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『ラブレター』 (80年代中国女流文学選) 王 浙浜(著)現代中国文学翻訳研究会(翻訳)(1987/11)をぱらぱらめくっていて、偶然発見しましたよ^^マルクス=エンゲルス全集 第29巻 書簡集 1856~1859 より、一八五六年六月二十一日、マルクスが夫人のイエンナに送った手紙の抜粋文 愛する人よ 僕はまた君に手紙を書いた。ひとりぼっちで、淋しくてやりきれないから、僕はいつも心の中で君と言葉を交わしている。だが君はまったく知らない。君は聞こえないし返事もできない。君の写真ははっきり写っていないけれど、僕にはとても役に立っている。・・・ 僕の愛はこのようなものだ。僕たちが空間によって隔てられるや、たちまちはっきりわかるのだが、僕の愛における時間というものは、植物にとっての日光や雨露と同じで、成長に役立つものだ。 君に対する愛は、君が僕のそばから離れると、その本来の姿がはっきりしてくる。愛に僕たちの全精力と感情が集中した、巨人のような姿だ。僕は自分が本当の人間だと思った。なぜなら、僕は強烈な情熱を感じるからだ。・・・ しかし愛とは、フォイエルバッハ流の人間に対する愛でも、モーレスコット流の新陳代謝に対する愛でも、プロレタリアートに対する愛でもなく、いとしい人、つまり君に対する愛であり、一人の人間を本当の意味で人間たらしめるものだ。 でもどこへいけばその顔を探しあてられるのだろう。一本のしわでさえ、僕のいちばん強烈で美しい思い出を起こさせるようなその顔を。僕の限りない悲しみ、取り返すすべのない損失でさえも、君のかわいい顔の中に見ることができるし、愛する君の顔に口づけしたとき、その悲しみを抑えることができるのだ・・・ 倦怠期のない愛を実践した牽牛マルクスと織女イエンナの意志力にさしずめ乾杯〈完敗〉ですね
July 6, 2009
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読後感は、忘れもしないあの“タモちゃん”(いいともではなくて)に自ら図書館へ足を運び、手にとって、頁をめくるだけでもして貰いたいというものでした。 大田洋子さんの『屍の街』を、webで検索して抜粋文を収録させていただきました。アップされた方々、本当にお疲れ様でした^^http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92803/16222242西の家でも東の家でも、葬式の準備をしている。きのうは、三、四日まえ医者の家で見かけた人が、黒々とした血を吐きはじめたときき、今日は二、三日まえ道で出会ったきれいな娘が、髪もぬけ落ちてしまい、紫紺いろの斑点にまみれて、死を待っているときかされる。 死は私にもいつくるか知れない。私は一日に幾度でも髪をひっぱって見、抜毛の数をかぞえる。いつふいにあらわれるかも知れぬ斑点に脅えて、何十度となく、眼をすがめて手足の皮膚をしらべたりする。蚊にさされたあとの小さな赤い点に、インクでしるしをつけておき、時聞か経ってから、赤いあとがうすれていれば斑点ではなかったと安心する。 八月六日の夜は河原で野宿した。夜になると遠くの方から間の伸びた呻き声がきこえて来た。単調な呻き声は低く沈んで、あちこちから聞こえた。夜があけると、一夜苦しみつづけた人々が死んで行った。 河原から見える限りの山はまだとろとろと燃えていた。猛火の燃え落ちた町は太陽の下で見る影もない残骸をさらしている。 三日目になると、河原は死臭に満ちていた。明るくなると、昨日まで生きていた人が方々に倒れて息をひきとっている姿が見え出した。河原には五つばかりの女の子が手を投げ出し、横ざまに倒れて、昼寝のように死んでいた。水際には赤ん坊が焦げた全身を陽に照らして亡くなっていた。軍の小舟が河に来て、重傷の兵隊たちと屍とを積んで去った。宮島の少年の死体はくずれかけてまだそこにあった。 三日目、ようやく罹災証明書を手に入れ、故郷の玖島の知人宅に仮寓するために出発した。途中、見知らぬ人の家に泊めて貰うなど苦労して、乞食のような姿で、かつては旧家を誇っていたが、いまは住む家もなくなった故郷に帰って行った。 玖島には多数の罹災者が帰って来ていたが、八月十五日以後、二十日すぎから突如として<原子爆弾症という恐愕にみちた病的現象>が現れはじめ、人々は累々と死んで行った。 火傷は相当大きな火傷でも治癒したが、どんなに小さくても切り傷がある患者は、やがて斑点が現れ、紫紺いろの斑点にまみれて死んで行った。原子爆弾が人類最初の経験でその被害がどれほどのものか、原爆症がどんなものか想像もできなかった。すべては未知の世界だった。世界の科学者もそれを知らず、被爆者は実験モルモットにされたのだった。 「私」は周囲の被爆者が次々に死ぬ中で、自分もやがて死ぬことを覚悟し、自分が経験した人類未知の世界を書き残しておこうと、死に脅かされながら書き急いだ。 被爆当日一切を焼失し、ペンや原稿用紙はおろか、一枚の紙も一本の鉛筆もなかった。寄寓先の家や村の知人に、障子からはがした茶色に煤けた障子紙や、ちり紙や、二三本の鉛筆などをもらって、いままでに表現されたことのない、思い出すのが辛い悲惨な経験を書きつづった。<背後に死の影を負ったまま、書いておくことの責任を果してから、死にたいと思った。http://blogs.yahoo.co.jp/challenger_since40/813837.html「原子爆弾を征服するのも世界の誰かが考えるだろう。原子爆弾を負かすものが出来ても、戦争は出来るにちがいないけれども、それはもう戦争ではない。いっさいを無に還す破壊である。破壊されなくては進歩しない人類の悲劇のうえに、いまはすでに革命のときが来ている。破壊されなくても進歩するよりほか平和への道はないと思える。今度の敗北こそは、日本をほんとうの平和にするためのものであってほしい。 私がさまざまな苦痛のうちにこの一冊の書を書く意味はそれなのだ。」 被爆直後に執筆された作品である。実際にその場で見た人でなければ書けない当時の状況が生々しく描かれています。 「あたりは静かにしんとしていた。(新聞では、「一瞬の間に阿鼻叫喚の巷と化した」と書いていたけれども、それは書いた人の既成観念であって、じっさいは人も草木も一度に皆死んだのかと思うほど、気味悪い静寂さがおそったのだった。)」(P.56) 「一刻も早くここを立ち退きたいと思った。」 「もっと本質的な恐怖、眼に触れる陰惨な屍の街の光景に、これ以上魂を傷つけられたくないと思った。このさき長く同じものを、腐敗していく街々を見ていたならば、心のどこかを犯されて、精神までも廃墟になってしまうかと思われた。」(P.90) 「原始爆弾の負傷者はぼんやりした顔をしている」(P.102) 「私はもはや死体に馴れていた。誰でもそうであった。六日の当日にさえも、人々は自分の深い負傷にたいした苦痛も感じないし、心にはまったく苦悶が浮かばなかった。生きているような子供のきれいな死体にも、頽れはじめた死体にも、死体自身にどれほどの苦悩もなかったし、傍を通る者たちにも苦悶は甦らなかった。私たちはてんでこの有様を戦争に結びつけては考えていないのだ。その思考力さえもうしなっている風だった。そのくせ眼からは絶えず涙がふきこぼれていた。」(P.114) このような悲惨な状況とともに、作者は人間の本質的な部分についても述べています。 「どのようにしてでも生きることは出来るという希望のような明るさが、私の胸を去来しはじめた。生地獄だった広島の街々と平穏な田舎とを比べるならば、二つのはっきりちがう別世界だったけれどそのどちらにも平均した人生があった。」(P.131)http://blog.goo.ne.jp/ryuzou42/e/1cbb3ffbcd9a194628d30771e17ab97e「あたりは静かにしんとしていた。(新聞では、「一瞬の間に阿鼻叫喚の巷と化した」と書いていたけれども、それは書いた人の既成観念であって、じっさいは人も草木に皆死んだのかと思うほど、気味悪い静寂さがおそったのだった。)」「「お姉さんはよくごらんになれるわね。私は立ちどまって死骸を見たりはできませんわ。」 妹は私をとがめる様子であった。私は答えた。「人間の眼と作家の眼とふたつの眼で見ているの。」「書けますか、こんなこと。」「いつか書かなくてはならないね。これを見た作家の責任だもの。」」レジュメ 年譜は『大田洋子集(第四巻)』(三一書房)から抜粋 まず、作品を読むにあたって、大田洋子自身について、略年譜を引用 ..... ただ、この検閲による削除は、大田洋子の意思ではなかったことが推察される。『屍の街』序に、<「屍の街」は二十三年の十一 ... http://www2.toyo.ac.jp/~ishidah/resume/20040525.html
June 15, 2009
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大田洋子さん(1903~1963)の「半人間」(昭和29年)より抜粋です。 「半人間」 大田洋子 篤子はジョイの斜めに見える背のうしろで、ぎくりとして眼を見ひらいた。若い女の身のうえにではなかった。女医が患者にしている注射を、イソミタールだと気がついたからだった。 その粉末は篤子もこの病室にきてのんだが、病的な敏感さで思いだしたのは、北海道の警察で起こったある事件についてである。白鳥事件と云われていた。 白鳥という警官が何者かに射殺され、共産党員が検挙された。北海道の警察の留置所で、黙秘権を使っている党員に、刑事は自白を強いた。 刑事は町の開業医を訪ね、その党員の自白のために、イソミタールの注射を依頼した。開業医は人権侵害であることを理由に、警察に屈しなかったのだ。 それならばその麻薬の使用方法を教えてくれるように依頼した。しかし医者は同じ理由で応じなかった。 篤子はその事件を新聞記事で知ったとき、それとの関連はないのにもかかわらず、ふっと良人のHの姿を心に描いた。・・・ 「おっしゃりたくなければ、仰言らなくてもいいのですけれどね」 房田医師は他にききとれないように、声を低めたが、たたみかける調子で訊いた。 「北大のX講師は、ご主人なのですか」 篤子と同姓の北大の講師が、白鳥事件の関連者の容疑で、札幌の刑務所にいた。 房田医師は、新聞記事で知っているものと思われた。篤子はその人が自分の良人ではないことを言った。・・・ 自分曰く「人類史上初めて“白鳥事件”を描いた作家といわれる大田洋子(1903~1963)。近年取り上げられることが少なかった、いわば“忘れられた”作家だ。」 おいおい、全作品に触れさせて貰うと思います^^;
June 11, 2009
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あと、自分が心にどーしてもひっかかってやまない事件は、真犯人があらわれ出ても、裁判官により、再審がなかなか認められなかったケース、二例です。 ご存知だと思うけれど、これもここでご紹介させてもらうわね。 米谷(よねや)事件 弘前大学教授夫人殺害事件どーいう神経しているのかしらねw(↓に事件概略を転載させてもらいました)<弘前大教授夫人殺害事件> 1949年8月6日午後11時過ぎ、青森県弘前市で、弘前大医学部教授夫人Mさん(30)が、部屋に侵入した男に喉を刺され失血死。8月22日、失業中のN氏(25)が逮捕された。42日間の拘留でも自白せず、検察側はそのまま起訴。1951年1月12日、青森地裁弘前支部は「証拠不十分」で無罪判決を言い渡す。1952年5月31日、仙台高裁は「N氏が来ていた白シャツの血痕は98.5%の確率で被害者のもの」という古畑種基の鑑定を全面的に採用し、懲役15年判決を言い渡した。1953年2月19日、最高裁で上告棄却、確定。N氏は1963年1月に仮出所。1971年6月、N氏の幼友達が真犯人だと名乗り出た。読売新聞記者がスクープし、N氏は仙台高裁へ再審請求。1974年12月に棄却されたが、異議申立中に「白鳥判決」が出され、また、古畑鑑定の誤りが指摘されたこと、真犯人の指紋が隠匿されていた事実も明らかになり、仙台高裁は1976年7月13日に再審開始を決定。1977年2月15日、仙台高裁は無罪を言い渡し、そのまま確定した。 N氏は2008年1月24日に死亡。84歳没。<米谷事件> 1952年2月25日、青森県高田村で女性(57)がごうかん、殺害された。3月2日、村内の米谷四郎氏(30)が逮捕される。起訴直前で自白を翻し、無実を訴えたが、12月25日、青森地裁で懲役10年の判決。翌年の8月22日、仙台高裁で控訴棄却。米谷氏は「金のない者は無実でも泣き寝入りして服役せざるを得ない」と上告を断念して刑が確定。1958年4月に仮出所した。 1966年4月、東京で窃盗などで裁判中の被害者の甥(33 事件当時18)が女性殺害を告白。東京地検は1967年2月に起訴。1968年7月、東京地裁は無罪判決を言い渡すが、検察側控訴中の1970年5月、甥は自殺した。 米谷氏は1967年、日弁連へ救済を訴え、同年8月、青森地裁へ再審請求した。1973年3月、地裁は棄却したが、即時抗告した後の1976年10月31日、仙台高裁は再審開始を決定。1978年7月31日、青森地裁は無罪の判決を下し、そのまま確定した。慰留せいえきから判明した血液型が米谷氏の血液型と異なる事実、目撃証言は事実上不可能、自白内容に矛盾点が多すぎるなど、粗雑な捜査と強引な確定判決であった。 米谷氏は国家賠償請求を起こしたが、棄却されている。 米谷氏は2006年6月29日に死亡。享年84。 上記、二冤罪事件に関して、『狭山事件と再審』(和島岩吉編)の見解も、ご参考までに転載するね。 米谷(よねや)事件 真犯人が名乗り出て、米谷確定判決を知りながら、あえて検察官がO(甥)を真犯人として起訴し、これを事実として維持している事実があってもなお、再審裁判所が請求を容れないというのであれば、請求人にとっては再審の道を塞がれたも同然で、再審制度は冤罪者のために救済の機能を果しえないものにならざるをえません。 弘前事件 棄却決定は請求人に対して、Tが真犯人であるとの供述が他の証拠と矛盾しないものと評価できる程度では足りず、一〇〇%の真犯人の有罪証明を請求人側に要求し、かつ請求人のアリバイについても一〇〇%の証明がなければ、再審の門は開かないとしたのに等しい判示をなしました。 冤罪を叫び、再審を求める際に、真犯人が名乗り出るというケースは、請求人として僥倖の類に属します。 その真犯人を名乗る者が具体的に自らの犯行を告白する証言をなし、それが他の証拠と矛盾しないと評価しえても、再審開始を認めないとすれば、無辜の救済のための再審制度は存在しないのと同然であります。
April 23, 2009
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もし、自分が裁判員に選ばれたら、警察・検察は、被告人が「自白」に至るまでに、差別・偏見に基づく取調べや脅迫をしなかったかにツッコミを入れたいんだなぁ。 それまでに、取調べの可視化が進めば突っ込まれることもないでしょうな。 丸正事件では民族差別が、島田事件〔赤堀政夫さん〕では「障害」者差別が、狭山事件では「部落差別」が、そして「都立富士高校事件」---一九七三(昭和四八)年一〇月二六日発生---では同性愛者差別が、ウソの「自白」を引き出すために利用されたからねぇ・・・ 三六年前の、セクシュアル・マイノリティ差別に基づく冤罪事件『都立富士高校事件』について、以下、『狭山事件と再審』(和島岩吉編)より抜粋するです。都立富士高校放火事件 ・・・警察は全日制の生徒より家庭環境の悪い定時制生徒のなかに犯人がいると予断し、夜間徘徊し窃盗事件を犯したKをこの窃盗事件で別件逮捕し、勾留は代用監獄(中野警察署)で行われました。 Kは、逮捕直後から本件について否認してきましたが、朝八時半から午後九時、一〇時頃までの連日の取調べ、人間国宝に指定されている人との同性愛関係をマス・コミに発表するとの脅迫、痔病の苦痛を利用した取調べ(「自白」後、勾留執行停止となり手術を受けさせてもらう)、ポリグラフ検査を利用した誘導にとる取調べ等を受け、本件は、同性愛の相手には迷惑をかけられないと考えて「自白」するにいたりました。 本件起訴は、一九七三(昭和四八)年一二月二八日であり、別件起訴後の三四日目でした(同起訴同年一一月二四日)。この間には痔の手術による一五日間を除いて、前記警察署に勾留されて取調べを受けているのです。 なお弁護人は国選で、第一回公判(一九七四・二・二八)の直前の二月九日に選任されています。Kの「自白」の最も重要な時期に、弁護人の活動が一切行われなかったのです。 判決は一、二審とも無罪。 一審は自白調書の任意性について、警察官調書には疑問ありとしながら、検察官調書については肯定しました。 別件逮捕、勾留については、別件逮捕による本件取調べの受忍義務を否定しながら、痔の手術後は健康回復を理由として違法性は遮断されると判断し、かつその後の調書の証拠能力を肯定しました。 二審判決は、「自白」調書につき任意性、信頼性を否定し、別件逮捕・勾留については違法でなく、取調べ受忍義務を肯定しました。 あやまちを あらたむるに はばかることなかれ
April 12, 2009
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・・・しかしながら六〇年代の半ばには、少なくともひとり、ジョン・マネーに異議を申し立てた人物がいた。・・・ ウクライナから移住してきたユダヤ教徒を両親に持つミルトン・ダイアモンドは・・・一九五八年の秋にカンザスにやってきたが、・・・カンザス大学のチームは・・・成長中の胎児の脳や神経系統にホルモンがおよぼす影響を解明しようとしていた。・・・「人間の性行動における存在論の批判的な評価」と題されたその論文のなかで、ダイヤモンドは・・・ジェンダー・アイデンティティは胎児のときから脳に組み込まれていると・・・また、半陰陽者における性心理の柔軟性を唱える理論に対して、ダイヤモンドは、そのような人びとは子宮内で「遺伝子、あるいはホルモンの不均衡」を経験しており・・・神経系統や脳の組織が、半陰陽者のせいきと同じように子宮内であいまいに構成されたことを単に示しているにすぎないと・・・ さらに、解剖学的にあいまいな点が見られないトランス・セクシュアル(体の性と自己が認識する性が一致せず、生得上の体を手術により変えることなしには自己のアイデンティティを表現できない者たち)に関しては、自分たちの体の性とは反対のプログラムを脳に組み込まれた、生物学上いまだ解明されていない状態にあると仮説をたてた。・・・ この仮説は、アメリカに於ける性科学の第一人者ハリー・ベンジャミンが唱える主張を根拠にしており、実際ベンジャミンも、患者八七人のうち四七人において、「自分たちが間違った性を生きているという確信に、幼年期の心理的条件付けか関連しているという証拠はひとつも見つからなかった」と最近になって報告している。・・・ ミルトン・ダイヤモンドが言うには、一九六五年に論文を書いた当時は・・・古い伝統に縛られた科学の分野を発展させる試みに過ぎなかった、・・・実際、その論文を出版したあとでダイヤモンドは、共同研究を行っていっしょに記事を書くことをジョン・マネーに提案している。・・・ お互い逆の立場にいることはダイヤモンドも理解していたが、・・・ 「知性を重んじる者として、私はそれが正しいことであると疑わなかった」・・・ 「私はマネーの理論に対して挑んだにすぎないのだが、マネーはそれを自分自身に対する反論だと受け取った。ほんとうはそうではなかったというのに」 とはいえ、非難に対して敏感なジョン・マネーでなくとも、科学者であれば、冷静にして執拗なダイヤモンドの批判的な論理には自尊心を傷つけられたかもしれない。・・・ 男性と女性のテストステロンの概要 カンザス大学のチームが掲げたテーマは、出生前の体に起こるこれらのホルモンの作用が脳にも影響を及ぼすかどうかだった。 チームは答えを確かめるために、妊娠したモルモットの子宮に多量のテストステロンを投与し、意図的に半陰陽のモルモット群をつくりだした。・・・ テストステロンの影響を受けた雌のモルモットの体の男性化に伴い、性行動にも男性化の傾向が見られるかを調査したのである。・・・ カンザス大学のチームは驚くべきことを発見した。・・・ ホルモンが人間の行動に及ぼす作用について、何か興味深いものを発見したいという思いと共にカンザスにやってきたミルトン・ダイヤモンドは、・・・ヤング教授をはじめとするチームのメンバーたちが・・・その結果を人間の状況に直接結び付けることができずにいると感じていた。 「私は進化というものを信じている」・・・ 「そういう意味では、人間がほかの動物と違うという根拠はひとつもなかった」 そんなダイヤモンドの信念は強く・・・生物学、心理学、精神医学、人類学、内分泌学と、さまざまな分野から証拠を集め、ジェンダー・アイデンティティは胎児のときから組みこまれているとする・・・
March 19, 2009
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「性革命の煽動家」と、『ニューヨーク・タイムズ』紙はジョン・マネーのことを呼んだ(一九七五)「性の伝道師」と、自伝的エッセイの中で、ジョン・マネーは自らのことを呼んだ(一九八五) 父親の死後、マネーは母親と未婚の叔母たちに囲まれ、極めて女性的な環境で育てられた。男性に対する彼女たちの非難は痛烈で、それが一生涯マネーに影響を与えた。 「私は自分が男であることに罪の意識を覚え、苦しんだ」・・・ 「私はよく思ったものである。家畜だけでなく、人間の男も誕生時に去勢されたら、世界は女性にとってより良い場所になるのではないかと」・・・ ある種の言葉が禁句とされることによって、世間の人びとの上品ぶった態度が助長されると確信していたマネーは、同僚や患者たちとの通常の会話の中に、意識的に「ふぁっく」、「こっく」、「かんと」などの卑猥な言葉を入れた。・・・ 性に関してはタブーをものともしないマネーの実験的な姿勢は・・・いままで誰も手をつけようとしなかった領域をあえて探そうとした。・・・マネーにとってはそれがハーマフロディティズムとの最初の出会いだった。・・・ハーマフロディティズムという用語は、古代ギリシャの愛の神、ヘルメスとアフロディーテに由来し、推定によれば、半陰陽者は新生児の二〇〇〇人にひとりの割合で生まれ・・・、それをテーマに博士論文を執筆(一九五二)・・・それがきっかけとなって、ジョンズ・ホプキンズ大学に招 される。 一九七五年・・・精神医学部の学部長で、研究所内の長年の後援者だったジョエル・エルクス博士が、ポール・マクヒュー博士と交代したのである。 熱心なカトリック教徒であり、精神医学における一時的な流行や傾向をことごとく目の敵にするマクヒューは、ほとんどすべての点においてマネーとは正反対の人であった。・・・ マクヒューは、成人したトランスセクシュアルが「性転換手術」を受けることに対しても・・・トランスセクシュアルは人格障害というさらに大きなコンプレックスの一症状にすぎないと考える博士は、精神科医はそうした患者たちに、極端で取り返しのつかない外科的処置ではなく、カウンセリングによる治療を施すべきだと長年考えてきた。 マクヒューは、「性転換手術」を「二〇世紀の精神科医たちが奨励した、最も過激な治療法」であると非難し、・・・一九八三年、マネーは・・・人間性科学の夜間講座が即決で打ち切られたことをつげられ・・・その三年後、・・・構内から出て行くよう通告された。 マネーがまさに撤退という戦略を実践したのは・・・一九九七年の春、・・・世界中のメディアがダイヤモンドとシグムンドソンとが発表した双子の症例に関する論文にたいして、いっせいにに反応を示したときのことだった・・・ 半陰陽の子どもの手術は、子どもが自分の意志を明確に表現できる年齢になるまで待つべきだというダイヤモンドの主張について・・・マネーはハーヴァード大学在学中に自らが執筆した卒業論文 で、二五〇人を超える治療前の半陰陽者を調査して得た結論をすっかり忘れているようで・・・ ダイヤモンドの勧告は、自分を恥じて内に閉じこもり「サーカスの見世物」となっていた時代に半陰陽者たちを引き戻すものであると付け加えた。・・・『男と女、男の子と女の子』がいまだ版を重ねており、そのなかで双子の症例が成功例として取りあげられていることについて・・・ 将来的に内容を改訂するつもりはないのかと尋ねた。マネーはにべもなく・・・ 「その前に私は死んでいるさ」と答えた。to be continued.
March 17, 2009
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『ブレンダと呼ばれた少年』 14 あいまいな性---より抜粋です。 Milton Diamond(ミルトンダイアモンド)はデイヴィッドに会うためウィニペグへ飛んだ。・・・ David Reimer(デイヴィッド・レイマー)は自分が医学文献のなかで有名な存在であること、自分の奨励が成功例として報告され、それにしたがって以後何千もの「性転換手術」が行われてきたことをはじめて知った。一九九四年の冬に書かれたその論文には・・・ ダイヤモンドは五〇年代後半に行われたカンザス大学チームの研究を例に挙げ、デイヴィッドの症例は、ジェンダー・アイデンティティと性的指向がおもに先天的なものであるという証拠であり、それは出生前のホルモンの分泌や、脳と神経へのホルモン以外の遺伝的影響によって形成されるもので、だれでも性転換に対して容易に順応できる能力があるという柔軟説には限界がある、と論じた。・・・ ダイアモンドは性別再判定手術は、デイヴィッドのように正常な生殖器と神経系を持って生まれた新生児にとってだけではなく、半陰陽の新生児にとっても同様に謝った方法であると説明した。・・・以上のことを踏まえた上で、ダイヤモンドとシグムンドソンはあいまいな生殖器を持つ幼児の扱いを示す新しいガイドラインを提案した・・・自分がどちらの性に近いかを子供たち自身がはっきりと自覚し、明確に表現できる段階に成長するまで・・・「どちらかの性に一貫して子供を育てる。ただし絶対にメスで切るのは避けること」ということである。・・・ 少なくともひとりはダイヤモンドたちの主張を強く支持した者がいた。 ウィリアム・レイナーはその二年前から、「性転換」をした患者に対する、はじめての長期にわたる包括的な追跡調査を行っていた。 一九九五年、精神医学の助教授としてジョンズ・ホプキンズ大学に雇われた彼は・・・一六人の患者の調査を行い、遺伝学的には男性だがぺにすのない状態で生まれてきたため、去勢して女の子として育てられた六人について・・・二年にわたる研究の結果、この六人全員が態度や行動において女性より男性に近いことが発見された。そのうち二人は、男性(XY)の染色体を持っていると知らされていないにもかかわらず、自発的に男性に戻っているような状態だった。・・・ レイナーは、一九七一年にオックスフォード大学で行われた、いまや古典とされている研究を例証として出している。それはネズミのメスとオスの脳の解剖学的な違いを示したもので、その六年後、カリフォルニア大学の研究者たちは、その違いを視床下部の細胞群にまでしぼりこんだ。 一九八〇年半ばにアムステルダムで行われたある研究では、人間の視床下部内でそれに相当する位置が突きとめられ、同性愛者の細胞群が異性愛者のそれよりも二倍に大きいことが注目された。 さらなる研究も、この発見を支持している。 一九九三年と一九九五年、同性愛者の兄弟を対象にした異なる二つの実験で、研究者ディーン、ハマーは、同性愛者のX染色体にいくつかの特徴的なパターンを発見したと発表した。これは性的指向が遺伝的な要素による可能性を示唆するものだった。 サンフランシスコを拠点にした活動家、シェリル・チェイス(性腺の中に卵巣と精巣の両方の組織を持つ「真性半陰陽者」、幼少期にくりとりす切除手術を受けた)は・・・「男の子と女の子」、「男と女」といったニ分法では性を捉えることのできない世界に足を踏みいれ・・・ジョンズ・ホプキンズ大学病院で始められた半陰陽の治療に関するプロトコルの危険性を医療機関に訴え始めた。 チェイスは決して、生命を救う手段としての生殖器手術に反対したのではなく、新生児に施される医学的に不必要な外科処置を「野蛮」だと糺弾していたのであった。・・・チェイスの究極の目的は、「他人と違うことがまるで怪物であるかのような考えをなくすこと」だった。 ブラウン大学のアン・ファウスト=スターリンは・・・「この分野において大規模な改革を行うとしたら・・・要するに専門家を育てるのです。そういった家族と長期的にかかわりあいながら、感情的、或いは実際的な疑問を解決する手助けをするわけです。実際的な疑問というのは非常に日常的なことです。 体育の授業に服を脱ぐときどうしたらいいのか?学校のシステムとどう関わっていけばいいのか? このように新たな基盤を築き上げて、諸疑問を解決していかなくてはならないのです。医療専門家にはそうする責任があると思います」 一九八九年、『泌尿科学ジャーナル』に・・・ジャスティン・ライリーとC・R・J・ウッドハウスの研究は、同じ症状を持つわずか二〇人の患者の生活を追ったものでしかない。・・・さらに徹底した研究は・・・一九五五年以前に・・・赤ん坊のときに手術を受けなかった二五〇人の半陰陽者を綿密に調べ上げた。・・・研究論文は以下のことを明らかにした。・・・ 「半陰陽が精神病と神経症の大いなる要因になりうるということであれば、だれも驚きはしなかったであろう。」・・・「しかしながら、半陰陽のなかでも最も両性的な者たち、つまり自分の性がどっちつかずだと気づかずにいられない人びとのいわゆる機能的精神『』障害の発症率は、著しく低いことが証明されている。同様に、非常に深刻で典型的な神経症性精神『障害』の発症率も、著しく低かった」 この論文のなかでとりわけ興味深いのは、成人して本人が決断を下せるようになるまで、外科的手術もホルモン治療も受けずにいた半陰陽者一〇人にたいする綿密なインタビューである。 「その子が驚くべき持久力と確信を持って、その複雑な問題を自分のなかで処理したことは賞賛に値する」・・・「人付き合いにおける要領のよさと安定した精神」・・・ 「成人したきょうだいよりもよほどしっかりしていた」・・・「精神『障害』の気配も見受けられず、最も成功した人生を歩んでいる--- ---彼の人生は、まさに自我の力というものの存在を雄弁に物語っている」・・・「この青年がもうひとりの生き証人である--- ---つまり、部分的にバランスの取れていないあいまいな性に直面したとき、自我の力はたいへんな威力を発揮する」・・・ 市販も配布もされていないこの論文は、ハーヴァード大学のワイナー図書館に文書による請求をしないかぎり入手することは出来ない。ちなみに一五五一年、博士号取得のため大学に提出されたこの学位論文の著者は、三〇歳の博士候補で、その名前をJohn Money(ジョンマネー)という。
March 14, 2009
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『As Nature Made Him』 ・・・その表情からするに、彼女がデイヴィッドの股間を見てしまったことはあきらかだった。「事故」にあったんだ、とデイヴィッドは説明した。数日もしないうちにみんない知れわたってしまったよ、とデイヴィッドは言う。・・・ 翌日、デイヴィッドはいっそのこと死んでやろうと母親の抗鬱剤をひと瓶分飲み込み、両親のソファに横になった。 意識不明のデイヴィッドを発見したのはロン(実父)とジャネット(実母)だった。・・・ 「もうこのままにしておいたほうがいいのかもしれない。この子はなんにも悪い事をしてないっていうのに、ずっと苦しみ続けているわ。この子はほんとうに死にたいのよ」 しかし数秒後、ジャネットはそんな思いを振り払い、ふたりはデイヴィッドを病院に運び、そこで胃を洗浄してもらった。 一週間後、デイヴィッドは退院するなり再度自殺を図り、またしても母親の抗鬱剤をひと瓶分飲んで、今度は溺死しようとバスタブに水をはりはじめた。 「おれは頭の中でくりかえしていたよ。死んだら何も感じなくなる。心にもカラダにもなんの痛みもなく、そこには屈辱もない。だけど、結局おれはバスタブまでたどり着けなかった。一歩一歩が、まるで片足に一〇〇ポンドの重しが載っかってるように重かった」 抗欝剤の過剰摂取がその効果を現しはじめると、デイヴィッドはソファに横になってそのまま意識を失った。今度はブライアン(双子の実弟)が命を救った。 デイヴィッドは世界と隔絶し、ウィニペグ湖近くの森の小屋で、ときにはたったひとりで半年も過ごすようになった。・・・マッケンティ(信頼できる主治医)は小屋にテープレコーダーを持っていって、それに思っていることを吹き込むように説得した。一九八五年一月のある晩、デイヴィッドは医師の指示に(一度だけ)したがった。
March 11, 2009
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『ブレンダと呼ばれた少年』(無名舎)より抜粋(頁三〇六~三〇七) おれがいちばん幸せを感じるのは、ひとりきりでいるときさ。別に人付き合いが悪いってわけじゃない。ただ、自分ひとりでいるほうがずっと居心地がいいんだ。それは孤独とは違う。リラックスして、とてもおだやかな気持ちになるんだ。そう、祖父の農場にいたときのような感じかな・・・ でも、おれは自分の子供たちを愛しているし・・・そしておれは、自分の身に起こったことを、あの子たちに伝えたいと思ってる。こんなに大事なことを内緒になんてしておけないからね。・・・ じつはもうすでに、いちばん上の娘には話したんだ。娘が一五歳のときにね。さすがに驚いてたよ。『お父さんが女の子の服を着ていたの?』ってな顔で。でも、だいたいのところはわかってくれた。『別にそれで父さんのことを嫌いになったりしない、いまでもおんなじように愛してる』って言ってくれたよ。・・・ 娘たちに真実を告げるよりも、息子に対しての方がむずかしそうだな。息子と父親の関係は微妙だからね。息子はおれに対する考え方を変えるかもしれない。『おれのお父さんは昔、女の子の服を着て、女の子の名前で呼ばれ、女の子として生きてきた』、そんな事実は容易に信じられるもんじゃないだろう。 相手が何かをなかなか受け入れられなかったり、ばつの悪い想いをしてるのは、その顔を見ればすぐにわかるさ。もし息子がおれを軽蔑の目で見るようになったら--- ---。 自分のことを恥じながら生きるのはもううんざりなんだ。その思いは、一生消えないだろう。いまのおれは、自分は何も悪いことをしていないのに、まるで自分を恥じるように訓練されたような状態なのさ。おれはかつて女の子の服を着て、女の子の名前で呼ばれて、長い髪をして、頭のてっぺんから足のつま先まで女の子だったっていう思いを、一生背負って行きていかなくちゃならない。 その記憶を消すことなんて不可能なんだ。おれはただ精一杯、生き残りを賭けて闘いつづけていくしかない。『これはおれのせいいじゃない。おれのせいで起こったことじゃないんだ』って自分に言い聞かせながらね。 母さんにしても父さんにしても、すべてはおれの幸せを願ってしたことだった。親ならだれだって子どもの幸せを願うものさ。でも、おれは両親のために幸せになることはできない。自分自身のために幸せになる必要があるんだ。結局、人間は自分以外の何者にもなれやしない。自分はいつだって、自分でなきゃならないんだ。 でもまあ、もしおれが普通の人生を送って、いっさいこんな目にあってなかったら、いまごろはおそらく、あの連中のような男性優位主義者になってただろう。 仕事に行って、へとへとになるまで働いて、家に帰ってビールを飲みながら、テレビでスポーツ番組を観る。 で、たまたまいまのおれのような人間がテレビに映っていると、『うぇー、気持悪い』なんて言うのさ。もしかしたらそれがおれの姿だったかもしれない。 俺が父親から教わったのは、男っていうのは、妻を大切にし、家族の上に屋根を築き、良き父親であってはじめて一人前と言えるってことさ。 そういうことをひとつひとつ積み重ねて、人は男になる。せっくすはその次なのさ・・・あの子たちは俺の手で育ててるんだ。俺にしてみれば、それこそ男ってことさ。
March 9, 2009
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自分には、トランス・セクシュアルに対するネット上のパッシングの大半が、解剖学上「男性」の書き込みである背景には、男性差別(男性の人権が蹂躪されていること)があると思われてきました (YouTube)David Reimer Edited clip「これを聞いているみんながすばらしい人生を送ることを願うよ」(二一八頁) 実際、異常な幼少期を送ったことで女性の気持もわかるようになったかと尋ねると、ディヴィッドはあっさりと否定した。ディヴィッドは一度として女の子であったことはなかった。少なくとも心の中では。 一四歳のときブレンダからディヴィッドに転換したことも、単に名前を変えたという表面的なものにすぎなかったと彼は言う。 まるで左右の乳房切除、二度にわたる人口ぺにす形成手術、そしてかつて受けた去勢手術の埋めあわせのために生涯テストステロンを注入しつづけなくてはならないことなど、取るにたらない些末な問題だとでもいうように。 「たしかにおれは変った」とディヴィッドは言う。 「だけど、それはおおもに名前が変ったにすぎない。あとはどれも外見的なことさ。ダメージを受けた箇所を修理した、それだけのことだよ」 (頁二四八~二四九) たとえば両腕、両足を失って、車椅子の生活を余儀なくされて、口にくわえた小さな棒ですべてをこなさなくてはならなくなったとしても、それでおれという人間の価値が劣るわけじゃない、そうだよね? でもどうやら、ぺにすを失うと、お前はもう人間じゃないってことになるらしい。 ぺにすを失った瞬間、人は何ものでもなくなる。それじゃいけないっていうんで、医者たちは手術を行い、ホルモンを投与して、その患者を何がしかの人間にする。まるでそのままじゃ、その患者の価値はゼロだとでも言わんばかりに。 人格---すまり人間に備わっているものすべては、股のあいだにあるものに集中しているかのように。おれに言わせれば、それは無知以外の何ものでもないね。おれには科学者や心理学者が持っているような教養なんてないけど、それでもやっぱり無知としか言いようがない。 たとえば女の人が胸を失ったら、はい、それではって感じで男に変えてしまうかい?それで彼女が『完全で正常』だと感じられるように? (頁三〇三)『ブレンダと呼ばれた少年』 ジョン・コラピント著 村井 智之訳 出版 : 無名舎 発行年月 : 2000.10
March 5, 2009
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ディヴィッド・ライマー(David Reimer、1965年8月22日 - 2004年5月4日)氏の受けたオペ「As Nature Made Him(日本語訳書:ブレンダと呼ばれた少年)」より抜粋」 二二歳(一九八七年)の誕生日を間近に控えたディヴィッドは、二度目の人工ぺにす形成手術を受けた。 一二段階にわたり、一三時間を要したその手術、すなわち微小血管右橈骨動脈(とうこつどうみゃく)前腕弁によるぺにすの再形成という手術では、右手首から肘までの肉、神経、動脈が切り離され、新しい尿道とぺにすの中核となる部分をつなぐ管がつくられ、生殖器を構造的に支えるために左肋骨のひとつから軟骨の一部が移植された。(・◇・)ゞ自分は専門家ではありませんが、[[性別適合手術]]を「人体を改造する」と言い換えて、その是非を論じるのは、多少事実の歪曲があるのではないかと感じるのです。 デイヴィッド氏自身は、あるインタビューの中で「修理した」というふうに語っておられました。 皆さんはどう感じられますか。 デイビッド・ライマー氏は、ジョン・コラピント著「ブレンダと呼ばれた少年」のブルースです。 地元ウィニペグの報道によると、二〇〇四年五月四日に亡くなられています。享年38歳。 Man raised as girl dies WINNIPEG - A Winnipeg man who was the subject of a ground-breaking sex-change experiment died this week. David Reimer's parents were advised to raise their baby boy as a girl after a failed circumcision in 1966. Reimer was clinically castrated and was subject to mental, social and hormonal conditioning to help him live his early life as a girl named Brenda. Medical experts from around the world quietly monitored the experiment, which was thought to be of particular interest because Reimer had a twin brother. Reimer was a social outcast as a child and suffered extreme depression. He discovered the truth about himself when he was a teenager and decided to life as a male. He underwent testosterone injections, a painful double mastectomy and a phalloplasty and started a new life as a man. Reimer eventually married and raised three stepchildren in Winnipeg. The flawed experiment later received worldwide publicity, and Reimer stepped out of anonymity in 2000 to reveal his story in the book As Nature Made Him: The Boy Who Was Raised As A Girl. Reimer was 38 years old. http://winnipeg.cbc.ca/regional/servlet/View?filename=mb_reimer20040507
February 24, 2009
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二人の兄弟が路を歩いてゐた。仲のよい兄弟であつた。 途中で二人は、袋を一つ拾つた。中を見たら誰が落としたものやら、目も眩いばかりの黄金の玉が二つ入つていた。 兄弟はその黄金を一つづつ分けた。夢のやうな倖に胸躍らせながら、二人はまた路を歩いた。 しばらく行くと橋にさしかかつた。その橋の上で、ふと弟は足を止めたが、なにを思つたか、持つてゐた黄金の玉をいきなり河へ投げ込んだ。驚いて兄が訳をたづねた。すると弟は言つた。 「常日頃、私は兄さんを敬つてをりました。ところがいま黄金を拾つてみると急に兄さんが嫉ましくてなりません。兄さんさへゐなかつたなら、あの玉が二つとも自分のものになれたのにと、さう思はれるのです。生れてはじめて兄さんを邪魔にする気持になりました。それといふのも、みなあの黄金の玉のせゐです。だから棄ててしまひました。もう二度とあんなものを欲しいとは思ひません」 それを聞くと兄は涙を浮べて言つた。 「もつともだ。実をいへば兄さんも、ちやうど同じやうなことを考へてゐたところだ。なまじ黄金なんぞを拾つたばかりに、すんでのこと吾々兄弟は、もつと大切な宝を失くすところだつた。ああ危い、危い」 さういふと兄も、自分の玉を懐から出して、同じく河へはふり込んだ。顔見合わせて晴々と笑ひながら、二人はまた愉しさうに路を歩きつづけた。--- “The Lord of the Rings”本年も宜しくお願いします^^;
January 8, 2009
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---新羅から高麗へ時代は移っても、「文」が高く、「武」が低いといふ、この考へ方は変らなかった。--- 武臣たちはいくら偉くても、文臣の下風に立たねばならない---。これが上下を通じての、当然な考へ方になつてゐた。--- この実力があるにも拘はらず、武臣はいつも文臣の下にあつて、お粗末にあしらはれねばならなかつた。毅宋王に仕へる文臣たちは、わけても智慧が足りず、徒に権勢に驕っては武臣を馬鹿にした。 宴会だ、舟遊びだと、のべつに騒ぎまはる間にも、王の側にあつて詩を賦したり、盃をお受けしたりして寵愛されるのは文臣ばかり---。 武臣はまるで居候のやうに遠慮をしながら、時には喉を潤ほす一杯の酒にもありつけぬことがあつた。 それも、三年や五年のことなら我慢もするが、十年となり、二十年となつては、どのみち無事にをさまるものではない。 武臣たちは、ぶすぶす燻る胸の不平を押へて、いつかは一度と、折を窺つてゐた。 毅宋王の二十四年、王が興王寺といふ寺へ行幸したとき、つひにその機会は到来した。---鄭仲夫の武臣乱へ
January 3, 2009
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『朝鮮史譚』(金素雲)増補版覚書(昭和十八年六月)よりの抜粋にてご紹介・お薦めに代えさせて頂きます^^朝鮮王朝の絵画と日本 金富軾は、はじめから妙清一派の策動を怪しいと睨んだ。--- 十二年の二月、王はまた西京へ行幸した。 ところが、王駕が馬川亭といふのにさしかかると、お側に従つてゐた親従将軍(侍従武官)金勇の馬が、訳もなく急に暴れ出して、そのために金勇は馬から振り落とされ、瀕死の大怪我をした。 次に、大同江を渡らうとすると、河の中ほどで俄かに大風が吹き募り、いまにもお船が覆りさうになつた。やつと渡るには渡つたが、こんどは太華宮に向ふ途中、旋風や砂埃のために人馬ともに進むことが出来ない。おまけに拳のやうな石が飛んで来て、王駕に当るので、大傘を拡げて防がうとすると、傘を持つた者は、その傘ぐるみ風に吹き飛ばされてしまふといふ騒ぎである。 風が止んだと思ふと、雷が続けざまに三十ヶ所も落ちた。怪我人は出る、家は焼かれる--- ---。そのうちの一つは、処もあらうに、太華宮の乾龍殿といふのに落ちて、王や臣下たちの肝を冷やした。 そのほかにも、王が暫く止まるうちに、色々と災難が西京を見舞つた。流星が落ちるやら、初夏に霜が下りて穀物を台なしにするやら--- ---。かうした思はぬ異変のために、いままで化け通した妙清一派の信用が、滅茶苦茶になつてしまつた。 妙清たちが西京へ都を移さうとする第一の理由は 「禍を避け福を享ける」 といふのにあつた。その禍が、よそならぬ西京で起つたのである。こんどこそ金富軾は黙って見てはゐなかつた。--- --- 形勢を取返すことが出来ないと知つて、妙清一味はつひに本性を露はした。--- 妙清の叛逆が朝廷に聞こえると、王は臣下たちと相談の上、金富軾を元帥に任命して、これを討たせることになつた。金富軾は出陣に先だつて、 「このたびの叛乱には白寿翰や鄭知常それに金安が関係してゐる。この輩から除かねば平らげることは出来ない」 さういつて、先づ三人を宮門の外に曳き出して斬つた。---部下の将軍たち「戦は迅速が第一です。こんなに愚図ついてゐては、敵に用意をさせるやうなものぢやありませんか。なぜ真直ぐに攻めてかからないのですか」金富軾「さうではない。戦にもよりけりで、速いからよいとはかぎらないのだ。賊軍はもう前から充分に用意を整へてゐる。真直ぐに突き進めば、かへつて罠にかかるやうなものだ。それよりは遠廻りをして賊の背後を押へるに越したことはない」---趙匡「この通り奸賊は自分の手で始末しましたから、この上は、どうか朝廷に刃向つた罪を許していただきたい---元帥の仰せに従ひ、妙清の首を朝廷へ届けて詫びを入れました。何分よしなにお計ひ願ひます」金富軾「趙匡の部下がそちら(朝廷)へ行きましたら、手厚く取扱って、せつかく降参した気持を翻へさせぬやうにして下さい」都の大臣たち「趙匡が降参するやうになつたのは、何も金富軾元帥の手柄ではない。朝廷から詔諭使をやつて諭したからだ。趙匡の使をどう扱はうと、そんなことまで指図することはない---金富軾を呼び返して、ほかの大将をやりませう」金富軾「どうか最後まで小臣にお任せになつて下さい。必ず賊は平らげますから--- ---」 金富軾は軍律を厳しくして、城内の人民たちを労はり、一人の命も無駄には取らさなかつた。飢ゑた者には食物をあてがひ、病む者、傷ついた者にも手を施して、すつかり後片付けが済んだ上、十四年の四月、都へ凱旋した。 かうして、仁宋王の代では二度目の、この西京の乱が平定したが、一度は降参までさせながら、かへつて戦を大きくしたのは、ひとへに都の大臣たちの、一を知つて十を知らぬ軽はづみからであつた。 金富軾は二十年まで仁宋王に仕へ、二十三年には「三国志記」を著はして、毅宋王の五年、七十七歳で世を去つた。to be continued.書 名 朝鮮史譚 出版社 発行所=天佑書房 著 者 金素雲 発行年月 1943(昭和18)年1月1日 内容情報 確かな史眼と熱情で語る高麗・李朝の一千年の歴史。高麗の建国;千秋太后;灰になった宮殿;西京の乱;武臣天下二百年;贈送蓮花片;高麗最後の日;善竹橋の血痕;李太祖と無学大師;端宗六臣;恵みの雨;柳の葉;隣の柿;刑場の志士;紫衣娘子;宣祖から正祖まで;摂政大院君 金富軾(きん ふしょく 1075年 - 1151年)
December 26, 2008
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『朝鮮史譚』(金素雲)増補版覚書(昭和十八年六月)よりの抜粋にてご紹介・お薦めに代えさせて頂きます^^世宋王 集賢殿というのは、端宋王にとつては祖父君にあたる第四代の世宋王が興されたもので---世宋王は、歴代の王の中でも第一番に指を折るべき賢君であつた。--- 罪のある者、牢に入れられた者へも、王の仁慈は及ぼされた。 獄を司る者は、どこまでも公平で、心が虚しくなくてはならない。死罪の者を裁くときは、先づ生かすことをはかれ。重罪の者へは少しでも罪を軽くする途を考へよ。事情をよく見きはめ、偽りと真を察しわけて、その上で裁きを下しても「「片手落ち」となることがある。まして威力だけで法を行はうとするのは、わざわざ冤罪をつくるやうなものだ」 王はかう諭され、牢にゐる罪人たちが、病気や寒さのために命を失ふことのないやう、獄制にも一大改革を加へられた。 また、---「三覆法」といつて、死罪にする者を三度しらべなほす掟や、「苔刑(ちけい)」をなくすることや、七十歳以上、十五歳以下には罪を行はない制度など、小さいことに至るまで一々気を配られて、世の中を少しでも明るい、よいものとするために、お骨を折られた。六臣 六月八日、成三問 (せいさんもん)はじめ、李かい(りかい)、河緯地(かゐぢ)、兪応孚(ゆおうふ)の同志たちは、軍器監の前に曳き出されて、車裂きの極刑に処された。朴彭年(ぼくはうねん)、柳誠源(りゆうせいげん)の二人は、その前にすでに牢死してゐた。--- 六臣の忠義の死は---誰一人葬儀ひを営むことも出来なかつたのを、慷慨の僧金時習が、刑場へ行つて骨を拾ひあつめ、鷲梁津へ葬った。これがいまに残る六臣の墓である。to be continued.書 名 朝鮮史譚 出版社 発行所=天佑書房 著 者 金素雲 発行年月 1943(昭和18)年1月1日 内容情報 確かな史眼と熱情で語る高麗・李朝の一千年の歴史。高麗の建国;千秋太后;灰になった宮殿;西京の乱;武臣天下二百年;贈送蓮花片;高麗最後の日;善竹橋の血痕;李太祖と無学大師;端宗六臣;恵みの雨;柳の葉;隣の柿;刑場の志士;紫衣娘子;宣祖から正祖まで;摂政大院君
December 24, 2008
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『朝鮮史譚』(金素雲)増補版覚書(昭和十八年六月)よりの抜粋にてご紹介・お薦めに代えさせて頂きます^^ 妙清は王宮に仕へてゐる白寿翰といふ者と、予てより親しくしてゐた。それでこの寿翰を通じて、仁宋王に「一度西京へ行幸なさるやうに」と、お勧めした。寿翰も同じ西京の生れである上に、やはり陰陽で禄を食んでゐる日官であつた。陰陽師が二人がかりで、方角がどうの、吉凶がどうのと、説きたてるのだから訳はない。王も嘉納して、五年の二月、つひにこの行幸が実現された。 西京へ迎へられた王は、そこへ五ヶ月もとどまつて、その年の七月、都の開城へ還御された。ところが、この行幸は、妙清や寿翰にとつては、まだほんの小手調べに過ぎなかった。〈王都には色々と禍がつづき、宮殿まで殆ど焼かれてしまつた。この機会に王室を説き伏せて、都を西京に移すことが出来れば、その手柄によつて自分たちは功臣に列なり、子孫万代に至るまで栄耀をきはめることが出来る〉 これが、二人の陰陽師の謀し合わせた本当の胆であつた。 この計画は目立たぬやうに、ごく慎重に進められた。大臣の中に西京出身で鄭知常といふ者がゐたが、妙清たちは、やがてこの知常を味方に引入れた。 知常は、悪企みといふよりも、二人の口車をまる呑みに信じてしまつた。それに功臣になれるといふことが、まづ何よりも心を惹いた。 知常の口から説かれて、金安や洪い、李仲俘などの近臣、それに文公仁、林景清などといふ大臣たちが、つぎつぎと抱き込まれた。「宮室が灰になつたといふのも、つまりは都の地勢が衰へてゐるからである。西京は王城の地として申し分のないところ、それに、妙清こそは聖人ともいふべき人で、この人が説くからには万々誤りはない。王様にお勧め申して、是非とも王都を西京へ移すやうに計らうではないか」 誰もが陰陽説に惑はされてゐた時だから、かういふ風に説き立てられて反対をする者はない。「よろしうござる」「結構なことで---」と、即座に意見がまとまり、最後に王に奉る建白書へ一人一人が名を書くことになつた。ところが、重臣の中で、金富軾と、あと二人の人が反対して聴かない。已むなく三人の反対者を除いて宮中の緒も重立つた臣下は全部署名を済ませ、これが王の前に差し出された。to be continued.書 名 朝鮮史譚 出版社 発行所=天佑書房 著 者 金素雲 発行年月 1943(昭和18)年1月1日 内容情報 確かな史眼と熱情で語る高麗・李朝の一千年の歴史。高麗の建国;千秋太后;灰になった宮殿;西京の乱;武臣天下二百年;贈送蓮花片;高麗最後の日;善竹橋の血痕;李太祖と無学大師;端宗六臣;恵みの雨;柳の葉;隣の柿;刑場の志士;紫衣娘子;宣祖から正祖まで;摂政大院君 金富軾(きん ふしょく 1075年 - 1151年)
December 22, 2008
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書 名 朝鮮史譚 出版社 発行所=天佑書房 著 者 金素雲 発行年月 1943(昭和18)年1月1日 内容情報 確かな史眼と熱情で語る高麗・李朝の一千年の歴史。高麗の建国;千秋太后;灰になった宮殿;西京の乱;武臣天下二百年;贈送蓮花片;高麗最後の日;善竹橋の血痕;李太祖と無学大師;端宗六臣;恵みの雨;柳の葉;隣の柿;刑場の志士;紫衣娘子;宣祖から正祖まで;摂政大院君 増補版覚書(昭和十八年六月)よりの抜粋にてご紹介・お薦めに代えさせて頂きます^^ 李資謙の乱が平定して、まだ一年とは経っていなかつた。 その頃、西京(平壌)に、妙清といふ僧がゐたが、予てからこの妙清は、陰陽地理説に精しいといふので、土地の人に頗る信望されてゐた。 陰陽地理説といふのは、人間の吉凶や禍福、喜びも悲しみも、すべては地勢の善し悪しによつて定まるといふ迷信の一つである。この迷信は新羅の末頃から伝はつたもので、道せんといふ僧が唐へ行つて、陰陽説の大家である一行禅師から伝授を受けたのだといはれてゐる。もつとも道せんと一行禅師とは、時代が百年もかけ離れてゐるから、直接に教を受けたといふのは変である。 高麗の太祖などは、道せんのこの陰陽説を重く用ひて、亡くなられるときの遺詔十ヶ条といふのにも、先づ第一に、仏の加護によって建国の大業が成就した事を述べ、 「諸寺院は、何れも道せんが、山水の順逆を占つて建立したものである。濫りに移したり、手を加へたりすれば、必ず禍が至るであらう」 と、戒めてゐる。 人間の体に病があると同じく、山川にも病がある。その病を癒すには、ちゃうど体の悪いとき、灸や鍼をするやうに、寺を建て、塔を設けて、悪い地勢を捕はねばならない。朝鮮はもともと、山や川の形が険しく、そのために国が分れ分れになつたり、朝廷に禍が絶えなかつたりする。その禍を除くためには、どこまでも、この陰陽の理に逆らはぬやう気をつけねばならない---道せんの説いた陰陽地理説の理窟は、大体かうである。 そのほか、悪い土地に墓を造れば、きつと禍が至るとか、反対に勢の強い善い土地に墓を建てた者は、子々孫々まで栄えるとか、---かういふ迷信は「風水説」といつて、つい最近まで人々の頭に刻みつけられてゐた。まして八百年の昔である。妙清がこの陰陽説を持出して、土地の人達の崇敬を集めたり、やがては宮中に勢を張つて、一国の王まで動かしたといふのも、さまで不思議な話ではない。to be continued. 金富軾(きん ふしょく 1075年 - 1151年)
December 21, 2008
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金素雲氏の、ハングル版『諺文(おんもん)朝鮮口伝民謡集』は、1933年、土田杏村氏(「その当時肺患で寝たままで膨大な著述を絶え間なく出していた)と新村出博士(京都帝大)の助力で、東京の第一書房から出版されました。 また口伝民謡の原文から選んで、新たに日本語訳の原稿を作った。四年前に出した『朝鮮民謡集』は詩心に重きを置いた意訳である点に不満があったので、今度は原歌に忠実たらんことを期し、歌詞一つ一つに原文の歌詞の番号を付して対照できるようにした。--- 富も貴も願わないが、口伝民謡の整理にもう少し時間を使えたなら---、三段七百頁の歌詞一つ一つが私の郷土の心のふみ跡なり生活情緒の記録なのだ。民間習俗や生活様式の変遷、そんな難しい問題はさておいて、まず方言研究一つをとっても、口伝民謡は二つとない宝庫である。 口伝民謡を第一書房から出すとき方言索引をつけるはずだったが、その索引だけでざっと三、四百頁を越える計算、やむを得ず初句索引だけであきらめる外なかった。--- この一事だけは私の手で成しとげておきたい---けれども、目前に緊急事がある--- この日本語訳原稿を出版社に渡して金をつくらねばならない。 脇の下に抱えた風呂敷の中には、出版社で断られた日訳民謡集の原稿が入っている。--- 岩波書店の社長を父から受け継いだ青年だと思うほどに粗雑な私の認識だった。「私が岩波茂雄でございます」---ギョロリとした目にカボチャのような作りの顔---置いて行けという原稿を彼にあずけ---あくる年の正月、こうして『朝鮮童謡選』が---続いて八月に『朝鮮民謡選』が同じ岩波文庫版で刊行された。--- 悲哀と絶望に衝きあたった私の弱い心を叱り、鞭打ってくれる師、---〈岩波茂雄〉という名前は、出版人と著者というつながりを越えて、ましてや民族と民族との距離を越えて、私の行く手に灯を照らしてくれ、人格の真の意味を私に教えてくれた、人生行路の師表だった。 以上は、書 名 『天の涯に生くるとも』 出版社 発行所=新潮社 著 者 金素雲 印刷年月 1983年5月20日 より抜粋しました。
December 16, 2008
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『天の涯に生くるとも』(金素雲)より---ひとひらの雲 黒い雲の抜粋にて、個人的に“お薦め~な一冊”のご案内です^^ (十七年過ぎた後日談であるが、太平洋戦争で日本が次第に不利になると、静子の愛国心は限度を越して、全く別の〈日本人〉に還元してしまった。〈人間〉がしりぞいて〈民族〉が前面に立つようになって、静子との仲は終りを告げ、私たちは他人になった。) 血の引力 〈人間〉は〈民族〉に優先するというのが私の持論だったけれど、静子との何年間かの同居生活で異民族間の結婚が幸福ではないと、私は身に沁みて思い知らされた。 言葉や文字では形容できない不可思議な〈血〉の引力------、婦人のコムシン(朝鮮靴)を見ても胸がときめく郷愁------、暗い座席に坐って映画を観ていても、ある感動的な場面で顔を向けるのは 妻である静子の方ではなく、反対側に坐っている韓国服のよその奥さんだという、こんなうら寂しいナンセンスを、異民族との結婚生活を経験しない人は多分理解できぬことだろう。
December 12, 2008
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『天の涯に生くるとも』(金素雲)より---殿様のひげ の抜粋にて、個人的に“お気に入り~な一冊”をご紹介します^^ ---賢い人びと はたしてM氏、S氏だけか! 日本の女性を愛することができ、愛人にすることはできるが、妻には娶らないという志士たちは、世の中に珍しくない。しかし、この論理を私は認めることが出来ない。恋愛は一対一---けれども結婚はそうはいかない。そこには父母、兄弟、親戚があり、社会がある。---だからと言ってこんな論理が成立するだろうか? これについてはもっと書きたいことが沢山ある。けれども他のことはともかく、この一言だけでしめくくることにしよう。---〈人間〉それは民族に優先するということ---。民族のあとに人間が生まれたのではなく、人間があってこそ民族があるということ---これである。 功利と打算のみでうまく立ちまわる人間が、どうして自分の民族を愛することができようか!--- 私は静子に〈日本人〉を意識したことがない。意識するとしても、人間的な結びつきの方が遥かに先に立った。良い〈朝鮮人〉になってください、と言う彼女の期待を裏切らぬよう、私としては努力したつもりである。 そこがよその国でなく、私が肉親の縁の薄い孤独の身でなかったらなら、そんな結婚はしなかったかも知れない。異国の地で偶然生まれた機縁---その機縁を合理化しようというつもりはない。けれども、M氏やS氏のように賢くなれない私自身を、別に後悔したつもりもなかった。いわんや、そうすることで私の祖国、同胞を裏切ったという考えも持ったことがない。
December 11, 2008
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金 纓(キムヨン)さん(父は韓国の詩人・文学者、金素雲。子は歌手、沢知恵)『それでも私は旅に出る ―― チマ・チョゴリの日本人,世界へ ―― 』(岩波書店) より 「なぜ旅をするのか」と訊かれるたびに、父・金素雲が日本語に訳した「南に窓を」という朝鮮の詩の最後の部分を思い出す。 田舎で質素な生活をしている人が、「なぜ生きるのか」と訊かれて、なにも答えられず「ただ笑う」という内容のものだ。 ここで「笑う」というのは、もちろん大声で笑うのではなく、微笑みとも違う。答えに困って、やや自嘲気味に浮かべる笑みのことだ。 それを父は、「なぜ生きるかって、さあねえ」と訳して、優れた訳文の例として評価されている。 私も正確には答えられないから、「なぜ旅をするかって、さあねえ」とごまかしの笑みを浮べるしかない。--- 「主人(金素雲)の良いところを全部受け継いだのが、娘の纓です」 あんなに父を嫌って、別れはしなかったが会うこともなかった母が、それでも父に良いところがあると認めていたとは。・・・私のどの点を良いと思っていたのか。生きていれば訊いてみたいところだ。---金素雲(キムソウン)さん『朝鮮詩集』(岩波文庫)より南に窓を 金尚(金+容)キムサンヨン 金素雲訳南に窓を切りませう畑が少し鍬で掘り手鍬(ホミ)で草を取りませう。雲の誘いには乗りますまい鳥のこゑは聴き法楽です唐もろこしが熟れたら食べにおいでなさい。なぜ生きてるかつて、さあね ------。金 時 鐘(キムシジョン)さん(79)=奈良県生駒市=『再訳 朝鮮詩集』(岩波書店)より 南に窓を 金尚(金+容)キムサンヨン 金時鐘訳南に窓をしつらえるとしますひとりで耕せそうな畑を鍬で掘り手鍬(ホミ)では雑草を取ります。雲が賺(すか)したとてその術(て)に乗りましょうゃ鳥の歌は只で聴きとうございます。唐もろこしが熟れたら共にいらして召し上がっても結構です。なぜ生きてるってですか?そういわれても笑うしかありませんね。
December 10, 2008
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書 名 朝鮮童謡選 出版社 発行所=岩波文庫 著 者 金素雲 発行年月 1933年1月15日“わが郷土の おさなごころの上に---序にかえて”(一九三二年十一月)よりの抜粋にて、この本のご紹介とお薦めに代えさせて頂きます。 さて、君たちの生活観や現実に対する心構えはどうであろう?驟雨に晴衣を濡らすことがあっても、足の運びは早めない---、そうした「沈着」と「余裕」を君たちの父祖は人格の本道として愛した。古い昔から、絵画や工芸美術、衣の紐や舞の手に現れた柔和な線の持ち味が、何よりもよくこの民族性を反映している。閑雅なこの伝統を継承する君たちに、殺伐な武勇の精神が分る筈はない。「桃太郎」の凱旋が君たちにとってはこの上なく退屈であるように、君たちには君たちだけが知る心情の世界があり、その世界だけで君たちは思うさま翼を拡げて君たちの精神の高さを翔けることが出来るのだ。日本の童謡では「蝸牛(かたつむり)」を見て「角出せ、槍出せ」と言い「出さなきゃ鋏でチョン切るぞ」と脅すが、君たちは武骨な注文の代わりに「長鼓(チャング)を鳴らし、舞をまえ」と所望する。この飽くまで温雅な性情は、しかし時として君たちの柔和を「柔弱」と置換えてはいないか?自然児の溌剌たる魂を持ちながら、生活に向けられる君たちの意欲はとかく控え目で遠慮がちだ。---「広くもない三間ほどの、それも草葺の陋屋に、両親を迎えて末永く暮らしたい--- ---。」これは朝鮮全道で膾炙された代表的な君たちの歌だ。日本童謡の「お月さんいくつ、十三七つ」に匹敵する歌であるが、君たちは兎の餅搗は「まだ年ゃ若い」と擬人的に呼びかける代りに、漢詩人の名や、金、玉、桂などの財宝を数えている。漢詩人と言えば、儒教文化の移植が君たちに及ぼした影響も夥しいものだ。孝道を基本とした生活の理想や「科挙」「登官」に対する憧憬が到るところで見受けられるのも、李白を隣村の翁ほどに親しく思う君たちなればこそだ。---しかしながら、・・・ここに訳された童謡も、僅少な例外を除いて大方は忘れ去られたであろう。それはよい。私とて君たちに過去帳の復読をさせようとは願わない。ただ・・・「きのう」を忘れて成立つ「あす」はない。古い礎石の上に新たな「今日」を打建てることは、君たちに許された荘厳な権利でもある。文化の精神の上で迷子となるな。・・・君たちに伝える切実な私の希求はこれだ。 世紀は開ける。君たちの背後には暗い歴史が続いた。今こそ君たちの手で、君たちの鶴嘴で、新たな光明を打拓くのだ。・・・ 朝の微風が君たちを呼ぶ。蒼空は君たちの上にある。
December 9, 2008
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書 名 『天の涯に生くるとも』 出版社 発行所=新潮社 著 者 金素雲 印刷年月 1983年5月20日 ---新興寺(シンフンサ)の寺めし 食膳が運ばれてくるのを待ちながら、・・・私は窓の外で遊ぶ幼い子供たちをじっと見ていた。ようやく学校に上ったか上らないくらいの小さな子が、三、四人---日本語で歌を歌いながら毬つきをしていた。「サイジョウサンワ キリフカシ、チクマノカワワ ナミタカシ--- ---」 日本の子供たちが毬つきをする時に歌う〈手毬唄〉だ。 私は庭におり、唄を歌っていた子供の一人に聞いてみた。「サイジョウサンてなんだね?」 幼い少女の答は、やはり私が考えていた通りだった。「西城さんという人の名前じゃないの」 その一言が私の幼い頃の記憶を甦らせた。「モモタラ ウマレタ モモカロウ--- ---」。 幼い頃、私は意味もわからずに支離滅裂に、桃太郎の歌を、このように「タ」と「カ」を入れ替えて歌った。西城山は・・・ 予期しないあるきっかけが一人の人間の人生行路を決める、という話がよくある。歪んだ情緒生活の中で「片輪」に育つわが郷土の子供たちに私を結び付けたきっかけは〈新興寺の寺めし〉これだった。 一九三三年春のことだ。父祖の言葉、母親の言葉で書けず、意味もわからぬ他人の言葉で歌わねばならない子供たち---、政治的にはたとえ彼らの支配下にあったとて、天が与えた童心の純粋さがこのように踏みにじられねばならぬものなのか? その年の一月に出た岩波文庫『朝鮮童謡選』 の冒頭に、・・・目頭を濡らしながら・・・わが祖国、わが郷土を愛しながらも、「愛する」と一言口に出せなかった頃---、抑圧された激情、身にしみた懐かしさが・・・延々十二ページに及ぶこのような序文を、私は岩波文庫のはしがきに付した。 まめに本でも出して一歩ずつ地盤を固めて行くこと、それが、言わば誰にも考えられる進路だ。しかし、私は私自身の名声とか立身出世は念頭になかった。誰が負わせた任務というのではないが、一人が腐ることで、私の郷土の童心にひとつかみの肥しになるならと---、それが「私」という存在をより有意義に使う道だと考えた。
December 6, 2008
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書 名 『近く遥かな国から 』 出版社 発行所=新潮社 著 者 金素雲 印刷年月 1979年12月10日 ドンキホーテの夢 たかがパンフレット一部---、だが、ここには実を結ばずに消え去った二十年前の私の夢が、頁毎に滲み出ている。いつかも「こどもの雑誌」のくだりで同じようなことを書いたと思うが、人間の生き方の上で「何をしたか?」よりは「何をしようとしたか?」が、はるかに重要な意味を持つ場合がある(---敗者の負け惜しみと取る人もあろうけれど)。・・・ 「何をしようとしたか?」の具体的な俯瞰図である。一、現在韓国で発行される日刊新聞、雑誌、単行本など、一切の刊行物を細大漏らさず蒐集する。一、この図書室を中心に、週二回、在日韓国学生の有志が集合、主だった記事の選択及び翻訳について協議し、分析する。金素雲がその指導に当る。一、それらの資料を整理編集して毎月一回〈ダイジェスト・コリア〉(韓国文化資料)を継続発行。範囲は政治・経済の動向を始め、文学(詩・創作・戯曲・随筆)・音楽・美術・演劇・映画に亘る文化全般の消息、新聞記事の抜粋等、文化活動及び生活相の一切を反映し、一目瞭然たらしめる。古典及び、歴史的史実・人物の紹介をも留意。一、日韓両国に関連する日本側の言論及び、日本人識者層の寄稿をも併せ掲載する。一、毎号一万部を発行。大部分を寄贈に充て、その一部を有価誌とする。一、寄贈先---〈文芸年鑑〉収録の文化人名簿全員(約三二〇〇名)へ個別郵送、法人団体・学校・官庁・銀行・会社・出版社・新聞社・雑誌社(韓国人団体を含む)へは適宜部数をそれぞれ回覧誌として寄贈する。一、以上の方式を一ヵ年間継続、その期間中に会員組織を整え(名誉会員・特別会員・正会員)第二年以後の自律的維持を図る。随って第二年以後は発行部数を減じ、会員のみに発送、寄贈制度を廃する。一、コリアン・ライブラリーの同人(主として学生)には必要に応じ定額の学費を支給する。一、専任の編集員・事務員を置き、経理の明細は毎期(三ヵ月)毎に誌上に報告する。一、ダイジェスト・コリアの発行による一石五鳥。 〈イ〉日本の政治人・経済人・文化人の各界各層に韓国の今日を赤裸々に紹介し、その認識と理解を助長する。 〈ロ〉日本在住の韓国人同胞に本国の実状を知らしめる。 〈ハ〉少数の志ある韓国学生にチーム・ワークの喜びをもたらし、多少なりともその経済的不安を緩和する。 〈ニ〉従来の個人的任務が組織的共同体に肩代りされることにより、文化交流の方式と手段が拓かれる。例えば、韓国美術展、講演会の開催など。 〈ホ〉現在日本国内には、韓半島を“ふるさと”と懐かしむ多くの日本人がおり、誌面の効用によってそれらの人々の横の連絡と親和に寄与する。
December 5, 2008
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書 名 朝鮮史譚 出版社 発行所=天佑書房 著 者 金素雲 発行年月 1943(昭和18)年1月1日 内容情報 確かな史眼と熱情で語る高麗・李朝の一千年の歴史。高麗の建国;千秋太后;灰になった宮殿;西京の乱;武臣天下二百年;贈送蓮花片;高麗最後の日;善竹橋の血痕;李太祖と無学大師;端宗六臣;恵みの雨;柳の葉;隣の柿;刑場の志士;紫衣娘子;宣祖から正祖まで;摂政大院君 増補版覚書(昭和十八年六月)よりの抜粋にてご紹介・お薦めに代えさせて頂きます^^ 歴史が単なる過去帳であり、年代や人名の記憶であるかぎり、その歴史は死物である。・・・ 歴史とはおよそ縁の遠い私が史譚などを手がけたに就ては内心甚だ忸怩たるものがあるが、・・・著者たる私の念頭にあるのは、車内や路上で常日頃行逢ふ人達、「お早う」「今晩は」と挨拶を交す心親しい隣人達である。 「高麗がなぜ李朝に変ったのです」---さう問はれたとき、私は口下手ながら知つてゐるだけのことを受売りせねばならない。その心持からこれは書かれた本である。・・・ 今日、吾々の身辺に(専門の歴史家は別として)高句麗と高麗の見分けのつく人が幾人いるであろうか。知ることが必ずしも全部の条件ではないが、協力も、一致も、心を通ひ合わす真の理解を措いて求められることではない。・・・ 朝鮮の民族性を云々する人が、屡その責を李朝の政治に帰してゐるが、実はその以前、既に歴史の過誤は芽生えていたのである。・・・ 世界現存の最古最善の経板---六千五百巻、十七万面の高麗大蔵経や、今日の科学を以ってして尚窺うことの出来ない陶磁器の神秘、西洋に先立つこと三世紀といはれる鋳造活字や本家の支那を瞠若たらしめた李朝の学芸など、何れも中世朝鮮の最も不遇暗澹たる時期に咲き出でた文化の華である。 一概に歴史の暗さに面を背ける前に、その病原の遠く深いことを知り、且つはその不幸によつて民衆が如何に鍛へられたかを思ひ潜めてみるのも心愉しい課題の一つではあるまいか。書 名 天の涯に生くるとも 出版社 発行所=新潮社 著 者 金素雲 訳 者 上垣外憲一 崔博光(「逆旅記」)発行年月 1983(昭和58)年5月25日 内容情報 「狭間に生きる」 *「逆旅記」図書館大学愛憐のいばら道たゆたう面影案内地図1枚白秋城殿様のひげひとひらの雲 黒い雲ボタンとボタン穴壊れた〈木馬〉汽車のなかで会った男払えなかった200円李箱異常悪夢の季節薬山の天柱寺金素雲年譜案内地図1枚(「逆旅記」より)の抜粋にて、ご紹介・お薦めに代えさせて頂きます^^ 秋が過ぎ、冬が過ぎ、春、夏が過ぎて、また再び秋、冬がめぐってくるまで、私は足まかせのあてどのない旅路をめぐり歩いた。・・・この間に私は〈人間〉を学んだ。・・・こちらが極度の窮境にいるときは、誰も私に敵意をいだく種がなく、猜疑も憎しみも存在し得ないという、しごく平凡な原理を私が学んだのも、この〈巡礼〉からだった。・・・幼い頃には声もか細く図体も小さかった私が、人の半分ぐらいでも足に力がついて体質もよほど丈夫になったという肉体的な利益もあった。・・・もしも私が東京や大阪、或いは京都、神戸のような都市だけを見てきたとしたら、・・・。もう日本は四十年前のあの日本ではないけれど、どの地方にもどの町にもやすやすとは変り得ぬ郷土の個性があることは、わが国土の場合にひき合わせてみれば簡単にわかることである。・・・実利的な面を離れて、私の心に〈人間〉を悟らせ、感じさせてくれたことが、青春期の感情放出から得た最も大きな収穫ではなかったかと思う。人間の価値は学識や財力には関わりがなく、それを判断し見積もるもう一つの秤が別にあることを、この徒歩旅行で私は学んだ。私とは何ら利害関係の対立もない、その上それが情実を離れたよその国の人たちだというところが、人間の醜く弱い面までをもすべて含めて、私にまたとない教材となったのである。
November 28, 2008
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書 名 近く遥かな国から 出版社 発行所=新潮社 著 者 金素雲 印刷年月 1979年12月10日発行年月 1979年12月15日 “元の木阿彌の複式人生---自序にかえて”(一九七五年九月)よりの抜粋にて、ご紹介します。・・・挨拶ぬきで岩波文庫『朝鮮童謡選』の序文をお経でもよむようにすらすら暗誦し出したかと思うと、急に大粒の涙をポタポタと 落しはじめた。・・・その日の、そのリュックの青年が、他ならぬP君なのだ。・・・ここ数年間を毎日通いながら私の机仕事を手伝ってくれているMさん---。「その頃、日本の本屋で時折先生の書いた本が目につきましたが、一度も私は手にとってみたことがありません。同胞が書いた日本文の本なら、日本人の気に入るような内容に違いないと、そう決めていました・・・」 Mさんのこの愛国的?先入見が、ただにMさん一人の認識でなかったことは改めて付け加えるまでもない。・・・私の書いた本などには手もつけなかったというMさんの認識と、リュックをかついで訪ねて来た若い詩人の涙と---。その相反し、交錯する十字路の中間に位置しながら・・・いうなれば冷・温浴を交互に反復する西式健康法のように、・・・簿記に「複式」があり、トンボの目玉を「複眼」というが、さしずめ私の人生もこれに類するのであろうか?・・・ いま私の手もとに、新聞の切り抜きが二つある。一つは七月十一日の「朝鮮日報」---「韓日間の非友好関係、終結の段階」とある宮沢日本外相の演説内容を報じた七段見出しの一面トップ記事、もう一つは、同じ日に郵送されてきた在日僑胞紙「統一日報」の読者欄---本名を名乗ればアパートが借りられず、一時しのぎに日本名で借りても、あとで知れれば二年後の契約更新ができない。どうしたものだろうかと、苦しい立場を伝えてきた神奈川県在住の成和用という僑胞会社員の投書である。・・・日本の陣笠連が百人、二百人、韓国を訪れればとて、それで両民族の間に立ちはだかった鉄筋コンクリートなみの心の壁が切り崩せるわけではない。 一方、韓国人自身の地に堕ちた民族的矜持、これもおよそ言語に絶する。・・・ じつのところ病菌は、意識構造や生活精神の毛細血管深くに根を下ろしている。そして、それに輪をかけた比重で、政治、経済が食い込んで来ている。・・・ 「解放三十年」も、私の「複式人生」も、どうやら元の木阿彌のようである。「解放」といい、「光復」というが、一体われわれは何から解放されたというのであろうか?何の光を復びしたというのであろうか?書 名 朝鮮童謡選 出版社 発行所=岩波文庫 著 者 金素雲 発行年月 1933年1月15日“わが郷土の おさなごころの上に---序にかえて”(一九三二年十一月)よりの抜粋にて、ご紹介します。・・・いささかの感傷をゆるしてくれたまえ。・・・ 君たちの歌は何よりも力づよい君たちの精神の表現だ。・・・君たちを泣き虫で怠け者だという人に私はかぶりを振って「違う」という。君たちのこの溌溂たる精神を知り抜いているからだ。・・・ さて、君たちの生活観や現実に対する心構えはどうであろう?驟雨に晴衣を濡らすことがあっても、足の運びは早めない---、そうした「沈着」と「余裕」を君たちの父祖は人格の本道として愛した。古い昔から、絵画や工芸美術、衣の紐や舞の手に現れた柔和な線の持ち味が、何よりもよくこの民族性を反映している。・・・ここに訳された童謡も、僅少な例外を除いて大方は忘れ去られたであろう。それはよい。私とて君たちに過去帳の復読をさせようとは願わない。ただ・・・「きのう」を忘れて成立つ「あす」はない。古い礎石の上に新たな「今日」を打建てることは、君たちに許された荘厳な権利でもある。文化の精神の上で迷子となるな。・・・君たちに伝える切実な私の希求はこれだ。 世紀は開ける。君たちの背後には暗い歴史が続いた。今こそ君たちの手で、君たちの鶴嘴で、新たな光明を打拓くのだ。・・・ 朝の微風が君たちを呼ぶ。蒼空は君たちの上にある。
November 27, 2008
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大野晋氏著『日本語をさかのぼる』(1974/岩波新書)で、以下のような「仮説」に出逢いましたよ。 ヤ(八)という語は、日本神話の中に極めて多く現れる数詞である。「大八洲、・・・八俣遠呂智、八百万神」などである。このように神話に多く用いられる数は聖数と呼ばれる。多くの民族は、それぞれの聖数を持っている。 アーリアン民族は三またはその自乗の九を聖数としているし、ヘブライ民族は七を、アイヌ人は六を、ツングース族は大体において五を、ネイティブ・アメリカンは四を、聖数としている。ポリネシアには、四と八とを聖数とする種族がある。・・・ それが「多数」を意味することが多い。「多数」とは数えきれないということであり、無限に大きいということである。 日本の神話には八(ヤ)が多く使われるが、・・・ ヤyaという音の語に、副詞の「ヤ」がある。たとえば、・・・「や雲立つ」のヤも、やはり副詞のヤで、いよいよの意である。 副詞のヤは、イヤの形でも使われる。「イヤ益しに」「イヤ遠ざかる」・・・などと、・・・第一音節の高さが一致することの意味は、・・・その両者の語源が同じだと考えてもよいということである。 さて、先の母音交替の方式によれば、yaはyoと交替するはずである。それならば、iyaに対してはiyoが考えられる。イヨとは、イヨイヨのイヨである。・・・これまた無限にの意である。 では、イヨの名詞形は何であろうか。イヤがヤと同一であったように、イヨはヨに同一であるから、イヨの名詞形として、われわれは四(ヨ)を考えることができる。・・・ ヨ(四)はアクセントの点でも、イヨ(愈)と高さが同じであるのみならず、ヤ(八)、イヤとも高さが同じで、・・・ヤもヨも無限の意を含み、・・・このことを考慮するとき、日本でもヨ(四)もまた聖数の役割を果していた時代が、あるいは古く存在したのではなかろうか。
August 4, 2008
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(ロゴがレインボーカラ~♪)『酒井真右の十八行小説』 酒井真右/著より トキじい はだざむい はるさきのよる、ほらあなぐらしの トキじいは、つちのなかの ハイコゾウのいえへ まねかれ、おいしい くさのねの しるを ごちそうになり、めずらしい はなしを たくさん きかされました。 七ねんも 八ねんも つちのなかで すごし、ちじょうへ でては 二、三にちのいのち、 しかも、おすしか なけないこと、めすは きのかわに タマゴをうみつけて・・・ ・・・ わたしたちは、なんぜんねんものあいだ、ちちははのかおもしらない・・・ ・・・。 たきもとどろになくせみの--- ---と まんようしゅうに うたわれたり、ごしゅういの せみのはごろも、せみまるの のうや ちかまつの--- ---と、いっぱいあるが、 わたしたち せみのこころなど にんげんは、まったくしらないで、もりをきりたおし つちをはじめ、くうきまでよごして・・・ ・・・。 にんげんいがいの わたしたち いきものすべては、うらぎりや ころしをしたり、だいしぜんを やいたり こわしたり けっしてしません。 そのよくをすてないと、にんげんはほろびます。 あなたは、このことを、にんげんみんなにつたえてください--- ---。 つぎのひから、トキじいは、あしを ぼうにして、なかまのにんげんに うったえつづけるのでした。 (一九八六年六月)同じく『酒井真右の十八行小説』(一九八九年発行)より 妹蝉 昔は今、夏の日暮れ、七年めに三匹の蝉の兄妹は、山深い谷川の岸にある柳の大木をはい登っていきました。 一郎蝉も次郎蝉も、末の妹を一番高い所へ押しあげてやりました。 夜明け前、三匹とも殻が背からわれて、青碧のすき透ったやわらかい羽根をひろげ、やがて蝉になりました。 兄弟は声高く鳴き始めましたが、妹蝉は耳がきこえず、口もきけませんでした。 太陽が空高くかがやく頃、飛び出した一郎蝉は、近くのクモの巣にひっかかり、次郎蝉がそのまわりを火のついたようにとび廻りましたが、クモに毒針をさされ、殺されてしまいました。 動けない妹蝉は柳の幹をビショビショにして嘆き哀しみました。 二日め、次郎蝉は子供たちの虫捕り網にかかり、虫カゴに入れられて連れ去られました。 妹蝉はからだ中をよじって悲しみにくれました。 三日め、動けない妹蝉はカマキリの餌食になってしまいました。 西の空に真赤な夕陽が沈むころ--- ---。 (一九八五年十月)
July 20, 2008
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『酒井真右の十八行小説』(一九八九年発行)より 冷殺温生---順次の告白--- 僕にァ朝鮮人の血、大学の助教授をしてる倅も、大学生の娘っコの中にも、日本人と朝鮮人の血が飛沫いて流れているんだ。 六十二年前、あの関東大震災・・・九月の末に、血を吸ったサーベル、日本刀、竹槍を握った警察や自衛団の厳しい眼をくぐり、山越えして野宿して、 東京から百キロ余り、山狭いの戸数七~八戸の部落、ここの地主の酒井源一旦那の所へ僕が両親(李)は片言の日本語で・・・ ・・・。 おふくろは、僕を旦那の物置で産み落として三日め、親爺としょっぴかれ、町の警察署でブチ殺され、旦那夫婦が、僕だけを隠して育ててくれ、 お主婦さんに先立たれた旦那は、自分の一人娘---現在の僕のかかさ。 現在でも“部落”なんて冷殺されてるが、亡くなった旦那や近所の人たちの話によると、 旦那の七代前の金蔵大尽て人は、天明三年七月の浅間山大爆発のとき、部落、非部落を問わず、乞食以下になっちまった十里四万何千人もの人たちに、蔵から米俵をひっぱり出し、 一月近くも炊き出しをして食わせてやったんだってから・・・ ・・・。 飛行機なら一時間足らずっちゅうが、朝鮮と日本は、万里の地獄壁---。 僕の息子や娘の血で、朝鮮はむろん、アジアも地球まるごと噴きこぼれる温生一つの平和に結びつけなけりァ・・・ ・・・。 (一九八四年一月)『水の世界地図』 同じく、『酒井真右の十八行小説』(一九八九年発行)より 野の歴史家 「源・平・藤・橘(げん・ぺい・とう・きつ)よ。 ベーリング寒流で夷島(佐渡)から能登半島へ上陸したのが元(騎馬民族)の源。 平は、ペイルシャ、今のシュメール、昔のスメラ。 七世紀前の隋は『桃(とう)』とも言われたがこれは日本上陸の唐(黒潮系)、つまり藤、 橘は、契丹のきつ、つまり さんか系(黒潮系)。 噂も千人集まれば一人の真実者より本物にうまく化ける! 系図作りの『沢田源内は京の稚児あがりにて江戸に出府せしより、礼金をうけては次々と贋系図を作り・・・ ・・・実在のごとくに礼金高にあわせて記入するは怪しからぬ極みなり』(『史籍編纂』の中の「大系図抄」) ケイズヤとは警察用犯罪隠語で盗品故売業者。 『五万円にて由緒ある系図を作ります』は中学生相手の歴史雑誌広告。 八五八年清和天皇の十八年も前の八四四年に『源の常』の名が残っている! 四方が海の日本列島に単一民族などとは、権力者たちの虚言とその権力に尻尾をふる奴隷御用学者と天婦羅大学教授ら・・・ ・・・。 真実の歴史に改めなければ・・・ ・・・」 無明峠山中の先生は、今日も日本歴史の探求にいとまなし--- ---。 (一九八六年四月)
July 18, 2008
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たま「さよなら人類」『酒井真右の十八行小説』(一九八九年発行)より 人間動物園 その人間動物園は、世界各地からの幅広い生物達の見学が絶えません。 オーストラリア大陸南東三千数百キロの洋上に浮かぶ周囲僅か四キロに足りない洋上のアイ・ジェー島。 陸と海の生物たちが---マクロの象や鯨を始めミクロの微生物たちまでが---力を合わせて作りあげた動物園です。 「これが男女の生殖情況、こちらが出産、こちらが育児、少、青、壮、老・・・ ・・・。 ここにはかつての世界の国々の支配者たちとその従者たち数千人が収容され、つぶさにその生態を観察し、真の平和について考えることができます」。 ガイドの美しいオーム嬢が丁寧に説明してくれます。 ガイド嬢はつづけて、地上の生物中、人間だけが同族を裏切り、殺戮し合うこと、人間動物園を作って以来、人類は無知から脱皮し、世界の国境を取り払い、民族、人種の差別が消失して、地球丸ごとただひとつの平和な共和国となり、地球上の草木や凡ての生物が悠久の平和の中で生命の豊潤な繁栄のパラダイスになったこと、 そして、 「さいごに御来園御見学の皆さまに、さらに地球生活が発展するための忌憚のないアンケートをお願いイタシマス」 とオームガイド嬢--- ---。 (一九八六年四月)
July 15, 2008
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『エネゴリくんの星』より『酒井真右の十八行小説』(一九八九年発行)より 草木の声 人類の皆さん、人間の皆さん、私達草木の声なき声をきいて下さい。 有史以前から何千年来、なぜあなた方だけが、お互いに裏切り合い、殺戮の戦いをやめることができないのですか? あなた方の哲学、あなた方の宗教、あなた方の信仰、あなた方の政治、あなた方の経済、あなた方の倫理、あなた方の道徳、習慣、慣習、教育・・・ ・・・ 一切が、太陽系、銀河系を含む無限の宇宙と永遠の時間のなか深くに生きる私達にとっては凡て有害無益なのです。 あなた方がこのまま無知厚顔を押し通すと私達も人間以外の凡ての生物も、大気も水も地球も取り返しの付かない破滅、つまり、あなた方五十二億凡てが破滅を免れません。 植物園、動物園、水族館、フレーム、人間の国と国との国境など直ちに撤廃してください。 北は風雪の、南は灼熱の自然のなか深くに、その法則のなかに私達も凡ての生物も還して下さい。 人類だけの、人間だけの地獄欲を直ちにやめて下さい。 でないと、ついには、あなた方人類自身、破滅の地獄道を辿ります。 (一九八八年七月)
July 15, 2008
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映画『人間みな兄弟―部落差別の記録』小説 『寒冷前線』 酒井真右/理論社/1959年8月発行 「たとえ、この戦争が、どのような終結を遂げようとも、俺は死なない。俺はぜったいに死なない。」 それは運命とか神とかいう架空な観念的なそら頼みではなく、幼い日から、いわれもなく圧迫されつづけた者のみの持つ、より肉体的な、逞しい不死身な決意に似た力だった。 「ふん!日本のどん底、どん底の日本というこの祖国の苦さを、いやってほどなめさせ、すすらせられて!ち、く、しョッ!これほどの苦しみをなめさせられた俺が、このまま、かんたんに死ねるわけねえじァねえか!ふん!死ぬもんか!死ねるもんかよォ!」 啓一は重子と一緒になるため、心にうけた数々の、この社会に巣喰う隠然たる醜悪な生きているそのしぶとい暗い力を想起した。 それらの暗い力は、日常、まったくあらわには姿をあらわさぬ。それだけに又、しぶとい力であった。・・・ ずず ずーン・・・ ・・・と激しい轟音。 「畜生!ぬかせ!ぬかせ!ほざくだけほざけ!!人間ひとり生まれるんだ!俺にとっちァだいじな新しいいのちがひとつ、この地上に・・・ ・・・、ああ、糞ったれ!!」 「つらい!・・・ ・・・けんど、かんたんに死んでたまるもんか。この重子 このまま・・・ ・・・このまま終らせてなるもんか・・・ ・・・死なない!ぜったい死ぬもんか!参るもんか!俺らァ不死身よ、この位ェのことで、参るもんか!ははははは、そうれ!がんばるんだ、がんばるんだ!!」 圧迫されたもののみの持つ、打たれても蹴られても起き上がろうとするしぶといほど逞しいものが、やつれた啓一のからだ中に漲るのだった。 「新しい人間のいのち、その誕生、俺と重子との間の子に何の罪があるって、冗談云っちァいけねェ、俺を部落民だと侮り軽蔑する---、ふん、どれもゆるしはしない。人間が人間への差別、こんなナンセンスはゆるしはしない。ぜったい。その上、生まれ出た何の罪もありはしない俺の子供にまで、そんないわれのない手枷、足枷かけさせることなど、尚のこと、ぜったいゆるしはしないし、ゆるされてはならない。」 彼は、大きく呼吸をしようと顔を朝空に向けて思いきり空気を吸いこみ始めた。が、いつもの半分も吸い込まぬうちに、右胸のキリキリと、刺されるような痛みを感じた。 「ふふ。ははははは。死ぬもんか。死んでたまるもんか!」 そのような、図太いほどな生への凱歌が、つゆにぬれたぞうり穿きの、彼の足先きから、無精ひげのばさついた顔から、のびた頭髪のてっぺんから体中にふくれて来た。 彼は、少しずつ歩きながら、何回も胸の病まぬ程度に、しきりに空気を吸い、吐き、吸った。あたかも水を欲していた金魚のように。 彼は、生きていた、生きぬいて来た自分のいのちの歓喜に、しみじみとひたった。 「糞ったれが!けいさつだ!重子。・・・よ、泣くな、な?きっと帰ってくる!なァ。まだまだ重子、何もかもお互い、これッからなんだぜ。」 重子は、うすいボロぶとんをすっかり頭から被り、泣いていた。 その彼女のうちに、啓一への思いと、これから将来への不安との交錯する向こう側から、徐々に大きく濃く近づいて来るものがあった。 それは、彼女の、かつての日すごした間住の姿であり、桜田の姿であった。 そのような重子の心情をもしらず、とり囲まれたまま、啓一は、やがて村役場の近くの交番辺り迄やって来る。 「ふん、こいつら、手先たちに屈しられるかって!こいつらチンピラに属するほど、俺たち部落の者への差別がつづくんだ!ふん!俺たちァ人生の最底の その最底で生きてきたんだ!そうかんたんに参るもんか!重子、赤ん坊・・・ ・・・達者でやってろよ、参るもんか、ぜったい!」
July 14, 2008
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『高崎五萬石騒動』 酒井真右/JCA出版/1980発行 より 「女に不自由してないって、それはほんとか?」 「あたりき車力。」 「どうして?・・・ ・・・なぜ?」 「盆や七夕、秋祭りや春祭り、農休み・・・ ・・・いくらでもあらァな。ふふ」 「祭りの日に」 「お祭りで、非穢多の娘っ子らが着飾って出てくべえ。四方、八方の村々から。けえりをねらって、ひとりンときもあるが、仲間同衆でさるぐつわはめて、ひっかついで、畑ン中だろうが、土手だろうが、人ッ気のねえところで、ふんぐるけえし、ジャンケンで、勝ったもンから順番にしちもうんさ。・・・腰ぬかしてこんにゃくみてえになっちまったな、みんなしてかついていって、そいつの家の庭っ先きへ放りだしてくるんよ」 「さかりのついた犬猫の交尾みてェに、非穢多の若ェ衆めらは、おらが仲間の娘っ子を抱いちゃうっちゃったり、バカにしてけっかる。何十年、何百年来、そのくりけえしだもん。こっちが奴らの娘っ子を寄ってたかって抱いて、ボロきれみてェにうっちゃるな、あたりめえだんべ。それでも先生は、おらたちの生き方が、どうのこうのっていえるかい?いげねえな、よ、穢多人間のおらたちかよ、それとも非穢多人間たちかよ」 「ゆっちァわりイけんどもよ、五万石領の百姓衆は、米がとれてもとれなくっても、もともと土地をもってるンだ。おらたちァ、ふんづけられてるこのいのちいげェは、何ひとつもっちァいねえんだ。先生。・・・」 「先生はよ、あっちこっち、国中の百姓一揆がどうのこうの、土一揆がどうのこうの、ぶちこわしがどうの、世界が新しくどうかわってくるのと、いろいろ話してくれるが、早ェ話が、いまおっぱじまったべえな五万石領のこの百姓のこんだの減納ねげえだって、土地がまるっきりねえおらたちにァ、何の関係もねえじゃねェか。 そんな一揆もぶちこわしも、ぜえんぶ失敗するにきまってるじァねえか。だって、てめえの仲間のことべ考えてて、人間のこっちを平気で踏んづけてるんだもの・・・ ・・・。 何をおいても、ひとつに、穢多のおれらも非穢多の五郷五万石領六、七千人もいっしょにまとまって、城もニッポンも、まとめてひっくりけえしてしまっちァいげねえんかよ!!」 「わしは、まちがっていたのかもしれない・・・ ・・・」 「おらたち仲間のことと、五万石領の百姓衆のこたァにっちもさっちも、いかなかったもンな・・・ ・・・。ま、殺すもンと殺されるもンと、地獄はどこまでもつづくだんべが、いつか、何とかして、おらァは、五万石の百姓衆といっしょに人間になるべえと、や、人間以上になるべえと覚悟決めてるんだ・・・ ・・・、先生とも」 「あれっから、足かけ五年めか六年めだもんな・・・ ・・・。いろいろ勉強させてもらった。ふんとうに、一生忘れねえよ。・・・おらァ、しばらく草履履いて、又けえって来て、こんだこそ、百姓衆と、おらたちとが一緒になって、はじめっから、とことんやるべえと思うんだ。土っ掘りしてる百姓と穢多のおらたちがひとつンなってやんなけりゃ、いつまでもつっけなはっけなの 地獄だもンなァ・・・ ・・・」 (タミヤ-先生-は白装束で自害) 梅散りて桜咲けども土の心に いのち届かず炎と燃え果つ タミヤ 望みなき身は今日限りちりぬるも 七度生まれて叶えてやみん ミキゾウ 吾人のためともなれと身をすてて いまいけにえとなりし嬉しさ キサブロウ
July 12, 2008
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→自然農園の写真『酒井真右の十八行小説』(一九八九年発行)より 身土不二---福岡正信 「自分の米作り麦作りは二十年も三十年もかかって来た。一平方米(メートル)当たり十粒蒔きで、一株が二十五本、一穂平均粒数が二五〇粒で、玄米総重量が何んと一 三千(反二十俵どり)。 自然農法の四大原則とは、 第一は、不耕起(無耕転あるいは無中耕)。 第二は、無肥料です。 第三は、無農薬を原則とします。 第四は、無除草ということです。 ・・・ ・・・『農薬及び園芸』という農業雑誌に(米麦連続不耕起直播)を発表しましたとき、養賢堂の金原先生と農林省の農業技術研究所の河田先生が、十年後の日本の稲作の指標になるだろうと絶賛して、激励してくれたのは有難かったですネ」 (西洋から入って来た科学とその技術、それを支える西欧哲学一切を否定し、眼に見えない宇宙、地球の法則、本当の自然の営みに生命も米・麦作りも従う)福岡正信さん。 「百姓が仕事ですという場合、自然につかえてさえあればいいんです。自然農法、つまり人間完成農法ですよ身土不二(しんどふに)ですね。」 (一九八八年十二月) 小鉢に 小コスモス一輪、今朝
July 11, 2008
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High-tech Japanese, running out of engineers ---米ニューヨーク・タイムズ紙2008年5月17日付け「ハイテク日本、技術者枯渇」過去・現在… 汚染列島・西日本編(その1)風化する命の教訓石原産業問題『酒井真右の十八行小説』(一九八九年発行)より 恐ろしいもの 「・・・ ・・・放射能の毒を現代科学で消す方法はない。 次に挙げる放射能が半減するのに クリプトン八五は十年、トリチュウム十二年、ストロンチュウム六〇が二十年、プルトニウム二三九が二万四千年、 こいつらをガラス状の固体化にしてキャ二スターとかいう容器に密閉したところで毒性が無効になるまで六十万年! 生命、アメーバから蛙迄の発生に三十二万五千年、蛙から人間まで三万五千年と比較してみると・・・ ・・・。 これらの放射能は骨髄癌、白血病、胃癌、腎臓癌を起こし現代科学医療は無力、人類五十数億初め凡ゆる生命、地球の生命が死滅する。 日本は世界唯一の放射能被爆国(四十四年前)なのに、“永遠に戦争は放棄”の憲法も無視破棄して、平然と“防衛費増強、核増強”に堂々と狂奔している・・・ ・・・。 僕らや君達の両親、兄弟姉妹、全ての日本人は生命の声を一つにして全アジア全世界の先頭に立って、地球破滅のこの恐ろしい放射能廃棄絶滅に!」 或る日の高校三年生理科の授業。 (一九八八年五月)
July 10, 2008
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カネミ油症BlogTV SP(Aug) 環境問題のウソ 武田邦彦 1of5『酒井真右の十八行小説』(一九八九年発行)より あるカネミ患者 ・・・ ・・・初めの頃は、目まいがして食い物の味が全くなくなりました。それは一九六八(昭和四三)年の三月頃でした。 手足が痺れ、忘れっぽくあり、腹痛、立ちくらみ。 五月からは五、六米先の人の顔が見えなくなり、妻の顔や娘の顔に吹き出物が出て次々広がり、首、胸、腹、背中と足の裏に迄でっかい魚の目ができて、体中、毛穴という毛穴が何千何万もの吹き出物・・・ ・・・。 夜中の二時三時迄家中鬼のような面で抱き合って・・・ ・・・。 朝起きると眼ヤニで眼が開かず、水で何度も洗って・・・ ・・・ 何十人て医者へあっちこっち診ったが、医者へ行くには、新聞や風呂敷で顔を隠して、「胃」だの「食事療法」のとどの医者も。 足の不自由な人のように這って便所へ。 そんな私達一家を「伝染病」の「梅毒」のと言っていた近所の人達も同じ病気になり・・・ ・・・ カネミの会社へ行くと 「あなた方は顔も汚いが心も汚い!」 と追っ払い、 結局、被爆敗戦国の日本は、四十年過ぎて、組合も会社も、医者、大学、国と全部弱い者差別、上に立ちたい欲、人間を踏んづける欲、裏切り欲、欲地獄。 同じ立場で生命を賭けて手を結び立ち上がらなければ。 (一九八八年九月)
July 8, 2008
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『酒井真右の十八行小説』(一九八九年発行)より 田圃何故「・・・ ・・・こんなこと喋りたくないけど、言ってやろうか。女子学生が殺され、暴力団使った安保に負けピンク映画やえろ雑誌ばかりで、ウーマンリヴ、未婚の母なんて大手をふった頃、 私は中学生だった。 アノネノネが男のアレをしごいてエレクトさせて、その長さをしらせたり、コンクールで女のコにあの時の声を出させたり・・・ ・・・。 私?六年生で生理。 タンポナーゼを、月一回で五、六日、そう一日に四、五回換える。 最初?鏡で映しながら。 あれ使ってからおなにーするようになった。 うん、当時友達も、そう、入れる時いいとか別の人は抜く時がいいって・・・ ・・・。 最初?高一の男子。 その子に貢ぐために四五十の自営業者やサラリーマン・・・ ・・・。 それを暴力団に見られて、学校や家に知らせるっておどかされ、ズルズル。 そう、ヤクの注射。もう丸裸でまるでケモノ・・・ ・・・。 友達たち?何とか這いあがって今、家庭は持っているが・・・。 私はもうダメ。 ダメ」ってのはこの国の『非行、泥棒をするな』ってホザク大人達全員が非行、泥棒ネ。 ふん。田圃何故草だらけで米作らないって? 連綿とそういう国だもン。 ふッ、ケチなお説教なんかするんじゃないョ!」 (一九八七年一月)
July 7, 2008
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銀河鉄道の夜 主題歌『酒井真右の十八行小説』(一九八九年発行)より 婆ちゃんしっかり 今日な婆ちゃん、中二の理科の授業で先生がとってもいい話をしてくれたんだ イギリスの食料研究会議動物生理遺伝研究所って長たらしい名前のジョン・クラーク博士を中心に蛋白質が一杯あるベータ・ラクトグロブリン(BLG)て羊の乳の要素を二十日鼠四匹の子宮に移植したら、四匹とも羊の乳の五倍も栄養のある乳が出たんだって・・・ ・・・。 「これで牛乳を初め家畜を改造して今迄の五~六倍も栄養価の高いミルクが生産できるだけでなく、高度な生理活性のミルクができる」ってクラーク先生が。「・・・ ・・・とてもいいアイデアだ。愈々実現できる段階だ」 と東海大医学部の勝木助教授も話しているんだって・・・ ・・・。 アメリカと自衛隊のあの飛行機墜落でお父さんやお母さん、妹から家迄メタメタに燃やされちまった僕ン家は、お婆ちゃんに永生きして貰わなくっちァ、早く元気になって起きられるように!ね、婆ちゃん、しっかり。 (八七年十一月)銀河鉄道の夜 星めぐりの歌
July 6, 2008
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「地球の温度が何度上昇したら、マラリアが増えるリスクが大きくなるか」『酒井真右の十八行小説』(一九八九年発行)より 奇病 ---フィラリア病--- 一八四九年(嘉永二年)に九十歳で永眠した北斎に、「大睾丸の図」がある。 半畳敷もある大睾丸の男を、二人の男がモッコにのせ、天秤棒で担いでいる。 見る人は哄笑絶倒するが、本人は地獄苦である。 私の友人に仁というのが居た。 「先祖が描いたんだ」 と、陰部が熟した通草(あけび)の数万倍にも赤紫色に膨れあがり、両の乳房が膝までダラリと垂れ下がって満面苦渋の女性図。 この絵とともに仁は、三年前から行方不明--- ---。 北は青森県から、南は沖縄、九州、四国の各県、さらに種子島、屋久島、トカラ列島、八丈小島、青ヶ島・・・ ・・・と離島にまで蔓延。 理由は、バンクロフト系状虫---フィラリアの一種で、成虫は人間の体内のリンパ腺に寄生し、夜、血管中で幼虫を無限に増殖、 「全世界で患者は一億九千万、アジアだけでも、一億五千万」 とストルは言う。 スパトニン化学療法があるが、病原はアカイエ蚊。 核兵器よりも病原菌の絶滅を--- ---。 (八五年一月)
July 6, 2008
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『酒井真右の十八行小説』(一九八九年発行)より 新春新生命座談会6CO2(二酸化炭素)+6H2O(水)+688KCal(エネルギー) →← (呼吸)C6H12O6(ブドウ糖)+6O2(酸素) “光合成” 座談会には右のような鮮やかな横断幕が大きく掲げられていました。 太陽(司会)「お忙しい所を皆さんどうも。地球は四十五億年前に宇宙の塵が集まって出来ました。このままですと地球の生命が滅亡してしまいますので、どうか皆さん、今日は忌憚のない御意見を・・・ ・・・」 植物(生物)「原始生物は三十億年前水中に発生し、司会者(太陽)のおかげで水とCO2から糖ができる光合成のラン藻が栄え、それから十億年以上たって多細胞生物が・・・ ・・・」 熱力(エネルギー)「私や電磁気や本日御出席頂いている時間や空間の皆さんには、人類が言う時間の向きとは異なり、経過も向きも持ちません。人類のこれ迄、そして現在使用している石炭や石油、そして原子力発電のウランなどはあと二百年ほどで終ります・・・ ・・・。 然もこれらの廃棄物が地球を滅亡へと導いております。半導体も又然りです。 エントロピイシンドローム(無駄廃棄症候群)を人類に準静変化させることだけと思います。」 太陽「では皆さん、狂暴我欲集団の人類へ以上の事を決議してツキつけましょう」 万雷の拍手------。 (八八年一月)
July 5, 2008
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『酒井真右の十八行小説』(一九八九年発行)より この仕事も考えもんだ ---原子力発電所--- 「『---体がだるい、頭が痛い、眼が痛い、この仕事も考えもんだ』そういう遺書をも残し、祭司をのこして発電所裏手の林で又々若い父親が首くくっちまった・・・ ・・・。 脳のねえ子が死産で、若夫婦が自殺したり、こんどで七人め・・・ ・・・。 靴下から作業衣まで三枚も重ねて、手足との間は、一枚一枚ガムテープでしっかり貼って、被ったカプセルと顔や首の間もガムテープ・・・ ・・・。 パイプで送られる人工空気は湿り気の全くないノドも口の中もカラカラ、何人も並んで待っていて、二人宛パイプジャングルの底の膝上迄つかってヘドロ掬い・・・ ・・・、 中では寄りかかることも座ることもダメ。一度体に入った放射能は、胃、肝臓・・・ ・・・内臓をやられて現代医学では不治のガンで次々と死亡。 下請けの下請けのその又下請けの労働者たちが一日四千円。 労基法もなく、怪我をしてもほったらかし。 一ヵ所で四千億円かかる原子力発電所が日本中に二十二ヵ所・・・ ・・・ 次々と建設されていく。 世界中にも。 核基地のほかにこの現実! 放射能へドロを詰めたドラム缶、流水は陸も生みも汚し、汚染された野菜や魚類、肉を毎日たべている日本人お互い・・・ ・・・。 (八六年九月)
July 4, 2008
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『酒井真右の十八行小説』(一九八九年発行)より人間わくわくランド 司会(ライオン)「第一問は次のビデオを見てください」 腐った川水、海水、陸地、そのすべてに魚類、藻類、陸地の小さな虫類、鳥類、獣類の累々とした死骸、太陽はCO2で隠れ、濛々と腐った空気が立ちこめ、次々とジャングルは、伐り払われ、生物達は死滅していく。 司会「さてこの原因は誰か、お手許のボードにお書きになって下さい」 五種類の生物代表---象、チンパンジィ、燕、蚯蚓(みみず)、イルカたち解答者は涙を拭い、泣きはらした眼で 「人間」「にんげん」「ニンゲン」「NINGEN」と書く。 司会「見事!全員解答は正解です。第二問、次のビデオをどうぞ」 火を道具、機械使用の人間、広島、長崎、ビキニの原子爆弾爆発、何百万人類の屍骸。 チェルノイブリ、ナサの核爆発、宇宙船墜落、逃げ惑う民衆、死の情況活写。 司会「さて、この原因は誰か、お答え下さい」 五種類の生物代表、こぞって「人間ファシスト達」「人間戦争屋」 司会「お見事、全員正解です。次は第三問」 子殺し、親殺し、アフリカの飢餓。 アウシュビッツのガス室、南京、コレヒドール死の行進、尽きないイラク、イラン戦争、南北朝鮮、東西ドイツ、南ア黒人差別、アメリカ黒人差別、裏切り殺戮のビデオ。 司会「どうしたら、この人類の裏切り殺戮の横暴地獄から地球は生命の平和な解放へ、それを」 解答者「人類脳細胞を平和への組替え、世界の人類の国境撤廃」 「人類の信仰、宗教の撤廃と世界人類の国境撤廃」 「世界人類の国境撤廃と凡ゆる生命の平和共存」 司会「やはりお見事、全員正解です。今日は以上三問で終りますが、人間以外の凡ての全世界の生物達から草木に至る迄、大変当番組は好評ですので、来週はもっともっと合理的痛烈な問題を用意させていただきます。では・・・ ・・・」 (八八年三月)
July 3, 2008
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『酒井真右の十八行小説』(一九八九年発行)より 雑草の諭し K大農学部学生二人は、調査しているセイタカアワダチ草の茂みの中で、人間への声を聞いた。 「私達を調査しても無駄だってこと。 確かに私達もアメリカシロヒトリと同様アメリカ渡来だが、水俣や新潟の亜鉛やカドミュウム汚染地を好む。 つまり、自然破壊された土地だけに私達は繁殖するだけ。 この頃、地方自治体、住民が挙って私達を害草として除草剤を撒布したり駆除運動を行っているが、日本の人達に私達は自然破壊の警鐘を静かに告げている訳。 私達仲間は、自然破壊の激しいファシズムの故国アメリカで、何とか自然と人間、凡ての生物の共存を訴えているが一向に聞き入れない。 スギ花粉やブタ草と異なり、虫媒花の私達は決して人間に花粉症は起こさない。 例えばOとCO2のバランスを保つには、大阪市だけの石油消費に、四国の面積の森林が必要。 橋一つ、墜道(トンネル)一つにも、我欲でなく、森林、野原、湖沼、海---地球丸ごとの有機的無機的な共生関係(シンビオーシス)を復活させないと、生命は絶滅しますよ」 (八八年七月)
July 2, 2008
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『酒井真右の十八行小説』(一九八九年発行)より異常地球を 六ノ二森茂 俺が生まれるとき、ソヴィエトの宇宙飛行士ガガーリンは「地球は青かった」と。 だが現在黄色い地球になってしまっています。 今年は特にひどい。 飢餓と白人侵略の続くアフリカは異常な暑さ。 七月下旬ギリシャでは四十度を越える猛暑に千人近い死者、フランスや西ドイツでは最高気温が十数度、日本は六月中旬に三十度を超え、それからずっと低温で七月半ばから全国的に三十五度以上の高温、八月に入ると梅雨明けもしないまま立秋で、関東や東北は低湿異常低温で南瓜は疣疣、胡瓜は甲虫の幼虫みたいに丸まっています。 世界中が核兵器と排気ガスで、世界の大国の首脳はほんとうに地球の平和を考えているのでしょうか。 日本は世界唯一の被爆国なのに大気科学者がアメリカの二十分の一とか。 WMO(国連世界気象機関)は、大国小国の別なく世界中の国がこぞって、エルニーニョ現象を初め、青い地球の平和の為に直ぐ研究を開始してください。 僕は母子家庭の一人っ子、夏休みはずっと母の看病で、これが夏休みの宿題です。 学校の先生も大人の人達もゼヒ真剣に考えてください。 (八七年十一月)著者紹介●酒井真右 一九一八年埼玉県に生まれる 著書 詩集『日本部落冬物語』・『詩集十年』・『存在』・『二ホンではなくニッポンヲ』 小説『寒冷前線』・『炎の初夜』(上下)・『土の群れ』・『高崎五萬石騒動』 評論『百舌ばっつけの青春』 ・・・このあとがき(一九八八年十二月 東京にて)の後、入院あれこれで、ついに初校など見ることができませんでした。前記の方々にすべて御願の結果となりました 。松田聖子 瑠璃色の地球2001@
July 1, 2008
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何のその百万石も笹の露 稲の穂や天智天皇袖の上 天皇の袖に一房稲穂哉 天皇のたてしけぶりや五月雨 我菊や形りにも振にも構はずに 我形りをうさんと見てや鹿の鳴 僧正が野糞遊ばす日傘哉 僧正の頭の上や蠅つるむ ざんぶりと一雨浴びて蝉の声 地車におつぴしがれし菫哉 福 ものさばり出たり桃の花 草蔭にぶつくさぬかす蛙哉 五月雨におつぴしげたる住居哉 散る花を屁とも思はぬ御 哉 盛任がしやつ面たたくあられ哉 おれよりもはるか上手ぞ放屁虫 露ちるやむさい此世に用なしと 虫の屁を指して笑ひ仏かな べら坊に日の永い哉あつい哉 ながの日をくふやくハずや池の亀 菜もゆだる湯の桶口や春の雨 あばら骨なでじとすれど夜寒哉 初雪やこきつかはるる立仏 どさどさと木曽茶煎りけり秋の雨 我宿の貧乏神も御供せよ 行年や何をいぢむぢゆふ千鳥 乞食袋首にかけて小風呂敷背 下々も下々下々の下国の涼しさよ 穢太町に見おとされたる幟哉(享和三年、小林一茶四十一歳) 穢多町も夜よはうつくしき砧きぬた哉(文化元年、四十二歳) エタ寺の桜まじまじ咲きにけり(文化七年、四十八歳) 涼しさに夜よはエタ村でなかりけり 隠坊花の表に立りけり(文化七年、四十八歳) ヱタ村や山時鳥ほととぎす(文化八年、四十九歳) 隠坊のむつきほしたり蓮の花(文化十一年、五十二歳) 隠坊が門をそよそよ青柳ぞ(文化十三年、五十四歳) くわうくわうと穢多が家尻の清水哉(文化十三年、五十四歳) 番丁やもやひ番屋の小夜時雨(文化十三年、五十四歳) 思ふさま蚊に騒がせる番屋哉(文政三年、五十八歳) 穢多らが家の尻より蓮の花(文政五年、六十歳) 霜がれや番屋に蚤うせ薬(文政五年、六十歳) 大江戸や辻の番太も夷講(文政六年、六十一歳) 正月や店を飾れる番太良(文政六年、六十一歳) 朝々の朝茶のために花植えて 今や非人の鶯のなく(文政八年、六十三歳) 現在ですら、この国ではマスコミはじめ、「菊の御紋、鶴の羽根、部落と、この三つはタブーになっていますから--- ---」という時代であるのに、徳川封建期に、穢多・非人の俳句を作ったばかりでなく、その文章まで書きつけている一茶、というこの人間の、その人間性をわれわれは見過してはならない、と思うこと切である。 『百舌ばっつけの青春---乞食首領一茶と私---』(酒井真右/著 昭四八)より
June 15, 2008
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『石川一雄獄中日記』 (狭山事件弁護団編 部落解放同盟中央本部編 三一書房 1978)より 六月二六日、そしたら長谷部さんが 「吾も石川君が一人でやったと思って居たよ、で善枝さんの死体にナワなどが付いてたがそのナワを何処のを盗んで来たのか覚えてるかい、吾は死体が見つかってすぐに自殺した源さんの近くのだと判ったよ、吾の鼻は犬より良いからな どうだい当ったろう・・・なに忘れた 自分で殺したくせに忘れるわけがないだろう、よく考えてみろ」とどなられたので泣いてしまいました。・・・ そこで長谷部さんが、 「ナワの事は後で良いから、先に吾の鼻の良い所を見せてやるから そこに有る湯飲チャワンを五個とも盆の上に載せてくれよ、そしたらその中の一個だけ指一本で触ってくれないか。そして吾が五分位涼んで来てもし当てたら吾の言う通り何でも聞くな」 と外に出たので、私は五個の中の一個を動かさぬよう触りました。 そしてこの触った湯飲を、青木さん、遠藤さんに覚えて貰いまして暫くしたら入って来て犬みたいに鼻をならしながら一個づつ嗅いでいたと思ったら見事当ててしまったのです。で、遠藤さんが、課長(長谷部)さんには嘘をつけない事が判ったろう だから課長さんは鞄も、ナワも当てたのだと言う事なので私も源さん所のナワだといったのです。中田善枝ちゃん宛詫び状石川君の証言---第二審二七回公判より中田弁護人 壁に何かで書いて、それから切紙したことは憶えていますか。石川さん はい、憶えています。中田弁護人 どうして、そういうことを書いたのか、その事情をちょっと説明してほしいんですが。石川さん 最初、三人から、一人と言ったのかな、とにかく殺したと言ってから、「それじゃ善枝ちゃんに詫び状のしるしがあるか」と言われたんです。中田弁護人 だれからそういうことを言われたのですか。石川さん 長谷部さんから言われました。それから、「ある」とうっかり言ってしまいました。裁判長 長谷部にどう聞かれたのか。石川さん 「善枝ちゃんに詫び状が書いてあるか」と、で、「ある」と言ったんです。「どこだ」と言ったので、「狭山警察の留置場の便所の上へ書いてきた」と嘘をついてしまいました。そしたら、関さんがそばにいたので多分見に行ったんでしょう、それで夕方になって、私が帰された川越の留置場に入れられてしまったから、嘘をついてしまったから、あわてて、今度は、川越の自分のいたところへ書いたんです。中田弁護人 長谷部さんから、善枝ちゃんに詫びる、いわばしるしのようなものを何か書いたかと聞かれたわけだね。石川さん はい。中田弁護人 それまで、そんなもの書いてなかったんでしょう。石川さん はい、そうです。中田弁護人 どうして書いたと言ったんですか。石川さん 書いてあるかと言われて、うっかり書いてあると言ったらどこだと言われたから、狭山警察と言ったんです。そしたら関さんが見に行ったらしいです。で、なかったのを聞かれるといけないから、夕方になって帰されたから、川越の留置場の中へ書いたです。中田弁護人 川越へ書いたのは、狭山へ書いたとうそを言って、本当に書いてなければ叱られるから書いたということになるんですか。石川さん そうです。で、紙を切ったのは、長谷部さんが、紙で書いたというか、切ったというかあれは長谷部さんに教わったんです。中田弁護人 教わったというのは石川さん 中田という切り方です。紙を二枚合わせて、一所を切ると、中田と切れるんです。それは長谷部さんが教えたんです。それは、浦和の区長さんにも、こういうふうに切り方を教わったと書いたのを預けてあります。中田弁護人 その切り紙というのかな いくつかに折って一所を切ると、中田というふうになる、その切り方を教わったんだね。石川さん はい、そうです。『教本・ありばい崩し 埼玉県警刑事30年の告白』 長谷部梅吉(サンケイ出版 1977)より 誤認逮捕 --浦和の老女殺し--昭和二十一年十二月二十七日 もし、最後まで成瀬がつかまらず、このまま石田を裁判所送りにでもしていたら、どうなったことでしょう。法廷で本人がどんなに否認したところで、それを裁判官に認めてもらうということは至難のことだったと思います。私どもは、あやうく無実の男を凶悪事件の犯人として送るところでした。 被疑者の自白が犯罪事実を明らかにするために有効なものであることはいうまでもありませんが、その自白が真実であるかどうかを見きわめることも、捜査員の大事な任務です。自供が真実の自供でなければ、それは約に立たないばかりか、事件の真相をいよいよわかりにくくするばかりです。 要はどうしたら、被疑者に進んで真実の供述をさせることができるかということです。 脅迫や誘導では、決して真実の自白は得られません。お世辞もダメ、ハッタリもダメ、ましてや被疑者の取り調べにごまかしはこれっぽっちも許されません。それはもうきびしく、峻烈で、真剣そのものであることを、この時の誤認逮捕で改めて知らされたしだいです。 犯行のすべてを自供した成瀬は・・・人を殺した鬼のような男も、しょせんは人の子。年老いた母や妹のことをしきりに気にしていましたが、昭和三十八年十一月、東京高裁の控訴審判決を最後に無期懲役が確定しました。
May 27, 2008
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桃太郎岡山は中国系の吉備王朝のあった土地。犬は狛犬とよばれる程で高麗。猿はサルリと新羅語、雉はキージで百済の古語。鬼は日本列島に前からすんでいた原住民共。「男衆」と各地でも呼ばれ「鬼石」の地名も群馬にあり新田義貞の出身地で『謀殺――天海僧正が明智光秀か』(1976.09)、『将軍徳川家光』将軍徳川家光(1978.05)の私の本に詳しい。桃原つまり同訓の藤原の貴公子が朝鮮半島の人々に吉備の食糧を与え、帰順帰化させたのを率いられて、頑迷で仏教に転向せぬ鬼ごとき蓬髪の悪者どもを退治し、彼らの土地を宝物として分捕ってきたとなす、言うなれば黄色いリボンの日本西部劇。吾らが庶民が征圧された悲しい歴史が、童話とし絵本にされ教科書にあるのは、もっと悲しい話。*関連リンク妖怪と現代人:1(小松教授)2008年04月05日 鬼は人々の恐怖の表れ。 『誰も知らなかった京都聖地案内』 [著]小松和彦[掲載]2006年05月14日 http://book.asahi.com/paperback/TKY200605160368.html 能楽には「聖地・異界」をめぐる京都人のコスモロジーが投影されている。王権への抵抗勢力が鬼や妖怪となって潜む山地や、人や物への執着が亡霊を生む屋敷。謡曲のもとになった伝承や寺社縁起などから、場所の記憶をたどる。 「怪異・妖怪伝承データベース」(研究代表者:小松和彦・国際日本文化研究センター・教授)http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiDB/
May 1, 2008
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抜粋『被差別村落の歴史』第三部 --- ---ひと息ついてください八切史学誕生は敗戦満州 壬申戸籍以来それまでの寺人別や町人別、侍人別に比べて、入っていない無宿者の数が圧倒的に多いのが判って、新政府は狼狽して国策としてベンゲネットのフィリピン移民やハワイへ男は送りこみ女はアメリカのガールハウスやサンダカンへ向わせた。・・・ 現代になってもオカミの立場では、体制を維持してゆくための国家公務員上級試験や司法試験の合格者を選抜するための次々の試験地獄をもうけ、有用な人材と、どうなってもよく出来れば死んでほしい棄民との二大別が、段々と判ってきてホンネとタテマエが判った。 「邪魔者は消せ」というが、ソ連の囚人部隊が代りにやってくれたのである。なにしろずっと監獄に入っていた輩ゆえ、女とみると銀座にあたる春日町通りでも、よってたかってである。 もちろんダワイにきているのだから服からシュミーズまで布類はまっ先に奪ってしまう。当時の満州では現地人には布地の配給を殆どなく布ならなんでも換金できたからである。 なにしろ満州では相手は武装兵である。とび出して行って、おまちなせと止めるようなのは、まったく一人もいなかったのも事実。みんな家の中へとびこみ二重窓の中から文字通り高見の見物でハラハラしているだけ。 まったく手のつけられぬ野生の猛獣みたいな集団の連中の白昼から街頭での襲撃である。 うっかり外出して目にとまり、気丈にも逃げれば射殺。アスファルトの上で血の流れ出るのでもごうかん。生きて居れば捕えて皆して次々と左右に転がし、拒めば銃床で頭を叩き割るから、白いアスファルトが見る間に、一面ずっと、どす黒くやがて真っ赤になっていった。 それまで派出所で威張っていた日本人の警察官は何処へ姿を消してしまったのかと思っていたら、夜になって暗くなると満警とよばれた満人の補助警官の後ろについてやってきて、戸口簿をもって、年頃の娘を非難させるからと、トラックに次々にのせて連行していった。安全な場所へ伴われていたものと思っていた処、その中の娘さんの頭を割られた屍体が奉天郵政局前広場に転がっているのが見つかったので、北春日自衛隊が秘かに結成された。 一度もう占領下に入ってしまうと、かつてのギリシアの三十未満の女性がイタリア軍の慰安要員にされてしまったように、すべて向こうの軍政下に入ってしまいどうにもならない。・・・「絶対に服従」するのが日本人の、薄気味悪いくらい不思議な二十世紀でも奇怪的奴隷根性の人種ゆえ、どうしようもない話であろう。・・・ もうその頃は、関東軍に見棄てられて集団自決したが死にぞこなった難民が次々とまた奉天へは流れこんできて、北春日小学校は、九月には五千人も各教室に別れつまっていた。 当時、衣料の配給は日系人だけだったので、途中で満人にモンペどころか肌着やパンツまでとられ、空俵を身につけた女たちが、途中でソ連兵に何十回も襲われて逃げのびてきた。 「八十五六人までは覚えていたが、その内に気を失い、土が凍ってきて気づいた時までには、百五十人ぐらいのロスケにのられた勘定になる」と逞しく語る打ち明け話もきかされた。 ずっと無言のままで股をひろげておればよいが、辛くなって拒むような事を口にしたり逆らったりすれば、それまでに日に百人近くにおかされてきた女性でも、見せしめにというか殴り殺されてしまったというから、どんな日々のひどい目に堪えたにしても、辛うじて生きて北春日小学校へ入ってきた女は十人に一人ぐらいであったようである。彼女たちはもう馴れっこになっていたのか、軍票の一円で朝から身売りに稼ぎにゆき、食物を求めてきていた。とろうのおの中島虎彦歌集そのとおり私のギャグがうなるのは世界が苦悩に満ちているから
April 16, 2008
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『野史辞典』より戸籍 “大宝律令”ではヘジャクとよぶ。編戸の民となって農耕の庶民の戸口帳。“六六ヶ国人掃え”と称すは秀吉が刀狩りと共に全国一斉に施行した太閤検地の戸口調査。 “全国惣体ノ戸籍”と太政官布告によって明治五年徴兵令のため始めて完全なのが作られ壬申戸籍という。が町村役場の兵役課が軍事目的の戸籍ゆえ、正確といえるかどうか。 私事であるが、“阿魔将軍・源頼朝と北条時代”の中にも書いてあるよう私の父方と母方は宗旨違いだったので、私の兄の節夫が生まれて入籍までに半年の余も掛った。大正三年十二月二二日付け愛知県中島郡祖父江町の町役場に届け出されたが、その二年後矢留節夫は急性感冒であっけなく急死、祖父の目をかすめ父と逢っていた母は今の私を身籠り又も死んでしまった。 今度はとても矢留の方で入籍すまいと思ったのか。交渉の煩わしさに懲りたのか母方の祖父後東吉雄は、東本重町の塀一つ裏にあった寺内の、後東家代々之墓を動かし亡くなった節夫を埋めて葬り、この私を二代目の節夫にしてのけた。つまり私は私でなく二年遅く生まれたのに死んだ矢留節夫の戸籍でそれからは今まで生きてきている。 大正時代にあってはなにも別に稀しい事ではないと死ぬまで母は口にしていたが、おかげで当時あった八重小学校の校長の許へ、小学校入学も二年早すぎると当人の私はごてったが、祖父が、義務教育法の就学年齢は戸籍法に基づきどうともならぬとされ、「白地に赤く日の丸そめて・・・」と皆が歌っていた日から、むりやり通学させられた。 なにしろ遅れて入ったので東西南北の時間は済んでいたから、いまだに私には方角がよくわかっていない。 つまり私は矢留節夫という名は自分のではないと避けたり、生年は大正五年とは分かるが、月日は不明ゆえ節夫の戸籍面の十二月二二日生れを用いているが、本当の私は生きはしてきたが名なしの生年月日なし、何もわからないのである。 “八切史観”とよばれる真実を執拗に追究する私の怨念は、この戸籍からきているらしい。 俗に「八切史観」とよばれる私の愚かしき真実の追究は二九〇頁の“戸籍”の項でふれているが、私が私ではないからである。と言うと唐突で奇妙に想われるだろうが宗旨違いで母方と父方が仲が悪く、私の上の兄の入籍で揉めにもめたのに懲りたのか私自身が生まれた時に、流行性感冒で夭折した兄の戸籍を抹消せずその儘で冠せられた。 つまり私は二年前に生まれて大正五年秋に亡くなった亡兄の名と戸籍を背負い今でいえば五歳で小学校へ通わされた。 ナフタリンを齧ったら死ぬときかされていたせいか齧っている処を一八粒めに見付かって吐かされた。何回となくその後も性懲りもなく繰り返したのも虚しさのためだった。 それが何故に過去の具象への真実を探求しだしたかといえば、マッカーサー解任時のポスト紙を拾い読みした時からである。切り抜き持ち帰ってきているが、その内容は、 「近代史でも稀有な反乱が絶無だったのは、彼の統治が偉大であった功績でもなく素晴らしかったと惜しまれるものでもない。何故かならば彼が統治してきた者らは、かつて大陸勢力によって統治支配の歴史が長く、島国ゆえ他への逃亡は不可能、叛乱すれば殺戮されるしかない運命におかれ、権力に対しては絶対服従の国民性を今に伝えているに過ぎぬからである」 と大統領補佐官筋のコラムだった。・・・変な国民性である。
April 10, 2008
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