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2011.05.24
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ジイちゃんのところに滞在中に、アメリカ大統領選挙のディベートがテレビで放映された。ジャックと私は骨の髄までデモクラティック、そしてじいちゃんは頑固なリパブリカンだ。テレビを見ながらジャックとじいちゃんは熱い論議になった。私はあくまでも第三者として一切コメントせずに彼らのつばを飛ばしあうまでのバトルを冷静に見守る。ジャックの言っていることはとても理にかなってはいるのだが、何てったって、ジイちゃんいつも仕舞いには、“そんなこと知ったこっちゃない。わしは89歳、この年になったらどんなことでも大した事はないんだよジャック。”と、それですべてが解決されてしまうんだから。このじいちゃんを相手に勝とうと思ったら一世紀早いってものだ。そんなジイちゃんでも、やっぱり年には勝てぬ。私たちがいる間に医者との電話での会話で、少し前に受けた心臓の検査結果が出た。それは24時間の彼の心臓の働き具合を見る装置をつけたところ、5回ほど心臓が短く停止していたことは判明したのだった。そのために、地価じか心臓のペースメーカーをつけなくてはいけないということになったので、さすがのジイちゃんもちょっと落ち込んだ様子だった。その日はいつも医者から制限されて守っているお酒の量を、“くそくらえっだ!”ってな具合でちょっと越してしまったために、突然ふらっと倒れそうになる瞬間が二度ほどあったので、ジャックと私はとても心配になった。翌朝もしかして、彼が起きないかもしれないと心配したが、キッチンではすっきりした顔のジイちゃんは朝食のグレープフルーツをおいしそうに食べていた。心臓の専門医に会うために、車で一時間ほど掛かる病院にまで一日滞在を延ばして送っていくと申し出に、頑固者のジイちゃん、“わしは大丈夫だ!”と言い張っていた。あまりにも調子がぱっとしないようだったら無理やりにでもそうするつもりであったが、その後、様子を見ていたら、いつもの元気なじいちゃんに戻っていた。多分、お酒をちょっと飲みすぎたのと、年の割には驚くほど元気であると自負していたところに、ペースメーカーを入れるということがとてもショックであったのだろう。だから結構落ち込んで、気分が悪くなったようだった。四日間の短いオレゴン滞在を終え、素敵なスーパージイちゃんに別れを告げ、再度ジャックの父さんのところに泊まってから、楽しかった、9日間の長いロードトリップは幕を閉じた。***終わり***
2004.10.13
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前回の日記の続きになってます。読んでない人は、そこからはどうぞ。****海岸沿いの町サンタクルーズからどんどん離れて今度は内陸のコーニングにやってきた。ジャックのお父さんの住む町だ。(村といったほうが正しい。)このあたりではほとんどの家庭が大きな敷地に農場を経営していて、彼のところも同じく犬、猫はもちろん、牛、馬、豚、羊、ヤギ、ラマ(日本語ではなんと言うか?)鶏、と、ありとあらゆる家畜を飼育している。私たちが行ったときには何匹かいる犬の中で一番高級そうな犬(なんという種類か忘れたが、毛が短くてとてもすらっとしているエレガントな犬)が子を産んだところで、6匹の可愛い子犬がじゃれていた。このすべての家畜とペットを全部あわせると、60~70は、いるんではないかと思われるが、その世話を千部一手に引き受けているのはジャックの父さんの奥さんだ。彼女はとてもエキセントリックなタイプで、常に忙しそうに働いている。過去に一度ほどこれまた今回のようなオレゴン行きの途中で彼らのところでお世話になったが、私たちお客さんがいるというのに手を止めてゆっくり話そうとすることない。獣医のアシスタントのパートタイムの仕事を終えて帰宅すると毎晩、山ほどの家畜の世話が待っている。この時もキッチンに入ってくるなり、その勢いを止めることなく、忙しくばたばたと動き回る姿はまるで私たちがいるのは邪魔だといっているようにも取れるのだった。食事の支度をしながら、久しぶりに会う息子との会話をゆっくりと楽しんでいるジャックの父さんに向かって、なんだかんだとどやしているのは、見ていてとても居心地が悪かった。翌日、そこからさらに7時間掛けて最終目的地、ジャックのジイちゃんの住むオレゴンの小さな海外沿いの町、ウォールドポートにやってきた。三年ぶりにあったジイちゃんは見た目こそは年相応であるが、気力の面ではとても89歳と思えないほどはつらつとしている。彼は自分ひとりでモービルハウスと、小さなトレーラーのある家に住み、自分でドライブもするし、週に2日は近所の波止場に置いてある自分のボートで蟹取りを楽しむ。また自分の庭にはトマト、たまねぎ、カブ、瓜などの家庭栽培もして、この世代のアメリカ人にしては珍しく、とっても健康的な食生活を送っている。ここに三年で健康面での問題がぐっと増えたが、それまでは、なんとオレゴンからメキシコまでのロードトリーップを自分ひとりで運転するという快挙を成し遂げたスーパー・ジイちゃんだ。私たちの泊まっていたトレーラーは、三日ほど前までいたジャックの従兄弟が掃除してくれて、前回のようなかび臭さがすっかり消えて狭くても結構居心地のよい宿泊施設となっていた。たっぷりと旅の疲れを癒した翌日には、早速じいちゃんと蟹取りに出かける。彼の住む町はリタイヤした中年、老年が多く、とてものんびりした町。波止場に出かけるとあちこちからジイちゃんに声が掛かる。ジャックと私たちはじいちゃんの指示に従って道具をボートに積み、ボートを出すのにてこずっていると、どこからともなくやってきた男性がさっと手伝ってくれた。そこでじいちゃん、“この町が好きだ。ここでわしは、王様のように暮らしているのさ。ほら、こうやっていろんな人がわしのことを面倒見てくれるんだよ。”ん~、さすが。蟹取りルックになったジャックは網取りの棒を片手に20代の全般に、アラスカでサーモンを取っていた、産業漁業氏だったころの姿に戻って勇ましく、ボートの先端に立つ。曇り空で満潮のちょっと前の午前11時というぴったりのタイミングのおかげでたったの一時間もしないうちに25匹のかにが取れた。沖に戻って取れた蟹をジイちゃんの言われるとおりに波止場で働く馴染みのジムに渡すと、ジイちゃん、“後は彼が蟹を茹でて、洗ってくれて、俺たちが夕食で楽しむためにぜーんぶやってくれるんだよ。この波止場はわしのものじゃ。はっはっは!”ジイちゃんはとにかく話し好きで、いろんな話をする。内容は自分の武勇伝から、結婚する間際にほかの女と寝ていた話や、ジャックの父さんと離婚した母さんが他人となったはずのじいちゃんから養育費にとせびった金を皺取りの整形手術に使った話など、通常ならば孫に聞かせるような話ではないことまでもおおっぴらにするのが彼流語りで結構エンターテインメントである。でも、四日も滞在するうちに、片時でも口を閉じないじいちゃんにさすがに参って夜はトレーラーに行って一人で本を読む私であった。ジイちゃんの家は何しろ田舎なのでいろんな野生動物が出る。その中には、アライグマ、鹿、熊なんかも出るという。そんなことをジイちゃんが話しているのを聞いて私を脅かそうとしているんだとってっきり思っていた。が、それは本当だった。ある夜、トレーラーになんかが当たっている音がして目が覚めた。アライグマがやってきて、ゴミ箱をあさっているんだろうと、眠りに就こうとするが、その音はやけに大きい。ジャックもその直後に目が覚めて、二人でそーっと小さな窓のカーテンを開けてのぞくと、すぐそこにはなんと黒熊がいるではないか!生まれてこの方動物園以外で熊を見たことのない私は、心臓が泊まるかと思うほどのショックを受けた。まさか、あのジイちゃんの話が本当だったとは!私たちが息を殺してみている中で、その熊はうろうろトレーラーの周りをぐるぐると回る。毎晩こうして遊びに来られたら、たまったもんじゃないといってジャックは止める私を無視してガンガンとトレーラーの壁をたたいて脅かすと、熊はその数秒後に何処かに消えていった。その翌晩、おしゃべりジイちゃんから逃れるためにトレーラーで静かに本を読んでいると、突然小さな窓から何かが荒々しく息をしているのが聞こえる。その直後に、“ドンドンドン”とトレーラーを叩く音。え~!またしても熊が現れた!すばやく半開きになっていた戸を閉めながら、過去にテレビで見た、熊が食べ物ほしさに発狂して車をめちゃくちゃにしている姿が、鮮やかにまでも脳内のスクリーンに映し出される。そして、その映像は、今外にいる熊がおんぼろトレーラーをぶち破って私に襲い掛かってくるものに変わった。“じゃあああああっくうううう~~~!”なきそうになっている私がもう一度叫ぼうとすると、“ぐわっはっはっは~~~!”と外から大きなジャックの笑い声。“ひっかかた、やーいやーい!”おのれ~~~、何がひっかかったじゃ。本当に熊に殺されると思ったんだぞ!おしっこちびりそうなまでに恐怖におののかせやがって~~!! その夜は奴がぐったりとなるまで、全身マッサージを45分のお仕置きで頭を冷やさせてもらった。今回の旅行の目玉の一つに、ジャックが私と結婚する前に行ったすし屋を訪ねることだった。(左のコラムの、‘とあるオレゴンのすし屋の大将’参照)以前のオレゴンツアーで行ったときと同じようにやっぱり、この大将忙しい店でたった一人で黙々とすしを握っていた。カウンターに座ってしばらくすると私とジャックのことを思い出したようで、ぽつぽつと話し始めた。三番目一番下のの子供が去年で大学を卒業し、彼の父親としての役目を果たしたので、今度は本格的に引退する用意をしているようで、すでに地元新聞に店を売りだす広告を載せているという。しかしまったく反応がないようで、私とジャックに、この店買わない?と冗談とも本気ともつかぬように誘っていた。店を開いて15年、初めの3年はまったく客が寄り付かずに苦労したが、5年目ほどから人が待つほどの繁盛ぶりになったが嬉しい限りだが、もう一人で切り盛りをするのは疲れたという。人を雇わないのは何らかのポリシーがあるのかと聞くと、実は以前に一から手取り足取り育てた若造がいて、一人前になって第二号店を任せたるまでになった、その彼が、あるときウェイトレスと喧嘩したという理由でやめたと思ったら、すぐ隣にある街で、自分の店を開いたのだそうだ。それはいいんだが、対象の考え出したレシピやオリジナルのメニューなどをそっくりそのまま名前も変えずに彼の店で出しているのを知って、この裏切り行為に怒りまくったという。そのあともう一人教え込んだ若いすし職人にも、いやな思いをさせられたので、もう二度すし職人を雇わないと心に誓って以来、せっかくの二号店まで閉めてしまって、80席ほどあるレストランで一人、黙々とすしを握るのであった。リタイアしたいがなかなかそのチャンスがなく、仕方なく老体に鞭を打って働く彼の話を聞きながら、何とかして彼を楽にさせてあげたいという、他人事ながらも、おっ節介な気持ちがむくむくと私の心に育ってきて、つい、“カリフォルニアではたくさんのすし職人がいて、自分で店を開きたくても、州内では競争が激しいし、ビジネスを始めるには莫大な金額が掛かると機会を逃している人が結構いると思いますよ。日本人の読むようなロサンジェルスを中心にした雑誌などに掲載してみたらどうですか?今度そういった雑誌を見たら、お知らせしますよ。それと、名刺をいただければ、そういった人にあったときにこの店の事話して渡してあげますよ。”と言ってしまった。すると大将の顔はぱっと明るくなって、“そうかい?それじゃ、これが僕のメールのアドレスだから。”と名刺の裏に書いた後、ごっそりと名刺を渡すのだった。その夜は楽しくいい気分で店を出て、車に乗り込んだが、分厚く膨らんだ名刺が入ったジーンズのポケットを触りながら、“は~~、当てもないくせに、何であんなこと言っちゃったんだろう。彼きっと期待しているだろうな...”とお調子者の自分に後悔するのだった。***続く***皆さん、オレゴンの海岸沿いで、すし屋を経営したい人はいますか、またはそういった人を知っていますか??また、日本人の読む雑誌で、発行部数の多いのを知っている人がいたら教えてください!このすし屋の大将を楽にさせてあげましょう。(笑)
2004.10.12
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9月25日にサンタクルーズといってここから車で約5時間ほど北に上がっていった海岸沿いの町で行われる彼の昔のルームメイトの結婚式に出席することになっていたので、それではついでにと、さらに北上してオレゴンに住むジャックのじいちゃんを訪ねることにした。はじめはちょっと気が進まなかったこのロードトリップであったが、一週間間近になってあわてて支度を始める私。まずはこの結婚式に着ていくドレスやそれに合う靴、アクセサリーを探すために丸二日を費やし、当然のことながら長すぎるドレスを直すためにあちこち値段の安いところを回ったが、お直し代が、ドレスの値段と同じくらい掛かってしまうので、しぶしぶ自分の手で長け直し。苦労した甲斐があってなかなか自分でも惚れ惚れするほどの素敵な衣装が整った。結婚式の前日の金曜日、ジャックは仕事が遅くなるということでゆっくりとジムに行って泳いだ後、お持ち帰りの食事を買って9:00pmごろに彼のオフィスに向かった。しかし、土壇場になって相当な量の仕事を意地悪なボスから言い渡されて、よれよれになりながら仕事をしている最中私は本を読んで時間潰し。ようやくそこを出たのは夜中の12:30だった。当然のことながら、いつもはよる運転をしない私が、ハンドルを握り、そこから北に三時間ほど居眠り運転をしながら必死のパッチでジャックの両親の住むケンブリアにたどり着く。よく朝、さらにまた三時間ほどかけて北上し、その夜泊まる事になっているサンタクルーズのジャックの従兄弟の家に着いた。この時点の私たちは本当に疲れきっていて、右も左もわからないようになっていた。荷物を降ろすときになって睡眠不足の恐ろしさを思い知らされているかのように、いろんなことが起る。まずはジャックが車に思い切り水をこぼし、それをあわてて拭いているうちに使っていたペンにキャップをしないで放って置いたシートには真っ青のシミがつき、極め付きはあれほど時間をかけた私の衣装が一式見当たらない!そんなことはないと事実を否定しながら記憶を辿ってみると...そうだ、ドレスにアイロン掛けしようと思ってジャックの両親の家に...置いて来てしまったのだ!時はすでに遅し!三時間の道のりをまた引き返すわえけにも行かぬ!結婚式は後三時間後に迫っているのに~~~!大パニックになった私とただでさえ、イライラしているジャックを二人で、吼える。“結婚式なんかどうでもいい!もう家に帰りたい~!”哀れに(情けなく)思ったジャックの従兄弟の奥さんは、彼女のワードローブの仲からなんと代わりに着ていくものを探しているが、何しろ彼女は私よりもはるかに背が高い。靴のサイズからして、彼女のは26センチ、一方私のサイズは22.5センチ。試す前から自分が彼女の馬鹿でかい靴とずんずるに長いドレスを着た姿でウェディングに出る自分を想像しただけで情けなくなる。まるでお母さんの服を興味本位で着た小さな女の子の様だ。でもこれを大人の私がやったら洒落にならない。その時点で一生懸命に見繕おうとしている彼女に、“この辺でその手の服売ってないかしら?”と聞くと、車で5分もしない所にあるという。もうダッシュで車に飛び乗り、速攻ショッピングパワー前回にして、その店のドレスコーナーに行くとなんと自分のサイズとしかもなかなかのデザインのものがあり、早速ゲット。その足で、隣の店に行くとこれまたラッキーなことにケンブリアに置いてきた靴と同じメーカーの靴があり、わしづかみにしてレジに立った私の般若のような顔を見て、店員はさぞかし驚いたことだろう。そして、この一連のショッピングをなんと30分で終えて帰ってきた私を見たジャックは、とてもびっくりしていた。この結婚式の主役のカップルが結婚にいたるまでの経緯は、ちょっとした感動ものドラマのようだ。ジャックの元ルームメイトのその新郎、デイヴィッドは、過去にいろんな女性と付き合ったが、なんといっても彼の好みの女性はちょっといかれたパーティー好きなタイプ。一方彼はまじめで働き者の看護士。当然この手の女性たちは彼のような人は退屈すぎる。よって三十半ばの今になるまでこれという人を見つけられずにいた。そして最後の手段?としてか、インターネットのお見合いで新婦となった看護婦のダイアンと知り合う。しかし、これとほぼ同時になんと、彼は自分が癌に侵されていることを知る。多くの女性なら、まだ知り合いって間もない相手が癌であると知ったなら、長く付き合うこと、ましてや結婚を真剣に考えることは難しいだろう。しかし、ダイアンはそれを受け入れ、彼が長くつらい放射線療法の治療を受けている期間中ずっとそばにいてサポートしたのだった。そのような彼女を結婚式でデイヴィットは、“エンジェル”と呼んでいた。彼らのアットホームで素敵な結婚式を無事に終え、その日はぐっすりと眠りにつき、翌朝早く、久しぶりに晴れ晴れとした気分でジャックの父さんの住む、コーニングというオレゴン・カリフォルニア州境から3時間ほど南にある町へと4時間係りのドライブを始めた。***続く***
2004.10.09
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昨日ようやく完全なグリーンカードが届いた。条件付のグリーンカードは2001年に貰っていたが、その条件をとるための手続きをして長々待ち続けてようやく晴れて、アメリカ合衆国の永住が正規で認められたわけである。一番初めに手続きを始めたのは即席結婚してからすぐの2000年の1月だった。当時、どうやって申請していいかわからずに、友達に聞いたところ、地元のコミュニティーカレッジの経営するシティズンシップセンターで比較的安く手続きを手伝ってくれるといので早速行ってお願いした。それからどんどん月日は流れ、所々でいろんな書類と手数料を取られ、あるときは、夜明けの3:30にイミグレーションのインフォメーションセンターの前に並び、要約必要な手続きを終えたのが昼の1:30だったという今思い出してもどっと疲れる経験もした。そんなわけで今回のグリーンカード獲得は、祝杯すべき出来事だ。その夜、ジャックとお高いおフランス料理を食べに行った-ということはなく、普通に夜を過ごしたが、次の段階はシティズンシップ、アメリカ帰化することを話していた。私の中では日本国籍を捨てて、アメリカ人となることはまだかなりの抵抗がある。それはたぶん外国に住む日本人なら誰もが多かれ少なかれ持っている感情だと思う。その理由としては、1. 日本人でなくなってしまうような気がする。2. アメリカ市民になることに依ってのメリットがそれほど感じられない。3. 日本に万が一帰ったときに、法律上アメリカ人扱いになる。私の中での一番の争点は、やはり3だ。たとえば、もしジャックと離婚して、日本に帰りたい、もしくは帰らざるを得ないとする。その時点でアメリカ市民になっていて、日本の国籍を失っていたら、自国に帰ってまたさらに、上記のような長~い手続きと、それによる精神的な苦痛を体験しなければいけないとなると今から頭が痛くなってくる。私の勝手な憶測では多分もしも本来日本人である場合、いったん失った国籍を取り戻すことは外国人が日本国籍をとるよりも幾分か簡単であるはず。それでもやっぱりもう一度何らかの手続きをとらなく出はいけないとなると大変面倒だ。こうしたことを考慮したうえでそれでもアメリカ市民になるメリットがそれを上回るようならそれもいいと思うが...この私の意見を聞いたジャックはうっすらと残念な表情を浮かべた。彼からしてみれば、自分のワイフがアメリカ市民になる権利があるのにそれを拒むのはなんだか片足アメリカの土地に置き、片足を日本の土地に置いて、いつでも逃げられるようにしておいた状態のように感じるのであろう。もちろんこの彼の複雑な感情を察した私は即座に、今までのグリーンカード獲得の長かった道のりをもう一度体験することはとても考えられないし、市民にならなくてもあまり変わりはないからとフォローをした。でもやっぱり彼はなんだかしっくり行かないようで、“君の思うとおりにするのが一番。僕がどうこうしろって指図はできないから。”と悲しく言って暫くした後、”一番大切なことは、君が僕のそばにいてくれるってこと。”それはかなりの苦し紛れの言葉だと思った。もし、彼がこの言葉の後に、“...だから、どこの国の市民であろうと関係ない。”と、強く言ってくれたなら、私もそれほど気にしないでこれからも永住権をとったまま、日本国籍を保持して行こうと思うのだが。海外に長く住んでいる方々でこの問題に直面したことのある人が多くいらっしゃると思うが、どうされているんだろうか?もしもこの日記を読んだ方で、日本国籍を再獲得する件について知っておられたら、ぜひぜひコメントを入れてください。ほかにもご意見をお待ちしてます!
2004.09.23
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新しく仕事を始めてから早くも一ヶ月が経った。その間、仕事以外ではあまりコンピューターの前にいたくなかったので、人様の日記を見るくらいでちっとも自分の日記を書く気がしなかった。でも今日はちょっとゆったりした気分なので最近の私の近況報告をしてみようと思う。初めてお越しの方は、このシリーズが左のコラムと、一つ前の日記ににありますので、よろしかったらどうぞ。****************************************************難航していたルームメイトがようやく見つかったのはかれこれ一ヶ月ほど前。一旦は切羽詰って、もう誰でもいいや、って思ったけど、やっぱり男のルームメイトは前回の日記のようにいちいち家の中で着ているものまで気にしなくちゃいけないとか、下着をランドリールームに干せないなど、面倒くさいこともあったりするので、やっぱりオリジナルの計画に基いて、女の人で、出来たら学生のルームメイトに絞ろうと考え始めていた。すると、不思議なことにその後すぐにとある若い日本人、Aちゃんから電話が掛かってきて、この部屋を見に来たいという。どうやってここを知ったかというと、以前に近所のカレッジに張り紙をしていたときにたまたま日本人の女の子がいたので、声をかけて、知っている人で部屋を探しいる人がいたらこれを渡してね、と言って電話番号を渡したのがAちゃんの友達だったわけだ。部屋を見に来た時に彼女は条件があると言ってきた。それは双子である彼女の片割れが、大学の夏休み中に一ヶ月ほど知り合いの会社でボランティアで仕事をすることになっているので、ここに滞在していとの事。彼女の部屋に滞在するということなので、リビングルームを占領されるということはないが、何しろ狭いうちなので、ちょっと躊躇したが、まだその時点で仕事が見つかっていなかったので、家賃をその期間ちょっと大目に払ってもらうことでOKした。車の免許を現在取る最中でまだ一人では運転できない彼女は友達に頼んで少しずつ荷物を移動したいと言ってきたので、彼女の都合のいいときに家にいるようにしたのだが、その約束が彼女の都合で何度も変更されて、散々振り回された私は、彼女の留守電に文句を言って次の約束が守れないようだったら、この部屋を彼女のために確保することは出来ないと言うことを付け加えた。その直後にあわてて彼女からの侘びの電話が入り、翌日に取り合えず、と言ってデポジットを入れに自転車に乗って30分のところから、汗だくでやってきた。この時点ではいったいどうなることやら...と行く末を案じていたが、実際彼女と暮らしてみると、とっても素直ないい子で、しかも、自分からどんどん私たちに溶け込もうしてくれる。以前にも日本人の学生のSちゃんと一緒に暮らしたが、彼女はとても謝意で、滅多に私達と一緒に会話に溶け込もうと努力することなく殆ど自分の部屋に閉じこもってしまうことが多かった。特におじゃべり好きのジャックは、このSちゃんの私達に対して気を使いすぎている様子が気にして、こちらに非があるのではないかと考えていた。そこで、彼女が私達に溶け込みやすいように食事を大目に作って一緒に食べようと誘ったり、出来るだけ彼女に声をかけるようにしていた。しかし、彼女は9ヶ月ほどの間、私とは日本語で、たまに話をすることはあったが、ジャックがいるときにはあまり長い会話をすることはなかった。それと比べると今回のルームメイト、Aちゃんは同じ日本人でも全く日本人らしくなく、自分からどんどん積極的にいろんなコミュニティー活動に参加したり、近所の教会に行ってみたりと大変逞しい。そして、素晴らしいことに殆ど家にはいない!! なので、私達にとってはまさに、パーフェクトなルームメイトだ。彼女が入居して一週間後に来た双子のお姉さんのHちゃんもAちゃんほど英語が話せないが、それでも積極的にいろんなところに一人で出掛けたりして、20歳にしてはとっても自立している。そんなわけで、今回のルームメイトは初めはどうなることやらと心配したが、実は大当たりでジャックも私もほっとするどころか、大喜びといったところ。9月にはAちゃんの彼が二週間ほど滞在するという彼女の申し出を保留にしているが、この調子なら、OKしてもよさそうだ。
2004.08.16
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この日記は続き物になってます。初めてお越しの方は、よろしかったら左の、“他人と暮らす”シリーズと、7月3日の日記をどうぞ。********************************前の若いアメリカンルームメイトが居なくなってから早くも二ヵ月半が立とうとしている。あれから細々ながら、近所のカレッジや、フォトグラファーやフィルムメーキングの専門学校の掲示板や、ウェブサイトなどにルームメイト募集の広告を出したり、ネット上でのルーム探しのサイトに登録などして探しているが、やっぱりこの人ただったら!というような人を見つけるのには時間が掛かる。しばらくはやっぱり私とジャックよりも若い女性で、出来れば学生が良いと思っていたので、男性からの応募を断っていたが、なかなかうまく行かない。そもそも女性はカップルと住むことをあまり好まないので、(私も独身のときにカップルとは住みたくなかった)なかなか電話が掛からない。それでもたまに女性からの電話があってもペットを飼っているとか、私達の条件に合わないような人だったりする。ある女性は、最近手首を故障して、仕事を休んでいる最中。現在は仮住まいとして友達のところに身を寄せているという。年は多分私達よりもちょっと上のようで、とても華奢な神経質そうな人だった。化粧がとっても濃く、玄関で彼女を迎え入れた瞬間に強烈な香水のにおいがむわっとして、一瞬のけぞりそうになるほどだった。電話で少し話はしていたが、お世話になっている友達が、ほかの州からの家族をバケーションで呼ぶことになっているので、今すぐにでも自分の部屋を探して出て行かなくてはいけないという。あせっているのは分かるが、私がこの空き部屋のことや、ジャックと私の生活パターンなどをする端から、もう自分が入居するつもり、というよりも、自分のものと決まったかのような口調でいろいろ質問をしてきた。圧倒されつつも軽く流していると、彼女は聞いてもないのに自分の状況をべらべらと話し始めた。それは、彼女は最近結婚したんだが、なんと三ヵ月後に新夫に気が変わったから分かれてくれと言い渡されたという。彼女は結婚前には素敵なアパートで一人暮らししていたのだが、結婚を木に一緒に彼の家に移り積んだという。しかし、離婚が決定となり、持っていた物殆どを売り払い身軽になって仕方なく友達の家にお世話になったのだそうだ。なんとひどい話ではないか!と同情したんだが、あまりにも私達の探しているタイプの人間ではなかったため、何でそんなことになったのかと、とっても不思議で興味があった聞きたくて仕方ないのをぐっとこらえた。そんなこと聞いてしまったら、きっと彼女に、お涙頂戴劇場を始められてしまって、断るにも断れなくなってしまっただろう。散々時間を使って見に来させておきながら、非情だとは思いつつも最終的には、‘学生で、私達と生活パターンが逆な人を探しているので’というのを理由にお断りして帰ってもらった。それから幾つかこの子なら、というのが居たのだが、そういったときに限って別の場所を見つけたので、と言って断られたりとルームメイト探しが難航し、それに加えて私の仕事探しももっと難航していたので、ここは文句を言っている場合ではないと、対象の範囲を広げてみることにした。今までは、完全にシャットアウトしていた男性応募者も、会ってみないと分からないし、実際に住んでみたら女性よりもうまく良くかもしれないと考え直して、OKということにした。一旦こうして範囲を広げると、反響は一気に二倍以上になった。考えてみたら人口の約半数は男性なんだから当たり前といえば当たり前なんだが。掛かってくる奴らにはいろんなアプローチの仕方があった。面白かったのは、やたらと愛想のいい奴。電話を取った瞬間に、”は~い、僕はXX,ご機嫌いかが?”と、まるでマニュアルを読みながら挨拶するテレマーケターそのもの。そして私の名前を聞いて答えるとこっちが何か言おうとする前に、間髪居れずに馴れ馴れしくも私の名前を何度も口にしながら、自分がいかに私達にとって打ってつけのルームメイトであるかをアピールするのである。さすがにうんざり着て話している途中で、“結構です!”ってまるで煩いセールスマンを断るようにして切ってやった。そして次には、ネット上のルームメイト探しでの登録者であった。電話の段階では彼の年齢は不明だったが、職業が、何処かの出版社のエディターで、個人的にも本を書いたりするとても穏やかな口調のインテリ風の男性。とても感じが良かったので、取り合えず、来てもらうことにした。翌朝、この男から連絡があり、残業をしなくてはいけなくなってしまったというので時間を変更した。その後私はいつもの如くのんきに楽天をやり、仕事探しをし、仕事中の友達とチャットをしたりしながら過ごして居るとあっという間に夕方になったので、エクセサイズ用の服に着替えた。すると、ピンポ~ンと誰かが呼んでいる。この時点で私は彼が来る事をすっかり忘れていたのだ。誰だ?またなんかの勧誘だろうなんて思いながら戸を開けると、四十半ばのメガネを掛けたおっさんが立っている。“.....?”一瞬状況がつかめずに立ち尽くす私。“あ~、XXなんだけど”なぜか申し訳なさそうに名乗るインテリ物書き“ああ、ごめんなさい、すっかり...(忘れていたと言いそうになるのを飲み込んで)わざわざ、どうも有り難う御座います。”すばやく体勢立て直す私。“じゃあ、早速キッチンから紹介しようかしら...”なんて作り笑いをしながら、この突然な訪問客に(本当は約束してたけど、忘れてたから突然という状態)ちょっと前に食べた物の残骸がテーブルの上に散らかった物をさり気なく片付け、椅子に脱ぎ捨てられたブラをす~っと本で隠し、平静を装って部屋の説明を始めるのであった。しかし、この私のオタオタぶりは、バレバレだったに違いない。そしてガレージにある洗濯機、乾燥機を見せようと一緒に入っていくと、ジャジャ~ン!三日くらい前に洗濯して、もうとっくに乾いた、ブラジャーが暖簾ように吊るしてあるではないか!そこで、慌てた私は、“洗濯機や乾燥機があるから、コインランドリーに行かなくっても済むわよね!”って適当に切り上げてインテリ物書きをガレージから押し出した。それから何とか冷静さを取り戻し、家全体を見せて回っているうちになんか彼の視線が気になりだした。それは、私のノーブラの胸に行っているのではないか?ひどいときは、彼の二つの目玉が私の顔を見ながらも、ひゅ~んと下に行くのが明らかに分かるのである。それまで自分がノーブラであったことなんか、彼のアポイントメントと同様、すっかり忘れていたのだ。彼の視線に気がつき、急に恥ずかしくなったのと同時に、このいやらしいおっさんが気持ち悪く思えて来た。そう思い始めると、変な空想が始まってしまい、彼が私のいない間に下着を漁っている姿や、自分の部屋にこもってエロビデオを見ながら興奮して執筆活動している彼の姿が浮かんでくる。そうなったらますます気持ち悪くなってきた。私が胸を隠すようにして腕を組むようにして話し始め、しかも、初めとは打って変わって冷たい態度になってさっさと切り上げるようにして居る私に気づいたインテリ物書きは、もうその時点ではちゃんと私の顔を見て話している。でも時はすでに遅し。部屋を気に入った様子の(部屋を気に入ったのか何を気に入ったのか?)彼が一生懸命入居の可能性を探る中、一方的に前述の女性に言ったのと同じを理由で断り、帰ってもらった。この一連の話をジャックにすると、私のノーブラ状態を見ながら、“ねえ、それじゃ、彼だけじゃなくて、男だったら誰だって目が行っちゃうよ。はっはっは!”って大笑いされてしまった。“別に潔癖って言うわけじゃないけど、あの男の二つの目玉がくぃ~って下に向かったのを見たときは寒気がしたんだから!”って行っても笑いっぱなしのジャックはもっとからかうのであった。いくらブラが必要ないくらいの平らな胸でも、カジュアルなカリフォルニアだっても、やっぱりノーブラは気をつけたほうがいい。続く...
2004.07.14
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今回のアメリカ独立記念は久しぶりに、ここから北に車で三時間ほどの、ケンブリアに行った。そこは人口6千人ほどの小さな町で、いまどき珍しいチェーン店は一切なく、昔ながらの小さな店が並ぶのどかな海沿いの観光地である。毎度このケンブリアに来ると人ごみがなくて、ほっとする。ハズバンドのジャックの実家ということもあり、海の見える部屋での寝どころはあるし、食べ物は彼の母親が面倒を見てくれ、しかも、彼女とその旦那さんで、(ジャックの義理の父親)広告代理店を営んでいる為に、あちこちのレストランとの契約で、食事をタダで出来るという、まことに恵まれた環境なので、私達はここを‘ベッド&ブレックファースト・リゾート’と呼んでいる。ジャックの母親はとても素敵な人で、多分50代半ばと思われるが、ヨガやダンスに毎週通い、食べ物にも気を使っているために年よりもぐっと若く見える。ジャック曰く、彼女はヒッピー全盛期にはとんでもない浮かれた女であったそうで、彼女の初めの結婚でジャックを筆頭に三人の子供をもうけた後に離婚し、その後、結婚離婚を二回ほど繰り返し、ようやく本当の意味の‘生涯を共にする人’と巡り合う事が出来た。この四人目の旦那さんはとても思慮深く、辛抱強い人で、なおかつ頭がいい。彼女は彼のお陰で人生の後半を安泰に過ごせているといっても過言ではない。自由をこよなく愛し、今でもヒッピー的なものなら何でも試しては、ちょっとやばいのではという物までも信じてしまう彼女を上手に説き伏せては普通の道に戻すのは彼である。一見まじめすぎるように聞こえるそんな彼と、フウテンな彼女がなぜ一緒になったかというと、それは、彼がミュージシャンであったからである。アコースティックギター、ベースなどの主に弦楽器を得意とする彼のジャンルはジャズ。ずっと昔はプロとしてやっていたが、今では本業の傍ら、地元のレストランやバーなどで週に二回ほど演奏をしている。以前何回か聞きにいった事があるが、やっぱりステージの彼は、家で見るリラックスして大きな熊のようにテレビを見ている姿とは打って変わってとても素敵で、はは~ん、彼女はこれに惹かれてしまったのね、と納得するほどであった。それはさておき、今回のベッド&ブレックファースト・リゾートも、ジャックと私よりも一日前から滞在していた義父の友達のランディー、その彼女のバーバラを交えてビーチに行って小さなボートに乗ったりしててとても楽しいものだったが、後半のアメリカの誕生日を祝うディナーでちょっとしたハプニングがありいつもと違ったリゾートに仕上げてくれた。このディナーのゲストにはてっきり私達、上記のカップルだけと思いきや、義母の女友達三人が更に加わった。一旦酒が入ると誰でも逃げていくアル中のグレンダ、中年の危機を迎えて最近離婚したバーバラ、それからオーストラリア移民で、今でも離婚しただんなとの生活を恋しがる寂しいジャマ。彼女達は義母と同じくらいの年かさの女性達だが、みんな彼女に負けず劣らずヒッピーな女達で、ダンスの仲間でもある。それぞれダンス仲間と話すときには‘ダンス名’で呼び合ったりなんかして、今でも彼女達はあの時代の世界に生きているのだ。彼女達がドアに現れ、アル中グレンダを見た瞬間から嫌な予感がしたのだが、その反面、お酒に加えてヒッピーには欠かせないとある植物で酔いを増した彼女達を傍から見るのはある意味で、エンターテイメントであった。まずはこれらのヒッピー達とは全く正反対の現実主義者のニューヨーカー、バーバラと、義母のヒッピー友達の同じ名前のバーバラのやり取り。数時間前にビーチで義父が男性器似た海からの流れ者を拾ってきて自分の股間に当ててじゃれていたたその代物を、持ち帰ってきたニューヨーカーバーバラが、ディナーテーブルに飾ろうとしている。が、なかなかうまいこと出来ないでいるとそこにヒッピーバーバラがやってきて、しきりにこれはこうしたほうがいいとおせっかいを焼いてくる。ニューヨーカーバーバラ “これはちょっとうまく立たないんだけど、どうしたものか。ええとこうして...”ヒッピーバーバラ “これはこうするのよ、ハニー、(子ども扱いするような相手を蔑んだような言い回し)”ニューヨーカーバーバラ “でも、それじゃ、ここがが...ウンヌン”ヒッピーバーバラ “だからこうしておけばうまいコト行くじゃない!”ニューヨーカーバーバラ “っん、もう、これはこれでいいのよ!(ぷんぷん!!)二人とも負けちゃ~いないのである。その件が終わったと思いきや、今度は義母が私に聞いてきたと同じコトを彼女のヒッピー仲間に聞いている。義母 “ねえ、このバーバラ(ニューヨーカー)案、どう思う?このテーブルクロスの生地を窓の上にこうして掛けたらどうかしら。”ヒッピーバーバラ “だめだめ!そんなのぜんぜん良くないわ。”アル中グレンダ “そうよ、こんなの腐ってる、”ジャック “そんなの飾ったら、せっかくのオーシャン・ヴューが台無しになっちゃうよ、シンプルが一番!”ああ、少一時間ほど前に義母に同意を求められた事なかれ主義の私がいい案だと同調してあげていたのに、このヒッピーババたちに散々けなされ、更にジャックからも...そっとこの案を出した本人ニューヨーカーバーバラを横目で見るとそれはそれは不快な顔をしてさっさっとその場から離れていくのだった。そうこうしているうちにヒッピーバーバラの元彼、リチャードギアにそっくりで色男なんだけど、ちょっとアル中が玉に瑕のケンがやってきた。去年のこの同じ日に行われたパーティーで、彼は酔っ払ってパティオの木製デッキに火を付けて危うく火事になるところだったので、暫くこの家に立ち入り禁止になっていたのを知っていた私は、一年しか経っていないのに、しかも同じ建国記念日のパーティーでその放火魔ケンを暖かく迎える義母の懐の深さに感心するのだった。ビーチから帰ってきてすぐに支度に取り掛かったので、取り合えず全ての下準備は整っていたものの、いざ調理に取り掛かるという段階で、すでに別世界に来行き始めていた義母だったので、私がそこからは取り仕切ることにした。そうして何とかおひょうのグリル、ハーブの蒸しポテトとグリーンサラダという簡単メニューのディナーを完成させると、皆食卓に着き始めた。ここでもヒッピーバーバラがおせっかいにもみんなの席を決めている。“ええと、ジャマはここに座って、ロジャーとバーバラはそこがいいわ。それからホストで頑張ってくれたP(義母)はここ。で、XX(島流れ)はここね。”と私にあてがわれた席は、6人用テーブルで10人がひしめき合う角の、しかもアル中グレンダの横だった。昔のだんながジャパニーズだったが彼は日本に一度もつれてってくれなかったという話をしていたと思ったら、突然違った話題に飛んだりする彼女の子守をしていた私はせっかく好物の魚をじっくり味わうことは出来なかった。そして夜も深まり、ヒッピーババ達の酔いもどんどん深まって行く中、恒例の花火が始まった。高台にあるこの家は、遠くからでもビーチで打ち上げられる花火が良く見える。美しいその花火を見ながらふっと日本の壮大なる花火大会での光景を思い起こしながら、一人でメランコリックに浸っていると、その横で、“よっしゃ~、おりゃ~、いいぞ~~、アメリカバンザ~イ!!!”花火が上がる一つ一つに向かっていちいち町中の人が聞こえる大声で叫ぶアル中グレンダ。ああ、台無しなんだけど...あまりにも煩くて、もう花火見ていてもつまらなくなってしまった私はジャックと二人で逃げ場を探そうと家に入ると、なんと、溶けたロウソクから周りを飾っていたポプリに火が引火して、ぼうぼうと燃えているのを発見!あわてて消すとどやどやとみんなが集まってきて、大騒ぎ。一件落着した後に、まだ酔っている義母は、“私の家をXXが救ってくれたのよ!!”私をまるでヒーロー扱いのように褒め称えるのだった。その光景を見た義父は、“去年に引き続きまた今年もこれか!こんなことでは家が燃えてなくなってしまう。”とぼやく。そもそもロウソクの周りをポプリで飾り、木製のトレイに置く人が義母以外にいるんだろうか?火災未遂の興奮も冷め遣らないのも手伝って、普段は大人しい私が、トレイを木製以外のものに変えたらどうだと、提言するが、頑固な義母は、私とジャック何とかきれいにしたそのトレイに早速元通りにロウソクを置きなおすのだった。“小さいロウソクはすぐ溶けるから危ないけど、大きいのは大丈夫よ”って。やれやれと思いながら、仕方なくロジャーとニューヨーカーバーバラのいる裏庭に行ってチムニーで体を温める。現在ラスベガスに住む彼らは、ヒッピーババ達とは全く違った典型的な‘ベガススタイル’の人間なので、何もなかったかのようにリビングルームでニューエイジ的な音楽に乗せて狂ったように踊る彼女達についてゆけない。チムニーに向かってロジャーは自慢の‘キューバ製葉巻’を吸い、“あの人達はどうかしてるわ、全く!”と愚痴る彼女と一緒になって、ヒッピーババ達と過ごした‘楽しかった’去年の出来事を皮肉っぽく語ってくれた。その輪に義父とジャックも加わって、ヒッピーババ達が早く帰ってくれるようにと心の中で祈っていると、まるで、その祈りが聞き入れられたかのような出来事が起きた。それは、消防車が二台も近所にやってきたのだ。サイレンこそは鳴らしてはいなかったが、何度も何度もこの家の周りをぐるぐる回っている。多分近所の誰かが通報したんだろう。恐れをなした義父は、いつの間にかこのしらふグループに加わって、うだうだあほなことをほざいているアル中グレンダに、“静かに!”っと厳しく注意しながら、急いでキッチンから持ってきたやかんの水ででチムニーの火を消そうと必死。しかし彼が水を掛ければ掛けるほど、それまで以上にもくもくと、どす黒い煙が立ち昇り、まるで本当に火事になっているかのようだった。いつその消防団がこの家を見つけるかとおびえている私達の傍らでヒッピー義母、“ほらほら、パイプを隠すのよ!!”と、まるで悪い事しているのを親に見つからないように隠す、いたずらっ子のような顔をしている。この一連の出来事の真っ只中、たった一人のジャパニーズの島流れは、“こんな光景、日本人のまじめな家庭で育った人と結婚したらまず見ることないだろうな...”と妙に感心しながら映画か何かの観客のような気分であった。楽しかった?パーティーの翌朝、ジャックはさんざんの出来事だったとちょっとご機嫌斜め。それは自分の愛する母が時としてこんな風にまるで子供のようになってしまうこと。彼曰く、“そもそも私達や他のゲストが来ていると言うにもかかわらず、クレージーな友達を呼んで、自分が面倒見切れないからってゲストにその子守を押し付けるんだからやってらんないよ!!”と。全くその通りではあるが、実は私は結構これでも楽しんでいたのだった。確かに疲れたけど。子供の頃に本当にヒッピー生活をしていた彼は、今回のようなことは日常茶飯事だったという。6歳ごろから母親から葉っぱを盗んでは友達と隠れて吸っていた彼はティーンエイジャーを過ぎた頃に’卒業’したそうだ。周りの頭のおかしい大人たちに囲まれて、あんなふうにはなりたくないと思ったそうだ。分かるような気がする。両親が起きないうちにさっさと置き手紙をしてケンブリアを後にした私達は、二人だけの本当ののんびりとしたアメリカ建国記念日をもう一度我が家で楽しむのだった。その後電話でのジャックとの会話で義母は、“楽しかったわね~、ちょっとハプニングがあったけど。”と言いつつも、迷惑を掛けたとか言う誤りの言葉は一切なし。そして、ジャックの、“次回に招待してくれるなら、僕達だけにしてよね。”という言葉に対し、ふふふ、と、のん気に笑っていたようだ。そんなヒッピーな彼女は、わたしにとっては最高のMother・In-Lawである。
2004.07.07
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この話は‘他人と暮らす-ルームメイト事情’の続き物となっているのでお暇な方(失礼)は左のコーナーをどうぞ。*******************************************************ああ、またしてもルームメイト探し。この家に来てから三度目。初めての日本人のルームメイトのSちゃんは今思うと本当に理想の同居人だったなあ。おとなしいし、素直だし、なんていったって忙しいから留守がちだったし。彼女は2003年の2月に入って12月に出て行った。理由はロスアンジェルスにある四年制大学に編入するためだった。次に入ったルームメイトの21歳のアメリカンガールのBは、Sちゃんと年も近く、近所の短大に通う学生で、ウェイトレスのバイトをしているって所は一緒だったけど、Sちゃんとは正反対の、まさに‘アメリカ人の若い子’だった。とっても社交的で、常に誰かと一緒につるんでいて、家でじっとしていることなんて滅多になかった。仕事とバイトで忙しいというのもあるけれど、その二つがない休みの日でも、さっさと出掛けていっては遅くに帰ってくるので私たちにとってはうってつけのルームメイトだった。しかし、彼女は入居のなんと二日目に早速男を連れ込んでいたので、彼氏ならまだしも、彼女曰くその‘友達’がその夜に酔っ払って家に帰れないとせがまれて仕方なく留めてしまったという事だった。Sちゃんは彼がいなかったし、女友達でも滅多に呼ぶことはなく、自分のほうから友達に会いに行くことが多かった。そんなまじめっこのSちゃんに慣れきっていた私たちは、泊り客については入居直後に話し合ったハウス・ルールで触れることを忘れていたのだ。ちょっと言いづらかったが、ここはアメリカンギャル、ちょっと甘い顔をしたらその‘ゲスト’が仕舞いには、‘同居人’と化すことは目に見えていたので、初めが肝心とばかりはっきりと、“別の街から訪ねてきたりする友達を泊めることは構わないけど、それ以外でこういった形での泊り客はちょっと遠慮してほしんだけど”と、しっかり釘をさしておいた。それ以降彼女は友達を呼んでもあまり長居させずにすぐに出掛けていくようになったので、これに関しては丸く収まったんだが、今度は、あれこれ彼女のだらしなさや無神経さが目に付くようになってしまった。例えば家賃を期限日から二日経っても払わなくてこちらが催促する羽目になったのが二回も続いたり、ジャックと私の電話はプライベートにしたいので、電話は自分の携帯電話を使ってと頼んであったのにも関わらず、私が帰ってきたときに使っていたのを幾度か目撃したし、また、極めつけは、勝手に私たちのタオルを私物化し、分からないように自分の部屋に隠していたり...そんなことが幾つか続いたので、私はジャックに愚痴を言い始めた。ところがアメリカ人でしかも男である彼は、私のこういったことを、“そんなの俺が一緒に住んだルームメイト達からしたら可愛いもんだぜ、あんまり気にするな。”と真剣に取り合ってくれない。嫌なことを受け入れて黙っている性格ではない私なので、彼女がいないときに小さなメモに書いて彼女のドアにはることにした。しかし、彼女が帰ってくる前にメモを発見したジャックはことごとく捥ぎ取っては、“こういうやり方って最悪だよ!文句があるときは面と向かって言わないと余計に相手の癇に障るんだぞ!“と言うのだった。私としては、留守がちでなかなか顔をあわせることのない彼女なので、こうやったほうが手っ取り早いし、日本人気質か(?)面と向かって言うのはちょっと気が引けると思ったからこういった方法をとったと反論すると、私の英語はストレートすぎてつっけんどんで、感じが悪いと彼は言う。 ああ、そうですか... こればかりは第二ヶ国語として英語を使う者としては素直に受け入れるしかないということで、それからは、なるべく彼女に直接、角が立たないようにヤンワリと、またジャックのほうからも言ってもらうようにしていた。そもそも素直な性格で、対立することを嫌う彼女なので、こういった私たち(私だけ?)の申し出をすんなり聞き入れてくれるのだった。勿論こういったことがあったあとは、私達のほうも彼女が萎縮してしまわないように、顔を合わせるときは出来るだけフレンドリーにするよう心がけいた。例えば食事を余分に作っては彼女に“よかったらこれ食べてね”置き手紙を書いたり、滅多にいない彼女がいる週末の朝は一緒に朝食をとったりと、彼女をただのルームメイトではなく、多少なりとも家族のように扱って気を使っていた。そうしているうちに彼女も打ち解けてきて、職場のこと、学校のこと、家族のことなど話すようになったので、なかなかうまく行っているなと思っていたのだが、実はそう思っていたのは私達だけだった。入居三ヶ月目には行ったころから、もともと留守勝ちであった彼女がもっと家に寄り付かないようになっていった。自分のベッドで一晩、二晩寝る以外は近所に住む実家のところや、‘友達’と称するボーイフレンドのところで過ごし、日が明けると私達が仕事に出掛けた頃に家に帰ってきては、洗濯をしたり、趣味の絵を書いたりしているようだったが、仕事から帰ってきた私がガレージのドアを開けるのを聞くと、数分後には‘仕事に言ってくるから、じゃ、またね!’と、そそくさと逃げるようにして出掛けていくのだった。そんな風にして出て行った彼女の後を見ると、まだ終わっていない洗濯物が洗濯機や乾燥機を置きっ放しになっているのがしばしばで、彼女の部屋はまるで豚小屋状態になっているのだった。その度に、まるで反抗期の家に寄り付かないティーンエイジャーをもった母親のように、嵐が去った後のようになった家の中をボーっと眺めている私だった。(子供を育てたことがない私だが、想像すれば、多分こんな感じだろうか?)そんな状態が数週間も続いたので、ジャックと私は彼女がいつまでも、滅多に帰ってこない物置と化した部屋に$550も払っているのは馬鹿らしいから出て行くって言い出すのは時間の問題だといっているうちに、とうとうその日がやってきた。妙に遠慮がちに切り出した彼女は、メキシコで一ヵ月半ほど語学留学を決めたので、切り詰める必要があるとして、ここを出て留学前のしばらくの間、妹のところでお世話になって、メキシコから帰ってきた後は、自分の部屋を探すという。これを聞いた私達は予想どうりであったので、彼女の素晴らしいチャレジと新たな生活を心から喜んだ。いちいち細かい事を言ってしまい、居心地悪くさせたのはこちらのほうなのに、言いづらそうにしていたのは、私達が彼女に気を使って色々して貰ったので、義理のようなものを感じていたらしい。その後一ヶ月で彼女は出て行き、私達はルームメイト探し第三弾をスタートさせることになった。次回はもっとおおらかに細かい事気にせず思いつつ...続く...
2004.07.03
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先週の日曜日に公開されたばかりのMicheal・Mooreの待望作、‘Fahrenheit 9/11’を見た。この映画は公開前にいろいろと物議をかもしていたもので、とても興味があったので、ようやく見れたので嬉しかった。まず冒頭に出てくる四年前の選挙の光景から始まって、彼が選ばれたこと自体が間違っているということを明らかに記されている。そう、まさにこの映画はブッシュ政権叩きの映画である。初めのでたしからブッシュ大統領が政権交代直後になんと4割をあちこちのリゾートでゴルフをしたりの優雅なのバケーションぶりを映していた。観客は若い人から中年まで様々だったが、いろんなシーンを見るたびにあちこちからブーイングや呆れた声が聞こえてくる。そう、このタコ大統領を良く思っていないのはジャックや私だけではない。そのまま映画は流れてゆき、彼の父親、先代の大統領を含む彼らブッシュファミリーのサウジアラビアとの繋がり、また、アルカイダのリーダー、オサマ・ビン・ラディンの家族との石油産業を舞台にした深い繋がり等を説明していた。あまり詳しく内容はこれから見ようとする方々の為にあまり書かないが、とにかくこの映画を見たあとは、本当に濃い内容で、知らなかったことが明らかにされているのに驚かされ、また、強い憤りを覚えた。たぶんこの時の多くの観客がアンチ・ブッシュ派であろうが、彼を支援している人々にこそ是非見ていただきたい映画である。なぜなら、彼らこそがこの大統領の巧みなメディア操作によるイメージによって、彼が如何に素晴らしい大統領であるかということを洗脳されているからだ。去年の3月19日、アメリカはイラクに対して宣戦布告した。それはちょうど私とジャックが日本に向けて飛び立った日であった。日本に着いてからは日本の報道するテレビニュースに首っ丈であったが、面白いことに、この直前に見たアメリカの各局のニュースの流す内容とかなり異なるのだった。それは前述のように、アメリカの殆どのメディア業界と深く繋がりのあるブッシュの手が回っているために、多くのニュースではこの戦争突入に関して支援する様子が色濃く出ていて、あるテレビ局では、あたかも独裁国の国営テレビを見ているようだった。ところが日本のニュースは大半が、第三者として見ているために、批判的な色が強いのがとても印象に残った。それから、アメリカのテレビ局ではまず見られないような画像、負傷者の生々しい姿や、戦火の真っ只中のすざましさを目の当たりにして、ジャックと二人でテレビに向かって戦争反対を訴え、怒鳴っていたのを覚えている。とにかく、この映画を見たあと、アメリカの将来にとって、次回の選挙でデモクラットが政権を勝ち取ることを、選挙権のない私が深く深く望むのであった。まだ見ていない人は是非、是非、見に行ってほしい。(見た後には感想をBBSに書き込んでくれたら感激!)プリヴューは下記のウェブサイトで。http://www.fahrenheit911.com/trailer/windows/medium.php******あ、そう、全く関係ないんですが、新しいメニューが出来ましたので、宜しかったら‘今晩何にする?簡単お助け料理’コーナーをご覧下され。
2004.06.30
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毎日忙しいあなたへ朗報?! 新しいコーナー、‘今晩何にする?簡単お助け料理’を作りました。今回はチキンカシューナッツカレーです。よろしかったらどうぞ。
2004.05.29
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ああ、この国にいると本当に‘環境保全’と言う言葉を知っている人が何人いるんだろう?と疑問に思えてくる。アメリカ住在の方々にはもうお馴染になっているガソリン代の異常な高騰ぶり。今日のロスアンジェルスタイムスに、こんな比較が載っていた。*******************************************************現在ロスアンジェルス郡の平均ガソリン価格は1ガロン当たりUS$2.36。これに伴って、大型のSUV(Suports Utility Vehicle)の売れ行きが低下する中、小型のものが伸びを見せている。フルサイズSUV:Chevrolet Surburban (8シリンダー、5.3リットルエンジン)燃費1ガロン当り:14マイル年間ガソリン代:$2571 売上:21%ダウンミディアムサイズSUV:Toyota Highlander (6シリンダー, 3.0リットルエンジン)燃費1ガロン当り:19マイル年間ガソリン代:$1895 売上:15.5%アップコンパクトSUV:Ford Escape (4シリンダー,2.0リットルエンジン)燃費1ガロン当り:23マイル年間ガソリン代:$1565売上:49.3%アップ注:1. 1ガロン=約3.79リットル、1マイル=約1.60キロメートル2. 燃費は市内乗り3. 年間ガソリン代は、年間15,000マイルの市内乗りをしたと仮定して4.売り上げは今年4月のものを去年の4月のと比較(ちなみに私の乗っているホンダシビックはマニュアル車で1ガロン当たり39マイル走る)*******************************************************ここ数年のSUV熱は驚くべきで、ちょっと車で出掛けて周りを見渡すとSUVがすぐ前に、トラックが両脇に、そして後ろにもまたファミリーバンが走っているなんていうのは当たり前なのでなんとも思わなくなってしまったという人も多いだろう。アメリカは何でもデカくなくちゃって言うケッタイな国だ。二十年以上前に起こったオイルショックのとき以来、燃費が良く性能がいい日本車が人気が出るようになったが、それでもここ最近の自動車メーカーのマーケティング戦略に洗脳された人々は、猫も杓子もSUVを買うようになった。SUVを買う人の理由はそれそれあるが、その多くは本当に必要でないような気がする。例えば、子供が沢山いる家庭では話は別だが、たいていの場合たった一人や二人の子供を持った家庭や、もしくは子供なしの家庭、または、独身者でもこのSUVに乗っている。仕事で必要?大工やいろんなものを配達するような仕事についた人ではなくて、ホワイトカラーのとりわけ沢山荷物を持って異動することのない人たちまでにもこのSUVは人気だ。アメリカでこの手の大型車が人気があるのはやはりなんと言ってもガソリン代の安いことが一番の理由であろうと思う。なんてったって日本のそれと比べたら、いくら価格上昇している今でも安い。アメリカ人はガソリンをただ同然と考えている国民なのでこの件に関しては皆、大騒ぎしている。この記事にも、幾人かの一般人のコメントの中で、今回車を新しく買い換えるが、前回車を買うときは、燃費の事なんか頭になかったというのがあった。日本人にしてみたら、よほどのお金持ちでない限り、燃費のよさは多分車選びにはとても重要な点ではないか?そして、この記事を読んだ後にほかの記事を読もうとしてぺらぺら新聞をめくると、やたらとSUVの宣伝が目に付いたので、数えてみると8台中、6台がSUVだった。アメリカ人よ、考えても見て給え!ガソリン以外にも世界中の30%のエネルギーを使っているのは君たちだぞ!(でもここに住んでいる私も含めてって事なんだが...)あたかもエネルギーを使うことは彼らの権利ですらあると考えているところが間違っている。その証拠に環境保全に関しては全く遅れていて、リサイクルをするということがきちんと国民に浸透していない。ようやく今頃になってあちこちの店のウィンドーに、‘空き缶、空ボトルをリサイクルしましょう’なんていうポスターを見るようになった。日本じゃこんなの30年位前からやってるぞ!以前の日記にも書いたが、ブッシュ政権になって今まで10年くらい掛かってやってきた環境保全の努力をいろんな規制を緩和して、後退させているのだ。例えば、大型車、個人乗りとするものではなく、商業用の大型車に対しての税金控除をしたことにより、一般のSUVよりも更に大きな、Hummerという、軍用のトラックを基に作られたガソリン垂れ流し車まで出てきた。このHummerの宣伝を見ているとあたかも大きいのは素晴らしい、カッコいいといわんばかりのもので、見ていてイライラする。でも、そんな宣伝に魅せられて買ってしまうアホで身勝手な人たちもいて、最近この車を結構見かけるようになった。また、ブッシュは、自動車産業を全面的に支援するという理由で、環境保存団体等が要求する、燃費がいい車を政府が促進するようにというものも却下したようである。なんと言う近視眼的な発想であろう。大体アメリカは、公共交通機関の発展を怠って、どんどんハイウェイをぶっ建て行ったおかげで、ほかの先進国には例を見ないガソリンに頼った車社会になってしまったのだ。それを修正するどころか、もっと事態を悪化させるのに躍起になっているとは。この話をしだしたら止まらないので、話を元に戻すとして、誰でも今までなしで生活していたところに便利なものが入ってきて使い慣れるとそれなしでは生きてゆけなくなってしまうという錯覚に陥りやすい。昔SUVなんてなかった頃、子沢山の我が家では、小さな小さな軽トラックのバン型に乗っていた。父親が大工であったせいもあって、この晩、結構大工道具を運んだり、週末は5人(一番下の子はずいぶん後になって生まれたので私の子供の頃は5人だった)を乗せていろんなところに行ったものだ。確かに狭かったけど、それでも別に不自由した覚えはない。それが今では10人乗りのバンやSUVをたったの3人から4人の家族がわんさかわんさかいろんなものを詰め込んで乗っている。確かに便利ではあるが、普通の乗用車でもいいんじゃないかなーって思うの私だけだろうか?車が狭けりゃどうしても必要なものだけ入れて持ち物を減らすとか、いろいろ工夫すればいいように思うが。(子供のいないわたしがこんなこと言っていたら、フェアじゃないとお怒りの方、ごめんなさい。でも本当のことなので。)幸いにして、今大型のSUVの在庫を抱えたディーラーでは、大幅値下げしたり、いろんな得点をつけて、これらを売り払おうと躍起になっているという。でも私の予測としては、多少大型車の人気が落ちるとしても、‘のどもと過ぎたら’という感じでしばらくしたらまた人気は吹き返してくるだろう。なんてったって、何でもデカけりゃいいって言うアメリカだから。それにしても、アメリカ人がガソリンが高いからSUVは買わないとか言うんじゃなく、環境に対してどういった影響を及ぼすかって事を考た上で、便利なものなら何でもいいという考えを捨るというようになるにはいったい何年、いや、何十年掛かるんだろう??(関連記事:‘消費大国アメリカ’、‘まだここにも居たか!環境オンチ’)
2004.05.28
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は~、これは男の病気の一つか?ジャックは朝からイライラして出て行った。今日も出掛ける直後になって財布が見つからないってわめいていた。これって今に始まったことではなくて、付き合い始めてから始終起こっていること。だから今朝はいつものようには黙ってなくて、”今度は何が見つからないの?あ、じゃなくて、‘何を見つけることが出来たの?’って言ったほうがいいかもしれない。”って皮肉を言ってやった。彼は自分物を何処にやったか覚えていないことが多く、いろんな心でいろんなものを忘れてきたりするのが得意(?)だ。今週末のLAでのクラッシュコースでも、ようやく終わったとほっとしたのか、最終日に、ジャケットをクラスルームに忘れてきてしまった。運良くそれが事務室に届けられていて、さらに幸い翌日にまた別の用件でそこの辺りに行くことになっていたのですぐに取りに行くことが出来た。また、少し前、両親の家に訪ねた時にもアドレス帳を置いてきてしまい、送ってもらったりとそんなことばっかり繰り返している。私も忘れ物をちょくちょくすることがあるのでえらそうなことはいえないが、彼には負ける。なんていったって、この財布に関しては本当に毎日のことなんだから。数ヶ月ほど前、財布がなくなったと大騒ぎをしていた。私はいつものことだと思いそのうち見つかるだろうとほおって置いた。しかし何日もたっても見つからないのでこれはやばいかもしれないと思い、それに入っていた全てのカード類をキャンセル羽目になった。ところがその本の数時間後、なんとそれが彼のトラックの中に、しかも運転席からすぐ目に入るラジオの下のスペースに静かにいるではないか!財布が真っ黒で、真っ黒のそのスペースにブレンドして見落としていたという。呆れる!その後それほどたっていなかった頃に、もって出掛けたはずの財布がないために、せっかく掛けていった場所での買い物を諦めて帰ってくることになった。これは、そんなこともありえるかもしれないという予測が立つのにもかかわらず、私が自分の財布を予備に持っていかなかった私の手落ちでもあるが、帰ってきて車を降りると探したはずのトランクの中に入っている黒っぽいジャケットの上にちょこんと乗っかっていたのだ。またもやブレンドされて。この時にはさすがに頭にきて、解決策として黒い財布ではなく、真っ赤や真っ黄色の財布を買ったらどうだと提案した。しかし彼曰く、目立ちすぎるのは泥棒にもすぐに分かりやすいからだめだと。じゃあ、ちゃんとおいた場所を覚えておかなきゃだめだよと言って、財布を帰ってからあちこちに置く事のないように、鍵置きのすぐ上に場所を作ったり、常に財布が何処にあるかの確認をするようにとの助言をした。それから私が良く見張っていて別のところに置こうとする彼を、“だめ、財布置き場はここでしょ!”と口をすっぱくしてまるで犬のように訓練した甲斐があって、ようやくその問題は解決されたかのように見えた。が、またしても、最近になって財布がないとわめき始めるようになったのだ。狭い家の中で、いろんなものを何処にやったか覚えていなくてそこらじゅうをひっくり返している彼が私にはどうも理解がしがたい。忘れ物はたまにする私でも、整頓することにかけては自分で言うのもなんだけどピカ一だから。でもこれって本当に何か特別な能力があるって言うんじゃなくて、ちょっとした工夫でつくもので、それによって物事が何十倍にもスムースに行って効率的になるのだ。確かに財布に関しては女性と違ってバックを持ち歩かないので、パンツのポケットから出してポン、といろんなところに置いてしまうのは分かるが、こうも頻繁やられたらたまったものではない。さすがに今回は切れて、”あんた一人で大騒ぎするのは勝手だけど、すぐ横でそれをやられる度にイライラをうつされて、せっかくのいい気分を台無しにされるのは私なんだから。いい加減にしてよね!”と文句を言うと彼は、“うーん、分かってるよ。でも、君だけじゃないんだ、僕も自分に対してむかついているんだよ。だからフェアでしょ?”とか、訳の分からんことを抜かす。そして“物が見つからないのは整頓能力に問題があるんだから訓練して直すべきよ。一度ここはこれを置く場所って決めて毎回そこに置くようにすれば、探し物に膨大な時間を費やして、イライラすことはないでしょ。その時間をもっとほかの事に有効に使うことが出来るって素晴らしい事だと思わない?”と言う私の言葉に対し“なんでも決め事をして自分を締め付けているようだから無意識にいろんなところにおいてしまうんだよ。なんてったって僕はアーティストだからルーティーンを作ってマンネリ化するのは嫌なんだ。”ってまたもやあほらしい屁理屈を言ってへらへらしている。あ゛あ゛あ゛~~~~~ というわけで、近々無理やりにでも彼の嫌いな買い物に引き回して財布を買わせようと計画している。
2004.05.26
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ジャックと私は年が近い。半年しか違わずにお互い37歳。現在結婚して5年目を迎えるが、子供はいない。と言うか、長い期間をかけて結局、二年ほど前に作らないと言うことで同意に至った。ここまで至った経緯をお話しよう。かれこれ六年ほど前を遡る。まだ付き合いだして間もないジャックと私はお互いに相手がどんな人間であるかを探っていた。私の質問の中に、将来の結婚像、子供を持つことについてと言うのがとても興味のある点であった。その質問に対し、彼の答え。結婚に対して:ジャックののお母さんは、彼のお父さんである初めの旦那さんと7年ほどの結婚生活に終止符を打ち、血迷ってヒッピーに走り、(60’s真っ只中)その後に結婚離婚を3度繰り返した後にようやく4人目にしてまともな男性と知り合い、(彼女が正気に戻った)人生の後半に差し掛かった今とても幸せに暮らしているが、それまでに、とんでもない奴らが父親になったお陰で今でもはらわたが煮えくり返るほどの嫌な思いをさせらたので、結婚に関しては明るいイメージがない。今現在ではなんともいえないとの事。子供を持つことに関して:これに関しては彼のフィロソフィーに反するので持たない主義とキッパリ。その信条とやらは、この世の中人口が多すぎる。チャイナを見ろ、インドをは凄いぞ。それから今爆発的に増えている(特にカリフォルニアで)メキシカンの移民の増加は留まる所を知らない、と。(これは、偏見ではなくて、彼らの多くはカソリック教徒なので、子供を作る以外のセックス=罪、中絶=罪、とされているので貧乏子沢山になり、もう白人はマジョリティーではなく、10年もしないうちにヒスパニック系がマジョリティーになるであろうと予測されている。貧乏子沢山というのも偏見ではなく統計的に見て本当のこと。経済力と出産率と密接に関係している。それが証拠にうちはこの、宗教上の理由と、貧乏が重なりどちらとも当てはまっていて、六人兄弟にまで膨れ上がっていったわけ。*詳しくは日記、‘愛は宗教の違いを乗り越える事が出来...ない?! ’を参照)子沢山でも良いんだが、何しろ僕らの住んでいる地球はグローバルウォーミングをはじめ、いろんな環境汚染のためにそのうち地球規模の飢饉が起きる。そんな中で人口は爆発しているわけだから、そんなところに子供を生んでさらに事態を悪化させるわけには行かない!なんだそうな。この二つを聞いたときにはこの人この先付き合っていってもなんだか将来がないような...と不安がよぎった。しかし、その当時は南カリフォルニアンライフをエンジョイすればいいやってな具合に能天気であったので、この重大な二点が、後に鉛のように私の頭に重くのしかかるであろうという事などお構いなく、軽く受け流して付き合いを続けていった。そうこうしているうちにあっという間に月日が過ぎ、銀行に預けてあるお金が底をつき始め、私が帰国を理由に脅迫して結婚することに成功したが、この第二の点、子供を作るか否かに関しては、結婚して一年後あたりから30過ぎの私の頭の中で丸高と言う文字が浮かんでは消え始めた。英語に興味を持ち始めたティーンエイジャーの頃に、混血の子供がモデルとして載った洋裁のカタログ雑誌をボーっと見なら、“ああ、英語を上達して外人と(この時はなぜか外人=白人)知り合って、結婚したらこんなに可愛い子供が出来るんだろうな~~。”とお目目にハートを浮かべていたような気がする。とってもミーハーな私であった。それがなんと二十年近くもたって現実になるかもしれないと言うチャンスが訪れたのにである。気になりだした頃から、もしも子供ができたとして(ピルを飲んでいたのでその可能性はかなり低かったんだが)と言う仮の話をしたり、私がもう30歳を過ぎているので子供がほしいなら今のうちと言うことを遠巻きに会話の中に散りばめていた。その時はまだ彼はまだ若いから、そのうち気が変わるであろうという淡い期待を持っていた。そして、最終段階の35歳の誕生日を迎えた時に今度は真剣に真っ向からこの件に対しての意見を求めた。私:今まではこの話題を真剣に話していなかったけど、もう私も35歳になったのでここはちょっと逃げないで真面目にに考えてほしいんだけど。たった今現時点で子供が欲しくないと思っても、将来、1、2年後、もしくは五年後に欲しくなったとする。その時にはもう私は40代になっているかもしれないから無理って事になるんだけど、どう思う?ジャック:(いつもにない厳しい顔つき)う~ん...何で子供がほしいの?私:今は自分の事で精一杯だから、まだ覚悟は出来てないけど、この先欲しくなるかもしれないから...(本当のミーハーな理由はいえない)ジャック:今僕たちは幸せだろ?子供がいなかったら幸せじゃないって言うわけじゃないんなら、なぜ子供がほしいのか分からない。私:でも、もしも将来気が変わったら?その時点で時遅しって事になってもいいの?ジャック:そうなったらその時は諦めるしかないよね。私:(沈黙...一分間)分かった。私もあなたがこの件に関しては頑としていて変わらないだろうと承知で結婚したんだから諦めるわ。子供が大好きで仕方がなくってと言うタイプであったらあなたを選ぶことはなかっただろうし。本当は私を納得させる理由がほかにもあった。ジャックは語らない本音、障害を持った子供の親になる自信がないということ。実は彼の末の妹が、スキッツフリニアと言ってあの、アカデミー賞を獲った’Beautiful Mind’の主人公の病気を持っているのであった。彼女は発病するまでの18歳のころまでは内気ではあるがとても頭のいい普通の子供であったそうだ。しかし発病を機会にいろんな問題を起こしていて、彼の家族の悩みの種なのだ。(これについてはまた今度日記に書いてみようと思うが)したがって、ジャックの言う事は彼女の存在を知った付き合いはじめの頃から、無きにしも非ずと頭の中にあった。彼がこの本音を口にしたのは何年もの間たったの一回だけだったので、このことには触れずに私は納得したのである。この最後の決着があった後に落胆して精神的におかしくなったと思われかも知れないが、そうではなかった。これを機会に心の中でくすぶっていたものがすっかりと晴れて吹っ切れたのだ。ここまで来るのに実は変わることのない彼のポリシーを恨んで泣いたこともあったのだ。だから、今は他人に子供を生むつもりがあるかを聞かれても以前のように人には分かってもらいづらい夫のポリシーを言い訳がましくすることもなく、キッパリもううちは子供は作らないって事で同意したので、と明るく言えるようになったのだ。(予断だが、こういった質問をする人が無神経だな~と今でも思うのは変わりはないが。)でも、未だに、可愛いミックスの子達達を見ると、ああ、こういう子供を持てたら良いだろうな~なんて思ったりすることもあるが、自分の子供であったらと言う想像に走らず、観賞用として割り切ることにしている。ちなみに私の一番好きなブレンドは、アフリカンとコケイジャン組み合わせ。この組み合わせに勝てる美しさはないんじゃなかろうかと勝手に思い込んでいる。アメリカに押し寄せる移民はいろいろと問題になっていると言われるが、これは祖先をたどれば皆何処かから来た移民であるということを都合よく忘れた白人たちから見た問題だ。個人的には、こうしていろんな人が寄り集まり混血児がどんどん生まれていけば、人種や文化の違いがどんどんブレンドされて、偏見や差別から来る社会問題が解決されるであろうにと思うのである。アメリカよ、多民族国家を自慢するにはまだ早い。この人種、文化の混じり合いを得てこそ始めて世界に誇ることの出来る多民族国家ではないか!明日のアメリカを背負う混血児たち、ガンバレ~!
2004.05.24
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いつも同じ毎日を過ごしていると、その生活リズムが完全にパターン化されていること自体気づくこともない。今週末はそれを実感させられている。金曜の朝からジャックはLandscapeArchitect(ランドスケープアーキテクト=屋外の、庭や公共の広場、個人の庭園などを設計する職業)のテストを受ける人のためのクラスを受けると言うことでUCLAに行っている。ここからは普通に行けば1時間なんだが、なんと行っても渋滞がひどいために、二時間近く掛かる。このコースは四日間続くので行ったり来たりをするよりもいっそホテルで留まったら?と提案したが、ジャックは節約のために毎日通うとがんばってくれることなった。でも昨日は彼の叔父さん白血病の治療のためにLAの病院で入院しているので、せっかく近くに来たから、叔父さんと、その家族に会にいった。その日は多分遅くなるからホテルで泊まることになった。私はそれを承知でいたので、朝からのんびり(無職なので毎日だが)して、一日中コンピューターに向かい職探し、楽天に没頭し、ビデオエクササイズをして時間をつぶした。いつもと違うのは夜になっても彼が帰ってこないこと。仕事をしているときは、忙しくてほかに目を向けることが沢山あるが、今は無職で毎日うだうだ過ごしているので、彼が帰ってきてああだこうだと話すことがひとつの楽しみとなっている。なので、昨晩は夕食の支度などせずに残り物のピザを食べて一息ついたけどまだ5時半。一日中家にこもっていたのでビーチに行って散歩でもしなさいよともう一人の私が言っているんだが、なぜか無視してその時にしなくてもいい事をやり出したらあっという間に夕暮れになってしまった。それでもまだ7:30pm。いつもなら滅多に見ないテレビ(ジャックが占領しているので)を付け、ボーっと見始めた。するとレイカーズの試合がやっていることに気づく。いつもなら無視しているんだが、4thクウォーターで結構いい勝負であったために、裏番組と平行しながら見ていた。それから終わったあとのダイジェストまで見てしまったのだ。その後ほかの番組で何か面白いものはないかなと見ていると、今度はジャックの好きな番組がやっているのでまたしてもボーっと見ているうちにあっという間に一、二時間が経過していた。その後滅多に飲まないコーヒーを飲みながら、もう寝なきゃと思いつつもテレビを見続けてあっという間に12時になったので、寝室に向かった。ベッドに横たわりながら今日一日を振り返っていると、はたと気がつく。あれ?ジャックがいる時には全く興味のないことをしないことをやっていたかもしれない。何で??いつもならテレビなんて滅多に見ないし、コーヒーだって何年も飲んでいないのに何で今日に限って飲んでいたのだろう?知らず知らずにジャックがやることをコピーしている自分が変だった。あたかも彼のいない空間を埋めるため、いつもの生活パターンを再現しているかのように。日本に居た頃すぐ上のお姉ちゃんと一緒に住んでいた頃、彼女が私の出張時には、ついつい生活のリズムが狂って夜中の2時や3時までボーっとテレビを見ちゃうんだよねって言っていたことを思い出した。一人暮らしに慣れていた頃はそんなこと考えたこともなかったが、誰かと暮らし始めるとその人がある意味でのタイムキーパーとなっていて、知らず知らずに行動がそのタイムキーパーに頼るようになってしまうんだろう。それと行動パターンというのも前述のように、同居人に大きく影響されていることも普段は気づくことがないが、いざ独りになるとそれを補うような行動をしてしまうわけだ。不思議なもんだ。基本的には一人でいることは結構好きなほうなので、自由な時間がないと気が狂いそうになるが、反面一人の時間が多すぎるとなんか気が抜けてしまうのだ。結婚する前からジャックと一緒に住んでいたが、何が起こるかわからないから精神的にも経済的にも自立しようと努力していた。だが結婚して5年目の今思うとそれが少しずつ変わってきているように思う。経済的自立については現在は無職なのでお世話になっていることになるが、自分で稼ぐことによって自分に対しての自信が保てる性質なので、今は仮の状態であるが、精神的自立に関しては、基本的にはいつ何時何が起こるや知れないので、一人になっても崩れ落ちることないように、自分で何でもやって相手に寄りかかり過ぎないようにしようと努力している。このような考えはジャックと私は共通していて、彼は私では到底出来ない力仕事や家の修理に関してはやってくれるが、幸か不幸か、それ以外は基本的に私が何でも自分で出来るように鍛えてくれている。例えば自転車がパンクしたときには付き合い始めの頃は直してくれていたが、あるときプレゼントと言ってくれたものは、自転車修理キットだった。その頃は車がなかった私は何処でも自転車に乗っていっていたので、僕がいないときに困らないようにとパンクの修理を教えてあげるという。軟弱だった私は、“そんな~、良いよ、もしパンクしたら自転車屋に持っていくから。”とごねていたが、“自転車屋が遠くて自転車を引きずって何時間も掛けていかなくちゃいけないところに会ったらどうするんだ!”と言って嫌がる私を特訓し、今では簡単な修理は自分でも出来るようになった。また、英語がままならなかった頃、何かの予約をしたり、店に問い合わせを入れるたびに、私の訛りのある話に対し辛抱ない係員から何度も嫌な対応をされたので、彼に掛けてくれるように頼むと、大丈夫だよ、君の英語はちゃんと伝わっているから。と絶対に手を貸さなかった。また、学校の宿題でレポートなどを書くときも、出だしがどうやって書いていいか分からないので手伝ってほしいというと、まずは間違っても良いからとにかく書いて見な、あとで直してあげるからと言って一向に私に暖かい手を差し伸べることはしなかった。その頃、久しぶりに私の友達で十歳ほど年上のアメリカ人と結婚した日本人の友達を訪ねてた。彼らはまるで私のところとは正反対に、旦那さんが何でもかんでもやってくれている所を目の当たりにして驚き、同時に自分の状況を恨めしく思ったりした。何でジャックは困っている外人の私に手を貸してくれないんだろう、と。あれから6年たった今振り返ると、あのときに彼が何でもやってくれたら、今の自分がいなかったんだろうな、と。今でもちょっとした公式の手紙を出す際に彼に頼んでもやっぱりまずは私が書いてみて、それを手直しするというやり方を変えないので、彼がやったほうが早いのにとイライラすることも多いが、でもそれはそれで実は外国人として生きて行く私が自立して何が会ったも困らないようにと鍛えてくれているんだと思うとはらもたたなくなった。何だが話がどんどんそれてしまったが、そんなわけで、精神的な自立を心がけてはいるのだが、長く住めば住むほど相手の存在が大きくなっていることに気づく今日この頃。この点では、キッパリの自立をするということはまず不可能なので、持ちつ持たれつという中間的なところで良しとするか。
2004.05.23
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突然だが、私は現実主義の敬虔な無信教者である。今日は前から気になっていた宗教観の違いがどれだけカップルに影響を及ぼすかと言う話をしてみようと思う。三ヶ月ほど前から、友達の花ちゃん(仮名)が敬虔なクリスチャンと付き合い始めた。花ちゃんは、三十前半の長身ですらりとした体に日本人独特の面持ち、人に対してとても思いやりがある素敵な女性だ。そんな彼女なのに、なぜか男運がない。付き合った男性の中にはとてもいい感じで進んでいった人もいたが、外国に数年間の予定で移ってしまい、長距離恋愛を諦めるなど、残念なことが何度か続いていた。そんな彼女の現在の彼は、同じく三十代前半で、話を聴く上では、とても律儀でまじめな、結婚相手とするにはもってこいの人らしい。が、問題は、彼は大変敬虔なクリスチャンであると言うこと。彼女といえば、大半の日本人がそうであるように、神様は信じているけれど、特別な宗教活動をするわけでもなく、正月には神社に行って初詣をし、お盆には仏教式の墓参りをし、クリスマスになればケーキを買って祝うと言う、カメレオン宗教者だ。(勝手に命名させてもらうと)彼女は会社の同僚から紹介されたこの人を一年ほど前から知っていたが、クリスチャンであることと、その当時に前述の彼がいた為に交際することを拒んでいた。そして今回タイミング良くお互いにフリーになったために付き合い始めた。数回のデートの後に、彼女に相談された私は、宗教の違いが恋愛関係や結婚生活にどれだけ大きく影響するかを自己の経験を元に語ったが、彼の人間的な魅力に惹かれた彼女はそれを乗り越えることが出来るであろうと言う淡い期待を持ち、二人は更に深い関係になっていった。彼と付き合うようになってから、花ちゃんは彼の友達に毎週のように会うようになった。その人たちは全員同じ教会に通うクリスチャンで、彼女との会話に、“何処の教会に行っているの?”と彼女が当然クリスチャンであるに違いないということを前提とした質問をしたり、信者仲間しか分からない様な内容の会話があったりと、全くそういった世界を知らない花ちゃんは戸惑うことがしばしばあった。初めのうちは彼女がほぼ無信教者であることをあまり気にしていないように振舞っていた彼も、付き合いが深くなるにつれてだんだん将来のとこと真剣に考え始めるよういなり、教会に行ってくれると嬉しいんだけど、と遠慮がちに彼女に言うようになっていった。根が素直な花ちゃんは、彼の要望にこたえてちょっと覗いてみるかといった軽い気持ちで教会に行ってみた。初めてのその彼女の体験した教会というのは、ロックバンドの音楽を交えた熱気溢れる物で、結構楽しかったようだ。それ以来、彼との週末のデートの一行事として、教会に行くことが含まれるようになった。数週間した後の彼女の感想を聞くと、“楽しいのもあるけど、信者が感情を込めて神に対する誓い等を叫んでいるのを見ると、私はああはなれないと覚めた目で見ている自分がいる”と言う。私の経験とは、クリスチャン暦40年の大変敬虔な信者である母親と、頑固な無信教者である父親との間で繰り広げられ、ときには凄まじい夫婦喧嘩を見て育ったと言うこと。今年で結婚生活44年を迎える彼らは、その当時では当たり前だった見合い結婚だった。母親いわく、‘新婚当時は本当に優しい’父親との間に一人の女の子をもうけた。それからまもなく二人目の子供を身ごもった母親は、経済的な理由で中絶を余儀なくされた。中絶という大きなダメージを受けた彼女は毎晩のように子供の泣き声で目が覚めるというノイローゼ状態に掛かってしまった。丁度その頃近所に住むクリスチャンから教会に誘われて、そのとき以来40年たった今でも、どんなことがあろうとも日曜の礼拝には参加するほどの敬虔な信者となったのだ。もともと何かに没頭しやすいタイプだった為、それ以降、彼女の生活全てが、教会活動が中心になって行った。日曜日の礼拝以外に、火曜日は週代わりの行事の手伝い、木曜日の夜は祈祷会、金曜日には布教活動の散らし配りといった調子。そして、家では、夕食後に、‘家庭礼拝’なるものが開かれ、父親以外全員を集めて、各自数箇所ずつ聖書を読み、それに関して感想を述べ、お祈りをして締めくくると言う儀式を行っていた。また、子供たちにキリスト教以外の宗教が関連している行事に参加することを禁じていた.例えば遠足でお寺に行った際はお祈りなどしないようにとか、お盆祭りは偶像を祝う行司だから行くな、などと口を酸っぱくして言い聞かせるのだった。このように、二人目の子供を中絶し、ノイローゼ気味になっていたところを救い出され、‘見出された’彼女はその‘神をおそれ、神の教えに従って’子供を授かり続けて五人目の子供が小学校に通うようになる頃までに我が家のキリスト教エンパイアを築き上げていた。家族全員が同じ信仰を持って一致団結しているのならそれもいいんだが、多勢に無勢の頑固な無信教の、家族や父親との夫婦関係に彼女の熱狂振りが家族にも大きく影響した。例えば日曜日には、子供全員を引き連れて教会に通い、昼の一時過ぎまで家に一人取り残され、お腹ぺこぺこでいきり立っている父親をよそに教会仲間から掛かってきた電話に夢中になっていたり、キリスト教国ではない日本では当然学校の行事が日曜にある中で、母親参観はもちろん、運動会の子供と一緒に参加するレースなどには‘日曜は安息日であり、礼拝に行かなくてはいけない’と言うことで、一度も参加することはなかった。こういった場合、普通父親がこういった役割を果たすわけだが、我が家の場合、全く子育てに関心のない父親だったために、両親の来ない運動会を、すでにティーンェジャーになっていた姉に親代わりになってもらうことが恒例となっていた。そんな中、私は子供ながらにも彼女のキリスト教に対する忠誠心をとても理解し、(今思うと洗脳されていたんだが)友達が、“XXちゃんのうち、お父さんとお母さんが運動会にも来ないんだって”と噂されていたかもしれないが、そんなこと全くお構いなしで明るく”うちは姉ちゃんが付き添ってくれるんだぞ、良いだろ”と自慢するようなたくましい子供であった。それでも時として、父親と母親が同じ宗教であることを望んだ。なんと言っても問題は、彼らが宗教の違いで争うこと。普段は口数少ないおとなしい父親だが、そのときは大暴れし家のものを壊したり、聖書をびりびり破ったり、時には母親に手を上げることもあった。そのたびに私はおびえてなきながら“やめて!!”と叫んでいたのを今でも覚えている。小さい子供にとって両親がけんかするほど嫌なことはないんじゃないだろうか?また、父親は、虫の居所が悪いときには唯でさえ子供が多い為、渇渇の生活をしていた上に、突然家にお金を入れるのを打ち切ったりした。そのために学校の給食代を入れることが出来ずに母親から担任の先生に連絡してもらったり、家ではおかずなしでご飯に醤油を掛けて食べるということもあった。(余談だが、だからアメリカ人が日本食屋でご飯に醤油を掛けるのを見るととても嫌な気分になるのである。)私自身といえば、生まれた頃から母親にキリスト教の洗脳を受け、中学生になった頃まで何の疑問もを持つこともなく毎週日曜学校に通っていた。しかし、部活動でバスケットボールを始めので、朝8時ごろから始まる午前中の練習を教会に行くために途中で抜け出さなくてはいけなかった。唯でさえ新入部員のとっては言いにくいことに加え、顧問の先生がとても厳しい女コーチであったため、ついに言い出すことが出来ずに部活動を理由に教会から足が遠のいていったのだった。母親は残念がっていたが、もう私が自分のことは自分で判断できるような年頃になっていたので、教会に行くのを強要しなかった。それ以降あれほどの熱心に通っていたのが嘘のように、無信教者となったのだ。私個人として他人が宗教を持つことに関してはなんとも思わないが、問題は、その個人が自分だけの枠を超えて、他人にまで悪い意味で影響するようになったとき。一番いい例が、今アメリカで大きく問題になっている同性愛者の結婚や、中絶を、熱心なクリスチャン団体が彼らの信条の元に批判するのみならず、法の力を借りて他人の人生までをコントロールしようとしているのである。イラク侵略にしても、実際の関連を明らかにせぬままに三年前の9月11日の事件を含めたテロ対策の一環とし、‘神の名の下’に都合のいいように正当化した。これでは過激派のイスラム信者のテロリストとさして変わりはないんではないか?これを言い出したらきりがないし、反対意見をもった人たちに報復されても困るのでこの辺にしておくが、話を元に戻すと、宗教は個人の価値観信念、人生そのものに大きく影響するものだ。この点がカップルの間で違う場合には、A.どちらかが合わせる B.お互い変わらずに違いを尊重しあう C.関係を終える のどれかになるが、花ちゃんは、Bを望んでいる。彼女は熱心な宗教者がいかなるものかを知らないので彼が宗教の違いを乗り越えても愛し合えると思っているようだが、そう簡単にはいかないというのが私の意見。なぜなら、宗教者である側は、信仰が厚ければ厚いほど一番身近な人が同じ心情を持ってくれないと言うことを趣味や思考の違いと同じように受け入れることはとてもできないのである。だから私の母親も過去40年間、父親がキリスト教に少しでも興味を持ってくれるように、トイレにその手の雑誌を置いたり、さりげない会話の中で神様のことを口にしたりとあの手この手を使って涙ぐましい努力を怠らない。一方頑固者の父親は、過去に何度か教会関連で仲間と電話しているのが煩いといっては電話線を切ったり、電話のダイヤル(昔の黒電話)を取って隠してしまったりしたものだが、仕舞いには電話サービス自体を解約してしまったのである。(かれこれ三年ほど前らしい)このように私の両親は宗教の違いを持った悲惨な例だが未だに一緒に居るのは冷めきった父親をよそに、‘神の教えに従って’離婚せずに頑なに形だけの夫婦関係を保っている母親の意固地さがあるからだ。宗教が違っても夫婦仲良くやっているカップルもあると思うので一概には言えないが、仮に花ちゃんが信者になりきれなくても付き合いを続けて、結婚とまでいった場合、この大きな問題は、多かれ少なかれ、何らかの形で影響があるだろう。しかし、信仰心の厚い彼のほうが彼女が信者にならないようなら関係を打ち切るだろうを私は予測している。花ちゃんには悪いがそのほうか彼女にとって幸せだと思う。皆さんどう思いますか?
2004.05.17
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ずいぶんと日記を書いていなかったので、楽天様から追い出されてしまうと思っていましたが、彼?彼女?は辛抱強う御座いますね。ちょっと怠慢して家族にあてた手紙でも載せてみませう。四月二十八日二千四年お元気ですか?お久しぶりでござんす。たぶん、最後に手紙での近況報告したのは、去年の暮れだったと思います。丁度新しい仕事が見つかったばかりの頃...実はこの会社を四月十六日付けで辞めました。せっかく見つけた仕事をたったの三ヶ月で止めてしまうとは、と嘆いてるかもしれませんが、それには深~い訳がありまして。屋外のベンチやサイン、街灯を、また室内の照明器具、手すり、エレベーターの内装等を作っている会社で、このところの不景気のあおりで経済困難な状態が一年以上続いていました。ほぼ全ての取引先に対する支払いが滞っており、毎日のようにあちこちから支払い催促の電話ががんがん掛かってきていました。私の仕事は主に請求書処理というものだったので、当然この影響を十分受けていました。そのために、かなり精神的に参っていたのに加え、経営が後手な為に発生する仕事量の増加がそのストレスをよりいっそう大きくしていました。またしてもこの時期に家で仕事探しの毎日ですが、この最後の会社で働く前から経理の仕事をすることに不満を持ち始めていたので、これを機会に全く違った仕事をしてみようと思っています。もっと人と接する仕事、例えば、カスタマーサービスや、セールスといったことを考えています。何しろ日本に居たときの経験は長いのですが、アルバイトのウエイトレスの仕事を除いてはこの国に来てからこういった仕事をやったことがありません。今までのように机に向かってもくもくと数字に取り組んでいたのが、まだまだ未熟な英語を使って人と接するとなると、かなり勇気がいります。なぜ経理の仕事を選んだのかと言うと、こうした理由にくわえ、何処に行っても仕事にありつけると言うこと。しかしオフィスでじっとしていることは私の性に合わないわけであって、何とか三年ほど経理の仕事をしていましたが、本来の出たがりの性格が頭をもたげてきたというわけです。この国は特に、採用の際の重要な決定ポイントがどれだけそのポジションに見合った経験を積んできたかということで、先ほど言ったように、かなり間が空いているということとアメリカでの経験が殆どないという私にとって、面接にこぎつけるまでにはかなり沢山の会社に応募する必要があるわけです。多分全く違った仕事を見つけるには時間が掛かると思うので、とりあえず、今までやっていた経理の仕事で何とか穴埋めして、その間に転職するという作戦で行くほかはないでしょう。というのは、去年は仕事を探している間に失業手当が出たのですが、今回は、その後殆ど働いていないと言う理由でそれもありません。それに加えてルームメイトが出て行ってしまい、まだ新しい人が見つかっていないと言うタイミングの悪さ。家庭の収入が激減した為住宅ローンが払えずに家を手放さなくてはいけないと言う危機を避けなくてはいけないので。暗い話はこれくらいにして、最近楽しかったことといえば、私の誕生日が過ぎたすぐ後の週末、四月二十四日と二十五日にキャンプに行きました。今まで何度も車ですぐに乗り付けられるキャンプをしたことがありますが、場所によってはすぐ隣に来た良識のない団体が来て大きな音で音楽を掛けたり、子供がぎゃーぎゃーと騒ぎまくる家族であったりして、せっかくの楽しいはずのキャンプを台無しにされたので、今回は、全ての荷物を大きなバックパックに詰め込んで、歩いてしか行けないキャンプ地に行くことにしました。初めはそんなの重たすぎるから嫌だと駄々をこねていましたが、ジャックいわく、“三十後半になった君がこれから若返っていくわけではないから、出来るときにやっとかなくちゃ!”と全くもっとな事を言われて説得され、しぶしぶこの案に賛成したのでした。一週間ほどあれこれ計画を練った場所は、私たちの住むヴェンチュラから車でたったの三十分ほどの山で、車を降りてからなんとたったの一時間ハイキングをしたところのキャンプ場でした。そこから見える景色は絶景で、何万年にも渡って重ねられた地層がむき出しにされた山肌を背に、とても澄んだ川から聞こえる音が私たちの心を静め、また、潤してくれました。私たちのキャンプにカップルの友達、エリザベスとマットが参加してくれました。一旦荷物を降ろしてテントを張り、寝床路を確保した私たちは昼食を済ませ、さらに上に向かってハイキングを始めました。週末であった為いろんな人たちがハイキングをしていましたが、何よりも驚いたのは、ボーイスカウトの大きな団体の中に、足の不自由な子供が混じっていたのです。ある子供たちは、この子の軽量小型の車椅子を運ぶのを手伝い、ある子供はゆっくり歩くその子の支えになって少しずつ少しずつ上っていました。さすがにここアメリカ、どんな人であろうとも個人の権利と自由を尊重する姿勢はこんなところにも現れていたのです。市バスに車椅子の人が乗るときの運転手の対応の機敏さ、行き届いた設備は何度となく見かけて感心しますが、こういった障害を持った人が、なんとハイキングにも参加できるような環境を作っているこの国の素晴らしさに本当に感動しました。三時間ほどのハイキングからキャンプ地に帰ってきた私たちは早速夕食の支度に取り掛かりました。幸いなことに、エリザベスとマットは何度かこうしたバックパックキャンプを経験しているために、私たちの持っていないバックパック用の超軽量の調理道具や浄水器などの道具を一式持ってきてくれて、とても助かりました。その夜はパスタに彼らの自家製のペストソースを掛けて食べました。そしてお楽しみのキャンプファイヤーを囲んでのデザートは、このアメリカでキャンプデザートとして慣例となっている、“サムモア”(Some More)を食べました。これはマシュマロをまだ青い枝の先に突き刺して、樋上でしばらくあおるとぷーっと膨れて大きくなります。それをチョコレートを乗せたグラムクラッカー(黒砂糖のような甘さの四角いクラッカ-に乗せ、チョコが溶けた頃にバクっと頂くという単純かつ美味なデザートで、ひとつ食べたらもっと欲しくなると言うことからこの名前がついたそうです。翌朝、七時半に目覚めた私は、待望の“Japanese Breakfast”(日本の朝食)の用意に取り掛かりました。しかし問題は、弱火が出来ないガスボンベを使って如何にしてご飯を作ると言うこと。結局それを使っては出来ないと言うことで、昔ながらやり方で直火で作ることにしました。幸いそのキャンプ地にあらかじめセットされているファイアーピットは、(日本語でなんと言うか?火を起こして調理できる場所) 沸騰したらすぐに横に鍋をずらしてじわじわと調理が出来るような鉄の代が備え付けられており、家で電気炊飯器を使って炊いたのと変わらない上等のご飯が出来上がりました。そのご飯といわしや秋刀魚の缶詰の蒲焼をのりで包んでインスタントではない本物の味噌汁と一緒に食べました。キャンプの朝食と言えばシリアル、パンなどしか食べたことのないジャック、マット、エリザベスにとってはとても新鮮で、大好評でした。楽しかったキャンプ地を昼頃に後にして、その帰りには、ハーレーデイビットソンを乗り回すバイク連中などの多く集まるバー兼レストランでバッファローハンバーガーを食べて37回目の誕生日を祝うイベントを締めくくりました。あれほど嫌がっていたバックパックキャンプでしたが、ジャックの愛情こもった綿密な計画により、とても楽しいものになり、次にいつ行くのかと楽しみになるほど好きになりました。37歳の誕生日にして学んだこと:常に新鮮な目を持ち、食べず嫌いにならずに、新しいことにチャレンジすることによって若さを保つことが出来る。と言うわけで、今回はこの辺で。お体にお気を付けあそばれ。
2004.04.28
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最近二つの映画を見た。それは、‘Last Samurai’と、‘Lost In Translation’。この二つの映画はどちらも日本文化を取り上げたものだが、それぞれ全く正反対の日本を描写していてとても興味深いと思った。まず‘Last..’のほうは、忘れられていた古きよき日本の風習を武士道を通して見ることが出来る。トム・クルーズが主役であるために多分まだ上映されていないところでも映画情報ですでにどんな内容かご存知の向きも多いだろうが、これはアメリカ市民戦争で活躍した彼が、銃を使った戦闘訓練のトレイナーとして日本の新政府に雇われる。この映画は実はニュージーランドで撮影されたようで、日本人なら多分それが分かる場面が映画の初めのほうに出てくる。それが何であるかは見てのお楽しみとして、それ以外結構上手く幕末~明治初期の田舎の雰囲気を出している。この映画の見所は、武士道を通じて忠誠、威厳、鍛錬、などの日本文化の基礎となるものを、別の角度、アメリカ人捕虜のトム・クルーズの目から見て見事に美しく描き出している点だろう。一方‘Lost In Translation’は、‘Last..’とは全く正反対の、現代日本をやや誇張して面白おかしく描写している。この映画はすでに多くの方が見ているだろうから詳しい説明を省くが、主役であるビル・マーレイと、スカーレット・ジョーハンソンは近代化され、ごみごみしてやかましく、品のない大都会東京で孤独なひと時を送っている寂しい外国人。この映画では、二つの日本文化をくっきりと対照的に現す部分があって、これもまた興味深い。小旅行に行ったスカーレットは東京とは全く異なった、古い伝統的な京都で静寂、奥深い文化を体験する。その場面をのぞいては、西洋化に日本独特のアレンジをくわえた現代日本文化に焦点を絞り、外国から見た日本がにくいほどに上手く描写されている。‘Last Samurai’が上映されてすぐに見に行ったのは12月の初旬だったが、そのときは日本の美しい文化を思い出し、日本人であることの誇りを再確認しただけだったが、‘Lost In Translation’を見た後は、日本文化の美しさはどこに行ってしまったんだろう?と自分自身に疑問を投げ続けていた。去年の三月下旬に日本に約六年ぶりに帰国したんだが、この時は日本へ始めていくジャックを連れて行った。彼から見た私の故郷である愛知県の郊外は、お世辞にも素敵とはいえない、つまらない町に映ったようだった。私が帰国する前に散々、‘田舎、田舎’と言っていたのでこのカリフォルニアの内陸の田舎のような、あまり家がなくて、開発されていない自然の豊かなものを想像していたらしい。が、実際には、中途半端に開発、しかもセンスのない開発がされた、どこに行っても看板、ネオンサインのぎらぎらした品のなく、けったいな、どこにでもある郊外の町であった。それを見た彼は、“ぜんぜん田舎じゃないよ、これ。本当の‘田舎’を見たかったらずーっと山奥に行かないとないんだね。”これは日本に行く前から十分予測していた自然を愛する彼の反応であったため、あらかじめ私のホームタウンでは帰国直後と出発前の2日間ずつのみで、ほかは京都に5日、山中湖に3日、そのほかに私の友達の住む町に1日ずつと彼を飽きさせないようにスケジュールを組んでいた。それでも彼は、残り少ない最後の日々を私のホームタウンで過ごさずに小旅行で富山や長野などに行きたいといったが、京都で散々大枚をはたいてしまったために、そうはいかず、仕方なく近場の岐阜で我慢してもらった。日本に住んでいたときは自分の住んでいる環境が品なく開拓されているなんて全く思ったこともなかったが、ここカリフォルニアに住むようになってからそれが良く分かるようになった。まず大きく違うのは、このカリフォルニアでは、ロスアンジェルスのような都会は別として、一般的に、商業用の看板やポスターなどを規制している郡、市が多い。そのため、日本で見る品のないぎらぎらしたネオンなどを見ることはあまりない。次に、騒音に対する規制があるために、町に行ってもがんがんあちこちから流れてくる騒音はよほどフェスティバルをしているときでない限り耳にすることはない。それとまた、どこに行ってもそんなにごみごみしていない。(これはアメリカ全人口の半分が、カリフォルニアと同じサイズの日本に住んでいるというほど人口密度であるから仕方がないが)また、何が一番違うかって、都市開発する上で、日本のように町全体を全部コンクリートで固めて、容赦なく自然を破壊してしまうということはない。ここでは、開拓された街でも、(大都会は除き)必ず自然を残しながら、人間が住むのに便利で、しかも心地のよい環境を視点においた都市計画がされたところが多い。例えば以前に住んでいた隣街サンタバーバラでは、街の中心街は、歩行者に優しく、道が狭く設計され、自転車専用のレーンがある一方通行が殆ど。そのため車はゆっくり走り、人が安心して散歩したり、通勤で歩いたりすることが出来る。こういったことは一見なんでもないようなことだが、実は住みやすい環境にはなくてはならないことだ。それと、どこのカリフォルニアの海岸沿いの町は、自然を全部破壊してしまわずに開発されているために、街をちょっと離れると、いろんな自然動物を見ることが出来る。例えばリスは良く見る小動物のひとつだし、郊外にあるうちの庭にすら、ハミングバードや、ブルージェイなどの野鳥が沢山集まってきて、時には煩くて眠れないほどだ。日本でこうした自然動物を見ることが出来るのは、かなり田舎に行かないと見ることが出来ないんじゃないだろうか?ちょっと話がまとまらないが、とにかく、日本の素晴らしい自然と文化をこの二つの映画を通してしみじみと思い出すと共に、私たちの若い世代が、これらの失われた日本文化保存の大切さに早く気づいて復活させることが必至であるとつくづく考えさせられた。
2004.01.14
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ここアメリカに住み始めてから不思議なことに殆ど写真を撮ってない。まだ20代半ばまでは、どこに行っても必ずカメラを持ち歩いてはパシャパシャと典型的な日本人であった。社員旅行なんかになると私の写真を撮り好きを知っていた上司はカメラマンになるようにと命じて、1週間ほどの短い海外旅行になんと8ロールくらい毎回取って帰ってくるほどだった。そんな私がいつの間にか写真を取ることに興味がなくなり、ここに来てもう6年が経つというのにもかかわらず、アルバムの半分くらいしか取っていない。そんなわけで、もちろん家に飾ってある写真は唯一結婚パーティーに撮ったジャックとの写真しかない。アメリカ人は写真を飾るのが好きだ。どの家を訪ねても、少なくとも3枚以上は何らかの家族、カップル、またはペットの写真がリビングルーム、廊下などに飾ってあって、もっとひどいと家中の家具、棚にびっしりといろんな写真を立てまくっているジャックの母親のような人もいる。基本的に私は自分の家に、自分の写真や家族の写真を飾るのは趣味ではない。こう考える人は日本では結構いるんじゃなかろうか。私の実家には子供の頃から一枚の写真すらも飾っていなかった。もっともそれは小さな県営住宅に子沢山の大家族がひしめき合っていたため写真なんぞ置くスペースがなかったせいもあるんだろうが。子供たちがみんな独立した今では両親二人だけなので、多少は寂しくて家族の写真なんか飾るのかと思いきや、それも見たことはない。そんな両親のもので育てられた私としては、写真にこだわらないのも無理はない。これは常々私が不思議に思っていることのひとつなんだが、友達や知り合いの子供を持つ人たちが、わが子の写真を自慢げに人に見せたがると言うこと。日本からずいぶんと離れて、めったに帰ることも出来ないために、仲のいい友達に手紙で連絡した際に、何年もあっていないので写真を送ってと、どんな風にその友達が変わっているかの興味もあって頼んだことが幾度かあった。すると子供の写真をよこしてきて、彼女やだんなさんの写真は一切入っていないのである。まあ一回目は子供が生まれてそれほど経っていないのでうれしくて仕方がないんだろうと思って諦めたが、それから3年ほどしてまた彼女の写真を送ってくれるように頼んだところ、今度はさらに増えた双子を加えた3人のやんちゃ坊主の写真を送ってきたのだ。私は正直言ってとってもがっかりきた。それは、彼女とは高校時代からの長い付き合いの親友なので、ここに来て一度も顔を合わせていなくて、彼女の様子をせめて写真を当して感じ取りたかったのに、写真を見ても何の感情も浮かばない、あったこともない子供の写真だけを受け取ったからであった。さらに数年たった今、これは彼女に限ったことではないと言うことをつくづく実感させられる機会に何度か出くわした。初めてアメリカにきたときに知り合った英語学校の先生で、後に友達となったナンシー、彼女も同じように子供の写真だけを送ってくる人の一人だ。日本に一旦帰ってしばらく文通を続けていた頃、彼女が子供が生まれたから写真を送るとある手紙で知らせてきた。そこで久しぶりにナンシーはどんな風になったのか興味津々待っていたら、その写真には彼女の娘だけが移っていた。その後何度かクリスマスカードをよこす彼女だが、いつも同封の写真には自分の姿はなく、娘の写真と、その子の成長振りに感動している文章。確かに子育てをする人にとってはとてもわくわくするその気持ちを誰かと分かち合いたいんであろうが、私自身子供がいない上、その子供のことをあまり知らない場合は、あんまりピンと来ないのが本音なのだ。そして極めつけは、7歳の男の子と5歳の女の子がいるジャックの妹である。家族を中心とした生活を何よりも大切にする彼女は妙なところで伝統にこだわる。例えばクリスチャンでもないのに子供が生まれたときには、教会で洗礼式を行って、家族全員を招集したり、子供の誕生日になると、バースデーパーティーを平日に開いておきながら仕事があるから参加できないといって断るとへそを曲げたりと、大変な我儘で、自己中心的なところがある。彼女としては、なんでも自分の周りで起こっていることに家族、友達が同じように興味を持って参加してくれることを望み、時にはそれを強要する。そんな彼女だが、子供はとても愛らしくて、特に5歳になる女の子はとてもお茶目で自分の娘にしたくなるほど可愛い。過去に何度かこの子供たちを預かって面倒を見たりしているので、私にとっては血の繋がりはないが、あまり子供好きではない私にしては、結構可愛がっている。どこに行っても可愛い可愛いと言われるこの子たちのことが自慢でならないこの母親は、ことあるごとに写真を撮っては、私たちによこしてくる。あるとき、彼女が都合があってどうしても子供の面倒を見てほしいというのでジャックと二人で一日ベビーシッターをした。そして翌日迎えに着た彼女は、私に、“どうもありがとう。これあなたとジャックに。”と言ってくれた封筒を渡された。一瞬、“ちょっとしたプレゼント?なかなか気が利くじゃないの。”と思ったのもつかの間、開いたら、子供たちの写真が入っていた。それからさほど経ってないクリスマスには、彼女から私たちへのプレゼントの中に、ご丁寧に写真立てに収まった自分の子供たちの最新版のスナップショットが入っていた。ここまで来るとはっきり言って押し付け以外の何物でもない。無言の写真立てがまるで私に向かって、“Love my children or I kill you.”と言っているような気がしてとても嫌な気分になってしまった。いくら子供が可愛いからって、ここまでやられた暁には、子供たちには全く罪はないが、どうでもいいという気になってしまう。その後家に帰った私は、冷蔵庫の表面に磁石で止めてある彼らの写真を取り除き、この額入りの写真と一緒に引き出しの奥のほうにしまいこんだのだった...こうして書いていながらも、大人気ないなあと反省しているけれど、やっぱり、いとおしいと感じることは個人個人の自然に湧き出る感情であって、他人から強要されて出てくるものではないのではあろうか?たぶん、彼女がちょっと違った性格の人間であったなら、このように日記にぶつくさ文句を書くまでには至らず、わが子を可愛がる典型的な母親として受け止めているだけなんだろうが...かくしてやられてばかりの子無し、ペット無しカップルの私達にできるリベンジはないだろうかと考えた。こんなのはどうだろう。A.ジャックと私の妙に気取った‘写真館仕立てのショット’がプリントされたTシャツB.仲良くしている隣人、同僚を取った写真集、壁掛け特大額縁入りC.最近したシャワー室改造工事の施工前施工後の写真付マグカップ本当にこれをやっても通用する相手ではなさそうだから愚痴るのも今日はこの辺で止めておこう。
2004.01.07
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念願かなって初めてのマイホームを買ってこの土地にやってきたのは去年の10月、あっという間に一年以上たった。初めのうちは自分の家に住んでいると言うことがなんだか夢を見ているようで信じられなかったが、ここに来てようやく、ホームオーナーと言う肩書きがちょっとだけ違和感なくなってきた。初めの頃はあれこれと新しい家具を買いにIKEAというスウェーデンを本拠地とする大手の家具屋チェーン店に、何度も何度も車で一時間ほど掛けて通った。ジャックはご存知、‘デザイナー’であるために、ちょっとした色や、スタイルにこだわる。買ってきたものを実際にセットアップしてみるとすでにあるものと合わなかったり、その家具が全体のスペースに対して若干大きすぎたり、小さすぎたりとと言うことがちょくちょく起きた。私としては、これくらい良いじゃないと言うようなことでもジャックとしては許せなくて、そのたびに返品にまた次の週末にはるばる往復二時間以上掛けてIKEAに舞い戻り、そのつどまた新たなものを買っては、また同じ事が起きて、合計4週間をIKEAツアーを繰り返した。ジャックのデザインに関するフィロソフィーは、単に格好いいデザインとか言うのではなくて、生活習慣に合った効率的なもので、しかも、ゆったりとくつろげる心地のよい生活空間を作るの為のものでなくてはいけないと言う。実際にそれを本職としているため、心地よいと感じる生活空間に於いてのスペース、色、照明などが以下に大切であるか、また、どうあるべきかを良く心得ている。専門家の彼の考えに私は全く文句はないが、あまりの完ぺき主義なので、ひとつの物事を決めて、終わらせるまでの一連の作業に膨大な時間を費やすのが、なんともじれったく時にはイライラさせられるのである。まあこれは以前の日記にも書いたので繰り返すと皆様の時間を無駄にするので(もうすでに無駄にしているって?)本題に移ることにしよう。新しいルームメイトが決まったのが12月中旬、前のルーム目とが出て行って間もなくの、全く偶然というべきものであった。その頃まだルームメイトが決まっておらず、(日記:‘他人とクラス・ルームメイトを探せ’参照)新聞に広告を新たに出そうと思っていた。12月4日に4回目の結婚記念日として、私たちのお気に入りの南アメリカ料理のレストランで食事をした。そのときのウェイトレスはいつものフレンドリーでとてもきれいなブリジットだった。以前着たときの会話で、彼女は20歳の学生で、最近親元を離れたばかりとあると聞いていたので、もしかしたら、彼女か、もしくはその友達が部屋を探していないかと思って聞いてみたら、なんと彼女自身が新しい部屋を探しているところだと言う。彼女の生活環境はひどいもので2ベッドルームのアパートに、二階の二つの部屋二組のカップルが住み、リビングルームに自分の妹と住んでいると言う。プライバシーがないばかりでなく、彼女以外はみんなとても‘汚い好き’で、その豚小屋生活に耐えられないらしい。早速私たちの電話番号を教えたところ、数日後に彼女が部屋を見に来て、私たちのきれい好きさに感激して即決で入居を決めてくれた。早速彼女の部屋を心地よいものにするために、今までずーっと延ばし延ばしにしていた壁のペンキ塗りをすることになった。まずは色の選択に2週間ほどかかり、クリスマスショッピングで追われたり、ジャックの実家のケンブリアにクリスマスを過ごしたりといろいろあったので、本格的に取り掛かったのは彼女の入居予定の数日前になってしまった。ペンキ塗りは本当に時間の掛かる作業で、私の得意とする分野ではない。以前に自分ひとりでバスルームを一日がかりで塗った事があったが、私にとって、それはそれは大変な重労働だった。ようやく終わってからぐったり伸びているところにジャックが帰ってきて、“有難う”と言いながら私の仕上げ具合を点検し、”ああ、あそこがちょっとむらになってる、個々はもう一度やり直さなきゃね...”と言い方は易しいが、厳しい評価を下すのだった。散々疲れていたので、“もうペンキ塗りはこりごり!今度はあんたがやってよね!”とぶち切れたのだった。今回は、私の選択した淡いライムグリーンともう一段階落とした色のツートーンに、白のふちと言う女性ごのみの色に決定して、早速二人で取り掛かった。今回は壁だけでなく、クローゼットのスライディングドアと、部屋のドアも塗ることになったのでそれはとても大掛かりなものとなった。二人で二日がかりでやったが全部を終わらせることができず、翌日の月曜から正月まで私は仕事に行かなくてはいけないので、後の残りは長い冬休みを取っているジャックが仕上げることになった。ニューイヤーイブの日に、私のやったところを手直しを含めた三日間の重労働を終えた後、もうペンキ塗りはこりごりと、言ったくせに、ジャックはまだやり足りないところがあるから手伝ってと言って、最後の短期の仕事を終えて疲れて帰ってきた私を無理やり引きずってペンキ塗りの最後の仕上げに掛かった。大晦日にこんなことしているのは私たちだけじゃないだろうか?ようやく全て完成した翌朝、ジャックはまたしても自分のやった不完全な点を見つけ、“このドアは白すぎて壁の色がくすんで見える!”と言い出した。ああ、また始まったよお~~~。それに加えて自分の不注意で電気系統がちょっとおかしくなったことに腹を立てている。もう、いい加減にしてくれ~~~。私の叫びは今までになく大きくこだまする。そこに来て彼はとても素晴らしいの力を発揮した。それは向かいに住んでいる隣人に頼みを入れたのだった。この隣人、とても話し好きの50代半ばの男性で、ジャックを見ると話し込み、毎回20分以上は逃れることが出来ない。それでもジャックは辛抱強く聞き役になってご近所付き合いをうまいことしている。一方私はと言うと、近所の人に軽く会釈をする以外はめったに会話をすることはない。なので、毎度ジャックが隣人と数十分に及ぶご近所付き合いを見るたびに、近所付き合いはもっぱら主婦たちの仕事とされている日本ではあまり見られない光景だよなあと感心するのである。この隣人、エリックは早速飛んできて、電気系統の基礎をハンディーマンタイプとは全く正反対の‘デザイナー・ジャック’に伝授しながら、問題解決してくれた。今回ばかりでなく、彼や、また別の隣人から度々大工用具を貸してもらったり、ちょっとしたアドバイスを貰ったりして、New Home Ownerである私たちは何とか自分たちで問題箇所を修理したり、家のアップグレードをすることが出来ている。全くありがたいことである。アパートに住んでいたときには、大家のトニーが何かが故障するたびにすっ飛んできてくれて、何にも心配することがなかったが、今はその便利なトニーはいない。なんでも自分たちでやるしかないのだ。面倒なことばかりで、プロに頼むゆとりがあったらと、愚痴をこぼしたくなる。でも、有難い事にこの国ではいろんなものが日曜大工洋品店に行けばなんでも比較的安く手に入るため、私たちのような初めて家を買った人たちは自分で何でも出来るように少しずつ学んで、真の‘ホームオーナー’になってゆくのである。
2004.01.03
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ああ、なんと言ったらよいのかこの不思議な感覚...今日面接に二回行った会社から電話があり、正社員として採用したいと言う素晴らしいニュースが入った。不思議なことに、ここ一ヶ月の間にかなり沢山の会社からの面接に来てくれといわれて、その中の二つの会社から採用したいと言われた。が、いまいち条件が合わずにもっといい所をと応募をし続けていたら、今の会社を見つけて、一回目の面接でこれだと思って早速面接のお礼状を翌朝じかに届けた。すると2日ほどしてから二回目の面接に呼ばれた。この、すぐにサンキューレターを届けると言う積極振りが高く評価されたようだった。今回はさらに職場での問題や、どういったことに今会社が取り組んでいるかという第一回目では話さなかったもう少し突っ込んだ内容を知らされた。そして、私のほうの会社に対する積極性をもう一度確認されて、面接は、かなりいい感じで終わった。しかし、今までの経験上、どんなに手ごたえを感じても、どんでん返しを何度も食らったために、なるべく気持ちを抑えて平静を保とうと努力していたが、明け方に突然目が覚めてそのことを考え始めて眠れなかった。また仕事に行ってもなんだか落ち着かずに、やっている事にも集中出来なかった。そして家の留守番電話を会社からチェックしたところ、面接をしたオーナーが、採用を決定したので電話をしてほしいと言うメッセージが残されていた。YES!仕事をそっちのけにして、早速電話を掛けると、驚いたことに、オーナーは私を迎え入れることに対して私と同じようにとてもエキサイティングしていた。提示された給料は、今までの中で一番良いので二言返事で承諾し、トレーニングの開始日の設定をして電話を切った。今回のこの会社が私を採用した経過には、多分以前勤めていた会社のボスと、その前勤めていた会社の同僚の推薦が大きく影響したのであろう。第一回の面接後に届けたサンキューレターに、‘推薦が必要の際はご遠慮なくおっしゃってください’というようなことを書いて、予め、在籍中にいい関係を保っていた人に電話を掛けて、ベストな推薦をしてほしいと頼んでおいた。このアメリカでは大半、面接する側が、応募者がどんな人間であるか、仕事の能力はそのポジションに適切なものであるかを計るために、応募者の過去の上司や同僚に電話を掛けての推薦を求めるのが一般的だ。その為どんなに嫌な仕事、会社でも辞めるときには、日本語式に言う、‘発つ鳥跡を濁さず’で行かないと後から大きなしっぺ返しが待っていると言うわけだ。仲良くしているオランダ人の友達は、以前に勤めていた三つの会社で半ばけんか腰に辞めた為、新たに仕事を変わるたびに友達になった元同僚などに頼んで推薦者になってもらっている。彼女が実際のボス達に推薦してもらうなんてことは自殺行為に近い。恨みを持った元上司が応募している会社の面接官に自分のことを悪く言われてせっかくのチャンスが台無しになってしまう可能性が高い訳だ。日本では一度辞めたらもうその会社とは関係なくなるので、どうでもいいやといい加減になってしまう社員は多いが、(私も若いころはぶちきれていい加減に辞めたことは何度かあった。)ここではそれをすることによって自分で自分の首を絞めることになるのだ。幸い過去に勤めた会社ではいい上司や同僚に恵まれたため、在籍中はもちろん、その後もたびたびイーメールや電話で近況報告しながらいい関係を保つことが出来た為、職探しの際には強い見方になってくれている。あり難い事だ。早速ボスに話して今年一杯で切り上げて、この新しい会社に1月5日からスタートすることを報告した。同僚からこっそり教えてもらった情報によると、このボスも実はもう次の仕事が見つかっており、あと二週間ほどで辞めることになっている。私の勤め始めた11月の終わりからたったの一ヶ月の間に15人ほどのこの部署で、たちまち8人が新しい仕事を見つけてしまった。そんな中で、まだ次の仕事が見つかっていない同僚が、帰ろうとしている私に声を殺して、‘大半が管理職者が二週間もしないうちに辞めてしまったら、会社としてはこの部門をそのままにしておくことはないと思うわ。そうなったらきっとクローズする日も早まるでしょうね。’とささやいた。彼女はそれに対して驚くほど冷静だった。早く彼女もいい仕事が見つかるように本音で願っている。しかし、四月の頭に職を失ってから、今日までの長い無職生活に終わりを告げて、ようやく新しい仕事が見つかって本来なら諸手をあげて喜ぶべきなんだろうが、今回は今までと違って、なんだか、次にまた解雇されるまでの‘束の間の安楽’のような気がしてならない自分が本当に悲しい。多分これは当分、いや、もしかしたら、ずっと拭う事の出来ないトラウマなのかもしれない。今回の一連の経験は本当に私自身を強くしてくれたと思う。まあ、いい会社が見つかったとはいえ、この先何が起こるかはわからないので、とにかく、‘会社の為’にではなく、‘自己の成長の為’に在籍期間中出来るだけ多くを学び、万が一のことがあっても更にいい仕事を見つけられるように準備していきたい。
2003.12.24
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いや~、本当に久しぶりの日記だ。前回の日記から、なんと17日も経ってしまったとは、自分でも信じがたい。無職生活が10ヶ月ほど続くと、フルタイムで働くとこんなに自分の時間がなくなるとは、と改めて思い知らされる。特に、車で一時間と言う、ここアメリカにしては長い通勤時間(日本では当たり前だが)を毎日しているせいか、一日一日が、瞬きするぐらいの速さで進んでいるような錯覚を覚える。11月の終わりから始めた短期の仕事が、あっという間に三週間を向かえた。今勤めている会社のこの部署は前回の日記に書いたように、2月の中半にクローズする予定が、いろんなうわさが飛び交い、1月中半でか、もしくは今年中にクローズされるとも言われている。そんな中、誰もが次の仕事を探すのに躍起になっており、毎週のように誰かの最終日を祝っての昼食会が開かれている。他聞に漏れず、単なる短期の仕事で入っている私もその波に乗って、(もうすでにその波にのって一年近くなるが)安定した本職探しに躍起である。ここ最近不思議なことに、あちこちから面接に来てくれと電話があり、たったの二週間の間に四つの面接に加え、地元の市の仕事の筆記試験だの何だのと不思議なくらい忙しくなってきた。過去のなが~い無職生活の中で、一番面接で忙しいのは今ではないかと言うくらい。不思議なもんである。多分、今まではあまりにも何もしないで家でうらうらと仕事探し以外は何もすることなく過ごしていたのと違って、短期とはいえ、取り合えず仕事を8時間毎日していると言うだけで、私自身の自分に対する自信と言うものが戻ってきたから、それが表に表れて、こういった面接のチャンスがどんどん訪れてきたのだと思う。また、面接に行った際も、不思議なことに、自分が面接官に向かって自信を持ってアピールすることが出来ているように思う。これは本当に天と地の違いだ。その証拠に、実はこの数ヶ月の間に一度もこれと言った気に入った会社が表れなかったのにもかかわらず、結構気に入った会社が出てくるようになり、その中から幾つか招待されるようになった。が、しかし、まだ自分の最低条件、賃金、雇用体勢などを満たした会社が見つかっておらず、断ってはいるが。それにしても、今まではそこまでも行きつがず、とてもイライラしている自分がいた。多分私の日記をしばらく読んでいてくれている方々はそれに気づいているであろうが...それはともかくとして、今日はいつもの‘仕事から疲れてぐったり、星をボーっと眺める以外は何もしたくないモード’と、打って変わってなんだかアップビートの状態で、久しぶりに友達に電話を掛け捲って散々長話をして近況報告をした。今週に二つ面接を受けた会社に関してどちらを取るか迷っているところだが、これに関していいアドバイスをくれそうな、以前に勤めていた会社の、とても尊敬しているボスに相談を求めて電話をしたのを皮切りに、この国での友達はそれほど多くないが、ロスアンジェルス近郊に住んでいる日本人の、Mちゃんとは、インスタントメールで、また、学校に行っていたときに知り合ったオランダ人の友達とは電話で、約一時間半づつ、なが~~~~い話をした。それからまだ話したりなくて、日本に住んでいる高校時代の親友に電話を掛けた。彼女は小さい子供を三人抱えているので、私の思うように長話をすることが出来ないが、それでも私からの電話には、特別扱いしてくれているようで、かれこれ一時間近く話していたかもしれない。(ワイン二杯飲んでいい気分になっているのでこの時間はちょっと定かでないが...)そうして話しているうちに、なんだか不思議な感覚、これは多分、外国に住んでいる日本人の皆さんが少なくとも一回は経験しているであろう物を改めて感じた。それは、自分が酔っているにもかかわらず、ちゃんと話しているということ。(まずお断りとして、日本の皆さん、消して自慢しているとかそういった偏見を持たないでください。今から話すことは私自身の体験上、妙に思ったことを述べているだけで、変な優越感に浸っているんではありませんので!!)多分この感覚は、外国語を話している人にとっては良くあることだが、電話で話をするということは、突然、何千、いや、何千キロとは離れた日本に降り立って全く違った言葉を話し出すということ。こうやって酒に弱い私でも、ちゃんと日本語?で話しているという事。実は、ここアメリカに二回目に住み始めたばかりの一年間は、なるべく日本語を使わずに英語を上達させようと必死になっていたために、せっかく学校で知り合った日本人に対しても、英語をちゃんとマスターするまでは、極力英語を使いたいので、英語で話していいか?と断ってから付き合いを始めていた。今考えるととっても変な決まりを自分で作ったもんだと笑ってしまうけど、その頃は必死に英語をマスターしようと思って、日本人の付き合いは二の次にしていた。丁度その頃知り合った、アメリカ人の旦那さんと、子供を二人抱えた日本人女性と友達になった。彼女に対しても例外なく、初めの段階で英語でコミュニケーションをとってもいいかと断った後で、付き合いが始まった。彼女はそんな私の英語をマスターしたいという必死な思いを理解してくれて、日本人同士でありながらも英語で会話をするという変わった付き合いが始まった。今考えるととっても変な関係だったが、心の広い彼女は私の事を理解してくれていた。そんな彼女がある時ふとこんなことを言った。“私、ここにきてかれこれ7年ほどなるけど、やっぱり付き合う友達は日本人が一番良く理解し会えるし、信頼できる。話す言葉もやっぱり日本語が一番。だから最近ではもっぱら日本語で喋れる友達を知らず知らずに探しているのよね~。”その頃は私はまだアメリカに来て半年しか経っておらず、英語をマスターするのに躍起になっていたために、彼女の言っている事があまりピンと来なかった。それが、このアメリカに住み始めて7年目を迎えて彼女の意味していたことがようやく分かってきたのだ。これは自分でも大きな変化である。彼女の言っていることは本当にもっともなことで、やっぱり何年外国に住んでも日本人は日本人。いろんな国の人たちと知り合ってもやっぱり自分の国で育った人たちといろんな考え方を分かち合うのはやっぱり日本人が一番理解し会えるように思う。日本人と全く異なった感覚をもった別の国の出身の人の考え方もやはり、私にとっては必要だが、やはり、いざとなったときに100%信用できるのは日本人同士である。学校に通っていた頃に知り合った数人の友達は、幸いなことに今でもこの国で、しかも同じ南カリフォルニアに住んでいるために、連絡取ることが出来て私は大変幸せ者である。そんな彼女たちをこれからも大切にしていきたいと思う。
2003.12.19
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先週は、久しぶりの社会復帰でどっと疲れた後、有難い事に木曜日からサンクスギビングデーと言うホリデーで日曜の今日まで休みだったのでようやくほっとして日記が書ける。今日はアメリカ企業の社員に対する扱いを日本のそれと比較して考えてみようと思う。新しく短期派遣社員として働き始めた二日目の職場で、部長がみんなを集めてその部署が企業の再編成により、フロリダのオフィスに移動すると言うことを告げた。そして、もしもこのままその会社で働きたい人は、一番近くはサンタアナ、(ロスアンジェルス郡内)か、もしくはフロリダに移転しても良い言うことだった。そして、会社にとどまるか否かは別として、社員全員に一か月分の給料に相当する手当てが支給されると言う。現実問題として、同じカリフォルニア内でもサンタアナは、そのオフィスがある場所から約三時間ほど車で掛かるし、フロリダなんてまったく反対の海岸沿い。家族を持った人や、地元に家を持っているような殆どの社員がそんな簡単に移動できるはずが無いのである。このニュースは実は一ヶ月ほど前から噂が流れ始めたらしいが、しばらく会社から何も聞かされずに不安な日々を過ごしていた社員は、この部長からの最終報告でどうなっていくのかが分かってほっとしている反面、次に仕事をすぐに見つけられるかという不安で、誰もが皆、混乱したような表情であった。短期派遣社員であるが偶然にもそこに居合わせた私は、このオフィスが閉鎖されることを派遣会社から聞かされてはいたものの、その社員たちの心境が痛いほど分かって悲しい気持ちになった。それは自分でも体験していた悲劇だったからである。私が解雇された経緯と言えば、去年の7月から勤めていた会社は再利用可能エネルギーの開発をしている企業で、アメリカ全土、メキシコなどのあちこちに風力、水力発電所を建てて、軌道に乗って利益を出せるほどになったら別の投資家に施設ごとそっくりそのまま売ると言う商売をしていた。この会社が株式になってからたったの三年で、社員数20人という小さい会社だが、私が勤めていた一年足らずの間に10人以上新しい社員を入れてどんどん急成長していた。が、その急成長に見合った経営体制を整えておらず、経済困難に陥り、私を含めて一気に10人ほどの社員が解雇されてしまった。バケーションから帰ってきて一日目の出社の朝、ボスから呼ばれ、私のいない間に大量解雇が行われたときかされ、締めくくりにあなたもそのリストに入っていると告げられた。今までのボスの中で一番気の会う彼女にはとても気に入られていて、バケーションをとる際に、‘今日がラストの日だから’と言っているのを隣の席で聞いた同僚が、‘え?辞めちゃうの?’と言うのに対し、ボスは、‘違うわよ、明日からバケーションで日本に帰るのよ。XXが辞めるといっても私は承知しないわよ!’と、言われるほどとても頼りにされていたので、この解雇は正に寝耳に水であった。実は同じようなことがこの前の会社でも起こった。勤めていたのは地元の二つのショッピングセンターのマネージメントオフィスだったが、このセンターは、ミシガンを本拠地とする大きな会社の傘下に入っていて、一年半勤めた頃に、これらを親会社が売り払うと言う噂が流れ始めた。社員全員実際どうなるのかをはっきり知らされないまま、しばらく数ヶ月変わりなくやっていたが、とうとう支部長から、二つのショッピングセンターをどこの会社が買収するか、この先どうなっていくのかと言う大まかなことを知らされた。この時点では、管理体制はさして変わらず、ただオーナーシップが変わるだけだと聞かされていたが、社員は全員解雇の可能性さらされ、びくびくしながら更に数ヶ月間過ごした。そしてようやく半年後に新しい会社の経営側から一人一人の面接があり、その中から数人が解雇されていった。私の仕事は、新しい会社の部門に統合されたため、残念なことにそのポジションはなくなってしまった。こんな悲劇が二回も続けて起きたために会社に対しての忠誠心なんて完全に消えうせてしまった。そう、アメリカの会社は大変シビアなのである。たとえ大変な学歴と経験をつんだ社員でも、会社の経営方針によっていとも簡単に解雇されるので、誰もが一つの会社に何十年も奉仕しようなんて考えず、5年もしたらもっと待遇のいい会社にどんどん移っていく。また、アメリカ企業の多くは社員を育てていくという姿勢が少なく、ポジションが開いたり、新たに作ったりする場合、その仕事内容の経験をたっぷり積んだ人を雇うことが殆どた。よって、いくら有名な学校を出たからって言ったって、日本の企業のように自動的に有名企業に就職できると言う保証はまったく無い。そのため学生たちは、忙しい勉強(日本の学生と違って本当によく勉強している)の合間を縫って、インターンシップでどこかの企業にパートタイムとして働いた経験を将来の就職活動に生かすのである。就職活動といえば、履歴書から始まるが、日本のように、決まったフォームが無いので、各自でまずは職歴、そこでどういった仕事をしたのか、どういった業績を挙げた課などを連ねて、最後に学歴と学生生活の中でのを功績を付け加える。あくまでも、経験優遇なのである。こうしたやり方は、日本のように新卒がまず優先と言うわけではないので、一旦社会に出てある程度働いた人が同じような仕事を別の会社で探す際には有利であるが、経験の無い新卒者や、まったく仕事を変える人にとってはとても不利なのである。やっとの思いで就職しても、その会社が人を教育して企業内での昇進のチャンスを与えるところでなければ、その社員は同じポジションで何年も過ごすことになる。当然長いこと同じことをやっていれば労働意欲も低下していくが、会社側からしたら、せっかく仕事を覚えてくれたのに、辞められたら、新しくまた人を探してトレイニングをしなくてはいけないので、ひたすら社員が同じところに留まってくれる事を望む。日本企業のいい所は、一度入社した社員を位置から育てて、その後労働意識の低下を防ぐために比較的大きい企業なら、いろんな部署に数年経ったら配属しなおすので,社員もまた初心に帰って仕事に打ち込むことが出来ると言う点。それと同時に社員の会社に対する忠誠心も培われると言うものだ。が、最近の日本企業は変わり始めているらしいので、これも過去のものとなりつつあるわけだが、そう考えたら、日本企業は利益のみを追求するアメリカ企業のようになりつつあるんではないかと危惧してしまう。経済のことはあまり詳しくないので詳しくはあれこれと分析は出来ないが、簡単なデータを見ると、失業率は、アメリカ全土で6%と、(2003年10月現在 http://www.bls.gov 参照 )落ち込んではいるが、それでも、アメリカ経済全体を見ると、日本の不景気に比べたらまだまだ良いほうだ。と言うのは、不景気だといっても人々はSUV(Sports Utility Vechicle)などのでかい車を乗り回してがんがんガソリンを使っているし、住宅購入者もうなぎ上りだし、今頃はクリスマスショッピングで一世帯あたり何百ドルの出費をしては物が溢れた生活をしているのを見ると、何が不景気なんだろうと疑問に思ってしまう。このように表面上、物が溢れ、あらゆる便利なものが比較的安価に手に入り、殆どの家庭では、古いアパート暮らしでも蛇口をひねればさっと熱いお湯が瞬間に出るような、経済国家として成功しているように見えるこのアメリカだが、一方では、労働者の休みはまとまってとることが出来るが、実際には年間の有給日数を取ると日本のそれよりも少なく、労働時間も職種に依るが、週に50時間以上働く人もざらにいる。家庭を持った多くの労働者は子供を預けて共稼ぎで長時間の残業や、二つ仕事をもって何とか生計を立てている。ベービーブーマーが第一線として活躍していた頃は、あくせく働いた報酬に家を買うことも出来たが、この異常な不動産価格の上昇により、(殊にカリフォルニアにおいては)そのアメリカンドリームの基本となるマイホームですらも手に入れることが出来ない人が山ほどいる。このようなアメリカの雇用状況を見ると、終身雇用制度が崩壊した現在の日本とさして変わらないように思える。どちらの国も、利益至上主義の企業に振り回された労働者が、物質上は豊かでも、人間として満ち足りた暮らしを送るのを犠牲にして失業するかもしれないと言う恐怖におびえながら身を粉にして働いている。最近ではこういった傾向が、一ヶ月ほどの有給休暇を認めたりする、労働者に有利な環境が整っていると言われたヨーロッパのほうでも広がっていて、生産性を挙げ、世界的経済で勝負してゆくためにこういった社員に有利な待遇を削る会社がどんどん増えていると言う。大変悲しいことだ。ちょっとまとまりの無い文章だが、私なりに分析すると、この物欲主義の世の中で、豊かな時間と心のゆとり保ちながら暮らしていくのは大変難しいが、企業に合わせるのではなく、まずは自分を守る、つまりある意味で勝手な人間にならないと生きていけないわけだ。そんな悲しい現実をしみじみ感じながら、正規の仕事に就く為に日曜でもこうしてインターネットや新聞上の募集を見て仕事探しに余念が無い島流れ者なのである。
2003.12.01
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先週の金曜日、短期の仕事が入って三月末までの間はフルタイムで働くことになった。ルームメイト探しは相変わらず難航している中で、取り合えず、何とか懐の温かいとまでは行かないが、冷凍状態から常温になってホリデーシーズンを迎えることが出来るのでお祝いに久しぶりに寿司を食べに行くことにした。今回はジャックが通勤バスで知り合ったアジア人の女性に、“今まで行った寿司屋で一番おいしかった”と聞いたので、これはぜひいってみようと初の試みで隣町の無名の寿司屋に入った。まずすぐに目に付いたのが、50代中ばの如何にも日本修行したであろうという出で立ちの寿司職人が8席ほどの小さなカウンターの前で寿司を握っていた。ウェートレスはたぶん寿司職人の奥さんであろうと思われる中年の女性、そして学生らしき若い男女の三人で金曜の夜7時にしては空いている店内を切り盛りしていた。カウンターに座るとすぐ目の前には注意書きがある。①カウンターは寿司とアピタイザーのみしか出しません。それ以外のものを注文したい方はテーブルをご利用ください。②うちが出す巻き寿司は日本の伝統的な巻き寿司のみで、カッパ、鉄火巻きのみ。③わさびは伝統にのっとって、横に添えるのではなく、中に入っています。よってわさびが嫌いな人は、前もってわさび抜きと言ってください。上記の注意書きは日本人にしては当たり前のことだが、このアメリカの寿司屋は、カウンターで座っても、てんぷらだけ食べている奴も居れば、巻き寿司だってまるで日本のスーパーに売っている安い邪道寿司のようなものが山ほどある。そして、わさびと言えば本物ではなく、大根の混ぜ物があってマイルドになっているパウダー上のものを水で溶いて使っている店が多い。本物と違ってきつくないので横に添えてあるわさびを醤油に入れるんではなくその逆で、わさびをどっさり小皿に乗っけて、醤油で溶いてペースト状になったものに寿司をぶち込んで食べると言う恐ろしい食べ方をする客が多い。そんなわけで、この店の頑固なやり方に何も食べる前からワクワクと期待が高まってゆく。まずはいつものようにビールと味噌汁を注文する。出てきた味噌汁はシンプルに豆腐とその上には三つ葉がはらりと浮かんでいた。飲んだ瞬間にほかの店で出しているものと違うとすぐに分かる。出しの利いたとても品のある味の味噌汁だ。多くの寿司屋はメニューの他に各種の握り寿司、巻き寿司が載ったリストをお客に渡し、それにお客自身が数量と書き込んで注文すると言うシステムをとっている。いつもこのリストは私達は無視してまずすることは、その日のお勧め、つまり新鮮でいいものを寿司職人に聞くのがお決まりになっている。その日もそれでスタートしたら、たった一人で握っているその職人で、店の大将である彼がさらっと今日のネタについて説明した後にお勧めで良いかと聞いてくる。日頃は無職で貧乏なのでケチケチしている私もせっかくのお祝いだと思って、太っ腹でOKする。初めに出てきたのは、なんと言う魚だったか覚えてないが、赤身魚で、仕込がしてあり、程好く酢の味が利いていた。う~~ん、旨い!まずはこれで一発目のジャブを食らってくらくらしているところにお次はトロ。口の中でバターのようにとろけるとろける。そして摩ったゆずが軽く降りかかったキスや、聞いたことの無い種類の魚の寿司が同時にダブルパンチ!あまりの旨さに目をクルクルさせながら堪能している私達に大将はどんどん調子に乗って次から次へと旨いもの攻撃を仕掛けてくる。今度はアナゴ、たこ、ホタテのトリプルキック!!!もうここまで来ると、まるでシャブ漬けになった麻薬中毒患者のごとく、ふらふらになって身も心もぐにゃぐにゃ状態。どうにでもしてくれ~という気になってきた。いつもはあまりビールを飲まないワイン派の私だが、この時ばかりは寿司の旨さに加えて大将との会話にのめり込んでぐいぐいグラスを空にしていく。その横では、日本語を解さないジャックがもっぱらお酌係に徹している。ああ、極楽極楽。この店のある街は、軍の基地がある農業の盛んな町で、南アメリカからの移民が不法滞在でとりあえずありつける農作物の収穫の仕事に従事する人々が多く住んでいる。所によってはギャング活動が盛んな事もあって、あまり治安が良くない。ジャックと私は彼の握る寿司の旨さをしみじみと味わいながら、なぜこんな片田舎で、カリフォルニアロールしか食べたことが無いような人々を相手にアメリカ人に人気のあるマヨネーズや、アボカド、クリームチーズの入ったアメリカ式の巻き寿司などは一切出さず、本格的な寿司で勝負しているのが不思議でならないので聞いてみると、日本で店を任されるほどの腕のいい職人であった彼は、アメリカに来てからは、ロスアンジェルスにある一流の寿司屋に働いていたそうだ。特にこの自分の店を持つ前に居た所では毎日のようにハリウッドスターを相手に寿司を握っていたと言う。が、やっぱりどこに行ってもアメリカ人に人気のある巻物や、彼らの好みに合わせたものとなると伝統的な寿司とは程遠いものになってしまうのが何年たっても納得いかず、ついにチャンスあってこの店の権利を買って家族一同引っ越してきたと言う。彼曰く、この店が売りに出ていたときに視察に来るまでこの町にまったく訪れたことが無く、知り合いが居たわけでもなかったので、土地のことに関しては殆ど情報不足だったが、念願の自分の店を出すチャンスを見逃せずに思い切って始めたと言う。もちろんその後の苦労はいろいろあって、なんと言っても来る客の中には、本物の寿司を知らないので、寿司と言えばアメリカ式の巻き寿司、カリフォルニアロールしか思い浮ばないので、本格的な寿司を出す大将に向かって‘あんた日本人か?’って聞いてくるとんでもない奴も居るそうだ。ビバリーヒルズで働いていた頃にはカウンターで食べるお客が落としていくのは平均で$120~$130だったと言う。これは通常の寿司で食べたら3~4人分に相当する。が、そんな店で慣れきっていた彼は、“この町の人々がそのレベルにたどり着くには一生掛かっても程遠いかもしれない。あまり知らない客も多いので、暇だけど、広告を見てくるようなお客は要らないから出してないんだよ。殆ど口コミでまだ広まってないから、あんまり儲かんない。”とぼやいていた。私がこのあたりはどの寿司屋も日本人のオーナーでなくて、コリアンが圧倒的に多いけど、理由は儲かるからかと言う問いに、“彼らのように本物を知らなかったら、アメリカ人の好む邪道な寿司をどんどんさばいて今頃は海辺のいいうちに住んで、車庫にはベンツが2~3台止まっているような生活をしていただろうけど、やっぱり俺にはできねえんだな~...”まったくそのとおり。でも職人気質の対象にはどれだけ苦労しても、この日本の伝統を守り抜いてがんばってほしい。
2003.11.25
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さて、一旦最終回を迎えたと思った他人と暮らすシリーズの続編として、今日はルームメイト探しのジレンマを書いてみようと思う。ジャックと暮らし始めてからしばらくルームメイトはいなかったが、家を購入してから、ローンできちきちの生活を多少はゆとりを持たせるために二つある部屋のひとつを貸し出して早9ヶ月がたとうとしている。今回は近所の短大に通う23歳になる日本人の女の子(自分がこのくらいの年のときに‘女の子’と言われて憤慨していたのを思い出して、年をとった自分に気づいて苦笑している。)彼女はもうすでに短大の資格を取ったので、一旦日本に帰ってから今度はロスアンジェルスのほうにある四年制大学に編入するということで、12月8日に出て行くことになっている。前からこの日が来るとは分かっていたが、いいルームメイトの条件を全て兼ね備えている彼女が行ってしまうのはとても残念だ。なんてったって、同じ日本人なので感覚が合うし、礼儀正しくきれい好きで、なんと言ってもうれしいのが学校とバイトが忙しくてほとんど家にいない。年の割にはちょっと子供っぽいのでボケていてイライラさせられる以外はパーフェクトのルームメイトだ。事に今回部屋貸しの広告を載せて、あちこちから掛かってくる電話でその気持ちをいっそう強くさせられる。このホリデーシーズン真っ只中でわざわざ引越しする人は多くないだろうと思いきや、たったの二日だけで、10件以上電話が掛かる。でも部屋の状況を説明すると彼らの条件にかなっていなかったり、こちらの条件にあっていなかったりと言ってなかなかぴったりする人は見つからない。例えば、リタイヤしていて一日中家でのんびり出来る部屋を探す60歳くらいの人や、障害者で現在ケアシステムのある場所にいるがそこを出て自分の部屋で暮らしたいが、毎日ヘルパーが来て世話をしてくれるのでそれでもいいかと言ってくる40代の人などや、また、シングルマザーで自分とその子供が住める広い部屋を探している人や、若い女性でボーイフレンドと一部屋を共有したいと思っている人など、状況は様々。それにしても、今回ルームメイト探しを久しぶりにして、その難しさを知るとともに、いろんな人がいるなあと呆れされられる場面にしばしば当たる。例えばある女性は、(多分私たちと同じくらいの年)自分だけが使うバスルーム付が条件だと言う。そこでこの部屋についてくるバスルームはリビングに隣接するのでトイレは私たちやゲストが使うが、私たちの部屋にバスルームがあるためにシャワーは個人のものだと言うと、じゃあ、誰が掃除するの?共有するのに私が掃除を責任持つのはヤダとキッパリ言う。尤もな事だが、その言い方が、とても不躾で、我儘な性格が見えるようだった。そして、まず、家を外から見て、いいと思ったら中を見るためにアポイントメントを取りたいからとりあえず住所を教えろと言うので教えて電話を切った。こんな奴とは暮らせないと言うのがはっきり分かっていたので、直後にすぐそこまで来ているけど、家が見つからなくて迷っていると掛かってきたときに、もうルームメイトが見つかったのでと嘘をついて断った。彼女だけが例外でなく、電話を掛けてくる半数以上の人が、電話のマナーがなっていない。まず、開口一番に広告についている部屋の件で電話したんだけどと言うその一言も、あたかも私たちが幾つかの不動産を持っていて、その中のひとつを貸し出し、一緒に住むわけではないような設定で掛けてくるのと同じでツッケンドンに話してくる。もしも一緒に住むわけでないなら、こちらも感情を入れずにビジネスとして対応するのだが、まかりにも‘ルームメイト募集’として広告を出しているので、電話は、どんな人なのかということをお互い確認しあう訳だから、言ってみれば、一次試験のようなものだ。なのにこの重要性を分かってない輩が多い。確かにお金のために部屋を貸すわけだが、誰でも良いって訳じゃない。一緒に住んでみて、馬が合わなければ、長続きしなくてまた三ヶ月、またはもっと短期間で次のルームメイトを探さなくてはならない。借りるほうも同じ事で、また新たな場所を見つけるためにあちこち駆けずり回ったり、引越しの手伝いを人に頼んだりと大騒動を繰り返すことになる。だから、このように、ほんの4~5分の短い電話での会話ですら気持ちよくフレンドリーに話せない人が不思議でならないのだ。一般の広告に載せる場合、ハウジングの法律に基づいて、人種や年齢、また個人個人の状態などで差別してはいけないことになっている。よって、明らかにこちらが探している条件のとは程遠いと言っても相手には見る権利があるようだ。そういって、ジャックは昨夜遅くに掛かってきたかなり年配の人にあまり条件も聞かずにここに見に来るのには9時近くなると言うのにOKしてしまった。切った後にどんな人かを私に説明しながら、“いや~、そんな年が離れている人とは暮らせないって分かっていたけど、なんと言って断って良いかわかんなかったから、OKしちゃったんだよ~...”呆れたが、もうすでに家を出ているだろうから断れない。電話は苦手だし、下手な事言って、差別だって訴えられるから、次からは君が対応してくれと言う。まったく...現ルームメイトに遅いけど部屋を見たいと言う人がいるんだけど悪いね、って何とか了解してもらった後に、如何にしてこの訪問を手短に済まさせるかとあれこれ作戦を練っていると、その人から今日はもう遅いから、別のときに見れないか、と電話があった。そこで正直に、“実は私は日本人で、英語が苦手なので、日本語が話せる人を探しているんだけど、何しろ広告を出したばかりで何も考えずに対応した主人がそれも言わずにOKしてしまったのよ、ごめんなさい。”とまたしても嘘をついて丁重にお断りした。そして、もう電話とらないって子供のようにすっかり怖気ついているジャックに、“あんた、二ヶ国語で英語がちゃんと話せない私が出来ることを、あんたが出来ないってどういうこと?電話は面接のようなもんだから、相手の条件とこちらの条件をきちんと確かめるために幾つか質問するのは何も失礼じゃないのよ。最初っから入れないつもりなのにわざわざ遠い所から来させて無駄足食わせるほうがもっと失礼だと思うわ。”と言って、相手にいやな気分を持たせないように要点を聞き出して、お互い納得した上でアポイントメントを取る方法を伝授した。そんなわけで、このルームメイト探しは職探しと同様に難しく、この年末の忙しい時期に大きな二つの課題を抱えた私はややストレス溜まっているわけだ。現在朝の8時20分、ジャックも仕事に行ったことだし、ストレス太りしないように(前回の日記を参照)今から運動をしようと思う。
2003.11.21
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12月4日で無職の8ヶ月を迎える。自慢や、記念になんてならないが、これまで長く無職をやったのは、フルタイムの学生であったころを除き始めてだ。ちょっとした記録だ。この8ヶ月を振り返ってみるといろんなことがあった。この楽天のサイトを始めたのもその中のひとつ。既婚で、子供もいないし、仕事もしなくて良いという羨ましい立場の女性からは、“それほどたいしたこと無いからあまり落ち込まないでね”って励まされたり、あくせく働いている人からは、“好きなことがのんびり出来ていいね~。”って羨ましがられたりする。が、本人は、好きで無職をこんなに長くやっている訳ではないので、このまま一生、誰からも採用されないんだと、かなり落ち込んだり、まあ何とかなるさと陽転思考になったりと、気分が日替わりにアップダウンするのである。そんな中で、私が唯一これほど長い間、暗闇にいても精神病になってしまったり、自殺なんてしないで、何とか普通の精神状態を保ってゆけるのは、なんと言ってもジャックのあらゆる面でのサポートがあるからだ。本当に心から感謝している。が、実は最近ちょっと彼が言ったことが私をひどく落ち込ませた。先週金曜に彼が帰ってきて、夕食後にテレビを見ながら、なぜか話題が、‘最近セックスする頻度がめっきり減った’という事になった。そこで遠まわしに原因は私が太ったことを挙げるのであった。もちろん私もこんなことは自分が一番よく知ってる。自分の体に自信が無いために、あまりそういう気にならないし、それが彼にも影響を及ぼしているであろうと気がついていたけど、彼の口からそういたことは聞きたくなかった。太ったと言ったって、まだ普通の域で、ダイエットしなきゃなんで言おうものなら、“太ってるって、あなたが?何言ってんの!”と逆にその人に対して、(もしもその人がちょっと小太り以上であったら)いやみに聞こえてしまうくらいに、そんなに太っていないのである。確かに、紙のように薄っぺらい体の平均的な若い日本女性に比べたら、ダイエットが必要と思われるかもしれないが、何を食べても太らなかったころを過ぎ、四捨五入したら40歳になる年齢にしてみたら、週に5日はランニングやダンベルを使ったエアロビクスを組み合わせた1~2時間のトレーニングで鍛えている体に文句があるというほうがおかしいのである。確かに、ずっと家にいて、食べ物がいつでも身近にある状態に加え、仕事をがなかなか見つからないフラストレーションからくるストレスで運動して消費するカロリー以上に食べ過ぎてしまうので、5キロほど太った。これに関しては、仕事が見つかり正常な生活に戻ったら自然に食欲も減って体重が落ちるであろうと思っているが、もっとスリムであったころから付き合いだした彼にとって性的魅力が薄れてきたというのは理解できる。所詮人間は、ほかの動物よりも少々思考能力が高いことを除いたら、基本的には美しいものに惹かれるという本能を持つ動物だから仕方が無い。そこで私は言った。“でもね、いつも食事前になると、‘食事どうする?’って如何にも私が作らなきゃいけないような言い方するから、お腹空いてなくても作る羽目になって、結局一緒に食べて、カロリーオーバーで太ってしまうのよ。”と言うと、“今まで一度も食事を作るのを強要したこと無いでしょ。したくなかったら俺だって自分で出来るんだから、無理しなくていいんだよ。”というので、気が向いたときにすると言う事になった。そして今日、ジャックと天気が良かったので、隣町まで往復で三時間半のサイクリングに出掛けた。今回通ったのは、所々ハイウェイに隣接して車の音が聞こえるが、それ以外は、木々の間を抜けてゆく、とても静かで爽やかなサイクリングロードだった。山のほうに繋がって行くその道は、行きはなだらかな上りであったが、いつものごとくジャックはがんがん走ってかなり遠く離れてから、ゆっくり走る私を待って、また走り出すといういつものパターンで目的地に着いた。公園で持参のスナックを食べて休憩し、5時には日が落ちるために、もっとゆっくりしたかったけれど、早々に切り上げて出発する。行きに掛かった時間を計算しながら、帰りは下り坂なので、かなり楽に帰れるだろう言う二人の予測。そこでジャックはもしも錘付きでなかったら、少なくとも30分は早くここに着いていたであろうという。(この錘とは私の事)この言葉に対して私はそんなに遅くないと講義している私に、目の前ののろのろと走っている60歳近い女性二人を見て、ジャックが言った。“よし、じゃあこのおばさんたちに勝てるかどうかで判断させてもらう” まったく、失礼ったらありゃしない。もちろんこのおばさんたちを余裕で抜かして、下り道をすいすい走りながら調子に乗った私は反撃に出た。“いつも私の走りがのろいのろいって言うけどね、ちょっと考えても見てよ。私の友達の殆どは、運動オンチ、もしくは体力不足でしょ。それを見たら、三十中半でありながら、ここまで体力がある女性って、なかなかいないでしょ?”と言うと、“そうだなあ。確かに君は運動神経が良いし、体力も充分ある。そんな君とこうして一緒に運動していると、男の本能である競争心が出てしまうんだな。” よしよし、分かったならよろしい。そして家に帰る途中でそろそろ出て来るだろうと思ったら、“ねえ、食事どうする?”と聞いてくる。やっぱり来たか。疲れてるからヤダと言おうとしたが、ふっと彼が金曜日のランチに使ったクレジットカードの伝票を思い出し、残り物が無くて弁当に持ってゆくものが無いからって言って、明日も金曜のように、貧乏の癖に人にランチをおごって$40近くも使われたら溜まったもんじゃないし、昨晩は、彼が食事を作ってくれたからなあと思い直して、私が作ると言った。が、しかし家に帰って、ついつまみ食いに昨日作ったアップルパイを食べたらお腹がいっぱいになってしまったので、やっぱり自分で作ってと言ったら、“ええ~~~、さっき作ってくれるって言ったじゃない!”とまるで子供のように駄々をこねている。でもどうしてもお腹いっぱいになっているので、今ここで作ってしまったら、更に食べることになってせっかく三時間半、サイクリングで燃やした脂肪が元通りになってしまうので、頑なに拒否したらブスッとしながら自分で作り始めたのだった。彼のここ3日間の行動、言動を総まとめしながら考えたら、彼に必要なのは以下の三つであると言う結果にたどり着いた。1.運動や力仕事を一緒にする時用 - 消防士として活躍し、趣味はボディービルディングというマッチョな女(人に頼らず、自分で出来ることは自分でするというのをモットーとするので、私に何でも手を貸すことはせずに、力仕事も出来るまでチャレンジしてみるように応援するし、自転車のタイヤがパンクしたら自分で直せるように訓練する。また、前述のサイクリングだけでなく、一緒にスポーツするときは男である彼と、対等に出来ることを要求する。)2.お腹が空いた時用 - どんなに疲れていても、いやな顔をせず、いつでも頭の中に和洋中のあらゆるレシピを豊富に持ち、ささっと鮮やかに美味しい料理を作ってくれる四つ星レストランに勤める女シェフ3.ベッドでのお楽しみ用 - 余分な肉なんか一切付いていない、美しい体を持っているだけでなく、いつもスタンバイOKの情欲過剰ぎみなポルノ女優か、*ビクトリアシークレットのモデル(*アメリカでナンバーワンの色っぽいのを専門とした下着会社)これを実際に言ったら、“だから次に生まれてくるとしたら、アラブか何処かの一夫多妻制の国がいいな~。” だってさ。ふんっ、勝手に夢見続けるが良い。
2003.11.17
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この日記はシリーズになっておりますので、初めてお越しの方は三日前の日記からどうぞ。(注:ちょいと長いのでお仕事中の方はお昼休憩にご覧になることをお勧めします。さもなければ社内のあなたの席が危うくなるかもしれません。万が一のことがあっても当方一切責任関与しかねるのでご了承を。)*******************************************************マリアンの家から出て新しい町に引っ越し、次に見つけたのは、4ベッドルームの留学生が何人か住むインターナショナルな家だった。まずこの家の大家の娘で、アメリカ人の父親とトルコ人の母親と19歳までオランダで暮らしたという社会人のポーラと、大学院で地質学を勉強するニュージーランドから来たイングリッド、それから日本人で生物学専攻の大学生、Jちゃんの四人暮らしだった。この家の半ば持ち主であるポーラがとりあえずは管理人となってルームメイトの面接に当たったが、初めの印象はフレンドリーで、特に問題はなかったし、また、みな同じ世代だったので、いい感じで生活をスタートした。初めのころは、ルームメイトをよく知るために、キッチンやリビングルームでなるべく会話をして相手の考え方や、どうやったらうまくやっていけるかなどを観察していた。まずは一番重要であるポーラとよく話すようにしていたが、彼女の話し方から、とてもプライドが高く、しかも自分は何でも知っていて、彼女の意見は100%正しいから、みな他の人はそれに従っていくべきというのが見え隠れしていた。彼女のやり方は、あからさまに何かを押し付けるというわけでなく、話の中で私がちらりとでも困った状況にあるといったのを聞けば、一応、あなたはどう思うか知らないけど、私だったらこうするけどといってさりげなくアドバイスをする。それで終わるんならまだしも、そうねといって半分聞き流していると必ず、もっと突っ込んできて、最終的には自分のアドバイスを押し付けるのであった。そんな彼女の性格に嫌気がさしてきたので数ヶ月で彼女とはあまり深い話をしないようになっていった。彼女は初対面でフレンドリーであるが実はとても冷たい奴だった。ある日ジャックが私に会いに来たが、ベルを鳴らしても誰も出てこないので、ドアに書置きをして帰っていった。実はそのときに私は自分の部屋にいて、ベルが聞こえなかった。それから一時間ほど後にまた来たときにすでに帰っている私に、さっき来たんだけど、誰も出なかったからねというので、“え?ポーラがずーっとその時リビングルームにいたんだけど?”とソファーで本を読んでいる彼女のほうを見ると、“ああ、今日は誰も私に会いに来る人がいないから、無視したのよ”と平然とのたまうのだった。これにはジャックもブチ切れて、外に出た途端、”なんだあの女は!いくら自分の客でなくたって、玄関に一番近くにいるなら出てもイイだろっ!”といってそれ以降、彼女に顔を合わせても社交辞令でニコリとすることすらしないほど、ポーラのことを嫌うようになっていった。ポーラはマリアンほどではないが、整頓することが嫌いらしく、自分の部屋はもちろんのこと、共有場所のリビングルームまでにも私物が溢れ返っていた。彼女の立場はほぼ大家であったためそれを注意する人は誰もいなかったので、私が入居した時から更に物はどんどん増えていき、豚小屋化していった。今回は、マリアンと一緒に住んでいた時と違って、こんな人のために手伝うのもあほらしいと諦めて、一人部屋に篭って滅多にリビングルームでくつろぐことはなかった。数ヶ月して、彼女はボーイフレンドと一緒にサンフランシスコに引っ越すことになった。この時点では他のルームメイトもポーラの傲慢で身勝手な性格に嫌気がさしていたので、私たちは皆、手と手を取り合って喜んだ。早速ルームメイト募集の記事を新聞に掲載するとすぐに反応があり、面接が始まった。するとポーラはもう出て行く身であるくせに、この人はちょっとこうだからとか、あの人はここがどうだからと、聞いてもないのに意見を述べて、ルームメイト選びに口出しをしてくるのだった。これに関しては、はっきり言って辞退してもらうように言うと、つまはじきにされたのが気に入らずに、今まで以上に傲慢に振舞うようになった。新しいルームメイトも見つかって、ポーラが引っ越す一週間ほど前になったころに、荷造りをする彼女がなにやらぶつぶつ言っていた。“もう、会社辞めるってなったらいろんな同僚が、使いもしないガラクタをくれるんだから、荷物になって仕方ないわ!”それをきいていたイングリットと私は目が点になって顔を見合わせていた。その‘ガラクタ’には多分私が彼女の耐熱皿を割ってしまったお詫びに買ってプレゼントした結構高かった陶器の鍋が入っていたに違いないと思うととても腹が立った。そして忘れもしない私たちルームメイトを全員爆発させる事件が起こった。ポーラは猫を三匹飼っていた。その中にはとても年を取ったメス猫がいて、彼女を置いていくつもりだという。そこで自分でも猫を飼っているイングリットに、“ねえ、ポーラからあの猫を面倒見てくれるように頼まれた?”と尋ねるとそんなのぜんぜん聞いてないという。私と彼女はまさかポーラが頼みもせずに勝手にその猫を置いていく気でいるのか心配になって問いただすと、“ええ、そうよ。この子はもうおばあちゃんだし、生まれたときからこの家に住んでいるから新しいところに行っても馴染めないと思うから置いて行くわ。”としっらっと言うのだ。そこで、私が“どうゆうこと、それ?餌や、便の始末だって毎日のことだからそんなの毎日する暇ないよ!それに第一病気になったらどうするのよ?”と言うと、“そんなの簡単よ、これをこうしてあれをこうして...”と猫の世話の説明を始め、“それと病気になったらXXという医者が彼女のことよく知っているわ。もちろんその費用は私が持つし。”横にいて黙って聞いているイングリットもだんだん険しい顔になり、私もこの傲慢な態度に発狂し、今まで溜まっていたすべての怒りを全てぶつけて言ってやった。“大体そういったことを私たちに頼みもしないで、置いていったら誰かが自動的にやってくれると思ってんのか?病院に連れて行くにも誰かが学校やバイトを休んだりしていかなきゃいけないんだぞ。我儘もいい加減にしろ!お前に動物を飼う権利はない!!”そう言われて返す言葉もない奴は、”それじゃいいわよ!彼女も連れて行くから!”とぶっすとしてドアをばたんと閉めて、自分の部屋に篭ってしまうのだった。普段、理性ある知的な女性を演じようとしている彼女は本来の子供のような姿を暴露した。ポーラが引っ越した後に入ってきたエリザベスはとてもいい人で、きれい好きであったので、私たちルームメイトは全員でリビングルームを整理して、ポーラがいたときのそれが同じものであると見分けがつかないほど美しいものになり、四人は何の問題もなく仲良く暮らしていくのであった。めでたしめでたし...
2003.11.14
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昨日の日記に書いたフレンチルームメイトと9ヶ月過ごした後に日本に帰ってそれから四年後にまた懲りずにアメリカにやってきた。今度は自信がついたので、自分で家を探し、ツーベッドルームの一軒家を持つ40代前半の独身女性と一緒に住むことになった。前回と違って今度は自分の部屋を持つことが出来た。この家の持ち主である彼女、マリアンと一番初めに会ったときに彼女はとても猜疑心の強そうな人だと思った。いろんな家を見て回る中でほとんどの人がとてもフレンドリーで、もしくはそうであるように装って、とても明るく、中には最後に、わざわざ来てくれて有難うとハグまでする人もいる中で、マリアンはまったく正反対に、明るく挨拶した私に対して笑顔のひとつも見せず、仏頂面気味だった。ところどころにこりとするときもあるが、目が笑っていない。まるで私が押し売りに来ているセールスマンでそれを煩そうにしているお客のように。貸し出される部屋というのは実はマスターベッドルームで、例のフレンチルームメイトと住んでいた部屋の二倍もあるとても広々としたもので、しかもバルコニーから遠くの飛行場から飛び立つ飛行機まで見えるような素敵なものだった。加えて学校からもそれほど遠くないし、買い物にも便利で治安もいい住宅街だったため、すぐさまこの場所を気に入った。マリアンはとても大柄、(はっきりいって大変な肥満体)であったため、一緒に付いてきてくれた人に、ちょっと心配かもしれないと警告された。(肥満であることはどこに言っても印象が悪く、仕事の面接やこういった状況で差別する人は多い)それでも私は見かけが問題ではないと思ったし、また始めだけ、やたら愛想いい人よりも、無愛想な人は、いったん心を開くと、とてもいい人だったりすることも多いので、その彼女の部屋を借りることにした。彼女はその家を手に入れてかれこれ5年ほど経っていたようだが、何しろ古い家だったので、あちこち修理するのをすこしずづゆっくり自分でやっていた。ひっきりなしに家の改造計画を練っては、私との会話に、今度はあそこをこうして、それが終わったらここを直して...と言うのが常だった。私はまだ入居してまだ間もなかったので、彼女とうまくやってゆくために、多少なりとも私の出来る範囲で手伝おうと思った。誰でもそうだが、自分の家の事は見慣れてしまって気づかないことが多いが、人の家にいくと散らかっていたり、汚いのがすぐに目に付いたりするものだ。私にとってのそれは彼女のガレージだった。本を読むのが好きな彼女は山ほどの本をガレージのあちこちの放り出し、その他にも色々な物が散乱していた。そこで、さりげなく日本の住宅事情の話をしているなかで、“多くの独身者は、こんな広い家を持っているあなたをとても羨ましがるわ。ひどいと、あのガレージと同じくらいの広さのアパートに住んでいるのよ。それと比べたら、あのまま放って置いたらせっかくの収納スペースが勿体無いわ。ちょっと片付けるだけでガレージをとても有効に使えるのに。よかったら私も手伝うけど。”と言うと彼女は乗り気になって早速あくる週末にガレージ掃除と内側の壁のペンキ塗りのプロジェクトを計画し、二日ほどの共同作業ででみちがえるほどの美しいものに生まれ変わった。整頓することが苦手な彼女は共有空間のリビングルームはとりあえず片付けていたが、自分の部屋は荒れ放題。多くのアメリカの家には日本式の玄関というものがない。よって靴は各自のクローゼットに入れるのであるが、彼女は靴でさえも右左がばらばらに部屋のあちこちに転がっているし、脱ぎ散らかした服や、新聞や雑誌、本などはフロアーの至る所に飛び散っていた。足の踏み場が無いなんて生易しいもんじゃなく、まるで部屋が爆発したかのような状態であった。そんな中で太った人が住んでいるので言っては悪いが文字どうりの豚小屋だった。きれい好きな私はそれを見るだけで気が狂いそうになるので彼女の部屋のドアを出来るだけ閉めて視界に入らないようにしていた。彼女はとてもケチで、仕事柄あちこち行って泊まったホテルからシャンプーや石鹸を持ってきては、バスルームの棚にこぼれるほどに積み上げていた。また、キッチンにはスーパーのビニール袋を小さく丸めるなんてことせずにそのまま放り込んでいたり、鍋、フライパンなどの整頓があまりにも悪いため、意外と広いキッチンの収納棚はガレージと同様にスペースを無駄にしまくりだった。見るに見かねて、よかったら整頓してあげるといったら大喜びでそれを私に頼んだのだった。彼女は整頓することが出来ないばかりか、衛生面での意識が著しく欠けていた。例えば、猫を三匹飼っていたが、自分で用を足して尻を拭くわけでない彼女の猫達がぺたりと座ったキッチンのカウンターにまな板なしでチーズを直に切っていたり、また一番驚いたのが、バスルームのシンクの下にあらゆる私物、化粧品やアクセサリーが突っ込まれている中に、なんと、トイレを洗うブラシがドライヤーにぴたりとくっついたいたのだった!あまりにも信じられないので、“これはまさかトイレを洗うブラシじゃないよね?”と聞くと、“え?どうして、そうに決まってんじゃない”とまるでトンチンカンな事聞くわね!ってな顔をされてしまった。 入居した日から私はキッチンの流しにある茶色がかったガラスのボトルに(空になったインスタント紅茶のボトル)得体の知れない液体と、沈殿物か混じっていたので、なんだろうなーとずっと不思議に思っていたら、ある日彼女が洗い物をしているのを見て目を疑った。なんと洗い物をして薄まった、しかも食べ物のカスが混じった洗剤の残り汁を次の洗い物の為にそのボトルに移して保存していたのだ。恐るべし!いくらケチな私でもそこまではしないぞ~!そこで彼女に原液を二倍から三倍に薄めて使うという、より効率的で、かつ、衛生的な方法を伝授した。初めは信じてくれなかったので、実験して証明したら、節約家の彼女は納得してそれからその方法に切り替えたのだった。マリアンは結婚したことはない独身者であった。カレッジの心理学の教科書を出版する会社の編集者として勤めて、仕事はバリバリ出来るがプライベートではまったく味気ない生活を送っていた。寄り道せず毎日まっすぐ帰ってきては料理、といってもただブロッコリーを丸ごとでかい鍋で水煮して、脂肪抜きのマヨネーズをぶっ掛けたものや、インスタントのものをチンして食べた後、食後には決まって、でかいボウルにいっぱいのポップコーンを食べながら大好きな昔の映画を見るのが日課だった。こんな風にいろいろ書いたから、とんでもない奴と暮らしていたんだなあ思う読者も多いと思うが、実は人間的にとても尊敬できる素晴らしい面々を持ち合わせていた。子供のころにクリスチャンである母親が付き合う移民の子供や、肌の色が違う人々と接していたためか、とても心が広くまた外国にもとても興味があり、アフリカのマスクや絵画をコレクションとしていた。それと旅行が好きで、日本にも実は二週間ほど自転車であちこち行くツアーに参加したと言っていた。彼女は私にとって大家であったし、はるかに年上ではあったが、対等に付き合ってくれ、家のプロジェクトの案を話しては私に意見を求めてきたり、私のつたない英語でも辛抱強く話を聞いてくれた。また、本当の意味で信用の出来る人だった。車がなかった私はどうしてもという時に彼女に乗せてくれるように頼んだり、英語のレポートの校正を頼んだりするたびに必ずぶすっとしながら嫌々ではあったが、必ず助けてくれた。インディアナ州出身のマリアンは、表面上とても愛想がいいが、実際は冷たいというよく居る典型的なカリフォルニアンとは正反対に、大変正直で、媚びることなく、ストレートに人と接する。だから、こういったのを慣れてない人にとっては取っ付きにくい人であるが、いざ深く付き合っていくととても頼りになる人だった。やはり私の初対面の直感は当たっていた。彼女とは結局10ヶ月過ごしたが、つかず離れずのいい関係を保つことが出来た。その後、私がその町から車で6時間ほど離れた町に引っ越してから手紙でのやり取りが続き、私の結婚パーティに招待したら、ケチな彼女としては驚きの高級ナイフセットをお祝いとしてプレゼントしてくれた。最近しばらく音沙汰がなくなっているが、彼女には今でも心の底から感謝している。続く...
2003.11.13
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アメリカに来て一番のカルチャーショックは日本にはあまりないルームメイトと暮らすという体験だった。ここアメリカにきて、貧乏がずっと続いているために一人暮らしをしたことは一度もない。まあ、もっと物価の安いところに住んでいたらそれも可能かもしれないが、このカリフォルニア、特に海岸沿いは住宅費が異常に高く、下手すると日本のそれよりも高いことがある。このあたりの典型的な例をあげると、ワンベッドルーム(日本式に言うと1LDK)のアパートを借りようと思ったら、$1000~$1400する。多くのカップルはワンベッドルームを借りている。もしもカップルでなく、友達同士で借りる場合はプライバシーが保てる孤立した二つの部屋が必要なので、ツーベッドルームを借りる。そうすると家賃はさらに$1300~$1700と跳ね上がる。ステューディオといって、日本のワンルームのようなものでも最近では$700は下らない。そんなわけで、稼ぎのいい人以外、多くの独身者はルームメイトと共に暮らすことになる。一番初めにこのアメリカに来たのはかれこれ10年前のことだが、英語もままならず、右も左も分からない状態だったので、通っていた英語学校が提携するホストファミリーをあてがわれた。それはファミリーではなく、15年ほど前に旦那さんを無くして、6人いた子供もみんな独立して出て行ったという70歳前後の未亡人の女性の8ベッドルームという巨大な家に幾人かの留学生との共同生活だった。私はシングルベッドと机が二つづつかろうじて入る小さな部屋に、同じ英語学校に通うフランス人のルームメイトと共有して9ヶ月暮らすことになった。フランス人の彼女パトリシアは当時二十代後半で、私よりも2~3歳ほど年上だったため、案外落ち着いていた。同じようにフランス人ルームメイトを持つ日本人の友達、Yちゃんのと違って、夜遅く部屋に連れてくる友達とのドンちゃん騒ぎを寝ているそばでやられたり、どれだけ掃除しても、その後からルームメイトにどんどん散らかされて豚小屋状態を我慢させられたり、一週間に一回しかシャワーを浴びないルームメイトから醸し出される体臭に悩まされるようなことはなかった。が、それでも日本とフランス文化の違いによる摩擦はたびたび起こった。雨がほとんど降らない南カリフォルニアでは水道代がとても高いため、入居したその日からまずホストマザーに言われたことが、節水することだった。そこでパトリシアと私は、一人一人では一週間分でもあまり洗濯物が多くないので一緒にすることにした。ある日曜の朝、気分もよく洗濯を始めた私はふと気がついた。共同の洗濯籠に、彼女のパンティーが入っていた。手洗いじゃないからって言っても、他人のパンティーまでは洗いたくない。そこで彼女に頼んだ。“たとえ自分の姉のだっても洗いたくないから、自分で洗ってね。”ところが数週間してからまた私の番が来たので、洗濯をしようとしたら、また彼女のパンティーが入っているではないか。“まったくー、分かってないぜー”とぶつぶつ言いながら拾い上げたら、今度は、生理の染みがついているのだった。(男性諸君、気持ち悪い話でかたじけない)その件があってから、洗濯は個人個人ですることになって決着がついたが、次の問題は洗い物であった。ホストマザーが夕食を作る代わりに食べた留学生が洗い物をすることになっていた。私がまず率先して洗う役になりパトリシアがその横ですすぎ、タオルで拭くという役だった。ちらりと彼女の行動を観察すると、泡がいっぱいの皿をなんてことないという顔で拭いては食器棚にしまっているではないか。まるでフランス映画に出てくる俳優が泡だらけの体を流さずにささっとタオルで拭いて出てくるように。そこで私は、“ねえ、まだ泡が沢山ついてるんだけど...”と言うと、“え?それがどうしたってのよ。”と平然としている。そこで、“この泡は体によくないんだよ。”と言うと、泡はタオルで拭いているから大丈夫と言う。納得のいかない私は引き下がらずに、”じゃあ、もしこの洗剤を(洗剤ボトルをさして)一口飲んだら体にいいと思う?”と言うと、今度は、“あんた洗剤なんか飲むの?”と意地悪に反撃されてしまった。あいた口が塞がらず、またこの巧みな彼女の防衛線に次の言葉が見つからないでたじろいでいている私にホストマザーが助け舟を出した。“そうね、泡はちゃんと洗い流さないとまずいわよ、パトリシア。”そして第三弾は、かみそり事件だった。別に彼女が暴走族に入っていたとか私が彼女にかみそり入りの手紙を送ったとか言う血生臭いものではない。それほど大袈裟なことではなかったが、私が他人と暮らすと言うことがとても嫌になったのはこの事件だった。あるとき私のT型かみそりを使おうとすると、それに、ブロンドの毛がついていた。いくらアメリカナイズされてきたって言ったって、私の体毛が自然に金髪になったりすることはありえない。見た瞬間怒り狂って彼女に講義した。“ねえ、ちょっと、これつかったでしょ!”すると彼女“違うわ、私じゃない。それはスーチーじゃないの?”と隣の部屋に一人で住んでる中国人のルームメイトとのせいにした。でも彼女は純黒髪、そのバスルームを共有しているのは私たちの三人だけで、まさか他のバスルームを使っているルームメイトたちがこのバスルームに来てわざわざ私のかみそりを使ったとは思いがたい。でも2日後に彼女は自分のかみそりを見せて、自分のがあるんだからわざわざ他人のを使わない、と言い訳をしてくるのだった。本当かいな?そのころエイズは体液から感染するので、かみそりなどは共有しないようにと言うのをどこかの雑誌で読んだばかりだったので、かなりパラノイア状態であったし、また、9ヶ月の滞在期間も後半に差し掛かるころでルームメイトに飽き飽きしていたころであったので、今思うとたいしたことじゃないけど、爆発してそれからほとんど彼女と口をきかなくなってしまったのだった。まだ友達がいなかった初めのころはパトリシアと彼女の一緒に留学している妹と一緒に行動していたが、暫くして学校で知り合った友達や彼と多くの時間を過ごすようになった。とても地味な彼女は妹以外にはあまり行動する友達がいないせいか滅多に外出せずに、いつも部屋にいて、二十代のうら若き娘にもかかわらず、8:30pmころには床に入って本を読んでいた。その為に、私は自分のスペースと言うのがなかった上に、夕食のテーブルに着くには6:00pmに帰ってこなくてはいけないと言うのが非常にかったるかったので、ホストマザーに基本的には私の分は作らなくていいと言って、外で安いスーパーのデリなどで空腹を満たし、その後ジムなどに通ってはなるべく彼女と顔を付き合わせることのない9:30pm近くまで家に帰らなかった。本来ルームメイトという言葉は学生寮で実際に一部屋を共同で生活するもの同士と言うのから来ているので、個人個人の部屋はあるが、一緒に住んでいるというのは正確にはハウスメイトと言うらしい。本来の意味でのルームメイトと一緒に住んだのはこれが最後ではじめてであったけど、他人と暮らすことの難しさをつくづく思い知らされた時期だった。続く...
2003.11.12
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電話会社はすべて悪徳である。日本にいる皆さんはほとんど携帯を持っているであろうからまずはこのコーリングカードのシステムを説明する必要があるかもしれない。ここアメリカではかなり携帯電話が普及してはきたものの、まだ持っていない私のような人は沢山いる。(実はこれでも日本に居たときに携帯や、PHSのプロモーションの仕事をしていたのであるが会社から無理やり持たされた携帯に、嫌いな上司が常に電話してきては私の行動を見張っていたといういやな経験から大の携帯嫌いになってしまい、頑固にも未だに持たず過去の人となりつつある)そんな人は外から公衆電話を使って掛ける場合、日本のテレホンカードのようなプリペイドカードや、コーリングカードといって、番号に請求額が加算されるものがある。家はこのコーリングカードを使っているが、割高なのでコインを使ってくれと再三ジャックに言っているが、コインを財布にジャラジャラ入れて歩くのが嫌いな彼は一向に耳を貸さない。が、しかし、昨日そんな頑固なジャックも納得するようなことがあった。それは、電話会社からのとんでもない請求だった。彼が一月ほど前のサーフトリップに行った際、車で二時間半ほど離れている町から家に三分掛けただけでなんと$15もチャージされているではないか。それでもって別の二つの欄にはコーリングカードで掛けた市内通話と、長距離通話の使用料が記載されていて、そちらのほうが距離的に三倍ほどあるのにもかかわらず、値段は1/5なのである。電話料金の明細は、三つに分かれていて、まず、地元の会社、次に長距離会社、それからまた別の会社例えば国際電話やその他の会社からの請求である。請求額に疑問があるときは、それぞれの電話会社に電話するようになっていて、電話番号がついていたので、まずはそのとんでもない請求をしてきた会社に掛け合った。すると、このコーリングカードを掛ける際に、通常掛ける番号の前に決まった番号を押していれば普通の料金になるが、この場合、0をはじめに押したために、その電話は別の会社が所有するラインを使ったことになり、彼らの料金が適応されたというのである。掛けた本人のジャックはどうやって掛けたかなんて覚えていないというので、多分この会社の言うことは本当だと思う。が、しかし、あまりのばかばかしい料金なのでもともと契約を結んでいる電話会社とこのコーリングカードを契約するときにそんな高いレートで請求されることに同意したわけじゃないから、この請求を取り下げてくれと頼むと、それは出来ないから払えという。頭にきて元のコーリングカード契約を結んだ会社に電話すると、彼らにはこの請求を消すことは出来ないのでその悪徳会社に電話して直に交渉しろという。そこで、聞いてみた。“こんな論理が成り立つなら、それじゃ、何かね、もし私が公衆電話のラインを幾つか持って、事故的に誰かが決まった番号を押してしまって私のラインを使ったといって、一分につき$100とか請求してもいいのかね?”と聞くと、それも可能だという。彼らにそれを防止することは出来ないという。それでもやはり納得いかないので、またその悪徳会社に掛けると、同じ事を言うので、そのカスタマーサービスの人に向かって聞いてやった。“これじゃまるで、あんたがその辺の文具屋でたった一つのペンを買おうとしたら値札がなくて、まあ、安いだろうと思っていたら、$100も請求されたとする。そしたらあんたそれでも納得して買うか?”と聞くとたじたじになって“まあ、そうですけど...”と言いながらも、この請求を取り下げないという。そこで私は$15という僅かな額を節約するだけでなく、こんな横行がまかり通ってはいけないと正義感に燃えてきっぱり、払わないからといった。するとそれじゃ、この請求を消すことは出来ないけれど、このチャージは回収不可能として取り扱うということで決着がついた。ふう~~~!電話料金の明細にはいろんなアホらしい請求がついていたり、間違ったものがあったりすることもしばしばなので、よく注意しているが、面倒だからそんなこともしないで言われたままに払っている人も多いだろう。以前勤めていた会社で、会社から社員に仕事用に支給している電話の請求に、なんと$1300というのがあって驚いた。彼は出張であちこち行くから電話代も高いが、それにしてもこの額は異常であった。そこでプランを変更して、翌月からの請求は1/5に下がったが、特に会社で支払っている場合、あまりの多くの請求書を処理しなくてはいけないので、細かくいちいち見ていられないから間違った額を払ってしまうことも多いだろう。そうしたら、全国、いや全世界での無駄な電話使用料は莫大な金額になるではないか??そう考えていると、電話会社のぼったくりが簡単に許されるなら、私も仕事を探すのを止めて、電話回線を幾つか持って横暴にチャージしたほうがよっぽど儲かるぞなんて思った。
2003.11.08
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ああ、こうして外国にいると、日本に居たときに当たり前だったことがいかに素晴らしい事かを知らされる。昨日もそんなことが朝からあった。ご存知の向きも多いが、先進国のトップリーダー的な存在のこのアメリカには国民保険なるものはない。多くの人は雇用主が支給する健康保険に入ったり、自営業者は個人で高い保険料を払っている。その金額は、年齢によってスライド式に高くなってゆくので、50歳以上になると、なんと月に$500以上もする。現在無職の私は個人で入るしかないが、まともな保険に入ろうとすると毎月$150ほどする。ジャックの妻ということで彼のに入れてもらう手もあるが、何しろ彼の会社は小さいのであまりいい保険制度を支給していない。例えばうちの場合、本人に加えてにさらに私が入ると値段がぐんと上がって、現在の毎月$21が$350くらいに跳ね上がる。どちらにしても高すぎるので病気や怪我をしないように祈りながらの無保険状態である。保険の種類もいろいろあるが、大きく分けるとHMOとPPOとある。まずこのHMOは、加入している会社に登録されたメンバーの医者の中から選ばないと一切カバーされない。保険料が安いが、その代わり、いつでも混んでいて予約を取っていても待たされたりすることもある。一方PPOは、自分の好きな医者を選べるが、それもどの医者でも良いのではなく、その保険会社に登録している医者であれば80%カバーされるがそれ以外だと50%しかカバーされないとか言う制限があったりする。そしてまずくだらないのは、多くの保険会社が加入者にメインのドクター(多くは内科専門)を持つことを義務付けて、それを通してでないと別の科専門のドクターに会えないことになっている。例えば、膀胱炎の気があるとする。そこでまずするのはメインドクターにあって、症状を説明し、そこから紹介される泌尿器専門のドクターに会いに行く。緊急医院以外ほぼ全てのドクターは予約制なので、まずはこのアポイントメントをとる段階で問題にぶち当たる。多くのドクターは、いつも予約がいっぱいで、すぐに見てもらうことは出来ない。症状がかなりひどいときは救急に行けばいいが、その救急でも加入している保険会社がカバーしてくれるかを調べなくてはならない。土曜日のあたりから調子がおかしくなって会社を休んでいるジャックは、ちょっと気管支炎の気があると心配してドクターに会いに行くために医者に電話をかけ始めた。この町に引っ越してから、医者に掛かっていない彼は、とりあえず電話帳に乗っている医者を探してかけて、症状を説明する。そして、その医者が彼の入っている保険を受け付けてくれるかを聞くと、どんな保険でも受け付けるが、その会社に登録された医者ではないという。そこで、保険会社に電話してこの医者に掛かった場合、いくらかでもカバーされるのかと聞くとその医者の税金ナンバー(個人であろうと企業であろうと全ての納税者はこの番号を持つことを義務付けられている)を聞かれる。もちろんそんなもの知るわけないので、いったん切ってもう一度その医者に電話して番号を聞く。それからまた保険会社に電話すると当然のことながら長々と自動の電話システムにつながって、もう一度自分の電話番号や税金ナンバーをプッシュホンで入れる作業を強いられる。ようやくカスタマーサービスにつながって、じかに人間と話せると思ったら、分からないから今度は別の部署に電話しろといわれる。それで教えてもらった別の電話番号にかけるとまた自動電話システムにつながる。始めに掛けた医者が登録メンバーのドクターでなく、この保険は利かないということで、緊急クリニックを探した。そこで、今度はこのクリニックに掛かった場合の医療費がカバーされるかどうかを調べるためにまた同じことを繰り返す羽目になった。そうして何度もいろんなところに電話をかけているうちになんと1時間もたっていた。なんとたった一つの簡単な情報、彼が掛かろうとしている医者に行ったら保険が利くかということを調べるのにもこんなにまでしなくてはならないのに横で見ていた私は10分もしないうちにいらいらし始めた。しかし、当人のジャックは病気でぐったりとしているのにもかかわらず辛抱強くこの一連の作業を‘予想していたとおり’といって驚くほどに冷静なのだ。結果として、このクリニックは緊急なため、通常の時間は空いておらず、午後の4時から朝の8時の開業時間だということを知らされたジャックはそれまで待って様子を見ていた。夕方になってかなり良くなったからといってもう医者に掛からなくて良いと言う。そこで、あれほど苦労したのだから大事を見て行ってこればいいのにと言うと、大したことないのに医者に診てもらって、“よく休養とって体にいいものを食べるように”という素人でも分かることを言われるだけにCo-Payを払うのも馬鹿らしいとのこと。(Co-Payとは保険に入っていても医者に会うたびにその場で払う$10~50の請求額。それから薬もまたCo-Payを払って買う。)まあそうだけど、本当に馬鹿らしいのはこのアメリカの保険システムのくだらなさだ。毎回毎回新しい大統領に代わるたびに国民保険システムを導入するをでかい事を言うが、実際にこれを果たした大統領は一人もいない。爆弾の一つや二つを落とすのに掛かる費用だけで、どれだけ多くの国民が必要最低限の健康保険を持つことが出来ることか。アメリカの医療は世界でもトップレベルでいろんな国の人々が自国では直せない難病を抱えてやって来ては素晴らしい治療を施されて帰っていく。これは、その最高技術を持った医師団の高額な医療費を屁でもないと言うお金持ちの人ばかりである。一方、本国では病気に掛かっても保険がないために小さな病気が悪化してしまうケースも多い。これを皮肉と言わずして何という。数年前に日本から出る直前に見た、やけに現実じみた夢にこんなのがあった。なぜか私は西部劇に出てくるようなアリゾナかテキサスのような場所にいて、格好もそれなりのカウボーイスタイルの私はどんぱちとやっている中に巻き込まれてしまった。建物の陰に隠れていたが、どこからともなく飛んできた玉が私の腹部に命中した。どっと倒れて意識朦朧としながら空を見上げていると誰かがやってきて私を覗き込み、一言聞いた。“健康保険に入っているか?”そこで夢は覚めたが、これがあまりにも本当のことを予測したものだったため、今でもはっきり覚えている。こうしてアメリカにいるとあのときの夢は夢じゃなく本当は現実ではなかったかという錯覚に陥るのである。
2003.10.30
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私が山火事に最初に気づいたのはテレビのニュースや、新聞ではなく、今までに直面したことのない経験からだった。日曜日の朝に前日に沢山の人を呼んだフォーマルパーティーからの疲れでベッドでぶっつぶれていると外から何かが燃えているような匂いがして目が覚めた。“何、誰だ、こんな朝早くに焚き火なんかして~!”とぶつぶつ言っていると、新聞をとりに行ったジャックが、“ねえ、外に出てごらん、大変なことになってるから!”というので嫌々ベッドから這い出ると、なんと50kmほど離れている山火事の煙と灰がもうもうと、こんなところまで舞ってたのであった。遠くを見ると灰色の空が広範囲にわたって覆いかぶさり、朝なのにまるで夕方のような薄暗い、それはなんとも不思議な光景だった。よく映画で見るこの世の終わりの、荒廃した町ような...海沿いに住んでいる私たちは特に被害にあうことはないからとのんきにマリブへ、ジャックのサーフィン、私のビーチでリラックスにしに出掛けた。日も落ちるころ帰ってくる途中にラジオからの情報で山火事がひどくなっていることを聞く。実は、ジャックの妹がその火事の起こっているところからそれほど離れていないので家についてすぐに彼女に連絡を取ると、とりあえず今は大丈夫ということだったが、心配なので会いに行こうということになった。通常なら車で三十分ほどの場所が、近くにきたら渋滞にはまってしまった。待つこと30分、ようやく流れてきたと思ったら、警察からここから先は住人しか通れないと言われた。そこでジャックはとっさに妹が住んでいて彼女の車が調子が悪いので助けに行くところといったのだがそれでも住人ではないということで、非情にも通せんぼされてしまった。しかたないのでUターンし、携帯電話を持たない私たちは、近くのガソリンスタンドから電話をかけることにした。火事場から近いだけあって車からおりる途端にまるで焼却場のど真ん中に入ったように分厚い煙に覆われた。こんなところに長いこといたら肺がやられると危険に感じるほど。半ばパニックになっているジャックが電話すると彼女はラジオすら聞いていないという。強制退去になったら誰かが知らせに来るだろうからとのん気なものだ。この時点では何も出来なくて歯がゆいが、とりあえずラジヲを聞くように行って家に帰った。二日たった今日現在、かなり納まって、彼女の住む辺りは強制退去させられるほどではなさそうだ。この家事が起こった辺りは新興住宅地もあったりして、家を失った人の中にはつい最近やっとのことで始めての家を買ったばかりの人も多かったと思う。なんと言うことだ。原因はまだ解明していないが、山火事はタバコのポイ捨てやキャンプの火を消し忘れたりなどの人の不注意でおきることも多い。たったの少しのことがここまでの被害に及ぶとは本当に恐ろしいことだ。とりあえず、心配してくださった方々、うちのほうは大丈夫です。有難うございました。
2003.10.29
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今日ある実験を試みた。大手本屋に行き発行部数の多いファッション雑誌を探しに出掛けた。女性のファッション雑誌はざっと数えるだけで20は下らない。とりあえず物欲主義の殿堂とも言える、ファッション雑誌業界では大御所のVOGUEを買ってみた。1.5センチほどの分厚い雑誌だが、その中身はほとんどが広告。これは誰でも知っていることだが、今回の実験は、雑誌の中にあるページで、病的なまでに細いモデルがついているものや、ダイエットの広告などでスリムでなければ美しくないというの訴えるイメージや、化粧品やその他の美容商品関連の広告をすべて探しては取り除く。そして残ったページがどれだけあるかというのが主旨だった。なんと412ページのうち、わずか33ページが残るという恐るべき結果が出た。この雑誌は実は私の姑が定期購読しているもので、彼女の家に行くと必ずリビングルームかバスルームに置いてある。今までは、結構何の気なしに、何も考えたくないときにボーっと見るにはちょうどいい雑誌なので、結構嫌いではなかったが、こうしてじっくり研究しながらページをめくっていると、いかに骨川筋衛門のモデルたちを高級ブランド商品で包み、とてもアーティスティックに美しく写している。それだから、こうしたブランド商品がブランド名を剥がせば単なる商品に過ぎないのに、あたかも希少価値のある高価な宝石のようなイメージで読者の目を釘付けにさせる。素材のよさや、仕上げ具合がその辺のスーパーマーケットで買った安物とは違うというのは認めるが、それにしたっても、大金をはたいてわざわざ飛行機に乗って外国まで飛び、長蛇の列を作ってまでも、‘CO*CHの、あのバックを絶対に手に入れるんだ!’と執念を燃やす女たちが後を絶たない。(ちなみに、ブランド物の性能や仕立てが必ずしも良いとは限らない。昔私が成金野郎だったころ、10万円近くはたいた、とある有名なイタリアブランドのバックは買ってすぐに取っ手が壊れて修理に何度も出したがそのたびに同じ結果で、結局実際使ったのはわずか4、5ヶ月だけだったという悲惨なものもある。まったくの食わせ物だ。)そして恐ろしいのは、こうした雑誌に登場するモデルたちを沢山見ているだけで、実は、知らず知らずに洗脳を受けて、スリムである=美しい、すなわち、スリムでなければ醜いというまったくもって単純かつ、一眼的な固定観念を埋め込まれていることに、皆さんは、お気づきだろうか? 日本に行ったときに本当に驚いたのは、なんと行っても若い女性がどんどん細くなっている。しかも病的に。近所のユニ*ロに買い物に行ったときの事。カジュアルなジャケットを見ながら、アメリカではスモールか、エクストラスモールでちょうどいいが、ここは日本だからと思ってミディアムサイズを手にとって試着してみた。するとなんと、きつくてラージでしかぴったり来なかったのには本当にショックだった。確かにもうきゃぴきゃぴのギャルではなくなって、老後のことを考えるほどの年代に突入した私だから、新陳代謝も衰えて、知らないうちに、’え?こんなところに何で?’という場所に不要な肉がついたが、それでも体が小さいのでミディアムサイズくらいは着れるでしょうと思ったのに...それは単に私の体系が変わっただけでなく、明らかに、今の若者の体系に合わせてサイズ基準がどんどん小さくなっているんではないかと思わざるを得なかった。それをこちらにいる日本人友達に話したところ、彼女も同じような体験をしてショックを受けたと語っていた。このアメリカに7年も住んでいるのにもかかわらず、未だにスリムな体型を保っている彼女でさえ。その後日本人の多く住むロスアンジェルスにある大手家具屋に言ったときに幾人かの若い日本女性を見たが、信じられないほどか細かった。腰の回りは私の太腿と同じくらいじゃないかと思うほどだし、まったく肉のついていないお尻にいたっては、クッションを持ち歩かないと痛くてどこにも座れないではないかと余計な心配をしてしまった。こういったか細い人を見ると、やっぱり前述のような雑誌やテレビが知らず知らずに見るものに洗脳をかけている。それらの影響を受けた人々は、本来一人一人違った個性、美しさに目を向けず、作り上げられたイメージを崇拝してそれに近づこうと必死になる。時には健康を害するような危険なダイエットまでして。そしてそれが叶えられない結果として絶望感や、自信喪失につながっていく...当たり前のことだが、このようなメディアに出てくるモデルやハリウッドスターたちの容姿が、いろんな人種がいるこの全世界の人々の平均では決してない。もしもこういった人たちが平均的であるならば、世界中の食糧難問題を幾分か解決する手助けになるかもしれないが。が、それにしても、マスメディアの恐ろしいところは、知らないうちに受ける側の潜在意識として浸透していってしまうこと。少し前の日記にも触れたが、マスメディアはエンターテインのひとつとして欠かせないものでもあるが、こういった副作用があることを忘れてはならない。誰でもそれそれ違った美しさを持っている。それは表面上のものであるときもあれば、また内面からにじみ出るものであったりもする。だから、こういったファッション雑誌のような一方的なおせっかいのお手本の奴隷になることなく、自らの自然に持って生まれた美しさを誇ろうではないか!ハイ、それでは皆さん揃って、“架空の偶像くそ食らえ!、凡人、ばんざ~い!”
2003.10.20
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今私はちょっとチャレンジしていることがある。それはこの日記で公開するわけには行かないが、しばらくそれに集中していたために最近日記を書いていなかった。さっき自分のサイトを開こうと思ったら、‘File cannot be found’ と何回も出てきたので、サボっていた罰として楽天様から退会させられたのかと思ってあせった。というわけで、心の中の具合を書いてみようと思う。ジャックはサンフランシスコへ向けて木曜日から休みを取って出掛けている。ここからは車で約6時間半ほど掛かるので、朝の9:00に出掛けたが、何しろ所々でいい波を見つけたらサーフィンをするし、友達や、いとこのところにも顔を出すそうだから、いったい何時着いた事やら。そんなわけで私は鬼のいぬ間の洗濯ってなもんで、好き勝手にのんびりと一人の時間を楽しむことが出来る。今日は、朝からお日様サンサンと輝くいい天気、最高気温は、24.5℃。十月の半ばだけど、暖かいこの辺りで紅葉を見るのは不可能だが、その代わりにアウトドアを思い切り満喫できる。朝からPilateというヨガのようなものをしてリラックス。それからルームメイトとすがすがしくパティオでブランチを食べ、自転車に乗って表に出掛ける。頭には例のサイクリング用のヘルメット(上から見ると葉っぱのような形の)耳にはもちろんミュージック、心には外からの太陽が思いっきり差し込んでくる。ああ、なんと気持ちのいい。往復で家から約40キロほどの距離だが、ゆっくりと自転車でクルーズする。普段ジャックと自転車でどこかに行くとかならずびゅんびゅん飛ばして、いくら普段運動を欠かさない健康な私でも、私の自転車はマウンテンバイクとロードバイクのあいのこの様な物で、彼のサイクリング仕様のタイヤの細い物の様ではないし、女の体と男の体は根本に違うから彼と同じようにはスピードが出ないということを何度言っても分かってもらえない。いつかは、あと少しで家に着くというころに思いっきり口げんかして、もう一緒にはバイクライドには行かないとボイコットしたのだった。その一軒があってからは、多少は私にあわせる様にはなったが、それでもバイクライドを運動の一環としている彼と、リラクゼーションの一環としている私とでは大きな隔たりがある。だからこうして自分ひとりで行くと誰にも遠慮せずにゆっくりときょろきょろ辺りの景色を見ながら、時には止まってみたりするという贅沢が出来る。それから今回は、なんと行ってもお気に入りの音楽を、最近インターネットプロバイダーとの新契約おまけでもらったMP3プレイヤーにダウンロードし、思いっきり大きくかけても彼と居る時のように“何で一緒に居るときにラジヲ聞くんだよ。怒鳴らないと聞こえないんだから!”とぶちぶち愚痴られなくてすむ。ハロウィーンが近いためにうちの近所の畑にはでかいパンプキンがずらりと並んでいる。その辺りに行くと車もぐっと減って、広い通りを我が物顔で風を切ってぐんぐん走る。バックグラウンドはリラクゼーションにもってこいのEnyaをかけながら。今日のように風が強い日のビーチには多くのパラサーフィンをする人たちが気持ちよさそうに波乗りをしている。風に任せて2メートルほど空中ジャンプしている彼らを見ていると本当に自分もやってみたくなる。晴れた日には特に誰もが幸せそうにニコニコと笑顔を見せて通り過ぎる。ああ、これだから南カリフォルニア生活がやめられない。家に帰ってきて軽く食事を済ませてからは、ゆっくりとワインを飲みながら、最近始めた日記を(楽天ではなく昔ながらの)書き始める。今日の一日の出来事を振り返りながら、日記に感じたことを書いているとふと、ああこれが欠けていたんだ!と目から鱗が落ちるような、でも単純なことに気がつく。そう、こういったゆったりとした時間を楽しむこと。ジャックと付き合う前には一人で過ごす時間をとても楽しんでいた。例えば、一人でコーヒーショップに行って何時間も本を読んだり手紙を書いたり。車がなかったので、行動範囲は狭かった物の、あちこちを自転車で回ったりするおかげで、車ではふっと立ち寄れないところに行っては腰をかけて何時間も波を見てぼーっとしていたり。ビーチに行って日光浴や長距離散歩を楽しんだし、家では、長々と湯船に使って音楽を聴きながらリラックス。一緒になってから一人でするよりも二人でしたほうが楽しいことを多く見つけることが出来たけど、やっぱり私は自由をこよなく愛する生き物であるが故に、こうした一人でゆっくりとしたひと時がないと心がとげとげしくなってくることを今更ながらにして悟ったのだった。それと、日記を書き始めたことも、とても精神衛生的に絶大な効果をあげてていることも見逃せない。10代前半から後半にかけて日記を付けていた。それがいつの間にかなぜかしら止めてしまった。そして一番初めにアメリカに来たときに、いろんなカルチャーショックからとてもストレスを感じ始めていたときは、やたらと手紙を書いた。長い物では10枚を超える親友にあてた手紙だった。物を書くこということは心の中のくすぶった物を吐き出し、気持ちを整理して落ち着かせる効果がある。ワイン二杯目でちょっといい気分になった夜中の12:00にこうして楽天の日記を書くということは誤字脱字盛りだくさんだったり、意味不明の文章が出来上がったりするのでちょいと後から恥さらしをすることになるかもしれないが、まあ、たまにはいいか。心の健康と世界平和を。
2003.10.19
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サイト内のページにも取り上げたが、消費大国のこのアメリカには、まだまだ沢山の環境音痴が居る。昨日の仕事の面接で会ったとある小さな会社の社長もそれの一人だった。予定どおりの朝11:00に隣町にあるその会社に行く。モービルハウスを建設、販売している会社で、まだ開拓中の新しいショッピングモールの近くにその会社はショウルームと事務所を構えていた。その本店以外に後二つの支店があるという。小さなその会社の事務を切り盛りしているのは社長と経理を担当する娘、他から雇った受付事務。後はコミッション契約のセールス社員だった。合計で6人ほど。プレハブのようなモービルハウスを事務所にしているその会社はなんだか貧相だった。建物の中は意外とこざっぱりとはしていたが、入った瞬間ここで働くのも… と気が引けるような環境。すぐ外はいつまでも工事中のHighwayの美しい景色と車から出る廃棄音のBGM。10分ほど待たされた後に社長が現れて彼の部屋に通される。70歳は多分過ぎているであろうと思われる初老のこの社長は見るからに典型的な保守的な白人で、多分若いころには軍隊に入っていたであろうという容貌。まあ人を見かけで判断するのは良くないと内心思ったことを打ち消しながら、明るく挨拶する。面接が始まって、とりあえずは雑談から入っていった。私の履歴書にあるいくつか勤めた会社の中には、日本の会社もあったので、少々本来の内容から外れた話になった。彼は日本にまだ二十代前半のころに軍から派遣されて、3ヶ月ほど住んだことがあるという。やっぱり!この手のおっさんからいつも聞かされるように、日本は本当に美しい国で、感動したとか。まあそれはいいとして、私に個人的な内容まで聞いてきた。それは、結婚しているかとか、子供はいるかとか。実はこういった質問はアメリカでは面接の段階では法律で禁じられている。この他にも、年齢はもちろん、宗教や、性的好み(異性愛者であるか同性愛者か)または健康面でのこと(病歴や現在の持病など)は雇用する段階で、差別の対象となるので、いくらカジュアルにでも公的には違法なのである。この社長そんなこと、知ってか知らずか、口に出した。何考えとるんじゃ?それからいよいよ本題に入り、この会社の説明から始まって、募集中の、娘が現在担当している経理の仕事の内容を説明される。それから私の経歴について質問された。私の以前勤めていた会社は自然エネルギーを開発していて、主に風力発電、水力発電などをアメリカ各地にテストとして設置して、実際にそれがうまく行って軌道に乗った段階で、その発電所ごと別の投資者に売るというビジネスだと説明した。私はこの環境を大切にする会社のことを気に入っていた。地球の30%をこのアメリカ合衆国が消費(無駄遣い)する中で、それを少しでも補っていこうとする前向きな姿勢は素晴らしいではないか。しかし、この説明の中、なんとこの社長、”ああ、Windmill (風力発電)ね。以前にパームスプリングス(Windmillの沢山建っている所)に行ったことあるんだけど、あれは見苦しいね!あんなに美しい場所にあんなものをぶっ建てて、せっかくの景観を破壊してるよ。”は?!言ってることわかってんのかいなこのジジイ!そして続いては、“政府がそんなものに援助しているとは知らなかった。信じられない。”だってさ!!耳を疑う。私はこの瞬間に、いくらこの会社が私のことを気に入ってくれたとしても、こちらのほうから願い下げだと思った。社長の名前さえ知らないほどの大きい会社ならまだしも、こんな零細企業の、いつも顔を合わせるような環境で、こんな環境音痴でしかも、典型的なある方面で無知なジジイの元には働けない。その後実際にこの募集のポジションを担当する娘が面接官となり、別の部屋で、いろいろ質問をしてきた。一通り終わって、質問はあるかと聞かれ、どうでもいいと思ったけど一応、基本的な待遇を聞いたら、なんと健康保険も出していないだけではなく、有給休暇も勤務一年後にしか出ないそうだ。(通常では勤務一年目で、まだ有給がたまっていない場合はとりあえず先に取って、もしも溜まる前にやめたらその分を最後の給料で引かれる。)面接を終えて後に、心と裏腹に思い切りニッコリ笑顔で挨拶しながら、‘こんな会社、ケッ!’と心の中でつぶやいて、ひなびたホッタテ小屋のその事務所を後にしたのだった。ブッシュ政権になってから、今まで何十年もかけて環境保護を目的とするいろいろな開発を、環境音痴の代表選手のタコ大統領が‘経済優先’を理由にどんどん中止させて、なんとこの数十年間の努力が水の泡になっているのだ。アメリカがあたかも‘God Given’と勘違いしているかのようにあらゆる資源を搾取しつくしていて、取り返しのつかないまでに地球は汚染されている。こんなことは子供でも知っていんじゃないか?環境汚染に拍車をかけたこの国以外の先進国はみなそろって環境保全に躍起になっている中で、このアメリカでは未だに前述のようなアホな環境音痴が居て、まるでオウム真理教の浅原を崇拝するかのように何の疑問も持たずにブッシュ政権を支援する輩が多いのは本当に恐ろしい。そしてその政権を支持するアーノルドシュワルツネッガーがカリフォルニア州知事として、ハリウッドスターという名声を武器に、無知な人々によって選ばれてしまった。(とある楽天会員の日記に、“シュワちゃん当選おめでとう、ぱちぱち~”とあった。あのね、小学校のクラス委員を選ぶんじゃないんだから。こういった人が結構多いことを考えると本当に頭痛がするよ。)カリフォルニアはアメリカ全土で一、二を争う重要な州だけに、次の大統領選挙にリパブリカンのアーノルドが当選したことが影響しかねない。もうこの国は終わっている…この面接での一件を早速イーメイルでハズバンドのジャックに報告したら、“もうアメリカ人だって言うのよそう。他の国の人々に、こういう奴らと一緒と思われたら恥ずかしいよ、まったく。もう別の国に行って暮らしたい。”といっていた。そうだよ、私もアメリカ人でないけどこの国に住んでいて恥ずかしいと思うよ、まったく。
2003.10.11
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蚤の夫婦-と言っても、本来の意味のように私のほうがハズバンドのジャックより体が大きいわけではない。蚤が私たちの夫婦関係において必ず存在するという事実。どこに居ても、蚊だろうと、ダニであろうといつでも初めに、しかも沢山刺されるのは私だ。日本で姉と一緒に住んでいたときに、ダニに悩まされた。そのたびに夜中に起きては布団に掃除機をかけたり‘ダニパンチ’なるもので布団に居るダニを殺していた。カリフォルニアに住み始めてからというもの、湿度が低いせいか、日本にいたときよりも蚊やハエ、ゴキブリなどといった虫を見ない。特に死ぬほど嫌いなゴキブリは、なんとこちらに来てから一度もお目にかかったことがない!ありがたや!ところが、唯一悩まされている虫といえば、蚤である。一番初めに住んだ家には、四匹の猫がいた。次のところにも三匹の猫。どれもルームメイトが買っている猫たちだったが、その飼い主たちは蚤に噛まれることはないのに、いつも私だけが被害にあっていた。ルームメイトとの関係を悪くしたくなかったので、文句を言わずに黙って自分の部屋と廊下に蚤の防虫スプレーやパウダーを振り掛けて、黙々と駆除していた。(ほらここにも私のペットの嫌いな理由が!以前の日記‘ペットが嫌い’を参照)しばらくしてジャックと住むことになり、ペットを飼うという習慣のない私たちだから、ようやくこの蚤の問題と永久におさらば出来ると思ったのに、住みだして三ヶ月もしたら、体中に蚤にやられて狂ったように痒くなった。なんとその引越し先のカーペットには、前住人の飼っていた猫から出たのみとその卵が産み付けられていたのだった。そのおかげで毎年春先に蚤が孵化し、私の体中を襲う。プロが使う蚤退治のカーペットパウダーでさえも永久的なものでなく、一年しか持たない。従って、家中の家具をどかしての大掛かりな駆除が毎年恒例になった。しかし、いつもこの役を買っていたの私一人。なぜならジャックはまったく刺されないので、いつもこの孵化シーズンになって私が刺され始めて文句を言っていても、“え~、蚤?違うよ、蚊だよ。また大袈裟なんだから。”と人事だと思って軽くあしらう。ことの重大性を感じていないのでなかなか行動に移さないジャックを尻目にイライラしながら自分ひとりでこの一日がかりの作業に取り掛かるのだった。そして、今の家に引っ越してきた。この家はリビングルームがウッドフロアで、二つのベッドルームがカーペット。ありがたいことに全住人はペットを飼っていなかった為、蚤はなし!暖かいシーズンにもまったくでなかったので、ようやく晴れてのみともおさらば!と思って喜んでいた。が、しかし、そうは問屋が卸さなかった。ジャックが先週キャンプ場から帰ってきたその夜に、体中が痒くて起きてしまった。トイレに行って明かりをつけるとあちこちに虫さされの後がある。ああ、蚊がどこかから入ってきたんだなあと寝ぼけながら思ってとりあえずベッドにもぐりこんで夢の続きを見る。しかし、その痒みは一向に衰えず、2日たってもなおも痒すぎて狂ったように掻き毟った為に皮がむけてしまうほどになった。ベッドルームを見渡してみると、片隅にジャックが先週行ったキャンプ場から持ちかえったダッフルバックを発見。やっぱり!犯人はお前だ!!ジャックはダニのいっぱい居る衣類をそこから出さずに放置していたため、そこからとびだした蚤が猛威を振るって夜な夜なベッドに横たわる私の体を貪ったのだ!!速攻でそのかばんの中身を全部出して洗濯機に突っ込んだ。ジャックが仕事から帰ってくるや否や、“ジャック、あれほど行ったでしょ!山から帰って着たら絶対にバッグをベッドルームに持ち込まないようにって。ほら見てよこんなに刺されたんだから!”と赤いボツボツだらけの体を見せると、またしても、“そんな大袈裟な!蚤じゃないよ、蚊だよ。大した事ないって。”と取り合わない。うう~~~、なんでわかんねえんだよお~。三日目の朝彼がおきて鏡を見ると自分の顔のど真ん中に寝ている間に無意識に掻き毟り過ぎた傷が出来ていた。それでもこの頑固オヤジ、蚤じゃないと言い張る。しかし、その夜、どうやらやられたようで、痒くて起きてしまった彼はバスルームに行くと、脛毛に絡まっている蚤を発見。寝ている私を起こして、“ほら、見て。蚤をつぶしたよ。パンパンに吸った俺の血奴の体から一気に噴出したよ。やっぱり君が正しかった”だって。フンッ、ほれみろっ!!嗚呼、またこの蚤とのバトルが始まってしまった。早速煙で殺す駆除方式をとったが、カーペットがある限りこの問題は消えない。早く仕事を見つけてゆとりが出来たら、このカーペットをウッドフロアに変えたい!!
2003.10.04
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皆さんはどれくらい旅行の荷造りを軽量にできますか?ちょっとした旅行をするときに、どれくらい身軽にできるかは、旅慣れている人とそうでない人との差が出る。たとえば週末だけの旅行なら、たったの2~3日なので、身の回りの最低限のもの、着替えの服、下着、洗面用具、その旅行の目的に必要な物などなど。子供のころによく見た夢が、遠足に行く朝になって大慌てで荷造りをしていてバスに遅れ、もうすでにクラスメイト達を乗せて走り出しているバスに向かって“待って~!”と泣き叫びながらバスを追いかけていたり、夏の海のキャンプ場についてトランクの蓋を開けたら何にも入ってなかったとか。その他にも旅行の荷造りにまつわるその手の緊急事態が発生する夢を何度となく見たので、荷造りを旅行日のずいぶん前から、しかも厳重にする癖がついてしまったのだった。大人になってからでも、この荷造りに対する見方が多少は変わったものの、いつもさっと出かけられるように最低の身の回りの物を常備するのに異常なまでに執念を燃やす。例えば次にいつ出かけるか決まってもいないのに、洗面用具などをなるべくコンパクトにする為にあちこちの店に行って最適な容器を探し出しては悦に入ったりと。自分でもなんだか変だと思うが、これは、出張や、個人旅行先で要らない物を抱え込みすぎて帰って邪魔になったことが何度もあるという経験の下にこの癖は成り立っていると思う。そんな私からすると、ハズバンドのジャックの荷造りの仕方が不思議でしょうがない。彼はちょっとした旅行でも最低限必要な物に加えて、もしかしたら要るかも知れないという物や、これは滅多に要らないかもしれないけど一応という物ものまで、何でもかんでも持っていかないと気がすまない。今週末、毎年恒例のMan Tripに出かけるのにあたり、出発前の水曜の夜から荷造りをはじめた。木曜の仕事を終えてからそのまま出かけて、日曜に帰ってくるので、三泊四日のサーフトリップだ。泊まる先は海岸沿いのキャンプ場で、参加者は彼を含めて12人。去年参加できなかったこともあり、久しぶりの参加に張り切るジャック。まず身の回りのものを用意し、それからキャンピンググッズに取り掛かる。“ああ、これが必要だし、ああ、これも。大きな鍋が要るはずだし、それから小さな鍋も。そうそう、これはあると便利だよな~。” なんてぶつぶつ言いながら、やっている。横で見ている私は、どんどん増えていく荷物にニヤニヤしながら呆れ返っている。その中にはこんなの要らないでしょうという物が盛りだくさん。たったの四日間の旅だし、彼がこの参加者全員の分を用意しなくたって、これだけの人数がいるんだから誰か必ずもって来るでしょ、という物も多い。それでも彼は、何でもかんでも持っていかないと気がすまない。私が、“足りないものがあっても、まあ、いいかと諦めればいいじゃない。短い旅なんだし。” と言うと、“車に乗せていくだけだから、とりあえず使うかもしれないというものは入れておいたほうがいいんだよ。‘しまった持って来ればよかった’と後悔したくないからね。” と言う。そして、3時間ほど掛かってようやく荷造りを終え、へとへとになっている彼は、“くそっ。もうこんな時間じゃないか!荷造りは大嫌いだ!” と唸っている。そんな彼を見るたびに、いつも思う。彼に必要なのは、バックパックハウス。まるでバックパックのように、大きなストラップを家の横につけてよっこらしょって運び出せる家。人間が背負えるような小型のもの。そうすれば毎回こんなに時間をかけて前の晩から用意しなくて済むし、旅先でしまった!と言うことも無いし。誰かこういうのを開発してくれないかな~。市場に出たら真っ先に彼へのプレゼントとして買ってあげるのに。
2003.09.28
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日本から離れて3年ほど経った頃から日本にいた頃のなんでもない日常がフラッシュバックのように出ては消えるようになった。例えば会社に行く通勤途中の朝の駅までの道や、その頃よく付き合いのあった友達と通ったバー、高校の頃に入っていたバスケット部であった珍事件や、もっと遡って小学生の頃の体験などなど。最近はそれもちょっと収まったが、6年近く日本に帰ってなくて、ホームシックであった頃は、それが頻繁であった。今日はその第一弾として、酒にまつわる話をしてみようか。初めての仕事はセールスだった。その頃はバブル経済の真っ只中。何でも高ければ良い物、見掛けが勝負、と言う今考えるとおかしなほど狂った経済の中で、その同じ会社に6年間在籍した。当時のバブル経済の例として、その辺の小さな町工場や商店でも、慰安旅行として、海外旅行に行くのはごく一般的だったり、毎年恒例のデパートで福袋では、宝石などを詰め合わせた1000万円の物まで出たほどだ。また何処の会社も人が欲しくて、青田買いは当たり前、新卒者がの説明会に行ったら昼食を会社が出すし、その弁当のそこに一万円が入っていたといううわさもあった。わたしの会社もそういった狂った社会の流れの恩恵にあずかって、荒稼ぎをしまくっていた。事ある毎にコンテストを企画して、褒章にはアクセサリーや、毛皮のコート、海外旅行などを与えられた。旅行の経験を除いて貰ったそれらのプレゼントはすべて留学資金をひねり出している頃に現金化された。当然未練など何も無く、かなりこのお陰で助かったので感謝しているが。その頃の私は大変な成金野郎で、現在たったの$50の買い物を3ヶ月ほどよく考えてするほどの自分でも信じられないほど金使いが荒かった。例えば、一度買い物に行くと、お高いブティックで、3着ほど服を買い、その足で数件先の靴屋ではその新しい服ごとに一足づつ似合う靴を買っていた。それから夜は、飲み屋に繰り出して、酒に弱いくせに一丁前に店で仕入れている一番高いブランデーをキープして、なんと、ウーロン茶で割ると言う大変もったいない飲み方をしていた。こんな恐ろしい金遣いの荒さの背景には、日に平均15時間働いた後にも家に帰ってから同僚、部下などのフォロー電話で1~2時間費やし、売り上げが悪いと唯でさえ週に1日しかない休みを削られたりと、大変ストレスの溜まる仕事をしてのであった。まとまった休みが取れないため、趣味なんぞも当然持つことが出来ないばかりか、まともに彼氏も作ることも出来なかった。実はこの熱血会社はセールス社員教育の一環として、仕事が第一、プライベートは第二され、そのために付き合っている人との中が悪くなって別れる社員も多かった。幸か不幸か、右も左も分らないうちに入った初めての会社であったため、それが当たり前と思っていた私は、そんなのでも結構楽しんで仕事をしていた。ストレス解消としては買い物、映画、そして、飲みに行くことがもっぱらだった。会社を出る頃は精神的にはくたくただったけど、まだ20代前後で肉体的に弾けていたので、平均で週に3回、多い時には毎日お気に入りのバーに会社の連中と連れ立っては溢れんばかりのエネルギーを発散していた。そんな風に思いっきり遊んで、まだ酔いが冷め切らないうちに仕事に行くことが多かったので、時には履いた靴に模様が付いていると思ったら、実はそれは数日前の自分の吐寫物が乾いて残っていたという恥ずかしいこともあった。しかしなんたってっ経ってこれ以上酒にまつわる恥ずかしい体験をした事が無いと言う事件がおきた。ある日、明け方3時頃まで飲んで、数時間の仮眠の後、お客との待ち合わせの駅に重たい身体を引きずりながら辿り着いた。いつものルーティーンとして、電話ボックスから会社に待ち合わせの場所に着いたと報告を入れた。それは一番稼ぎ時である土曜日で、今日の一日の行動を上司とチェックしていた。その時、何か分らないけど、何かがおかしいなーと思っていたら、なんと、履いている靴が片方ずつ違うのだ!え~!!焦りを隠し、とりあえず電話を切った。その場所は電車で1時間以上掛かる片田舎、近くの靴屋は、また電車に乗って5駅ほど行かないと無い。待ち合わせの時間が迫っていたので仕方なく、その客が表れないことを祈って待っていると、神の思し召しか、その客は待ち合わせ時間から30分経っても現れなかった。喜びを隠しながら上司に客が来なかったと報告し、次の客との待ち合わせ場所に向かった。その駅は結構開けていたので、すぐそばの大手百貨店に飛び込んだ。靴屋は何処だ?身を低くして下を向きなるべく人目に付かないように靴コーナーに忍び寄る。さっきの田舎の駅付近では誰もわたしの靴が違うことを気づく人はいなかったが、人が多い中で、すれ違う全員がわたしのこの靴注目しているような錯覚を覚える。早く何とかしなくては!客としているデパート内でこんなに緊張したのは初めてだ。最大の難関は、どうやってこの靴コーナー入っていくか。柱の影で隠れながら、定員の様子を伺う私はまるで変質者そのもの。いかにしてこの定員にアプローチしたらいいんだろう。あれこれ考えていると、“いらっしゃいませ!”と大きな声で定員に声を掛けられびっくり。もじもじしながらそのやたらと威勢のいい定員に、”実は、今日の朝とても急いで出てきたので、この靴、互い違いに履いてきちゃったんですよ。玄関が暗かったし...”定員は、わたしの靴を見て、あ...よくそういったことありますよね”と必死で噴出しそうなのをこらえている。よくあること??そんなわけないだろ~!痛々しいほどの丁寧なこの定員の接客に恥ずかしさは倍増。多分わたしの顔は昨晩酒を飲んだ時以上に真っ赤な茹でタコ状態になっていたに違いない。一秒でも早くこの店を出たいと言う焦りから、予想外に高い靴を適当に買って嵐の如くそのデパートを去っていった。その事件以来ちょっとバー通いが収まったが、それにしても、本当に酒の副作用と言うのは怖いと心底から思った日だった。
2003.09.22
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子供の頃、戦前生まれの両親がよく、短気で癇癪起こす私に向かって、`瞬間湯沸かし器´とからかっていた。(今は随分大人しくなったけど)最近はこういう表現をあまり耳にしなくなったが、実は昨日この瞬間湯沸かし器に出くわしてしまった。以前の日記、`New House に関するジレンマ´にも書いたんだが、現在うちのマスターベッドルームに隣接したバスルームのシャワーの改造中だ。電話帳から拾った多くのタイル専門の大工達に見積もりをしてもらった中で、一番最初に現れた、60歳は過ぎているだろうという爺さん大工、リチャードに依頼することにした。彼は、他の人のようにぴかぴかのきれいな新しい業務用のトラックなぞ運転せずに、おんぼろの、多分30年近く前のさびさびトラックに乗ってやってきた。時間にルーズな大工達の中で、彼は、きちんと約束通りに来たし、しかも他の業者に比べたら、1/3の値段でこの修理を受け持ってくれると言う。この爺さん大工は経験を沢山積んでいるけれど、欲深でなくいい人だから、こうやっておんぼろのトラックに乗っているんだなあと勝手に決め込んで彼に任せることにした。作業に取り掛かる前にあれこれサンプルの中のタイルを検討したが、デザインのことに関してうるさいジャックがこの中では見つからないと、自ら仕事先の近くのタイル屋に言って納得いくタイルを探していた。その店から幾つか気に入ったサンプルを持ってきて、ああでもない、こうでもないとやっていたが、あまりにも時間が掛かり、これじゃいつまで経っても埒が明かないと、私から散々文句を言われて、結局現在あるチョコレート色がかったベージュとオフホワイトの二色のタイルと同じようなものを使うことに決めたのだった。この間にすでに二週間以上が経過していたのだが、申し訳なさそうに待ってくれと頼む私に、リチャードは“いいよ、いいよ、いったんタイルを入れてしまってから気が変わるよりもいいからね。”と気長に待ってくれていた。ようやく工事か開始され、毎日朝8:30にきて、夕方4:00前後までの彼の作用が続いた。そして、もうすぐで工事か終わるという最終段階に来たおととい、事件の発端が起こった。シャワーと床の仕切りとなる部分にはまったタイルの仕上げ具合を見たジャックが、“これは何だ!ぜんぜん真っ直ぐなってないじゃないか!それにこのベージュ、すでにあるタイルの色に近いけど、全く同じじゃないからおかしい!”と言い出した。確かに、ジャックほど完ぺき主義ではないわたしの目からも、この段階の前の基礎工事にしてもちょっと雑なのが分ったし、彼が入れたタイルはまるで素人がやったようにがたがたで、がっかりさせられる仕上がりだった。が、いったん入れてしまってもうとっくに乾いているため、まあ、一番安い大工を雇ったんだから仕方ないと諦めていた。が、それでも、`デザイナー´のジャックはこのクラフトマンシップの無いリチャードの仕事振りが許せない。プロがするように綺麗に仕上げることが出来ないようなら、いっそ今使われている壁と同じのオフホワイトのタイルにすれば、がたがたなのも目立たないとして、それを私からリチャードに伝えて欲しいと言うのだ。すでに乾いているタイルを剥がしてやり直すなんて、どれだけ掛かるのか今までの作業を見て分っていた上に、元来変なところで気弱な私は、美容院に行って変な頭にされても文句が言えず、“気に入ったわ、有難う”とニコニコと店を出てしまうような情けなさなのだ。そこで、どうしても嫌だから、自分で話してよと突っぱねたが、リチャードが翌朝に来る頃にはまだジャックは通勤途中なので、この嫌な役目をしぶしぶと買って出ることにした。定刻の朝8:30になって、現れたリチャードに開口一番、実は...となるべく角が立たないように事情を説明して、もう一度その部分をやり直してもらうように頼むと、“これは元の土台がこう曲がっているから、まっすぐにタイルが入らないんだよ。誰がやってもこういう風になるんだよ。それにもう乾いているんだから、もう一度このタイルを取るには一日中掛かるって事ジャックは知ってんのかな。ま、とにかく彼と話したい”と怒りで歪んだ顔をプルプル震わせながら言った。その時点ではジャックがまだオフィスに着いていなかったので、30分ほど待ってから、電話掛けるからそれまで待ってと言うと、リチャードは自分の道具が置いてあるガレージに行って何か作業をし始めた。その間時間を持て余しながらコンピューターに向かって楽天に日記を書いていると、彼が車で出て行く音が聞こえた。たぶんコーヒーでも買いにいったんだろうと思ってのんきにしていたのだが、1時間以上経っても帰ってこないので、ガレージを覗くと作業に必要な山ほどあった彼の道具は忽然と消えていて、私たちがもうすでに支払ったタイルとシャワーの解体に出たコンクリートの残骸だけが残されていた。なんという!!その後すぐにジャックに電話を掛けて事情を話したら、彼も開いた口がふさがらないようだった。やっぱり文句を言わずに、あれで我慢して仕事を終わらせてもらったほうがよかったのかなあと後悔していたジャックは、取り合えずリチャードに電話を掛けて留守電にメッセージを残した。夕方くらいになってジャックのところに返事の電話をよこしたリチャードは、“高々修理の小さな仕事でこんなに注文の多いお客はあんたが始めて。もう関わりたくない。”と、話しの途中でがちゃんと電話を切ってしまったそうだ。彼の費やした時間は丸々5日間、一番大変な作業も全部終えて後は床のタイルを入れるだけと言う段階まで働いた彼の賃金は請求されるだろうと覚悟していたのだが、リチャードはお客からのたった一言の文句が気に入らずに、$1000ドル近くの賃金を自ら棒に振ったのだった。ジャックと私はこの瞬間湯沸かし器の大工の態度に、呆れるやら、哀れに思うやらであった。その夜、1時を過ぎても眠りにつけず、残されたコンクリートむき出しの不完全なシャワーから滴り落ちるポトッ、ポトッと言う寂しい音を聞きながら、この一連の出来事を振り返る私たち。いつまでもルームメイトのバスルームを遠慮しながら使っているわけにも行かない。残されたこの工事をジャックの思うような素敵なシャワーを完成させるためには、また新たな大工を雇わなくてはいけない。もしくは彼がこの気に入らないリチャードの仕上げた物で我慢して、後の残りを自分で終わらせるか。この修理に関しては始まった第一日目から散々苛々させられて、精神的に疲れきった私はもうお手上げ状態。勝手にしろと言われたジャックが次にどうするか、まあ、見ものである。
2003.09.18
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シリーズ最後は、日本人の性格なども交えて、東アジアのそれぞれの国の人の違いを私なりに分析してみようと思う。***日本人の巻***日本人にもありがちな悪い癖がある。例えば、はっきりものを言えないで、消極的過ぎること。私が通った幾つかの学校には、日本人留学生は比較的少なかったが、それでもクラスの中に2~3人ほどいた。困ったことは、殆どの日本人は、授業中に質問などせずに、全て分ったような涼しい顔をしておいて、終わるや否や、どっと集まって、“ええ?何だって?この宿題はどうやるって?”と肝心なことを他人任せにして聞きあっている。日本人風に言えば、自己主張が強すぎる私は、授業中に疑問に思うことなどがあると必ず聞くか、もしくは終わってから先生に個人的に聞いていた。そんな私を頼りにどのクラスに言っても必ずこういった日本人に出くわして、苛々させられた物だ。また、他人に対してもフレンドリーに目を合わせてにこっとする習慣の在るこの南カリフォルニアで、なぜか日本人同士だけが、視線を避けるか、目が合っても、ぶすっと険しいかををしながら通り過ぎる。まあ、これは、日本にいたときからの習慣をすぐに変えるのに難しいので、仕方が無いことだが、せっかくこの暖かいのんびりとしたカリフォルニアに旅行でなく、住んでいるんだから、こんな素晴らしい習慣を取り入れない手はないと思う。が、しかし、買い物などしていて、ア、これは日本人だなと分るけど、往々にして彼らは視線を避ける傾向に在るので、こちらがにこっとしようとしてもそのチャンスすら与えられないことが多い。そして、日本には姿勢の悪い人が多い。背格好が同じアジア人でも、誰もが堂々と胸を張って歩いている中国人や韓国・朝鮮人に対し、なぜか日本人だけが、背中を丸めて申し訳なさそうにしている。それだけでなく、足に問題があるのかのように、ちょこちょこ小股で歩いたり、右足左足をまっすぐに下ろして軽快に歩けばいいのに、中心がずれているような変な方をする人をよく見かける。したがって、せっかくいい服を着ていても、(ニッポン直輸入の変な服を着ている人も多いけど)まるで、背広をはじめて着た社会人一年生の様に服に着られているといった感じでしっくりこない。だから、いくら背中を向けていても、100メートル以上先から、日本人だとすぐわかる。何だかんだと自国の人々をこき下ろしながら、あんたはどうだと言われてしまうので、島流れはこうした人々を見ながら反面教師と思って、後ろ指さされないように気をつけているが、自分では気づかない変な日本人の癖をハズバンドのジャックに指摘されることもあリ、長いこと染み付いた癖は消えにくいと苦笑することもしばしば。過去二つのお話で、中国人、韓国人のネガティブな面しか書かなかったが、私や知っている人が出会ったこうした人々は、アメリカに住んでいるごく一部だ。ここには書かなかったが、とても親しくしていた、もう帰国してしまった台湾人女性は素晴らしい人だった。だから、数回の嫌な経験をしたからといって、その時受けた印象をそのままその国民すべてがそうだと決め付けるつもりは無い。が、ある特定な文化なの中で生きてきた場合、多かれ少なかれ、その影響を受け、個人の思想、行動などに繁栄されると言う事実は無視できない。まあ、つまるところは、相手に影響しないような癖などは良しとして、ほかの国の人々が誤解するような行動だけは避けたいものだ。
2003.09.17
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さてと、ちょっと前回の日記で`今日からシリーズで´と言ってしまったことに無職で幾らでも時間があるくせに怠惰な私は後悔しつつ、第二段としてアメリカに住む韓国人にまつわる話をすることにしよう。前回と同様これは決してすべての韓国人を代表するわけではないので、単なる個人体験と思って聞き流して頂きたい。***韓国人の巻き***姉妹で留学していた友達のTちゃんのお姉ちゃん、Mちゃんの体験。Mチャンは、韓国人の彼氏と二年ほどつきあっていた。彼女はこの彼、Pとしよう、と付き合って半年ほどでかなり深入りをしていた。ある日姉ちゃんの様子がおかしいことに気づいたTちゃんがどうしたのかと問い詰めると彼氏のPに学生にしては莫大な金額を貸して、帰ってこないという。その金額といえば、三学期分ほどの授業料に相当する。日本にいる親からのサポートと、日本食屋でバイトする少々の稼ぎでやりくりしている彼女にとってはとてもいたい金額である。Tちゃんが何でそんなことになったんだと聞くと、彼の働くバイト先の同じ韓国出身のオーナーが、闇で働いていることを逆手にとって、彼をやってもない、店の売り上げをネコババしたとして、訴えると言い出したそうだ。そのお金を返さないことには、彼をクビにするといっているからどうしようと泣きつかれたMちゃんは、それに相当するお金を自分の貯金から工面してあげたのだった。それから暫く経って、Mちゃんは、この件だけで無くありとあらゆる面でPをサポートして来たにも拘らず、彼が浮気していると言うのを友達を通して知った。その浮気の相手と言うのが同じ学校に行っている韓国人の女の子だった。彼女は韓国人留学生仲間でも結構交流が多く、彼女側では、その彼女の友人、知人は、彼女こそがP本命で、MちゃんはPが浮気している相手であるということだった。付き合い始めて一年半を過ぎる頃には、Mちゃんは、Pの本当の性格が分ってきて、少しずつ疑問に思い始めていた。例えば、Pが彼女と会うときは必ず二人っきりだけで逢っていて、消して彼の友達に紹介されると言うことは無かったり、週末でクラスがないのにずっと二人で過ごしたことがなく、数時間だけしか逢えなかったりと、彼女が噂のように実は本命でなく浮気の相手なのかもしれないと疑い始めていた。そんなある日、Mちゃんはこの韓国人彼女に呼び出されて、なんとPをたぶらかして彼女から奪おうとしていると言われて多くの韓国人からリンチにあってしまったのだった。かなりPに入れ込んでいたMちゃんは、こうしたことありながらもPとはすぐに別れなかった。それはPは結構なプレイボーイで、Mちゃんには、彼女が本命だと言いくるめられていたのだ。しかし、この盲目な愛も時間とともにさめて、最終的に別れを告げた頃に彼女の元に届いた噂は、以前彼女がPになけなしの貯金から貸してあげた例のお金でPが`本命´と言う韓国人の彼女とのハワイ旅行の資金に使っていたと言うのであった。*******韓国人オーナーが経営する日本食屋でウェイトレスをするルームメイトのSチャンの体験。学生をしながら務めて一年半になるその店を止めたいとある日突然Sちゃんが言い出した。何でと聞くと、彼女の同僚のウェイトレスが全員韓国人で、コミュニケーションが上手く出来ないことから結構疎外感を感じていると言うのだ。アメリカにいるんだから当然英語が出来る彼女達だが、なんてったてSチャン以外はみんな韓国人だから、当然会話は韓国語になる。Sちゃんはそれはあまり気に止めていなかったが、だんだん彼女に対してその同僚達が冷たくなってきているという。それは、日本語が通じる唯一の寿司シェフたちと仲良くSチャンが仕事中に親しく話していることがどうやら彼女達を嫉妬させたらしいのだ。今までは結構この韓国人たちが一緒に何処かに行くのに混ぜてもらったのにも拘らず、最近はめっきりそれも無くなって、仕舞いには、仕事中のちょっとした事でも目ざとく見つけては、ぶつぶつ言うようになり、完全に、仲間はずれのようにし始めたのだった。そんなSちゃんに同情した私は、彼女達の誤解を説くための方法を何とか考えて、あれこれSちゃんは試しては見た物の、彼女達の態度に変化が無いために、そこで働き続けるまで彼女達によくしてもらった義理でもあるのかと、Sちゃんと彼女達の仕事以外での交際状況を聞くと、なんと、韓国語が分らないSちゃんを交えている時も彼女に気を使って英語で会話してあげるというなどと言う心配りなんてこれっぽっちも無く、何時間も散々韓国語のみの会話に付き合わせておいて、“ああ楽しかった。Sは日本人だけど私達と楽しくやっていけるからいいわね。”なんてとんでもない独りよがりの自己満足で毎回終わるのだという。お人よしのSちゃんは、この件が起きるまでは、“ああ、そうね。ま、いいか”なんてのんきに思って何も言わず、誘われるがままにそんな彼女達とたまに遊びに行っていたようだ。しかし、このいじめのおかげで意外と神経の細いSちゃんは体調を崩して、オーナーに掛け合い日本人ウェートレスが大半を占める別の店に移る事になった。実は移ったその店の日本人ウェイトレス一人も同じような経験をして、その店から移ってきたと言うのだった。*******これは最近の私の体験。二週間ほど前に、私は久しぶりにここから二時間ほどのジャックが大学生活を送った街で、ミニハーフムーン旅行をした。日ごろはあまり外食しないが、このときばかりは結構リッチに地元では一番人気のお高い寿司バーに行くことにした。その夜は平日にも拘らずいつもの如くテーブルが開くのを待つ多くの人が外の駐車場にも溢れていた。ディナーのピーク時のちょと前に行った私達は、何とか店の前の狭い駐車場に車をとめることが出来たが、5分も後に来た人たちは誰かが出るのを待ってぐるぐる回っていた。自分の名前をウェイティングリストに記入して待ちながらボーっと外を見ていると、韓国人と思しきの中年の女性が開いた駐車スポットに立っている。何しているんだろうと見ていたら、そこに止めようとしている車に仁王立ちになって“だめ、だめ、ここは私の場所よ! もう随分前からここを取っているんだから。”ときつい韓国訛りで叫んでいる。始めは強引に駐車しようとしていたそのドライバーも彼女のがめつさに負けて結局すごすごと退散していった。その直後に、彼女の連れが乗った車がするる~っとその、`彼女の場所´に止まり、二人のオバタリアンが、ニコニコと韓国語で話しながら店の入り口に向かって歩き出した。一緒にその光景目の当たりにしたジャックは、“あれは韓国人か?”とすぐに見抜いた。それは彼が韓国語のアクセントだけで見分けたのかと思いきや、"日本人だったらあんなことしないよ。”と言う洞察力には驚いた。そこで私は、”まあ確かに、韓国人が全員とは言わないけど、自己主張の強い人が多いからね。”と取り合えず、あまり人種差別の無いようにコメントしたのだった。しかし、このコメントは甘いかもしれないと思い返すようなことが30分もしないうちに私の身に起きたのだった。席が開くのには約20分くらい掛かる言われたので、近くのアートギャラリーや、小物を売っている店でぶらぶらと時間を過ごし、20分少々して店に戻ってくると、なんと私の名前が消されているではないか!そこで、ホステスに、(日本式のクラブやキャバレーのそれでなく、レストランで会計とお客さんに席を案内する人のこと)私の名前が消されてるんだけどと抗議すると、なんと例の韓国人のオバタリアン達の一人が私の名前を呼ばれてと返事したので、そのホステスがもう一度確認の意味で、”XXさん(島流れの本名)ですか?”と問いただしたら、“ええ、私はXXよ。”と自信満々に答えたので彼女達を席に案内したと言うのだ。なんてこった!確かにアジア人の顔はどれも同じに見えるから、アメリカ人のこのホステスにとっては、私の名前が日本名なのか、韓国名なのか、もしくは、中国名なのかも分ってなかったかもしれないし、顔だってみんな同じに見えたのだろうから、何の疑いも無くその人をXXと思ったのであろう。なのでこのホステスに怒りをぶつけても仕方ないと諦めて、“上手いやり方よね!今度私も使ってみようかしら。”と、その一部始終を目撃しているほかのお客に同情を買ってもらおうとぶつぶつ言いながら、すごすごと待合のシートに腰を下ろしたのだった。ようやく席を確保したと思ったら、希望の寿司バーで無く普通のテーブルしかないと言うので、お腹も空いているのでこれ以上は待てないと渋々席に座った。それはなんと例の韓国オバタリアン達が陣取って、きつい韓国アクセントであれ頂戴これ頂戴とがなっているバーの真後ろであった。私とジャックが座るはずであったその席で我が物顔ですしを堪能している彼女達を横目に、私はこのままでは納まらぬと、ウェイトレスにその件を話してバーの席が開いたら席を替わってもいいかと聞いたが、開いたら今外で待っているお客が座るのでだめたと言われ、韓国オバタリアンたちの背中を睨み付けながら、負け犬気分で暫く寿司を流し込むのであった。***続く(かもしれない?!)***
2003.09.15
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さて、今日からシリーズで、アメリカに住むアジア人に付いて書いてみようか。他の人種からは見分けが付かないアジアの国の人々。移民の多いこの国で、一般的に礼儀正しく親切であると言われる日本人に対し、正反対の、自己中心的で物事を何でも損得で考えると評判の悪い中国人や韓国人。各国の人の印象は、個人個人の体験しだい。今から書く内容は、私が出会った人たちを基にした、もちろん私の主観を交えての物なので、その国の人たちがみなそうだと思わないで欲しい。単なる独り言と思って聞き流して頂れば有り難い...***中国人の巻***初めての外国での仕事はウェイトレスだった。労働許可のない日本人学生にとって一番手っ取り早く稼げるのはなんと言っても日本食レストランで働くこと。日本で極貧生活をしながら頑張って溜めた貯金もそこを付き始めて、何とか学生生活を最低レベルに保つためにはバイトをしなくてはいけなかった。そこであちこちの日本食屋を当たったが、何処も空きがなく諦め掛けていた所、当時一緒に住んでいた日本人ルームメイトのJちゃんが、勤めている一番と言う日本食レストランで、今だったら人を募集しているよと言ってくれた。ルームメイトと同じところで働くのもなあ、と躊躇したが、そんなことは言っていられないほどの状態まで来ていたので、とりあえず面接に行くことにした。面接とは言えどもすでにJちゃんがチーフウェイトレスに私を紹介してくれていたお陰てすんなり入ることが出来、早速見習い期間としてキャッシャーの仕事から始まった。それは会計の他に、入り口で入ってくるお客さんにテーブルを案内したり、バーに座っているお客さんの飲んでいるお酒やビールの数を伝票につけたりと言う物だった。日本でセースルの経験が長かったため、愛想を振りまくのはお手の物であったが、問題は、この会計の部分であった。何しろ日本で中学生のときに高校生と偽って小さな喫茶店でウェイトレスとしてバイトした時に、レジで金額を何度も間違って打っていた為、自給を下げられるという罰を受け、憤慨し無断で止めてしまったと言う経験の持ち主。当然、得意としない分野なためにこの一ヶ月ほどの見習い期間は地獄であった。このレストランのオーナー、ミスター・リーは中国人、厳密に言うと台湾人であった。彼のバックグラウンドに付いてはあまり詳しくは知らないが、結構なやり手でこの日本食レストランのほかに、三つの中国レストラン持ち、これらはは家族ぐるみで運営されていた。このファミリービジネスにノータッチの彼の奥さん以外、一番のすぐ隣に構えたチャイニイーズレストランは三十後半の娘、リサが担当し、この日本食レストランは経営以外に寿司シェフとして週にに三回働く婿養子(日本式に言えば)、ピーターが仕切り、少し離れた高級住宅街にあるチャイニーズレストランは三十中半の息子、ヘンリーによって運営されていた。この家族、息子のヘンリー以外はお金に関して非常にがめつかった。彼等は究極のケチで、まかないのコストを抑えるために安い鶏肉以外は使ってはいけないと決まりを作ったり、従業員が業務用で使う食材を持ち出したりしないかと恐れて、まかないで食べる物を持ち帰ることを禁止していた。また、醤油の仕入れ値が高すぎるといって、まずい中国製の物に切り替えた。当然お客はこの違いをすぐに察し、あるお客はこのオーナーの前で持ち帰りようの醤油を舐めてぺっと吐き出し講義した。その後往生際の悪い娘婿のピーターは俺が自分で醤油を作ってやる、と奮起一統したが、当然出来上がった物は店を潰すほどのまずさで、渋々高い(彼等にとって)日本製の物を仕入れたのだった。このファミリービジネスに君臨するミスター・リー、血統のケチに加え、猜疑心が強く自分の家族以外は誰も信用しなかった。新米の私がレジで仕事をする際に、本当に文字通り肩越しに私の行動を逐一観察し、閉店後のレジ閉めにはまだ終わってもいないのに、“Mistake?”と間違えるだろうと勝手に決め付けて何度もしつこく聞いてくるのだった。従業員に店のお金をネコババされるという被害妄想から、時にはランダムにわざと二十ドル札をレジに入れ、閉店の最終決算でその差額をきちんと報告するかをテストしたりすると言う、なんとも陰湿なやり方をし、従業員の誰からも嫌われていた。私が彼のすることに対して腹を立てていると、先輩ウェイトレスたちが、“私も入ったときに同じような扱いを受けたけど、暫く経ってきちんと仕事をすると証明できたらもういちいち行動を見張らなくなったの。ちょっとの辛抱だから頑張って。”と励ましてくれたのだった。暫くは黙ってこのミスター・リーの監視に耐えていたが、ある日ディナーの一番ピークでお客が一杯の中、爆発した。肩に息が掛かるほど、私のすぐ横で仕事を監視するので、つい大声で叫んでしまった。“私のこと気に食わないから嫌がらせしてるんでしょ!まだ入ったばかりだから間違いもするし、あんたの思うように手際よく出来ないけど、これでも一生懸命やってるんだ!慣れるまでのチャンスも与えないで落第点つけるようなことするな!!そんなに私の事気に入らないならもうやめる。今から帰る!”と。すると、ミスター・リー、そんな口答えをされたことがないのか急にうろたえて、”ごめんごめん、いや、ビジネスのことに関しては、自分の娘に対しても厳しくしているから、君に対してだけじゃないんだ。”と謝ってきたので、取り合えず煮えたぎった腹を押さえて留まることにした。その一件以来、彼の監視が収まったのだった。そして、このミスター・リーの娘、リサもまた、とてもがめついビジネスウーマンだった。正に、この父親にしてこの娘ありだ。このファミリービジネス以外に彼女は不動産業に従事していた。一番の開店当時から勤めているチーフウェイトレスのKさんに、家を買え買えとしつこく口説いていた。彼女の仕事不動産売買の仲介人だったので、誰かが家を買うとその物件価格の2%~6%ほどの報酬が手に入る。Kさんの前に、台湾人の寿司シェフ、Jにかなりの攻撃を掛け、彼に家を仲介した。その当時、不動産物価が急上昇し始めていて、相当のコミッションが彼女の手に入ったのだった。Kさんはガテマラ人の旦那さんを持ち、歯科助手の仕事の傍らウェイトレスをして、地道にマイホーム資金を貯めていたが、あまりにも高くなりすぎたこの街の家はもう買えないと諦めていた。しかし、一年後には、更に手もつけられないほどの値上がりの中、コンドミディアムを、一年前なら一軒家が買えるほどの価格で買う事になった。Kさんは実はこの物件にあまり乗る気ではなかった。が、それをコントロールフリーク(人にあれこれ指図して思い道理にしようとする人のこと)のリサが説得に説得を重ねたのだった。英語のあまり得意でないKさんは自分で探せば住宅ローンや、書類手続き上で、かなり節約できるのにも拘らず、難しいからといって、すべての手続きをリサに任せていた。しかし、Kさんは人任せでいた為に不明な点を多く抱え、すべての手続き完了の土壇場で、この商談を破棄しようかとまで考えていた。が、そこはこのコントロールフリークのリサが許さない。そんなわけで最終的にはKさんは100%納得しないままこのコンドミディアムを買う事になったのだった。幸い、更なる不動産価格の上昇により、Kさんは損するどころか、自分の財産の価値が、たった一年の間に30%以上も上昇すると言う恩恵を受けたので、最終的にはこの決断が間違っていたわけではなかったが、現在リサは、まだこの家を手に入れてたったの一年しか経っていないKさんに、次は家を買えと圧力を掛けているそうだ。そんなリサの言いなりにならなくたっていいのにを思うのだが、貧乏学生の頃から世話になり、学生ビザが切れた後に一年だけ有効な労働ビザが切れた後にも引き続き闇で雇ってくれたこのレストランオーナーには頭が上がらないのだ。だから、立派な本職がありながら、疑り深いオーナー一家に唯一信用されている従業員だという彼女なりの誇りも加わり、リサにうまいこと言い包められて、なんと週に6日間、本職を終えて夜11時まで続く夜のシフトに入っているのである。***続く***
2003.09.13
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すべては見た目で勝負である。メディアに影響された多くの人々が、いかに美しくなるかを追及するのに一生懸命なアメリカ人のこと。まずは白く整った歯。歯並びをここまで気にするのはアメリカ人の他にいるだろうか?よくテレビのジョークにイギリス人の歯並びが悪くて、コメディー番組に出てくるイギリス人を真似した役者はイングリッシュアクセントだけでなく、作り物の歯並びの悪い入れ歯をして出てくる。始め、本当にイギリス人はそうなのかと疑っていたが、やっぱり、本当だった。イギリスから送られてくる番組に出てくる地元の人たちを注意してみると実際に歯並びが悪い人が多い。歯の矯正はここアメリカでは当たり前で、12~13歳になると歯並びの悪い子供は十中八九前歯にブリッジを掛けて2~3年過ごすことになる。大人になっても歯並びの悪い人は、貧しい家庭に育ったと思われる。(昔はこういった傾向になかったそうなので、年配の人は該当しないが。)だから、こうした環境に影響されて外国から来た人が30歳近くなって歯の矯正をすることもある。そして豊胸手術も大変人気がある。実は以前に住んでいたアパートの隣の住人がこの手術に使うシリコンを製造販売する会社に勤めていた。彼女自身はその必要も無いほどいい形の背の割りに大きめな胸だったが、友達のオランダ人が去年豊胸手術をした。彼女の背は170センチほどあり、スポーツ万能なので、程よく付いた筋肉とすらりとしてモデルのように美しい体を持っている。偶然に(今考えると必然だったのかも)彼女はその会社に勤めることになった。入社間もなく彼女が私に打ち明けた。“実は豊胸手術をしようと思ってるんだけどね、社員価格でシリコンが安くなるし、私の義理の父が美容整形外科だから、手術はタダになるのよ。”それを聞いて私は以前にプールのロッカールームで見た彼女の大きくはないけどちょうどいい形のいい胸を思い出した。“え?何で?XX,そんな必要は無いと思うけど。今でも十分魅力的なのに、何で健康を害する危険を冒してまで豊胸する必要があるの?”しかしその時点では彼女はすでに固く決意していたらしく、三ヶ月ほど経った後にあったら彼女の胸は二倍に膨らんでいた。その彼女だけでなく、私の義理の妹もそれをつい最近したのであった。彼女は本来異常に大きな胸だったので、20代前半に小さくする手術をした。十年ほどたった今、その手術が失敗であったのに気がついた。本人曰く、肉のない萎んだ胸が垂れ下がってきて、それはそれは見れた物ではなかったそうだ。スポーツジムのインストラクターとしてヨガ、エアロビクスなどを教える彼女としては、美しく誰にも羨まれる身体を持つことは必須条件であるとして、いったん小さくした胸を元に戻すことにした。当然、人工的な素材を身体に入れて...そして誰でも年取ったら必ず経験する皺や染み。昔からこういった手術はあったけれど、それはごく一部の人たちの間で行われていたのが、ここに来て、本当に誰でもと言うほどやっている。新聞、雑誌を見てもケミカルピーリングなどの広告が山ほど載っている。知人でそれをした人を幾人か知っているが、みんな40代から50代の普通のおばさんである。別にテレビに出ているんじゃないんだから、そこまでしなくたっていいのにと思うが、それらのごく普通の一般人を駆り立てた最大の要因はやはり、同世代で活躍しているハリウッドのベービーブーマー達ではなかろうか?分りやすい例を挙げるなら、ゴールディーン・ホーン、バーバラ・サランドン、シェリーなどなど。今でも30代にしか見えない美しい彼女達はみな孫がいるほどのおばあちゃん世代なのである。アップでテレビに映る顔には皺や染みの一つすらない。確か、10年ほど前に上映された、“永遠に美しく”と言う、ゴールディーンホーンとメリル・ストリープが共演した映画があったが、これのテーマとなるいつまでも若くいたいという女性の願望が、もはや夢ではなく、比較的お値打ちに実現可能となったのである。ちなみに普通に年を取って皺も目立ってきたメリル・ストリープに対し、つるんとした肌を今でも保っているゴールディーン・ホーンは対照的である。ハリウッドカルチャーはもはや娯楽だけはなく、私達のライフスタイル、思想にまで影響を及ぼしているのはこれを見ても明らかだ。だから、テレビや映画を見るときはそのことを頭に入れて、のめり込み過ぎないようにほどほどにしたほうがいいかもしれない。しかし、今から100年後には、こういった整形手術がもっと身近になって、ごく普通の人が人生の中で三回ほど全く別人になって、そのつど新しいライフスタイルを持つのが当たり前になるんじゃないかと思ったりする。
2003.09.11
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昨日の日記に書いたダニーとマリアがこのアパート暮らしでの最悪な隣人であったが、ほかにもいろんな人間が住んでいたなあ。次なる登場人物は、アパート#6のイラン人夫婦。旦那はコンピューター関連のコンサルタントをしていて、フリーな時間が多く、ちょくちょく昼間に家に帰ってきてはまた出て行くという生活をしていた。妻は専業主婦で、5歳の女の子と3歳の男の子を面倒見ていた。まず問題だったのがこの女の子がうるさいのなんの。それはそれはかわいい顔をしているんだが、自分中心で(子供は往々にしてみんなそうだが彼女の場合はもっと酷かった。)いつも大声で大人の注意を引こうとする。外で遊んでいても、家の中にいても、四六時中、“Look, look what I did!" “Jack, Jack, I got this!!" “Excuse me! I did....." と聞こえてくる。それがい所に多く、たまりかねて窓を閉めると、キンキラキンの彼女の声は窓を突き抜けて私の耳をつんざくのだった。私は子供を容赦なく大人同様扱うので、(特にこういった餓鬼に対しては)彼女の目障りなほど傲慢さがたまらなく、パティオで出くわしても敢えて目を合わせないようにしていた。しかし、子供をあやすのが得意なジャックはもちろん即座に彼女の餌食となり、姿を現すや否や、"Jack,Jack," と彼女の攻撃に会い、30分ぐらいは逃れることが出来なかった。げんなりして帰ってきたジャックに、“だから言わんこっちゃない。あのガキにいい顔するとどんどん付け上がるんだから。今度は切りのいいところでさっさと逃げて来るんだよ。”と何度言ったことか。その後ジャックが少々冷たくなったら今度は第二の餌食を見つけた彼女は毎日うちの隣のナタリーの部屋をノックしていた。ガキのすることに罪は無しと気を取り直して、問題はこの夫婦の、公共の場を自分の物と勘違いしている無神経さだった。彼らの部屋は入り口に面していて、アパートを訪れる人の一番最初に目に付く場所だった。にも拘らず、バルコニーには子供のおもちゃや要らなくなった家具、マットレスなどのガラクタが山済み。誰も注意しないので其の山はどんどん膨れ上がっていった。しかし幸いなことに自分達でかたずけてくれたのでいいが、その片付けというのは、それらのガラクタを単に別の場所に移動しただけであった。その新たな放置所となったのは、またしても、共同のパティオだった。ああ、一難去ったらまた一難。奴らはもともとだらしなく、自分達の駐車場に子供が散らかしたごみを平気で何ヶ月も片付けない。が、ダニーとマリアのとんでもない迷惑行為がそんなことは屁じゃないほど酷かったので、彼らが出て行くまではそこまで気にならなかった。あるときこのイラン人妻が、自分の家のバルコニーに花瓶を幾つか置き始めた。はじめは小さいのから始まって仕舞いには、大きな鉢植えを乗せるようになった。問題は、そこには何の支えも無く、何かの拍子でそれらの鉢が一気に下へ落ちてく可能性がある。もしも誰かがたまたま通りがかったときにそれが起きたらどうするつもりだ?実際に彼らのわんぱく少女がそのバルコニーからいろんな物を故意に落としているのを何度となく発見していたので、これは大変だと、大家に報告した。始めの数ヶ月はその鉢を取り除いておとなしくしていたが、暫くするとまた鉢が一つ二つと増えていったのだ。あきれた私はぶつぶつ文句ばかり言っても仕方ないと、思い切って#6のドアを叩いた。出てきたのはイラン旦那。早速溜めておいた怒りをぶつけて、“そこの鉢植えを何とかして欲しいんだけど。”と言うと、“ワイフの物だから勝手に片付けられない”と言う。そこで、“そのバルコニーに何の柵もないからもしもお宅の子供が誤って落としてしまったら、誰かの頭に当たるでしょ。そうなったらあなた、訴えられるかもしれないのよ!”すると返ってきた言葉が、“うちは’96年からここに住んでもう長いんだよ”と、あたかも長く住んでいたら何をしても言いと言うようなことをほざいている。あきれ返って、“あんたが何年住んでいようとこのアパートのオーナーになるんじゃないのよ。アパートの住人として他人とスペースを共有するにはそれなりのマナーが必要でしょ!”と一気にやって、彼をねじ込めた。もうこうなったら宣戦布告である。その数日後イランワイフが嫌々バルコニーの(故意にか?)ぎりぎり端に置いてある10個ほどの鉢植えを片付けるのを確認して取り合えず荒かった鼻息を沈めるのだった。ある日隣のナタリーからの朗報で私とジャックは手と手を取り合って大喜びした。それは、イラン人カップルが家を買って引越しを近々すると言う物だった。それから何ヶ月か経ってもまだ出て行く様子がないのでどうしたのかと思ったら、その買う予定だった家のオーナーとの間で交渉トラブルがあり、その話はおじゃんになったと言うのだ。その後彼らは暫くは家は買わず、気楽にやると宣言していたので、私達は家を買えなくなった彼ら以上にその話に落胆したのであった。幸いそうこうしているうちに私達が家を見つけたため、彼らよりも先にこのアパートから出て行くことになったのだった。後から聞いた話によると、イラン旦那が最近職を失ってしまい、マイホームどころではなくなってしまったそうだ。ああ、なんと言う... それを聞いて今まで厳しくあったっていた自分を反省したのだった。
2003.09.06
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楽しかった四年間のアパート暮らしに付いての話でもしようか。始めて入居した頃は、そのアパートの人たちと仲良くなろうと思ってBBQパーティーをしようととある隣人に持ちかけた。そのことをすぐ隣の夫婦に行って参加しないかといったら渋い顔をして断られた。その理由が当日になって分った。1:00pmに予定していたので、彼かのドアをノックすると、なんとまだ寝ていたのであった。その独身のカップルで、彼のトムがレストランで働いていて、夜遅くまでの仕事なので朝起きるのがつらいと言う。そして彼女のマリアもボーっとしながら、“あ、そうか、今日だったのね。”目をこすっている。何とか二時間後に始めたパーティーに集まったのは、このアパートの別の部屋に住む19歳のレズビアン、レネーと、彼らの友達、よく言えば開放的、悪く言えばルーザータイプ(ろくでなし)の人たちであった。これはまだほんの始まりだった。その後、ちょくちょく顔を合わせるたびに挨拶する程度に近所付き合いは留まっていたが、マリアは話し好きでうちのジャックとあれこれと世間話をするようになった。聞き上手のジャックの雰囲気に飲まれたマリアは、結構個人的な話、例えば暴力家庭に育って家出をするように家を飛び出し、その後若くして妊娠してしまい、生んだ子供を育てられずに彼女の親が面倒を見ているなどと言う込み入ったことまで打ち明けるようになった。始めは会うとニコニコするようにしていたが、次第に私は彼女のことを遠ざけるようになっていった。それは、彼女が新しい男と住むようになってから、ぽっちゃりしていた体つきが異常に細っそりとしてきて、顔色がだんだんどす黒くなってきたのだった。ランドリールームでばったり会って仕方なく短い会話を交わすと彼女の話し方が普通でないことに気がついた。今までは、マリファナ程度だったのが、新しい男によって影響され、ハードドラッグを使うようになったのは明らかだったのだ。この新しいマリアのボーイフレンド、ダニーは典型的なホワイトトラッシュで、(教育のない無知無能な白人)仕事もしないでいつもふらふらしていて、ラジコンをうちのベッドルームに面している駐車場でびんびんならして遊んでいるかと思えば、部屋の中でがんがん大工仕事などをしている。そして友達を呼んでは明け方までドンちゃん騒ぎ。あるときダニーが彼らの部屋のすぐ前にある場所に池を作った。その場所はコの字になったアパートの中心にあるパティオで誰からも目に付く場所だった。当然ルーザーのダニーは水をこまめに替えることなく、だんだん濁って来たその水は、数ヵ月後にはミルク色になるまでに汚くなり、ボーフラなんぞがいて、見るに耐えなかった。何度もその池の水をきれいにしてくれと頼んだのに全く無視していたので、怒ったジャックは在るとき傘の先でそこに張ってあるビニールに穴をあけ無理やり水を流したのであった。また別のときには、ガレージセールだと言って彼らガラクタを駐車場に何ヶ月も放置したり、共同のゴミ捨て場に落書きをしたりとまるでガキのするような下らない事をして喜ぶこの隣人に私達の怒りは募るばかりであった。アパートの造り上、奴のやることなすこと嫌でも目に入ってくるため、何度となく大家に文句を言っていたが、不思議なことに、この大家、ダニーとマリアのことを至極気に入っていたようだった。そのたびに、彼らに注意はするものの、追い出すようなことをしないだけでなく、たまにはダニーにアパートの修理などを安い賃金を払って手伝ってもらったりしていたのであった。しかし、これだけではなくて、私はこの大家と奴らの関係は、何か裏取引があるんではないかと睨んでいた。無職のダニーとマリアには安定した収入がなかった。一時ダニーがいいところに就職できたと言ってまだ三ヶ月の見習い期間を終える前にピカピカの新車のトラックを買い、マリアも負けずに新しいマツダの小型スポーツカーを買ったといって自慢げに見せくれた。そうこうしているうちに、ダニーがまず首になり、(当然だと思ったが)その直後、マリアまで無職になってしまった。そして言うまでもなく、彼らの自慢の新車たちはいつの間にか姿を消した。その後、ダニーがたまにする市内観光バスの運転手の仕事や、他の小さな仕事で何とか生計と立てていたようだが、物価の高いこの町でいったいどうやって暮らしていけるのかと疑問に思っていた。が、その答えはすぐに出てきた。ちょうど同じ時期に、毎日毎日入れ替わり立ち代り来る彼らの訪問者が来るようになったのだ。昼夜問わずドアを叩いているその訪問者達は彼らの部屋に入ったかと思ったらすぐに出て行く。閉ざされたドアの向こうで何が起こっているかは明らかだった。彼らのする迷惑行為に対してどれだけ文句を言っても何もしない大家に苛々していた私はこれはチャンスと彼らのシークレットディールを匿名で密告したのであった。しかし、警察も確実な証拠を掴むまでは家宅捜査をすることが出来ないようで、半年経っても何の進展もないようだった。しかし其の間もこのアホ男、ダニーは別件で逮捕され2週間ほどジェイルに入れられたようだ。それはなんともくだらない理由、駐車違反のたかだか$30の罰金を何度か滞納した罪で。その事を聞いた私は密かに拘留中に例のドラッグの件を突っ込まれてボロを出さないかと願っていたが、そうは問屋が卸さなかった。帰ってきてから彼は相変わらず下らない事をしては私達を楽しませてくれた。その中でも一番笑ったのが、なんと、電気代を浮かせるために、ランドリールームから延長コードを自分の部屋に引っ張ってきているのであった。あきれた男である。それにも増して、この男と未だに住んでいるマリアの神経はどうなっているのか?無職の彼らがいつまでもここに長くは住んでいられないだろうと言う私達の予想どおり、それから二ヵ月後にようやく大家が彼らを追い出すことになったのだ。この大家も人がいいんだか、奴らが家賃を滞納していて、再三にわたって請求したがこれが限界と言ってなんと半年も滞納した後、ようやく行動に移ったのであった。このルーザーたち、引越しが決まったと喜んでいる私達を横目に、もちろん最後の迷惑を掛けていくのも忘れなかった。引越しが決まってから彼らは分かれることになり、まずマリアが彼を追い出したので、行く先の無いダニーの荷物がパティオのど真ん中に何ヶ月も放置され、最終的にマリアが出て行ってあいたその後でも彼らの荷物が駐車場の開いたところに半年以上も居座っていたのだった。
2003.09.05
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日曜日の朝、友達に呼ばれてブランチパーティーに行った。本来8人来ると言うので、それに合わせてフルーツサラダとスコーンを持っていったら、なんとその数が20人と膨れ上がっていた。しまった、もっと余分に作って置けばよかったと後悔したが、それぞれの参加者が何か持ってくる持ち寄り式のパーティーなので、結局余るほどの沢山の食べ物だった。ベーグルサンドイッチ(クリームチーズを塗ったベーグルに、スモークサーモン、アボカド、トマト、パープルオニオン、ケイパーを挟んだ物)、バジルキッシュ、キャロットケーキ、フルーツサラダなどなど。その中で大好評だった私のスコーンのレシピをご紹介。******************************************************* クランベリースコーン 8個分A:薄力粉 280g砂糖 50gベーキングパウダー 小さじ1ベーキングソーダ 小さじ1/4塩 小さじ1/4無塩バター 120gドライクランベリ 50gバターミルク 160mlB:卵 大1牛乳 大さじ1 砂糖 大さじ11. オーブンを200℃に暖めて、クッキー台にベーキングシートを敷く。ドライフルーツは湯に浸してふやかしておく。2. 大きなボールにAの材料をふるいに掛けて混ぜ合わせ、まだ冷たいバターを細かく切って入れる。ペイストリーナイフかまたは手でさらさらになるまで混ぜたら、ふやけたドライフルーツとバターミルクを加えて更に混ぜる。注意:混ぜすぎないように!全体がしっとりとして粉っぽさが無くなったら混ぜるの止める。3. クッキーシートにスプーンとナイフを使って落とし、好みの大きさで6~8個ほどのスコーンを作る。Bを刷毛でスコーンの表面に塗り、砂糖をふりかけ、20~25分ほど焼く。
2003.09.03
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アメリカ人は何かにつけてパーティーをしたがる人種である。ここに来てから事在るごとにパーティーに参加する機会が多くなった。まずバースデーパーティー。友達や、近所の付き合いのある人、仲が良ければ同僚からでも始終パーティーに呼ばれる。日本にいたときには、滅多にバースデーパーティーをした事がなかった。大家族で育ったせいも在るかもしれないが、家族の一人一人の誕生日を祝ったのはせいぜい小学生の高学年までだった。そんなわけで、友達同士で中学時代以降にあらたまって誰かの誕生日パーティーをした記憶がない。社会人になってから極たまに私の誕生日と近い友達と一緒にのみに行って小さくお祝いをした以外は、20年近くの付き合いをしているとても親しい友達の正確な誕生日すらも知らない。また最近は認めたくないが年をとったせいか、友人知人のホームウォーミングパーティーと言って、家やマンションなどのマイホームを買った人が開くパーティーに呼ばれることが多い。そんなときのプレゼントとしては、もっぱら室内やパティオに置く観葉植物などを持って参加する。これはその人がどんな家を買ったのかが楽しみだし、センスのいい人の家ならインテリアデザインや改造のアイデアを自分達の家に取り入れるための参考となるのでとても意義あって、大好きだ。(家を買う一年前にこの手のパーティーにほぼ毎月のように同じ世代の人々から招待されて、未だにアパートに住んでる私たちは何やってんだ?と競争意識を刺激されて無理して家を買うに至ったのであった。)そして、最近やけに多いのが、ベービーシャワーである。母親が敬虔なクリスチャンだったため、小さい頃からこの慣例に付いては知ってはいた物の、いつの間にか自分の同世代の人々が子供を生み始め、(と言っても最近始まったことでもないが)今や、二ヶ月に一回は誰か彼かのベービーシャワーを開くので何処何処に集まれとか、グループプレゼントに参加しないかなどのカードが届くのである。これが来るたびに、“ああ、またかいな~...”とため息をつくのである。何しろ子供がいない私にとっては、まったく通じる物もないのに加え、更にその主役となる女性は決まってハズバンド、ジャックの友達、同僚、知人の奥さんなのである。最近日本でも結構お馴染みなったベービーシャワーは女性がもうすぐママになる友達や知人に、あれこれ必要となる赤ちゃん用具などをプレゼントすることで、今後莫大に掛かる養育費の手助けをしようとするものだ。それに加え、祝う側の人々の中にはすでに何度もお産を経験している人たちもいるので、祝われる側の妊婦さんが特に初産の場合はいろんなアドバイスを貰ういいチャンスでもあるのだ。意義在る素晴らしい習慣であることは良く分っているが、子供がいなくて、これからも生むつもりもないの私が実際にこういった場所でベテランママ達の間で繰り広げられる会話に付いていけないのは当然だ。そんな中、その全く赤の他人に対して心から喜んだ振りをして、興味もないくせにあれこれ質問したりして必死で会話をつなぐのは全く以って拷問に近い。通常ジャックがらみのいろんなパーティーに付いて行った時、彼の横にいって聞き役に回っているのだが、このときばかりは他の女性に混じって楽しそうにしていないと“まあ、私達の会話に参加しないなんて、もうすぐ子供を生むXXちゃんを祝ってあげるつもりないのかしら”と陰口を叩かれそうなので逃げ場がないのである。過去にベービーシャワーの招待状を断ったことによって、友達関係が冷ややかになったケースは数知れない。その招待状を直接受ける本人ジャックと言えば、“いくら仲いい友達だからと言ってその男友達が子供を生むわけじゃないし、第一シャワーは女の為のイベントだから全然興味がないよ~。それにもし俺たちに子供ができたと言うことになっても、車で7~8時間も掛かるところからわざわざ来いなんて頼まない。こんな制度廃止されるべきだ。”と言う。そして有り難い事に私の気持ちをよく理解してくれるため、よほど家族間でない限り、取り合えずプレゼントだけは贈ることにして、私と一緒にあれこれ体裁のいい都合を考えるのに苦労している。
2003.08.31
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先ほど電気代の請求が来て、支払いのために小切手を書きながらまたしてもあることを思い出した。(日本のようになんでも引き落としにしないのでいちいち個人小切手を送って支払いをしなくてはいけない)以前に住んでいたアパートは住宅費の異常に高いその周辺では格安であったのに加え、もう一つのボーナスが付いていた。それは、電気代だった。ご存知のとおり、通常アパートに住んでいると個人個人のメーターに従って支払いをするが、そのメーターが壊れていたのである。入居してからすぐにそれが分ったが、暫く電気会社に報告しないでいた。半年も経ってもまったく気づかれない様で、もしかしたら、以前の住人もこのことを知っていたけど黙っておいたんじゃないかと思い始めた。と言うことは、この部屋の電気代は何年もタダであるんではないか。多分こういった集合住宅だと、一部屋ごとにメーターが分かれていて、中には倉庫などの部屋でめったに電気を使わない部屋もあるので今まで気づかれずにいたのかもしれない。何時かはばれるだろうと心配はしていたが、当時、南カリフォルニア知事デイビスのおかげで電気代が三倍跳ね上がるという事態が起きたので、毎月$100近くの節約を自らの手でだめにする必要もないと判断し知らん顔をしていた。(この件がカリフォルニア住民の反感を大いに買い、これが切欠になって無能な彼を首にして新しい知事を選ぼうとなったのである)そうこうしているうちにあっという間に4年が過ぎ、家を買って引っ越すことになり、電機、水道、ガスなどすべてのサービスを中止する段階になって心配になってきた。過去4年間を遡って計算したら莫大な額になる。当時の勤めていた会社の同僚に話したところ、彼女の知り合いで、同じ状況にあった人が、メーターが壊れたことを報告しなかったのはその人の責任であるとして、過去支払われるべきであった額を計算してにしてごっそり払うよう裁判所に命ぜられたそうだ。この話を聞いて震え上がった私達はあれこれ言い訳を考えた。`ここには殆ど帰らないので電気は使わなかった´とか、`支払いを任されていた私が外国人でで、事情を知らないので電気代は家賃に含まれていると勘違いしていた′などと...しかし、引越しをする際いつまでも請求書がこの古い私達の住所に行くのも困るし、次の新しい家でも同じ電力会社を利用するためやむなくびくびくしながら電話してサービスの停止をお願いした。すると何のことはない、まったく以前の使用量がゼロに等しいにもかかわらず、何の質問もされないまま解約が成立したのであった。そして時を置いてから新住所でのサービス開始の手続きをするために電話を掛けた。念のため以前はハズバンドの名義であったのを、今度は私の名義を使った。だから彼が引越しをして何処に行ったかと言うことはその電力会社がよほど調べない限り分らないのである。が、今でも電気代の請求書が送られてくるたびにびくびくしているのである。
2003.08.30
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私にはとても理解しがたいハズバンドのジャックの趣味の一つにアニメーション・コミックがある。子供の頃はX-Menなどのいろんなアニメヒーローの雑誌を集めていたそうだ。その熱は多少下がったものの、未だにテレビのカートゥーンネットワークやほかのチャンネルで、毎晩と言っていいほどいろんなのを見ている。中には私も好きな大人向きの笑える物もあるが、殆どが、はっきりいって下らない。特に、日本のアニメを見出したときには、耳栓をしたくなる。日本のアニメの多くは胸と目がサッカーボールほど大きくウエストが手首ほど細く、足の長さが全体の二分の三ほどを占めた、こんな人間いないぞと言う女の子が出てくるケースが多く、しかもその子達は高校生以下のスクールガールばかり。そして声も甲高い声で大変耳障りである。だから、だから本当に彼がそういったのを見始めるとFMラジオでJazzやWould Musicなどを大きめに掛けてヘッドフォンで聞こえないようにしている。自称アーティストのジャック曰く、アニメーションは日本の文化の一部、こんなに素晴らしい物の価値が分らないばかりか恥とする私がおかしいらしい。彼がなぜアニメーションがすきなのかと言うのは、アートの一つと見てとても想像性豊かなところだそうだ。何がアートだか。こちらに来る前はあまり気づかなかったが、テレビを見ても、雑誌を見てもあらゆる日本のメディアには小さな漫画チックなキャラクターが沢山出てくる。それと、言葉の表現の中にも擬態語や擬声語が大変多く、一面がそればかりで活字が本当に少ない。暫く日本から離れていたせいもあるが、最近はもっと酷くなってきたのではないかと思う。この現象が、日本人の言葉の語彙がだんだんメディアの影響で少なくなっている証拠だとしたら、大変残念なことだ。いろんな人のサイトをランダムで見ていると、特にそういうのが多く使われていて、まるで子供向けのサイトを見ているようで疲れる。かなり偏った考え方だと思われるかもしれないが、多くの日本人がなんだか幼稚化しているように思えてならない。滅多に日本のテレビを見る機会がないが、極たまに、日本のドラマがチラッと移ったりすると内容が高校生以下の子供向けの物が多かったり(もちろん仕上がりは学芸会並み)その間にやっているコマーシャルも高校生くらいのスクールガールを使っている物が多い。ジャックは日本語が分らないので内容こそは分らないが、見るたびに、“ソープオペラ(お昼のメロドラマのことを英語でこう言う)のようで、ダサいね”と言っている。こういうものや、アニメーションばかりが日本の代表されるテレビ番組と思って欲しくない。私が日本にいた頃よく見ていた優れたテレビ番組や、ドキュメンタリーショウは、こちらではあまりやってないので残念だ。ジャックが日本語を少し覚えたり、いろんな日本食にどんどんなれて、私のルーツを尊重してくれるのは有り難いが、日本のおかしな部分を日本の文化としたり、ましてや感化などされないで欲しいと願うばかりだ。
2003.08.27
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お盆も明けて、日本はサマーバケーションシーズンが終わろうとしている。ここ南カリフォルニアでは夏がいつの間にか始まっていつの間にか終わるという季節の曖昧さから、クローゼットの中を日本にいたときのように夏から冬と衣替えする必要が無い。とても楽だ。さて、本題に入るとして、私の住んでいる町がロスアンジェルスから近い事もあり、観光に来る人たちのお決まりのコースは、ユニバーサルスタジオ、ディズニーランドといったアミューズメントパークに加え、時間のある人はラスベガスへ向かう。ご存知最近のラスベガスはギャンブルするだけでなく町全体がアミューズメントパーク化されていて、ショッピングで夢中になっている母親などに付いてきたや子供達も楽しめ、一週間ほどの短いバケーションで来る家族には打って付けの様だ。しかしいつも不思議に思う。何で外国にまで来てアミューズメントパークなんだ?日本に帰ったときにまず改めて感じた事は、あちこちの郊外に(結構田舎に多い)街の活性化を目的で、いろんなテーマパークが作られ、何処も週末になると人がいっぱい。それでもって入場料も家族ぐるみで行ったらばかにならない。国内の近場で旅行する際に、特に子供を連れて行く場合、それらの場所には子供向けのアトラクションが必ずあるので、毎日子育てに疲れている親としては勝手に遊んでくれるので有り難いだろうが、そういったものを大人だけで外国に来る旅行者が行きたがるのもとても不可解なのである。かれこれ四年ほど前に、日本から高校時代の親友がやってきた。同僚と二人で来るはずが一人でくることになり、出発の二ヶ月前から何処に行くかあれこれ計画を練っていた。その中に含まれていたのは、ディズニーランド、ユニバーサルスタジオ、ラスベガス、グランドキャニオンであった。やっぱり。思ったとおりのリクエストに私は、アミューズメントパークだけは勘弁して欲しいと断ったが、どおしてもユニバーサルスタジオだけ入ってみたいと言われて仕方なくOKした。そして、グランドキャニオンは良しとして、ラスベガスのような人工的な町、しかも暑い砂漠に行くなんて以ての外と断ったら、一生に一回は行ってみたい所だからと懇願され、ロスアンジェルスからの飛行機代と、現地でのホテル代を丸抱えするとまで言うので止む無く承知した。ラスベガスは実はこれが三度目で、本来こうしたすべてが作り物の場所にはまったく興味のない私の唯一のハイライトはグランドキャニオンの飛行機旅行であった。さすがにここは以前にも来たが、何度でも訪れてみたい場所のひとつであると大満足。が、しかし、私は日本からのお客さんに旅費・宿泊費を提供してもらっているお抱えのツアーガイドであることを忘れてはならなかった。ブランド物アレルギーの私は買い物大好きな彼女に付き合わされて毎日ショッピングに引き回され、夜ともなれば、室内何処でも禁煙のカリフォルニアに慣れているのに、モクモクとあちこちから流れてくる煙に巻かれながら数時間彼女のギャンブルにつき合わされるのであった。ああ、なんと言う拷問...カリフォルニアに戻ってきてからはもちろん彼女のお目当てのユニバーサルスタジオでガキ達の大軍に巻き込まれながら一日を過ごし、私の地元の町でも英語の出来ない彼女四六時中付きっ切りであった。彼女が帰った後すっかり生気を吸い取られた心と身体を元に取り戻すにはぐーたら生活一週間ほど必要であった。そして私のアミューズメントパーク嫌いは更に度を増して行ったのである。ここカリフォルニアにはいろんな自然公園があり、キャンプしたり、ハイキングしたりなどの健康的な遊びが楽しめるし、州内の海岸沿い一帯には幾つかの美しい町があり、そこでは日本では考えられない程のガラ空きビーチで日光浴したり、ローラースケートをしたりとカリフォルニアならではの体験が出来るのである。なのに、なのに、日本から来る旅行者の多くがアミューズメントパークばかりに行きたがるのが私には摩訶不思議でならない。誰か理由を教えて欲しい。
2003.08.26
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