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人の陰口や悪口を言わない、人に迷惑をかけない、不平不満や愚痴を言わないなどというのは、自分可愛さの自己満足な生き方であり、自己防衛本能の強い人ほどこのような考えになりやすいが、それは消極的な生き方である。同様に、感謝するだけの生き方も消極的で、感謝される人間になれなければならない、と言った人がいます。感謝される人間になるには、自ら進んでアクションを起こす必要があります。その一つがボランティアです。ボランティアは、先ず与えることから始まります。そして、与えたことに対価を求めません。とことん与え続ける利他愛が根本精神です。人はとかく対価を求める動物です。そういう気持ちを無にして、とにかく利他に徹し続けることは難しいものだが、それが修行になります。「施すものは天に生まれ、受くるものは獄に入る」という伝教大師の言葉があります。施しをする人は、相手を救い、自分の心も充たされ、その功徳は天に生まれ極楽に行くことができる。だが、施しを受けるばかりで与えることを知らない人は、いくらもらっても不満で、貪欲がますますつのり、そのまま地獄に落ちる、という意味です。
2010.01.31
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「人に親切に」とは、布施の心を実践することです。布施というと、今ではお寺へのお礼のことのように思いがちだが、元々はお釈迦様の大切な教えの一つで、人に自分が大切にしているモノを差し出すことです。モノといっても品物とは限りません。笑顔や優しい言葉など目に見えない気持ちでもいいのです。電車で青年に席を譲られたお婆さんが、「ありがとうございます。立たせてしまってすみませんね」と言いました。青年を立たせてしまったことへの思いが素直に伝わってきて、席を譲った青年も嬉しそうでした。周りの人の顔も、心なしか爽やかになりました。このように、たった一つの思いや言葉が、人々の心を温かくしてくれます。でも、何か善いことをしたとき、ふと我に返ってみると、相手の人への労りの気持ちよりも、善いことをしたという自己満足の方が強いことがよくあります。憐憫の気持ちや優越感からの好意では、本当の布施にはなりません。そんな自分の小さな心を離れて、人と心から喜びを分かち合う気持ちが大切なのです。自己満足の気持ちを離れて、どんな小さいものでも分かち合うことができたら、どんなに素晴らしく清々しいことでしょう。
2010.01.30
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この間からいろんな物を捨てる作業を続けているが、戴いた葉書はなかなか捨てられないですね。読んでいると、つい嬉し涙を流しそうになる葉書だけ残っています。やはり、メールと違って良いですね。このごろ、メールが多くなっているのでまた葉書を書こうと思います。ところで、メモを整理する中で「整理整頓」に関するものを幾つか。◆『もしかしたら、あなたの机の上はいつも散らかり、カバンの中は書類であふれているのではないだろうか。実は、仕事でも、身の回りでも、整理整頓の仕方はまったく同じ。整理整頓ができれば仕事の優先順位がつけられるようになり、仕事は早くなるし成果も上がる。それができない原因は、「整理のやり方」もしくは「継続する方法」を知らないだけで、性格や能力の問題ではない』と石田淳行動科学マネジメント研究所所長は言う。◆『この前、ガーデニングのテレビ番組を見ていて思ったのですが、ガーデニングの基本は3つあって、一番は毎日雑草を取り除くことだそうです。雑草が先に伸びてしまうと、いい芽の成長を邪魔してしまう。だから雑草を取り除くわけです。次は剪定し、自分がイメージする方向に持っていくこと。最後によく観察することです。(中略)すべての改革は整理・整頓から始まる』と酒巻久キヤノン電子社長は言う。◆『捨てないと入ってこないというのは、精神的な意味での話だけではなく、物理的にも通じる法則です。稼げる人は、物も惜しまず手放します。服にしても車にしても、いつまでも古いものを使わず、常に新しい上質なものを手に入れます。その様子がまた信頼を生み、物理的な恩恵を与えてくれるのです。つまり稼げる男とは、捨てる決断力と代謝の良さを持っているのです。決めるということができない人は、部屋や机周りが散らかっていることが多いようです。何が自分にとって大事なのか、不要なのかが決められないから、散らかってしまうのですね』と元銀座高級クラブホステスでセクシャルアカデミー代表の田辺まりこは言う。◆石黒不二代ネットイヤーグループ代表取締役社長は、『(34歳で2歳の息子を連れて渡米し、スタンフォード大学でMBAを取得後すぐに米国で起業したことに対して)「大きな決断をされてきたんですね」とよく言われるんですが、実は私はごく自然にやりたいことをやってきただけなんです。優先順位をつけて考えると、物事の大半は捨ててもいいことで、真に大切なことは2%程度だと思う』と言う。それぞれに、なかなか蘊蓄がありますね。
2010.01.29
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「人に生き甲斐を与えるほど大きな愛はなく、人から生き甲斐を奪うほど残酷なことはない」と神谷美恵子さんは書いています。愛生園(旧らい患者施設)のA青年は長い間心臓神経症に悩んでいたが、あるとき思い切って園内の気象観測所に勤めることにした。青年は、観測所の仕事に参加する張り合いのために、見違えるほど元気になり、神経症の症状もすっかり消えてしまいました。ところがその後、年金制度が実施され、青年はある程度肢体不自由だったために年金を受け取ることになりました。そうなると規則上、園内の作業についてはいけないことになり、せっかく生き甲斐を感じていた観測の仕事を辞めなくてはならなくなりました。暇な時間を持て余すようになると、以前と同じような神経症がいろんな形であらわれてきました。また、老人ホームで生活する老人は単調な生活の中で一見無気力に見えるが、毎朝率先して庭の手入れなどして身体を使い、手を泥にまみれさせているような人の目はイキイキとしていて、腰も伸びシャンとした姿勢を保っています。自分の業に励み、ささやかでもいいから役割を持つことで、生きる張り合いを見つけることの大切さが分かります。そうすれば、他人にも優しくなれます。
2010.01.29
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机の中の整理をしていたら、まだ未整理のメモが沢山ありました。そんな中の一つから。近年ライトアップなどをする寺が増え、京都を訪れる観光客が増えているそうです。檀家を持たない古い寺を維持してゆくには、拝観料に頼らざるを得ない面もあるが、寺には観光資源としての役割だけでなく、佛教を伝えていく役割もあります。折角寺に足を運んでいただいても、ただ見学するだけで終わっている現状では心寂しい限りです。私の好きなスポットの一つである法然院の梶田真章住職は、「ただ見物するだけで終わっては惜しい。目に見えないものと交流し、なにがしかの宗教性を感じて欲しい。文字通り光を心の目で観ることである『観光』をしていただきたい。本来の生き方を考えるヒントを提供する義務が寺にはあり、そのための努力と工夫が寺には求められている。(中略) 私は時間のある限り、拝観客に法話をするようにしています。佛教に触れていただくには、やはり住職が顔を見せないといけない。そうすれば、皆様方が寺に何を求めているのかもわかってくる。コンサートや展覧会、シンポジュームなどを開催して、出会いの場を設けてきました。そもそも寺は、様々な人々の思いが交わってきた場所です。寺を建て、仏像を彫り、襖絵を描いた人々の祈り。それらを守り伝えてきた人々の願い。そうした命の営みが続いてきたのが寺です。そこに現代人が身を置き、昔の人々と出会う。それを感じてもらえれば、おのずと寺を維持していこうという意識を持っていただけるのではないでしょうか。(中略)寺におこしになったら、1、2時間はじっくりとその場の雰囲気を味わって欲しい。風のそよぎや鳥の鳴き声に耳を澄まして欲しい。そうして、生きとし生けるものは周りとの関係で生かされているということを実感し、他者とともに生きる慈悲の心を持っていただきたいのです。そのきっかけに寺がなれればと思います」と語る。また、映画プロデューサーとして活躍した後寺を継いだ秋田光彦住職は、「葬式佛教の歴史はわずか百年ほど。それ以前は、寺は人間が人間らしく生きることを育む場所だった。元来、寺には学び・癒し・楽しみ(芸術・文化)という三つの要素がありました。(中略)寺本来の姿に立ち返るためには、もう一度「学び・癒し・楽しみ」を提供できる場を作らなければいけないのではないだろうか」と語る。心の時代と言われて久しいが、いまこそ佛教が本来の役割を果たすことが問われていると思います。そんな思いで始めた夜話の会も、尼さんが青蓮院の行事などで忙しくてしばらく休んでいたが、この土曜日から装いも新たに(夢前案内人は地ならしの役目を終え、自立していただきます)再開します。◆大雨の被害が報じられているマチュ・ビチュ
2010.01.28
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成功している人に共通するのは、「ありがとう」の言葉が自然と出てきて、普通の人の何十倍も使うことです。逆に、一時的に羽振りがよくても、人をぞんざいに扱い、「ありがとう」と言えない人は必ず失敗していきます。どんな些細なことでも「ありがとう」と言える人は、会社では仲間に尊敬され、家庭では幸せと平和を創る人です。逆に成功できない人は、「ありがとう」よりも文句、グチ、不平不満、陰口など否定的な言葉を使う人が多いと、日本創造教育研究所の田舞徳太郎さんは言う。素直、従順、感謝、信頼といった性質を持っている人は、当たり前のことでも「有り難し(希なこと)」と感謝する気持ちがあって、「ありがとう」が素直に口をついて出てきます。不平不満ばかり言う人がよくいるが、どんな職場にも家庭にも制約はつきものです。その制約を100%受け入れた上で、自分の人生をどう創り上げるかが大切です。言葉が人生を創り出します。否定的な言葉を多く使う人からは遠ざかるのが無難です。「ハイ」という素直な心、「ありがとう」という感謝の心、「私がします」という奉仕の心、「お陰様」という謙虚な心、「すみません」という反省の心を大切にしたいものです。
2010.01.28
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ギリシャに、「一番早く歳をとるものは感謝の心」という格言があるそうです。例えば、経営者も会社を始めた当初は、一生懸命にお客様の声に耳を傾け、取引先の入社早々の方にも挨拶を忘れず、少しでも買ってもらえれば心から感謝したはずです。だが、会社が安定してくるにつれて、暖かくて居心地のよい部屋から出ることも少なくなり、お客様の声に謙虚に耳を傾けたり、感謝する心を忘れがちになります。また、管理職の方は、部下は仕事をするのが当たり前とばかりに、部下の仕事に感謝する気持ちを忘れていませんか? 部下が居るからこそ成果があがるのです。一言「ありがとう」「ご苦労さん」という感謝の言葉をかけるだけで、あなたの職場は明るくなり、活気のある集団になると思います。厳しい環境のもと、毎日遅くまで身を削る思いで働いているのに、妻から感謝の言葉一つないと思われているあなた自身、奥さんに「ご苦労さん」という一言をかけたことがありますか?どんな場合であろうと、自分から「有難う」「ご苦労さん」などと感謝と労りの声を掛けることです。そこから、信頼関係が生まれ、善の循環が起きます。
2010.01.27
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誰でも、心が虚しくなったり、不安になる時があります。そんな時は、自分のことばかりに思いを向けて、暗い方へ暗い方へと無意識に自分の心を追い詰めてしまいがちです。そこで、心の向きを他の人の方へ向けると、思いがけなく明るい方向に心が向くものです。主婦なら夫や子供のためを思い、心から喜ばれるようにと考えると、不思議と不安は消え去り満たされた気持になります。私たちは、とかく自分で作った益もない様々な心配のるつぼの中で、もだえ、あえぎがちです。心配すれば物事が思うようになり、良い結果が出るというものではありません。むしろ反対に、心配する心を持っていると、その通りになりがちです。そして、周りの人まで憂うつにし、全体が沈み込んでしまいます。考えてもしょうがないこと、明日のことなど心配せずに、目の前のしなければならないことを、朗らかな気持ちでやることです。それが考え縮こまる癖と心配性からあなたを解き放ち、家庭や職場を明るくするコツです。物事は、よくなりかけるとトントン拍子に良くなり、悪くなりかけるとドンドン下り坂になりがちです。人間は心理の動物だから、すべて心が先行します。悲観は心の霧です。さわやかな希望の薫風で霧を吹き払うことです。
2010.01.26
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人間には落ち込む原因がいろいろとあるが、何か心配事があると、そのことに気を取られて、つい物事が見えなくなったり、人の言うことが素直に聞こえなくなることがよくあります。そして、そんなときには、何でも悪く考えたり、悲観的になってしまいがちです。後で思うと、なぜ、あの時は、あんなことが分からなかったのだろうとか、あんなことをしでかしたのだろうと不思議にも思えることがよくあります。それは、心が沈んでいるからです。心が沈んで一カ所にとどまって停滞し、固くなり、光を失い、サラサラと流れることを忘れているからです。心は水と同じで、一カ所に淀み、流れなくなると腐ってしまいます。そんなときは、ちょっと角度を変えてみると解決の糸口が見つかったり、ちょっと思いを変えてみると何でもないことになったり、ちょっと希望を持ってみると容易に乗り越えられたりするものです。お釈迦様は、「心が沈みそうなとき、心が沈んではいけない。明るく清らかに心を持って、暗い淀みにするな」と教えます。何事も、前向きに明るく受け取っていくことです。
2010.01.25
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生きるとは悩むことで、生きている証拠とも言えます。どんなに修行を積んだ人でも、少しの悩みも持たない人なんていません。悩みをもつからこそ傲慢になったり有頂天にならずに済んでいるので、毛嫌いする必要はありません。すべてが順調に行ったら人間は傲慢になるが、挫折や苦の体験は他人に対する思いやりの心を育みます。「人の立場に立って考えろ」と言われるが、病んだことのない人には、人の痛みがわからない。人に使われたことのない人には、使われることの苦痛が分からない。どん底に落ちたことのない人には、人の悲しみや寂しさ、弱さ、浅ましさが分からない。人間は、悲しいかな、自分自身が痛い目に合わないと気づかないものです。だから、痛い目に会ったことのない人は、どんなに人を傷つけても何とも思いません。この頃の子供たちのイジメがエスカレートするのも、普段喧嘩をしなくなって痛みを知らないからです。ある僧が「作務をするときは作務をする。これが自分を忘るるなりだ」と言ったが、目の前のことに一生懸命に取り組んでいるときは雑念も起きません。心配事などで悩むのは、何もすることがなかったり、目の前のことに集中できずにいるからといえます。ですから、「いま、ここ」に集中し楽しむことです。
2010.01.24
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昨夜 いつもは青春18切符で行く香川の若者から「車を運転して東京に向かったいます」とメールが入っていました。今回は、荷物のミカンを自分で運んでいるようです。この土日も、青山国連大前広場でファーマーズマーケットをやるためです。先週はNHKで報道されたこともあるだろうが、差し上げたCD版の「人は何故モノを買うか」を読んで、価格設定を変えたりした結果、ミカン類240キロを完売したようです。関東の人でお暇な方は、ぜひ足を運んでみて下さい。魅力のある農業にするために、彼に次のような提案をしました。1.高付加価値化・・・安全・安心の追究(有機・省農薬栽培など)2.垂直統合化・・・・生産・加工・販売の直営化3.滞在型農園化・・・畑や果樹付きの滞在型施設の運営後継者難から高齢化が進み、栽培放棄が進む農村を活性化させるには、地域が一体となって取り組む必要があるが、それには食える農業を目指す必要があります。元々、日本の農業は専業では成り立たず、兼業(出稼ぎを含めて)が当たり前でした。でも、それでは根本的に農業の自立は不可能です。農業資源を生かして、どうやって食べていける仕組みを作るかがカギだと思います。
2010.01.23
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韓国の古語や方言で「ブス」と言えば、「むくむ」とか「ふくれ面をする」ことです。たしかに、ふくれ面をしたり、ふて腐れた女性は美しくありません。古代インドのコーサラ国王の妃マッリカーが「お釈迦様、同じ女性に生まれながら、ある人は美人、ある人は醜い女になるのは、どうしてなんでしょうか」と問うと、お釈迦様は「怒りやすい女性は、顔立ちが醜くなるのだよ」と答え、 「わかりました。お釈迦様。わたしはこれから、決して怒らないように注意します」とお妃は誓います。憎しみが人を醜くするのであって、美人・不美人というのは、姿形の問題ではなく、その人の心の問題であると教えられたのです。仏も最後に微笑みの修行をすると言うが、心の中から憎しみを追い出し、微笑みの修行をすると、自然と心も穏やかになり、それが顔に出てきます。「微笑みとは、心の中に化粧が済んだときに出る表情である」と言った人がいるが、微笑みは心の化粧が先立つもので、内面を磨かないと、自然で美しい微笑みはわいてきません。心の化粧とは、内面に安らかさや素直さ、誠実さ、思いやりなどが湛えられるように心を丹精していくことです。その結果が顔に自然と滲み出て、美しい表情を創り外見に関係なく美人となるのです。
2010.01.22
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江戸時代の禅僧盤珪は、「ものが来れば鏡に映るが、鏡の中に生じたものは何もない。ものが去れば消えるが、鏡の中に滅したものはない。鏡の中は生ぜず、滅せずじゃ。汚い犬のフンを映したからといって鏡は汚れないし、きれいな花を映したからといって鏡は綺麗にはならない。鏡の中は汚れず、清らかからずである。重いものが映ったからといって鏡の目方は増えないし、軽い物が映ったからといって目方は減りはしない。鏡の中は増さず減ぜずである」と言い、人間の本性(心)というものも鏡のようなものだと言いました。例えば嫁姑問題にしても、嫁があのとき、あんなことを言った、あんな意地の悪いことをしたという記憶が積み重なって憎い存在になるのです。記憶を捨て去った人間の本性は鏡のようなもので何の感情も存在せず、嫁も姑も本来憎くい存在ではないはずです。鏡のように何らかの縁に触れても後に残さなければ心安らかに過ごせるのに、私たちは記憶を何時までも捨てられないがために無心に物事を映すことができず、それを積み重ねてさらに増幅していきます。それが、憎しみ、怒り、妬み、迷いなどのストレスに追い込みます。人間とコンピューターの違いは忘れることだが、うまく忘れることが大切なのです。
2010.01.22
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四苦八苦の一つに「愛別離苦」と「怨憎会苦」があります。やさしく言えば、愛している者とも別れなければならない苦しみがあり、反対に憎しみ会っている者とも顔つき合わせていかなければならない苦しみがあります。この世には、別れて初めて愛していたという自覚を得ることや、元々は好き同士が一緒になったのに何時の間にか憎しみ角突きあわすということもあります。逆に、いつまでも「憎い奴だ」と思っていることもありません。何かのはずみに、憎しみが好ましさに変わることもあります。愛と憎しみは、固定せず常に流動的です。だから、あまり拘らないことです。清水寺の大西良慶師は「憎い奴がいい奴になったり、ええ奴が憎うなったりするのは裏腹のようやが、雨と天気と一緒やね。天気の時も、雨も台風もある。台風は困るが、来るものはしょうがない。悪口言うのも本心なら、感心するのは本心やの。だから、ほめるときはほめ、憎しまねばならぬときは憎しむ。それでいいの。夫婦もいつも仲ようしてなければならないことはない。気に入らなんだら睨んでいたらいい。怖い顔してたなと思うて奥さんが晩にご馳走したら、機嫌直して一杯飲んだらいいの」と言います。
2010.01.21
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嵯峨野は、昨日、今日と春を思わせるような陽気です。窓辺で書類の整理をしていると、ポカポカとして眠くなってきます。60才からは後5年の命と自ら定めて5年区切りで生きてきたが、5年更新最後の年になり(花の下にて春死なんが願望でもあり)、昨年から始めた30年間のコンサル関係の書類を、やっと整理(整理とは捨てることなり)し終えました。記憶力の悪い私は、書いて残すことが多いので、その量の多さに我ながらあきれています。大型書類棚一杯の教材や報告書類、それが私の外部記憶データーベースとして蓄えられた情報とも言えます。つい中身を読んでしまい、懐かしい思いに浸っていると整理は遅々として進みません。いま、日航が問題になっているが、私にも忘れられない記憶があります。1985年8月12日、520人の命が奪われた、日本航空・東京-大阪123便墜落事故にまつわる仕事です。この事故で、誰もが知っている会社の経営陣が亡くなられ、新しい経営陣と共に経営戦略構築のお手伝いをしました。そのコンサルティングの資料一式を読んでいると、20年以上も前のことがありありと浮かんできます。そう言えば、立ち上げのセレモニーで、「この仕事に打ち込むために人間ドックに入ってきました」と挨拶したことまで思い出されてきました。また、新規事業転換の後押しをしたこともある会社の資料もありました。今でこそ冷凍食品全盛の時代だが、まだ家庭の食卓に上るのが珍しい時代に、冷凍機メーカーに冷凍食品関連機器への進出を進言したことがありました。ずっと後で、冷凍機器のフェアーに行ったときに、たまたま見えた責任者の方が「この方が進言してくれたから、今の私たちがあるんだよ」と若い担当者に話されるのを聞いて、コンサル冥利に感じたことも思い出されました。そんなわけで、なかなか整理も進みません。昨年は、「誰かのために生きるかもしれない」と基本的なものは残してきたが、今回はバッサリと全部捨てることにしました。これで、経営のコンサルトとは綺麗さっぱりとお別れです。これからは、若い人たちの頭脳の中に私や私の知人たちの経験を転送→コピーできればと願っています。それが、キャリアアカデミーを始めた夢前案内人を名乗る私の最後の願いです。◆日航墜落現場
2010.01.20
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自分の思う通りにならないからと言って、腹を立てて人に当たり散らすのは、自己優先の気持ちから起きます。そんな時には、相手に対する温かい気持が欠けています。それを諭されて、「怒るな、腹を立てるな」と言われました。自分の都合とか好き嫌い、面子、自分をバカにしたとか無視したとか、要するに自分への強いこだわりです。相手に対しての優しく温かい思いなど、どこかに吹き飛んでしまっています。温かい思いさえあれば、馬鹿にされたり無視されても、笑って過ごせるはずです。それが、忘己利他(己を忘れて他を利する)の心だと思います。私たちの心中には、知恵と感情という二つが入り交じっています。知恵が光だとすると、感情は雲です。どれだけ知恵の光があっても、感情という雲が出てきたらおしまい。時々、「あの人が」と言われるようなことが起きるのも、感情の雲が邪魔して(人間は情の動物)、知恵の光を曇らしてしまうからです。そもそも感情の世界というのは、自我という執着に基づいているから、執着から離れることによって感情の世界からも離れることができる、と清水寺の森貫主は言う。明智光秀が信長を討ったのも、これに当てはまるように思います。
2010.01.20
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日本生産性本部が1990年から毎年実施している「新入社員意識調査」09年入社者の結果1.担当したい仕事 「職場の先輩や他の部門とチームを組んで成果を分かち合える仕事」 83.5%(過去最高)「自分の個人的な努力が直接成果に結びつく仕事」 16.5%2.勤続に関して 「今の会社に一生勤めようと思っている」 55.2%(過去最高)3.転職に関して 「しないにこしたことはない」 34.6%(前年に比べ大幅増加)4.仕事の取り組み意識 「上司から会社のためにはなるが、自分の良心に反する手段で仕事を進めるように指示された際、指示通り行動する」とする者の割合は40.6%となり、設問開始(2007年)以来年々増え続けている。「従来の基準や慣習には反しても、法律に反しないことであれば、どんな強引な手段や方法をとっても問題ない」とする者の割合が、設問開始(2006年)以来初めて2割を超える22.2%となった。 5.「人より多くの賃金を得なくても食べていけるだけの収入があれば十分だ」 47.1%(07年 35.6%)6.「年齢・経験を重視して給与が上がるシステム」を希望する 48.1%(02年 26.1%)で、91年の調査開始以来、春秋を通じて最高だった。この結果をどう見るかは人それぞれだが、景気の回復力は弱く、新入社員も厳しさを肌で実感しているようだ。
2010.01.19
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現代の私たちとしては、次のような五戒にしてはいかがでしょうか? ●怒るな 起きてから寝るまで、貴方は何回怒りたくなることがありますか?怒ってイライラしたり相手に当る、怒った結果が自分にとってプラスになることはありません。怒りたくなっても、「今日だけは怒らないようにしよう」と心を静めて、その物事を捉えてゆけば解決方法も見えてくると思います。●心配するな 怒りと共に難しいのが不安です。何かあると色々な場合を想像・推定して不安になってしまったり、全く予測できなくて不安になったり、またイヤなことがあるのではないかと心配になったり、様々なことがあります。●感謝する 人間が一番忘れやすいのは感謝する心。私たちは毎日の生活の中で色々な人や環境、自然にお世話になっているが、当たり前のように考えて感謝を忘れがちです。まず、恩を受けていることを知る=「知恩」が大切です。●業に励め 何か自分として仕事でも趣味でも何か探求するものを持ちなさい、そしてそれを通して社会や他の人のためになりなさいと言うことです。●人に親切に・・・前の4つができていればこれは自然とできるはずです。まず自分の身の回りの人の立場になって考え、親切にしてあげましょう。
2010.01.19
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昨日は千手観音で有名な三十三間堂で伝統の「通し矢」にちなんだ大的全国大会が開かれ、晴れ着姿の新成人が力強く弓を引いて矢を放った。この「通し矢」がいつ頃から始まったかは明確ではないが、すでに室町期には「洛中洛外図」に弓を射る者が描かれており、かなり古い歴史をもっています。特に流行をみるようになったのは1570年頃からで、1606年(慶長11年)には津島家臣 浅岡平兵衛が51本を通して「天下一」を称して、お堂に掛額をしたのを期に矢数を競うようになり、諸藩が名誉をかけて競う風習ができました。江戸時代になると太平の250年間におおいに流行し、大衆にもてはやされて寛永19年(1614年)には江戸浅草に競射場として三十三間堂が建つほどになりました。通し矢とは「的に当たった矢」という意味で、本堂西側の軒下 幅2.5M 高さ5.5M 長さ120M を南から北へ射通す競技で種目は4種目あったが、その中でも通し矢の華でもあったのが「大矢数」と呼ばれる暮六つ(午後6時)から24時間一昼夜に1万本前後の矢を射続ける豪快、壮絶な競技です。とはいっても、剛弓(想像を超える強い弓でしょうが)であっても竹の弓矢で弾道の高さ5.5Mで120Mを飛ばすとなると、立射では不利なため座して射ちました。記録的には明暦2年(1656年)紀州の吉見台右衛門が6343本を、次いで寛文2年には尾州の星野勘左衛門が6666本を通して「天下一」を名乗ったが、寛文8年(1668年)には、紀州 葛西園右衛門が7077本を通して「天下一」を奪取しました。これに対して、翌9年5月2日 星野勘左衛門は再度挑戦し総矢10542本中正午までに8000本を通して葛西の記録を塗り替え「惣一」を手中にし、今だ余力を残しながら「打ち止め」にした。この記録は長らく破られることはなかったが、貞亨3年(1686年)4月27日、紀州の和佐大八郎は弱冠18歳で総矢13053本中、8133本を通し先の勘左衛門の記録を凌駕し通し矢史上不朽の大記録を打ち立てました。この大八郎の24時間での総矢13053本は1時間に544本、1分に約9本を射つ速さで弓の強さ、技術、そして精神力は想像を絶するものです。
2010.01.18
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出家者の場合は沙弥の十戒に始まり比丘の二百五十戒があるが、在家信者が守るべきモノとして五戒があります。戒はあくまで禁止事項ではなく行動指針で、守るか守らないかは個人の自由意志にゆだねられます。ただし、仏教が示すところの悟り、解脱、涅槃を得ようとするのであれば、最低でもこの五戒を受け、出来るだけ保っていく必要があります不殺生戒…いかなる生き物も、故意に殺傷しない。不偸盗戒…与えられていない物を、故意に我が物としない。不邪淫戒…不適切な性関係を結ばない。不倫・売買春しない。不妄語戒…偽りの言葉を語らない。不飲酒戒…アルコール類を飲まない。これを厳密に守るとなると、現代ではまともな生活はできないと思います。そこで、「できるだけしないように心掛ける」とか「今日だけはしないでおこう」くらいに解釈することです。五戒は戒律のようなものではなく、基本的に失敗するということを前提に作られています。今日、うまく実行できなくても、明日になったら、また「今日だけは」と思ってやってゆけばいいのです。
2010.01.18
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お釈迦様は、人間には4種類あると言っています。1.自ら人格向上に役立つこと(仏法の真理を学び、戒を守ること)を何一つせず、他人に薦めることもしない人で、何の役にも立たない人です。2.自らは貪・瞋・癡を克服する修行も五戒を守ることもしないが、他人にはしきりに薦める口だけの知識人です。(世の中に多いですね)3.自ら修行し、五戒を守って清らかな生活をするが、他人に薦めることはしない人です。(自分だけの安穏な生活を求める人です)4.自ら修行もし五戒を守って清らかな生活をし、なおかつ他人にも薦める人で、これを最高の人と言っています。(高潔な伝道者を指します)最澄の説いた「好事を他に与え、悪事を己れに向え。己れを忘れ他を利するは慈悲の極みなり」も、「自らを生かし、他者を生かす」ということで、「自分のことはさておき、人のために何かをしなさい」ではなく、自分を生かし他者も生かすことができる人になれと言うことです。しかし、人間は自分が一番可愛いから、どうしても自分を第一に考え、自分が得をしよう、 自分が楽をしようという気持ちが先に立ち、相手を気づかう気持ちは二の次三の次になります。
2010.01.17
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昨日も高松の若者が東京への途中で立ち寄ってくれました。青春18切符を見せてもらったが、5回分が1枚になっているのを初めて知りました。5回=5日間で11500円だから、時間のある人にはいいですね。東海道線など幹線は普通や快速も連絡していることが多くスムースなようだが、地方へ行くとこの頃では特急優先で普通は冷遇され、かなり乗り継ぎや特急待避などで不便なようです。でも、時間消費が目的のリタイヤー組にもいいですね。一度、ノンビリと普通列車の旅をしてみようかなと思います。温泉に入った後、夜は彼を京都の新年会に招待したが、ミカンなどに詳しい年配者もいて勉強になったようです。私のような者は、年配者と若者を繋いでやることくらいしかできないが、そんなお節介も楽しいものですよ。料理は狩猟が趣味の人が獲った鹿肉がメイン。ルイベ状のものは時々食べる機会があるが、リブステーキは初めてでした。熊を期待していたのだが、今回は獲れなかったそうで、またの楽しみです。西部劇で見るだけだったウインチェスター銃もみせてもらったが、なかなか男のロマンをくすぐる代物ですね。若者は11時40分発の夜行バスで東京へ発っていきました。日本の農業が存続するためにも、農業だけで食べられるようになるといいのだが、なかなか難しいですね。◆ラクダの影が幻想的ですね
2010.01.16
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仏道修行を通じて我執が取り除かれたとき、周囲の人々やあらゆる生き物に対して慈悲心が開花します。この慈悲の心を完全に体得したとき、自分と他人の対立・区別が無くなり、他人の幸福は自分の幸福、逆に他人の不幸は自分の不幸という、自他一致の心理が生まれます。自分が幸福になれば、その福徳を少しでも他の人々に役立ててもらおうという心理が作用します。それは抜苦与楽(ばっくよらく)の精神(苦をなくして楽を与えるという意味)に尽きます。このような心を持ち、実際に行動に移す者を、仏教では菩薩と呼んでいます。大乗の菩薩が涅槃の境涯に到るための修行方法を波羅蜜といい、生きて成仏するために修行しなければならない修行のこと、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六種の修行があり、これらを六波羅蜜(ろくはらみつ)といいます。お釈迦様は、この六種の修行を通して、悟りに到る道を明かされました。悟るとは、無差別智の立場に立ち、個人レベルの幸・不幸の視野を超越して、宇宙的な観念の世界観を持つこととなります。これを真理に目覚めるといいます。仏教では、この世のことを娑婆と呼び、悟りに到った者は、その目覚めを自分だけのものとせず、他の人々に伝えてこそ『真の自覚』を得るのです。
2010.01.16
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12月始めにおける大学生の就職先内定率が最悪の73.1%だという。このままいけば、大量の就職浪人やフリーターが誕生することになる。だが、よく考えてみると、不況のせいだけではないようにも思われる。大学進学率が50%を超えた今日、大卒を必要とする仕事がそんなにあるとも思えないからだ。(高卒の内定率も11月末時点で68.1%だが)私の時代は高校進学率でも5割もなく、大学進学率にいたっては10%以下だった。(私は田舎だったので1,2%だったように思う)いかに経済発展をしたからと言って、また産業の構造が変わったからと言って、それほどの大卒を必要とするはずがなく、これが当たり前の数字ではないかとも思えてくる。(こう言うと批判もあると思うが、現実をよく見て欲しい)私自身、割合と若者との付き合いが多いので思うのだが、何の目的もなく大学に進学し、「大学は4年間の休日」とばかりにアルバイトや学外活動に勤しみ、勉強をほとんどしていない学生もよく知っている。まともに学校に行っている学生にしても、講演などで「こんな本くらい読んでいるだろうな」と思って例話に出すとキョトンとしている。諺のような慣用句にしても知らない。なにも、大学に行くだけが幸せを実現する道ではない。かえって不幸な場合だってある。自分にとって幸せとは、自分にとって働き甲斐とは・・・、などをもっと真剣に考えて欲しいと思う。その意味では、私のgooブログを読んで下さい。
2010.01.15
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縁起の教えは通常十二因縁といわれるが、釈尊は人間の苦しみや悩みがいかに成立するかを考察し、その原因を十二の項目によって追求しました。一切の現象は私たちの心に原因があり、現在、生かされている業(行為)が魂にすり込まれ、前世などの過去世を含めた時代の業にも影響しあって、現在のそれぞれの幸・不幸が決まるとされています。人間の肉体生成を十二種の法則に分類し、心の変化にも十二に分かれた因縁の法則があるという教えです。その内容は、私達人間の肉体がどのような過程を経て生まれ、成長し、老死にいたるかということを、過去、現在、未来の三世にわたって、千変万化する人間の心のありさまを示されたものです。「無明に縁って行あり、(以下順次 行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死あり)と苦が生じ、無明の滅に縁って行滅す、(以下順次 行→識→名色→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死)の苦が滅すというように、釈尊は現実苦の元を正して理想的悟りの世界を教えられた。この十二因縁は、現実苦を肯定的に見て、その因を正す方法と、それを否定(滅)して、悟りの世界を教える方法をとっています。
2010.01.15
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原因を滅ぼすには、滅ぼすやり方があります。それには、八正道を実践することです。八正道とは読んで字の如く人間が正しい生き方を実践するための八つの方法を表します。誠に単純で何のことでもないように思えるが、実はこの単純で当たり前のことを頭では理解できても、「当たり前のことを、ごく当たり前に、執念深く、確実に実践し続ける」となると至難の業です。「生きる」とは、「正解のない1冊の問題集」を解き続ける旅そのものです。自ら問題をよく認識して、その因果関係を解き明かして課題を考え、その解消方法を深く考え、自ら実践して解決していくしかありません。まずは、物事を良く見て、先入観や利害打算を離れて深く考えることから始めたいものです。「正」とは「真理に合った、調和のとれた」考えや見方、行動をさし、小我(自分本意)に囚われて自分自身を過大評価し、不平・不足・不満などの苦の種をつくらない大きな立場で物事を判断できる人間となる事を示す道として解き明かしたもので、中道に通じます。「中道」とは、一方に片寄らない丁度真ん中という意味ではなく、その時々の真理の条件・立場に合った最善の方法の見方や考え方という事です。この考え方や見方は法華経の「妙」を現すものです。
2010.01.14
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1.苦諦 (くたい) =苦しみとはどのようなものであるかを問う人生の真相は苦であるという真理で、誰もが逃 ることのできない苦しみとして「四苦」「八苦」をあげています。 2.集諦(じったい)=その苦しみの原因を探る苦しみの原因を探求しはっきりと悟ることをいい、苦しみの原因は渇愛や無明に代表される煩悩にあるとしています。享楽的欲望を求める忘執や、個体の生存をむさぼる忘執や、生存の滅無を望む忘執がその原因です。その真因は、人生の最も基本的な事実である諸行無常を受け入れないことにあります。3.滅諦 (めったい)=苦しみの消滅とは何かを明らかにする煩悩を滅した状態こそが本当の安楽であり、苦しみをもたらす原因を取り除けば、苦しみがなくなるのだという真実を悟ること。苦しみの消滅とは忘執から完全に離脱し得た状態になること。それには捨て去り、拘りをなくすること。道諦 (どうたい)=苦しみを消滅に導く道=八正道を実践する苦しみの原因である渇愛、無明などの煩悩をなくす方法を見極めることをいい、具体的には八正道が説かれています。実践こそが大切です。
2010.01.13
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難しい概念は別として、何ものも変化しないモノはないのだから、「これだけは」と絶対に頼れるモノなど無い。自己だって同じである。それなのに、何かに頼ろうとして執着するから苦が生じるのだと思います。人間は、自己(アイ、マイ、ミー、マイン)に常に執着し、それに関する欲望を捨て去ることができません。そのために、どんなに多くの犠牲がエゴイズムという祭壇に捧げられ、いかに深い憂いが人間の心をさいなんでいることでしょう。人々は、真の自我でないものを真の自我と考え、それに固執するために多くの煩悩が起こり、それによって苦しむのです。享楽的欲望を求める妄執や、個体の生存をむさぼる妄執、生存の滅無を望む妄執などが原因だが、その真因は人生の最も基本的な事実である諸行無常を受け入れないことにあります。苦しみに原因があるなら、原因を滅ぼすより他に方法はありません。人間の苦にも必ず原因があって結果があるので、「苦しい、苦しい」というばかりでなく、その原因は何かをよく考え、まず真因を突き止めることが大切です。そこで、迷いの現実と悟りにいたる方法の二方向にわたって、因と果とを明らかにした四つの真理=四聖諦(ししょうたい)を釈迦は説いています。
2010.01.12
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高松のミカン農家の息子さんが訪ねてくれるようになり、農家問題に関心を持つようになりました。ネットで「農業・農家の問題点」を検索してみると、次のような問題が個々に論じられています。・遊休農地の増大(休耕田・耕作放棄など)・一軒当たりの耕作地の狭さ(アメリカ140倍 オーストラリア2000倍)・経営が成り立たない 東北農政局の抽出調査 耕地2.37h(稲作1.62h) 農家所得481円 内農業所得77万円【農業粗利益265万円(内稲作167万円);資材費188万円】農外所得(給与など276万円);年金など129万円・生産効率の低さ(パナソニックの生産効率の10分の1)・流通コストの高さ(農家手取りの低さ 市場価格の40%以下)・収入の不安定(豊作・不作のリスク)・高齢者がいない(高齢化・限界部落化)・自給率が低い 米100%;小麦13%;大豆5%;野菜79%;果実39%;牛肉43%;豚肉52%;鶏肉69%;飼料25%(十把一絡げに論じるべきではない;稲作に補助金を出しても自給率改善には効果ゼロ)・農協の独占依存体質(機材・資材・販売まで牛耳っていて反旗を翻せば村八分的な仕打ち)様々な問題が個々に論じられているが(あらゆる場面に見られる日本の政治家や官僚の問題点)、それらを総合的・体系的に論じられることのないことが第1の問題です。(まず、全体的・構造的に捉える必要)大部分の問題は、どこかで聞いたことがあると思ったら、商店街の抱える問題点と共通していることです。(後継者不足・空き店舗の増加・経営が成り立たないなど)そもそも日本の農業は、専業ではなく兼業が前提として成り立っています。だから、大部分の農家には最初から経営者としての視点はありません。そこに、一律的に「儲かる農業」などという視点を持ち込むことに問題があります。まあ、ここで個々の問題を論じることは意味がないのでやめるが、15日にまた彼が東京への途中で寄ってくれるのでこんな宿題を出してあります。1.貴方にとって「魅力のある農業」とはどんな状態か?2.それに対しての現状はどうか?3.前2項から考えられる問題点(ありたい姿と現状のギャップ)は何か?個々の農家が、まずこの3点を考えることが農業問題のスタートだと思います。問題解決のイロハだが、答が楽しみです。夜は私の知人たちとの新年会に招待してあるので議論が発展するのが楽しみです。彼は、16日からの青山でのファーマーズマーケットのために23時40分発の夜行バスで東京へ向かいます。頑張れ若者!
2010.01.11
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諸法無我の教えの本質は、この世における存在には、始めから何もしがみつけるもの、執着できるものはないとして、私たちが勘違いして「ある」としてしまっている「我」についての妄想を止めなさい、「我」があるとして見ているのは、幻想・蜃気楼みたいなものですよ、実体はないですよ、つかめないですよと気付かせるためです。諸行無常なる変化をそのままの変化として、変化するものが全ての存在の現象であると受け入れて認めることで、「我」があるのだと錯覚して悩み煩う妄想を止めることが大切になるわけです。では、無常なる中における私たち人間の存在とは一体何であるのか?それを、仏教では五蘊仮和合《ごうんけわごう》のもの、つまり五蘊が因縁によって仮に集合しているものが私たち人間の存在であると言います。だが、その五蘊も移ろい変化するので固定した実体たる「我」はないため、五蘊それぞれも「自分のもの」ではなく、執着できるものではありません。私たちの苦しみは、五蘊にしがみついて「これが自分だ、これが自分のものだ」と妄想してしまうことから生じてしまうわけです。その妄想を打ち破ることが、諸法無我の理解においては大切となります。(何か難しいですね)
2010.01.11
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諸法無我は、自己としてそこにあるのではなく、つねに一切の力の中に関係的存在として生かされてあるという、縁起の事実を生きぬくことを教えます。一切のものには我として捉えられるものはないという考え方を徹底して深め、目に見えるもの見えないものを含めて一切の縁起によって生かされてある現実を生きることを教えています。このような共々に生かされて生きているという自覚の中にこそ、他者に対する慈悲の働きがありうるとするものです。普通、私たちは、存在について、自分がある、相手がある、生き物がある、モノがあると、その存在が常にあるものとして捉えてしまいがちです。しかし、それはそのものが常に変わるものではない、永遠に不変なる常住なるものとしての前提においてこそ成り立つことであり、諸行無常なることを無視してしまって、「我」というものを認めてしまおうとすればするほどに、そうではないことが、悩み煩いとなって、それが苦しみになるのです。それでも私たちは無理矢理に「我」を認めようと、何らかの理由付けを探すために想像をめぐらせて頑張るが、結局は妄想に終始してしまい、幻想・蜃気楼を見て、それを「我」だとして掴もうとするものの、決して掴めることはありません。
2010.01.10
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「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし」と方丈記にあるように、同じように見えても一切のものは時々刻々変化しているのに、我々は変化を繰り返し続ける中に、変化しないなにものかをとらえようとしたり、なにものかが変化してゆくのだと考えようとします。その変化の主体を想定して、それを我(が)と言います。 (注)古代インドの「有我論」(変化するものに主体としての変化しないものを想定)に対して、釈迦は「存在とは現象として顕われるのであり、変化そのものであり、変化するなにものかという主体をとらえることは間違いである」と指摘し、妄想された「我」に執着する心を破るために諸法無我を説いた。私たちは、知らず知らずの間に私自身の現存在を通じて、そこに幼い時から成長して現在にいたるまで肉体や精神の成長変化を認めながら、そこに「私」と呼ぶ実体的「我」を想定し、成長変化してきた「私」そのものをつかまえて、「私は私」であると考えます。しかし、諸法無我はそれこそ我執であるとして退け、変化をその変化のままに、変化するものこそ「私」なのだと説きます。
2010.01.09
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身体の調子が悪いとき、将来に展望が無いとき、自信があったのに期待はずれに終わったとき、他人から誤解されたとき、有りもしない悪口を言われたとき・・・、私たちは落ち込む原因には事欠きません。でも、人生は諸行無常、惨めな自分を嫌うことなく、「いつかはよくなる」と信じて、自分と仲良く過ごしていれば、心を覆っていた雲も晴れて明るい日差しも見えてきます。清水寺の森清範師は、「若い時代は、顔見たり様子見たりしている時は、花咲いているときやの。その間はいいの。一世一代の一番いい時期やの。一番いい時期に見て、惚れるの。人間、いつまでも若かったらそれでいい。言っている間に30になり40になる。50,60いうたら、カツラかむらないかんようにもなる。いつまでも若い気でいたらいいが、面倒になると扱いが悪くなる、始めの甘さが、酸うなったり渋くなったりするわな。諸行無常やからね。なかなか人生は花のようにはいかん。いつまでも若いと思っていると、大間違い。年寄りとは意見が合わんというてる間に、自分がその年寄りになる」と言う。人間も一切の事物も、ことごとく時々刻々変化しています。その可変性にこそ、生命の最も本質的な特徴があり、それこそが生命の必須の条件なのです。
2010.01.08
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さすが寒の内 嵯峨野も寒くなりました家の中は17度以下になることはなく暖房をしたことはないが(太陽さえ出ていれば窓際にいると暑いくらい)、さすが今日は外に出るとブルッとくる寒さで、外出の時には始めて足袋をはきました。(家の中では年中素足です)では鍋でもしようと、昼から練炭に火を付けて大根をコトコトと煮てぶり大根を作りました。そのあと、カキの土手鍋で一杯やっていたら、警報機が「空気が汚れていますと」と鳴り始めました。危うく一酸化中毒になるところ。でも、コンロの火が好きなんですよね。使っているコンロ自体、後輩が家で使うと警報機がうるさいのでと我が家に持ってきたモノです。就活原稿もやっと整理できました。図表も多くて150ページ余になったが、gooブログに順次掲載していきます。普通のマニュアル本ではなく、根本から生き方を考える内容なので(最終の面接の章を除いて)一般の方もお読みいただければ幸いです。数年間熟成してあった「快老記」もできれば上梓したいと某出版社に送りましたので、うまくいけば出版されるかもしれません。今年は、できれば娘とのコラボ本も出したいと思っているので楽しみです。
2010.01.07
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お釈迦様が、初めて悟りを開かれた『初転法輪(しょてんほうりん)』で、私たちの生活する娑婆世界の姿を、「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」(三法印)だとお説きになりました。「一切皆苦」(四苦八苦)を加えて四法印(しほういん)と呼び、これらは仏教の根幹をなすものとされています。私達の存在そのものが総ての苦をもたらし、生も死もその一つの様相に過ぎません。この世には、不変の実体を持ったものなど何一つ存在しないのです。平家物語は、「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」と無常を詠います。この世の総てのものは、絶えず移り変わり、実体のないものであるにもかかわらず、私たちは永遠に続くように錯覚し、それを失うまいとして執着することから苦しみが生じます。だが見方を変えれば、全てが変化し続けているからこそ、禍を福に変えることも、痛い失敗を新たな向上のために生かしていくこともできるわけで、変化の中にこそ未来への可能性が含まれています。人生を前向きに明るく生きていくことが、私たちを幸せに導くコツだと思います。
2010.01.07
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幸せというと、すべてが思いどおりに叶えられて、嫌なことが一つもないことのように思いがちだが、この世に思い通りになることなど一つもありません。それなのに、私たちは「生」を得た途端に、思い通りにならないことを思い通りにしようとして、様々な苦(一切皆苦)に遭遇します。だが、それも「死」によって消滅します。古代ギリシャに、こんな神話があります母親がヘラ女神の社に詣でる必要があったが、牛車の牛が畑に出ていて使えないので、二人の息子が牛の代わりに軛(くびき)につき、牛車を長い距離を牽いて行きました。用が済んだあと、母親は神に「あの孝行息子たちのために、この世における最高の幸せを授けてやってください」と祈りました。すると、神は、この祈りを聞き入れられた。その時、疲れて神殿で眠っていた二人の息子は、二度と目覚めることはなかった・・・。死によってあらゆる苦から解放され「この世で最高の幸せとは死である」と、この物語は伝えます。若死にすれば嘆き悲しみがちだが、それは決して不幸でも神罰ではなく、神が人間に与えた最高のご褒美といえます。本当の幸せとは、現実をありのままに受け入れて感謝し、希望に向かって明るく生きていく過程に感じるものです。
2010.01.06
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就活生向けのブログを始めたが、初日から200名近い人が読んでくれました。私がコンサルタント時代から貫いてきたことは、大上段に振りかぶらず、物事をごく簡単なことから考えることです。例えば、経営者や販売部門の方々には、よく「人は何故モノを買うのか」などと問い掛けます。こう単純に問い掛けられると、大概の人は答に詰まります。(gooのブログで3日まで連載した)でも、難しいマーケティング論を振り回す前に、この質問に的確に答えられなくて何がマーケティングかというのが私の思いです。企業の人も、私になれてくると「先生に単純な質問を投げかけられたときが一番怖い」と言われるようになります。キャリアプラン創りでも、「貴方は何故ご飯をたべるのですか」から始めることが多い。私たちは、毎日ご飯を食べるが、「何のためにご飯を食べるのか」→「生きるため」→「生きて何をするの」と聞いていくと答に詰まってしまいます。「食から哲学しよう」が私のモットーです。そういえば、豊田泰光(野球評論家)さんが松井選手の移籍について、次のように言って見えました。『本当はヤンキースに残りたかったかもしれないが、移籍したこと自体、松井秀(喜)にはいい経験になると思う。どこに行こうが人との出会いに無益なものはない。それが私の持論だ。(中略)出会いは名の知れた経営者や選手でなくてもいい。野球教室で出会う子どもも立派な師匠だ。「ホームランを打つにはどうすればいいですか」。こうもストレートに突っ込まれると、自分の無知がわかる。プロで本塁打を打っていても、ではどうすれば打てるかというと、教えるべきものを持ち合わせていないことに気づく。』この言葉は、どんなことにも通じることで、私の持論と同じです。皆さんも、物事を難しく考えるのではなく、単純に深く考えることをしてみませんか?それが、地に足のついた思考をする原点だと思います。◆宇宙からの写真です(何事も上から全体を捉えることが大切ですね)
2010.01.05
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物事をありのままに正しく見るには、心の濁りを取ることが大切です。私たちは、丁度、水に映った月や逆さ富士を見ているようなものです。釈迦も次のように言っています。ここに器に入れた水があるとしよう。もしその水が、赤とか青とかに濁っているとしたら、私たちが自分の顔を映してみても、ありのままに見えるわけにはいかない。それと同じく、私たちの心がいろいろな欲で濁っているときには、心が澄んでいないのだから、何を映してもありのままに映るはずがない。また、もしもその水が火にかけられて沸騰しているとしたらどうであろうか。そこに顔を映そうとしても、どうにもなるまい・・・。それと同じで、私たちの心が瞋恚(怒り)に燃えさかっている際には、何事も、ありのままには見られません。これに反して、その水が澄んで、沸騰してもいず、苔や草にも覆われていないときには、いつでも私たちはそこに自分の顔を映して、ありのままに見ることができます。それと同じく、私たちの心もまた、貪欲、瞋恚、愚痴(三毒)に災いされていないときには、万事をありのままに、正しく(つまり、独りよがりでなく)見ることができます。
2010.01.05
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三が日を終わり今日から仕事始めという人も多いのでしょうね。今年も若い人たちから沢山の年賀状をもらい、その中には結婚報告もチラホラと交じり嬉しい限りです。そんな一人にお祝いの言葉と祝婚歌を贈ったら、お母さんの方がむせんでいたと帰省先の新潟からメールが入り嬉しく思いました。脚本家の倉本さんは「人生の価値を、どれだけ金を稼いだとか、どれほど蓄えたかではなく、感動や笑いでどれほどの量の涙を流させたか、その量で自分の人生を量りたい」と言ったように、私も人の笑顔をできるだけ沢山見るのが今の生きる目的で、最高のお年玉でした。今年も心を込めて、自分の時間を若者たちのために使っていきたいと思います。みかん園の息子さんを東京にいる若者たちにつないたら、ここからも新しい出会いが始まりそうです。30を前にして、これからの人生を真剣に考え始めた若者からの便りもありました。今朝の朝日新聞には、以前このブログでも紹介した隠岐の島で活動をしている若者の紹介記事もありました。次代を担う若者たちを見ているのは楽しいものです。gooのブログでは、今日から就活生向けの記事も始めました。ブックマークから入れますのでご覧下さい。そして、学生たちに紹介下さい。◆八坂神社でのカルタ始め(3日)
2010.01.04
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人間は、身体の調子が良くないとき、将来にも展望が無く何もすることが無いとき、自信や展望があったのに期待はずれの結果に終わったとき、他人から誤解されたとき、有りもしない悪口を言われたとき、人づてに自分の悪い噂を聞いたとき・・・、落ち込む原因には事欠きません。そんなときどうするか?「本物のプラス思考は、究極のマイナス思考から生まれる」と五木寛之さんは言う。例えば、多額の借金を抱えてどうにもならない状況に陥って破産したとき、人から蔑まれ、体面や信用を失うかもしれない、家庭も崩壊するかもしれない。しかし、所詮人間はいつかは死ぬものだと思って、営々と築いてきたものを失い、あるいは捨てて裸一貫に戻ることの勇気を持ったとき、なお自分が生かされる新しい一筋の道が見えてくるのではないでしょうか?お釈迦様は、人間には「生老病死」という四つの思うにまかせぬことがある。だから、死を無闇に遠ざけずに、死から生を考え、病は人間の同伴者だと認め、老いを自然のリズムとして受け入れなさいと説きました。これは徹底した究極のマイナス思考だが、現実を直視した究極のマイナス思考から、本物のプラス思考が出てくるのだと思います。
2010.01.04
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少女ポリアンナの「うれしくなるゲーム」をご存じですか? どんなに悲しい時や辛い時でも、そこから喜びを見いだそうとするゲームです。例えば、召使いのナンシーが「月曜日の朝は大嫌い」と言うと、「月曜日は他の日より嬉しいはずよ。また月曜日がくるまで一週間もあるじゃない」と答えます。それからナンシーは憂鬱な月曜日の朝を迎えるときは、必ずポリアンナの言った言葉を思い出します。それがとっても効果があるだけでなく、思い出すだけで、ナンシーは笑いたくなります。そして、笑うことがまた役に立ちます。笑っているうちに、本当に楽しくなってくるのです。医者もポリアンナの「うれしくなるゲーム」が病気の人にはどんな薬よりもよく効くことを認め、看護人にその不思議な薬の成分はと問われて、「とにかく喜びを見いだすことのようだ。ただ喜ぶっていうのが主な成分かもしれないな。あの子の処方箋を書けたらいいのにな。そして薬のようにお金に換えられればね。でも、あんな子が世の中にたくさんいたら、僕らはリボン売りか溝掘りをする羽目になるかな」と言います。物は考えようです。どんなことでも笑い飛ばしていけば、心も自然とそうなってきます。
2010.01.02
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昨日、今日と、嵯峨野には風花が舞っています。弱々しい冬の陽を受けて輝く風花は、天からの贈り物ともいえます。華やかでどこか幻想的な風花だが、これが成立するには奇跡と言っていい ほどの偶然を待たねばならないようです。 小さな、小さな風花でも、それを平地にまで吹き寄せるにはかなり強い風が必要です。また、必要以上に暖かかったら途中で溶けてしまいます。地の果てまで見通せるくらい透き通った青空、そして強く冷たい風。これら偶然の巡り合わせがなくては風花は生まれないそうです。 ですから風花が通り過ぎる日は必ずと言っていいほど寒さ厳しい日です。辛く厳しい冬は、時たま御褒美のような美しさを与えてくれます。風花も間違いなくそのひとつでしょう。 窓辺で日向ぼっこをしながら原稿を整理していると暑いくらいだが、暮れからの寒さで少し風邪気味です。お酒で身体を温め、早く風邪を治したいと思います。皆様も、くれぐれも気をつけて下さい。◆うっすらと雪化粧の金閣寺
2010.01.02
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そして、「人・出来事・社会のマイナスの面ばかり見て、さらにマイナスの解釈をすることが心の癖になっている人」がいます。このような人にとっては、世界は「不満・不安・不信だらけのもの」と見えてきます。逆に、「プラスの面ばかり見て、プラスの解釈をするのが心の癖になっている人」もいます。このような人にとっては、世界は「満足・安心・信頼だらけのもの」と見えてきます。このように、「自分の心の癖」によって、「世界は全く違うものになる」ということです。だとしたら、まず「自分は世界をどんな風に見ている自分なのか?」と考える必要があります。ここでもっとも重要なことは、「自分はどんな風に世界を見たいのか?」ということです。私は、せっかく生きているならば、同じ世界を「プラスに見て、プラスで心を満たしたい」と思います。お釈迦様が説かれたのも、この世をどう過ごすかは心の持ち方次第であり、マイナス思考ではなくプラス思考の生き方をしろということです。
2010.01.02
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新年明けましておめでとうございます各地で大雪の新年らしいですが、ここ嵯峨野も屋根の上がうっすらと白くなっています。廊下から見える山焼きの鳥居も、うっすらと白化粧。その先に見える愛宕山には雲がかかっています。昨年までのことを真っ白に塗り隠し、チェンジへの準備が整ったようです。あなたは、今年何を代えたいと思いますか?昨日までの断食があけて、4日ぶりに飲む朝酒は格別です。尼さんに戴いた純米吟醸「越乃鹿六」にウットリとなっています。今年もまた美味しい酒が飲めそうです。今年は何にチャレンジしようかと思うが、久しぶりに本を出そうと思います。娘と一緒に「チョット真面目な大人の絵本」を出そうと準備を始めてから1年余が経つが(娘が忙しく)、今年こそは絵もできあがりそうです。後は出版社を探さないといけないが、シリーズ化を考えているので慎重に行きたいと思います。もう1冊は、自分用に書いた「快老記」を、今までは知人たちにCDで差し上げていたが、同年代が「病老死」に直面しだして広く読んでもらうためにできれば出版したいと思います。後はまた、老若男女との出会いを楽しみながら、面白おかしく過ごしていきたいと思っています。田舎の兄から餅が送られてきたが、皆さんはどうされていますか?・餅を黴びさせないためには、ワサビと一緒に保存すると長持ちします。・焼くときは十文字に切れ目を入れると綺麗に焼けます・オーブントースターを利用する場合は、奧に入れる方が良く、2分くらい放置すると中までふっくら焼けます。・電子レンジを利用するときは、水につけると全面綺麗に焼けます;1個1分目安(機種で違うので短めにしてコツを掴む・硬ければ20秒位追加)今年もブログを宜しくお願いいたします。別のブログで書いている「頑張れ商店街」はまもなく終わりにし、「就活 会社選びと面接」に切り替えようかと思っていますので学生諸君はお楽しみに。では、良い年にしてください!
2010.01.01
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真実は一つなのだが、物事をどちらから見るかで様相は180度違ってきます。例えば、あなたが車に乗っているときは歩いている人が横着でしょうがないと思うが、逆に自分が歩いている側になった途端に車の横暴さに怒りを表すことがあります。それは、どんな場合にも起こることです。物事がどのように見えるかは、心の反映にしかすぎません。つまり、「同じ世界を、それぞれが全く違うものとして見ている」、それが人間なのです。だから、お釈迦様も「誰からもよく言われる人も、誰からも誹られる人もいない」と言われたように、同じAさんのことを、Bさんは「本当に素晴らしい人だ」と言い、Cさんは「最悪の人だ」なんていうことが起きるように、ある人に対する評価なども人により大きく変わってしまいます。今の経済情勢に対しても「100年に1度の危機」という人もいれば、「100年に1度のチャンス」という人もいます。げんに、巨額の赤字を出して倒産する企業が多い仲で、「今をチャンス」と戦略を磨いて増収増益を続け最高益をあげている会社もあります。それは、人によって、「対象のどこを見て、どう解釈するか」が違うことから起きることなのです。
2010.01.01
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