全2件 (2件中 1-2件目)
1

『室町小説集』花田清輝(講談社文芸文庫) まず、今回取り上げた作品のタイトルに注目してください。 しましたか。何て書いてありますか。 ……「小説」集とありますよね。間違いないですよね。 何を持って回った下らぬことを書いているのだとお嘆きの貴兄、どうもすみません。 しかし私は本書を読みながら、本当に何度となく「小説」というタイトルの文字を確認しました。 それはつまり、どうしてこの文章が小説なのだろうかと再三考えたと言うことであります。そして、本書のどこかにそのことについての「エクスキューズ」が書かれているのではないか、と。さもなければこの私の「小説」認識についての混乱は収束しない、と。 結局本文においてはそのような「エクスキューズ」はありませんでした。 しかし最後に「後書き」の形で、筆者自身による本書に触れた講演内容の抄録があり、そこにこう書かれています。 だいたい以上のようなことを書いたんですが、更にいうならば、日本の小説というものを否定することが僕の狙いなんで、それで小説という名前で書いているのです。 なるほど。「アヴァンギャルド」の方ですものね。 実はわたくし、花田清輝の作品は初めて読みました。 でも、きっとそれはわたくしだけではないと思うのですが、そもそも花田清輝が文学史上属している「第一次戦後派」の作家自体が、今ではほぼ読まれませんものね。(いえ、そんな風に私が勝手に思っているだけかも知れませんが。) と言うわけで、冒頭の表現に戻りますが、私は初めて花田清輝の「小説」を読み、この文章のどこが小説かと激しく戸惑いを得るに至ったわけであります。 そして、ではそもそも小説とはどんなことが書かれている文章なのかと考えました。 例えば、この文章。 主人は居間で鼾をかいて寝ている。あけ放ってある居間の窓には、下に風鈴をつけた吊荵が吊ってある。その風鈴が折り折り思い出したようにかすかに鳴る。その下には丈の高い石の頂を掘りくぼめた手水鉢がある。その上に伏せてある捲物の柄杓に、やんまが一疋止まって、羽を山形に垂れて動かずにいる。(森鴎外『阿部一族』) どうですか。 結局の所この文章に書かれてあるのは、「描写」と「説明(解釈)」といっていいのかなと思います。いえこの部分だけなら、かなり「描写」部が勝っていますね。しかし小説の文章とは、この「描写」と「説明」とが両輪になって成り立っていると考えられそうです。 ではこの二要素のうち、どちらがいわゆる「小説」っぽい部分かと言いますと、それはもちろん「描写」でしょう。誰でもそう思いますよね。 実は「小説」の重要な要素として、私は別に「虚構」と言うことも考えてみたのですが、日本の「私小説」を思い浮かべるまでもなく、「虚構」は必ずしも「小説」に最低限必要な要素ではありません。(本書の「小説」には「虚構」性はかなりあるそうです。物知らずな私にはよく分かりませんでしたが。) だとすると、「小説」と「非小説」の境界線は「描写」の有無にあるのではないか、と。 「描写」だけで成立している小説も、いくつかあるように思います。(さすがに短編が中心でしょうが。) そんな「小説」観を私は持っていたんですね。だから、混乱したのであります。 本書は、タイトル通り室町時代を背景とした文章なのですが、そのほとんどに「描写」がありません。つまりほぼ「説明」だけで書かれているんですね。 そうするとどんな文章になるか。 ……評論文ですね。随筆(エッセイ)といってもいいです。 わかりやすい例え方をしますと、司馬遼太郎の『坂の上の雲』と『この国のかたち』の違いですね。『この国のかたち』の文章で書かれた作品を、私たちは「小説」と呼んでいいものでしょうか。 もちろん「小説」とは、主に文章による表現であるならば(絵が入っている小説もたくさんありますものね)、何を「小説」と呼んでもいいのだという考え方はあるものの、やはり『この国のかたち』を「小説」と呼びながら文学論を行うことには抵抗、あるいは混乱がありませんか。 実は花田清輝の小説に「描写」がないことの批判は、埴谷雄高(花田の盟友と言ってもいい作家ですよね)もしているそうです。(以下、本書の解説によっています。) それに対して花田が反論をしているのですが、その論旨の中に上記の『阿部一族』に触れてこの様に書かれてあります。 殉死直前、昼寝をしている若い武士について書かれているくだりなどには、ありそうな情景であるとは考えながらもひどくそらぞらしい気がしてならないのだ。死ぬ前に寝るのはいい。ただ、そのくだりのディテールの描写に腹が立つのだ。(中略) 風鈴をつけた吊りシノブにも、柄杓を伏せた手水鉢にも我慢しよう。しかし、柄杓のうえに止まっているやんまのイメージにいたっては、ムダであり、思わせぶりであって、わたしには、そこらあたりに、鴎外の俗物性が、遺憾なく発揮されているような気がしてならないのだ。柄杓にやんまが止まっていたというのは、作者の出鱈目ではなかろうか。 ……「出鱈目」って、そもそも小説は出鱈目を書くものでしょう。 小説の持つ「俗物性」は生まれつきのものであり、それこそが小説の発展をもたらしたとは、確かわたくし丸谷才一の文章で読みました。 「描写に腹が立つ」って、要するに花田清輝は「描写」が嫌いなんですね。 ともあれ、そんな「アヴァンギャルド」といえば「アヴァンギャルド」な「小説」です。 「小説」らしい「描写」のほぼない「小説」なんて、どこででも読めるものではありません。そんな意味で言いますと、空前絶後(か、どうかは少々責任を持ちかねますが)、必見の「怪作」であります。 でも、そんなことを考えず、また私のようにヘンにタイトルにもこだわらず、歴史随筆だと思って読めば、少々難しい個所もありますが、それなりに楽しく読める読み物であります。 (なら「小説」で、やはりいいんでしょうか。……うーん、でも、なぁ。……。) よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.01.27
コメント(0)

『夫婦善哉』織田作之助(岩波文庫) 例えばこんな小さなエピソードのまとめ方。 よくよく貧乏したので、蝶子が小学校を卒えると、あわてて女中奉公に出した。俗に、河童横丁の材木屋の主人から随分と良い条件で話があったので、お辰の顔に思いがけぬ血色が出たが、ゆくゆくは妾にしろとの胆が読めて父親はうんと言わず、日本橋三丁目の古着屋へ馬鹿に悪い条件で女中奉公させた。河童横丁は昔河童が棲んでいたといわれ、忌われて二束三文だったそこの土地を材木屋の先代が買い取って借家を建て、今はきびしく高い家賃も取るから金が出来て、河童は材木屋だと蔭口をきかれていたが、妾が何人もいて若い生血を吸うからという意味もあるらしかった。蝶子はむくむく女めいて、顔立ちも小ぢんまり整い、材木屋はさすがに炯眼だった。(『夫婦善哉』) 文のテンポには、もちろん独特のリズム感があります。でもよく読めば、流れるがごとき名文とまでは行かないような気がします。二文目の冒頭の「俗に」という言葉は、どこに掛かっているのかよく分からなかったりします。 しかし最後の一文は、いかにも上手ではありませんか。 主人公「蝶子」の魅力を描くだけでなく、嫌われ者らしい「材木屋」の人格にも深みを与えています。 本短編集の解説に各作品の初出年月が記されているのですが、この『夫婦善哉』は昭和十五年四月となっており、これも解説に書かれてある実質上の処女作『雨』の昭和十三年十一月からわずか一年半しかたっていません。 一年半でここまで上手になるんですねぇ。 太宰治と、どちらが上手でしょうかね? いえ、ここに太宰を出してきたのは、もちろん同時期の作家で、どちらも文学史の上では「新戯作派」と並び称されているからでありますが、(「新戯作派」といえばもう一人、坂口安吾も有名人ではありますが、私の偏見かもしれませんが、小説に絞って述べれば安吾には「白痴」以外にあまり上手な小説はないんじゃないかとこっそり思っているからでありますが、)……うーん、面と向かって両者を比べてみると、これは、まぁ、やっぱり太宰治の勝ちかなという気がします。 ほぼ同時期の(小説家として同じくらいのキャリアの長さとして考えても、)短編小説としての完成度にはかなり差があるように思います。 本短編集に収録されているの作品(14作あります)の半分くらいは構成がいびつか、そこまで言わないまでも、展開がたどたどしい感じがします。 (このたどたどしさはいったい何なのでしょうかね。わたくしこっそり思うに、伏線の張り方が下手なんじゃないでしょうかね。唐突な、かつ纏まるところのないエピソードが結構書かれてあったりします。) という風に見ていたら気が付いたのですが、この時期の織田作作品の中では「夫婦善哉」だけが(ほとんど奇跡のように)抜きん出てできが良く、その他の作品は習作の域をあまり出ていないんじゃないか、と。 太宰の場合はこんなことはないですね。 処女小説集の『晩年』の時点で、もう作品の完成度はかなり高いです。 太宰のすべての本の中でも、この『晩年』が一番できがいいんじゃないかと言われるくらい、始めっからかなり完成されているように思います。 これも太宰自身の文章で読んだのですが、『晩年』を出すまでに彼は衣装行李(昔の衣装ケースですね)一杯の原稿を書いたと書いていました。さもありなん。 さて織田作に戻りますが、この短編集収録作品を抽出例と考えていいますと、第2次世界大戦が始まってから(昭和十六年以降)がどんどん良くなっています。 だから、現在岩波文庫には本作ともう一冊、戦後の織田作の短編を中心にまとめた『六白金星・可能性の文学』がありますが、個々の作品のできはそちらの方がずっといいです。 最後にもう一つ、小説のストーリーのことで気になる所があるのですがね。 「夫婦善哉」の主人公夫婦に典型的に見られる生き方、つまり店を始めては遊んで潰し、また店を始めては遊んで潰しまた始めては遊んで潰しという懲りない生き方は(遊ぶのはもっぱら男の方ですが)、これはかなり、リアリティというか、感情移入のできる話しであるのでしょうかね。 (ついでに触れておきますと、今回の文庫本の解説でわたくし初めて知ったのですが、「夫婦善哉」の夫婦にはほぼ完璧にモデルがあって、それは織田作の姉夫婦だということでした。へー、なるほどねー。) それにしても、この生き方の「懲りなさ」は、太宰作品にはありませんね。太宰はもっと「クラい」です。(もちろん、だからダメだなんてはまるで言っていません。) 一方織田作作品の主人公達のこの生き方には、絶望を突き抜けた向こう側に思わぬ空間が広がっていたという感じがします。 それは織田作作品の大きな魅力であります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2017.01.16
コメント(0)
全2件 (2件中 1-2件目)
1


