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鈴木正三の「五戒を守って天に生まれるの理、分明である」と「わしは三十年前に死んでおいたわい」との言葉によって、彼が生天体験をしたことを明かしているし、禅僧としても「生死の身体を何とも思わず打ち捨てることより他の仏法を知らず」という立場を固持していたことから、彼の法実践は生天法即解脱法だったことも分かる。しかし、ここで注意しなくてはならないのが「五戒を守って天に生まれるの理、分明である」の発言だが、この言葉は正しくない。五戒を守るということが天に生まれる因とは云えないからである。この言葉は、彼が生天体験を持ったという事実を伝えるためだけに述べた不正確な言葉に過ぎない。彼が伝えたかった意味は、むしろ「人間として真実な生き方を求める者は天に生まれるであろう」というような言葉にすべきであり、更に「真実な生き方を得るためには、身命をも捨てる覚悟を持たなくてはならない」という言葉も付け加えるなら、もっと真実な言葉になるのだ。では、なぜそのようには言わなかったのかとなら、それでも生天の法を伝えるには不足したものが多すぎるからだ。ということで、「えい、面倒臭い、これでいいや!」とばかりに「五戒を守って天に生まれるの理、分明である」と。ところで生天と解脱とでは到達地が異なるのに、どうして同じ法が生天法と解脱法になるのか、という疑問が生じるかも知れない。しかし、これも説明しようとすると非情にややこしくなるので、簡潔に言えば「用いる状況が違う」ということでよかろうか。つまり生天と解脱では、実践する法は近似しているが、その差は用いる状況の次元差によって様相が微妙に変わってくるということなのだ。いや「微妙に変わる」のみならず「百八十度変わる」ところもあるとさえ付け加えたい問題でもある。
2020年03月21日
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江戸時代初期に出家した禅僧の鈴木正三。この人の語録を読んだのは、もう一昔前のことになろうか。時にボンヤリと思い出すのが「五戒を守って天に生まれるの理、分明である」とか何とか。その鈴木正三に死期が迫ったころ、ある僧が「お脈が悪いとのことですが、ご気分はいかがですか」と見舞うと、正三は「わしは三十年前に死んでおいたわい」と答えた。この二つの発言を仮に重ねると、「三十年前に天に生まれた」というものになる。そうすると、七十七歳で亡くなった鈴木正三が、天上界に生まれたのは四十七歳頃という仮の答えが出る。「死んでおいた」という言葉は、「生天した」という意味にも、「解脱した」という意味にも取れる。「解脱した」という言葉の中に含まれない五薀の残存物は無いからである。鈴木正三は仁王禅で知られているが、仁王と云えば阿吽の二像だから、この意味を取れば仁王禅は非情に奥深いものになるはずだ。そこで正三が残した言葉からもう一つ。「この糞袋を何とも思わず打ち捨てることなり。これを仕習うより他の仏法を知らず」と。言うところの「糞袋を打ち捨てる」は、「生死の体を死す」と言い換えることができるので、生天にも解脱にも通じる言葉だと分かる。解脱身はそのまま報身にも法身にも通じているし、解脱行こそ成仏への最も基本的で確実な修法だという確信を持っていたからこそ、正三もまた「生死の身体を何とも思わず打ち捨てることより他の仏法を知らず」との言葉を残したのではあるまいか。
2020年03月20日
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