JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.07.01
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カテゴリ: 藤沢歴史散歩
​【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】​
『​ 鎌倉散策 目次 ​』 👈リンク

渡内地区と村岡地区の境の道を東に進むと前方左側に鬱蒼とした林が現れた。



ここを更に進むと左手に「二伝寺」の境内への入口があった。



「二伝寺」脇門から境内に。
藤沢市渡内三丁目13番1号。



「二伝寺」の「本堂」。
二伝寺は、1505年(永正2年)、玉縄城の初代北条氏時の発願によって、鎌倉光明寺第九世
正空によって開かれた浄土宗の寺。



扁額は山号の「戒法山」。



「戒法山宝国院二傅寺」。
当寺は戦国時代の永正二(一五〇五)年、玉縄城主北条氏時の発願によって開山された寺です。
開山にあたっては、福原左衛門忠重の援助がありました。
当時は玉縄城から尾根つづきで地域で一番高い場所にあり、加えて旧鎌倉街道に沿っていたので、
玉縄城の砦の役割を担うために寺を創建し利用したと考えられます。

当寺に本山伝の写し(二つ目の伝書)かあったので二伝寺と呼ばれるようになったと
伝えられています。
松平正次一族の墓
玉縄城開城の後、徳川家康から屋敷を賜り渡内に住み玉縄城を守護したのが松平正次です。
その後、玉縄城は廃城となりますが松平正次の子供たちが玉縄藩としてこの地を治めました。
向かって右から松平正次、正次の内室、正吉、久次、正吉の子の順に宝篋印塔が並んでいます。平 良文(村岡五郎良文)
桓武天皇の四代あと、平高望の五男、東下りして村岡城に居を構え、村岡五郎と称しました。
後に鎮守将軍に任ぜられ、坂東平氏の始祖と言われています。境内山頂に、初代平良文 
二代忠光 三代忠通の塚があります。
幡随意自道上人
善行 松本家の出身で、当寺範誉義順のもと出家した浄土宗の高僧、京都百万遍知恩寺
三十三世の後、神田に新知恩寺幡随院を開山しています。晩年には徳川家康の命を受け、
キリシタン改宗の為、北九州地方に向い教化をしました。
開山した寺三十三ヶ寺弟子三十五名を教え、伝法においても幡随意流伝法をまとめています。



墓地の入口・左にあったのが「松平正次一族の墓」
向かって右から松平正次、正次の内室、正吉、久次、正吉の子の順に宝篋印塔が並んでいます。



「藤沢市指定重要文化財(彫刻) 木造聖観音坐像
木造寄木造り、玉眼。身部の金泥と衣部の漆箔、及び両手足は後補。
像高49.5cm 総高68.2cm。
左手に蓮華を持つ通常相。作風は鎌倉期以来の慶派的特長が濃厚であり、相好は繊細かつ
上品に引き締まり、尊体の抑揚も程よく、また衣文表現も巧みである。
構造や材質(木および漆)も近世以降のものではなく、金箔を再塗装したが像の持つ整って
上品な雰囲気と時代の特徴は失っていない。以上から鎌倉末期、14世紀の造立を推定する。
なお、本尊を安置する戒法山宝国院ニ伝寺は鎌倉群三十三観音の三十二番札所である。」



「本堂」横の墓地。



アジサイも美しく。



「本堂」裏の竹林と墓地。



村岡歴代城主墓案内を漸く見つける。
村岡城主であった良文、忠光、忠通の三代の墓が紹介されていた。



「村岡五郎平良文公墓前碑」。



「村岡五郎平良文公墓前碑
良文公は桓武天皇の玄孫(五代目の子孫)にして仁和二年(八百八十六年)三月十八日
生まれ、延長元年(九百二十三年)正月母と共に東国に下り相模の国村岡郷渡内村に
館を構え(今の村岡城址公園周辺)比叡山麓の日吉大社の祭神大山昨命を城砦の守護
神に勧請し(現在の日枝神社)天慶二年(九百三十九年)鎮守府将軍従四位下陸奥守に
任ぜられ翌年の天慶三年、平将門征討と国家安穏を祈願し京の山城國の御霊宮の祭神
早良親王(追謚号祟道天皇)を同郷宮前村に勧請した(現在の御霊神社)と旧くより
伝えられ関東一円に強力なる勢力を張った坂東八平氏(三浦・千葉・上総・大庭・
畠山・長尾・梶原・土肥) の始祖とし多くの荘園有し武威を関東に振るたり。 
その子孫は前九年の役、後三年の役の嚇々たる勲功、頼朝の鎌倉幕府創設に尽力する等、
大いに繁栄せり。公の晩年は仔細は不詳なるも天慶六年(九百五十二年)十二月十八日
六十七歳を以て病没し此の地に葬る。右に二代忠光公、左に三代忠通公、之を村岡城
御三代城主の墳墓なりと旧くより里人の口碑に伝えられている。」



「良文公 塚」



「忠光公 塚」



「忠通公 塚」



そしてこちらが山門への参道。



「山門」。



「浄土宗 二伝寺」寺標。



ここにも「戒法山 宝国院 二傅寺
当寺は戦国時代の永正二(一五〇五)年、玉縄城主北条氏時の発願によって開山された寺です。
開山にたぞは福原左衛門忠重の援助がありました。
当時は玉縄城から尾根つづきで地域で一番高い場所にあり、加えて旧鎌倉街道に沿っていたので、
玉蝿城の砦の役割を担うために寺を創建し利用したと伝えられます。
開山当時、寺号は違うものでしたが、大本光明寺に伝わる本山伝の伝書が紛失した時に
当寺に本山伝の写し(二つ目の伝書)があったので二伝寺と呼ぼれるようになったと
伝えられています。」



そして「二伝寺」を後にし、狭い坂道を下っていくと藤沢市から鎌倉市に入り
県道302号線に出た。
その向かいにあったのが「光圓山久成寺(くじょうじ」。鎌倉市植木494。



「光圓山久成寺」寺標。



「山門」。



「日蓮立像」
山門を潜るとすぐの所に日蓮立像が置かれていた。
この寺の日蓮は若々しくて雄々しい姿をしていた。
鎌倉の日蓮宗の寺には日蓮立像がいくつかあるが,それぞれ違った姿,形をしているのが面白い。
久成寺は勿論日蓮宗.山号は光円山.
徳川家康が小田原城攻めのときにここで祈祷したとのこと。



「松平甚之助新兵衛内室の墓」



「松平甚之助新兵衛内室の墓
天正十八年(一五九〇)四月玉縄城が落城した後、徳川家康はこの地玉縄領を
代官松平甚右衛門正次におさめさせた、その居蹟は今の植木「陣屋Lにあると伝えられる
その子松平甚之助新兵衛(駿河大納言忠長卿に仕えた人)の内室妙秋院日種の霊とその一族の
祖霊を供養のため後裔にあたる松平甚之助久勝が元禄七Z成年五月朔日ここに墓を
建てたものである。」



「本堂」。
光円山久成寺は、永正17年(1520)に日蓮宗の熱心な信者であったといわれる
後北条氏の家臣・梅田尾張守秀長が宅地を寄進して日瞬を開山に迎えて建立したといわれる
日蓮宗の寺院です。 小田原の陣に出陣中の徳川家康公が久成寺に立ち寄り、四代住職日顗上人の
祈祷の恩賞として三石を与えたといわれている。
その後、鷹狩りの折立ち寄った際、日顗が柚子を献上し、家康公からは「葵の紋」入りの
弁当箱を授けられたという。 この弁当箱は行厨(こうちゅう)あるいは破子(わりご)と称し、
久成寺の寺宝となっています。



「本堂」の扁額「???」。
これも高校時代の友人から「𨾏凰閣」ではないかと。



「本堂」を斜めから。



「不動明王」碑。



歴代上人(日舜、日慈、日康上人)の墓か?



上杉謙信公祖「長尾新六、定景一族の墓」。
長尾定景は源実朝を暗殺した公暁を討ち取った人物で、上杉謙信の先祖とも言われています。



境内の坂道脇に咲いていた「常盤露草(ときわつゆくさ)」



三角形の可憐な小さな白い花。 雄しべは6本あり、毛が生えていた。



そしてしばらく藤沢市を超えて鎌倉市植木の散策を続ける。
次に訪ねたのが「圓光寺」。鎌倉市植木549。



「真言宗 城護山 圓光寺」。



「本堂」。
永禄年間(1558~1570年)に玉縄城主北条氏時が澄範を招いて玉縄城内に創建された。
その後、玉縄城が廃城になると現在の地に移されている。
開山 澄範
開基 北条氏時
本尊 不動明王



扁額「圓光寺」。



「薬師堂」。
薬師堂には行基作と伝わる薬師如来像、十二神将像が祀られているが、60年に1度
開帳される秘仏。



「無縁佛塔」。



ズームで。



「無縁塔」碑。



「圓光寺」を後にして、次に向かったのが「貞宗寺」。鎌倉市植木656。
境内?の池には鯉が。



次に訪ねたのが「玉縄山 珠光院 貞宗寺」。
「貞宗寺」(浄土宗)は、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の祖母貞宗院の隠居地に建つ寺。
大奥で御年寄役を勤めた貞宗院は、晩年この地に屋敷を構え、貞宗院死後、その遺言により
「貞宗寺」が建てられた。
創建は1611年(慶長16年)と伝えられている。
開山は、貞宗院が生前帰依していた大長寺の暁誉源栄。
大棟には徳川家の紋である「三葉葵」が入っており、徳川歴代将軍の位牌も安置されている。
貞宗寺の寺小屋は、現在の玉縄小学校の前身となった(明治6年の学制によって「玉縄学校」が
置かれていた。のちに龍寳寺に移転)。
開山 暁誉源栄
開基 貞宗院
本尊 阿弥陀三尊



お寺の方が「本堂」を開けてくださいました。
大奥で御年寄役であった貞宗院死後、その遺言により貞宗寺が建てられたのだ。



徳川家の紋である「三葉葵」が。徳川歴代将軍の位牌も安置されているのだと。



こちらは「事務所」であろうか?



「地蔵堂」。



「地蔵堂」には小石が積み上げられていて、編笠、わらじ、草履が奉納されていた。
よく見ると青面金剛像と如意輪観音像。きっと昔は石のお地蔵様もここにいて、人々の願いを
聞いていたのだろう。



「御霊屋」。
貞宗院の墓といわれる宝篋印塔が安置されていると。



扁額「御霊屋」。



「御霊屋」の先、高いところにあったのが「極楽廟」。



「永代供養墓 極楽廟」案内板」。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.10.14 19:54:46
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