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今、世界規模でのコロナ禍の蔓延に、人々は苦しめられています。緊急事態宣言で人民の外出自粛を要請すると、蔓延も少し治まるが、経済活動も悪化する。そこで緊急事態宣言を解除して経済活動を取り戻そうとすると、コロナ禍もまた復活する。これではまるで世界中がコロナウイルス相手に「だるまさんが転んだ」遊びを始めたようなもので、こんなことを繰り返していても埒が明かない。このようにコロナ禍を観察していると、一枚の人生の縮図を見る思いがする。人は此の世に生まれてきた時点で既に、将来の死は避けられない宿命を背負わされている。此の世に生を受けて、死なない人は誰もいないということですね。従って「生者は常に死魔を伴って生きている」と。今回のコロナ禍もまた、自由な生活活動を脅かして蔓延する。これは世界規模での死活問題に繋がりますから、生を蝕み、病苦を齎し、死苦で脅かして、まるで人々の生存を終始脅迫している死魔との縁とも同じように、コロナ禍もまた、彼の世に潜んでいた死魔が、突如現実世界に飛び出して来たかのように、人々の自由な生存活動の現場を脅かしている死魔の姿としても、見えてくるのです。そういうことであれば、死魔を解脱する要領で、予めコロナからの解脱も決めてから、心置きなくコロナ対策に取り組むと致しましょう。
2020年05月31日
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拙著「悟りの杖」を読んだ近在の知人からの、幾つかの質問に答えた経験に因み、このテーマで記事を書いています。それ故、この記事に関する質問などを頂けると、今後の参考にもなりますので、有り難く思います。今回は「悟りの杖」を読んだ方から、「まったく歯が立たない」という批判を頂いた件について、少しばかり述べてみたいと思います。先ずこの書が目指した内容について語りますと、「解脱の実践技を易しく説く」ということにありました。したがって「まったく歯が立たない」と評されれば、心も痛みますが、それはその方の理解力の問題ではなく、単に仏教経典の類いに接した経験が殆ど無かったから、ということでしょう。誰だって始めて目にする仏教用語を、辞書も引かずに妥当な意味で読み取ることは難しいからです。しかもこの書は、「悟りを得る実践技を易しく説く」ものであって、「仏語の意味を説いて知識を与える」という一般的な学術書には属しないので、そういう書物だと思って読むなら、まったく当て外れになって、「えっ? この書、いったい何を学べるの?」ということにも成りかねないからです。そこで、この書が「悟りを得る実践技を易しく説く」ために用いた仏語とは、どういうものかということを、簡単にお伝えしましょう。この書で説く「悟り」は「解脱」に特化されています。解脱こそ悟りの要であり、解脱が無ければ悟りも無に等しいようなものだからです。解脱は普通「心解脱」と「慧解脱」に分けて説かれています。この書で説くのは「心解脱」です。慧解脱よりも先に体得すべきものだと考えるからであり、解脱後に「よしっ! 解脱したぞ! これで煩悩の繋縛を解き放って無畏自在に成ったのだ! 常楽我浄に達したのだ!」という強い達成感が得られるのも、この解脱法であり、慧解脱の前に習得すべき解脱法だと考えるからです。勿論「心解脱」を成就すれば、解脱身が見えるようになるので、少し瞑想のコツを覚えれば、程なく「慧解脱」も身に付けることができます。そうすれば真言密教で説く金剛界解脱輪をも成就して、最高の悟りに生きることも夢ではないのです。という次第で、「悟りを得て仏に成りたい」という読者諸氏の夢を叶えられるような仏教書の作成を夢見つつ、拙著「悟りの杖」は執筆されたのです。常楽我浄への指針 悟りの杖 / 山本玄幸 【本】悟りの杖 常楽我浄への指針【電子書籍】[ 山本玄幸 ]
2020年05月30日
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拙著「悟りの杖」を読んだ近在の知人からの、幾つかの質問に答えた経験に因み、このテーマで記事を書いています。それ故、この記事をお読みの方からの質問なども頂けると、有り難く思います。今回は「なぜ、南無阿弥陀仏と唱えると、阿弥陀仏の来迎があるのですか」という問いについての答え方を考えてみましょう。問うている人は、当然その答えを知らないのですが、回答者には正解を知っている者もいるかも知れません。もし正解を知らないのに答えた場合は、間違った答えを言ったことになります。そこで、質問者はなぜこのような問いを発したのかと、考察の対象を転換してみます。経典には「是より西方十万億の仏土を過ぎて世界あり。名付けて極楽と云う。其の土に阿弥陀仏居まして、現に説法したまえり」とあり、更に「阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を持すること若しは一日、若しは二日、若しは三日、若しは四日、若しは五日、若しは六日、若しは七日、一心乱れずば、その人いのち終わる時に臨みて、阿弥陀仏もろもろの聖衆と倶に、現に其の前に在らします」とある。ということは、質問者は是を疑っていることになる。勿論それも無理は無い。なぜと云って、「阿弥陀仏は質問者から十万億の仏土を過ぎた所の極楽世界に居るのだから、数メートル先までしか届きそうもない念仏を、遠く離れた阿弥陀仏が聞き取ってくれるとも思えない」と。また更には「念仏者は世界に私一人だけではない。大勢の念仏者の所へ、一時に行くことなど、どうしてできるだろうか」とも。もしここで或る回答者が、「阿弥陀仏は一人だけではなく、念仏している衆生の数だけ居るのだ」と答えたとしたらどうだろう。すると質問者は、「それなら阿弥陀仏は、私たち一人ひとりの身体の中にも居るということだよね」などと考え、念仏に懸ける願力を失うかもしれない。何故なら「自分が阿弥陀を宿しているのなら、それを失う心配もないのだから、念仏の要もないのではなかろうか」などという思いも生じるだろうからである。なので、こういう回答は、或いは幾分かの正しさは含まれている可能性は捨てがたくても、決して信者の為になるものではないとも思えるので、こういう回答は極力避けるべきだと思われる。それなら、一体どのように答えたらよいのだろうかということになるが、やはり「経典に説かれているままに、素直に信じていれば善いのではないですか」と、こう答えるのが最善かも知れません。経典の言葉というものは、それが事実と異なる説法であったとしても、信者の為には、最も有意義な構造に組み立てられた方便である場合が、実に度々見出されて、仏の慈悲の深さに感嘆させられるものだからである。
2020年05月29日
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拙著「悟りの杖」を読んだ近在の知人からの、幾つかの質問に答えた経験に因み、より分かり易く書く技術を身に付けたいとの思いもあって、このテーマで記事を書くことを思い立ちました。それ故、この種の記事をお読みの方からの質問なども頂けると、有り難く思います。上記「悟りの杖」の読者からの質問の一つに、「極楽浄土は死後の世界と云う。死んだ者には、そこが極楽浄土であっても、そうでは無くても、何も分からないのだから、極楽往生を願うことからして意味がないのでは?」というものがありました。ご尤もな質問だとは思うけれど、これを分かり易く説明するのは難しい。極楽往生体験者にだって、往生体験の直前までは、想像もつかなかった不思議な問題だからです。それはどういうことかというと、新約聖書の福音書で、イエスが「わたしの名のために命を捨てる者は、死んでも死なず、却って永遠の命を得る」と語っているのと同様のことが起こるからです。この故に、極楽往生する者は、死んではおらず、死後瞬時の早さで極楽浄土へ生まれ出ているのだと説明しておきましょうか。
2020年05月27日
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前日記の冒頭の言葉「仏教を学ぶ者は多いが、彼岸へと解脱して仏陀に至る者は極めて少なく、多くは生死の此岸の岸辺に沿って、只々空しく走り回るだけである。」は、釈尊の経説をほぼ復唱したようなものですが、「彼岸へ至るのは、そんなに難しいのか」と問われたならば、何と答えたらよいだろうか。思うに多くの仏教学者は、膨大な読書量があり、知識の量もまた極めて広範囲に渉っているのではないかと思われている。勿論それは間違いではないだろう。しかし、彼岸へと解脱した心が堅持していなくてはならない知識はと問われたら、「何もない」と答えたくなるだろう。これもまた間違いではないからだ。では、この「何もない」という言葉には、どういう経緯が含まれているのかと問われたなら、「無限に縁起する一切法との繋縛を断ち切っている」と答えるのが適切だろう。細かいことを云えば、この他にも要点はあるけれど、ここまで語れば、悟りの心の大凡は伝わることと思われる。そうすると悟りの心の中身は「何もない」と云えるほどに超単純でありながら、悟りに至る道は、「一切法を解脱する」という膨大な中身を含んでいることが認識されるのですね。この故に、釈尊の言葉「仏教を学ぶ者は多いが、彼岸へと解脱して仏陀に至る者は極めて少なく、多くは生死の此岸の岸辺に沿って、只々空しく走り回るだけである。」が、仏陀に至る道の険しさを、有りの儘に伝えるものだということも、納得できるのではないでしょうか。
2020年05月26日
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仏教を学ぶ者は多いが、彼岸へと解脱して仏陀に至る者は極めて少なく、多くは生死の此岸の岸辺に沿って、只々空しく走り回るだけである。そこに私の研究成果の出番もあろうか。原始仏典から密教経典までを消化した仏教のエキスを、忙しい現代人向けに、易しく簡素化したものが出来上がったからである。しかし、この新しい仏道の修法を、何時、どこで、どのような方法で、欲する人の手元に届けたらよいのだろうか。公開が有効に役立つ適切な場を見付けることが難しい。心の中に魔の声らしきものあり、「止めておけ、通じる相手なんか居やしない」と。この声が、余りにもリアルに心に響く。
2020年05月25日
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人は何の為に仏教を学んでいるのでしょうか。理想を云えば、悟って仏陀と等しく成るためではないでしょうか、できることならと。もし、そうなら、悟りへの道を確りと着実に歩む必要があるのではないでしょうか。またそれは、遠くて険しい道でもありますが、何はともあれ、先ずは仏道の入り口から確認してみましょうか。釈尊が語り残してくれた説法の原形に最も近いと云われている原始仏典の漢訳に、大蔵経第二巻に収められている『雑阿含経』がありますが、その全五巻千三百六十二経の冒頭を飾る第一経には、次のように説かれています。『当に色は無常であると観なさい。このように観るのが正観です。正観すれば厭い離れる心が生じます。厭い離れれば貪る喜びが尽きます。貪る喜びが尽きることを心解脱が成ったと云います。』これは五薀の中の色についての解脱を説いた箇所ですが、とても明快に説かれていて、解脱も簡単にできそうですね。もしそう思ったら、即座に解脱を試みるのもよいでしょう。上手く解脱できなければ、どこかに認識不足のところがあると思って、学び直せばよいのですから。ところで五薀つまり色と受想行識というのは、私たち人間の身心を構成しているパーツを仮に五つに分類したものと理解しておけばよいのですが、この場合の色というのは身と心に分けた身、つまり人間の物体部を指しています。この物体部である色もまた、原始仏教時代には地水火風という四大にパーツ分けされていましたが、この経文では触れられていません。そこでこの経文では未解説の受想行識からの解脱を、続けて次のように説いています。『色についてと同じように、受想行識についても無常であると観なさい。このように観るのが正観です。正観すれば厭い離れる心が生じます。厭い離れれば貪る喜びが尽きます。貪る喜びが尽きることを心解脱が成ったと云います。』ここで受想行識というのは、色が肉体的要素であったのに対し、心的要素を指す名称です。概説すれば、受というのは感官的要素。想というのは表象作用。行というのは得られた表象に基づいて行う是非分別などの能動作用。識というのは意識であり、理性的営みなどが働く段階をも含む名称ということになるでしょう。この部分も、やはり前段同様にシンプルな説き方ですが、勿論説かれている通りに実践できれば、文句なく心解脱は成るわけですね。そして心解脱が成った者は、経文の最後を締め括る次の経文を、自心に確証するとよいでしょう。『心解脱の成った者が、もし自証を欲するなら、能く自証することができる。即ち、我が生已に尽き、梵行已に立って、所作已に成し終え、自ら再び此の世に生を受けずと知る、と。』「我が生已に尽き」というのは、此の世に繋縛された人生は既に終えたという意味ですから、以下は「煩悩に煩わされた迷いの人生を解脱したので、彼の世の仏界、即ち永楽の涅槃の境地に住して、再び迷いの此の世に戻って輪廻することもないのです」という意味になりますね。このように経文では単純明快に説かれているからといって、よほど機根に恵まれていなければ、仏道初心者がいきなりこの経文を見ただけで、解脱が成就するというものでもないので、幾つもの経文を、何度も何度も繰り返し学び直し、読み直しつつ、実践を繰り返す必要があるのではないかと思います。
2020年05月24日
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今般のコロナ禍に因んで、宗教が治病に関わる事柄についても、経典の言葉などを参照しつつ考察してみたいと思います。というのも、ふと聖書にある、イエスによって為された奇跡的治病の話を思い出したからです。記憶を頼りに仏典を開いていると、法句譬喩経の中から、重病で床に就いた一般庶民の一人を、お釈迦様が見舞ったときの話が目に留まりました。その時お釈迦様は、「身体の悪寒や熱気は医薬を用いて治し、心の治癒は仏の教えや戒めを保って善処しなければならない」と諭しています。これは私たち現代人にとっても、ほぼ違和感のない言い分に聞こえるのではないでしょうか。しかし「悪寒や熱気は医薬を用い」と云っても、お釈迦様の時代には、この度のコロナ禍のような疾病に効力のある医薬の調達はできなかっただろうし、大勢の感染者や死者が出たりして、大変な騒ぎになったかもしれません。このように適切な医薬が無かった疾病と云えば、例えば眼病で失明した人に視力を取り戻させる治病だとか、難聴の人に聴力を取り戻させる治病等々と、イエスによって為された奇跡的治病に類似した問題に対しても同様ですが、こういう難病に対しても、我が国では宗教的対応策の足跡も見付かります。一つには密教でお馴染みの加持祈祷に類するもの。或いは神社でも発行されている「無病息災」や「当病平癒」などの御札による心の癒し。或いは寺院の境内などで見掛ける「なで地蔵」のような尊像にまつわる霊験の類。このようなものもまた、やはり生薬類での治癒が望み難い難病や不具合の治癒を願った対処法であったと云えるでしょう。ここでよく問題になるのは、このような対処法が、願いを叶える効力のない、単なる迷信事に過ぎないのではないかという指摘ですが、これは身体と心の相互作用のことを考えると、一概に迷信事として片付けられない問題のようにも思われます。ことわざにも「病は気から」と云いますが、「自分の病気は重い」と思っていると、ますます気力も萎えて食欲も落ち、体力も衰える一方ですが、何らかの信頼できる助言を得るなどして、「自分の病気は軽くて、すぐ治る」と思ったときには、途端に気分が良くなったというような経験は、一度と云わず二度三度と、誰にでもあるのではないでしょうか。このような快復現象は、単なる思い込みだけではなく、現実に身体の快復力が増進しているのだという話も聴いたことがあります。何れにしても、暗い気分に落ち込んだままでいるよりは、遙かに良さそうです。この「病は気から」に類する心理作用を有効に生かす目的で、加持祈祷、或いは無病息災を祈願した御札、或いは「なで地蔵」などを発案し、信者の心の不安を取り除いて安心や希望を与え、延いては身体の快復力を高めることにも貢献していたのだと考えると、宗教と治病の結びつきの中には、「信仰の力」というものが深く関わっていることも、明らかになってくるのではないかとさえ思われるのです。
2020年05月23日
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これは特に外国人から見た日本人の特性ということになるようだが、日本人に「あなたの宗教は何?」と問うと、「特に信じている宗教は無い」と答える人が多いことに驚く、と。この「驚く」の意味は何だろう? 「日本人は、自分が何らかの宗教を信じていると見られることを、まだ非科学的な思考から抜け切れていない人間と見られているようで、恥ずかしいことだとでも思っているのだろうか」などと思って「驚く」のだろうか? いや、どうやらそんなことではなさそうだ。或る外国人が語るのを耳にしたことがある。「日本人の宗教観は変わっていて、人間は死んだら、みんな極楽往生すると思っている。これ、変でしょう?」と。この外国人が「変だ」と云うのも、尤もなことだ。キリスト教では、人間の死後は天国行きか地獄行きに分かれる。だからこそ信者は、現世で善い行いをしようと励む意欲も湧いてくるのだ。だから、日本人が「人間は死んだら、みんな極楽往生する」と思っていると知ったなら、「日本人は善人でも悪人でも極楽往生するのなら、地獄堕ちする人はいないことになる。ということは、極楽のみ有って、地獄というものは無いと云っているのと同じことなのだから、宗教なんか有っても無いのと同じではなかろうか。何故なら修行してもしなくても、或いは善いことをしても悪いことをしても、みんな極楽往生するのだから」と、日本人の宗教観を見通して、「日本人の宗教観は変だ」と「驚く」のではなかろうか。【追記】この話に出てくる「日本人の宗教観」というのは、その言い分からも分かるように、浄土宗系の一派に属する信徒の中の一部の見解を指すものと思われますが、本文中にはそれと示す説明が抜けていましたから、無用な誤解を避けるために、ここに追記しておきます。
2020年05月20日
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今回の新型コロナ禍への、国を挙げての対応の主眼は、主権者の国民が全体的に病死苦からの脱出を目指すことにあったと云えます。この病苦と死苦は、仏教で説く生老病死という四つの苦しみのうちの二つを占めています。生というのは此の世に生まれることで、生まれなければ老いることもなく、病むこともなく、死ぬこともないので、生は苦しみの根本だと認識することができます。しかし生あれば老病死苦は避けられないとはいえ、生き方の注意次第で、今回のコロナ禍に巻き込まれる確率などは減らすことができます。この病死苦を減らすことができれば、より天寿を全うできる確率は増えます。これが緊急事態宣言が発令された意義でしょうか。また、こうして新たな感染者数を制御しているうちに、より効果的で副作用も少ない治療薬の開発が進み、コロナ禍による病苦と死苦の発生を軽減することもできるでしょう。そうこうしている間に、最初の予想を上回る成果が出て、39県の緊急事態宣言が解除され、残る8都道府県でも近日中に解除できそうな状況になりました。これも法に従順で善良な日本人の協調性の賜物かもしれません。然るに、そうは云っても、当分の間はコロナ禍による病苦と死苦をゼロにすることは難しいでしょう。油断は禁物です。また仮にコロナ禍が終息しても、新たなウイルスが発生するなどして、此の世から病苦が無くなることはありません。しかし、しかしですよ。「此の世から生老病死苦は無くならない」と云うだけでは、余りにも情けない。それ故、仏教のような教えが伝えられているのでしょう。もし仏教を修めて金剛の身を得れば、生活の苦しみも、老いる苦しみも、病む苦しみも、死ぬ苦しみも、これら一切を「どこ吹く風か」と、平然と見送ることができるようになるのです。この金剛の身を得るための修行法を、「法身如来に基づく生老病死苦からの解脱法」と名付けることができます。また、この修行法について云えば、特にこの順序でなければ、というようなものも思いつきませんが、最初はやはり仏教の原点とも云える原始仏典に基づいて、此の世の無常で苦で無我なることを認識することが重要と思われます。その認識が十分であれば、その認識が行くべき道を照らす光と成って、自身の身心、つまり五薀を可能な限りの広範囲に渉る解脱を修めます。そうして無明の根を断つことができれば、後は大乗経典や密教経典からでも、自ずから学ぶべき事柄も見えてきて、金剛の身を自覚できる時も間近になることでしょう。今回は簡単に短縮化した記述でしたが、機会を見て、悟りの道中に於ける細かな法話も語ってみたいと思っています。
2020年05月18日
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緊急事態宣言が五月末までに延長されました。しかしコロナ禍が終息する時期は見通せないので、今できることは国民一丸となって精一杯やらなくてはならず、緊急事態からの脱出時期は、その成果次第ということになるでしょうか。古の聖者曰く「まことの観賞者は死を見ず、病を見ず、また苦を見ず、しかも一切を徹見し、一切処において一切を得る」と。勿論これは解脱者にのみ得られる安楽の境界だから、一般衆生には無縁だとも思われるかも知れない。そこでこの解脱者観法を一般衆生の次元に置き替えてみると、「コロナウイルスに関わらなければ、感染せず、病死の苦も見なくてすむ」ということになって、何某かのヒントにはならないだろうか。例えば「外出するときは、コロナウイルスの侵入を完璧に断つ防禦服を着用する」というようなことを類推してみる。しかし、そんな服は今のところ手に入らないので、現在流布している感染予防の知識は、国民が一致団結して守ることで、その代用とする。また解脱者の「一切を徹見し、一切処において一切を得る」という面も満たすために、「コロナウイルス感知器」のようなものも欲しいところだけど、これも今のところ手に入らないので、感染していても症状が無くて分からない人物を見分けることが出来ない以上、自分も含めた一切者に対して、感染予防の知識を実践し、感染拡大を防ぐべく努めること。これが今私たち一般衆生にもできる「コロナウイルス解脱対応」ということになるでしょうか。勿論こんなことは、改めて語るまでもなく、誰でも知っていることではないか、とガッカリされるかも知れません。しかしこういうことは、国民一丸となって実践しなくては、成果が遠くなるものですから、「誰でも知っていること」ほど良いのだとも思えますね。
2020年05月07日
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