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なんだか「ヤマザキ春のパン祭り」みたいだが、最近サントラCDをちょこちょこ買ったりレンタルしたりしている。よって「2004春のサントラ祭り」なわけである。ちなみにシールを集めて深めの絵皿が当ったりはしません。あしからず。最近買ったのはジョン・トラヴォルタ主演のアクション映画『ソードフィッシュ』のサントラと、寺島しのぶ主演の『ヴァイブレータ』のサントラ、あとニコール・キッドマン主演のミュージカル『ムーラン・ルージュ!』のサントラである。『ソードフィッシュ』のサントラは、全体的にテクノ・クラブサウンドで彩られている。アクションシーンとの絡みが絶妙で、ちょっと萌えてしまったので買ってしまった。なかなかアッパーなサントラである。『ヴァイブレータ』のサントラは、映画館でこの作品を観た後に無性に欲しくなってしまい、渋谷中のCDショップを探し回った。しかし渋谷近辺のショップでは売切れていたらしく、結局吉祥寺で買った。はっぴいえんどや浜田真理子、その他よく知らないアーティストたちのアコースティックなサウンドが心を和ませてくれる。『ムーラン・ルージュ!』のサントラは実は2バージョンある。私は両方買ったのだが、後に発売されたほうのサントラには権利的に収録困難とされていた楽曲が収められている。どちらもミュージカルの楽曲が収録されているので、ノリノリになれること請け合いである。先に発売されたサントラに収録されているファットボーイ・スリムの『BECAUSE WE CAN』と、後に発売されたサントラに収録されている出演者たちが歌う『SPARKLING DIAMONDS』がノリが良くて秀逸。先日観た『普通じゃない』のサントラも良かった。ベック・カーディガンズ・アンダーワールド・プロディジーなど多彩なメンバーがテイストの違う楽曲を提供していて、バラエティに富んでいて楽しめた。他に私が持っている洋画サントラは『マルホランド・ドライブ』『タイタニック』『マトリックス・リローデッド』『マトリックス・レボリューションズ』『ラン・ローラ・ラン』『天使にラブ・ソングを…』などなど。『マトリックス』シリーズに至っては、映画を観ていないのにサントラを買った。なぜって私が好きなトランスユニット・JUNO REACTORが参加しているからである。私が一番お気に入りなのは『マルホランド・ドライブ』のサントラである。映画そのものも素晴らしい出来上がりなのだが、音楽も実に魅力的である。ホラーのようなサスペンスのようなコメディのようなラブストーリーのような、この映画のつかみ所の無さが音楽にも現れている。聞いていて不思議な世界に引き込まれる、何度聴いても飽きないサントラである。皆さんもオススメのサントラがあったら、ぜひ教えていただきたいものである。なんせ春のサントラ祭りですから。
2004.02.29
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私はマンガに関しては、メチャメチャ読む方ではないけど全く読まないわけではない。そこそこ読む方だ。でもそこはやはり映画と同様に、読むマンガに偏りがある。私が中学生・高校生の頃は、ジャンプもしくはマガジンが抜きつ抜かれつの熾烈な部数争いをしていた時代である。ジャンプだったら『ドラゴンボール』や『スラムダンク』、マガジンだったら『金田一少年の事件簿』『サイコメトラーEIJI』などが人気だった。しかし私はどうもジャンプもマガジンも好みではなく、よくサンデーを読んでいた。当時は大体ジャンプ派かマガジン派に分かれていたので、サンデーを読んでいる人はほとんどいなかった。サンデーという雑誌は小学館から発行されているせいか、どこかおとなしめなイメージがある。刺激を求める中高生たちはマガジンやジャンプの方が性に合っていたのかもしれない。そして高校時代にサンデーと並行してよく読んでいたのがビッグコミックスピリッツだ。これは青年誌ということもあって、クラスの中で読んでいる人は1人もいなかった。でもその当時は『Happy!』『東京大学物語』『ちょんまげどん』などクオリティの高いマンガが連載されていたので、私は好んで読んでいた。『コロコロコミック』→『サンデー』→『ビッグコミックスピリッツ』と、私のまんが道は小学館によって築き上げられているようだ。私がマンガを読み始める時は、だいたい絵が好みかどうかが重要なファクターになる。どんなに周囲の人が「面白い」と言っていても、絵が好みじゃなければ読む気が起きないのである。まあ私に限らず、大体の人がそうであろうが。そんな私がずっと毛嫌いしている漫画家が、あだち充である。『タッチ』『みゆき』『H2』など、多くのヒット作を抱える人であるが、私はずっとあだち充を避けて通ってきた。私の姉はあだち充のファンであるために、本棚には彼の著作がズラッと並べられている。しかし私はそれらに手を伸ばしたことがない。伸ばしたくもないのだ。なんでだろうと考えても、やっぱり肌に合わないとしか言いようがない。あえて言うなら、登場人物のスカした感じが嫌いなのかもしれない。もう1人、毛嫌いしているのは『いいひと』『最終兵器彼女』の高橋しんである。彼の漫画はかなり気持ち悪い。あくまで私の主観であるが、どこか偽善的でファンタジックな世界観は、チラッと読んだだけでも背中がムズムズする。どこか「萌え~」感漂う絵柄も、邪気がないようで邪気に溢れていてタチが悪い。セリフもザッハトルテ並に甘ったるくて虫唾が走る。最近読んでいるのは、ブックオフで立ち読みしてみたらハマってしまった、サンデーに掲載されている『かってに改蔵』である。かつて健全なるサンデー誌上に、かなりキワドイ下ネタ炸裂のマンガ『行け!南国アイスホッケー部』を連載していた久米田康治が作者このマンガも絵柄はかなり「萌え~」臭漂っているが、そこにはかなり毒っ気が散りばめられていて、逆に「萌え~文化」を嘲笑っているかのようでもある。そして絵柄よりも強烈なのが、出版ラインギリギリの際どいギャグの数々。下ネタはもちろん、芸能人の噂やコミック界のタブーなどをうまく料理して面白おかしく仕上げている。『かってに改蔵』、オススメである。
2004.02.28
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長年気になっていたことをふと思い出して、インターネットで検索してやっと解決した。それは「レツゴー三匹」は“じゅん”と“長作”ともう1人は一体誰なのかということ。「じゅんでーす」「長作でーす」「三波春夫でございます」というお決まりギャグのために、本当の芸名すら知らずに「三波春夫」と勝手にインプットしていたが、本当の芸名は“正児”というらしい。これでやっと長年の溜飲が下がった。それと「レッツゴー三匹」じゃなくて「レツゴー三匹」であることも判明。陥りやすいミスですね、気をつけましょう。しかし最近のお笑いはわからない。誰が誰かもわからないし、ネタの面白さもイマイチわからない。これはちょっと平成を生きる若者としては致命的かも。そうでもないかも。どっちだ。私は未だに『はねるのトびら』を観ても、誰と誰がユニットを組んでいるのかわからない。この番組は複数のお笑いユニットがレギュラー出演しており、それらの人々が入り組んでコントを制作しているために、ユニット名もわからなきゃ誰が誰なのかすらもわからない。しかもそのユニット名もカタカナが多いので、どうにも頭に入ってこない。もっと分かりやすくして欲しいと思いながらも、「正直どうでもいいかも」と思っていたりもする。お笑い番組を見なくなって久しい。昔は『ダウンタウンのごっつええ感じ』とか『ウンナンのやるならやらねば』、はたまた『カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ』などよく観ていたものだが。というのも、最近お笑いのコントが苦手になってきたような気がする。お笑いのコントというのは、いわば「普通じゃない人の狂気」を表現するものである。それは昔から変わらない。別にコントにおける「狂気」が嫌なわけじゃない。「狂気」を表現するためには「正気」の人がいなければならない。そうしてボケとツッコミという構図が成り立っているわけで、「正気」の人がいないと「狂気」が際立たないからだ。私はお笑いの人たちによる「正気」の表現が鼻につくのだ。たとえばコントで誰かが狂った発言をしたら、周囲の「正気」の人たちはあくまで真っ当なリアクションを返す。そのリアクションが「普通以上に普通」であろうとするために、どこかわざとらしいような気がしてならない。言葉ではうまく言い表せないのだが、素というよりは演技としての「正気」は、演技としての「狂気」よりも観ていて鬱陶しい。決してニュートラルではない「正気」は、それこそがちょっとした「狂気」を孕んでいるように思えて仕方が無い。ダウンタウンのコントを観ていると、松本人志が基本的にボケの役割で「狂気」を表現しているのに対して、他の人々はツッコミという形で「正気」の役割を果たしている。しかし浜田雅功を見て思うのだが、彼らは「正気」の中にも一抹の毒をまぶしているように思える。完全な「正気」は観ていても面白くない。むしろ「正気」の側をどれだけ面白く見せるかが腕の見せ所なのではないかと私は勝手に思っている。要は、ボケと同じくらいツッコミも難しいということ。あと最近流行の「一言ネタ芸人」もちょっと苦手である。もちろん面白い人もいるのだが、「一言ネタ」というのは思いついたネタを羅列しているだけで、漫才のような構成が必要ないということで「楽している」というイメージが強い。ウィットに富んだネタを探すのは大変かもしれないが、漫才のように「構成を考えてオチに着地する」という苦労を考えれば、若干楽なのではないだろうか。かつてコント番組が乱立していた時代から見れば、それらの大半はほとんど淘汰されてしまっている。それだけ人々がお笑いに求めるクオリティのアベレージが上がっているのだろう。私のように、それらの番組を観てあーだこーだ言うのは簡単で、やっている当人たちは大変であろう。人を笑わせるということはとても難しいことである。お笑い芸人のみなさん、頑張ってください。
2004.02.27
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いま、私の周囲で2ちゃん用語を実生活に応用することが流行している。とは言っても、主に大学の友人・S田さん(♀)1人だが。「萌え~」「逝ってよし」「オマエモナー」は当たり前。「ガクガクプルプル」「警告しますた」「ワラタ」などを使いこなす(日常生活で)彼女はなかなかツワモノである。私は基本的に、「2ちゃんねる」の空気感が苦手なのであまり読んだことは無い。しかしS田さんがこうも2ちゃん用語を連発しているので、気になって「2ちゃん用語辞典」を覗いてみた。すごいですね、なんか。漢字の変換間違いから派生したものや、ダジャレまがいのものなど、なかなか感心させられるものが多い。 エイベッ糞【えいべっくそ】[名] 国内初のCCCDを販売して、他レコード会社へ拡大させたエイベックスを罵倒した呼び方。 その他にAVE糞などと言う呼び方もある。これなんてなかなか素敵だと思うんですけど。えいべっくそ。 えぶーい【えぶうい】[名] AV(アダルトビデオ)のこと。AV男優=えぶーい男優、AV女優=えぶーい女優これなんかも「モロ2ちゃんねる」って感じである。「えーぶい」じゃなくて「えぶーい」と「ー」の位置を変えるところが特に。 君はワダサン好み【きみはわださんごのみ】[成句] 強姦サークル、スーパーフリーの代表、和田氏がタイプの女性を犯すときにかけたとされている言葉。 ネタや煽りに使用される。旬な話題をいち早くゲットして、すかさず用語として使用する2ちゃんねるの情報の速さが現れている。まあ、今の段階でスーフリの話題ってのも古いっちゃ古いが。他にもいろいろあるようだが、いかんせん多すぎて全部を読みきれない。それほどに2ちゃん用語というのは深みを増してきたということか。半角カタカナを多用し、一見可愛らしい顔文字を使用しているのに、何故か不穏な雰囲気が醸し出されるところが2ちゃん用語の特性である。それはやはり「2ちゃんねる」の匿名性に起因するところが大きいかもしれない。こうして私も2ちゃん用語の深みにズブズブとはまっていくのだろうか。そんな自分に((((;゜Д゜))))ガクガクブルブル。ちゃんと自分をヽ(*`Д´)ノゴルァ!と律さなければ。S田さん、勝手に貴女のことを日記に書いてスマソ。
2004.02.26
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私はこの楽天で映画日記を付ける前から現在に至るまで、観た映画に関して記録を付けている。ノートにタイトル・出演者と評価を3段階で記録している。そこでふと、「私が今まで観てきた中で、一番つまらない映画は何だったか?」と思い当たった。基本的に私は映画に対して甘いほうだと思う。少なからず金を払っているのだから、「少しでも面白いと思わなきゃソンだ」と思ってしまっている。そんな私が最低の評価を下した、マイ・ラジー賞を決定!その前に、私が「つまんねーぞ金返せコノヤロー」と最低ランクをつけたマイ・ラジー賞ノミネート映画を列挙してみる。カッコ内は主演役者。○『ボディ・ガード』(ケビン・コスナー)○『アダムス・ファミリー2』(アンジェリカ・ヒューストン)○『Wの悲劇』(薬師丸ひろ子)○『病は気から』(三上博史)○『バットマン・リターンズ』(マイケル・キートン)○『エンジェル・ダスト』(南果歩)○『やわらかい肌』(絵沢萌子)○『フレンチドレッシング』(櫻田宗久)○『世にも奇妙な物語 映画の特別編』(オムニバス)○『冷血の罠』(哀川翔)○『クラッシュ』(ジェームズ・スパイダー)○『ツィゴイネルワイゼン』(原田芳雄)○『Stereo Future』(永瀬正敏)○『アンブレイカブル』(ブルース・ウィリス)○『ハンニバル』(アンソニー・ホプキンス)○『閉じる日』(冨樫真)○『シェーディー・グローヴ』(粟田麗)○『月に沈む』(浜崎あゆみ)○『クロエ』(永瀬正敏)○『ピンポン』(窪塚洋介)○『パルコフィクション』(真野きりな)○『ザ・ロイヤル・テネンバウムス』(ジーン・ハックマン)○『TAMALA 2010』(声・武田真治)○『π』(ショーン・ガレット)○『UNLOVED』(森口瑤子)○『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』(声・田中敦子)○『CQ』(ジェレミー・デイヴィス)○『モーヴァン』(サマンサ・モートン)栄えある第1位は…『CAT'S EYE』(内田有紀)ジャジャジャジャーン。気合入れていつもよりも字を大きくしてみた。あまりにつまらなくて噴飯モノだった映画である。つまらなすぎて内容を覚えていないくらい。キャスティングはそこそこハマっていたように思ったのだが、いかんせん作品そのものがグダグダである。監督の林海象もハナっからやる気なかったと思われる。これはあくまで私の主観なので、「私は面白いと思った」という意見があればその映画は幸せである。そしてこれを読んで「どのくらいつまらないか観てみたい」と思っていただけたら、それはそれで素敵なことである。よかったら、お試しアレ。
2004.02.25
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小泉今日子と永瀬正敏が離婚したそうな。前々から不仲だとか別居中だとかいろいろ叫ばれていたが、満を持して離婚なり。それにしても、芸能人が結婚したり離婚するってそんな大層なことだろうか。天下の朝日新聞ですら大きからずも記事が載る。やれどこかのアイドルがIT企業の重役と結婚したとか、元女子アナが野球選手と結婚したとか、「ふ~ん」くらいのもので驚きもない。水野真紀は代議士と結婚したらしい。「あ、水野真紀ってまだ結婚してなかったんだ」と思った。しかも相手は代議士、イメージどおり。水野真紀は代議士と結婚しそうだった。産声が「オギャー」じゃなくて「あら先生」だったと言われても納得できる。まあ中には「ええっ!」と思わせられるカップルもいるが。お父さんが怖い顔の柔道のヤ○ラちゃんとか。そしてまた同様に、芸能人の離婚も大して驚かない。私にとって「芸能人の結婚」は「離婚へのカウントダウン」とほぼイコールの意味合いを持っている。それほどまでに芸能人は結婚→離婚のお決まりコースを歩んでいるような気がする。もちろん幸せに家庭を築いている芸能人もいるし、実際に離婚してしまった芸能人の割合はそんなに高くないかもしれない。でも常にワイドショーのレポーターが付きまとっているという点で、私にとっては「芸能人は離婚するもの」というイメージが定着してしまっている。ハリウッドスターは日本よりももっと明け透けである。エリザベス・テーラーなんて何回結婚・離婚を繰り返したのだろう。1度くらいは「今の私のダンナは誰だっけ?」と迷ったことがあるだろう。だいたい離婚する時の理由は「忙しくてすれ違いの日々だった」とか「価値観の違い」がお決まりである。杉本彩みたいに「セックスレスが離婚の理由」というのもあったが。杉本彩と別れた男性は、いま周囲の人たちからどういう目で見られているか気になるところではある。芸能人である以上、忙しいことはありがたいことであろう。結婚する時にはそれなりに覚悟していることだと思う。それでも耐えられないというのは、やはり結婚というものは重大な意味を持つのだろう。《離婚しそうな夫婦 マイ・ランキング》1位 渡部篤郎&村上里佳子(渡部篤郎が若い女に逃げて、第二の大澄賢也になりそう)2位 田辺誠一&大塚寧々(そもそも結婚という言葉が似合わない)3位 辻仁成&中山美穂(辻仁成のナルシストっぷりに中山美穂が愛想を尽かしそう)「谷隼人、松岡きっこ電撃離婚!」くらいパンチの効いたニュースが欲しいものである。
2004.02.24
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今日は内定式だった。同期入社の面々との初顔合わせとなる。これから苦楽を共にするであろう仲間たちに合うという事で、ちょっぴりドキがムネムネしながら会社に向かった。 今日集まった新卒入社の面々は私を含めて5人。男3、女2であった。それほどアクが強いキャラがいるわけでもなかったので、萎縮せずにニュートラルに接することが出来た。そして、私を含めてだが、ことごとく茨の就職活動の道を歩んできた人ばかりだったので、妙にウマが合って楽しかった。内定式の後は懇親会。社員の方々4人と新卒者5人で近場の居酒屋に向かう。社員の方々のテンションの高さに少なからず圧倒。シラフだってのに一杯ひっかけてきたんじゃないかと思うくらい饒舌だった。社員の中には、まだ30歳そこそこで拠点長を務めている、なかなかの美女がいたのだが、いきなり毛の話。「胸毛大好き、ヘソ毛大好き」って、いきなりいーんですか姐さん。ほぼ初対面だってのに。そして話の流れは恋愛話に。「恋人いない人~?」と言われ手を挙げたのが、私と30歳そこそこ美女拠点長のみ。マジですか?みんないるんすか?思わず私のメガネも大村崑ばりにズレる。はあ羨ましいねえ。よろしくやっておくれよペッペッペッ。どうやら私は、履歴書に張った写真と実物との印象がかなり違ったようだ。写真を見た社員の人々は、布袋寅泰ばりの体育会系を想像していたらしい。しかし実際に現れたのは貧相な文化系。たしかにその写真の私は相当に目つきが悪かったが、そんなに驚かなくてもとちょっと訝しく思った。しかし奢ってもらえるって素敵。どんなに食べて飲んでも財布の心配をしなくてもいいのだ。「どんどん好きなの頼んでいいよ」と言われるがままに、ここぞとばかりにガンガン食べて飲んだ。まあこんないい目に遭えるのは最初だけだから、無礼講っすね。そんなこんなで、ガンガン飲んでメートルが上がってしまったために、役員の方が話してくださった大変ためになるお話の大半を忘れてしまったわけであります。軽くシラフに戻った今、「こんな人間を採用してよかったんですか?」と会社に問いただしたくなった。
2004.02.23
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日曜6時半といえば、国民的アニメ『サザエさん』である。普段、日曜はバイトのため観ることはないのだが、たまたま休みになったために、久しぶりに観てみた。『サザエさん』はいつまで経っても『サザエさん』、全く趣が変わらない。マンネリという言葉を当てはめることに躊躇を覚えるくらいの、偉大なるマンネリである。『サザエさん』を観ていていつも思うのが、「お前ら、ちょっとタラオを甘やかしすぎなんじゃないのか?」ということ。今回の放送で、タラオは散らかしっぱなしだった玩具をサザエに捨てられてしまう。悲しみに暮れるタラオを見たカツオは「姉さんのことだから本当に捨てちゃいないよ」とあちこち探し回る。その玩具の中に紛れていたワカメの目覚まし時計によって、結局玩具の在り処がわかってしまい、一件落着する。一番悪いのは玩具を散らかしっぱなしにしていたタラオである。しかしサザエは「アンタが余計なことをタラちゃんに吹き込んだのがいけない」と一生懸命玩具を探したカツオを責めるのだ。私はカツオには何の罪もないと思うのだが。むしろ幼い甥のためにあちこち回って探してあげるだなんて、いいヤツじゃないか。事件の張本人である息子を責めずに、ただ巻き込まれただけの弟を責めるサザエの親バカっぷりにちょっと憤慨。こんな教育じゃ、タラオはまともな人間に育たないぞ。ラストでタラオは「ママごめんなさい」と謝るのだが、ついでに「姉さん、ごめんなさい」と付け加える。「あらタラちゃん、どういう意味?」とサザエが聞き返すと、「カツオ兄ちゃんのぶんも謝りました~」だと。なんて小ざかしい餓鬼なんだろう。お前が一番悪いのに、この付け加えた一言でカツオをどんどん貶めている。タラオは「素直でいい子」という偽善の面の皮を何枚も被った小悪魔に違いない。違いない違いない。強調してみた。この平成の時代にこのアニメを観ると、磯野家・フグ田家の面々がもの凄く老けていることに気づく。サザエは23歳、マスオは28歳と、まだ2人とも20代である。しかもいま私はサザエと同い年だ。なんか複雑。波平もまだ54歳らしい。人生80年のこの世の中、54歳と言ったらまだまだ働き盛り男盛りである。なのに波平の枯れっぷりは何なんだろう。偽老の男・波平の生きるスタンスによろしく哀愁。私が『サザエさん』で一番気になるキャラクターは、マスオの同僚・アナゴさんだ。アナゴさんもマスオと同期とあって、まだ28歳らしい。『サザエさん』の中で、一番生活に疲れたエピソードを提供してくれるアナゴさんにスポットライトを当ててあげたい。いろいろと『サザエさん』に関して疑問を感じることもあるが、それを疑問と思うこと自体がバカバカしいと思わせる、開き直った安定感が『サザエさん』である。日曜夕方に『サザエさん』を観ていると、自分が日本人であることを再認識させられる。ワカメちゃんはいつでもパンツ丸出し。イクラちゃんはいつでも「バブー」しか言わない。タマの声優さんはいつまで経っても「?」。時代が移り変わっても、変わらないほうがいいものもある。「波平・フネの介護問題!」とか「カツオ、万引きで捕まる!」とか「サザエ、マスオの不倫現場を目撃!」とかそんな『サザエさん』は嫌ですもんね。
2004.02.22
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2002年度作品。監督は『がんばっていきまっしょい』『群青の夜の羽毛布』、最近では『解夏』を制作した磯村一路。主演は木村佳乃。東京の出版社に勤める久里子はカメラマンの充生と結婚を決め、両親に報告するために故郷の瀬戸内海に浮かぶ小さな島に帰省する。教師を退職した父は、母と2人で小学校を改装した民宿でのんびりと暮らしている。そんな両親と共にしばしの休暇を過ごす久里子。しかし彼女は両親になかなか結婚の報告を切り出せない。故郷で過ごすうちに、久里子の頭の中に様々な過去が甦ってくる。そしてこの休暇は祖母との思い出や初恋の人の消息など、自分の過去を辿る旅になる…。磯村監督の『がんばっていきまっしょい』と同様に、愛媛県を舞台にした映画である。『がんばっていきまっしょい』は1970年代の高校生たちのボートに懸ける青春を丁寧に描いた傑作である。そのひたむきな姿に心を打たれ、その姿が美しい瀬戸内海の風景と一体となって涙を禁じえなかった。そしてこの『船を降りたら彼女の島』は、大人になり島を離れた女性が過去を振り返る、ノスタルジックなちょっと大人の映画である。愛媛の景色はこの映画でも相変わらず美しいが、「主人公が追憶の旅をする」というストーリーのためか観光ガイドのようになってしまっているのが残念。ストーリーもどこか薄っぺらい。久里子は両親に「結婚する」ということがなかなか言えないのだが、なぜ言い出せないのかがイマイチ伝わらずもどかしい。元々親元を離れて東京で独り立ちして暮らしているのだから、それほど結婚に対して親が猛反対するとも思えないのに。他にも、初恋の相手と祖母との思い出が絡んでくるのだが、どちらも消化不良ではっきりした意味合いを持たずに終わってしまう。なんのためにこれらのエピソードを絡めてくるのかがわからない。あまりあれこれと手を出さずに、久里子と両親との関係に絞ったほうがまとまったのではないか。脇を固める役者は大杉漣・大谷直子・照英・林美智子・烏丸せつこなどなど、渋めの豪華キャストで味わい深い芝居を見せてくれる。その分、主演の木村佳乃がちょっとインパクトに欠ける。木村佳乃は決してヘタな女優ではないのだが、このストーリーでは存在が際立たない。詰めが甘いストーリーではあるが、愛媛という土地の空気感に助けられている部分は大きい。生活している人々は穏やかであくせくしていない。そんなゆったりした雰囲気が画面から伝わってくる。北海道のように雄大ではないし、沖縄のように「楽園」という感じでもないが、かつての日本が持っていた良い部分を残している土地である。愛媛のプロモーション映画としては、なかなかの出来であると思う。★★★☆☆
2004.02.21
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また最近、気になるCMが。それは『ごきげんよう』を観ていると流れる、反町隆史が出演している「ライオン デンターamino」のCMである。このCMで反町はカメラ目線で「最近どう?歯茎みせて」と挨拶もそこそこにいきなり歯茎を見せろと迫ってくる。そりゃちょっといくらなんでも不躾じゃありませんかね。歯茎ですよ歯茎。あんまり人様にお見せするようなもんじゃありませんよ。歯医者ならともかく。これが反町隆史じゃなくて久本雅美か中嶋朋子だったら「ハイすいません、見せます」って気分になりそうだが。しかも女性(口元だけのアップ)の歯茎を見た反町は「あああーっ!」と驚愕する。これまた相当失礼である。歯茎が痩せていようが腫れていようが黒ずんでいようが、反町に絶叫される筋合いは無いと思う。そしてこのCMのラストで反町は「アミノで、磨こうか」と諭している。「何も言わない、アミノで磨け」ってことだろうか。なんとなく嫌な気分になるCMである。今日、吉祥寺のロフトに行ったら、様々な味の歯磨き粉が売っていた。かなり種類が豊富で、カレー味とか抹茶味とかコーラ味とかあるのだ。歯磨きしてカレーの匂いがするって、歯磨き粉の在り方として正しいのだろうか。わざわざ口内にカレーの匂いをつけようとする生産者の意図がよくわからない。ちなみに私は歯磨き粉なら「アクアフレッシュ」が好きだ。あの3色ストライプの歯磨き粉である。なんとなく、味が好き。
2004.02.20
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2002年度制作のアメリカ映画。監督は『リトル・ダンサー』のスティーヴン・ダルドリー。この映画は3人の女性が主人公である。それぞれ異なる時代を生きている女性たちが、ヴァージニア・ウルフの小説『ダロウェイ夫人』を軸に描かれている。ニコール・キッドマンが演じるのは『ダロウェイ夫人』の作者でもある実在の作家、ヴァージニア・ウルフ。この映画は1941年に彼女が入水自殺するシーンから始まる。しかしこの映画で描かれる彼女の姿は、1923年を舞台としている。ジュリアン・ムーアが演じるローラは、1951年を生きるロサンゼルスで裕福な環境に暮らす主婦。彼女は『ダロウェイ夫人』を読み耽っていて、もはや本の中の世界を生きていると言っても過言ではない。理想の妻を演じることに疲れてしまい、徐々に自分自身を追い詰めていくようになる。メリル・ストリープが演じるのは、2001年のニューヨークに暮らす編集者クラリッサ。彼女は、エイズに冒されている元恋人で作家のリチャードの世話に身を粉にしている。そして彼が栄誉ある賞を受賞したことで忙しい一日が始まる。この映画は、違う時代を生きる3人の女性のある1日を描いている。そして3つの時間軸が様々なきっかけで錯綜する。下手するともの凄くややこしい映画になりそうだが、この映画は脚本も構成もシェイプされていて無駄がないので、非常に見やすい仕上がりになっている。3人の女性たちは、みなそれぞれに心の中に暗闇を抱えている。それがどういった理由から生じたものなのかは言葉で説明されることは無いが、それぞれの女優たちの表情が全てを物語っている。さすが実力派女優である。ニコール・キッドマンはつけ鼻を付けてヴァージニア・ウルフを演じている。彼女は徹底してリアリティを追及する女優のようで、筆跡や利き腕までも変えたそうだ。私にこの映画の予備知識がなければ、最後まで彼女がニコール・キッドマンであることに気づかないだろう。それほどまでに彼女は役になりきっている。節々で見せる、彼女のシニカルな表情が魅力的だ。知的だけど何を考えているのかイマイチ掴みきれない、そんな女性を見事に体現していた。この映画で、私にとって一番印象的だったのはジュリアン・ムーアだ。ジュリアン・ムーアというのは華がある中にもどこか淋しげな陰がある女優である。そんな彼女は、普通の主婦になりきれない1人の女性という難しい役を巧みにこなしている。幼い息子を深く愛しているが、それでも自分の人生に迷っている表情が哀愁を誘う。この映画における3人の女性の中で、彼女が演じたローラが一番難しい役なのではないかと思う。メリル・ストリープが演じるクラリッサもまた自分の人生に悩んでいる1人である。自分にとっての幸せが何なのか、なかなか見出せないのだ。複雑な気持ちを抱える人間が現れたことで情緒不安定になってしまう芝居がとてもリアルで鬼気迫るものを感じた。それぞれの女性の、とある1日を描いた映画であるが、各々の生き様がドラマティックでとても濃密である。異なる時代が1つのモチーフで絡まりあう構成が見事で、鑑賞後に「しっかりした映画を観た」という満足感が得られる映画である。★★★★☆
2004.02.19
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鼻水が止まらない。これは風邪なのか花粉症なのかもわからない。というわけで、いま私の鼻の穴には丸めたティッシュが詰まっている。気休めにしかならないが。ついつい「ろく~で~なし~、ウィッ!」と飛ばしてみたり。私は鼻炎持ちなので、鼻水が止まらないことはしょっちゅうだ。春先になると花粉症も相まって、鼻ジュルジュル状態に陥ることが多くなる。鼻水が止まらないというのはなかなか辛い。頭が重くなってボーっとしてきて、目も霞んでくる。きっと鼻水と一緒に脳ミソが流れ出ているのだろう。んなわきゃない。私は幼い頃、親に「鼻が詰まって眠れない」と訴えたら鼻の下にムヒを塗られていた。確かにスースーして鼻が通るのだが、あまりやらないほうがいいらしいということを最近知った。素人療法はアテにならん。また鼻が詰まる夜は、枕を高くして寝ると鼻が通るようになるが、次の朝首が痛くなるので辛い。なにか効果的な方法はないものか。へっくしょい。カーッ、ペッ。
2004.02.18
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2003年制作の日本映画。原作は小山ゆうの同名コミック。監督は『VERSUS』『スカイハイ劇場版』の北村龍平。主演は上戸彩。戦国時代末期、徳川家康は将軍の座に君臨するために豊臣秀吉の遺児・秀頼に 最後の攻勢を仕掛けていた。敗残した豊臣方の兵の多くは秀頼が成人するのを待ち再度蜂起する夢を持っていたが、徳川陣営はその芽をことごとくつみとるべく ’計画’を遂行した。中でも家康に最も近いところに在った高僧、南光坊天海は、「世の中から権力奪取の夢を見る者を取り除かない限り戦が終わることはない」と考え、 この期を最大限に利用して太平の世を築くことを目的とし、反逆分子を瞬時に 亡き者とする少数精鋭の暗殺集団を世に送り出した。その目的のために選ばれし10名の若者たち。中でも名実ともに最高の剣の使い手と謳われたのはたった一人の女性剣士だった。それが主人公「あずみ」である。なんだか、とても嫌な気分になった映画だった。この映画は、ものすごい数の人間が死ぬ。登場人物の殆どが死亡する。この映画には10人の刺客として育てられた若者が登場するが、開始20分ほどで仲間同士殺しあうというバトルロイヤル状態である。別に私は聖人君子では無いので、「人が死ぬ映画なんて宜しくない!」と道徳的なことを言う気はさらさら無い。もともとチャンバラ映画というのは、斬った斬られたで必ず人が死ぬ映画である。そこに観る人は爽快感を求めているのである。しかしこの映画にはそんな爽快感は無い。血が噴き出し腕が落ち首が飛ぶ、殺人ショーである。このような殺人ショー的な映画が今までに無かったわけではない。深作欣二の『バトル・ロワイアル』は中学生1クラスが殺しあうという、題材としては『あずみ』よりも過激なものであった。しかしこの映画は「殺さなきゃ自分が殺される」という意味でも、自分が生きるために人を殺すということで、フィクションとしてのカタルシスがあった。『あずみ』における若者たちは、老師によって暗殺という「使命」を全うするために育てられた刺客である。その「使命」というものも「戦争を起こす悪い輩を事前に殺す」というものである。つまり若者たちは「悪人たちを殺すためにマインドコントロールされたテロ集団」なわけである。一見、「正義のため」と銘打っていれば理に適っているような気がするが、これは結局現代において戦争を引き起こしている国が言うことと同じことではないだろうか。「正義のためのテロ行為」というのは本当に正しいことなのかと頭に疑問が浮かぶ。主人公であるあずみが「人を殺すことの意味」について葛藤するシーンがあることはある。しかしそのジレンマも消化されることなくラストまで彼女は人を殺し続ける。どうも腑に落ちないストーリーである。先にも書いたが、別に人が殺される映画が悪いと言っているわけではない。この『あずみ』から感じられる違和感は、中途半端にきれい事を挟み込んでいることと、登場人物の迷いや悩みが深く描かれていないことに由来している。そのため観終わった私の頭には、どうもしっくりこないものが残ってしまった。中盤であずみたちが訪れた村で侵略者による虐殺が起こるシーンがある。ここでは老若男女問わず、残酷に殺されていく。あずみたちは「罪も無い人たちが殺されていくのを黙って見過ごすわけにはいかない」と憤怒するが、老師は「悪人を数人殺したところで世の中変わらない」と黙って見過ごしてしまう。この言葉はいったい何なんだ。平和を願って刺客集団を育成した老師にこのような言葉を発させた意味がわからない。私が最も違和感を感じたシーンである。演出面で言っても、カメラワークなどに多少凝っている部分は見られるが、殺陣は紋切り型だしCGはお粗末だし、特に目新しい部分も無い。しかもこの題材で2時間半は長すぎる。非常に冗長で必然性を感じられない長さである。北村龍平という監督はハリウッドで経験を積んできたという話だが、人物の描きこみができない人だと見受けられる。良くも悪くも「ハリウッド仕込み」であることを実感。俳優たちも若い人たちが多いために、芝居が甘い。時代劇なのに、別れのシーンなどでは「じゃ、またメールするね☆」とでも言ってしまいそうな雰囲気である。そして一人一人のキャラクターに対する取り組み方が甘いように思えて、そのキャラクターの輪郭がはっきりしない。もっとはっきりしたキャラ分けをした方が、各々が際立ったと思う。良かったのはオダギリジョーと北村一輝と遠藤憲一。この3人はかなり気持ち悪くて良かった。このくらいキャラクターをカリカチュアしたほうが面白い。決して退屈する映画ではないのだが、観終わったあとに暗澹たる気分になってしまう。単純にチャンバラを楽しめれば良かったのだが、脚本と演出のせいで違和感ばかりが残る映画に仕上がってしまった。北村龍平の映画はどうも性に合わないようだ。★☆☆☆☆《『あずみ』を観て思ったどうでもいいこと》・この映画の石垣佑磨の横顔は、極楽とんぼの山本に似ている。・成宮寛貴と小橋賢児はパッと見て区別がつかない。
2004.02.17
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○『死んでしまったら私のことなんか誰も話さない』1995年制作のスペイン映画。何せタイトルがインパクト大。前々から観たいと思っていて、ツタヤに行ったのだがどこの棚にあるのかわからない。それで店員さんに「ちょっと探している映画があるんですけど…」と尋ねたら「なんというタイトルですか?」と聞き返されたので「『死んでしまったら私のことなんか誰も話さない』って映画なんですけど」と言ったら、ちょっと怪訝な顔をした。タイトルっぽくないタイトルが面白い。主な舞台はスペインのマドリッド。主人公・グロリアの夫は闘牛士だったが、牛に突き上げられ重傷を負った彼は植物状態に。家のローンに追われ、義母と3人で暮らすグロリアはメキシコへ行き売春婦になる。そこで彼女は犯罪に巻き込まれてしまい、あるファイルを手に入れる。そのファイルは裏金の在り処を記したもの。そんなファイルを手にし、グロリアはスペインに強制送還される。そのファイルを取り返すために、殺し屋が追いかけていることも知らずに…。監督は『ウェルカム!ヘヴン』のアグスティン・ディアス・ヤネス。主演は同じく『ウェルカム!ヘヴン』『キカ』のビクトリア・アブリル。なんかスペイン映画って独特である。そんなに数を観ているわけではないので偉そうなことは言えないが、どことなく血の匂いが立ち込めていてギラギラしているような気がする。この映画も、絶望の淵にある女が自力で這い上がろうとするストーリーで、ジャンル分けするならばアクション映画になるのだろうか。しかしアクション映画といっても、スタイリッシュでカッコいいアクションを想像してはいけない。この映画の主人公はあくまで普通の女である。売春婦にまで身を落してしまった女が不慮の事態で犯罪に巻き込まれてしまうため、彼女は生き延びるためと金のために闘うのである。だからアクションもどこか泥臭い。それがこの映画の特徴でもある。主人公・グロリアのダメ女っぷりが印象深い。定職にも就かず、ただオロオロしているだけ。泣き落としの末にせっかく義母からせしめた金も酒に遣ってしまう。ただただ「貧乏はいや」という彼女の姿に嫌悪感を覚える人も少なくないかも。リアルと言えばリアルな描写だが。そんなグロリアを演じているビクトリア・アブリルは顔立ちからして薄幸そうである。どこか白痴っぽい女性を巧みに演じていたと思う。この映画は主人公・グロリアの他に、あと2人の人物が幹になっている。グロリアの義母と、グロリアを見つけ出そうとする殺し屋である。グロリアの義母は元反政府主義者で、今は近所の子供に勉強を教えているインテリジェンス漂う女性。グロリアのだらしなさにほとほと手を焼いているが、それでも彼女を見捨てることはできない、人情に厚い人物である。息子が不幸に見舞われ嫁も絶望している状況で、ただ一人ピンと背筋を張っている気丈な女性である。また殺し屋のほうは病気の娘を抱えており、「これも天罰か」と思うようになる。それで職業であるとはいえ「人を殺す」ということに迷いを覚え始め、神父に懺悔する。この2人の描写がなかなか面白く、主人公よりも心の葛藤が浮き彫りになっており、しかも感情移入しやすい。この2人の描写に深い人間のドラマを感じた。ストーリーはやや荒っぽい印象は否めない。ラストの展開もやや唐突で面食らってしまった。スペインのどこか荒々しい雰囲気は存分に活かされているが、ストーリーをもうちょっと丹念に描いたほうが面白くなったと思う。★★★☆☆○『ベルリン 天使の詩』1985年制作のドイツ映画。監督は『パリ、テキサス』『ブエナビスタ・ソシアル・クラブ』のヴァム・ヴェンダース。天使・ダニエルは地上の人々の声を聞くことができる。地上の人々の声を聞いているうちに、彼はサーカスの空中ブランコ乗りの女性に恋をする。天使であるうちは彼にはどうすることもできない恋である。そのため彼は人間になりたいと願うようになる…。最近なんだか「天使モノ」の映画をよく観る。別に意識しているわけではないのだが。この映画は後にハリウッドで『シティ・オブ・エンジェル』にリメイクされた作品である。観始めた時、正直「これはキツイかも」と思った。いきなり詞的なセリフが連発され、どこか観念的なシーンが繰り広げられる。「これは寝そうだ」と思っていたが、意識的に物語に入り込もうと集中したら、なかなか面白く観ることができた。天使が見ている光景はすべてモノクロームで表現されている。これがなかなか効果的である。モノクロームの映像というのはどことなく淋しい雰囲気である。そしてこの映画の天使たちもどこか淋しさを背負っているような気がした。そんな天使たちの心情と映像が上手くマッチしていると思う。そして天使・ダニエルが人間になった途端にカラーの映像になる。それはとても生気に満ちた世界である。ダニエルが人間になった喜びを、観ているこちら側を一緒になって味わえるニクい演出である。ただ、セリフの多くは詩のような小難しい表現である。ここがちょっと私のような単純な人間にはとっつき難い。言葉の持つ響きは美しいのだが、映画であるがゆえにそのセリフを読み解くのに時間が足りない。これはちょっとカッコつけすぎじゃないかなと思う。全体の雰囲気は、ゆったりしていて優しい視線で描かれたメルヘンである。天使とはいえオッサンがほとんどだが、そんな彼らの微笑みがとても心地よい。決して派手さはないが、上品でじんわりと沁みてくる作品である。『刑事コロンボ』のピーター・フォークが本人役で出演しているのに驚いた。きっと遊び心が出たのであろう。★★★☆☆
2004.02.16
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最近、映画をレンタルする際はもっぱらDVDである。観終わった後に巻き戻す手間が無いし、早送り・巻き戻しもスムーズ、そしてチャプターごとに観たいシーンをズバリ引っ張り出せるという点でVHSの弱点をことごとく克服したと言える。しかもモノによっては特典映像付きでレンタル料金はVHSと同じとくりゃ、お得感は格段に違う。そしてもう1つのメリットとして、1枚のディスクで字幕と吹き替えが選べるという点が挙げられる。私は今までVHSで洋画を鑑賞する際は必ず字幕版を選んでいた。やはり役者の生の声で楽しみたいという想いがあるからだ。たぶん多くの人が「字幕か吹き替えか選べ」と言われれば、字幕版を選ぶと思う。しかしDVDはポチッとクリックするだけで日本語吹き替えに切り替えられる。ならば「ちょっと吹き替えで観てみようかな」という気分になる時もある。同じ日本語での翻訳でも、字幕と吹き替えは違う。字幕で見る分にはOKでも、言葉にしてしまうと違和感のあるセリフはたくさんある。字幕では多少回りくどい表現も許されるが、吹き替えとなるとそれを噛み砕いて、かつセリフとして自然なものに仕上げなければならない。そこに製作者は腐心しているように思える。万人にわかるセリフ回しということで、かなり古臭い言葉が出てくるのはご愛嬌と言えよう。教師と生徒との死闘を描いたサスペンス(と言ってもブラック・コメディに近い)『鬼教師ミセス・ティングル』を観たとき、主人公である鬼教師の日本語吹き替えを堪能していたのは、ベテラン来宮良子。『演歌の花道』『いつみても波瀾万丈』などで、ドスの効いた低音ボイスで緊迫感と箔を与えている人である。たぶん声を聞けば知っている人も多いと思う。これが実にハマッていて、こればっかりは日本語吹き替えの方が楽しめた。主演のヘレン・ミレンよりも声が鬼教師っぽくて鬼気迫るものを感じた。先日観た『ミザリー 特別編』で、有名作家の偏執的なファンで作家本人を幽閉する狂気の女性・アニー(キャシー・ベイツ)の吹き替えを演じたのは藤田弓子だった。藤田弓子というと、実写で「日本のお母さん」的な役柄を数々演じてきたベテラン女優である。あの丸っこくて人懐っこい顔が印象的だが、ここでは鬼気迫る声で熱演。まあキャシー・ベイツ本人の気迫には劣るところもあるが、それでも堂々たる声での演技だったと思う。テレビで放送される映画は、たいてい吹き替え版である。もちろんそれは万人に観てもらうための必然性があるから仕方ないことである。テレビの吹き替えでパッと思い浮かぶのが、戸田恵子・山寺宏一・津嘉山正種あたりか。皆この道のベテランだから安心して観ていられる。異色なところで、『エイリアン』でシガニー・ウィバーの声を担当した野際陽子とか。話題作や目玉作品をテレビで上映する際、有名な役者を起用することも少なくない。織田裕二だったり高嶋政宏だったり。昨日もちょこっと書いたが『タイタニック』で主演の男女の声を葺き替えたのは妻夫木聡と竹内結子だった。これがヒドイのなんのって。棒読みというか、抑揚が全く無く感情がこもっていないので鑑賞に堪えなかった。妻夫木聡も竹内結子も、決してヘタな役者ではない。でも実写と吹き替えはワケが違う。そもそも外人が日本語で喋っているのを違和感無く見せなければいけないのだから、ただナチュラルに演じていては観るものに全く伝わってこないわけだ。しかし逆に言うと、吹き替えを得意とする声優さんたちの声は揃いも揃って熟している。だから高校生が登場する青春映画などを吹き替えで観ると、どう聞いても高校生の声に聞こえなかったりする。しかもセリフが「ワァ~オ、イッかしてるぅ~」とかだとかなりの隔世感。どうも吹き替えは塩梅が難しいようだ。気になる吹き替えはアントニオ・バンデラス&アンジェリーナ・ジョリー主演の、少々エロそうな映画『ポワゾン』である。これの日本語吹き替えは草刈正雄と菊川怜。ある意味、適材適所かも。「マイクの前で喘ぎ声を出すのが大変でした」とは菊川嬢のコメントだが、そんな正雄と怜の『ポワゾン』を観てみたいとずっと気になっているがなかなか手を出していない状況である。っていうか実写でやっても違和感無さそうだもんな、草刈正雄と菊川怜のエロティック・サスペンス。どうもVシネっぽくなりそうだが。
2004.02.15
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たまにバイト帰りなどに、パックのジュースを飲む。パックに付属しているストローの片端を口でくわえて伸ばす時、ついつい頭の中で流れるのが『必殺仕事人』のテーマ。思わずパックにブスッと差し込むストローに力がこもる。一撃必殺。仕留めたり。気分はなんとなく京本政樹。『必殺仕事人』って全然知らないが、あくまで気分。そういや内田春菊の漫画だったか、M男がこういったパック式のジュースを飲むとき「ここをはがしてお飲みください」という注意書きの「ください」を消して「ここをはがしてお飲み」さらに一味加えて「ここをはがしてたっぷりお飲み」にして被虐性を楽しむってネタがあったなあ。ふと思い出した。先日、デパートでワイシャツを仕立ててもらったので、採寸をしてもらった。そこで胸囲を測ってもらうために、両腕を水平に上げてメジャーを胸に回されたのだが、そこでつい思い浮かべたのが『タイタニック』のテーマソング。「ジャーック!」「ローズ!」ってな気分で。ここは妻夫木聡と竹内結子の、近年稀に見るどうしようもない吹き替えで読んでいただくと有難い。
2004.02.14
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コンビニで雑誌を物色していると、「週刊ポスト」の表紙に「松田純 美乳ヌード」とあった。松田純と言えば売れていたのか売れていなかったのか微妙なラインのアイドルで、年齢詐称やら中野英雄と不倫したとかしないとかのスキャンダルで一部を騒がせた人である。前々からグラビアなどで活躍していた人ではあったが遂に脱いだかと週刊ポストを開いてみたら、これがなんとも中途半端な脱ぎっぷり。要は首巻を胸元に垂らしたり、海老のように丸まったりと巧妙に乳首を隠しているのである。なんだか肩透かしを食らったような気分で隣にあった「週刊現代」に目をやったら「柏原芳恵 ああ美乳出し」とある。「美乳」という言葉がブームなのかやたらと目に付く。しかしこれまた中途半端。全然出てねえじゃねえか。脱ぐ脱がないは本人の勝手だが、こういう中途半端なスタンスに「脱ぐなら脱ぐ、脱がないなら脱がない、はっきりしろ」と私はちょっとヤキモキしてしまう。それまで裸を売りにしているわけではないタレントたちが脱ぐということにはそれなりの覚悟が必要になると思う。事実、一回脱いでしまったらタガが外れたように脱ぎ続けてしまうタレントもたくさんいる。もちろん脱ぐことだけが芸ではない。でも「脱いだら脱ぎっぱなし」というスタンスに一種の潔さを感じてしまうのは私だけだろうか。そこでふと思ったのが、「ヌードにおける乳首の価値」である。世間では大体にして、乳首が出ていれば「フルヌード」、出ていなければ「セミヌード」という位置づけがなされていると思う。インリン・オブ・ジョイトイはかなりきわどいポーズで決めているが、決して乳首は出していないのでこれは完全なるヌードではないわけだ。しかも彼女の場合、乳首の隠し方もかなり凝っている。人差し指と中指のみで隠していたりと、ミリ単位でのチラリズム。う~む。誰かが「たとえば手の甲に乳首が付いていても興奮しない」と言っていた。確かにそうだ。人々は乳首に固執しているわりに、乳首そのものに対してはそれほどの興味を抱いていないわけだ。つまり「房があって輪があって首がある」というプロセスがなければならないのだ。房と輪と首、このどれかが欠けていたらヌードとしては成立しにくいのだろう。そしてまた考えたのが、「男の乳首と女の乳首の価値の差異」である。男にとっては乳首は隠すものではないが、女性のとっての乳首は隠すものである。温泉などで女性が胸を隠すのはまあ自然と言えようが、男が胸を隠していたらこれはかなり気色悪い。またジャニーズのアイドルが乳首をチラチラ見せるのは普通だが、モーニング娘。が揃って乳首を出していたらそれは活躍の場が上野か浅草あたりになってしまう。よく考えると不思議なことである。アフリカとかの裸族の女性たちにエロティシズムを感じる人はそうはいないと思う。そしてまた裸族の人々にとって、乳首の露出が当たり前となったいる環境で彼らは何に対してエロティシズムを感じているのか。乳首がエロティシズムの対象と成り得るには様々な要素が絡んでくるのだろう。考えるとキリがないし、私の浅はかな知識では答えが出そうもないので一旦打ち切りにしなければ。今日はこんなことをずっと考えていた。バカですね。乳首を連発して申し訳ない。また粛正せねば。
2004.02.13
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久しぶりに『うたばん』を観た。相変わらずこの番組の妙な構成に慣れない。突然次のゲストに切り替わったり、突然歌に行ったり、パッチワークのような構成になっている。そこで独自性を出しているんでしょうけど。『うたばん』も意外と続いている。しかし石橋貴明はキャラが変わった、大人になった。昔はホントに破天荒でハチャメチャやっていたけど、最近の彼はどっしり構えて秩序的ですらある。時にアッパーな芸風のタレントが出てくると、画面の端で困惑したような表情を見せている彼を見ると、彼も不惑の40歳を超えたのだなと妙な感慨。むしろ中居正広のほうがジャニーズでありながら昔の石橋貴明のような芸風だ。中居正広がバラエティの司会を勤めていると、彼の磐石っぷりが気になる。ポスト薬丸か?でも中居正広は役者もやるし一応歌も歌っている。彼はこれからどういうポジションで生きていくのか非常に興味深い。今日の『うたばん』のゲストはケミストリー・タッキー&翼・ゴスペラーズ。タッキー&翼に関して、先輩の東山紀之が彼らを称して「完成度の高い2人」と言っていたが、まさにその通りだと私も思う。デビューしてまだ間もないのに、なんだろうこの完成度。ジャニヲタの方々は、きっとまだ未熟な雰囲気のアイドルたちを庇護することに喜びを見出しているような気がするから、彼らの安定感はちょっとアイドルとしては物足りないのではないか。イマイチ彼らのCDのセールスが伸びないのはここに起因しているような気がする。そしてゴスペラーズである。彼らを見ていると「歌が上手い」ということが必ずしも尊敬に値しないということを実感する。彼らは歌に関しては絶対的な自信を持っているようだ。なんたってグループ名が「ゴスペラーズ」である。ゴスペルなら誰にも負けない自信の表れである。その安直なネーミングセンスは「うめぼし食べてスッパマン」並であるが。しかも彼らの最大の武器は、例のアカペラである。ところ構わずアカペラを披露する彼らを見るたびに「何だかなあ」と思わずにいられない。アカペラグループは必ずと言っていいほど、トークコーナーなどで「なんかここで一発お見舞いしましょう」と得意げになる。唐突に披露されるアカペラとラップほど困るものはない。背中がムズムズしてきて「どうしてくれよう」と思わずにいられない。以前、この『うたばん』にゴスペラーズが出演した時、中居正広が「歌うまいよね~」と非常に素朴な感想を述べていた。そう言われたら「いやいや~」と謙虚に受け止めればいいものを、あの水道橋博士に似た金髪さんが「それって、野球選手に野球上手いって言うようなもんですよ」と冷笑。そりゃそうだけどさ、なんか感じが悪い。私は昔、ゴスペラーズのCDをレンタルしたことがある。その頃のゴスペラーズはまだ学生臭いカジュアルルックに身を包み垢抜けない雰囲気で、確かに歌は上手いんだけど楽曲のクオリティが低すぎてダビングせずに返してしまった。ある時から急に、ゴスペラーズは黒装束集団になってしまった。そして「セクシー」などと評されることもあった。それを聞くたびに「ゴスペラーズがセクシー?」とどうも腑に落ちない気分である。そして今日の『うたばん』を観て思ったのだが、ゴスペラーズのリーダー・村上てつやは実はなかやまきんに君なんじゃないかということ。なんか似ている。同一人物であることを隠すために、ゴスペラーズの時はサングラス着用を余儀なくされているのではないか。「村上てつや=なかやまきんに君」説を誰も唱えないのがちょっと不思議。ゴスペラーズファンに怒られませんように(祈) ゴスペル&マッチョ。いわゆるG&M。
2004.02.12
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今日は昼に、割と近所にできたラーメンチェーン「横濱屋」に行ってきた。どうやら人気があるようで、また休日ということもあって結構な込みようであった。その「横濱屋」はラーメン屋であるのに佇まいはどこかヨーロッパ風。そこで吹く風はまるで地中海の風(実際は八王子)。入り口も二重扉になっており、二枚目は一枚板の重厚な造り。店内に入った印象もイタメシ屋(死語)のようだ。そんなチャンポンな雰囲気に、いったい自分は何を食べに来たのか混乱する。しかしメニューは至ってフツーのラーメン屋。私はネギラーメンを注文した。変なハーブが入っているとかトマト仕立てになっているとか一風変わったものが出てきやしないかとドキドキしたが、味噌仕立てのスープに具はメンマ・タマゴ・海苔・チャーシューとあくまでフツー。味も…取り立てて美味いというわけでもない。私はラーメンに関しては味オンチで、大して味の違いが分かるほうでもないのだが、これはちょっと微妙ではないだろうか。午後、ヒマを持て余して喫茶店へ。ちょっと懐が暖かかったので気が大きくなっていた私は、そこそこのお値段のコーヒーを注文した。何口か飲んでカップを持ち上げようとしたら取っ手が取れた。そこのカップは器がガラスで、取っ手は取り外しができる金属性だった。持ち方が悪かったのか、その取っ手部分が外れ、下半身にコーヒーがバシャー。ああ、久しぶりにやってしまった。ドムドムバーガーでオレンジジュースをブチまけて以来の粗忽である。友達といたならば、笑えたのに。独りだとただただ恥ずかしいだけ。こういう時、周囲の人は何事もないかのような顔をしている。それが日本人なりの気遣いってやつなのだろう。独りでワタワタしている私は、まるで馬鹿なピエロ。トイレに行ってズボンを脱いだら、パンツまで染みていた(コーヒーがである。念のため)。コーヒー臭を漂わせながら、電車に乗って帰った。隣に座った人が、ちょっと怪訝な顔をしていた。「これが最新のフレグランスなんだよ」と心の中で自分に言い聞かせながら、まだ乾ききっていないズボンがより一層冷たく感じられた午後であった。また話は変わるが、今日『牡丹と薔薇』の鏡子さん(川上麻衣子)が他界した。休日に見せ場を持ってくるとはニクイね東海テレビ。ありきたりな臨終シーンだが、川上麻衣子の気迫にグッときた。ちなみに、ぼたん(大河内奈々子)には高校生の弟がいるのだが、どう見ても高校生には見えないのがミソ。実際、大河内奈々子よりも年上の役者が演じているらしい。『牡丹と薔薇』マンセー。小沢真珠マンセー。とりとめのない日記で申し訳ない。
2004.02.11
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○『サトラレ TRIBUTE to a SAD GENIUS』『踊る大捜査線』の本広克行監督作品。主演は安藤政信。原作は同名コミック。「サトラレ」というのは乖離性意思伝播過剰障害の俗称である。要は考えていることが周囲の人に思念波となって筒抜けになってしまう人のことである。サトラレは日本にまだ7例しか立証されていない。そしてまた彼らは一様に高いIQを持っているので、国は彼らを国家財産として慎重に扱っている。そのため国は対策委員会を設立し、サトラレ自身にサトラレであることを知られないように腐心している。日本で7例目であるサトラレ・里見健一がこの映画の主人公。彼は「サトラレ受け入れ地区」である岐阜の山奥で、外科医として働いている。街の人々のサトラレに対する思惑は様々である。そんな彼を観察するために、防衛庁の精神科医・小松洋子が里見健一のもとに派遣される…。思ったよりも面白く観ることができた。あまり良い評判は聞いていなかったので期待していなかったが、これはまずまずの出来ではないだろうか。やはりこういうテレビ局が主導権を握って制作される映画と言うのは玄人筋からはやっかみの目で見られがちである。しかし「いかに観客を楽しませるか」という視線で見れば、この映画は頑張ったほうだと思う。この映画を観てちょっと驚いたのは、サトラレという人々が世間の誰もが知っている存在であるということ。もっとひっそりとした生活を余儀なくされている人々を描いた映画かと思いきや、サトラレによって周囲の人間は振り回されていると言っても過言ではない。そしてサトラレ自身にサトラレであることを感づかれるような仕草をしてしまったら厳重に罰せられるということもあり、周囲の人々はあたかも思念波が聴こえていないような素振りをしなければならないのである。これは『トゥルーマン・ショー』の世界観に近いものがある。自分の知らないところで、周囲の人々は虚構を演じているのである。この大げさなまでの描写が面白い。思念が筒抜けになってしまうということで、サトラレに恋はできない。また主人公の里見は医者であるということで、告知が必要とされるような治療に当ることもできない。そんな前半~中盤のエピソードはうまくまとまっている。中盤から後半にかけてはモタついてきて、ラストのほうはありきたりの予定調和ドラマのような仕上がりになってしまった。サトラレは実に悲しい宿命を背負った人である。しかしそれを「感動」で強引に流してしまっている。それがあまりにも安直で底の浅いラストになってしまっているのが残念。今まで「人の心を読む」というストーリーはたくさんあった。主人公が意図的に人の心を読むということで、主人公の能動的なストーリーが展開されるわけだが、この『サトラレ』は意図していないところで自分の心が不特定多数に読まれているということで、受動的なストーリーが展開される。その目の付け所は慧眼である。絶対に嘘がつけないサトラレは、言葉だけが上滑りしているこの社会で理想的な存在である。本当は誰もが正直に生きたいと思っているはずだから。ラストまで里見健一は自分がサトラレであることを知ることはない。本音と建前が潜在している社会とのギャップが面白いのだが、ラストでサトラレのあり方について提示して欲しかった。観ているこちら側としては「彼はこれからどうなるんだろう」と消化不良な印象を拭えずに終わってしまうのが中途半端である。主演の安藤政信は、この映画のように心優しい青年を演じてもバスバス人を殺すシリアルキラーを演じても、どこか「純粋」という言葉が浮かんでくる。相手を真っ直ぐ見つめる力強い視線が印象的な、いい俳優である。主人公をサポートする小松洋子を演じた鈴木京香も実に的確なキャスティングである。彼女は現れるだけで華を与えつつも画面を引き締めてくれる。多彩な役柄を違和感なくこなすことができる、稀有な女優ではないだろうか。主人公の祖母で、病気に冒されてしまう役に八千草薫。これは正直言って反則だ。「八千草薫+病気」は無敵の設定でる。あんな優しそうなおばあちゃんが病気だなんて、何も言えないからズルい。かなりファンタジー色が強い映画であり面白く観ることはできるのだが、これで2時間を越えるのはちょっと長い。もう少し脚本を練ってスマートに仕上げて、かつ主人公の心情に迫った映画になっていたら良かったのにと思う。★★★☆☆○『WATARIDORI』総制作費20億円を懸けて作られた、渡り鳥の生態を描いたドキュメンタリー映画。監督は『ミクロコスモス』で昆虫の世界を描いたジャック・べラン。この映画は実は厳密に言えば、完全なドキュメンタリーではない。そこにはもちろん演出があるし、渡り鳥をカメラで捉えるためにはヒナ鳥の頃からの訓練が必要である。その準備も含めて3年間を費やしている。しかしそんな演出は決して「捏造」や「やらせ」ではなく、ドキュメンタリーの色合いを損ねていることはない。むしろその演出があるからこそ、渡り鳥の生態にここまで迫れているのだと思う。この映画の一番の見所は、鳥と同じ目線で飛ぶカメラである。鳥が飛んでいる姿なんて普段見慣れている光景であるが、同じ目線で飛んでいる姿を見ると新鮮な気持ちになる。スイスイと空を飛ぶ鳥たちにギリギリまで近づいて撮影された映像を観ると、観ている私も一緒に飛んでいるような気分になる。この映画にはさまざまな種類の渡り鳥が登場する。どの鳥も実に特徴に富んでいる。奇妙な風貌をした鳥、スマートな鳥、カラフルな鳥と観ていて飽きることはない。そして彼らはなぜ飛び続けるのか、ということに思いを馳せずにいられない。安住の地を求めて地図もない空を飛び続ける。都会の空を悠々自適に飛んだり、時には極寒の地で吹雪に凍えたり、時には疲れた羽を湖で癒したり…。鴈のように群を成して飛ぶ鳥もいれば、鷲のように孤独に飛び続ける鳥もいて、一言で渡り鳥と言っても様々である。一見優雅に飛んでいるような鳥たちにとって、実は飛ぶことはサバイバルであり、生きることそのものである。そんな鳥たちが生き生きと描かれており、声にならない声が聴こえてきそうである。また世界各地の雄大な光景も見所だ。実に有意義な映画である。20億円と3年間という数字は決してダテじゃない。★★★★☆
2004.02.10
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○『ふたり』1991年度作品。原作は赤川次郎の同名小説で、監督は大林宣彦。ドジでオッチョコチョイな14歳の実加は、優しい両親としっかり者で秀才の姉・千津子と幸せに暮らしていた。ところがある朝、通学途中で忘れ物に気づいた千津子は家へ引き返す途中で、突然動き出したトラックの下敷きになり死んでしまう。その事故のショックでノイローゼ気味になってしまう母。そんな母を支えるために実加は努めて明るく振舞う。そんなある日、暗い夜道で痴漢に襲われかけた実加は千津子の幽霊に助けられる。それ以来、実加のピンチになると千津子の幽霊が現れて助けてくれる。死んだ姉と生きている妹の奇妙な共同生活が始まる…。そういえば、大林宣彦の映画というのは観たことがなかった。1本くらいは観たことがあるような気がしていたが、この『ふたり』が正真正銘、初めての大林作品である。赤川次郎の『ふたり』は確か中学生くらいのときに読んだ。きっかけは大したことではなかったような気がしたが、平易ながらも感情移入しやすいストーリーテリングにグイグイと引き込まれ、ラストでは思わず涙腺が決壊した。小説を読んで泣いたというのは初めてだったかもしれない。実加が成長していく中で様々なドラマが起こり、それに読んでいるこちら側も一喜一憂してしまう、非常に楽しい小説であった。そしてこの映画『ふたり』を観て驚いたのは、原作のイメージが全く損なわれていないこと。原作を読んだ後に映画を観ると、大体にして「イメージが違う」という印象を抱くことが多い。しかしこの『ふたり』は舞台・キャスティング共に原作のイメージに忠実である。まあ安っぽい合成などに「ええっ?」と思わせられることもあったが、それを許せるくらいの出来栄えである。小説という2次元の世界が、見事に映像という3次元の世界に構築された、なかなか稀な例ではないだろうか。主演の、当時17歳だった石田ひかりが出色。これが彼女にとっての映画デビュー作品になるが、実に初々しくて爽やかである。映画の前半では、どこかボーっとしていて頼りなさげな実加が、様々な経験を積み重ねて成長していく様を実に丹念に演じている。彼女の表情が徐々にしっかりしていく様子が印象的。死んでしまった姉・千津子役には中嶋朋子。しっかり者で優秀で美人な姉を好演している。実加にあれこれとアドバイスを下すが、実際彼女は死んでしまっているのでどうすることもできない、そんな切なさを見事に体現している。両親役には岸部一徳と富司純子。家族想いで冷静に家庭のことを見つめている父親役に岸部一徳はピッタリだ。しかし彼は後半である過ちを犯してしまう。冷静なように見えて脆さも見え隠れする父親にどこか哀愁を感じる。長女を喪ったことで精神のバランスを崩してしまう母親役は富司純子。常に和服で楚々とした雰囲気は古きよき時代の(『プライド』に影響されているわけではない)典型的な日本女性である。富司純子はそんな儚げな女性がよく似合っている。母はそれまで千津子に依存して生きてきた部分が大きいので、実加に対しては常に不安を抱いていた。しかし長女が死んでしまって喪失感に苛まれている時、実加がしっかりと彼女を支えてくれていた。そんなしっかりしてきた実加を母が見つめなおす描写が感動的だ。そして母は千津子が死んでしまったことを事実として受け止めていく。悲しいけれど、生きていくには仕方のないことだ。それでも生きていかなければならない人間の「業」のようなものを丁寧に描いている映画である。ラストで家庭内で大きな事件が起こり、それがきっかけで実加と千津子に別れの時がやってくる。実加にとっては2度目の姉との別れだ。そして今度こそ本当の別れである。そんなシーンに涙を禁じえない。これまた原作のイメージを忠実に再現した、素晴らしいシーンに仕上がっている。出演者たちが皆若いことも印象的。主演の石田ひかり・中嶋朋子はもちろんのこと、中江有里・島崎和歌子・林泰文・尾美としのりなど、初々しいけど実に真っ直ぐな芝居を見せてくれる。尾道を舞台とした、どこか懐かしく胸がキュンとなる青春映画である。★★★★☆○『バンガー・シスターズ』2002年制作のアメリカ映画。監督はこの作品がデビュー作となるボブ・ブルマン。60年代末から70年代にかけて、イケイケのグルーピーとして大物ミュージシャンたちを総なめにしていた「バンガー・シスターズ」ことスゼットとヴィニー。今でもロサンゼルスの小さなライブハウスで「生きる伝説」として一部の客や店員から一目置かれていたスゼットだが、代替わりした若い店長は彼女をあっさりクビにしてしまう。ここでスゼットが思い出したのは、かつての盟友ヴィニーのこと。彼女も今じゃアリゾナのフェニックスで、弁護士夫人として優雅に暮らしているらしい。だが今ではすっかり過去を捨てて地域の名士になったヴィニーにとって、スゼットの出現は悪夢そのものだった…。ストーリーはなかなか面白いのだが、どうも登場人物たちの行動が唐突で、はっきりした動機に欠ける。それが顕著になってくるのは後半である。最初、スゼットを拒絶していたヴィニーは突然ブチ切れてファンキーになってしまう。彼女が弁護士夫人という肩書きを捨て、優雅な生活までをも捨てたいという気持ちが全く描かれておらず、ものすごく唐突な展開で観客は戸惑ってしまうのではないか。そしてそんなヴィニーを観て、娘たちはどう思ったのか。そこらへんの描きこみがとても甘く、予定調和なだけのエンディングになってしまっている。過去にしがみついて生きているスゼット役はゴールディー・ホーン。この人はすでに50半ばを過ぎているはずなのに、ファニーフェイスにナイスバディと尋常じゃない風貌。スゴ過ぎ。そんな風貌をネタにしている部分もあって、それはそれで笑える。そんなスゼットとは対照的に、過去をかなぐり捨てて新しい道を見つけ出したヴィニー役にはスーザン・サランドン。正直、彼女にパンクルックは全く似合わない。生まれ持った品の良さや今までの映画のイメージが、このヴィニー役に結びつかなかった。前半と後半のイメージの落差は面白いが。目の付け所は良いけど、演出と構成の甘さによってものすごく中途半端な出来上がりになってしまった残念な映画。もっと登場人物の心情の動きを丹念に描いていたら、傑作になっていたのではないかと思う。★★☆☆☆
2004.02.09
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松嶋菜々子、妊娠6ヶ月だそうな。セレブ卵子とセレブ精子が受精してセレブ子宮に着床して、セレブ胎児がこの世にオギャーと産まれるべく着々と成長しているわけだ。生まれながらにセレブ。胎児でありながらもプレッシャーを感じているかもしれない。男の子だろうか、女の子だろうか。私としては、反町隆史似の女の子が産まれて欲しい。なんか強くて硬そう。ところで、芸能人の子供というのはどういう環境で育っているのだろうか。親の姿がテレビで映し出され、仕事ぶりを目にする機会も多いはずだ。もし親が俳優であれば、ラブシーンなんかを目にすることもあるだろう。はたまた過去のスキャンダルも知りたくなくても知ることになるだろう。インターネットで検索すれば、親の誹謗中傷も少なからずあるかもしれない。または「○○さんの子供」ということで大した根拠も無いプレッシャーに苦しむこともあるだろう。「芸能人の子供」というとなんとなく羨ましく思えるが、実際は辛いことのほうが多いかもしれない。松田聖子の娘・SAYAKAなんかもこの典型であろう。デビュー当時から「松田聖子の娘」という肩書きが付いて周り、親には某ジェフくんとの浮名を流した過去がある。はたまた男親は根拠の無いヅラ疑惑で赤い霊柩車。なかなかSAYAKAを取り巻く環境はハードボイルドである。そんな中で元気に振舞っている彼女は芯が強い娘なのだろう。古谷一行の息子・降谷建志なんかもけっこう複雑である。彼の場合は親の名前が出る前に、ある層には絶大なる支持を受けていたので、実力に拠るところが大きいだろう。しかし親は古谷一行である。温泉で乳ポロギャルに囲まれウハウハし、川島なお美と失楽園でハードコアの果てに心中という究極の性愛。かたや実生活ではAV女優と不倫。古谷一行の傍らには常に乳首があるような印象である。そんな親の背中を見て育ちながらも、両親に対してリスペクトフルな彼は度量が大きい。私だったら真っ先にグれるだろう。降谷建志もグれたかもしれないが。「親の七光り」で芸能界に生息しているタレントもたくさんいる。しかし「親の七光り」からなんとかして脱却しようと懸命になっている人を見ると応援したくなる。最近の寺島しのぶもそうだ。先日、彼女のエッセイをちょろっと立ち読みしたが、彼女は母・富司純子と比べられることに少なからず息苦しさを覚えていたようだ。母はかつて類稀なる美貌で売っていた映画スター。しかし娘は決して華やかな美人とは言いがたい。そんな逆境をバネにして舞台で実力を磨き、去年映画で数々の賞に輝く。親の威光はそれはそれとし、見事に実力で自分の道を切り開いて大女優に。良かったじゃないですか。あと山村紅葉もそうだ。親は女流ミステリーの大家・山村美紗。本の帯に掲載されている著者近影は必要以上にラメラメしていて眩しい。そんなカリスマ的オーラを放つ山村美紗の娘・山村紅葉は2時間ドラマには欠かせない脇役に。しかも本筋に大して絡んでこないコメディリリーフ的存在で。彼女は母から「アンタは私のコネで女優になれたんだから」と言い聞かされてきたそうだ。そんな弱点を明け透けと語る姿勢も潔くて良い。しかし彼女にもはや「山村美紗の娘」という肩書きは必要ないほどに、程よくアクの強い個性派俳優に成長した。2時間ドラマの需要がある限り、彼女は脇でドタバタし続けることだろう。松嶋菜々子・反町隆史夫妻の子供が芸能界に入るかどうかはまだわからないが、親のパブリックイメージに負けず真っ直ぐに育って欲しいものである。なんで私がそんな心配しているのかわからないが。
2004.02.08
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期せずして、アルツハイマーを題材にした映画を2本連続で観た。○『半落ち』現在公開中の、横山秀夫作の同名小説を映画化。監督は『陽はまた昇る』の佐々部清。群馬県警の指導官・梶総一郎が自宅で妻を絞殺して自首した。梶夫妻は数年前に一人息子を病気で喪い、それ以来妻の啓子はアルツハイマー症を発症し、痴呆が進んでいた。「息子のことを忘れる前に死にたい」という妻の言葉で、梶は妻を手にかけてしまう。しかし彼の供述には1つ不審な点があった。それは妻を殺害してから出頭するまでの間に2日間の空白があるということ。この空白の時間は一体何を意味するのか?梶は一体どこに行っていたのか?実に真っ直ぐで、いい映画である。演出もしっかりしているし、役者たちの芝居も重厚である。しかし何か物足りない印象を受けた。やっぱり登場人物にイマイチ感情移入できなかったという点が大きいと思う。この映画のテーマは病気がどうのこうのというのではなく、「命の絆」についてである。息子を喪ったことで命の重大さを身に沁みて感じているはずの梶が、「殺して」と懇願されたとはいえ妻を殺してしまった。そこがどうも腑に落ちないというか、理解できないのである。どんな事情があろうとも、人間の命を奪う権利は誰にも無いと思う。ましてこの映画は「命の重大さ」を語っている映画である。私が最後までこの映画にのめりこめなかった理由はそこにある。この映画の構成にもちょっと難があるように思える。登場人物が多い割に、その登場のタイミングが偏っている。そのため映画の視点もあっちゃこっちゃに飛んでいてまとまりが無い。観客は主人公の視点で物語を観ていたと思ったら、新聞記者の視点に切り替わり、かと思ったら裁判所判事の視点に切り替わる。私は結局、誰にも感情移入できずに物語が終わってしまった。もうちょっと視点を絞ったほうが物語に深みが出たのではないかと思う。役者たちは若手からベテランまで多彩な顔ぶれ。皆それぞれに熱演していた。しかしそれらが私の涙腺を直撃するまでに至らなかったのは、やはり脚本と演出の甘さではないかと思う。もうちょっとまとまりのある構成になっていたら、それはさぞかし素晴らしい映画になったであろうと惜しくてならない。あと、エンディングの森山直太朗の歌。全てをぶち壊しだった。思わず失笑。森山直太朗で完落ち。★★★☆☆○『アイリス』こちらは2001年制作のイギリス映画。監督はリチャード・エア。実在の女流作家アイリス・マードックを主人公とした、実話を基にした物語である。イギリスの女流作家アイリス・マードックは様々な作品で広く知られた作家である。しかし1997年にアルツハイマーであるという発表が成され、1999年にこの世を去った。そんなアイリスと夫ジョン・ベイリーとの生活を繊細に描いている。この映画は2つの時間軸が交錯している。1つは年老いたアイリスとジョンがアルツハイマーと闘いつつ、別れを迎える物語。もう1つは40年前のアイリスとジョンの、出会いから結婚に至るまでの物語。この2つの時間軸が交じり合いながら構成されている。若かりし頃の2人は、バイタリティと知性が溢れるアイリスに大らかなジョンが引っ張られているようなカップルである。そんな2人は実に生き生きとしていて、生の喜びを満面に湛えている。その40年後、アルツハイマーを発症したアイリスをジョンが支えている。そこには生き生きとした表情は無く、どこか悲哀に満ちた生活が映し出されている。この対比が実に切なく、やるせない気持ちにさせられる。しかしアルツハイマーを描いているとはいえ、決してエキセントリックで陰惨な映画になっておらず、夫婦の深い絆が浮き彫りになった愛情に満ちた映画になっている。それだけにアイリスの病気と死が悲しく思える。年老いたアイリスを演じたのはジュディ・デンチ。さすがの演技である。最初の矍鑠とした様子から、徐々に恍惚の人になっていく推移の演技が見事である。生気を失ってしまった表情が芝居とは思えないほどリアルである。そしてそんなアイリスを支える夫・ジョンを演じているのはジム・ブロードベント。まだ60歳にも達していないにも関わらず、老成した演技を見せてくれる。ジョンの大らかさが全身から伝わってきて、この映画の一筋の光になっている。彼の芝居が違うものになっていたら、この映画の印象も大きく変わっていたのではないだろうか。若かりし頃のアイリスを演じたのはケイト・ウィンスレット。奔放で知的なアイリス役にうまくハマッていた。『タイタニック』で注目されながらも、このような作家性の強い作品を選んで出演しているその姿勢には好感が持てる。この映画は40年に渡る夫婦の物語でありながらも、90分程度にうまくまとめている。しかし脚本の緻密さからか物足りなさは決してなく、すっきりした仕上がりになっている。不必要に感動させようという意図も見えず、淡々とした描写も功を奏していると思う。アルツハイマーという抗いがたい運命に、何かしら考えさせられるものがある映画である。またアイリスとジョンの絆の強さが印象的な映画だった。★★★★☆
2004.02.07
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掲示板に温かい言葉を寄せてくださった皆さん、ありがとうございました。嬉しかったです。薄い胸がいっぱいになりました。これを励みに頑張っていきたいと思います。ってお別れするみたいですが、一応日記は続けます。どうぞこれからもよろしくお願いします。さて、今日は友人のさわでさんと『半落ち』を観てきた。彼女が貰ったというタダ券で。ウチの両親も新聞屋から貰ったタダ券でこの映画を観てきたようだ。朝日新聞もかなりの量のタダ券をバラ撒いているようだ。今日も夜の最終回であるにも関わらず、かなり大入りだった。そのうちの3分の1くらいはタダ券で観に来たのではないかと私は思う。ヒットの裏にはそんな事情もあるかもしれない。『半落ち』の感想はまた後日。新宿で『半落ち』を観た後は、友人の友人が新宿ゴールデン街の小さな酒場で1日店長を勤めているということなので、お誘いを受け行ってきた。新宿でバイトをしているにも関わらず、夜の新宿ゴールデン街は初めてである。なるほど、確かに独特の雰囲気だ。お目当ての店は、3~4畳くらいのスペースに鋭角のカウンターとかなりの圧迫感。そこに客がひしめき合っていた。最初は「狭いっ」と窮屈に感じていたが、時間が経つにつれてその狭さに心地よさを感じてくるから不思議。1日店長はまだうら若き乙女だった。てっきり男性かと思っていたら女性だったのでちょっと驚いた。本当の店長は大阪に出張なので、代わりにカウンターに入っているとのこと。いろいろと冒険的なお酒を出してくれたが、どれもなかなか美味でしたよ、ご馳走様。これ読んでないだろうけど。あの空間と言うのは、見ず知らずの人でも違和感無く会話が交わせるから不思議。一見魔窟のようでも人情が溢れている、それが新宿ゴールデン街なのかもしれない。さわでさんは隣に座っていたグッドルッキングガイにご執心の様子でしたが。そんなこんなで気づいたら0時近く。終電だ。帰らなければならない。急いで新宿駅に向かってギリギリセーフ。金曜の夜ということもあって、電車はかなりキュウキュウの満員。私の隣にいた人は、メートルが上がりきっていたのか床に蹲ってしまっていた。それを見かねたどこかのオッサンが「あんた、迷惑だから立ちなさいよ」と諌め、その人も一応立ち上がったのだが意識が朦朧としているようですぐにまた蹲ってしまっていた。結局、立っていてもフラフラされて迷惑なので蹲ってもらったほうがまだマシだ。だから放っておいたのだが、満員電車であるために私も身動きがとれない。なので仕方なく、その人の頭に私の尻がずっと乗っかっていた。変な光景。なんで俺は知らない人の頭の上に座っているんだ。この状態で、ゴルゴンの目を見て石になったらちょっと困る。その人がゲロゲロっと吐いてしまわないかヒヤヒヤもんだった。それを見て、私自身も飲みすぎには注意しようと思った次第である。
2004.02.06
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昨日、就職の内定を貰った。最終面接ということで向かったのだが、その日のうちに内定と言われ、しかも配属先にまで案内されて、かなりテンパッてしまった。面接は10時からだった。自分のことを話したのは正味30分ほど。そこで「内定を出したい」と言って貰えたのだが、私はもう1つの会社の面接を受ける予定だった。なのでそれを正直に言ったら「二兎を追うものは一兎を得ず」と言われ、その後40分に渡って会社の説明を受けた。「洗脳か?」と身構えたが、かなり面接官が熱い人で圧倒されてしまった。面接で「愛」とか「夢」を語る人は初めてだった。結局、私が解放されたのは12時過ぎ。たった2時間ほどの出来事だったが、目まぐるしい展開に自分自身がついていけず、漫画で言うところの目がスロットマシーン状態だった。確かにその会社の人たちはみんないい人そうだった。手厚く歓迎してくれた。内定が出たことは嬉しいが、それでもどこか「これで良かったのか」という気持ちも拭えない。これはもしかしたらマリッジブルーに近い心境かも。嬉しい気持ちと後悔に近い気持ちが渾然となったアンビバレンスが私の中で去来する。なんせ「甲子園で言うならPL学園を目指す」会社である。血を吐くかもしれない。営業だから苦労も目に見えている。でももう決めてしまったことは仕方ない。「そうとうキツイよ」と念を押されてかなり動揺はしたが、とりあえず頑張ってみようと思う。唯一の救いは、その会社が自宅から自転車で15分ほどの距離ということか。*******************************いつだったか、CDショップでブリトニー・スピアーズとマドンナがデュエットしたという『My Against The Music』のPVを観た。それが凄く気になっていたので、インターネットでサンプル映像を観た。これはかなり奇天烈な映像だ。まあアメリカのPVは日本のそれに比べると過激でワケ分からないものが多いが、久しぶりに「なんじゃコリャ」という気分である。一応、この曲は「ブリトニー・スピアーズfeaturingマドンナ」という体裁を採っているが、映像を見る限りでは「ブリトニー・スピアーズVSマドンナ」のタイマン勝負である。変なコンクリート打ちっぱなし地下室のようなセットで、2人が対峙しているシーンがかなり笑える。「アチョー!」「ハイヨー!」と面妖なポーズで相手を威嚇しているその姿はまるでハブとマングース。一触即発である。若手とベテランの、お互いのプライドを賭けた死闘が始まるのかと思ったら、いい所でサンプル映像終了。これは全部通して観たい。気になるPVの1つである。*******************************昨日、テレビを観ながらまたパチパチとザッピングしていた。すると江角マキコ主演のドラマが放送されていた。タイトルは長くて語呂が悪いので忘れた。するとギバちゃんこと柳葉敏郎が出演していた。彼は段々、田中邦衛に似てきた。容貌とか演技ではない。何となく、彼が醸す雰囲気がだ。田中邦衛は「世間が思い浮かべる田中邦衛のイメージ」に自分自身を近づけているような芝居になってきた。田中邦衛自身が「田中邦衛のモノマネをする人」に似てきたのである。柳葉敏郎もそんな雰囲気になってきた。要は、芝居のクセが顕著になったのである。柳葉敏郎という人はクセがある芝居の割には、役の幅が広い。昔はW浅野や石田純一、陣内孝則などと共にトレンディドラマの常連だった。彼らがトレンディドラマのイメージからなかなか脱却できずに喘いでいる間に、柳葉敏郎はススーッとトレンディドラマの呪縛から逃れたように思える。しかしトレンディドラマのも何かよくわからないモノだったな。時には熱血職人だったり、時にはクールなエリートサラリーマンだったりと違和感無く演じられるのは、彼が不器用に見えて実は器用である証拠ではないだろうか。円熟した柳葉敏郎は、なかなか貴重な存在かもしれない。
2004.02.05
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今日の『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングゲストはジミー大西だったらしい。ジミー大西にご執心のウチの母親がこれを観ていたそうだ。それを観て母親は「やっぱり天然ボケの人にはかなわないわね~」と一言。それを聞いた姉も「そうそう、一番面白いのは天然ボケの人だよね」と同意。それは私も否定はしない。しかしこの2人は、天然ボケには「おりこうな天然ボケ」と「そうではない天然ボケ」がある、という。ん?「おりこうな天然ボケ」とはなんぞや?「勉強ができる」=「おりこう」という構図を持っているのであれば、確かにそういう人もいるかもしれない。しかし彼女たちは「おりこう」というのは、単に勉強ができるというだけの意味合いではないらしい。そこから急遽、家庭内天然ボケに関する緊急シンポジウムが開催された。要は単なる茶飲み話である。私は「おりこうな天然ボケって、例えば誰?」と聞いたら、姉は「う~ん、オセロの松嶋とか?」と言う。私は「それは違う。彼女は天然じゃない、日常生活における基本的な知識が欠落しているのだ」と反論。私は「天然ボケ」というのは、自分が普通であるとされることとはちょっと異なる行動や言動をしていることに気づいていないから天然ボケだと思っている。これに関して言えば、オセロの松嶋は自分に一般常識が欠けていることを認めているし、そのズレが面白いということを自覚した上でネタにしているのだ。このような観点から言って、オセロの松嶋は頭の回転は速いであろうが、「天然ボケ」と断言することはできない。母も姉もそこそこ納得。「じゃあ、天然ボケの人と言えば誰?」と逆に問いかけられたが、よく考えてみるとそんなに浮かばない。頭の中は「西村知美とか西村知美とか西村知美とか」と西村知美オンリー状態に。「天然ボケは誰?」と聞かれて西村知美だけじゃパッとしない。他にもいるだろうと考えたら今度は「長嶋一茂とか長嶋一茂とか長嶋一茂とか」と長嶋一茂一色に。私の頭は『からくりテレビ』に冒されているのだろうか。ごくたまーに、「私って天然ボケなんです~」とかぬかすアホウがいるが、天然ボケは自覚がないから天然ボケなんじゃボケと突っ込みたくなる。こういう人間は即効で駆逐しなければならない。ゴーストバスターズならぬ、自分で自分のことを天然ボケとぬかす人間バスターズを出動させねば。隊長のイメージは岡田眞澄か谷隼人を浮かべてくれるとありがたい。
2004.02.04
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ヒップホップ界のカリスマ・エミネムが満を持して映画出演を果たした作品。監督は『L.A.コンフィデンシャル』のカーティス・ハンソン。舞台は1995年のデトロイト。ドラッグが蔓延する荒廃した都市で、都市と郊外はたまた黒人と白人とを分離する「8マイルロード」を核に物語は進む。そんなデトロイトのヒップホップクラブ・シェルターが物語の主な舞台である。ここでは夜な夜なラッパーたちのバトルが繰り広げられている。言葉を武器にしたタイマン勝負はさながら格闘技のような猛々しさを持っている。客層の主が黒人であるこのクラブで、ラッパーとしての才能を持ちながらもプレッシャーに悩むB.ラビットがこの物語の主人公である。鬱屈とした気分を抱えながらも、現状に立ち向かう勇気を持てない主人公をエミネムが好演。映画初出演とは思えない、堂々たる芝居である。熱演化型でもなく、かと言ってグダーっとした芝居でもない、きわめてニュートラルな芝居を見せてくれる。こんなに芝居が出来る人だとは思わなかった。彼の母親役を演じるのは、ベテランのキム・ベイシンガー。同じ監督の『L.A.コンフィデンシャル』ではセクシーな女性を演じ、今回は男に翻弄されるボロボロの中年女性役である。彼女の大人な芝居で、この映画に深みが加わった。ラビットのガールフレンドを演じるのはブリタニー・マーフィー。この物語で大きな役割を果たしているかと言えばそうでもないが、彼女がエミネムと絡むことで青春群像的な色合いが濃くなったと思う。この映画は非常に真っ直ぐな映画である。余計なストーリーを挟み込むことは無く、あくまでラビットの成長していく姿を描いた青春映画である。「ラップを通した若者の姿」ということで、至極チャラチャラしたものを想像してしまったが、カーティス・ハンソンは実に重厚な世界観を持って描ききっている。そしてラップというものがどんな背景で生まれるか、どういう心情を歌うために生まれたのかちょっとわかったような気がする。ハングリーな彼らの魂の叫びは鋭く尖っている。この映画は、英語のラップを理解することができればもっと面白く観られるかもしれない。やはり日本語字幕だけでは、言葉が持つリズムや意味を余すことなく伝えきることはできない。仕方ないっちゃ仕方ないが。ヒップホップに興味が無い私でも、飽きずに観ることができた。なかなか拳の堅い映画である。YO!★★★☆☆
2004.02.03
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ここ最近で、思わず「ええっ!?」と目を疑ったニュース。それは「ムツゴロウ王国、東京に移転」。なんでも、北海道中標津町に500ヘクタールの敷地で経営されていたムツゴロウ王国が、「都会の人々にも動物と触れ合って欲しい」という理由の元に、東京都あきる野市の東京サマーランド内に移転するとのこと。一応、「都会の人々にもうんたらかんたら」ともっともらしい理由を謳ってはいるが、実際のところはフジテレビとの契約が切れたことが経営的に痛かったのではないかと私は思う。そうでなければ、自然が残っているあきる野市とは言えわざわざ東京に移転する理由なんかないと思う。しかも東京サマーランドって遊園地なんだから、ムツゴロウ王国も単なる動物園になってしまう可能性が高い。そんなリスクを冒してまで東京に移転するのは、やっぱり銭の面が大きいと思われる。そりゃあムツゴロウさんの講演料やらで400匹もの動物の飼育費を工面するのは大変でしょうから。仕方ないことではあるが、なんとなく「魂、売ったな」と思ってしまう。とは言ったものの、私はこの『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』という番組が苦手だった。確かに動物は可愛いし、罪は無い。ただムツゴロウさんこと畑正憲氏のテンションに、子供ながらついていけなかった点が大きい。動物たちは確かにゆかいだが、ムツゴロウさん自身は決してゆかいじゃなかった。むしろ戦慄を覚えるくらい強烈でアクの強いキャラクターだった。例えば、チーターだったかヒョウだったか忘れたが肉食獣の赤ちゃんがテレビに出ていた時、ムツゴロウさんは「ほらほら、こーするとこの子は喜ぶんですよ。よーしよしよし」と努めてフレンドリーなアプローチを試みていたのだが、その猛禽類の赤ちゃんはシャーッと牙を剥いて明らかに怒っていた。根拠の無い自信と見切り発車的な行動力が、ムツゴロウさんのあの小さな身体のどこから湧いてくるのか、不思議というか怖かった記憶がある。他にもワニの口に頭を突っ込んだりゲテモノ食いしたりと、『ムツゴロウとゆかいな仲間たち』は次に何が起こるかわからないスリルに満ちていて少々刺激が強かった。川口浩の冒険隊並みのデンジャラスムードであった。そんなムツゴロウさんを襲った事件として、「ムツゴロウさん、ライオンに指を食いちぎられる」という笑っていいんだかいけないんだかわからないニュースがあった。日本でぬるま湯に浸かったような生活を送っている我々にとっては、「ライオンに噛まれる」なんてかなり遠い世界での出来事である。そんな快挙というか惨事を経験したのは松島トモ子かムツゴロウさんぐらいである。しかもあの動物慣れしているムツゴロウさんなのに。猛獣に腕を噛まれた場合、その噛まれた腕を口の奥に押し込めばオエッとなって吐き出してくれるらしいが、ムツゴロウさんは咄嗟に腕を引いてしまったらしい。そのため指を食いちぎられるという悲惨な事態になってしまった。このニュースには、さすがに私も笑ってしまった。笑っちゃいけないとは思うが、笑ってしまった。しかし世間でも、本来なら「ムツゴロウさん…(同情)」でなければならないはずなのに、どちらかというと「ムツゴロウさん…(笑)」というスタンスであったような気がする。プロフェッショナルが、得意な分野で失敗すると痛い。「無免許カリスマ美容師」みたいな?かなり違うか。小学生だったか中学生だったか忘れたが、ムツゴロウさん著『REX 恐竜物語』の小説を読んだことがある。安達祐実が主演して全速力で大コケして、挙句の果てに監督の角川春樹が覚せい剤で逮捕されて打ち切りになったという、夢もファンタジーもへったくれもない現実に打ち負けたいわくつきの作品である。小説の表紙は、映画にも出てくる小さな恐竜がタマゴから孵った絵柄。可愛らしい印象を受けた(よく見るとかなり気持ち悪い)ので、なんとなくファンタジー的な内容を想像して買ってみた。しかし物語の要所要所で、けっこう過激な濡れ場が用意されていて肝を潰した。「下着を剥ぎ取り」だの「二本の足の間の茂みがどうたらこうたら」だの「秘丘をあんなことしてこんなことして」とか、今思えば三文エロ小説のようなフレーズが展開されていたのだが、まだ幼かった私としては「ひょえ~」ってなモンである。両目を手で覆いながらも、指の隙間から覗き見ているような、そんな感じ。まさかのまさかで、ムツゴロウさんの小説がヰタ・セクスアリス。無防備でどこか邪気の満ちた笑顔を振りまいているムツゴロウさんから愛のラーゲを教わるとは思ってもみなかった。そんなこんなでかなりご無沙汰しているムツゴロウさん、東京で経営者として頑張ってください。
2004.02.02
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『ウェルカム!ヘヴン』に続いて“天使モノ”映画を観た。1997年制作のアメリカ映画。監督は『トレインスポッティング』『シャロウ・グレイブ』のダニー・ボイル。出演はユアン・マクレガーとキャメロン・ディアス。掃除夫をしながら小説家を夢見るロバートは、自分をクビにした社長への復讐のために社長令嬢であるセリーンを誘拐する。実はその全ては、天国の警察署長からふたりを結びつけるように派遣された2人の天使の仕業であった。天使たちは、この2人を結び付けないと天国に戻れないとあって、あれこれと策を練るが…。ユアン・マクレガーが思わぬ運命に翻弄される心優しい青年を演じている。そしてそれとは対照的に、キャメロン・ディアスが演じるのは妙にシニカルなじゃじゃ馬的な娘。誘拐する側と誘拐される側という主従関係が生じなければならないはずなのに、どこか立場が逆転しているのが面白い。ユアン・マクレガーとキャメロン・ディアスの「英会話のイーオンコンビ」はそんな役柄にピッタリである。そして大柄な黒人男性の天使を演じるのはデルロイ・リンド。その相棒の女性天使を演じるのはホリー・ハンター。この2人の凸凹コンビっぷりが笑える。この天使たちは地上の2人を結びつけるために様々な破天荒な作戦を遂行するのだが、それが必ずしもすんなり成功しない。天使なのにマヌケな2人がとてもチャーミングである。美人でベテランでオスカー女優でもあるホリー・ハンターが鼻血をダラダラ出しながら頑張っていて驚いた。トラックのボンネットに張りついてユアン・マクレガーとキャメロン・ディアスを襲撃するシーンはもはや天使というよりも悪魔のような形相である。そんな曲者っぷりがこの映画の面白さである。大女優だからって容赦していないところが痛快である。ロバートとセリーンがなかなか結びつかないところにじれったさを感じながらも、次はどう展開するのかワクワクさせられる。ラブコメディのツボにまんまとハマってしまったのかもしれない。しかし普通のラブコメディとは違い、毒っ気溢れたコミカルな雰囲気が全体を覆っているので決して甘ったるくない、どこかエッジの効いた仕上がりになっている。基本的にラブストーリーが苦手な私でも面白く観ることができた。ややストーリーに強引な部分があるが、それでも作品自体が持つパワーに圧倒されて違和感を感じさせない。ダニー・ボイルが初めてハリウッドで制作した映画ということであるが、映画から感じるイメージはイギリス映画のようである。ダニー・ボイルの『トレインスポッティング』と『シャロウ・グレイブ』は正直あまり好みの映画ではなかったが、この『普通じゃない』はダニー・ボイル特有のセンスを生かしながらも爽やかに描いているので楽しく観ることができる。やっぱりダニー・ボイルは只者じゃないかも。この映画、邦題が良い。『普通じゃない』とはなかなかインパクトがあるタイトルである。原題は“A LIFE LESS ORDINARY”。ほぼ直訳であり、そんなに語呂がいい邦題ではないのになぜか心を掴まれる。「誘拐」という普通じゃない状況に追いやられ、そしてさらにその「誘拐」も決して普通の誘拐に終わらない。主人公たちが迫り来る状況にどう立ち向かっていくかが見ものの、痛快娯楽映画である。★★★★☆
2004.02.01
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