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【なぜ《解脱!》なのか】法句経に曰く「わが愚を悲しむ人あり。この人すでに愚者にあらず。自らを知らずして、賢しと称するは愚中の愚なり」と。この言葉の真意、「分かる分かる」と思っても、いざ解説しようとすると、ちょっと手こずりそうです。子どもの頃、学校で受けたテストの点の低さに、思わす「なんてボクは頭が悪いんだ」と嘆いたとき、「われ、わが愚を悲しめり、よってわれ、すでに愚者にあらず」なんて。違う違う、そんな意味じゃないですね。それは分かっている、としても、では「これが最上の意味だ」というような解説までは求める気にもならないだろうか。この法句の前半と後半を結びつけると、「自らを知って、わが愚を悲しむ人あれば、この人すでに愚者にあらず」という法句になる。そうすると、この人は「わが愚を悲しむ」のであるから、自ずと己を解脱する道に入ることになるだろう。そうするとこの人、次の法句を実践することになる。即ち「戦場において、数千の敵に勝つよりも、自己に勝つものこそ、最上の戦士なり」と。斯くして《解脱者》こそ、最上の戦士なのである。解脱に特化した書『悟りの杖』を見て、最上の戦士に成り、更に解脱後の悟りを円満化する書『如来意識』を実践して、如来と共に歩む生き方を身に付け、この世を満足の内に生きようではありませんか。
2020年10月07日
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【如来意識は至福の意識】コロナ禍によって先行きに陰りがある現状の世相の中で、電子書籍『如来意識』の意義とは、読者諸氏にとって、どんなものになっているのだろうか。人生は無常。命は短く儚い。束の間の夢の如きこの世を生きるわたしたち人間にとって、苦しみや幸せは人生の道しるべにもなろう。釈迦もまた言う、「わたしだって幸せになりたいのだ」と。わたしだって同じだ。人は誰でもそうではなかろうか。だから心の中で叫んでいるのではないだろうか。「わたしだって幸せになりたいのだ」と。しかしまた思い知らされる。「人生は無常。命は短く儚い。束の間の夢の如き人生なら、苦しみと言うも幸せと言うも、共に空しいものではないか」とも。それ故にこそ、如来意識は求めるべくして、その至福の境地は命の祝福ともなるのだ。この至福の境地は無常なものではない。なぜならこの境地は、この世の苦楽の次元を超え出た領域で開かれるものだからである。斯くしてこの世の空しき無常感や、短く儚い生命感は消え失せて、恰も天地創造以前の大神の命と同化したかのような至福感に包まれた気分は、この境地もまた去り行くものとはとても思えない、満足感に満ちたものなのだ。それ故、思わずして即座に書のタイトルを『如来意識』としてしまったのである。縁有れば、電子著書『如来意識』で、著者の至福感と同じものを体験してもらえると、同様の至福体験者が増え続け、喜ばしい限りである。
2020年10月06日
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『悟りの杖』と『如来意識』の接点『悟りの杖』は解脱に特化したような作品だけど、これは仏教を長年学んでいても解脱が全く出来ていない人が極めて多いことを知った、ということが縁になって企画されたからでもあります。これに対して『如来意識』は、『悟りの杖』で説いた解脱行が完了した後、悟りの円満化を図るための書という位置づけになります。『悟りの杖』は解脱完了までを論説しています。解脱者の心位は密教に於ける金剛界に達した位置であって、故にそれ以前の法門としての華厳宗や天台宗の教理などはよく分かる境地ということになります。天台宗と言えば「法華経」ですが、解脱完了者は「一心三観」空仮中の三諦と三身と三如是などにもよく通じる心位なので、ちょっとしたヒント(気付き)さえあれば、法華経修了にも苦労することはないでしょう。『如来意識』は解脱完了の心位を出発点に置いたような論説から始まると思えばよいでしょう。釈迦が解脱を説いた経文は「我が迷妄の生涯は既に終わり、梵行既に成って、再び迷いの生涯に戻ることはない」という言葉で閉じているが、この梵行というのはヴェーダが伝える聖行に通じるものなので、ウパニシャッドが説く梵即ちブラフマン及びアートマンの確認から出発して、大日如来に至る聖なる心位意識を立脚地として、ブッダとしての悟りの境地を実践的に身に付ける法を説いた、史上初かも知れない希少価値も望める電子書籍(Amazon発売)です。
2020年10月01日
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