全7件 (7件中 1-7件目)
1
俳句・川柳―棲み分け論伊藤岬伊藤岬さんについて伊藤岬さんは著名な川柳作家現在は障害者施設を経営どこかの「口先だけ左翼」と違って本物の社会への貢献を身をもって実践する筋の通って左翼さんです楽天では「ひまじんサロン」というブログを持たれHNは、msk222さん先ごろ同じテーマの過去ログを復刻しましたのでいわば重複の形にはなりますが岬さんご自身もあの議論を独自にまとめられているので許可を得て、それを掲載させてもらいます私の記事ではあの頃の楽天はまだBBSと言うものがありそこでの会話も含めての議論が交錯したので読者にとってはわかりにくい構成となっていましたこの岬さんのまとめで、スッキリした形になると思います俳句・川柳―棲み分け論伊藤岬 「ひまじんさろん」で寺山修司論について書いているときに、読者から川柳と俳句の違いについて掲示板で質問を受けました。返事をしながら、自分の中で確認できたことなど掲載します。 文中に多くでてくる名前はハンドルネーム(仮名)です。alexさんは元商社マンですが、博識で文学全般にも広い造詣をもっています。双方のHPを行ったりきたりの長いやりとりでしたので、冗長部分は要約してあります。また、言葉足らずの部分も訂正してあります。この内容はあくまで僕の考えている川柳観ですが、不正確な部分や異論などございましたら、遠慮無くご意見をお寄せ下さい。 なお、このやりとりについて、HPで川柳界を批判しているのでは、という声も遠くから戴きましたが、批判や批評は文芸の進歩にかかせない、というのが僕の基本的な考えです。不穏当な表現があればお詫び致しますが、ここで語った内容は誹謗中傷ではないという確信があります。ご異論があればご遠慮なくお寄せください。 この場に併記して、検討いたしましょう。寺山修司の句についてalex 岬さんがネット日記で書いている寺山修司論を興味深く読んでいます。 昔、私の母が大阪の郊外で一人ぽつんと立っていた寺山修司を認めたそうです。驚いて彼を見つめていると、寺山の方も「ほう!私を知っているのか?」という風に母を見返したそうです。戸山町には住んだことがあります。戸山ヶ原は昔は陸軍の演習場でした。岬 寺山修司の作品が好きだという川柳人は多いと思います。しかし、日記のなかに書きましたが、当の寺山修司は川柳を文芸として軽蔑していました。alex 桑原武夫が『俳句は第二芸術である』と言い切って物議をかもしましたが、そうすると、寺山修司は『川柳は第三芸術だ』と言わなければならなかったのかな?岬 まさにそのとおりで、第三芸術以下という認識だったと思います。現在でも、川柳の一片だけにしか触れていない文化人の多くは、そんな認識ではないでしょうか。alex 『かくれんぼ三つ数えて冬になる』私は寺山修司のこの句が好きです。でも、寺山が俳句だと思って書いたこの句は岬さんによると川柳だといいます。私の解釈ではまさしく俳句の情景が浮いてきます。 北国の子どもが隠れんぼうをしている。鬼になって目を開いてみたら、みんなは隠れてしまっていて、見慣れた風景の中なのに人気が全く無い。日暮れの影のような世界の中に、ゾクッとと寒い冬の冷気が初めて感じられる。それまでの、子ども同士の無邪気に楽しい世界が突如反転して、寂寥の孤独の世界が出現する。 というものですが、この句には川柳独特のエスプリが無いと思うのですが―。岬 ちょっと長くなりますが歴史的背景から説明します。俳句も川柳も、俳諧を源にする文芸です。俳句は芭蕉の「芭風」そして、正岡子規の「写生論」を経て芸術的高みに至ったとされています。俳句の柱は「モノ」であり写生したモノに作者の感慨を込めて表現します。 川柳は、付け句が独立したものですが、俳諧の「こっけいや軽み、穿ち」をひきづっています。「人情の機微」を表現することから発展してきた、《人の「コト」》が柱です。 川柳は、古川柳の懸賞投句と、長い「狂句」時代、新聞などでの大衆読者受けする、時事や世相風俗の機知を面白く捻った、一読明快な句を喜ぶ時代が長くつづきました。それ以外の川柳も創られてはきましたが、座の文芸ということで、句会などでシコシコと仲間内だけで楽しんでいました。このため一般人たちは、自分の目に見える、面白おかしい、エスプリの効いた俗情もの(だけ)が川柳と思いこんでしまっているわけです。OnMyOwn そうすると、俳句は情景や自然現象を扱い、川柳は人間社会の下世話な観察を扱う、という解釈でもいいんですか? 俳句は哲学、川柳は文学というような印象を持ってましたが…。岬 「哲学と文学」はいい視点ですね。下世話なことだけが人間のすべてではありません。しかし、最近は俳句と川柳のクロスオーバーが激しくなっていますが、俳人が俳句の下世話なものを川柳と称したり、川柳人も俳句もどきを書いたりして、いっそうわかりにくくなっています。また、能と狂言にたとえる人もいます。 俳句=能(侘び・寂び) 川柳=狂言(かろみ・笑い・遊び・風刺) 日常の「人情の機微」は広い意味で「穿ち」ともいえますが、「人のコト」が面白おかしいことだけでないことを考えれば、俗情だけが川柳の題材でないことはお分かりいただけると思います。alex 俳句は「モノ」、川柳は「コト」が柱なんですね。岬 alexさんは寺山の句をみごと川柳的に解釈しています。その感情の機微の表現こそが広義の「穿ち」であり、川柳の舞台であると僕は考えているのです。もっとも、表現は日々革新されていますから、現代の川柳はこれだけでは説明できていない部分もありますが…。alex 前記の寺山修司の『かくれんぼ三つ数えて冬になる』ですが、この句は下世話な言葉づかいでもなく、その句の内容は、おっしゃるように川柳的解釈をすれば、深い精神性の世界を描いていると思います。もし、この句を『ああ、知らない間に、冬の気配が忍び寄ってきた』という『季節感』としてだけ受け止めれば、『俳句』になるということですね?岬 その通りです。俳句は、余韻を大事にしますから、読んだあとは屁理屈をいわずに句の余韻を楽しみなさい、という姿勢ですね。しかし「無邪気に楽しい世界が突如反転して、寂寥の孤独の世界が出現する。」とまでいってしまったらお喋りが過ぎます、ということになる。逆に、川柳ではそこまで解釈してしまいたいのです。たあこ 私は『川柳』を『爆笑俳句』『ニヤリ俳句』だと思っていたんです。ときどき面白みがない「川柳」を見かけて疑問でしたが、そういうわけだったんですね。でもサラリーマン川柳は大好きです。岬 第一生命が募集している、皆さんのお好きな「川柳」ですね、その優秀作を少し紹介しましょう。 コストダウンさけぶあんたがコスト高 女房が腹でしてみるだっちゅうの 恋人がいるかと聞かれ「はいいります」 面白いでしょう、一読明快誰でも笑えます。このような句を膝ポン川柳といいます。こうしたダジャレや語呂合わせ的な句が川柳だといわれることに、川柳人のなかには不快感をもっている人も少なくありません。では、その人たちはどんな句を作っているか、と思うでしょう。ところが、サラ川を批判する川柳人たちが一所懸命つくっているような作品が、寺山修司にかかればボロクソだったのです。「文芸と呼ぶのもおこがましい」と切り捨てられています。 僕も川柳人ですから、穏やかならざるものがあります、が、寺山の主張に頷かざるを得ないともしばし感じます。残念ながら、川柳人の僕が読んで面白くもおかしくもない、退屈な川柳が多いのは事実なんです。alex そうなんですか、私もネットで岬さんの紹介する川柳を読むまで誤解していました。それにしても、川柳は誤解されることの多い芸術ですね。新聞の投稿川柳などは滑稽味・エスプリだけが中心のようですから…。 私の感想としては『なんだ! 川柳界の方々は、今までちょっと怠慢だったんじゃないの? 川柳って、こんなに深い人間性の精神世界に踏み込める可能性のある文芸なのに、もっぱら滑稽味ばかりに走ってしまい、結果的に川柳の地位を低くしてしまったのじゃありませんか?』と思ったものです。生意気な言葉ではあるのですが。岬 はい。僕も含めて川柳人の多くは一般に啓蒙したり、外に向けてもきちんと読んでもらえる作品をつくってゆく努力が足りなかったと思っています。それとともに、日本の文化人や新聞などが、無条件に短歌・俳句を芸術的文芸、川柳を低俗な文芸と決めつけている無理解も指摘しておきたいのです。 それとですね、川柳をしている人たちも、なんでもありだからと、標語のような575を作って、川柳大会での入賞だけに血眼になり、若い人を育てたり一般人へ開かれた文芸にする努力が足りなかったと思います。 ご承知のように、啓蒙ということでは、過去には時実新子が大きくその役割を果たしていました。ただ、あまり偉大すぎて、新子亜流が増えすぎた面もありましたが…。現在では、ようやく短歌・俳句にまけない個性的な作品を書く新しいタイプの川柳人が揃ってきております。 しかしそれにもまして、マスコミがお手軽五七五を川柳としてどんどん宣伝してくれているものですから(苦笑)alex 私はどちらかというと俳句より、『精神川柳』(私の勝手な造語です)に興味が向きます。発句するのは、俳句の方がどちらかというと、易しそうな気がするのです。それに関連してモノ、コトの使い分けとしてお聞きします。例えば、『行く春を近江の人と惜しみける』という、芭蕉の句はモノだけでなく、感情のコトも含まれていると思いますが…。岬 これは、春が過ぎてゆく様子を近江の人と惜しみながら良い季節を愛でている、という様子を句にしたものですね。感嘆は、コトですが、見た情景(季節=モノ)をそのまま心に映して詠んで、モノが柱になっています。こうした自然や季節の移ろい、つまり「モノ」から働きかけられる感興を柱にして俳句は詠んできました。一方、自由律といわれる、山頭火や尾崎放哉などの俳句はきわめて川柳的イメージで書かれていますが、やはり「モノ」からの働きかけによって書いている場合が多いのです。放哉の「咳をしてもひとり」は、病苦の憂いと孤独感がひしひしと伝わる名句です。独白を見事に表現していますが、表現はストレートで捻りはありません。そして、季語がなくても冬というモノを感じます。「夏でも咳きはするよ」という人もいるでしょうが、季語的には冬なのです。 川柳人は、「モノ」を感情の比喩として置いてゆきます(川柳人の中では、区分けを意識せず書いている人もありますが…)。「モノ」は「コト」を表現するための舞台仕掛けといってよいのです。 拙句で「朝顔描けば朝顔ひらきそうになる」があります。この句から、俳人は美しい朝顔とそれを描く人…、といったイメージを描くでしょうが、僕は川柳的に読めば、読者はもう少し淫らな想像に進むにちがいない、という姑息な計算の元に「朝顔ひらく」を使っています。この句で朝顔は句の柱ではなく、読者の妄想「コト」をひきだすための道具なのです。 一応お断りしますが、このように解説するのを「自句自解」といって普段はあまりしません。しかしここでは創作意図を理解していただくためにあえて解説しています。alex NHK教育で、短歌の番組を何げなく観ていたのですが、『字余り』について、『確信犯的なクロスオーバー』についてコメントがありました。「形式破りなのは承知での勢いのある字余りは、かえって迫力・思い入れが分かり、効果がある」と…、なるほど!と思いました。形式にこだわり、形式の中に安住することより、あえて形式を無視する勢い、思いは、わかる人にはわかるし、異様の魅力になる……と。岬 はいそのとおりですね。ただ、技術の未熟から形式を無視するのは怠慢でしかありません。ここでは、これ以外ないというときに、破調(異形)は許されるべきものです。575以外は絶対認めないという堅物もなかにはおりますが、それは認識不足と申しておきましょう。本人が川柳だといえば川柳か?olive 作った本人が川柳だといえば川柳、俳句といえば俳句ということを聞いたことがあります。岬 今や俳句と川柳は作者名でしか区別がつかないという人はいます。しかし、この主張はどこか自己弁護的であり、大事な部分からの「逃げ」だと僕は思います。川柳人がつくっても、俳句は俳句。俳人がつくっても、川柳は川柳です。ただ同じ作品でも、川柳的解釈も俳句的解釈もできる句というものがありますから、これらは作者のジャンルで分けるしかないでしょうが、いままで語ってきたように分析してみれば、分別できるものは多いと思います。ただ、俳人が自分の句を川柳だとか、川柳人がこれは俳句だ、とは言いたくないとは思いますが―。alex なるほど!と、深く納得致しました。それでもいい句は、俳句にしろ川柳にしろ、クロスオーバーを含有しているかもしれませんね。岬 そして、僕にもいえますが、俳人も川柳人も新境地を開拓するためにお互いの国境を越える(あるいは確信犯的に越えたがっている)フシもあります。紛争地、あるいは男女の仲と同じですね。これ以上は越えてはいけないと思っても、その先にある何かを手に入れたくて、つい越えてしまう。後は野となれ山となれ…。alex 付け足しですが、俳句は、対象としての自然界を観察したあと、一応自分の内的世界にそれを取り込み、また、それを自然界の対象に返す……ような気がします。いつまでも、心の中にとどめて、感慨に耽る事は無い。何か、禅のような。 一方、川柳は、自然界に限らず社会の状況などから感興・感慨を感じますが、その感慨・感興は心の中で、具体的なものとして定着する。 俳句は小学生からつくりますが、川柳は子どもにはむずかしそうですね。岬 俳句は季語があるから形にしやすい。3分の1は始めからできているようなものです。歳時記から季をひいて、それに言葉を添えれば一丁あがり。だから、季語が頭に入っていれば誰でも俳句をたしなめるともいえます。しかし、それだけに添えることばの取り合わせのセンスで、力の差は天地ほど開きます。俳句は入るのは簡単そうだけれど、極めるのはなかなか難しい。 川柳は、基本的には、白紙からの出発になりますから、構成力や想像力(妄想力?)巧みな着地というものが必要となります。始めから一定の技術や経験がないと良い作品はできにくいものです。ですから、俳句よりはとっつきにくいかも知れません。しかし、俳句ほど言葉遣いの約束事や制約がなく、表現法や題材にはことかきません。コツをつかむと一定レベルまでらくにできます。お年を召してから、呆け予防に入る人もおりますね。alex 俳句では、季語という下駄を履かせてくれる。それにとりあえず写生をすればいいから、入門レベルの義務教育?までは、だれでも割合に楽に進学?できる。 一方、川柳は、感覚ではなく説明だから、即物的に解答がモロに出る。しかし、お互いに頭のキレで勝負をせざるを得ないという、逃げがきかないキビシイ世界。そう解釈してみました。岬 そうは言っても、俳句も川柳も五七五の言葉遊びです。文芸人の自己満足、果てしないひとりよがりの世界です。しかし、ムダごとこそが文化で、日本語遊びの高雅なところです。俳人も川柳人も、言葉のとりあわせの妙を愛でて「ウン、ウン」と頷いているといったところですね。英語俳句、英語川柳についてolive 上野市で芭蕉生誕三六〇年 世界俳諧フュージョンがあります。アメリカとかイギリスの俳句協会から来た人が連句を行うそうです。alex 『古池や 蛙とびこむ 水の音』 これを様々人が英訳していますが、私から言わせれば、全くダメです。とても俳句になっていません。 そもそも俳句とは、日本語でなければ成り立たない文芸です。日本語は膠着語という語族に入っています。朝鮮語・トルコ語・フィンランド語・エストニア語・マジャール語(ハンガリー語)などが、この語族だと思います。 しかも、単語がカバーする意味があいまいで、同音異語が多い。こういう言語でないと俳句は不可能だと思います。ただ、はじめから英語で作る俳句はそれなりのスタイルを成立させることが出来るかも知れません。あくまで可能性の問題ですが。こうちゃく‐ご【膠着語】(agglutinative language) 言語の形態的類型の一。実質的意味を持つ語や語幹に機能語や接辞を付けて、さまざまな文法範疇(名詞の格や動詞の法・時制など)を表す言語。日本語はその一例。スワヒリ語・トルコ語・朝鮮語などがこれに属する。付着語。岬 僕は、語学に弱いので、正確には答えられません。感覚的にいうと、俳句の味わいは日本という風土と言葉があってこそのものだと思います。 たとえば季語が効かない世界で俳句をつくっても実感がない。俳句の優れた味わいどころは、言葉を放ったあとの空間です。英語で日本語と同じ空気を生みだせるかどうか…。むしろ川柳の場合は、基本的には意味(コト)ですから、外国語でも作りやすいような気がします。alex そうですよね。英語だと単語が明晰すぎるので、意味の輪郭がクッキリとして、余韻が残らない。意味の幅出しが全然出来ない、ファジーな味を出せない。それに言葉のつながり方が違いますよね。岬 外国から渡来した方々が、能や狂言、禅、陶芸、そして囲碁や日本酒など、日本文化に熱心に取り組んで、その人たちが、下手な日本人より文化の奥義を掴んでいると思えることがしばしばあります。 例えば、大相撲で朝青龍が横綱を極めましたが、僕には、風格とか、どこか違和感があります。その程度のことかも知れませんが、根底にある Soul や Spirits といった俳句・川柳文化の精神の部分を、英語で極めるのは困難な作業かも知れませんが、先にあげた例もあります。 相撲や囲碁などのゲームは、最後にはデジタル的に勝ち負けが判定できますが、短詩文芸は「余韻や言葉の空間、行間の伝達といったファジーな要素を楽しむ」文化だけに、それらしいものをつくることまではできても、感覚的に本質的なところまで入り込むのはとても難しいことではないかと、思っております。 しかし、日本文化としての短詩文芸を外国語で理解しようとしたり、楽しんでくれる人が増えてくれることは喜ばしいことで、外国人が挑戦してくれることには両手をあげて賛成します。alex ここまで話し合うにあたって、川柳について、ネットであちこち調べてみました。基礎的形式についての説明はあったけれど、心に染みいるまでの納得の行く説明はありませんでした。極めて表面的で、もっと大切な、俳句と川柳の本質・精神について、説明しているものがなかった。それを岬さんは、いとも簡単に、私の心情的?疑問を汲み取って回答をくれました。これからは、俳句・川柳を、目からウロコというより、まるっきり違った視点で、眼鏡を新調したような……、そんな世界で解釈できるような気がします。岬 過分なお言葉ですが、僕も先輩方の考え方から自分なりの焦点を結んでいるに過ぎません。たぶん、俳人や川柳人のなかには、「いや違う、これこれだってある」とさまざまな論を持ちだす人もいるでしょう。しかし、あえて強弁すれば、ほとんど、ローカルルールといっていい状態です。その人の周囲での通用にとどまっています。 俳句も川柳も、自分の都合だけに固着して主張していても、ダメです。俳句とは何か、川柳とは何か、という命題にわかりやすく、誰にでも認められる公式が求められていると思います。 もし、この説明では不足していると思われる方がいたら、どんどん議論に参加してください。議論は揉まれることで、内容も磨かれてゆくはずです。alex 川柳が今まで思っていた軽薄短小なものではなくて、深く拡がりのある文芸だとわかって、とてもよかったです。これからも、岬さんがいい川柳としてお薦めできるものを、ネットのなかでどんどんご紹介ください。岬 いいサイトもありますから、僕のリンクページからでも探してみてください。どうもありがとうございました。
2019.02.27
コメント(11)
ドナルド・キーン氏の訃報に接して 復刻記事キーン氏のご冥福を祈る復刻記事 キーン氏の語る日本人の5つの特徴2017.02.22 下記の記事がある----------------------------- 「日本人よりも日本人のことを考え続けてきた」と言われるアメリカ生まれの日本文学研究者、ドナルド・キーン氏。2012年に日本国籍を取得し、日本人として生涯を全うすることを表明しました。そんなキーン氏の半生を振り返るドキュメンタリー番組より、その中で語られた”日本人らしさ”について着目。日本人以上に日本人であろうとした人物が語るその”らしさ”とは。 日本文学を世界に伝えることを使命とした半生幼い頃から本が好きでひたすら読書に励んでいたというキーン氏。大学に飛び級で入学し、ニューヨークのタイムズスクエアで購入した『源氏物語』が元となり、日本への関心を深めていきます。戦時中、敵に捕まるくらいなら自ら命を絶つ(自決する)という日本兵の行動に疑問を持ち、なぜ1番大切な命を粗末にするのかと、更に日本人の精神性や人間性に興味を移していきます。戦後は京都大学大学院へ留学。コロンビア大学で名誉教授職を経て再度来日し、60歳の頃、朝日新聞社の客員編集委員として就任。それまでに日本の文豪と呼ばれる三島由紀夫、谷崎潤一郎、川端康成、司馬遼太郎、大江健三郎といった錚々たる顔ぶれとの交友関係を通し、日本文学を世界へ発信する傍ら、日本人の姿を追い求めてきました。 ―――― ◆ ―――― キーン氏の語る日本人の5つの特徴 そんなキーン氏が番組の中で触れた、日本人の5つの特徴が以下になります。1 曖昧(余情) 2 儚さへの共感 3 礼儀正しい 4 清潔 5 よく働くこの中でも特に言及していたものが、 「曖昧(余情)」「儚さへの共感」「清潔」の3点になります。1つ目の「曖昧(余情)」とは、 物語や会話の中で、少ない言葉(比喩や掛け合いを通して)で結論を言わずに本意を伝えようとするコミュニケーションについてです。物事をはっきりと伝えようとする欧米とは異なり、表現が曖昧で一見わかるづらく聞こえる掛け合いが、かえって互いの信頼関係を築いたり、物語ではどんな意味があるのか、などを想像する(余情を醸し出す)ポイントになっているのだそうな。日本人の思いやりや繊細さは、こうしたところからきているのではないかとのことです。― ― ― ― alex99 こう言う特徴を持つ日本語は、詩歌・文学には向いているが ディベートやビジネストークには、機能的に充分では無い 欧米語のような、構造的でもないし トップダウンの構造にもなっていない 逆に、英語などは、構造的すぎて、詩歌では余韻などが表現出来ない まあ、善し悪しだろう ― ― ― ―2つ目の「儚さへの共感」は、 物語における主人公や登場人物のあり方に関係しています。儚さの中に美を見出す感性は、侘び寂びにも通じる日本人独特の美意識でもあります。忠臣蔵や新選組のように日本人にとっての英雄は、はじめ上手くいっても、最終的にはダメになる、死んでしまうという結末を辿るのがそれです。マンガで言えば破滅型ヒーロー(全てを出し切り燃え尽きる、仲間を庇ってやられてしまう、など)ということになり、散っていく儚さにも趣があると捉えます。人間としての弱さ、そこに同情しながらもそれを世の常として受け入れる・共感する感性もまた日本人らしさの所以です。 ― ― ― ― alex99「弱者への想い」「判官びいき」もそうではあるが むしろ、滅び行くものへの評価である 言い換えれば 「古いもの」を、その【経年変化」「古び」というものを評価し、なおかつ、好む と言うのも日本人の特殊能力である 具体例では、古い塗料がはげてしまった仏像である はげた塗料は、もしそうしようと思えば、塗り直して オリジナルのキンキラな極彩色に戻す事も簡単に出来る 大陸・半島から渡来時は、仏像は、そう言うお姿だったわけで 韓国に行った時に、寺を見たが・・・ ところで 韓国では寺が少ない 有っても、山へ逃げた山寺が大半 これは、儒教に駆逐された歴史からである 閑話休題 その寺で見た仏像は、東南アジアのそれと同じ様に 赤や黄金色で塗られたキンキラの仏様である まあ、これが、そもそも、佛教の仏像のプロトタイプ global standard ではあるのだが― ― ― ― しかし 日本人は敢えて、それをやらない 古びた塗料のはげた木目までが現れる仏像を、そのままで、ありがたがる この感性・美意識は、世界でも日本人だけが持つものだろう キンキラの仏像よりは、はるかに高等な美意識と言える もちろん、これは、侘び寂びの美意識にもつながるがそして最後の3つ目は 「清潔」です。なぜ日本人がきれい好き、身なりが整っているかという問いには、神道が大きく関わっているとのこと。確かに言われてみれば、初詣やお参りで神前に立つ際は、手水で清めたり身だしなみに気を使うといったことは現在でも当たり前にされています。特別に宗教を意識せずとも、その一環が自分たちの生活に自然と溶け込み「清潔さ」と結びついているという点は非常に興味深く感じました。― ― ― ― alex99 「禊ぎや浄め」は、神道系統の宗教的な価値観から来ている 日本人が、本当に清潔好きかどうかと言うと・・・ 私は、疑問を持っている 私の先妻は欧州人だったが 室内の掃除は徹底的にやった 窓ガラスも常にピカピカ ある時、私の同僚の家庭を夫婦で訪問したが 自宅に帰宅して、彼女が私に言った 「あの家は、部屋の真ん中あたりは清潔だが 冷蔵庫の裏とかガスレンジの隅とかは 掃除をしたことがないように汚れていた 日本人は清潔好きでは無い」 私は、なるほど、と思った 日本人は、確かに、人目につく場所はキレイにするが 欧米人のように徹底的に衛生的に清潔にはしない もうひとつ私は起業のため一時期、米国に住んでいたが その期間ほとんどは、妹の家に居候していた その妹の家で、私は、2つ有るトイレの内の1つの掃除の担当であった米国では、トイレを隅から隅までピカピカにするトイレばかりでは無く、便器も、二種類の洗剤で、これもピカピカにする 日本人も、一応、家庭のトイレを掃除はするが あそこまで徹底してはやらない まとめこうしたキーン氏のような稀有な立場からの視点は、非常に新鮮で日本人らしさを理解するには貴重な意見だとひしひしと感じました。 ― ― ― ― alex99 そうかな~? 私は、そう「ひしひし】とは感じなかったが(笑) むしろ、極めて当たり前な観察だと思うこれしきのことで驚く筆者(笑) ― ― ― ―グローバル社会が叫ばれる中、英語教育ばかりに焦点が当たりますが、日本人としての価値を世界でどう発揮していくかを考えるには、こうした日本人自身を理解する機会が必ず必要だなと切に感じます。外国文化に迎合するだけでなく、日本人の価値をどうハイブリッドしていくか。そのためにはもっと日本人が日本(人)のことを理解するという当たり前ができる環境を整えていかねばと思います。キーン氏の言葉から、少しでも日本人とは?に答えられる解を自分なりにも考えていければと思います。
2019.02.25
コメント(5)
APS-Cサイズの焦点距離換算表(ただし、キャノンのAPS-C を除く)APS-C フルサイズ=== =====10mm 15mm相当11mm 17mm相当14mm 21mm相当15mm 23mm相当16mm 25mm相当17mm 26mm相当18mm 28mm相当20mm 31mm相当21mm 32mm相当22mm 34mm相当24mm 37mm相当28mm 43mm相当30mm 46mm相当31mm 48mm相当35mm 54mm相当40mm 61mm相当43mm 66mm相当50mm 77mm相当55mm 84mm相当58mm 89mm相当60mm 92mm相当70mm 107mm相当75mm 115mm相当77mm 118mm相当80mm 123mm相当85mm 130mm相当100mm 153mm相当105mm 161mm相当120mm 194mm相当135mm 207mm相当140mm 215mm相当180mm 276mm相当200mm 307mm相当210mm 322mm相当250mm 383mm相当270mm 414mm相当300mm 460mm相当400mm 614mm相当500mm 767mm相当560mm 859mm相当600mm 920mm相当800mm1227mm相当
2019.02.16
コメント(6)
★ 記事 沖縄 「韓国化」する沖縄2019年02月04日 16:30池田 信夫この記事の内容は、最近、私自身が書こうとしていた記事とほぼ同じ内容である池田信夫氏に先を越され、ほぞを噛む(笑)思いであるまた私は沖縄県民(琉球民族)と韓国国民(朝鮮民族)は法治世界と言うより民族感情支配の世界であり理性・ロジックより感情、と言う点において類似点があると、常々思っていたがそれをも、まさに池田信夫氏も、指摘しているもちろん、沖縄琉球民族は現在日本国民ではあるが忘れがちなことではあるが歴史的に見てみれば元はと言えば独立国・琉球王国の民従って、沖縄問題は単に米軍基地問題のみならず日本における少数民族問題の側面も加わった複雑化した問題なのであるこういう側面を、われわれは、もっと意識して考えるべきであるそれにしても、普天間飛行場移設問題は、完全にチキンレースとなってしまっている基地周辺の密集民家は基地が建設されてからのものであることは私の別記事における、普天間基地の空中写真の変遷を見れば一目瞭然(その空中写真の過去ログは、この記事のコメント欄においたので ご一読願いたい)その上でもし米軍機の事故が発生すれば史上希な大惨事が発生することは火を見るより明らか理性のある人間なら誰もが異議無しと賛成する辺野古以外の代替地が見つかりしかも合意される可能性は限りなく少ないしそれが仮に可能だとしてもそれが調査・工事を含め、途方も無い時間がこれからまたかかりそうだがいつ実現するのか?それさえ現時点で見当も付かないつまり、現時点では、存在しないのであるとすればいったん沖縄として同意したことでもあるしとりあえずは最悪の事態を避けて緊急避難として辺野古移転とする以外にあり得ないでは無いかそれなのにその辺野古移転さえ許さず普天間の大惨事を人質にして移転反対闘争を続ける沖縄大惨事になった場合の第一の責任は沖縄人自身に振るかかる(第二は、鳩山由紀夫か?)その事にどれだけの意識を持っているのかどんな理由があろうとも● 人命が● とりわけ民族の命が第一なはずであるそれに恣意的に目をつむったままの冷酷な反対運動私には考えられない愚かで恐ろしいことであるが沖縄の人達はそれが唯一無二の絶対真理であると信じその結果に対する創造力も持ち合わせないまま突き進んでいるようである恐ろしい結果が待ったいると思う ーーー 那覇空港第二滑走路埋め立て工事 ーーーこれもまた別記事で述べたことだが「美しい沖縄の海を破壊する埋め立て工事」と言う反対理由なのであるがでは現在、辺野古埋め立ての二倍以上の規模を持って施工されている沖縄那覇空港第二滑走路埋め立て工事はどうなるのか?この巨大な埋め立て工事は、沖縄の美しい海を全く毀損しないのだろうか?そんなはずは無いこの埋め立て工事も直ちに中止そういう反対運動はなぜ沸き起こらないのか?沖縄では、理性的に、論理的に語り合う事が無いのだろうか?沖縄人のダブルスタンダードも、いいかげんにしろと言いたい米軍基地の辺野古移設のための埋め立て工事の賛否を問う県民投票が、2月24日に実施される。最初は一部の市が参加しないなどもめて、「どちらでもない」を含む三択にして全市町村が参加することになったが、この県民投票には三重に法的根拠がない。● 辺野古移設は日米政府間協議で決定され、沖縄県も2013年に承認した● その承認を取り消した沖縄県の決定は2016年に最高裁で違法とされた● したがって承認を撤回する沖縄県の決定にも法的効力がない以上の経緯は法的には明らかであり、今回の住民投票でどんな結果が出ても、辺野古の埋め立てを阻止することはできない。このように無意味な反対運動を繰り返す沖縄県民の行動は、「徴用工」問題を蒸し返す韓国人に似ている。沖縄県は撤回の理由として「サンゴなどの環境対策が不十分だ」という理由をあげているが、これは移設の前の環境アセスメントで議論された(そのとき沖縄県も意見書を出した)問題である。「徴用工」の問題が1965年の日韓請求権協定で決定されたのと同じだ。ところが沖縄県は「環境アセスのときはわからなかった軟弱地盤の問題が出てきた」といって承認を撤回しようとしている。これは韓国でいうと、慰安婦問題のようなものだ。地盤の問題は工事を手直しすればすむことで、埋め立てを中止する理由にはならない。不毛な反対運動が繰り返されるのは無責任なマスコミが甘やかしているからだが、日本政府にまったく問題がなかったとはいえない。自民党政権は1951年に日米安保条約を結んだとき沖縄を適用外にし、沖縄返還のあとも「憲法の制約」を理由に日米同盟の責任から逃げてきた。沖縄に負担を押しつけて補助金でごまかし、それを政治家が食い物にしてきた。それは韓国の「日帝36年」が、完全な虚構とはいえないのと同じだ。「日韓併合は侵略だった」という主張は国際法的には成り立たないが、民族の物語としては成り立つ。主権国家を超える決定権者はないので、物語が国際法を超えるかどうかを決めることはできない。沖縄にも独自の物語があるのだろうが、沖縄県には日本政府の主権が及ぶので決定可能である。自民党政権がこれまで一定の譲歩をしてきたことは政治的にはやむをえないが、これ以上やると行政が麻痺してしまう。原発再稼働をめぐる住民投票も同じだ。沖縄と韓国と原発の教訓は同じである:法を超える多重の拒否権を認めて関係者の妥協をはかると、問題はかえってこじれるということだ。人間はそれぞれ別の物語をもっているので、互いにわかりあえるとは限らない。話し合いの努力は必要だが、最後はわかりあえないことを前提にして、法的に割り切るしかない。
2019.02.13
コメント(8)
【My favourite】anhã De Carnaval!(黒いオルフェ)(カーニバルの朝)現在帰国中の馬鹿娘と、PCにためたいろいろな音楽を聞かせたところanhã De Carnaval!がいいよねという私はこの曲が好きで、ちょうど、DESK TOP に SHORT CUT を置いていたーーーーーーーーーーーーブラジル音楽はもちろんポルトガル音楽の強い影響下にあるがそのポルトガル音楽どうしてあんなに、淡くはかなげな哀しみに溢れているのだろう私は以前、大航海時代に関して書いた記事で夫達が帆船で未知の果てに旅立ってしまって残された妻達が LAND END のようなロカ岬で夫を案じて嘆き悲しんだそのDNAがファドをはじめとするポルトガルの旋律にしみこんだのでは無いか?という私的な陰謀説笑いを展開したのだが(笑)同じ、ベリア半島の住民でも同じように、航海時代の航海者であって同じように、南米で原住民インディオを大虐殺して半ば絶滅させてしまった同じ、極悪非道仲間のスペイン人と違って私は昔、米国での起業でポルトガルからの出稼ぎの人達を雇用していたことがあったが素朴でおとなしい人達である私がアマリア・ロドリゲスが好きだと言ったら大喜びで自宅から海賊版の(笑)CDをもってきてくれた鰯の塩焼きが好きだと言ったら、ぜひ、自宅に食べに来いと言われた昔欧州出張した時のホテルの部屋の掃除のメイドにはポルトガルのおばさんが多かった脂ぎって獰猛・残忍な容貌のスペイン人と異なり(コレコレ)(偏見とひいきはいけない)どこか、田舎っぽくどこか、自信無さげなポルトガル人達しかし、そういうポルトガル人もブラジルでは黒人に飲み込まれ手島っているように見えるManhã De Carnaval! - YouTubeこの URL には機種依存文字が含まれていると言うことでリンクが難しいManhã De Carnaval! - YouTubeこれでググってみてはどうだろうか?https://www.youtube.com/watch?v=nVkDfnGobmI
2019.02.12
コメント(0)
ブルーレイ・ディスクの利用法 記事 テニス 2桁減量!大坂なおみの肉体進化させたVトレーナー2019.01.27 この記事に対するコメントとレスでケルンコンサートさんと記事の本題から外れてPC(のトラブル)談義になったあまり筋違いの記事でPCに関して話し合うのもおかしいので独立の記事として書いてみたーーーーーーーーーーーーケルンコンサートさんへalex99より>>BDに保存するとDATAの内容を更新した場合上書き可能なBDでないと、UPDATE出来ませんね業務用データであれば、一次データが命なんですね。2次データやその更新データが最悪消えても時間と金さえかければ何とかなります。だから、更新データがリアルタイムでバックアップされないことは許容範囲なんです。私的には(笑)。ーーーーーーーーーーーーalex99念のため私のメモとしてBDの種類について書いておくーーーーー ウィキより ーーーーーーー記録方式ブルーレイディスクは、大きく分けると2つの記録方式があります。1回だけ記録できる「BD-R」と、何度でも繰り返し記録できる「BD-RE」です。1回だけ記録「BD-R」は、1度記録した後は記録したデータを削除したり、上書きして変更することができません。しかし、容量が残っていてファイナライズしない限りは、追加で記録できます。何度でも上書きできる「BD-RE」は、データを記録しても、後からデータを削除したり、上書きすることができます。ちなみに、無限に繰り返し書き込みができるわけではなく、製品にもよりますが約1,000~1万回ほど書き込み可能といわれています。ーーーーー 引用終わり ーーーーーーーalex99なぜこれを引用したかというと私自身の確認のためでもあるんです【何度でも上書きできる「BD-RE」】は私の考えでは一万回ほど書き込み可能だと言う性質を利用して【ディスク状の簡便な取り扱い容易なハードディスク】としても使用できるわけで非常に便利ですもちろん1回だけ記録できる通常の「BD-R」よりは価格が割高ですが利用のしかたによればまた、その機能・能力からすればむしろ割安とも言えるもちろん、記録容量は外付けハードディスクHDDにはかないませんがそれに外付けハードディスクと違って突然故障してデータを取り出せなくなると言う不都合は、基本的に無いわけでその点もメリットかと外付けハードディスクの場合時折、壊れてしまってせっかく記録したデータがサルベージ・回収不能になるという悲劇も再三経験していますただし、私の場合PCの外付けハードディスクでは無くTV番組を録画しているブルーレイ・レコーダーに外付けしているハードディスクの話ですがーーーーーーーーーーTV番組のダビング1 ブルーレイ・録画機のHDDに録画2 その中から適時BDにダビングこの場合典型的なのが映画番組のダビングですが【何度でも上書きできる「BD-RE」】にダビングしておけばその中ですでに見た映画は消してしまいまた新たにダビングを加えればいいところが【1回だけ記録できる通常の「BD-R」】にダビングするともう、見てしまった映画まで永久保存(笑)になってしまい、コスト高になる
2019.02.09
コメント(11)
【きょうの復刻記事】2004/0/01俳句と川柳のちがい 天才・寺山修司https://plaza.rakuten.co.jp/alex99/diary/200410010000/
2019.02.09
コメント(4)
全7件 (7件中 1-7件目)
1