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『大津順吉』志賀直哉(新潮社) 今回私の読んだ本は、文庫本ではなくて単行本であります。1917年(大正六年)出版『新進作家叢書4』と書いてあります。 新進作家の志賀直哉君が頑張って書いた本、ということですね。 この本の最後の部分に『新進作家叢書』の広告として、既刊の1から3までの作家が、武者小路実篤、里見とん、豊島與志雄と並んでおり、さらに続刊として、谷崎精二、長與善郎、久米正雄、芥川龍之介、うんぬんと名前が並んでいます。 こういう続き物の企画の出版って、一番最初の本に一番の人気者を置くんですよね。とすれば、この時期の人気一等賞は武者小路と言うことでしょうか。なるほどねー。 昔の本とか雑誌を見ていると、広告の部分つまり同じ出版社の書籍の宣伝部分がとっても面白かったりしますね。 なるほどそのころはそんな評価だったんだなーとか、この作家は消えてしまったよなーとか、要するにこれは、時が経つといろんな事が恐いように見えてくるということで、うーん、作品を発表するというのはなかなか大変なものですよねー。 そんな、本書は復刻本であります。 だから、この本には7つの短編が収録されているのですが、今では全集以外では読めないような作品も入っているはずです。 参考までに、ちょっとタイトルを並べてみますね。 『大津順吉』『不幸なる恋の話』『憶ひ出した事』『清兵衛と瓢箪』 『出来事』『児を盗む話』『母の死と足袋の記憶』 昔私は、志賀直哉の作品については新潮文庫で読んでいたのですが、手元にある志賀直哉新潮文庫6冊中収録が重なっているのは、『清兵衛と瓢箪』『出来事』『児を盗む話』の3作であります。 面白さで言えば、『清兵衛…』が圧倒的に一等賞でしょう。以前にも本ブログで触れましたが、志賀直哉の作品は、心境小説ではなくて、客観小説の方が、単純に、純粋に、圧倒的に面白いと思います。 ところで、リアルタイムで出版された短編集と、後々に編集された短編集との間に、3作品が重なっているというのは、多いんでしょうか、少ないんでしょうか。 つまり、リアルタイム短編集の『大津順吉』の評価として考えて、ということで。 こうして文学史の教科書(ブック・オフ105円)を読みながら古い文庫本を探して読書していますと、それなりにいろんな事が分かったりします。 その一つに、やはり文学史の教科書に取り上げられる作品は、その作家の作品の中では頭一つか二つ飛び抜けて面白いものだと言う「法則性」があります。 それはなかなか見事なもので、隠された名作というものも中にはあるのでしょうが、そんなのは大概例外です。あるいは作品の面白さ以外の部分で選抜されていないのじゃないかと思います。(教科書ならやはり性的なもの、とかですかね。) さて、そんな「法則性」に則って本短編集の収録作品を見ますと、やはり見事にそのものなんですが、総題になっている『大津順吉』という作品が、分量で言えばほぼ半分を占めています。 『大津順吉』はしかし、上記記述にある新潮文庫6冊の中には入っていません。 私はこの度初めて読みましたが、うーん、何とも読みづらい作品でした。(というより、元々志賀直哉の心境小説は、ちょっと私、苦手なんですが、『城の崎にて』以外。) でも、『大津順吉』は志賀直哉について論じられた文章の中には、割と取り上げられることの多い作品であります。 かつて三島由紀夫が、作家の秘密が解ける作品は、得てして失敗作にあるというようなことを書いていたように記憶します。確かに言われればそんな気がしますよね。 その時三島は、谷崎潤一郎について、『金色の死』を取り上げて論じていました。 さて本書でいいますと、7作中5作半が「心境小説」であります。(「半」というのは『児を盗む話』の扱いをそうしました。) うーん、つまんないんですよねー、わたくしとしては。 先日、太宰治の『如是我聞』を読んでいたのですが、あのヒステリックな、大人げないような志賀直哉への個人攻撃ですが、志賀の心境小説を読んでいると、なるほど太宰ならそう思うかも知れないなと言うことが、ひしひしと感じられます。 太宰は、志賀直哉のことを、何だってあんなに威張っているのだ、と書きましたが、実際そんな感じでありますね。 でも、落ち着いてじっくり、太宰作品と志賀作品を読み比べれば、作品として成立している基本的部分はとてもよく似ているように思えてきます。 志賀作品は、主人公が感情(多くは怒り・不愉快)のままに周りを不愉快にし、そして自分がさらに不愉快になっていくという話です。 一方太宰作品は、主人公が薄志ゆえに周りを不愉快にし、そして自分が一番傷つくという話でしょう。 結局、太宰の志賀への反感は近親憎悪といったものと、そして、これ要するに「相性の違い」としか言いようありませんよねー。 また三島由紀夫を出しますが、彼は羞恥心の方向性が異なると、両者は根元的に分かり合えないと書きましたが、この二人はそんな感じであります。 えー、冒頭作品の感想から隔たってしまいましたが(そしていつもながらのまとまりのない文脈になってしまいましたが)、今回の読書は、わたくし、ちょっと苦手なものでありました。 うーん、どうも、申し訳ありません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.01.28
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『人間失格・グッド・バイ』太宰治(岩波文庫) 先日何気なくテレビを見ていましたら、本年度の芥川賞の話をしていて、コメンテーターの方が、日本文学は世界的にもレベルが高いという話をなさっていました。 それを見ていて、以前の私なら、そんなはずはないだろう、と即座に否定していたと思うのですが(だって明治以降の近代文学の思潮は、ほとんどすべてがヨーロッパの真似ッコじゃないですか)、確かに現在は、村上春樹など明らかに世界文学的レベルの方がいらっしゃいますし(しかし村上氏の次には、一体誰を挙げて指が折れるでしょうか)、少し前に水村美苗氏の本を読んでいたら、確かに日本文学史は、世界史の中で一定誇ることのできるものだと書かれてあって、まー、いわゆる目から鱗の落ちる思いがしました。 でもねー、そうは理解しても、実はわたくし、まだマユツバなんですよねー、少し。 というのも、少し前からわたくし、若かった頃に読んだ小説を再読することに、ある逡巡の思いがあるんですね。 それは、漱石の『それから』を何時だったか、読み返した時に思いました。 若かった頃私は、主人公の代助にとても共感していたと記憶するんですが、その時読んだ代助は、なんだか鼻白むばかりの興ざめさでありました。 なんと甘ったれた人物であろうか、と。 もちろん、漱石はそんなことは承知の上で代助を造形したのでありましょうし、それ以外の部分には、相変わらず読んで感心する個所がたくさんあったのですが、それでも主人公に感情移入がしにくくなると(特に以前は大いに共感した人物に)、なんだか一気に作品に対する思いが醒めてしまうような気になりました。 名作とは、幾つになって読んでもその年齢なりの感動があるものだ、とはよく言われることですが、近代日本文学を代表する漱石レベルでさえそうだとすると、ひょっとしたら、日本文学は全体としてレベルが低いのではないだろうか、と。 と、まー、そんな感じでありまして、だから日本文学のレベルについて、私は十分自信を持てないのであります。(いえ、これはちょっと乱暴な、いろんな条件をわざと見落とした理屈ですよね。なにより、己の文章読解力のレベルのことを棚に上げているではありませんか。) ともあれ、そんなことがあって、若い頃読んだ(それなりに感動した)小説を、人生の折り返し点をとっくに折れて曲がった現在、読み返すことに、わたくし、戸惑っているのでありますが、今回冒頭の、若い頃読んで多いに感動した小説を読んでしまいました。 と、書きましたが、改めて考えてみますに、若い頃の私は本当に本書に感動したのでありましょうか。 と、人ごとみたいに書きましたが、よくよく思い出しますと、確かに『道化の華』には感心感動した記憶がありながら、『人間失格』はあまり憶えていないんですね。 今『道化の華』を挙げましたが、それは言わずと知れた、『人間失格』と主人公の名前が同じ小説ですね。共に、「大庭葉蔵」であります。 しかしアバウトな感想ですが、『人間失格』は『道化の華』に比べるとかなり荒っぽい小説のように感じました。 例えば、たくさんの女性が出てきますが(みーんな主人公の葉蔵と関係を持つ女性ですね)、ほとんどその目鼻が見えないように思います。むしろ男の方が(印象的な男は二人ほど「堀木」と「ヒラメ」しか出てこないのですが)まだ書き込まれているように感じます。 父親についても、終盤、唐突に取り上げられますが(それもかなり重い説明、父が死んで張り合いが抜けたとか、バァのマダムが「あのひとのお父さんが悪いのですよ。」と言ったりするなどのかなり重い説明ですが)、しかしそこに至るまでに父親との確執はあまり出てきません。 ただ、ふと漏らしたような小さな表現に、私は思いがけない肌ざわりのようなリアリティを感じました。そしてそんな個所は、よく見るとちらちらと結構全体に散在しています。例えばこんな個所です。 そうして、世間というものは、個人ではないだろうかと思いはじめてから、自分は、いままでより多少、自分の意志で動くことが出来るようになりました。シヅ子の言葉を借りて言えば、自分は少しわがままになり、おどおどしなくなりました。また、堀木の言葉を借りて言えば、へんにケチになりました。またシゲ子の言葉を借りて言えば、あまりシゲ子を可愛がらなくなりました。 なるほど思い出してみれば、こんな素手で愛撫されるような表現こそが太宰治の一番の魅力であったと、本作が世界文学的レベルの「名作」であるかどうかはおいて、やはり若い頃、一種胸が苦しくなるような恥ずかしくも乙女のような感情で太宰の作品に対していた時期が確かにあったと、私はこっそりと思い出したのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.01.25
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『青梅雨』永井龍男(新潮文庫) 短編集です。11の短編小説が入っています。全体で260ページほどの文庫本ですから、平均すると一作は20ページと少しになります。短編小説として、このくらいの長さというものは、どんなものなんでしょうね。 知人に、これまた小説好きの女性がいらっしゃいます。小学校に入った時、学校の図書室に行って、そこにある本をぐるりと見わたしてその量に驚き、私は小学校を卒業するまでにこの本全部は読み切れないだろうと考えとても悲しくなったと、私に話をしてくださいました。 ……なんか、ちょっと変わってますね。 そう言えば、彼女は小学校の親子面談の時、担任の先生が「○○子ちゃんは本ばかり読んでいます。もう少しほかの子と一緒に遊ぶように」と母親に言ったそうです。 大きなお世話の担任もいるものですね。 作家の村上春樹なんか、十代の頃、僕よりたくさん本を読んでいた人に会ったことがないと書いています。○○子ちゃんも、担任の惚けたアドバイスなんか聞かずにもっともっと本を読み続けたら、今頃世界的な作家になっていたかも知れませんのにね。 ともあれ、それくらいの本好きな方です。 ところが、彼女が読む小説の傾向は、私とはまるで違っています。 単純な言い方をしますと、彼女のよく読む小説はもっぱら「直木賞系」であり、私の読むのは、まー、こんなブログを書いていることからも分かりますように、どちらかと言えば「芥川賞系」であります。 彼女が言うには、愉しんで読む小説なのに、実生活のように重い話はイヤだ、ということだそうです。 なるほど、言われてみればその通りなのかも知れませんが、私のように、ずっしりと重い小説を読んだ後の充実感というか、やはり感動でしょうか、なにかそわそわとする感覚、その辺に読書の醍醐味を感じる者にとっては、「軽い」話はやはり少し物足りないような気がします。 「芥川賞」と上述しましたが、芥川龍之介は言わずと知れた短編小説の名手であります。実は私は本短編集を読みながら、芥川がおのれの書いた短編小説におよそ考え得るあらゆる文学的技巧を駆使したことについて、少し考えていました。 それともう一つ考えていたことがありますが、それは、志賀直哉などを筆頭にする「私小説」=「心境小説」についてであります。 いえ、所詮アバウトな出来の頭しか持ってない私でありますから、もとより難しいことは考えられないのですが、一言で言えば、芥川の技巧も、志賀直哉の身辺雑話のような小説も、なるほど、短編小説を書き続けるための必要に迫られたものだったのだな、ということであります。 冒頭の文脈に戻るのですが、一編20ページほどの作品を十作以上読みますと、申し訳ないながらはっきり言って、少し飽きてくるんですね。 同じ短編小説と言っても、やはり20ページでは短すぎやしないかと思うわけです。 で、同じくらいの長さの短編小説を量産していた芥川は、目先を変えたあらゆる技巧に走り、志賀は「嘘は書けない」なんて言って、現実の重みに価値の根源をゆだねた小説を書き続けた、と。 今回の読書報告作品の筆者・永井龍男という方について、実は私は何も知りません。著書を読んだのもこれが初めてであります。 読み始めてすぐに、なかなか「手練れ」な文章に気が付きます。感覚的なところで言えば、久保田万太郎とか岡本かの子とかの短編小説みたいな感じであります。「江戸前の切れ」が感じられます。もちろん、読んでいて感心します。 さらに幾作か読んでいくと、お話の作りとして、微妙にこれまた短編小説の名人・内田百けんの恐怖テイストのようなお話があったりします。これもやはりなかなか「手練れ」であります。 しかしそんな久保田万太郎と内田百けんの真ん中のラインをすーと通り過ぎていくような小説、それなりに面白くはある小説を何作か読んでいると突然、はて、短編小説とは一体何なのだろうと考えてしまうんですね。 何で読んだのか失念してしまったのですが、少し前に、現代俳句は文学的命脈をすでに失いつつあるという一文を読みました。あるいは、ひょっとすれば、短編小説もそうなりつつあるのではないでしょうか。 いえ、それは言い過ぎかなと言う気もします。 ただ、現代社会の加速度的に肥大化していく重層的状況は、もはや短編小説では切り取りきれない(ましてや20ページくらいでは)、という気もします。 もちろん、これは単純に好みの話であり、楽しく読み終わる短編小説は、もちろんそれだけですぐれた価値を持っているとは、私も思うのですが。……。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.01.21
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『殉死』司馬遼太郎(文春文庫) 本作を筆者は、小説ではなくて、思考の確認、「筆者自身の思考材料」と記していますが、筆者・司馬遼太郎が、乃木希典の生涯を記すに当たって疑問としていた事柄は一つです。 それは、希典はおのれの軍人としての無能さを十分に知り得ていたか、と言うことであります。 この認識は、断罪される当事者としてはなかなか厳しいものがありましょうが、間違いなく筆者はこのラインに従って本書を書いていきます。 もちろん本人の認識がどうであろうと、そんな人物を上司に戴いた下級兵士の「徹底的不幸」は、どうしようもない悲劇ではありますが、もし希典自身がおのれの軍人的無能さを熟知していたならば、その悲劇にもう一つ、「無能な者としてその職に就かねばならない悲劇」が加わってきます。 それは例えば冒頭に、「乃木希典という、生涯洞窟のなかで灯をともしていたような、そういう数奇なにおいの人物」という表現などでも暗示されています。 筆者が、本作を小説ではないと書いたのは、このあたりの見極めに、小説として成立するかどうかのツボ(それはいかにも司馬遼太郎的小説のツボ)があると見ているからかも知れません。 ともあれ、本書冒頭から、乃木希典の軍人としての徹底的無能さは、それがさも当然の前提条件の如くに説かれ続けます。 ただ、にもかかわらず、乃木希典という人物が過去において「勇将」・軍人の鑑の如くに扱われていたことについては、筆者はそこに大いに同感できる人間的魅力の存在を、客観性を交えて記していきます。 その人間的魅力とは、凝り固まった一種の精神主義ではありますが。 そしてさらに、軍人として無能であることの裏腹のような「人間的魅力」は、実は回り回って、乃木希典の軍人としての功績にまるで繋がっていないわけではないというところに、この人物を描くことの魅力のあることが、本書を読んでいるとよく分かります。 それは具体的に言うと、 (1)旅順要塞開城についての、「乃木大将をして永遠に歴史にとどめしめた」水師営の会見、 (2)明治天皇への殉死、のふたつであります。 まず(1)について、筆者はこのように書いています。 乃木は降将ステッセル以下に帯剣をゆるし、またアメリカ人映画技師がこの模様を逐一映画に撮ろうとしてその許可方を懇望してきたが、乃木はその副官をして慇懃に断らしめた。敵将にとってあとあとまで恥が残るような写真をとらせることは日本の武士道がゆるさない、というものであり、このことばは外国特派員のすべてを感動させた。しかしながら、かれら特派員にとって必要なのはこの降伏の写真であり、かさねてそれを懇望した。乃木はついに、「それならば会見後、われわれがすでに友人となって同列にならんだところを一枚だけゆるそう」という返答をした。この場合、この許可のいきさつそのものが特派員たちにとってニュースであり、かれらはそれぞれ感動的な電文をつづってその本国へ打電した。乃木の名は世界を駆けめぐり、一躍、日本武士の典型としてあらゆる国々に記憶された。 (2)については、希典の遺書内容に触れてこう書いています。 (略)つづいて理由を書いた。理由は、「明治十年の役に軍旗を失ひ、その後死処を得たく心がけ候もその機を得ず。皇恩の厚きに浴し、今日まで過分のご優遇をかうむり、おひおひ老衰、もはやお役に立ち候ときも余日無く候をりから、このたびの御大変、なんともおそれいり候次第。ここに覚悟相さだめ候ことに候」でおわっている。 それ以外に、理由は書かれていない。要するに二十九歳のとき軍旗を薩軍にうばわれたことについての自責のみが唯一の理由になっており、この一文があるがためにかれの殉死は内外を驚倒させた。信じられぬほどの責任感のつよさであり、この一文は軍人の責任という徳目の好例として米国の陸軍士官学校の教科書にも採録され、いまもつかわれているという。 この(2)につきましては、漱石の『こころ』においても絶妙な使われ方をしていましたね。 しかし、漱石の弟子筋の芥川龍之介の世代になると、この乃木希典の行為は「偏執狂性」を帯びたものとして描かれ、芥川とほぼ同世代の白樺派の面々は、ほとんどこの乃木希典的徳目を憎悪しました。 本書の筆者の記述態度も基本的には芥川・白樺派に傾斜しつつも、しかし同時に、乃木希典の人生を貫く強固な意志力に、あるいは「魅力」と言えばいい過ぎかも知れませんが、えもいえぬ不思議なもののあることを、筆者の筆は書き落としていません。 この視点こそが、司馬遼太郎がいまだ多くのファンを持つ理由であろうと思いますが、それは筆者の不思議に琴線に触れてくるような文体とも相俟って、大きな魅力になっています。 最後に、そんな、司馬氏の説明のうまさを味わえる個所を抜粋してみます。 これは、希典が旅順に向かう途中の広島で、先に大陸で戦っていた長男・勝典の戦死を知らされた時、希典が家人に「自分と、残る保典(次男で歩兵少尉)の棺がそろうまで勝典の葬儀は出すな」と書き送った部分の説明であります。(略)それらをすべて偽善であると人から責められても――たとえ面とむかって責められても――希典は無言で堪えたにちがいない。うまれつきどこかるい弱で繊細でありすぎるかれが、若いころから自己を規整しそれに背骨をあたえてきたものはこの姿勢であり、ことに独逸から帰ってのちいわば軍人美ともいうべきものを心掛けるようになってからは、この姿勢がかれにおいていよいよ強烈なものになってきている。 どうですか。印象的で、とても見事な説明文になっていますね。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.01.18
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『紫苑物語』石川淳(新潮文庫) 大概物知らずな私で、今までもそこいら中で恥ばかりかいています。太宰治が「恥の多い人生をおくって参りました」と書いた時、おや、この作家はいつの間に私の人生を覗き見したのだろうと思ってしまうほどで、もちろんこの作用は、太宰治の自家薬籠中の文学テクニックであります。 何の話かと言いますと、私の物知らずの中でも、特に植物関係については全く何も知らないと言うことであります。 よーするに「紫苑」の事ですね。 そもそもこれが何のことを指しているのか、まるで分からなかったのですが、文中にこの草を植えるといった表現が出て来るのを読んで、なるほどこれは植物なのだな、と。 でも、その先がまたまるで分からない、と。 幸いにしてインターネットとは便利なもので、一応輪郭だけの知識は手に入れるに至りましたものの、所詮その程度の浅学非才な人間ゆえ、さてこの博覧強記な石川淳の小説、どーも、分かるような分からないような……。 冒頭の文庫本には三つのお話が収録されています。この三つです。 『紫苑物語』(昭和31年)・『鷹』(昭和28年)・『善財』(昭和24年) この三作の中でどの作品の出来がいいかと言えば、それはいくら物知らずな私でも分かります。(分かるような気がします。) 『紫苑物語』ですね。しかしそれに至る前に、後の二作について少し触れておきたいと思います。 『鷹』は、シュール・レアリスムですね。カフカのような感じです。石川淳は安部公房の先生筋の方でしたが、なるほど公房の『壁』って、こんな感じのお話だったように思います。 ただ、この手の話というのは、ストーリーのみでは少し付いて行きづらい物がありますね。何かそれに+アルファしていただけないと、読書が上滑りしてしまうように感じるのですが、それは私の読解力の不足の故でしょうかね。(きっと、そうでしょうが。) 『善財』は、うってかわって風俗小説のようです。私の連想としては、坂口安吾の小説作品を思い浮かべました。 風俗的なことを描写しているのは、下世話好きの私としてはとっても面白いのですが、少々理屈っぽい。そしてこの理屈っぽいところもまたいかにも安吾的で、それはこの両者とも例え風俗的な題材を扱っていても、作品の狙いは、はるかに精神的・観念的なところにあったからでしょう。 私の知人に、石川淳の作品が好きだという人がいますが、その方もよく「精神の運動」という言葉を使っていました。 そう言えば、石川淳の有名な文芸評論『敗荷落日』の中で、筆者は何を根拠に晩年の荷風を断罪したかというと、この「精神の運動」なんですね。晩年の荷風には、もはやこれがない、と。 さて『紫苑物語』ですが、しかしこの作品は、時々日本文学史上に現れる、一種とてつもない「名作」だという気が、読後一番に致しました。 まるで美術品のごとき作品であります。この天にも昇るような格調の高さは無類のものでありますが、そもそもこれは一体どこから生まれてくるものなんでしょうか。 まず一番に思うのが、文体、でしょうね。 上記に他の二作について、作家的な連想を公房、安吾と挙げましたが、同じように挙げますならば、本作は森鴎外を連想させます。さほどに、切りつめた、研ぎ澄まされた硬質な文体であります。 ただ、それは文体の力だけではなく、扱っている題材の故でもありましょうか。 王朝時代を舞台とし、やはり観念性はやや強くありながらも、物語としても滑らかにしっかりと創られており、むしろ、物語の持つ要素を蒸留したような素朴で根元的な骨格の話になっています。 本書の解説文を福永武彦が書いているのですが、彼はこの作品を「芸術家小説」と読んでいるようです。 主人公の持つ卓越した技能として「弓」が描かれるのですが、なるほど「芸術家小説」と読むなら、素材の「弓」も合わせて、中島敦の『名人伝』のようでもあります。文体の格調の高さも類似するようですし。 ただ本作品は、中島敦の作品に比べると、よりまともに虚無的な香りがします。 それは作者の資質の違いのようにも思えますし、作品の創られた時代の違い(日本の徹底的な敗戦前と敗戦後)のようにも思えます。 時代は、純粋性をも、もはや無傷では描かせてくれないのかも知れません。 ともあれ、本小説は、発表年度の芸術選奨文部大臣賞の文学賞を受けたそうです。これはむしろ、本作を受賞させたことで賞の名前が挙がったような受賞であると、私は思います。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.01.14
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『冬の宿』阿部知二(講談社文芸文庫) 本文庫カバーの裏ページに宣伝用の文章が載っていますが、こんなふうに書いてあります。 昭和初期の暗く苦しい時代に大学生活を送る「私」の下宿した霧島家の人々の息苦しい生活。絶望と苦悩の中での結婚生活、知識人の内面的葛藤と、精神的彷徨の冬の日々。 なんか、書き写していてもくらくらしそうな「暗さ」ですよねー。 この文章って、宣伝効果があるんでしょうか。こんな呪いのような文を読んで、「面白そうだ、読んでみよう。」って感じる人はいるんでしょうかねー。(まー、私は、この文章を読んだからということではないですが、この文章も読みつつこの本を購入したひとりではあるんですが。) タイトルがまた、なんか凄いですよね。『冬の宿』 ……なんか、「一人勝ち」みたいな気がしますね。 いえ、なぜ「一人勝ち」なのか、言い出した私にもよく分かりませんがー。 「冬の…」とくれば、有名な芸術作品としては、例のシューベルトの三大歌曲集の一つ『冬の旅』がありますね。有名な『菩提樹』なんかが入っている、三つの歌曲集の中でももっとも人気の歌曲集ですが、まことに不明を恥じるんですが、私はこの連作歌曲の良さが今ひとつ分かりません。 何といっても、暗すぎませんか。 初めて「シューベルティアーデ」の友人達の中で発表された時も、その暗さに一同は圧倒されて、驚き呆れたというではありませんか。(そもそも「シューベルティアーデ」と呼ばれたシューベルトのファンクラブみたいな面々と、シューベルトは今ひとつ噛み合っていなかったんじゃないかということを、確か村上春樹が書いていましたが、全くその通りという気がしますね。) さてそんな「冬の…」シリーズですが、本書もその暗さにおいてはきっと『冬の旅』に勝るとも劣るまいと思いつつ、私は本書を読み始めたのですが、あに図らんや、さほど暗くないではありませんか。 そもそも今まで私が読んだ小説のうちで、同じ昭和初年の風俗を描いて圧倒的に暗かったのは、何といっても田宮虎彦の作品であります。暗さ一等賞は『絵本』ですね。 この田宮作品のあまりな「暗すぎさ」(あ、ヘンな言い回し)に、筆者の根本的な人間理解の歪みを指摘する文芸評論家もいるほどであります。 そんな作品に比べますと、本書にはそこはかとないユーモアが流れているといって十分であります。そしてそのユーモアの源泉は、霧島家の当主「霧島嘉門」の存在にあることは間違いありません。 描かれる彼の極端な性格破綻が、作品内にユーモアを生み出しているんですね。 一方確かに、そんな「嘉門」がもたらす霧島家の没落自体は、事象だけを追うならば極めて息苦しく陰惨なものであります。 しかし、前述の田宮虎彦の作品に比べ、どこか「明るさ」があると感じられるもう一つの理由は、本小説には死者(特に「自死者」)が出ないところであります。 いえ、本作にも肺結核で亡くなる女性が出てくる事は出てくるんですが、その扱いについてはやや遠景的であり、作品の焦点である霧島家の人々に死人が出てこないのは、何といってもほっとする「風通しの良さ」を感じさせます。 途中、病気になる霧島家の幼い娘は、一時死の近くまで行きますが、診ていた医者が「私」とこんな会話を交わすごとくに、死の淵から蘇ってきます。 「それはどこもかしこも悪いのですが、あの子は不思議に強靱なところがあるんですよ。あんなに弱そうに見えていても、あの子の生命力にはわけのわからぬほど強い力がありそうです。」 「つまり霧島の大将があの子にゆずり与えた唯一の贈りもの、というわけですね。弱そうにみえて、やっぱり親父の生命力を受けついでいるんですかね。」 ここに描かれるのも、霧島家の一大悪因である「嘉門」の正の側面であります。 嘉門と妻は、最後には住みかをも追われて、いよいよ貧民街へ向かうのですが、そこに二人の子供達はいません。子供達は親戚に預けられ、それが彼らにとって幸福な事かどうかは一概に言えないながら、とにかく、子供達はさらなる没落生活へとは向かいません。 こんな細かい登場人物の扱いが、全体として本作品の何といっても救いとなっており、それを描く理知的な文体が、時に湿った叙情性を生み出しているのと相俟って、読後感にどこか落ち着いた感じをもたらせます。 なるほど雑誌『文学界』に連載された時、本作がその同人より絶賛を受けたというのも宜なるかなと、最初、その「暗さ」を怖い物見たさのようにして読み出した私は、思いがけないしっとりとした読後感を抱いたのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.01.11
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『ヴァニラとマニラ』稲垣足穂(河出書房文庫) 上記作品の読書報告の後半であります。 前回は、本書に収録の5つの作品中、「ノンフィクション」系の4つを少しだけ取り上げてみました。本来ならば、これだけで語れる人は延々と語るであろう、「少年愛」や「A感覚」に関する評論であります。 とっても面白いんですが、ちょっと底なし沼のようなところが、私には気味悪くもありました。 さて今回は、本書の中の唯一の小説作品『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』について少し感想を書いてみたいと思います。 そもそもこの作品が読みたくって私は本書を買ったのですが、その切っ掛けは三島由紀夫の『小説とは何か』であります。 この三島の絶筆評論とも言える作品は、何度読んでもサジェストされることが多く、一部はったりのように感じるところもありながら、やはり頭の良いお方はなるほど上手に考えて書くものだなあと感心させられてしまいます。 さてそんな三島が、足穂の本小説をどのように書いているかといいますと、まー、ほぼ「絶賛」ですね。 「私が最近読んだ小説のうち、これこそ疑ひやうのない傑作」と、書いてあります。これは、少々探し出す手間が掛かっても読まざるを得ないでしょう。 と言うわけで私も読んでみました。 で思ったのは、ああ、いかにも三島好みの話だなあという感想と、そして、この手の話に対する三島の批評眼は、やはり鋭いものがあると感じさせられる作品だということでした。 三島由紀夫はこのように書いています。 これこそ正に小説の機能ではないだらうか。しかも稲垣氏は、決して観念的なあるひは詩的な文体をも用ひず、何一つ解説もせず、思想も説かず、一見平板な、いかにも豪胆な少年の呑気な観察を思はせる抒述のうちに、どことはなしに西洋風なハイカラ味を漂はせて、悠々と一編の物語を語り終つてしまふのである。 悲しいことには、このやうな縹渺たる文学的効果は、現代もつとも理解されにくいものの一つになつてしまつた。人々はもつとアクチュアルな主題だの、時代の緊急な要求だの、現代に生きる人間の或る心もとなさだの、疎外感だの、家庭の崩壊だの、性の無力感だの、(ああ、ああ、もう全く耳にタコができた!)さういふものについてばかり、あるひは巧みに、あるひはわざと拙劣に、さまざまな文学的技巧を用ひて書きつづけ、人々は又、小説とはさういふものだと思つてゐる。自分の顔(実は自分がさうだらうと見当をつけてゐる自分の顔)を、すぐさま小説の中に見つけ出さなくては、読むはうも書くはうも不安なのだ。これはかなり莫迦げた状況ではなからうか。 これは、三島由紀夫がしばしば語る「言語芸術の独立性」という小説観の延長上の作品批評でありますね。 三島は、小説世界は現実世界と等質で、かつ完璧な独立性を持つと述べています。そして彼は、そんな小説を、動物園で怠惰に寝転がっている「象アザラシ」に例えました。 (ちなみに、音楽作品や美術作品については、自立性独立性は持つものの、現実世界とは等質性を持たないと三島は述べています。) そんな本小説とはどんな話かといえば、舞台は江戸時代、十代後半の豪胆な青年の住む家に、一ヶ月間、狐狸妖怪の類が毎晩(後半は昼間も)怪異現象をもって訪れるという話であります。 ねっ。いかにも三島好みのお話っぽいでしょ。 三島はこの小説の面白さを二段構えと捉え、まず前半の登場する妖怪のバラエティーの豊富さを指摘します。そして次に、終盤に登場する「山ン本五郎左衛門」描写の鮮やかさを絶賛します。 ただ、私のような素人が読んでいて感心するのは、やはり前半部の、次々と現れてくる妖怪を書き分ける、底知れないような想像力の豊かさであります。 化け物話といえば、誰もがすぐに泉鏡花を連想すると思いますが、あの鏡花作品に現れる化け物の醜怪さと滑稽さ、そして魑魅魍魎でありながらも身に備わる清廉さのようなもの(鏡花世界では、もちろん人間の方に本当に醜悪な種族がいます)が、ほとんどそのまま本書の妖怪の姿でもあります。 「鬼神ニ横道ナシ」とは本文中に出てくるフレーズですが、一ヶ月間そんな怪異現象に脅かされ続けた主人公の青年は、最後に妖怪世界の「魔王」のような存在と対面し、そして彼らが去っていくのを確認した後、「山ン本サン、気ガ向イタラ又オ出デ!」と語りかけます。 そして、この主人公の科白に呼応して書かれる作品の最後の一節が、実に水際立っています。 一体、愛の経験は、あとではそれがなくては堪えられなくなるという欠点を持っている。だから主人公達は大抵身を持ち崩してしまう。 なるほど、本書に唯一収められている小説と、他の「少年愛」の評論とは、こんなところで通底しているのだなと、ふと気付かされる見事なエンディングでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.01.07
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『ヴァニラとマニラ』稲垣足穂(河出書房文庫) この文庫本の総題になっている評論に、タイトルの意味について触れた部分がありますが、それはフランスのサド侯爵が獄中からルネ婦人に宛てた手紙の一節だそうであります。こんな部分。 ヴァニラガ興奮性ノ植物デアリ、又、マニラトイウ葉巻ガ、適度ニ用イルベキモノデアルコトハ、余モ承知シテイル。 そもそもこの手紙自体が、サド研究者にとって有名な手紙で、「ヴァニラとマニラ」書簡と呼ばれているそうであります。 さて、サド侯爵とかそれに関する話題を読むのは、わたくしまことに久し振りでありまして、かつては結構楽しみつつ読んでいました。 水先案内人は、もちろん澁澤龍彦であります。 冒頭の本書には5つの文章が収められているのですが、そのうちの4つまでは、実は澁澤龍彦と同種の(同種ってのとは少し違いそうではありますが)、何というのでしょうか、やはり評論なのでしょうかね。もうちょっとはっきり書くと、「A感覚」ならびに「少年愛」の文章であります。 もちろん稲垣足穂と言えば、イコール「少年愛」みたいなものではありますが、私は実は浅学にして『少年愛の美学』を読んでいません。かつて角川文庫でしたか、『一千一秒物語』の総題のもと、主立った足穂作品が収められていた文庫を私も持っていたんですが、どこに行っちゃったんでしょうか、ごそごそと探してみましたが手元にありません。 あの文庫中、私が最後まで読めたのは「一千一秒物語」だけだったと思います。 あとの「少年愛」関係の評論は難解すぎて読み切れなかったです。もっとも、私がこの文庫本に何度か挑戦して跳ね返されていたのは、たぶん高校生の頃だったと思います。ちょっとくらいの背伸びでは、歯が立たなかったわけですね。 そして今回、本書をネットから注文して読んでみたのは、これまた足穂氏とか澁澤氏とかのお仲間という感じの小説家三島由紀夫が、切っ掛けであります。 それは、本ブログで何度か話題に取り上げていた『小説とは何か』の一節からなんですが、ちょっとこの話は後回しにしますね。先に、「A感覚」「少年愛」話題の方の感想を書いておきます。 肛門感覚とは、ひと口に云えば小児の性感である。「らちのあかないもの」「どうしようもないもの」「只それだけのもの」の魅力である。つまりフロイドが「前快」と呼んでいるものに相応する。私が小さかった頃、町のしもた屋と商家に挟まった、細長い、狭苦しい子供相手のがらくた店に、メンコだの、写し絵だの、紅紙の帯がついた肉桂の束だのにまじって、赤、青、黄、紫のゼラチンペーパに似た薄荷が売られていた。薄荷の香りがしていたかどうかは憶えていないが、この半透明のぺらぺら膏薬を細片にちぎり、ツバでしめして下唇に貼り付ける。暫くするとそれがぴりぴりし引攣って粘膜にくっついてしまい、こんど剥がす折には痛くて、仲々取れない。無理に引きはがすとクチビルに血が滲んだりする。只これだけの感覚を愉しむためのものであった。(『ヴァニラとマニラ』) ある相手を揶揄嘲笑するには、性的事項を持ち出すのが手取り早い。現今では総体に行儀がよいが、以前は、街の子供同志の喧嘩には決まったように催情部位を以てする罵倒が持ち出されたもので、それにはエイナス関係が多かった。凡そお尻に関する事項ほどに人の虚を衝くものはない。この題目がえてして尾籠に取り紛らわせられたり、笑いのたねに利用されたりしがちなのは、万人の上に適用するからである。そもそも糞たれとは「肛門保持者」の同義語である。(『Prostata~Rectum 機械学』) まるで梶井基次郎の文章のようですね。二つ目の文章のユーモアなど、名作『愛撫』の一節のようではありませんか。また、江戸川乱歩の独特のノスタルジーにも通底しているような、少年愛ならぬ少年存在そのものの嗜好・思考であります。 (ついでに少しだけ述べておきますね。上記のような少々ファンタジーめいた箇所を引用したのは、もっとそれ以外の濃い部分を抜き出しても、「楽天ブログ」では「チェック」が入っちゃうからですね。実はもっときわどく面白いところが、山のように書かれてあるのですがねー。) ともあれ、澁澤龍彦の同種の評論を読んでいた頃からも、ひしひしと感じていたことですが、これらの嗜好を説く世界の、いかに広く深いかということであります。 「フロイトの功績は、何といってもAnaierotik の発見にあると私は思っている。」 と本文にもありますが、古今東西ほぼすべての人類の持つ、あらゆる文化活動の核に、がっしりと食い込んでいるようなこの「嗜好世界」は、それを説くについても碩学が星の数ほどいて、そして足穂氏もそのお一人で、どうも私としては、とても面白くもありつつ、少々恐ろしくもあります。 そこでこの世界はこれ以上追求するのはやめにして、冒頭本書の中の唯一の虚構作品、つまり、本来この文庫本を私が手に取った理由であったほうの『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』に読み進んでみたいと思います。 そして私は、こちらの方にも大層感心させられたのであります。 えーっと、次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2012.01.04
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