2022.03.20
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テーマ: 本日の1冊(3696)
カテゴリ: カテゴリ未分類
深川でテニス会に参加する予定で前日夜北国から東京に戻ってきた、にもかかわらず雨で流れた。まるで誰かが嫌がらせをしているとしか言いようのないタイミングで、会の始まる2時間前にそれまで泣きそうになりながらも堪えていた空がとうとう二筋三筋零しだした。泣くなら泣くでちゃんと泣いてくれよ、じゃないと諦めがつかないだろ、こちとらテニスの後は雨になるのはほぼ確実、それなら自転車で帰るのにテニス用具が濡れては困ると先を読み、100円ショップで雨合羽とバッグカバーを買ってきたのだぞ、たいした出費ではないにしても、すべてを無駄にしてくれるとはいい度胸してるじゃないか。と脅してみたところで仕方がない。雨粒は取り返しのつかないほどに落ちてきた。

深川に行くときは永代橋を渡っていくことが多い。橋を東に渡り切ったところで大横川沿いの細い道に入る。永代通りを行った方が距離的には近いのだろうが、門前仲町の人通りの多い歩道を避けるために小道を走ることにしている。川沿いを数分行くと突き当たるので、左折して北上すれば深川テニス場にすぐ着く。テニス場の裏には深川不動堂が、向かいには数年前に宮司の家督問題に起因する殺人事件のあった富岡八幡宮がある。

100年ほど前、永井荷風が何処へ行くという当てもなく四谷見附から築地両国行の電車に乗った時のことを書いている。地方出身の車掌が「スントミ町」と発音する新富町を過ぎ茅場町の手前で、当時はよくあったのだろうか停電の所為らしく、先の見えないほどの数の電車が立ち往生していた。深川行きの乗換切符を車掌から渡され、そのつもりはなかったが「自分は浅ましいこの都会の中心から一飛びに深川へ行こうーー深川へ逃げていこうと云う押えられぬ欲望に迫(せ)められ」、電車を乗換え永代橋を渡った。

短編「深川の唄」の荷風は、ここで深川の思い出に浸る。アメリカやフランスを訪れる前の荷風には、深川は存在を癒してくれる場所だった。「水の深川は久しい間、あらゆる自分の趣味、恍惚、悲しみ、悦びの感激を満足させてくれた処であった。」まだ深川行きの電車はなく、永代橋は工事中、小さな蒸気船や櫓船(ろぶね)で行くしかない。深川不動の賑わい、根下りの銀杏返し(銀杏返しの一変形だろうか?)や印半纏(しるしばんてん)の頭、水に映る人々の衣服や玩具や提灯の色など絵画的な眺め。洲崎(すさき)の遊郭に夜おそく船で通ったころ(深川の一部、今の東陽町あたりだろうか、吉原と共に東京の二大遊郭として有名だった)、料理屋の二階から聞こえる芸者の唄、酒に酔って喧嘩している裸の船頭、水に映る月、男と酒を飲んでいる女、それらの景色に美しく悲しい詩情を感じていた。尾崎紅葉たち硯友社の江戸情緒あふれる芸術に溺れていた。「音波の動揺、色彩の濃淡、空気の軽重」といった西欧の芸術には心を惹かれなかった。

荷風は永代橋の向こう岸で電車を降り、深川の通りを歩き(今の門前仲町あたりだろうか)、とある横町に幟(のぼり)のようにつるされた紺と黒と柿色の手拭に目を惹かれた。深川不動の社だと気付きその方向に曲がった。不動尊の入り口には「内陣 新吉原講」と金字で書かれた鉄門がある。(写真を売っているサイトのようなのでコピーをすることは控えるが、 ここで鉄門の写真を見ることができる 。洲崎の遊郭の主人たちが寄進したものだろうか。)

堂に上がる石段の下には易者の机や露店が二三出ていた。その傍に人だかりができていて覗いてみると、坊主頭の老人が阿呆陀羅経(あほだらきょう)をやっている(江戸時代末期から現れた大道芸人のような物乞い、木魚をたたきながら経文まがいの文句と節で語る)。となりには盲目(めくら)の男が三味線を抱えてしゃがんでいた。やがて男がチントンシャンと弾き出した。荷風は、その男の歌沢節(端唄をもとにした俗曲の一つ)に引込まれた、声は枯れているし、三味線の一の糸には聞くべきものもないが(荷風は「少しのさわりもない」と書いている)、その節回しと拍子の間取りが山の手の芸者にはない確かなものだった。

尊敬の念さえ感じながら、荷風はその男の生い立ちに想像を巡らせた。生まれついての盲目ではないだろう、ある程度の教育があったに違いない。しかし江戸伝来の趣味性と「明治」という時代がうまく嚙み合わず、不運にもやがて家産を失い盲目になった。不運だが不幸ではない、眼は光を失ったが、却って電車や電線や薄っぺらな西洋づくりを打ち仰ぐ不幸は知らないのだから。たとえ不幸と感じるときがあったとしても、江戸の人は我ら近代人のように嫌悪憤怒を感じることもなく煩悶に苦しむような執着心もない、やがて諦めて自分で自分を冷笑する心の余裕がある。

夕日がこの盲目の男の横顔を照らしている。ふと振り返ると西の空に紺色の夕雲が棚引き沈む夕日が生血の滴るように燃えている。荷風は一種の悲壮感を感じた、夕日の沈む西の方向には早稲田の森があり本郷の岡がある、そこは日本の学問の中心、東洋のカルチェラタンだ。ここはなんと遠く離れているのだろう。

荷風は端唄を聴きながら、江戸の情緒から離れたくないという感覚の世界と、それに比べてどれだけ安っぽく薄っぺらに思えようとも、知と美の最先端を行く西洋の文化をもっと吸収しなければならない、という義務感に引き裂かれていた。永代橋は東と西の狭間、荷風自身の象徴かもしれない。家の書斎ではワグナーとニーチェが待っている、と荷風は結ぶ。

荷風が「深川の唄」を発表したのは1909年2月(30歳)、アメリカに渡ったのが1903年9月、フランスは1907年7月とある。洲崎遊郭に通っていたのはそれ以前、1902、03年頃のようだ。

盲目の男の唄った端唄の句を、作品の中で荷風はちらりと見せてくれている。歌いだしの「秋の夜は~」と三味線の三の糸が頻りに響く「おとするものは~鐘ばかり」という部分だ。今の時代、これだけあれば検索できる。案の定、「秋の夜」という端唄に行き着いた。桃山晴衣(ももやまはるえ)の弾き唄いを ここで聴くことができる 。もとは「月見ぬ」だったのを桃山晴衣は「月見る」と変えて歌っているそうだ。

まんまるな月見る人の心かも
更けて待てども来ぬ人の
訪(おと)ずるものは鐘ばかり
数(かぞ)うる指も寝つ起きつ
わしゃ照らされているわいな
普通に読めば男を待つ女の心情だが、別の読みもあるそうで、佐渡金山に流された男が指を折って月日を数えながら、赦免の船を待ち月光に照らされている、とか。荷風はどちらの読みでこの端唄に感動していたのだろう。





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最終更新日  2022.03.20 09:45:27
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