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最近、言うこと考えることがオヤジ化してきてしまった。加齢に伴い、脳細胞にカビが生えてきたのだろうか。「前からじゃん」と言われそうな気もするが。京王線の駅に「柴崎」という駅がある。もしこの柴崎駅周辺に英会話教室なり予備校なりができたとしたら、やはり「柴崎校」になるのだろうか。柴崎校→シバサキコウぷぷぷ。面白いぢゃないの。と思ったので、会社の同期に言ってみたらシラーッと「オヤジギャグ?」と言われた。ヒジョーにキビシー。これまたオヤジギャグでした。
2004.05.17
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最近は本を読む時間もなかなか取れなくなってしまったが、久しぶりに小説でも読もうかと手に取ったのが、この宮部みゆき作『理由』。実は一度単行本で読んでいたが、この膨大な小説はなかなか一度では理解できなかったので、再度文庫本で読んだわけである。ある嵐の夜、東京都荒川区内の超高層マンション「ヴァンダール千住北ニューシティ」で4人の男女が惨殺された。当初、家族と思われた被害者たちだが、やがて赤の他人同士であることが判明。彼らを殺したのは誰なのか?そして彼らは一体誰なのか?様々な人間の証言が積み重なって、やがて真実が明らかになる…。今までに宮部みゆきの小説は何冊か読んできたが、この『理由』は文句無く彼女の作品の中でトップクラスの出来ではないだろうか。この作品で直木賞を受賞したのもうなずける。『理由』の大きな特徴は、主人公がいないことである。物語はルポタージュ形式を採っており、無人称で進んでいく。無人称ということもあって、ストーリーに主観的な言葉が挟まれることは殆ど無い。冒頭に紹介される事件のあらましでは、この殺人事件の謎が淡々と客観的に描かれるので、実にミステリアスで不気味である。なぜか知らないが、ホラー小説でもないのに怖くて鳥肌が立ったほどだ。名前がついている登場人物だけでもざっと100人以上という膨大な作品であるが、それらの人間を「その他大勢」で留めることなく、1人1人の人物をバックボーンをきっちり描写することでその人間の輪郭をはっきりさせている。つまりこの小説は「主人公がいない」というよりも「登場人物全員が主人公」と言えるのかもしれない。この物語の核となる殺人事件は、一見何ら関わりがないように見える人までをも引き寄せている。その関わりの浅さ深さには差があるが、それでも1つの事件にこれだけの人間が関わっているのかと驚かされる。1つの事件から放射線状に描き出された関係者の証言が真実を導き出している。その描写が実にリアルである。同時にこの作品はマスメディアへの警鐘も込められているように思えた。我々一般市民はこのような事件が起これば、テレビや新聞などの一方的な情報しか得ることができない。それは重要なことであるのだが、「確かな真実を知る」といった面で見れば危険性を孕んでいる。よく新聞に「○○線で人身事故、×分の遅れ」といった記事が掲載される。私はこういった記事を読むと「人に迷惑をかけるような死に方はイカンよな」とか「自分の通勤路線じゃなくて良かった」といった感想しか持たない。電車に飛び込んだ人が、どうして飛び込んでしまったのか知ることはない。実際にその現場を目の当たりにしてしまった人が、これから一生その惨状が頭から離れないということも知らない。仕方のないことではあるが、一方的な情報では伝えきれない部分のほうが多いということを物語っている。そしてまた一方的な情報の内容には、事実をねじ曲げてしまっていたり偏見に満ちたものになってしまっていることが少なくない。この『理由』という小説では、様々な人間が1つの事柄に対して違った目線で語っている。そのため言っていることが食い違っていることもある。誰が正しくて誰が間違っているのかもわからない。誰しもが自分の中の正論を述べているのだ。芥川龍之介の『藪の中』みたいなものである。マスコミが「真実」として伝えているものは本当に「真実」なのだろうか?そういう疑問を宮部みゆきは投げかけているように思える。誰もが一生懸命に生きているのに、何かの歯車が狂ってしまったことで事件が起こり、その事件が人々を巻き込んでいく。超高層マンションという舞台設定が、都会に暮らす人々の心の闇を浮き彫りにしているように思える。600ページ以上ある大長編小説であるが、一気に読ませる力がある。宮部みゆきの文章力と構成力は本当に凄いと実感させられる作品である。
2004.05.12
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2003年制作の日本映画。監督は『バタアシ金魚』『きらきらひかる』などの松岡錠司。主演は妻夫木聡。ある高校にさまよいこんだ1匹の犬・クロ。とあるクラスの文化祭の出し物に引っ張り出されたことがきっかけでその高校に住み着くこととなる。こうしてクロは生徒や教師たちに愛され幸せに暮らすが、それでも別れの時はやってくる…。正直に言おう。ボロ泣きしました。とにかく犬が可愛い。可愛すぎてズルい。そんな犬がメインの映画なんてある意味反則だが、それでもこの映画は実に叙情的で暖かくて自然と涙が出てくる。この映画は完全なフィクションではない。1961年から長野県松本市の高校に住み着いた実在の犬・クロをモデルにしているのだ。この映画のシーンにもあるように、クロは職員会議に出席したこともあるほど、皆に愛されて過ごした犬なのだ。ストーリーは全てがクロ中心に回っているわけではない。高校生たちの友情・恋愛・別れといった人間ドラマが描かれつつ、そこにクロが絡んでくるのだ。妻夫木聡演じる亮介と、新井浩文演じる孝二は無二の親友である。しかし同時に伊藤歩演じる雪子をめぐるライバル関係でもある。受験を間近に控えたある日、そんな友情関係が崩れてしまう事件が起こってしまう。その事件によって、精神的に追い詰められた雪子を救ったのはクロだった。このシーンが実に秀逸だ。自殺を考えて校舎の窓から飛び降りようとする雪子を思いとどまらせようとするかのように小さく鳴くクロの姿に泣けて泣けて仕方なかった。『さよなら、クロ』は単なる動物モノではなく、クロに関わる人間ドラマもしっかりと描かれていて、そのバランスがちょうど良い。昭和の長野ののどかな情景がストーリーと相まって、懐かしくて何となく落ち着く映画でる。クロは10年以上高校に住み着いて、生徒たちに様々な影響を与えていく。しかしそんなクロも年には抗えなかった。高校を卒業して獣医になった亮介によって、病気が発見されるのだ。そんなクロを救うために、在校生賢治たちは一致団結してある行動を取る。普段は対立している生徒がクロを救うために協力して行動を起こす様子に心を打たれる。みんなクロが大好きなんだという気持ちがビンビンと伝わってくる。こういう「対立している人間が、何かのために心を1つにする」というストーリーは、映画としては常套手段であるが、でもやっぱり観ていて感動してしまう。みんなこういうのに弱いんだよな。ラストで、クロとの別れの時が来る。クロを長年可愛がってきた、井川比佐志演じる用務員は優しくクロに言葉をかける。井川比佐志はこういったしみじみした芝居が実に巧い。思いっきり感情移入してしまい、最後にまた号泣。たった2時間の映画だが、観ている私もずっとクロと過ごしてきたかのような思いに駆られてしまう。それほどまでにクロの存在感が際立っている。映画としては基本的というか古典的な手法であるが、その分骨組みがしっかりしているし、泣かせどころもきっちり押さえている。このような題材は古典的な方法で描いたほうが、より観るものの心を捉えるのだろう。ラストで、校長役の渡辺美佐子がクロに捧げた詩が印象的だった。私は詩という文学に対してあまり心魅かれたことがないのだが、韓国の詩人・尹東柱(ユンドンジュ)が書いたこの『空と風と星と詩』という詩に強く魅かれた。 死ぬ日まで空を仰ぎ 一点の恥辱(はじ)なきことを、 葉あいにそよぐ風にも わたしは心痛んだ。 星をうたう心で 生きとし生けるものをいとおしねば そしてわたしに与えられた道を 歩みゆかねば。 今宵も星が風に吹き晒される。★★★★★
2004.05.10
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2003年制作の日本映画。監督は『NIGHT HEAD』『アナザへヴン』などの飯田譲治。主演は妻夫木聡とSAYAKA。原作は望月峯太郎の同名コミック。修学旅行生を乗せた新幹線が、静岡付近のトンネルで原因不明の事故に巻き込まれる。ほとんどの乗客が即死した中で奇跡的に生き残ったのは青木テル・瀬戸アコ・高橋ノブオの3人。3人は救助を待つが、恐怖に耐え切れなくなったノブオは発狂する。そんなノブオから、また闇の恐怖から逃げ出すために、テルとアコはトンネルを脱出する。しかしそこで彼らが見たのは、白い灰が降り積もる荒廃した地上であった。一体この国に何が襲い掛かったというのか…?『ドラゴンヘッド』は言わずもがな、望月峯太郎による大ヒットコミックである。それを映画化するという話を聞いたとき「無理だろ?」と思った。到底2時間で収まる話ではないし、あの世界観、とりわけ闇の世界を描くのはどだい無理な話だと思った。その危惧はやはり的中した。私も『ドラゴンヘッド』の原作は読んでいた。後半は訳がわからなくなり少々破綻してしまった印象を受けたものの、主人公たちがトンネルから脱出するまでの3巻までの闇の描写はあまりにも禍々しくて肌が粟立った。得体の知れない、そして正真正銘の恐怖がリアルに描かれた傑作である。しかしこの映画版『ドラゴンヘッド』にはそういった恐怖感が皆無に近い。もちろん映画ということで、スクリーン上に闇が展開してしまっては話にならない。しかしこの『ドラゴンヘッド』には「闇の恐怖」が必要不可欠であって、やはりハナから映画には向かない題材だったと思われる。ウズベキスタンまでロケに行ったということはあって、新幹線のセットや陥落した渋谷駅のセットは確かに凄い。しかし特撮技術が凄くても、内容が追いついていなければ大した感動に結びつかない。原作との比較を差し置いても、この映画はどうにも幼稚である。主人公を演じた2人の芝居からは、どうにも極限状態の切迫感が伝わってこない。こういう極限状態を経験した人は少ないため、芝居には想像力をフルに使ったテンションの高さが必要とされると思う。しかしまだ役者として発展途上である妻夫木聡とSAYAKAの芝居はまだまだリアル感を伴っていない。途中で挿入される中途半端なアクションシーンも、この映画の格を下げている。どことなくアイドル映画の様相が強い映画である。画面は荒廃した日本を映し出しているのに、どうにも終末感や悲壮感が漂ってこない。観客にもっと底知れぬ絶望感をアピールしなければならないのに、この映画は薄っぺらな希望ばかりを謳っている。終末的世界を目の当たりにした、ちっぽけな人間の弱さや脆さを描いて欲しかった。人間の描き方がとても安直で平面的なのが非常に面白くない映画である。★☆☆☆☆
2004.05.05
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渋谷の映画館に『ロスト・イン・トランスレーション』を見に行った時のこと。行列に並んでいた私と友人たちはとりとめもない話をしていたのだが、私がふとキリンとアディダスが共同開発したというスポーツドリンク「903」のことを思い出した。「あれってなんで903って言うんだろうね」と友人に聞いたら「知らない」と言う。まるでどこかの携帯機種のようだとも話した。そんな話をしていたら、後ろに並んでいたカップルの男が女のほうにゴニョゴニョと耳打ちをしたのが見えた。そしたら女は「ヤダー知ってるなら教えてあげなよー」と言いやがった。すると男は失笑交じりに「俺、関係ないもん」みたいなことを言いやがった。聞こえてんだよオマエラ。バカにすんなよコノヤロ。非常にムカっ腹が立ったわけである。そしてそんな事柄も忘れつつあったある日、駅の売店付近に例のドリンク「903」のディスプレイを発見した。何とはなしにそれを見ていた私はハッと気づいた。「9(ク)0(エン)3(サン)か!」と。クエンサンとはクエン酸のことですね。別に念を押すほどのことでもないが。しかしまあキリンとアディダスが共同開発して「9(ク)0(エン)3(サン)」とは。カッコつけたデザインの割に、商品名は「783640(ナヤミムヨオ)」レベルのセンスだったわけだ。なんかもう笑うしかない気分になった。それにしてもバカにされた187感じのカップルが291。
2004.05.04
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2003年制作のアメリカ映画。監督は『ヴァージン・スーサイズ』で面白いんだか面白くないんだかよく分からないガーリーな世界観を発揮したソフィア・コッポラ。主演はビル・マーレイとスカーレット・ヨハンソン。この映画のタダ券をバイトの頃の先輩から頂いていたので、友人を誘って観に行くことにした。観に行ったのがゴールデンウィークの真っ只中ということでもあったので混雑は予想していたが、私のその予想をはるかに凌駕する混雑ぶりであった。渋谷のシネマライズに向かうと既に長蛇の列ができており立見だということなので、あきらめて次の回の1時間以上前に再度向かったら、これまた既に立見とのこと。ということで、生まれて初めてのお立見映画鑑賞となった。そんな私自身がロストイントランスレーション。ハリウッドスターのボブ・ハリスはサントリーのウィスキーのCM撮影のために来日した。ホテルに到着した彼を日本人スタッフは手厚く歓迎する。その歓迎に喜びを感じつつも、慣れない環境に不安感も募っていく。同じホテルに、カメラマンの夫に付き添う形で来日したシャーロットが滞在していた。仕事に追われる夫に置き去りにされてしまった彼女もまた言い知れぬ不安を感じていた。偶然エレベーターで出会った2人は、その後ホテルのバーで初めて言葉を交わす。お互いに慣れない環境で淋しい思いをしていることもあり、2人の距離は徐々に近くなっていく…。全編日本でロケーションされたアメリカ映画であり、新宿・渋谷、はたまた京都など見慣れた景色がスクリーン上に展開する。これは日本人にとってはなかなか不思議な感覚だ。「慣れない環境に置かれた寂しさ」というのはとてもよく理解できる。1人きりじゃないけど1人ぼっちである不安感というのは言いようもなく辛いものだ。そんな環境で同じような境遇の人を見つけたら、距離を縮めたいと思うのは自然である。この映画はそんな2人のラブストーリーのようでラブストーリーじゃない、微妙な距離感の映画である。しかしこの映画はどうも面白くない。はっきり言って、明確なストーリーが無いのである。「何かが起こりそうで何も起こらない」という展開が私をヤキモキさせた。観終わった後に「結局、この映画はガイジンによる日本ガイドだったのか?」と思ってしまった。そして色々なところで言われていることであるが、ソフィア・コッポラの日本人の描き方がどうも気に食わない。昔から外国人たちは映画やテレビの中で、日本人を偏見たっぷりに描いてきた。さすがにこの『ロスト・イン・トランスレーション』ではサムライやらハラキリやらスシ・ゲイシャといったプロトタイプかつ時代錯誤な日本の描写はないが、それでもどこか悪意を感じてしまうのは私だけではないだろう。「日本人は背が低い」「日本人はメガネをかけている」「日本人は挨拶がバカ丁寧」間違っちゃいない。しかしそこを強調されても困る。この映画はソフィア・コッポラ自身が東京に来た時に感じたことを盛り込んだらしい。ストーリー上は日本を訪れた主人公2人がストレンジャーなのだが、映画の視点は訪れた先の日本人がストレンジな存在である。この映画での日本の描き方には「私たちには到底理解できない」という優位性がちらついている。お互いの文化に歩み寄って何かを感じ取ろうというよりは、「サラッと傍観して、できるだけ関わらないようにしよう」というスタンスなのだ。ユタ州をバカにされるケント・デリカットの気持ちが少しわかった気がした。ソフィア・コッポラは「東京が大好き」だと言っているが、彼女が東京をリスペクトしているのかそれとも小馬鹿にしているのか、そこのところがハッキリしない。よく外国人たちに「日本の素晴らしいと思うところは?」と聞くと「伝統を重んじているところ」と言う。「日本の好きな場所は?」と聞くと「京都」と答える。要は彼らにとっての日本の魅力というのは何百年も前の日本であって、今の日本ではないのかもしれない。「今の日本が誇れるものなんてたかが知れている」という想いがどこかにあることは事実だろう。『ロスト・イン・トランスレーション』の中に登場する、大都会・東京のネオンは主人公たちの不安の象徴であり、そしてまた「東京=空虚な街」という記号のようなモチーフである。そこが日本人にとっては新鮮といえば新鮮である。この映画が描いている、「見知らぬ土地での微妙な距離の関係性」には共感できるところが多い。しかしそこには感情が乏しく、とても退屈な印象を受ける。もっとドラマを盛り込むべきだったと私は思う。しかしこの映画を上映しているのが渋谷だというのは正解かもしれない。観終わったあとに渋谷の雑踏に足を踏み出した時、主人公たちの気持ちが日本人である私でも理解できた。日本人を小馬鹿にしたような描写に腹は立つが、実際に東京の街を歩くと何とも言えない邪気に包まれる。そんなジレンマを感じた。私にとって日本という国はどう映っているのか、そんなことを考えてしまう映画である。どうでもいいが、映画のラストがガーリーでインスタントな写真を数多く撮る某有名女性写真家のアップだったのは何故なのか。締めが何故オマエなんだと「?」な気分で幕を閉じた。正直に言えば、並ぶ価値があるほど面白くはない映画であった。★★☆☆☆
2004.05.03
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