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七夕は盧溝橋事件の日でもある。今からおよそ90年前、柳条湖事件(昭和6年)をきっかけに起きた事変は満州国を作り、さらに6年後の今日、盧溝橋でまた軍同士の紛争があり、日本と中国は全面的戦争を起こした。いずれの出来事も日本軍が仕掛けた自作自演だったらしい。前者では満州を手に入れるきっかけとなり、、後者は逃げる中国軍を追いかけて広大な大陸で鬼ごっこをする羽目になった。とにかく中国軍は弱かった。ろくな軍事教練もできず、将校を養成する学校も西安にあるだけで、そこの教官は日本人が多く、中国の将校を馬鹿にする有様であったらしい。日本人は小学生まで中国人を軽蔑し、差別していた。昔は中国を師と仰ぎ、遣隋使や遣唐使を派遣することもあったのに、中国は欧州の軍事力に敗退し、香港を英国に、マカオをポルトガル、満州北部をロシアに統治させていた。明治維新を日本が成し遂げると、日本に留学していた孫文が日本こそお手本とばかり、辛亥革命なるものを勃興させたが、中国全土には至らなかった。このころ中国には二つの政党があり、内戦状態となっていたのだ。ソビエト共産党の指示を受ける毛沢東の紅軍、蒋介石率いる国民党の軍隊とである。アメリカやドイツから軍事援助を受け、このころは軍事的に共産軍より優位であった。日本はこれをいいことに、内戦状態であればあるほど中国は弱っていくのは明らかと見たが、実際は国共合作と称して国民党と共産党は対日戦線で合意に達し、共同戦線を張ったのである。この情報はまったく日本人には入らず、中国軍恐れるものぞと言う独りよがり的優越感に浸っていたのが当時の日本人である。孫文は日本と中国の橋渡しを望んでいたが、まさに中国のことわざ「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」であった。大多数の中国人は教育を受けず、無学で文盲であった。このころの中国の文盲率は100%に近かったはずである。このため外国はおろか、国内のことも知ることはなく、政治的にも全く白紙であった。
しかし文盲の中国人兵隊の逃げ足は速く、日本軍が追撃する倍の速さで揚子江を遡行して重慶まで逃げた。日本軍は負うことができず、爆撃機で重慶を空襲するにとどまった。これが世界で最初の戦略爆撃となった。この時すでに心ある日本人は広大無限の中国本土を占領する事の愚を悟ったものが何人かいたが、いずれも少数派で、勇ましい発言ばかりが歓迎される軍内では大きな声にはならなかった。本来、進歩した国の軍隊と言うものは、政府の完全な管理下にあり、軍自体が政府を左右するものなどではない。しかし日本の陸軍は政府の言うことなど聞かなかった。これは陸軍が当時天皇の直接指揮を得るものとして扱われていたからである。政府が天皇の軍隊をして口を出すなどとんでもないと陸軍の一人勝手な理屈であった。そして中国で身動きできずにいる軍隊を目にしながら、さらに東アジアの原油やアルミニウムやゴムなどの軍需物資を得るために軍事行動を起こし、これがアメリカの反発を買って太平洋戦争につながっていくのだ。この責任はだれにあるのか?旧陸軍の幹部にあるというのはたやすいが、それでは答えにはなっていない。陸軍の思いあがった精神を叩き直して正しい道に戻すのが政府の役目とすれば、当時の政府、首班だった近衛、東条、広田の責任もあるが、最大の犯人は当時の国民だろう。
ちょうど英国のジョンソン首相が閣僚の信頼を失って辞任するニュースが流れた。彼は私立のイートンスクールを出てハーバード出、国内では超エリートである。かえって日本の首相だった近衛も東条も広田もこれまたエリートである。日本も英国も同じ内閣制で政治的に似ているところはあるが、ジョンソンと日本の首相たちが違うのは、前者は現実主義者、後者は理想主義者で、現実とかけ離れた思想に固まったお坊ちゃん体質だったということである。ジョンソンはエリート臭をおくびにも出さず、女性ではだらしなく、酒でもだらしなくしてかえって国民の人気を集めた。逆に近衛は天皇五摂家の筆頭で、ジョンソンとは比べにならないほどの家柄だった。これが何を意味するか?首相としての責任よりも自分の家計を守るために生きていた人物と言うことである。そのためにひたすら保身に身をやつし、人の評判をものすごく気にして行動した。そのいい例が対米戦について率直な意見を山本五十六から聞いたときである。山本が、開戦して一年や半年は暴れて見せるがそのあとは確証がない、と言ったとされる。この意見を参考にして近衛が立ち回ったという話を聞いたことがない。彼はそのあと戦争に反対したという記録はなく、御前会議で開戦決定後に辞任した。彼は日米会談も全くやる気がなく、東条に後を任せてしまったのだ。両家の子女に過ぎない彼の特質はまだある。終戦後、彼は珍しくマッカーサーに会見を申し入れ、マッカーサーから終戦処理の指導をするように言われて有頂天になり、憲法改正や国務大臣としての敗戦処理にあたったほどである。しかし彼のマッカーサー訪問は、戦勝将軍を訪問することで、戦犯を逃れるために行動したのではないかとわたしは見る。彼は恐らく戦犯指定の予感があったのだろうが、だからこそ米国の占領軍最高司令官に会ってご機嫌を伺ったのだと思う。それほど彼は世間知らずだったのだ。時がたって東京裁判でA級戦犯として収監される前日、荻外荘で自殺してしまった。彼の神経は細く、それでいてきぐらいは高かった。東条もしかりで、MPが収監にきたとたん、拳銃自殺を図ったが当時の大発明ペニシリンの使用で命を取り留めた。
豪放磊落な一面を見せたジョンソンの人間味と現実を見極めて決断する能力、肩や政治よりも家系にしか興味のない男のちがいなのだろう。当時の日本は一部の誤ったエリートたちに国を動かされていたとしか言いようがない。
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