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「愛」という言葉ほど、わかりにくいものはない。私たちが現在使っている「愛」の意味は、そんなに歴史のあるものではない。仏教では「愛」というのはある意味で「否定的な」文脈で使われていたようだ。キリスト教の愛に相当するのは、仏教では「慈悲」かな? それと合わさって「慈愛」というものがあるが、仏教的には、「愛」という字は「渇愛」とか「愛欲」という方の意味が強かった、と何かで読んだ秋億がある。 日本にフランシスコザビエルがキリスト教を初めて伝えようとしたときに、キリストの愛、キリスト教における「父の愛」をどう日本語にするか、かなり悩んだらしい。 で、結局、「ゼウスのご大切」という言葉に落ち着いたらしい。また近代になっても、双葉亭四迷がやはりこれを日本語にしようと悩んだ挙句、「自分を捨てて、相手の・・・・・」とか言う、かなり長い文章になってしまったらしい。 当然、これは定着するはずも無く、聖書における「愛」という言葉は、この「愛」という言葉を使って約されたため、逆に、今私たちが使っているような意味での「愛」に変容してきたようだ。 先ほどのメモ書きで、「言葉」の不確実性、限界の低さの話を書いたが、ここでも、私たちが共通に使っている言葉の意味さえ、人により、時代により、その意味するところが変わっている例があるわけだ。 さて、この「愛」。 「聖書における愛」という条件を取り払ったとしたら、今の私たちはどうこの「言葉」を定義するだろうか・・・・・・・
2011.10.31
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今日の教会。 いつものように、いろいろ考える材料を与えてくれる。今日の材料は「言葉」。 有名なヨハネの福音書の冒頭に、「始めに言葉があった。言葉は神であった」というのがあるが、そこかれ話は始まった。 創世記の冒頭で、神が「光あれ」と言ってこの世界が始まったように、この世界は「言葉」と共に始まり、言葉は神そのものであった、ということだ。 この「言葉」という単語、ここでも「訳」の問題がありそうだ。 私ならさしづめ、言葉のうえでは「言葉」でも、意味は「意思」という風に取りたいところだ。 「神」というのは意思そのもの。ビッグバンが始まるはるか以前から、純粋なる「知性」、そしてその知性に宿る「意思」。 これが万物の起源だ、と考える。 そして、この「言葉」。ここでも何度も書いているように、「言葉」は意思伝達の単なる一手段にすぎず、数ある手段の中でも非常に「制約」の多い、限界の低い手段でもある。 ちなみに「言葉」に関する格言は、あまりいいものがない。有言実行ならまだしも、口は災いの元、というような否定的な格言が多い。 つまりは、言葉はその性質上、極めて意思伝達能力に関しては制約が多く、思ったことの何分の一も伝わらないのが普通で、それがため人間関係の中では、たびたびこの「言葉」が原因で問題がこじれる。 そんな制約の多い「言葉」を「神そのもの」というわけはない、と思うのだ。この根底には「聖書の言葉」を金科玉条のような捉え方をする態度がありそうな気がする。 あえて重ねて言えば、「言葉になったもので『真実』なものはない」と言った方がよりいいかもしれない。
2011.10.31
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なにか、かな~り久しぶりの「ビジネス」関連の日記になったような・・・(笑) 昨日、突然「継続教育クラス参加者への連絡」というメールが来ました。あ、そう言えば先日案内が来た時に申し込んでおいたんだった・・・・・ 昨日の日記で書いた「翻訳の初仕事」が舞い込み、今日はそちらに専念しようと思っていた矢先だったのに・・・・・・ でも、この「継続教育クラス」、不動産のエージェント免許を持っている人は年に25時間のクラスを受講しなければならないことになっているので参加できる時にしておかないと、と参加してまいりました。 日本でも「不動産取引主任者」という資格は確か継続教育が必要だったんではないか、と思いますが、こちらの違うところは、この資格がないと不動産屋としての仕事には一切つけない、というところ。 つまり街の不動産屋さんでも、とにかく人を案内して家を見せたり、ましてや売買契約や賃貸契約をするにはこのライセンスが絶対に必要。 私も、本業のサラリーマン以外に、この不動産屋をサイドビジネスでやっているので、この資格を維持するためには受講しておかなければならない。 今日のクラスは三時間。 午前中のクラスでしたが、やっぱり参加してみるといろいろためになる情報が入ります。もしかしたら、不動産屋じゃなくとも受ける価値があるかも。 その時々で、ローンなどの金融について、とか、購入契約書の書き方とその注意点、だとかいろいろなテーマでクラスが開かれるのだが、今日のテーマは「地下室とその問題点、解決方法」という、かなり実践的なもの。 もちろん自分が家を買う場合だけではなく、お客さんの購入や家の売却の際に、こういった知識があるのとないのでは大違いだ。 かくして、家に帰ったのは2時を回り、それから引き受けた「翻訳」の仕事をする羽目になった・・・・・・ こんな時に限って、本業の方も結構たくさんメールが来るんですよねえ、どういうわけか。 ヒマな時に来てくれればいいのに・・・・・・・・。
2011.10.29
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このブログでは書かなかったのだが、今月の10日ごろ、知り合いから翻訳の仕事をやってもらえないか、と持ちかけられた。 で、内容を一応見たところ、なんとかできそう、ということで、じゃあ、仕事があったら連絡ください、ということにしてあった。 その翻訳の仕事の依頼が早くも昨日来てしまった。こちらも一応サラリーマンなんで時間的に余裕を下さいよ、と言ってあったのに、「今週中に出来ないでしょうか?」と。 で、どんな内容かを見てみたら工場の建築工事の指示書で、約10ページ。ざっと字数を数えたら約4000字。 ということで、日本でも相場は一字10円ぐらいらしいので、じゃあ5円、というか、6セント、と言ったらOKが出てしまった^^;まあ、翻訳のプロ、というわけでもないので、その辺が妥当かな・・・・・ でも4000字だと$240。日本円だと1万8千円ぐらい・・・。ちょっとしたお小遣いにはなる。ちょうど、先日買ったカメラ代ぐらいだ(笑) どうも営業の悪い癖で、注文が入っただけで「売り上げ」になったような錯覚に陥ったのだが、よく考えると(← よく考えなくても同じだろ!)これを翻訳しなければ収入にならない(← 当たり前だ!) で、今日早速とっかかりの2ページをやってみたら・・・・・・・・フォームに入れたり、表が作ったりと、と翻訳以外の部分が多かったのと、やたらに専門用語が多かったので、調べ調べして翻訳していったら約3時間かかった。 これで約600字分だ。計算で行くと、200字で一時間かけたら、4000字では20時間!!あ、気が遠くなりそう・・・・・・^^; 今週中、というが、この土曜日も使わせてもらって、日曜日までだったらなんとかなるかもしれないと言っておいた。 どうせ月曜日に必要なんだろうから・・・・・。でも本当に出来るかな? 20時間で18千円の収入。 あれ、時給900円か? まあ、追加収入だからいいが、それにしてもちょっと安い?でも時給を上げるのは簡単。 翻訳のスピードを上げればいいんだから(← おいおい、それが出来れば苦労はないぜ・・・)
2011.10.28
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9月の前半に何度か書いていた「ある往復書簡」。あの後、相手の方の教会での知り合いで、カソリックからプロテスタントに転宗された方(アメリカ人)とのやり取りにまで発展してしまいました。英語で大量に送られてくるのでちょっと大変でしたが^^; この方(Eさん)はかなり真摯なクリスチャンなようで、彼のメールの大半が、如何にイエスが素晴らしく、聖書の教えが正統なものか、という内容でした。なので、ちょっとこれ以上話をしてもらちがあかないかな、とメールのやり取りをストップしていたところ、このEさんがこの方に、なんでメールが来なくなったんだろう、と言っていたと聞いたところです。 それに対して、この相手の方からメールがありました。これはそれに対する返事です。*************************こんにちは。お久しぶりです。 どうしているかな、と思っていたところでした。 え、Eさんがそんなことを? 最後のメールで、こちらは一応終わったつもりになっているのですが・・・^^; まあ、キリスト教の牧師さんや司祭の方でスピリチュアルに転向される方は多くいるのですが、その逆はほとんど聞きません。教会に通う人が激減しているのはある意味仕方がないと思いますし、その理由もよくわかるつもりです。・・・ということをEさんに言えばいいんでしょうかね。 スピリチュアル、というのは私やあなたが神、あるいは神の一部だ、と理解することで、神が自分の外に居るのではない、と悟ることです。その意味では、Eさん的に言えば、Spiritualismだと神が居ない、というのは当たっていますね^^;最近はますますその確信を強めています。 ブログでは、とうとう「アンチ宗教」とまで言ってしまいまして(笑)、信仰とかスピリチュアリティーの大切さを、どうやって宗教という枠組みを超えて人が理解しうるか、実践にまで踏み込めるか、というのが最近の私のテーマになっています。 Eさんは、彼のメッセージを読むかぎり、本当にガチガチのクリスチャンみたいなのですが、人の宗教離れをどう観ているんでしょうか。唯物主義とか功利主義とか、利己主義のような行き過ぎた個人主義、あるいは科学への妄信のせいにしているのかも知れませんが、私はけしてそうではなく宗教そのものが抱えている問題ゆえだと思っていますから。 愛を求め、人間の性善説を信じている人は大勢いて、そこに「人間は罪の元に生まれる」というキリスト教の教えがなじまないのだろう、というのもあります。 自省的な人ほど、自分の罪(というか、よこしまな考えや行動)に罪悪感を感じてしまい、そこから抜け出すため(あるいは救ってもらうため)にキリスト教的な教えは心に響くんでしょうが、その罪というのが「的を外す」ことだと知れば、そのこと自体で苦しむことはなくなります。 なのに、キリスト教はこれでもか、と、罪悪感を煽るようなところがあって、それゆえに「だからこそ」と教理を押し付けるところがあります。 ただ単に、教会や司祭の堕落(幼児虐待や性的虐待)の問題なんかじゃけっしてないと私は思いますが。 てなことをEさんに書いたりしたらどうなるんだろうな、と思ってしまいます。 ただ、前回のやりとりから、彼としてはキリスト教の正しさ、深さ、そして真理性を一生懸命説明するばかりなので、おそらく平行線なんだろうな、と思います。 昨今のキリスト教徒激減の現象に対しても、教会の非は認めても、けっして(絶対に)聖書を(あるいは正統とされているその解釈を)否定することはないでしょうから。 スピリチュアリズムの観点で聖書を読むと、教会で教えられる「解釈」とは全然別の解釈が可能になり、私としてはどう考えてもそちらが正しい、と思えてきます。 たとえばイエスが「わたし」と言った場合、この「わたし」は何を指すのか、という解釈ひとつとっても、全然違い、そこが違うとイエスが言わんとしていた事が、普通教会で教えられる内容とは全然違ってくる、ということです。 まだ引き続き教会には通っていますが、ここまで違ってくると、他のクリスチャンの方とは話が通じません。今後どうしようか、と思っています。 ****************************
2011.10.26
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日曜日、というのは普通、一週間の仕事やらなにやらが一区切りついて、休息を取る日、というのは勤めている人の話。 家庭の主婦の場合、普段は家にいない子供やご主人が家にいたりして返って忙しいかも・・・(笑) 私の場合は勤め人ではありますが、普段もそれほど忙しくないんで(本当は忙しくなくちゃいけないんでしょうが・・・・)、日曜日だからと言って休み、という雰囲気じゃない。というより、どちらからと言うと、一週間で一番精神活動が活発になる場合が多い。 今日も、朝9時過ぎに起きて、のろのろと食事をし、のろのろとPCをざっと見てから、ゆっくりと車を運転して教会へ。 この時点まで、頭はポーっとしているし、特に普段の朝と変わったこともない。しかし、教会の説教を聞きはじめると・・・・・・・・・。 たった一時間ぐらいの説教なのだが、そのうち段々頭が冴えてくる。 冴えてくる、というよりも、だんだんとあれやこれやと、いろいろな考えが頭の中を回ってくる。 今日の説教のテーマは、「とりなしの祈り」。 内容は割愛するが、それを聞いていて考えたことは、 「連帯責任という考え方と、アブラハムの『とりなしの祈り』について」 「神は裁くか?」 「キリスト教的『神』の非存在証明」 「聖書における『善』の定義と『犠牲』」 「見える『神』は『神』ではない」 「神の定義と『分離』の思想」と言ったこと。 もう自分でもなんでこんなメモ書きを書いたのか、半分忘れかけているが、この時はこういうことを考えていた、というメモなんで、なにかしら考えていたんでしょう(笑) しかし、自分が教会に行く、その理由を前にも書いたことがあるが、やっぱり、こういった気付きが毎回ある。 行く時にはなんの期待も、何の目的意識もなく行き、ただ説教を聴いてくるだけなのだが、行ってみるとやっぱり来てよかったな、と思える。 時には、ポーっとしたまま、今日は行くのを止めようかな、と思うこともしばしばあるけれども、これがある限り、やっぱり、日曜日は教会、というのが今しばらくは続きそう。
2011.10.24
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昨日、あなたのピアノレベルを診断、というサイトを紹介しましたが、あの時は紹介しておきながら、自分では見ただけで実際には試してみませんでした^^; で、今日、診断用の楽譜(↓)をプリントアウトして、やってみました。 ちょっと見には、非常に簡単ですぐ弾けそうに見えたんですが、この楽譜については*********************「実は、このレベルチェックの曲は、「はじめてのピアノレッスン」の教材(ステップ1からステップ5)で習う内容を凝縮したものです。そのため、「はじめてのピアノレッスン」でステップ5のエーデルワイスまで弾けるようになった方は、このレベルチェックの曲も弾くことができると思います。ただ、ステップ1から5までの全ての知識や技術が凝縮されていますので、エーデルワイスより少し難しく感じるかもしれません。」*********************と書かれていて、指使い、リズム、間の取り方、音楽記号など、いくつかの要素をむりやり詰め込んであるので(笑)わりと見た目よりも弾きにくい曲でした。 でもなんとか一時間ぐらいで運指は確認して曲の感じがつかめたんで、一日練習すれば多分できるだろう、という感じです。まあ、滑らかに、とは行きませんが。(一日に何時間やるか、というのも問題ですが・・・・) やっぱり自分のレベルは4と5の間だな、と思ったのもありますが、続けて、「4番の方は、ある程度弾ける初級者の方向けに「趣味のピアノ・楽譜教本」をご提供させていただいておりますので、そちらをお試しいただければと思います。」と書かれていたので、この「趣味のピアノ・楽譜教本」というものも一通り見て、聴いてみました。DVD付きの楽譜と弾き方の説明がセットになって、一曲一曲ずつ販売されていました。 結果、まあ、これぐらいだったらDVDや説明書がなくとも、楽譜さえ有れば、なんとかなるな、という感じ。 でも、それよりも、「ピアノが弾けるようになる」ということ自体のレヴェル設定が、大人になって始めたならこのくらい、というのがあって、それにちょっと不満を感じちゃいました。 たとえば、*************ピアノをはじめるときに、「どんな曲を弾けるようになりたいか」ですが、以下のような曲がよく挙がります。 エリーゼのために (ベートーヴェン) トロイメライ (シューマン) 別れの曲 (ショパン)* ノクターンOP9-2 (ショパン) 子犬のワルツ (ショパン)* 革命 (ショパン)* 幻想即興曲 (ショパン)* 渚のアデリーヌ (リチャード・クレイダーマン) 歌の翼に (メンデルスゾーン) 戦場のメリークリスマス (坂本龍一) 愛の夢第3番 (リスト)* 月の光 (ドビュッシー)* トルコ行進曲 (モーツアルト) この中で、*の付いた曲は、残念ながら大人になってから趣味でピアノを始める方には、少し高すぎる目標となります。例えば、「別れの曲」や「革命」は、音楽大学のピアノ科の入試レベルです。これらの曲を含むショパンの練習曲集は、ピアノを専門に勉強する人にとっての必須教材で、国際ピアノコンクールでも予選の曲になっています。 逆に、*の付いていない曲については、目標とすることができると思います。************** こういうのを見ると、「じゃあ、やってみようじゃないか!」という気がしてくるんですね。根が「負けず嫌い」というのもあるし、ある意味「天邪鬼」なんで、逆らいたくなる、という・・・・(笑) でも、「エリーゼのために」だけでも2~3年から、子供でも3~4年、ということらしいんで、そこまで続けられたら、というのが大前提なんですけどね。
2011.10.20
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というサイトがありました。 前の日記で、読譜力のことを書いたら、他のブログである方に「リンロンさん、楽譜が読めるんですか!?」と聞かれて、いや、その・・・・ということで一応答えたんですが、一般に「楽譜が読める」というのはどういうことを言うのか?と調べてみたわけです。 すると、この「初めてのピアノレッスン」というサイトに行き着きました。中身を見てみたら、この「読譜力」に適当なページが・・・・ あなたのピアノのレベルは? このページにある「レベルチェック用練習用の楽譜」という、ちょっと日本語的には変な(?)リンクがあります。 そこをクリックすると、初心者でどのくらいのレベルで楽譜を読めるのかを調べるための楽譜が出てきます。一応両手で弾くようになっている楽譜ですので、と音記号とヘ音記号の両方が使われています。 で、早速試してみました。 すぐやっちゃうんですよね、こういうのって(笑)結果、この2ページ目にある診断基準を考慮して、自分でもし弾いてみたらどうなるか、を考えてみると、3ページ目にある「レベル」で言うと4番です。本当は5番と言いたいところですが、そこまでは行っていない。ただし、4番の「二週間以内に弾ける」という部分は多分、一日で弾けますので、おまけしてレベル4.5ということで・・・(笑) で、考えてみるとギターをやっていたこともあって、私が一月にピアノを始めたときのレベルを考えてみると、たぶん2と3の間だったように思います。 今との大きな差は、もちろんヘ音記号の楽譜が多少読めるようになったこと。 始めた時は読めませんでしたから。でもその変わり、シャープやフラットの決まり、それにスラーなどの記号や用語は知っていましたから、少しは「弾ける」という状態からのスタートだったのでしょう。 ということで、これを見る限り「初心者」はもう卒業のようです。ここで紹介されている本で言えば、「自宅で出来るはじめてのピアノレッスン」はもうやらなくて、次の初級者用の「趣味のピアノ・楽譜教本」から始めてよい、ということのようです。 もし自分の読譜力、あるいはピアノの力を判定してみたい、と思われる方、面白いですよ、やってみると・・・・。
2011.10.20
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いつも、YouTubeが私のピアノの先生なので、あちらこちらの演奏を観て(聞いて?)回っているのですが、私がやっている「ブルグミュラー」に取り組んでいる「大人になってからピアノを始めた人」というのが何人もいます。 やっぱり、何か目標を持って取り組もうとする時に、この「25の練習曲」というのは 1.それぞれの曲がなかなかいい。バイエルやチェルニーなどの「練習」のように無味乾燥ではない。 2.それぞれの曲に課題があって、その曲を練習することで、スキルが一つアップする実感がつかめる。 ポピュラーな曲や好きな曲ばかり弾いていると、こうはいかない。 3.25曲、という数が、なんとか頑張れば全部出来るかも?という希望を与えてくれる(笑) というような良い点があるためでしょうか。 でも、だいたい私と同じで、2番の「アラベスク」でひっかかり、4番の「子供の集会」で四苦八苦しているようです(笑) 逆に、「あ、やっぱり誰でもここで苦労しているんだな」と思えて、慰められます(笑) ところが、一つだけ気になることがあります。 このブルグミュラーの練習曲、譜を読んで覚えるのに一週間から長くて二週間ぐらいかかるんですが、それから完成(と言っても、そこそこ弾けるようになる、ということですが)まで、さらに二週間から長いと一ヶ月以上もかかってしまいます。 そうすると、この間は、まったく譜を見ないで、つまり暗譜して弾いていることになり、一ヶ月から二ヶ月で一曲しか「譜を読む」という経験をしない、ということになってしまいます。 YouTubeに、「xx歳から始めるピアノ」という感じのビデオをアップしている人はたくさん居るのですが、多いのは、「この曲が弾きたくてピアノを始めた」という人。 ほとんどの人は私と同様、基礎練習などはすっとばして、曲にすぐ入っているんですが、こういう方は、その「弾きたい曲」をすぐにやり始め、それを3ヶ月とか半年とか、長い人は一年ぐらいかけて弾いている・・・・。 確かに一年も弾き続けると、それなりに弾けるようになるんですが、こういうのを見ると、じゃあ、他の曲を弾こうとしたときに、どうなるのかな、と思ってしまいます。 つまり、譜を観て、それで弾く、という訓練が全然出来ていない。 勢い、新しい曲をやろうとしたら、一音一音、鍵盤上で位置を確かめ、指使いを確認し、一小節、一小節ごとに、それを覚えて行って、やっと弾く、という感じでしょうか。 私の場合もこれに近く、ブルグミュラーの練習曲でも、新しい曲に入ると、また譜読みに時間がかかる、ということになります。 ピアノを弾き始めた今年の初めには、ト音記号しか読めなかったのが、今はヘ音記号、つまり左手用の楽譜も多少読めるようになったとは言え、それも下のソ、とかファぐらいまで。 それ以上低音側になると、「これは・・・・ソ、ファ、ミ、レ・・あ、レか!」という具合に、数えないと分からないし、ましてや和音は、一音一音確認しないと、形を観てパッと指が押さえられる、という風には全然なってない。 ということで、このブルグミュラー、練習を続けることは続けますが、これだけだと、読譜力が全然付きそうもないので、やっぱり「簡単な曲」で、「譜をどんどん読んでゆく」という訓練もした方がいい、いや、しないといけないんじゃないか、という気になってきました。 そうなると、やっぱり映画音楽系かなあ・・・・・・・・・
2011.10.20
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娘が、発売と同時に注文したiPhone4Sが到着してから早や3日。娘は、もう一日中これと遊んでいます。 で、使わなくなった前の携帯とiPodは、私たち親の方に回ってきました(笑) しかし、このiPhone4S、前のモデルのiPhone4から比べると、(1)プロセッサがパワーアップされ、操作性が向上 (2)前のモデルで問題が出たアンテナ感度が改善 (3)新機能の音声認識 というのが目玉だったわけですが、先日の日記にも書いたように、この(3)の音声認識が使いものになるのかどうかが興味のあるところだった。 基本性能の向上は、いかんせん前のモデルを持っていないので比較できませんが、娘曰く、やはり前のSamsung製の携帯よりも格段にいいそうだ。 で、この音声認識。 昨夜、夕飯を食べながら、息子も帰ってきていたので、皆でいろいろ試しました。 で、結果的に言うと、結構すごい!!さすがアップルが「新機能」の目玉として出してきただけあって、認識能力は相当高く、これなら実用になる、という感じです。 でも驚いたのは、その認識率の高さではなく、その応答内容の方。例えば、明日は傘が必要か、とか聴けば、イエスと答えるし、火曜日の天気は?と聴けば、火曜日の天気予報を教えてくれる。だんだんエスカレートして、「じゃあ、日本の首相の名前は?」と聴いたら(もちろん英語で聴いたんですが)ちゃんと「Yoshihiko Noda」と答えるだけではなく、歴代の首相の名前がずらずら、っとディスプレイに表示されるし、野田氏の経歴なんかも出てくる。 だんだん図に乗って「ロッタリー(数当ての宝くじ)は何番を買ったらいいか?」なんて聞いたら、やっぱり「それはお答えできません」となるし、ちょっと調べないとすぐに答えが出てこないものは、「今調べています。しばらくお待ちください」と音声で応答がある。 なにか、SF映画でコンピュータと人間が会話している場面を思い出してしまった。音声で応答する以外に、詳細な情報がディスプレーに表示されるので、来週一週間の天気予報や、交通情報、誰々からの最近のメッセージ、最後にxxと通話したのはいつか、とか、とにかく、いろいろな情報に音声でアクセスでき、それに対して意外にまともな回答が返って来る。 端末に音声認識やデータベース検索が入っているのではなく、これもクラウド側でやっていることなんだろうけれど、これだけ応答速度が速ければ、結構実用的に使いこなせる。 ただ・・・・・・・・・・・・。 日本ではこの音声認識機能は、日本語に対応していないために使えない、というのが残念だ。 この機能、データベースの検索までひっくるめて日本語対応にしなければならないので、結構大変だろうけれども、ぜひ日本語でも使えるようにならないかな、と思ったものだ。
2011.10.18
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今日の教会の説教は「祈り」について。この「祈り」も、キリスト教の中では、いや、別にキリスト教に限らないかもしれないが、あらゆる信仰において、「罪」と並んで考え方が難しいものの一つ。 今日の説教の中でも、話されたのは「祈りの大切さ、重要さ」「祈りの力」という内容である。 信仰の中での「祈り」の大切さ、というのは説教を聴くまでもなく、それは全ての人にとって認識されているところだろう。 ただ、「祈りは大切だ」と言われたあとに、「ただ・・・・・・・・」というのが付くのが普通だ。 この「ただ・・・・・・」の中に何が入るか、一度考えてみると、その人にとっての「祈り」の何たるか、が見えてくる。 「祈り」と「願い」は違うか、同じか。 「欲望」と「願望」は違うか。「欲望」が悪だとすると「願望」も悪か? 自分勝手な「願い」とそうでない願いは、叶う、叶わない、という次元で同じか? それとも・・・・・・・ 本当の祈りとは? いや、「本当の祈り」なんてあるのか? 祈りの仕方? 先日、教会で行なわれた「あなたにとって『祈り』とはなんですか?」というアンケートにおいても、一番多かった「神とのコミュニケーション」という回答以外にも「感謝」「願い」その他、多くの回答があった。 祈りとは個人的なものだろう。 そして、現実に祈りというものが「力」を持つ事も確かだろう。これは、「意思と現実」の繋がりにおいて、確実に言えることだ。 であれば、「祈り」の持つ力と、その作用する仕組みを理解することはより望ましいことに違いない。
2011.10.17
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いろいろな宗教、精神世界、スピリチュアル、新霊性運動、ニューエイジ、トランスパーソナル心理学、成功哲学、物理学の最前線、はては「ドンでも本」として分類されるような本などを読み漁っていると、だんだんと、それらの根底はたったひとつじゃないか、と思えてくる。 ここでごちゃごちゃといろいろなことを書いているが、それらは、このたった一つの真理のいろいろなレベルでの現れにすぎず、それらを突き詰めてゆくと実際には、その真理はたった一つに帰する、ということだ。 その真理というのは「全ては一つ」という単純明快なもの。その当然の帰結として、次の真理が出てくる。すなわち「分離は幻想」というもの。 この二つ、究極的には「全ては一つ」というものと、実際に私たちが生きる世界に適用すべき「分離は幻想」という準真理(派生する真理、という意味で)で、ほとんどのことが説明できる。 ただ、これを科学的に証明することは「今のところ」出来ていない。たぶん、これからも出来ないかもしれない。 多くのスピリチュアリズムや宗教は、この「証明できない」ことを「信じる」「信念を持つ」ことによって乗り越えて、その結果現れる「この世」の真理を説いている。 この観点に立って聖書などを読むと、普通に言われている解釈とは別の解釈が可能となる。イエスの言葉、旧約聖書の各預言者の言葉など、ああ、こういうことを言いたかったんだな、ということが出てくる。 ただし、見方が違うので、必ずしもクリスチャンの方が考える解釈とは一致しない。 いや、一致しない方が多いだろう。 仏教の教え、ヒンズー教の教え、あるいはウパニシャッド、ヴェーダなどインドの古典、イスラム神秘主義のスーフィズム、もっと言えば、最近のスピリチュアル系で出てくる幾多の本、えんえんと種々の本が書かれている、マーフィなどの成功法則系の話、ユングなどの系譜を引く超心理学、シュタイナーの教育学・・・・・数え上げれば切りがないほど、この「真理」を元に読むと、すべての話が繋がってくる。「原因と結果の法則」「引き寄せの法則」など、よく「xxの法則」というのが出てくるのも、全てその応用というか、現象世界への表れに過ぎない。現象世界への接点において、「全てはひとつ」ということがどう現れるか、という観点で具体的に、科学的に、だんだんとその繋がりが見えてきてはいて、この「真理」は単なる「信仰」や「信念」から徐々に「そうある」という認識に近づいている。でも、大事なのは、この「真理」を知ることではない。 この「真理」をどう生きるか、だ。 たぶん、基本的にはすべての宗教家は同じ地点から出発し、それを現実にどうおろすか、という方法論で違っているだけだろう、と思える。 その「方法論の違い」も「分離は幻想」という準真理に照らして解釈しないと、もともとの意味を取り間違えるのではないだろうか。
2011.10.17
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一応、娘のコンサートを録画するため、という建前で、新しくカムコーダーを購入しました。 もちろん、最低限の機能を最低の価格で、というポリシー(?)に基づいて、前からこれかな、と思っていたソニーのビデオカメラ。 光学70倍、デジタルズームと合わせて2000倍、録音レベル調節付き、映像のズームに合わせて音もズームするズームマイク付き、もちろんドルビー対応。つまり、今回の選択は、画質は二の次にして(つまりHDではない)、望遠機能と録音機能を重視して、税込み200ドル以下、という、日本円換算で約15000円の「オモチャ」。 で、早速、ここ数日、このビデオカメラで遊んでいます(笑) まずは、娘の高校のオーケストラの秋季コンサート。とにかくこれが主目的で買ったんで、これを撮らないことには話しにならない。結果、まあまあ満足のいくビデオになりました。録音もズームマイクのせいでしょうか、生で聴くよりも、ソロの人の音が良く撮れていました。 ⇒ Northview High School Fall Concert - Chamber Orchestra 演奏1 演奏2 次に、先日来、カメラで撮った月のビデオと、犬の散歩がてらの景色の撮影、画質がどのくらいか、望遠はどこまで使えるか、をチェック。 ⇒ 月の映像 ⇒ 散歩風景 結果的には、光学ズームはまあまあだけど、デジタルズームはさすがに解像度が悪くて、ちょっと使い物にならないかな、という感じ。 まあ、主目的であったオーケストラの演奏の録画がそこそこだったんで良しとしましょう。 ついでに、今までカメラの動画撮影機能で撮っていたピアノのビデオを、この新しいビデオカメラで録画してみました。 前回のアップから、約二週間ぶりのピアノアップ。 今回は、ブルグミュラーの4番と5番のビデオです。 あとでチェックしたら、4番の繰り返し部分を一回しか弾いていませんでした^^; ⇒ 57歳からのピアノ - ブルグミュラー 4番「子供の集会」 5番「無邪気」 この撮影では、カメラの動画撮影との比較が目的でした。結果、画質はカメラの動画の方が格段にいい。 でも、録音の方は、ズームマイクと録音レベル調整をした場合の両方を試してみましたが、これだけの近距離だとズームマイクは不要。 逆に録音レベルを落とした方が、周囲雑音が減って良かった、という結果になりました。 ただ、このアップしたビデオは、ズームマイクの方。 音が良かったほうは演奏がだめだったんで、泣く泣く諦めました(笑)
2011.10.16
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昨日でしたか、また年金改革の試案がまとまった、というような記事がありました。確かに現状では将来の破綻が見えているのでなんとかしなければいけないのはわかりますが、今回の改革案は、先日の厚生年金と共済年金の一本化とはわけが違う・・・・・・ 今進められている65歳への支給年齢引き上げを、さらに70歳まで段階的に引き上げよう、というもの。3案ある、というが、違いはその引き上げのスピードが違うだけ、という内容。つまり、遅かれ早かれ、支給年齢が70歳にまで引き上げられる、ということのようだ。 しかし、今現在の65歳からの支給でも、今の若い人にとっては昔の人に比べて支払額に対する支給期待額が少なくなる、という問題から年金離れが起こっているのに、70歳への引き上げは、この差をもっと広げることになる。 もう一つは、確かに長寿命化しているから、ますます支給対象者が増え続けているんで、この支給年齢の引き上げで対象者を減らさざるを得ない、という論理はわかるけれども、今でさえ、60歳前後の定年から65歳の支給開始までどうするか、と悩んでいる人が多い中、今度は70歳までの10年間どうやって生活してゆくのか、という問題になる。 当然前倒し受給という手は用意されるのだろうけれど、その場合の支給額は減額されるはずだから、さらに受け取り額は減ってしまう可能性が高い。 一方で年金支給年齢の引き上げを図るのだったら、60歳を過ぎ、あるいは65歳を過ぎても、働かなければ生活できない人、働ける人に、その機会と場を提供する施策と並行して進めてもらわないと、本当に大きな問題となるような気がする。 年金支給額は減りました、でも生活保護世帯は激増しました、というのでは、結局、同じ税金から補填をすることになるのだから、全体としていい方向に行くのだろうか?と疑問になってしまう。
2011.10.13
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ふと今思いついたこと(いつものことですが・・・)。よく「すべての出来事には意味がある」という言い方をします。ふと出合った人、ふと手に取った本、ふと目にした風景、そういった「ふと」というものを、普段私たちは単なる偶然として片付けます。 でも、スピリチュアル的に言えば、それら全てになんらかの意味がある、というわけです。でも、これをさらっと聞くと、なにか、まさに「スピリチュアル!」という感じで、若干の胡散臭ささとか疑念があってひっかかる、という人も多いと思います。でも、このことを考えてみると、これって昨日の日記ではありませんが、「受信側」しだいなんじゃないか、と、「ふと」思いました。 つまり、私たちの周りには、いろいろな出来事が毎日のように起こります。いや、起こる、というほどでなくとも現実は、毎瞬毎瞬移り変わり、私たちの五感に作用しています。そして、「意味がある」と考えるのも「単なる偶然で、意味なんかない」と考えるのも、実は私たち次第。 「すべての出来事に意味がある」という言葉は、当然すべての人に、ということなんですが、その「意味」を見出すかどうかはその人次第。 その人が「意味を見出す」という意識を持っている限り、「意味のない『出来事』なんてない!」ということになるんじゃないでしょうか。 一期一会、出会いを感謝する心も、その出会いに意味を見出してこそ、です。何かを観て感動する・・・それも、その見たものに「意味」を見出した結果です。 そう考えると、私たちが普段遭遇する「現実」というのは、驚くほど「意味」に満ち溢れているのかもしれません。 問題は私たちがそれに気づくかどうか、もっと言えば、そんな意識で「現実」に対しているかどうか、ただそれだけのことじゃないか、と。
2011.10.12
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じゃあ、どうする?!!!
2011.10.11
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本当は、「宗教」の目指すもの、ということで書いたほうが内容的には適切かもしれないのだが、なにせ、先日「アンチ宗教」なんて言ってしまったんで、ちょっと書きづらい(笑) なので、ここでは一応、「宗教」の中での「信仰」の目指すもの、という形で書いてみたい。書いてみたい、とは言っても、これも今日、教会でちらっと頭に浮かんだ事を書き留めておく、というメモ書きに近い。 で、いろいろな宗教が、その信仰を通じて何を私たちに教えようとしているのか、と考えてみると、いろいろな答えが出てくるように思う。 例えば、キリスト教においては、「イエスが私たちのために死んでくれたことにより、私たちはその罪を赦されたのだ」ということを教えている、という風にも言えるのではないだろうか。 仏教が教えていることというのは、これは浅学な私には一言で言えるようなものではないけれども、人が生きることの意味と、その生きる上での哲学、哲学と言って堅苦しければ、生きる上での考え方、心の持ち方を教えているのではないか、と思う。 でも、最近、もしかすると信仰の究極は、「私たちはすでに救われている」という自覚ではないか、と思えてきた。 これは特にキリスト教の方から来るのだけれども、よく宗教は「xxをすれば救われる」とか「〇〇によって赦される」という言い方をする。 仏教の方では、その哲学的な色彩から、修行だとか、「学ぶ」という「行為」を経て「悟り」とか「解脱」に至る、という考え方になりがちだ。 しかし、よくよく読んでみると、仏教の中においても、キリスト教の中にも、「私たちは生かされている」という考え方は共通に出てくる。 「托身」とか「仏の慈悲に生きる」、あるいは「神の御心のままに」という考え方だ。「今」を生き、過程を尊びながら、「結果」に執着しない・・・・ 結果への執着があらゆる「苦」の元になっている、と仏教では教え、起きる出来事の本当の意味は、私たち人間にはうかがい知れない、とキリスト教でも説く。 つまり、言っている事は同じ。であれば、究極的には、これらは何を言わんとしているか、と考えると、「人はあるがままで良いのだ」「あるがままで救われ、赦されているのだ」と言っているのではないだろうか。 ただ、この「あるがまま」で神に愛され、「あるがまま」ですでに仏の手の平の上にいる、ということがすなわち、何をしてもいい、あるいは、何もしなくてもいい、ということではない。 どう生きるか、何をもって自分の生きる「意義」とするか、それは個々人の問題ではあるけれど、それを考え考え、悩み、苦しみ、悲しみ、時には喜び、はたまた間違いを起こし、キリスト教的には罪を犯し、悔やみ、気を取り直し・・・・そういった営みすべてが、「あるがまま」で愛され、赦されていて、人間どんな生き方をしても、所詮は仏の手のひらの上だけのこと、と悟ることではないか。 書いていて考え方が全然まとまっていないけれども、なんとなくそんな気がしている。
2011.10.10
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以前の日記で、「現実」というのは自分で作っている、ということを書いた。ただ、あの時の「作る」というのは、どちらかというと「受信」の仕方で、どんな現実にもなりうる、という意味合いが強かった。 しかし、「現実を変える」ということには、当然のことながら、実際に起きている「事実」を変える、ということも含まれる。いや「含まれる」というよりも、普通に「自分の現実を変える」と言った場合には、こちらの意味で取る方が多いだろう。「事実」は変わらなくても、その受け取り方を変えれば「自分にとっての『現実』は変わる」ということは、頭では分かっても、なにかはぐらかされたように聞こえるかもしれない。でも、実際に、その「現実」によって左右されるのが「心」である以上、これもまた事実ではある。 しかし、そうではなくて、実際に自分の周りに起きる「出来事」「事実」、こういったものを変える、ということが「心」の持ち方一つで出来るだろうか、というのが今日の勉強会のテーマ。結論から言うと、変えられる、となるのだが、考え方としては、受信の仕方で『現実』を変える、ということと似ていなくはない。 今度は「受信」の仕方の代わりに「発信」になるだけ。「発信」というのは、自分の外部・周囲に対する働きかけのことだが、具体的には、自分の言動、態度、表情などの全て。言動とは、言葉と行動のことだが、それだけではなく、言い方、声色、声を出すときの表情、話すときの目、つまりコミュニケーションの全要素が入り、行動にしても、その時の態度、熱意、迅速さ、正確さ、細やかさなどなど、ひとつの同じ行動を取るにしても、実に千差万別の在り方がある。 つまり「心」の持ち方は、これらのコミュニケーションとアクションの両方に確実に影響を与える。 そして私たちと外界、つまり私たちと「出来事」「事実」の間には、受信側だけではなく、発信側においてもこれらを媒介にして密接に繋がっており、これらが変われば外界も変わらざるを得ない。 この「変わる」というのは、受信側のときのような「受け取り方」が変わる、というのではなく、起きる出来事そのものが変わっていく、ということだ。 この「受信側」と「発信側」の両方を含めて、初めて、 「心が現実を作る」ということになる。 今までの勉強は、どちらかと言うと「受信側」の現実の作り方、つまり「心」の持ち方に比重が置かれていたが、そろそろ、この「発信側」の現実の作り方も学んでいかなければならない。 ということで、今週火曜日の勉強会、さてさてどんな内容になるか・・・・・
2011.10.10
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今回のCEATEC(最先端IT・エレクトロニクス総合展」2011が幕張メッセで開催されている。 今回は、自動車業界と電機業界が手を結んで日本の産業をさらに強化していこう、という感じの展示になっているような気がする。 昨年までの華々しい薄型TVや他の最新家電機器や携帯機器の展示から、ことしはEV自動車を初めとした自動車関連が、それと関連付けた電気製品・システムと共に一つの大きな柱になっていたようだ。 しかし、これは逆に言えば日本の二台輸出産業である自動車と電機の双方が非常に苦しい状況にある、ということ。 日本で開かれている、例えば東京モーターショーは出展社数が減少し続けているし、このCEATECにしてもかつての華々しさはない。 もう一つの特徴は、日本のこういったショーが、日本の企業による日本人顧客向けのショーになりつつある、ということだろうか。 世界に発展していた時の日本のショーというのは、世界中からその先端技術を見よう、盗もう、という外国人ビジターが多数訪れていたが、こういった海外からの注目度にしても年々減り続けている。 私も、小さいながらアメリカのソフトウェア企業で働いているのだが、世界を見渡すと、日本の市場が年々特殊化しているように思えてならない。 一言で言えば、新規性に関してはなかなか手を出さず、どの企業も「実績」重視で、他の会社が使ったことがあるかどうか、がひとつの選択基準になっている。 つまりは、「初めて使う」会社にはならない。私の会社の新製品も、日本以外ではどんどん引き合いがあるのだが、日本では全く売れていない。なぜか、というと「実績」がないからだ。 新製品なのだから当然実績はないのだが、だからと言って商品そのものを評価して不採用になる、ということでもなく、初めから使わないのだ。 一方、世界の中で、韓国や中国、インドなど、こういった分野に積極的な国では、どんどんとこういった新規技術にも果敢に取り入れている。 アメリカの企業もまだ、日本の企業に比べるとこういった面での積極性と、採用・不採用に関する決断にかける時間は日本企業の数分の一。 日本企業が半年ぐらいかかる選定作業を、下手をすると数日で行なう。 日本の産業空洞化ということが、特にこの円高を背景にして言われるが、本当に高いのは日本の人件費だろう。 ただ、それは給料が高い、ということではない。給料だけだったらもっと高いところもあるだろうけれど、そうではなく、同じ給料の人間が働いてどれだけの結果を出すか、という生産性の面も考慮すると、日本の人件費は相当高い、と思わざるを得ない。 社内決済に、はんこが5個も10個も必要で、かといってその決定に責任を持つのは、結局は一人だけ、というような、業務プロセスと集団決済主義が、その生産性を低くしている最大の原因ではないかと思える。 アップル社。 スティーブン・ジョブス氏が居なくなってしまったが、氏が居たころは、こういった決断は、即断即決で行なわれていたんだろう。 このような企業風土と、製品開発に関するスピードの差、というものが結局はその産業の競争力に繋がっていく。 日本の産業の地盤沈下、それに対する対策は、企業誘致への助成金などでもなく、単なる自動車業界と電機業界が手を結ぶ、とかいったことでもないんじゃないか、という気がする。
2011.10.06
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昨日、アップルのiPhoneに関して日記を書いたが、今回の発表会はiPhoneそのものの発表も注目されたが、同じように注目されたのが、創業者のスティーブ・ジョブス氏が退いた後のCEOの手腕だった。 このCEO、名前は忘れましたが、iOSの開発責任者として、実務面ではずっとアップルをリードしてきた人ですが、いかんせん、スティーブのような「カリスマ性」はありません。 で、つい先ほど、20分ほど前に、このスティーブ・ジョブス氏が死去した、というニュースが流れました。 昨日の発表で株価が下落したアップルですが、この氏の死去は予想されたこととは言え、かなりの影響があると思われます。 古くは、Apple II でパソコンの新しい時代を開き、マッキントッシュのPCを初めとしてiPod iPhone そしてiPadと、これらの製品に関連付けてアプリケーション事業を立ち上げてきた氏の発想はやっぱり抜群です。PC市場でも、何十社も居るWindows PCの陣営に対して、たった一社で立ち向かい、唯一生き残っているメーカーですし、最近では、息子が通うジョージア工科大学の学生でも、Windows PC からMACに乗り換える学生が増えているように、やはりユーザーの心を掴む抜群の商品性がありました。これらも、このスティーブ・ジョブス氏のお陰だという事を考えると、マイクロソフトとビル・ゲイツの関連性以上に、アップルという会社にとって氏の存在は大きかったんでしょう。 さて、この先、アップルはどうなるんでしょう?
2011.10.06
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いやあ、これだけ世界中から注目される新製品発表も珍しいですね。 日本でも、少し前から、今日のアップルの発表については様々な「憶測」がニュースになっていました。そして当日の今日、どのニュースもこれを大々的に取り上げていますが、あまりにも前評判が良すぎたのか、期待が大きかったのか、発表を受けてアップルの株価は4%ぐらい下落しました。 これだけ注目される、というのはさすがアップルですが、画期的なiPhone5が出るんじゃないか、という期待が裏切られ、現行のiPhone4Gのアップグレード版、という風にしか見えないために、がっかりしての下落でしょう。ここまで来ると、注目されすぎるのも良し悪しですね。しかし、基本性能は確実にアップして、プロセッサーの能力は現行モデルの5倍とも7倍とも言われているので、使い勝手は格段に良くなっているのでしょう。つまり、目立たないけれども、基本的な性能を強化している、という形の新機種になっています。あとは音声認識のアプリケーションが追加されたことが目玉のようですが、これはちょっと評価が難しい。 私自身も、技術者時代に自分が開発しているシステムで音声認識機能を付加したモデルを手がけた事がありますが、なかなか使い勝手がよくならないんですね、この音声認識という奴は・・・・・ アプリケーションと連動しているので、単語の認識という以上に、質問内容の認識まで行なうようなので、昔の(私がやっていたころの)音声認識とはわけが違うんでしょうけれど。 昔は、とにかく話者を特定するか、話者を特定しなかったら認識する単語を限定する、という方法でしか認識率をアップできなかったので、その辺がどうなっているのか。 そこはユーザーインターフェースに関しては抜群のセンスを提供してきたアップルですから、単に名前だけの音声認識機能だとは思えませんが、どこまで実用に耐えるものになっているのか、ちょっと興味津々です。
2011.10.05
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さて、夕食を食べ終わり、多少満腹気味で、頭の回転も鈍っていると思いますが、今日、三つ目の日記に行きたいと思います。(あ、夕食のせいではなく、その前の一杯のせいかな?) タイトルは「神のメッセージ」。 日ごろ、いろいろなスピリチュアル系の本を読んでいる中で、ひとつ疑問がありました。 それは、「神からのメッセージ」とか「守護霊からのメッセージ」というものがたびたび出てくるのですが、その中で、そのようなメッセージの在り方がいくつかある、ということです。 その一つは、言葉によるメッセージ。例えば「声として聞こえる」「自動書記で、ペンが勝手に動いてメッセージを書く」そして多いのが「霊媒」を通して、その霊媒の人の声を使ってメッセージを伝える、というもの。 これらを「声」あるいは「言葉」によるメッセージとすると、二つ目はインスピレーション。 これは、たとえば、ある風景を観て、ある音楽を聞いて、あるいは風のささやき、鼻の美しさ、あるいはある映画を観て、ある本を読んで、といろいろありますが、とにかく、何かのきっかけで自分の心の中に「ひらめき」とか「インスピレーション」が生まれて、それで、「ああ、そうだったのか!」と突然の理解が訪れるもの。 そして、三番目には、人間体験の中で徐徐に現れる「理解」。体験・経験、自分の行動や言動、そして他者からの反応や他者との交流を通じて、自分の中でだんだんと醸成される「真理」の理解。 こういったいくつかの方法というか、経路を通して、この「神のメッセージ」が個々の人に届けられているらしい、ということが、いろいろな本に書かれています。 だからと言って、そのメッセージをメッセージとして受け取るかどうかは、その人次第。メッセージの受信側が準備が出来ていなかったり、受信したとしても気づかなかったり、それがきちんとその人に伝わるかどうかは保証されていません。 こういった話を聞くたびに、あるいは読むたびに、私は、なぜそんな気が付かないような可能性のある方法や、間違いやすい方法などを使うのだろう? なぜ「言葉」や「現象」で、疑い得ない方法で、誰もが納得するような形でメッセージを伝えないのだろう?と思ったものでした。 で、結局、今現在言えることは、これらの方法は、皆一長一短だ、ということ。ちなみに、上記の三つの方法の長所・短所を挙げてみると、1.言葉によるメッセージ 長所 :必ず受け取ってくれる。 それをその人の幻聴のせいにしたり、白昼夢のせいにしたり、はたまた精神病のため、という解釈をされることはあるにしても、その言葉そのものはメッセージとして確実に届く。 短所 :その言葉の制約を全面的に受ける。 その人が知らない単語・語彙は使えないし、ビジュアルな情報は全く伝えられないし、それ以上に精妙な「コンセプト」のようなものは言葉に出来ない部分に大きな比重がある場合が多い。 それらがまったく伝えられない。2.インスピレーションによるメッセージ 長所 :このインスピレーションによるメッセージは、1の言葉によるメッセージでは伝えられない精妙な部分、ニュアンスだけではなく、内容的に言葉にはできない「感覚」あるいは「感情」というものを含めて伝達が可能。 短所 :人はなんらかのインスピレーションを受けたとしても、それに気づかないことが多いか、気づいたとしても、あまり重要だとも思わずにやり過ごしてしまうことが多い。ふと感じた事がどれだけ真実に近いか、ということを深く考えもせずに、そのまま忘れ去ってしまう結果になることが多い。3.体験・経験を通してのメッセージ 長所 :この人間経験を通してのメッセージは、その経験が真摯なものであればあるほど、そのメッセージの本質に関する真の理解が得られる。 言葉の制約を受ける事もなく、インスピレーションを無視するような危険性も少なく、自分の価値体系・信念体系に確実に組み入れられる。 短所 :同じ経験をしても、そこからメッセージを受け取らず、返って、悩みや苦しみ、悲しみなどの現世的な試練としてしか受け取らず、その意味を追求することなく、単なる負の経験で終わってしまうことが多い。 ざくっと思いつくままに挙げてみたが、ほぼ共通して言われる事は、神のメッセージを声で聴くのは、どちらかというと一番内容が誤って伝わりやすい、ということ。 聖書の預言者が神の言葉を聴いて、それを他の人に伝えた、とされるが、その人たちの受けたメッセージがこれらのどの形において成されたかはしらない。しかし、もしそれが「言葉」によるものだとしたら、そのメッセージの内容は、かなり慎重に吟味しなくてはならない、ということだ。 また「聖書」に書かれているイエスの言葉とされるもの。これらは、もうどう言おうと、それは「人間」イエスの言葉だ。 この言葉の意味を、話をしたイエス自身の思いが、真意がどれだけ正確に伝わって今現在の聖書になっているのか、という点でも同じように「慎重」な態度が必須になってくると思われる。 反対に、この最後の3番目にある「人間体験」からのメッセージの受信。 これが最も確実で、最も信頼できるものになる「可能性」を秘めている。 しかし、残念ながら、私たちは、ここに挙げた「短所」にそのまま合致するような態度で、すべての出来事に対していないだろうか。 結局、超常現象や奇跡などの「しるし」がないとなかなか「神のメッセージ」とは確信できないものの、一方では体験という名の、いうなればメッセージの宝庫を日々私たちは経験しているが、そこからどれだけこの大切なメッセージを受け取ることが出来ているのだろうか。
2011.10.03
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さて、今日二つ目の日記。 軽い順番で、と思いましたが、この日記も重くなるかもしれません。 先日からヒマにまかせて読んでいる「雲 黒斎」さんのブログ、2006年の分を読みきらないうちに、昨年2010年からこの9月まで続いていた連載小説のような「極楽飯店」というのを先に読んでいました。 昨年の8月20日から書き始め、黒斎さんいわく、はじめは3日ぐらいで終わるはずが、だんだんと伸びて、とうとう一年以上の長期連載になってしまった、とのこと。なかなか面白い話でした。このブログの内容、「あの世に聞いた、この世の仕組み」というブログタイトル通り、守護霊から受け取った情報を、管理人さんが「翻訳」して伝えている、という形になっています。 で、この「極楽飯店」というのは、小説の形でこの守護霊が話をしてそれを翻訳した、というよりも、守護霊の話をわかりやすく翻訳するために「小説」の形をとった、という方が当たっている気がします。それはともかく、「知識」として、この「極楽飯店」に出てくる「この世の仕組み」は、特に目新しいものはなかったんですが、説明の仕方がなかなか面白く、かつ説得力がありました。たとえば、「全ては一つだ!」と知っている事と、それを誰かに説明することとでは、大きなギャップがあります。 この小説、この「誰かに説明する」という部分で、なかなか秀逸でした。 まあ内容を書くとこれから読む人に失礼でしょうから、それは置いておいて、その中で、「なぜ人を愛するのか」ということの説明がありました。その説明をし出すと、この方のブログを転載するような形になってしまうので、それはやめますが、簡単に言えば、「もともと一つの源から来ている『私たち』なのだから、『他人』というものはない。 『他を愛する』ということは、とりもなおさず『自分を愛する事』なのだ」ということをなかなか面白可笑しく説明しているわけです。 翻って、例えばキリスト教で、この「他を愛する」ということに関してどう説明しているか、というと、下記の文章は、今日の教会で配られた牧師さんの「今日の一言」です。・・・・・・・・・・・・・・「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(ヨハネ15:12)イエスの究極の教えとも言える言葉である。愛とは惜しみなく与える事だと言うが、問題はその与え方である。私たちは与えると言っても、自分の分からその一部を与える、自分のものも確保した上でしか与えられない。だが、自分の余りのもの、できる範囲を分けるのが本当の愛と言えるだろうか。 イエスはこの掟に続いて「友のために自分の命を捨てる事、これ以上に大きな愛はない」という。持っているものからあれこれ分け与え、時間を少々割く、ということではない。命を捨てる愛とは自分自身をすべて削って捧げる愛である。事実、イエスは十字架にかかり、その命を差し出し、私たちのために捨てる事で大きな愛を示された。ここに究極の愛があるのだ。イエスは互いに愛し合うように命じられたが、互いに、だから、一方的にではなく、私たちが互いに与え分かち合い、受けていくように求められる。だがそれは、まずこのイエスの愛を受ける事から始まる。そこで一方的に全てを受けているからこそ、自分を削って愛を与えていくことが可能となる。イエスの大いなる愛を受けている喜びの内に、主の新しい戒めを生きて行く者となろう。・・・・・・・・・・・・・・・ どうですか?まあ、イエスを愛を、そしてそれへの感謝を全面に出す、というのは、キリスト教なら当然ですが、それ以前に、「なぜ愛さなければいけないのか」という部分で、ここに述べられているのは「イエスによる戒め」であり、「求められている」のです。 これを裏返すと、「イエスの愛を知り、それを受けている事を知って感謝して、初めて他者を愛せるようになる」という風に聞こえます。 でも、私たちは、イエスを知る、知らない、に関わらず「互いに愛し合う」ことの大切さを知っています。 この二つ、つまり、「雲 黒斎」さんのブログにある「守護霊」の「互いに愛すること」の説明と、この牧師さんの言われる「イエスにあって、人を愛する」ことを主張するクリスチャンと、どちらがすんなり皆さんの胸の中に入るでしょうか?
2011.10.03
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昨日、大分前の7月4日の日記にコメントが入っていた。日記そのものは、「キリスト教における愛の厳しさ」というテーマ。 自分に優しい、自分を愛してくれている、自分に好意的な、という人を愛するのはまだ優しいが、自分の敵、自分に危害を及ぼすような「敵」を愛するのは難しいし、その意味で、「隣人を愛せよ」というのは非常に難しいことだ、と言った内容。 すると、このコメントは ’777’という人からだったのですが、「聖書についての勉強は足りませんね」との一言・・・あとは何もなし。。。。 初めは、多少むっとした。人のブログに来てなんて失礼な奴!という感じ。でも、少し経ったら、可笑しくなってしまった。なぜって、この人、こんなコメントを人のブログに書き込むということ自体、この人が聖書の「せ」の字も理解していない、ということを明瞭に物語っているから。。。 たぶん、聖書を読んだ事もあり、それなりに勉強したこともあるんでしょう。こんな言葉を書くと言うことは、「私はもっとよく理解していますよ、あなたはまだ読み方が足りません」ということを言っているんでしょうから。 しかし、もしそうだとしたら、この人、何時間、何十時間、いえ何百時間今まで聖書を読んだり勉強してきたかは知らないけれども、その時間を完全に無駄にしているとしか思えませんね。 自分ではわかったつもりで居るんでしょうから、なおさら滑稽です。だいたい、聖書を一言で要約したら、「神を愛しなさい。そして同様に隣人を愛しなさい。」ということになるでしょう。 その他は、それを生き方の中で説明しているだけ。この方、どれだけ読んで、どれだけ勉強したかは知りませんが、この根本が全く身に付いていない、と言わざるを得ません。いえ、「愛」などとおこがましい言葉を出す前に、常識とエチケットさえ知りません。 さきほど、「可笑しくなった」と書きましたが、そんなことを考えていたら、今度はこの人が可哀想に思えてきました。まさか、こんな人が牧師さんやら宣教師やら、司祭などをやっているとは思えませんが、普通のクリスチャンだとしても、この人に聖書の解説をされた人は可愛そうだな、と。 いくら聖書に関する知識を蓄え、聖書解釈に精通していたとしても、それが即、その人の人格を向上させることには全くならない見本みたいなコメントでした。
2011.10.03
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