全43件 (43件中 1-43件目)
1
猛暑日が2週間も続き、さすがにグロッキー気味です。ようやく「快老力」の校正が終わり、後は発売を待つだけになりました。私自身のために書いたものだが、多くの人に受け入れられれば嬉しい限りです。最後に、他の二人からのメールとともに、高校時代のマドンナからのガン闘病メールを転載することになり(亡くなった人から一方的に突きつけられるのは家族や旦那に可哀相という意見もあったが、本人からの希望もあったので)読み返しながら涙していました。何時も一緒に過ごしてきた人にも言えない心の内を打ち明けられ、返事に困ることもあったが、私に託された逝く人からの便りを皆様に読んでいただくことも一つの供養かと思います。私の姉二人も、お袋の命日を前に1週間の間に相次いでなくなったが、明後日は、彼女と義母(1ヶ月前に亡くなられた)の合同お別れ会があり、故郷に帰ります。このメール集を旦那(彼も同窓生)には渡さない方がいいと言う人が多いが、どうするか未だに迷っています。
2010.08.31
コメント(0)
視点を変えて、日頃どのような考え方で暮らしているかを考えて見て下さい。例えば、美しい桜の花が咲いたとします。桜の花は開花から散るまで、せいぜい二週間の命です。そのため、はかなさの代表としても扱われます。このはかなくも美しい桜の花が咲いたとき、私たちは「お願いだから散らないでちょうだい。もっともっと長く咲いててちょうだい」と勝手なことを思います。そんな思いの中で散っていく桜につい感傷に浸ってしまいます。庭に草が生えたとします。草の生えた庭は見苦しいので、「生えなきゃいいのに面倒くさい」といいながら不機嫌な気持ちで草取りをします。草は意地悪で生えているのではありません。種が落ちたところを命の場として生きているにすぎません。庭だから生えるな、というのは人間の勝手です。こんな風に人間というものは勝手な心で生きています。でも現実の世界は人間の勝手な心のいいなりにはなってくれません。そうすると、私たちは、悲しんだり、腹を立てたりということになってしまうのです。なにも花や草の場合だけではありません。あらゆることに勝手な心を向けていると、こんな風にならざるを得ないといえます。
2010.08.31
コメント(0)
どんなことでも、プラスの中にもマイナスがあり、マイナスの中にもプラスがあります。例えば、口下手で友達がなかなかできないとか、仕事の上でも損をしていると嘆く人がよくいます。それを治そうと思っても、なかなか難しいことです。そこで、その口べたというマイナスを逆に利用して、聞き上手になってみることです。「人間は話したがる動物である」と言った人がいます。だから、人の話をじっくりと聞いてやると、話を聞いてくれた手に好意を持ちます。そうすればきっと、話しやすい人と友達も増えることと思います。営業マンでも、「聞き上手は説得上手」と言われるように、話し過ぎる人よりも、人の話をよく聞く人の方が成績が良いようです。「病気のときでも不幸なときでも、これを利用して何か得することはあるまいかと考えることである。病気は確かに生活上の挫折ではあるが、それは必ずしも人生の挫折とはいえない。入院生活を通して学んだことや体験を利用することによって、生活上のマイナスを人生のプラスに置き換えることができた。そして、そこから、どんなことでも人生に起きるもので利用できないものはないと考えるようになった」と、長い病床経験のある遠藤周作さんは語ります。
2010.08.30
コメント(0)
人は、不遇な時を過ごして初めて大きな人間になれるとよく言われます。優れたリーダーと言われた人も、何らかの形で不遇時代を経験しています。西郷隆盛は島流しにあっているし、ドイツ留学もしたいエリートの陸軍医だった森鴎外は37歳のときに小倉に左遷されています。三井物産社長だった八尋俊邦は、入社10年目に大失敗を演じて二階級降格されています。彼らのその時の挫折感は大変なものだったろうが、こうした不遇の時代を乗り越えたからこそ人間的にも成長して大成したのです。でも、世の中には、不遇の時代をうまく乗り越えた人よりも、不遇の中で沈んだ人の方がはるかに多いはずです。では、両者の違いはどこから生まれるのでしょうか?躓いたり、失敗したり、思うようにいかないときは、は誰でも心の中に焦りを感じます。しかし、焦れば焦るほど、何もしても失敗することが多いものです。心配して腰が引けていては、成るものも成りません。そんなとき、「昨日は昨日、今日は今日、今日ダメだったとしても、明日があるのだからやり直せばいいじゃないか」と、目の前のことに一所懸命に生きていく姿勢が大切です。
2010.08.29
コメント(0)
仏教では、地獄のことを「自業苦」とも言い、自分の業によって苦しむことを言います。「苦しむ」とは、元々は「思うままにならない」という意味です。人間には、「ああしたい、こうしたい」「ああなって欲しい、こうなって欲しい」などという煩悩があるが、そうはならないことから苦しみが起きるわけです。老いたり死ぬことは、人間にとって最大の苦しみです。生きるとは、生まれた瞬間から死に向かって歩き続けることだから、年々若返るとか、永遠に死なないということはあり得ないわけです。それを、歳を取りたくない、死にたくないと、天地自然の法則に逆らおうとするから苦しむわけです。夫婦や姑などの関係にしても、元々は他人なのだから、うまくいかなくて当たり前なのです。それを、無理にうまくいかせようとするから苦しみが生まれます。この世に生きているということは、楽しみではなく四苦八苦の連続なのです。だから、その苦を否定しては楽になれるはずがありません。結局、地獄は自分の心が作っているのだから、苦を否定するのではなく、「それも仕方がないか」とあるがままに受け入れることです。そうすれば、むやみに苦しむこともなくなるはずです。
2010.08.28
コメント(0)
ベーブルースは、714本のホームランを打ったが、その裏では1330回も三振し、これはアメリカ野球史上並ぶ者のない記録です。彼のホームランに目を向けるか、三振に目を向けるかで、人生が違ってきます。よく悪い面ばかりを見て、不幸がっている人がいます。そんな人は、ベーブルースの三振王の面だけを見て「私の夫は三振王だから私は幸せになれない。こんな夫と結婚して、私はなんと不幸なんでしょう」と嘆き、隣の夫のホームラン王の面ばかりを見て「あなたのご主人は、ホームラン王でいいわね」と隣の芝生の青さばかりを羨んでいるようなものです。幸せな妻は、ホームラン王の面だけを見て、「私の夫はホームラン王で幸せよ」ときっぱりと言い切れます。何事にも二面性があります。自分や他人を見るときや、過去や現在を考える時にも、常にプラス面に目を向けるようにしたいものです。愚痴ばっかり言っている暗い人には、運もそっぽを向いて通り過ぎて行きます。元ヤオハンの和田さんは毎日日記を書いているが、良いことしか書かないそうで、どうしても悪いことを記さなければならないときは、「だからよくなる」と書くと言います。
2010.08.27
コメント(0)
何か心配事があると、そのごとに気を取られて、つい物事が見えなくなったり、人の言うことが素直に聞こえなくなることがよくあります。そして、そんなときには、何でも悪く考えたり、悲観的になってしまいがちです。後で思うと、なぜ、あの時は、あんなことが分からなかったのだろうとか、あんなことをしでかしたのだろうと不思議にも思えることがよくあります。それは、心が沈んでいるからです。心が沈んで一カ所にとどまって停滞し、固くなり、光を失い、サラサラと流れることを忘れているからです。心は水と同じで、一カ所に淀み、流れなくなると腐ってしまいます。そんなときは、ちょっと角度を変えてみると解決の糸口が見つかったり、ちょっと思いを変えてみると何でもないことになったり、ちょっと希望を持ってみると容易に乗り越えられたりするものです。お釈迦様は、「心が沈みそうなとき、心が沈んではいけない。明るく清らかに心を持って、暗い淀みにするな」と教えます。人生は諸行無常、惨めな自分を嫌うことなく、「いつかはよくなる」と信じて、自分と仲良く過ごしていれば、心を覆っていた雲も晴れて明るい日差しも見えてきます。
2010.08.26
コメント(0)
暑い日が続くが、お盆の送り火と共に高校時代のマドンナもあの世に逝きました。同級生が亡くなるというのは寂しいモノです。彼女とのメールのやりとりが、6月15日を最後に途絶えていて心配していたのです。(10月発売の著書にメールの一部を転載する了解を得ていたのですが)彼女のあの世への道すがらがこの詩のようであることを望んでいます。渡水復渡水 水を渡りまた水を渡り看花環看花 花を看てまた花を看て春風紅上路 春風紅上の路不覚到君家 覚えずして君が家(阿弥陀様)に到る
2010.08.25
コメント(0)
「菩薩は、無量の善法において、ただ功徳を見、ただ真実を見、決定して、他縁に従わず」(菩薩は、良いところのみを見、真実の面のみを見、決して何かに引きずられることはない)といわれています。世の中のすべてのことは、善意をもって見る場合と悪意を持って見る場合とでは、その姿が180度変わって見えます。何事にも、不平や愚痴ばかりこぼしたり、反対したりする人がいます。そんな人は、多分、不平不満という角度からしか物事が見えないのだと思います。逆に、どんな境遇の中でも、いつも楽しそうに明るく乗り切っていく人もいます。その人の心が、きっと明るいのでしょう。地位や財産は失えば終わりだが、そんなものをすべて捨て去った後に残るモノは何か?人を明るく楽しくさせる心が真の宝ではないでしょうか。この生存競争の激しい現代において、菩薩のように生きるのは難しいことだが、できるだけ明るい面、良い面だけを見て、少しでも世の中を明るく生きていきたいものです。
2010.08.25
コメント(0)
五体不満足の乙武洋匡さんが、3年間の任期付きで杉並区小学校教諭にされた経験を語ってみえた。3,4年生を受け持ち、初日に、「先生にはできないことがいっぱいある。みなさん手伝って下さい」と言ったそうだ。すると、自然発生的に「先生の給食配膳を手伝う係」ができただけでなく、やがてチョット困っている友達にも、普通に手を差し伸べられるようになってきたという。泳げない子供の前でプールに飛び込み、バタバタとおぼれかけたこともあるが、その子は顔を水につけられるようになったという。辛かったことは、子供たちとのことではなく、「自分だけいいカッコして」と最後まで冷たかった同僚の視線だったとか。これはよく聞くことで、私の知人の先生は学級通信を頻繁に出していたが、同僚から「自分だけそんなことをしてもらっては困る」(出さない先生が親から言われるので)と足を引っ張られていた。こんな話しもあります。障害を持った子が転入してきた。担任の先生は「大丈夫ですよ。皆で協力しますから」と気持ちよく受け入れてくれた。そして、何事もその子のペースに合わせて指導した。子供たちも、その子をクラスの仲間として自然と受け入れていった。ところが、学年が変わって新しい担任になり対応が全く変わった。体育の時間なら時間通りに着替えてグランドに出ることを要求するというように、何かにつけてクラスの足並みを揃えることを第一にする。すると、子供たちもそういう態度になっていく。この子はついていけない子だと受け入れなくなっていき、ついにその子は普通学級を諦めた。イジメや登校拒否、中学生や高校生の非行や犯罪など、子供を取り巻く環境は悪化する一方です。それらは、教育組織やシステムを幾ら議論しても解決しないと思います。子供の問題をいう前に、私たち大人が大いに自省することが大切です。
2010.08.24
コメント(0)
「家が狭すぎる」と不平ばかり言っている人に、釈迦は「では、あなたの家を広くしてあげるから、私の命ずる通りにしなさい」と言った。最初の日、「あなたの寝室に牛を一頭入れて、一緒に寝るように」と言われた。男がそうした翌日、「広くなったか」と問われて、「いいえ、ちっとも」と答えると、「では、今夜は牛を二頭入れなさい」と言われた。その翌日、また「広くなったか」と問われたが、男は「いいえ」と答えた。すると、お釈迦様は「では、もう一頭牛を増やしてごらん」と命じられた。そのようにして、牛がどんどん増えていき、男は牛の間に挟まって寝る場所もなくなってきた。お釈迦様に、「なんとかしてください」と男が言うと、「では、今夜は牛を全部追い出して、あなた一人で寝てごらん」と命じた。その翌日、「どうだい、あなたの家は広くなったか」と聞くと、男はしっかりと「はい」と答えた。現代の私たちも、あまりにも多くの文明の利器を詰め込みすぎて生活環境を狭くし、この男のように「狭い、狭い」と言っているように思えてなりません。これは、何事にも当てはまることです。見方、考え方を変えてみませんか?
2010.08.24
コメント(0)
残暑がひときわ厳しいですね。昨日は金閣寺の近く「しょうざん」で納涼床を楽しんだが、帰りに散歩がてらに歩くと、町のあちこちで地蔵盆が行われています。地蔵菩薩の縁日(毎月24日)で、なおかつお盆の期間中でもある旧暦の7月24日の宵縁日を中心とした3日間の期間におこなわれるが、今年は土日にかけて行っている所が多いようですね。地蔵盆は、道祖神信仰と結びついた路傍あるいは街角(辻)の地蔵が対象となっています。地蔵菩薩は中近世以降子供の守り神として信仰されるようになった。広く知られた伝説によれば、地蔵菩薩が親より先に亡くなった子供が賽の河原で苦しんでいるのを救うという。このことから地蔵祭においては特に子供が地蔵の前に詣り、その加護を祈る習わしになっています。今日では地蔵盆は子供のための祭とも言え、地蔵に詣った子供達は地蔵の前に集まった席で供養の菓子や手料理などを振る舞われる場合が多い。また地域の子供達が一堂に会するため、子供達に向けたイベントも行われたり、そのまま子供達の遊び場となることもしばしばです。
2010.08.23
コメント(0)
チャレンジする人は誰もが失敗するが、失敗に対する見方を変えたときに進歩が生まれます。失敗から学ぶには分析が必要です。1.どんな事象が、どう進行して、失敗に至ったか。2.原因をどう推測し、どんな対応をして、どう状況が変わったか。3.失敗でどのような影響があり、時間が経って分かった原因はどんなモノで、どんな背景が原因に結びついたか。失敗の原因を分析すると、せいぜい次の10通りしかありません。個人の無知・不注意・手順の不順守・判断ミス・調査や検討の不足・不適合(環境や条件が変わったのについていけない)・組織としての運営不良・企画不足・価値観不良です。失敗を防ぐには、仮想演習と逆演算(目に見えている結果から、まだ見えていない原因をたどる方法)の繰り返しが必要です。仮想演習は、原因→からくり(背景)→結果を意識し、よその失敗と同じような芽を探します。逆演算は、その逆に大ダメージ(結果)に結びつく原因とからくり(背景)を見つけることを行います。
2010.08.23
コメント(0)
昔から「四耐」(冷ややかなことに耐える、苦しいことに耐える、煩わしいことに耐える、閑に耐える)という言葉があるように、人には耐えないといけないときがあります。そして、そこから何を学ぶかです。安岡正篤は、「とにかく、日常絶えず追求すべき明確な目標を持ち続けていることだ。思索や反省と同時に、差しあたり毎日、今日はこれをしなきゃならん、それからあれをやるんだという、絶えず追及すべき明確な目標を持っているかどうかである。もっと突っ込んでいえば、とりあえず明日何をしなければならないかという問題を持っているかどうか。今日はもちろん、取り敢えず明日、少なくとも明日、これをやらなければならないという問題を持っているかどうかにかかっている」と言っています。突然、窓際族に追いやられたり、リストラで中途退職を余儀なくされる人も多いが、そうなってみて痛切に感じることは、閑に耐えることの辛さです。そして、人の世の冷たさにも耐えなければなりません。そんなときでも、自分の人生の目標さえしっかりとしていれば、どんなに周囲の人々に冷たくされようが耐えていけるはずだし、人間をも磨かれるはずです。
2010.08.22
コメント(0)
人間の欲求には、大きく分けると危機回避欲求(身体的な病気や障害、精神的な疾患や苦悩、病気や事故による死亡などを回避したい欲求)・優越欲求(実績・能力・地位等の相対的な優劣の尺度を用いて自分の優位性を確認したい欲求)・屈辱の回避欲求(嘲笑・侮辱・無礼・揶揄・愚弄・無関心などの言動を他者から取られないようにしたいとする欲求)があります。その昔、平家の大軍は水鳥の羽ばたきの音を敵の源氏の進軍の叫び声と錯覚して驚き恐れ遁走したというが、恐怖から事実にないことを事実にあるように思ったり、考えたりして悩む(つまり妄想する)のが私たち人間です。お釈迦様は「賢い人は病気になっても、心の病が少ないから肉体の苦痛だけで済む。愚かな人は、心と肉体の二重の苦しみを背負う」と言ったが、私たちはそれこそ色々と詮ないことを妄想して、二重の苦しみに落ち込みがちです。また、サラリーマンが左遷されたときなどは、様々に妄想して自暴自棄になりがちです。森林太郎(鴎外)は、陸軍の医務局に勤めていた時に小倉に左遷され、一時は絶望して「辞職をしようか」とまで思ったが、若いときに留学したドイツ文学の研究を志し、不朽の名作『即興詩人』を完成させました。
2010.08.21
コメント(0)
天皇に代わって伊勢神宮に仕えた未婚の皇女・齊宮が伊勢神宮に向けて旅立つ様子を再現する齊宮代が決まったが、あなたも行列(10月17日)に参加してみませんか? 全国より公募しています。(075-871-1972)でも、京都の祭の常として参加費用が入用です。(地元の方は半額)・官人・女官 3万円・小学生 2万円 稚児 5千円齊宮は野宮神社で3年間にわたって身を清め、500人の官人官女の行列を従えて、伊勢神宮に赴きました。齊宮制度は南北朝時代に途絶えたが、1999年に嵐山観光活性化のために行列を再現し、今年は12回目です。
2010.08.20
コメント(0)
『苦』は、自分の思うままにならないことを思うようにしようとする心から起きます。「餓鬼に無財餓鬼・少財餓鬼・多財餓鬼の三種有り」とインドの仏典『倶舎論』に書かれているように、餓鬼は財産の多寡には関係なく、「いま自分がある状態に満足しない」人のことを言います。 他人と比較して現状に満足することなく、「もっと、もっと」と際限なく飢餓感を膨らませていくのでは、いつまでたっても幸せを得ることができません。本当の幸せを手に入ることは実に簡単なことです。他人の眼を意識したり、他人と比較したり、ないものを願う心を抑えて、「今、ここにあるがままの自分」に素直に満足し、感謝して生きていけばいいのです。あるお寺に、次のような偈が書いてありました。人は自ら自分の世界を作り その中でもがき苦しんでいる愚かな人が自分で描いた夜叉の絵に 自ら脅えているようなものである心の清らかなときは極楽 心の汚れたときは地獄
2010.08.20
コメント(0)
人間が生きていく上で、人間の心というモノが非常に大きなウエイトを占めてはいるが、心だけがあっても何も起こりません。水だけがあっても風がなければ波が起こらないように、心だけがあっても外側から何らかの切っ掛け(縁)がなかったら何も起こりません。心と縁とが一つになって、ある結果が出てきます。外から入ってくるもの(縁)というのは、物質であったり、周りを取り巻く環境であったり、巡り合う人であったり、過去の記憶であったり、それこそ千差万別です。だから、生きている限り、心には次から次へと思うことが尽きません。そして、善因善果、悪因悪果というように、善い縁に触れれば良い結果が、悪い縁に触れれば悪い結果が生まれてきます。だから、善い縁に出会う努力が必要になります。でも、頭では分かっても、酒を飲めば美味いし、綺麗な人にあえば心がときめきます。凡人、無心になることなど、とてもできません。「心は万境によって転ずる」、これが人間が生きている証なのだから、嬉しいときは素直に喜び、悲しいときは素直に悲しむ。それでいいのではないでしょうか?
2010.08.19
コメント(0)
京都は相変わらず猛暑日が続きますが、日の出前の風は秋口を感じさせるように爽やかです。お盆も済み、霊もあの世に帰られたことでしょう。では、どこに帰られたのでしょうか?「人は死ぬとどうなってしまうのか?」という不安を取り除くために、人々は古くからいろいろな物語を紡いできました。それが宗教という形になって伝えられてきたのでしょうね。 お盆になると、キュウリとナスを使って人形を作って飾るところもあるが、これは、ご先祖達があの世から戻ってくるときにキュウリの馬で速く戻ってきて、あの世へ帰るときにナスの牛でゆっくり帰ってもらうように、と願ったものだそうです。(でも、これは元々神道の風習だったようです) ところで、「ご先祖様があの世から戻ってくる」というが、「あの世とはどこのことか?」という疑問がわきます。仏教では「極楽浄土」ということになっているが、この世から極楽浄土までは10万億土という距離があるといいます。 これは、光の速さで49日かかるそうです。だから、49日の法要があるのですかね?(1億年の10億倍という説もあります)ところで、昔の人の感覚では、あの世はせいぜい月あたりだったようです。象徴的なのが、かぐや姫でおなじみの「竹取物語」で、かぐや姫が月に帰るのは、亡くなった後のあの世のイメージではないかという説があります。亡くなっても、この世に戻って来られるようなところにご先祖様達はいる、これが日本古来の感覚なんでしょうね。まあ、「信じる者は救われる」ではないが、難しく「あの世があるか否か、どこにあるのか」などと考えずに、「ある」と思った方が心が安らかになります。夏バテがそろそろ表面化する頃ですが、冷たいものは控え、豚肉や刺身、ゴーヤなどを食べて英気を養い、明るく、楽しく、元気に秋を迎えたいものです。
2010.08.18
コメント(0)
喜怒哀楽の心が出てくる元のところは、喜びでも、怒りでも、哀しみでも、楽しみでもありません。何もないところから、それらが出てくるのです。鏡に例えると分かり易いかもしれません。鏡自身は本来無色だが、赤いものを持ってくれば赤く映り、青いものを持ってくれば青く映ります。取り去ってしまったら、何も無くなります。人間の心というモノも同じで、何らかの縁に出くわすと、哀しみや怒り、不安や、喜びや哀しみなどが生じてくるだけです。心というモノは、元々何も無く、縁に応じてコロコロと千変万化します。つまり縁起です。川の水がどんなに激しく流れていても、そこに映った月は流されることなく、じっとそこにあります。それと同様に、煩悩を刺激する危険なものが溢れた世の中だから、表面的なものだけに心を奪われていると、渦巻き、千変万化する煩悩の流れにのって、とんでもないところに流されてしまいかねません。人間の心から、すべてが起こってくるのです。しかし、その心そのものは「空」です。今の時代に生まれたという縁があって、今、この世界が展開しているのです。
2010.08.18
コメント(0)
不安というのは、詮無い妄想から生まれます。それは、目の前の事実に集中せずに、自分の心が過去や未来、自分以外にむいていることの証です。若いときから多病を抱えて修行に励み、84歳の長寿を全うされた白隠禅師は、「病気が人間を殺すのではなく、妄想が人間を食い殺すのだ」との名言を残されました。私たちの悩みや苦しみというものも、このような心が創り出した幻影だから、心の持ち方一つを変えることで心安らかに過ごせるというのが仏教の教えです。だが、頭ではそうと分かっていても、それができなくて苦にさいなまれているのが私たち人間の姿とも言えます。誰しも不安や悩みが尽きないが、それを解消するには、「事実」と「思い」に分け、その原因を客観的に書き出してみることです。不安などというものは、今現実に起きている問題ではなく、頭の中でいろいろと妄想して創り出した架空の物語にすぎません。問題を書き出してみて、その原因を考えてみると、たいした問題でないことが多いものです。また、原因が分かれば対応も簡単です。・解決策がわからないという不安 → 聞いたり調べたりすればいい・解決策は分かっているが巧くできるか不安 → 徹底的に練習すればいい
2010.08.17
コメント(0)
8月16日夏の夜空をいろどる五山送り火は、祇園祭とともに京都の夏を代表する風物詩の一つです。東山如意ケ嶽の「大文字」がもっともよく知られ、それゆえ送り火の代名詞のごとくいわれているが、そのほかに金閣寺大北山(大文字山)の「左大文字」、松ヶ崎西山(万灯籠山)・東山(大黒天山)の「妙法」、西賀茂船山の「船形」、及び嵯峨曼荼羅山の「鳥居形」があり、これらが、同夜相前後して点火され、これを五山送り火とよんでいます。大文字に代表される送り火の起源について、それぞれ俗説はあるものの不思議と確実なことはわかっていません。(これだけは珍しく文献がない)送り火そのものは、ふたたび冥府にかえる精霊を送るという意味をもつ宗教的行事であるが、これが一般庶民も含めた年中行事として定着するようになるのは室町から江戸時代以後のことであるといわれています。古くは旧暦7月16日の夜、松明の火を空に投げ上げて虚空を行く霊を見送るという風習を記した史料があります。これに対して現在の五山の送り火は山において点火されるという精霊送りの形態をとっています。朝からの暑さにうんざりして清滝に行こうと歩き出すと、夜の送り火の準備に保存会の人たちが立ち働いていました。この頃は護摩木の集まりも悪いようです。川で捨てられた浮き袋でプカプカ、涼しくて極楽。
2010.08.16
コメント(0)
私のお墓の前で 泣かないでくださいそこに私はいません 眠ってなんかいません千の風に千の風になってあの大きな空を吹きわたっています秋には光になって 畑にふりそそぐ冬はダイヤのように きらめく雪になる朝は鳥になって あなたを目覚めさせる夜は星になって あなたを見守る私のお墓の前で 泣かないでくださいそこに私はいません 死んでなんかいません千の風に千の風になってあの大きな空を吹きわたっています千の風に千の風になってあの大きな空を吹きわたっていますあの大きな空を吹きわたっています 「千の風になって」迎え火、精霊流し、送り火、お盆の行事が各地で行われ、お盆で帰省された人も多いと思います。家族や地域社会の崩壊が目に付くこの頃だが、まだまだ地方では伝統が息づいています。そんななかで、「自分の次は、誰が墓を守るのか」と、不安を抱く人が増えています。とくに地方の墓地では空洞化が進み、墓地を維持する人も高齢化して草ぼうぼうというところもあります。草が生い茂り、長年誰も訪れた形跡のない墓や、地震などで倒れたままの墓石、それらを墓の行き倒れと呼ぶ地方もあるようです。「自分の代でけじめをつけないと、子供に迷惑をかける」と、代々の墓から遺骨を取り出し、海や山に散骨し、墓じまいをする人も増えているようです。一方、都会では墓地不足が深刻化し、お墓のマンションが人気です。都心にも近く、気軽に墓参りができるのが魅力のうえに、「草むしりも墓の掃除も、なんにもいらないから気に入っている」と利用者は言います。少子化が進み、墓守を子供らに頼れない人のために、永代供養を歌う墓も増えています。スチール製の可動棚に骨壺がズラリと並び、25年間安置された後は、ほかの人の遺骨と合祀されるのが原則のようです。ある住職は、「墓を持たなければいけないというこだわりや面子は薄くなってきている」と言う。墓地埋葬法では墓地以外に遺骨を埋めることを禁止しているが、散骨は想定していず、1990年代くらいから「千の風になって」の影響もあってか、散骨や樹木葬を始め葬送の方法は驚くほど多様化しています。
2010.08.15
コメント(0)
「広大智慧観」とは、文字通り広大な智慧のことです。"智慧"は"智恵"とは違います。智恵は人間の感性から見た正しい"道理"だが、智慧は仏教の覚りから観た正しい"真理"のことです。人の「道理」と仏の「真理」との間には雲泥の開きがあります。広大とは大宇宙ということです。すなわち「智慧」とは三千大千世界(仏教の世界観における広大無辺の世界)の真骨頂のことです。「悲観」とは、抜苦(ばっく)であり、人の苦しみを取り去ることです。「慈観」は与楽(よらく)であり、人に楽を与えることです。この「慈観」と「悲観」とが合わさって「慈悲」になります。よく観音さまは慈悲の仏さまとも言われるが、それはこの抜苦と与楽の願いを聴いてくださる仏さまだからです。以上これらの五観を「常に願い、常に瞻仰すべし」とお釈迦さまは説いておられます。五観は観音さまが常にお持ちの"真実"だが、それは観音さまだけの特権ではありません。観音さまを心から信仰することによって誰でも自らその五観の徳にあやかることができると説かれています。以上、観音経の説いていることは、まさに問題解決のための神髄といえます。
2010.08.15
コメント(0)
観音さまの「観」の字は真理を観(み)るという意味で、真観、清浄観、広大智慧観、悲観及慈観を観音さまの「五観」と言います。私たちが物事を対処する時、さまざまな見解や認識によって判断し行動します。その見解や認識が間違っていたら当然間違った判断による行動が伴います。どんな事物にも真理があります。その真理を間違えないために必要なものがこの「五観」なのです。まず初めの「真観」とは、真理を透観する心の眼です。仏教の真理を表しているのが諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三法印(「一切皆苦」を加えて四法印とすることもある)で、これらはこの大宇宙の真理実相を示した言葉です。次の「清浄観」とは、清らかな心の眼のことです。"清らかな心眼"とは偏見やわだかまりのない純粋無垢な心のことです。人の心はどうしても主観に左右されます。その主な原因は自己愛、肉親愛による偏愛です。自己や肉親に対する愛情は人として当たり前のことです。しかしそれこそ偏愛なのです。政界や財界、寺院などの世襲制の問題も、まさに肉親に対する偏愛によるものです。偏愛が後継者を肉親に限ってしまっているのです。しかし偏愛こそ私利私欲の根源なのです。そんな偏愛のまったくない心こそが「清浄観」です。
2010.08.14
コメント(0)
苦しみののこる つたない別れをしたのです未練ののこる さびしい別れをしたのです痛みののこる つらい別れをしたのですそして ある日 突然に予期せぬ訣れがありました取りもどせない不意の訣れがありました諦めきれない永遠の訣れがありました いつか みんなある日 ある時 わかれの日わかれて そしてそこから始まる ものがたりわかれて そしてわかれて そして 「わかれて そして」里みちこ故郷にお帰りになり、墓参りをされた方も多いでしょうね。デスク横の書類棚に、随分と以前に常寂光寺で里さんにお会いして買ったこの詩が貼り付けてあります。この歳になると、幾つもの別れがありました。その中には、まさにこの詩そのもののような別れもありました。その痛みを忘れないために貼ってあります。今年あたりは、墓を探してお参りをしてみたいと思いつつも・・・
2010.08.13
コメント(0)
生きたいという煩悩は、人間にとっては最大のものです。ですから、私たちの心から死の恐怖が離れません。「自我も本来はないものであるのに、これが実在だと思う」顛倒、これがあるために死の不安があるともいいます。お釈迦様は、本当の自分を知らない人は次の四つのことを錯覚していると説きます。「常」 この世には何一つして不変のものなど無く、形あるものは壊れ終わりを迎えるのに、全てがいつまでもあるように錯覚しがちです。例えば、自分もいずれ死ぬ身なのに、いつまでも今の状態が続くものと思いがちです。「楽」 この世は四苦八苦で忌むべきものなのに、この世は願わしく楽しいものだと錯覚しがちです。快楽を追い求めれば、かえってその分苦も嵩じさせ、度を過ぎれば信用も失うのに、欲望の赴くままに楽を追い求めています。「浄」 人間の身体も世界も不浄に満ちたものであるのに、そのことに気づかず、外見だけを美しく、清らかに装って満足しています。「我」 自分の肉体を分解していけば原子となり、最後は分からないものになる。心も「これが心だ」と呼べる実体はありません。このように、これが我=私と呼べるものは何も存在しないのに、我にこだわっています。
2010.08.13
コメント(0)
一切の迷いを抜け出された仏様の眼から見ると、私たちは我欲・渇愛という色眼鏡でこの世を見て凡夫の四顛倒引き起こし、くだらないものに惑わされてあくせくと生きているのです。私たちにとって本当に尊いものは、財貨や名聞のようなものではなく、空気や日光のように絶えず身の回りにあるのに気がつかない、損得やプラス・マイナスの尺度では量れないものです。だが、私たちは煩悩の瞳で見てしまうために、損を得と思い、良い物を悪い物と思い込んでしまっています。しかも、楽をして手っ取り早く得ようとしがちだが、そんな虫のいい話はありません。仮に上手く手に入ったとしても、新聞紙上を賑わすニュースのようにやがて信用も富や名誉も失ってしまいます。お釈迦様は、万物が変化するという事実を認めない私たちの「無知」が「迷い」を生み、迷いが「欲望」を生み、欲望が「執着」を生み、執着が「苦しみ」を生むと仰いました。そして、現世を「明るく、楽しく、心豊かに、幸せに暮らす」ための智慧をお説きになりました。仏様は当たり前の現実のことを説かれ、いつの世にも変わらない法則、因果の道理を教えて下さいます。それらを知るためには、「四聖諦」と「八正道」を学び実践することです。
2010.08.12
コメント(0)
鎌倉時代、時の幕府の執権が夢を見た。神様が夢に出てきて、「青砥左衛門尉藤綱に加増してやれ」と告げられ、早速、執権は藤綱への加増を命じた。だが、藤綱は断った。「どうして」と訝る人々に、彼は「手柄があって加増されるのであれば、それは嬉しい。だが執権が夢見て、それで加増されるのであれば、今度は執権が『藤綱の首をはねろ』という夢を見られたら、自分は首をはねられることになる。そうなっては大変だから、お断り申し上げたのだ」と説明した。話が逆で、「神のお告げで藤綱の首をはねろ」と言うのなら、大抵の人はおかしいと思って反対するだろう。ところが、おいしい話だとそうは思わない。まことに自分勝手なものです。多くの詐欺事件も同じです。先に美味しい話があるから、皆だまされるのです。神様に御利益を願う人は、ここのところをしっかりと覚えておくべきです。いわれのない御利益を授けてくれる神様は、またいわれのない不幸も授ける神様なのです。世間でいわれのないおいしい話に出会ったら、眉に唾して、後の悪い結果を想像してみることが大切です。世の中に、いわれのないおいしい話などあるわけがありません。
2010.08.11
コメント(0)
臓器移植が新しい局面に入りました。少し考えてみたいと思います。「死」の伝統的な定義は、「心臓死」=心臓、肺、脳機能の停止を確認する「三点死」でした。←心臓が止まれば、血流が停止し、やがて脳も死ぬ。逆に脳機能が停止すれば、心臓も止まる。「脳死」とは、生命維持装置によって人工的に心臓や肺は動いている(=体は生きている)が、脳機能が停止した状態を言います。脳死という概念は、臓器移植を可能にするために作られたものです。←心臓や肺や肝臓は、心臓停止後では、移植できない。臓器移植をしないなら、脳死判定をする必要はありません。問題提起1 臓器移植に都合がいいように死の定義を変えていいのか?心臓移植の当初は生存率も低かったが、70年代後半に免疫抑制剤(サイクロスポリン)が向上し、生存率が伸びた。(アメリカのデータでは、心臓移植後の生存率は、1年後で79.4%、5年後で65.2%、10年後で45.8% )アメリカでは、毎年2万件近くの移植が行なわれている。(移植の希望者は、その倍以上いる。)臓器不足は深刻であり、そのための問題(臓器売買など)も生じています。問題提起2 高額の医療費がかかりお金のある人だけが生き延びて良いのか?◆シアトルの「神の委員会」―誰に生き残る権利があるのか?腎臓の透析が始まった1962年、シアトルのスウィーディシュ病院では、17人の患者に透析を行うことができたが、透析を必要とする患者はそれより遥かに多かった。そこで患者の選択に関する意思決定をするための委員会が作られた。委員会は地域社会を代表するのにふさわしい構成となるように、聖職者、弁護士、労働団体の幹部、州の役人、銀行員、外科医の7人に加え、透析の専門医2人がアドヴァイザーとして参加した。当初、患者は、透析の費用(年間2万ドル)を負担できる、45歳未満のワシントン州在住者に限られたが、それでも数が多すぎた。そこで委員会は、候補者が定職に就いているか、子供を扶養する親であるか、教育を受けているか、意欲は強いか、すぐれた業績をあげているか、他人に役立つ何らかの能力があるか、を検討事項に加えるようになった。この事実は『シアトル・タイムズ』や『ライフ』など雑誌や新聞に取り上げられ、「誰が生き、誰が死ぬべきかを決めるという、神のような役割を演じている」<神の委員会>だと非難された。◆ジョン・ハリスが呈示した「生き残るための抽選」というモデルもあるいま、臓器移植の技術が向上し、臓器移植で完全に病気が治るようになったと仮定する。すると、心臓病と肝臓病で死にかかっている二人の病人が、病院の近くにいる誰かを捕まえてきて殺し、その臓器を自分たちに移植しないなら、自分たちが死ぬのは医者の責任だと主張し始める。しかし実際にそんなことを実行したら、社会不安を引き起こすだろう。(例えば、病院には恐くて行けなくなる。今でもそうだが。)そこで次のような、臓器提供の抽選制度を作ることにする。社会のメンバーのうち、健康な者には全て抽選番号が与えられる。どうしても必要な臓器が「自然」死によって入手できない場合、医師はコンピューター・プログラムでランダムに数字を選び、その当選者は、自分の健康な臓器を病人に提供しなければならないものとする。そうすると、一人の犠牲によって、少なくとも二人以上の病人が助かるから、現在よりも多くの人が健康で長生きできるようになる。(ただし、例えば、煙草の吸いすぎで肺癌になった者など、不節制で病気になった人は自業自得だから、対象外とする。)これは、功利主義の原則「最大多数の最大幸福」によって判断すれば、「善い」ことである。反論(1) くじの犠牲者は何の罪も無いのに殺されるのは非人道的だ。再反論 自分の臓器の病気のために死ぬ病人にも罪は無い。健康な人は、たまたま運がよくて健康なだけで、病人よりも生きる値打ちがあるという訳ではない。反論(2) 病気で死ぬ人を放置することと、健康な人を殺すこととは道徳的に別である。再反論 多くの人の命を救うのを避けて通るのも、結果的に殺人になる。何もしないで放置することも、行為である。消極的に死ぬに任せることと積極的に殺すこととの違いに基づいて、これに反論しようとするのは、救うことが出来る命を放置して死なせるのは、結果的に殺人になるのではないか、という問いを避けているだけだ。医者に限らず科学者は誰しも、目の前にある新事実や新技術を試してみたくなるもので、それはまるで、幼児が玩具をいじりたくなるような心理だ。核分裂の方法を発明した科学者が、やがて原爆をつくり出したのも、科学者の欲望がとめどないものであることの証拠といえる。医者が臓器移植を行いたい気持ちのどこかに、そういう科学者根性がありはしないか。患者の命を救いたいという崇高な使命感だけが彼らの動機のようにいい、あたかも正義を行うように高姿勢だけれど、もしそういう崇高な精神があるのなら、もっと違うところに、いくらでもその精神を発揮することがあるはずだ。日本中のどこの病院でも見られる医療の荒廃などは医者たちのちょっとした努力で改善できる。心臓移植といった突出した技術が脚光を浴びるのではなく、日常的な地道な医療に力を注ぐほうがどれほど大切か知れない。(内田康夫『遺骨』より)臓器移植は究極的には脳移植に行き着くと思うが(この間、脳移植した警官と暗殺者の二人が戦う小説を読んだばかりだが)、そうなったときの世界が恐ろしい。科学者に大切なのは、「できる」からやるではなく、「やっていいこと」か「やってはいけないこと」かの倫理観ではなかろうかと思います。
2010.08.10
コメント(0)
武田信玄が信濃に兵を進めたとき、家臣たちが、一羽のハトが飛んできて陣屋の樹の枝にとまったのを見て、「このたびの戦が大勝利を収める前兆だ」と喜ぶのを聞いて、信玄は鉄砲を持ってこさせてハトを撃ち落としてしまった。訝る家臣たちに、「大事な戦の前に、つまらぬ迷信に左右されるな。もっと腹を据えてかかれ」と叱責した。確かに、それ一回だけのことであれば、その吉兆を使って家臣たちを勇気づけることができたかもしれません。だが、一度その吉兆を使うと、次の戦のときにも人々は吉兆を求め、吉兆が見られないとなると不安になります。その挙げ句、不安の心が凶兆を作り出さないとも限りません。人間というものは弱いもので、必ず惑わされるようになるものです。だから、信玄はきっぱりとハトを撃ち落としたのだと思います。私たちも、何か不安を抱えていたり心に悩むことがあると、藁をもつかむ気持でインチキ宗教に頼ったり、占いに凝ることがあります。悩みなんて心の持ち方の問題だから、案外それが有効な場合もあります。だが、一度そうやって心が甘やかすとその後が大変です。
2010.08.10
コメント(0)
達磨大師が壁に向かって坐禅をしていると、神光という中年の侍がやってきて入門を乞うが、達磨は知らん顔をして坐禅を続けています。一晩立ちつくして弟子入りを乞うてもダメなので、ついに自分の左腕を切り決意の程を示します。すると、達磨が振り向いて問います。「何をしに来た」「弟子入りをさせて欲しいのです」「何故、弟子入りをしたいのか」「わたしは不安で、不安で仕方がないのです。我をして、心を安んじめよ」「それなら、不安であるという心をここに持ってこい」 「心不可得」(心を持ち出すことはできません)「汝、安心し了(おは)れり」(お前さんは、もう安心しているではないか)その途端、神光は悟りを開いて達磨の弟子になったと言います。つまり、「(現代で言えば)ノイローゼになっている心を持ってこい」と言われて、「そのような心というものは持ってはこられない」、つまり「そんなものは、元々無いもの、つまり心が創り出す幻想に過ぎない」と悟ったわけです。
2010.08.09
コメント(0)
今までみてきたように総ては心の問題です。仏教では「三界(欲界・色界・無色界でこの世のあらゆる存在をいい、いずれも迷いの世界)は唯心の造るところ(各個人にとっての世界は、その個人の表象=イメージにすぎない)」と言うが、私たちは心自体を見ることも触ることもできません。だが、私たちは日頃、心によって悩み、心によって怒り、心によって憎み、心によって喜び、心によって楽しんだりしています。例えば、病気になると「死ぬのでは」と不安になります。でも、死んでしまったら意識がなくなるのだから、すべてお終いで怖いも何も感じようがありません。なのに「何故、怖いか」というと、「死にたくない」という心(煩悩)が、死への恐怖心を与えているのです。つまり、心(煩悩)があるから怖いのです。身心を悩まし、煩わせ、惑わし、悟りの実現を妨げるあらゆる精神作用を煩悩といいます。従って、私たちには108の煩悩(古代インドでは108 やその他大きい数字は大抵「大変多い」という意味を表す使い方をされていて、数字自体にはあまり意味はない)があるというが、この煩悩をどう制御するかが、私たちが安樂に生きるための最大のテーマと言うことになります。
2010.08.08
コメント(0)
「事業をやっていると、不渡り手形をつかまされたり、取引先が倒産したりといろいろ事件が起きる。そんな時に、“火傷程度で済んでよかった。命まで取れなかった”と前向きに受け止められるようになった。以前なら、“こん畜生”と人を恨んだり、あれこれと悩んだものだ。それが、天風先生の著書を通して、積極的、肯定的なものの考え方を教えられた。過ぎ去ったことに拘泥するのではなく、前を向いていこうという考えりなりました」と稲盛さんも言う。「人間はこの世に(客として)やってきたと思えば、苦労はないものだ。満足できる食事が出されたら、それを“ごちそうさま”といただけばよいのだし、満足できないときであっても、自分は客であるのだから、これをほめて食べなければならない。夏の暑さも冬の寒さも、客であるのだからじっと耐えなければならない。子供や孫、兄弟たちも、自分と一緒にやってきた相客であると思って仲良く暮らし、心を残さずにさらりと辞去せねばならない」と沢庵和尚の『結縄集』にあります。客としてこの世に来たと思えば、少々の嫌なことも我慢できるし、そうそう好き嫌いも言っていられないし、何事もほどほどにしないといけないと思えてくるはずです。
2010.08.07
コメント(0)
調査が進むにつれ高齢者の不明者が増えています。19年版国民生活白書を見てみると○近所付き合いの程度・親しく付き合っている 38.9%・立ち話をする程度 30.1・挨拶をする程度 24.9・ほとんどない 5.9○地域との繋がり・とても感じる 42.4%・少し感じる 34.6・あまり感じない 17.9・感じない 3.7○家族との接触頻度・ほとんど毎日 19.0%・週1回以上 25.0・月に1,2回 24.7・年に数回 12.2・ほとんど無い 1.4・別居、子供無し 9.4昔話『こぶとりじいさん』をご存じですね。山仕事に行ったおじいさんは、雨宿りをしているうちに寝入ってしまう。フト目を覚ますと、鬼たちが飲めや歌えやの酒盛りをしている。見ているうちに恐怖心などなくなり、何となく楽しくなってきて、気がついたら踊りの輪の中に入って一緒に踊っていた。鬼というのは一般大衆。その一般大衆の輪の中へじいさんはおめず臆せず入っていき、皆と歌い踊り、喜び、共に生きた。じいさんは愛嬌者。大衆に好かれて、大衆にもて、大衆が離さない、帰そうとしない。じいさんは居て欲しい人、居れば居たで何かを与え、何かで人を喜ばす人。そんなじいさんの人格が、結局はほっぺたのコブを取り去らせた。コブは一種の塊であり、偏屈さ、頑固さ、一徹さの象徴である。鬼がコブを取ってくれたのではあるが、じいさん自身の人に好かれる人柄、人徳から我が身の徳でコブを取ったということではないか、と嵯峨野の長澤普天和尚は語る。歳をとっても偏屈になったり尻込みするのではなく、皆と交わり楽しむ、そうすれば誰からも好かれる年寄りになれる。そして孤独死もなくなる。皆さんも『こぶ取りじいさん』を心掛けてみませんか?
2010.08.06
コメント(0)
Aさんは百万円もする素晴らしい壺を持っていて、普段から、「この壺はお父さんの宝物だから絶対に触らないように」と言っていました。でも、「触るな」と言われると、余計に触ってみたくなるのが人情です。ある日、お父さんの留守に、その壺を手にとって撫でたりさすったりしているうちに、手を滑らせて割ってしまったとします。さあ、お父さんはどうするでしょう?カンカンになって怒るのが普通だと思います。でも、その壺を自分が過って割ってしまったとしたらどうでしょうか?自分の失敗は咎めるわけにもいかず、ちょっと肩をすくめて残念そうな顔をするものの、それでお終いのはずです。「落として割った」という事実は同じでも、人間は自分のした悪いことは一センチにも思わないが、他人のしたことは何メートルにも思うものです。だから、他人のしたことには怒ります。人間は、こんなにも自己中心的な生き物で、互いに奪いあったり押しつけたりすることに終始して、相手を受け入れようとしないところに人間関係の難しい原因があります。良い人間関係の構築には、自分の心がどれほど他人に開かれているか、他人を入れるゆとりがあるかにかかっています。
2010.08.06
コメント(0)
仕事が思うようにいかなくてイライラしたり、人と衝突してムシャクシャしたり、失敗に拘ってクヨクヨしたり、こんなときにどう気分転換をするかです。例えばタクシーに乗ったとき、運転手の応対が悪いと誰でも不快になります。そんなときは、降りるときに、運転手に嫌みや文句の一つも言いたくなります。でも、そうしたからといって、果たして気持ちが落ち着くでしょうか?嫌な気分を何時までも引きずり、他の人にまで嫌な気分をまき散らしたりしがちです。運転士も益々面白くなくなり、次のお客さまにはもっと応対が悪くなるかもしれません。逆に、降りる時に「ありがとう」と一言いってみてはどうでしょうか。その方が自分自身ずっと気分がよく、後に嫌な気持ちを引きずらないで済みます。そして、タクシーの運転手も、次のお客様を乗せたときには、もう少しましな応対をするのではないでしょうか?また、配転、出向、左遷はサラリーマンにつきものだが、「なぜ、この俺が」と不満を抱き、しかめっ面で赴任地に赴き、仕事にも身が入らないのが普通です。それでは、益々悪の循環が起きます。苦や不遇から立ち直るには、他人のせいにせず、自分から前向きに対処するしかありません。
2010.08.05
コメント(0)
111歳の男性が32年前に亡くなっていたのに続き、113歳の都内最高齢とされた女性も所在が突き止められないという。それに伴う調査では、全国で100歳以上の不明者が14名いると報じられています。内閣府が4月2日発表した「高齢者の地域におけるライフスタイルに関する調査」によると、誰にもみとられず亡くなった後に発見される「孤独死」について、60歳以上の高齢者の43%が「身近な問題」と感じていることが分かった。世帯類型別では、独り暮らしの65%が身近と回答、夫婦2人暮らしでも44%が身近だとした。大都市に住んでいる人ほど孤独死を心配する傾向が強く、東京23区と政令指定都市に住む人で47%に上った。人口10万人未満の市では39%だった。孤独死を身近に感じる理由は「独り暮らし」(30%)が最も多く、「近所付き合いが少ない」(26%)、「家族、親せきと付き合いがない」(11%)と続いた。また、内閣府が併せて発表した「高齢者の日常生活に関する意識調査」では、将来の日常生活に不安を感じる人が72%と、5年前の前回調査より4ポイント上昇。大阪での児童遺棄による二人の子供の餓死など、これは何も高齢者だけの問題ではありません。希薄になった家族や地域のつながりは、あらゆるところで様々な問題として吹き出しています。特に都会においてマンション生活をしていると人間関係の煩わしいことが無くて良い反面、(私もそうだが)地域の人との交わりもなく孤立して誰とも話すことなく日が過ぎていきます。人と交われば軋轢も起きるが、その反面楽しいことも多く、自ら交わりを求めていくしかないのでしょうね。
2010.08.04
コメント(0)
誰でも、腹が立ったり、カッとすることがあります。そんな時にどうするか?「許すというのは、忘れることだと思っています。何か嫌なことをされたり、自分にマイナスになるようなことをされたとき、それをできるだけ早く忘れてしまうことが許すことなのです」と、元東宮侍従の浜尾実さんは仰います。でも、心にグサッと刺さったものは、そんなに簡単に忘れられないものです。結局は、自分自身との闘いです。自分の中にある憤り、怒り、憎しみ、復讐心、そんなものとの闘いです。人を許せないということは、結局、その自分との戦いに負けたということです。自分に勝てる人こそが、一番強い人なのだと思います。それが、自己統制とか、自己コントロール、古い言葉で言えば修養ということになるのだと思います。会社でも、嫌な上司がいたり、何故かいつも衝突してしまう人がいたりと、何かと憤りを感じることもあります。しかし、相手にガツンと一撃を加えたところで、果たして本当に気持が良くなるでしょうか?意外と、後で自己嫌悪に陥ったりするものです。腹が立ったとき、嫌なことがあったとき、それは自分を鍛えるいいチャンスと思い、自分の対応を変えてみることです。
2010.08.04
コメント(0)
ある娘さんが「自分は、会社でも近所でも白眼視されている」と訴えます。私たちは、自分ほど可愛い者はいません。ですから、人が自分に会ったとき、心地よい微笑みや優しい言葉をかけてくれないと心に不満が生じ、「あの人は冷たい」、「私を無視している」「私を嫌っている」などと思いがちです。そして、相手をなじりがちだが、そう思っている間は現実を少しも変えることはできません。何故なら、自分には自分の言い分があるように、相手には相手の言い分があり、こちらが微笑や親切な言葉を相手に期待しているのと同じように、相手もまたあなたの微笑みや親切な言葉を期待しているのです。人が自分に悪感情を持っていると感じるときは、大抵の場合は自分にも原因があります。相手に変わることを求めるのではなく、思い切ってあなたから「お元気ですか」と笑顔で声をかけてみてはどうですか。誰もがそれを望んでいるのです。こちらが心を開けば、相手もきっと心を開いてくるはずです。お釈迦様は「利行・同事・布施・愛語」を説き、キリストも「人にして欲しいことを、人にもしてあげなさい」と言っています。まず、自ら相手思考をすることが、洋の東西を問わず人間関係を良くするコツです。
2010.08.03
コメント(0)
昔々、インドのある村に鬼子母という沢山の子供を持った女がいた。子供によいお乳を飲ませるには人の生き血が良いというので、毎夜あちこちから子供をさらってきては食らっていた。子供を奪われた親の嘆きが地に満ち、お釈迦様は何とか鬼子母の残忍な魂を改めさせたいと思って、一番可愛がっている末っ子を神通力で手に持った鉄鉢の中に隠してしまわれた。いつものように子供をさらって帰った彼女は、我が子が見えないので気が狂わんばかりになった。10日の間ものも食べず、髪を振り乱し、素足であちらこちらと我が子の行方を尋ね回り、とうとうお釈迦様の前に出て、泣き崩れて子供を失った悲しみを訴えた。お釈迦様に、「鬼子母よ、自分の子が奪われてどれほど悲しいかがよく分かったであろう。おまえに子を奪われた親も同じ嘆きをしているのだ」と諭されて、他人の悲しみに気づき、それからは子供たちの守護神となった。人間は誰でも、自分が主役で自分の愛欲を満たすことしか考えません。だが、それが相手にどれだけ迷惑を及ぼしているかには考えが及びません。だが、相手にとっては自分が主役で、自分の愛欲を満たそうとします。自分は一人だが相手は無限大で、人から受ける影響で苦や悩みの種は尽きません。
2010.08.02
コメント(0)
昨日も蒸し暑い1日でしたが、嵐山の鵜飼に飲み友達と行きました。歌人・在原業平の歌にも詠まれ、千年の昔から行われてきた嵐山の鵜飼は、京都の伝統的な夏の風物詩です。料理の味はもう一つでしたが、川面に吹く風も心地よく、楽しい一時でした。乗合船もあるので、皆様もいかがですか?
2010.08.01
コメント(0)
よく「衣食足りて礼節を知る」と言うが、私たちは「豊かな時代になれば貧しさから起きる様々な問題も解決できる。だから豊かさを目指そう」という雰囲気の中で、一途に豊かさを目指して突き進んで来ました。しかし、今や充分過ぎるほどに衣食は満ち足りているのに、礼節を知るどころか世相は悪くなる一方です。豊かさと言うものを財貨と考え違いし、目先の利益や欲求に拘る余りに、本来大切にしなければならなかった事を忘れてしまったようです。最澄は「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」(一生懸命に道を求める心があれば、必要最小限の衣・食は自然に具わってくる。逆に衣食におぼれた贅沢三昧の生活からは、決して道心は湧いてこない)と、全く逆の発想です。在家の私たちにとっては、「道」は仕事や自分の信じる信念や理想の実現を目指す「志」とか、人間らしく生きると置き換えても善いと思います。つまり、使命感をもって一生懸命に取り組めば食っていけるということです。大切なのは、物が先ではなく、心・志なのです。心なくしては物質的な豊かさも無駄に浪費をするのみで、きりがなく環境破壊を引き起こします。道心とするところは人それぞれ異なるだろうが、衣食=生活は道心の中にあります。
2010.08.01
コメント(0)
全43件 (43件中 1-43件目)
1