2007年05月19日
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カテゴリ: 戦国武将たち


戦国時代には珍しく、
親友といっていい程の信頼関係があったといいます。
年齢もほぼ同じで、秀吉に仕えたのも同じ頃です。

羽柴秀吉が、浅井攻めの功により、
信長より近江・今浜の領主に任じられたのが、天正元年(1573年)。
秀吉は、念願の城主となり、この地を長浜と改名。
知行が増えて、家臣団を整える必要から、
近江で多くの家臣を召し抱えました。
石田三成と大谷吉継が、秀吉の家臣になったのは、この時期でした。

2人とも、出身は近江。
この時期、秀吉が近江で召し抱えた家臣には、
行政や計数など、実務に秀でた武将が多く集まりました。
石田三成は、後に豊臣政権の行政実務の中心人物となりますし、
他にも、豊臣の五奉行であった長束正家・増田長盛など、
行政手腕を発揮する武将を多く輩出しました。
大谷吉継も実務能力が買われて、どちらかというと、
兵の後方支援の役割を務める事が多かった人でした。

近江は、京を控えた琵琶湖の舟運などから、
近江商人を生んだ土地柄でもあり、
そうした人材が出やすかったという事でしょうか。

石田三成、大谷吉継は、ともに、そうした実務能力により頭角を示し始めました。
特に、三成は秀吉の側衆として仕え、
さらに秘書・官房長官のような役割を務めて出世を遂げていきました。
吉継の方は、主に兵站業務です。
九州攻めや小田原攻めでは、石田三成と共に、兵站輸送を担当しました。

しかし、大谷吉継は、
裏方のような担当が多い役回りではありましたが、
実戦の武将としても相当の器量があったのではないかと言われています。
秀吉が、ある時、
「吉継に百万の軍を指揮させ自分は高みで見物したい」と話たことがあり、
その時、周りにいた者も皆、ことごとく頷いたという話が残っています。
又、人の話をくみとる事に優れていて、調略で敵を味方につける事でも、実績を残しました。

そして、秀吉の全国統一後。
天正17年(1589年)には、吉継は越前敦賀5万石の領主に任ぜられ、
翌年には、三成も近江佐和山城19万石の領主となります。

ところが、この時期、吉継は顔面が崩れる難病におかされました。
らい病。現代でいうハンセン病であったと思われます。
面相が崩れ、人は吉継との接触を避けました。
又、この時、彼は失明していたともいいます。
吉継も、平素は顔を白布で覆い、顔面の崩れを隠すようになりました。

しかし、こうした吉継を避けようともせず、
普段通り付き合い、終始、彼をかばったのが、石田三成でした。

ある茶席での逸話です。
茶碗が吉継に回った時、うみが茶の中に落ちました。
茶碗を次の人に回すのですが、
皆、飲む真似だけで、感染を恐れて誰も茶を飲みません。
ところが、三成が茶碗を取り上げ「喉が渇いたので無礼する」と言って、
茶碗の中身をすべて飲み干しました。
吉継はこの三成の行動に感動し、深く感謝したといいます。
このことが、2人の信頼関係を、さらに固めていった一因になったのかも知れません。

秀吉の死後。時代は関ヶ原の合戦へと進みます。

徳川家康は、上杉景勝を成敗するとして、会津に向け出兵。
吉継も家康からの通達に従い、出兵します。

三成はこの時、加藤清正・福島正則らとの争いの結果、佐和山城に謹慎中でしたが、
会津攻めには、幼い子息の隼人正を従軍させることになっていました。
吉継はその補佐役を頼まれていて、佐和山城に迎えに行きます。

そして、吉継が佐和山城に三成を訪ねた時、
三成から、徳川を誅するために挙兵することを打ち明けられました。
吉継は「必ず失敗する。天下に無用な乱を起こすだけだ。やめろ。」
と反対します。
吉継も、従軍こそしているものの、真意は家康と景勝を和睦させるために、
会津に行くつもりだったのです。

しかし、三成。
今回の挙兵は、上杉とすでに密約が出来上がっていることを打ち明けます。
上杉が挙兵し、その隙に三成が挙兵すると・・・。
吉継は10日間にわたって、説得を続けますが、
三成の決意は変わりません。

吉継は、ついに、三成に協力することを決心しました。
「ここまできて、事の成否を論じてもしかたがない。
大事を打ち明けてくれたのだから、わしの命はおぬしに預ける」
といい。さらに、
「ただ、おぬしが檄を飛ばしても普段の横柄ぶりから、
豊臣家安泰を願うものですら、家康の下に走らせる。
ここは毛利輝元か宇喜多秀家を上に立て、おぬしは影に徹せよ」
と忠告しました。

横柄に、豊臣家の権威で上からものを言うような話し方をするため、
相手を敵にまわしてしまう事が多かった三成。
吉継は三成の人望の無さを遠慮なく指摘しますが、
三成も、これを素直に聞き入れました。
三成は、率直に意見を述べる吉継の事を、「真の友垣」と言い、
「吉継ほどの友垣を得たのは終生の誇りだ」とまで言って喜んでいたといいます。

そして、関ヶ原の戦場。

西軍の石田三成方。
軍容だけで言えば、圧倒的に有利だったはずですが、
全力で戦った西軍勢力は、石田、宇喜多、小西、そして大谷くらいのもの。
吉継は正面に陣取っている倍以上の藤堂、京極勢を蹴散らし、
時折、宇喜多勢を側面から援護するなど
獅子奮迅の戦いぶりを見せました。

そして、正午過ぎには、松尾山の小早川秀秋が東軍に寝返り、松尾山を下ります。
吉継は、小早川の裏切りを当初から予測していて、
小早川勢の進路に沿って、鉄砲隊を埋伏させていました。
通過するのを待っていて、鉄砲隊が小早川勢を狙い撃ちします。
さらに、前面の藤堂、京極勢を捨てて、全軍で小早川勢に突撃をかけました。
これにより、小早川勢は陣を崩され、本陣も後退し松尾山まで一旦退却したといいます。

しかし、吉継が小早川の裏切りに備えて置いていた予備軍、脇坂安治らの4隊が、
今度は東軍に寝返りました。
大谷勢は、側面から総攻撃を受けることとなり、
さすがの大谷軍も、これにより瓦解。
吉継は自害しました、享年42才。

三成の欠点や無謀さを良くわかっていながらも、
自分を信じてくれた三成の為に、命を賭けた吉継。
戦国の世に、清々しさを感じさせてくれる武将の一人であったと思います。





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最終更新日  2007年05月19日 21時57分55秒
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