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(合祀された大工廻拝所)沖縄本島沖縄市の「嘉間良集落」にある「尚宣威王の墓」の西側に合祀された「大工廻(ダクジャク/ジャクジャク)拝所」があります。この小高い森の広場には、かつて「大工廻集落」に点在していた「クボー御嶽」「ナカムイ御嶽」「ガキジョー御嶽」が合祀された赤瓦屋根の祠が建立されています。1713年に琉球王府により編纂された「琉球国由来記」には、それぞれ『ゴバウノ嶽 弐御前 大工廻村 壱御前 神名 イシナカゴフ御イベ 壱御前 神名 真南風石司ノ御イベ』『中森 神名 コバヅカサノ御イベ 大工廻村』『ウラウシノ嶽 マネヅカサノ御イベ』と記されており、付け加えて『右四ヶ所、大工廻巫崇拝所。三・八月、四度御物参之時、有祈願也。』との記述があります。ちなみに、祠内部に記された「ガキジョー御嶽」は『ウラウシノ嶽』に相当すると考えられます。(合祀された大工廻拝所)(合祀拝所の祠正面)(合祀拝所の祠内部)(祠内部のウコール)(祠内部のウコール)赤瓦屋根の祠に向かって右側に「ビジュル」が祀られておりウコールが設置されています。さらに向かって左側には「地頭火ヌ神」が祀られていて、ヒヌカンの霊石3体とウコールが設定されています。この「地頭火ヌ神」はかつて「大工廻集落」にいた脇地頭のヒヌカンであると考えられ、歴代の「大工廻親方/ダクジャクウェーカタ」や「大工廻親雲上/ダクジャクペーチン」が脇地頭職に就いていました。また、赤瓦屋根の祠の後方には「久保御嶽」と「久保井戸」が祀られる拝所があり、それぞれウコールが設定されています。「大工廻集落」の先祖は500〜600年前に「倉敷ダム」周辺にかつて存在した「倉敷集落」に住んでいたという言い伝えがあります。ちなみに「倉敷」という名前は首里王府に上納する産物の倉屋敷があった事に由来しています。「倉敷ダム」の湖畔には現在も「大工廻」の拝所である「久保御嶽」が残されており、ダムの湖底には「倉敷集落」の井戸や田畑が残っています。(ビジュルの拝所)(ビジュルの拝所内部)(拝所内部のウコール)(地頭火ヌ神の拝所)(地頭火ヌ神の拝所内部)(拝所内部の霊石とウコール)(久保御嶽の拝所)(久保御嶽の拝所内部)(拝所内部のウコール)(久保井戸の拝所)(拝所内部のウコール)「大工廻集落」の拝所について琉球国由来記には他にも『大工廻巫火神 大工廻村 河陽村 麦穂祭之時、花米九合・五水四合 大工廻・河陽二ヶ村百姓中。稲穂祭三日崇之時、花米九合・五水2合 大工廻地頭、花米九合・五水2合・神酒一器 粟・肴一鉢 大工廻村 百姓中、供之。大工廻巫ニテ祭祀也。其時、盆壱通七組、大工廻地頭ヨリ、同壱通七組、河陽地頭ヨリ、大工廻里主所ニテ巫馳走仕也。』と記されています。さらに『大工廻神アシアゲ 大工廻村 河陽村 稲二祭之時、五水二合宛・神酒壱宛・備後筵壱枚・盆二通宛七組 大工廻地頭、五水2合宛 河陽地頭、五水壱沸・備後筵二枚・神酒八宛 三米、五芋・盆二通宛七組 大工廻・河陽、二カ村百姓中、供之。大工廻巫ニテ祭祀也。』との記述があります。(ヌハナジ井・前ヌ井・ウブ井の拝所)(ヌハナジ井・前ヌ井・ウブ井の祠内部)(合祀された大工廻拝所)(合祀された大工廻拝所)(合祀された大工廻拝所)(合祀された大工廻拝所)(合祀された大工廻拝所)(合祀された大工廻拝所)(合祀された大工廻拝所)大工廻の合祀拝所の敷地に「ヌハナジ井・前ヌ井・ウブ井」が祀られた拝所があります。このうち「前ヌ井」は「琉球国由来記」に『前之川 大工廻村 河陽村 稲穂祭三日崇之時、花米九合・五水二合 大工廻地頭、花米九合・五水壱沸・神酒一器 粟。大工廻・河陽二ヶ村百姓中、供之。大工廻巫ニテ祭祀也。』と記されています。「大工廻集落」は戦前までサトウキビ栽培が盛んな村でしたが、沖縄戦により集落全域が米軍の軍用地として土地が接収されました。住民は周辺の村に離散し、この「嘉間良集落」に移り住んだ人達により「大工廻の合祀拝所」を造り、生まれ島の「大工廻」を遥拝したと考えられています。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.09.24
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(イジュナーガー)沖縄市の南側中央に「嘉間良/カマラ集落」があります。この集落は丘陵中腹にあり、急勾配の坂道が多数存在する区域となっています。かつて「嘉間良集落」に住んでいた、明治43年生まれの仲間良樽さんが残した伝承が残されています。「嘉間良集落」は上がったり下がったりの非常に悪い地形で、当時残っていた嘉間良で一番古い屋敷は屋号が「下ヌ当/シチャヌトー」の「大仲間/ウフナカマ」さんでした。「嘉間良集落」に一番初めに住んだ人物は具志堅さんという首里から移住して来た人で、屋号「首里屋宜/スイヤージ」の近くに住んでいたそうです。集落にはしばらく具志堅さんの一軒のみでしたが、仲間良樽さんの5代前の先祖が移ってきて二軒になり、三軒目が大仲間さんだったと伝わっています。(イジュナーガーのウコール)(イジュナーガー/向かって右側)(イジュナーガー/向かって中央)(イジュナーガー/向かって左側)(イジュナーガーの祠)仲間良樽さんの畑の角に「具志堅小ガー」と呼ばれる古い井戸がありました。仲間さんが子供の頃に父親が屋敷の石垣を積む為の石を集めていて、この古井戸の石垣は手をつげずに残していました。その事について疑問を持った仲間さんが父親に理由を聞くと「これはね、うーんと昔、具志堅小ガーの家がこっちにあり、その人が掘った井戸で、一番初めに来た人が使った井戸だからね、埋めてはいけないという。昔の最初のカーとの言い伝えもあるから、そのまま残しておこう」と言われたそうです。「具志堅小ガー」はニーブガーと呼ばれる柄杓で水を汲む井戸でした。今はその土地は、よその人のものになっていて井戸も埋めてしまったそうです。ちなみに、仲間良樽さんが当時「前ヌカー/メーヌカー」は立派に保管して今もあると語っていた井戸は「イジュナーガー」を指していると考えられます。(八重島茶城原遺物散布地の階段)(八重島茶城原遺物散布地)(八重島茶城原遺物散布地)(八重島茶城原遺物散布地)(八重島茶城原遺物散布地の拝所)(拝所のウコール)(八重島茶城原遺物散布地付近の石敢當)「嘉間良集落」は「前組/メーグミ」と「後組/クシグミ」に分かれていて「後組」は大正の頃から「西組/イリグミ」と「東組/アガリグミ」に分割されていました。仲間良樽さんは「前組」で、九軒ほどあった「西組」のほとんどは「普久原/フクバル」だったそうで、他にも「ナーグシクグヮー」「マンナカフクバルグヮー」「加那普久原/カナーフクバル」「マシー」「又吉小/マテーシグヮー」「新屋小/ミーヤグヮー」がいました。「東組」は「首里屋宜/スイヤージ」「仲西」「ハンタ仲間小/ナカマグヮー」「江洲小/イーシグヮー」「幸地小/コーチグヮー」「山名嘉真/ヤマーナカマ」「徳仲間/トゥックナカマ」「石根/イシンニー」の八軒が暮らしていました。仲間良樽さんが子供の頃の昭和5年くらいまで「嘉間良集落」には二十八軒があったそうです。(ヤシマガー)(ヤシマガー)(ヤシマガーの拝所)(ヤシマガーのガジュマル)(ヤシマガー)(ヤシマガーの霊石)(ヤシマガーのウコール)八重島公園の西側に「ヤシマガー」と呼ばれる井戸があり霊石とウコールが祀られています。小規模ながら現在も井泉が湧き出る井戸は、拝井戸として周辺住民に拝れています。この井戸の周辺には「八重島貝塚」が広がっており、琉球石灰岩の丘陵を形成しています。この貝塚からは伊波・荻堂式と考えられる土器片が散布し、貝塚の南側では宅地造成工事中に炉跡が確認されています。さらに、小型斧も出土していて八重島式土器として形式設定がされています。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.09.16
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(大城賢忠之墓/國直城之御墓/嘉良川山之御墓)沖縄市中央に「センター公園」の丘陵があり、この深い森は「センター公園内遺物散布地」と呼ばれています。隆起した琉球石灰岩と亜熱帯植物に覆われた公園一帯は古墓群となっており、静かな雰囲気に包まれています。この公園北側で沖縄市立コザ小学校の南側に切り立つ崖の上部に「越来按司二男之墓/國直城之御墓/嘉良川山之御墓」と記された3体の石碑が建立される合祀墓があります。東側に向けられて造られたこの合祀墓には、合計6つの石製ウコールが設置されています。(センター公園/センター公園内遺物散布地)(センター公園/センター公園内遺物散布地)(越来按司二男之墓)(越来按司二男之墓のウコール)「越来按司二男」とは伝承によると、勝連グスク城主の「阿麻和利」を討った「大城賢雄/鬼大城」の次男腹「大城賢忠」であると伝わります。「大城賢雄」が第二尚氏に討たれると「大城賢忠」は中城村の「伊集集落」に逃げ延び、この集落の「先代ノロ」と呼ばれる女性に助けられました。その後、この「先代ノロ」と「大城賢忠」は子供を授かり、その子孫が現在の「伊集集落」の屋号「東利」で初代「東利門中」だと言われています。「伊集集落」の創始家である「ニーヤ/根屋」の「ムートゥヤー/本家」には「ガンス/元祖神」と呼ばれる初代「大城賢忠」から7代までの子孫が祀られた仏壇があり、7基のウコールが設置されています。しかしながら「大城賢忠」の亡骸は、越来間切であった現在の沖縄市中央の墓に葬られています。(國直城之御墓/嘉良川山之御墓)(國直城之御墓/嘉良川山之御墓のウコール)「大城賢忠之墓」と共に「國直城之御墓」と「嘉良川山之御墓」が合祀されており石碑が建立されています。「國直城」とは国道58号線の嘉手納ロータリーから南東側に約2キロの場所にある標高94メートルの岩山で、かつて「國直村」で崇められていたグスクでした。現在は米軍嘉手納基地の敷地内にあり、レーダー施設が建設されてグスクの原型は留めていません。第一尚氏を滅ぼした金丸(のちの第二尚氏王統初代王/尚円王)に反乱し、第一尚氏再興を目指して「大城賢忠」は「安谷屋接司」と「伊波接司」と共に文字通り"國を直す"為に「國直城」の築城に着手しました。しかし、その企ても半ばにして新王朝軍に攻め滅ぼされてしまったのです。(センター公園/センター公園内遺物散布地)(センター公園/センター公園内遺物散布地のガマ)(センター公園/センター公園内遺物散布地)「嘉良川村」沖縄市八重島集落の西側に位置していた村で、こちらも現在は米軍嘉手納基地の敷地内にあります。かつて「嘉良川村」は廃藩置県後に首里の士族が開墾した「ヤードゥイ/屋取集落」で「嘉良川山」はこの村に存在した村人の拠り所として守護神を祀っていた丘陵の森山であると考えられます。「國直城」にも「嘉良川山」にも両村の「ムラバカ/村墓」があったと推測され、沖縄戦により摂取された村墓の魂を「センター公園」の現在の場所に移設して祀ったと考えられます。この「越来按司二男之墓/國直城之御墓/嘉良川山之御墓」の合祀墓は、琉球王国の時代から沖縄戦の混乱の時代までの歴史を知る重要な資料として大切にされています。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.09.08
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(門たんかー歌碑)沖縄本島中部のうるま市に「川田/かわた集落」があり、南北に通る県道16号を中心に集落が広がっています。「川田集落」は北側に隣接する「大田集落」にもともと属していた「タサバル/田佐原」と「ユナバル/与那原」のヤードゥイやチンジュと呼ばれる小集落が1941年に分離して独立しました。「タサバル」にある「川田公民館」の南側に隣接した場所に「門(じょう)たんかーの歌碑」が建立されています。この民謡は「知名定繁/ちなていはん」の代表曲で「具志川小唄」とも呼ばれています。「知名定繁」は「川田集落」の生まれで「ネーネーズ」をプロデュースした「知名定男」の父親としても知られています。1957年に設立された琉球民謡協会の二代目会長に就任し、作詞・作曲家としても活躍して名曲の数々は現在でも沖縄県内外で広く歌い継がれています。(門たんかー歌碑)(門たんかー歌碑のシーサー/向かって右側)(門たんかー歌碑のシーサー/向かって左側)(知名定繁顕彰碑)(知名定繁顕彰碑)(門たんかー歌碑)(門たんかー歌碑)『門たんかー 美ら二才小やしがよー 七門八門 越ちん 緑どう遊ぶ からじ小に一惚り 目眉小に一惚り 腰小に一惚り ちんとぅ三惚り サーびんた小やたらち まーかいめーがウマニよー 赤野原 喜屋武小 ヤッチー忍びいが 我んね門に立てぃてぃ チョンチョンとぅ雨に濡ち 開きてぃ入りる事 ならんばすい サー大田バンタ毛遊び 唄声小や田佐原ちる小 三絃小弾ちゅしぇ よーがりウサ小』(川田公民館)(慰霊碑)(慰霊碑の石碑)(慰霊碑のウコール)(字川田創立五十周年記念碑)「川田公民館」には沖縄戦戦没者の名前が刻まれた慰霊碑が祀られています。さらに「字川田創立五十周年記念碑」が建立されており、集落の歴史が刻まれています。この記念碑には、『昭和十六年四月一日字太田から分離、部落有志の発議により与那川原の川と田佐原の田をとって時の村長に具申 川田と命名された 平成三年(一九九一年)十一月吉日建立』と記されています。(川田印部石)(タサバル/田佐原の拝井戸)(タサバル/田佐原の拝井戸)(タサバル/田佐原の拝井戸)(タサバル/田佐原の拝井戸)(タサバル/田佐原の拝井戸のウコール)(タサバル/田佐原の拝井戸の階段)(ユナバル/与那原のイジュンダガー)(ユナバル/与那原のイジュンダガー)(ユナバル/与那原のイジュンダガーの石碑)「川田公民館」に「川田印部石/かわたしるべいし」と呼ばれる石碑があります。印部石は首里王府が1735年から1750年にかけて行った検地(土地測量)の際に、図根点(基準点)として設置したもので「原石/はるいし」とも呼ばれています。印部石は首里王府の測量技術や当時の地名、土地情報等を読み取ることが出来る貴重な歴史資料です。元の設置場所は与那原バス停付近にあったと言われており、家を改築する際に屋敷内の石積みの中から発見され、現在の場所に移されたとの記録が残っています。印武石には「チ」と文字が刻まれていますが、その後に続く原名(ハルナー)は摩滅状態で読み取る事が出来ません。「タサバル」と「ユナバル」のチンジュには3つの拝井戸が残されており、現在も集落の人々が水への感謝を捧げるウガン(御願)を行っています。(川田劇場跡)(川田劇場跡)(川田集落の風景)「川田公民館」の南側に、かつて映画館として賑わった「川田劇場」の跡地があります。1951年2月以前に開館したと言われており、閉館の時期は不明ですが1953年3月の興行が確認されています。1951年2月15日の「うるま新報」によると、劇団「新生座」の巡回公演の日程が掲載されています。この日程には1951年4月11日〜4月17日に「川田劇場」で公演が行われる予告が記されています。1953年3月には東映「ひめゆりの塔」の上映記録もあります。(護岸の銃座/川田〜前原)(護岸の銃座/川田〜前原)(川田のマングローブ)集落南側に「護岸の銃座/川田〜前原」と呼ばれるライフルピットが構築されています。この銃座は1944年頃に日本軍第24師団歩兵隊89連隊山部隊によって構築されたものだと伝わっています。銃座は護岸のコンクリートの頂部を大型ハンマーなどで割って造られたもので、外側(海側)約20センチ、内側(陸側)約30センチのハの字状で、約10〜20メートル間隔で造られています。銃座の内側には人が1人入れる程の掩体壕(たこつぼ)も掘られていました。その掩体壕は川田集落から前原集落のシチャバル(下原)一帯の住民を動員して造られたと言われています。さらに、その後方には護岸と平行する形で敵戦車用の戦車壕(落とし穴)も住民を徴用して掘っていたとの記録もあります。沖縄戦では米軍が西海岸から上陸したため、この銃座からは結果的に一発の弾丸も撃たれませんでした。現在、この護岸にはマングローブ林が形成される憩いの場として整備されています。YouTubeチャンネルはこちら↓↓↓ゆっくり沖縄パワースポット
2024.09.02
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