2008年05月11日
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カテゴリ: 戦国武将たち


高山右近についてです。

右近の父は、摂津国三島郡高山庄(現在の豊能郡豊能町高山)の国人で、
高山飛騨守と名乗り、松永久秀、次いで、和田惟政に仕えました。

飛騨守は、最初、キリシタン反対派の急先鋒だったのですが、
宣教師と論争をしているうちに、逆にキリシタンに好意を持ち、ついに洗礼を受けます。
洗礼名は、ダリヨ。
翌年には、嫡男の右近も洗礼を受けます。
洗礼名は、ジェスト。 高山右近12才の時のことでした。

元亀2年(1571年)。
飛騨守は、和田惟政の支配下にあって高槻を治めていましたが、
この年、主君の惟政が突然戦死します。
息子の惟長が後を継ぐことになりますが、その後、内紛が起こり、
結局、飛騨守が高槻城主となりました。
高山氏が、勢力を伸ばし始めたのは、この頃のことでした。

元亀4年(1573年)。
飛騨守の隠退により、右近が高槻城主となります。
飛騨守は、この後、庶民にキリスト教を布教して廻っていますから、
飛騨守は、伝道活動に専念したかったのでしょう。
高山右近、この時21才。

天正6年(1578年)。
信長配下の摂津守護・荒木村重が、毛利方に寝返るという事件が発生します。
この時、右近は村重の与力となっていたため、
高槻城は、織田信長の軍に包囲されました。
右近は、村重と信長を和解させようとしますが、信長は受け入れません。

怒った信長は、開城を要求。
さもなくば、キリシタンを皆殺しにし、教会を焼き討ちすると宣告してきます。
右近は、悩んだ末、信長方につくことを決意。
所領の加増と、キリシタン保護の約束をとりつけて、高槻城を開城しました。
信長の下に下った右近は、引き続き高槻城主を続けることを承認されます。

信長は、全般的にキリシタンに対して好意的だった人で、
キリシタンを保護し、安土にも教会を建てることを認めるなど
キリスト教が広まっていく機運が高まっていました。

そうしたなか、右近も、領内のキリスト教布教について、
さらに、力を注いでいきました。

当時、高槻では、領民の8割近くがキリシタンになったといわれ、
領内には、20にも及ぶ教会や、
天主教会堂、セミナリオ(神学校)も作られました。

また、右近は領主とは思えないほど、謙遜な態度で領民に接していたといわれ、
ある貧しい者が亡くなったときには、右近が、その棺をかつぎ、墓を掘ったという話も残っています。
これを見て感激した家臣たちも、争って鍬を取り、墓を掘ったそうです。

当時、高槻は、日本でも有数のキリシタンの町となっていたのでした。

一方、この頃の右近は、茶の湯をたしなみ、
こちらの分野においても、名前が知られるようになっていきました。
「南坊」と号し、千利休に弟子入りし、
利休七哲と呼ばれる、千利休高弟の一人となっていきます。

その後、時代は進み、本能寺の変、山崎の合戦があり、
信長に変わって、豊臣秀吉が天下人となりました。
大坂城を築城し、徳川家康とも講和、四国を平定します。
政権の基盤が固まってきたところで、秀吉は諸大名の配置換えを行いました。

高槻にいる高山右近も、秀吉から配置変えを命じられました。
天正13年(1585年)明石への転封です。
右近は、新たな領地明石でも、キリシタンを中心とした町づくりを手がけていきます。

そんな折、右近の生涯を一変させる事件が起こりました。
天正15年(1587年)
秀吉による、伴天連追放令です。

秀吉は、右近に使者を送り、
キリスト教の棄教を命じ、右近の神社仏閣破壊行為を糾弾しました。
これに対して、右近は、
「予はキリシタン宗門と己が霊魂の救いを捨てる意志はない。
どうしても捨てよとの仰せならば、領地、並びに明石の所領を関白殿下(秀吉)に返上する。」
と回答。

右近は折れるだろうと、思っていた秀吉にとって、右近のこの回答は意外だったのでしょう。
説得のため、今度は千利休を右近のもとに送ります。
しかし、右近は師の説得をも聞き入れませんでした。
「キリシタン宗門が、師、君の命よりも重いかどうかは分からないが、
一旦、志したことを変えず、志操堅固であることが武士の心意気である。」
右近は、利休にそう話したといいます。

右近追放。
この報は、すぐさま武将の間に広まりました。
秀吉の命に従うよう右近を説得する者も少なくなく、
結局は、小西行長が右近の身をかくまうことになりました。

その後、秀吉の勘気が緩んだのを見た前田利家が右近のために奔走。
右近は、前田家に召抱えられることになりました。
高山右近、この時36才。
その後、25年以上の長きにわたり、重臣として加賀・前田家に仕えることとなります。
ただ、前田利家、利長親子はキリシタンに好意を持っていたといわれていて、
右近は、新天地の加賀で、キリシタン信仰を続けていきます。

時は流れて、
慶長19年(1614年)。
ちょうど、大坂冬の陣が始まる頃のこと。

徳川幕府が、キリシタン追放令を出しました。
幕府内部のキリシタンを弾圧し、
また、対象となる日本国内のキリシタンの名簿も作られました。
そして、その中には、加賀にいる高山右近とその一族の名前も入っていたのです。

その情報を入手した前田利長は、家臣に命じ右近に棄教を勧めるよう説得させます。
「表向きだけでも信仰を捨てよ」「せめて子や孫たちを棄教させよ」。
しかし、右近は既に殉教を覚悟していたのでしょう。
今回も、説得に耳を貸すことはありませんでした。

右近一族は、幕吏によって捕らえられ、長崎へと向いました。
右近たちは、マニラへ追放ということに決定されます。
やがて、イエズス会宣教師ら100人とともに長崎を出帆。
マニラ到着まで、小型船に詰込まれたままの1カ月の間、
悪天候と食糧難で死者まで出る状況の中を、航海が続きます。

しかし、マニラ到着後、右近は高熱を発して床に伏し、
ついに、帰らぬ人となりました。
慶長20年(1614年)享年63才。

右近の遺骸は、マニラの教会に葬られました。
遠くバチカンにまで聞こえた右近の名は、マニラでもよく知られていて、
マニラの人々は手厚く右近を弔ったといいます。


高山右近という人は、潔癖すぎるほどの性格の人だったようで、
それが、その信仰の深さともあいまって、こうした生涯を送ることにもなったと思われます。

高槻カトリック教会にある、高山右近像の台座には、
「私によって生きるのはキリストであり、死は利益である。」
という聖書の言葉が刻まれていました。

右近にとって、死とは神のもとに行けることであり、
そうした意味では、右近の生涯は、思う存分信仰に生きた、
幸せな生涯であったのではないか、と、そんな思いすらしてきます。





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最終更新日  2008年05月13日 22時48分53秒
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