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『中国行きのスロウ・ボート』村上春樹(中央公論社) 前回の続きです。 前回私は本短編集の一編「中国行きの…」を特に興味深く読んで、5つの疑問点に気がついたと書きました。(すみませんが、詳しくは前回の部分をお読みください。) そして、その問いの「隠された」答えも作品内にあると、私は読んでみました。 今回はその報告からであります。 この短編小説について、以前より私がなんとなく気になっていたことがありました。 それは、本小説は、2章から4章にかけて3人の中国人との出会いが書かれてあるのですが、エピソードとしてみますと、3章の中国人女性の話だけが圧倒的に面白い、と。 それに比べると2章4章は、お話としてはかなり弱い気がしました。これなら、3章の話だけを単独にもう少し膨らませて書けばいいのじゃないか、と。 しかしこの度の読書で気づいたのは、2章4章はお話としては弱いかもしれないが、これがなければ、少なくとも筆者が書きたかったであろうテーマが成立しないということでした。 順序が異なりますが、2章の「落書き」のことから考えてみたいと思います。 まずこの話は、ストーリーとして破綻、というのは言い過ぎとしても、一個所大きな点でかなり無理があるように思います。 それは、彼女の受けた模試の日時と会場が、僕の話の舞台と同じだという彼女の独断であります。この彼女の独断のセリフにはその根拠がほぼありません。ということは、話の展開としてはかなり無理があるということでしょう。 ではなぜ、そんな無理な展開に筆者はしたのか、それが私の問いでした。 答えは、その日に僕が誰かの机の上に落書きをした、ということだと思います。 そう思って読むと、ストーリーの中にたくさんの状況証拠が描かれていることに気がつきます。 次に、問いとして答えの易しいのは、3章についての「僕は心の底でそう望んでいたのか」でしょう。その答えらしきものは、隠されてはおらず、5章の終末部に書かれています。(「誤謬」は「逆説的な欲望」だと。) ただ今回、これは確かにその通りだろうと私が思ったのはそこではなく、4章のエピソードの中にあった一節でした。 3章で僕は彼女の電話番号を紙マッチに書きます。書く場面は描かれていません。一方、4章の百科辞典販売の元中国人同級生についてはこう書かれてあります。(僕は、後日ゆとりができたら百科事典を買うかも知れないと言う、その後です。) 僕は手帳のページを破り、住所を書いて彼に渡した。彼はそれをきちんと四つに畳んで名刺入れにしまった。 彼女に関する僕の「重要情報」の扱いと、僕に関する彼のそれの扱いの描写がこれだけ異なっていることについて、そこに誰の何の意図もないとはとても言えないと思います。 今私は2章と3章のエピソードについて語ってみましたが、この二つは全く同じ原因から生まれたお話であります。 それは、僕が、中国人に対して「悪意」を持っているということです。 もう少し丁寧に書くと、僕は僕の無意識層に中国人に対して「悪意」を持っているという構図であります。 そして意識層の僕は、その不意の出現にかなり戸惑っています。 一方無意識層の僕の「悪意」は、意識層の僕に対してかなりわざとらしくいろんなシグナルを送って揺さぶっています。例えば2章での僕の中国人学校並びに教師に対する印象とか、彼女にしつこく落書きをしたかを尋ねさせるとか、1章のにわとりの話もその一環かなと思います。また、3章での、彼女を山手線に乗せた後の僕の「気持のぶれ」とか。 まだ4章の問いが残っていますが、結局の所この小説は、「悪意と贖罪の物語」あるいは、もっとポピュラーな言い方をすれば、「死と再生の物語」と言えるような気がします。 2章3章が「悪意・死」の物語で、4章が「贖罪・再生」の物語とも言えそうです。 しかし、そうまとめるなら4章はどう読むのだ、それが私の問いの「僕と元中国人同級生の違い」であります。 4章で、喫茶店で出会った元中国人同級生について、私は思い出せないと謝ります。すると元中国人同級生はこう答えます。 「昔のことを忘れたがってるんだよ、それは。きっと潜在的にそうなんだね」 「そうかもしれない」と僕は認めた。たしかにそうかもしれない。 そしてさらに、元中国人同級生はこう話します。 「(略)俺は君と同じ理由で、昔のことをひとつ残らず覚えてるんだよ。全く妙なものだね。どうにも忘れようとすればするほど、ますますいろんなことを思い出してくるんだよ。こまったことにさ」 1章に、この彼らの会話を別角度から照射しているような部分があります。ここです。 もっとも、たいていの僕の記憶は日付を持たない。僕の記憶力はひどく不確かである。それはあまりにも不確かなので、ときどきその不確かさによって僕は誰かに向かって何かを証明しているんじゃないかという気がすることさえある。しかしそれが一体何を証明しているかということになると、僕にはまるでわからない。だいたい不確かさが証明していることを正確に把握するなんて、不可能なんじゃないだろうか? 実はこの小説は「記憶の物語」と言ってもいいくらい、各章のいろんな部分が記憶にこだわった話です。 上記に、4章が「贖罪・再生」の話と書きましたが、何がその救いとなっているのか、それは「俺は君と同じ理由で、昔のことをひとつ残らず覚えてる」の部分でしょうか。 われわれは本短編小説が発表されてから40年の間に、とてもナーバスにしかしじっくりと確実にそしてしたたかに、村上春樹が中国・中国人に対してある複雑な意識を持ち続けていて、そしてそれを重要なテーマの一つにしている物語を読んできました。 この度私は今更ながら(つまりタイトルに「中国」とありながら)、ここに、その重要なテーマの兆しを初めて読んだように思いました。 ただ、このままではやはりなんといっても弱い。 その弱さが、5章終末部の、逆の方角を指す一続きの部分にあるような気がしました。小説の終了直前の7行です。 それでも僕はかつての忠実な外野手としてのささやかな誇りをトランクの底につめ、港の石段に腰を下ろし、空白の水平線上にいつか姿を現わすかもしれない中国行きのスロウ・ボートを待とう。そして中国の街の光輝く屋根を想い、その水緑なす草原を想おう。 だからもう何も恐れるまい。クリーン・アップが内角のシュートを恐れぬように、革命家が絞首台を恐れぬように。もしそれが本当にかなうものなら…… 友よ、 友よ、中国はあまりに遠い。 終末2行は、ここに至るまでの部分とかなり示している方角が違っていませんか。 というか、この2行の前の5行のほうが前後から浮き上がっていて、この5行の根拠を4章のエピソードからだけ読む(もう一つ、少年の頃の外野手の挿話と)には、あまりに説得力が弱い、と。そしてそれを感じた作者は、最後にまた180度反転をした、と。 多分このあたりに、デビューしたての筆者の、一種の詰め切れなさ、あるいは「腰の据わってなさ」があったのかなと思います。(あるいは抱いているテーマの、筆者にとっての思いがけない存在の重さが。) ただ、この前半5行に描かれているイメージと比喩が、こんなに力強く美しいというのに。……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.01.29
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『中国行きのスロウ・ボート』村上春樹(中央公論社) いつだったか、作家の小川洋子さんが、本書をかなり絶賛していた文章を読んだ記憶があります。本書の初版は1983年で(文庫本ではありません)、帯に書かれたコピーはこんな文章が書かれています。 後になって、きっと僕たちはこんな風に思うだろう。1983年――あれは、ビヨン・ボルグがコートに別れを告げ、僕たちは三度目の夏をむかえた。そして、村上春樹の短編集――「中国行きのスロウ・ボート」が出版され、おかげで、僕たちは愛しあうことも忘れ夢中で読みふけった年だった、て…… 今でも本の帯のコピーって、こんな感じなんですかね。最近の本についてはよく知らないのですが、とにかく、とってもおしゃれな感じの文章ですよねー、なんか、透明感があって。よく吟味して読めば、ボルグと僕たちと本書にはほとんどなんの関係もないのだけれど(つまり中身などなんにもない文章だけれど)、記憶では私自身もこんな「ノリ」で本書を読んだように思い出します。 で、それから40年の月日が流れました。えらいものですねー。 でも、そのことは決してマイナスのことばかりを生んだわけではありません、少なくとも私の今回の読書体験において。 それは何かというと、この40年間に筆者が次々に発表した(本当に次々という感じの「勤勉さ」の)作品のおかげで、私がこの度の読書のための補助線を密かにたくさん手に入れていたということです。 あ、これはそういうことか、なるほどそう読めばいいのか、と思う個所がいくつもありました。その結果、今回の読書で私が新たに知ったのは、本書は、40年前の帯の文章のように軽いノリの感覚だけで読み終える短編ばかりではない、ということでありました。 特に本書の表題になっている「中国行きのスロウ・ボート」は、その後の村上作品をそれなりに読めば、彼の「中国」へこだわりが、すでにこれほどまでに表れていたのかと驚くばかりでありました。 以下に、この短編について、私が驚きつつ感心した事柄をまとめようと思うのですが、ただ、この短編のできが本短編集の中で一番いいというわけではないようです。 本書には7つの短編小説(ひとつは少年少女向けかな)が収録されています。 筆者の最初の短編集ということで、「中国行き…」を含む前から4作は、はっきり「初期作品」と言っていいと思います。(収録順がそのまま発表順になっていて、多分創作順もほぼ同様ですかね。) 「中国行き…」を少し置いておくと、残りの3作は、私はこんな風にまとめられるのではないかと読みました。 一種の想像力の極限状況を、反リアリズムの手法でどこまで作品化できるかの試み。 後年、筆者は小説の価値の第一位に文体を多く挙げているように思いますが、それは言葉だけで現実と対峙するという小説の基本的構造について、自分にどの程度までやっていける力(才能)があるのかを探っているような(ある意味では少しけなげな感じのする)試みであるように思いました。 そして後ろの3作(本書には小さなまえがきのような文章があって、前4作と後ろ3作の間に『羊をめぐる冒険』の執筆のための1年近いブランクがあると書かれています。)は、同じ初期作品としてまとめられるとしても、いわゆる「デビュー作にはその作家のすべてが詰まっている」的な、後年の筆者の才能の萌芽があちこちの展開から見え出しているような、そんな懐の深いできの良さがあります。 ということで、私は数十年ぶりの本書の再読をとても「スリリング」に読みました。 そして、上記に書いたように、その中心的読書の「中国行き…」について、以下に、私が思ったことをまとめてみたいと思います。 本短編は、半生の中で主人公が中国人と出会ったうちの印象的なエピソードが3つ、そしてそれを挟んで「序」と「結」のようなパートの、5つの章からなっています。 今回私はわりと一生懸命にこのお話を読んだんですね。そして読みながらいくつかの疑問を持ちました。(小説というのは大体真剣に読むと「?」がまず現れてくるもので、その疑問の解けることこそが、小説読書の快楽だと私は思っています。) それを、本当はもっとたくさんあちこちに散らばっているのですが、まとめながら簡潔にかつ順番に書くとこんな風になります。 1章→僕に正確な日付の調査を止まらせたにわとり小屋とは何か。 2章→机の上に誰かの落書きはあったのか。 3章→僕は「心の底でそう望んでいた」のか。 4章→僕と元中国人同級生の違いと、それが僕にもたらしたものは何か。 5章→作品終末部は、なぜ書かれていることが逆方向なのか。 こんな感じですかね。 うまくまとめられていない気もしながら、しかし、これらの問いの答えも、ほぼ作品内に書かれてあることに私は気づきました。 どうですか、なかなかスリリングでしょ。 それを……、あ、すみません、次回に続きます。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.01.23
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『私の文学史』町田康(NHK出版新書) 本書は、少し変わったところから出ている新書であることからもわかるように、NHK文化センターで十二回行われた連続講座の講義を編集したものであります。 サブタイトルとして「なぜ俺はこんな人間になったのか?」とありまして、筆者の文学的半生をたどる形になっています。 第一回からの第十二回までの内容を大雑把にまとめていくと、まず少年時代の本との出会いから始まって、青年期の歌手デビュー、そして詩集を出版し、さらに小説を書き始め、ざっくり現在に至る、と。 そんな内容になっていますが、今回私が読んでとっても面白かったのは、第四回「詩人として――詩の言葉とは何か」の部分でありました。 筆者はこのように書き出しています。 もういきなりですけど、「詩とは何か」ということを僕なりに考えたことがあるんですね。 実は、わたくし経験則的に、「文学とは何か」とか「詩とは何か」などという、かなり高いところから構えた文章は、結局のところ納得しがたいという思いを持っているんですね。そういったものは、なかなか定義や総論になりにくい、と。 で、今回もそんな気持ちを持ちつつ読んだのですが、それがとても面白い。 ただそれは、全面的に納得できるというものではなく、また、何を書いてるのかよくわからないという部分もありつつ、しかし、筆者はなるほどそういうふうに考えるのかという部分がとても興味深くありました。 それを以下にちょっと報告してみたいと思います。 まず筆者は、人間の中にあるものを「理屈」と「感情」に分けて、それを元に「わかる」「わからん」を四つに分類します。少し説明も加えて、書いてみますね。 「わかるからわかる」……理屈でわかるし感情でもわかる 「わからんけどわかる」……理屈はわからないが感情的に同調している 「わかるけどわからん」……理屈で言われればそうだが納得がいかない 「わからんからわからん」……ある美意識やルールなしにはわからない どうですか。言われれば、まー、当たり前っぽいですが、まず筆者はこう分類して、詩はこの二つ目「わからんけどわかる」ではないかと進めていきます。 そしてこの上に、次の段階の分類が重なっていきます。 それは、「わからんけどわかる」であれば何でもいいのではなく、そんな詩には2種類あると説くんですね。こう。 「おもろい詩」と「おもろない詩」 そしてさらに「おもろい詩の四条件」という風に展開していきます。これもざっくりまとめて書いてみます。 1.感情の出し方がうまい 2.調べ、つまり音楽的 3.そいつ(筆者)自身がおもろい 4.意味内容が正しかったり、役に立ったりする またどうですか。 私は特に3、4番などかなり実践的な分析だと思いました。 さて、このように二重の基準で詩とは何かを語ってきた筆者は、しかし最後にそれに則ってこのように書きます。 「詩っておもろないな」 そしてさらにこう続けます。 「詩にはですね、実は途轍もない落とし穴があるんです。」 ……えーっと、ここまで報告しましたが、さらにこの先まで書いてしまうのは、いくら何でも少しルール違反のような気がします。(まあ、12あるうちの1つの章だけの内容なんですが。) やや申し訳ないながら、以下については、各自で本書をお読みいただければと愚考するものであります。 筆者の言う「途轍もない落とし穴」については、なかなかユニークかつやはり「実践的」な分析だ(そしてやはり全面的に納得できるという種類のものではないかもしれないが)と私は思いました。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2023.01.09
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