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「ノートパソコンが壊れた10」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。語削除してしまったyahooIDは戻らないが、新しく別の、IDを取得し、HPを作成し出してから丸1日が経った。だが、11年前に作ったホームページの全ての内容を、記憶している訳でもなく、途方に暮れていた。2003年にノートパソコンのOSを含めて壊れる度合いも多く、以前のホームページを別のIDで作ったホームページへ、移していた事を思い出し、編集をし出したと言う訳だ。しかし、indexページの各項目からリンクしていたページは、誤削除して消えてしまったIDで削除したページだった。すべてのページをファイルマネージャーで数えてみたが、340ページ以上あり、その中の5箇所ほどのリンク先を、変更して確認する作業は、気の遠くなるような作業である。それより、もっと情けなかった事柄は、2003年に別のIDで、作成したホームページ以降に、今は消え去ったHPのページを、更新し続けた文章が、更新されておらず、その部分が、消え去った錯覚さえ覚えたが、今はリンク先への、変更作業で時間が無くなってしまう。つづく
2010.03.31
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「ノートパソコンが壊れた9」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。中国版のwindows98とは別に、友人から借りたOSの、日本語版「Windows95」をインストールした。この当時のOSは「Windows98」が主流であった。中国語はWindows98で日本語はWindows95という奇妙な、設定をし、次に帰国する4ヶ月間を過ごした。その間に、Yahooでgeoitiesのホームページの開設をした。その後、約11年間過ぎた2010年3月にyahooIDを削除しようと、間違ってメインIDまで削除をしてしまうことになった。YahooIDにしろ、他のIDにしても、削除するときは、必ず、本当に削除してもよいかの確認画面が出て警告を促す。しかし、今回の語削除では、何の警告も出なかった。その翌日、YahooはID削除が現在出来ないとお知らせが出た。私は、自分自身の誤動作により語削除してしまったが、あと1日早く、ID削除が出来ないエラーが出ていたらと、やはり、悔やまずにはおれなかったが仕方のないことである。今、別のyahooIDで全く同じホームページを更新していた事を、思い出し、昨夜よりアドレスの書き換えを始めだした。つづく
2010.03.30
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「ノートパソコンが壊れた8」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。3ヶ月足らずで2代目のノートパソコンのHDDが壊れた。バッグにPCを入れ、ホテルを出るとき、コードを、足で引っ掛けた客室係とエレベーターの所で、すれ違いざま、「パソコンは大丈夫でした」の声に、大丈夫ですからと、心にもない事を言った。私は出張に来ていた広東省広州市のホテルを出て、パソコンを扱うショップへと向かい、修理依頼をした。だが、この時代の中国へは発売されたばかりの、小型薄型ノートパソコンの流通はなかった。日本のメーカーに中国から頼んで修理してもらってもよいが、新しく購入した方が、安い可能性もあると言われ、ホテルへ、帰ってからも散々考えたが、急ぎ帰国しても会社の経費で、帰国は出来なく、身銭を切ってまで帰国するのもと思った。と言うのも、この2ヶ月前に島根の義父の通夜に間に合わせるため、急ぎ東京経由で帰国し、東京から出雲空港へと大分出費が、嵩んだため、考えに考えた。最終、夕方またパソコンショップを訪れ、中国のノートPCを購入したが、馬鹿デカかった。上海へ戻った私は、友人から、日本語版「Windows95」をインストールした。この当時のOSは「Windows98」が主流だった。つづく
2010.03.29
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「ノートパソコンが壊れた7」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。ホテルの若い女性客室係の足に引っかかったパソコンコードは、そのまま、軽量コンパクトなパソコンと共に部屋の床に落ちた。私がトイレから出て来た直後の出来事であり、声を上げるのが、やっとという感じだった。その時はパソコンが壊れたなど、思いもよらず、かわいい女性従業員が、私に謝るのを、長いコードをピンと張っている方が悪いので、心配しなくても、いいよなどと言ってみせたものの、客室係が再度頭を下げ、部屋を出て行ってより、慌ててパソコン液晶モニターを見た。液晶モニターは真っ黒になっており、初めスクリーンセーバーと、思いながら、キーボードを叩いたりしていたが、電源が落ちたと、想い、再度電源を入れ直したものの、何一つ電子音がしない。私が、トイレに入ったとき、客室係は部屋に入っており、片づけ出したところだったが、電源は入っておりハードディスクは、当然回っていた。そこへ机からコンクリートの上に絨毯を張った床に、落下したので、今回もハードディスクが、壊れたと思った。こんな時は、ため息しか出ない。なぜか、客室係への恨みはなかった。現に、後からホテルを出るとき、客室係とエレベーターの所で、すれ違いざま、パソコン大丈夫でしたの声に、大丈夫ですから、心配しなくとも良いですよと話していた。つづく
2010.03.28
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「ノートパソコンが壊れた6」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。新しく購入したノートパソコンは、その当時中国では、まだ珍しいSONY VAIOで、どこへでも持ち出し重宝した。出張には必ずと言って良いほど持って出かけた。ホテルでは、今のような光ファイバーのような設備もなく、どこのホテルも電話回線しか使用できず、使用料も、一晩で500元(7500円)を超える事もしばしばであった。ある日の事、ホテルのデスクの上に置いてあったノート型、パソコンを部屋の掃除に来た若い女性従業員が、ベッド近くから延長コードで接続していたが、足で、引っ掛けて床に落としてしまったから大変・・。今回買ったパソコンは薄くB5型で軽かったので、落ちて行くパソコンを見たときは、スローモーションでも、見ているかのような、ゆっくりとしたスピードに見えた。私がトイレから出て来た直後の事柄であった。つづく
2010.03.27
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「ノートパソコンが壊れた5」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。ノートパソコンが完全に乾ききる前に電流を通せば、ショートして再生不能になる事は予感していた事でもあった。壊れてより1年間ほどは中国のデスクトップで過ごしたが、日本とのメールのやり取りで、文字化けが発生するくらいで、そのほかは、外で使えない事意外は、不便さは感じなかった。お陰でこの時期に中国語を打つスピードが一気に増した。日本へ一時帰国した折に、新しいノートパソコンを購入した。壊れたノートパソコン購入時点より、3年経っていた所為もあり、パソコンの性能は、目覚しく発展している事に驚いた。1台目がNEC、2台目がSony VAIOを買ってハンドキャリーした。それまでは、デスクトップだったので外へ持ち出せなかったが、新しいノートパソコンは、どこへでも持ち出し重宝した。だが、使い出して3ヶ月ほど経ったある日、壊れてしまった。その時の話は、次回話をしたい。つづく
2010.03.26
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「ノートPCが壊れた4」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。1998年当時のノートパソコン事情は、現在のようには、普及しておらず、ノートパソコンの値段も安くて35万位だった。おまけに、メモリーは256MBだったように覚えている。今、35万出せば、メモリは8GBはあり、書き込み可能な、DVDはもちろんのこと、HDDだって500GBはあるだろう。だが、その当時は、フロッピーディスクに文書ファイルを、書き込む位で、今考えると大分原始的なノートPCだった。そのような高額なパソコンを雨水に浸けたようにしてしまった。ベランダの風通しの良い所へ陰干しにし、帰宅してから、2時間ほどドライヤーで乾かしてより、思い切って電源を入れた。一瞬ランプが点いたが「パチパチ」って言うような小さな音の後、パソコンは何も反応しなくなってしまった。この時は既に、中国に居り、まだまだノートパソコンは出回ってはおらず、それより、1年間ほどは中国のデスクトップで過ごした。つづく
2010.03.25
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「ノートPCが壊れた3」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。デスクトップの電源を入れたが、メールは出張先のPCで、返信処理していたので、また一眠りする事にした。一眠りするはずが、一気に2時間半が過ぎており、ベッドから飛び起きた私は、軽い食事をして、迎えに来ている車に飛び乗り事務所へ向かった。仕事をしている最中も、水に濡れたノートパソコンが、脳裏をかすめては消え去った。この時代のバックアップは、今のような外付けハードディスクは高価で手に入らず、もっぱらフロッピーディスクにコピーするくらいであった。この1年後からCD-Rを購入する事になったが、写真の、JPG画像はデータ容量が大き過ぎて、沢山のデータを、コピーする事はできなかった。つづく
2010.03.24
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「ノートPCが壊れた2」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。3日間の出張を終え、6時間掛け車を走らせて、夜中、住まいに辿り着いたが、そのまま疲れ寝てしまった。早朝4時ごろ目がさめ、バッグごと置いてある窓際まで、見に行ったが、まだ日の出前で辺りは真っ暗だった。急ぎ電気をつけ見てみると、雨で絨毯が乾かず、その境目が良く分かった。そ~っと忍び足で歩いた。それでも、スリッパを超えて水が靴下に冷たい水の感覚が、伝わって来るのが分かった。バッグを取り上げると、雨水で濡れたバッグ全体は重たく感じた。おまけに、私が出張に出た4日前は、慌てており、バッグのファスナーをも閉めずに窓際に置いただけだった。中に手を入れてみると、雨水の湿気とバッグの底には、まだ水が溜まっており、急ぎパソコンを取り出した。開けてみるとキーボードには水滴が沢山ついており、今、電源を入れては完全にショートして使えなくなると、まず、ドライヤーで乾かすが、中に染み込んだ雨水は乾かない。仕方なくデスクトップの電源を入れ、メールの確認をするが、メールの内容は、出張先のPCで確認返信をしていたので、また一眠りする事にし、ベットへ潜り込んだ。写真は、酔白池公園前の獅子像。つづく
2010.03.23
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「ノートPCが壊れた1」 「中国上海写真ライフ」では、上海「酔白池公園」の写真を公開しています。ノートパソコンが壊れたのは、今回で4台目である。すべてが中国での出来事であるが、不注意から起こった。1台目は、12年前の事で、太陽が燦々と照りつける朝、急な3日間の出張で、手荷物も多くなり、パソコンは、出張先にあるとのことで部屋に置いていった。天気予報では、快晴が続くはずであったが、出張先に、着いて2日経った夕方から夕立に見舞われた。私は、部屋の窓を閉めてきたかどうか思い出せず、3日間の出張を終え、6時間掛け車を走らせて、夜中、住まいに辿り着いたが、そのまま疲れ寝てしまった。写真は、上海から1時間半ほどにある酔白池である。つづく
2010.03.22
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「心が曇っている時は」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。昨夕から夜中までは、悪夢のようなひと時だった。突然、パソコンのモニターが真っ黒になり電源が落ちた。朝ベットで目が覚めて、何となく突然ノートPCが、壊れたのは、夢の中の出来事ではと思いながら、壊れたPCの電源を入れてみたものの夢ではなく現実だった。この写真は、ブログ管理の中に残っていた最後の3枚である。憂鬱な思いで、公開してはダメではあるが、写真への、コメントまで感じ方が違っているようである。中国禅宗の寺を訪れた折に、僧侶に「仏」とは何ですかと、聞いたことがあり、私の質問に対して、微笑みを浮かべて、そうですね~、仏って何でしょうかね?っと、逆に、質問されたような事があったが、中国の僧侶なので、もちろん日本語が話せるわけでもなく、仏教の中国語は、それなりに難しいので、回答を話して下さり、私が聞き逃していたのかも知れない。心が清らかなときは、全てのものが温かく感じられ、心が曇っている時は、全てのものが冷たく感じられる。これは誰しもが実感している事であり、自分の心の、有り様であり、自分自身の姿を言い表している。自分の見方が変われば、物事の見え方も変わってくると、言うものの、自分から発する事柄が、欲徳絡みで、自分勝手な事柄ならば、相手は離れて行くだろう。 「嵩山少林寺の旅」シリーズは、PCが退院して来てより、PC内部データが初期化してなく、画像が残っていれば、更新して行きたいと思うが、いつになることやら・・?また最悪、修理段階で初期化してデータが失われていれば、初めからフォトをアップしながらでも更新して行ければと、思っている。それまでの暫しの間、上海郊外の写真を、更新して行きたいと思うが、古いパソコンが役に立っている。暫しの間、更新する画像は、下のような写真ですよ。データ復旧会社より連絡あり、必要なデータを取り出すのに、最低7万円前後必要であり、その後メーカーへの修理依頼で、メーカーでは、どのような大切なデータであっても、データ保護は考えていないとの内容電話連絡であった。50時間前後の作業時間のデータを壊れたPCに保存してあるが、バックアップを取っていない報いのシワ寄せが来たようだ。再度、画像等のアップを別パソコンで行った方が無難か??
2010.03.21
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「突然ノートPCがクラッシュ」 とりあえず「中国写真ライフ」では、上海「上海市内」の写真を公開します。今日は、夕方突然ノートパソコンがクラッシュして大騒動。一番新しい5代目となるノートパソコンが壊れてガッカリ。何よりも、壊れたパソコンには写真のデータが保存してあり、バックアップを取っていないので、更に落胆している所だ。クラッシュしてより、すでに2時間半が過ぎ、再度、電源を入れPCが立ち上がらないか、期待しても、パソコンからは何の反応もなく虚しいだけだった。24時間サポートのデータ復旧会社のフリーダイヤルへ、連絡を入れてたが、部品代以外で技術料出張料で5万円と、データ復旧後、メーカーへ修理依頼をすれば問題ないと、データを保存していない方が悪いが、5万とは・・と思った。まだ購入して3ヶ月なので、メーカーのサポートへ、メール連絡を入れたところ、翌日メールで連絡が入った。ハードディスクのデータの保障は故障の状況を見てより、ハッキリするとの事で、私はハードディスクのフォーマットが、必要な時には、勝手に修理をしないように念を押すメールを、出したものの、突然のアクシデントに見舞われる度に、保存の重要性を痛感するが、喉もと過ぎれば熱さを忘れる。メーカーより連絡が入り次第、元払いでノートPC専用の、ダンボールケースで発送する予定でいる。
2010.03.20
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「少林寺拳法の名の由来」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。写真の石碑には「世界唐手道協会」と書かれている。中国では、元々拳法と呼ぶ技法はなかったとされている。少林寺拳法という呼び名も、戦後日本で創始され、日本武道の一門派として日本から中国へ渡っている。少林拳と少林寺拳法とは、根本的に技法が異なり、少林拳は南方の拳法を改良して出来上がった。唐手は日本の空手道から起源を発し、日本でも、琉球地方で発祥した拳足による打撃の技を特徴とする。当初は関節技なども取り入れた自衛手段としての、武術格闘技であったが、映画により世に知られた後は、打撃技による攻撃のみがクローズアップされている。
2010.03.20
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「屋根に魔除けの陶器」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。中国に限らず日本でも寺院の屋根に数種類の動物の、形をした装飾が付けられているのを見た事があると思う。中国では明や清朝の建物の屋根に、付けられている。一般には陶器で作られているが、種類は走獣と呼ばれ、魔除けの思想を受け、作られ清朝時代に完全なものになった。屋根の上でも屋根の四隅の端に置かれている。ほとんどが六つの架空の獣を形どったものが、一般的であり、架空の獣の原型となった装飾は、240年頃の三国時代からあり、また300年代の埴輪に、見られ、宋代には更に細かい表現がされている。
2010.03.19
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「武芸、技撃、技巧、技芸」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。中国武術とは中国の伝統体育運動の意味を指し、武術は蹴る・打つ・なげる・掴む・切るなどを、含む動作で、規則正しいルールに照らし素手の動作を、組み立てて行う運動形式を武術と呼ぶが、ヌンチャクなどの武器をてにする場合もある。武術を心得るための運動には、心身の鍛練、体質増強や、自己防衛などの効用が有る。武術は長い歴史の中で、内容と形式を変化させていったが、武術と言う呼び方も、清朝に入ってからで、それまでの1500年間、武術は武芸、技撃、技巧、技芸・技勇、国術などと呼ばれていた。
2010.03.19
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「自分の腕を切断し求道」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。少林寺は、北魏の孝文帝がインド僧のために建立。少林寺の初祖であるインド仏教の釈迦から数えて、第28祖の達磨が座禅の修行をしているときに、少林寺二祖である慧可が訪ね達磨の姿を見て、教えを求めたという伝説が残っている。達磨尊者が9年もの間、座禅をし待っていた処へ、二祖慧可が弟子にしてほしいと懇願しても、部屋へ入れてもらえず、慧可は自分の腕を切り落とし、求道の真心を達磨尊者に示した。その事実があるが故に、今の少林寺が存続しており、中国で禅の教えが広まり、やがて日本へも、禅の教えが伝わって来ることになる。
2010.03.18
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「これも時代の流れ」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。嵩山少林寺も1982年に映画化されて以来、脚光を浴びるようになり、観光客が後を絶たない。そんな中国の市場経済波及に伴い武術公演など、商業活動を活発に行って来ている。今まで公に武術を公開して見せる事がなかった。だが、1988年から少林武術ショーを行なうようになり、現在では出張公演も、世界各地で催されている。更には、武術ばかりではなく、少林寺で会社を起業し、お茶のネット通販も行うようになった。だが、これも時代の流れと達磨尊師も苦笑いかも。
2010.03.18
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「選ばれた弟子たち」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。600年ごろの少林寺では朝晩の勤行と座禅修行に励み、早寝早起きの毎日に僧侶たちは運動不足になった。その運動不足を補うために、武術を取り入れ、毎日鍛練をし少林寺の修行の一環として発展してきた。少林寺での武術の具体的内容は、1500年の間、選ばれた弟子以外には伝えられずに伝統を守ってきた。少林寺の高僧たちが伝授してきた武術は、想像を、絶するハイレベルな目標への到達を目指していたからだ。だが、5年連続中国武術大会でチャンピオンの経歴を持つ、ジェット・リーの映画で一躍脚光を浴びる事となった。
2010.03.17
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「優れた部分を取り入れた」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。少林寺は、499年に33歳という若さで崩御した北魏の、孝文帝が建てたが、少林寺の僧侶は合掌するだけで、ひざまずかないと、礼儀に対して非難を続けた。儒教における礼儀と少林寺の僧侶は礼儀を重んぜず、儒教とは違うと非難し、仏教は元々インドから、伝来したもので、中国とは礼儀が違うと非難した。明朝の時代に入ると、少林寺の僧侶は仏教だけを認めず、仏教の釈迦・儒教の孔子・道教の老子を、すべて、尊敬すべきとの考えで、釈迦・老子・孔子の三人が一体の、絵を掲げたが、正面は釈迦、右側は孔子、左は老子に見える。少林寺がこんなに有名になったのは、他の寺院とは異り、仏教と儒教・道教の優れた部分を取り入れ、また武術も、行うという点でも、少林寺は他の寺院と異なっている。
2010.03.17
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「次第に衰退して行く」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。1600年ごろの明の時代、第14代皇帝の万歴帝は、8人の皇子を僧侶の修行に少林寺に入れた。その事も手伝い、少林寺の建物は修繕され、増築もされ、少林寺はさらに有名になった。 だが明が滅び、1636年に清朝が建国されると、異民族の王朝で、清に反対して明の復興を、切望する者も多く、清朝は少林寺の僧侶に武術の、練習を禁じる勅令を出した。明代に栄えた少林寺も、清朝の二百年の間に、次第に衰退して行く事になる。
2010.03.16
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「30万人の僧侶が追放になる」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。時代は、楊貴妃の最期の頃、中国各地の人々は、重い税から逃れるため、出家する人が多くなっていた。850年当時の仏教は非常に盛んで、寺院は多くの、荘園を持ち非常に豊かではあったが、また弾圧が起こる。850年頃になると、皇帝は寺院と僧侶の整理を命じた。多くの寺院が破壊され、僧侶は俗人へと寺を追放される。破壊された大きな寺院は5千箇所余り、小さな寺院は、4万箇所余りが破壊され、僧侶、尼僧も30万人余りが、追放され、広大な土地は唐王朝に没収された。
2010.03.15
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「現在のスケールとは比較にならない」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。唐代に入ると高宗と武則天の時代に、東の都として、定められた洛陽で、近くの少林寺には皇帝が、度々、訪れるようになり少林寺は一番栄えた。この当時の少林寺の土地が約9万3千平方km有り、寺院敷地面積は3600平方KM有り、僧侶の数は、2千人以上で、部屋数は5千以上あったという。現在の少林寺のスケールとは比較にならない。
2010.03.15
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「仏教弾圧の嵐」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。中国への仏教の伝来は、1世紀中ごろとされる。だが、中々受け入れてはもらえず、弾圧の嵐が吹き荒れた。少林寺も580年頃、他の仏教寺院同様弾圧に巻き込まれ、少林寺同様に焼き打ちに遭い、僧侶は洛陽へ疎開した。王朝が代わり、新しい皇帝が座に着くと仏教弾圧は、おさまり、その王朝は西安にあったが、大同から、洛陽に遷都した頃から、少林寺の名前も復活。広大な農地も与えられ、僧侶達も少林寺へ戻った。
2010.03.14
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「少林寺の歴史も古い」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。少林寺と言えば禅宗であるが、禅宗の祖と言えば、浮かぶのは達磨ではないだろうか。禅宗の祖は達磨であり、少林寺は禅宗を守り、育んできた寺の中でも代表にあげられる。少林寺の歴史は古く、北魏(495年)に作られた。インドより高僧の菩提達摩が少林寺訪ね、少林寺に禅宗を伝授する事になった。その後、寺院を徐々に拡大し、僧侶も日を、追うごとに増えはじめ、少林寺の名は遠くまで、名声を馳せるようになって行った。写真は、2004年当時の中国総書記の江沢民の、直筆で書かれた少林文化人類遺産の文字。
2010.03.14
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「燃えよカンフーのドラマ」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。1977年頃に再放送した「燃えよカンフー」という、アメリカのテレビドラマをよく見ていた。深夜に放送されたが、清の少林寺でカンフーを、会得したハーフの男がアメリカ西部を渡り歩くドラマ。その中で何度も少林寺の修行や情景が出てきていた。燃えよカンフーはブルースリーの原作である。主演は、デビッド・キャラダインだったが、若い人たちは、知っている人の方が少ないだろう。役の名前は、クワイ・チャン・ケインで、この時に、西部劇ドラマの中でカンフーが取り入れられ、そのカンフーを会得した修行の場が少林寺と言う事で、その頃から、少林寺へ行ってみたい思いに駆られていた。
2010.03.13
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「少林寺の映画」 「中国写真ライフ」では、河南省の嵩山少林寺の写真を公開しています。少林寺は、1982年の中国・香港合作映画で、主演はジェット・リー/中国名(李連杰)私も日本の映画館で見て、DVDが出てより、買って来て見たものだった。中国広東省へ行った時に、河南省より来た通訳より、少林寺の話をよく聞いたものだった。しかし、通訳は少林寺へは行った事がなく、本や人の話を見聞きした事を、いかにも、行って来たように話してくれた。
2010.03.13
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「出発時間が1時間ほど遅れる」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。洛陽・龍門石窟にて50分ほど時間を超過、出発時間が1時間ほど遅れる事になった。だが、私よりも後ろから走って来る女性二人の姿に、ガイドからも、連絡した時間通り集合して下さいねと、少し、いら立ち感が見え隠れ、それも私が撮影に、時間を取られてしまったからだと反省した。旅行客は、私を入れて5人だが、65歳ほどのご夫妻と、22歳ほどの女性二人の4人と私の5人だった。朝出発した時点で、ガイドから今日は旅行者が、少ないから、予定通りの時間でいけそうですと、話していたが、バスの待つ駐車場まで歩く道のり、笑顔が少なく、急ぎ足で向かっていた。次からは「少林寺」の写真を公開する予定。
2010.03.12
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「後ろ髪を引かれる思い」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。私は洛陽へ来る前に、下調べはしてきた。だが、ネットで調べた石仏の写真と実際の石仏とでは、迫力の違いを感じ、圧倒されてしまった。ガイドから時間が少なくなってきたという事で、私の思いとは逆の方向へと歩いて行く事に、後ろ髪を引かれる思いだった。私が、洛陽で行きたかった所は龍門石窟と、其の前に流れる伊河を渡り、白居易の墓のある、白園へ行きたかった。しかし、1.5キロ手前に見える、白園を後にして、次の少林寺へ向かうため、逆方向へガイドと4名の中国人とで歩いて行った。上の写真は、私の行けなかった白居易の墓である。白居易は800年頃を生きた人で、詩人である。平安時代以降の日本文学に大きな影響を及ぼし、菅原道真の漢詩と比較されたり、源氏物語などにも、大きく影響したが、有名な詩に「長恨歌」がある。唐代の玄宗皇帝と楊貴妃の物語りを詩にしたものである。
2010.03.12
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「東大寺に大きな影響を与えた」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。龍門石窟の中で有名なのは奉先寺である。その中で高さ17mの盧舎那仏が目を引く。龍門石窟造営の絶頂期、675年に完成する。盧舎那仏は釈迦の別名であり、その盧舎那仏の、左右に、釈迦の弟子の迦葉像と文殊菩薩像と、阿難像と普賢菩薩像が立つが頭は破壊されていた。写真の石像は見てそれと分かる人もいると思うが、北壁と南壁に天王像と金剛力士像が彫られており、奉先寺盧舎那大仏の完成より80年過ぎた745年に、奈良の大仏の開眼供養会が行われているが、奈良の大仏のモデルとなった。それが龍門石窟奉先寺の盧舎那大仏だった。写真の一番右に立つ金剛力士は、東大寺南大門に立つ。
2010.03.11
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「龍門石窟の盧舎那大仏」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。北魏の時代、山西省平城より洛陽へ遷都したが、平城大同での雲崗洞窟より龍門石窟へ移り、何代にもわたり400年間石窟を彫り続けた。写真の盧舎那大仏は、唐代の女帝、則天武后を、モデルにしたのではと伝えられている。また則天武后は自らの功徳を称えるため自分に、似せて盧舎那大仏を造らせたとの伝説が残る。則天武后は日本での呼び名だが、中国では武則天と呼ぶ。則天武后は、龍門石窟で盧舎那大仏の掘り始める儀式にも、参加し、莫大な寄進もしたと伝えられる。その寄進額は2万貫。1貫で小判20枚分で、2万貫では40万枚である。小判は現在5万円と言うから、一体幾らになるのか?200億円にもなるが、そんなに寄進したのだろうか。
2010.03.11
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「慈悲深い顔は破壊していない」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。龍門石窟の石仏のなかで最も大きいのが盧舎那大仏である。盧舎那とは智慧と光明が全てに行き渡ったという意味で、この石仏は、唐代(670年頃)に彫られている。高さが17メートル以上あり、腕は破壊されているが、慈悲深いその顔は、破壊から免れている。文化大革命での紅衛兵たちの破壊工作は、なぜ、盧舎那大仏の顔を破壊しなかったのかが謎である。17メートル以上と大きな石仏なので、破壊を途中で、あきらめてしまったのか、または完全に破壊するまでに、時間が来てしまったからなのか?誰にも分からない。しかし、私は破壊途中で、あまりの慈悲深い顔に、罪悪を感じ、破壊を中止してしまったと思いたい。
2010.03.10
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「破壊を免れた蓮の花」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。洛陽の龍門石窟の中でも知られている蓮華洞の天井。北魏末期(500年頃)の石窟で天井には大きな蓮の花が、彫られていることから名前がつけられたが、本尊釈迦牟尼仏をはじめ殆どが無残に破壊された。天井の破壊を免れた見事な蓮の花と顔が破壊された飛天。蓮の花を見上げる前に釈迦石仏の哀れさが目に飛び込み、ガイドの上を見上げてという言葉で我に返る。飛天の写真も撮影したが、ここでは公開していない。北魏の雲崗石窟から龍門石窟への最高傑作石仏群が、後世に残っておればと残念がるのは私だけではあるまい。
2010.03.10
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「奥さんに手渡しホッとした」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。今回、洛陽へ来た別の目的が、運転手が一生懸命働き、貯めた4000元(60000円)のお金を届けるためでもあり、洛陽のホテルへは、約束してあった運転手の奥さんと、娘が私の携帯へ連絡して来たので、ロビーで会った。奥さんと娘には2度会っていたので笑顔で会釈をしてくれた。そして私の前で、100元札を一枚一枚数えてバッグへしまった。ご主人より託されたお金を奥さんに手渡しホッとした。奥さん達は夕食前と言う事で、外へ出て食事をした。お勘定の時に、奥さんがお金を出そうとするので、貴重なお金を使ってもらうと、御主人に申し訳ないと、断り、勿論私が支払い、娘に小遣いを渡した。写真は、相変わらず顔をノミで削られた石仏である。
2010.03.09
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「現地のホテルで申し込んだ」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。今回は上海から洛陽へ直行便で飛んできた。午後の便で、来たので洛陽のホテルへ着いたのが夕方だった。今回は上海の旅行社は間に合わず、洛陽のホテルで、洛陽と少林寺ツアーを申し込んだ。翌朝8時半に、旅行社よりのバスが来たが、平日でもあり、旅行者はわずかに5人と少なかった。人数が少ない方が、ガイドにとっては有難いようだ。だが、集合時間等には余裕がなく、大勢の方が撮影が中心の、私にとってはありがたい。ガイドは私から離れずに困ったが、中国人からも、ガイドがピッタリでは、ゆっくりと撮影も、出来ませんねと笑われた。写真は龍門石窟の天井に、描かれた文字と模様で、石窟の広さは30坪以上。
2010.03.09
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「衝撃のあまり口に手を当てる」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。洛陽龍門石窟の石仏は悲惨な破壊をされてしまったが、中でも、上の写真の石仏が一番悲惨な様相。他の石仏への破壊は削り取ると言うより、石を割って壊す感じであった。だが、一枚目の写真は、それらの破壊とは違い、石材用の鋭いノミで、スパッと切られている。誠に痛々しい光景に、中国人旅行者からも、何というひどい事をと、衝撃のあまり、口に手を当てる姿が目に焼きついた。
2010.03.08
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「仏教はいつ頃から衰退したのか」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。中国の哲学と言えば、儒教がまず浮かぶだろう。儒教は紀元前700年以上前から存在する。孔子は紀元前500年前後に更に不動のものにした。道教は紀元前5世紀ごろと言われているが、実際のところ起源は不明とのことである。だが、紀元前5世紀ごろに老子が活躍しており、その後、紀元前3世紀ごろに道教を体系化している。仏教が中国へ伝来したのは、1世紀になってからで、中国では、すでに儒教や道教が広まっている中で伝来。しかし、10世紀ごろに仏教は衰退し始めた。
2010.03.08
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「美意識が少しずつ変化」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。日本へ仏教が伝来したのは6世紀の欽明天皇のころ。朝鮮半島の百済の使者が欽明天皇に金銅の、釈迦如来像や経典、仏具などを献上。飛鳥の時代より仏教は広まったが、日本には、石窟という文化はないのではないだろうか。飛鳥時代より仏教彫刻はあったが、鎌倉時代後期には、衰退し出しており、その点については、中国の仏教彫刻の、歴史の方が早く衰退している。中国では唐代以後の、石窟塑像から、美意識が少しずつ変化し豊満で壮健、落ち着いている感じを美としていた。
2010.03.08
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「石窟に費やされた歳月」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。洛陽から13キロ離れた所に龍門石窟がある。龍門山岩肌に彫られた石窟に費やされた歳月や、係わった人々の苦労は、ひとしおだっただろうと想う。493年ごろ、大同の雲崗石窟造りを引き継ぐ形で、洛陽の龍門山岩肌に龍門石窟が彫られていった、その年月は400年にわたって彫り続けられ、長さは1キロの間に2000を超える石窟がある。
2010.03.07
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「岩肌2キロにわたり石窟」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。洛陽の龍門石窟は中国三大石窟の一つであり、敦煌の石窟、大同の石窟と、この洛陽の石窟である。元々大同の石窟と敦煌の石窟の二つであったが、北魏から洛陽へ都を移した494年ごろから石窟が始まる。北魏から唐代末までの約400年にわたり石窟での、石仏彫りが続けられたものの動員された人たちも、この道のプロしか使えないだろうし、相当な人力とも、伺え、先祖何代にもわたり石仏彫りを続けて来た。石窟は龍門山の岩盤の山肌を2キロにわたり、彫られている。
2010.03.07
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「手を合わせている事を願う」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。中国の文化大革命ではチベットも大打撃を受けた。10日間に渡り紅衛兵は、チベット寺院内聖堂を破壊し、全ての仏像はもとより、聖典なども破壊された。戦前の話ではなく、1966年から10年間に起こった事である。洛陽龍門石窟の仏像を200人の学生が襲ったと聞いたが、紅衛兵の皆が、石材用のノミを持って破壊に来たのか。その頃の紅衛兵は今、55歳から60歳ほどの年齢である。今は、仏像の前で手を合わせている事を願わざるを得ない。
2010.03.06
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「歴代の王朝によって」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。洛陽の龍門石窟へは、洛陽駅からバスで45分ほどかかる。龍門石窟バス停を降りて、標識の通り歩いて15分ほど、黄河の支流に面した岩壁に沿って造られており、大小の石窟群に1万体の石仏があるのかと思ったら、10万体以上あると言われ驚いた。現在2500もの石窟があり、今から約1500年前に北魏が、大同から洛陽に都を移した頃から龍門造営が始まった。隋、唐などを経て宋に至る歴代の王朝によって、掘り続けて来られたが、その苦労して彫った仏像に頭はない。
2010.03.06
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「太陽の光で明るかった」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。敦煌の石窟では、盗難に遭うため、また石窟の盗難を防ぐため石窟の入り口に、頑丈な鉄の扉を取り付け、二重の鍵が取り付けられていた。だが、洛陽の龍門石窟では、一切囲いも鍵もなく、それにより盗難や傷つけられる可能性は高いが、敦煌の石窟に比べ、洛陽の石窟は太陽に照らされ明るかった。
2010.03.05
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「鋭いもので削ぎ取られていた」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。以前訪れた敦煌の莫高窟での石窟では洞窟の中に、掘られていた石窟の中には、盗難に遭った仏像もあり、残念な事であるとガイドの女性も悲しんでいた。今回来た龍門石窟の仏像は、ほとんどが首や手が、鋭い刃物で削ぎ取られていた。私は他の中国人団体のガイドの説明を聞いた所、文化大革命の頃に紅衛兵を筆頭に押し掛け、削ぎ取って行ったという事だが俄かには信じられない。
2010.03.05
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「娘と妻に届けるもの」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。今回、湖南省洛陽や開封へ来たのは、もう一つ理由があった。いつも私を送り迎いをしてくれている運転手の故郷が、湖南省洛陽であり、奥さんに届け物をするためだった。届け物は、かさ張るものではなかったが、運転手の6歳になる娘と妻に届けるもので、運転手が一生懸命働き、貯めた4000元(60000円)の金を届けるために行った。だが、私が洛陽へ旅に出ると言ったのが事の発端だった。
2010.03.04
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「得意になって話してくれた」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。河南省には鄭州市、開封市、洛陽市など合計17市ある。今回 その中の洛陽市と開封市へ何故行ったのかは、私のいつも行く目の不自由なマッサージ師の故郷が、洛陽市だったという単純なことから行った。マッサージをしてもらう度に洛陽の話を、聞いており、竜門石窟の話は得意になって話してくれた。だが、目の不自由な人がどうやって広がる光景を、あたかも見たように言ったのか謎だったが、小学5年生頃から、段々と目が見えなくなり、それまでは見えていたと事だった。洛陽に行く為のもう一つの目的の為と旅に出たが、それは只の言い訳だったのかも知れない。
2010.03.04
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「一体中国のどの辺りなのか」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。河南省と聞いても一体中国のどのあたりなのか、分からないことと思うので説明したい。北側に河北省、東北側に山東省、東南方向に安徽省、北西側に山西省、西側に陝西省、南側には、湖北省と隣接している。河南省の大部分が黄河の南方向にあるため、黄河の河と黄河の南側とで河南と称されたが、河北省の、名前の付け方も、黄河の北側だけで付けたのかなどと思う。人口はというと、四川省とほぼ同じで約1億人。四川省と河北省の人口だけで日本の人口をはるかに凌ぐ。
2010.03.03
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「実に単純な事で決めた」 「中国写真ライフ」では、河南省の洛陽・龍門石窟の写真を公開しています。今回から中国の河南省西部にある都市の洛陽。洛陽と言っても、私が日本にいる頃には噂でしか知らなかった。中国へ来てより一体何回となく洛陽の地名を聞いた。今回なぜ洛陽に来たのか、それは実に単純な事で決めた。
2010.03.03
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「今生の別れと悟る」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。外藩の王が側妾を欲しいと聞き込んだ徳全・王仁と、賈環・賈芸は、巧姐を嫁がせ儲けようと企て、輿入れと言う事になったが、巧姐と平児は寝耳に水で驚く。そこへ現れた劉婆婆は、私の住む村へと提案し、合意を得ると車を用意し巧姐を乗せ栄国邸から脱出させる。一方、宝玉は科挙受験に出向く前に、妻の宝釵へ手を胸に当て挨拶をした時、宝釵は宝玉と今生の別れと悟り、涙があふれ出る。宝玉は科挙の受験後に行方不明となったが、賈政は史太君の柩を、守り金陵まで来ていた途中、雪の中で自分に向かって拝礼する者の姿を見る。坊主頭に裸足に宝玉では?と問う賈政に、悲しそうな、仕草をする宝玉だが、僧と道士と共に背を向ける宝玉を追っただが、宝玉ら3人の姿は靄の中に消えてしまう。その事を知った襲人は、すべてが前世からの、因縁だという事を悟ったように一点を見つめた。紅楼夢の話はこれで終わり。だが、中国の友人達は紅楼夢を18世紀清の時代の皇帝風刺だと言う。私は飲酒が過ぎて他界した作者の曹雪芹は、前世・現世・未来世の三世の因果を書いたのではと思う。おわり
2010.03.02
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「自身の素性を知り出家する」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。史太君は心労続きで胃を悪くして大病を患い、83歳で家族の見守る中、他界してしまった。史太君の侍女の鸚鵡は柩の前で泣き崩れる。鸚鵡は殉死をするべきか、考えながら歩いて行くと、誰かが首にロープを、掛けようとする姿に出会った。それは秦可卿だった。鸚鵡は自分に死に方を教えてくれたと信じて、梁に腰帯をかけ、首を入れた。史太君の葬儀の夜、栄国邸に強盗が入ったが、美貌の妙玉に惚れ、動けなくした妙玉を背負って、城門を抜け出し連れ去ってしまった。気丈だった王熙鳳も病で床に伏せる事が多くなり、栄国邸に強盗が入った後は起き上がれなくなった。熙鳳が死に追いやった尤二姐の亡霊にうなされる毎日だった。そんな時、劉婆婆が史太君の悲報を聞き悔やみに訪れる。以前は劉婆婆が熙鳳に頭を下げてお願いした。だが今回は、劉婆婆の願掛けに、熙鳳は頭を下げ最後の望みを託した。王熙鳳の体力は日に日に落ち、王熙鳳は、26歳の若さで、この世を去ってしまう。一方通霊宝玉を、受け取った宝玉の霊魂は、僧のあとに着いて、幻境の前まで来てた。宝玉は、再度、金陵十二釵を読み、終に自分の素性を知り出家を決意する。
2010.03.02
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「喀血して倒れてしまった」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。林黛玉の所に王熙鳳と王夫人が来て、嫁にやる話をするが、死んでも、江南には戻らない、たとえ侍女となり暮らしても良いから置いてと、史太君に頼んでみるが手遅れだと聞き入れてくれない。黛玉は泣いて、頼むがどうにもならなかったが、それは夢だった。熙鳳は史太君に、宝玉の縁組で金の錠前を持っている者と結婚をすると言い、史太君は、納得して黛玉と宝玉、宝釵と宝玉の運命が決められてしまったようだ。ある日賈政が涙ながらに入って来て貴妃が急病で、助からないと話す。史太君と王夫人が見舞うと、貴妃は痰が詰まり、物言えず、涙も枯れて、貴妃の顔色が変わってしまっており、やがて貴妃薨去の下達がある。通霊宝玉を失い白痴状態お宝玉を救うために、史太君は宝玉と宝釵の、婚儀を急ぎ行う事を決める。襲人は宝玉の黛玉を想う気持ちを考え、王夫人から史太君に報告する。黛玉は宝玉と宝釵の婚儀の事を感じ、黛玉は宝玉を探し宝玉の病気の原因を聞くが、宝玉は黛玉が原因だと、答えた為、黛玉は走って瀟湘館へ戻ると喀血して倒れてしまった。 「涙は枯れ果て一滴も出ない」 「中国写真ライフ」では、上海「大観園(紅楼夢)」の写真を公開しています。林黛玉の容態は急激に悪化し、不安になった紫鵑は史太君へ、報告に走ったが正房も宝玉の部屋にも誰も居なく呆然とする。墨雨から今晩、挙式をすると聞いた紫鵑は黛玉と結婚するはずと、涙を流しながら瀟湘館に戻るが、黛玉は高熱で苦しんでおり、もはや口も利けねば、涙は枯れ果て一滴も出ない感じだった。紫鵑から宝玉は宝釵と結婚すると聞いて、恨みを言い残し、林黛玉は宝玉の挙式の時刻に息を引き取ってしまった。一方、宝玉の体も良くなり、新婦の赤い被り布を取った宝玉は、黛玉の筈が、宝釵であるのを見て呆然とし、黛玉に、会いに行くと言うが、宝釵から黛玉がこの世を去った事を、告げると、倒れ込み寝込んでしまった。大観園に亡霊が出る噂が流れ、怖がって園内の管理もずさんになる。熙鳳は秦可卿の幽霊に会い、死に追いやった尤二姐の亡霊も、尤氏は精神の病になり、賈蓉・賈珍も次々に病に倒れてしまった。盛大に妖魔退散の法要を行ったが全く効果はなかった。宝玉は宝釵の誕生祝を抜け出し大観園に入り、黛玉が亡くなったあと、いつも黛玉の泣き声がすると、言われた宝玉は、黛玉を殺したのは私だと涙を流して言う。襲人は急ぎ宝玉を大観園から宝釵の元へ連れ戻した。だが、宝玉は表の間で就寝し、奥の間で寝た宝釵は、なかなか、寝付けれない一夜を送った。
2010.03.01
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