2013年05月12日
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カテゴリ: 戦国武将たち



感情や心の動きを奔放に表現した、その歌が、
近世初期の歌壇に新境地を開いたと評価され「歌仙」とも称された人です。

細川幽斎から歌を学び、その後は、林羅山・春日局・小堀遠州などとも親交を結んで、
当時の文芸界において、リーダー的な存在の人だったと言います。

しかし、この長嘯子の実際の本業というのは戦国武将。

彼は、秀吉の妻・北政所の甥であり、秀吉からも、数少ない血族のひとりとして取り立てられ、
いくつかの戦いにも参戦しましたが、武将としての功績は芳しくなく、
結局、武将としてではなく、歌人として、その才能を開花させることになりました。

今回は、そうした、武将であり、歌人であった、
木下長嘯子の生涯について、まとめてみたいと思います。


***


木下長嘯子は、その名を勝俊といい、
1569年(永禄12年)、北政所の兄である木下家定の長男として生まれました。

彼には弟が3人いて、
すぐ下の弟が、木下家を継承していくことになる利房。
一番下の弟には、関ケ原戦での寝返りで知られることになった小早川秀秋がいます。

勝俊は、幼い頃から、北政所の血族として、秀吉に取り立てられ、
19才の時に龍野城主、26才の時には若狭・小浜城主となり
左近衛権少将という官位まで与えられました。

秀吉の親族ということで、順風満帆に出世を遂げていき、武将の才としては平凡ながら、
それでも小田原の北条攻めや、朝鮮出兵(文禄の役)にも参陣し、
それなりに持ち場をこなしていたようです。


勝俊が、和歌の世界に親しみ始めたのは、20才を過ぎた頃から。

文禄の役で朝鮮に向かう旅日記の中でも、和歌を詠み、
次第に和歌の世界に傾倒していったといいます。

しかし、そんな勝俊に、やがて、大きな転機が訪れます。

それは、ここまで自分を引き立ててくれた秀吉の死。

勝俊という人は、秀吉と北政所のことを心から敬愛していた人で、
この秀吉の死により受けた悲しみと、その後の時局の変転が、
彼をして和歌の道へと向かわせたということのようです。


慶長5年(1600年)
秀吉亡き後の天下の覇権をめぐり、徳川家康と石田三成が対立。
関ケ原の戦いが起こりました。

この時、勝俊は、東軍の家康側についていて、
伏見城を防衛するようにと命じられ、伏見に入城します。

攻め寄せてくる、石田勢。

しかし、この時、勝俊は、あろうことか戦いの直前になって伏見城から脱出します。

これが、勝俊、謎の敵前逃亡とされる事件で、
このことにより、勝俊は、戦後、家康からその罪を問われ、
領地を没収されてしまうことになりました。


関ケ原の戦いにおいては、勝俊の弟・小早川秀秋をはじめ、
裏切り・寝返りをした武将というのも少なくありませんでした。

勝俊も同様に、この一件のため裏切り者と決めつけられてしまうことになります。

しかし、この事件を起こした勝俊の、その真意は何だったのでしょう。


 あらぬ世に 身はふりはてて大空も 袖よりくもる はつしぐれかな


勝俊が、伏見城を退去するときに詠んだとされる歌です。

この歌の「あらぬ世に」とは、
秀吉が亡くなってしまったということを意味していて、
その中で生きてきた自分の時代は、もう終わったのだという感慨がこめられています。

秀吉という一つの権威が去ると、また争いを繰り返している。

勝俊は、そうした人間の強欲さにも嫌悪を抱き、
関ヶ原の戦いを境に、武将としては秀吉に殉じ、この後は文人として生きていこうとする、
彼の決意が、この歌に表されています。

彼にとって、この事件は、決して裏切りではなく、
自らの求める道を歩きはじめるための、第一歩だったということなのかも知れません。

これを機に、勝俊は長嘯子と号し、
東山の霊山に挙白堂という庵を建て、そこに籠るようになります。


しかし、それでも周囲は、そのまま彼を文雅の道に安住させてはくれませんでした。

慶長13年(1608年)、父である木下家定が死去。

この遺領(備中足守藩)を誰が相続するかということで、問題が持ち上がり、
結局は、北政所の周旋により、領地は勝俊が受け継ぐということで落着し、
勝俊は、足守藩主として、復活することになります。

こうして、再び、藩主の地位に就くことになった勝俊。

しかし、そこへ、江戸幕府からの横槍が入ります。

この遺領は、兄弟で分割すべきものであるのに、勝俊は、何故、領地を独占しているのか、
これは、幕命に反するものである・・・。

木下家は改易。
結局、弟の利房ともども、幕府から、その藩地を没収されてしまうこととなりました。
(利房は、この数年後、遺領を回復しています。)


 よしあしを 人の心にまかせつつ そらうそぶきて わたるよの中


領地を再び失った勝俊が、隠棲生活に入ったときに詠んだ歌です。

世の矛盾や不可解さから達観し、自らは文人として生きていこうとする勝俊の姿が、
目に浮かんでくるようです。



その後の勝俊は、歌人・長嘯子として、その名を世に馳せ、
世間から認められていくことになりました。

晩年には、出家した西行が、その昔、暮らしたという、洛西の勝持寺という寺に居を移し、
風雅の中で、その余生を送ったのだといいます。


 露の身の 消えてもきえぬ置き所 草葉のほかに またもありけり


長嘯子・勝俊の、辞世の歌です。

勝俊が亡くなったのは、慶安2年(1649年)のこと。
享年、80才。

こうして見てみると、木下勝俊(長嘯子)の生涯というのは、
ある意味、自分の信念を貫き通した、そんな人生であったと云えるのかも知れません。






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最終更新日  2013年05月12日 21時59分40秒
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