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「汕頭旅情11」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。広東省汕頭から35キロほど車で行った所に、東山湖温泉リゾートはあり、潮州市が管轄し、中国でのAAAAクラスの観光スポットである。2005年10月に東山湖温泉リゾートが、オープンされて、福建省や広東省広州や、深センからの観光客も多く賑わっている。1400年以上前の隋代に潮州となった都市より、20キロほど離れた所に2001年より、開発され4年半の歳月を費やした。 マルコ・ポーロ旅行記によると、800年前、南宋の首都の杭州に、ヴェネチアから旅して来たマルコ・ポーロは、一度に100人が入浴できる大きな浴場が、多くあったと記している。また大きな浴場には、召使が大勢控えており、男女を問わず、客が入るとその沐浴の世話をし、人々は、入浴する習慣がついているので、体を洗ってより食事する習慣になったと記している。私も中国各地を旅したり、出張に行ったりして、大きな浴場にも入った事はあるが、現在では、そのほとんどが、サウナとして利用されている。中国の一般家庭や一般のマンションには、浴槽は設置されておらず、シャワーのみである。私は1万元ほどの費用で浴槽を設置して、肩までお湯に浸かれるようにし癒していた。 「汕頭旅情12」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。広東省潮州と汕頭と掲陽三市の中心に、東山湖温泉度假村があり、私は温泉で服を、脱いだものの温泉には入らず、温泉の外の風景を散策していた。写真の植物は何という名だろうか?インド原産の「デイゴ」という花だろうか?まだ蕾だが、これから花が咲くのだろうか?花の名前は、無知に近いほど知らない。代表的な花の名前と花の姿は一致するが、分からない方が多過ぎるが中々覚えられない。上の写真は「ソテツ」であるが、日本には1200年前に、中国より入って来たものということだった。ソテツの種子や茎幹には、中毒作用を起こさせる成分が、含まれており、嘔吐やケイレン、肝不全や腎不全、最悪の場合は死亡に至るとのことであった。私は、ソテツをまだ食べたことはなかったが、小さいころに、毒キノコを間違って食べ、2日間、嘔吐と発熱に悩まされたことがあった。山へキノコ狩りに行って、麓でキノコを洗って、焼肉を食べながらキノコを焼き食べた。どうやら、その中に毒キノコが混ざっていたようだった。そんなに多くは食べなかったが、私と同級生の、 Aくんも同じ症状で学校を2日間休んだようだった。
2010.10.31
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「汕頭旅情10」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。汕頭から50キロほど離れた所にある温泉へ向かった。着いた先は、潮州市潮安にある?山湖温泉度假村。今回の現地ツアーは、男の私と女性3人の4人と男女2人、あとはガイド、運転手の合計8人であった。温泉に行く事は、アモイのホテルを出発する時より、知っていたが、水着持参という事を聞き逃してしまった。また男女2人は温泉には入らないという事と、運転手と、ガイドは控え室で待っているとの事で、私は男湯で、3人の女性は当然の如く女湯ゲートに入っていった。入浴料140元(2000円)を支払い中に入ったが、温泉で水着の、着用が義務付けられているとも知らない私は久しぶりの温泉に、素早く服を脱ぎ捨て、素っ裸になり中に入ろうとした。係員が慌てて中に入ろうとする私を制止し早口で水着をと話す。これから入ろうとする人がいて、その姿はロング海水パンツ。タオルも何も持っていない私は思わず手で前を押えるのが、やっとであり、何とも惨めな思いをしてしまった。20元で水着を貸すと言われたものの、誰が穿いたか分からない、水着を穿く気持ちになれず、支配人に付き添ってもらい、お金を返してもらいに行ったが、なんとも情けなかった。さらに控え室に居るという運転手とガイドを探して頂いたら、男女2人もガイドたちと一緒にいたが、恥を忍んで訳を話し、温泉の入浴はあきらめて、外回りの写真撮影をすると伝えた。ガイドからは、温泉に入りますかって聞いた時、入るとの事で、ホテルで聞いて水着を持参しているものと思っていましたよと、申し訳なさそうに話すが、運転手は笑っていた。その後、温泉の玄関前の駐車場での待ち合わせ時間を聞いた。3時間後に落ち合いましょうとの事を言われ、運転手と一緒に、車まで行き、カメラ取り出し一礼をして外へ向かった。外に出て、何気なくシャッターを押しながらも、温泉の事が、浮かんでは消えていったが、私も今までに水着を着て温泉に、入るという事は聞いたことはあったが、私自身経験はなかった。上海の高級サウナは勿論こと、街の銭湯でも水着を着けて、入った事は一度もなかったし、日本では全く無かった。確かに、プールでは水着を着けるのは当たり前でるが、ある日本の温泉場の露天風呂では水着着用と聞いた事がある。実際には、入った事もないし水着を着ての入浴にかんしては、さっぱり感に欠けるのではないかと思ったりもした。
2010.10.30
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「汕頭旅情8」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。福建省で思い浮かべるのはウーロン茶である。次に連れて行かれたのは、お茶の専門販売店。だが、店の中を見渡しても烏龍茶コーナーは、小さなスペースしか取っていなく、雲南省の、お茶が所狭しと並んでおりおかしかった。雲南省へ旅した折に購入したプーアル茶は、紅茶味で砂糖を少々入れると美味しく飲めた。普?茶をプーアル茶と読み、中国元代以後の明代に、雲南が領有され、中国でも知られるようになった。清代ではプーアル茶が雲南からの献上品に指定され、朝廷で愛飲され、貴族たちにも多く愛飲された。だが、文化大革命で、手間の掛る製造方法が、文化大革命の大躍進主義に反すると否定された。因って、多くのプーアル茶が香港、台湾に持ち出され、現在では雲南のプーアル茶より台湾の方が知られる。 「汕頭旅情9」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。写真は、お茶販売店の裏庭に通されて撮影した。中国で三千年の歴史のある苦丁茶はダイエット上手。私は10年ほど前に苦丁茶を中国上海地元のスーパーで、購入して半年ほど飲んだ事があり、その折に体重が、普通に生活していて苦丁茶を飲み、3キロ痩せた。だが、苦丁茶の苦さに着いていけれず飲む事をやめた。その後、2ヶ月で元の体重に戻り3ヵ月後リバウンド。そのリバウンドは止まらず、苦丁茶を飲み始めた頃より、4キロも太ってしまった苦い経験がある。最近、苦丁茶が健康に良いと静かなブームになっている。苦丁茶は四川省で作られており、日本の商社が入って、苦丁茶を輸入しているが、四川省の生産地では、苦丁茶の値上がりにより、販売価格が値上がりした。庭には殆どが鉢植えで育てられている「お茶の木」だった。だが、庭の片隅の鉢には立派な「ザクロ」が置いてあった。ザクロの実が、はじけるまでには少し間があるようだが、なぜ、お茶の鉢の間にザクロの木があるのかと思った。その答えは、ザクロ茶を作るための見本の鉢植えだという。私はザクロ茶は初めて聞いた言葉だったので、店にある、ザクロ茶を飲ませてもらったところ、甘酸っぱい感じだった。ザクロ茶には女性ホルモンが多量に含まれているとのことで、女性ホルモンのエストロゲンが作用することにより美肌や、更年期障害、生理不順、冷え性などに効果があると言われたが、私に当てはまるのは冷え症ぐらいかななどと思いながら飲んだ。
2010.10.29
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「汕頭旅情7」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。第二次アヘン戦争をアロー戦争と呼んでいる。1857年~1860年にかけて清とイギリス軍や、フランス連合軍との戦いが行われた。アヘン戦争が終結したものの、イギリスとの戦いが、続くという形で第二次アヘン戦争と呼ぶことも多い。第一次アヘン戦争後、国内での反英運動により、イギリスは期待した商業利益を上げれず、再び戦争を、起こし条約の改正をとの意見が強くなってきた。そんな折、絶好の口実ととなったのがアロー号事件である。1856年10月、清の海上警察はイギリス船籍のアロー号に、臨検を行い船員12名を拘束、うち3人を逮捕した。イギリス船籍に対する清警察の臨検は不当であると主張し、イギリスに対する侮辱であり、3人を釈放しろと抗議した。だが清国は交渉に応じようとはせず事実上決裂した。これが引き金となり第二次アヘン戦争が勃発してしまった。今の尖閣諸島問題に似ているが、日本は直に釈放した。イギリスと中国の衝突により第二次アヘン戦争が勃発した事は、理解できるが、なぜフランス軍までが参戦したかというと、フランスの宣教師が逮捕斬首された事を口実として出兵した。戦争の引き金となるのは、いつの時代も戦争を起こしたいが、きっかけがなく出来ずにいる。しかし、ちょっとした事が、縁になり戦争につながっていることが多いようである。だが、香港がイギリスより返還され、マカオもポルトガルより、返還された今、中国政府は日本に強硬な態度で接している。日本が侵略したのは歴史の通りだが、いくら中国共産党中央を、守る為でも、歴史教科書の日本の侵略戦争に関する内容を、毛沢東やトウ小平時代の教科書内容に戻してほしいと願う。n
2010.10.28
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「汕頭旅情6」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。アヘン戦争は第一次と第二次の2回勃発している。1840年11月、イギリス艦隊は清政府に対して、香港割譲などの要求を出すが清政府はこれを拒否した。18411月、イギリス艦隊は攻撃を開始し虎門の戦いでは、イギリス側は完全に制海権を握り、勝利を収めた。1841年5月、広州に上陸したイギリス軍は略奪や、暴行事件を起こして民衆の怒りを買っていた。清国も手が出せず、周辺の一万余の民衆が決起し、「平英団」を名乗り、イギリス軍を包囲して攻撃した。天が味方したのか豪雨降り続き、イギリス軍は火器が、使用できず、刀や矛で襲いかかる住民の攻撃に対して、銃剣で防戦するも、英軍は全滅し何とか脱出した。だが、兵器に優れたイギリス軍が勝利を収め1842年8月、両国は南京条約に調印し、阿片戦争は事実上終結した。清は多額の賠償金と香港の一部をイギリスに譲渡した。また清は広東、厦門、福州、寧波、上海の開港を認めた。イギリスと清との不平等条約に他の列強諸国も便乗し、アメリカ合衆国やフランスとも条約などが結ばれた。日本との戦争以前に、清国は煮え湯を飲まされたが、まだこれは第一次アヘン戦争で、第二次では更に悲惨だった。
2010.10.27
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「汕頭旅情5」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。第一次アヘン戦争は1840年から2年半ほど続いた。清国は国内に蔓延するアヘンに対し厳しく対処し、アヘン密輸に対する取り締まりを行った。1839年、イギリス商人が持つアヘン1400トンを、没収し焼却処分しアヘン商人たちを港から退去させた。39年11月、林則徐による貿易拒否の返答を口実に、イギリス軍は戦火を開き、清国船団を壊滅させた。イギリス議会では「麻薬の密輸拒否」の開戦理由に対し、反発が強く、野党保守党(現自由党)は猛反対した。理由としては、本国イギリスでも法律に触れるほどに、人を害すアヘンの輸入を断られたと言って開戦するとは、「こんな恥さらしな戦争はない」などと反対の声。だが、清に出兵する予算案は賛成271票、反対262票の、僅か9票差で承認されイギリス東洋艦隊を編成し派遣した。イギリス艦隊は、広東省や福建省へは出撃せず天津沖に出現。清国は急ぎ林則徐を解任しイギリスに対し弱腰になった。
2010.10.26
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「汕頭旅情4」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。広東省汕頭市中心から海岸沿いに走ると、清朝乾隆年間に造られた石砲台が見えてくる。堀に架かる橋には清朝皇帝を象徴するかのような、黄色の旗が橋の欄干の上に掲げられていた。中国で、象徴する色は、貨幣を象徴する色の、黄色であり、黄色は黄金の色でもある。中国で、黄色といえば皇帝にのみ使用が、許される特権的な色である。中国文化の影響により朝鮮や台湾の王も、黄色の服を着ており、深い黄色の服を、正装として着用するようになった。中国の僧やインドの僧も、黄色は仏教の、僧の衣に使われる聖なる色とされている。その反面、ポルノの事を「黄色」と言うなど、中国語で「黄」のつく言葉には悪い意味の、言葉に使われるようになって行った。はじめ「黄色片」と中国人から言われても、何の事かピンと来なかった事があるが、どうして黄色片と呼ぶのか意味は分からない。
2010.10.25
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「汕頭旅情3」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。アモイよりバスに揺られること3時間余りで、スワトウ刺繍でも知られる汕頭へ着いた。最初の目的地であるアヘン戦争時代に、造られたという石砲台である。アモイの胡里山砲台とはまた違い、小規模なコロシアムと言った感じだろうか。入場ゲートを潜り中へと入っていったが、石砲台前は、ちょっとした広場になっており、ローラースケートなどできそうな感じがした。200年は経っているのではと思われるが、保存状態は、それほど崩れてなく良いと思った。中国の皇帝の使う黄色の旗に龍の絵柄が、描いてあり、3m間隔で立ててあり、旗に目が行き、石砲台の影が薄かった。写真は石砲台に入って行く前に、花越しに、石砲台の一部を切り取ったが、花にピントを、合わせた一枚と石砲台の壁にピントを合わせた。堀の上に架かる鉄筋コンクリートで作られた橋を、渡って石砲台の中へと入っていったが、円形状に造られた石砲台の通気口の設備も、考えて造られており中は息苦しくは感じなかった。
2010.10.24
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「汕頭旅情2」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。アモイより3時間ちょっとで汕頭へ着いた。遼寧省瀋陽から広東省湛江を通り越し海南島への、フェリー乗り場の海安まで高速で行けれる。全長5千キロ以上で、日本が2つ入る長さの道路も、今では舗装された幅の広い道路が続いており、マカオで高速に入り汕頭までの単調な道であった。ほとんど仮眠状態だったが無事に来れた。単調な高速を降りて、市街地へと入った。道路事情や車の性能も良くなったものの、運転をする中国人のクラクションを、鳴らし続ける癖は直らず、交差点辺りは煩い。最近は少なくなったが、少し前は交差点の、ど真ん中であっても、車から降りて、つかみ合いの喧嘩をしており、それが始め二人が、いつの間にか6人で殴り合いをしている事もあった。目的地を間近にしてトイレ休憩で停車した所には、24時間営業のスーパーがあった。中国で24時間営業が広まりだしたのはコンビニの、進出が大きく影響をしているが、まだ10年ほど前の事。アメリカ資本のコンビニが中国大都市に出店し出したのが、15年前の事で、私が生活していた広東省広州でも、街角に海外資本のローソンなどが姿を現した。現在の中国の繁華街では、200m間隔にコンビニがある。勿論、内陸部の農村地帯には、その光景を見る事はない。北京や上海、広州や深センなどの繁華街でのコンビニの、進出はこの5年ほどで急成長したと言えよう。写真は、目的地近くなので、港の風景であるが、船に、コンテナを載せ終わったところで、クレーンが沢山、設置されており、広東省東口の貿易港の一コマ。これより第一目的地の清の康熙年間に沙汕頭砲台として、造られた石砲台公園へ向け走り出した。
2010.10.23
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「汕頭旅情1」 「中国写真ライフ」では、広東「汕頭・潮州」の写真を公開しています。アモイは福建省の南側に位置し、汕頭は広東省の、東側に位置していおり、距離にして250キロほど、離れているに過ぎず、高速で2時間半ほどで着く。朝6時にアモイを出発し、福建省と広東省の省境の、サービスステーションでトイレ休憩をとった。目的地へ着いた時刻は9時過ぎであった。道路案内の看板には、広東省と福建省へと、矢印で示されており、省境と言うこともうなずける。先にトイレを済ませた後、10分間の休憩の間、運転手に呼ばれるまで、辺りの撮影を続けていた。撮影をしている間に脳裏をよぎった事柄は、昔の中国のトイレ事情だった。私が25年ほど前に中国へ旅行した折に、良い感じがしなかった事柄は、トイレのプライバシー侵害と道路事情だった。道路と言えば、高速道路であっても、工事中の箇所が多く、高速を降りて脇道を、通ったら、舗装もしていなく車両の重みで道路が、凸凹になっており、気分の悪くなる人もみられた。先輩に聞いてみたところ、日本では50年前でも、道路の極端な凸凹は見られなかったと言う。トイレともなると、中国へ来る前にガイドブックで、読んだにもかかわらず、思っていた事とまるで違っていた。トイレには、隣りとの仕切りもなく、当然扉もなかった。一度、腹の調子の悪い時に、用を足したくトイレに入った。だが、ズボンを下ろそうとベルトを緩めたときに、前の人が頑張っている姿を見ながら、尻から物が落ちるのを、見たときに思わず後ろを振り返ると、やはり頑張っている。私も後ろから見られるのかと思うと、腹の痛みも、和らぎ用を足さなずにホテルへ着くまで我慢した。これは、女子トイレも同じ作りだったが、中国人に聞いても、それが当たり前なので、なんとも思わないようであった。水は溝へ流れるが、前から水が流れ、自分の股の下を、前の人の物が順に流れてくる光景は目を覆いたくなる。写真の「?歸」と書かれた「母が子供を抱えた像」だが、福建省から広東省へ、また広東省から福建省へと、働きに来ている子どもたちも多く、帰りを待ち望むという、意味の言葉が、母子像の下に書かれている。「?歸」の「?」は望むという意味で、「歸」は、帰りをとの意味になり、一つの標語なのだろう。やはり中国でも母が子供を抱く姿は微笑ましい。
2010.10.22
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「アモイ旅情33」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。コロンス島の「海天堂構」では東洋と西洋の、良いところを取り入れ、まとめた建物だった。2階の観音像が安置してあるところでは、観音像の高さに合わせて天井が高くしてあった。7mほどあろうかと思うほど背丈の高い観音像。手には航行の安全を願う舵を持ち海へ向かっていた。観音というと男性なのだが、後ろ姿は女性で、しとやかな仕草が観音像から伺えた。隣りの部屋も見たいと言うと係りの人が案内してくれた。ガイドは下に降りているからと私と係員だけだった。写真の楽器は南曲に使われたもので、宋や元時代以降、南方系の戯曲に用いられた曲調つまりメロディの総称。中国の南方系の歌曲を主体とする演劇を、北方系の北曲に対して南曲と呼んだものである。元々南曲は浙江省の温州が発祥の地といわれる。明日からの旅の写真は、アモイから250キロほど離れた、広東省仙頭から潮州の方の写真を公開していきたい。
2010.10.21
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「アモイ旅情32」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。コロンス島の「海天堂構」の中に入ると、先に通されたのが人形劇の舞台がある大広間。その「海天堂構」の人形劇その途中抜け出し、人形の保管してある所を、ひとり見て回ったが、その後私を探すのに、ガイドさんが相当苦労したようだった。その人形が保管してある人形たち写真はガイドさんが苦労して私を探し出してくれ、その後、2階の各部屋を見に行ったが、皆は、帰った後だったので、私一人の為に照明を点けてくれた。壁には中国の歴史上の人物の名前が書かれていた。中国へ来た当時は、中国歴史上の人物のホームページを、作るのに大変な思いをしていた時だった。その中国歴史上の人物のページは下をクリックすれば、見れるので時間・興味のある人は行って見て下さい。楽天とエンコードが違うので、EUCに変更して下さい。画面上のページ(P)→エンコード(G)→日本語(自動選択)「中国歴史上の人物」「中国歴史上の人物A~R」
2010.10.20
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「アモイ旅情31」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。コロンス島の「海天堂構」の門の前に辿り着いた。門を潜り中へ入ってより、振り返りまた門の外へ出た。門の上に取り付けられた「守り瓦」のデザインを、撮影したものの日本の鬼瓦とは趣きが違うようだ。守り瓦の周りには「炎」がデザインされていた。日本の瓦のような素焼き風ではなく、石を彫ったような感じにみえた。軒の彫刻も素晴らしく暫しの間眺めていた。彫刻というと木材を彫ったようだが、画像の門の軒は石のような感じだった。門を潜り中へ入り、門の裏側を撮影した。「鹿礁千頂」と書かれていたが意味は不明。私が見つからないので、ガイドが呼びに来た。ガイドと中に入り、門の方を振り向き撮影した。ガイドより「5人の人が待っていますよ」と言われ、先を急いだが「海天堂構」の正面を撮影した。1921年に建てられた3棟の建物からなる別荘だったが、10年前に2年の歳月を掛け修復工事を終えた海天堂構は、フィリピンの華僑の人の所有だという。
2010.10.19
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「アモイ旅情30」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。コロンス島で1900年ごろ建てられた各国の旧領事館脇の、大通りを徒歩にて、目的地の「海天堂構」まで向かった。旧領事館の洋館建ての傍らには清朝末期であるが、西洋の照明灯が設置され、人が住んでいるのか、吊るされた鉢に花が植えられていた。コロンス島は1900年以後共同租界地に定められた。各国の領事館や商社なども次々と建てられていった。また学校や寺院が建設されていったが、現在は建築物が、多く残る地域で観光化してホテルなどに変貌している。また、歩きながら思った事は、どこの通りを見ても、コロンス島には車の往来が極端に少ない。電気自動車でも、コロンス自治区で許可された車しか走行禁止である。今、中国では反日感情が露にデモにつながり破壊行為が続く。中国中央政府の権力争いを、このデモにより中央指導部の、失脚を狙ったものだと噂されているが嘘ではないようだ。四川成都でのデモから西安など大きな都市でデモが続いた。次の土日には、更に大きなデモを予定しているとか。以前の北京や上海や広州での大掛かりなデモでも日本料理店が、破壊されたことは記憶に新しいが、四川大地震で日本救援隊の、功績などで日本人の心を知った筈の中国人だったが、なぜ、デマメールに踊らされてしまうのか腹立たしい。
2010.10.18
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「アモイ旅情29」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイ港から見えるコロンス島の150年のあゆみは、アヘン戦争により1844年アモイにイギリス租界の開設を、認めさせイギリス人が住むようになり領事館も出来る。その後、国際管理地域となりドイツやアメリカまた、旧日本政府などもコロンス島に領事館を建てて行った。写真の旧日本領事館は1897年頃からコロンス島にある。他の国の領事館は観光ホテルなどに改築されているが、旧日本領事館誰も住んでいないような感じがした。コロンス島の人口は1930年には外国人600人ほど中国人、2万人ほどだったが、1937年蘆溝橋事件をきっかけに、旧日本軍は次々と中国各地を占領していった。1938年にアモイも占領されるとコロンス島の租界には、多くの難民が殺到し「安全地帯」が治安の悪化をたどった。 旧日本軍も真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発すると、コロンス島にも上陸してイギリス人やアメリカ人を、拘束したが、1945年の敗戦の2年前に旧日本軍は、共同租界を返還し消滅してしまった。戦争前は、外人専用の居留地に、中国人は入れなかった。当時の旧日本領事館に設置されていた監獄跡には、「旧日本帝国主義厦門領事館警察署地下監獄」と、書かれた石碑があったが、かなり重圧を感じた。コロンス島の観光は中国人が全体の90%を占めており、旧日本の生々しい石碑が、中国人の心を逆撫ぜしているようで、心苦しく、反日思想が、ここを見て更に広がるのではと思った。幸いなことに旧日本領事館は、少し奥まったところにあり、興味ある中国人しか目に触れず、一般の中国人は、知らずに通り過ぎて、中国人ガイドも触れなかった。今、中国西安やその他の都市でも反日デモが激しく、日本と関係のある運動具店や料理店などの破壊が続いている。
2010.10.17
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「アモイ旅情28」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。コロンス島のみやげ物屋さんの通りを歩くと、同じようなみやげ物を売る店が並んで建っていた。お茶を売る店や貝の飾り物や鞄や靴など、同じように集まって商売をしていた。その店の傍らに赤提灯が吊るされており、赤提灯には大吉大利と書かれている。大吉大利の意味は、万事好都合に運ぶ。また赤提灯には、よく使われる万事如意の文字。この意味も、万事が思い通りに運ぶとの意。少し歩くと風車が売られており、時折吹く風に、喜ぶかのように風車が音を立てて回っていた。みやげ物屋で唯一買ったものが福建省のお茶。下の写真のお茶は、ジャスミン茶類である。茉莉花茶や牡丹秀球、龍珠王や七仙女など。このお茶は、ブランデーグラスに丸めた珠を入れ、お湯を注ぎ込むと、花のように徐々に開く。ジャスミン茶の香りには、鎮静作用があり、心のバランスを整えてくれ、気持ちを和らげる作用がある。牡丹茶と呼ばれるものも、作り方は同じで、緑茶や黄茶を何枚も束ねて牡丹の花のように、作り上げたもので、ジャスミン茶よりも大きな花が開く。だが、私が買ったお茶は、烏龍茶で上海に戻ってより、烏龍茶を飲んだものの旅先で飲んだ香りの良い味はしなかった。やはり、雰囲気とお茶の入れ方やお湯の温度なども、関係しているのかとも思ったが、どのようにしても酷があり、それでいて甘さの残るお茶の味は思い出の中に残った。
2010.10.16
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「アモイ旅情27」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイ港からフェリーで5・6分の所にあるコロンス島。みやげ物屋さんが建ち並ぶ通りでは貝殻の首飾りや、装飾品として多く売られていた。風が吹くと吊るされた貝殻の打ち鳴らす音が響き、さわやかな音が心を清々しくしてくれた。通りには多くの貝殻が吊るされる店が連なり、貝殻の鳴り響く光景がいつまでも続いていた。アルバイト料が幾らなのかは分からないが、海岸で貝殻を拾い、錐で穴を開けタコ糸で、つなぎあわせるのも根気の要る仕事である。貝殻をつなぎ合わせるのは島民の、アルバイトでまかなわれているとのこと。みやげ物屋さんの店の隅には、花売り娘たちの、こけし人形が売られていたが、手に取って見ても、手間が掛けられ作られていた。だが現在では、写真のコケシのような花売り娘は、ほとんど見ることが出来ない。日本人形とは趣が違うが見ていても飽きない。
2010.10.15
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「アモイ旅情26」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。旅に出る前夜は中々寝付かれなく時間ばかりが、どんどん過ぎて行き、いつも旅行当日は睡眠不足。前夜に忘れ物はないかと考えてみるが、床についてから、思い出すものの翌朝にバッグへ入れればよいと動かない。特に冬の寒い夜は布団から出たくなく、そのままになり、朝6時出発という事もあり、慌しく部屋を出て忘れてしまう。今までに何回ともなく旅に出ているが、毎回持って行く物を、同じようにチェックしているから自分でも、おかしくなる。普段旅には三脚は重たいので持参しないが、今回の旅には、一脚を持参したものの全てを自由行動にしないと少人数の、現地ツアーでも決められた時間での行動には限界ある。土産物屋では女性用の布袋を買い、その中に一脚を入れた。肩から提げる布袋は定価60元(900円)を28元(420円)で買った。写真は土産物屋の店先で売られていた操り人形だが、福建省泉州や?州、広東省の潮州また台湾で人形劇として、現代に伝わっており、布袋人形劇で使われる操り糸人形だ。1750年ごろから布袋劇が巷に流行しており、人形の頭部や、手足部は木製で出来ており、身体部は布製の衣服を着せた。元々、手を人形衣装の中に入れて操作するが、操り糸を、巧みに操り劇を演出して行ったが、布製の袋を使って、劇をしていったので、布袋劇という名前がつけられた。福建省?州は昔から、生活が不安定で、災難に見舞われ、天を敬い巫女を尊ぶという風習が盛んであったので神秘的な、人形劇が民間でひろく流行していた。清朝や中華民国時代には、人形劇を演じる小屋も多くあり、娯楽の少ない時代の中にあっても、相当盛況であった。中国では人形劇に関する記述が非常に多く、紀元前900年頃、西域の人形使いが王朝に芸人を連れて人形劇を行った。 福建省の泉州の指人形劇では、人形は手で直接操られる。 指で直接人形を操る方法も盛んに行われていたという。 長い歴史の中で人形芸術は次第に豊富になっていった。またより完全なものを求めて、操作方法も多くなって行った。現在においても、人形劇は各地で行われているが操作方法は、場所や劇団により、糸で操る人形や手を入れて操る方法、また棒で操る人形や指人形などと種類も多くなっている。糸で操る人形は、全長30センチ前後のものが多く関節も動き、そのため、関節など動く部分には、操るための糸がつけてある。一つの人形に20本以上の糸がつき、すべての糸は操るための、板に繋がれており、操る人は板をつかみながら、糸を操作する。京劇の人形などの動きは複雑で操る糸の数も多くなっている。
2010.10.14
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「アモイ旅情25」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。コロンス島の食堂街で昼食をとったが、ガイドに、連れて行ってもらったレストランのメニューに、書いてある高い価格を見て、私だけレストランを後に、安いメニューのレストランの所に行った。外で探したたレストランでは半額以下の価格で、食べられ満足しながら、同行の旅行客が食事中の、レストランへ入って探したが見つからなかった。私が、外へ出て何軒かのレストランに入り安い所を、探す時間に15分ほど掛かり、皆より遅れてしまった。ガイドへ携帯から電話を入れた所、皆は買い物しているから、貴方も買う物があれば1時間の自由行動にしますが、あまり遠くへ行かないようにして下さいと電話は切れた。食事前に皆で集まった時にも、私が外で食べるとガイドに、伝えた時にも自由行動の事を話していなかったので、食事中か食事終了後に皆に話したのだろうと思った。昔、初めて中国にて1人食事をしたとき、メニューを見ても、どんな料理なのか分からないので、4品とスープを頼んだが、ウェイトレスから、これだけで良いですかと聞かれ、少ないのかなと思い、あと1品注文すると、ウェイトレスは、これくらいですねと言ってカウンターへ戻って行った。暫くすると、テーブルに5品のおかず類とスープが並んだ。私は、それを見ただけで腹一杯になったような錯覚に陥った。照れ隠しに鞄へ入れてあった新聞を広げて顔を隠しながら、その新聞の脇からおかずを箸でつまんでは、口に運んだ。ウェイトレス達は、この人はこんなに注文して一体どうやって、食べるのかと興味ありげに私のテーブルの周りに集まって、来ており、中には可笑しいのか手で口を押さえている人までいた。1皿の大きさは直径25センチほどあり5皿全部山盛りだった。スープはと言えば、直径30センチほどあろうかと思うほど、大きな器に並々のスープが入っており、小皿に取り飲んだが、大き目のレンゲで何回となく、よそったものの中々減らなかった。結局、ビールとスープで腹が膨れ5品のおかずは殆ど減らずに、当時弁当が3元(45円)の時代に、240元(3850円)の勘定を払い、その苦い経験が、その後の中国生活の中で大いに役に立った。写真は土産物屋に並ぶ、いろいろな土産物類の画像である。
2010.10.13
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「アモイ旅情24」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。コロンス島に着いてより、緩やかな上り坂を歩き、アヘン戦争後に各国の領事館が広東省や福建省に、作られたが、コロンス島にも多くの国の領事館があり、女性ガイドの説明を聞きながら歩いた。道なりに歩いて行くと「海天堂構」へ着いた。現地ガイドと共に歩いてきたが暫しの間はぐれてしまった。旅行の1ヶ月前から、アモイの旅行社のガイドと、メールでコンタクトを取りながら決めたコースだった。団体パックツアーではなく、ほとんどがフリーだったが、ガイドをつけてもらい、ツアーの2割増しの料金で、8日間の費用をネット銀行から振り込んであった。8日間の中で私一人のためにガイドが着いた日が、1日だけ私一人にガイドがついてくれた。その他の日は、多くて8人、少なくて3人ほどで、ガイドが1人ついて案内してくれた。コロンス島へは、6人のグループに私は同行した。私以外は皆さん中国の人で、福建省以外から来ていた。昼食になり、ガイドが連れて行ってくれたレストランに、入ったものの相席と言う事も出来ず、私一人でメニューを見て注文しようと思ったが、最低で80元(1200円)だった。人が込みだしたので、ウェイトレスに手を挙げて、私は外で食べると言い置き、5人の旅行者に挨拶し外へ出た。中国での一人旅で困ることの一つに、食事をする事だった。中国料理の1品を頼むとボリュームがあり、1品だけでは、なんとなく殺風景なので、あと1品とスープを注文すると、スープだけで腹いっぱいになるほど大きな器に入っている。野菜なども大きな皿に山盛りでほとんど残してしまう。3・4人ほどで注文するとちょうど良い量である。
2010.10.12
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「アモイ旅情23」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイ港から500mほど離れた所にあるコロンス島。ガイドブックには、コロンス島は1.7平方キロと、島を一周しても、6キロから7キロほどの広さでしかない。またコロンス島では、ガソリン車やディーゼル車などの、車の走行は禁止されており、電気自動車でも許可証を、持っていないと走行が出来ないようになっている。現在でこそエコロジーのエコにやさしい、環境保全を、念頭においた物づくりが、当たり前のようになっている。コロンス島では島を挙げて、環境保全の意識が高く、ゴミなども、中国本土のように散乱はしていない。私は、朝から午後4時過ぎまでの7時間ほどかけて、のんびりと島の中を歩いてみて回った。島には、中国本土に比べ猫が多いように感じた。だからと言って、猫にえさ付けをしていると言うのではなく、路地にも食べ物が産卵している光景は見受けられない。写真は数え切れないほどの、赤いちょうちんが、路地の3mほど上に吊り下げられていた。みやげ物店の多さは、観光客がいかに多いかを察し出来る。若い中国人女性の姿も向けられたが、熟年夫婦の姿や、日本で言うところの婦人会のツアーも多く見られた。
2010.10.11
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「アモイ旅情22」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。8時にホテルを出てアモイ港へ着いたのが、8時45分だったので、45分ほど掛かった計算。アモイ港からコロンス島へはフェリーで5分間。ホテルからアモイ港まで車で15分。所要時間は、20分ほどで残りの25分は待ち時間ということになる。朝8時という時間も手伝い思いの外、早く着いた。写真は、コロンス島の港付近の高台より撮影。下の写真は、コロンス島のコロンスの中国語で、「鼓浪?(gu3lang4yu3)」読み方はグランユイ。楽天ブログでは、中国語の簡体字は文字化けする。ゆえに写真の港のビルに掲げた中国語違う。鼓浪?の?の文字であるが、写真とは違う。簡体字では文字化けするので、実際に書くと、?(yu3)だが、文字化けというより「?」マーク。鼓浪?の?の意味は、小さい島という意味である。
2010.10.10
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「アモイ旅情21」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイ港からフェリーに乗ってコロンス島へ向かった。フェリーといっても立ったままで、押し競饅頭状態。港では「執勤」の赤い腕章をした人民解放軍の警備員が、誘導しても誰も指示に従わないので困った様子だった。中国語で「執勤」とは職務を執行するとか当直の意味。フェリーは5分に1回のローテーションで出港していた。アモイ港からコロンス島までは500mほどの距離しかなく、通勤ラッシュほどの混みあいだったが、5分ほどで着いた。フェリーの中では、すし詰め状態だったものの私が、乗ったのは最初であり、窓越しに撮影が出来た。フェリーより早い高速船やモーターボートが追い抜き、次から次へとフェリーのすぐ近くを走り抜けて行った。また海の深さを示すゲージの目盛りは4mを差していた。軍艦などあまり大きな船は入って来れないのかも知れない。コロンス島についての説明は次ページでしていきたい。下の写真のバックに見える洋館造りの建物は、数十台の、オルガンが展示されており、パイプオルガンもある。
2010.10.09
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「アモイ旅情19」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイ市内のホテルをネットで予約をしておいたが、厦門旅行社の女性ガイドとメールのやり取りで、決めてあったのは、8日間のスケジュールのみだった。アモイへ着いて私の予約したホテルの部屋へ入ってより、ガイドより携帯に連絡が入ったが、ホテルはどのように、予約を取ったのかとの電話の内容であった。ホテルの予約は、ネットで調べて予約を取ってあり、ネット銀行よりは振り込んでいないことを告げた。さらに、ガイドより電話のあったホテルには2日分の、ホテル宿泊料金を先に支払ってあることも告げたところ、宿泊条件が良くないので、ガイドの方でホテルを、用意するので暫く待ってくださいと電話は切れた。10分ほど経ったころ、ガイドより連絡が入ったが、フロントに代わって下さいと代わったが、福建の言葉で、詳細な内容は分からないが、大きな声をあげていた。フロントの女性から、何か話があるそうよと携帯電話を、渡され、聞いてみると、ホテルを換わるように言われた。電話は切らずに、2日間分のホテルの前払い宿泊料金は、返してもらえるかどうか聞いたところ、キャンセルは、出来るが、宿泊料金は全額頂きますと言われた。ガイドが慌てて用意したホテルも当然宿泊料金が発生し、ダブルで払うような、お人よしではないので既に2日分、支払ったホテルに宿泊することにしガイドにまた電話した。何ともドタバタ騒ぎで、ホテルのフロント嬢も気分悪そうな、表情を浮かべていたが、何とも疲れてしまった状況だった。ガイドと言っても、私を直接案内する女性ではなく、アモイの旅行社の支店長補佐のような仕事をしていたが、このような、状況に陥ってしまうとガイドに頼まずに、すべて自分の責任で、手配した方が良かったとも思うが、何とも難しいところ。写真は、ホテルの屋上からホテル付近の夜景を撮影した。手持ちでスローシャッター撮影で画像は手ブレを起こしている。写真に写っているフランス資本のスーパーカルフールへ、買い物に行ったが、品数が多く何でも揃っていた。
2010.10.08
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「アモイ旅情18」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。写真の像の鄭成功は長崎県平戸で生まれ7才まで平戸で過ごす。1631年、7歳の時に父の故郷である福建に連れて来られる。鄭成功は1661年に台湾を占拠したが、彼自身の目標だった、清朝を倒し明朝を復興させる「反清復明」を果たす事無く死去。彼の死後、福建省でも台湾からも民族的英雄として描かれる。船は、コロンス島に建つ鄭成功像の近くを航行し金門島へ。船の中では退屈そうにしている人や居眠りをしている人など、何もない単調な海上では仕方がないが、私は甲板の上に立ち、薄っすらと霞んで見える金門島を見ていた。間もなく金門島付近とのアナウンスがあり、私が甲板に上がり、10分もしない内に、どんどん人が甲板に上がってきた。船のエンジンが低速に落ちたと感じたとき、金門島へ着く手前、300m付近でエンジンを停止させ、徐々に舵を切り方向転換。カメラに望遠レンズを装着し素早くシャッターを連射したが、300mの空間の霧で金門島は霞んで見えていた。私は上の写真の「三民主義統一中国」のスローガンの撮影に必死で、ふと他の人を見ると、霞んだ金門島をバックに記念撮影をしていた。まだ30年ほど前まで、この海峡で大砲の打ち合いが続いていたとは、想像していた光景とは違い、記念撮影場所に変わった台湾海峡に、軍事衝突など起こりえない平和な台湾海峡を見る事が出来た。
2010.10.07
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「アモイ旅情17」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイ港より金門島手前を遊覧する船に乗った。出港してより、単調な海の景色なので、船の中では、歌や踊りが披露されたが、写真の女性は踊り子。早いリズムに乗り軽快にダンスをしていたが、ジャズダンスでもハワイアンダンスでもなく、どちらかといえばバリ島で見たダンスに似ていた。また女性の左腕には「尼傘?」と書かれているのか、タトゥー(tatoo)が彫られていたが意味は分からない。男性二人と女性二人で、男性はドラムや管楽器担当。女性の一人は弦楽器と踊り、そして写真の女性。船は50分ほどで目的地である金門島から300m地点へ。アナウンスがあった方向を見ると、金門島に大きく、「三民主義統一中国」と書かれたスローガンが見えた。
2010.10.06
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「アモイ旅情16」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。胡里山砲台を見終えた後、アモイ港へ向かった。目的は、アモイ港からコロンス島横の海峡を通り、金門島から3キロの地点へ向かうためであった。金門島へ行ってしまえば航路船ではないので、領土侵犯になり兼ねないために3キロ手前までである。私が乗る船を捜しながら歩く道すがら撮影した船。「厦門航道管理」と書かれているが「厦門」とは、「アモイ」の事で、「航道」とは「航路」のこと。アモイ港へはマカオや香港、上海などや日本からの、航路もあるが、「アモイ航路管理局」は主に、アモイと金門島を結ぶ航路を管理している。まだ30年前まで中国から大砲で撃っていた海峡で、金門島は台湾の領土であるので管理強化している。上の写真の船の名前は「新和平」と書かれているが、日本読みなら「新平和」である。何とか船の、名前のように、平和外交をと願うが難しいようだ。領土問題では、尖閣諸島問題で未だに未解決のまま。領土問題は、一つ誤れば戦争につながってしまう。中国は今、多額の資金援助をギリシャにするとのこと。今後、国際社会はどうなるのか。小泉元総理時代の、靖国参拝問題で中国は揺れに揺れた。また近くて遠い国に逆戻りしなければ良いがと思う。
2010.10.05
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「アモイ旅情15」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイの胡里山砲台にある博物館の中に入り、写真を構えようとした所、至る所に撮影禁止標示。係員に撮影してもよいかを聞いた所、個人で、収集したコレクションなので、この中での撮影は、出来ませんと言われ、簡単に見学後、外に出た。胡里山砲台の下り坂の道なりの石段を降りて行くと、清朝の兵士の姿をした40人ほどの人たちが、大きな号令を合図に整列を始め、広場を周回し出した。私は急ぎ広場に下りて行った所、兵士の先頭は、私が降りてきた坂道を登りだしたので、また慌てて、その兵士たちの後を追ったが、急ぎ足で、あとを追ったが、駆け足でないと間に合わなかった。私が降りて来た坂道は途中で分かれており、イベントの兵士の一行は砲台跡の高台へ向かった。私は運よく胡里山砲台公園で行われるイベンに、遭遇したことに興奮するとともに、係員の制止を、背に砲台跡の高台で望遠鏡を覗く元帥の姿を撮影。その後、松明を大砲に近付けたかと思うと、すさまじい音に驚くと共に、暫く耳がおかしかった。空砲は2発鳴らされたが、辺り一面火薬の良い匂いが、充満していたが、煙で兵士たちの姿が隠れてしまった。
2010.10.04
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「アモイ旅情14」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。胡里山砲台に設置されたドイツ製のクルップ砲。清朝がドイツに支払った金額は、日本円に換算して、約108億円相当を支払い購入した。ドイツからアモイまでの輸送期間は3年を費やしたが、イギリスとのアヘン戦争の敗北が教訓になり購入した。アモイにクルップ砲が装備されてより発射した大砲は、3発だったが、3発の内訳は、試射2発の大砲と、実践では1発の大砲の合計3発のみだった。では、クルップ砲を本番で発射したのはアモイに攻め、入って来た旧日本海軍の軍艦へ発射。命中したものの、沈没までには至らなかった。旧日本海軍は、その後アモイを占拠し広東省へ侵攻。クルップ砲は、108億円で購入したものの結局、3発の大砲を発射したのみで終わってしまった。写真の移動式のアームストロング砲の方が機動力を、発揮したとのことであった。戊辰戦争や西南戦争の頃の日本で使われた大砲も、アームストロング砲で機動力を発揮させ勝利した。ドイツから購入したクルップ砲の射程距離は6.5キロ。今も胡里山砲台に設置されたクルップ砲はアモイの、海を向いているが、その先には台湾がある。1958年8月から1ヵ月半、金門砲戦が勃発し中国と、台湾中華民国との戦争が金門島で行われた。使用された大砲は47万発だったが、中国は国際連合より、侵略行為と非難され、アメリカは中華民国軍に兵器を、提供し、第7艦隊は台湾海峡へ派遣し物資の補給をした。米中国交樹立された1979年に中国からの砲撃は停止。21年間に及ぶ金門砲撃は停戦、現在では台湾との交流も、深くなり、人民解放軍も胡里山砲台を一般に公開した。
2010.10.03
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「アモイ旅情13」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイから30分ほど南下した所に胡里山砲台がある。アモイの砲台と聞くとアヘン戦争を連想してしまう。清朝のアヘン輸入禁止に対してイギリスの侵略戦争は、1840-1842の2年間で清国が敗れ、アモイなど五港開港。香港の領土を一部差出す南京条約をイギリスと結び、その後、アメリカ・フランスと不平等条約を結んだ。上の胡里山砲台の石碑は正面入り口の右側にある。日本が侵略戦争をする100年も前に中国は苦汁を舐め、中国の半植民地化のきっかけを作ってしまった。そのアヘン戦争の50年後に築かれた砲台が胡里山砲台で、大砲は台湾を向いており、射程距離は6.5キロほどあった。写真は、現地ガイドの女性と、下の画像はタバコ禁止と、撮影禁止の標識だが、まだ最近まで人民解放軍が、胡里山砲台に駐屯しており、軍事施設だった。
2010.10.02
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「アモイ旅情11」 「中国写真ライフ」では、福建「アモイ」の写真を公開しています。アモイの南海岸にある南普陀寺の写真を公開。写真の岩に彫られた「佛」という大きな文字。上の写真では群衆を避けて「佛」の文字のみ撮影。下の写真の左側に祈りを捧げる台が置かれている。参拝者はこの祈りの台の手前に備えられたソファの、上にひざまずき、頭を深々くもたげ祈りを捧げていた。刻石の大きさは、高さが4mほどあり、清朝の僧侶が、書いた「佛」の題字を彫り、金の塗料で塗られている。観音像が置かれているわけでもなく「佛」の題字が、礼拝の対象になっており、この岩の周りには、たくさんのコインが投げ込まれていた。南普陀寺は観音菩薩を供養している寺で、四天王が安置されている天王殿や本堂の大雄宝殿、千手観音が安置されている大悲殿など、撮影をしようと、カメラを構えてファインダーを覗いた途端に、撮影禁止とレンズを覆われて撮影出来なかった。下の写真は本堂の屋根に置かれた龍の瀬戸物の装飾品。
2010.10.01
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