2010年04月18日
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カテゴリ: 平安時代



中でも、その最高傑作の一つと云われているのが「伴大納言絵巻」です。


応天門1

応天門2

(出光美術館蔵 国宝)


炎につつまれる応天門と、その時の混乱ぶりや異様な興奮が見事に描かれ、
また、400名以上に及ぶ登場人物が、いきいきと詳細に描かれているというところが、
この絵巻の一番のみどころであると云われています。

この絵巻に描かれている応天門炎上事件というのは、実際にあった話で、
この応天門に火を放ったとされているのが、
大納言・伴善男という人物でありました。

伴大納言とは、いったいどんな人物だったのでしょう。

今回は、この絵巻の題材となった応天門の変と、
応天門に火をつけるに至った、伴大納言についてのお話です。


善男は、平安時代の前期、弘仁2年(811年)に生まれたと云われています。

彼の父は、大伴国道という人で、政治抗争に巻き込まれて佐渡に流された後、
京の政界に復帰して参議などを務めました。

大伴氏は、これまでに金村や家持・旅人などの有力政治家や有名な歌人を輩出した、
古代から続く名家でありますが、
この頃には、藤原氏の勢力に押されていて、
政界での昇進についても、思うように進まなくなっていました。

そこへ、さらに、淳和天皇が即位した時には、
淳和天皇の名が大伴であったということから、
大伴の姓を避けることになり、大伴氏から伴氏へと改姓を余儀なくされました。

善男は、そうした退潮していく名家・大伴家に生まれたのです。

ただ、善男の生い立ちについては良く分かっていないようで、
国道が佐渡に配流中に生まれたという説や、京で出生したという説
あるいは、元々国道の子ではなく、従者の子であったのが、後に養子になったという説など
色々な説があるようです。

ところで、善男ですが、
生まれつき俊英で、才智は抜群。とても、能力のあった人だったようです。

弁舌が立ち、明察果断、瞬く間に政務にも通暁するようになっていきます。

また、大伴氏の栄光を取り戻したいという思いもあったのでしょう。
骨身も惜しまずに働き、階段を一気に駆け登るようにして、出世を続けていきます。

しかし、その反面、
狡猾で、ずる賢く、酷薄な性格の持ち主という面がありました。
彼の、そうした面が、次第に現われてくるようになります。

承和13年、善男35才の時のこと。

官の所有物を、法隆寺に対して不当に安く売り捌いている者がある、
との訴えが出され、審議官5名で、これを裁くことになりました。

これは違法であると、この訴えを受理しようとする審議官。
しかし、この時、審議官の一員であった善男は、一人、この訴えを受理することに反対。

訴えの手続きに誤りがある、ということを理由にして、
逆に、訴人の方が罰せられるべきであると善男は主張したのです。

強行に意見を主張する善男。
審議が紛糾した後、結局は善男の意見が通ることとなり、
逆に、この訴状を受け取ろうとした審議官4人を、善男が弾劾。
他の4人は、失脚させられていきます。

善男は、自分の都合の良い理屈で、相手をねじ伏せて、
同僚たちを、追い落としていこうとしたのです。

さらに、この頃の善男は、時の天皇・仁明天皇からも信任を受けるようになっており、
その後ろ盾を利用した強引なやり方で、さらに出世を続けていきます。


貞観2年(860年)には、中納言。
貞観6年(864年)には、大納言に昇進。
この段階で、伴氏(大伴氏)にとって、およそ130年ぶりとなる高い位に返り咲いたことになります。

しかし、善男は、出世欲・権勢欲に取り付かれていたのでしょう。
それでも、さらなる昇進を目指そうとするのです。


この時、善男より上の官位というと、

太政大臣 藤原良房
左大臣 源信(みなもとのまこと)
右大臣 藤原良相

の3人でありました。

藤原良房・良相は、今をときめく藤原氏の兄弟で、これは相手が手強すぎます。
善男は、源信に照準を合わせようと考えました。

源信という人は、父が嵯峨天皇で、皇子の身分から、臣籍に下って、源姓を賜った
嵯峨源氏の筆頭にあった人です。

もちろん、相当な勢力を持った人で、そう簡単に蹴落とせる相手ではありません。

そこで、善男が考えた筋書きは、
御所の応天門を炎上させ、その罪を源信に被せてしまって、その失脚を図ろうとするもの。

御所の門というのは、それぞれ豪族・貴族が献上したものが多く、
応天門は、”おおとも”の名を美名となるように漢字をつけた大伴氏ゆかりの門です。
かねてより、善男と仲の悪い源信が、大伴氏を呪って火をつけたと世間に思わせようとしたのでした。

貞観8年(866年)閏3月。
応天門が、突然の出火に見舞われ炎上します。
驚き、駆け回る人々。

そうした混乱の中で、善男は源信が放火の犯人であると告発し、
検非違使(今でいう警察隊)が、源信の屋敷を取り囲む事態となります。

朝廷でも、あわてふためき大騒ぎとなりました。

しかし、この時、冷静な対応を見せたのが、太政大臣の藤原良房でした。

良房は、源信の屋敷が包囲されたと聞くや、
時の清和天皇のところへ参内し、
「これは異常な事態です。
よく調べて事実が明らかになってから対応すべきことです。」
という内容のことを奏上。

清和天皇からの宣旨により、源信の屋敷の包囲は解かれ、
その後、源信への疑いは晴らされることとなりました。

善男のたくらみは、結局、失敗に終わったのです。

しかし、応天門炎上の原因は、なお不明のままでありました。
普段、火の気のないところから出火したということで、
人々は”怪し火”といって恐れ、おののき、さかんに祈祷が行われたりします。

そんな中の、同年8月のこと。

大宅鷹取というものが、太政官に応天門事件についての訴えを出しました。

それは、応天門が炎上した日の夜、
応天門で、3人ほどの仲間と、ささやきあっている伴大納言を見た。
その後、応天門が炎上したので、放火犯は伴大納言に間違いない。
という内容のもの。

結局、この訴えが受け付けられることとなり、裁判が開かれることになります。

裁判の場で、
知らぬと言って、全く応じない善男。
善男が強弁を続けるため、審議はなかなか進展しません。
しかし、一緒に火をつけに行った長男が自白したと聞かされたことで、
ついに、善男も観念。
罪を認めます。

判決の結果、善男は伊豆へ配流されることとなりました。

・・・

以上が、応天門の変の概略です。

しかし、応天門炎上という事件が与えた衝撃は大きかったのでしょう、
その後も人々の間で語り継がれていき、
300年後には「伴大納言絵巻」という名画が生まれ、その衝撃が再現されることになります。

出世欲にとりつかれていた伴善男。
応天門の変という事件は、
欲望にとりつかれた時、常識では考えられないようなことをしでかす人もいる
という事を、教えてくれているのだとも云えます。

貞観10年(868年)
善男は伊豆の配流先にて死去。
享年、57才でした。





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最終更新日  2010年04月18日 20時57分36秒
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