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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
一里山橋を渡り、更に小川を渡って緩やかな坂道を上り、大津市一里山一丁目の
旧東海道を更に進む。
先の信号交差点左角に『一里塚趾』碑が建っていた。
ここ『月輪一里塚趾』は江戸日本橋から数えて120里目の一里塚である。
「一里塚跡
一里塚は、徳川幕府が旅人の目じるしに江戸の日本橋を起点として、東海・東山・北陸の三道に
一里ごとに設けた塚です。 ここにあった一里塚は、東海道の大津と草津の間に位置するもので、
大きな松の木が植えられた塚でしたが、惜しくも明治末期に取り除かれました。
その場所は旧道と広い市道の交差しているこの地点にあたります。
現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています。」
『一里山一丁目』交差点が前方に。
そして渡った先に◯に十の描かれた石碑が。
『一里山一丁目 一里塚前』の現代の道標。
『道標』
「祈 安全火車往来」と刻まれた、平成22年に篤志家が建立したという道標.
道標は十字に刻まれ、上に 「三条大橋迄五里余り」、下に 「江戸日本橋迄百二十里余り」、
右は 「膳所藩札場より大萱港常夜燈に至る」、左は 「旧朝倉道信楽より伊勢・桑名に至る」 と
刻まれていた。道標の先から緩やかな下り坂となった。
交差点を渡り進むと直ぐ左に大きな蔵が。
左手民家の庭の常夜燈。
大津市大江4丁目の旧東海道を進む。
旧東海道を進んで大江四丁目交差点を越えた左手に『地蔵堂』があった。
ここにも人の姿は殆どなかった。
大津市立瀬田小学校の手前にあったのが『大江の史跡 文化財マップ』。
「大江」の地名は、平安前期以来、朝廷の文章道(史学・文学)をつかさどる家柄として
知られる貴族であった大江氏(大江千里)が、この地を開発されたことから地名になったと
伝承されている。 千里は「ちりんさん」と呼ばれ、村人から敬われた三十六歌仙の一人として
著名で、没後、住居の旧跡に小祠(野上社)を建て遺徳をしのんだと。
さらに旧東海道を進む。
ここにも小さな『祠』、これも『地蔵堂』であろうか。
大津市大江三丁目の交差点を渡る。
電柱の『旧東海道』道標と左に『大江三丁目 市立瀬田小学校前』道標。。
西行屋敷跡
西行法師は、俗名佐藤義満といい、百足退治の伝説で知られる俵藤太(藤原秀郷)の後裔で、
鳥羽上皇の院御所を警固する北面の武士であったが、 23歳のとき出家し、諸国行脚を重ね、
仏道修行と歌道に精進した平安末期の代表的歌人だが、一時この大江の地(瀬田小学校の南の
忠魂碑の近く)に住んでいたという伝承がある。」
しかし、伝、西行屋敷跡碑や忠魂碑は見当たらなかったが、道路脇の法面全面に
シートが敷かれている場所があったが、ここにあったのか?
旧家が所々に点在。
『祠』。
『旧東海道』道標のあった場所を右に曲がり進む。
真っ直ぐ進むと『近江国庁跡』へ向かうが、この日は立ち寄らなかった。
『近江国庁跡 掘立柱建物跡』。
【 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E5%BA%81%E8%B7%A1
】より
「史跡 近江国庁跡
国庁は、律令という中国の法律制度にならって、天皇を中心とする統一国家を作ろうとした頃に、
全国68ヶ国にそれぞれ設置された役所で、近江国庁は、奈良時代前半(今から約1300年前)に
置かれ、平安時代後半(約800年前)まで存続したようです。
ここでは、都から派遣された国司(現在の知事のような役職)を中心として、徴税、裁判、
軍事など今でいう県庁、警察署、裁判所、税務署として近江国の統治と都との連絡にあたって
いました。
国庁は、前殿、後殿と東西の脇殿を中心に、門や築地からなり、東西二町(約216m)南北三町
(約324m)の区画をいいます。また、その外側には、九町(約972m)四方の広がりを持つ
規格化された街路が広がっています。これを国府といい、役所の所在する市街地にあたる
ものである。
近江国庁は、日本で初めて古代の地方政治の中心地である国庁の全容が明らかになった遺跡です。
【 https://myagi.jp/ja/html/travel/travelEt.html
】より
『帰法山 成就院 浄光寺』寺標と『山門』。
山門脇の『道祖神』と『大日如来』の小祠。
『浄光寺 本堂』。
『浄光寺』は寛文元年(1661)に中興された寺院で、木造阿弥陀如来立像は
滋賀県の重要文化財となっている。
『水子地蔵尊』。
『阿弥陀如来標柱』。
旧東海道に戻り先に進むと左手に大きな『山桜』の木が立っていた。
「大場の桜この山桜は樹齢的二百年の古木です。旧東海道筋にあり毎年美しい花を
咲かせています。
旧東海道と芦浦街道との分岐点付近にあるこの木は、昔から現在まで人々の様子を見てきた
古木です。
この桜は、江戸時代には参勤交代で、みやびやかな列をなして、毛槍を振り振り供奴を連れた
大名行列が、物々しく西に東に行きかっていたのを見つめていたことでしょう。」
小さな祠。
左手に金魚鉢をイメージした外装のユニークな民家があった。
大場の桜の先でT字路に突き当たる。
旧芦浦街道の脇に㈱内田組があり、その前に小さな『地蔵堂』があった。
脇には巨大なタヌキ像が建っていた。
その手前生け垣の中に埋もれていた石碑が、昭和55年(1980)の『旧芦浦街道』の
道標であったのだろう。
芦浦街道は、東海道の枝道のひとつで、近江国を南北に貫いていたが、浜街道が整備されると、
その役割を譲っていったのだと。
㈱内田組の前の信号交差点を渡ると、『高橋川』に架かる赤い欄干の『和田一号橋』があった。
左手『高橋川』の堤防の法面(のりめん)には枝垂れ桜が満開。
『和田一号橋』を渡ると『建部大社末社 檜山神社』の社号と石鳥居が。
左手の小山の上に建部大社の境外末社である檜山神社がある。
参道途中には横尾山1号墳があるが、これは京滋バイパス建設に伴って移設されたものだという。
『一の鳥居』。
しかし、先を急ぐので訪ねることは出来なかった。
これが『檜山神社 本殿』であると。
【 https://4travel.jp/travelogue/10954624
】より
右手に日蓮宗『八景山 正法寺』案内板。
『正法寺 本堂』をズームで。
正法寺は昭和8年(1933)信暢による開基であり、境内には日蓮上人像があり、
やや離れたところに鉄筋コンクリート造の本堂があるのだった。
『八景山 正法寺』寺標と山門。
『日蓮上人』像。
正法寺の先で東海道は斜め左の小道に進んで県道16号線に合流する。
この分岐に山村石材店があり、この石材店が造ったと思われる道標が建っており、
「左旧東海道 右瀬田唐橋」 と刻まれていた。
山村石材店の横にも歴史を感じさせる石灯籠が。
そして県道16号線に合流。
左手奥にあったのが『建部大社』。
建部大社は、景行天皇46年(316)に御妃布多遅比売命(ふたじひめのみこと)が
神崎郡建部の郷に日本武尊の神霊を祀ったのが始まりと云われ、その後、天武天皇白鳳4年に
近江国の中心であった瀬田の地へ遷祀されたという。
本殿には日本武尊を祀り、境内には菊花石・菊紋壺・本殿を囲む左右に八つの摂社などがある。
『瀬田名物 たにし飴製造元』の辻末製菓舗。
もちろん原料が「たにし」ではなく、形が「たにし」に似ているところから、
「たにし飴」のようです。ニッキと黒砂糖の味のようです。
これが『たにし飴』である。
【 https://tabelog.com/shiga/A2501/A250101/25005960/
】より
歩道には『瀬田の唐橋』が描かれた石版が埋め込まれていた。
そして正面の『唐橋東詰』交差点の先に『瀬田の唐橋』が姿を現したのであった。
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・・・ つづく
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