも、S&Pも、ナスダックも・・・・まあ、株はやっていないから関係ない、と言えば関係ないんですが、こうがたがたすると実体経済の方が引っ張られちゃうから無関心で、というわけには行かない。今回の下げは、またまたヨーロッパの信用不安・・・・ギリシャ、アイルランド、ポルトガルという、すでにIMFの管理下になりそうな国ならまだしも、それに加えてスペインとイタリアでの信用不安。ヨーロッパで、第3位と第4位の経済規模ですから、ギリシャやアイルランドの場合とは、その影響度において全然違う。方やアメリカでは、またまた失業率の数字が9.2%なんてすごい数字になっていて、この株安に追い討ちをかけた格好になっていますが、そんなアメリカのドルに対してもユーロは下がっている・・・・日本も震災がらみで全然先行きに安心感がないにもかかわらず、世界的に見たら 日本円 > USドル > ユーロ見たいになっていて、なんで円が高くなるの?と思うぐらいに他が悪すぎ。ひところは、世界中が調子よくて、どこが「一番調子がいいか?」で競ってきた世界経済も、このところずっと、「どこが一番危険か?」の競争になっちゃっている感じ。いったい、半年後、一年後はどうなっているんでしょう?やっぱり、中国に逃げ出す? (いえ、物理的な居住ではなく、資金の置き所です)まあ、逃げ出すも何も、借金しかないんで、持ってゆくことも出来ませんが(笑)
2011.07.12
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今日の教会の説教のテーマはなんだったんだろうか?今日の聖句(説教のテーマとして選んだ、聖書の箇所)は、旧約聖書でアブラハムが息子イサクを、神の命令によっていけにえにささげる場面。神の指示によって、故郷を離れたにも関わらずアブラハムは長い間子供に恵まれなかった。100歳になった時にようやくさずかったイサクをアブラハムはどんなにか愛した事だろうか。その大切な一人息子を神はいけにえに捧げよ、と命令する。そしてアブラハムは、それに(恐らく)悩みながらも、その「信仰心」から、神の命じたとおりにしようとイサクを山の上に連れて行き、まさに息子をいけにえにするために殺そうとする時に、神がそれを止め、代わりのいけにえの羊を与える。この話のテーマはなんなのだろうか? 聖書の内容には難解なものが多い。こういった内容が次々に出てくるのが聖書で、それを字句どおりに解釈していったらとんでもないものになりかねない。説教の中では、通常言われているように、これがアブラハムの神への信頼の証し、信仰の篤さと受け取り、「神がそのひとり子をお与えになったように」と書かれた、神の一人子としてのイエスと、その死を、旧約聖書のこの部分の「成就」として説明する。そして、もちろん、神はこのアブラハムの信仰の篤さを認め、「また」子々孫々までの繁栄を約束する。しかし、神がアブラハムの子孫の繁栄を約束したのはこれが初めてではない。その前になんども「星の数ほど」子孫が増え繁栄する事を約束している。だから「また」なのである。しかし、この日記のテーマはここではない。今回のテーマは、この旧約聖書のこの箇所の受け取り方だ。これをアブラハムの信仰の篤さとして、称えるための逸話として受け取るべきなのだろうか?神の声に従って、長年待ち望んでやっとさずかった一人息子を殺していけにえにする、ということを、恐らく悩みぬいた末ではあろうけれど、結局は従って、実行に移そうとするアブラハム。確かに、通常の神経では考えられないほどの「神への信頼」がなければ出来るものではない、とは言える。しかし、同時に、それが本当に神の言葉だとどうして信じられたのか、その辺の記述はない。もとから「神の声」にしたがって生きてきたアブラハムのこと、この時もつゆほども疑わなかったのか、それとも少しは疑ったが、それでもやはり神の声だと認め、それに従う決心をしたのか、その辺の記述もない。この話をどう解釈するか、ということに対して、頭に浮かんだのが「狂信」という言葉と「信仰」の間にある(はずの)境界について、であった。オーム真理教のサリン事件を挙げるまでもなく、ある宗教に見られる「輸血拒否」による子供の見殺しなど、宗教的な「義」を守るために、社会の一般常識からしたら「罪」になることを、真剣に正しい、と思いこんでなされる行為は多い。古くは十字軍の遠征から、ナチスによるユダヤ人の大虐殺、中南米におけるカトリック教徒による現地人の大虐殺、強制改宗などなど、今となっては教会自身もその「非」を認める行為は枚挙にいとまがない。この全てとは言わないまでも、多くの部分で、「神の義」を信じた敬虔なクリスチャンによる行為であったわけで、それらと、上述したアブラハムの息子を凝ろうそうとした行為がダブってくる。片や正式に「非」と認められ、方や聖書上もっとも敬虔な信仰者として評価されるアブラハム。その違いはどこか?これが、私の聞きたかったことであるが、説教の中ではもちろん、そんな内容は出てこない。ただただ、神への信頼と、神への信仰、その結果としてのイスラエルの繁栄という神の約束ごとが語られる。日本人の中には、宗教というと一歩引いて、一定の距離を持つ人が大半だろう。特に、キリスト教やイスラム教などの一神教に対してはそうだ。なぜか、と言えば、これら宗教の「義」とか「善」とか言われるものと、自分自身の「良心」あるいは世間一般の「常識」とが相入れない、場合によっては対立するものとして現れたときに、自分の良心を捨て、世間一般の批判、糾弾をおそれずに「信仰」に生きる、ということに対して、一般の日本人は危険や怖さを感じているのではないだろうか。子供が死に掛かっているのを見ても、輸血すれば直ると言われてもそれを信仰上の理由で拒否し、子供を見殺しにしたり、毒ガスで世間の「無信仰」な人間を抹殺することになんの良心の呵責も覚えない人間に、宗教としうものは変える力をもっているのだから、これは当然の話と言えなくもない。だからこそ、本当に、こういった「狂信」と、もし本当の信仰というものがあるとしたら、その「信仰」の間の境界、あるいは「違い」というものがいったいなんなのか、そこをはっきりさせない限り、たとえ実際に心の平安が得られる、といった功徳があったとして、おいそれとは「信仰」に行きようがない。世の中には「神の声」を聞いた、と称する人は多い。その大部分、いやほぼ全てを、単に幻覚・幻聴とする、唯物的、科学万能主義の見方を完全に支持する者でもないが、だからといって、これらを真に受ける、ということには大部分の人が否定的であろう。では、「神の声」は旧約聖書時代のイスラエル人だけの「専売特許」なのか?そう考える合理的な理由は全くない。では今も聴いている人はいるか?たぶんイエスだろう。しかし、その「声」が本当に神の声かどうか、なんて証明しようもない。「聖書」に書かれているから「正しい」「真実だ」と言える理由も、これまた全くない。クリスチャンの方と話をしていてズレを感じるのはこの部分で、「聖書に書いてあるから」という理由で、自分ではわからないが、と断りながらも「これが善」「これが悪」という判断を下す場合が多々ある。「どうして?」と聞くと、自分はまだ不勉強でよくわからないが、聖書にはこう書いてあるから、という答えが返ってきたりする。自分の良心と聖書のはざまで悩むことはないのだろうか?悩んで、結局は聖書に従うのだろうか? 「信仰」と「狂信」の境界をしらずして、どうして自分の「信仰」が「狂信」ではない、と言えるのだろうか?「良心」は神が人間に与えた判断基準ではなかったのか?それに相反することを「神」が言ったり行ったりしたときに、彼らはそのどちらをよりどころにするのだろうか?少なくとも言える事は、「人間的良心」よりも「信仰」による「神の義」を信じるがゆえに、今世界で様々な「暴力」「戦争」「闘争」が行われている、ということは事実だ。「人間としての良心」を信じていたら、自分の体にダイナマイトを巻きつけて、無垢の子供もいるような街中で自爆するような人間には絶対なりえないだろうから。
2011.07.11
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今年になってから、チャレンジしていることにピアノがある。これは、ここでも公開(?)しているのでご存知の方も居ると思いますが、もう一つチャレンジしているのが「水泳」。実は、恥ずかしながら30代後半まではカナヅチでした^^;というより、耳が悪く、医者に水に入る事を禁止されていたため、体育で水泳の授業の時は見学に回り、学校の臨海学校などの行事は全て欠席。大学生の時に手術して、耳は治ったが、それから水泳でもない・・・・と思っていた。しかし、40歳を過ぎ、子供が出来てから、旅行などで海へ行く機会が増えた。子供が小さいので観光地へ連れて行ってもこちらが疲れるだけ。その点、海はゆっくりしているだけなのがいい。その旅行で、手近のカリブの海などへ行くと、これは紺碧の海と白い砂浜、そして熱帯魚!! ここで海に入らない手はない。そこで、水に浮かぶことも出来なかった私が、なんとシュノーケルを借りて、いざ・・・・・ということに。やって見ると、顔を水に漬けた事がなかったので最初は怖かったし、泳げないのに、水深数メートルから10mぐらいのところを泳ぐのは、多少勇気が要ることではあった。が、案ずるより生むが易し、やってみると海だからか、体は簡単に浮くではないか。そして、シュノーケルをつけて、ゴーグル越しに眺める熱帯のさんご礁、熱帯魚の群れ・・・・最高にリラックスできて、最高にさわやかで、一気にはまってしまいました。でも、治ったとは言え、やはり耳には気をつけなければいけないので深くはもぐれません。せいぜい、水面近くを足ひれをつけ、ゴーグル越しにその美しさを堪能するだけ。しかし、この時からなんとか浮ける自信がついたので、なんとなく平泳ぎの格好をしたら、なんとか前に進むではありませんか!その後、なんどもカリブの海やメキシコの海へ子供を連れて出かけるたびに、この「水面散歩」を楽しんできた。こうして、なんとか今まで「平泳ぎ」だけは出来るようになったという次第。しかし、今年から体力づくり、というより体力維持のためにプールへ行きだしたのだが、どうも、いつも平泳ぎでは物足りない。幸い、人がほとんど居ない夜なので、人が居なくなると、これ幸いと、クロールの真似事を始めてみた。今年の元旦から始めたピアノ。そしてその後半年経った7月から始めた水泳。ピアノはすでに半年経って、亀の歩みだが、少しずつ進んでいる。この水泳のほうも、今年の夏一杯、週に2、3度泳いでいたら、なんとか物になるだろうか?
2011.07.10
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日本では、女子ワールドカップのニュースで湧いていると思いますが・・・アメリカでは、ゴルフの全米女子オープン。今日はこの全米女子オープンゴルフの三日目でした。しかし、雷雨のため中断。昨日も途中までしか終わらず、今朝雷雨が激しくなる前に昨日終了できなかった選手が第2ラウンドを終えたが、その時点で、なんと宮里美香がトップで宮里藍が2位。その差は一打。3位には韓国選手が、これまた一打差で続いているが、予選2ラウンド通過選手(60位タイまで)の中で、ワン・ツーで二日目を終えたのはすごい!今日は期待していたのだがあいにくの天気。この中断が悪いほうへ影響しなければいいが、とにかく、宮里藍は一度は世界No.1にランクされたのだから、この辺で本領を発揮して欲しいし、宮里美香は、何度もいいところまで行っていながらメジャーはまだ勝っていない。なんとかこちらも頑張って欲しい。二人で競り合えば、どちらが勝ってもいい。TVでも観戦も安心してみていられる。しかし、こうなると明日の天気次第では最終第4ラウンドは月曜日にずれこむ公算が強くなってきた。もし明日、天気に恵まれれば3,4ラウンドを続けてやる事になるが、どうも天気予報ではあまりいい天気にはなりそうもないので。月曜日にずれこんだら、自主休業にしようかな?(笑)
2011.07.10
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日進月歩の技術、なんてありふれた言葉ではありますが・・・・こと、これが仕事に影響するとなると、あまりのんきなことを言っていられません。医者などは、医療技術だけでなく、最新の病理研究の成果や薬剤の進歩なども勉強し続けなければならないでしょうし、技術系の仕事なら当然のことながら、文科系的な仕事でも、利用するツールの進歩についていくのが大変な時代になっています。かく言う私も、不動産エージェントの副業、それにソフトウェアの本業、と、どちらも世の中の技術進歩にあわせるのに大変です。ソフトウェアの方は当然のことながら、不動産エージェントの仕事でも、マーケティングツールは、今やほとんどインターネット利用になり、必要な書式の入力、管理、保存、変更、相手との交渉、書類の取り交わし、などなど、すべてのプロセスが今や電子化され、インターネットを通して行われます。そして、このシステム自体が、次々に新しい技術を投入して、ますます便利で、ますます機能が豊富になってきています。便利で、機能豊富はいいのですが、システムが入れ替わるたびに、それを勉強しないと使いこなせない・・・・これからますますこういった技術革新のスピードが速くなってくると、だんだん付いていけるかどうか不安になってきます。だいたい、今現在のシステムでスマートフォーンやiPhoneなどとインテグレーションしているのですが、ほとんど使えていません。一度、仕事のやり方を覚えたら、それがずっと使える、という仕事って、本当に単純な肉体労働的な仕事しかなくなってしまうんではないか、と考えるこのごろ・・・。
2011.07.07
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今日のお題は「心と現実」。先日の「事実と現実」の続きです。先日の日記の中では、同じ事実を、受け止め方によって違う現実になることを書きました。本当は、断定調で書くのは好きではないんですが、今日は試しに断定調、つまり「・・・・なんです」という書き方をしてみようと思います。本当には分かっていないものを、さも分かっているように書く、という試みです(笑)これも「心と現実」の一端なんで。で、今日の「心と現実」は、一歩進んで、単に受け止め方ではなく、心の持ち方で「事実」そのものが変わる、というものです。これって、実は世にたくさん出ている「成功法則」の類も同じことを言っているんですが。。でも、これは事実です。心の持ち方が変われば、その人の現実は確実に変わっていきます。前回の「現実」というのは、その時々の断片ですが、今回の「現実」は、時間的に広がりがあります。つまり、徐々に変わってくる、というものです。例えて言えば、「心の持ち方が変わる」⇒「態度や言葉遣いが変わる」⇒「相手の人の、あなたに対する印象が変わる」⇒「相手の人の、あなたに対する態度が変わる」⇒「あなたにとっての『事実』が好転する」というようなサイクルが回り始める、これがだいたいの「成功法則」のあらましです。これは単に成功法則としてではなく、苦しみや悲しみの克服、あるいは「怒り」や「憎しみ」への対応としても有効です。「人を憎む」⇒「その人に対する見方・考え方を変える」⇒「その人に対する言葉や態度が変わる」⇒「その人の、あなたに対する態度が変わる」⇒「あなたの中にあったその人への憎しみの感情が変わる」というような流れです。怒りも同様。一番のポイントは、その自分の感情をしずかに見つめる、ということでしょうか。そして、自分はどんな「現実」を作り出したいか、それがもうひとつのポイントです。その作り出したい現実を意識するとしないとでは、結果が全く違う。でも、人間、普通はほとんどの場合、このどちらも意識せずに、結果として自分が望まない「現実」を生み出してしまう。そして、なんでこんなことになったんだろう、といぶかしみ、場合によってはそれを他の何者かのせいにする。でもそんなことをしても、その「望まない現実」は変わってはくれない。
2011.07.06
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3月に後ろから車で追突され、それがきっかけでカイロプラクターに通ってほぼ4ヶ月。保険が4ヶ月分はカバーしてくれるので、目一杯この期間、ほぼ週二回の割合で通ってきた。当初の目的は、事故後、少しめまいがする、というので、これを直すこと。しかし、どうもこのめまいと事故の関連は薄かったかもしれない。しかし、めまいがすることは確かなので、せっかくだからこの保険期間をフルに利用して直してしまおうと。そして、また「せっかく」だから、他のいろいろなところも見てもらって、普通の医者では行わない「予防医学」的なこともやってもらおう、ということで通ってきた。来週、この保険でカバーされる4ヶ月は終了するので、たぶんそこで、このカイロプラクター通いも終了することになると思うが、いろいろとはじめての経験で面白かった、というのが正直なところ。教えてもらったことのなかでは、「正しい姿勢」「正しい立ちかた」「正しい座り方」「正しい歩き方」などなど、今まであまり考えても見なかったり聴いた事もなかった内容があり、これは今後も役に立ってくれるだろう。そして、全身のバランスの重要さ。背骨が傾いている、頭蓋骨と脊椎のかみ合い部分が偏っている、左右両方の足にかかる体重が均等になっていない・・・などなど、自分では普段気の付きようがないことを教えてもらい、今後、それを意識した生活、というものが見えてきた。確かに西洋医学は、なんらかの症状が出たときに、その対症療法をする、という点では伝統的な東洋医学や代替医療の比ではないが、逆に、普段の生活の中で、どうやって体の不具合を「起こさない」ようにするか、という点では、これらに一歩ゆずるような気がする。食事、筋肉、姿勢、生活習慣、という生活のあらゆる面で、いかに「バランス」というのが重要か・・・・これがある程度わかっただけでも通った価値はあったのかな、と思う。
2011.07.05
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一度教会へ行くと書きたいことが山ほど出てきて、まとめ切れない。この日記でも何度も書いてきたが、書きたいことと書けることの間でギャップがどんどん広がってくる。この日記も、昨日の教会で考えた事、その3であるが、多分書ききれない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 現在、地球上に生きている人間の中でどのくらいの割合の人間が、神を信じているだろうか?実際にデータがあるわけではないし、データがあると言われる各宗教の信者を合計すると人口よりも多くなってしまうので、多分そうとういい加減なデータであるし、正確なことはわからない。ただ、なんらかの宗教に入っているかどうか、は別にして、「神を信じるか?」という問いに対してイエスと答える人、つまり組織としての「宗教」とは一線を画しているが、ある意味で「信仰」を持つ、という人まで含めると、話は「無神論者」以外全員となる。だから、なんらかの意味で「信仰」を持つ人、というのは全人口から「無神論者」「唯物論者」「懐疑論者」を抜けばいいわけだ。これだって、統計的なデータはないが、先祖の供養なども含めて考えたら、完全にこの三つのグループに含まれるのは人口の5%ぐらいではないか、と思える。その他の95%はなんらかの形で「神」「仏」「霊」「魂」の存在をある程度以上信じている、と言えるのではないか。これと、ある特定の「宗教」を信じる、ということの間には大きなギャップがある。特に日本人においてはこのギャップが大きい。逆に、外国では、ある信仰を持つ=ある宗教に所属する、という図式が大半だろう。外国人からすると、日本人の大多数は「神道」の信者、ということになっているらしいが、当の日本人は「信者」としての自覚はあまりなく、ただ日常的な作法・儀礼式典で神道系の慣習が根付いているに過ぎない、と思うだろう。しかし、実際は、日本人のものの考え方、自然に対する態度、価値観、そういった深いところまで、この「神道」の考え方はしみ込んでいるので、逆にあまり意識しない、と言った方が正確かもしれない。この「日本人 神道信者論」はまた別の機会に書きたい。ここでは、そんな日本人がある特定の宗教、例えば教会に通ってクリスチャンになったり、出家するしないは別にして、仏教の、あるいは仏教系の宗教の信者になる、というような場合を考えてみたい。昨日の教会で、ある若い女性が彼女の「信仰告白」を行った。「証し」というもので、彼女自身の、キリスト教との出会いから今日までを振り返り、自分はどんな機会を通じてキリスト教に出会い、どうそれを受け止め、いかに「神の愛」を受けてきているか、という自覚を話すものだ。それを聴いて、昔の人なら、たとえば「貧困」「飢餓」「戦争」などを通しての「苦しみ」「悲しみ」からの、仏教で言えば「解脱」、キリスト教で言えば「救済」を求めて入信する、というのが普通だろう、と思っているが、現代の若い人でも、人によっては、その苦しみや悲しみの対象、中身こそ違え、同じような経緯なのだなあ、と思った。「何かを求める」ことをする人間が、その「出会い」に導かれて、その求めるものを手に入れようとする・・・・・それは、解脱であったり、悟りであったり、救済であったり、神の愛だったりする。もしかしたら、「現世利益」いわゆる「ご利益」というのもあるかもしれないが、これを保証するような宗教があったら、私としては、それを「宗教」とは呼ばない。祟りからの救い、苦しみからの『現実的・実際的』救済、願い事の成就、成功祈願、などなど、これらの現実的な「ご利益」を保証している宗教があったとしたら、まず疑ってかかったほうがいい、というのが私の立場だからだ。では、人はそういった類のものではなく、何を理由に「宗教」に入信するのか。これが本来のこの日記のテーマだったのだが、もうすでに長くなってしまったので、一旦中断する。
2011.07.05
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宗教と疫病の類似を考察した本はいくつかある。しかし、宗教そのものを、その「排他性」とか「独善性」を中心に比較研究した本はあるのだろうか?ネットでざっと調べてみたが、アマゾンやらその他のオンライン書店で見られる本の中には、どうも見当たらない。逆に宗教の「メリット」「良さ」「恵み」その他もろもろの「長所」を書いた本は星の数ほどある。もちろん、その宗教を信仰する人が書いたものだ。しかし、「この宗教だけが・・・」「この神だけが・・・」「こうすることによってのみ・・・」という教義を持つ宗教は多い。いや多いというより、ほとんどこの類だ。そして、この排他性は、それが行き過ぎると、他の教義、考え方、下手をすると経典の解釈の差異を以って異端とし、それを攻撃し、場合によっては異端者を抹殺することさえも彼らなりの正義になってしまう。宗教改革で、堕落したカトリック教会を批判し、「聖書の教えに帰れ!」と叫んで宗教改革のひぶたを切ったマーティン・ルターでさえ、ユダヤ人を徹底的に攻撃し、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺の「理論的」な基礎を与えた、とされる。どんなに教えが素晴らしく、どんなにその教えで人々が救済されたり、恵を受けたりしたとしても、一方では、その恩恵がその宗教内の信者だけに限られ、それ以外の人間には「害」しか及ぼさないとしたら、この宗教とはいったいなんだろうか?地球上の全人類が、同じ宗教の、同じ教義を信仰するまで、この摩擦が続くなら、未来永劫、地球から宗教的な紛争の火種は絶えない、と言わざるを得ない。宗教の「負」の側面は、かならず、と言っていいほど、この「排他性」と「独善性」に根を持っている。じゃあ、この教義のこの部分だけ修正すればいいんじゃないか、と思うが、ことはそう単純ではなく、それを否定・修正すると、根本的な経典や教典の教えを否定することになってしまい、まず不可能なのだ。今、これらの旧来の宗教に代わって、もっとオープンで、教義も教典も持たない「信仰」が広がってきている。私個人としては、これは非常にいい傾向だと思う。ただし、その深さにおいては、さすがに何千年の歴史のある宗教に比べるとまだまだ浅いし、それを深めることはほとんど個人個人の裁量にまかされている。さすがに現代の世界では、宗教観の違いを乗り越えて異なる宗教が人類の救済という目的のために連携したり、互いに教えあったり、ということが少なからず行われるようにはなってきている。だとしたら、この上に書いた、「排他性」「独善性」に関しても、教義・教典にまで踏み込んで見直しをしたらいいのに、と私などは思ってしまう。
2011.07.04
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キリスト教は「愛」の宗教、と言われる。その歴史を逐一観てみると、とてもそうとも思えないが、基本的に、キリストの教えの真髄は「愛」にある、ということでは依存はない。しかし、その教えが、意外に厳しいものだ。まず、マルコだったかの福音書にある、パリサイ人の質問『何が一番重要な戒律か」というものに対するイエスの答えは、「全身全霊で、知力を尽くし神を愛せ」そして「同様に、同じように隣人を愛せ」という二つが「最高戒律」だ、とされている。またパウロのテサロニケへの書簡にあるように、「すべてに対して、喜び、祈り、感謝しなさい」という言葉もある。これは、ちょっと聴くと簡単な教え、あるいは戒めのように聞こえるが、これは本当に難しい。自分の子供が誰かに殺されても、「喜んで」「感謝し」なさい。自分が、だまされ、虐待され、貶められても、「喜ん」で「感謝」し、相手のために「祈り」なさい。そこまで出来る人がこの世にどれだけ居るだろうか?キリスト教が愛の宗教だと言っても、なまぬるい「愛」ではない。非常に厳しく、困難な、全的な愛、というものを教えている。そこにまで達した人は、この地球上に生きながら、すでに天国に住んでいるだろう。
2011.07.04
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今日、下記のような記事が出ていた。>東京電力福島第一原子力発電所の事故を受けて、原発存続の行方が注目される中、日本学術会議の分科会(委員長=北沢宏一・科学技術振興機構理事長)は、原発の撤退から現状維持・推進まで六つの政策の選択肢ごとに、標準家庭(1か月約6000円)の電気料金が、どれくらい増えるかの試算をまとめた。で、この記事を読むと、この六つの政策の選択肢ごとに、長所、短所をまとめていて、確かに、電気料金への影響だけではなく、地球温暖化などへの取り組みやその他の全体的な視点を維持しよう、という意欲が伺える内容であった。ところが、その六つの選択肢にはないものがある。それは何か、というと、原子力発電から撤退しながら、その発電能力の減少分を他の方法で代替するのではなく、単純にその使用量を減らしてゆく、という『選択肢』だ。上記の検討内容はそれはそれで非常に価値がある。しかし、私たちは今、電気料金が上がる、という以上に、電気の使用量をもっともっと削減する、という「痛み」をも、検討材料に入れるべきときでは無いか、と思える。東日本大震災を経験し、国を上げて、次の世代にどんな日本を継承してゆくことが出来るのか、ということを模索している中で、今までの「利便性」至上主義を見直し、地球との共存をどうやって実現して行くか、ということを、親の世代が身をもって示し、それを後代に伝えてゆく、ということも、その「継承」の中身の一つとして考慮されるべきではないか、と思うがどうだろうか。
2011.07.03
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前の日記の続編です。 今日も、土曜日にも関わらず、いや、独立記念日の月曜を含めての久々の連休にも関わらず、不動産エージェントのお仕事。賃貸を希望する方の家探しを手伝い、やっと入居までこぎつけたのが昨日。ところが入居するだんになって、家の清掃が十分ではない、という問題が発覚。前のテナントが犬を飼っていたこともあって、窓のさんや壁の下部には犬の毛が残っているし、ほこりも積もっている。これをこれから新しい入居者に貸そう、という状態にはなっていない。この状態に対して、相手のエージェントは、それ以上きれいにならない、の一点張り。入居申し込みをして、入る事になっている日本人テナントの奥さんは、あかちゃんがいることもあり、絶対にこんな状態では住めない、ということでお冠。しかし、やり取りをしていると、相手のエージェント(女性)にしても、この奥さんにしても、たったこれだけのことでカリカリしていて、怒ったり、イライラしたり・・・それは分からないでもないが、そう怒ったりイライラしても何の役にも立たない。感情的になって相手と言い争っても何の進展も期待できない。この家、95%は、入居者の希望に合致し、家賃もまあまあ。つまりは95%は満足しているのだが、この「あまりきれいになっていない」という一点で、この奥さんは感情的になっているし、それを受けて相手のエージェントも感情的になっている。結果、どちらにとっても、きわめて後味が悪い入居になってしまった。しかし、人によっては、全く同じ状況でも、やっと希望にほぼ近い物件に入居できることで、この「小さな」ことは無視してでも95%の満足の方をとって、幸せな気分で入居できる人もいるだろう。つまり、それだけイライラし、怒って、結果、自分を不幸にしているだけだ、と言えなくもない。先日も書いたが、どんな「客観的状況」を、どんな自分の「現実」とするかは、その人次第。 その中で、自分の感情をどうコントロールするか、いや、それ以前に自分の感情をどこまで冷静に見つめることができるのか、が、こういった「望まない現実」を作り出すことを阻止してくれる最強の方法ではないだろうか。
2011.07.03
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今日こそは決着をつけようと、賃貸の家の入居前チェックに行ってきました。入居前とは言いながら、実は賃貸は昨日から。しかし、借家にもかかわらず、壁の下や窓枠やらにはほこりが積もり、おまけに前のテナントが飼っていた犬の毛らしきものもそこらじゅうに。入居までにきれにしてくれ、と頼んでいたにも関わらず、この状態なので、相手のエージェントに連絡するも、もうきれいになっている、の一点張り。これがプロのクリーニングに頼んだ後の状態であるなら、その「プロ」はプロじゃない。普通の家庭の主婦並みにもきれいに出来ていない。というより、おそらく、どんな状態を「きれい」と言うか、その辺の感覚の違いなんだろう。壁のところどころにはくもの巣がのこり、壁の下には犬の毛が・・・・こんな状態で、はいはいをする赤ちゃんがいるテナントに、どうやって「きれいですよ」なんて言えるのか、少なくとも日本人の常識では考えられない。その考えられないのが起きるのが「外国」。いえ、そんなことだらけなのが「外国」と言った方がいいんでしょう。よく、姑が嫁をいびるのに、さんをスッと指で撫でて汚れが付いたらダメだしをする、なんてのがありますが、そんなレベルで鍛えられた日本人のきれい好きには、この程度で「きれい」と言える感覚が信じられない。相手のエージェントとは、たったこれだけのことで険悪な状態に・・・・少なくとも入居者=テナントは、彼女にとってもお客様だし、彼女も乳飲み子を抱える母親、同じ乳飲み子を持つテナントの、清潔さへの要求は理解してくれても良さそうなものなのだが・・・こういう「きれい好き」は、もしかしたらアジア系の長所かもしれない。家の中では靴を脱ぐ、という習慣を持つのもアジア系だし、においは別にして、中国人も韓国人も、基本的には日本人同様、家の中はきれいにしている。しかし、この状況・・・・・困ったものだ・・・
2011.07.03
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ということで、ピアノと本業のサラリーマン業の総括を昨日したので、今日は、副業の不動産エージェント業の総括を・・・と言っても、年初に3人もクライアントが居て幸先良いスタート!と喜んだのですが、一人は途中で家の売却を諦め、二人に。家の購入希望の方は、何度も購入申し込みをするも、ことごとく別の人に買われ、最終的に、今現在購入申し込みをしている家がなんとかなりそうな状況。これが成約すれば、この方と、もう一人の方の賃貸斡旋が終わったので、今年上期は、賃貸の成約一人、購入の成約間じかが一人、そして5月からもう一人の賃貸希望の方のお世話をして、それが先週まとまったので、合計3件。この購入希望の方は、おそらく8月始めに最終契約の見込みなんで、今年前半の実績としては賃貸二件のみとなった。賃貸斡旋は、家の購入とか売却に比べると収入が限られるので、今現在は年間目標の30%ぐらいの進捗。しかし、8月に購入が成約すれば、合計で不動産エージェント収入の年間目標の80%近くになる。まあ、副業なんで、これだけで生活できるレベルにはほど遠いが、それでも息子の大学の学費の足しにはなる。まだ半年。これから、もう2件でも3件でも賃貸が入れば、たぶん目標達成は可能だろう。家計最大の改善手段は、収入の拡大、ってことで。もちろん、つけている家計簿を睨みながら、支出の削減も同時並行で。さて、明日、明後日のこの週末で6月の決算をする予定。この半年の支出面での結果が明後日には出る。 どんな結果になるだろう?
2011.07.02
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ピアノの方の総括をしたんで、せっかくだから仕事の方も、今年の前半を総括しておこうかな、と。(笑)50歳で早期退職してアメリカへ戻り、2年ほどぶらぶらしていてから不動産エージェントやら、ファイナンシャルアドバイザーやら、旅行代理店やら、ローンオフィサーなどをやっているうちにメインの不動産投資がリーマンショックで破綻し、生活のために仕方なく再就職したのが54歳の時。すでに3年半経っていますが、今の仕事は条件的に最高の仕事です。何が最高か、と言うと、1.営業のため完全フレックス 週に4日ほど会社に行きますが、販売成績が全てなんで、別に行かなくともよい。時々は、会社でやることがないので、自主休日にできる。2.週に4日は出勤しているけれども、時間は昼から夜まで、時には夜12時を過ぎる事もあるが、これは担当のエリアが12時間ぐらいの時差があるアジアなので仕方がないが、別にその時間100%拘束されるわけでもない。3.毎日午前中は自由時間なので、寝たいだけ寝て、あとは不動産の仕事をサイドビジネスとしてやったり、カイロプラクターに通ったり、やろうと思えばゴルフもできる(笑)4.仕事の内容が、アジア担当営業なので、ときどき日本に「社費」で出張できる。これは年に2回か3回だが、自分で帰国することを考えると、交通費などで非常に助かっている。5.通勤時間が短い。家から会社まで、ラッシュの方向とは逆方向に車で15分ぐらい。何か忘れ物をしても、すぐに戻ってこられるし、家や家族に何かあったときにもすぐに戻れる。という数々のメリットがある。で、今年の前半の総括。昨年が、入社以来の営業記録を達成したが、今年に入って第一四半期はその昨年を上回るペースで売り上げが伸びた。しかしながら、第2四半期に入って、パタッと販売が止まり、なんと4月ー6月の販売は、自分の給料も出ないレベルしかし、それも、もう成約してもおかしくない案件が何件も、6月末までにクローズ出来なかったせいで、逆に言えば、今度の第3四半期は、おそらく結構いい線で販売が達成できるのではないか、と思っている。目標は、昨年の販売記録を超えること!!さて、これからの半年が勝負です。
2011.07.01
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ふとピアノを弾こう!と、この1月に思い立って、今日でちょうど6ヶ月終了。こういったブログを、自分なりの「発表会」に利用させてもらって、そのたびにビデオを撮る、ということで、多少の緊張感とモチベーションを維持してきて、なんとかここまで続けてこられました。コメントをいただいた方はもちろん、ただ聴いていただいた方にも心から感謝いたします。YouTubeのアクセス数が、私の、サボろう、とか、もういいや、という気持ちを抑え、尻をたたいてくれたお陰でなんとか、独学ながらここまでやってこれた、と思っています。今日は、6ヶ月終了、ということで今までの総集編というか「総括」を。(笑)一ヶ月目: 「河は呼んでいる」「黒い瞳」 二ヶ月目: 「マルセリーノ」「ケンタッキーの我が家」 二ヶ月半: 「ドナドナ」「アメージンググレース」 三ヶ月目: 「エンターテイメント」 三ヶ月半: 「イマジン」 ここで、次の大曲に挑戦するも挫折。 反省して、背伸びをやめ、身の丈に合った曲を、と路線変更。 クラシックの曲から弾けるものを、と、初心者用アレンジのものを引っ張り出す。そのため、ここでは4ヶ月目のアップがなし。突然、5ヶ月目になる。五ヶ月目: 「メヌエット」 五ヶ月半: 「Canon」 これは、左手は単純な繰り返しだが、右手の指が動かないことを実感。で、今日、6ヶ月目はこれです↓↓ 「G線上のアリア」 こうやって観てみると、2ヶ月、3ヶ月あたりから、曲のレパートリーは増えているけれど、難易度は上がっていない気がする。それでも四苦八苦しているんで、レベル的にはちょうどいいんでしょうけれど、たぶん先生についていたら、全然別の選曲をして練習させられるんだろうな、と思う。独学の難しいところは、この「自分のスキルアップに必要なもの」が自分ではよくわからないところかもしれない。たぶん、好き、というだけの選曲では、遠からず限界が来るんだろうな、と思う。仕方がないので、やっぱり誰かさんの教えを請おうかな・・・・。あまり気が進みませんが(笑)
2011.07.01
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