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阿南慈子
さんのことが話題になり私の中でその度彼女のことが思い起こされる。
彼女は私のこの30年の歩みの中で、最重要人物の一人だと思う。
彼女が病床の中にあって、エッセーを書いたり詩を作ったりし、そのお手伝いをさせてもらったことが、今実際にこうして私が毎日何か書いていることに、いくらか影響があったことは間違いないでしょう。
彼女の本づくりには主にワープロ打ちという仕事で手伝っていたので、たくさんの作品を特別に味わうチャンスをたくさんいただいた。その中ですぐパッと思い出すのは「ボーダーラインを越えた時」という詩
ボーダーラインを越えた時
生まれた子どもは 健康で五体満足でなければ絶望だ
他の人に お下の世話をかけるようにだけはなりたくない
寝たきりで周りの人に迷惑かけるばかりでは 生きていたくない
見たり食べたりする楽しみがない状態では 生きていてもむなしい
家族の顔さえ識別できないほどボケては 生きている値打があるのか
古代から 恐れられ続けたハンセン病にだけはなりたくない
薬物依存症・アルコール中毒になるようでは悲惨だ
社会から 悪人だ罪人だと後ろ指差されるようでは最悪だ
ごみ箱から食べ物を探し出して生きる 乞食になっては最低だ
雨露をしのぐ場もない路上生活者まで落ちたくない
人はあっちこっちに ボーダーラインをひきたがる
ボーダーラインを超えた時 何かが少し見えてくる
思い上がりうる美点を みんな失った今
虚飾のすべてをことごとく はぎ取られてしまった今
ボーダーラインを越えた時 人は何かが少しわかるのかもしれない
人間が何であるのかということと そして
神と 神の愛が何であるのかということを
なぜならキリストご自身が ボーダーラインを越えられたところに
低く低く底辺に 生まれ生き亡くなられたから
彼女の言うボーダーラインよりももっともっと手の届くところに私たちはボーダーラインを作っていると思う。
あんなこと言うなんて、許せない(人の気持ちのわからない人)
せっかくメール送ったのに「素無視(すむし)」やし!!(愛情のない人)15分も遅れるなんて!!(常識のない人)
・・・・
そんな狭い狭い段ボール箱にかがみ込んで入り、自分のボーダーラインにがんじがらめにされている。息もつまりそうで、ミスのない自分でなければと、心を張りつめている
どおりで、神様の愛が届かないわけだ。
そんなとき、ボーダーラインが作り出した段ボール箱を少し開けて新しい空気を入れてくれるもの、それはほかならぬ、 自分にとっては何を考えているのかわけのわからない
子どもや家族や友人であったりするのでは・・・
そんな気がする
慈子さんは、ボーダーラインを遠くの遠くに遠ざけて、透明になったボーダーラインを越えて、神様とお話をなさっていたんだね
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