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『遠い山なみの光』カズオ・イシグロ(ハヤカワ文庫) おや? とお思いになった貴方、そう、そうです。その通りですね。 カズオ・イシグロは、そう、日本文学作家ではありませんね。この本の原文は日本語では書かれていません。 グローバルな時代になって、何が日本文学なのかというのも、他国文学とほとんど交流のない現代日本文学(そのように私は思うんですが、でも、他国の文学の現状はと聞かれると、ほとんど何も知らないわたくしなんですがー)でさえ、さすがに少しややこしくなってきたように思います。 取りあえず、原文が日本語で書かれていないのは受賞の対象ではないってのが、芥川賞なんかの基準にあったんじゃなかったかしら。まー、今のところ、それくらいしか現代日本文学の定義はしづらいんじゃないかと思います。 そして、急に話は矮小化してしまうんですが、本ブログが近代(近現代)日本文学として取り上げる作品の基準も、実はそれに則っております。 ……なんですがー、でも、まー、今回はあっさり、あまり何も考えずに本作を取り上げてみました。すみません。 この作家の作品は、わたくし、初めて読むんですね。本作は主な舞台が日本(長崎)になっておりまして、そして主な登場人物が同じように日本人になっています。 ところが上記にも触れましたように、本作は、イギリス国籍を持つ筆者が英語で書いて英国で出版され、そして日本語に翻訳された(翻訳者は小野寺健という方です)作品となっています。(ついでの話ですが、本の最後に「訳者あとがき」というのがあって、そこに、最初の訳の時のタイトルは『女たちの遠い夏』という邦題だったと書かれています。しかし、変われば変わるものですねー。こんな例って多いのでしょうか。) ……ということで読んだんですね。んー、しかし、なんとも、とっても奇妙な読み心地なんですね、これが。何と言いますか、「逆輸入」ってんですか、あるいは、例えば日本人がヨーロッパに行ってメイドインジャパンのお土産を買ってきたようなというか、あ、そうだ、これはプッチーニの『蝶々夫人』を見ている時に感じる、なんか少しヘンな感覚に似ているな。 例えばこんな場面。主人公である女性の夫が、父親(当然年輩)とのんびりと将棋を指しているシーンなんですが。「そうかもしれませんね。何しろさいきんは忙しすぎて」「そりゃそうだとも。まず仕事だ。気にせんでくれ。さて、わたしの番だったかな?」 二人はほとんどしゃべらずに将棋をさしていた。一度だけ緒方さんが言った。「こっちの思ったとおりにさしてるぞ。よほど頭を使わないとその隅でつまる」 どうですか。なんかちょっと変な気がしませんか。 これは、翻訳者が悪いせいでしょうかね。 うーん、そんな気も少しはしないでもないんですが、やはりこの少しヘンな会話は、作品のテーマに深く関わっているような気がします。 というのも、作品中、会話は頻繁に出てくるのですが、そのほとんどが、ヘンに噛み合っていなくて、いわば、会話することによって、お互いの心に不安が芽生えていくような仕組みになっているからですね。 それはあたかも、未来にどうもよくないことが待っていそうだと何となく感じてしまうような、もやっとした薄暗い不安であります。 その原因は、実は書いてあります。 一人称の主人公の女性(たぶん初老ごろか)の長女が、かつていろいろあった末に自殺するんですね。一人称の語りは、それらが終わった後の回想形式になっています。だから、表現がそれを引きずっているわけです。 でも本作の面白いのは、長女の自殺そのものについては、本当にさらっとしか触れてなくて、話の中心が、主人公がその長女をみごもっている時に付き合っていた少し年輩の女性とその子供との、細かな、ぼんやりとした、変な不安が漂いながらも結局何にも起こらない幾つかのエピソードになっていることであります。 なぜそんなスタイルになっているかも、読んでいると分かってくるんですが、読みながら私は、これは一体なんだろうね、と考えておりました。 何のことかというと、近いものを現代日本文学から探るとどうなのかなということですが、思いつきました。これは、「内向の世代」であります。この漠然とした不安はまさにそんな気がします。 かつて太宰治は、悔恨の無い文学は屁の突っ張りにもならないというようなことを書いていました。 悔恨と、そして安心感の持てない日常生活というものは、なるほど、世代と地域を越えて広く文学の濫觴でありましょう。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.10.21
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『古い玩具』岸田国士(岩波文庫) この文庫本には、以下の戯曲が収録されています。 『古い玩具』(T13) 『チロルの秋』(T13) 『ぶらんこ』(T14) 『紙風船』(T14) 『驟雨』(T15) 『葉桜』(T15) わたくし、初めて岸田国士の戯曲を読みましたが、圧倒されましたねー。 おしゃれですねー。 水際だって疾走しているようであります。とても90年くらいも前のものとは思えません。なるほど、こんな作品群をきっと「大正モダニズム」というんですねー。 そんな風にして考え直してみますと、「大正モダニズム」、いわゆる大正という時代の華は、芸術方面においてもたくさんありそうですね。 ちょっと調べてみたのですが、まず文学においては、白樺派もさることながら、例えば萩原朔太郎、宮沢賢治、梶井基次郎あたり。 うーん、朔太郎とか梶井なんて、なるほどそんな文脈で見ると、とても華やかでみずみずしい感じがしますね。 美術方面で、佐伯祐三という名前を見つけたのですが、この方もいかにも大正モダニズムらしい方ですよねー。初めて佐伯祐三の絵を見たとき、やはりそのモダンさにはっと息をのみましたよ。 と、まあ、そんなモダンでシャープな岸田国士の戯曲ですが、作品としてよりシャープなのは『チロルの秋』以降でしょうが、処女作の『古い玩具』という作品は、とても面白いテーマを扱っています。今回はこれを中心にちょっと考えてみますね。 そのテーマとは、一言で言うと「日本と西洋」ということであります。 近代日本文学史で最初に(全く最初でなくでもかなり早い時期に)このテーマを取り上げたのは、やはり鴎外・漱石でしょうか。 取り上げ方として、まず鴎外は、日本は普請中だとして即座の優劣判断を避けました。 続いて漱石は、西洋的思考は永遠に満足ということを知らないと言い、あるいは日本は自己本位が重要だと指摘しつつ、一方で『三四郎』の広田先生の口を借りて、日本は滅びると言わせています。 その次の世代の文学者としては、誰が挙がるでしょうか。 永井荷風ですかね。でも荷風の取り上げ方は、何というか、西洋に対して全面降伏っぽい感じがします。むしろ谷崎のほうが、おのれの女性に対する嗜好と絡めながら、西洋賛美をしていたかと思えばそのまま口をぬぐって日本伝統回帰と、なかなか粘着質の二枚腰でしぶといです。あれはきっとマゾヒズムの勝利でしょうね。 もう一世代次ではありませんが、その後このテーマに触れた文学者は、ちょうど時代が大正末から昭和初年の「凄惨」な時代と重なったせいで、例えば武者小路はヨーロッパから帰った後、かつてあれほどトルストイトルストイと言っていたにも拘わらず、反西洋的に変質しました。 また、横光利一も同じ道を歩み、日本が神の国になってしまいました。 さて、その谷崎と横光の真ん中あたりに位置するのが、この岸田の『古い玩具』という作品であると思うんですが、その苦悩の表し方が、とてもセンスがいい。 どこを取り上げても面白いのですが、例えばこんな部分。ルイーズ 西洋の男が日本の女に惹きつけられる理由は、男として、 そんなに名誉にならないって或る人が云ってますね。留雄 その反対の場合は。ルイーズ 日本の男が西洋の女を好かない理由。留雄 それも、男の名誉にはならないわけですね。ルイーズ (笑いながら)まあ、そうですね。 「日本と西洋」という問題を男と女の問題にしてしまったことは、文化の矮小化とも思う一方、極めて本質的な象徴性を可能にしたとも思います。 ただ、このようなテーマを、岸田はいつまでも追い求めませんでした。 さらにその後、そんなに単純に因果関係が整理されるとは思いませんが、岸田は大政翼賛会の文学者関係の中心者になっていきます。 しかしまぁ、例えば芥川の小説家としての実働は十年ほどで、これは師であった漱石もほぼ同様でありましたが、なかなか、優れた仕事を継続させるというのは、難しいものでありますね。(やはり谷崎は凄いですねー。) よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2013.10.06
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